3章
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旧資料棟の中庭――。
そこは、かつて歴代の法令や古い議事録が保管されていたという、今はほとんど使われていない一角だった。
高くそびえる石壁に囲まれた、中空の箱庭。
中央にはひび割れた噴水と、苔むした石畳。
長い年月、まともな整備もされず放置されてきた名残が、どこか陰鬱な気配をまとわせている。
その静寂を引き裂くように、いくつもの魔法の光が飛び交っていた。
赤、白、茶、金――。
衝突した呪文同士が火花を散らし、石畳に焦げ跡が刻まれている。
仮面をかぶった騎士団の影が数人、その輪の外縁を取り囲むように散開していた。
中心にいるのは、ただ一人の少女。
ステラ・ブラック。
杖を構えた横顔は、まだ幼い輪郭を残しているはずなのに、そこに宿る瞳はあまりにも冷たく研ぎ澄まされていた。
ローブの袖が裂け、白い腕に赤い線が走っている。
肩で大きく息をしながら、それでも一歩も引いていない。
そのすぐ後ろで、アランがメイラをかばうように抱き寄せているのが見えた。
メイラは顔をアランの胸に埋め、全身を震わせている。
――間に合え。
レギュラスは、ほとんど祈りに近い焦燥を胸の奥で噛み殺しながら、中庭のただ中へと姿を現した。
空気がねじれ、一瞬の静寂が走る。
次の瞬間、仮面の影たちが一斉にこちらを振り向いた。
闇色のローブの隙間から、戦慄が走るのを感じる。
「レギュラスブラック……!」
誰かが低く呟いた。
その声を合図にしたかのように、仮面の一団は一斉に杖を振る。
攻撃ではない。
姿くらましだ。
「逃がすか――!」
反射的に杖先を閃かせかけたが、その判断を、レギュラスは寸前で飲み込んだ。
ここで追撃呪文を放てば、ステラやアランに誤射の危険がある。
目の前で、仮面たちの輪郭が煙のように揺らぎ、そのまま空間の裂け目に溶けていく。
魔力の残り香と、焦げた石の匂いだけが残された。
静寂が戻る。
中庭に吹き込んだ風が、遅れてローブを揺らした。
「……メイラ!」
アランの腕の中で震えていた少女が、ようやく顔を上げる。
大きく見開かれた瞳には、恐怖と涙の名残がくっきりと刻まれていた。
レギュラスの姿を認めるなり、メイラは本能的にアランのローブをさらに強く掴む。
「こ、怖かったです…… アランさん、ステラ様……」
声が震え、言葉の途中で喉が詰まる。
そのまま、ステラのほうへと深々と頭を下げた。
「ありがとうございました、ステラ様……!」
礼を述べる声には、純粋な感謝しかなかった。
自分のために、あれほどまでに杖を振るってくれたのだと、幼い心にも分かっている。
ステラは、乱れた呼吸を整えながら、彼女を一瞥する。
翡翠の瞳が、冷たい光を帯びた。
「あなたのためにしたわけではありません」
短く、刃のような声。
メイラの肩がびくりと震えた。
それでも、その言葉の裏に――
それでも結果として守ったのだという事実があることは、誰の目にも明らかだった。
「……何事です、ステラ」
レギュラスの声は、驚くほど静かだった。
けれど、その静けさの底には、冷えた怒りと焦りが幾重にも折り重なっている。
自分でもそれが分かるほど、喉の奥が焼けつくようだった。
ステラは、杖を握ったまま父を振り返る。
顔色は青白く、額には汗が滲んでいる。
それでも背筋はまっすぐで、視線もまるで怯えを知らない。
「母が、このマグルを連れてここに出かけていたようなので、後をつけました」
淡々とした口調で、報告するように告げる。
その声には、興奮も、恐怖も、安堵も混じってはいなかった。
「すると――コレです。罠でしょうね」
“コレ”と抑えた声音で呼ぶその一語に、レギュラスは胸の奥がざらつくのを感じる。
視線の先には、散った魔法の焼け跡と、仮面たちが立っていた位置の空白が並んでいる。
間違いない。
騎士団だ。
ステラの細い腕に走る傷に、ちらりと視線を落とす。
浅い切り傷。しかし、当たりどころが悪ければ命取りになっていたかもしれない。
この娘が防がなければ、今ここで死んでいたのは――
考えかけて、レギュラスはその先を振り払った。
「レギュラス……」
アランが、震える指で杖を持ち直す。
その姿があまりにも頼りなく見えて、レギュラスは本能的に彼女のもとへ歩み寄った。
跪くようにしてアランの肩を抱き寄せる。
その体温が腕に伝わった瞬間、胸の奥で張り詰めていた糸が、きしむような音を立てた。
「……無事で、よかったです」
言葉にすると、ひどく小さな声になった。
中庭の冷たい風に、今にもさらわれてしまいそうなほどに。
アランは、その腕の中でわずかに震えながら、杖を持った手を上げる。
空中に、細い光の文字が描かれた。
『ごめんなさい』
それだけ。
理由も事情も言い訳もなく、ただ一言だけ。
震える文字が、彼女の動揺と罪悪感を、そのまま浮かび上がらせていた。
レギュラスは、その文字をしばらく無言で見つめる。
喉の奥まで込み上げてきた言葉を、ひとつひとつ押し戻す。
なぜ言わなかった、なぜ一人で行こうとした、なぜ――
叱責も、問いただしも、いくらでも口にできた。
けれど今、この震えている体に向かって、それをぶつけられるほど、自分は冷酷にはなりきれなかった。
静かに、アランの肩を抱く腕に力をこめる。
「後で、話を聞きます」
それだけを告げると、レギュラスは立ち上がった。
視線をステラへ向ける。
娘は、まだ杖を握ったまま、父をまっすぐ見ていた。
その瞳の奥にあるもの――誇りと、冷笑と、どこか計り知れない孤独――すべてが、翡翠色の中に溶け込んでいる。
「ステラ」
短く名を呼ぶ。
褒めるべきか、叱るべきか、まだ言葉が決まらない。
彼女は、ほんのわずかに顎を引いた。
それは、返事の代わりのようにも、すべてを拒む仕草のようにも見えた。
中庭には、魔法の焦げ跡と、冷たい風と、
そしてそれぞれが抱えた言葉にならない感情だけが、重く残されていた。
レギュラスの書斎は、いつも通り静かだった。
厚いカーテン越しに差し込む光は沈んでいて、外の時間の流れから切り離されたような薄闇が漂っている。
四方の本棚には、古い法令集や闇の陣営の機密文書、封じられた魔術書が整然と並び、磨き込まれた黒檀の机の上には、未決の書類がいくつも積み上げられていた。
その机の前に、レギュラスは座っていた。
手許の羊皮紙に視線を落としてはいたものの、文字の列はもうしばらく前から目に入っていない。
――騎士団がアランを狙う。
その事実が、脳裏にこびりついて離れなかった。
旧資料棟での襲撃。仮面の一団。標的にされたアラン。
そこに、ステラが割って入ってきたことは完全な誤算だった。
どこまで気づかれた……?
