3章
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久しぶりに、その名を口にした。
セラ・レヴィントン。
書類の隙間に埋もれていた古い人脈リストの中から、その名前を見つけたとき、レギュラスはしばらく指先を止めていた。
淡く色あせたインクが、妙に生々しく思える。住所の末尾、今は存在しないはずの古い番地。マグル界と魔法界の境界線が張り巡らされる前の、ゆるい世界の名残。
――騎士団は、必ずここに触れてくる。
机の上には、騎士団の最近の動きに関する報告書が広げられている。
マグルの武装集団への聞き込み。セシール家の封印を巡る推論。アランの過去に手を伸ばそうとした罠。
その端々に、レギュラスの名、アランの名が、直接的ではないにせよ、影となって貼り付いていた。
封印、ホークラックス、闇の帝王の不死。
そして―― アラン・ブラック。
それらの線を辿っていけば、必ず「レギュラスと関わりのあった女たち」に行き着くだろう。
その中でも、最も扱いやすく、最も外側にいる存在。
セラ・レヴィントンは、そういう位置にいた。
騎士団がやることは想像がつく。
彼女の生活の弱いところを見つけ、条件をちらつかせ、「アランを揺さぶれ」と言う。
セラの性格を知っていればいるほど、その絵面は容易に浮かんできた。
だから、先回りするしかなかった。
騎士団が差し出せるものよりも、遥かに大きな「何か」を、自分の手で渡す。
それは賄賂でもなく、脅しでもなく、ただの「選択肢の上書き」だ。
――少なくとも、アランに近づく理由を、こちらの側から一つ奪っておきたい。
レギュラスは、深く息を吸い込み、呼び出し用の書簡に署名をした。
正式な魔法省の紙ではない。個人宛ての、しかし法務部長の名が記されるだけで、その効力は一気に重くなる類の便箋だ。
「久しぶりですね」と軽く言える程度の距離を保ってきた女を、再び自分の前に立たせる。
それが、これほど骨の折れる決断になるとは、昔の自分なら思いもしなかっただろう。
呼び出しの日、法務部の一角にある小さな会議室は、静まり返っていた。
窓のない部屋。壁一面に魔法法規の本が詰まった棚。
中央にはただ一つ、黒光りする木製のテーブルと椅子が二脚。
レギュラスは、その一つに背筋を預けることなく、立ったまま書類の端を揃えていた。
左手に握った羊皮紙の束を整えながら、部屋の気配を均一に保とうとするかのように、視線をゆっくり巡らせる。
――騎士団がどこまで近づいたのか、まだ読み切れない。
セラの周囲の情報は、ある程度掴んでいる。
客が減ったこと。関所のせいでマグル界と魔法界を行き来しにくくなり、仕事が細っていること。
息子の学費の問題。家賃。生活費。
彼女のライフラインは、端から見れば「揺さぶりやすい場所」ばかりだ。
騎士団が、そこを見逃すはずがない。
――自分が彼らなら、必ずそこを突く。
その「もしも」を、現実として見たくなかった。
ノックの音に、レギュラスは顔を上げた。
「どうぞ」
短く返すと、扉が開く。
香水と煙草と、わずかな夜の匂い。
昔と変わらない、けれど少しだけ薄まった残り香が、部屋に滑り込んだ。
セラ・レヴィントンが立っていた。
髪は短くなっている。
以前は腰まで届くほど伸ばしていた黒髪が、今は肩の少し下で切り揃えられている。
それでも、その顔立ちの存在感は相変わらずだった。少し疲れた目元さえ、化粧と笑みで上から塗り替えて見せている。
「お久しぶりね」
昔と同じ調子で声をかけられる。
レギュラスは、意識的に口元を緩めた。
「久しぶりですね。……髪を切りました?」
セラの目が、ほんの一瞬だけ見開かれる。
驚きと、何か別の感情が、そこに混じった。
最後に会った夜の情景が、一枚の絵のように頭に浮かんでいた。
長い髪をほどいて、シーツに流していた姿。
それを指先で梳いた感触。
そういうものは、忘れたくても忘れられない。
だからこそ、今の短い髪が、時の流れを一気に突きつけてくる。
「元気にしてたのかしら」
「ええ、それなりに。あなたの方は?」
「生きてはいるわ」
軽口を交わす。
昔から、彼女はこうやって笑っていた。
「大丈夫」と言う代わりに、皮肉で自分を飾る癖がある。
レギュラスは、そこで一度、息を整えた。
――本題だ。
「ああ、そうでした」
あくまで自然な動作を装いながら、内ポケットから封筒を取り出す。
「これを、お渡ししようと思いまして」
セラの手元に、それを直接差し出した。
テーブル越しではなく、距離を詰めて。
手が触れそうで、触れない。
紙一枚を挟んだ、ぎりぎりの間合い。
セラは、封筒の重みを確かめるように、ゆっくりと受け取った。
指先は相変わらず細く、爪はきちんと手入れされている。
生活に多少の無理があっても、こういうところの美意識を手放さない女だということを、レギュラスは知っていた。
封が切られる。
羊皮紙が抜き出される。
文字を追うセラの瞳が、徐々に鋭さを増していく。
――魔法界とマグル界の境界関所、無期限通行許可。
――更新不要。再審査不要。
――魔法省法務部の権限による特別認可。
今、騎士団がどれほど奔走しても手に入れられない類のものだ。
それを、レギュラスはたった一枚の紙であっさりと用意してきた。
「……ずいぶん、太っ腹じゃない」
セラの声に、苦い笑いが滲む。
「関所の決定は、かなり急ぎましたからね」
レギュラスは、事務的な口調で続ける。
「あなたのような立場の方には、不便な思いをさせているだろうと思いまして」
――「不便」という言葉では足りないと言うだろうな。
生活が締め上げられていることくらい、分かっている。
レギュラス自身の決定が、その一端を担っていることも。
「これは魔法省法務部の裁量で作りました。更新も不要ですし、検問で止められることも、ほとんどないでしょう。今後も自由に使ってください」
セラの視線が、許可証からレギュラスへと戻る。
「あら、助かるわ」
唇の端を上げた笑みの奥に、複雑な色が揺れた。
「でも、どうして? 自ら終わらせた女に、ここまでしてくれるのかしら」
その「自ら終わらせた女」という言い回しに、胸の奥が少しだけ軋んだ。
――終わらせたのは、自分だ。
最後に会った夜。
窓の外で夜が白み始める頃に、レギュラスは彼女を抱き寄せることをやめた。
小切手と鍵を、テーブルの上に置いた。
アランにこれ以上苦痛を与えないために。あらゆる汚れを切り離しておく必要があった。
それが正しいかどうかではなく、「そうしなければ前に進めない」と信じていた。
「……情ですね」
短く答える。
セラの瞳に、意外そうな光が揺らいだ。
「情、ねぇ」
嗤うような、少しだけ震えた声。
レギュラスは視線を逸らさないまま、言葉を継いだ。
「騎士団は、今、ブラック家に繋がるあらゆる線を辿ろうとしています」
セラが眉をわずかに動かす。
「彼らがあなたにどこまで近づいているかは分かりませんが……おそらく、アランを揺さぶれと依頼するでしょう。僕との過去を利用して、あの人を」
セラは何も言わない。
ただ、許可証を持つ手にわずかに力が入った。
「見返りは要りません」
レギュラスははっきりと言った。
「あなたの生活が楽になることは、僕の決定の副産物として、あって然るべきものです。
ただ一つだけ――」
そこで初めて、ほんの少し視線を伏せる。
「もし、あなたの中に、僕と過ごした年月の情が、ほんのわずかでも残っているなら」
喉の奥で言葉が詰まりそうになるのを押し殺しながら、続けた。
「どうか、彼女には近づかないでほしい」
沈黙。
部屋の中の時間が、一瞬だけ止まったように感じた。
セラは、細く息を吐いた。
「……やっぱり、そこに戻るのね」
かすかな皮肉と、諦めと、何か名づけにくい感情が、混ざり合った声。
「レギュラス。私に情をかけるのも、こうして特別扱いするのも、結局は“あの人を守るため”でしょ?」
否定はしなかった。
否定できるはずもない。
アラン・ブラック。
