3章
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その日の午後、屋敷は珍しく静かだった。
廊下の向こうから聞こえてくるのは、たまに使用人が食器を重ねるかすかな音と、時計の針が刻む規則正しい音だけだ。
応接室の窓辺には、淡い光が差し込んでいた。
レースのカーテンを通った陽の色は少しだけ柔らかくなり、アランの髪と頬の輪郭を、薄く金色に縁取っている。
アランはソファに腰掛けていた。
膝にはブランケットをかけ、指先には杖。
その隣に、背筋をまっすぐに伸ばしたアルタイルが座っている。
「母さん、さっきの続き、聞いてもいいですか」
アルタイルが遠慮がちに問いかけると、アランはわずかに瞬きをしてから、息子を見た。
翡翠色の瞳が、どこか決意を帯びて細く揺れる。
そして、小さく頷いて杖を持つ手を動かした。
白い空間に文字が浮かぶ。
やわらかな光を帯びた文字は、まるで一時だけこの世に現れる小さな霊光のようで――それが消える前に、アルタイルはしっかりと目に刻みつけた。
レギュラスは、とても優しくて。
初めて会った時から、とても親切で――
文字はすぐに淡く消える。
けれどアルタイルには、続きが来るのが分かっていた。
アランの手が、そのまま止まらないからだ。
地下の冷たくて暗い部屋の中で、唯一、星空を見せてくれた人でした。
アルタイルは、思わず息を呑んだ。
母が「地下」と呼ぶ場所のことを、彼は知っている。
記録で読んだことのある「地下牢」。
そこが、母にとってどれほど暗く、どれほど長く、どれほど残酷な場所だったのかも。
アランの視線は、窓の外の空に向く。
けれど、今見ているのは、この屋敷の穏やかな空ではないのだろう。
あの、冷えきった石の天井と、そこに穿たれた小さな穴。
ほんのひと欠片、星の光が差し込むだけの世界。
杖が再び、空気をなぞる。
初めて、レギュラスに外に連れ出してもらった時の――
あの明るい景色は、とても忘れられません。
母の指先が、わずかに震えているのが分かった。
記憶の中の光は、そのぶんだけ強烈だったのだろう。
暗闇に慣れ過ぎた目には、外の世界は眩しすぎたに違いない。
「外」という言葉の重さを、アルタイルは想像する。
石の床から、冷たさから、鎖の音から、汚れた水の匂いから――すべてから引き剝がされて、初めて浴びた風。
その隣にいたのが、他でもない自分の父だったのだ。
母の目尻に、ゆっくりと涙が溜まり始める。
だが、彼女はそれを拭おうとせず、ただ杖を握り直して、また文字を描き出した。
言い争ったこともありました。
頑固なのは私の方で、わがままなのも私なのに、
いつも折れてくれるのは、レギュラスでした。
アルタイルの脳裏に、父の姿が浮かぶ。
法務部で鋭い眼差しで書類を捌き、敵対する者を容赦なく切り捨てる男。
冷酷と恐れられる決断を迷いなく下す男。
そんな父が、「争いになれば必ず折れる側」であるという事実。
その事実が、妙に胸を締めつけた。
アランはふいに笑った。
声は出ないのに、肩がふるりと揺れ、目元にやわらかな皺が寄る。
ステラのことも、アルタイルのことも。
とても可愛がってくれて。
そこまで書いたところで、杖の先が止まった。
手首が、ゆっくりと下がっていく。
文字は途中で途切れ、消えた。
「母さん……?」
アルタイルが呼ぶと、アランは驚いたように瞬きをした。
次の瞬間、堰を切ったように、涙がぽろりと零れ落ちる。
頬を伝った涙は、顎の線を滑り落ち、ブランケットの端に小さなしみをつくった。
アランは慌てているわけでもなく、喉を震わせて声を上げることもない。
ただ静かに、けれど止めどなく、涙だけが流れ続けている。
“泣いている”という事実が、あまりにも静かで、あまりに重かった。
アラン自身も、その涙に驚いているようだった。
杖を握っていた手は力を失い、ぽとりと膝の上に落ちる。
翡翠の瞳がひどくうるみ、細かく揺れた。
――愛されている。
自分は、レギュラスに、間違いなく愛されている。
それを、今こうして息子に語りながら、改めて突きつけられてしまったのだ。
地下の闇から引き上げてくれたこと。
星空を見せてくれたこと。
封印という呪いを負った自分を、それでも妻として迎え、子を授けてくれたこと。
数えきれない折り合いと妥協と犠牲の上に、今ここにある「幸福」が築かれていること。
――なのに、自分は。
この先、いつか、この命を差し出さなければならない側に立っている。
騎士団の正義にとっては、消されるべき存在であり。
闇の帝王の不死を封じるための「要」として、狙われ続ける立場にいる。
分かっている。
頭では理解している。
けれど――今触れられている温もりを、今ここにある日常を、
そんな簡単に手放せるはずがなかった。
それにしがみつこうとする自分の醜さを、アランは骨の髄まで自覚していた。
それでもなお、レギュラスを、子どもたちを、あまりにも深く愛してしまっていることも。
たまらなく愛しい。
たまらなく苦しい。
「母さん……母さん、泣かないでください」
アルタイルが慌てて身を乗り出した。
少し大きくなった手で、どう触れていいか分からないまま、母の肩にそっと置く。
その不器用な優しさに触れ、アランはなおさら涙の止め方を失った。
翡翠の瞳から溢れ続ける涙を、指で拭うこともできない。
ただ、首を横に振り、大丈夫 と言いたげな笑みを無理に形作る。
けれど、その笑みはどうしようもなく歪んでいた。
その時だった。
廊下の向こうから、重い足音が聞こえてきた。
規則正しく響く、靴音。
玄関から続く廊下を進み、この部屋へ近づいてくる。
「……父さんだ」
アルタイルが呟く。
アランはびくりと肩を震わせた。
涙で曇った瞳が、扉の方へ向く。
ドアノブが回る音。
次いで、扉が静かに開かれた。
「ただいま帰りました」
レギュラスの低い声が、いつものように落ち着いた調子で部屋に満ちる。
だが、その瞬間、彼の視線がソファの前で止まった。
濡れた睫毛。
赤くなった目元。
杖を握りしめたまま俯いているアランと、それを支えるように隣に座るアルタイル。
レギュラスの表情が、かすかに変わった。
「……どうしたんです、アラン。アルタイル。何事ですか」
わずかに早くなった歩調で近寄ってくる。
アルタイルは、さっと立ち上がり、父に向き直った。
「何も。昔のことを話していただけです」
アルタイルは簡潔に答えた。
余計な説明を重ねれば、母の涙の理由を掘り返すことになると直感で分かっていたからだ。
レギュラスは、息子をじっと見つめ、それから小さく頷いた。
その視線の奥に、わずかな感謝が浮かんだようにも見えた。
「……そうですか」
それ以上は問わない。
彼はすぐにアランのもとへ歩み寄り、そっと膝を折った。
「部屋に行きましょう、アラン。掴まってください」
伸ばされた腕は、ためらいなくアランの細い体を包み込む。
アランは一瞬だけ戸惑ったように目を伏せたが、次の瞬間には――その腕にしがみついていた。
その動きは、かつて暗い地下牢で、唯一差し伸べられた温かい手を掴んだ少女と、何も変わらない。
レギュラスは、何も言わず、アランの身体を軽々と抱き上げる。
ふわりと持ち上げられた瞬間、アランの視界が揺れ、胸元にレギュラスの首筋が近づいた。
馴染み深い匂いがした。
インクと古い羊皮紙、淡い香油、そして彼自身の体温の匂い。
この屋敷のどの場所よりも、アランにとって「帰る場所」を連想させる香りだった。
抱き抱えられたまま、アランの胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。
書斎で見てしまった真実が、脳裏をよぎる。
自分の封印が、ホークラックスが、世界の行方と絡み合っていること。
そのために、騎士団が自分を狙い続けること。
そして、レギュラスが自分を守りきれるかどうか分からない未来があること。
それでも今、腕の中の温かさは疑いようもなく現実だった。
彼の腕の力強さも、胸板越しに伝わる鼓動も、首筋に沿う血管のかすかな脈動も。
――手放したくない。
醜いと分かっていても、そう思ってしまう。
これほどまでに与えられた温もりを、今さら「仕方がない」の一言で諦められるはずがない。
レギュラスの首に腕を回したアランは、かすかに体を震わせた。
涙の余韻がまだ瞳の奥に残っている。
「アルタイル、後で話しましょう。少しアランを休ませます」
「はい」
息子の返事を背中で受けながら、レギュラスは部屋を後にした。
廊下へ出ると、足音が柔らかい絨毯に吸い込まれていく。
その途中で―― アランは、ふと顔を上げた。
首筋に近い位置。
シャツの襟元から覗く、白い肌。
喉元へと続くあたりに、吸い寄せられるように視線が流れる。
胸の奥から、込み上げてくるものに抗えなくなった。
そっと顔を寄せる。
唇が、レギュラスの首筋に触れる。
軽く押し当てただけの、小さなキス。
音すら立たないほどの、かすかな触れ合い。
レギュラスの足が、一瞬だけ止まった。
驚いたように、腕の中のアランを見下ろす。
アランは瞳を閉じていた。
頬は涙で濡れているのに、その表情はどこか安堵と切なさの入り混じったような、複雑なものだった。
「…… アラン」
名を呼ぶ声が、いつもより少しだけ掠れていた。
レギュラスは、何も問わなかった。
代わりに、抱く腕の力をほんの少しだけ強める。
その温もりに包まれながら、アランは思う。
――この人に愛されている。
――それが、何よりも幸福で、何よりも残酷なこと。
けれど、その残酷さごと、今だけは抱きしめていたかった。
自分がいつか差し出さなければならない命を、自分で忘れてしまいたくなるほどに。
首筋に残った微かなキスの感触と、腕の中の重みを確かめながら、
レギュラスは黙って、寝室への廊下を歩き続けた。
執務室に戻る途中で、レギュラスは一度だけ振り返って廊下の奥を見た。
その先には寝室がある。
扉の向こう、静かに眠る妻の姿を思い浮かべると、胸の奥がじんわりと温かくなり、同時にひどくくすぐったくもあった。
――あの仕草は、反則だ。
腕に抱かれている最中、そっと首筋に触れてきた柔らかな唇。
驚くよりも早く、全身に何か甘い衝撃が走った。
あの翡翠の瞳に泣き濡れた光を宿したまま、震える肩で、それでも自分に縋りついてくるアランの姿が、脳裏から離れない。
ベッドにそっと横たえたあと、レギュラスはしばし迷ってから、結局は同じことを返してしまった。
襟元からのぞく細い首筋に、静かに唇を押し当てる。
彼女が置いていった温度を、なぞるように。
――あなたも、怖がる必要はないのだと。
