3章
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夜の寝室は、灯りを落としたランプの淡い光に包まれていた。
厚手のカーテンの向こうには闇が広がり、窓ガラスに映るのは、寄り添う二人の揺らいだ影だけだ。
レギュラスの手が、いつものように慎重にアランの身体に触れていた。
熱を確かめるように、痛みを探るように、細心の注意を払った手つきで。
アランはその優しさに応えるように、そっと彼のシャツの胸元を掴んだ――次の瞬間、胸の奥で何かが決壊した。
頬を伝うものに、自分で気づいたときにはもう遅かった。
ひと筋、ふた筋と静かに流れ出た涙が、枕を濡らしていく。
――この人の前から、いつか自分は消えなければならない。
世界の秤がそう告げるのなら、封印の血を持つ自分は、その皿の上に乗せられるのだろう。
その未来を知ってしまったせいで、今ここにあるレギュラスの体温が、どうしようもなく愛しく、恐ろしく思えた。
この腕を、離したくない。
この声を、もう二度と聞けなくなる世界を想像するだけで、息が詰まりそうになる。
ぽたり、と涙がレギュラスの手の甲に落ちた。
「…… アラン?」
彼の低い声が、驚きと戸惑いを含んでかすかに震える。
レギュラスは動きをふと止め、アランの顔を覗き込んだ。
翡翠の瞳に光る涙を見て、彼の表情から、一瞬にして熱が引いていく。
「どうしたんです、何があったんです」
いつもの冷静さを保とうとする声色なのに、その奥底に焦りが滲んでいた。
アランは慌てて首を振る。
やめないでください、と言いたかった。
今だけは、この腕の中にいさせてほしい。何も考えず、ただ、妻として抱きしめられていたかった。
けれど声は持たない。
涙は止まらない。
震える肩すら、自分ではうまく制御できなかった。
レギュラスは一つ、深く息をついた。
そして、そっと彼女から体を離した。
「……やめます」
短く告げると、彼は脱がしかけていたナイトドレスの裾を静かに整え始めた。
滑り落ちかけていた薄い布を、元通りアランの脚元まで丁寧に引き下ろし、肩からこぼれていたレースの紐を掛け直す。
解いてしまったリボンも、指先で不器用に結びながら、ほどけないよう確かめるように結び目を撫でた。
アランは、ぶんぶんと首を振る。
――大丈夫です。続けてくれて。
そう伝えたくて、ベッド脇の小さなテーブルに置いてある杖に手を伸ばそうとしたが、視界が涙で滲んでよく見えない。
指先が空を掴む。
レギュラスはその手をそっと押さえた。
細い手首を包み込むように掴み、引き寄せる。
「大丈夫ではないでしょう」
穏やかな、けれど譲るつもりのない声だった。
レギュラスは上体を起こし、ベッドから一度立ち上がる。
寝間着の裾を整えると、再びベッドの端に腰をおろし、アランの傍らに座り込んだ。
「今日は……ゆっくり寝ましょう」
その言葉の柔らかさに、アランの胸がさらに締め付けられる。
拒まれたのではない。
責められたわけでもない。
彼は、自分の欲よりも、アランの涙を最優先にしてくれたのだ。
その当たり前のようで当たり前ではない優しさが、痛いほど沁みた。
アランは、かぶりを振り続けた。
行かないで と叫びたかった。
このまま何事もなかったかのように眠りについてしまえば、いつか本当にこの温もりから遠ざかってしまう気がして。
――今夜くらい、わがままを言えばよかったのに。
心のどこかで、自分を責める声がする。
レギュラスは、そんな彼女の胸中を知らないまま、ふう、と小さく息を吐いた。
そして、そっとアランの肩を抱き寄せる。
力強くではなく、壊れものを扱うような、ごくごく慎重な抱擁だった。
「大丈夫です、アラン」
耳元に落とされた声が、驚くほど静かだった。
低く、深く、胸の奥に染みこんでいく。
「何も怖いものはありません」
彼の手のひらが、アランの背中をゆっくり撫でる。
肩甲骨のあたりを、小さな円を描くように優しくさすり、固く強張った筋肉をほぐすように。
アランは、堪えきれずにレギュラスの胸元に顔を埋めた。
涙がシャツを濡らしてしまうのが分かっていても、もう抑えきれない。
レギュラスの心臓の鼓動が、耳元で規則正しく響いている。
その安定したリズムが、ひどく愛おしかった。
「……何があったんです?」
しばらくして、レギュラスがもう一度尋ねた。
だが、その問いには執拗さも詰問もない。
ただ、痛みに触れたいけれど、無理には踏み込まないという、ぎりぎりの距離感があった。
アランは、そっと首を振る。
理由を告げれば、彼はさらに重いものを背負う。
世界と家族の間で、今以上に切り裂かれてしまう。
その未来が怖かった。
だから、言えない。
言わないでいることさえ、罪だと分かっていても。
レギュラスは、それ以上問い詰めなかった。
代わりに、アランの髪を撫でる。
地下牢で初めて見たときには、伸び放題で絡まっていた黒髪。
今は丁寧に梳かれ、柔らかな波を描いて肩に落ちている。
指先に絡む髪を、ゆっくりと解きながら、レギュラスは目を閉じた。
彼にとっても、この涙は怖かった。
――また、自分が傷つけたのだろうか。
――何か、見えないところで彼女を追い詰めてはいないだろうか。
かつて、セラとの関係に逃げた夜のことがふと脳裏をかすめる。
責められるより先に、逃げ道を選んだ自分。
欲望と現実逃避をごちゃまぜにして、一時の快楽に沈み込もうとした自分。
今、胸に抱いているのは、そのすべてから逃げずに選び取った女だ。
地下から救い上げ、妻として迎え、子をもうけた女。
どんなに罪を抱えていても、その隣に立ち続けると決めた相手。
その彼女が、自分の腕の中で泣いている。
「アラン」
名前を呼ぶ声が、かすかに掠れる。
彼は彼女の肩に顎を乗せるようにして、抱きしめる力をほんの少しだけ強くした。
「泣かないでください。……と言っても、今は無理でしょうけど」
苦い冗談のような言葉に、アランの喉からくぐもった息が漏れる。
泣き声をあげることすらできない彼女の代わりに、震える呼吸だけが、彼の胸元にぶつかって弾んだ。
「泣いているあなたを見ると、どうしようもなく、あの頃を思い出すんです」
レギュラスの視線が、過去の闇を辿る。
冷たい石畳に横たわっていた少女。
声なき嗚咽。
痩せこけた肩。
それでも、翡翠の瞳だけは、驚くほど強い光を宿していた。
「だから……本当は、一生泣かせないで済むようにしたかったんですけどね」
小さく笑った。
自嘲とも諦めともつかない声だった。
「うまくいかないものですね」
アランは、胸元に埋めた顔のまま、首を横に振る。
――あなたのせいじゃない、と伝えたかった。
――あなたは、いつも私を守ろうとしてくれている、と。
けれど、杖は遠い。
言葉は喉にない。
届くのは、止まらない涙と、しがみつく腕だけだ。
レギュラスは、その細い腕にそっと手を添えた。
離さなくていい、と言うように、指先で優しく押し返す。
「今夜は……何も考えなくていいです」
彼の声が、ひどく静かに、けれど確固としていた。