魔法界でいま、ヴォルデモートの「核」をめぐる情報は徐々に形を持ち始めている。
ハリー・ポッターが秘密の部屋で破壊したトム・リドルの日記――魂を裂き、物に封じる禁術ホークラックス。
その存在が判明してしまった以上、「他にもある」という推測に辿り着くのは時間の問題だった。
そして、セシール家の封印の呪い。
かつて闇の帝王は、その力を利用しようとアランを地下牢に幽閉し、その身に封印を刻ませた。
もし騎士団が、封印の中身まで勘づき始めているのだとしたら――
アランだけでは済まない。
彼女と同じ血を引くステラも、アルタイルも、標的になる。
セシール家の血を絶やせば、ホークラックスを破壊できるかもしれない。そう考える者がいてもおかしくなかった。
レギュラスは、無意識にこめかみを押さえた。
鈍い痛みが指先に伝わる。
そのとき、静かなノックの音がした。
「どうぞ」
扉が開く。
濃い緑のローブの裾が、じわりと視界に入った。
ステラ・ブラックが、敷居をまたいで書斎に足を踏み入れる。
彼女は以前にも増して、少女というより「一人の魔法族」と呼ぶべき空気をまとい始めていた。
母譲りの翡翠の瞳は鋭く光を宿し、背筋は真っ直ぐに伸びている。
「お時間、よろしいですか、お父様」
敬語は、礼儀というより距離感の表明のようだった。
レギュラスは、小さく息を吐き、手元の羽ペンを置いた。
「構いませんよ。座りなさい」
書斎の一角にある応接用の椅子を指し示す。
しかしステラは、そこには向かわず、机の前で足を止めた。
真っ直ぐ立ったまま、父を見下ろす位置に立つ。
その視線の高さが、いつの間にかこんなにも近くなっていることに、レギュラスは遅ればせながら気づく。
「単刀直入に伺います」
前置きは、短かった。
「なぜ、母が騎士団に狙われるのです?」
静かな声だった。
荒立てるでもなく、怒りを滲ませるでもない。
けれど、その奥には、すでにいくつものピースを並べ終えた者の確信が潜んでいた。
レギュラスは、一瞬、息を飲む。
机の上に組んだ指先を、無意識に強く握りしめる。
爪が皮膚に食い込み、かすかな痛みが走った。
今はまだ、何も確証はない――と言い切れるだろうか。
旧資料棟に用意された「罠」。
メイラの父の骨を餌にした誘い。
騎士団がそこまでアランの心の弱点を知り尽くしているという事実だけでも、背筋が冷たくなる。
「騎士団がどういう意図で動いているかなど、僕にもすべてを読み切ることはできません」
レギュラスは、まずそう答えた。
それは嘘ではなかった。
だが、肝心な部分を避けた言葉でもある。
ステラは、父の顔をじっと見つめる。
その翡翠の瞳に、かつて地下で見たあの少女の眼差しが重なる。
血の犠牲として捧げさせられたマグルの少女。
声もなく、ただ恐怖と諦めを湛えた瞳だけが、いつまでもレギュラスの記憶に残っている。
ステラは、その瞳の色をしていた。
けれどそこに宿るものは、恐怖でも服従でもなく、冷静な観察と推論だった。
「ごまかさないでください」
ぴしゃりとした言葉。
感情を排した声音なのに、刃より鋭く感じられる。
「今回の襲撃で、私は理解しました。
騎士団にとって“ アラン・ブラック”は、ただの法務部長の妻ではない。
“セシール家の封印の力”を有する存在そのものだから狙われている」
一音ごとに、的確に核心へと近づいてくる。
「セシール家の封印の力、なのでしょう?」
ステラは、机の端を指先で軽く叩いた。
その仕草は、まるで被疑者に尋問する魔法裁判官のようだ。
「母は、何を封印したのです?」
レギュラスの喉が、ひくりと動いた。
視界の中で、ステラの輪郭がわずかに滲む。
呼吸が浅くなるのを自覚する。
この娘は、もう入口まで辿り着いている。
封印の力のことは、隠し通せる話ではなかった。
セシール家の末裔である以上、自分の血筋が何を担わされる可能性を持つか――ステラは幼い頃からぼんやりと知っていたはずだ。
だが、「何を封じたか」だけは、決して口にしてはならない禁句だった。
それを知る者は、極限まで限られている。
闇の帝王、その側近、ごく一部のデスイーター。そして―― アラン、レギュラス。
沈黙が、書斎の空気を重く覆った。
壁時計の針の音が、やけに大きく響く。
ステラは、父の沈黙を確認するように、一歩だけ近づいた。
机越しの距離が、さらに縮まる。
「――闇の帝王の“何”を封印しているのですか」
もう、問うというより、答えを確かめる言い方だった。
レギュラスは視線を逸らしたくなる衝動に駆られる。
だが、それを許してしまえば、この娘はそれだけで真相の輪郭を掴んでしまうだろう。
彼は、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
「ステラ」
名前を呼ぶ声は、思ったよりかすれていた。
「あなたは、ホグワーツで何を学んできましたか」
唐突な問いに、ステラの眉がわずかに動く。
「魔法史の授業で――ハリー・ポッターの話を聞いたでしょう。
秘密の部屋。バジリスク。トム・リドルの日記」
「……ホークラックス、ですね」
ステラの答えは、迷いがなかった。
レギュラスは、目を閉じる。
その名を、娘の口から聞くことになるとは思っていなかった。
「魂を裂き、物や人に封じる禁術。
闇の帝王は、自分を守るためにそれをいくつも作ったとされている」
淡々と説明するふりをしながら、自分の心臓の鼓動が強くなっていくのを感じる。
ステラは、静かに続きを待っていた。
「騎士団は、そこまでは掴んでいるのでしょう」
「“そこまで”では、ごまかしになりませんわ」
すかさず、鋭く切り返される。
翡翠の瞳が、机越しにレギュラスの灰色の瞳を射抜いた。
「ホークラックスの一つを、母が封印させられていた。
だから騎士団は、闇の帝王を倒すために母を殺そうとしている。
違いますか?」
言葉にされてしまった。
レギュラスは、指先に力を込める。
机の端に置いた手が、かすかに震えた。
この瞬間を避けるために、どれほどの嘘と沈黙を積み重ねてきたのか。