――ここにいていいのだと。
言葉ではうまく伝えられない慰めを、指先と唇に託すように。
頬を撫で、髪を梳き、額にも唇を落とす頃には、アランの呼吸はゆっくりと整い、規則的な寝息へと変わっていた。
「……全く、卑怯な人です」
ベッド脇でそう小さく呟き、肩をすくめてから、ようやく寝室を後にしたのだった。
応接室に戻ると、アルタイルはさっきと同じ場所――窓際のソファに座っていた。
背筋を伸ばし、膝に置いた両手を固く組んでいる。
窓の外には薄曇りの空と、庭の深い緑。
だが、少年の視線はどこか上の空で、落ち着きなく揺れていた。
「お待たせしました」
レギュラスの声に、アルタイルははっと顔を上げた。
父の姿を確認すると、すぐに立ち上がる。
「父さん。母さんは……どうですか?」
問いかけの声音には、不安が色濃く滲んでいた。
レギュラスは、その色をやわらげるようにふっと微笑む。
「ええ、落ち着きましたよ」
簡潔な答えに、アルタイルの肩から力が抜ける。
安堵の息が、ほとんど音にならないほど小さく漏れた。
レギュラスはソファを指し示し、自分も向かいに腰を下ろした。
父子が向かい合って座ると、窓から射し込む光が二人の横顔を同時に照らす。
何を話していたのか、聞くべきか――一瞬迷いが胸をよぎった。
だが、その迷いは、首筋に残る感触を思い出した瞬間に、わずかに揺らぐ。
アランが、子どもの前では決して見せないような甘え方をしたこと。
そのことがひどく嬉しく、照れ臭く、誇らしくもある自分の感情。
それらを言葉にしてしまうのは、どこか「アランとの秘密」を暴くようで、ためらわれた。
だからレギュラスは、ごく当たり障りのない言葉を選ぶ。
「何を話していたのか……と、聞いてもいいですか?」
逆に先に問うたのは、レギュラスではなくアルタイルだった。
少年の灰色がかった瞳が、まっすぐ父を捉える。
「母さんと、ですか?」
「はい。さっき、母さんが泣いていたから……」
自分が寝室へ向かう前、ソファの上で泣き崩れていたアランの姿が、アルタイルの中にもくっきりと残っているのだろう。
あの涙の理由を、息子なりに知りたがっているのが分かる。
レギュラスは少し考え、それから柔らかく首を傾げた。
「あなたからは、どうでしたか? 聞きたいことは、聞けました?」
問いを返すと、アルタイルは一瞬きょとんとし――すぐに、照れくさそうに笑った。
その笑みはどこかアランに似て、ふんわりと周囲の空気を和らげる。
「はい。母さんは、父さんのことを……」
そこまで言ったところで、言葉が喉の奥でつかえる。
頬にうっすらと赤みが差し、視線が泳いだ。
レギュラスは、息を呑んだ。
嫌な予感ではない。
むしろ、何かを期待するような、くすぐったい予感だった。
「……どう、だと?」
促すように言うと、アルタイルは思い切ったように顔を上げる。
「母さんは、父さんのことが大好きなんだって、分かりました」
その一言は、想像していたよりずっと真正面からで、真正直だった。
レギュラスは思わず噴き出しそうになり、慌てて口元を押さえる。
肩がわずかに震えた。
「……そう、ですか」
声がわずかに掠れている。
息子の前だというのに、顔に熱が上ってくるのが分かった。
もちろん、その内容を逐一詮索するつもりはない。
アランが、自分の知らないところで、どんな言葉を選び、どんな表情で、息子に自分のことを語っていたのか――
それを思うだけで、胸の奥にじわじわと温かいものが満ちてくる。
「楽しそうに、話してくれてたんです」
アルタイルは、静かに続けた。
「父さんが、地下にいた母さんに星空を見せてくれた話とか。
初めて外に出してくれた時の景色のこととか。
それに、喧嘩しても、いつも折れるのは父さんなんだって……」
最後の一言に、レギュラスは目を細めた。
「……それは、少し言いすぎですね」
苦笑混じりにそう返すと、アルタイルもつられて笑う。
「でも、本当なんでしょう?」
「さて、それはどうでしょう」
軽くかわしながらも、レギュラスの胸中には、誤魔化しきれない嬉しさがあった。
アランが、自分との過去を「楽しそうに」語っていたという事実。
決して楽しいだけではなかったはずの年月を、彼女は今、そういう色合いで子どもに伝えようとしてくれている。
――あの頃の自分の選択は、少なくとも彼女の中で「救い」として記憶されているのだろうか。
答えは怖くて聞けないけれど、アルタイルの言葉は、その一端をそっと教えてくれた気がした。
「母さん、途中まで笑っていたんですけど……急に、泣き出して」
アルタイルの表情が、少しだけ曇る。
「僕、何か余計なことを聞いたかなって。
でも、母さん、すごく幸せそうにも見えたんです。
だから、涙の理由が、うまく分からなくて……」
――幸せすぎると、人は泣きたくなるのかもしれません。
さっき、アランを抱きしめながら、ふとよぎった考えが、そのまま言葉になりそうになってレギュラスは飲み込んだ。
息子の前で簡単に口にするには、あまりにも個人的で、あまりにも脆い感情だ。
それに、アランの涙の全てを、自分が分かっているとも限らない。
けれど、少なくとも――その涙が、絶望だけではなかったと信じたい。
愛しさと、恐れと、執着と、罪悪感と。
様々な感情が絡まり合った末に零れたものなのだと。
「あなたが、そばにいてくれて良かったですよ」
レギュラスは、静かに言った。
「昔の話を、あなたにしたいと思えるくらいには、アランは今を大事に思っているのでしょう」
「……今を、ですか?」
「ええ。地下のことも、封印のことも、あの場所の冷たさも。
本来なら、思い出したくもないでしょう。それでも、あなたに父親の話をするということは――」
そこまで言って、レギュラスは言葉を切った。
息子の前で、自分を過剰に美化するつもりはない。
アルタイルはじっと父を見つめている。
「きっと、あなたに『家族の物語』を渡したかったのでしょう。
自分がどこから来て、今どこにいるのか、知っていてほしかったのだと思います」
そう言うレギュラスの声音は、いつもの冷静さよりもわずかに柔らかかった。
アルタイルはゆっくりと頷く。
「……僕、思ったんです」
「何をです?」
「母さんにとっての“外”とか、“星空”とか、“レギュラス・ブラック”っていう名前とか。
全部、きっと特別なんだろうなって。
だから――」
少年は照れくさそうに笑い、けれど真正面から言った。
「やっぱり、母さんは父さんのことが大好きなんだって、そう思いました」
レギュラスはとうとう、堪えきれずに小さく笑った。
肩を震わせながら、困ったように額に手を当てる。
「……そう何度も言わないでください。照れます」
「事実ですよ?」
「ええ、そう願いたいものですね」
息子にからかわれているようでありながら、不思議と悪い気はしない。
むしろ、胸の奥をくすぐる温かさが、じわじわと広がっていく。
アランが、自分の知らないところで、どれほどの気持ちを抱え、自分のことを語っているのか。
その姿を想像するだけで、どうしようもなく愛おしい。
――こんな話を、聞ける日が来るとは。
政治の場では、日々、人の憎しみや恐れと向き合わざるを得ない。
関所の問題も、騎士団との対立も、セシール家の封印も。
どれ一つとして軽くない現実の中で、たった今、目の前にいる息子から告げられたのは、ひどく単純で、ひどくまっすぐな言葉だった。
「母さんは父さんが大好きだ」
その一言は、どんな演説よりも、どんな支持率の数字よりも、レギュラスにとって重かった。
「アルタイル」
「はい」
「……あなたは?」
唐突な問いに、アルタイルが瞬きをする。
「あなたは、アランのことをどう思っていますか」
少し意地悪い問いだったかもしれない。
だが、レギュラスはふと知りたくなったのだ。
妻の「母としての姿」が、息子の瞳にどう映っているのか。
アルタイルは迷うように視線を彷徨わせ、やがて静かに微笑む。
「母さんは……」
一拍、置いて。
「僕にとって“帰る場所”ですね」
その答えに、レギュラスの胸がじん、と熱くなった。
「そうですか」
「はい。
だから、母さんが父さんを好きなの、何となく分かります。
父さんは、母さんの“外”であり“救い”で、“家”なんだろうなって」
少年にしては出来すぎた言葉かもしれない。
けれど、その言葉はアルタイルなりに必死に言語化した実感だった。
レギュラスは、ゆっくりと息を吐く。
視線の端で、窓の外の空が淡く色を変え始めているのが見えた。
――彼女にとって、自分は本当に「救い」だったのか。
――それとも、別の「牢」ではなかったか。
そんな問いは、いつだって胸の底に残っている。
だが今は、アランの涙と、首筋に触れた唇の温度と、息子の言葉を信じてみたいと思えた。
「母さんが父さんの話をしている顔、すごく、幸せそうでした」
アルタイルが、照れくさそうに視線を落とす。
「僕、ちょっと嬉しかったんです。
父さんって、外では怖い人って言われてるじゃないですか。
でも、母さんにとっては、怖い人じゃないんだなって」
「……それはありがたい評価ですね」
レギュラスは、おかしそうに笑った。
怖いと呼ばれることには慣れている。
仕事の場ではむしろ、その評価は必要なのだとすら思っている。
だが―― アランにとってだけは、その限りではないのだと、そう言ってもらえた気がして、胸が少し軽くなる。
「教えてくれてありがとう、アルタイル」
「いえ、僕の方こそ。母さんを落ち着かせてくれて、ありがとうございます」
父子は、ふと目を合わせ、同時に少しだけ照れたように笑った。
屋敷の中の空気は、決して軽くはない。
騎士団の動きも、封印の真実も、これから待ち受ける嵐も、何一つ消えてはいない。
それでも――
アランという一人の女が、自分の知らないところで自分を「好きだ」と語り、それを息子が「嬉しいこと」として受け取っている。
そのささやかな事実が、レギュラスの中で、静かに灯をともす。
彼は立ち上がり、アルタイルの肩に軽く手を置いた。
「もう少ししたら、様子を見に行きましょう。アランも、きっとあなたと続きを話したがるでしょうから」
「はい。……僕も、父さんの話、もっと聞きたいです。母さんから」
「それはそれで、少し怖い気もしますね」
冗談めかして言いながら、レギュラスは微笑んだ。
アランが自分をどう語るのか――怖くもあり、楽しみでもある。
窓の外で、雲の切れ間からわずかに光が差し込んだ。
白い光が、父と息子の影を、柔らかく床に落としている。
その光景は、嵐の前のひとときの穏やかさのようで――
それでも確かに、ここに「家族」という形があるのだと、レギュラスは静かに噛みしめていた。