「騎士団のことも、法務部のことも、マグルのことも、境界線のことも。全部、僕が勝手に考えて、勝手に苦しんでいきますから」
それは冗談めかした言い方なのに、どこまでも本気の宣言だった。
アランは、胸が痛くなるほど切ない気持ちで、彼のシャツをぎゅっと掴んだ。
――あなたを一人で苦しませたくない。
そう叫びたいのに、声がない。
その代わりに、指先に力を込める。
どうか、ここにいますと。
あなたの隣から、簡単には消えませんと。
せめてその意志だけでも、伝わってほしいと願いながら。
「大丈夫です、アラン」
もう一度、レギュラスは囁いた。
まるで、何度でも同じ言葉を重ねれば、本当にそうなると信じているかのように。
「ここは、あなたの家です。あなたの居場所です。誰も奪わせません」
封印のことも、ホークラックスのことも、子供たちが狙われるかもしれない未来も。
すべてを知っているからこそ、その言葉には震えるほどの無茶さと、決死の覚悟が滲んでいた。
アランの涙は、なおも止まらなかった。
けれど、その涙の色はほんの少しだけ変わっていく。
絶望だけではなく、愛しさと恐れと、どうしようもないほどの感謝が入り混じった、複雑な色に。
やがて、レギュラスはランプの灯りを少しだけ落とした。
部屋は一層暗くなり、互いの輪郭だけが近く、はっきりと浮かび上がる。
彼はアランをベッドの中央にそっと横たえ、自分も傍らに身を沈めた。
腕を枕代わりに差し出し、その中に彼女を抱き込む。
「眠れるまで、こうしています」
彼はそう言って、ただ抱きしめることに徹した。
求めるための腕ではなく、守るための腕として。
欲を満たすためではなく、心を支えるためだけに。
アランは、ようやく少しだけ呼吸を整えながら、彼の胸元に顔を預ける。
涙に濡れたまつ毛が、彼のシャツをかすかに撫でた。
――この腕を、いつか自分の方から手放さなければならない日が来るのだとしても。
今夜だけは、ただの妻でいたかった。
封印でも、鍵でも、世界の秤に乗せられる存在でもなく。
レギュラス・ブラックという一人の男に、愛され、守られている女として。
そのささやかな願いを胸の奥に隠しながら、アランは彼の鼓動を数え続けた。
レギュラスは最後まで何も求めず、ただ黙って彼女の髪を撫で、背中をさすり続けた。
夜は、静かに更けていった。
互いの罪と未来の重さを抱えたまま、それでも寄り添おうとする二人の上に、やわらかな闇が降り積もっていく。
法務部の執務室に、乾いたノックの音が響いた。
書類の山と、冷えたインクの匂いに満ちた空間。
窓の外では冬の曇天が鈍い光を落とし、魔法省の高い塔の影が、遠く街並みに長く伸びていた。
「レギュラス」
バーテミウスが音もなく入ってくる。
手には、重ねられた数枚の書類──それは、今や魔法界全体が待ち望んでいた報告だった。
「ついに、完成ですよ」
淡く興奮を含んだ声で、バーテミウスは書類を机の上に滑らせる。
レギュラスはペンを置き、静かに視線を落とした。
書類の最上部には、認可申請書の見慣れた形式が並び、その下に記された名。
魔力無効化ポーションへの対抗魔法薬・試験第七号
――効果:対象者の魔力回復および耐性付与。
――副作用:軽度の倦怠感、一定時間の魔力酔い。致死率、ほぼゼロ。
読み慣れた術式の言葉が、整然と並んでいる。
何度も目を通してきた文面だ。けれど「完成」という確定的な言葉を伴って目の前に差し出されるのは、これが初めてだった。
「ええ」
レギュラスは小さく頷いた。
ペンではなく、認め印を手に取る。
「認可を下ろしましょう。これで、本件に関しての騒動は……ひとまず収められます」
「“ひとまず”ですか?」
バーテミウスが片眉を上げて笑う。
「むしろ、早期に対処した方でしょうね。あれほどの恐怖を煽った薬に、これだけ速やかに対抗策を提示できた。法務部の威信は、むしろ高まる一方ですよ」
朱肉を蓋から外すと、赤い色がふわりと立ち上る。
レギュラスはためらいなく判を押した。
魔法省法務部 レギュラス・ブラック の印章が、鮮やかに書面に浮かび上がる。
ぱちん、と小さな音を立てて朱肉の蓋を閉じると、レギュラスは視線を上げた。
「……治験に回したデスイーターたちは、どうなりました?」
わざと、事務的な口調を心がけた。
バーテミウスは、まるで午後の天気でも告げるかのような軽さで答える。
「ああ、全員死にましたよ」
一瞬、室内の空気がぴんと張り詰めた。
だが、レギュラスの表情は微動だにしなかった。
「そうですか」
短く返してから、唇の端をわずかに持ち上げる。
「いいですね」
それは、祝福でも嘲笑でもなかった。
ただ、筋書き通りだと確認するような、冷静な了承だった。
――あの男たちに与えられた最後の役割としては、むしろ出来過ぎている。
アランの肉体と尊厳を踏みにじった者たちが、その身体を魔法界の未来のために差し出して死んだ。
皮肉と因果が絡み合った結末に、情けをかける余地はない。
バーテミウスは、満足げに息を吐いた。
「例の噂も、これで薄れていくでしょう。治験などという根も葉もない誹謗中傷は、対抗薬完成のニュースで塗りつぶされますよ」
「根も葉もない……ね」
レギュラスは、わずかに視線を伏せた。
自嘲にも似た薄い笑みが、ほんの一瞬だけ唇をかすめる。
――根も葉もない、とは言えない部分があるのを知っているのは、自分とごくわずかな者たちだけだ。
「世論は、結果しか見ません」
バーテミウスは続ける。
「マグルは恐ろしい薬を作り出した。法務部はそれに対抗した。
そのために、どれほどの過程があり、どれだけの犠牲が出たかなど、細かく気にする者はいない」
「……そうですね」
レギュラスは椅子の背にもたれかかり、軽く目を閉じた。
バーテミウスの言うとおりだ。
世論は「誰が守ったか」と「今、自分が安全か」だけを見つめる。
その背後でどれだけの血が流れ、どれだけの倫理が削り取られたかを、わざわざ覗き込もうとする者は稀だ。
「他に急ぎの報告は?」
「今のところはこれが一番大きな案件ですね。関所周辺の動きも、騎士団がなんとか形だけは保っているようです」
「分かりました。対抗薬の承認については、広報と連携を。文言は『魔法界の安全を取り戻す第一歩』あたりを前面に出しておきましょう」
「了解です」
バーテミウスは軽い会釈とともに退室した。
扉が静かに閉じられる。
執務室は再び、レギュラスと書類と時計の音だけの世界に戻る。
壁掛け時計の針が、規則正しく時を刻む。
そのリズムは、まるで「一つの問題は解決した」と告げるかのように淡々としている。
一つ、問題は片づいた。
マグルの作り出した恐ろしい薬に対抗する魔法薬は完成した。
騒動は沈静化に向かう。
法務部の立場は揺るがないどころか、さらに強固になるだろう。
――それでも。
レギュラスは、ゆっくりと目を開けた。
視界の端に、昨夜のアランの涙が、幻のようによみがえる。
震える肩。
声も上げられず、ただ溢れて止まらなかった涙。