セシール家の最後の娘。
自分の妻であり、子供たちの母であり、闇の帝王の封印をその身に負わされた女。
その女を守るためなら、レギュラスはどれほどでも冷酷になれたし、どれほどでも情を使うことができた。
それが、どれだけ身勝手でも。
「……僕は、あなたを切り捨てた側の人間です」
静かに言う。
「だからこそ、今さらあなたの生き方に口出しをする権利はないでしょう。
騎士団と取引をしても、僕の悪口をいくらでも言っても構わない」
そこで、ふっとわずかに声が揺れた。
「ただ、あの人だけは――僕と、僕の罪と、闇の帝王に挟まれて、これ以上傷つけたくない」
セラが、じっとレギュラスを見つめていた。
その目には、昔ベッドの上で見た、あの獰猛で飢えた視線ではなく、少し年を重ねた女の静かな観察があった。
「……あなた、本当に変わらないわね」
やがて、彼女は小さく笑った。
「自分の罪は棚に上げて、“守りたいもの”だけは妙に真剣に抱え込むところ」
それは、責めるようでいて、どこか呆れたような響きだった。
「でも、そういうあなたに惚れたんだったわね、昔の私は」
冗談めかして言うその一言が、胸の奥に重く沈む。
レギュラスは、表情を崩さなかった。
「それでも、情は情です」
短くまとめる。
「過去に僕と関わった人間が、僕の決定のせいで生活を完全に奪われるのは、見たくない。
だから、この許可証はあなたに渡す。
その上で―― アランに手を伸ばさないでくれれば、それで十分です」
セラはしばらく黙っていた。
許可証の表面を指先でなぞりながら、目を伏せたり、上げたりする。
その沈黙の間、レギュラスは一度も言葉を重ねなかった。
説得も、懇願も、彼女に対しては通用しないと知っていたからだ。
セラ・レヴィントンは、自分の利と感情を天秤にかけて、自分のやり方で選ぶ女だ。
そこに、他人の正義を差し挟む余地はない。
だからレギュラスにできるのは、「選択肢」と「情」を置いて立ち去ることだけだった。
「……ありがとう、レギュラス」
やがて、セラは静かに言った。
「この許可証は、大事に使わせてもらうわ」
それが、どんな意味を含んでいるのか。
完全な保証にはならないことも理解している。
それでも――ほんのわずかに、胸の中の緊張が緩んだ。
「元気でいてください、セラ」
最後にそう告げると、彼女はふっと笑った。
「ええ。あなたもね、“法務部の英雄様”」
軽口を残し、セラは部屋を出ていく。
扉が閉じる音が、乾いた木の響きを残して消えた。
残された部屋に、静寂が戻る。
レギュラスは、ゆっくりと息を吐いた。
握っていた拳を開くと、爪の跡がうっすらと掌に白く残っている。
――これで、どこまで守れるだろうか。
騎士団の動きは止まらない。
ホークラックスの封印の謎も、アランの過去も、セシール家の血も、すべてが絡まり合って一つの縄になり、その先端でアランの命を締め上げようとしている。
セラ・レヴィントンに渡した紙切れ一枚など、その縄全体から見れば些末なものだろう。
それでも、一本の糸くらいは解けるかもしれない。
それが、レギュラス・ブラックに残された「情」の使い方だった。
妻を守りたい。
子供たちを生かしたい。
それ以外の願いを、とうの昔に捨てた男が、最後に縋ることを許された、ささやかな手段。
それが、久しぶりにセラ・レヴィントンを呼び出した理由だった。
その女の姿を最後に見たのは、もっと遠い昔のことのように思っていた。
情熱と裏切りと、終わりの言葉をすべて抱きしめて、二度と交わることのない線の向こう側へと去っていったはずの女。
セラ・レヴィントン。
その名が、現実として目の前に立ち現れたのは、思いがけず穏やかな午後だった。
その日、アランはメイラと共に、最低限の買い物のために外出していた。
関所が設けられてからというもの、マグルであるメイラを連れて外に出るのは、以前にも増して神経をすり減らす行為になった。
通行許可証。滞在許可証。身分を証明するための、あまりにも多くの紙と印章。
メイラはそれらをきちんと革のポーチに収め、まるで自分の命そのものを抱えるようにして胸元から離さない。
短く済ませましょう、とアランは杖で書いた。
メイラは「はい」と小さく頷き、人混みの中で決してアランから離れないように歩を合わせる。
買い物を終え、通りに面したベンチで少しだけ息を整えていたときだった。
ざわめく人々の気配の向こうから、ひときわ強く視線を引く色が、ゆっくりと近づいてくる。
淡い金髪。
光を含んでさらさらと揺れる、よく手入れされた髪。
周囲の空気を自分のために切り開くことを、昔からよく知っている女の歩き方。
アランの指先から、握っていた杖がするりと滑り落ちそうになった。
――どうして。
喉の奥に、言葉にならない悲鳴がせり上がる。
それでも表情だけは崩すまいと、アランは膝の上で両手をきつく組み合わせた。
「まあ」
近づいてきた声は、昔と同じ滑らかさを保っていた。
甘やかでありながら、どこか冷たい艶を帯びた声。
「こんなところで会えるなんて、奇遇ね。アラン・ブラック」
名を呼ばれた瞬間、心臓がひときわ大きく跳ねた。
アランはゆっくりと顔を上げる。
目の前には、変わらぬ美しさをまとったセラが立っていた。
金髪は以前よりも少し短くなり、肩のあたりで軽やかに揺れている。
上等な生地のローブに、さりげなく魔法界とマグル界の流行を織り交ぜた装い。
そのすべてが、「今もこの女は自分の世界の真ん中に立っている」と告げていた。
「……ごきげんよう」
声を持たないアランに代わり、メイラが小さく頭を下げる。
その瞬間、セラの青い瞳がちらりとメイラをかすめ、すぐに再びアランへと戻ってきた。
「少し、お時間をいただいてもいいかしら?」
拒否の余地を与えない、けれど礼儀は踏み外さない距離感。
昔から変わらない、セラ・レヴィントンのやり方だった。
アランは、杖を拾い上げると、膝の上で静かに振る。
――メイラ、少しだけ席を外してもらえる?
空中に浮かび上がった文字を読み、メイラは不安げにアランとセラを交互に見つめた。
それでも、アランの表情が「大丈夫」と告げているのを感じ取ると、ぎゅっとポーチを抱きしめてから立ち上がる。
「すぐ近くにいますから……」
そう言い残し、人混みの中に紛れていった。
残されたのは、ベンチに座るアランと、その前に立つセラだけ。
「相変わらずね」
セラは、どこか楽しげに言った。
「人のことを最初に守ろうとするところ。昔から、そうだったわ」
アランは、答えを文字に起こすこともできず、ただセラを見つめ返す。
胸の奥で、いくつもの感情が渦を巻いていた。
嫉妬。
罪悪感。
不安。
そして、形容しがたい恐怖。
「今日はね」
セラは、ゆっくりとポケットに手を入れた。
白く細い指が、何かをつまんで取り出す。
光を反射して、少しだけ虹色にきらめく羊皮紙。
角には魔法省の紋章、そして法務部の印章。
その一番下に、見慣れた署名が踊っていた。
レギュラス・ブラック。
「彼がね、これを私にくれたのよ」
セラは、それをひらひらとアランの前で揺らして見せる。
「関所を通過する権限を持つ許可証。更新期限も不要。半永久的に、マグル界と魔法界を自由に行き来できるの」
胸が、ぎゅう、と締め付けられた。
アランの視線が、無意識に許可証の端へと吸い寄せられる。
そこには、間違いなくレギュラスの筆致があった。
公的な書類に署名する時の、迷いのない、鋭い線。
――レギュラスが、セラに。
脳裏で、ゆっくりと言葉が形を取る。
かつて、すべてを終わらせたはずの女。
自分とレギュラスの間から切り離したはずの過去。
それでも、レギュラスは今、法務部長としての権限を使い、彼女に最高級の通行許可を与えている。
メイラでさえ持たないものを。
「あなたにも感謝しようと思って」
セラは、許可証を指先で弄びながら微笑んだ。
「情けをかけてくれたことに、感謝するわ、アラン・ブラック」
アランは瞬きをした。
意味がすぐには飲み込めなかった。
――私が、情けを?
