3章
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セラ・レヴィントンは、アランと別れたあともしばらく、その場から動かなかった。
静かな路地裏。
石畳に夕陽の赤が長く伸びている。
背後では昼下がりの人々のざわめきが遠くに溶け、風が金髪をさらりと持ち上げては落としていく。
さきほどまで目の前にいた女―― アラン・ブラックの、翡翠の瞳の余韻だけが、まだ網膜の内側に焼きついていた。
「……本当に、綺麗な人」
セラは自嘲めいた笑みを浮かべ、指先で自分の前髪を払う。
その動作に合わせて、手首に忍ばせた魔法の感触が、ひりりと疼いた。
さっき、許可証を見せながら、何気なくアランの腕に触れた。
礼を述べるふりをして、指を軽く絡めるように。
その一瞬に、騎士団から授けられた術式を滑り込ませたのだ。
――記憶誘導の呪文。
それも、ただの幻ではない。
発動するのは、騎士団が指定した日。
流し込まれるのは、セラ自身の「本物の記憶」。
レギュラスと共に夜を過ごした、あの安モーテルの、湿ったベッドの感触。
薄いカーテン越しの街灯の光。
灰色の瞳が、自分だけを見ていた時間。
指先、唇、呼吸。
肌の上を這った熱のすべて。
それらを、まるでアラン自身がその場に立ち会っているかのように、鮮やかに追体験させる魔法だった。
「大抵の女は、正気ではいられないよ」
騎士団の魔術師は、術式を渡すとき、肩をすくめて笑っていた。
いかにも「女性の心理はよく知っている」と言わんばかりに。
セラはそのとき、わざとらしく笑ってみせた。
「ええ。知ってるわ。
男が思ってるよりずっと簡単に、たいていの妻は壊れるのよ」
それは、誰よりもセラ自身が知っている真実だった。
彼女はゆっくりと歩き出した。
関所の許可証が揺れる音が、胸元で小さく擦れる。
――あれを見せたときの、アランの顔。
翡翠の瞳が、かすかに揺れた。
微笑みは崩さない。
けれど、指先に力がこもり、紙を持つ手がほんの少し震えた。
セラは、その震えを見逃さなかった。
「あなたにも感謝しようと思って。
情けをかけてくれたことを感謝するわ、アラン・ブラック」
そう言ったとき、アランの睫毛が、ほんの少しだけ伏せられた。
あれは――嫉妬か、不安か、罪悪感か。
どんな感情でもよかった。
とにかく、「揺れ」があれば、それで十分だった。
実際のところ、術式はすでに完成している。
アランが何を感じようと感じまいと、指定された夜になれば、記憶は流れ込む。
セラがモーテルのベッドで見ていた光景が、そのままアランの胸の内に降り注ぐ。
━━灰色の瞳が、天井のシミを背景に細められる。
━━低い声で名前を呼ばれる。
━━肩甲骨のあたりに、唇が押し当てられる重さ。
━━古びた照明がきしむ音。
━━薄い壁の向こうの、隣室の笑い声。
すべてが、アランの中で「現在進行形」として蘇る。
そして、その記憶の中でレギュラスとセラがいる場所――
モーテルの看板も、部屋番号も、窓の外に映る通りの店並びも、細部まで鮮明に刻まれている。
まるで、今夜、そこに行けば、まだ二人がいるかのように。
「……さて、どこまで耐えられるかしらね」
セラは、夕暮れの街角で立ち止まり、小さく呟いた。
騎士団が指定した日付と時刻が、頭の中で浮かび上がる。
その夜、アラン・ブラックの胸に、ふいに映像が流れ込むよう、呪文はすでに組まれている。
騎士団の魔術師たちは、冷静な声で説明していた。
『彼女はあなたの記憶を信じるでしょう。』
――だから、あとは時間の問題だ、と。
アランはきっと、その記憶を「真実」として受け止める。
その夜、モーテルに行けば、真相が分かるかもしれない。
まだ何か隠されているのなら、確かめなければ、と。
「自分から足を運ぶ」という形が、何よりも重要だった。
騎士団が仕掛けた罠だとも知らずに。
(あの屋敷と同化した、あの女をどうやって外に出せばいいのかって?)
前にジェームズが、半ば投げやりにそう言ったことを思い出す。
セラはそのとき、肩を揺らして笑ってやった。
『でもいいわ。
あの人の妻でしょう?
夫の過去の女が、静観できるほど賢くて成熟してるかどうか、試してみるのも悪くないじゃない』
どこか残酷な愉悦が胸を撫でる。
もちろん、それだけではない。
関所を自由に通行できる許可証。
息子の学費。
生活を支える現実的な対価は、セラにとって決して軽いものではなかった。
客は減った。
関所が設けられ、マグル界と魔法界の行き来が制限されてからというもの、人々の足は目に見えて遠のいた。
金を落とすような客ほど、リスクを避けて静かに消えていく。
生活は、苦しい。
息子は育つ。
学費は膨らむ。
目の前に差し出された「取引」を掴まないほど、セラは愚かではなかった。
けれど――。
(それだけだったら、こんな手間のかかる罠は仕掛けないわね)
ぶつぶつと強めのルージュを塗り直すような気持ちで、セラは胸の内で呟く。
本当は、もう少しだけ、レギュラス・ブラックに触れていたかったのかもしれない。
彼が渡してくれた許可証を、指先で撫でた感触。
「情ですね」と、淡々と告げた声。
完全には切り捨てられなかった過去が、そこには確かにあった。
そして、アラン・ブラック。
あまりにも「綺麗すぎる」妻。
声を持たない彼女が、どんな顔でその記憶を見るのか。
どんな表情で、あの安モーテルを目指してくるのか。
――見てみたい。
その好奇心は、確かにあった。
自分がかつて腕の中に抱いた男と、その男が選んだ妻。
その二人の間に、どれほど深い溝が生まれるのか。
それとも、あの女は、その溝さえも飲み込んで、なお夫を赦すのか。
「もし赦すなら――」
セラは、ふっと笑う。
「それはそれで、見ものね。
あそこまでの愚かさは、きっと一生忘れられない」
指先で、まだ残る魔法の感触を確かめる。
セラがアランの腕に触れた瞬間、細い皮膚の下に「鍵」が刻まれた。
それは自分の記憶に繋がる、目に見えない扉。
指定された夜。
その扉が音もなく開き、レギュラスとセラの夜が、どっと流れ込む。
モーテルの看板。
番号札の剥げたドア。
軋むベッド。
シャワーの水音。
それらがすべて、「今、ここで起きていること」であるかのように。
そして、ドアの外に映る、通りの店の配置や、街灯の位置――
それは、騎士団があらかじめ押さえてある「今も実在する場所」と、ぴたりと重なるよう組まれていた。
要するに、その夜アランが向かった先で、騎士団が待ち構えている、という寸法だ。
「さあ、アラン・ブラック」
夕闇が深くなる交差点で、セラはひとり、息を吐いた。
「あなたは、どこまで彼を信じていられるのかしら。
そして、どこまで自分を壊せるのかしら」
翡翠の瞳に流れ込む、セラとレギュラスの夜――。
その映像の重さを思うと、胸のどこかがざわめく。
哀れみか、優越感か、嫉妬か、それとも羨望か。
自分でも判別できない感情が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。
セラ・レヴィントンは、わずかに顎を上げて歩き出した。
指定された日が来るまで、もうそう間はない。
その夜、翡翠の瞳がどんな色に濁るのか。
セラはその瞬間を思い浮かべながら、赤く塗った唇に、うっすらと笑みを刻みつけた。
それは、本当に唐突だった。
いつもと変わらない夜――のはずだった。
寝室のランプは少し落とされ、琥珀色の明かりがベッドカバーの刺繍をやわらかく照らしている。
アランは、膝の上に開いた本に指を挟んだまま、ぼんやりとページを眺めていた。
文字は目に入っているのに、意味として頭に入ってこない。
レギュラスは、まだ帰ってこない。
屋敷は、広すぎるほど静かだった。
――その静けさのなかに、突然、ひびが入った。
頭の奥が、きぃん、と音を立てたように痛む。
こめかみの内側で、熱い何かがじわりと広がり、視界がふっと滲んだ。
次の瞬間、アランは見知らぬ天井を見上げていた。
薄汚れた白。
ところどころに染みが浮かび、角には蜘蛛の巣が張っている。
裸電球がひとつ、黄色く揺れていた。
鼻先に押し寄せてくるのは、古い洗剤と湿ったカーペットの匂い。
安い香水と、知らない煙草の残り香。
(……なに、これ……?)