「続けてほしい」と訴えようとしながら、それすらも言葉にできずに首を振り続けていた手。
本来、解決したかったものは、いまだ手付かずのままだ。
彼はペンを指先で弄びながら、机の上の何も書かれていない紙を見下ろした。
真っ白な紙面は、問いだけを突きつけてくる。
――本当に、方法はないのだろうか。
闇の帝王のホークラックスを封印した、というだけで。
アランも、ステラも、アルタイルも、世界から「排除すべき存在」に分類される。
騎士団からすれば、それは理屈の通った正義だ。
ヴォルデモートを殺すには、魂の破片を封じた器を破壊しなければならない。
その器に、セシール家の封印の血が関わっているのなら――その血ごと消す、という発想は「正義」にさえ見えるだろう。
ペン先が、紙の上に軽く触れる。
考えが、知らず知らずのうちに文字となって溢れ出ていた。
――セシール家の血を守りつつ、封印を解き、闇の帝王を消し去る方法。
文字を見た瞬間、レギュラスは苦く笑った。
任務として書くには、あまりにも矛盾だらけで、身勝手な願いに過ぎない。
――わかっている。
ヴォルデモートは「純血主義」の旗を掲げているようで、実のところ、その思想の中心は魔法界ではなく「自分自身の不死」に置いている。
純血だの、血統だのは、そのための仰々しい装飾にすぎない。
あの男のもとからアランを救い出したとき、レギュラスが交わした条件。
それは、セシール家の血を絶やさぬことだった。
封印を強固にしたい――それが、あの男の望みだった。
自分の魂を守るために、もっとも強靭な鍵が欲しかった。
セシール家の封印の力は、そのための最上の道具だった。
その望みに乗ったのは、他でもないレギュラス自身だ。
――あの時、自分は賭けたのだ。
アランを救い出すための、唯一の手段として。
セシール家の血を、「ヴォルデモートの求める封印」として差し出した。
取引は成功した。
アランは地下牢から出された。
セシール家の血を継ぐ子が生まれた。ステラ。そしてアルタイル。
約束は、果たされた。
だが問題は、そこで終わらない。
セシール家の血が継がれていくほどに、封印されたものの力も強固になる。
それはヴォルデモートにとっての「保険」であり、騎士団にとっての「障壁」であり、そしてレギュラスにとっての「呪い」だった。
アランと子供たちの命以外で。
どうにか、あの封印を解き、闇の帝王を消し去る方法はないのか。
ペン先が紙面の上を彷徨う。
論理と感情が、頭の中でぶつかり合う。
封印を解く方法を探るということは、同時にヴォルデモートの魂へと繋がる道を探ることでもある。
それは、誰よりも闇の帝王に近づくという意味だ。
――騎士団にその鍵を渡せば、あの連中は躊躇なくアランたちの命を奪っていくだろう。
正義という名の刃は、躊躇を知らない。
そこで血を流す者を「必要な犠牲」と言い換えるだけの冷たさを、彼らもまた持っている。
では、自分でやるのか。
法務部の権限と、闇の帝王の信任を武器に、誰にも知られずに封印の仕組みに到達し、ヴォルデモートを葬るのか。
簡単にできるはずがない。
セシール家の封印は、単なる封印魔法ではない。
血筋と寿命と、家系の歴史そのものを巻き込んだ「呪い」に近い。
最初にその術式を聞かされたとき、レギュラスはぞっとした。
人一人の人生どころか、子や孫、さらにその先の世代にまで、特定の使命と枷を背負わせる魔法。
それは、魔法の名を借りた、ほとんど呪詛だった。
アランは、その意味を知らないまま封印を施された。
地下牢で、まだ少女と呼ぶべき年齢で。
恐怖と痛みの中で、自分が何のために使われているのかも知らずに。
「……」
レギュラスは額に手を当て、目を閉じた。
昨夜、涙を流しながらも、自分の胸元に縋りついてきたアランの重みが、腕の中に生々しく蘇る。
――あの腕を、世界のために切り落とせと言われたら。
――あの瞳を、魔法界の未来のために閉じさせろと言われたら。
その問いを最後まで思考する前に、全身が拒絶反応を起こす。
不可能だ。
たとえ世界がどうなろうとも、自分は受け入れない。
どれほど理屈を並べられても、どれほど正義を主張されても、あの女と子供たちを代価にする未来だけは、認めることができない。
その我儘は、法務部長官としては致命的な欠陥かもしれない。
だが、一人の男として、一人の夫として、一人の父として――それを譲れば、自分は自分でなくなる。
「……本当に、他に方法はないのか」
己に問いかけるように、ぽつりと呟いた。
壁にかかった黒いローブや、整然と並んだ書棚は、何も答えはしない。
ただ、沈黙だけが返ってくる。
書類の端に、レギュラスは小さくメモを書き付けた。
セシール家の封印術式の再解析
ホークラックスの構造的弱点
封印保持者の生命に依存しない破壊法の模索
それは公式な指示書ではなく、ただ自分のために書いたメモにすぎない。
誰にも見せるつもりのない、わがままな望みの走り書きだ。
ペンを置いた指先が、わずかに震えていることに気づき、レギュラスは自嘲気味に笑った。
――政治の問題なら、いくらでも策を講じられる。
世論操作も、法の運用も、敵対勢力の封じ込めも、何度だってやってきた。
だが、世界の均衡そのものに逆らおうとするとき、自分の持つカードはあまりにも少ない。
それでも。
昨夜、涙に濡れた瞳で、必死に自分のシャツを掴んでいたアランの手。
自分の代わりに杖を振り、セシール家の血を受け継いで戦ったステラの背中。
何も知らないまま笑ってくれるアルタイルの無邪気な顔。
その全部を守るためなら、どんな無理な賭けにも手を伸ばすと決めていた。
机の上に、アランがいつか選んでくれた緑のネクタイが畳まれて置かれている。
今朝、彼女がいつものように手早く結んでくれたものを、ふと外してここに置いたのだ。
翡翠色の布地が、ランプの光を淡く反射する。
彼はそれにそっと指先を触れた。
「……あなたを、封印の器としてではなく、ただの妻として守る方法を」
誰にも届かないほど小さな声で、レギュラスは呟いた。
「必ず見つけますよ、アラン」
その約束が、どれほど無謀なものであろうとも。
ホークラックスの呪いが、どれほど理不尽な構造を持っていようとも。
魔法省法務部長官としてではなく、
一人の男として――レギュラス・ブラックの、最も我儘で、譲れない戦いが、静かに始まりつつあった。
アルタイルは、ときどき思う。
母は、自分たちに「早く大人になってしまわないで」と願っているのではないか、と。
ステラは、その願いとは真逆の方向へ歩いていく。
背筋を伸ばし、冷たい瞳で世界を測るように見つめ、誰の手も借りずに立とうとしている。
それはそれで、姉なりの強さなのだと頭では分かっている。けれど――。
だからこそ、自分だけは。
母が望むように、そばでにこやかに笑う「息子」でいたかった。
広い応接間に、柔らかな午後の光が差し込んでいる。
厚手のカーテンが風にふわりと揺れて、窓辺に置かれた花瓶の白い花びらが、光を含んで透けるように見えた。