アランを安全な場所に戻すために、ブラック家の屋敷に閉じ込めるために、闇の帝王の信頼を装いながら周到に立ち回ってきた。
それでも――娘の前にだけは、この真実を置きたくはなかった。
だが、すでにステラはここまで辿り着いている。
嘘をつけばいい。
初めて、そう思う。
「違う」と言い切ってしまえば、それで今は凌げる。
だが、一度でもこの娘に対して「露骨な嘘」をついたと悟られれば、その瞬間に、父としての信頼は完全に失われるだろう。
ステラは、返事を急かすことなく、ただ静かに父を見つめていた。
その沈黙は、彼を追い詰めるというよりも、「あなたがどちらを選ぶのかを見る」と告げているようだった。
レギュラスは、ゆっくりと視線を落とし、再び上げた。
「……ほとんど、正解です」
その一言に、書斎の空気が微かに揺れた気がした。
ステラの瞳が細くなる。
勝ち誇るでもなく、怯えるでもなく。
やはり、という諦めにも似た色が浮かんだ。
「母は、闇の帝王の“何か”を封じている」
「ホークラックスの一つを、セシール家の血で封じられたら――
封印を解くには、その血筋ごと断つのがもっとも早い」
ステラ自身が、その結論に辿り着いてしまっている。
「だから騎士団は、母を狙う。
そして、私も、アルタイルも」
そこまで言って、ステラは口を閉ざした。
レギュラスは、娘の言葉を否定しなかった。
代わりに、静かに告げる。
「ホークラックスの“中身”が何であるか――そこまでは、お前には言えません」
ステラの眉が、わずかに動く。
「なぜです」
「知れば、お前は必ず動こうとする」
即答だった。
「騎士団側に行くかもしれない。
あるいは、自分の命を代償に封印を解く方法を探そうとするかもしれない。
どちらであっても、僕は認めません」
言葉にした瞬間、自分の胸の奥にある恐れが、はっきりと形を持った。
この娘は、自分の信じた「正義」のためなら、容易く自分を捨てかねない。
アランとは全く違う危うさを持っている。
ステラは、わずかに目を見開いた。
「……私が、自分の命を捨てると、お思いで?」
かすかな嘲りが、声の端に滲む。
「そういう生き方は、軽蔑しているはずですが」
レギュラスは、首を振った。
「違います。
お前は“綺麗な自己犠牲”を嫌悪している。
けれど――“誇りのために死ぬ”ことは、否定しない」
ひどく苦い真実だった。
純血の誇り。
ブラック家の名に恥じない選択。
そういったもののために、自分を燃やし尽くすことを厭わない眼差しを、レギュラスは誰よりも近くで見てきた。
ステラは、唇をきゅっと結ぶ。
否定しきれないことが、沈黙の中に浮かんでいた。
「ともかく――」
レギュラスは椅子から立ち上がった。
机を回り込み、ステラとの距離を詰める。
至近距離で見上げる娘の瞳は、やはりアランと同じ翡翠色だった。
だが、そこに宿る光は、どうしようもなく自分に似ている気がしてならない。
「騎士団が何を企んでいようとも、
僕はあなたたちを殺させません」
ステラの表情が、一瞬だけ揺れた。
それは驚きか、不信か、あるいはわずかな安堵か。
判別できる前に、彼女はすぐさま表情を引き締める。
「方法は?」
短い問い。
「母が封印している限り、闇の帝王は完全には滅びない。
それでも、魔法界は彼の死を望む。
その矛盾を、どうやって貫き通すおつもりですか」
レギュラスは、ふと笑った。
自嘲に近い、短い息の漏れ。
「それを考えるのが――こちらの仕事です」
皮肉のようでいて、本心でもあった。
「騎士団がどこまで真実に近づこうと、
法務部が公式に認めない限り、それはただの“噂”に過ぎません。
真実は、誰の口から語られるか、それだけで形を変える」
ステラは、その言葉を聞きながら、父の横顔をじっと見つめていた。
「では、私はどうすればよいのです」
レギュラスは答える前に、少しだけ迷った。
娘を安全な場所に閉じ込めておきたい。
騎士団に狙われる危険から遠ざけたい。
――だが、この娘がそれを甘んじて受け入れることはないだろう。
彼は、低く言った。
「まずは、自分が狙われる側だという自覚を持ちなさい。
騎士団が母を狙うのなら、同じ血を持つお前にも必ず手を伸ばす」
ステラは、静かに頷く。
恐怖の色はない。代わりに、冷たい覚悟の影が差す。
「それから――」
レギュラスはささやくように続ける。
「どれほど騎士団の思想に共鳴することがあっても、
決して“彼らの方法”だけは選ばないこと。
正義の名のもとに一人の女を殺そうとした集団を、僕は信じません」
ステラは、その言葉の意味を噛みしめるように目を伏せた。
「……分かりました」
その声には、従順さはなかった。
だが、完全な拒絶もなかった。
それが今のところ、レギュラスにとっての精一杯の勝利だった。
会話が途切れる。
ステラは、ほんの一瞬だけ父を見上げ、それから踵を返した。
書斎の扉へと向かう足取りは、いつも通り静かで乱れがない。
扉に手をかける直前、彼女はふと立ち止まり、振り向きもせずに言った。
「お父様」
「なんです」
「母には――何もお話にならないのですね」
レギュラスは答えなかった。
扉の向こうにいるであろう、静かに笑うアランの姿が脳裏に浮かぶ。
何も知らないまま、世界のど真ん中で封印として生かされ続けている女。
それでも夫を信じ、子を愛し、マグルの娘にまで手を伸ばす女。
「……あの人の世界を、これ以上壊すつもりはありません」
静かに、それだけ述べた。
ステラは、短く息を吐く。
それが嘲笑か、諦めか、レギュラスには判別できない。
ただ、わずかに柔らいだようにも聞こえた。
「なるほど。
やはり、母はあなたにとって“封印”ではなく、“妻”なのですね」
その言葉に、胸の奥がきゅっと痛んだ。
返事を探す前に、扉が開き、閉まる音がした。
書斎に再び静寂が戻る。
レギュラスは、机の端に片手をつき、深く息を吐いた。
騎士団は真実に手を伸ばし、
魔法界は闇の帝王の「死」を望み、
その中心で、セシール家の封印を背負わされた妻と、その血を継ぐ子供たちを守ろうとしている自分がいる。
どこまで守り切れるだろうか――?