杖を握る手が、わずかに震える。
セラは、そんなアランの動揺を楽しむように、ゆっくりと言葉を続けた。
「だって、そうでしょう? 彼が私にこういう“情け”をかけるのは、あなたがいるからよ」
その瞳の奥に、かすかな棘が光る。
「昔の彼なら、とっくに全部切り捨てていたわ。私も、私の生活も。
でも今は違う。あなたと、子供たちと、この冷たくてやさしい屋敷と――」
セラは空を見上げ、ひとつ息を吐いた。
「そういうものの中で、彼はまだ、私に紙切れ一枚分の情を残してくれている」
それは、感謝とも、嘲笑ともつかない響きだった。
「だから、あなたにも礼を言いに来たの」
アランの胸の中で、何かがきしんだ。
――レギュラスと、セラは会っている。
その事実が、許可証という形を持って目の前に突きつけられる。
自分の知らないところで交わされた言葉、視線、息遣い。
それらを想像した途端、喉の奥に酸っぱい痛みが込み上げた。
もちろん、頭では理解している。
関所の設置によって、多くの魔法使いとマグルが生活を制限されていること。
セラのように、境界線の上で仕事をしてきた者たちにとって、その影響がどれほど大きいか。
レギュラスが法務部長として、それを一定の範囲で緩和しようとするのは、合理的な判断だ。
情と言われようと、政策と言われようと、その行為自体を責めることはできない。
――それでも。
メイラにさえ渡していないもの。
恐ろしく厳しい目で監視されるマグルである彼女には決して与えられなかった「自由」を、セラ・レヴィントンは手にしている。
それが、何よりも刺さった。
メイラは、父の罪を被せられた少女だ。
レギュラス自身が、その罪の一端を担っていると知っているからこそ、屋敷に置くという「救い」を与えた。
けれどその救いにも限界がある。関所を自由に行き来する権利は、彼女には与えられなかった。
一方で、セラ。
かつてレギュラスの腕の中にいた女。
今はその隣にはいないと言いながらも、こうして彼から特別な許可証を受け取っている。
紙切れ一枚。
それだけの差。
けれど、その紙一枚にこもる「心の向き」が、自分には計りきれなくて苦しかった。
アランは、杖を握る指に力を込める。
震えないように、ゆっくりと空中に文字を描いた。
――おめでとうございます。
それが、今の自分にできる精一杯の礼儀だった。
セラは、その文字を眺めてから、肩をすくめる。
「そうね。おめでたいわ」
口元だけで笑う。
「関所ができてから、本当に困っていたの。客足も減ったし、息子の学費だって馬鹿にならない。
だから、この許可証は私にとって救いなのよ。レギュラス・ブラックの“情け”だけど」
その「情け」という言葉が、何度も胸に突き刺さる。
「ねえ、アランブラック」
ふいに、セラは少しだけ距離を詰めた。
金髪が揺れ、その影がアランの膝の上に落ちる。
「あなたは、どう思っているの?」
アランは、瞬きを繰り返す。
――何を。
そう問い返す前に、セラは続けた。
「あなたの夫が、私にこういうことをするのを」
真っ直ぐな問いだった。
逃げ道のない、子供じみた残酷さを含んだ問い。
アランは、喉の奥で息を詰まらせる。
浮かび上がりかけた感情は、言葉にならない。
怒り、嫉妬、不安――あらゆるものが混ざり合い、形を失ってしまう。
やっとの思いで、杖を振る。
――それは、夫が決めたことでしょう。
それ以上でも、それ以下でもない。
自分の口から、彼の判断を責める言葉を出したくなかった。
そんなことをすれば、自分自身の足場まで崩れてしまいそうだったから。
「本当に、そう思ってる?」
セラは、意地悪くではなく、ただ興味深そうに尋ねる。
「あなたの瞳は、そう言っていないように見えるのだけれど」
アランは目を伏せた。
翡翠の瞳が、長い睫毛の影に隠れる。
――レギュラスは、まだセラを「情けをかけるべき存在」として心に残しているのか。
その疑問が、じわじわと胸を締め付ける。
自分には、彼の過去を完全に消し去る権利などないことは分かっている。
彼にも、自分にも、それぞれに消せない歴史がある。
けれど、「今」、この瞬間においてさえ、レギュラスの手がまだ別の女に伸びているという事実は、どうしようもなく苦しかった。
「勘違いしないでね」
セラが、ふっと声をやわらげる。
「私は、あなたから何かを奪うつもりはないわ。
レギュラスがくれたこの紙切れも、きっと彼なりの“けじめ”なのよ。昔の女に対する、ささやかな手当て」
許可証を指先で弾き、光を散らせる。
「それでも、彼が私にまだ情を残しているってことを、あなたにはちゃんと知っておいてほしかったの」
その理由を、アランは問えない。
問えば、もっと深い場所に踏み込んでしまう気がした。
セラは、ふっと笑った。
「ありがとう、アラン・ブラック」
今度の「ありがとう」は、先ほどよりも少しだけ柔らかかった。
「あなたがいるから、彼の中に“情”が残っている。
あなたがあの男を、完全な怪物にしないでいてくれたことに、私は感謝しているのよ」
それは、奇妙な褒め言葉だった。
同時に、あまりにも残酷な評価だった。
――レギュラスの中にある優しさは、自分が守り続けたのだろうか。
そう思いたい一方で、その優しさが今、別の女にも注がれている事実が、どうしようもなく痛い。
「また、どこかで会いましょう」
セラはそう言って、許可証を胸元のポケットにしまった。
金髪がふわりと揺れ、人混みの中へ溶けていく。
アランは、しばらくその場から動けなかった。
通りのざわめき。
関所へ向かう人々の列。
遠くで聞こえる検問官の声。
すべてが遠く、ぼやけて聞こえる。
メイラが、心配そうに駆け寄ってくる足音がした。
「アランさん……? 大丈夫ですか?」
アランはゆっくりと顔を上げる。
メイラの瞳に浮かぶ不安が、胸に刺さる。
――メイラにさえ、渡されていないのに。
さきほど見た許可証の光景が、再び脳裏に蘇る。
レギュラスの署名。
セラの指先。
「情け」という言葉。
アランは、震える指先で杖を握り直すと、空中に小さな文字を描いた。
――大丈夫よ。帰りましょう。
メイラは深く頷き、アランの荷物を代わりに持つ。
歩き出したその足取りは、いつもより少しだけ重かった。
屋敷へ戻る道すがら、アランの胸の中では、ひとつの思いが何度も形を変えていた。
――レギュラスは、自分を選んだ。
――けれど、過去も、罪も、情けも、すべてを簡単に切り捨てられるような男ではない。
それを誰よりも知っているのは、自分自身だ。
だからこそ、苦しい。
だからこそ、愛しい。
関所で掲げられた魔法省の紋章が、遠くに見えた。
その下を、セラ・レヴィントンはこれから何度でも自由に通り抜けていくのだろう。
アラン・ブラックの胸の奥で、静かな痛みだけが、消えない灯のように燃え続けていた。
その夜、屋敷の窓ガラスには、冷えた雨粒が細かく打ちつけていた。
遠くの街灯の光がぼんやりと滲み、厚いカーテンの隙間から、わずかな明かりだけが寝室に流れ込んでいる。
アランは、いつものようにベッドの端に腰掛けて、レギュラスの帰りを待っていた。
膝の上で組んだ手は細く、指先には力がこもっている。
膝に落ちる髪の影を眺めながら、胸の奥では、言葉にならない重さが沈殿していた。
――セラ・レヴィントンにも、あの手で許可証を渡したのだろうか。
署名の曲線。鋭い撥ね。
美しい、仕事用の筆致。
あの許可証の一番下に踊っていた、レギュラスの名は、見慣れているはずなのに、あまりにも遠く感じられた。
廊下の向こうから、靴音が近づいてくる。
一定のリズム。迷いのない歩調。
その音のひとつひとつを、アランは胸の奥で数えていた。
カチャリ、とドアノブが回る。
「戻りました」
低く抑えた声が、いつものように部屋に満ちた。
アランは顔を上げ、薄く微笑んだ。
けれど、杖を取って「おかえりなさい」の文字を描くことはしなかった。
頬だけをやわらかく緩め、その代わりに静かに立ち上がる。
レギュラスはそんな彼女を一瞥すると、いつもの調子でローブを外し始める。
濡れた外套をハンガーに掛け、ネクタイに指をかける。
アランはそのそばに寄り、慣れた手つきで彼の指の動きを引き継いだ。
淡い緑のネクタイの結び目に指を滑らせながら、心は遠くにあった。
セラにひらりと揺らされていた羊皮紙。