ソファには淡い緑のクッションがいくつも並べられ、そのうちのひとつに、母が細い背を預けて座っている。
アランは、いつものように刺繍途中のハンカチを膝に乗せていた。
翡翠色の刺繍糸で、細かな蔦模様を描いている。
指先は細く、動きはゆるやかで、けれど一つ一つの針目は驚くほど正確だった。
アルタイルは、その横に腰を下ろす。
わざと母に近づきすぎない距離――けれど、手を伸ばせばいつでも触れられる距離。
その絶妙な間合いを、彼は無意識のうちに覚えていた。
「母さん、ボグワーツで父さんのクィディッチの優勝カップが飾られてたんです」
アルタイルがそう言った瞬間、アランの瞳がぱっと見開かれた。
翡翠色の光が、灯りを増すように明るくなる。
声を持たない母は、その代わりに瞳で、息子の言葉を何度でも確かめるように見つめてくる。
どういうふうに? どんな場所に? 誰か何か言っていた?――そんな問いを、翡翠の奥がにこにこと投げかけてくるのが分かった。
アルタイルは、少し照れくさくなりながらも続ける。
「トロフィーケースがあるでしょう、寮の近くの。あそこに、父さんの名前が刻まれたカップがありました。
“レギュラス・ブラック、スリザリン寮主将”って。
すごく誇らしげに並んでましたよ。上の学年の連中も、あれを見るときだけは真面目な顔してて」
アランの唇が、かすかに笑みの形を取る。
針を持っていた手が止まり、ハンカチを膝の上にそっと置いた。
細い指が、ソファの縁をたどるように動き、それからそっとアルタイルの袖口を摘まむ。
――もっと聞かせて、と言うように。
アルタイルは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じながら、身振りを交えて話を膨らませていった。
「先生たちも、たまに話題に出します。
“昔、空を切り裂くように飛んだシーカーがいてな”とか。
“スリザリンのブラックは、本当に恐ろしい飛び方をした”とか。
名前までははっきり言わないけど、みんな顔を見合わせて、“ああ、父さんだろうな”って分かるんです」
母は、肩を震わせるように笑った。
声はないのに、笑っていることが、痛いほど伝わってくる。
アルタイルは知っている。
母がどれだけ父を想っているか。
そして、どれだけ父の名が誇らしく語られることを喜ぶか。
幼いころから、こっそり調べてきた。
図書室の古い新聞、当時の試合記録、名前だけが載った年表。
――そこにあったのは、いつも「レギュラス・ブラック」という名と、その勝利の軌跡だった。
そして同時に、彼は知っている。
母が歩んできた、あまりにも残酷な時間のことを。
悲惨なセシール家の末路。
封印の力を恐れたマグルに、一夜にして滅ぼされた家。
闇の帝王に囚われ、冷たい石の牢で、声を奪われた年月。
アランの血と魔力と身体が、ただの道具として扱われていた日々を――アルタイルは、本を通して、記録を通して、痛いほど知ってしまった。
だからこそ思う。
ようやく辿り着いた今の「普通の幸福」を、母が誰よりも手放しがたく思うのは、当然だ、と。
――これ以上、あの人の手から、何かがこぼれ落ちるところを見たくない。
そう思えば思うほど、アルタイルは自分の役割を理解していった。
姉は、前だけを見て歩いていく。
ステラは自分で自分を守ろうとし、その強さがときに棘のように周囲を刺す。
母が差し出そうとした腕を、平然と振り払えるほどに。
けれど自分は、そうではいたくない。
――母が願う「遅さ」を、担っていたかった。
――母の時間を、少しでも長く「子供のいる時間」に留めておきたかった。
「父さん、きっと嬉しいですよね。自分の優勝カップが、まだあんなに綺麗に飾られているなんて」
アルタイルがそう言うと、アランは強く頷いた。
頷き方が、ほんの少し大きすぎて、刺繍糸の束が膝から転げ落ちる。
「あ、」
アルタイルは慌ててそれを拾い上げた。
母の手元に返す前に、そっとその指を両手で包む。
傷一つないように見える白い指。
けれど、この手は、本当はどれほどの痛みと冷たさを知っているのだろう。
「母さん」
呼びかけると、アランの睫毛が小さく揺れた。
翡翠色の瞳が、まっすぐに息子を見つめ返す。
「父さんのこと、もっと教えてください。
僕が生まれる前のことも、僕がまだ小さかった頃のことも……母さんが覚えていること、全部」
アランは一瞬、息を飲むように目を見開き、それから静かに頷いた。
杖を手に取り、空中に文字を描く。
あなたが聞きたいなら、いくらでも。
文字はすぐに消える。けれど、残響だけは胸の中に長く残った。
父には、別の女の気配があった。
アルタイルは、そのことをとっくに察していた。
母の笑顔が曇るような気がして、その気配を見つけるたびに心臓を掴まれるような思いがした。
嫌悪よりも先に湧き上がったのは、ひとつだけだった。
――どうか、母がそれに気づきませんように。
それだけを、子供じみた祈りだと分かりながら、空に向かって何度も願った。
母が気を落としてしまわないだろうか、傷ついてしまわないだろうか。
それが怖くてたまらなかった。
けれど、今はもう、その気配も消えた。
父がどんな終わり方を選んだのか、詳しいことは知らない。
ただひとつ分かるのは――
今、父の向ける愛情が、誰よりも確かに、母にだけ向いていることだ。
アルタイルは、それを近くで見てきた。
疲れ切って帰ってくる父が、必ず誰より先にアランを探すこと。
アランの体調が少しでも崩れれば、すべての予定をねじ曲げてでも傍にいようとすること。
怒りと苛立ちを抱えた日でさえ、その矛先を決してアランには向けないよう必死に堪えていること。
――ああ、よかった。
そう思った。
これでようやく、母は父を独り占めできる。
思いも、視線も、触れる手も。
そこに、他の女の影が差し込む余地は、もうない。
それだけで、アルタイルは深く息をついた。
胸の奥に溜まっていた、黒い水のような不安が、少しだけ薄れていく。
「母さん」
彼は、もう一度呼んだ。
アランの視線が、柔らかく揺れる。
「僕ずっとここにいますから」
大げさな宣言ではなく、日常の延長線上に置くように、さらりと言う。
けれど、その中には、幼い決意と不器用な愛情がぎゅっと詰め込まれていた。
「姉さんみたいに、すぐに遠くへは行きません。
母さんが、子供でいてほしいって思ううちは……僕はここで話してます。父さんの話でも、ボグワーツの話でも、なんでも」
アランの指が、アルタイルの手の甲をそっと撫でた。
なにかを「ありがとう」と言っているような、静かな仕草。
声はないのに、胸の中に確かな音が響いた気がした。
――大切な母に、これ以上奪われるものがあってほしくない。
――これ以上、その手から何かが零れ落ちる世界を、見せたくない。
だから、アルタイルは笑う。
できる限り、幼い頃と変わらない笑顔で。
母の隣で、いつでもあの頃のように話をしていられる息子であり続けようとする。
窓の外では、冬の空がほんの少しだけ色を変え始めていた。
