3章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
静かな部屋で、時計の針が一つ進む音がした。
ステラは立ち上がる。
窓から離れ、姿見の前に立った。
鏡の中に映る自分は、相変わらず整っていた。
母をなぞるような髪の艶。
父譲りの鋭さを帯びた輪郭。
人の心を射抜く翡翠の瞳。
「……この血が、封印を継いでいる」
小さく呟き、鏡の中の自分を睨みつける。
いっそ、この血を呪いたかった。
いっそ、この血を誇ってやりたかった。
どちらも、同じくらいの強さで胸の中にあった。
二人のエゴのために産み落とされた――と、恨みたかった。
それでも、あの瞬間母を守れたことを誇らしく思ってしまう。
自分がいなければ、母は死んでいた。
守れるだけの強さがあったことを、確かに嬉しいと思っている。
「本当に、救いがないわね」
皮肉を込めて笑ってみせる。
鏡の中の少女も、同じように笑った。
騎士団は、理想のために母を、セシール家の血を継ぐ自分たちを排除しようとしている。
父は、その事実を隠し、なおも自分たちを生かそうとしている。
母は、何も知らずに、封印を抱えたまま、今日も静かに笑っている。
そのどれもが、正しくて、同じくらい間違っている。
ステラは、鏡越しに自分へ視線を突き刺した。
「いいわ。
どうせ酷い話なら――
最後の結末くらい、私が選んでやる」
その言葉は、誰にも聞かれてはならない決意の片鱗だった。
扉の向こうでは、まだ誰も気づいていない。
セシール家の血を継いだ娘が、世界のど真ん中で、誰の正義にも完全には与しない道を探そうとしていることに。
ステラはローブの裾を翻し、窓辺の灯りを消した。
闇の中で、翡翠の瞳だけが、しばらく鋭く輝いていた。
寝室の扉の前で、レギュラスは一度だけ足を止めた。
ノブに添えた手に、わずかに力が入る。
問い詰めるのは、違う。
胸の奥に渦巻く苛立ちと恐怖を、彼はゆっくりと飲み込んだ。
あの場にステラが駆けつけなければ――その先の光景を思い描いた瞬間、喉の奥が冷たく締め付けられる。
深く息を吐き、ようやく扉を押し開けた。
部屋の中は、柔らかな灯りに満ちていた。
ベッド脇のスタンドに灯った魔法灯が、白いシーツと淡いカーテンを金色に染めている。
扉が開く音に、ベッドの上のアランがはっと顔を上げた。
半身を起こし、乱れかけたブランケットを胸元まで引き寄せる仕草が、どこか小動物のように頼りない。
「……寝ていていいですよ。疲れているでしょう」
レギュラスは、出来る限りいつも通りの声音で言った。
怒りの温度を悟らせまいと、言葉の端々を慎重になぞる。
アランはその言葉に首を振り、枕元に置いていた杖を手に取る。
白い指先が、空中にさらさらと文字を描いた。
『ごめんなさい レギュラス
あんなことになるなんて 思いませんでした』
宙に浮かぶ銀の文字が、少し震えている。
その震えが恐怖からなのか、罪悪感からなのか、あるいは両方なのか。
レギュラスは、胸がきゅうと縮むのを感じた。
「……ステラも心配していました」
静かな声で告げる。
アランの長い睫毛が、ぴくりと揺れた。
「今後、なにか怪しい手紙を受け取ったら――必ず僕に教えてください」
命令ではなく、願いとして。
声に乗せた温度が伝わるのか、アランは素直に頷いた。
ベッドの上に投げ出された彼女の杖が、小さく転がる。
たったそれだけの音さえ、この部屋の静寂には大きく響いた。
沈黙が落ちた。
なぜ、自分が狙われるのか――。
アランの翡翠色の瞳の奥で、その問いがゆっくりと形を取り始めているのが分かる。
レギュラスは、その視線から目を逸らしたくなった。
地下牢の湿った石畳。
鎖に繋がれた少女。
無理やりその魂に押し込めさせた、黒い“かけら”。
ホークラックス。
闇の帝王の魂を裂き、封じ込める禁術。
かつてアランが封印させられたものの正体。
彼女の血が生きている限り、完全には壊れない鎖。
そして、その血を継いだステラとアルタイルもまた、同じ狙いの的になり得るという残酷な真実。
――どれも、とてもじゃないが、いまこの夜に告げていい話ではなかった。
“あなたは、闇の帝王の残滓を封じた器なのだ”と。
“だから騎士団は、あなたを殺そうとしているのだ”と。
その言葉を、翡翠の瞳に映る不安の上に載せることなどできない。
アランの指先が、再び杖へと伸びていく。
問いを綴ろうとするその動きを、レギュラスは一歩で詰め寄って遮った。
そっと、その手を包む。
驚いたように見上げてくる翡翠の視線に、レギュラスは苦笑に似た表情を浮かべた。
「…… アラン」
名前を呼ぶだけで、喉に砂がつまるような感覚が走る。
言葉にすれば、どこかが決定的に壊れてしまいそうで。
だから、先に唇を重ねた。
柔らかな唇が一瞬だけ固まり、それからゆるりとほどけていく。
アランの指から杖が滑り落ち、シーツの上に転がる乾いた音がした。
レギュラスは、唇を離すぎりぎりのところで囁いた。
「あなたが無事で……よかったです」
それは、あまりにも率直な本音だった。
飾りも言い訳もない、ただの安堵。
アランの瞳が大きく瞬き、次の瞬間、縋るように彼のシャツを掴んできた。
その細い指先の震え方に、レギュラスは、自分の恐怖と彼女の恐怖が同じ場所で共鳴していたのだと知る。
ゆっくりと、アランの体をシーツへと沈めていく。
枕に広がる柔らかな髪。
灯りに照らされて淡く光る白い喉。
触れた肩が思っていたよりも細くて、レギュラスは胸の奥で何かが軋む音を聞いた気がした。
ステラが間に合わなければ――
その“もしも”の先にある光景が、まざまざと脳裏に浮かび上がる。
血の気を失った体。
もう二度と開かない翡翠の瞳。
この部屋から、永遠に消えてしまう笑顔。
喉が震えた。
恐ろしくて、吐き気がするほどに。
だから彼は、確かめるように触れた。
アランの頬に、首筋に、肩に。
そこに確かにある温もりを、指先で何度もなぞる。
薄い寝間着越しに感じる体温。
呼吸のたびに、かすかに上下する胸元。
乱れた吐息が、彼の首筋にかかっては消えていく。
そのひとつひとつが、「今、ここに生きている」という証だった。
アランの指が、おずおずと彼の背に回る。
ぎゅっと掴むというより、確かめるように。
“ここにいます”と告げるような、弱いけれど必死な力加減。
レギュラスは、もう一度深く口付けた。
溢れる吐息を、一滴残らず自分の中に取り込むかのように。
この声が、温もりが、呼吸が――すべて自分の腕の中のものだと、何度でも刻み付けたかった。
どれほど時間が流れたのか。
灯りはまだ消されていないのに、部屋の空気は夜の深みに溶けていた。
シーツの上で、互いの体温がゆっくりと混ざり合い、激しさの余韻だけが微かな震えとなって残っている。
レギュラスは、アランを胸元に抱き寄せた。
彼女の額に落とした唇に、まだ熱が残っている。
結局――何ひとつ、真実を話せてはいない。
なぜ狙われたのか。
騎士団が何に気づき始めているのか。
彼女の血と封印と、その先に待ち構える危うさのすべてを。
それでも今は、言葉よりも先に優先したいものがあった。
アランの指先が、彼のシャツの布をきゅっとつまむ。
その小さな仕草に、レギュラスは静かに目を閉じる。
――守りきらなければならない。
彼女がどんな真実を知らされようと、知らされまいと。
どの陣営がどんな正義を掲げようと。
この腕の中のかすかな吐息だけは、決して奪わせない。
その誓いを噛みしめるように、レギュラスはアランの髪を撫でおろした。
彼女の震えが、少しずつ落ち着いていくのを感じながら、深く静かに、夜の底へと沈んでいった。
遠巻きに見えていた建物の輪郭が、夜の闇に完全に溶け込んでいく。
さっきまでそこにいた女と少女の気配も、痕跡だけを残して消えていた。
騎士団の隠れ家に戻った時、張り詰めた空気が一斉にジェームズたちを迎えた。
湿った石壁に囲まれた小さな部屋。粗末なテーブルの上には、まだ冷めきらない紅茶と、椅子の背に雑にかけられたローブがいくつか。
見慣れた光景なのに、今夜はすべてが妙に遠く感じられた。
無言のまま椅子に腰を落としたジェームズの肩から、砂のように力がこぼれ落ちていく。
隣ではリーマスがローブを脱ぎかけ、動きを止めていた。
「……やられたな」
誰にともなく、ジェームズがかすれた声で言った。
拳を握り締めたまま、テーブルの木目を睨みつける。
頭の中には、ついさっきの光景が焼き付いて離れない。
仮面の下から呪文を放とうとした瞬間――
アランの前に、細い影がすっと割り込んだ。
黒髪が弧を描き、緑の瞳が月光を跳ね返した。
少女の手に握られた杖から放たれた盾の呪文は、騎士団の攻撃を弾き返し、続けざまに放たれた反撃は、訓練を積んだ大人の魔法使いたちでさえ息を呑むほど鋭く、正確だった。
半端な防御ではない。
完全に「守る」ための魔法だった。
――ステラ・ブラック。
レギュラスブラックとアランの娘。
まだホグワーツに通う年頃の少女。
あの魔力は……レギュラスに似ている、どころじゃない。
ジェームズは奥歯を噛み締めた。
仮面越しにも、全身が震えたあの感覚を思い出す。
桁外れの魔力。
攻防の切り替えの速さ。
何より、迷いのない眼差し。
母を守るためだけに振るわれた、その魔法の容赦のなさに、ジェームズは戦慄と同時に妙な敬意すら覚えていた。
「……あの娘も、セシール家の血を継いでる……」
思わず漏らした言葉が、狭い部屋の空気を震わせた。
「やめるんだ、ジェームズ」
すぐさま隣から、リーマスの低い声が飛んでくる。
振り向けば、彼は眉間に深い皺を刻み、こちらを強く見据えていた。
「今、その先を言うな」