「彼が、これを私にくれたのよ」と言った女の声。
メイラでさえ許されていない自由を、その女は、当然のように胸元に収めていた。
指先がわずかに震え、ネクタイの結び目が綺麗にほどけなくなる。
アランは自分で気づき、そっと結び直した。
「…ふふ」
レギュラスが喉の奥でかすかに笑う。
「今日は、少し手つきがぎこちないですね」
軽い冗談のつもりなのだろう。
その何気ない一言さえ、今夜のアランには刺さる。
――わたしの中を見ないで。
そう祈るような気持ちで黙り込んだまま、カフスボタンに手を伸ばす。
銀色のボタンを外すたびに、小さな金属音が静かな部屋に響いた。
レギュラスは、アランの横顔をじっと見つめていた。
白い頬、睫毛の影、唇の線。
どこも、いつもと同じはずなのに、どこか水面のように揺れて見える。
「アラン」
名を呼ぶ声と共に、そっと指先が彼女の髪に触れた。
首の後ろでまとめた髪の束を、レギュラスはふわりと掬い上げる。
そのまま耳の後ろのあたりに唇を押し当てた。
いつも通りの仕草。
いつもなら、アランの肩から力が抜け、安堵の吐息がもれるはずの場所。
だが今夜、アランの身体は、ぎゅっとこわばってしまった。
――この唇で、あの女にも、同じように。
そう思った瞬間、全身に冷たいものが走る。
レギュラスの唇が首筋から頬にのぼり、口元に近づいてくるのを感じて、アランはとっさに身をひねった。
すり抜けるように、身体を半歩だけ引く。
ほんの小さな回避。
だが、その距離はあまりにもはっきりしていた。
唇は空を切り、レギュラスの気配がほんの少しだけ止まる。
「……どうしたんです?」
問う声は柔らかかったが、奥にかすかな緊張が混じっていた。
アランは、胸の奥で何かがきしむ音を聞く。
――どうしたのか。
その問いに、どんな言葉を載せればいいのか分からない。
メイラにさえ渡さなかった許可証。
父親の罪を被され、魔法界で息を潜めて生きてきた少女にさえ与えなかった自由を、かつての恋人には与えたこと。
――どうして、あの人にだけ。
そう書きたい衝動が、喉の奥まで走り上がる。
けれど、杖を取ろうとした手は途中で止まった。
言葉にしてしまえば、何か取り返しのつかないものが壊れそうで、恐ろしかった。
沈黙のまま、アランはレギュラスから目を逸らし、ベッドへと歩いていく。
シーツをめくり、その中に滑り込む。
背を向けるように横たわり、布団を肩まで引き上げた。
レギュラスは、その後ろ姿をしばし見つめていた。
灯りに縁取られた細い肩。
普段なら、自分の方へ自然と傾いてくるはずの体が、今はきっちりと線を引いている。
やがて、彼も静かに支度を終えた。
ローブをかけ、シャツのボタンを外し、いつもの寝間着に着替える。
その一連の動作のあいだ、部屋には衣擦れの音と、時計の針の音だけが流れていた。
シーツがめくれる音。
レギュラスがベッドに潜り込む気配がする。
背中に、ぴたりと温もりが重なる。
肩越しに、呼吸の熱が伝わる。
「……どうしました?」
再び問われた。
今度の声は、少しだけ低く、慎重だった。
「今日はご機嫌ななめですか?」
わずかに笑みを含ませた冗談。
普段なら、くすりと笑ってしまう程度の軽口。
けれど今夜、その言葉は、アランの胸の奥に深く食い込んだ。
――ご機嫌ななめ。
そんな柔らかい言葉で括れるほど、浅いものではないのに。
嫉妬、恐れ、惨めさ、怒り、諦め――どろどろに混ざった感情の塊は、とても「不機嫌」などと呼べる手触りではなかった。
それでも、アランは振り返らなかった。
細い指先を、布団の端でぎゅっと握りしめる。
背中に当たるレギュラスの腕が、おそるおそる動くのが分かった。
彼はアランの腰に手を回して、やわらかく抱き寄せようとする。
力で引き寄せるのではなく、あくまでも「ここにいてもいい」と伝えるような、遠慮がちな抱擁。
アランの身体が、びくりと震えた。
――この腕は、自分だけのものなのか。
――それとも、過去の誰かにも同じように回された腕なのか。
考えたくない。
考えてしまう自分が、何より醜く感じられた。
アランは、ゆっくりと腕をほどき、ベッドの外側へわずかに身体を滑らせた。
距離にしてほんの数センチ。
それでも、レギュラスには痛いほど伝わる「拒絶」の線。
「……」
レギュラスは小さく息を呑み、そのまま言葉を失った。
何度も、喉の奥で言葉が生まれては潰える。
――もしかして、セラに会ったことを知っているのか。
――何か、耳にしたのか。
――それとも、シリウスのことがまだ胸にひっかかっているのか。
いくつもの疑念が一斉に頭をもたげるが、どれも決定打にはならない。
彼女の背中からは、ただ「苦しい」という気配だけが滲み出している。
「アラン」
ためらいののち、レギュラスは静かに名を呼んだ。
「何か……嫌なことがありましたか」
返事はない。
だが、布団の中で握りしめられた手が、ほんの少しだけ震えた。
彼は、ゆっくりと腕を退けた。
無理に抱き寄せることはしない。
代わりに、ほんのわずかな距離を残したまま、アランの背後に横たわる。
その距離は、触れようと思えばすぐに触れられるほど近く、
けれど、すべてを拒まれているようにも感じられるほど遠かった。
「……もし、誰かに何かを言われたのなら」
レギュラスは、天井を見上げるように視線を上げたまま、声を落とす。
「あなたが気に病む必要はありません。
あなたは何も悪くない。何も、です」
アランは、胸の奥で、苦笑のようなものを覚えた。
――そう言ってしまえるのが、彼なのだ。
レギュラスは、自分の罪も、自分の情も、自分の選択も、いつだって一人で背負おうとする。
だからこそ、彼はレギュラス・ブラックなのだと分かっている。
それでも、その姿勢が、今夜はあまりにも残酷に見えた。
セラへの許可証。
メイラへの責任。
騎士団との対立。
ホークラックスの封印。
そして、アラン自身の命。
あらゆるものを「自分が選び、自分が背負う」と言いながら、彼は決して自分の心情を語ろうとしない。
アランはいま、自分の胸の中に渦巻く嫉妬や不安よりも、その感情を分けてくれないことの方が、苦しいとすら感じていた。
――自分は、彼の何なのだろう。
妻。
封印の器。
母。
救った少女。
愛する女。
そのどれもが自分なのだろうし、そのどれだけでもない気がした。
アランは、ゆっくりと布団から片手を出した。
枕元に置いていた杖を手探りで掴む。
震える指で、空中にそっと文字を書く。
いつもより、ずっと小さく、ずっと短く。
――ごめんなさい。
光る文字は、瞬きをする間に消えていった。
その意味が、何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。
レギュラスに対してなのか。
自分の醜い感情に対してなのか。
何も言えない弱さに対してなのか。
レギュラスは、その一瞬の文字を見逃さなかった。
手を伸ばし、空をなぞるように指先を動かす。
「謝る必要など、どこにもありません」
苦く笑うように、彼は囁いた。
「僕の方こそ、あなたを不安にさせているのなら……」
そこまで言って、言葉が途切れる。
何をどう説明すればいいのか、自分でも分からない。
セラのことも、騎士団のことも、関所のことも、ヴォルデモートのことも――
どれもが絡み合い、どこから切って差し出せばいいのか分からなかった。
やがて、彼は諦めたように息を吐く。
「……今日は、もう休みましょう」
それ以上踏み込まない選択。
近づきたいのに、踏み出せない足。
アランは、背を向けたまま、そっと目を閉じた。
瞼の裏には、セラがひらひらと揺らして見せた許可証と、そこで光っていたレギュラスの署名が焼きついて離れない。
それでも――。
布団の下で、指先がほんのわずかに動いた。
背後に横たわる男の存在を確かめるように、布地の上から、そっと手を伸ばす。
指先が、レギュラスの手首に触れた。
ほんの一瞬、ためらってから、細い指がそこに触れたまま止まる。
レギュラスは、目を閉じようとしていた瞳を再び開き、驚いたように息を飲んだ。
そのまま、ゆっくりと自分の手を反転させ、アランの指先を包み込む。
互いに、何も言わない。
指先だけが、細く細く繋がっていた。
沈黙の寝室に、時計の針の音がやさしく響く。
外の雨はまだやまない。