その夜、裏路地に面した小さな店は、いつもより早く静まり返っていた。
カウンターの上には、洗ったばかりのグラスが逆さに並び、安いランプが黄色く滲んでいる。
通りを行き交う人影も、関所設置以降めっきり減った。マグルの客は来ない。魔法族の男たちも、以前のように気軽に境界線をまたげる時代ではない。
セラ・レヴィントンは、レジの引き出しを乱暴に閉め、細い肩をすくめた。
「今日もこれだけ?」
数枚のガリオンと、情け程度のシックル。
息子の学費、関所の通行証の更新費、家賃、酒代――脳裏で勝手に列を成している支出と見比べると、笑うしかなかった。
その時、店の扉についた小さなベルが、からん、と鳴った。
「悪いね、もう閉めるところでしょ」
軽く乾いた男の声。
セラは苛立ち半分で振り返り――次の瞬間、瞳の奥が細くなる。
カウンターの向こう、入り口に立っていたのは、騎士団の紋章を胸元に付けた男だった。
乱れ気のない黒髪、鋭い目。ジェームズ・ポッター。
その後ろには、複雑そうな表情をしたリーマス・ルーピンも立っている。
「……あら。今夜はお堅いお客さまのご来店?」
セラは、わざとおどけた口調で言った。
腰の後ろでエプロンの紐を解きながら、長い睫毛の影からじっと二人を見据える。
「酒なら余っているけれど。騎士団さんはこういう店には興味がないと思っていたわ」
「今夜は酒じゃない」
ジェームズは一歩、床板を軋ませて進み出る。
その目には、軽口を受け流す余裕も、くだけた笑いもなかった。
――ああ、仕事の顔。
セラは一瞬で悟る。
男が本気で何かを取りに来る時の目だ。それが金であれ、情報であれ、人であれ。
「また、アランブラックの件かしら?」
先に刺してやるように名前を出すと、ジェームズの瞳が一瞬だけ細くなった。
その変化を見逃すほど、セラは鈍くない。
「騎士団が、また私に何の用? 前に来た時も、何も面白い話なんてしてあげられなかったはずだけど」
「前回は“聞きに来た”。今回は“頼みに来た”」
ジェームズはカウンターには寄らず、距離を保ったまま立っていた。
リーマスは少し後ろ、壁際に寄りかかるようにして沈黙している。
「アラン・ブラックを、もう一度こちらに誘き寄せたい」
真っ直ぐな言葉に、セラの眉がぴくりと動いた。
ジェームズは続ける。
「前回の手は失敗した。予想外の介入があったからな。今回は、別の糸口が必要だ」
「……あの屋敷と同化しているような女を、どうやって外に引っ張り出せっていうの?」
セラは鼻で笑った。
アラン・ブラックの姿が脳裏に浮かぶ。
あの女は、まるで屋敷そのものに根を張った古い樹木のように、ブラック家に絡みついている。
夫の隣、子どもたちのそば、使用人たちに囲まれて。
声を持たないその女は、何も語らない代わりに、その場に静かに「居続ける」という方法で、屋敷と同化していた。
「放り出されたら死ぬって分かってる小動物みたいに、あの家から離れないのよ。そんな女をどうやって扉の外に引きずり出せと?」
「そこを考えるのが、君の仕事だ」
ジェームズの視線が、真っ向から突き刺さる。
軽く笑いながらも、一切逸らさない。
セラは、舌打ちしたくなる衝動を喉の奥で飲み込んだ。
「……買い被りね。私はただの場末の女よ。男を引き止めることはあっても、あんな“いい妻”を動かす術なんて持ってない」
「“ただの場末の女”が、ブラック家の当主を何年も縛っていた」
ジェームズの口元に、皮肉な笑みが浮かぶ。
「君はレギュラス・ブラックの“弱点”だった。事実だろう?」
弱点。
その言葉に、胸のどこかが小さく疼いた。
――弱点、だった。
――でも「だった」で終わったのよ。
セラはカウンターの中から出て、ゆっくりと二人の正面に立つ。
店の薄暗い灯りが、彼女の赤い唇と、薄く笑う瞳を照らした。
「だから何? 過去に燃え上がってくれた男がいたからって、今でも同じように燃えてくれるとは限らないでしょう?」
「なにも燃える必要はない」
ジェームズは即答する。
「君が“まだ完全には終わっていないように見せかける”だけでいい。
レギュラス・ブラックが過去に長く関係を持った女が、今もなお彼と繋がっている――そう匂わせればいい」
セラは、目を細めた。
「…… アランに見せつけろってこと?」
「直接でなくていい。噂でも、手紙でも、第三者を経由しても構わない。
とにかく、“妻の知らない夫の顔”を突きつけるんだ。あの女なら動く」
あの屋敷と同化しているような女。
あの妙に清らかぶった、惨めな過去を美談に塗り替えた女。
レギュラスが、最終的に選んだ「妻」。
胸の奥が、じり、と熱くなる。
――そうよね。
――あの女は、絶対に動揺する。
「……で、それで? 私に何の得があるのかしら?」
セラは冷静さを装って問い返す。
ジェームズは懐から封筒を取り出し、カウンターの上に置いた。
「関所の通過書だ。君の名義で発行する。
マグル界、魔法界、どちらにも自由に出入りできる許可証。期限は――特別に長く取ろう」
セラの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
関所。
それはここ最近、彼女の生活をじわじわと締め上げている首輪のようなものだった。
「それから」
ジェームズはもう一枚、今度は小切手を取り出す。
滑らかな紙に記された数字が、ランプの光を受けて白く浮かび上がる。
「一人息子の、学費だ。数年分は出せる額になっている」
セラは、その数字に目を落とし――次の瞬間、ふっと笑った。
「……レギュラス・ブラックが昔、私に送ってきた小切手の半分にも満たない額ね」
自嘲と、どこか誇らしさの混じった声だった。
レギュラスがその昔差し出した小切手。
それは“慰謝料”でもあり、“これ以上踏み込むな”という最後通牒でもあった。
あの白い紙を握りしめて、セラは何度も思ったのだ。
――これで、あの男は本当に終わったのだと。
ジェームズの表情が険しくなる。
「法務部の財力と個人の散財を比べるな。それは君と彼の、別の問題だ」
「そうね」
セラは肩をすくめる。
「でも、いいわ。背に腹はかえられないもの。
関所の締め出しのせいで客も取れなくて、正直、苦労していたのよ」
ここ最近の夜を思い出す。
マグルの常連たちは境界線の向こうに閉じ込められ、魔法族の客たちは、彼女の店に来るよりも安全な娯楽を求めるようになった。
息子の制服はつぎはぎだらけ。靴も底が擦り減っている。
それでも「母親らしい顔」で笑ってやれるだけの余裕を、いったいどこから捻り出せばいいのか。
リーマスが、黙ったままセラを見ていた。
その視線にはあからさまな嫌悪ではなく、滲むような迷いと警戒がある。
「……セラさん。これは危険な取引だ。分かっているはずだろう?」
ようやく口を開いたリーマスに、セラはにんまり笑って見せた。
「危険じゃない夜の仕事なんて、この世にある? リーマスさん」
「そうじゃない。これは――」
「分かってるわよ」
セラは、彼の言葉を遮った。
「アラン・ブラックを餌にして、もっと大きな“何か”を仕留めようとしているんでしょう?
私があの女を揺さぶって、外に出させる。
その後、何が起ころうと、騎士団は『彼女のため』だとか『世界のため』だとか、きれいな言葉を付ければいい」
リーマスは言葉を失う。
ジェームズだけが、その皮肉を真正面から受け止め、眉一つ動かさない。
「あら、図星?」
「俺たちは、ヴォルデモートを倒すために動いている」
ジェームズの声音は固い。
「アラン・ブラックの持つ“封印”が、その鍵になっている可能性がある。
君がそこに関わろうとするなら――これは、君自身の選択だ」
セラは小切手を指先で摘み上げる。
薄い紙は、驚くほど軽い。
それなのに、その数字の持つ重さは、彼女と息子のこれから数年の生活を左右する。
「……かつて燃えるようにはまった男」
ぽつりと、セラは呟いた。
「するりと腕の中からこぼれ落ちるようにして去っていった男。未練がないかと言われれば、嘘になるわ」
レギュラスの背中。
最後に見た横顔。
“もう会えません”と告げられた時の、あまりにも冷静で、あまりにも決定的な声音。
――何一つ、自分には残してくれなかったくせに。
――あの女には、全部、あげた。
「アラン・ブラック」
その名を口にするだけで、舌の奥に苦味が走る。
「私のことなんて、影ほどにも気にしてなさそうな顔をして。
妻の座を守り抜いた女。レギュラス・ブラックの隣を最後まで勝ち取った女」
セラは笑った。
笑いながらも、瞳の奥はまるで凍った湖のように冷たく光っている。
「まったく手打ちできなかった、あの女を。
少しでも揺さぶれるのなら――面白いと思うわ」
ジェームズの目が、わずかに細められた。
リーマスは、苦いものを噛み潰したような顔をする。
「取引は、成立でいい?」
セラは小切手を指で弾き、封筒の上に軽く落とした。
紙が触れ合う乾いた音が、静まり返った店内に響く。
「私があの女を動かしてみせる。その代わりに、通行証と学費。
息子が“まともな学校”で学べるなら、母親として悪くない選択でしょう?」
「……君がそう思うなら」
ジェームズは封筒をセラの方に押しやる。
セラはそれを掴み、エプロンのポケットに乱暴に突っ込んだ。
「ただ、一つだけ。勘違いしないで」
セラは真っ直ぐジェームズを見据える。
「これは、騎士団の理想のためでも、魔法界の平和のためでもない。
もちろん、レギュラスのためでも、アランのためでもない」
「じゃあ、何のためだ?」
ジェームズが問うと、セラは肩をすくめ、赤い唇を少しだけ歪めて笑った。
「私と、私の息子のためよ」
それだけは揺るがない。
かつて、レギュラス・ブラックの腕の中で自分の何もかもを差し出した女は、あの地下牢で哀れな少女を救い上げた妻とは違う。
誰の理想にも、誰の正義にも、二度と自分の人生を預けるつもりはなかった。
ただ一つ――
あの屋敷に、軟禁されたように幸せそうな顔で座るアラン・ブラックの表情が、ほんの少しだけ歪む瞬間を想像するとき。
胸の奥で、黒い愉悦が小さく笑う。
未練と、嫉妬と、意地と、生活のための現実が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って。
「さあ、騎士団さん」
セラは、まるで仕事の注文を受けるような口調で言った。
「どうやって“あの屋敷と同化した女”を引きずり出してほしいのか、細かい段取りを聞かせてちょうだい。
やるからには、ちゃんと面白い舞台にしてもらわないと、割に合わないわ」
ランプの光が、彼女の瞳の奥で妖しく揺れた。