ジェームズは唇を噛んだ。
けれど、心に浮かんだ結論は、もう言葉の形になりかけている。
「でも、そうだろう」
声が自然と荒くなる。
「アラン・ブラックだけが死んだって、何も終わらない。ステラ・ブラックも、アルタイル・ブラックも生きている限り、セシール家の封印は続く。封印が生きてる限り、ホークラックスは完全には壊せない」
それが、彼らが辿り着いた“答え”だった。
残酷すぎる理屈。
だが論理としては逃げ場がない。
リーマスは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「……だからって、その子どもたちまで“標的”にするのか?」
静かな問いかけだった。
責める口調ではないのに、一語一句が胸に刺さる。
「ジェームズ。俺たちは、何を憎んでここまで来た?」
ジェームズの脳裏に、かつての新聞記事がよみがえる。
マグルの孤児院で起きた惨殺事件。
小さな棺が並んだ写真。
魔力の痕跡が残されていたことから、魔法族の関与が疑われ、魔法界中が震えたあの事件。
レギュラス・ブラックの名が、その中心にあった。
「子どもの命を、何だと思っている」
「どれだけの未来を奪ったか分かっているのか」
あの時、自分たちは声を枯らして叫んだ。
闇の陣営を糾弾し、その罪を白日の下に引きずり出すと誓った。
――それなのに、今。
自分たちがやろうとしていることは何だ。
レギュラスブラックの妻。
そして、彼女が産んだ、罪のない子どもたち。
彼らを「仕方がない犠牲だ」と切り捨てようとしている。
「……分かってる」
ジェームズは額に手を当て、かきむしるように髪を掴んだ。
「分かってるさ。あまりにも酷い。
でも、ヴォルデモートを倒せる可能性がそこにあるなら……」
言いながら、自分の声が少しずつ掠れていくのに気づく。
正義と呼んできたものが、じわじわと濁っていく音がした。
リリーとハリーの顔が浮かぶ。
許可証がなければ、妻は両親のもとへも自由に帰れない世界。
息子は、マグル界を「完全な外側」としてしか知ることのない世界。
それを生み出した張本人――レギュラス・ブラック。
彼に対する怒りが薄れたわけではない。
だがその怒りの先に、「子どもを殺す」という選択肢を本当に置いてしまっていいのか。
喉の奥から、苦いものがせり上がる。
「……俺たちが今やろうとしてることは」
リーマスが、テーブルの上に組んだ指をじっと見つめながら呟く。
「かつて俺たちが非難した“あの事件”と、何が違うんだろうね」
静かな言葉が、最も鋭かった。
マグルの孤児院で奪われた命。
家族を持てなかった子どもたち。
誰にも守られなかった小さな背中。
その子どもたちを、レギュラスは「必要な犠牲」として見ていたのだろう。
今の自分たちのように。
ジェームズは、深く俯いた。
拳が震えているのを止められなかった。
「……それでも、何もしないって選択だけはできない」
ようやく絞り出した声は、悲鳴に近かった。
「ヴォルデモートを倒さなきゃ、いつかもっと多くの子どもたちが殺される。
マグルも、魔法族も、何もかもだ」
その言葉は、紛れもない真実だった。
そして同時に、あまりにも危うい免罪符でもあった。
リーマスはゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥には、迷いと疲弊と、それでも見捨てきれない優しさが混ざり合っている。
「分かってるよ、ジェームズ」
短くそう言ってから、彼は続けた。
「だからこそ、忘れるな。
俺たちの“正義”が、いつの間にか誰かにとっての“残虐”に変わる瞬間があるってことを」
部屋の隅で、誰かが息を飲む音がした。
他の団員たちも、言葉を挟めずにいる。
ステラの瞳が脳裏に浮かぶ。
母を庇うように前に立った少女。
まっすぐに杖を構え、怯えながらも決して退かなかった姿。
あの目を、自分たちは本当に“敵”として見続けるのか
ジェームズは答えを出せないまま、強く目を閉じた。
レギュラス・ブラックの罪を暴きたいと望んでいた。
彼が犯した残酷さを、世界に知らしめたいと願っていた。
――だが今、その“罪”の真似事をしているのは、自分たちの側なのかもしれない。
正義の行方が、どこにあるのか。
何を守り、何を切り捨てるのか。
分からないまま、夜だけが深くなっていった。
翌朝の食堂は、いつもより少しだけ静かだった。
薄い霧のような朝靄が、磨き上げられた窓ガラスの向こうにへばりついている。天井近くを滑る燭台の炎は、まだ夜の名残を引きずっているのか、どこか頼りなく揺らいでいた。
長く伸びたテーブルの上には、湯気を立てるスープと焼きたてのパン、銀のポットに満たされた紅茶。
すべてが、いつも通りの朝の光景――のはずだった。
けれど、その中央に座る少女の存在が、空気の温度をわずかに下げていた。
ステラ・ブラック。
背筋を伸ばし、ナイフとフォークをほとんど音も立てずに扱うその所作は、完璧なまでに貴族の令嬢だった。
喉元に落ちる黒髪が、朝の光を淡く吸い込み、翡翠色の瞳は伏せられたまま、皿の上と変わらぬ冷静さを保っている。
――昨夜、あの子が前に出て杖を構えた。
アランは胸の奥でそっと息を飲む。
仮面をつけた男たちの呪文が飛び交う中、ステラは迷わなかった。
自分とメイラの前に立ち、まるで盾のように細い身体を差し出してくれた。
震えていたはずなのに、その腕は微塵も揺れずに光を弾き返していた。
今、目の前で静かにパンを切り分けている少女と、昨夜、幾筋もの呪文を跳ね返していた少女が、どうしても同じ存在に思えない。
それでも――確かに、あの時自分を救ったのは、この子だった。
アランは、そっと杖を取った。
白く細い指先に、まだわずかな震えが残っている。
テーブルクロスの上に、なめらかに文字が描かれていく。
『ステラ、あなたのおかげで……私も、メイラも無事でした』
インクの代わりに、淡い光の線が文字をかたどる。
それがステラの視界の端に触れた瞬間、翡翠の瞳が一度だけこちらに動いた。
けれど、少女は何も言わなかった。
表情ひとつ変えず、再び視線を皿へと戻し、淡々と食事を続ける。
フォークが皿に触れる微かな音が、やけに大きく響く。
アランの胸が、きゅっと締め付けられた。
もう一度、杖を握り直す。
『あなたの……杖を振るう姿は、レギュラスにそっくりです』
昨夜の光景が鮮明によみがえる。
母の前に立ちふさがるように杖を上げ、襲い来る光を鋭く弾いた娘。
あの時、ステラの横顔に宿っていた影は、確かにレギュラスに似ていた。
揺らぎのない集中。
冷静な軌道。
怒りと恐れを飲み下して、ただ守るためだけに放たれた魔法。
――いつのまに、あんなに。
アランは自分の胸の内で問いかける。
いつのまに、こんなに凛々しくなってしまったのだろう。
いつのまに、自分よりずっと前に立ち、守る側に回れるほど強くなったのだろう。
小さな手を握って歩いた頃のことを思い出す。
まだ言葉も拙く、不安げに裾を握っていた幼いステラ。
熱を出して眠れない夜に、ベッドの端でそっと額を撫で続けたこと。
少しでも離れようとすると、翡翠の瞳が不安に揺れて、自分のローブを掴んできたこと。
――あの子は、もうあの頃の娘ではない。
気づけば、ステラはいつだって「自分でやる」と手を振り払うようになっていた。
部屋に籠る時間が増え、声を掛けても短い返事だけ。
ホグワーツへ行ってからは、なおさらだ。
手紙を送っても返事はない。
ホグワーツの生活を案ずる一方的な文字たち。そこに「返事が欲しい」とは、とうとう書けなかった。
気がついたときには、娘はとっくに、自分の手の届かないところへ歩き出していた。
『ありがとう、ステラ』
アランは、もう一度だけ丁寧に文字を描いた。
せめて、この言葉だけは伝えたかった。
あの時、迷いなく自分の前に立ってくれたこと。
その背中を見たとき、どれほど胸が誇らしく、同時に痛かったか。
ステラの手が一瞬だけ止まる。
翼のように長い睫毛が、ほんのわずか震えるのが見えた。
「……これが正しい選択だったのかどうかは、分かりませんが」
初めて口を開いた娘の声は、澄んでいながら氷の縁を持っていた。
テーブルの上に視線を落としたまま、淡々と落とすような口調。
アランは、胸の奥から込み上げる痛みを抑えながら、それでも穏やかな微笑みを浮かべようとする。
喉から声は出ない。
だからこそ、杖をもう一度握りしめて文字を紡ぐ。
『それでも……私たちは、あなたに救われました』
ステラはゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳が、初めて真正面からアランを見据える。
その色は、アランと同じでありながら、まるで別の光を宿していた。
「……私も」
小さく息を吸い込む気配。
言葉を吐き出す前の、わずかな逡巡。
「まだ、“あなたの娘でいよう”と思う心が残っていたことに……救われた思いでした」
その言葉は、刃のようでもあり、かすかな温度を含んだ火種のようでもあった。
アランの胸に、静かな衝撃が広がる。
――まだ。
まだ、娘の中に「あなたの娘でいたい」と思える部分が残っている。
それは、ステラ自身も驚いている事実なのかもしれなかった。
こぼれ落ちてしまったと思っていた糸が、辛うじて一本だけ、ぎりぎりのところで繋がっている。
ステラはナプキンをきちんと畳み、椅子から立ち上がる。
優雅な所作のどこにも、さっきの言葉の揺らぎは見えない。
背筋を伸ばし、振り返ることなく、静かに食堂をあとにした。
残された椅子の背が、余計に空虚さを際立たせる。
「……照れ隠しでしょうね、あれは」
沈黙を破ったのはレギュラスだった。