世界のどこかでは、騎士団も、法務部も、闇の陣営も、それぞれの正義を掲げて動き続けている。
だが、この小さなベッドの中でだけは、二人の呼吸のリズムだけがすべてだった。
アランの胸のうちでは、嫉妬も、不安も、痛みも、まだ何ひとつ解決していない。
それでも、今、こうして握り返された手の温度だけは、どうしようもなく愛しかった。
――この手を、手放したくない。
その思いと同時に、自分がいつか、この手から遠くへ行かなければならない未来を知っていることが、また新しい痛みとなって胸を締めつける。
目を閉じながら、アランは静かに涙をこぼした。
レギュラスは、その涙の存在を、背中越しの震えで察しながらも、何も聞かなかった。
ただ、強くも弱くもないちょうど良い力で、アランの指先を握り続けていた。
セラ・レヴィントン。
書類の隙間に埋もれていた古い人脈リストの中から、その名前を見つけたとき、レギュラスはしばらく指先を止めていた。
淡く色あせたインクが、妙に生々しく思える。住所の末尾、今は存在しないはずの古い番地。マグル界と魔法界の境界線が張り巡らされる前の、ゆるい世界の名残。
――騎士団は、必ずここに触れてくる。
机の上には、騎士団の最近の動きに関する報告書が広げられている。
マグルの武装集団への聞き込み。セシール家の封印を巡る推論。アランの過去に手を伸ばそうとした罠。
その端々に、レギュラスの名、アランの名が、直接的ではないにせよ、影となって貼り付いていた。
封印、ホークラックス、闇の帝王の不死。
そして―― アラン・ブラック。
それらの線を辿っていけば、必ず「レギュラスと関わりのあった女たち」に行き着くだろう。
その中でも、最も扱いやすく、最も外側にいる存在。
セラ・レヴィントンは、そういう位置にいた。
騎士団がやることは想像がつく。
彼女の生活の弱いところを見つけ、条件をちらつかせ、「アランを揺さぶれ」と言う。
セラの性格を知っていればいるほど、その絵面は容易に浮かんできた。
だから、先回りするしかなかった。
騎士団が差し出せるものよりも、遥かに大きな「何か」を、自分の手で渡す。
それは賄賂でもなく、脅しでもなく、ただの「選択肢の上書き」だ。
――少なくとも、アランに近づく理由を、こちらの側から一つ奪っておきたい。
レギュラスは、深く息を吸い込み、呼び出し用の書簡に署名をした。
正式な魔法省の紙ではない。個人宛ての、しかし法務部長の名が記されるだけで、その効力は一気に重くなる類の便箋だ。
「久しぶりですね」と軽く言える程度の距離を保ってきた女を、再び自分の前に立たせる。
それが、これほど骨の折れる決断になるとは、昔の自分なら思いもしなかっただろう。
呼び出しの日、法務部の一角にある小さな会議室は、静まり返っていた。
窓のない部屋。壁一面に魔法法規の本が詰まった棚。
中央にはただ一つ、黒光りする木製のテーブルと椅子が二脚。
レギュラスは、その一つに背筋を預けることなく、立ったまま書類の端を揃えていた。
左手に握った羊皮紙の束を整えながら、部屋の気配を均一に保とうとするかのように、視線をゆっくり巡らせる。
――騎士団がどこまで近づいたのか、まだ読み切れない。
セラの周囲の情報は、ある程度掴んでいる。
客が減ったこと。関所のせいでマグル界と魔法界を行き来しにくくなり、仕事が細っていること。
息子の学費の問題。家賃。生活費。
彼女のライフラインは、端から見れば「揺さぶりやすい場所」ばかりだ。
騎士団が、そこを見逃すはずがない。
――自分が彼らなら、必ずそこを突く。
その「もしも」を、現実として見たくなかった。
ノックの音に、レギュラスは顔を上げた。
「どうぞ」
短く返すと、扉が開く。
香水と煙草と、わずかな夜の匂い。
昔と変わらない、けれど少しだけ薄まった残り香が、部屋に滑り込んだ。
セラ・レヴィントンが立っていた。
髪は短くなっている。
以前は腰まで届くほど伸ばしていた黒髪が、今は肩の少し下で切り揃えられている。
それでも、その顔立ちの存在感は相変わらずだった。少し疲れた目元さえ、化粧と笑みで上から塗り替えて見せている。
「お久しぶりね」
昔と同じ調子で声をかけられる。
レギュラスは、意識的に口元を緩めた。
「久しぶりですね。……髪を切りました?」
セラの目が、ほんの一瞬だけ見開かれる。
驚きと、何か別の感情が、そこに混じった。
最後に会った夜の情景が、一枚の絵のように頭に浮かんでいた。
長い髪をほどいて、シーツに流していた姿。
それを指先で梳いた感触。
そういうものは、忘れたくても忘れられない。
だからこそ、今の短い髪が、時の流れを一気に突きつけてくる。
「元気にしてたのかしら」
「ええ、それなりに。あなたの方は?」
「生きてはいるわ」
軽口を交わす。
昔から、彼女はこうやって笑っていた。
「大丈夫」と言う代わりに、皮肉で自分を飾る癖がある。
レギュラスは、そこで一度、息を整えた。
――本題だ。
「ああ、そうでした」
あくまで自然な動作を装いながら、内ポケットから封筒を取り出す。
「これを、お渡ししようと思いまして」
セラの手元に、それを直接差し出した。
テーブル越しではなく、距離を詰めて。
手が触れそうで、触れない。
紙一枚を挟んだ、ぎりぎりの間合い。
セラは、封筒の重みを確かめるように、ゆっくりと受け取った。
指先は相変わらず細く、爪はきちんと手入れされている。
生活に多少の無理があっても、こういうところの美意識を手放さない女だということを、レギュラスは知っていた。
封が切られる。
羊皮紙が抜き出される。
文字を追うセラの瞳が、徐々に鋭さを増していく。
――魔法界とマグル界の境界関所、無期限通行許可。
――更新不要。再審査不要。
――魔法省法務部の権限による特別認可。
今、騎士団がどれほど奔走しても手に入れられない類のものだ。
それを、レギュラスはたった一枚の紙であっさりと用意してきた。
「……ずいぶん、太っ腹じゃない」
セラの声に、苦い笑いが滲む。
「関所の決定は、かなり急ぎましたからね」
レギュラスは、事務的な口調で続ける。
「あなたのような立場の方には、不便な思いをさせているだろうと思いまして」
――「不便」という言葉では足りないと言うだろうな。
生活が締め上げられていることくらい、分かっている。
レギュラス自身の決定が、その一端を担っていることも。
「これは魔法省法務部の裁量で作りました。更新も不要ですし、検問で止められることも、ほとんどないでしょう。今後も自由に使ってください」
セラの視線が、許可証からレギュラスへと戻る。
「あら、助かるわ」
唇の端を上げた笑みの奥に、複雑な色が揺れた。
「でも、どうして? 自ら終わらせた女に、ここまでしてくれるのかしら」
その「自ら終わらせた女」という言い回しに、胸の奥が少しだけ軋んだ。
――終わらせたのは、自分だ。
最後に会った夜。
窓の外で夜が白み始める頃に、レギュラスは彼女を抱き寄せることをやめた。
小切手と鍵を、テーブルの上に置いた。
アランにこれ以上苦痛を与えないために。あらゆる汚れを切り離しておく必要があった。
それが正しいかどうかではなく、「そうしなければ前に進めない」と信じていた。
「……情ですね」
短く答える。
セラの瞳に、意外そうな光が揺らいだ。
「情、ねぇ」
嗤うような、少しだけ震えた声。
レギュラスは視線を逸らさないまま、言葉を継いだ。
「騎士団は、今、ブラック家に繋がるあらゆる線を辿ろうとしています」
セラが眉をわずかに動かす。
「彼らがあなたにどこまで近づいているかは分かりませんが……おそらく、アランを揺さぶれと依頼するでしょう。僕との過去を利用して、あの人を」
セラは何も言わない。
ただ、許可証を持つ手にわずかに力が入った。
「見返りは要りません」
レギュラスははっきりと言った。
「あなたの生活が楽になることは、僕の決定の副産物として、あって然るべきものです。
ただ一つだけ――」
そこで初めて、ほんの少し視線を伏せる。
「もし、あなたの中に、僕と過ごした年月の情が、ほんのわずかでも残っているなら」
喉の奥で言葉が詰まりそうになるのを押し殺しながら、続けた。
「どうか、彼女には近づかないでほしい」
沈黙。
部屋の中の時間が、一瞬だけ止まったように感じた。
セラは、細く息を吐いた。