答えのない問いが、静かな書斎の闇の中に沈んでいった。
その夜、屋敷はひどく静かだった。
吹き抜ける廊下の冷気も、階下の時計の刻む音も、いつもと変わらないはずなのに、すべてが少しだけ歪んで聞こえる。
ステラは自室の窓際に腰掛け、暗い庭を見下ろしていた。
黒々とした庭園のシルエットの向こうに、魔法界の空が重たく垂れ込めている。
闇の雲のあいだから時折のぞく星は、どれも頼りなく、とてもじゃないが導きになる光には見えなかった。
膝を抱え込むようにして座り、顎を軽く乗せる。
指先が自分のローブの裾を無意識に摘まんでいるのに気づき、ステラはそっと解いた。
――母に、何も告げていない。
レギュラスの書斎で告げられた「ほとんど正解です」という言葉が、まだ耳の奥で反響していた。
母はなに一つ知らされないまま、闇の帝王の“何か”を封じさせられ、そのまま妻として、母として、穏やかな表情で屋敷を歩いている。
その姿を思い出し、ステラは小さく舌打ちしたくなった。
何も知らずに、とんでもないものを封印したまま生きている――。
正確に言えば、「知らされていない」のだろう。
父は、あくまでアランを“封印”としてではなく“妻”として扱うと言った。
だからこそ、真実を告げない。
聞けば壊れてしまうから、という勝手な判断で。
「どこまでも勝手だわ」
誰にも届かないような声で呟く。
父と母。
騎士団。
どれも、それぞれに“正義”を掲げ、同時にどうしようもない“悪”を孕んでいる。
父は、魔法界を混乱から守るためと言って法務部を動かす。
騎士団は、闇の帝王を倒すためと言って母を殺そうとする。
母は――母だけは、きっとただ「守りたいものを守りたい」と思っているのだろう。
そのどれもが、間違っているとも言い切れない。
正しいとも、とても言えない。
ステラは、窓ガラスに映った自分の顔を見つめた。
翡翠色の瞳。
母と同じ色。
けれどそこに宿るものは、母のものとはあまりにも違う。
「どうして、私たちを産んだのかしら」
ぽつりとした言葉は、誰に向けられたものでもない。
なぜ、父はこの封印の力を宿す一族の血を継ぐ子どもをこの世に残そうとしたのか――。
自分も、アルタイルも。
封印の血を断ち切る方法などいくらでもあったはずだ。
セシール家の血筋を完全に絶やしてしまえば、誰もこんな危険な役割を背負わずに済んだのかもしれない。
それでも二人は、子を持つことを選んだ。
「二人の、エゴのために」
喉の奥に苦いものがこみ上げる。
アランの瞳に、どれほど強く「愛」が滲んでいたとしても。
レギュラスの決断に、どれほどの「覚悟」が込められていたとしても。
――結果として、自分は、闇の帝王の死を望む騎士団の手で殺されるかもしれない存在になった。
なんて酷い話だろう、とステラは思う。
誰も彼女に選ばせなかった。
セシール家の血を継ぐかどうかも。
封印の器として生きるかどうかも。
この世界に生まれてくるかどうかさえ。
そのくせ、世界は平然と彼女に“選択の結果”だけを押しつけてくる。
「……滑稽ね」
窓の外を見つめながら、薄く笑う。
ふと――旧資料棟での光景が、鮮明によみがえった。
仮面をつけた騎士団の男たち。
包囲される母。
怯えてすがりついてきたメイラ。
頭で状況を整理するより先に、身体が動いていた。
杖を抜き、呪文を放ち、盾となって立ち塞がる自分がいた。
そのとき、自分がどうしてあんなにも迷わず動けたのか――ステラはまだ上手く言葉にできない。
守りたかった。
ただ、それだけだ。
狙われている理由が、どれほど理不尽であれ。
母が封印の器であるという事実が、どれほど残酷であれ。
あの場で母が倒れる未来だけは、どうしても許せなかった。
「……守れて、よかった」
心の底から、そう思ってしまっている自分がいる。
その自覚が、ステラには怖かった。
愛なんて信じるに足らない、と決めていた。
誰かに縋る生き方など、母を見ていれば十分だと思っていた。
誰かのために自分を削ることは、愚かだと切り捨ててきた。
それなのに。
気づけば、自分は母のために命を張っていた。
考えるより先に、身体が勝手に動いていた。
そのことを誇らしく感じてしまった自分がいる。
その矛盾が、胸の中で軋む。
「正義も、悪も」
ステラは、指先で窓ガラスをなぞった。
白く曇った息の跡が、すぐに夜の冷気に消えていく。
父の正義。
騎士団の正義。
母の、ささやかな正義。
そのどれもが、誰かにとっての悪であり、誰かにとっての救いになる。
騎士団にしてみれば、アランは「世界を闇の帝王に繋ぎ止めている存在」だ。
封印を壊さなければ、ヴォルデモートは完全には死なない。
その理屈は、あまりにも冷酷で、同時に、恐ろしいほど筋が通っている。
法務部のレギュラスブラックにしてみれば、騎士団は「一人の女を殺して世界を救えると信じている危うい集団」だ。
その視点にも、確かに真実はある。
そして、母にとっての真実は――きっともっと単純だ。
マグルの娘メイラを守りたい。
子どもたちを守りたい。
夫の隣で、ともに生きたい。
世界の構図は、どこを切り取っても、誰かの正義と誰かの悪が入り混じっている。
「その真ん中に、生まれてきたのが私たちだなんて」
ステラは、肩をすくめた。
アルタイルの顔が浮かぶ。
あまりにも無邪気で、まっすぐで、優しい弟。
その真っ白な笑顔が、将来どれだけ血で汚されるのかを考えると、吐き気がするような嫌悪感と、どうしようもない保護欲が同時に湧き上がる。
あの子には、何も背負わせたくない。
そう願う自分が、また嫌になる。
結局自分は、誰かを守りたいだなんて思う、凡庸で弱い人間なのだろうか。
そこは、かつて歴代の法令や古い議事録が保管されていたという、今はほとんど使われていない一角だった。
高くそびえる石壁に囲まれた、中空の箱庭。
中央にはひび割れた噴水と、苔むした石畳。
長い年月、まともな整備もされず放置されてきた名残が、どこか陰鬱な気配をまとわせている。
その静寂を引き裂くように、いくつもの魔法の光が飛び交っていた。
赤、白、茶、金――。