カップを持つ指先に、さりげない力がこもっている。
けれどその瞳には、どこか柔らかな色も浮かんでいた。
「あなたを心配していましたから」
そう言ってアランを見る横顔は、いつもと変わらぬように見える。
娘の不器用さを理解している父の、少し頼もしい声。
けれど、アランの耳には、そのフォローがうまく届かなかった。
――ステラも、アルタイルも。
この家に生まれてこなければよかった、そう思った瞬間があったのだろうか。
声を持たない母よりも、マグルの娘に世話を焼いてもらう事が多かったこともあっただろうに。
それでも「娘でいようと思う心」が残っていたと言った。
それは感謝であり、同時に、どこか諦めのようにも聞こえた。
アランはそっと視線を落とす。
自分は、本当に「娘を守れるような親」だっただろうか。
ステラも、アルタイルも、メイラも――どの子にも同じだけの愛を注いできたつもりだった。
けれど、その愛はどこかで途切れ、落ち、誰かの心から零れ落ちてしまったのかもしれない。
見えないところで、あの子の中に積もっていった孤独や怒りや嫉妬に、気づけなかった。
いつの間にか、守っていると思っていたはずの娘に、今度は自分が守られてしまった。
――ありがとう、と伝えた。
――まだ娘でいようと思う、と返された。
それは確かに、救いだった。
けれど同時に、その言葉の「まだ」が、心のどこかで鋭く棘のように引っかかる。
アランはそっと、レギュラスの方へ顔を向けた。
彼は何も言わず、ただアランの手の上に自分の手を重ねる。
温かな掌の重みが、静かに伝わってきた。
娘との距離は、きっと簡単には埋まらない。
それでも、この朝、辛うじて交わったひとつの言葉だけを、アランは胸の奥に大切に抱き締めた。
――まだ。
まだ、完全には失われていない。
その事実だけが、ひどく心細い朝の光の中で、かろうじて彼女を支えていた。
朝の光は、まだやわらかく淡かった。
ブラック家の主寝室の窓から差し込むそれは、重厚なカーテンの隙間をすり抜け、床に細長い帯を落としている。磨き込まれた床板に、淡い金色がかすかに揺れた。
レギュラスは鏡台の前でシャツの襟を整えていた。鎖骨に触れる布の感触を確かめるように指先で撫で、深く息をひとつ吐く。
今日もまた、法務部に出向けば山積みの決裁と報告が待っている。
騎士団の動き。
ホークラックス。
セシール家の封印。
考えなければならないことは、夜を越えてもなお減ることはなかった。
ふと、背後で布擦れの音がした。
振り返ると、アランが静かに近づいてくるところだった。淡い色のローブを羽織り、長い黒髪はまだゆるやかな寝癖を残している。
翡翠色の瞳だけは、すでにいつものように澄んでいた。
アランは微笑みを浮かべ、すっと腕を伸ばす。
ベッドの脇のチェストに置かれていたネクタイを手に取ると、レギュラスの正面に立ち、当然のように襟元へと手を伸ばしてきた。
「……支度を、手伝ってくださるんですか」
問いかけると、アランはこくりと頷く。
何度も繰り返してきた朝の光景。
けれど、昨夜の出来事を思えば、その何気なさがひどく愛おしく、そして心細くも感じられた。
彼女の細い指が、ネクタイの端を器用に折り、首元へと回していく。
喉元に絹の感触と、ほんの少しひんやりとした彼女の指の温度が触れた。
レギュラスは、思わずその手首を取った。
結び目に手をかけたままのアランの身体を、ぐっと引き寄せる。
淡い香りが胸元にふわりと広がった。
アランの体温が、薄いローブ越しに伝わってくる。
「……家にいてくださいね」
低く押し殺した声で告げる。
命令ではなく、懇願に近かった。
アランは、驚いたように瞬きをしてから、そっと杖を取り出した。
レギュラスの胸元と自分の身体の間――狭い空間に、ふわりと文字が浮かぶ。
『はい、もう迷惑はかけません』
その言葉に、レギュラスは胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
「迷惑……ではなく、心配なんです」
思わず、少し強い調子になってしまう。
アランが小さく目を見開いた。
彼女を失うことだけは、どうしても想像したくなかった。
セシール家の封印が何に用いられているのか。
その真実に騎士団が辿り着いた以上、彼らがアランを狙うことは避けられない。
そして、彼女だけではなく、同じ血を継ぐステラやアルタイルのことも――。
頭の中で、様々な可能性が冷たい水のように渦巻く。
どこをどう塞げば、すべてから守れるというのか。
その答えは、まだ見えない。
アランは、そっとレギュラスの手首に自分の手を重ねた。
“掴まれている側”であるはずの手が、逆に「大丈夫です」と宥めるように、ゆっくりと力を込める。
そのささやかなぬくもりに、レギュラスは僅かに息を吐いた。
「……すみません」
自分でも驚くほど柔らかな声になっていた。
掴んでいた手を離すと、アランは再びネクタイへ視線を戻す。
まるで、感情の波をそっと胸の奥に押し戻したかのような、落ち着いた仕草だった。
器用な指先が、絹の布を滑らかに折り重ねていく。
結び目が、ゆっくりと喉元に形を成していく。
「……この色を、よく選びますね」
鏡に映る自分の姿を見ながら、レギュラスは口にした。
深い緑色のネクタイ。
落ち着いた色合いだが、光を受けるとわずかに艶が浮かび上がる。
アランは杖を動かし、レギュラスのシャツの胸元あたりに文字を描いた。
『よく似合いますから』
短く、それだけ。
けれど、それ以上の言葉など必要ないような、確信に満ちた一文だった。
自然と口元が緩みそうになり、レギュラスは慌てて表情を引き締めた。
彼女の前でまで弱さを見せるわけにはいかない。
そう思う一方で、この狭い寝室の中でだけは、少しぐらい力を抜いてもいいのかもしれないという甘えが、静かに頭をもたげる。
「あなたの目と……同じ緑色ですね」
そう続けると、アランはふっと視線を上げた。
翡翠の瞳が、ネクタイとレギュラスの瞳を、交互に見比べる。
窓から差し込んだ朝の光が、二人の間に細い筋を落とした。
その光を受けて、アランの瞳がゆらりと深く揺れる。
翡翠色の奥に、かすかな感情の波紋が広がった。
照れくさそうに睫毛が震え、彼女はほんの少しだけ視線を逸らす。
そして、ゆっくりと頷いた。
『あなたの目は……とても綺麗です』
文字にされたその言葉を見た瞬間、レギュラスの胸に、温かさと痛みが同時に満ちた。
――守りたい。
法務部の長としてではなく、一人の男として、一人の夫として。
この翡翠の瞳を、もう二度と絶望で曇らせたくない。
地下牢で見た、声も出せずに泣いていたあの日の少女が、いま目の前で優しくネクタイを締めている。
結び目が整う。
アランは、最後に軽く布を整え、指先で結び目をとんと押さえた。
「……ありがとうございます」
レギュラスはそう言って、彼女の手を包み込む。
細い指を、自分の掌の中でそっと握る。
「本当に、家にいてください」
もう一度、念を押すように。
声は低く、どこか切実だった。
アランは、その言葉の重さを理解しているように、真剣な瞳でレギュラスを見つめた。
けれど、杖を動かした文字は、やはりどこか遠慮がちだ。
『はい。あなたに心配をかけないようにします』
“迷惑”という言葉を、今度は使わなかったことに、レギュラスはほっと胸の奥で息をつく。
彼は身を屈め、アランの額にそっと唇を触れさせた。
触れるだけの、短い口付け。
それでも、その一瞬に込めた思いは、言葉よりずっと重かった。
「……行ってきます」
耳元で囁くように告げる。
アランは小さく頷き、“いってらっしゃいませ”という文字を空中に描いた。
翡翠の文字が、朝の光の中でふっと散る。
扉の方へ歩き出しながら、レギュラスは振り返った。
ベッドのそばに立つアランが、静かに微笑んでいる。
その姿は、とても平和な夫婦の朝の一場面にしか見えない。
けれど、この日常を守るために、自分がこれから向かう場所は、血と決断の匂いに満ちている。
セシール家の封印。
ホークラックス。
騎士団の動き。
そして、彼女と子供たちを守るための、まだ見ぬ選択。
ドアノブに手をかける。
重い扉を開ける直前、レギュラスはもう一度だけ、ネクタイの色を見下ろした。
翡翠のような深い緑が、胸元で静かに光っている。
――あの瞳と、同じ色だ。
その事実が、彼にとっては鎧であり、同時に鎖でもあった。
身を守るためにまといながら、その色から逃れることは決してできない。
扉が閉まる直前、アランの姿が視界の端に揺れた。
彼女はそこに立ち、声を持たない口で「気をつけて」と言うように、そっと唇を動かしていた。
レギュラスは何も言わず、ただ一瞬だけ目を閉じてから、その朝の光景を胸に刻み、外の世界へ足を踏み出した。
その日、アランはいつものように、レギュラスの書斎の戸をそっと叩いた。
返事はない。
すでに出たあとなのだろう。
重厚な扉の取っ手をゆっくり回すと、きしりと小さな音を立てて開いた。
軋みさえも、この部屋の一部のように馴染んでいる。
書斎には、まだ朝の冷えた空気が残っていた。
窓際のカーテンは半分だけ開いていて、灰色がかった光が斜めに差し込んでいる。
本棚の列、その合間を縫うように並ぶキャビネット。
机の上には整然と積まれた書類の山と、使い込まれた羽根ペン。
レギュラスは、几帳面なくせに、仕事が多すぎて “片付けきる” ということを知らない。
アランは、彼の留守中にこっそりと書斎の空気を整えるのが習慣になっていた。
乱雑になりかけている書類の束を、内容を覗かぬよう心がけながら揃えていく。
インク壺の縁についた染みを布で拭き、砂時計をきちんと台座の中央に戻す。
そのとき――