喉がひゅっと詰まる。
身体はベッドの上に横たわっているはずなのに、同時に、知らないシーツのざらつきが肌を撫でていた。
二つの感覚が、頭の中でぶつかり合って軋む。
視界の端から、誰かの手が伸びてくる。
白く長い指。見覚えのある関節の形。
その手が、こちらの頬に触れた。
――その灰色の瞳を、アランは知っていた。
「……レギュラス……?」
声にならない悲鳴が胸の奥で弾ける。
だが、口から漏れるのは自分の声ではない。
甘く含んだ吐息。
掠れた笑い。
それは、自分とは別の女の喉から零れている音だった。
セラ・レヴィントン。
理解するのに、時間はかからなかった。
数日前、彼女が差し出した許可証。
肩に触れてきた、あの一瞬の、妙に長く感じた接触。
あのとき、何かが流し込まれたのだと、直感した。
これは、セラ自身の記憶。
彼女が、彼と過ごした夜の一枚一枚。
――時間差で発動する術。
わざと今、発火するように、仕込まれた罠。
(左右されたりなんかしない……)
アランは、必死にそう思おうとした。
自分はレギュラス・ブラックの妻だ。
彼の隣で眠り、彼の子を産み、彼の帰りを待ち続けてきた女だ。
今さら、過去にいた女の記憶ひとつで揺らぐものか――と、心のどこかで牙をむくように思いたかった。
けれど、映像は、その意志を容赦なく踏みにじってきた。
粗末なベッド。
シーツが皺だらけに乱れ、軋む音が耳に張り付く。
レギュラスの指が、セラの喉元をなぞり、胸元へ降りていく。
その手つきは、驚くほどに迷いがない。
アランの知っている彼の手は、いつも少し震えていた。
壊してしまわないように、と何度も確かめるように触れてきた。
痛ませないように、怯えさせないように。
触れるたびに、彼の中の躊躇いと恐れが伝わってくるほどに、慎重だった。
だが、今、流れ込んでくるレギュラスは違った。
セラの腰を乱暴とすら言えるほど強く引き寄せ、脚を抱え上げる。
ベッドがきしみ、壁が薄く震える。
低く押し殺した声で、耳元に何か囁いている。
彼女が答えるように笑い、首を反らせる。
そのときの彼の瞳は、アランの知らない熱を帯びていた。
獲物を逃さぬように射抜く、獣のそれに近い。
(こんな顔……知らない……)
呼吸が浅くなる。
胸がうまく動かない。
目の前の光景を拒絶したいのに、瞼を閉じても、まぶたの裏側に同じシーンが焼き付き続ける。
セラの視界から見たレギュラスだから、角度が違う。
アランの上に覆いかぶさってくるときとは、少し顔の位置が違う。
顎のラインも、喉の動きも、陰影の落ち方も。
すべてが、「自分の知らない彼」だった。
セラが笑う。
唇を引き寄せ、強く噛みつく。
そのたびに、レギュラスの喉から漏れる低い声が、耳の奥を震わせた。
アランは、その声を知っている。
彼が抑えきれなくなったときに、ほんの少しだけ漏らしてしまう声音。
ただ、今見せつけられているそれは、あまりにも長く、あまりにも濃く、あまりにも自由だった。
彼は恐れていない。
彼は迷っていない。
痛みを気遣って止めることもない。
セラの笑い声と吐息に、ただ応えるように、貪る。
―― アランには、一度も見せたことのない熱で。
胃のあたりが、ぎゅっと捻られたように痛んだ。
喉の奥まで熱いものが突き上げてくる。
けれど吐き出すこともできない。
(やめて……見たくない……)
心の中で叫んでも、記憶は止まってくれない。
むしろ、細部がより鮮明になる。
モーテルの壁紙についた、古いシミ。
窓の外を走る車のライト。
セラの指先に光る指輪。
レギュラスのシャツが床に落ちていく音。
それらが、ひとつひとつ、残酷なまでにリアルだ。
決して作り物ではないと、身体が理解してしまう。
涙が、ぽたり、と頬を伝った。
そこから堰が切れたように、次々と溢れ出す。
指先が震える。
杖を握ることもできない。
視界は、現実の寝室と、モーテルの狭い部屋を、行ったり来たりする。
寝室では、ランプの光が静かに揺れている。
おさえた色味のカーテン。
窓の外の庭は、夜露を含んで暗く光っていた。
モーテルでは、薄いカーテン越しに、街灯の白い光が差し込んでいる。
安っぽい額縁。歪んだ鏡。
ベッドの上、絡み合う二人の影。
世界が二重に重なり、アランの心は引き裂かれるようだった。
(私は妻……私は……今の妻……)
何度も心の中で言葉を繰り返す。
そのたびに、映像の中のセラが笑った。
彼の胸に爪を立て、耳元で名前を呼び、甘い声で何か囁く。
レギュラスも、応える。
アランの知っている――あの、優しい、震えがちの声ではない。
もっと低く、もっと熱を帯びた声で。
(そんな声、聞いたことない……)
自分は、いつも守られていた。
「壊してしまいそうで」と、冗談めかして言いながら、本当に怖がるように触れてくる指先。
痛がるとすぐに動きを止め、「大丈夫ですか」と確かめる。
何度も、何度も。
それは確かに、アランが救われた優しさだった。
あの地下牢の記憶を、少しずつ塗り替えてくれた温度。
――けれど今、胸をえぐってくるのは別の感情だ。
どうして、自分には見せてくれなかったのだろう。
こんなふうに、迷いなく、欲だけに忠実に、自分に触れる姿を。
どうして、自分の知らない顔を、あの女には惜しみなく晒してしまったのだろう。
その問いが、鋭い棘になって、胸の内側を際限なく刺してくる。
モーテルの中で、二人がひとつになる。
背中に回された腕。
重なる呼吸。
セラの視界が滲んで涙が浮かぶ。
それは苦痛の涙ではない。
愉悦と興奮に濡れた涙だ。
レギュラスが、その涙を舌先ですくい取るようにして笑う。
アランは、そこで限界を迎えた。
「――っ……!」
喉から声にならない音が漏れる。
膝から力が抜け、ベッドからずるりと滑り落ちてしまった。
厚い絨毯が頬を打つ。
そこが現実だという証拠の感触なのに、遠く感じる。
身体を丸める。
胸を押さえるように両腕を抱き寄せる。
少しでも心臓の鼓動を弱めたくて、必死に圧をかける。
それでも、内側で跳ねる鼓動は収まってくれない。
(見たくない……もう……やめて……)
心の奥で掠れた声が響くが、術は容赦なく最後の一枚まで見せつけてくる。
行為のあと、ぐったりと息を整えるセラ。
その肩を撫でながら、レギュラスが何かを囁く。
その声は、優しく、穏やかで――どこか、今のアランに向ける声音とよく似ている。
あれは、私だけのものだったはずなのに。
声にならない呟きが、喉の奥で溺れる。
涙が止まらない。
頬を伝い、絨毯に暗い染みをつくっていく。
ようやく映像が途切れたとき、部屋には、最初と同じ静寂が戻っていた。
ランプの光も、壁も、窓も、すべては変わらない。
変わってしまったのは、アランの胸の内だけ。
息を吸おうとするたびに、胸がきしむ。
肺がうまく空気を受け取れない。
指先は冷たいのに、顔だけが熱く火照っている。
これは、単なる嫉妬なのだろうか。
それとも、自分の価値が、過去の女の記憶ひとつに簡単に削り取られてしまいそうな恐怖なのだろうか。
どちらにしても、あまりにも残酷な罰だった。
(私が……妻なのに……)
その「妻」という立場が、今、目の前の光景の重みに耐えきれていないことが、嫌というほど分かる。
アランは、床に膝をついたまま、顔を両手で覆った。
指の隙間から、涙がこぼれ続ける。
止め方が分からない。
セラの金髪が思い出される。
レギュラスの灰色の瞳が、あの女だけを見ていた夜。
そのすべてが、胸の奥で何度も何度も反芻される。
呼吸がうまくできない。
空気が薄い。
世界が少し傾いて見えた。
そして、アランは悟る。
これはただの「映像」ではないのだと。
ただの幻ではなく、「真実」だからこそ、自分をここまで痛めつけるのだと。
それでも――彼を責める術は、アランにはなかった。
自分は声を持たない。
問い質す言葉も、責める言葉も、喉の奥で消えていく。
ただ、ひとつだけはっきりしているのは、ひとつの事実だった。
――涙が、止まらなかった。
頬を、顎を、首元を伝い落ちて、ナイトドレスの襟元を濡らしていく。
その冷たさだけが、現実だと教えてくれる。
アランは、床の上でじっと丸くなったまま、しばらく動くことができなかった。
セラの記憶の残滓と、胸に突き刺さった痛みが、静かに、しかし確実に、彼女を締め付け続けていた。
――まだ、戻らない。
時計の針が、いつもならレギュラスが帰ってくる時刻をとうに過ぎて、静かな寝室の壁の上を、ひたすらに無言で回っていく。
ランプの灯りは落としてあるのに、やけに眩しく感じた。
アランはベッドの端に腰を下ろし、組んだ手を固く握りしめていた。
指先にうっすらと汗がにじみ、爪の先が白くなる。
――今、この瞬間。
あのモーテルの、薄汚れた天井の下で。
あの狭いベッドの上で。
彼とセラ・レヴィントンが、再びあの夜と同じように身を重ねているのではないか。
そう思った途端、胸の奥で何かが跳ねた。
心臓が乱暴なリズムを刻みはじめる。
あの、強制的に流し込まれた記憶。
セラの視界から見たレギュラス。
自分の知らない声、自分の知らない手つき、自分の知らない表情。
あれはただの「過去」ではないような気がしてくる。
――今なお、その延長線上に「現在」があるのだとしたら?