それは、かつてレギュラスが見てしまった火の色に、どこか似ていた。
その日、魔法省のロビーは、いつもより少しだけざわついていた。
天井近くまで伸びる柱の間を、書類を抱えた役人たちが行き交う。暖炉ではフルーパウダーの緑の炎が次々と上がり、誰かが現れては、誰かが消えていく。
そのざわめきの外側を、セラ・レヴィントンは、まるで別世界の客のような顔で歩いていた。
かつて、こんな場所に来る必要などなかった。
男たちが用意してくれた金と部屋と、夜だけが彼女の世界のすべてだった頃から比べると、今いる場所は滑稽なほど「真っ当」に見える。
――騎士団のバカたちがくれた通行証じゃ、足りないのよね。
ローブの内ポケットに入れている騎士団発行の許可証を思い出して、唇の端が少し歪む。
期限付き。制限付き。
検問のたびにちらつかせれば、面倒くさそうに確認される、安っぽい「特例」。
それでも貴重なはずなのに、その上をいくものが、これから自分の手に渡る――そう予感していた。
彼は、待ち合わせ場所に指定した小さな会議室で立っていた。
窓のない部屋。四角いテーブルと、向かい合う椅子が二つ。
黒いローブの襟を正し、書類を数枚まとめてテーブルの端に揃えている。
レギュラス・ブラック。
灯りに照らされた横顔は、昔と変わらない、酷薄なほど整った美しさを湛えていた。
ただ、あの頃よりもさらに「公的」な仮面を貼りつけるのに、慣れてしまった顔だ。
「お久しぶりね」
先に口を開いたのは、セラだった。
わざと軽く、昔と同じ調子で。
レギュラスは、手を止めて振り向く。
灰緑色の瞳が、瞬間だけこちらをまっすぐに射抜き――すぐに、柔らかい光を帯びた。
「久しぶりですね。……髪を切りました?」
セラは、一瞬、息を呑んだ。
まるで、ついこの間会ったばかりの恋人に声をかけるような自然さ。
そして最後に別れた夜の、自分の髪の長さまで、正確に覚えているかのような言い方だった。
「ええ、まあね」
手ぐしで短くなった毛先をすくい上げながら、セラは肩をすくめる。
「元気にしてたのかしら?」
「ええ、それなりに」
レギュラスは、いつもの淡々とした口調で応じる。
「あなたの方は?」
「どうかしらね。生きてはいるわ」
セラは椅子には座らず、背もたれに片手を置いたまま、彼を見下ろすような姿勢をとる。
距離を詰めすぎない。
かといって、離れもしない。
昔、彼の前で覚え込んだ「この男が一番よく喋る距離感」は、身体がまだ忘れていなかった。
レギュラスは、彼女を一瞬だけ静かに見つめ、それから「ああ」と小さく思い出したように声を漏らした。
「そういえば――」
内ポケットに手を入れ、一枚の封筒を取り出す。
厚手の羊皮紙。封の部分には、魔法省と法務部の紋章が重ねて押されている。
「これを、お渡ししたかった」
彼はそれを、テーブル越しではなく、わざわざセラの近くまで歩み寄って差し出した。
セラは、細い指で封筒を受け取り、手触りを確かめる。
角をなぞり、丁寧に封を切った。
中から現れたのは、一枚の許可証だった。
魔法界とマグル界を隔てる、あの新しい関所。
そのすべてを「関係なくする」かのような文言が、そこには並んでいた。
――所持者セラ・レヴィントン。
――境界関所、無期限通行許可。
――更新不要。再審査不要。
――魔法省法務部の裁量において、特別に認可する。
小さく、しかし揺るぎない黒い文字の羅列。
少し前に騎士団が歯を食いしばって用意した許可証とは、あまりにも格が違った。
「……随分、大盤振る舞いじゃない」
思わず漏れた声には、皮肉と本音が混じっていた。
「関所の決定は、畳み掛けるように進めましたからね」
レギュラスは、事務的に説明する。
「あなたのように、マグル界と魔法界の両方で暮らしの基盤を持っている方には、不便な思いをさせている気がして」
その「気がして」という曖昧な言い回しに、セラは笑いそうになった。
不便どころではない。
ここしばらく、彼女の生活は文字通り締め上げられていた。
騎士団の許可証でなんとか往来していたが、それは常に期限と制限がつきまとい、検問の視線に晒されるものだ。
「これは魔法省法務部の権限で、更新は不要としています。
今後も、自由に使っていただいて構いません」
さらりと言う。
――騎士団が必死に用意した許可証を、あざ笑うような一枚。
胸の奥で、黒い笑いがふつふつと湧き上がる。
「あら、助かるわ」
セラは許可証をひらひらと揺らして見せる。
「でも、どうして? 自ら終わらせた女に、ここまでしてくれるのかしら」
“終わらせた”――
その言葉に、レギュラスの睫毛が一度だけ震えた。
最後に会った夜。
冷たく告げられた別れの言葉。
小切手と、鍵の返却と、これ以上の関係は望めないという静かな宣告。
それでもなお、彼は今、自分に「特別扱い」を与えている。
「……情ですね」
少しだけ間を置いて、レギュラスは言った。
セラは、その一言に吹き出しそうになった。
「情、ねぇ」
喉の奥で、小さな笑いが転がる。
かつて、彼の腕の中で感じた熱。
くれるものはくれて、切る時は容赦なく切る男の、冷たい優しさ。
最後に残ったのは、薄っぺらな紙切れと、燃え尽きたみたいな空虚さだけだったはずなのに。
――まだ、こんなものをくれる余地があるのか。
「その情、もっと前に見せてほしかったわ」
わざと棘を含ませて言うと、レギュラスの口元が、わずかに苦く歪む。
「あなたがどうしたいのか、最後まで分かりませんでしたからね」
いつもの淡々とした音色なのに、そこに微かな本音が滲む。
「終わらせたいのか、繋ぎ止めたいのか。
どちらを選んでも、誰かを傷つけるだけだった」
アランの名は出さない。
けれど、二人ともその名前を脳裏に思い浮かべていた。
「あなたが去る決心をしてくれたのは、正直、助かったんですよ」
「酷い言い草ね」
セラは、唇だけで笑う。
「じゃあ、この通行証は何? “助かった”女への餞別?」
「……それも、少しは」
レギュラスは視線を逸らさないまま、静かに答えた。
「あなたは、こちら側と、向こう側の両方に足場を持っている。
関所の締め付けで、それを失わせてしまうのは――僕の決定の副産物とはいえ、やり過ぎだと思っただけです」
「それを“情”って呼ぶのよ」
セラは片眉を上げる。
「もう少し、ロマンチックな言い方をしてもいいと思うけど?」
「僕は法務部の人間ですから」
淡々と返しながらも、レギュラスの瞳にかすかな笑いが浮かぶ。その変化を見逃すほど、セラは鈍くない。
――まだ笑うのね、その顔で。
胸の奥が、ちり、と焼ける。
「……で?」
セラは許可証をきれいに三つ折りにして、胸元のポケットへ滑り込ませた。
「こんな上等なものをくれるってことは、見返りは何もいらないって顔じゃないわよね?」
レギュラスの目が、すっと鋭くなる。
「見返りは要りません」
「ほんとに?」
「ええ」
即答だった。
嘘をつく時のためらいも、打算的な間もない。
「ただ――」
そこで、初めて視線を少しだけ伏せる。
「あなたが、これ以上騎士団と深く関わらなければいいと思っているだけです」
セラの心臓が、一拍だけ大きく跳ねた。
「……何の話?」
「あなたがどういう取引を持ちかけられているか、完全には分かりませんが」
レギュラスは静かに続ける。
「騎士団は、今、僕やアラン、ブラック家そのものを揺さぶるためなら、あらゆる手を使うでしょう。
その駒に、あなたが選ばれている可能性は高い」
セラは、思わず笑ってしまった。
「相変わらずね。本当に、なんでもお見通し」
ジェームズたちとの密談。
“ アランを揺さぶれ”という依頼。
関所の許可証と、息子の学費。
全部、完璧に言い当てられたわけではない。
でも、「駒にされる」という一言で、その構図の輪郭をすべて掴んでいるのが分かる。
「騎士団があなたにどんな条件を示そうと構いませんが」
レギュラスの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「彼女を傷つける方向に動くことだけは、やめてほしいと願っています」
その言葉に、セラの胸のどこかが、ざらりと逆撫でされた。
「やっぱり、そこに戻るのね」
静かに呟く。
「レギュラス。私に情をかけるのも、こうして特別扱いするのも、結局は“あの人を守るため”でしょう?」
レギュラスは何も言わない。
沈黙が、肯定以上に雄弁だった。
「昔からそうだった」
セラは、ゆっくりと首を振る。
「私を抱きながら、どこかで“あの女のことを思ってるんじゃないかしら”って、何度思ったか。
でもあなたは、私を徹底的に甘やかして、徹底的に終わらせた。
きちんと切り捨ててくれたおかげで、私はまだこうして立っていられる」
皮肉と本心が入り混じった言葉を、レギュラスは黙って受け止めていた。
「……それでも、情は情ですよ」
少しだけ、声音が柔らかくなる。
「過去に僕と関わった人間が、僕の決定のせいで生活を完全に奪われるのは、見たくない。
それだけです」
セラは、彼をまっすぐ見上げた。
その瞳には、腹の底でくすぶる黒い炎と、どうしようもない未練の名残が入り混じっている。
――その情を、もっと早く、もっと違う形で欲しかった。
喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込む。
「……ありがとう、レギュラス」
代わりにそう言った。
あえて、素直な礼を選ぶ。
「この許可証は、大事に使わせてもらうわ」
レギュラスは、ふっと息を吐いた。
「それで十分です」
彼は一歩、距離を取る。
それ以上近づきもしないし、触れもしない。
かつて、何度も抱き寄せられた腕は、今はただ法務部の黒いローブの中で静かに揺れているだけだ。
「元気でいてください。セラ」
短い言葉。
それは、かつて別れ際にかけられたものと、よく似ていた。
ただ、その時よりもずっと――
どこかに「終わり」と「これ以上の余地のなさ」をはっきり刻んだ声だった。
セラは、胸元の許可証を指先で軽く叩きながら、笑った。
「ええ。あなたもね、“法務部の偉大な英雄様”」
踵を返し、扉へ向かう。
背中に、彼の視線がかすかに触れた気がした。
部屋を出て、長い廊下に出た瞬間。
セラは、息を吐き出すように小さく笑った。
――騎士団が必死に用意した許可証。
――そしてレギュラスが、何気ない顔で差し出してきた、格違いの通行証。
どちらも、彼女のポケットの中で重なり合っている。
「……情、ね」
セラは呟く。
その“情”を、もっと引き出してみたい――
そんな危険な欲求が、胸の奥で静かに火を噴いた。
アラン・ブラックを揺さぶるための駒として。
レギュラス・ブラックの過去を知る女として。