雲の切れ間からわずかに覗く光が、母の翡翠の瞳と、父の名を刻んだトロフィーのことを、同時に思わせる。
厚手のカーテンの向こうには闇が広がり、窓ガラスに映るのは、寄り添う二人の揺らいだ影だけだ。
レギュラスの手が、いつものように慎重にアランの身体に触れていた。
熱を確かめるように、痛みを探るように、細心の注意を払った手つきで。
アランはその優しさに応えるように、そっと彼のシャツの胸元を掴んだ――次の瞬間、胸の奥で何かが決壊した。
頬を伝うものに、自分で気づいたときにはもう遅かった。
ひと筋、ふた筋と静かに流れ出た涙が、枕を濡らしていく。
――この人の前から、いつか自分は消えなければならない。
世界の秤がそう告げるのなら、封印の血を持つ自分は、その皿の上に乗せられるのだろう。
その未来を知ってしまったせいで、今ここにあるレギュラスの体温が、どうしようもなく愛しく、恐ろしく思えた。
この腕を、離したくない。
この声を、もう二度と聞けなくなる世界を想像するだけで、息が詰まりそうになる。
ぽたり、と涙がレギュラスの手の甲に落ちた。
「…… アラン?」
彼の低い声が、驚きと戸惑いを含んでかすかに震える。
レギュラスは動きをふと止め、アランの顔を覗き込んだ。
翡翠の瞳に光る涙を見て、彼の表情から、一瞬にして熱が引いていく。
「どうしたんです、何があったんです」
いつもの冷静さを保とうとする声色なのに、その奥底に焦りが滲んでいた。
アランは慌てて首を振る。
やめないでください、と言いたかった。
今だけは、この腕の中にいさせてほしい。何も考えず、ただ、妻として抱きしめられていたかった。
けれど声は持たない。
涙は止まらない。
震える肩すら、自分ではうまく制御できなかった。
レギュラスは一つ、深く息をついた。
そして、そっと彼女から体を離した。
「……やめます」
短く告げると、彼は脱がしかけていたナイトドレスの裾を静かに整え始めた。
滑り落ちかけていた薄い布を、元通りアランの脚元まで丁寧に引き下ろし、肩からこぼれていたレースの紐を掛け直す。
解いてしまったリボンも、指先で不器用に結びながら、ほどけないよう確かめるように結び目を撫でた。
アランは、ぶんぶんと首を振る。
――大丈夫です。続けてくれて。
そう伝えたくて、ベッド脇の小さなテーブルに置いてある杖に手を伸ばそうとしたが、視界が涙で滲んでよく見えない。
指先が空を掴む。
レギュラスはその手をそっと押さえた。
細い手首を包み込むように掴み、引き寄せる。
「大丈夫ではないでしょう」
穏やかな、けれど譲るつもりのない声だった。
レギュラスは上体を起こし、ベッドから一度立ち上がる。
寝間着の裾を整えると、再びベッドの端に腰をおろし、アランの傍らに座り込んだ。
「今日は……ゆっくり寝ましょう」
その言葉の柔らかさに、アランの胸がさらに締め付けられる。
拒まれたのではない。
責められたわけでもない。
彼は、自分の欲よりも、アランの涙を最優先にしてくれたのだ。
その当たり前のようで当たり前ではない優しさが、痛いほど沁みた。
アランは、かぶりを振り続けた。
行かないで と叫びたかった。
このまま何事もなかったかのように眠りについてしまえば、いつか本当にこの温もりから遠ざかってしまう気がして。
――今夜くらい、わがままを言えばよかったのに。
心のどこかで、自分を責める声がする。
レギュラスは、そんな彼女の胸中を知らないまま、ふう、と小さく息を吐いた。
そして、そっとアランの肩を抱き寄せる。
力強くではなく、壊れものを扱うような、ごくごく慎重な抱擁だった。
「大丈夫です、アラン」
耳元に落とされた声が、驚くほど静かだった。
低く、深く、胸の奥に染みこんでいく。
「何も怖いものはありません」
彼の手のひらが、アランの背中をゆっくり撫でる。
肩甲骨のあたりを、小さな円を描くように優しくさすり、固く強張った筋肉をほぐすように。
アランは、堪えきれずにレギュラスの胸元に顔を埋めた。
涙がシャツを濡らしてしまうのが分かっていても、もう抑えきれない。
レギュラスの心臓の鼓動が、耳元で規則正しく響いている。
その安定したリズムが、ひどく愛おしかった。
「……何があったんです?」
しばらくして、レギュラスがもう一度尋ねた。
だが、その問いには執拗さも詰問もない。
ただ、痛みに触れたいけれど、無理には踏み込まないという、ぎりぎりの距離感があった。
アランは、そっと首を振る。
理由を告げれば、彼はさらに重いものを背負う。
世界と家族の間で、今以上に切り裂かれてしまう。
その未来が怖かった。
だから、言えない。
言わないでいることさえ、罪だと分かっていても。
レギュラスは、それ以上問い詰めなかった。
代わりに、アランの髪を撫でる。
地下牢で初めて見たときには、伸び放題で絡まっていた黒髪。
今は丁寧に梳かれ、柔らかな波を描いて肩に落ちている。
指先に絡む髪を、ゆっくりと解きながら、レギュラスは目を閉じた。
彼にとっても、この涙は怖かった。
――また、自分が傷つけたのだろうか。
――何か、見えないところで彼女を追い詰めてはいないだろうか。
かつて、セラとの関係に逃げた夜のことがふと脳裏をかすめる。
責められるより先に、逃げ道を選んだ自分。
欲望と現実逃避をごちゃまぜにして、一時の快楽に沈み込もうとした自分。
今、胸に抱いているのは、そのすべてから逃げずに選び取った女だ。
地下から救い上げ、妻として迎え、子をもうけた女。
どんなに罪を抱えていても、その隣に立ち続けると決めた相手。
その彼女が、自分の腕の中で泣いている。
「アラン」
名前を呼ぶ声が、かすかに掠れる。
彼は彼女の肩に顎を乗せるようにして、抱きしめる力をほんの少しだけ強くした。
「泣かないでください。……と言っても、今は無理でしょうけど」
苦い冗談のような言葉に、アランの喉からくぐもった息が漏れる。
泣き声をあげることすらできない彼女の代わりに、震える呼吸だけが、彼の胸元にぶつかって弾んだ。
「泣いているあなたを見ると、どうしようもなく、あの頃を思い出すんです」
レギュラスの視線が、過去の闇を辿る。
冷たい石畳に横たわっていた少女。
声なき嗚咽。
痩せこけた肩。
それでも、翡翠の瞳だけは、驚くほど強い光を宿していた。
「だから……本当は、一生泣かせないで済むようにしたかったんですけどね」
小さく笑った。
自嘲とも諦めともつかない声だった。
「うまくいかないものですね」
アランは、胸元に埋めた顔のまま、首を横に振る。
――あなたのせいじゃない、と伝えたかった。
――あなたは、いつも私を守ろうとしてくれている、と。
けれど、杖は遠い。
言葉は喉にない。
届くのは、止まらない涙と、しがみつく腕だけだ。
レギュラスは、その細い腕にそっと手を添えた。
離さなくていい、と言うように、指先で優しく押し返す。
「今夜は……何も考えなくていいです」
彼の声が、ひどく静かに、けれど確固としていた。
「騎士団のことも、法務部のことも、マグルのことも、境界線のことも。全部、僕が勝手に考えて、勝手に苦しんでいきますから」