「……やっぱり、そこに戻るのね」
かすかな皮肉と、諦めと、何か名づけにくい感情が、混ざり合った声。
「レギュラス。私に情をかけるのも、こうして特別扱いするのも、結局は“あの人を守るため”でしょ?」
否定はしなかった。
否定できるはずもない。
アラン・ブラック。
セシール家の最後の娘。
自分の妻であり、子供たちの母であり、闇の帝王の封印をその身に負わされた女。
その女を守るためなら、レギュラスはどれほどでも冷酷になれたし、どれほどでも情を使うことができた。
それが、どれだけ身勝手でも。
「……僕は、あなたを切り捨てた側の人間です」
静かに言う。
「だからこそ、今さらあなたの生き方に口出しをする権利はないでしょう。
騎士団と取引をしても、僕の悪口をいくらでも言っても構わない」
そこで、ふっとわずかに声が揺れた。
「ただ、あの人だけは――僕と、僕の罪と、闇の帝王に挟まれて、これ以上傷つけたくない」
セラが、じっとレギュラスを見つめていた。
その目には、昔ベッドの上で見た、あの獰猛で飢えた視線ではなく、少し年を重ねた女の静かな観察があった。
「……あなた、本当に変わらないわね」
やがて、彼女は小さく笑った。
「自分の罪は棚に上げて、“守りたいもの”だけは妙に真剣に抱え込むところ」
それは、責めるようでいて、どこか呆れたような響きだった。
「でも、そういうあなたに惚れたんだったわね、昔の私は」
冗談めかして言うその一言が、胸の奥に重く沈む。
レギュラスは、表情を崩さなかった。
「それでも、情は情です」
短くまとめる。
「過去に僕と関わった人間が、僕の決定のせいで生活を完全に奪われるのは、見たくない。
だから、この許可証はあなたに渡す。
その上で―― アランに手を伸ばさないでくれれば、それで十分です」
セラはしばらく黙っていた。
許可証の表面を指先でなぞりながら、目を伏せたり、上げたりする。
その沈黙の間、レギュラスは一度も言葉を重ねなかった。
説得も、懇願も、彼女に対しては通用しないと知っていたからだ。
セラ・レヴィントンは、自分の利と感情を天秤にかけて、自分のやり方で選ぶ女だ。
そこに、他人の正義を差し挟む余地はない。
だからレギュラスにできるのは、「選択肢」と「情」を置いて立ち去ることだけだった。
「……ありがとう、レギュラス」
やがて、セラは静かに言った。
「この許可証は、大事に使わせてもらうわ」
それが、どんな意味を含んでいるのか。
完全な保証にはならないことも理解している。
それでも――ほんのわずかに、胸の中の緊張が緩んだ。
「元気でいてください、セラ」
最後にそう告げると、彼女はふっと笑った。
「ええ。あなたもね、“法務部の英雄様”」
軽口を残し、セラは部屋を出ていく。
扉が閉じる音が、乾いた木の響きを残して消えた。
残された部屋に、静寂が戻る。
レギュラスは、ゆっくりと息を吐いた。
握っていた拳を開くと、爪の跡がうっすらと掌に白く残っている。
――これで、どこまで守れるだろうか。
騎士団の動きは止まらない。
ホークラックスの封印の謎も、アランの過去も、セシール家の血も、すべてが絡まり合って一つの縄になり、その先端でアランの命を締め上げようとしている。
セラ・レヴィントンに渡した紙切れ一枚など、その縄全体から見れば些末なものだろう。
それでも、一本の糸くらいは解けるかもしれない。
それが、レギュラス・ブラックに残された「情」の使い方だった。
妻を守りたい。
子供たちを生かしたい。
それ以外の願いを、とうの昔に捨てた男が、最後に縋ることを許された、ささやかな手段。
それが、久しぶりにセラ・レヴィントンを呼び出した理由だった。
その女の姿を最後に見たのは、もっと遠い昔のことのように思っていた。
情熱と裏切りと、終わりの言葉をすべて抱きしめて、二度と交わることのない線の向こう側へと去っていったはずの女。
セラ・レヴィントン。
その名が、現実として目の前に立ち現れたのは、思いがけず穏やかな午後だった。
その日、アランはメイラと共に、最低限の買い物のために外出していた。
関所が設けられてからというもの、マグルであるメイラを連れて外に出るのは、以前にも増して神経をすり減らす行為になった。
通行許可証。滞在許可証。身分を証明するための、あまりにも多くの紙と印章。
メイラはそれらをきちんと革のポーチに収め、まるで自分の命そのものを抱えるようにして胸元から離さない。
短く済ませましょう、とアランは杖で書いた。
メイラは「はい」と小さく頷き、人混みの中で決してアランから離れないように歩を合わせる。
買い物を終え、通りに面したベンチで少しだけ息を整えていたときだった。
ざわめく人々の気配の向こうから、ひときわ強く視線を引く色が、ゆっくりと近づいてくる。
淡い金髪。
光を含んでさらさらと揺れる、よく手入れされた髪。
周囲の空気を自分のために切り開くことを、昔からよく知っている女の歩き方。
アランの指先から、握っていた杖がするりと滑り落ちそうになった。
――どうして。
喉の奥に、言葉にならない悲鳴がせり上がる。
それでも表情だけは崩すまいと、アランは膝の上で両手をきつく組み合わせた。
「まあ」
近づいてきた声は、昔と同じ滑らかさを保っていた。
甘やかでありながら、どこか冷たい艶を帯びた声。
「こんなところで会えるなんて、奇遇ね。アラン・ブラック」
名を呼ばれた瞬間、心臓がひときわ大きく跳ねた。
アランはゆっくりと顔を上げる。
目の前には、変わらぬ美しさをまとったセラが立っていた。
金髪は以前よりも少し短くなり、肩のあたりで軽やかに揺れている。
上等な生地のローブに、さりげなく魔法界とマグル界の流行を織り交ぜた装い。
そのすべてが、「今もこの女は自分の世界の真ん中に立っている」と告げていた。
「……ごきげんよう」
声を持たないアランに代わり、メイラが小さく頭を下げる。
その瞬間、セラの青い瞳がちらりとメイラをかすめ、すぐに再びアランへと戻ってきた。
「少し、お時間をいただいてもいいかしら?」
拒否の余地を与えない、けれど礼儀は踏み外さない距離感。
昔から変わらない、セラ・レヴィントンのやり方だった。
アランは、杖を拾い上げると、膝の上で静かに振る。
――メイラ、少しだけ席を外してもらえる?
空中に浮かび上がった文字を読み、メイラは不安げにアランとセラを交互に見つめた。
それでも、アランの表情が「大丈夫」と告げているのを感じ取ると、ぎゅっとポーチを抱きしめてから立ち上がる。
「すぐ近くにいますから……」
そう言い残し、人混みの中に紛れていった。
残されたのは、ベンチに座るアランと、その前に立つセラだけ。
「相変わらずね」
セラは、どこか楽しげに言った。
「人のことを最初に守ろうとするところ。昔から、そうだったわ」
アランは、答えを文字に起こすこともできず、ただセラを見つめ返す。
胸の奥で、いくつもの感情が渦を巻いていた。
嫉妬。
罪悪感。
不安。
そして、形容しがたい恐怖。
「今日はね」
セラは、ゆっくりとポケットに手を入れた。
白く細い指が、何かをつまんで取り出す。
光を反射して、少しだけ虹色にきらめく羊皮紙。
角には魔法省の紋章、そして法務部の印章。
その一番下に、見慣れた署名が踊っていた。
レギュラス・ブラック。
「彼がね、これを私にくれたのよ」
セラは、それをひらひらとアランの前で揺らして見せる。
「関所を通過する権限を持つ許可証。更新期限も不要。半永久的に、マグル界と魔法界を自由に行き来できるの」
胸が、ぎゅう、と締め付けられた。
アランの視線が、無意識に許可証の端へと吸い寄せられる。
そこには、間違いなくレギュラスの筆致があった。
公的な書類に署名する時の、迷いのない、鋭い線。
――レギュラスが、セラに。
脳裏で、ゆっくりと言葉が形を取る。
かつて、すべてを終わらせたはずの女。
自分とレギュラスの間から切り離したはずの過去。
それでも、レギュラスは今、法務部長としての権限を使い、彼女に最高級の通行許可を与えている。
メイラでさえ持たないものを。
「あなたにも感謝しようと思って」
セラは、許可証を指先で弄びながら微笑んだ。
「情けをかけてくれたことに、感謝するわ、アラン・ブラック」
アランは瞬きをした。
意味がすぐには飲み込めなかった。
――私が、情けを?