そして、自分と息子の生き延びる道を手にするための、したたかな女として。
廊下の向こうから聞こえてくるのは、たまに使用人が食器を重ねるかすかな音と、時計の針が刻む規則正しい音だけだ。
応接室の窓辺には、淡い光が差し込んでいた。
レースのカーテンを通った陽の色は少しだけ柔らかくなり、アランの髪と頬の輪郭を、薄く金色に縁取っている。
アランはソファに腰掛けていた。
膝にはブランケットをかけ、指先には杖。
その隣に、背筋をまっすぐに伸ばしたアルタイルが座っている。
「母さん、さっきの続き、聞いてもいいですか」
アルタイルが遠慮がちに問いかけると、アランはわずかに瞬きをしてから、息子を見た。
翡翠色の瞳が、どこか決意を帯びて細く揺れる。
そして、小さく頷いて杖を持つ手を動かした。
白い空間に文字が浮かぶ。
やわらかな光を帯びた文字は、まるで一時だけこの世に現れる小さな霊光のようで――それが消える前に、アルタイルはしっかりと目に刻みつけた。
レギュラスは、とても優しくて。
初めて会った時から、とても親切で――
文字はすぐに淡く消える。
けれどアルタイルには、続きが来るのが分かっていた。
アランの手が、そのまま止まらないからだ。
地下の冷たくて暗い部屋の中で、唯一、星空を見せてくれた人でした。
アルタイルは、思わず息を呑んだ。
母が「地下」と呼ぶ場所のことを、彼は知っている。
記録で読んだことのある「地下牢」。
そこが、母にとってどれほど暗く、どれほど長く、どれほど残酷な場所だったのかも。
アランの視線は、窓の外の空に向く。
けれど、今見ているのは、この屋敷の穏やかな空ではないのだろう。
あの、冷えきった石の天井と、そこに穿たれた小さな穴。
ほんのひと欠片、星の光が差し込むだけの世界。
杖が再び、空気をなぞる。
初めて、レギュラスに外に連れ出してもらった時の――
あの明るい景色は、とても忘れられません。
母の指先が、わずかに震えているのが分かった。
記憶の中の光は、そのぶんだけ強烈だったのだろう。
暗闇に慣れ過ぎた目には、外の世界は眩しすぎたに違いない。
「外」という言葉の重さを、アルタイルは想像する。
石の床から、冷たさから、鎖の音から、汚れた水の匂いから――すべてから引き剝がされて、初めて浴びた風。
その隣にいたのが、他でもない自分の父だったのだ。
母の目尻に、ゆっくりと涙が溜まり始める。
だが、彼女はそれを拭おうとせず、ただ杖を握り直して、また文字を描き出した。
言い争ったこともありました。
頑固なのは私の方で、わがままなのも私なのに、
いつも折れてくれるのは、レギュラスでした。
アルタイルの脳裏に、父の姿が浮かぶ。
法務部で鋭い眼差しで書類を捌き、敵対する者を容赦なく切り捨てる男。
冷酷と恐れられる決断を迷いなく下す男。
そんな父が、「争いになれば必ず折れる側」であるという事実。
その事実が、妙に胸を締めつけた。
アランはふいに笑った。
声は出ないのに、肩がふるりと揺れ、目元にやわらかな皺が寄る。
ステラのことも、アルタイルのことも。
とても可愛がってくれて。
そこまで書いたところで、杖の先が止まった。
手首が、ゆっくりと下がっていく。
文字は途中で途切れ、消えた。
「母さん……?」
アルタイルが呼ぶと、アランは驚いたように瞬きをした。
次の瞬間、堰を切ったように、涙がぽろりと零れ落ちる。
頬を伝った涙は、顎の線を滑り落ち、ブランケットの端に小さなしみをつくった。
アランは慌てているわけでもなく、喉を震わせて声を上げることもない。
ただ静かに、けれど止めどなく、涙だけが流れ続けている。
“泣いている”という事実が、あまりにも静かで、あまりに重かった。
アラン自身も、その涙に驚いているようだった。
杖を握っていた手は力を失い、ぽとりと膝の上に落ちる。
翡翠の瞳がひどくうるみ、細かく揺れた。
――愛されている。
自分は、レギュラスに、間違いなく愛されている。
それを、今こうして息子に語りながら、改めて突きつけられてしまったのだ。
地下の闇から引き上げてくれたこと。
星空を見せてくれたこと。
封印という呪いを負った自分を、それでも妻として迎え、子を授けてくれたこと。
数えきれない折り合いと妥協と犠牲の上に、今ここにある「幸福」が築かれていること。
――なのに、自分は。
この先、いつか、この命を差し出さなければならない側に立っている。
騎士団の正義にとっては、消されるべき存在であり。
闇の帝王の不死を封じるための「要」として、狙われ続ける立場にいる。
分かっている。
頭では理解している。
けれど――今触れられている温もりを、今ここにある日常を、
そんな簡単に手放せるはずがなかった。
それにしがみつこうとする自分の醜さを、アランは骨の髄まで自覚していた。
それでもなお、レギュラスを、子どもたちを、あまりにも深く愛してしまっていることも。
たまらなく愛しい。
たまらなく苦しい。
「母さん……母さん、泣かないでください」
アルタイルが慌てて身を乗り出した。
少し大きくなった手で、どう触れていいか分からないまま、母の肩にそっと置く。
その不器用な優しさに触れ、アランはなおさら涙の止め方を失った。
翡翠の瞳から溢れ続ける涙を、指で拭うこともできない。
ただ、首を横に振り、大丈夫 と言いたげな笑みを無理に形作る。
けれど、その笑みはどうしようもなく歪んでいた。
その時だった。
廊下の向こうから、重い足音が聞こえてきた。
規則正しく響く、靴音。
玄関から続く廊下を進み、この部屋へ近づいてくる。
「……父さんだ」
アルタイルが呟く。
アランはびくりと肩を震わせた。
涙で曇った瞳が、扉の方へ向く。
ドアノブが回る音。
次いで、扉が静かに開かれた。
「ただいま帰りました」
レギュラスの低い声が、いつものように落ち着いた調子で部屋に満ちる。
だが、その瞬間、彼の視線がソファの前で止まった。
濡れた睫毛。
赤くなった目元。
杖を握りしめたまま俯いているアランと、それを支えるように隣に座るアルタイル。
レギュラスの表情が、かすかに変わった。
「……どうしたんです、アラン。アルタイル。何事ですか」
わずかに早くなった歩調で近寄ってくる。
アルタイルは、さっと立ち上がり、父に向き直った。
「何も。昔のことを話していただけです」
アルタイルは簡潔に答えた。
余計な説明を重ねれば、母の涙の理由を掘り返すことになると直感で分かっていたからだ。
レギュラスは、息子をじっと見つめ、それから小さく頷いた。
その視線の奥に、わずかな感謝が浮かんだようにも見えた。
「……そうですか」
それ以上は問わない。
彼はすぐにアランのもとへ歩み寄り、そっと膝を折った。
「部屋に行きましょう、アラン。掴まってください」
伸ばされた腕は、ためらいなくアランの細い体を包み込む。
アランは一瞬だけ戸惑ったように目を伏せたが、次の瞬間には――その腕にしがみついていた。
その動きは、かつて暗い地下牢で、唯一差し伸べられた温かい手を掴んだ少女と、何も変わらない。
レギュラスは、何も言わず、アランの身体を軽々と抱き上げる。
ふわりと持ち上げられた瞬間、アランの視界が揺れ、胸元にレギュラスの首筋が近づいた。
馴染み深い匂いがした。
インクと古い羊皮紙、淡い香油、そして彼自身の体温の匂い。
この屋敷のどの場所よりも、アランにとって「帰る場所」を連想させる香りだった。
抱き抱えられたまま、アランの胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。
書斎で見てしまった真実が、脳裏をよぎる。
自分の封印が、ホークラックスが、世界の行方と絡み合っていること。
そのために、騎士団が自分を狙い続けること。
そして、レギュラスが自分を守りきれるかどうか分からない未来があること。
それでも今、腕の中の温かさは疑いようもなく現実だった。
彼の腕の力強さも、胸板越しに伝わる鼓動も、首筋に沿う血管のかすかな脈動も。
――手放したくない。
醜いと分かっていても、そう思ってしまう。
これほどまでに与えられた温もりを、今さら「仕方がない」の一言で諦められるはずがない。
レギュラスの首に腕を回したアランは、かすかに体を震わせた。
涙の余韻がまだ瞳の奥に残っている。
「アルタイル、後で話しましょう。少しアランを休ませます」
「はい」
息子の返事を背中で受けながら、レギュラスは部屋を後にした。
廊下へ出ると、足音が柔らかい絨毯に吸い込まれていく。
その途中で―― アランは、ふと顔を上げた。
首筋に近い位置。
シャツの襟元から覗く、白い肌。
喉元へと続くあたりに、吸い寄せられるように視線が流れる。
胸の奥から、込み上げてくるものに抗えなくなった。
そっと顔を寄せる。
唇が、レギュラスの首筋に触れる。
軽く押し当てただけの、小さなキス。
音すら立たないほどの、かすかな触れ合い。
レギュラスの足が、一瞬だけ止まった。
驚いたように、腕の中のアランを見下ろす。
アランは瞳を閉じていた。
頬は涙で濡れているのに、その表情はどこか安堵と切なさの入り混じったような、複雑なものだった。
「…… アラン」
名を呼ぶ声が、いつもより少しだけ掠れていた。
レギュラスは、何も問わなかった。
代わりに、抱く腕の力をほんの少しだけ強める。
その温もりに包まれながら、アランは思う。
――この人に愛されている。
――それが、何よりも幸福で、何よりも残酷なこと。
けれど、その残酷さごと、今だけは抱きしめていたかった。
自分がいつか差し出さなければならない命を、自分で忘れてしまいたくなるほどに。
首筋に残った微かなキスの感触と、腕の中の重みを確かめながら、
レギュラスは黙って、寝室への廊下を歩き続けた。
執務室に戻る途中で、レギュラスは一度だけ振り返って廊下の奥を見た。
その先には寝室がある。
扉の向こう、静かに眠る妻の姿を思い浮かべると、胸の奥がじんわりと温かくなり、同時にひどくくすぐったくもあった。
――あの仕草は、反則だ。
腕に抱かれている最中、そっと首筋に触れてきた柔らかな唇。
驚くよりも早く、全身に何か甘い衝撃が走った。
あの翡翠の瞳に泣き濡れた光を宿したまま、震える肩で、それでも自分に縋りついてくるアランの姿が、脳裏から離れない。
ベッドにそっと横たえたあと、レギュラスはしばし迷ってから、結局は同じことを返してしまった。
襟元からのぞく細い首筋に、静かに唇を押し当てる。
彼女が置いていった温度を、なぞるように。
――あなたも、怖がる必要はないのだと。
――ここにいていいのだと。
言葉ではうまく伝えられない慰めを、指先と唇に託すように。