衝突した呪文同士が火花を散らし、石畳に焦げ跡が刻まれている。
仮面をかぶった騎士団の影が数人、その輪の外縁を取り囲むように散開していた。
中心にいるのは、ただ一人の少女。
ステラ・ブラック。
杖を構えた横顔は、まだ幼い輪郭を残しているはずなのに、そこに宿る瞳はあまりにも冷たく研ぎ澄まされていた。
ローブの袖が裂け、白い腕に赤い線が走っている。
肩で大きく息をしながら、それでも一歩も引いていない。
そのすぐ後ろで、アランがメイラをかばうように抱き寄せているのが見えた。
メイラは顔をアランの胸に埋め、全身を震わせている。
――間に合え。
レギュラスは、ほとんど祈りに近い焦燥を胸の奥で噛み殺しながら、中庭のただ中へと姿を現した。
空気がねじれ、一瞬の静寂が走る。
次の瞬間、仮面の影たちが一斉にこちらを振り向いた。
闇色のローブの隙間から、戦慄が走るのを感じる。
「レギュラスブラック……!」
誰かが低く呟いた。
その声を合図にしたかのように、仮面の一団は一斉に杖を振る。
攻撃ではない。
姿くらましだ。
「逃がすか――!」
反射的に杖先を閃かせかけたが、その判断を、レギュラスは寸前で飲み込んだ。
ここで追撃呪文を放てば、ステラやアランに誤射の危険がある。
目の前で、仮面たちの輪郭が煙のように揺らぎ、そのまま空間の裂け目に溶けていく。
魔力の残り香と、焦げた石の匂いだけが残された。
静寂が戻る。
中庭に吹き込んだ風が、遅れてローブを揺らした。
「……メイラ!」
アランの腕の中で震えていた少女が、ようやく顔を上げる。
大きく見開かれた瞳には、恐怖と涙の名残がくっきりと刻まれていた。
レギュラスの姿を認めるなり、メイラは本能的にアランのローブをさらに強く掴む。
「こ、怖かったです…… アランさん、ステラ様……」
声が震え、言葉の途中で喉が詰まる。
そのまま、ステラのほうへと深々と頭を下げた。
「ありがとうございました、ステラ様……!」
礼を述べる声には、純粋な感謝しかなかった。
自分のために、あれほどまでに杖を振るってくれたのだと、幼い心にも分かっている。
ステラは、乱れた呼吸を整えながら、彼女を一瞥する。
翡翠の瞳が、冷たい光を帯びた。
「あなたのためにしたわけではありません」
短く、刃のような声。
メイラの肩がびくりと震えた。
それでも、その言葉の裏に――
それでも結果として守ったのだという事実があることは、誰の目にも明らかだった。
「……何事です、ステラ」
レギュラスの声は、驚くほど静かだった。
けれど、その静けさの底には、冷えた怒りと焦りが幾重にも折り重なっている。
自分でもそれが分かるほど、喉の奥が焼けつくようだった。
ステラは、杖を握ったまま父を振り返る。
顔色は青白く、額には汗が滲んでいる。
それでも背筋はまっすぐで、視線もまるで怯えを知らない。
「母が、このマグルを連れてここに出かけていたようなので、後をつけました」
淡々とした口調で、報告するように告げる。
その声には、興奮も、恐怖も、安堵も混じってはいなかった。
「すると――コレです。罠でしょうね」
“コレ”と抑えた声音で呼ぶその一語に、レギュラスは胸の奥がざらつくのを感じる。
視線の先には、散った魔法の焼け跡と、仮面たちが立っていた位置の空白が並んでいる。
間違いない。
騎士団だ。
ステラの細い腕に走る傷に、ちらりと視線を落とす。
浅い切り傷。しかし、当たりどころが悪ければ命取りになっていたかもしれない。
この娘が防がなければ、今ここで死んでいたのは――
考えかけて、レギュラスはその先を振り払った。
「レギュラス……」
アランが、震える指で杖を持ち直す。
その姿があまりにも頼りなく見えて、レギュラスは本能的に彼女のもとへ歩み寄った。
跪くようにしてアランの肩を抱き寄せる。
その体温が腕に伝わった瞬間、胸の奥で張り詰めていた糸が、きしむような音を立てた。
「……無事で、よかったです」
言葉にすると、ひどく小さな声になった。
中庭の冷たい風に、今にもさらわれてしまいそうなほどに。
アランは、その腕の中でわずかに震えながら、杖を持った手を上げる。
空中に、細い光の文字が描かれた。
『ごめんなさい』
それだけ。
理由も事情も言い訳もなく、ただ一言だけ。
震える文字が、彼女の動揺と罪悪感を、そのまま浮かび上がらせていた。
レギュラスは、その文字をしばらく無言で見つめる。
喉の奥まで込み上げてきた言葉を、ひとつひとつ押し戻す。
なぜ言わなかった、なぜ一人で行こうとした、なぜ――
叱責も、問いただしも、いくらでも口にできた。
けれど今、この震えている体に向かって、それをぶつけられるほど、自分は冷酷にはなりきれなかった。
静かに、アランの肩を抱く腕に力をこめる。
「後で、話を聞きます」
それだけを告げると、レギュラスは立ち上がった。
視線をステラへ向ける。
娘は、まだ杖を握ったまま、父をまっすぐ見ていた。
その瞳の奥にあるもの――誇りと、冷笑と、どこか計り知れない孤独――すべてが、翡翠色の中に溶け込んでいる。
「ステラ」
短く名を呼ぶ。
褒めるべきか、叱るべきか、まだ言葉が決まらない。
彼女は、ほんのわずかに顎を引いた。
それは、返事の代わりのようにも、すべてを拒む仕草のようにも見えた。
中庭には、魔法の焦げ跡と、冷たい風と、
そしてそれぞれが抱えた言葉にならない感情だけが、重く残されていた。
レギュラスの書斎は、いつも通り静かだった。
厚いカーテン越しに差し込む光は沈んでいて、外の時間の流れから切り離されたような薄闇が漂っている。
四方の本棚には、古い法令集や闇の陣営の機密文書、封じられた魔術書が整然と並び、磨き込まれた黒檀の机の上には、未決の書類がいくつも積み上げられていた。
その机の前に、レギュラスは座っていた。
手許の羊皮紙に視線を落としてはいたものの、文字の列はもうしばらく前から目に入っていない。
――騎士団がアランを狙う。
その事実が、脳裏にこびりついて離れなかった。
旧資料棟での襲撃。仮面の一団。標的にされたアラン。
そこに、ステラが割って入ってきたことは完全な誤算だった。
どこまで気づかれた……?