セラが笑って告げた言葉が、耳の奥で反響した。
『レギュラスが、これを私にくれたのよ』
関所を自由に抜けられる許可証。
更新のいらない、半永久的な権限。
メイラでさえ持っていないもの。
あの女には、与えられている。
それはつまり、いつでも、どこへでも、あの男のもとへ会いに行けるということだ。
そしてレギュラスの側からも、同じように会いに行けるということ。
(今夜も――そうなのかもしれない)
アランは、そっと目を閉じた。
瞼の裏には、あのモーテルの部屋が鮮明に広がる。
セラの記憶として流れ込んだ光景と、そこに新たに自分の想像が上塗りされていく。
レギュラスは、どんな顔で自分を見るのだろう。
驚くのか。
必死に謝るのか。
言い訳を探すのか。
セラ・レヴィントンは、その横でどう立っているだろう。
勝ち誇ったように笑い、
「ほらね」と言いたげに、自分を見下ろすのではないか。
胸が、焼けつくように痛い。
杖を探して、手が震えた。
ベッドサイドの小さなテーブルに置いてあるそれを掴むと、アランは立ち上がる。
足元の絨毯が、妙に柔らかく感じた。
――行かなければ。
理屈では、行くべきではないと分かっている。
騎士団と法務部の対立、マグル界と魔法界の緊張、関所の厳しい警備。
外に出るというだけでも、十分に危険だ。
ましてや、あのモーテルがあるのは、魔法界とマグル界の境目の町。
今、一番ざわついている場所だと知っている。
それでも。
このまま、何も知らないままベッドに横たわり、灯りを消し、彼の帰りを待つ夜を続けることの方が、よほど恐ろしかった。
(確かめたい……)
自分の目で。
自分の足で辿り着き、自分の耳で、彼の声を聞きたい。
たとえ、その先にあるのが、自分を完全に打ち砕く光景だったとしても。
アランは肩にショールを掛ける。
いつも外出時に羽織る上質なものではなく、部屋の片隅に掛けてあった、ごく簡素な薄手のもの。
屋敷の中の冷えを防ぐために使っているそれは、外出には心許ない。
けれど、今の彼女には、その些細な違いに気を配る余裕もなかった。
部屋の扉に手をかける前に、一度だけ振り返る。
整えられたベッド。
枕元に置かれた、レギュラスの本。
彼が帰るたび、そこに腰を下ろし、ネクタイをほどきながら他愛もない話をする光景が目に浮かぶ。
心のどこかで、冷たい声が囁く。
知らないことだらけだ。
彼の過去も。
彼の今も。
彼の心の奥も。
扉を静かに押し開けると、廊下には薄闇が満ちていた。
夜の屋敷特有の静けさ。
肖像画たちも眠っているのか、壁に並んだ額縁はただ黙ってアランを見送るだけだった。
メイラの部屋の前を通り過ぎる。
扉の隙間からは、かすかな灯りが漏れていた。
まだ起きているのかもしれない。
声をかければ、きっと心配そうな顔で飛び出してくるだろう。
けれど、それだけはしたくなかった。
(これは、私が自分で選んだ罪……)
そう心の中で言い聞かせる。
夫を疑うこと。
夫の過去に触れようとすること。
そして、彼がもしも、今もなお別の女と会い続けているのだとしたら――その現場を見に行こうとすること。
どれも、綺麗な行いではない。
だからこそ、誰も巻き込みたくなかった。
屋敷から外へ出る扉を開けた瞬間、冷たい夜気が頬を打った。
庭の木々が風に揺れ、葉擦れの音がささやく。
空には厚い雲がかかり、星も月も見えない。
どこまでも薄暗い夜。
(あの夜と同じ……)
レギュラスが、セラを連れてモーテルに入って行っただろう夜も、きっとこんな空だったのではないかと、勝手に想像してしまう。
胸がまた、きりりと痛んだ。
アランは庭の片隅、人の目に触れにくい場所まで歩いていく。
そこには、かつてレギュラスが「緊急時のために」と残しておいたフローネットの小さな炉がある。
関所ができてから、使うことはほとんどなくなった。
それでも、完全に封鎖されたわけではない。
法務部の管理をすり抜けることなど、やろうと思えば誰にだって出来てしまう。
――特に、決意してしまった者には。
アランは、炉の前に跪く。
震える指先で、灰の中に慎重に粉をすくい上げた。
かすかに鼻を刺すフロー粉の匂いがする。
喉の奥を震わせるように、小さく息を吸い込んだ。
声は出せない。
けれど、心の中で行き先の名をはっきりと描く。
セラの記憶と共に流れ込んできた、あのモーテルの名前。
安っぽい看板に書かれた、少し擦れた文字。
夜にはネオンが点滅し、マグルたちの車が行き交うあの通り。
脳裏に、その光景をありありと浮かべる。
灰を火の中へ投じた。
ぱっと緑色の炎が立ち上がる。
それが、ほんの一瞬、この世のものではない別の光に見えた。
アランは一歩踏み入れる。
浮遊するような感覚。
強くねじれるような、しかし懐かしくもある移動の感触が身体を貫く。
セラの記憶で見たモーテルの廊下、安っぽい絨毯、薄い壁紙――それらを心の中で追いかけながら、アランは目を閉じた。
足元の感触が変わった。
ぐらりと身体が揺れ、思わず壁に手をつく。
粗い壁紙のざらつきが掌に伝わってくる。
目を開けると、そこには見覚えのある廊下があった。
細長く、息苦しいほどに狭い。
両側に同じような扉が並び、息を潜めたように閉じている。
天井の蛍光灯はところどころ点滅し、白い光の中に埃が舞っていた。
鼻をつく古い洗剤の匂いと、煙草の残り香。
――セラの記憶と、寸分違わない。
足が勝手に震える。
それでも、一歩を踏み出した。
靴底が、薄い絨毯を踏むたびに、微かな沈みを感じる。
廊下の先から、遠い笑い声が聞こえた気がした。
誰かの部屋でつけっぱなしになっているテレビの音か、それとも酔っ払いの声か。
はっきりとは分からない。
ただ、この建物全体が、どこか湿った欲望の匂いを含んでいるのは確かだった。
アランは、セラの記憶をなぞるように歩いていく。
何号室。
ドアの前に立って、振り返る彼。
ごく自然な仕草で、鍵を開ける姿。
それらが、頭の中で再生される。
その道筋を、今度は自分の足で辿っていく。
心臓が、先ほどよりも一段と早く打ち始めた。
呼吸が浅い。
喉の奥が乾いて、唾を飲み込むことさえ難しい。
――扉が、視界に入った。
セラの記憶の中で、彼女と彼が消えていった部屋と同じ番号。
古びた真鍮のプレートに刻まれた数字は、ところどころ剥げている。
ドアの下の隙間から、かすかに光が漏れていた。
中には、誰かがいる。
アランは、そこで初めて、自分の膝が笑っていることに気づいた。
膝から下が自分のものではないみたいに震えている。
杖を握り直す。
指先が冷たい。
けれど、その冷たさがかろうじて正気を繋ぎ止めてくれている気がした。
レギュラスは、どんな顔で自分を見るのだろう。
驚くのか。
怒るのか。
それとも、ただ黙って顔を背けるのか。
セラは、どんな瞳で自分を見下ろすのだろう。
勝ち誇った笑み。
あるいは、哀れみ。
――確かめたくない。
けれど、確かめずにはいられない。
矛盾する二つの衝動に引き裂かれながら、アランはそっと手を伸ばした。
扉の冷たいノブに指先が触れる。
金属の感触が、現実を突きつけてくる。
喉の奥が、ひゅう、と鳴った。
涙が、視界を滲ませる。
それでも、アランは目を閉じなかった。
今、ここで目を閉じてしまえば、一生この扉の向こう側にあるものから逃げ続けることになると、どこかで分かっていたからだ。
彼女は静かに息を吸い込み――
ノブを、ほんの少しだけ、回した。
扉は、あっけないほど静かに開いた。
きしむ音ひとつ立てず、わずかに押しただけで、老婆の息のようにゆっくりと。
アランは、息を詰めたまま、その隙間から中を覗き込む。
――誰もいなかった。
薄暗い室内。
安っぽいランプの橙色の光が、床の上に滲むような輪をつくっている。
ベッドは、きちんと整えられていた。
シーツに乱れはなく、枕にも凹みはない。