頬を撫で、髪を梳き、額にも唇を落とす頃には、アランの呼吸はゆっくりと整い、規則的な寝息へと変わっていた。
「……全く、卑怯な人です」
ベッド脇でそう小さく呟き、肩をすくめてから、ようやく寝室を後にしたのだった。
応接室に戻ると、アルタイルはさっきと同じ場所――窓際のソファに座っていた。
背筋を伸ばし、膝に置いた両手を固く組んでいる。
窓の外には薄曇りの空と、庭の深い緑。
だが、少年の視線はどこか上の空で、落ち着きなく揺れていた。
「お待たせしました」
レギュラスの声に、アルタイルははっと顔を上げた。
父の姿を確認すると、すぐに立ち上がる。
「父さん。母さんは……どうですか?」
問いかけの声音には、不安が色濃く滲んでいた。
レギュラスは、その色をやわらげるようにふっと微笑む。
「ええ、落ち着きましたよ」
簡潔な答えに、アルタイルの肩から力が抜ける。
安堵の息が、ほとんど音にならないほど小さく漏れた。
レギュラスはソファを指し示し、自分も向かいに腰を下ろした。
父子が向かい合って座ると、窓から射し込む光が二人の横顔を同時に照らす。
何を話していたのか、聞くべきか――一瞬迷いが胸をよぎった。
だが、その迷いは、首筋に残る感触を思い出した瞬間に、わずかに揺らぐ。
アランが、子どもの前では決して見せないような甘え方をしたこと。
そのことがひどく嬉しく、照れ臭く、誇らしくもある自分の感情。
それらを言葉にしてしまうのは、どこか「アランとの秘密」を暴くようで、ためらわれた。
だからレギュラスは、ごく当たり障りのない言葉を選ぶ。
「何を話していたのか……と、聞いてもいいですか?」
逆に先に問うたのは、レギュラスではなくアルタイルだった。
少年の灰色がかった瞳が、まっすぐ父を捉える。
「母さんと、ですか?」
「はい。さっき、母さんが泣いていたから……」
自分が寝室へ向かう前、ソファの上で泣き崩れていたアランの姿が、アルタイルの中にもくっきりと残っているのだろう。
あの涙の理由を、息子なりに知りたがっているのが分かる。
レギュラスは少し考え、それから柔らかく首を傾げた。
「あなたからは、どうでしたか? 聞きたいことは、聞けました?」
問いを返すと、アルタイルは一瞬きょとんとし――すぐに、照れくさそうに笑った。
その笑みはどこかアランに似て、ふんわりと周囲の空気を和らげる。
「はい。母さんは、父さんのことを……」
そこまで言ったところで、言葉が喉の奥でつかえる。
頬にうっすらと赤みが差し、視線が泳いだ。
レギュラスは、息を呑んだ。
嫌な予感ではない。
むしろ、何かを期待するような、くすぐったい予感だった。
「……どう、だと?」
促すように言うと、アルタイルは思い切ったように顔を上げる。
「母さんは、父さんのことが大好きなんだって、分かりました」
その一言は、想像していたよりずっと真正面からで、真正直だった。
レギュラスは思わず噴き出しそうになり、慌てて口元を押さえる。
肩がわずかに震えた。
「……そう、ですか」
声がわずかに掠れている。
息子の前だというのに、顔に熱が上ってくるのが分かった。
もちろん、その内容を逐一詮索するつもりはない。
アランが、自分の知らないところで、どんな言葉を選び、どんな表情で、息子に自分のことを語っていたのか――
それを思うだけで、胸の奥にじわじわと温かいものが満ちてくる。
「楽しそうに、話してくれてたんです」
アルタイルは、静かに続けた。
「父さんが、地下にいた母さんに星空を見せてくれた話とか。
初めて外に出してくれた時の景色のこととか。
それに、喧嘩しても、いつも折れるのは父さんなんだって……」
最後の一言に、レギュラスは目を細めた。
「……それは、少し言いすぎですね」
苦笑混じりにそう返すと、アルタイルもつられて笑う。
「でも、本当なんでしょう?」
「さて、それはどうでしょう」
軽くかわしながらも、レギュラスの胸中には、誤魔化しきれない嬉しさがあった。
アランが、自分との過去を「楽しそうに」語っていたという事実。
決して楽しいだけではなかったはずの年月を、彼女は今、そういう色合いで子どもに伝えようとしてくれている。
――あの頃の自分の選択は、少なくとも彼女の中で「救い」として記憶されているのだろうか。
答えは怖くて聞けないけれど、アルタイルの言葉は、その一端をそっと教えてくれた気がした。
「母さん、途中まで笑っていたんですけど……急に、泣き出して」
アルタイルの表情が、少しだけ曇る。
「僕、何か余計なことを聞いたかなって。
でも、母さん、すごく幸せそうにも見えたんです。
だから、涙の理由が、うまく分からなくて……」
――幸せすぎると、人は泣きたくなるのかもしれません。
さっき、アランを抱きしめながら、ふとよぎった考えが、そのまま言葉になりそうになってレギュラスは飲み込んだ。
息子の前で簡単に口にするには、あまりにも個人的で、あまりにも脆い感情だ。
それに、アランの涙の全てを、自分が分かっているとも限らない。
けれど、少なくとも――その涙が、絶望だけではなかったと信じたい。
愛しさと、恐れと、執着と、罪悪感と。
様々な感情が絡まり合った末に零れたものなのだと。
「あなたが、そばにいてくれて良かったですよ」
レギュラスは、静かに言った。
「昔の話を、あなたにしたいと思えるくらいには、アランは今を大事に思っているのでしょう」
「……今を、ですか?」
「ええ。地下のことも、封印のことも、あの場所の冷たさも。
本来なら、思い出したくもないでしょう。それでも、あなたに父親の話をするということは――」
そこまで言って、レギュラスは言葉を切った。
息子の前で、自分を過剰に美化するつもりはない。
アルタイルはじっと父を見つめている。
「きっと、あなたに『家族の物語』を渡したかったのでしょう。
自分がどこから来て、今どこにいるのか、知っていてほしかったのだと思います」
そう言うレギュラスの声音は、いつもの冷静さよりもわずかに柔らかかった。
アルタイルはゆっくりと頷く。
「……僕、思ったんです」
「何をです?」
「母さんにとっての“外”とか、“星空”とか、“レギュラス・ブラック”っていう名前とか。
全部、きっと特別なんだろうなって。
だから――」
少年は照れくさそうに笑い、けれど真正面から言った。
「やっぱり、母さんは父さんのことが大好きなんだって、そう思いました」
レギュラスはとうとう、堪えきれずに小さく笑った。
肩を震わせながら、困ったように額に手を当てる。
「……そう何度も言わないでください。照れます」
「事実ですよ?」
「ええ、そう願いたいものですね」
息子にからかわれているようでありながら、不思議と悪い気はしない。
むしろ、胸の奥をくすぐる温かさが、じわじわと広がっていく。
アランが、自分の知らないところで、どれほどの気持ちを抱え、自分のことを語っているのか。
その姿を想像するだけで、どうしようもなく愛おしい。
――こんな話を、聞ける日が来るとは。
政治の場では、日々、人の憎しみや恐れと向き合わざるを得ない。
関所の問題も、騎士団との対立も、セシール家の封印も。
どれ一つとして軽くない現実の中で、たった今、目の前にいる息子から告げられたのは、ひどく単純で、ひどくまっすぐな言葉だった。
「母さんは父さんが大好きだ」
その一言は、どんな演説よりも、どんな支持率の数字よりも、レギュラスにとって重かった。
「アルタイル」
「はい」
「……あなたは?」
唐突な問いに、アルタイルが瞬きをする。
「あなたは、アランのことをどう思っていますか」
少し意地悪い問いだったかもしれない。
だが、レギュラスはふと知りたくなったのだ。
妻の「母としての姿」が、息子の瞳にどう映っているのか。
アルタイルは迷うように視線を彷徨わせ、やがて静かに微笑む。
「母さんは……」
一拍、置いて。
「僕にとって“帰る場所”ですね」
その答えに、レギュラスの胸がじん、と熱くなった。
「そうですか」
「はい。
だから、母さんが父さんを好きなの、何となく分かります。
父さんは、母さんの“外”であり“救い”で、“家”なんだろうなって」
少年にしては出来すぎた言葉かもしれない。
けれど、その言葉はアルタイルなりに必死に言語化した実感だった。
レギュラスは、ゆっくりと息を吐く。
視線の端で、窓の外の空が淡く色を変え始めているのが見えた。
――彼女にとって、自分は本当に「救い」だったのか。
――それとも、別の「牢」ではなかったか。
そんな問いは、いつだって胸の底に残っている。
だが今は、アランの涙と、首筋に触れた唇の温度と、息子の言葉を信じてみたいと思えた。
「母さんが父さんの話をしている顔、すごく、幸せそうでした」
アルタイルが、照れくさそうに視線を落とす。
「僕、ちょっと嬉しかったんです。
父さんって、外では怖い人って言われてるじゃないですか。
でも、母さんにとっては、怖い人じゃないんだなって」
「……それはありがたい評価ですね」
レギュラスは、おかしそうに笑った。
怖いと呼ばれることには慣れている。
仕事の場ではむしろ、その評価は必要なのだとすら思っている。
だが―― アランにとってだけは、その限りではないのだと、そう言ってもらえた気がして、胸が少し軽くなる。
「教えてくれてありがとう、アルタイル」
「いえ、僕の方こそ。母さんを落ち着かせてくれて、ありがとうございます」
父子は、ふと目を合わせ、同時に少しだけ照れたように笑った。
屋敷の中の空気は、決して軽くはない。
騎士団の動きも、封印の真実も、これから待ち受ける嵐も、何一つ消えてはいない。
それでも――
アランという一人の女が、自分の知らないところで自分を「好きだ」と語り、それを息子が「嬉しいこと」として受け取っている。
そのささやかな事実が、レギュラスの中で、静かに灯をともす。
彼は立ち上がり、アルタイルの肩に軽く手を置いた。
「もう少ししたら、様子を見に行きましょう。アランも、きっとあなたと続きを話したがるでしょうから」
「はい。……僕も、父さんの話、もっと聞きたいです。母さんから」
「それはそれで、少し怖い気もしますね」
冗談めかして言いながら、レギュラスは微笑んだ。
アランが自分をどう語るのか――怖くもあり、楽しみでもある。
窓の外で、雲の切れ間からわずかに光が差し込んだ。
白い光が、父と息子の影を、柔らかく床に落としている。
その光景は、嵐の前のひとときの穏やかさのようで――
それでも確かに、ここに「家族」という形があるのだと、レギュラスは静かに噛みしめていた。
その夜、裏路地に面した小さな店は、いつもより早く静まり返っていた。