それは冗談めかした言い方なのに、どこまでも本気の宣言だった。
アランは、胸が痛くなるほど切ない気持ちで、彼のシャツをぎゅっと掴んだ。
――あなたを一人で苦しませたくない。
そう叫びたいのに、声がない。
その代わりに、指先に力を込める。
どうか、ここにいますと。
あなたの隣から、簡単には消えませんと。
せめてその意志だけでも、伝わってほしいと願いながら。
「大丈夫です、アラン」
もう一度、レギュラスは囁いた。
まるで、何度でも同じ言葉を重ねれば、本当にそうなると信じているかのように。
「ここは、あなたの家です。あなたの居場所です。誰も奪わせません」
封印のことも、ホークラックスのことも、子供たちが狙われるかもしれない未来も。
すべてを知っているからこそ、その言葉には震えるほどの無茶さと、決死の覚悟が滲んでいた。
アランの涙は、なおも止まらなかった。
けれど、その涙の色はほんの少しだけ変わっていく。
絶望だけではなく、愛しさと恐れと、どうしようもないほどの感謝が入り混じった、複雑な色に。
やがて、レギュラスはランプの灯りを少しだけ落とした。
部屋は一層暗くなり、互いの輪郭だけが近く、はっきりと浮かび上がる。
彼はアランをベッドの中央にそっと横たえ、自分も傍らに身を沈めた。
腕を枕代わりに差し出し、その中に彼女を抱き込む。
「眠れるまで、こうしています」
彼はそう言って、ただ抱きしめることに徹した。
求めるための腕ではなく、守るための腕として。
欲を満たすためではなく、心を支えるためだけに。
アランは、ようやく少しだけ呼吸を整えながら、彼の胸元に顔を預ける。
涙に濡れたまつ毛が、彼のシャツをかすかに撫でた。
――この腕を、いつか自分の方から手放さなければならない日が来るのだとしても。
今夜だけは、ただの妻でいたかった。
封印でも、鍵でも、世界の秤に乗せられる存在でもなく。
レギュラス・ブラックという一人の男に、愛され、守られている女として。
そのささやかな願いを胸の奥に隠しながら、アランは彼の鼓動を数え続けた。
レギュラスは最後まで何も求めず、ただ黙って彼女の髪を撫で、背中をさすり続けた。
夜は、静かに更けていった。
互いの罪と未来の重さを抱えたまま、それでも寄り添おうとする二人の上に、やわらかな闇が降り積もっていく。
法務部の執務室に、乾いたノックの音が響いた。
書類の山と、冷えたインクの匂いに満ちた空間。
窓の外では冬の曇天が鈍い光を落とし、魔法省の高い塔の影が、遠く街並みに長く伸びていた。
「レギュラス」
バーテミウスが音もなく入ってくる。
手には、重ねられた数枚の書類──それは、今や魔法界全体が待ち望んでいた報告だった。
「ついに、完成ですよ」
淡く興奮を含んだ声で、バーテミウスは書類を机の上に滑らせる。
レギュラスはペンを置き、静かに視線を落とした。
書類の最上部には、認可申請書の見慣れた形式が並び、その下に記された名。
魔力無効化ポーションへの対抗魔法薬・試験第七号
――効果:対象者の魔力回復および耐性付与。
――副作用:軽度の倦怠感、一定時間の魔力酔い。致死率、ほぼゼロ。
読み慣れた術式の言葉が、整然と並んでいる。
何度も目を通してきた文面だ。けれど「完成」という確定的な言葉を伴って目の前に差し出されるのは、これが初めてだった。
「ええ」
レギュラスは小さく頷いた。
ペンではなく、認め印を手に取る。
「認可を下ろしましょう。これで、本件に関しての騒動は……ひとまず収められます」
「“ひとまず”ですか?」
バーテミウスが片眉を上げて笑う。
「むしろ、早期に対処した方でしょうね。あれほどの恐怖を煽った薬に、これだけ速やかに対抗策を提示できた。法務部の威信は、むしろ高まる一方ですよ」
朱肉を蓋から外すと、赤い色がふわりと立ち上る。
レギュラスはためらいなく判を押した。
魔法省法務部 レギュラス・ブラック の印章が、鮮やかに書面に浮かび上がる。
ぱちん、と小さな音を立てて朱肉の蓋を閉じると、レギュラスは視線を上げた。
「……治験に回したデスイーターたちは、どうなりました?」
わざと、事務的な口調を心がけた。
バーテミウスは、まるで午後の天気でも告げるかのような軽さで答える。
「ああ、全員死にましたよ」
一瞬、室内の空気がぴんと張り詰めた。
だが、レギュラスの表情は微動だにしなかった。
「そうですか」
短く返してから、唇の端をわずかに持ち上げる。
「いいですね」
それは、祝福でも嘲笑でもなかった。
ただ、筋書き通りだと確認するような、冷静な了承だった。
――あの男たちに与えられた最後の役割としては、むしろ出来過ぎている。
アランの肉体と尊厳を踏みにじった者たちが、その身体を魔法界の未来のために差し出して死んだ。
皮肉と因果が絡み合った結末に、情けをかける余地はない。
バーテミウスは、満足げに息を吐いた。
「例の噂も、これで薄れていくでしょう。治験などという根も葉もない誹謗中傷は、対抗薬完成のニュースで塗りつぶされますよ」
「根も葉もない……ね」
レギュラスは、わずかに視線を伏せた。
自嘲にも似た薄い笑みが、ほんの一瞬だけ唇をかすめる。
――根も葉もない、とは言えない部分があるのを知っているのは、自分とごくわずかな者たちだけだ。
「世論は、結果しか見ません」
バーテミウスは続ける。
「マグルは恐ろしい薬を作り出した。法務部はそれに対抗した。
そのために、どれほどの過程があり、どれだけの犠牲が出たかなど、細かく気にする者はいない」
「……そうですね」
レギュラスは椅子の背にもたれかかり、軽く目を閉じた。
バーテミウスの言うとおりだ。
世論は「誰が守ったか」と「今、自分が安全か」だけを見つめる。
その背後でどれだけの血が流れ、どれだけの倫理が削り取られたかを、わざわざ覗き込もうとする者は稀だ。
「他に急ぎの報告は?」
「今のところはこれが一番大きな案件ですね。関所周辺の動きも、騎士団がなんとか形だけは保っているようです」
「分かりました。対抗薬の承認については、広報と連携を。文言は『魔法界の安全を取り戻す第一歩』あたりを前面に出しておきましょう」
「了解です」
バーテミウスは軽い会釈とともに退室した。
扉が静かに閉じられる。
執務室は再び、レギュラスと書類と時計の音だけの世界に戻る。
壁掛け時計の針が、規則正しく時を刻む。
そのリズムは、まるで「一つの問題は解決した」と告げるかのように淡々としている。
一つ、問題は片づいた。
マグルの作り出した恐ろしい薬に対抗する魔法薬は完成した。
騒動は沈静化に向かう。
法務部の立場は揺るがないどころか、さらに強固になるだろう。
――それでも。
レギュラスは、ゆっくりと目を開けた。
視界の端に、昨夜のアランの涙が、幻のようによみがえる。
震える肩。
声も上げられず、ただ溢れて止まらなかった涙。
「続けてほしい」と訴えようとしながら、それすらも言葉にできずに首を振り続けていた手。