さっき誰かが腰を下ろした気配も、眠りの重さも、何ひとつ刻まれていない。
窓は半分だけカーテンが閉められ、外の街灯が細い隙間から線のように差し込んでいる。
机の上には、ホテル名の印字されたメモ用紙と、使われていないマグル用のペン。
灰皿には煙草の吸い殻すら残っていない。
あまりにも「何もない」光景が、逆に不自然だった。
アランは一歩、足を踏み入れる。
ドアの向こうの空気は、外の廊下よりわずかに暖かく、よどんだ匂いを含んでいる。
胸の奥で荒くなる鼓動に合わせて、喉が小さく鳴った。
(……いない)
頭の中で、さっきまで渦巻いていた想像が、音を立てて崩れていく。
セラの記憶に見た、あのベッド。
レギュラスの体温、指先、視線。
今この瞬間、そこに二人が重なっているはずだという確信めいた恐怖。
すべてが、空っぽの部屋の前で、残酷に否定される。
代わりに浮かび上がってくるのは、別の一つの事実だった。
ここには、誰も来ていない。
レギュラスは、ここにいない。
――最初から。
足元から、冷たいものがじわりと這い上がってきた。
膝がわずかに震える。
自分がこの場に立っている理由が、一瞬で根こそぎ奪われた気がした。
(じゃあ……なぜ、私は――)
そのときだった。
背後で、扉が「カチリ」と音を立てて閉じた。
心臓が跳ねる。
反射的に振り返ろうとした時には、もう遅かった。
「――動くな」
鋭い声が、狭い室内に突き刺さる。
同時に、複数の気配が爆ぜるように膨れ上がった。
いつの間にか、部屋の隅に、壁際に、窓辺に――黒いローブと仮面をつけた影が立っていた。
歪んだ動物のような、無機質な仮面。
目の穴だけが暗く穿たれていて、中の視線だけが生々しく、アラン一人に注がれている。
アランは本能的に杖を握り直した。
けれど、その動きよりも早く、四方からいくつもの杖先が一斉に向けられる。
空気が、粘つくように重くなる。
魔力が飽和し、肌に痛いほど刺さる。
「杖を、捨てろ」
仮面越しの声は低く押し殺されていて、誰のものか判別できない。
ただ、その響きには熱も慈悲もなく、冷たい使命だけが貼り付いていた。
足がすくむ。
喉が凍りついたみたいに動かない。
杖を握る手だけが、自分の意志とは関係なく震えていた。
――罠だった。
頭のどこかが、ようやくその言葉に辿り着く。
セラの記憶。
遅れて発動した術。
レギュラスの不自然なほどの不在。
すべては、ここに自分を立たせるための布石だったのだ。
(騎士団……)
仮面の向こうにいるのが誰なのか。
アランは想像したくなかった。
ジェームズ・ポッターの、冷ややかに研ぎ澄まされた眼差し。
リーマス・ルーピンの、揺れる正義と苦悩。
――シリウスの灰色の瞳だけは、どうかここにないでほしいと、祈るように願った。
「早く捨てろ」
鋭い声と同時に、一本の呪文が飛ぶ。
床すれすれを滑るようにして飛来した光の筋が、アランの足元で弾けた。
身体がびくりと跳ねる。
(ここで、抵抗したら――)
ここで戦う力は、自分にはない。
さっき魔力を使って移動してきたばかりだ。
もともと戦いに向いている性質ではない。
この数、この密度の魔力を前にして、無傷でいられる自信など、最初からなかった。
それでも。
レギュラスの顔が浮かんだ。
ステラの鋭い瞳が。
アルタイルのまっすぐな笑顔が。
メイラの震える肩が。
――このまま捕らえられたら、自分はどうなる?
封印の力のために、殺されるのか。
ホークラックスのために。
ヴォルデモートを倒すための「理想」のために。
それが「正義」なのだと、彼らは言うのだろうか。
喉の奥で、何かが悲鳴を上げた。
でも、声にはならない。
ゆっくりと、アランは膝を折った。
床に触れる指先がひどく冷たい。
震える指から、杖がするりとこぼれ落ちる。
転がった杖が、安っぽい床材を軽い音で打った。
すかさず、一歩、二歩と近づく気配。
誰かが杖を拾い、アランから遠ざける。
その瞬間、背筋に氷の刃を押し当てられたような感覚が走った。
――完全に、丸裸にされた。
「拘束を」
短い詠唱と共に、目に見えない縄が体に巻きつく。
両腕が背中の方へ引き寄せられ、ぎゅっと締め上げられる。
胸が潰れそうになり、息が詰まり、足元がふらついた。
椅子も、支えもない。
ただ床に膝をつき、縛られた姿勢で、アランは仰ぐようにして仮面たちを見上げるしかなかった。
どの仮面にも、感情はない。
泣き顔も、笑い顔も、怒りの表情も刻まれていない。
ただ、穴の奥から覗く本物の視線だけが、それぞれ別々の熱を宿していた。
憎悪。
正義感。
迷い。
冷徹な計算。
それらが、ごちゃごちゃになってアランの上に降りかかる。
彼女一人が、そのすべての矛先を一身に引き受ける形になっていた。
(……そうか)
ここでようやく、アランはひどく遅れた理解に辿り着いた。
自分は、ヴォルデモートの側に立ったことなど、一度もない。
むしろ、あの地下牢で魔力を搾られ、封印の道具として扱われ続けた被害者だったはずだ。
なのに今――
封印を保持しているという理由で。
「闇の帝王を倒すために必要な犠牲」として。
殺されようとしている。
闇の陣営にも、光の陣営にも、切り捨てられる。
誰の側にも、完全には属していないから。
――居場所なんて、最初からどこにもなかったのだ。
ブラック家の暖かい寝室。
レギュラスの胸に顔を埋めて眠った夜。
ステラとアルタイルが、まだ幼い頃にベッドに潜り込んできて、三人で笑い合った朝。
メイラと、台所でこっそり甘いものをつまみ食いした午後。
あのささやかな光景は、全部、彼女の必死の祈りでつないできた「普通」だった。
どこまでいっても脆く、いつか崩れると知りながら、それでも両手で押さえ続けていた砂の城。
今、その城に、一気に波が押し寄せてきた。
胸が、焼けつくように熱くなったかと思えば、一瞬で冷えていく。
指先の感覚が遠のき、視界の端がじんわりと暗く縁取られていくように見えた。
――レギュラス。
心の中で名前を呼ぶ。
声が出ないから、せめて心の奥で。
(あなたは、今どこにいますか)
こちらに向かっているだろうか。
それとも、まだ何も知らずに、法務部の執務室で書類に目を通しているだろうか。
もし、このままここで自分が消えたら。
レギュラスはどんな顔をするだろう。
悲しむだろうか。
怒るだろうか。
それとも――
そこまで考えた瞬間、胸の奥で何かがぽきりと折れた。
絶望という言葉はあまりにも簡単すぎて、今の感情には追いつかない。
恐怖、悔しさ、諦め、愛おしさ、憎しみ、後悔――
あらゆるものが、ぐちゃぐちゃに混ざり合い、形を失い、溶けていく。
涙が、頬を伝って落ちた。
こぼれた雫は、床に吸い込まれていく。
この狭い部屋で、その涙の存在を覚えている者は、きっと誰もいない。
「連行する」
短く、冷たい声が響いた。
誰かの手が、乱暴ではないが逃げ道を与えない強さで、アランの腕をつかむ。
縛られたままの身体が、ぐいと引き上げられた。
足元がふらつく。
立ち上がるというより、吊り上げられるに近い。
膝に力が入らない。
ドアが開く。
さっきまでアランが立っていた、あの長い廊下が再び目の前に伸びる。
同じ蛍光灯。
同じ床。
同じ安っぽい壁紙。
ただ一つ違うのは――
そこを歩いていく自分が、もはや「帰る場所」を持たないということだった。
レギュラスの屋敷へ。
ステラとアルタイルが待つ食卓へ。
メイラが笑う台所へ。
そこに戻る道は、今この瞬間、目の前で音もなく閉ざされていく。
アランは、それでも、踵を返すことも、叫ぶことも出来なかった。
声を持たない喉は、ただ静かに震え続けるだけだった。
静かな路地裏。
石畳に夕陽の赤が長く伸びている。
背後では昼下がりの人々のざわめきが遠くに溶け、風が金髪をさらりと持ち上げては落としていく。