カウンターの上には、洗ったばかりのグラスが逆さに並び、安いランプが黄色く滲んでいる。
通りを行き交う人影も、関所設置以降めっきり減った。マグルの客は来ない。魔法族の男たちも、以前のように気軽に境界線をまたげる時代ではない。
セラ・レヴィントンは、レジの引き出しを乱暴に閉め、細い肩をすくめた。
「今日もこれだけ?」
数枚のガリオンと、情け程度のシックル。
息子の学費、関所の通行証の更新費、家賃、酒代――脳裏で勝手に列を成している支出と見比べると、笑うしかなかった。
その時、店の扉についた小さなベルが、からん、と鳴った。
「悪いね、もう閉めるところでしょ」
軽く乾いた男の声。
セラは苛立ち半分で振り返り――次の瞬間、瞳の奥が細くなる。
カウンターの向こう、入り口に立っていたのは、騎士団の紋章を胸元に付けた男だった。
乱れ気のない黒髪、鋭い目。ジェームズ・ポッター。
その後ろには、複雑そうな表情をしたリーマス・ルーピンも立っている。
「……あら。今夜はお堅いお客さまのご来店?」
セラは、わざとおどけた口調で言った。
腰の後ろでエプロンの紐を解きながら、長い睫毛の影からじっと二人を見据える。
「酒なら余っているけれど。騎士団さんはこういう店には興味がないと思っていたわ」
「今夜は酒じゃない」
ジェームズは一歩、床板を軋ませて進み出る。
その目には、軽口を受け流す余裕も、くだけた笑いもなかった。
――ああ、仕事の顔。
セラは一瞬で悟る。
男が本気で何かを取りに来る時の目だ。それが金であれ、情報であれ、人であれ。
「また、アランブラックの件かしら?」
先に刺してやるように名前を出すと、ジェームズの瞳が一瞬だけ細くなった。
その変化を見逃すほど、セラは鈍くない。
「騎士団が、また私に何の用? 前に来た時も、何も面白い話なんてしてあげられなかったはずだけど」
「前回は“聞きに来た”。今回は“頼みに来た”」
ジェームズはカウンターには寄らず、距離を保ったまま立っていた。
リーマスは少し後ろ、壁際に寄りかかるようにして沈黙している。
「アラン・ブラックを、もう一度こちらに誘き寄せたい」
真っ直ぐな言葉に、セラの眉がぴくりと動いた。
ジェームズは続ける。
「前回の手は失敗した。予想外の介入があったからな。今回は、別の糸口が必要だ」
「……あの屋敷と同化しているような女を、どうやって外に引っ張り出せっていうの?」
セラは鼻で笑った。
アラン・ブラックの姿が脳裏に浮かぶ。
あの女は、まるで屋敷そのものに根を張った古い樹木のように、ブラック家に絡みついている。
夫の隣、子どもたちのそば、使用人たちに囲まれて。
声を持たないその女は、何も語らない代わりに、その場に静かに「居続ける」という方法で、屋敷と同化していた。
「放り出されたら死ぬって分かってる小動物みたいに、あの家から離れないのよ。そんな女をどうやって扉の外に引きずり出せと?」
「そこを考えるのが、君の仕事だ」
ジェームズの視線が、真っ向から突き刺さる。
軽く笑いながらも、一切逸らさない。
セラは、舌打ちしたくなる衝動を喉の奥で飲み込んだ。
「……買い被りね。私はただの場末の女よ。男を引き止めることはあっても、あんな“いい妻”を動かす術なんて持ってない」
「“ただの場末の女”が、ブラック家の当主を何年も縛っていた」
ジェームズの口元に、皮肉な笑みが浮かぶ。
「君はレギュラス・ブラックの“弱点”だった。事実だろう?」
弱点。
その言葉に、胸のどこかが小さく疼いた。
――弱点、だった。
――でも「だった」で終わったのよ。
セラはカウンターの中から出て、ゆっくりと二人の正面に立つ。
店の薄暗い灯りが、彼女の赤い唇と、薄く笑う瞳を照らした。
「だから何? 過去に燃え上がってくれた男がいたからって、今でも同じように燃えてくれるとは限らないでしょう?」
「なにも燃える必要はない」
ジェームズは即答する。
「君が“まだ完全には終わっていないように見せかける”だけでいい。
レギュラス・ブラックが過去に長く関係を持った女が、今もなお彼と繋がっている――そう匂わせればいい」
セラは、目を細めた。
「…… アランに見せつけろってこと?」
「直接でなくていい。噂でも、手紙でも、第三者を経由しても構わない。
とにかく、“妻の知らない夫の顔”を突きつけるんだ。あの女なら動く」
あの屋敷と同化しているような女。
あの妙に清らかぶった、惨めな過去を美談に塗り替えた女。
レギュラスが、最終的に選んだ「妻」。
胸の奥が、じり、と熱くなる。
――そうよね。
――あの女は、絶対に動揺する。
「……で、それで? 私に何の得があるのかしら?」
セラは冷静さを装って問い返す。
ジェームズは懐から封筒を取り出し、カウンターの上に置いた。
「関所の通過書だ。君の名義で発行する。
マグル界、魔法界、どちらにも自由に出入りできる許可証。期限は――特別に長く取ろう」
セラの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
関所。
それはここ最近、彼女の生活をじわじわと締め上げている首輪のようなものだった。
「それから」
ジェームズはもう一枚、今度は小切手を取り出す。
滑らかな紙に記された数字が、ランプの光を受けて白く浮かび上がる。
「一人息子の、学費だ。数年分は出せる額になっている」
セラは、その数字に目を落とし――次の瞬間、ふっと笑った。
「……レギュラス・ブラックが昔、私に送ってきた小切手の半分にも満たない額ね」
自嘲と、どこか誇らしさの混じった声だった。
レギュラスがその昔差し出した小切手。
それは“慰謝料”でもあり、“これ以上踏み込むな”という最後通牒でもあった。
あの白い紙を握りしめて、セラは何度も思ったのだ。
――これで、あの男は本当に終わったのだと。
ジェームズの表情が険しくなる。
「法務部の財力と個人の散財を比べるな。それは君と彼の、別の問題だ」
「そうね」
セラは肩をすくめる。
「でも、いいわ。背に腹はかえられないもの。
関所の締め出しのせいで客も取れなくて、正直、苦労していたのよ」
ここ最近の夜を思い出す。
マグルの常連たちは境界線の向こうに閉じ込められ、魔法族の客たちは、彼女の店に来るよりも安全な娯楽を求めるようになった。
息子の制服はつぎはぎだらけ。靴も底が擦り減っている。
それでも「母親らしい顔」で笑ってやれるだけの余裕を、いったいどこから捻り出せばいいのか。
リーマスが、黙ったままセラを見ていた。
その視線にはあからさまな嫌悪ではなく、滲むような迷いと警戒がある。
「……セラさん。これは危険な取引だ。分かっているはずだろう?」
ようやく口を開いたリーマスに、セラはにんまり笑って見せた。
「危険じゃない夜の仕事なんて、この世にある? リーマスさん」
「そうじゃない。これは――」
「分かってるわよ」
セラは、彼の言葉を遮った。
「アラン・ブラックを餌にして、もっと大きな“何か”を仕留めようとしているんでしょう?
私があの女を揺さぶって、外に出させる。
その後、何が起ころうと、騎士団は『彼女のため』だとか『世界のため』だとか、きれいな言葉を付ければいい」
リーマスは言葉を失う。
ジェームズだけが、その皮肉を真正面から受け止め、眉一つ動かさない。
「あら、図星?」
「俺たちは、ヴォルデモートを倒すために動いている」
ジェームズの声音は固い。
「アラン・ブラックの持つ“封印”が、その鍵になっている可能性がある。
君がそこに関わろうとするなら――これは、君自身の選択だ」
セラは小切手を指先で摘み上げる。
薄い紙は、驚くほど軽い。
それなのに、その数字の持つ重さは、彼女と息子のこれから数年の生活を左右する。
「……かつて燃えるようにはまった男」
ぽつりと、セラは呟いた。
「するりと腕の中からこぼれ落ちるようにして去っていった男。未練がないかと言われれば、嘘になるわ」
レギュラスの背中。
最後に見た横顔。
“もう会えません”と告げられた時の、あまりにも冷静で、あまりにも決定的な声音。
――何一つ、自分には残してくれなかったくせに。
――あの女には、全部、あげた。
「アラン・ブラック」
その名を口にするだけで、舌の奥に苦味が走る。
「私のことなんて、影ほどにも気にしてなさそうな顔をして。
妻の座を守り抜いた女。レギュラス・ブラックの隣を最後まで勝ち取った女」
セラは笑った。
笑いながらも、瞳の奥はまるで凍った湖のように冷たく光っている。
「まったく手打ちできなかった、あの女を。
少しでも揺さぶれるのなら――面白いと思うわ」
ジェームズの目が、わずかに細められた。
リーマスは、苦いものを噛み潰したような顔をする。
「取引は、成立でいい?」
セラは小切手を指で弾き、封筒の上に軽く落とした。
紙が触れ合う乾いた音が、静まり返った店内に響く。
「私があの女を動かしてみせる。その代わりに、通行証と学費。
息子が“まともな学校”で学べるなら、母親として悪くない選択でしょう?」
「……君がそう思うなら」
ジェームズは封筒をセラの方に押しやる。
セラはそれを掴み、エプロンのポケットに乱暴に突っ込んだ。
「ただ、一つだけ。勘違いしないで」
セラは真っ直ぐジェームズを見据える。
「これは、騎士団の理想のためでも、魔法界の平和のためでもない。
もちろん、レギュラスのためでも、アランのためでもない」
「じゃあ、何のためだ?」
ジェームズが問うと、セラは肩をすくめ、赤い唇を少しだけ歪めて笑った。
「私と、私の息子のためよ」
それだけは揺るがない。
かつて、レギュラス・ブラックの腕の中で自分の何もかもを差し出した女は、あの地下牢で哀れな少女を救い上げた妻とは違う。
誰の理想にも、誰の正義にも、二度と自分の人生を預けるつもりはなかった。
ただ一つ――
あの屋敷に、軟禁されたように幸せそうな顔で座るアラン・ブラックの表情が、ほんの少しだけ歪む瞬間を想像するとき。
胸の奥で、黒い愉悦が小さく笑う。
未練と、嫉妬と、意地と、生活のための現実が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って。
「さあ、騎士団さん」
セラは、まるで仕事の注文を受けるような口調で言った。
「どうやって“あの屋敷と同化した女”を引きずり出してほしいのか、細かい段取りを聞かせてちょうだい。
やるからには、ちゃんと面白い舞台にしてもらわないと、割に合わないわ」
ランプの光が、彼女の瞳の奥で妖しく揺れた。
それは、かつてレギュラスが見てしまった火の色に、どこか似ていた。
その日、魔法省のロビーは、いつもより少しだけざわついていた。