机の端に、他の書類とは違う、封筒に入れられた数枚の紙が無造作に置かれているのが目に入った。
封蝋は解かれている。
粗く破った跡ではなく、きちんと開封され、なお机の端へと寄せられたままだ。
――まだ処理途中なのだろうか。
ただ、封筒に押された紋章が、アランの足を止めた。
騎士団の紋章。
心臓が、ひゅっと小さく縮む感覚があった。
ほんの少し前、自分を取り囲んだ仮面の男たちの姿が、瞬時に脳裏をよぎる。
魔法の閃光。
空気を裂く呪文。
ステラの背中。
メイラの震える手。
アランは、封筒に伸ばしかけた手を一度引っ込めた。
これは見てはいけない、とどこかで告げる声があった。
――でも。
“なぜ、あの日、自分が狙われたのか”
その答えは、レギュラスさえ教えてはくれない。
知るべきではないのかもしれない。
知らなければ、そのまま何も知らぬ顔でこの屋敷の中にいられる。
それでも――
ステラが杖を抜き、自分の前に立ってくれた理由を。
メイラが、自分の袖を掴んで震えていた意味を。
わからないままでいることは、あまりにも卑怯なように思えた。
アランは、静かに封筒を手に取った。
紙が擦れる音が、書斎の静寂にひどく大きく響く。
誰もいないはずなのに、振り返ってしまうほどだった。
封筒から取り出した書類には、ぎっしりと文字が並んでいる。
騎士団から法務部への正式な通達、あるいは報告書の写し。
レギュラスが目を通したあと、そのまま机の隅へ置いたのだろう。
一枚目の上部には、見慣れた言葉が並ぶ。
『魔力無効化ポーション関連調査 続報』
『ホークラックスと思しき分割魂の存在について』
アランの指先が、かすかに震えた。
二枚目に目を移した瞬間、呼吸が浅くなる。
『セシール家の封印術に関する仮説』
『対象:アラン・ブラック(旧姓セシール)およびその直系血族』
視界が、ふっと白く霞んだ。
――やっぱり。
どこかで薄く勘づいていた事実が、はっきりと文字になって眼前に突きつけられている。
文字を追う。
一行、一行。
瞳の奥に、冷たい針を埋め込まれるような感覚だった。
かつて闇の帝王が彼女を地下牢に幽閉した理由は、ただの見せしめや嗜虐ではない。
「封印」という、セシール家の血の力を利用するため。
少女であった自分は、その意味を知らぬまま、何かを封じさせられた。
報告書には、騎士団側の推測が淡々と記されている。
――ヴォルデモートの魂を分けた幾つかの器(ホークラックス)のうち、一つ、もしくは複数が、アラン・ブラックの封印術によって守られている可能性。
――セシール家の封印は「血」そのものに紐づくため、封印者のみならず、その直系の子孫もまた呪文の一部となる。
――従って、封印の完全な解除には、封印者およびその直系血族の死が必要になる、という仮説。
指先から血の気が引いていく。
――だから、自分を。
あの日、仮面の騎士たちがこちらに向けた殺意。
ただの脅しではなく、本気で命を取りにきていたことを、肌で感じていた。
なぜ、あのときステラまで――。
別の紙片に、補足のような文字が目に入る。
『サンプルケース:セシール家の封印術に関する古文書』
『封印者が死亡した際、封印の強度が不安定化する記述あり』
『封印者の血を継ぐ者が死亡した場合も同様』
――ステラも、アルタイルも。
胸の奥で何かがきしむ音がした。
鋭く、深く、ひび割れていくような感覚。
騎士団は、ヴォルデモートを倒すために、封印を揺るがす必要がある。
そのための「鍵」が、よりによって自分の血だというのなら――。
“ アラン・ブラックの抹殺は、ヴォルデモート打倒における戦略上の選択肢として検討されるべきである”
報告書の一節に、そう記されていた。
淡々とした筆致。
そこに感情はない。ただ、理屈と計算だけが並んでいる。
指先で、紙の端をぎゅっと掴んだ。
白い関節が、じわりと痛む。
――仕方のないこと。
胸の奥から、そんな言葉が浮かんでくる。
誰かが、ヴォルデモートを倒さなければならない。
誰かが、そのために血を流さなければならない。
あの日からずっと、世界はそういう形の上に成り立ってきた。
マグルの孤児院。
セシール家の屋敷。
地下牢。
“誰かの犠牲の上に成り立つ平穏” が、この世界の常だった。
今度は、その「誰か」に、自分と、自分の子供たちが選ばれただけ。
紙面の文字がにじんだ。
涙が零れそうになる。
けれど、落としてはいけないと本能的に思い、アランは目を強く閉じた。
――泣いてはいけない。
ここで涙をこぼせば、紙を濡らしてしまう。
証拠を汚すことは、レギュラスの仕事の邪魔になってしまう。
そんな下らない理由にすがらなければ、涙をこらえる術すら見つけられない。
彼の名前も、この書類には記されていた。
“法務部レギュラス・ブラックの判断により、アラン・ブラックおよびその子らの保護が優先されている現状”
“騎士団との見解の相違”
“レギュラス・ブラックの個人的感情が判断に影響している可能性”
個人的感情。
――そう、きっとそう。
レギュラスの判断は、法務部の長としては誤りなのかもしれない。
騎士団から見れば、彼は世界全体よりも、妻と子を優先している。
だが、夫として、父として、それ以外にどんな選択ができるだろう。
アランは、そっと紙を伏せた。
震える指先で、丁寧に重ね直し、封筒へ戻す。
元あった場所に、角度まで揃えて置いた。
書斎の空気が、急に違うものに思えた。
壁一面の本棚。
その背表紙の列が、責務と罪、理屈と感情をぎゅうぎゅうに詰め込んで立ち並んでいるように見える。
――狙われていたのですね、わたしは。
言葉にはならない思いが、胸の内側にたゆたう。
仮面をつけた騎士たちの姿が、もう一度脳裏をよぎる。
その間に立ち塞がったステラの背中。
大きな、強い魔力のうねり。
そして、震える手でローブの裾を掴んでいたメイラの感触。
あのとき、自分が死んでいれば、何かが変わっただろうか。
その問いが、ふと浮かび、胸を刺した。
もし、自分だけがそこにいて、ステラが来なかったなら。
自分一人が狙われ、そこで命を落としていれば――。
ホークラックスの封印は揺らぎ、騎士団は満足しただろうか。
ヴォルデモートを倒すための道が、少しは広がっただろうか。
だが、現実にはステラが来てしまった。
あの子の中にも、セシール家の血は流れている。
彼女を殺さねば封印が揺らがないのだとしたら、騎士団は今後も、ステラを狙う。
アルタイルさえも。
指先が、無意識に胸元へと上がる。
そこには何も刻まれていないはずなのに、見えない烙印が押されているような気がした。
――この血に、呪いのような封印を乗せたのは誰?
ヴォルデモート。
セシール家の昔の当主たち。
レギュラス。
そして、何よりも、自分自身。
覚悟も知らぬまま封印を強いられたあの日の少女は、何も選べなかった。
けれど、その後に子を産むことは、自分自身が選んだ。
レギュラスと共に、ステラを、アルタイルをこの世に送り出したのは、他でもない自分だ。
――なんて身勝手なのだろう。
自分の望んだ“家族”という形の中に、すでに呪いが仕込まれていたのに。
その事実から目を逸らし続けてきた。
それでも。
それでも、あの子たちの笑顔を思えば、「産まなければよかった」などとは言えない。
彼らがいてくれたから、自分はここまで生きてこられた。
レギュラスの隣で、光を見つけることができた。
アランは、静かに目を閉じた。
胸の奥で、ゆっくりと一つの思いが形を取っていく。
――自分が狙われるのは仕方のないこと。
ホークラックスを守る封印であり続ける限り、自分の存在そのものが、この世界にとっての危うさなのかもしれない。
ならば、いつか自分が命を差し出さなければならない日も来るだろう。
けれど。
ステラとアルタイルだけは。
どうか、生きさせてほしい。
騎士団がどれほど理屈を並べようと、世界のためだと叫ぼうと。
罪を犯したのは、自分とレギュラスだ。
封印を背負わされたのも、自分だ。
その結果として、「殺されなければならない対象」に、子供たちまで含めないでほしい。
――そのためなら、何でもする。
声なき声が、書斎の中に沈んでいく。
言葉として外に出せない代わりに、胸の奥に固く刻み込まれる。
そのとき、廊下の遠くで小さな気配がした。
メイラが洗濯物を抱えて歩いている気配。
アルタイルの笑い声が、階下からかすかに聞こえてくる。
アランは、書斎をそっと振り返った。
レギュラスの椅子。
彼の座る場所には、まだうっすらと体温の気配が残っているような気がした。
この部屋で彼は、法務部の長として世界を見ている。
一方で、夫として、父として、自分たちの小さな世界を守ろうとしている。
あの日、自分が騎士団に囲まれたことを、彼はどこまで知っているのだろう。
どこまで察しているのだろう。
アランは、机の上に並ぶ書類にもう一度視線を落とし、それから静かに首を振った。
――今は、まだ言わない。
この事実を口にしてしまえば、レギュラスはきっと、さらに追い詰められる。
彼は彼で、自分とは別の場所で、罪と責務に押し潰されそうになっているのだから。
せめて、今は。
彼の前では、いつものように微笑んでいたい。
何も知らないふりをして、ネクタイを結び、送り出す妻でいたい。
そう思って、アランは深く息を吸い込んだ。
書斎の扉に手をかける。
翡翠の瞳に、一瞬だけ決意の影が宿る。
――もし、いつか。
騎士団とレギュラスの正義が真正面からぶつかり、自分の命がその天秤の上に置かれる日が来たなら。
そのときこそ、自分の選ぶべき答えを、はっきりと掴まなければならない。
ただ一つ願うのは――
その天秤の皿に、どうか子供たちの命だけは乗りませんように。