さきほどまで目の前にいた女―― アラン・ブラックの、翡翠の瞳の余韻だけが、まだ網膜の内側に焼きついていた。
「……本当に、綺麗な人」
セラは自嘲めいた笑みを浮かべ、指先で自分の前髪を払う。
その動作に合わせて、手首に忍ばせた魔法の感触が、ひりりと疼いた。
さっき、許可証を見せながら、何気なくアランの腕に触れた。
礼を述べるふりをして、指を軽く絡めるように。
その一瞬に、騎士団から授けられた術式を滑り込ませたのだ。
――記憶誘導の呪文。
それも、ただの幻ではない。
発動するのは、騎士団が指定した日。
流し込まれるのは、セラ自身の「本物の記憶」。
レギュラスと共に夜を過ごした、あの安モーテルの、湿ったベッドの感触。
薄いカーテン越しの街灯の光。
灰色の瞳が、自分だけを見ていた時間。
指先、唇、呼吸。
肌の上を這った熱のすべて。
それらを、まるでアラン自身がその場に立ち会っているかのように、鮮やかに追体験させる魔法だった。
「大抵の女は、正気ではいられないよ」
騎士団の魔術師は、術式を渡すとき、肩をすくめて笑っていた。
いかにも「女性の心理はよく知っている」と言わんばかりに。
セラはそのとき、わざとらしく笑ってみせた。
「ええ。知ってるわ。
男が思ってるよりずっと簡単に、たいていの妻は壊れるのよ」
それは、誰よりもセラ自身が知っている真実だった。
彼女はゆっくりと歩き出した。
関所の許可証が揺れる音が、胸元で小さく擦れる。
――あれを見せたときの、アランの顔。
翡翠の瞳が、かすかに揺れた。
微笑みは崩さない。
けれど、指先に力がこもり、紙を持つ手がほんの少し震えた。
セラは、その震えを見逃さなかった。
「あなたにも感謝しようと思って。
情けをかけてくれたことを感謝するわ、アラン・ブラック」
そう言ったとき、アランの睫毛が、ほんの少しだけ伏せられた。
あれは――嫉妬か、不安か、罪悪感か。
どんな感情でもよかった。
とにかく、「揺れ」があれば、それで十分だった。
実際のところ、術式はすでに完成している。
アランが何を感じようと感じまいと、指定された夜になれば、記憶は流れ込む。
セラがモーテルのベッドで見ていた光景が、そのままアランの胸の内に降り注ぐ。
━━灰色の瞳が、天井のシミを背景に細められる。
━━低い声で名前を呼ばれる。
━━肩甲骨のあたりに、唇が押し当てられる重さ。
━━古びた照明がきしむ音。
━━薄い壁の向こうの、隣室の笑い声。
すべてが、アランの中で「現在進行形」として蘇る。
そして、その記憶の中でレギュラスとセラがいる場所――
モーテルの看板も、部屋番号も、窓の外に映る通りの店並びも、細部まで鮮明に刻まれている。
まるで、今夜、そこに行けば、まだ二人がいるかのように。
「……さて、どこまで耐えられるかしらね」
セラは、夕暮れの街角で立ち止まり、小さく呟いた。
騎士団が指定した日付と時刻が、頭の中で浮かび上がる。
その夜、アラン・ブラックの胸に、ふいに映像が流れ込むよう、呪文はすでに組まれている。
騎士団の魔術師たちは、冷静な声で説明していた。
『彼女はあなたの記憶を信じるでしょう。』
――だから、あとは時間の問題だ、と。
アランはきっと、その記憶を「真実」として受け止める。
その夜、モーテルに行けば、真相が分かるかもしれない。
まだ何か隠されているのなら、確かめなければ、と。
「自分から足を運ぶ」という形が、何よりも重要だった。
騎士団が仕掛けた罠だとも知らずに。
(あの屋敷と同化した、あの女をどうやって外に出せばいいのかって?)
前にジェームズが、半ば投げやりにそう言ったことを思い出す。
セラはそのとき、肩を揺らして笑ってやった。
『でもいいわ。
あの人の妻でしょう?
夫の過去の女が、静観できるほど賢くて成熟してるかどうか、試してみるのも悪くないじゃない』
どこか残酷な愉悦が胸を撫でる。
もちろん、それだけではない。
関所を自由に通行できる許可証。
息子の学費。
生活を支える現実的な対価は、セラにとって決して軽いものではなかった。
客は減った。
関所が設けられ、マグル界と魔法界の行き来が制限されてからというもの、人々の足は目に見えて遠のいた。
金を落とすような客ほど、リスクを避けて静かに消えていく。
生活は、苦しい。
息子は育つ。
学費は膨らむ。
目の前に差し出された「取引」を掴まないほど、セラは愚かではなかった。
けれど――。
(それだけだったら、こんな手間のかかる罠は仕掛けないわね)
ぶつぶつと強めのルージュを塗り直すような気持ちで、セラは胸の内で呟く。
本当は、もう少しだけ、レギュラス・ブラックに触れていたかったのかもしれない。
彼が渡してくれた許可証を、指先で撫でた感触。
「情ですね」と、淡々と告げた声。
完全には切り捨てられなかった過去が、そこには確かにあった。
そして、アラン・ブラック。
あまりにも「綺麗すぎる」妻。
声を持たない彼女が、どんな顔でその記憶を見るのか。
どんな表情で、あの安モーテルを目指してくるのか。
――見てみたい。
その好奇心は、確かにあった。
自分がかつて腕の中に抱いた男と、その男が選んだ妻。
その二人の間に、どれほど深い溝が生まれるのか。
それとも、あの女は、その溝さえも飲み込んで、なお夫を赦すのか。
「もし赦すなら――」
セラは、ふっと笑う。
「それはそれで、見ものね。
あそこまでの愚かさは、きっと一生忘れられない」
指先で、まだ残る魔法の感触を確かめる。
セラがアランの腕に触れた瞬間、細い皮膚の下に「鍵」が刻まれた。
それは自分の記憶に繋がる、目に見えない扉。
指定された夜。
その扉が音もなく開き、レギュラスとセラの夜が、どっと流れ込む。
モーテルの看板。
番号札の剥げたドア。
軋むベッド。
シャワーの水音。
それらがすべて、「今、ここで起きていること」であるかのように。
そして、ドアの外に映る、通りの店の配置や、街灯の位置――
それは、騎士団があらかじめ押さえてある「今も実在する場所」と、ぴたりと重なるよう組まれていた。
要するに、その夜アランが向かった先で、騎士団が待ち構えている、という寸法だ。
「さあ、アラン・ブラック」
夕闇が深くなる交差点で、セラはひとり、息を吐いた。
「あなたは、どこまで彼を信じていられるのかしら。
そして、どこまで自分を壊せるのかしら」
翡翠の瞳に流れ込む、セラとレギュラスの夜――。
その映像の重さを思うと、胸のどこかがざわめく。
哀れみか、優越感か、嫉妬か、それとも羨望か。
自分でも判別できない感情が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。
セラ・レヴィントンは、わずかに顎を上げて歩き出した。
指定された日が来るまで、もうそう間はない。
その夜、翡翠の瞳がどんな色に濁るのか。
セラはその瞬間を思い浮かべながら、赤く塗った唇に、うっすらと笑みを刻みつけた。
それは、本当に唐突だった。
いつもと変わらない夜――のはずだった。
寝室のランプは少し落とされ、琥珀色の明かりがベッドカバーの刺繍をやわらかく照らしている。
アランは、膝の上に開いた本に指を挟んだまま、ぼんやりとページを眺めていた。
文字は目に入っているのに、意味として頭に入ってこない。
レギュラスは、まだ帰ってこない。
屋敷は、広すぎるほど静かだった。
――その静けさのなかに、突然、ひびが入った。
頭の奥が、きぃん、と音を立てたように痛む。
こめかみの内側で、熱い何かがじわりと広がり、視界がふっと滲んだ。
次の瞬間、アランは見知らぬ天井を見上げていた。
薄汚れた白。
ところどころに染みが浮かび、角には蜘蛛の巣が張っている。
裸電球がひとつ、黄色く揺れていた。
鼻先に押し寄せてくるのは、古い洗剤と湿ったカーペットの匂い。
安い香水と、知らない煙草の残り香。
(……なに、これ……?)