本来、解決したかったものは、いまだ手付かずのままだ。
彼はペンを指先で弄びながら、机の上の何も書かれていない紙を見下ろした。
真っ白な紙面は、問いだけを突きつけてくる。
――本当に、方法はないのだろうか。
闇の帝王のホークラックスを封印した、というだけで。
アランも、ステラも、アルタイルも、世界から「排除すべき存在」に分類される。
騎士団からすれば、それは理屈の通った正義だ。
ヴォルデモートを殺すには、魂の破片を封じた器を破壊しなければならない。
その器に、セシール家の封印の血が関わっているのなら――その血ごと消す、という発想は「正義」にさえ見えるだろう。
ペン先が、紙の上に軽く触れる。
考えが、知らず知らずのうちに文字となって溢れ出ていた。
――セシール家の血を守りつつ、封印を解き、闇の帝王を消し去る方法。
文字を見た瞬間、レギュラスは苦く笑った。
任務として書くには、あまりにも矛盾だらけで、身勝手な願いに過ぎない。
――わかっている。
ヴォルデモートは「純血主義」の旗を掲げているようで、実のところ、その思想の中心は魔法界ではなく「自分自身の不死」に置いている。
純血だの、血統だのは、そのための仰々しい装飾にすぎない。
あの男のもとからアランを救い出したとき、レギュラスが交わした条件。
それは、セシール家の血を絶やさぬことだった。
封印を強固にしたい――それが、あの男の望みだった。
自分の魂を守るために、もっとも強靭な鍵が欲しかった。
セシール家の封印の力は、そのための最上の道具だった。
その望みに乗ったのは、他でもないレギュラス自身だ。
――あの時、自分は賭けたのだ。
アランを救い出すための、唯一の手段として。
セシール家の血を、「ヴォルデモートの求める封印」として差し出した。
取引は成功した。
アランは地下牢から出された。
セシール家の血を継ぐ子が生まれた。ステラ。そしてアルタイル。
約束は、果たされた。
だが問題は、そこで終わらない。
セシール家の血が継がれていくほどに、封印されたものの力も強固になる。
それはヴォルデモートにとっての「保険」であり、騎士団にとっての「障壁」であり、そしてレギュラスにとっての「呪い」だった。
アランと子供たちの命以外で。
どうにか、あの封印を解き、闇の帝王を消し去る方法はないのか。
ペン先が紙面の上を彷徨う。
論理と感情が、頭の中でぶつかり合う。
封印を解く方法を探るということは、同時にヴォルデモートの魂へと繋がる道を探ることでもある。
それは、誰よりも闇の帝王に近づくという意味だ。
――騎士団にその鍵を渡せば、あの連中は躊躇なくアランたちの命を奪っていくだろう。
正義という名の刃は、躊躇を知らない。
そこで血を流す者を「必要な犠牲」と言い換えるだけの冷たさを、彼らもまた持っている。
では、自分でやるのか。
法務部の権限と、闇の帝王の信任を武器に、誰にも知られずに封印の仕組みに到達し、ヴォルデモートを葬るのか。
簡単にできるはずがない。
セシール家の封印は、単なる封印魔法ではない。
血筋と寿命と、家系の歴史そのものを巻き込んだ「呪い」に近い。
最初にその術式を聞かされたとき、レギュラスはぞっとした。
人一人の人生どころか、子や孫、さらにその先の世代にまで、特定の使命と枷を背負わせる魔法。
それは、魔法の名を借りた、ほとんど呪詛だった。
アランは、その意味を知らないまま封印を施された。
地下牢で、まだ少女と呼ぶべき年齢で。
恐怖と痛みの中で、自分が何のために使われているのかも知らずに。
「……」
レギュラスは額に手を当て、目を閉じた。
昨夜、涙を流しながらも、自分の胸元に縋りついてきたアランの重みが、腕の中に生々しく蘇る。
――あの腕を、世界のために切り落とせと言われたら。
――あの瞳を、魔法界の未来のために閉じさせろと言われたら。
その問いを最後まで思考する前に、全身が拒絶反応を起こす。
不可能だ。
たとえ世界がどうなろうとも、自分は受け入れない。
どれほど理屈を並べられても、どれほど正義を主張されても、あの女と子供たちを代価にする未来だけは、認めることができない。
その我儘は、法務部長官としては致命的な欠陥かもしれない。
だが、一人の男として、一人の夫として、一人の父として――それを譲れば、自分は自分でなくなる。
「……本当に、他に方法はないのか」
己に問いかけるように、ぽつりと呟いた。
壁にかかった黒いローブや、整然と並んだ書棚は、何も答えはしない。
ただ、沈黙だけが返ってくる。
書類の端に、レギュラスは小さくメモを書き付けた。
セシール家の封印術式の再解析
ホークラックスの構造的弱点
封印保持者の生命に依存しない破壊法の模索
それは公式な指示書ではなく、ただ自分のために書いたメモにすぎない。
誰にも見せるつもりのない、わがままな望みの走り書きだ。
ペンを置いた指先が、わずかに震えていることに気づき、レギュラスは自嘲気味に笑った。
――政治の問題なら、いくらでも策を講じられる。
世論操作も、法の運用も、敵対勢力の封じ込めも、何度だってやってきた。
だが、世界の均衡そのものに逆らおうとするとき、自分の持つカードはあまりにも少ない。
それでも。
昨夜、涙に濡れた瞳で、必死に自分のシャツを掴んでいたアランの手。
自分の代わりに杖を振り、セシール家の血を受け継いで戦ったステラの背中。
何も知らないまま笑ってくれるアルタイルの無邪気な顔。
その全部を守るためなら、どんな無理な賭けにも手を伸ばすと決めていた。
机の上に、アランがいつか選んでくれた緑のネクタイが畳まれて置かれている。
今朝、彼女がいつものように手早く結んでくれたものを、ふと外してここに置いたのだ。
翡翠色の布地が、ランプの光を淡く反射する。
彼はそれにそっと指先を触れた。
「……あなたを、封印の器としてではなく、ただの妻として守る方法を」
誰にも届かないほど小さな声で、レギュラスは呟いた。
「必ず見つけますよ、アラン」
その約束が、どれほど無謀なものであろうとも。
ホークラックスの呪いが、どれほど理不尽な構造を持っていようとも。
魔法省法務部長官としてではなく、
一人の男として――レギュラス・ブラックの、最も我儘で、譲れない戦いが、静かに始まりつつあった。
アルタイルは、ときどき思う。
母は、自分たちに「早く大人になってしまわないで」と願っているのではないか、と。
ステラは、その願いとは真逆の方向へ歩いていく。
背筋を伸ばし、冷たい瞳で世界を測るように見つめ、誰の手も借りずに立とうとしている。
それはそれで、姉なりの強さなのだと頭では分かっている。けれど――。
だからこそ、自分だけは。
母が望むように、そばでにこやかに笑う「息子」でいたかった。
広い応接間に、柔らかな午後の光が差し込んでいる。
厚手のカーテンが風にふわりと揺れて、窓辺に置かれた花瓶の白い花びらが、光を含んで透けるように見えた。
ソファには淡い緑のクッションがいくつも並べられ、そのうちのひとつに、母が細い背を預けて座っている。