声にならない祈りを胸に隠しながら、アランは静かに書斎を後にした。
ステラは立ち上がる。
窓から離れ、姿見の前に立った。
鏡の中に映る自分は、相変わらず整っていた。
母をなぞるような髪の艶。
父譲りの鋭さを帯びた輪郭。
人の心を射抜く翡翠の瞳。
「……この血が、封印を継いでいる」
小さく呟き、鏡の中の自分を睨みつける。
いっそ、この血を呪いたかった。
いっそ、この血を誇ってやりたかった。
どちらも、同じくらいの強さで胸の中にあった。
二人のエゴのために産み落とされた――と、恨みたかった。
それでも、あの瞬間母を守れたことを誇らしく思ってしまう。
自分がいなければ、母は死んでいた。
守れるだけの強さがあったことを、確かに嬉しいと思っている。
「本当に、救いがないわね」
皮肉を込めて笑ってみせる。
鏡の中の少女も、同じように笑った。
騎士団は、理想のために母を、セシール家の血を継ぐ自分たちを排除しようとしている。
父は、その事実を隠し、なおも自分たちを生かそうとしている。
母は、何も知らずに、封印を抱えたまま、今日も静かに笑っている。
そのどれもが、正しくて、同じくらい間違っている。
ステラは、鏡越しに自分へ視線を突き刺した。
「いいわ。
どうせ酷い話なら――
最後の結末くらい、私が選んでやる」
その言葉は、誰にも聞かれてはならない決意の片鱗だった。
扉の向こうでは、まだ誰も気づいていない。
セシール家の血を継いだ娘が、世界のど真ん中で、誰の正義にも完全には与しない道を探そうとしていることに。
ステラはローブの裾を翻し、窓辺の灯りを消した。
闇の中で、翡翠の瞳だけが、しばらく鋭く輝いていた。
寝室の扉の前で、レギュラスは一度だけ足を止めた。
ノブに添えた手に、わずかに力が入る。
問い詰めるのは、違う。
胸の奥に渦巻く苛立ちと恐怖を、彼はゆっくりと飲み込んだ。
あの場にステラが駆けつけなければ――その先の光景を思い描いた瞬間、喉の奥が冷たく締め付けられる。
深く息を吐き、ようやく扉を押し開けた。
部屋の中は、柔らかな灯りに満ちていた。
ベッド脇のスタンドに灯った魔法灯が、白いシーツと淡いカーテンを金色に染めている。
扉が開く音に、ベッドの上のアランがはっと顔を上げた。
半身を起こし、乱れかけたブランケットを胸元まで引き寄せる仕草が、どこか小動物のように頼りない。
「……寝ていていいですよ。疲れているでしょう」
レギュラスは、出来る限りいつも通りの声音で言った。
怒りの温度を悟らせまいと、言葉の端々を慎重になぞる。
アランはその言葉に首を振り、枕元に置いていた杖を手に取る。
白い指先が、空中にさらさらと文字を描いた。
『ごめんなさい レギュラス
あんなことになるなんて 思いませんでした』
宙に浮かぶ銀の文字が、少し震えている。
その震えが恐怖からなのか、罪悪感からなのか、あるいは両方なのか。
レギュラスは、胸がきゅうと縮むのを感じた。
「……ステラも心配していました」
静かな声で告げる。
アランの長い睫毛が、ぴくりと揺れた。
「今後、なにか怪しい手紙を受け取ったら――必ず僕に教えてください」
命令ではなく、願いとして。
声に乗せた温度が伝わるのか、アランは素直に頷いた。
ベッドの上に投げ出された彼女の杖が、小さく転がる。
たったそれだけの音さえ、この部屋の静寂には大きく響いた。
沈黙が落ちた。
なぜ、自分が狙われるのか――。
アランの翡翠色の瞳の奥で、その問いがゆっくりと形を取り始めているのが分かる。
レギュラスは、その視線から目を逸らしたくなった。
地下牢の湿った石畳。
鎖に繋がれた少女。
無理やりその魂に押し込めさせた、黒い“かけら”。
ホークラックス。
闇の帝王の魂を裂き、封じ込める禁術。
かつてアランが封印させられたものの正体。
彼女の血が生きている限り、完全には壊れない鎖。
そして、その血を継いだステラとアルタイルもまた、同じ狙いの的になり得るという残酷な真実。
――どれも、とてもじゃないが、いまこの夜に告げていい話ではなかった。
“あなたは、闇の帝王の残滓を封じた器なのだ”と。
“だから騎士団は、あなたを殺そうとしているのだ”と。
その言葉を、翡翠の瞳に映る不安の上に載せることなどできない。
アランの指先が、再び杖へと伸びていく。
問いを綴ろうとするその動きを、レギュラスは一歩で詰め寄って遮った。
そっと、その手を包む。
驚いたように見上げてくる翡翠の視線に、レギュラスは苦笑に似た表情を浮かべた。
「…… アラン」
名前を呼ぶだけで、喉に砂がつまるような感覚が走る。
言葉にすれば、どこかが決定的に壊れてしまいそうで。
だから、先に唇を重ねた。
柔らかな唇が一瞬だけ固まり、それからゆるりとほどけていく。
アランの指から杖が滑り落ち、シーツの上に転がる乾いた音がした。
レギュラスは、唇を離すぎりぎりのところで囁いた。
「あなたが無事で……よかったです」
それは、あまりにも率直な本音だった。
飾りも言い訳もない、ただの安堵。
アランの瞳が大きく瞬き、次の瞬間、縋るように彼のシャツを掴んできた。
その細い指先の震え方に、レギュラスは、自分の恐怖と彼女の恐怖が同じ場所で共鳴していたのだと知る。
ゆっくりと、アランの体をシーツへと沈めていく。
枕に広がる柔らかな髪。
灯りに照らされて淡く光る白い喉。
触れた肩が思っていたよりも細くて、レギュラスは胸の奥で何かが軋む音を聞いた気がした。
ステラが間に合わなければ――
その“もしも”の先にある光景が、まざまざと脳裏に浮かび上がる。
血の気を失った体。
もう二度と開かない翡翠の瞳。
この部屋から、永遠に消えてしまう笑顔。
喉が震えた。
恐ろしくて、吐き気がするほどに。
だから彼は、確かめるように触れた。
アランの頬に、首筋に、肩に。
そこに確かにある温もりを、指先で何度もなぞる。
薄い寝間着越しに感じる体温。
呼吸のたびに、かすかに上下する胸元。
乱れた吐息が、彼の首筋にかかっては消えていく。
そのひとつひとつが、「今、ここに生きている」という証だった。
アランの指が、おずおずと彼の背に回る。
ぎゅっと掴むというより、確かめるように。
“ここにいます”と告げるような、弱いけれど必死な力加減。
レギュラスは、もう一度深く口付けた。
溢れる吐息を、一滴残らず自分の中に取り込むかのように。
この声が、温もりが、呼吸が――すべて自分の腕の中のものだと、何度でも刻み付けたかった。
どれほど時間が流れたのか。
灯りはまだ消されていないのに、部屋の空気は夜の深みに溶けていた。
シーツの上で、互いの体温がゆっくりと混ざり合い、激しさの余韻だけが微かな震えとなって残っている。
レギュラスは、アランを胸元に抱き寄せた。
彼女の額に落とした唇に、まだ熱が残っている。
結局――何ひとつ、真実を話せてはいない。
なぜ狙われたのか。
騎士団が何に気づき始めているのか。
彼女の血と封印と、その先に待ち構える危うさのすべてを。
それでも今は、言葉よりも先に優先したいものがあった。
アランの指先が、彼のシャツの布をきゅっとつまむ。
その小さな仕草に、レギュラスは静かに目を閉じる。
――守りきらなければならない。
彼女がどんな真実を知らされようと、知らされまいと。
どの陣営がどんな正義を掲げようと。
この腕の中のかすかな吐息だけは、決して奪わせない。
その誓いを噛みしめるように、レギュラスはアランの髪を撫でおろした。
彼女の震えが、少しずつ落ち着いていくのを感じながら、深く静かに、夜の底へと沈んでいった。
遠巻きに見えていた建物の輪郭が、夜の闇に完全に溶け込んでいく。
さっきまでそこにいた女と少女の気配も、痕跡だけを残して消えていた。
騎士団の隠れ家に戻った時、張り詰めた空気が一斉にジェームズたちを迎えた。
湿った石壁に囲まれた小さな部屋。粗末なテーブルの上には、まだ冷めきらない紅茶と、椅子の背に雑にかけられたローブがいくつか。
見慣れた光景なのに、今夜はすべてが妙に遠く感じられた。
無言のまま椅子に腰を落としたジェームズの肩から、砂のように力がこぼれ落ちていく。
隣ではリーマスがローブを脱ぎかけ、動きを止めていた。
「……やられたな」
誰にともなく、ジェームズがかすれた声で言った。
拳を握り締めたまま、テーブルの木目を睨みつける。
頭の中には、ついさっきの光景が焼き付いて離れない。
仮面の下から呪文を放とうとした瞬間――
アランの前に、細い影がすっと割り込んだ。
黒髪が弧を描き、緑の瞳が月光を跳ね返した。
少女の手に握られた杖から放たれた盾の呪文は、騎士団の攻撃を弾き返し、続けざまに放たれた反撃は、訓練を積んだ大人の魔法使いたちでさえ息を呑むほど鋭く、正確だった。
半端な防御ではない。
完全に「守る」ための魔法だった。
――ステラ・ブラック。
レギュラスブラックとアランの娘。
まだホグワーツに通う年頃の少女。
あの魔力は……レギュラスに似ている、どころじゃない。
ジェームズは奥歯を噛み締めた。
仮面越しにも、全身が震えたあの感覚を思い出す。
桁外れの魔力。
攻防の切り替えの速さ。
何より、迷いのない眼差し。
母を守るためだけに振るわれた、その魔法の容赦のなさに、ジェームズは戦慄と同時に妙な敬意すら覚えていた。
「……あの娘も、セシール家の血を継いでる……」
思わず漏らした言葉が、狭い部屋の空気を震わせた。
「やめるんだ、ジェームズ」
すぐさま隣から、リーマスの低い声が飛んでくる。
振り向けば、彼は眉間に深い皺を刻み、こちらを強く見据えていた。
「今、その先を言うな」
ジェームズは唇を噛んだ。
けれど、心に浮かんだ結論は、もう言葉の形になりかけている。