喉がひゅっと詰まる。
身体はベッドの上に横たわっているはずなのに、同時に、知らないシーツのざらつきが肌を撫でていた。
二つの感覚が、頭の中でぶつかり合って軋む。
視界の端から、誰かの手が伸びてくる。
白く長い指。見覚えのある関節の形。
その手が、こちらの頬に触れた。
――その灰色の瞳を、アランは知っていた。
「……レギュラス……?」
声にならない悲鳴が胸の奥で弾ける。
だが、口から漏れるのは自分の声ではない。
甘く含んだ吐息。
掠れた笑い。
それは、自分とは別の女の喉から零れている音だった。
セラ・レヴィントン。
理解するのに、時間はかからなかった。
数日前、彼女が差し出した許可証。
肩に触れてきた、あの一瞬の、妙に長く感じた接触。
あのとき、何かが流し込まれたのだと、直感した。
これは、セラ自身の記憶。
彼女が、彼と過ごした夜の一枚一枚。
――時間差で発動する術。
わざと今、発火するように、仕込まれた罠。
(左右されたりなんかしない……)
アランは、必死にそう思おうとした。
自分はレギュラス・ブラックの妻だ。
彼の隣で眠り、彼の子を産み、彼の帰りを待ち続けてきた女だ。
今さら、過去にいた女の記憶ひとつで揺らぐものか――と、心のどこかで牙をむくように思いたかった。
けれど、映像は、その意志を容赦なく踏みにじってきた。
粗末なベッド。
シーツが皺だらけに乱れ、軋む音が耳に張り付く。
レギュラスの指が、セラの喉元をなぞり、胸元へ降りていく。
その手つきは、驚くほどに迷いがない。
アランの知っている彼の手は、いつも少し震えていた。
壊してしまわないように、と何度も確かめるように触れてきた。
痛ませないように、怯えさせないように。
触れるたびに、彼の中の躊躇いと恐れが伝わってくるほどに、慎重だった。
だが、今、流れ込んでくるレギュラスは違った。
セラの腰を乱暴とすら言えるほど強く引き寄せ、脚を抱え上げる。
ベッドがきしみ、壁が薄く震える。
低く押し殺した声で、耳元に何か囁いている。
彼女が答えるように笑い、首を反らせる。
そのときの彼の瞳は、アランの知らない熱を帯びていた。
獲物を逃さぬように射抜く、獣のそれに近い。
(こんな顔……知らない……)
呼吸が浅くなる。
胸がうまく動かない。
目の前の光景を拒絶したいのに、瞼を閉じても、まぶたの裏側に同じシーンが焼き付き続ける。
セラの視界から見たレギュラスだから、角度が違う。
アランの上に覆いかぶさってくるときとは、少し顔の位置が違う。
顎のラインも、喉の動きも、陰影の落ち方も。
すべてが、「自分の知らない彼」だった。
セラが笑う。
唇を引き寄せ、強く噛みつく。
そのたびに、レギュラスの喉から漏れる低い声が、耳の奥を震わせた。
アランは、その声を知っている。
彼が抑えきれなくなったときに、ほんの少しだけ漏らしてしまう声音。
ただ、今見せつけられているそれは、あまりにも長く、あまりにも濃く、あまりにも自由だった。
彼は恐れていない。
彼は迷っていない。
痛みを気遣って止めることもない。
セラの笑い声と吐息に、ただ応えるように、貪る。
―― アランには、一度も見せたことのない熱で。
胃のあたりが、ぎゅっと捻られたように痛んだ。
喉の奥まで熱いものが突き上げてくる。
けれど吐き出すこともできない。
(やめて……見たくない……)
心の中で叫んでも、記憶は止まってくれない。
むしろ、細部がより鮮明になる。
モーテルの壁紙についた、古いシミ。
窓の外を走る車のライト。
セラの指先に光る指輪。
レギュラスのシャツが床に落ちていく音。
それらが、ひとつひとつ、残酷なまでにリアルだ。
決して作り物ではないと、身体が理解してしまう。
涙が、ぽたり、と頬を伝った。
そこから堰が切れたように、次々と溢れ出す。
指先が震える。
杖を握ることもできない。
視界は、現実の寝室と、モーテルの狭い部屋を、行ったり来たりする。
寝室では、ランプの光が静かに揺れている。
おさえた色味のカーテン。
窓の外の庭は、夜露を含んで暗く光っていた。
モーテルでは、薄いカーテン越しに、街灯の白い光が差し込んでいる。
安っぽい額縁。歪んだ鏡。
ベッドの上、絡み合う二人の影。
世界が二重に重なり、アランの心は引き裂かれるようだった。
(私は妻……私は……今の妻……)
何度も心の中で言葉を繰り返す。
そのたびに、映像の中のセラが笑った。
彼の胸に爪を立て、耳元で名前を呼び、甘い声で何か囁く。
レギュラスも、応える。
アランの知っている――あの、優しい、震えがちの声ではない。
もっと低く、もっと熱を帯びた声で。
(そんな声、聞いたことない……)
自分は、いつも守られていた。
「壊してしまいそうで」と、冗談めかして言いながら、本当に怖がるように触れてくる指先。
痛がるとすぐに動きを止め、「大丈夫ですか」と確かめる。
何度も、何度も。
それは確かに、アランが救われた優しさだった。
あの地下牢の記憶を、少しずつ塗り替えてくれた温度。
――けれど今、胸をえぐってくるのは別の感情だ。
どうして、自分には見せてくれなかったのだろう。
こんなふうに、迷いなく、欲だけに忠実に、自分に触れる姿を。
どうして、自分の知らない顔を、あの女には惜しみなく晒してしまったのだろう。
その問いが、鋭い棘になって、胸の内側を際限なく刺してくる。
モーテルの中で、二人がひとつになる。
背中に回された腕。
重なる呼吸。
セラの視界が滲んで涙が浮かぶ。
それは苦痛の涙ではない。
愉悦と興奮に濡れた涙だ。
レギュラスが、その涙を舌先ですくい取るようにして笑う。
アランは、そこで限界を迎えた。
「――っ……!」
喉から声にならない音が漏れる。
膝から力が抜け、ベッドからずるりと滑り落ちてしまった。
厚い絨毯が頬を打つ。
そこが現実だという証拠の感触なのに、遠く感じる。
身体を丸める。
胸を押さえるように両腕を抱き寄せる。
少しでも心臓の鼓動を弱めたくて、必死に圧をかける。
それでも、内側で跳ねる鼓動は収まってくれない。
(見たくない……もう……やめて……)
心の奥で掠れた声が響くが、術は容赦なく最後の一枚まで見せつけてくる。
行為のあと、ぐったりと息を整えるセラ。
その肩を撫でながら、レギュラスが何かを囁く。
その声は、優しく、穏やかで――どこか、今のアランに向ける声音とよく似ている。
あれは、私だけのものだったはずなのに。
声にならない呟きが、喉の奥で溺れる。
涙が止まらない。
頬を伝い、絨毯に暗い染みをつくっていく。
ようやく映像が途切れたとき、部屋には、最初と同じ静寂が戻っていた。
ランプの光も、壁も、窓も、すべては変わらない。
変わってしまったのは、アランの胸の内だけ。
息を吸おうとするたびに、胸がきしむ。
肺がうまく空気を受け取れない。
指先は冷たいのに、顔だけが熱く火照っている。
これは、単なる嫉妬なのだろうか。
それとも、自分の価値が、過去の女の記憶ひとつに簡単に削り取られてしまいそうな恐怖なのだろうか。
どちらにしても、あまりにも残酷な罰だった。
(私が……妻なのに……)
その「妻」という立場が、今、目の前の光景の重みに耐えきれていないことが、嫌というほど分かる。
アランは、床に膝をついたまま、顔を両手で覆った。
指の隙間から、涙がこぼれ続ける。
止め方が分からない。
セラの金髪が思い出される。
レギュラスの灰色の瞳が、あの女だけを見ていた夜。
そのすべてが、胸の奥で何度も何度も反芻される。
呼吸がうまくできない。
空気が薄い。
世界が少し傾いて見えた。
そして、アランは悟る。
これはただの「映像」ではないのだと。
ただの幻ではなく、「真実」だからこそ、自分をここまで痛めつけるのだと。
それでも――彼を責める術は、アランにはなかった。
自分は声を持たない。
問い質す言葉も、責める言葉も、喉の奥で消えていく。
ただ、ひとつだけはっきりしているのは、ひとつの事実だった。
――涙が、止まらなかった。
頬を、顎を、首元を伝い落ちて、ナイトドレスの襟元を濡らしていく。
その冷たさだけが、現実だと教えてくれる。
アランは、床の上でじっと丸くなったまま、しばらく動くことができなかった。
セラの記憶の残滓と、胸に突き刺さった痛みが、静かに、しかし確実に、彼女を締め付け続けていた。
――まだ、戻らない。
時計の針が、いつもならレギュラスが帰ってくる時刻をとうに過ぎて、静かな寝室の壁の上を、ひたすらに無言で回っていく。
ランプの灯りは落としてあるのに、やけに眩しく感じた。
アランはベッドの端に腰を下ろし、組んだ手を固く握りしめていた。
指先にうっすらと汗がにじみ、爪の先が白くなる。
――今、この瞬間。
あのモーテルの、薄汚れた天井の下で。
あの狭いベッドの上で。
彼とセラ・レヴィントンが、再びあの夜と同じように身を重ねているのではないか。
そう思った途端、胸の奥で何かが跳ねた。
心臓が乱暴なリズムを刻みはじめる。
あの、強制的に流し込まれた記憶。
セラの視界から見たレギュラス。
自分の知らない声、自分の知らない手つき、自分の知らない表情。
あれはただの「過去」ではないような気がしてくる。
――今なお、その延長線上に「現在」があるのだとしたら?