魔法界でいま、ヴォルデモートの「核」をめぐる情報は徐々に形を持ち始めている。
ハリー・ポッターが秘密の部屋で破壊したトム・リドルの日記――魂を裂き、物に封じる禁術ホークラックス。
その存在が判明してしまった以上、「他にもある」という推測に辿り着くのは時間の問題だった。
そして、セシール家の封印の呪い。
かつて闇の帝王は、その力を利用しようとアランを地下牢に幽閉し、その身に封印を刻ませた。
もし騎士団が、封印の中身まで勘づき始めているのだとしたら――
アランだけでは済まない。
彼女と同じ血を引くステラも、アルタイルも、標的になる。
セシール家の血を絶やせば、ホークラックスを破壊できるかもしれない。そう考える者がいてもおかしくなかった。
レギュラスは、無意識にこめかみを押さえた。
鈍い痛みが指先に伝わる。
そのとき、静かなノックの音がした。
「どうぞ」
扉が開く。
濃い緑のローブの裾が、じわりと視界に入った。
ステラ・ブラックが、敷居をまたいで書斎に足を踏み入れる。
彼女は以前にも増して、少女というより「一人の魔法族」と呼ぶべき空気をまとい始めていた。
母譲りの翡翠の瞳は鋭く光を宿し、背筋は真っ直ぐに伸びている。
「お時間、よろしいですか、お父様」
敬語は、礼儀というより距離感の表明のようだった。
レギュラスは、小さく息を吐き、手元の羽ペンを置いた。
「構いませんよ。座りなさい」
書斎の一角にある応接用の椅子を指し示す。
しかしステラは、そこには向かわず、机の前で足を止めた。
真っ直ぐ立ったまま、父を見下ろす位置に立つ。
その視線の高さが、いつの間にかこんなにも近くなっていることに、レギュラスは遅ればせながら気づく。
「単刀直入に伺います」
前置きは、短かった。
「なぜ、母が騎士団に狙われるのです?」
静かな声だった。
荒立てるでもなく、怒りを滲ませるでもない。
けれど、その奥には、すでにいくつものピースを並べ終えた者の確信が潜んでいた。
レギュラスは、一瞬、息を飲む。
机の上に組んだ指先を、無意識に強く握りしめる。
爪が皮膚に食い込み、かすかな痛みが走った。
今はまだ、何も確証はない――と言い切れるだろうか。
旧資料棟に用意された「罠」。
メイラの父の骨を餌にした誘い。
騎士団がそこまでアランの心の弱点を知り尽くしているという事実だけでも、背筋が冷たくなる。
「騎士団がどういう意図で動いているかなど、僕にもすべてを読み切ることはできません」
レギュラスは、まずそう答えた。
それは嘘ではなかった。
だが、肝心な部分を避けた言葉でもある。
ステラは、父の顔をじっと見つめる。
その翡翠の瞳に、かつて地下で見たあの少女の眼差しが重なる。
血の犠牲として捧げさせられたマグルの少女。
声もなく、ただ恐怖と諦めを湛えた瞳だけが、いつまでもレギュラスの記憶に残っている。
ステラは、その瞳の色をしていた。
けれどそこに宿るものは、恐怖でも服従でもなく、冷静な観察と推論だった。
「ごまかさないでください」
ぴしゃりとした言葉。
感情を排した声音なのに、刃より鋭く感じられる。
「今回の襲撃で、私は理解しました。
騎士団にとって“ アラン・ブラック”は、ただの法務部長の妻ではない。
“セシール家の封印の力”を有する存在そのものだから狙われている」
一音ごとに、的確に核心へと近づいてくる。
「セシール家の封印の力、なのでしょう?」
ステラは、机の端を指先で軽く叩いた。
その仕草は、まるで被疑者に尋問する魔法裁判官のようだ。
「母は、何を封印したのです?」
レギュラスの喉が、ひくりと動いた。
視界の中で、ステラの輪郭がわずかに滲む。
呼吸が浅くなるのを自覚する。
この娘は、もう入口まで辿り着いている。
封印の力のことは、隠し通せる話ではなかった。
セシール家の末裔である以上、自分の血筋が何を担わされる可能性を持つか――ステラは幼い頃からぼんやりと知っていたはずだ。
だが、「何を封じたか」だけは、決して口にしてはならない禁句だった。
それを知る者は、極限まで限られている。
闇の帝王、その側近、ごく一部のデスイーター。そして―― アラン、レギュラス。
沈黙が、書斎の空気を重く覆った。
壁時計の針の音が、やけに大きく響く。
ステラは、父の沈黙を確認するように、一歩だけ近づいた。
机越しの距離が、さらに縮まる。
「――闇の帝王の“何”を封印しているのですか」
もう、問うというより、答えを確かめる言い方だった。
レギュラスは視線を逸らしたくなる衝動に駆られる。
だが、それを許してしまえば、この娘はそれだけで真相の輪郭を掴んでしまうだろう。
彼は、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
「ステラ」
名前を呼ぶ声は、思ったよりかすれていた。
「あなたは、ホグワーツで何を学んできましたか」
唐突な問いに、ステラの眉がわずかに動く。
「魔法史の授業で――ハリー・ポッターの話を聞いたでしょう。
秘密の部屋。バジリスク。トム・リドルの日記」
「……ホークラックス、ですね」
ステラの答えは、迷いがなかった。
レギュラスは、目を閉じる。
その名を、娘の口から聞くことになるとは思っていなかった。
「魂を裂き、物や人に封じる禁術。
闇の帝王は、自分を守るためにそれをいくつも作ったとされている」
淡々と説明するふりをしながら、自分の心臓の鼓動が強くなっていくのを感じる。
ステラは、静かに続きを待っていた。
「騎士団は、そこまでは掴んでいるのでしょう」
「“そこまで”では、ごまかしになりませんわ」
すかさず、鋭く切り返される。
翡翠の瞳が、机越しにレギュラスの灰色の瞳を射抜いた。
「ホークラックスの一つを、母が封印させられていた。
だから騎士団は、闇の帝王を倒すために母を殺そうとしている。
違いますか?」
言葉にされてしまった。
レギュラスは、指先に力を込める。
机の端に置いた手が、かすかに震えた。
この瞬間を避けるために、どれほどの嘘と沈黙を積み重ねてきたのか。