「でも、そうだろう」
声が自然と荒くなる。
「アラン・ブラックだけが死んだって、何も終わらない。ステラ・ブラックも、アルタイル・ブラックも生きている限り、セシール家の封印は続く。封印が生きてる限り、ホークラックスは完全には壊せない」
それが、彼らが辿り着いた“答え”だった。
残酷すぎる理屈。
だが論理としては逃げ場がない。
リーマスは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「……だからって、その子どもたちまで“標的”にするのか?」
静かな問いかけだった。
責める口調ではないのに、一語一句が胸に刺さる。
「ジェームズ。俺たちは、何を憎んでここまで来た?」
ジェームズの脳裏に、かつての新聞記事がよみがえる。
マグルの孤児院で起きた惨殺事件。
小さな棺が並んだ写真。
魔力の痕跡が残されていたことから、魔法族の関与が疑われ、魔法界中が震えたあの事件。
レギュラス・ブラックの名が、その中心にあった。
「子どもの命を、何だと思っている」
「どれだけの未来を奪ったか分かっているのか」
あの時、自分たちは声を枯らして叫んだ。
闇の陣営を糾弾し、その罪を白日の下に引きずり出すと誓った。
――それなのに、今。
自分たちがやろうとしていることは何だ。
レギュラスブラックの妻。
そして、彼女が産んだ、罪のない子どもたち。
彼らを「仕方がない犠牲だ」と切り捨てようとしている。
「……分かってる」
ジェームズは額に手を当て、かきむしるように髪を掴んだ。
「分かってるさ。あまりにも酷い。
でも、ヴォルデモートを倒せる可能性がそこにあるなら……」
言いながら、自分の声が少しずつ掠れていくのに気づく。
正義と呼んできたものが、じわじわと濁っていく音がした。
リリーとハリーの顔が浮かぶ。
許可証がなければ、妻は両親のもとへも自由に帰れない世界。
息子は、マグル界を「完全な外側」としてしか知ることのない世界。
それを生み出した張本人――レギュラス・ブラック。
彼に対する怒りが薄れたわけではない。
だがその怒りの先に、「子どもを殺す」という選択肢を本当に置いてしまっていいのか。
喉の奥から、苦いものがせり上がる。
「……俺たちが今やろうとしてることは」
リーマスが、テーブルの上に組んだ指をじっと見つめながら呟く。
「かつて俺たちが非難した“あの事件”と、何が違うんだろうね」
静かな言葉が、最も鋭かった。
マグルの孤児院で奪われた命。
家族を持てなかった子どもたち。
誰にも守られなかった小さな背中。
その子どもたちを、レギュラスは「必要な犠牲」として見ていたのだろう。
今の自分たちのように。
ジェームズは、深く俯いた。
拳が震えているのを止められなかった。
「……それでも、何もしないって選択だけはできない」
ようやく絞り出した声は、悲鳴に近かった。
「ヴォルデモートを倒さなきゃ、いつかもっと多くの子どもたちが殺される。
マグルも、魔法族も、何もかもだ」
その言葉は、紛れもない真実だった。
そして同時に、あまりにも危うい免罪符でもあった。
リーマスはゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥には、迷いと疲弊と、それでも見捨てきれない優しさが混ざり合っている。
「分かってるよ、ジェームズ」
短くそう言ってから、彼は続けた。
「だからこそ、忘れるな。
俺たちの“正義”が、いつの間にか誰かにとっての“残虐”に変わる瞬間があるってことを」
部屋の隅で、誰かが息を飲む音がした。
他の団員たちも、言葉を挟めずにいる。
ステラの瞳が脳裏に浮かぶ。
母を庇うように前に立った少女。
まっすぐに杖を構え、怯えながらも決して退かなかった姿。
あの目を、自分たちは本当に“敵”として見続けるのか
ジェームズは答えを出せないまま、強く目を閉じた。
レギュラス・ブラックの罪を暴きたいと望んでいた。
彼が犯した残酷さを、世界に知らしめたいと願っていた。
――だが今、その“罪”の真似事をしているのは、自分たちの側なのかもしれない。
正義の行方が、どこにあるのか。
何を守り、何を切り捨てるのか。
分からないまま、夜だけが深くなっていった。
翌朝の食堂は、いつもより少しだけ静かだった。
薄い霧のような朝靄が、磨き上げられた窓ガラスの向こうにへばりついている。天井近くを滑る燭台の炎は、まだ夜の名残を引きずっているのか、どこか頼りなく揺らいでいた。
長く伸びたテーブルの上には、湯気を立てるスープと焼きたてのパン、銀のポットに満たされた紅茶。
すべてが、いつも通りの朝の光景――のはずだった。
けれど、その中央に座る少女の存在が、空気の温度をわずかに下げていた。
ステラ・ブラック。
背筋を伸ばし、ナイフとフォークをほとんど音も立てずに扱うその所作は、完璧なまでに貴族の令嬢だった。
喉元に落ちる黒髪が、朝の光を淡く吸い込み、翡翠色の瞳は伏せられたまま、皿の上と変わらぬ冷静さを保っている。
――昨夜、あの子が前に出て杖を構えた。
アランは胸の奥でそっと息を飲む。
仮面をつけた男たちの呪文が飛び交う中、ステラは迷わなかった。
自分とメイラの前に立ち、まるで盾のように細い身体を差し出してくれた。
震えていたはずなのに、その腕は微塵も揺れずに光を弾き返していた。
今、目の前で静かにパンを切り分けている少女と、昨夜、幾筋もの呪文を跳ね返していた少女が、どうしても同じ存在に思えない。
それでも――確かに、あの時自分を救ったのは、この子だった。
アランは、そっと杖を取った。
白く細い指先に、まだわずかな震えが残っている。
テーブルクロスの上に、なめらかに文字が描かれていく。
『ステラ、あなたのおかげで……私も、メイラも無事でした』
インクの代わりに、淡い光の線が文字をかたどる。
それがステラの視界の端に触れた瞬間、翡翠の瞳が一度だけこちらに動いた。
けれど、少女は何も言わなかった。
表情ひとつ変えず、再び視線を皿へと戻し、淡々と食事を続ける。
フォークが皿に触れる微かな音が、やけに大きく響く。
アランの胸が、きゅっと締め付けられた。
もう一度、杖を握り直す。
『あなたの……杖を振るう姿は、レギュラスにそっくりです』
昨夜の光景が鮮明によみがえる。
母の前に立ちふさがるように杖を上げ、襲い来る光を鋭く弾いた娘。
あの時、ステラの横顔に宿っていた影は、確かにレギュラスに似ていた。
揺らぎのない集中。
冷静な軌道。
怒りと恐れを飲み下して、ただ守るためだけに放たれた魔法。
――いつのまに、あんなに。
アランは自分の胸の内で問いかける。
いつのまに、こんなに凛々しくなってしまったのだろう。
いつのまに、自分よりずっと前に立ち、守る側に回れるほど強くなったのだろう。
小さな手を握って歩いた頃のことを思い出す。
まだ言葉も拙く、不安げに裾を握っていた幼いステラ。
熱を出して眠れない夜に、ベッドの端でそっと額を撫で続けたこと。
少しでも離れようとすると、翡翠の瞳が不安に揺れて、自分のローブを掴んできたこと。
――あの子は、もうあの頃の娘ではない。
気づけば、ステラはいつだって「自分でやる」と手を振り払うようになっていた。
部屋に籠る時間が増え、声を掛けても短い返事だけ。
ホグワーツへ行ってからは、なおさらだ。
手紙を送っても返事はない。
ホグワーツの生活を案ずる一方的な文字たち。そこに「返事が欲しい」とは、とうとう書けなかった。
気がついたときには、娘はとっくに、自分の手の届かないところへ歩き出していた。
『ありがとう、ステラ』
アランは、もう一度だけ丁寧に文字を描いた。
せめて、この言葉だけは伝えたかった。
あの時、迷いなく自分の前に立ってくれたこと。
その背中を見たとき、どれほど胸が誇らしく、同時に痛かったか。
ステラの手が一瞬だけ止まる。
翼のように長い睫毛が、ほんのわずか震えるのが見えた。
「……これが正しい選択だったのかどうかは、分かりませんが」
初めて口を開いた娘の声は、澄んでいながら氷の縁を持っていた。
テーブルの上に視線を落としたまま、淡々と落とすような口調。
アランは、胸の奥から込み上げる痛みを抑えながら、それでも穏やかな微笑みを浮かべようとする。
喉から声は出ない。
だからこそ、杖をもう一度握りしめて文字を紡ぐ。
『それでも……私たちは、あなたに救われました』
ステラはゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳が、初めて真正面からアランを見据える。
その色は、アランと同じでありながら、まるで別の光を宿していた。
「……私も」
小さく息を吸い込む気配。
言葉を吐き出す前の、わずかな逡巡。
「まだ、“あなたの娘でいよう”と思う心が残っていたことに……救われた思いでした」
その言葉は、刃のようでもあり、かすかな温度を含んだ火種のようでもあった。
アランの胸に、静かな衝撃が広がる。
――まだ。
まだ、娘の中に「あなたの娘でいたい」と思える部分が残っている。
それは、ステラ自身も驚いている事実なのかもしれなかった。
こぼれ落ちてしまったと思っていた糸が、辛うじて一本だけ、ぎりぎりのところで繋がっている。
ステラはナプキンをきちんと畳み、椅子から立ち上がる。
優雅な所作のどこにも、さっきの言葉の揺らぎは見えない。
背筋を伸ばし、振り返ることなく、静かに食堂をあとにした。
残された椅子の背が、余計に空虚さを際立たせる。
「……照れ隠しでしょうね、あれは」
沈黙を破ったのはレギュラスだった。
カップを持つ指先に、さりげない力がこもっている。
けれどその瞳には、どこか柔らかな色も浮かんでいた。