セラが笑って告げた言葉が、耳の奥で反響した。
『レギュラスが、これを私にくれたのよ』
関所を自由に抜けられる許可証。
更新のいらない、半永久的な権限。
メイラでさえ持っていないもの。
あの女には、与えられている。
それはつまり、いつでも、どこへでも、あの男のもとへ会いに行けるということだ。
そしてレギュラスの側からも、同じように会いに行けるということ。
(今夜も――そうなのかもしれない)
アランは、そっと目を閉じた。
瞼の裏には、あのモーテルの部屋が鮮明に広がる。
セラの記憶として流れ込んだ光景と、そこに新たに自分の想像が上塗りされていく。
レギュラスは、どんな顔で自分を見るのだろう。
驚くのか。
必死に謝るのか。
言い訳を探すのか。
セラ・レヴィントンは、その横でどう立っているだろう。
勝ち誇ったように笑い、
「ほらね」と言いたげに、自分を見下ろすのではないか。
胸が、焼けつくように痛い。
杖を探して、手が震えた。
ベッドサイドの小さなテーブルに置いてあるそれを掴むと、アランは立ち上がる。
足元の絨毯が、妙に柔らかく感じた。
――行かなければ。
理屈では、行くべきではないと分かっている。
騎士団と法務部の対立、マグル界と魔法界の緊張、関所の厳しい警備。
外に出るというだけでも、十分に危険だ。
ましてや、あのモーテルがあるのは、魔法界とマグル界の境目の町。
今、一番ざわついている場所だと知っている。
それでも。
このまま、何も知らないままベッドに横たわり、灯りを消し、彼の帰りを待つ夜を続けることの方が、よほど恐ろしかった。
(確かめたい……)
自分の目で。
自分の足で辿り着き、自分の耳で、彼の声を聞きたい。
たとえ、その先にあるのが、自分を完全に打ち砕く光景だったとしても。
アランは肩にショールを掛ける。
いつも外出時に羽織る上質なものではなく、部屋の片隅に掛けてあった、ごく簡素な薄手のもの。
屋敷の中の冷えを防ぐために使っているそれは、外出には心許ない。
けれど、今の彼女には、その些細な違いに気を配る余裕もなかった。
部屋の扉に手をかける前に、一度だけ振り返る。
整えられたベッド。
枕元に置かれた、レギュラスの本。
彼が帰るたび、そこに腰を下ろし、ネクタイをほどきながら他愛もない話をする光景が目に浮かぶ。
心のどこかで、冷たい声が囁く。
知らないことだらけだ。
彼の過去も。
彼の今も。
彼の心の奥も。
扉を静かに押し開けると、廊下には薄闇が満ちていた。
夜の屋敷特有の静けさ。
肖像画たちも眠っているのか、壁に並んだ額縁はただ黙ってアランを見送るだけだった。
メイラの部屋の前を通り過ぎる。
扉の隙間からは、かすかな灯りが漏れていた。
まだ起きているのかもしれない。
声をかければ、きっと心配そうな顔で飛び出してくるだろう。
けれど、それだけはしたくなかった。
(これは、私が自分で選んだ罪……)
そう心の中で言い聞かせる。
夫を疑うこと。
夫の過去に触れようとすること。
そして、彼がもしも、今もなお別の女と会い続けているのだとしたら――その現場を見に行こうとすること。
どれも、綺麗な行いではない。
だからこそ、誰も巻き込みたくなかった。
屋敷から外へ出る扉を開けた瞬間、冷たい夜気が頬を打った。
庭の木々が風に揺れ、葉擦れの音がささやく。
空には厚い雲がかかり、星も月も見えない。
どこまでも薄暗い夜。
(あの夜と同じ……)
レギュラスが、セラを連れてモーテルに入って行っただろう夜も、きっとこんな空だったのではないかと、勝手に想像してしまう。
胸がまた、きりりと痛んだ。
アランは庭の片隅、人の目に触れにくい場所まで歩いていく。
そこには、かつてレギュラスが「緊急時のために」と残しておいたフローネットの小さな炉がある。
関所ができてから、使うことはほとんどなくなった。
それでも、完全に封鎖されたわけではない。
法務部の管理をすり抜けることなど、やろうと思えば誰にだって出来てしまう。
――特に、決意してしまった者には。
アランは、炉の前に跪く。
震える指先で、灰の中に慎重に粉をすくい上げた。
かすかに鼻を刺すフロー粉の匂いがする。
喉の奥を震わせるように、小さく息を吸い込んだ。
声は出せない。
けれど、心の中で行き先の名をはっきりと描く。
セラの記憶と共に流れ込んできた、あのモーテルの名前。
安っぽい看板に書かれた、少し擦れた文字。
夜にはネオンが点滅し、マグルたちの車が行き交うあの通り。
脳裏に、その光景をありありと浮かべる。
灰を火の中へ投じた。
ぱっと緑色の炎が立ち上がる。
それが、ほんの一瞬、この世のものではない別の光に見えた。
アランは一歩踏み入れる。
浮遊するような感覚。
強くねじれるような、しかし懐かしくもある移動の感触が身体を貫く。
セラの記憶で見たモーテルの廊下、安っぽい絨毯、薄い壁紙――それらを心の中で追いかけながら、アランは目を閉じた。
足元の感触が変わった。
ぐらりと身体が揺れ、思わず壁に手をつく。
粗い壁紙のざらつきが掌に伝わってくる。
目を開けると、そこには見覚えのある廊下があった。
細長く、息苦しいほどに狭い。
両側に同じような扉が並び、息を潜めたように閉じている。
天井の蛍光灯はところどころ点滅し、白い光の中に埃が舞っていた。
鼻をつく古い洗剤の匂いと、煙草の残り香。
――セラの記憶と、寸分違わない。
足が勝手に震える。
それでも、一歩を踏み出した。
靴底が、薄い絨毯を踏むたびに、微かな沈みを感じる。
廊下の先から、遠い笑い声が聞こえた気がした。
誰かの部屋でつけっぱなしになっているテレビの音か、それとも酔っ払いの声か。
はっきりとは分からない。
ただ、この建物全体が、どこか湿った欲望の匂いを含んでいるのは確かだった。
アランは、セラの記憶をなぞるように歩いていく。
何号室。
ドアの前に立って、振り返る彼。
ごく自然な仕草で、鍵を開ける姿。
それらが、頭の中で再生される。
その道筋を、今度は自分の足で辿っていく。
心臓が、先ほどよりも一段と早く打ち始めた。
呼吸が浅い。
喉の奥が乾いて、唾を飲み込むことさえ難しい。
――扉が、視界に入った。
セラの記憶の中で、彼女と彼が消えていった部屋と同じ番号。
古びた真鍮のプレートに刻まれた数字は、ところどころ剥げている。
ドアの下の隙間から、かすかに光が漏れていた。
中には、誰かがいる。
アランは、そこで初めて、自分の膝が笑っていることに気づいた。
膝から下が自分のものではないみたいに震えている。
杖を握り直す。
指先が冷たい。
けれど、その冷たさがかろうじて正気を繋ぎ止めてくれている気がした。
レギュラスは、どんな顔で自分を見るのだろう。
驚くのか。
怒るのか。
それとも、ただ黙って顔を背けるのか。
セラは、どんな瞳で自分を見下ろすのだろう。
勝ち誇った笑み。
あるいは、哀れみ。
――確かめたくない。
けれど、確かめずにはいられない。
矛盾する二つの衝動に引き裂かれながら、アランはそっと手を伸ばした。
扉の冷たいノブに指先が触れる。
金属の感触が、現実を突きつけてくる。
喉の奥が、ひゅう、と鳴った。
涙が、視界を滲ませる。
それでも、アランは目を閉じなかった。
今、ここで目を閉じてしまえば、一生この扉の向こう側にあるものから逃げ続けることになると、どこかで分かっていたからだ。
彼女は静かに息を吸い込み――
ノブを、ほんの少しだけ、回した。
扉は、あっけないほど静かに開いた。
きしむ音ひとつ立てず、わずかに押しただけで、老婆の息のようにゆっくりと。
アランは、息を詰めたまま、その隙間から中を覗き込む。
――誰もいなかった。
薄暗い室内。
安っぽいランプの橙色の光が、床の上に滲むような輪をつくっている。