杖を握る手が、わずかに震える。
セラは、そんなアランの動揺を楽しむように、ゆっくりと言葉を続けた。
「だって、そうでしょう? 彼が私にこういう“情け”をかけるのは、あなたがいるからよ」
その瞳の奥に、かすかな棘が光る。
「昔の彼なら、とっくに全部切り捨てていたわ。私も、私の生活も。
でも今は違う。あなたと、子供たちと、この冷たくてやさしい屋敷と――」
セラは空を見上げ、ひとつ息を吐いた。
「そういうものの中で、彼はまだ、私に紙切れ一枚分の情を残してくれている」
それは、感謝とも、嘲笑ともつかない響きだった。
「だから、あなたにも礼を言いに来たの」
アランの胸の中で、何かがきしんだ。
――レギュラスと、セラは会っている。
その事実が、許可証という形を持って目の前に突きつけられる。
自分の知らないところで交わされた言葉、視線、息遣い。
それらを想像した途端、喉の奥に酸っぱい痛みが込み上げた。
もちろん、頭では理解している。
関所の設置によって、多くの魔法使いとマグルが生活を制限されていること。
セラのように、境界線の上で仕事をしてきた者たちにとって、その影響がどれほど大きいか。
レギュラスが法務部長として、それを一定の範囲で緩和しようとするのは、合理的な判断だ。
情と言われようと、政策と言われようと、その行為自体を責めることはできない。
――それでも。
メイラにさえ渡していないもの。
恐ろしく厳しい目で監視されるマグルである彼女には決して与えられなかった「自由」を、セラ・レヴィントンは手にしている。
それが、何よりも刺さった。
メイラは、父の罪を被せられた少女だ。
レギュラス自身が、その罪の一端を担っていると知っているからこそ、屋敷に置くという「救い」を与えた。
けれどその救いにも限界がある。関所を自由に行き来する権利は、彼女には与えられなかった。
一方で、セラ。
かつてレギュラスの腕の中にいた女。
今はその隣にはいないと言いながらも、こうして彼から特別な許可証を受け取っている。
紙切れ一枚。
それだけの差。
けれど、その紙一枚にこもる「心の向き」が、自分には計りきれなくて苦しかった。
アランは、杖を握る指に力を込める。
震えないように、ゆっくりと空中に文字を描いた。
――おめでとうございます。
それが、今の自分にできる精一杯の礼儀だった。
セラは、その文字を眺めてから、肩をすくめる。
「そうね。おめでたいわ」
口元だけで笑う。
「関所ができてから、本当に困っていたの。客足も減ったし、息子の学費だって馬鹿にならない。
だから、この許可証は私にとって救いなのよ。レギュラス・ブラックの“情け”だけど」
その「情け」という言葉が、何度も胸に突き刺さる。
「ねえ、アランブラック」
ふいに、セラは少しだけ距離を詰めた。
金髪が揺れ、その影がアランの膝の上に落ちる。
「あなたは、どう思っているの?」
アランは、瞬きを繰り返す。
――何を。
そう問い返す前に、セラは続けた。
「あなたの夫が、私にこういうことをするのを」
真っ直ぐな問いだった。
逃げ道のない、子供じみた残酷さを含んだ問い。
アランは、喉の奥で息を詰まらせる。
浮かび上がりかけた感情は、言葉にならない。
怒り、嫉妬、不安――あらゆるものが混ざり合い、形を失ってしまう。
やっとの思いで、杖を振る。
――それは、夫が決めたことでしょう。
それ以上でも、それ以下でもない。
自分の口から、彼の判断を責める言葉を出したくなかった。
そんなことをすれば、自分自身の足場まで崩れてしまいそうだったから。
「本当に、そう思ってる?」
セラは、意地悪くではなく、ただ興味深そうに尋ねる。
「あなたの瞳は、そう言っていないように見えるのだけれど」
アランは目を伏せた。
翡翠の瞳が、長い睫毛の影に隠れる。
――レギュラスは、まだセラを「情けをかけるべき存在」として心に残しているのか。
その疑問が、じわじわと胸を締め付ける。
自分には、彼の過去を完全に消し去る権利などないことは分かっている。
彼にも、自分にも、それぞれに消せない歴史がある。
けれど、「今」、この瞬間においてさえ、レギュラスの手がまだ別の女に伸びているという事実は、どうしようもなく苦しかった。
「勘違いしないでね」
セラが、ふっと声をやわらげる。
「私は、あなたから何かを奪うつもりはないわ。
レギュラスがくれたこの紙切れも、きっと彼なりの“けじめ”なのよ。昔の女に対する、ささやかな手当て」
許可証を指先で弾き、光を散らせる。
「それでも、彼が私にまだ情を残しているってことを、あなたにはちゃんと知っておいてほしかったの」
その理由を、アランは問えない。
問えば、もっと深い場所に踏み込んでしまう気がした。
セラは、ふっと笑った。
「ありがとう、アラン・ブラック」
今度の「ありがとう」は、先ほどよりも少しだけ柔らかかった。
「あなたがいるから、彼の中に“情”が残っている。
あなたがあの男を、完全な怪物にしないでいてくれたことに、私は感謝しているのよ」
それは、奇妙な褒め言葉だった。
同時に、あまりにも残酷な評価だった。
――レギュラスの中にある優しさは、自分が守り続けたのだろうか。
そう思いたい一方で、その優しさが今、別の女にも注がれている事実が、どうしようもなく痛い。
「また、どこかで会いましょう」
セラはそう言って、許可証を胸元のポケットにしまった。
金髪がふわりと揺れ、人混みの中へ溶けていく。
アランは、しばらくその場から動けなかった。
通りのざわめき。
関所へ向かう人々の列。
遠くで聞こえる検問官の声。
すべてが遠く、ぼやけて聞こえる。
メイラが、心配そうに駆け寄ってくる足音がした。
「アランさん……? 大丈夫ですか?」
アランはゆっくりと顔を上げる。
メイラの瞳に浮かぶ不安が、胸に刺さる。
――メイラにさえ、渡されていないのに。
さきほど見た許可証の光景が、再び脳裏に蘇る。
レギュラスの署名。
セラの指先。
「情け」という言葉。
アランは、震える指先で杖を握り直すと、空中に小さな文字を描いた。
――大丈夫よ。帰りましょう。
メイラは深く頷き、アランの荷物を代わりに持つ。
歩き出したその足取りは、いつもより少しだけ重かった。
屋敷へ戻る道すがら、アランの胸の中では、ひとつの思いが何度も形を変えていた。
――レギュラスは、自分を選んだ。
――けれど、過去も、罪も、情けも、すべてを簡単に切り捨てられるような男ではない。
それを誰よりも知っているのは、自分自身だ。
だからこそ、苦しい。
だからこそ、愛しい。
関所で掲げられた魔法省の紋章が、遠くに見えた。
その下を、セラ・レヴィントンはこれから何度でも自由に通り抜けていくのだろう。
アラン・ブラックの胸の奥で、静かな痛みだけが、消えない灯のように燃え続けていた。
その夜、屋敷の窓ガラスには、冷えた雨粒が細かく打ちつけていた。
遠くの街灯の光がぼんやりと滲み、厚いカーテンの隙間から、わずかな明かりだけが寝室に流れ込んでいる。
アランは、いつものようにベッドの端に腰掛けて、レギュラスの帰りを待っていた。
膝の上で組んだ手は細く、指先には力がこもっている。
膝に落ちる髪の影を眺めながら、胸の奥では、言葉にならない重さが沈殿していた。
――セラ・レヴィントンにも、あの手で許可証を渡したのだろうか。
署名の曲線。鋭い撥ね。
美しい、仕事用の筆致。
あの許可証の一番下に踊っていた、レギュラスの名は、見慣れているはずなのに、あまりにも遠く感じられた。
廊下の向こうから、靴音が近づいてくる。
一定のリズム。迷いのない歩調。
その音のひとつひとつを、アランは胸の奥で数えていた。
カチャリ、とドアノブが回る。
「戻りました」
低く抑えた声が、いつものように部屋に満ちた。
アランは顔を上げ、薄く微笑んだ。
けれど、杖を取って「おかえりなさい」の文字を描くことはしなかった。
頬だけをやわらかく緩め、その代わりに静かに立ち上がる。
レギュラスはそんな彼女を一瞥すると、いつもの調子でローブを外し始める。
濡れた外套をハンガーに掛け、ネクタイに指をかける。
アランはそのそばに寄り、慣れた手つきで彼の指の動きを引き継いだ。
淡い緑のネクタイの結び目に指を滑らせながら、心は遠くにあった。
セラにひらりと揺らされていた羊皮紙。
「彼が、これを私にくれたのよ」と言った女の声。
メイラでさえ許されていない自由を、その女は、当然のように胸元に収めていた。
指先がわずかに震え、ネクタイの結び目が綺麗にほどけなくなる。
アランは自分で気づき、そっと結び直した。
「…ふふ」
レギュラスが喉の奥でかすかに笑う。
「今日は、少し手つきがぎこちないですね」
軽い冗談のつもりなのだろう。