アランを安全な場所に戻すために、ブラック家の屋敷に閉じ込めるために、闇の帝王の信頼を装いながら周到に立ち回ってきた。
それでも――娘の前にだけは、この真実を置きたくはなかった。
だが、すでにステラはここまで辿り着いている。
嘘をつけばいい。
初めて、そう思う。
「違う」と言い切ってしまえば、それで今は凌げる。
だが、一度でもこの娘に対して「露骨な嘘」をついたと悟られれば、その瞬間に、父としての信頼は完全に失われるだろう。
ステラは、返事を急かすことなく、ただ静かに父を見つめていた。
その沈黙は、彼を追い詰めるというよりも、「あなたがどちらを選ぶのかを見る」と告げているようだった。
レギュラスは、ゆっくりと視線を落とし、再び上げた。
「……ほとんど、正解です」
その一言に、書斎の空気が微かに揺れた気がした。
ステラの瞳が細くなる。
勝ち誇るでもなく、怯えるでもなく。
やはり、という諦めにも似た色が浮かんだ。
「母は、闇の帝王の“何か”を封じている」
「ホークラックスの一つを、セシール家の血で封じられたら――
封印を解くには、その血筋ごと断つのがもっとも早い」
ステラ自身が、その結論に辿り着いてしまっている。
「だから騎士団は、母を狙う。
そして、私も、アルタイルも」
そこまで言って、ステラは口を閉ざした。
レギュラスは、娘の言葉を否定しなかった。
代わりに、静かに告げる。
「ホークラックスの“中身”が何であるか――そこまでは、お前には言えません」
ステラの眉が、わずかに動く。
「なぜです」
「知れば、お前は必ず動こうとする」
即答だった。
「騎士団側に行くかもしれない。
あるいは、自分の命を代償に封印を解く方法を探そうとするかもしれない。
どちらであっても、僕は認めません」
言葉にした瞬間、自分の胸の奥にある恐れが、はっきりと形を持った。
この娘は、自分の信じた「正義」のためなら、容易く自分を捨てかねない。
アランとは全く違う危うさを持っている。
ステラは、わずかに目を見開いた。
「……私が、自分の命を捨てると、お思いで?」
かすかな嘲りが、声の端に滲む。
「そういう生き方は、軽蔑しているはずですが」
レギュラスは、首を振った。
「違います。
お前は“綺麗な自己犠牲”を嫌悪している。
けれど――“誇りのために死ぬ”ことは、否定しない」
ひどく苦い真実だった。
純血の誇り。
ブラック家の名に恥じない選択。
そういったもののために、自分を燃やし尽くすことを厭わない眼差しを、レギュラスは誰よりも近くで見てきた。
ステラは、唇をきゅっと結ぶ。
否定しきれないことが、沈黙の中に浮かんでいた。
「ともかく――」
レギュラスは椅子から立ち上がった。
机を回り込み、ステラとの距離を詰める。
至近距離で見上げる娘の瞳は、やはりアランと同じ翡翠色だった。
だが、そこに宿る光は、どうしようもなく自分に似ている気がしてならない。
「騎士団が何を企んでいようとも、
僕はあなたたちを殺させません」
ステラの表情が、一瞬だけ揺れた。
それは驚きか、不信か、あるいはわずかな安堵か。
判別できる前に、彼女はすぐさま表情を引き締める。
「方法は?」
短い問い。
「母が封印している限り、闇の帝王は完全には滅びない。
それでも、魔法界は彼の死を望む。
その矛盾を、どうやって貫き通すおつもりですか」
レギュラスは、ふと笑った。
自嘲に近い、短い息の漏れ。
「それを考えるのが――こちらの仕事です」
皮肉のようでいて、本心でもあった。
「騎士団がどこまで真実に近づこうと、
法務部が公式に認めない限り、それはただの“噂”に過ぎません。
真実は、誰の口から語られるか、それだけで形を変える」
ステラは、その言葉を聞きながら、父の横顔をじっと見つめていた。
「では、私はどうすればよいのです」
レギュラスは答える前に、少しだけ迷った。
娘を安全な場所に閉じ込めておきたい。
騎士団に狙われる危険から遠ざけたい。
――だが、この娘がそれを甘んじて受け入れることはないだろう。
彼は、低く言った。
「まずは、自分が狙われる側だという自覚を持ちなさい。
騎士団が母を狙うのなら、同じ血を持つお前にも必ず手を伸ばす」
ステラは、静かに頷く。
恐怖の色はない。代わりに、冷たい覚悟の影が差す。
「それから――」
レギュラスはささやくように続ける。
「どれほど騎士団の思想に共鳴することがあっても、
決して“彼らの方法”だけは選ばないこと。
正義の名のもとに一人の女を殺そうとした集団を、僕は信じません」
ステラは、その言葉の意味を噛みしめるように目を伏せた。
「……分かりました」
その声には、従順さはなかった。
だが、完全な拒絶もなかった。
それが今のところ、レギュラスにとっての精一杯の勝利だった。
会話が途切れる。
ステラは、ほんの一瞬だけ父を見上げ、それから踵を返した。
書斎の扉へと向かう足取りは、いつも通り静かで乱れがない。
扉に手をかける直前、彼女はふと立ち止まり、振り向きもせずに言った。
「お父様」
「なんです」
「母には――何もお話にならないのですね」
レギュラスは答えなかった。
扉の向こうにいるであろう、静かに笑うアランの姿が脳裏に浮かぶ。
何も知らないまま、世界のど真ん中で封印として生かされ続けている女。
それでも夫を信じ、子を愛し、マグルの娘にまで手を伸ばす女。
「……あの人の世界を、これ以上壊すつもりはありません」
静かに、それだけ述べた。
ステラは、短く息を吐く。
それが嘲笑か、諦めか、レギュラスには判別できない。
ただ、わずかに柔らいだようにも聞こえた。
「なるほど。
やはり、母はあなたにとって“封印”ではなく、“妻”なのですね」
その言葉に、胸の奥がきゅっと痛んだ。
返事を探す前に、扉が開き、閉まる音がした。
書斎に再び静寂が戻る。
レギュラスは、机の端に片手をつき、深く息を吐いた。
騎士団は真実に手を伸ばし、
魔法界は闇の帝王の「死」を望み、
その中心で、セシール家の封印を背負わされた妻と、その血を継ぐ子供たちを守ろうとしている自分がいる。
どこまで守り切れるだろうか――?