アランは、いつものように刺繍途中のハンカチを膝に乗せていた。
翡翠色の刺繍糸で、細かな蔦模様を描いている。
指先は細く、動きはゆるやかで、けれど一つ一つの針目は驚くほど正確だった。
アルタイルは、その横に腰を下ろす。
わざと母に近づきすぎない距離――けれど、手を伸ばせばいつでも触れられる距離。
その絶妙な間合いを、彼は無意識のうちに覚えていた。
「母さん、ボグワーツで父さんのクィディッチの優勝カップが飾られてたんです」
アルタイルがそう言った瞬間、アランの瞳がぱっと見開かれた。
翡翠色の光が、灯りを増すように明るくなる。
声を持たない母は、その代わりに瞳で、息子の言葉を何度でも確かめるように見つめてくる。
どういうふうに? どんな場所に? 誰か何か言っていた?――そんな問いを、翡翠の奥がにこにこと投げかけてくるのが分かった。
アルタイルは、少し照れくさくなりながらも続ける。
「トロフィーケースがあるでしょう、寮の近くの。あそこに、父さんの名前が刻まれたカップがありました。
“レギュラス・ブラック、スリザリン寮主将”って。
すごく誇らしげに並んでましたよ。上の学年の連中も、あれを見るときだけは真面目な顔してて」
アランの唇が、かすかに笑みの形を取る。
針を持っていた手が止まり、ハンカチを膝の上にそっと置いた。
細い指が、ソファの縁をたどるように動き、それからそっとアルタイルの袖口を摘まむ。
――もっと聞かせて、と言うように。
アルタイルは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じながら、身振りを交えて話を膨らませていった。
「先生たちも、たまに話題に出します。
“昔、空を切り裂くように飛んだシーカーがいてな”とか。
“スリザリンのブラックは、本当に恐ろしい飛び方をした”とか。
名前までははっきり言わないけど、みんな顔を見合わせて、“ああ、父さんだろうな”って分かるんです」
母は、肩を震わせるように笑った。
声はないのに、笑っていることが、痛いほど伝わってくる。
アルタイルは知っている。
母がどれだけ父を想っているか。
そして、どれだけ父の名が誇らしく語られることを喜ぶか。
幼いころから、こっそり調べてきた。
図書室の古い新聞、当時の試合記録、名前だけが載った年表。
――そこにあったのは、いつも「レギュラス・ブラック」という名と、その勝利の軌跡だった。
そして同時に、彼は知っている。
母が歩んできた、あまりにも残酷な時間のことを。
悲惨なセシール家の末路。
封印の力を恐れたマグルに、一夜にして滅ぼされた家。
闇の帝王に囚われ、冷たい石の牢で、声を奪われた年月。
アランの血と魔力と身体が、ただの道具として扱われていた日々を――アルタイルは、本を通して、記録を通して、痛いほど知ってしまった。
だからこそ思う。
ようやく辿り着いた今の「普通の幸福」を、母が誰よりも手放しがたく思うのは、当然だ、と。
――これ以上、あの人の手から、何かがこぼれ落ちるところを見たくない。
そう思えば思うほど、アルタイルは自分の役割を理解していった。
姉は、前だけを見て歩いていく。
ステラは自分で自分を守ろうとし、その強さがときに棘のように周囲を刺す。
母が差し出そうとした腕を、平然と振り払えるほどに。
けれど自分は、そうではいたくない。
――母が願う「遅さ」を、担っていたかった。
――母の時間を、少しでも長く「子供のいる時間」に留めておきたかった。
「父さん、きっと嬉しいですよね。自分の優勝カップが、まだあんなに綺麗に飾られているなんて」
アルタイルがそう言うと、アランは強く頷いた。
頷き方が、ほんの少し大きすぎて、刺繍糸の束が膝から転げ落ちる。
「あ、」
アルタイルは慌ててそれを拾い上げた。
母の手元に返す前に、そっとその指を両手で包む。
傷一つないように見える白い指。
けれど、この手は、本当はどれほどの痛みと冷たさを知っているのだろう。
「母さん」
呼びかけると、アランの睫毛が小さく揺れた。
翡翠色の瞳が、まっすぐに息子を見つめ返す。
「父さんのこと、もっと教えてください。
僕が生まれる前のことも、僕がまだ小さかった頃のことも……母さんが覚えていること、全部」
アランは一瞬、息を飲むように目を見開き、それから静かに頷いた。
杖を手に取り、空中に文字を描く。
あなたが聞きたいなら、いくらでも。
文字はすぐに消える。けれど、残響だけは胸の中に長く残った。
父には、別の女の気配があった。
アルタイルは、そのことをとっくに察していた。
母の笑顔が曇るような気がして、その気配を見つけるたびに心臓を掴まれるような思いがした。
嫌悪よりも先に湧き上がったのは、ひとつだけだった。
――どうか、母がそれに気づきませんように。
それだけを、子供じみた祈りだと分かりながら、空に向かって何度も願った。
母が気を落としてしまわないだろうか、傷ついてしまわないだろうか。
それが怖くてたまらなかった。
けれど、今はもう、その気配も消えた。
父がどんな終わり方を選んだのか、詳しいことは知らない。
ただひとつ分かるのは――
今、父の向ける愛情が、誰よりも確かに、母にだけ向いていることだ。
アルタイルは、それを近くで見てきた。
疲れ切って帰ってくる父が、必ず誰より先にアランを探すこと。
アランの体調が少しでも崩れれば、すべての予定をねじ曲げてでも傍にいようとすること。
怒りと苛立ちを抱えた日でさえ、その矛先を決してアランには向けないよう必死に堪えていること。
――ああ、よかった。
そう思った。
これでようやく、母は父を独り占めできる。
思いも、視線も、触れる手も。
そこに、他の女の影が差し込む余地は、もうない。
それだけで、アルタイルは深く息をついた。
胸の奥に溜まっていた、黒い水のような不安が、少しだけ薄れていく。
「母さん」
彼は、もう一度呼んだ。
アランの視線が、柔らかく揺れる。
「僕ずっとここにいますから」
大げさな宣言ではなく、日常の延長線上に置くように、さらりと言う。
けれど、その中には、幼い決意と不器用な愛情がぎゅっと詰め込まれていた。
「姉さんみたいに、すぐに遠くへは行きません。
母さんが、子供でいてほしいって思ううちは……僕はここで話してます。父さんの話でも、ボグワーツの話でも、なんでも」
アランの指が、アルタイルの手の甲をそっと撫でた。
なにかを「ありがとう」と言っているような、静かな仕草。
声はないのに、胸の中に確かな音が響いた気がした。
――大切な母に、これ以上奪われるものがあってほしくない。
――これ以上、その手から何かが零れ落ちる世界を、見せたくない。
だから、アルタイルは笑う。
できる限り、幼い頃と変わらない笑顔で。
母の隣で、いつでもあの頃のように話をしていられる息子であり続けようとする。
窓の外では、冬の空がほんの少しだけ色を変え始めていた。
雲の切れ間からわずかに覗く光が、母の翡翠の瞳と、父の名を刻んだトロフィーのことを、同時に思わせる。