その何気ない一言さえ、今夜のアランには刺さる。
――わたしの中を見ないで。
そう祈るような気持ちで黙り込んだまま、カフスボタンに手を伸ばす。
銀色のボタンを外すたびに、小さな金属音が静かな部屋に響いた。
レギュラスは、アランの横顔をじっと見つめていた。
白い頬、睫毛の影、唇の線。
どこも、いつもと同じはずなのに、どこか水面のように揺れて見える。
「アラン」
名を呼ぶ声と共に、そっと指先が彼女の髪に触れた。
首の後ろでまとめた髪の束を、レギュラスはふわりと掬い上げる。
そのまま耳の後ろのあたりに唇を押し当てた。
いつも通りの仕草。
いつもなら、アランの肩から力が抜け、安堵の吐息がもれるはずの場所。
だが今夜、アランの身体は、ぎゅっとこわばってしまった。
――この唇で、あの女にも、同じように。
そう思った瞬間、全身に冷たいものが走る。
レギュラスの唇が首筋から頬にのぼり、口元に近づいてくるのを感じて、アランはとっさに身をひねった。
すり抜けるように、身体を半歩だけ引く。
ほんの小さな回避。
だが、その距離はあまりにもはっきりしていた。
唇は空を切り、レギュラスの気配がほんの少しだけ止まる。
「……どうしたんです?」
問う声は柔らかかったが、奥にかすかな緊張が混じっていた。
アランは、胸の奥で何かがきしむ音を聞く。
――どうしたのか。
その問いに、どんな言葉を載せればいいのか分からない。
メイラにさえ渡さなかった許可証。
父親の罪を被され、魔法界で息を潜めて生きてきた少女にさえ与えなかった自由を、かつての恋人には与えたこと。
――どうして、あの人にだけ。
そう書きたい衝動が、喉の奥まで走り上がる。
けれど、杖を取ろうとした手は途中で止まった。
言葉にしてしまえば、何か取り返しのつかないものが壊れそうで、恐ろしかった。
沈黙のまま、アランはレギュラスから目を逸らし、ベッドへと歩いていく。
シーツをめくり、その中に滑り込む。
背を向けるように横たわり、布団を肩まで引き上げた。
レギュラスは、その後ろ姿をしばし見つめていた。
灯りに縁取られた細い肩。
普段なら、自分の方へ自然と傾いてくるはずの体が、今はきっちりと線を引いている。
やがて、彼も静かに支度を終えた。
ローブをかけ、シャツのボタンを外し、いつもの寝間着に着替える。
その一連の動作のあいだ、部屋には衣擦れの音と、時計の針の音だけが流れていた。
シーツがめくれる音。
レギュラスがベッドに潜り込む気配がする。
背中に、ぴたりと温もりが重なる。
肩越しに、呼吸の熱が伝わる。
「……どうしました?」
再び問われた。
今度の声は、少しだけ低く、慎重だった。
「今日はご機嫌ななめですか?」
わずかに笑みを含ませた冗談。
普段なら、くすりと笑ってしまう程度の軽口。
けれど今夜、その言葉は、アランの胸の奥に深く食い込んだ。
――ご機嫌ななめ。
そんな柔らかい言葉で括れるほど、浅いものではないのに。
嫉妬、恐れ、惨めさ、怒り、諦め――どろどろに混ざった感情の塊は、とても「不機嫌」などと呼べる手触りではなかった。
それでも、アランは振り返らなかった。
細い指先を、布団の端でぎゅっと握りしめる。
背中に当たるレギュラスの腕が、おそるおそる動くのが分かった。
彼はアランの腰に手を回して、やわらかく抱き寄せようとする。
力で引き寄せるのではなく、あくまでも「ここにいてもいい」と伝えるような、遠慮がちな抱擁。
アランの身体が、びくりと震えた。
――この腕は、自分だけのものなのか。
――それとも、過去の誰かにも同じように回された腕なのか。
考えたくない。
考えてしまう自分が、何より醜く感じられた。
アランは、ゆっくりと腕をほどき、ベッドの外側へわずかに身体を滑らせた。
距離にしてほんの数センチ。
それでも、レギュラスには痛いほど伝わる「拒絶」の線。
「……」
レギュラスは小さく息を呑み、そのまま言葉を失った。
何度も、喉の奥で言葉が生まれては潰える。
――もしかして、セラに会ったことを知っているのか。
――何か、耳にしたのか。
――それとも、シリウスのことがまだ胸にひっかかっているのか。
いくつもの疑念が一斉に頭をもたげるが、どれも決定打にはならない。
彼女の背中からは、ただ「苦しい」という気配だけが滲み出している。
「アラン」
ためらいののち、レギュラスは静かに名を呼んだ。
「何か……嫌なことがありましたか」
返事はない。
だが、布団の中で握りしめられた手が、ほんの少しだけ震えた。
彼は、ゆっくりと腕を退けた。
無理に抱き寄せることはしない。
代わりに、ほんのわずかな距離を残したまま、アランの背後に横たわる。
その距離は、触れようと思えばすぐに触れられるほど近く、
けれど、すべてを拒まれているようにも感じられるほど遠かった。
「……もし、誰かに何かを言われたのなら」
レギュラスは、天井を見上げるように視線を上げたまま、声を落とす。
「あなたが気に病む必要はありません。
あなたは何も悪くない。何も、です」
アランは、胸の奥で、苦笑のようなものを覚えた。
――そう言ってしまえるのが、彼なのだ。
レギュラスは、自分の罪も、自分の情も、自分の選択も、いつだって一人で背負おうとする。
だからこそ、彼はレギュラス・ブラックなのだと分かっている。
それでも、その姿勢が、今夜はあまりにも残酷に見えた。
セラへの許可証。
メイラへの責任。
騎士団との対立。
ホークラックスの封印。
そして、アラン自身の命。
あらゆるものを「自分が選び、自分が背負う」と言いながら、彼は決して自分の心情を語ろうとしない。
アランはいま、自分の胸の中に渦巻く嫉妬や不安よりも、その感情を分けてくれないことの方が、苦しいとすら感じていた。
――自分は、彼の何なのだろう。
妻。
封印の器。
母。
救った少女。
愛する女。
そのどれもが自分なのだろうし、そのどれだけでもない気がした。
アランは、ゆっくりと布団から片手を出した。
枕元に置いていた杖を手探りで掴む。
震える指で、空中にそっと文字を書く。
いつもより、ずっと小さく、ずっと短く。
――ごめんなさい。
光る文字は、瞬きをする間に消えていった。
その意味が、何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。
レギュラスに対してなのか。
自分の醜い感情に対してなのか。
何も言えない弱さに対してなのか。
レギュラスは、その一瞬の文字を見逃さなかった。
手を伸ばし、空をなぞるように指先を動かす。
「謝る必要など、どこにもありません」
苦く笑うように、彼は囁いた。
「僕の方こそ、あなたを不安にさせているのなら……」
そこまで言って、言葉が途切れる。
何をどう説明すればいいのか、自分でも分からない。
セラのことも、騎士団のことも、関所のことも、ヴォルデモートのことも――
どれもが絡み合い、どこから切って差し出せばいいのか分からなかった。
やがて、彼は諦めたように息を吐く。
「……今日は、もう休みましょう」
それ以上踏み込まない選択。
近づきたいのに、踏み出せない足。
アランは、背を向けたまま、そっと目を閉じた。
瞼の裏には、セラがひらひらと揺らして見せた許可証と、そこで光っていたレギュラスの署名が焼きついて離れない。
それでも――。
布団の下で、指先がほんのわずかに動いた。
背後に横たわる男の存在を確かめるように、布地の上から、そっと手を伸ばす。
指先が、レギュラスの手首に触れた。
ほんの一瞬、ためらってから、細い指がそこに触れたまま止まる。
レギュラスは、目を閉じようとしていた瞳を再び開き、驚いたように息を飲んだ。
そのまま、ゆっくりと自分の手を反転させ、アランの指先を包み込む。
互いに、何も言わない。
指先だけが、細く細く繋がっていた。
沈黙の寝室に、時計の針の音がやさしく響く。
外の雨はまだやまない。
世界のどこかでは、騎士団も、法務部も、闇の陣営も、それぞれの正義を掲げて動き続けている。
だが、この小さなベッドの中でだけは、二人の呼吸のリズムだけがすべてだった。
アランの胸のうちでは、嫉妬も、不安も、痛みも、まだ何ひとつ解決していない。
それでも、今、こうして握り返された手の温度だけは、どうしようもなく愛しかった。
――この手を、手放したくない。
その思いと同時に、自分がいつか、この手から遠くへ行かなければならない未来を知っていることが、また新しい痛みとなって胸を締めつける。
目を閉じながら、アランは静かに涙をこぼした。
レギュラスは、その涙の存在を、背中越しの震えで察しながらも、何も聞かなかった。
ただ、強くも弱くもないちょうど良い力で、アランの指先を握り続けていた。