天井近くまで伸びる柱の間を、書類を抱えた役人たちが行き交う。暖炉ではフルーパウダーの緑の炎が次々と上がり、誰かが現れては、誰かが消えていく。
そのざわめきの外側を、セラ・レヴィントンは、まるで別世界の客のような顔で歩いていた。
かつて、こんな場所に来る必要などなかった。
男たちが用意してくれた金と部屋と、夜だけが彼女の世界のすべてだった頃から比べると、今いる場所は滑稽なほど「真っ当」に見える。
――騎士団のバカたちがくれた通行証じゃ、足りないのよね。
ローブの内ポケットに入れている騎士団発行の許可証を思い出して、唇の端が少し歪む。
期限付き。制限付き。
検問のたびにちらつかせれば、面倒くさそうに確認される、安っぽい「特例」。
それでも貴重なはずなのに、その上をいくものが、これから自分の手に渡る――そう予感していた。
彼は、待ち合わせ場所に指定した小さな会議室で立っていた。
窓のない部屋。四角いテーブルと、向かい合う椅子が二つ。
黒いローブの襟を正し、書類を数枚まとめてテーブルの端に揃えている。
レギュラス・ブラック。
灯りに照らされた横顔は、昔と変わらない、酷薄なほど整った美しさを湛えていた。
ただ、あの頃よりもさらに「公的」な仮面を貼りつけるのに、慣れてしまった顔だ。
「お久しぶりね」
先に口を開いたのは、セラだった。
わざと軽く、昔と同じ調子で。
レギュラスは、手を止めて振り向く。
灰緑色の瞳が、瞬間だけこちらをまっすぐに射抜き――すぐに、柔らかい光を帯びた。
「久しぶりですね。……髪を切りました?」
セラは、一瞬、息を呑んだ。
まるで、ついこの間会ったばかりの恋人に声をかけるような自然さ。
そして最後に別れた夜の、自分の髪の長さまで、正確に覚えているかのような言い方だった。
「ええ、まあね」
手ぐしで短くなった毛先をすくい上げながら、セラは肩をすくめる。
「元気にしてたのかしら?」
「ええ、それなりに」
レギュラスは、いつもの淡々とした口調で応じる。
「あなたの方は?」
「どうかしらね。生きてはいるわ」
セラは椅子には座らず、背もたれに片手を置いたまま、彼を見下ろすような姿勢をとる。
距離を詰めすぎない。
かといって、離れもしない。
昔、彼の前で覚え込んだ「この男が一番よく喋る距離感」は、身体がまだ忘れていなかった。
レギュラスは、彼女を一瞬だけ静かに見つめ、それから「ああ」と小さく思い出したように声を漏らした。
「そういえば――」
内ポケットに手を入れ、一枚の封筒を取り出す。
厚手の羊皮紙。封の部分には、魔法省と法務部の紋章が重ねて押されている。
「これを、お渡ししたかった」
彼はそれを、テーブル越しではなく、わざわざセラの近くまで歩み寄って差し出した。
セラは、細い指で封筒を受け取り、手触りを確かめる。
角をなぞり、丁寧に封を切った。
中から現れたのは、一枚の許可証だった。
魔法界とマグル界を隔てる、あの新しい関所。
そのすべてを「関係なくする」かのような文言が、そこには並んでいた。
――所持者セラ・レヴィントン。
――境界関所、無期限通行許可。
――更新不要。再審査不要。
――魔法省法務部の裁量において、特別に認可する。
小さく、しかし揺るぎない黒い文字の羅列。
少し前に騎士団が歯を食いしばって用意した許可証とは、あまりにも格が違った。
「……随分、大盤振る舞いじゃない」
思わず漏れた声には、皮肉と本音が混じっていた。
「関所の決定は、畳み掛けるように進めましたからね」
レギュラスは、事務的に説明する。
「あなたのように、マグル界と魔法界の両方で暮らしの基盤を持っている方には、不便な思いをさせている気がして」
その「気がして」という曖昧な言い回しに、セラは笑いそうになった。
不便どころではない。
ここしばらく、彼女の生活は文字通り締め上げられていた。
騎士団の許可証でなんとか往来していたが、それは常に期限と制限がつきまとい、検問の視線に晒されるものだ。
「これは魔法省法務部の権限で、更新は不要としています。
今後も、自由に使っていただいて構いません」
さらりと言う。
――騎士団が必死に用意した許可証を、あざ笑うような一枚。
胸の奥で、黒い笑いがふつふつと湧き上がる。
「あら、助かるわ」
セラは許可証をひらひらと揺らして見せる。
「でも、どうして? 自ら終わらせた女に、ここまでしてくれるのかしら」
“終わらせた”――
その言葉に、レギュラスの睫毛が一度だけ震えた。
最後に会った夜。
冷たく告げられた別れの言葉。
小切手と、鍵の返却と、これ以上の関係は望めないという静かな宣告。
それでもなお、彼は今、自分に「特別扱い」を与えている。
「……情ですね」
少しだけ間を置いて、レギュラスは言った。
セラは、その一言に吹き出しそうになった。
「情、ねぇ」
喉の奥で、小さな笑いが転がる。
かつて、彼の腕の中で感じた熱。
くれるものはくれて、切る時は容赦なく切る男の、冷たい優しさ。
最後に残ったのは、薄っぺらな紙切れと、燃え尽きたみたいな空虚さだけだったはずなのに。
――まだ、こんなものをくれる余地があるのか。
「その情、もっと前に見せてほしかったわ」
わざと棘を含ませて言うと、レギュラスの口元が、わずかに苦く歪む。
「あなたがどうしたいのか、最後まで分かりませんでしたからね」
いつもの淡々とした音色なのに、そこに微かな本音が滲む。
「終わらせたいのか、繋ぎ止めたいのか。
どちらを選んでも、誰かを傷つけるだけだった」
アランの名は出さない。
けれど、二人ともその名前を脳裏に思い浮かべていた。
「あなたが去る決心をしてくれたのは、正直、助かったんですよ」
「酷い言い草ね」
セラは、唇だけで笑う。
「じゃあ、この通行証は何? “助かった”女への餞別?」
「……それも、少しは」
レギュラスは視線を逸らさないまま、静かに答えた。
「あなたは、こちら側と、向こう側の両方に足場を持っている。
関所の締め付けで、それを失わせてしまうのは――僕の決定の副産物とはいえ、やり過ぎだと思っただけです」
「それを“情”って呼ぶのよ」
セラは片眉を上げる。
「もう少し、ロマンチックな言い方をしてもいいと思うけど?」
「僕は法務部の人間ですから」
淡々と返しながらも、レギュラスの瞳にかすかな笑いが浮かぶ。その変化を見逃すほど、セラは鈍くない。
――まだ笑うのね、その顔で。
胸の奥が、ちり、と焼ける。
「……で?」
セラは許可証をきれいに三つ折りにして、胸元のポケットへ滑り込ませた。
「こんな上等なものをくれるってことは、見返りは何もいらないって顔じゃないわよね?」
レギュラスの目が、すっと鋭くなる。
「見返りは要りません」
「ほんとに?」
「ええ」
即答だった。
嘘をつく時のためらいも、打算的な間もない。
「ただ――」
そこで、初めて視線を少しだけ伏せる。
「あなたが、これ以上騎士団と深く関わらなければいいと思っているだけです」
セラの心臓が、一拍だけ大きく跳ねた。
「……何の話?」
「あなたがどういう取引を持ちかけられているか、完全には分かりませんが」
レギュラスは静かに続ける。
「騎士団は、今、僕やアラン、ブラック家そのものを揺さぶるためなら、あらゆる手を使うでしょう。
その駒に、あなたが選ばれている可能性は高い」
セラは、思わず笑ってしまった。
「相変わらずね。本当に、なんでもお見通し」
ジェームズたちとの密談。
“ アランを揺さぶれ”という依頼。
関所の許可証と、息子の学費。
全部、完璧に言い当てられたわけではない。
でも、「駒にされる」という一言で、その構図の輪郭をすべて掴んでいるのが分かる。
「騎士団があなたにどんな条件を示そうと構いませんが」
レギュラスの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「彼女を傷つける方向に動くことだけは、やめてほしいと願っています」
その言葉に、セラの胸のどこかが、ざらりと逆撫でされた。
「やっぱり、そこに戻るのね」
静かに呟く。
「レギュラス。私に情をかけるのも、こうして特別扱いするのも、結局は“あの人を守るため”でしょう?」
レギュラスは何も言わない。
沈黙が、肯定以上に雄弁だった。
「昔からそうだった」
セラは、ゆっくりと首を振る。
「私を抱きながら、どこかで“あの女のことを思ってるんじゃないかしら”って、何度思ったか。
でもあなたは、私を徹底的に甘やかして、徹底的に終わらせた。
きちんと切り捨ててくれたおかげで、私はまだこうして立っていられる」
皮肉と本心が入り混じった言葉を、レギュラスは黙って受け止めていた。
「……それでも、情は情ですよ」
少しだけ、声音が柔らかくなる。
「過去に僕と関わった人間が、僕の決定のせいで生活を完全に奪われるのは、見たくない。
それだけです」
セラは、彼をまっすぐ見上げた。
その瞳には、腹の底でくすぶる黒い炎と、どうしようもない未練の名残が入り混じっている。
――その情を、もっと早く、もっと違う形で欲しかった。
喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込む。
「……ありがとう、レギュラス」
代わりにそう言った。
あえて、素直な礼を選ぶ。
「この許可証は、大事に使わせてもらうわ」
レギュラスは、ふっと息を吐いた。
「それで十分です」
彼は一歩、距離を取る。
それ以上近づきもしないし、触れもしない。
かつて、何度も抱き寄せられた腕は、今はただ法務部の黒いローブの中で静かに揺れているだけだ。
「元気でいてください。セラ」
短い言葉。
それは、かつて別れ際にかけられたものと、よく似ていた。
ただ、その時よりもずっと――
どこかに「終わり」と「これ以上の余地のなさ」をはっきり刻んだ声だった。
セラは、胸元の許可証を指先で軽く叩きながら、笑った。
「ええ。あなたもね、“法務部の偉大な英雄様”」
踵を返し、扉へ向かう。
背中に、彼の視線がかすかに触れた気がした。
部屋を出て、長い廊下に出た瞬間。
セラは、息を吐き出すように小さく笑った。
――騎士団が必死に用意した許可証。
――そしてレギュラスが、何気ない顔で差し出してきた、格違いの通行証。
どちらも、彼女のポケットの中で重なり合っている。
「……情、ね」
セラは呟く。
その“情”を、もっと引き出してみたい――
そんな危険な欲求が、胸の奥で静かに火を噴いた。
アラン・ブラックを揺さぶるための駒として。
レギュラス・ブラックの過去を知る女として。
そして、自分と息子の生き延びる道を手にするための、したたかな女として。