「あなたを心配していましたから」
そう言ってアランを見る横顔は、いつもと変わらぬように見える。
娘の不器用さを理解している父の、少し頼もしい声。
けれど、アランの耳には、そのフォローがうまく届かなかった。
――ステラも、アルタイルも。
この家に生まれてこなければよかった、そう思った瞬間があったのだろうか。
声を持たない母よりも、マグルの娘に世話を焼いてもらう事が多かったこともあっただろうに。
それでも「娘でいようと思う心」が残っていたと言った。
それは感謝であり、同時に、どこか諦めのようにも聞こえた。
アランはそっと視線を落とす。
自分は、本当に「娘を守れるような親」だっただろうか。
ステラも、アルタイルも、メイラも――どの子にも同じだけの愛を注いできたつもりだった。
けれど、その愛はどこかで途切れ、落ち、誰かの心から零れ落ちてしまったのかもしれない。
見えないところで、あの子の中に積もっていった孤独や怒りや嫉妬に、気づけなかった。
いつの間にか、守っていると思っていたはずの娘に、今度は自分が守られてしまった。
――ありがとう、と伝えた。
――まだ娘でいようと思う、と返された。
それは確かに、救いだった。
けれど同時に、その言葉の「まだ」が、心のどこかで鋭く棘のように引っかかる。
アランはそっと、レギュラスの方へ顔を向けた。
彼は何も言わず、ただアランの手の上に自分の手を重ねる。
温かな掌の重みが、静かに伝わってきた。
娘との距離は、きっと簡単には埋まらない。
それでも、この朝、辛うじて交わったひとつの言葉だけを、アランは胸の奥に大切に抱き締めた。
――まだ。
まだ、完全には失われていない。
その事実だけが、ひどく心細い朝の光の中で、かろうじて彼女を支えていた。
朝の光は、まだやわらかく淡かった。
ブラック家の主寝室の窓から差し込むそれは、重厚なカーテンの隙間をすり抜け、床に細長い帯を落としている。磨き込まれた床板に、淡い金色がかすかに揺れた。
レギュラスは鏡台の前でシャツの襟を整えていた。鎖骨に触れる布の感触を確かめるように指先で撫で、深く息をひとつ吐く。
今日もまた、法務部に出向けば山積みの決裁と報告が待っている。
騎士団の動き。
ホークラックス。
セシール家の封印。
考えなければならないことは、夜を越えてもなお減ることはなかった。
ふと、背後で布擦れの音がした。
振り返ると、アランが静かに近づいてくるところだった。淡い色のローブを羽織り、長い黒髪はまだゆるやかな寝癖を残している。
翡翠色の瞳だけは、すでにいつものように澄んでいた。
アランは微笑みを浮かべ、すっと腕を伸ばす。
ベッドの脇のチェストに置かれていたネクタイを手に取ると、レギュラスの正面に立ち、当然のように襟元へと手を伸ばしてきた。
「……支度を、手伝ってくださるんですか」
問いかけると、アランはこくりと頷く。
何度も繰り返してきた朝の光景。
けれど、昨夜の出来事を思えば、その何気なさがひどく愛おしく、そして心細くも感じられた。
彼女の細い指が、ネクタイの端を器用に折り、首元へと回していく。
喉元に絹の感触と、ほんの少しひんやりとした彼女の指の温度が触れた。
レギュラスは、思わずその手首を取った。
結び目に手をかけたままのアランの身体を、ぐっと引き寄せる。
淡い香りが胸元にふわりと広がった。
アランの体温が、薄いローブ越しに伝わってくる。
「……家にいてくださいね」
低く押し殺した声で告げる。
命令ではなく、懇願に近かった。
アランは、驚いたように瞬きをしてから、そっと杖を取り出した。
レギュラスの胸元と自分の身体の間――狭い空間に、ふわりと文字が浮かぶ。
『はい、もう迷惑はかけません』
その言葉に、レギュラスは胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
「迷惑……ではなく、心配なんです」
思わず、少し強い調子になってしまう。
アランが小さく目を見開いた。
彼女を失うことだけは、どうしても想像したくなかった。
セシール家の封印が何に用いられているのか。
その真実に騎士団が辿り着いた以上、彼らがアランを狙うことは避けられない。
そして、彼女だけではなく、同じ血を継ぐステラやアルタイルのことも――。
頭の中で、様々な可能性が冷たい水のように渦巻く。
どこをどう塞げば、すべてから守れるというのか。
その答えは、まだ見えない。
アランは、そっとレギュラスの手首に自分の手を重ねた。
“掴まれている側”であるはずの手が、逆に「大丈夫です」と宥めるように、ゆっくりと力を込める。
そのささやかなぬくもりに、レギュラスは僅かに息を吐いた。
「……すみません」
自分でも驚くほど柔らかな声になっていた。
掴んでいた手を離すと、アランは再びネクタイへ視線を戻す。
まるで、感情の波をそっと胸の奥に押し戻したかのような、落ち着いた仕草だった。
器用な指先が、絹の布を滑らかに折り重ねていく。
結び目が、ゆっくりと喉元に形を成していく。
「……この色を、よく選びますね」
鏡に映る自分の姿を見ながら、レギュラスは口にした。
深い緑色のネクタイ。
落ち着いた色合いだが、光を受けるとわずかに艶が浮かび上がる。
アランは杖を動かし、レギュラスのシャツの胸元あたりに文字を描いた。
『よく似合いますから』
短く、それだけ。
けれど、それ以上の言葉など必要ないような、確信に満ちた一文だった。
自然と口元が緩みそうになり、レギュラスは慌てて表情を引き締めた。
彼女の前でまで弱さを見せるわけにはいかない。
そう思う一方で、この狭い寝室の中でだけは、少しぐらい力を抜いてもいいのかもしれないという甘えが、静かに頭をもたげる。
「あなたの目と……同じ緑色ですね」
そう続けると、アランはふっと視線を上げた。
翡翠の瞳が、ネクタイとレギュラスの瞳を、交互に見比べる。
窓から差し込んだ朝の光が、二人の間に細い筋を落とした。
その光を受けて、アランの瞳がゆらりと深く揺れる。
翡翠色の奥に、かすかな感情の波紋が広がった。
照れくさそうに睫毛が震え、彼女はほんの少しだけ視線を逸らす。
そして、ゆっくりと頷いた。
『あなたの目は……とても綺麗です』
文字にされたその言葉を見た瞬間、レギュラスの胸に、温かさと痛みが同時に満ちた。
――守りたい。
法務部の長としてではなく、一人の男として、一人の夫として。
この翡翠の瞳を、もう二度と絶望で曇らせたくない。
地下牢で見た、声も出せずに泣いていたあの日の少女が、いま目の前で優しくネクタイを締めている。
結び目が整う。
アランは、最後に軽く布を整え、指先で結び目をとんと押さえた。
「……ありがとうございます」
レギュラスはそう言って、彼女の手を包み込む。
細い指を、自分の掌の中でそっと握る。
「本当に、家にいてください」
もう一度、念を押すように。
声は低く、どこか切実だった。
アランは、その言葉の重さを理解しているように、真剣な瞳でレギュラスを見つめた。
けれど、杖を動かした文字は、やはりどこか遠慮がちだ。
『はい。あなたに心配をかけないようにします』
“迷惑”という言葉を、今度は使わなかったことに、レギュラスはほっと胸の奥で息をつく。
彼は身を屈め、アランの額にそっと唇を触れさせた。
触れるだけの、短い口付け。
それでも、その一瞬に込めた思いは、言葉よりずっと重かった。
「……行ってきます」
耳元で囁くように告げる。
アランは小さく頷き、“いってらっしゃいませ”という文字を空中に描いた。
翡翠の文字が、朝の光の中でふっと散る。
扉の方へ歩き出しながら、レギュラスは振り返った。
ベッドのそばに立つアランが、静かに微笑んでいる。
その姿は、とても平和な夫婦の朝の一場面にしか見えない。
けれど、この日常を守るために、自分がこれから向かう場所は、血と決断の匂いに満ちている。
セシール家の封印。
ホークラックス。
騎士団の動き。
そして、彼女と子供たちを守るための、まだ見ぬ選択。
ドアノブに手をかける。
重い扉を開ける直前、レギュラスはもう一度だけ、ネクタイの色を見下ろした。
翡翠のような深い緑が、胸元で静かに光っている。
――あの瞳と、同じ色だ。
その事実が、彼にとっては鎧であり、同時に鎖でもあった。
身を守るためにまといながら、その色から逃れることは決してできない。
扉が閉まる直前、アランの姿が視界の端に揺れた。
彼女はそこに立ち、声を持たない口で「気をつけて」と言うように、そっと唇を動かしていた。
レギュラスは何も言わず、ただ一瞬だけ目を閉じてから、その朝の光景を胸に刻み、外の世界へ足を踏み出した。
その日、アランはいつものように、レギュラスの書斎の戸をそっと叩いた。
返事はない。
すでに出たあとなのだろう。
重厚な扉の取っ手をゆっくり回すと、きしりと小さな音を立てて開いた。
軋みさえも、この部屋の一部のように馴染んでいる。
書斎には、まだ朝の冷えた空気が残っていた。
窓際のカーテンは半分だけ開いていて、灰色がかった光が斜めに差し込んでいる。
本棚の列、その合間を縫うように並ぶキャビネット。
机の上には整然と積まれた書類の山と、使い込まれた羽根ペン。
レギュラスは、几帳面なくせに、仕事が多すぎて “片付けきる” ということを知らない。
アランは、彼の留守中にこっそりと書斎の空気を整えるのが習慣になっていた。
乱雑になりかけている書類の束を、内容を覗かぬよう心がけながら揃えていく。
インク壺の縁についた染みを布で拭き、砂時計をきちんと台座の中央に戻す。
そのとき――
机の端に、他の書類とは違う、封筒に入れられた数枚の紙が無造作に置かれているのが目に入った。