答えのない問いが、静かな書斎の闇の中に沈んでいった。
その夜、屋敷はひどく静かだった。
吹き抜ける廊下の冷気も、階下の時計の刻む音も、いつもと変わらないはずなのに、すべてが少しだけ歪んで聞こえる。
ステラは自室の窓際に腰掛け、暗い庭を見下ろしていた。
黒々とした庭園のシルエットの向こうに、魔法界の空が重たく垂れ込めている。
闇の雲のあいだから時折のぞく星は、どれも頼りなく、とてもじゃないが導きになる光には見えなかった。
膝を抱え込むようにして座り、顎を軽く乗せる。
指先が自分のローブの裾を無意識に摘まんでいるのに気づき、ステラはそっと解いた。
――母に、何も告げていない。
レギュラスの書斎で告げられた「ほとんど正解です」という言葉が、まだ耳の奥で反響していた。
母はなに一つ知らされないまま、闇の帝王の“何か”を封じさせられ、そのまま妻として、母として、穏やかな表情で屋敷を歩いている。
その姿を思い出し、ステラは小さく舌打ちしたくなった。
何も知らずに、とんでもないものを封印したまま生きている――。
正確に言えば、「知らされていない」のだろう。
父は、あくまでアランを“封印”としてではなく“妻”として扱うと言った。
だからこそ、真実を告げない。
聞けば壊れてしまうから、という勝手な判断で。
「どこまでも勝手だわ」
誰にも届かないような声で呟く。
父と母。
騎士団。
どれも、それぞれに“正義”を掲げ、同時にどうしようもない“悪”を孕んでいる。
父は、魔法界を混乱から守るためと言って法務部を動かす。
騎士団は、闇の帝王を倒すためと言って母を殺そうとする。
母は――母だけは、きっとただ「守りたいものを守りたい」と思っているのだろう。
そのどれもが、間違っているとも言い切れない。
正しいとも、とても言えない。
ステラは、窓ガラスに映った自分の顔を見つめた。
翡翠色の瞳。
母と同じ色。
けれどそこに宿るものは、母のものとはあまりにも違う。
「どうして、私たちを産んだのかしら」
ぽつりとした言葉は、誰に向けられたものでもない。
なぜ、父はこの封印の力を宿す一族の血を継ぐ子どもをこの世に残そうとしたのか――。
自分も、アルタイルも。
封印の血を断ち切る方法などいくらでもあったはずだ。
セシール家の血筋を完全に絶やしてしまえば、誰もこんな危険な役割を背負わずに済んだのかもしれない。
それでも二人は、子を持つことを選んだ。
「二人の、エゴのために」
喉の奥に苦いものがこみ上げる。
アランの瞳に、どれほど強く「愛」が滲んでいたとしても。
レギュラスの決断に、どれほどの「覚悟」が込められていたとしても。
――結果として、自分は、闇の帝王の死を望む騎士団の手で殺されるかもしれない存在になった。
なんて酷い話だろう、とステラは思う。
誰も彼女に選ばせなかった。
セシール家の血を継ぐかどうかも。
封印の器として生きるかどうかも。
この世界に生まれてくるかどうかさえ。
そのくせ、世界は平然と彼女に“選択の結果”だけを押しつけてくる。
「……滑稽ね」
窓の外を見つめながら、薄く笑う。
ふと――旧資料棟での光景が、鮮明によみがえった。
仮面をつけた騎士団の男たち。
包囲される母。
怯えてすがりついてきたメイラ。
頭で状況を整理するより先に、身体が動いていた。
杖を抜き、呪文を放ち、盾となって立ち塞がる自分がいた。
そのとき、自分がどうしてあんなにも迷わず動けたのか――ステラはまだ上手く言葉にできない。
守りたかった。
ただ、それだけだ。
狙われている理由が、どれほど理不尽であれ。
母が封印の器であるという事実が、どれほど残酷であれ。
あの場で母が倒れる未来だけは、どうしても許せなかった。
「……守れて、よかった」
心の底から、そう思ってしまっている自分がいる。
その自覚が、ステラには怖かった。
愛なんて信じるに足らない、と決めていた。
誰かに縋る生き方など、母を見ていれば十分だと思っていた。
誰かのために自分を削ることは、愚かだと切り捨ててきた。
それなのに。
気づけば、自分は母のために命を張っていた。
考えるより先に、身体が勝手に動いていた。
そのことを誇らしく感じてしまった自分がいる。
その矛盾が、胸の中で軋む。
「正義も、悪も」
ステラは、指先で窓ガラスをなぞった。
白く曇った息の跡が、すぐに夜の冷気に消えていく。
父の正義。
騎士団の正義。
母の、ささやかな正義。
そのどれもが、誰かにとっての悪であり、誰かにとっての救いになる。
騎士団にしてみれば、アランは「世界を闇の帝王に繋ぎ止めている存在」だ。
封印を壊さなければ、ヴォルデモートは完全には死なない。
その理屈は、あまりにも冷酷で、同時に、恐ろしいほど筋が通っている。
法務部のレギュラスブラックにしてみれば、騎士団は「一人の女を殺して世界を救えると信じている危うい集団」だ。
その視点にも、確かに真実はある。
そして、母にとっての真実は――きっともっと単純だ。
マグルの娘メイラを守りたい。
子どもたちを守りたい。
夫の隣で、ともに生きたい。
世界の構図は、どこを切り取っても、誰かの正義と誰かの悪が入り混じっている。
「その真ん中に、生まれてきたのが私たちだなんて」
ステラは、肩をすくめた。
アルタイルの顔が浮かぶ。
あまりにも無邪気で、まっすぐで、優しい弟。
その真っ白な笑顔が、将来どれだけ血で汚されるのかを考えると、吐き気がするような嫌悪感と、どうしようもない保護欲が同時に湧き上がる。
あの子には、何も背負わせたくない。
そう願う自分が、また嫌になる。
結局自分は、誰かを守りたいだなんて思う、凡庸で弱い人間なのだろうか。