ベッドは、きちんと整えられていた。
シーツに乱れはなく、枕にも凹みはない。
さっき誰かが腰を下ろした気配も、眠りの重さも、何ひとつ刻まれていない。
窓は半分だけカーテンが閉められ、外の街灯が細い隙間から線のように差し込んでいる。
机の上には、ホテル名の印字されたメモ用紙と、使われていないマグル用のペン。
灰皿には煙草の吸い殻すら残っていない。
あまりにも「何もない」光景が、逆に不自然だった。
アランは一歩、足を踏み入れる。
ドアの向こうの空気は、外の廊下よりわずかに暖かく、よどんだ匂いを含んでいる。
胸の奥で荒くなる鼓動に合わせて、喉が小さく鳴った。
(……いない)
頭の中で、さっきまで渦巻いていた想像が、音を立てて崩れていく。
セラの記憶に見た、あのベッド。
レギュラスの体温、指先、視線。
今この瞬間、そこに二人が重なっているはずだという確信めいた恐怖。
すべてが、空っぽの部屋の前で、残酷に否定される。
代わりに浮かび上がってくるのは、別の一つの事実だった。
ここには、誰も来ていない。
レギュラスは、ここにいない。
――最初から。
足元から、冷たいものがじわりと這い上がってきた。
膝がわずかに震える。
自分がこの場に立っている理由が、一瞬で根こそぎ奪われた気がした。
(じゃあ……なぜ、私は――)
そのときだった。
背後で、扉が「カチリ」と音を立てて閉じた。
心臓が跳ねる。
反射的に振り返ろうとした時には、もう遅かった。
「――動くな」
鋭い声が、狭い室内に突き刺さる。
同時に、複数の気配が爆ぜるように膨れ上がった。
いつの間にか、部屋の隅に、壁際に、窓辺に――黒いローブと仮面をつけた影が立っていた。
歪んだ動物のような、無機質な仮面。
目の穴だけが暗く穿たれていて、中の視線だけが生々しく、アラン一人に注がれている。
アランは本能的に杖を握り直した。
けれど、その動きよりも早く、四方からいくつもの杖先が一斉に向けられる。
空気が、粘つくように重くなる。
魔力が飽和し、肌に痛いほど刺さる。
「杖を、捨てろ」
仮面越しの声は低く押し殺されていて、誰のものか判別できない。
ただ、その響きには熱も慈悲もなく、冷たい使命だけが貼り付いていた。
足がすくむ。
喉が凍りついたみたいに動かない。
杖を握る手だけが、自分の意志とは関係なく震えていた。
――罠だった。
頭のどこかが、ようやくその言葉に辿り着く。
セラの記憶。
遅れて発動した術。
レギュラスの不自然なほどの不在。
すべては、ここに自分を立たせるための布石だったのだ。
(騎士団……)
仮面の向こうにいるのが誰なのか。
アランは想像したくなかった。
ジェームズ・ポッターの、冷ややかに研ぎ澄まされた眼差し。
リーマス・ルーピンの、揺れる正義と苦悩。
――シリウスの灰色の瞳だけは、どうかここにないでほしいと、祈るように願った。
「早く捨てろ」
鋭い声と同時に、一本の呪文が飛ぶ。
床すれすれを滑るようにして飛来した光の筋が、アランの足元で弾けた。
身体がびくりと跳ねる。
(ここで、抵抗したら――)
ここで戦う力は、自分にはない。
さっき魔力を使って移動してきたばかりだ。
もともと戦いに向いている性質ではない。
この数、この密度の魔力を前にして、無傷でいられる自信など、最初からなかった。
それでも。
レギュラスの顔が浮かんだ。
ステラの鋭い瞳が。
アルタイルのまっすぐな笑顔が。
メイラの震える肩が。
――このまま捕らえられたら、自分はどうなる?
封印の力のために、殺されるのか。
ホークラックスのために。
ヴォルデモートを倒すための「理想」のために。
それが「正義」なのだと、彼らは言うのだろうか。
喉の奥で、何かが悲鳴を上げた。
でも、声にはならない。
ゆっくりと、アランは膝を折った。
床に触れる指先がひどく冷たい。
震える指から、杖がするりとこぼれ落ちる。
転がった杖が、安っぽい床材を軽い音で打った。
すかさず、一歩、二歩と近づく気配。
誰かが杖を拾い、アランから遠ざける。
その瞬間、背筋に氷の刃を押し当てられたような感覚が走った。
――完全に、丸裸にされた。
「拘束を」
短い詠唱と共に、目に見えない縄が体に巻きつく。
両腕が背中の方へ引き寄せられ、ぎゅっと締め上げられる。
胸が潰れそうになり、息が詰まり、足元がふらついた。
椅子も、支えもない。
ただ床に膝をつき、縛られた姿勢で、アランは仰ぐようにして仮面たちを見上げるしかなかった。
どの仮面にも、感情はない。
泣き顔も、笑い顔も、怒りの表情も刻まれていない。
ただ、穴の奥から覗く本物の視線だけが、それぞれ別々の熱を宿していた。
憎悪。
正義感。
迷い。
冷徹な計算。
それらが、ごちゃごちゃになってアランの上に降りかかる。
彼女一人が、そのすべての矛先を一身に引き受ける形になっていた。
(……そうか)
ここでようやく、アランはひどく遅れた理解に辿り着いた。
自分は、ヴォルデモートの側に立ったことなど、一度もない。
むしろ、あの地下牢で魔力を搾られ、封印の道具として扱われ続けた被害者だったはずだ。
なのに今――
封印を保持しているという理由で。
「闇の帝王を倒すために必要な犠牲」として。
殺されようとしている。
闇の陣営にも、光の陣営にも、切り捨てられる。
誰の側にも、完全には属していないから。
――居場所なんて、最初からどこにもなかったのだ。
ブラック家の暖かい寝室。
レギュラスの胸に顔を埋めて眠った夜。
ステラとアルタイルが、まだ幼い頃にベッドに潜り込んできて、三人で笑い合った朝。
メイラと、台所でこっそり甘いものをつまみ食いした午後。
あのささやかな光景は、全部、彼女の必死の祈りでつないできた「普通」だった。
どこまでいっても脆く、いつか崩れると知りながら、それでも両手で押さえ続けていた砂の城。
今、その城に、一気に波が押し寄せてきた。
胸が、焼けつくように熱くなったかと思えば、一瞬で冷えていく。
指先の感覚が遠のき、視界の端がじんわりと暗く縁取られていくように見えた。
――レギュラス。
心の中で名前を呼ぶ。
声が出ないから、せめて心の奥で。
(あなたは、今どこにいますか)
こちらに向かっているだろうか。
それとも、まだ何も知らずに、法務部の執務室で書類に目を通しているだろうか。
もし、このままここで自分が消えたら。
レギュラスはどんな顔をするだろう。
悲しむだろうか。
怒るだろうか。
それとも――
そこまで考えた瞬間、胸の奥で何かがぽきりと折れた。
絶望という言葉はあまりにも簡単すぎて、今の感情には追いつかない。
恐怖、悔しさ、諦め、愛おしさ、憎しみ、後悔――
あらゆるものが、ぐちゃぐちゃに混ざり合い、形を失い、溶けていく。
涙が、頬を伝って落ちた。
こぼれた雫は、床に吸い込まれていく。
この狭い部屋で、その涙の存在を覚えている者は、きっと誰もいない。
「連行する」
短く、冷たい声が響いた。
誰かの手が、乱暴ではないが逃げ道を与えない強さで、アランの腕をつかむ。
縛られたままの身体が、ぐいと引き上げられた。
足元がふらつく。
立ち上がるというより、吊り上げられるに近い。
膝に力が入らない。
ドアが開く。
さっきまでアランが立っていた、あの長い廊下が再び目の前に伸びる。
同じ蛍光灯。
同じ床。
同じ安っぽい壁紙。
ただ一つ違うのは――
そこを歩いていく自分が、もはや「帰る場所」を持たないということだった。
レギュラスの屋敷へ。
ステラとアルタイルが待つ食卓へ。
メイラが笑う台所へ。
そこに戻る道は、今この瞬間、目の前で音もなく閉ざされていく。
アランは、それでも、踵を返すことも、叫ぶことも出来なかった。
声を持たない喉は、ただ静かに震え続けるだけだった。