封蝋は解かれている。
粗く破った跡ではなく、きちんと開封され、なお机の端へと寄せられたままだ。
――まだ処理途中なのだろうか。
ただ、封筒に押された紋章が、アランの足を止めた。
騎士団の紋章。
心臓が、ひゅっと小さく縮む感覚があった。
ほんの少し前、自分を取り囲んだ仮面の男たちの姿が、瞬時に脳裏をよぎる。
魔法の閃光。
空気を裂く呪文。
ステラの背中。
メイラの震える手。
アランは、封筒に伸ばしかけた手を一度引っ込めた。
これは見てはいけない、とどこかで告げる声があった。
――でも。
“なぜ、あの日、自分が狙われたのか”
その答えは、レギュラスさえ教えてはくれない。
知るべきではないのかもしれない。
知らなければ、そのまま何も知らぬ顔でこの屋敷の中にいられる。
それでも――
ステラが杖を抜き、自分の前に立ってくれた理由を。
メイラが、自分の袖を掴んで震えていた意味を。
わからないままでいることは、あまりにも卑怯なように思えた。
アランは、静かに封筒を手に取った。
紙が擦れる音が、書斎の静寂にひどく大きく響く。
誰もいないはずなのに、振り返ってしまうほどだった。
封筒から取り出した書類には、ぎっしりと文字が並んでいる。
騎士団から法務部への正式な通達、あるいは報告書の写し。
レギュラスが目を通したあと、そのまま机の隅へ置いたのだろう。
一枚目の上部には、見慣れた言葉が並ぶ。
『魔力無効化ポーション関連調査 続報』
『ホークラックスと思しき分割魂の存在について』
アランの指先が、かすかに震えた。
二枚目に目を移した瞬間、呼吸が浅くなる。
『セシール家の封印術に関する仮説』
『対象:アラン・ブラック(旧姓セシール)およびその直系血族』
視界が、ふっと白く霞んだ。
――やっぱり。
どこかで薄く勘づいていた事実が、はっきりと文字になって眼前に突きつけられている。
文字を追う。
一行、一行。
瞳の奥に、冷たい針を埋め込まれるような感覚だった。
かつて闇の帝王が彼女を地下牢に幽閉した理由は、ただの見せしめや嗜虐ではない。
「封印」という、セシール家の血の力を利用するため。
少女であった自分は、その意味を知らぬまま、何かを封じさせられた。
報告書には、騎士団側の推測が淡々と記されている。
――ヴォルデモートの魂を分けた幾つかの器(ホークラックス)のうち、一つ、もしくは複数が、アラン・ブラックの封印術によって守られている可能性。
――セシール家の封印は「血」そのものに紐づくため、封印者のみならず、その直系の子孫もまた呪文の一部となる。
――従って、封印の完全な解除には、封印者およびその直系血族の死が必要になる、という仮説。
指先から血の気が引いていく。
――だから、自分を。
あの日、仮面の騎士たちがこちらに向けた殺意。
ただの脅しではなく、本気で命を取りにきていたことを、肌で感じていた。
なぜ、あのときステラまで――。
別の紙片に、補足のような文字が目に入る。
『サンプルケース:セシール家の封印術に関する古文書』
『封印者が死亡した際、封印の強度が不安定化する記述あり』
『封印者の血を継ぐ者が死亡した場合も同様』
――ステラも、アルタイルも。
胸の奥で何かがきしむ音がした。
鋭く、深く、ひび割れていくような感覚。
騎士団は、ヴォルデモートを倒すために、封印を揺るがす必要がある。
そのための「鍵」が、よりによって自分の血だというのなら――。
“ アラン・ブラックの抹殺は、ヴォルデモート打倒における戦略上の選択肢として検討されるべきである”
報告書の一節に、そう記されていた。
淡々とした筆致。
そこに感情はない。ただ、理屈と計算だけが並んでいる。
指先で、紙の端をぎゅっと掴んだ。
白い関節が、じわりと痛む。
――仕方のないこと。
胸の奥から、そんな言葉が浮かんでくる。
誰かが、ヴォルデモートを倒さなければならない。
誰かが、そのために血を流さなければならない。
あの日からずっと、世界はそういう形の上に成り立ってきた。
マグルの孤児院。
セシール家の屋敷。
地下牢。
“誰かの犠牲の上に成り立つ平穏” が、この世界の常だった。
今度は、その「誰か」に、自分と、自分の子供たちが選ばれただけ。
紙面の文字がにじんだ。
涙が零れそうになる。
けれど、落としてはいけないと本能的に思い、アランは目を強く閉じた。
――泣いてはいけない。
ここで涙をこぼせば、紙を濡らしてしまう。
証拠を汚すことは、レギュラスの仕事の邪魔になってしまう。
そんな下らない理由にすがらなければ、涙をこらえる術すら見つけられない。
彼の名前も、この書類には記されていた。
“法務部レギュラス・ブラックの判断により、アラン・ブラックおよびその子らの保護が優先されている現状”
“騎士団との見解の相違”
“レギュラス・ブラックの個人的感情が判断に影響している可能性”
個人的感情。
――そう、きっとそう。
レギュラスの判断は、法務部の長としては誤りなのかもしれない。
騎士団から見れば、彼は世界全体よりも、妻と子を優先している。
だが、夫として、父として、それ以外にどんな選択ができるだろう。
アランは、そっと紙を伏せた。
震える指先で、丁寧に重ね直し、封筒へ戻す。
元あった場所に、角度まで揃えて置いた。
書斎の空気が、急に違うものに思えた。
壁一面の本棚。
その背表紙の列が、責務と罪、理屈と感情をぎゅうぎゅうに詰め込んで立ち並んでいるように見える。
――狙われていたのですね、わたしは。
言葉にはならない思いが、胸の内側にたゆたう。
仮面をつけた騎士たちの姿が、もう一度脳裏をよぎる。
その間に立ち塞がったステラの背中。
大きな、強い魔力のうねり。
そして、震える手でローブの裾を掴んでいたメイラの感触。
あのとき、自分が死んでいれば、何かが変わっただろうか。
その問いが、ふと浮かび、胸を刺した。
もし、自分だけがそこにいて、ステラが来なかったなら。
自分一人が狙われ、そこで命を落としていれば――。
ホークラックスの封印は揺らぎ、騎士団は満足しただろうか。
ヴォルデモートを倒すための道が、少しは広がっただろうか。
だが、現実にはステラが来てしまった。
あの子の中にも、セシール家の血は流れている。
彼女を殺さねば封印が揺らがないのだとしたら、騎士団は今後も、ステラを狙う。
アルタイルさえも。
指先が、無意識に胸元へと上がる。
そこには何も刻まれていないはずなのに、見えない烙印が押されているような気がした。
――この血に、呪いのような封印を乗せたのは誰?
ヴォルデモート。
セシール家の昔の当主たち。
レギュラス。
そして、何よりも、自分自身。
覚悟も知らぬまま封印を強いられたあの日の少女は、何も選べなかった。
けれど、その後に子を産むことは、自分自身が選んだ。
レギュラスと共に、ステラを、アルタイルをこの世に送り出したのは、他でもない自分だ。
――なんて身勝手なのだろう。
自分の望んだ“家族”という形の中に、すでに呪いが仕込まれていたのに。
その事実から目を逸らし続けてきた。
それでも。
それでも、あの子たちの笑顔を思えば、「産まなければよかった」などとは言えない。
彼らがいてくれたから、自分はここまで生きてこられた。
レギュラスの隣で、光を見つけることができた。
アランは、静かに目を閉じた。
胸の奥で、ゆっくりと一つの思いが形を取っていく。
――自分が狙われるのは仕方のないこと。
ホークラックスを守る封印であり続ける限り、自分の存在そのものが、この世界にとっての危うさなのかもしれない。
ならば、いつか自分が命を差し出さなければならない日も来るだろう。
けれど。
ステラとアルタイルだけは。
どうか、生きさせてほしい。
騎士団がどれほど理屈を並べようと、世界のためだと叫ぼうと。
罪を犯したのは、自分とレギュラスだ。
封印を背負わされたのも、自分だ。
その結果として、「殺されなければならない対象」に、子供たちまで含めないでほしい。
――そのためなら、何でもする。
声なき声が、書斎の中に沈んでいく。
言葉として外に出せない代わりに、胸の奥に固く刻み込まれる。
そのとき、廊下の遠くで小さな気配がした。
メイラが洗濯物を抱えて歩いている気配。
アルタイルの笑い声が、階下からかすかに聞こえてくる。
アランは、書斎をそっと振り返った。
レギュラスの椅子。
彼の座る場所には、まだうっすらと体温の気配が残っているような気がした。
この部屋で彼は、法務部の長として世界を見ている。
一方で、夫として、父として、自分たちの小さな世界を守ろうとしている。
あの日、自分が騎士団に囲まれたことを、彼はどこまで知っているのだろう。
どこまで察しているのだろう。
アランは、机の上に並ぶ書類にもう一度視線を落とし、それから静かに首を振った。
――今は、まだ言わない。
この事実を口にしてしまえば、レギュラスはきっと、さらに追い詰められる。
彼は彼で、自分とは別の場所で、罪と責務に押し潰されそうになっているのだから。
せめて、今は。
彼の前では、いつものように微笑んでいたい。
何も知らないふりをして、ネクタイを結び、送り出す妻でいたい。
そう思って、アランは深く息を吸い込んだ。
書斎の扉に手をかける。
翡翠の瞳に、一瞬だけ決意の影が宿る。
――もし、いつか。
騎士団とレギュラスの正義が真正面からぶつかり、自分の命がその天秤の上に置かれる日が来たなら。
そのときこそ、自分の選ぶべき答えを、はっきりと掴まなければならない。
ただ一つ願うのは――
その天秤の皿に、どうか子供たちの命だけは乗りませんように。
声にならない祈りを胸に隠しながら、アランは静かに書斎を後にした。
