3章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
その日、屋敷の玄関ホールには、いつもより重たい気配が漂っていた。
夕方の光がステンドグラス越しに差し込み、大理石の床に淡い色彩の影を落としている。その光の中で、メイラは両手で一通の封筒を握りしめていた。
封蝋には、見慣れた紋章が押されている。
魔法省――そしてその上に、薄く浮かぶもう一つの印。
騎士団が公式文書として使う、あの堅苦しい意匠。
メイラの指先は、封筒の端をくしゃりと折り曲げてしまうほど強く力が入っていた。
「アランさん……」
自分一人で開けるには、あまりにも重苦しすぎる。
そう判断したのだろう。
メイラは慎重に封筒を抱えなおし、アランの居る小さな応接間の扉をノックした。
応接間は、柔らかな午後の名残の光に満ちていた。
レースのカーテン越しに差し込む陽光が、古いソファと木製のテーブルを温かな色に染めている。
アランは窓辺で編みかけのショールを膝に広げ、静かに針を動かしていた。
扉がノックされる音。
振り向くと、メイラがそこに立っている。顔色は悪く、唇はきゅっと結ばれていた。
「…… アランさん」
メイラは扉をそっと閉め、まるで壊れものでも扱うような慎重さで封筒を差し出した。
アランは編み針を膝の上に置き、両手を伸ばしてその封筒を受け取る。
封蝋に押された紋章を見た瞬間、胸がどくりと跳ねた。
魔法省――そして、騎士団の印。
最近はレギュラスの仕事の関係もあり、その紋章を見ない日はないと言っていい。
なのに、今日は、胸の奥を冷たい指で掴まれたような感覚に襲われた。
――嫌な予感。
アランは杖を手に取り、空中にふわりと文字を浮かべる。
『開けても?』
メイラは小さく頷いた。
その頷きの中に、「一人では怖くて」とすがるような感情が隠れているのが、アランにはありありと分かった。
封蝋にそっと指を滑らせ、魔法でそれを切り開く。
パリ、と乾いた音が部屋に響き、厚手の羊皮紙が現れた。
アランは文面に目を走らせる。
一行、また一行。
読み進めるごとに、胸の中の何かがざわざわと騒ぎ始めた。
――アズカバン。
――エドワード・ウォルブリッジ。
――遺骨の一部、特例として魔法省保管庫に保管。
――遺族による引き取りを希望する場合は、所定の日時に魔法省に出頭のこと。
淡々と記された文字は、感情を一切帯びていない。
だからこそ、その内容の重さが直接喉元に突きつけられてくるようだった。
アランラの父の名。
これまで書面で見たことのあるはずの文字列が、今日は酷く生々しく感じられる。
「……どうしたら、いいですか……?」
メイラの声は震えていた。
アランの膝の上に視線を落とし、両手をぎゅっと握りしめている。
「本当に……父の骨が、そこにあるんでしょうか。
手紙には“特例案件として保管”って……。
でも、どうして今になって……」
言葉は、そこで途切れた。
彼女は続きに何を言おうとしたのか――
“どうして今になって、私なんかにそんなことを教えようとするのか”
その疑念が、喉の奥で石のように固まっているのだろう。
アランは羊皮紙から視線を離し、ゆっくりとメイラを見た。
長い時間を共に過ごしてきた“娘”のような存在。
彼女の頬は蒼白で、それでも瞳だけが必死に何かを掴もうとしている。
――あの日。
レギュラスが罪を着せた一人のマグルの男。
病に伏した娘を救う代わりに、罪を被ると告げた父親。
その取引に、アランは直接立ち会っていない。
けれど、後に聞かされた時、胸が裂けるような苦しさを覚えた。
メイラを迎えに行かせたのは、レギュラスの手配だった。
病を癒し、保護施設に送った――はずだった。
だがその施設は、狼人間に差し出すマグルを選別する場所でもあった。
だからこそ、アランはメイラを奪い返した。
レギュラスと対立してでも。
あの時、自分は彼女を救ったのか。それとも、ただ別の檻に移しただけなのか。
胸の奥の、答えの出ない問いが疼く。
アランは深く息を吸い、杖を取り、空中に文字を綴った。
『あなた一人で行くのは危険です』
メイラは顔を上げる。
その瞳の奥に張り詰めた不安が揺れている。
「……でも、アランさん。
これは、私に宛てられたものです。
“遺族”として、来るなら来いって……そう書いてあります」
魔法界とマグル界の間には、もう昔のような自由さはない。
街路を歩くマグルは、必ず滞在許可証を携え、関所で細かい検問を受ける。
些細な違反でも問われれば、即刻“魔法界からの追放”という烙印が押される。
それほどまでに、今の世界は徹底した線引きの上に成り立っていた。
マグルが魔法省に呼び出され、“遺族として出頭せよ”と書かれた手紙を持っていく――
その行為が、どれほど危うい意味を持つか、アランには痛いほどわかる。
これは、ただの通知ではない。
何者かの意図が、確実に絡んでいる。
胸の奥で、警鐘が鳴る。
法務部の書式、魔法省の印、騎士団の紋章――全ては整いすぎている。
だからこそ、そこに潜む意図が見えないほどに。
アランは、もう一度羊皮紙を見つめた。
メイラの父の名。
“遺骨は適切に保管されている”という文言。
“遺族の立ち会いのもと、返還手続きを行う”という約束。
――これは、罠かもしれない。
けれど、それでも。
アランの胸には、抑えきれない思いが渦巻いていた。
メイラは、父の愛を奪われた。
その父は、罪人として死に、真実を知られることもなく名前だけを汚されたままだ。
自分は、その一部始終を知りながら、レギュラスの隣に立つことを選んだ。
彼を愛しているから。彼と共にあることを選んだから。
――それが、自分自身の“狡さ”だ。
愛している。
だから、彼の罪を糾弾できない。
だから、彼の決断を根本から否定することもできない。
その代わりに、自分を責める。
自分を削って、罪を引き受けているつもりになる。
――それもまた、ひとつの逃避に違いないのに。
アランは、静かに杖を走らせた。
『……あなたの父上は、
無実の罪を被って、あなたを守ってくださった方です』
メイラの瞳が大きく揺れる。
それはアランが先日、涙ながらに真実を告げた時と同じ揺れだった。
『本当は、私が行くべきではないのかもしれません
これは、あなたとお父様の問題だから』
書きながら、指先が微かに震えた。
本当なら、これは“家族”だけで決着をつけるべきことだ。
他人である自分が間に入るのは、筋違いなのかもしれない。
だが、そう思う一方で――
『けれど、今の魔法界はマグルにあまりにも厳しい世界です』
アランはゆっくりと文字を続ける。
『関所を越えるにも、許可証が必要です
魔法省に行くにも、必ず誰かの目に触れます
もし何かが起きたら、危険なのはあなたです』
メイラは唇を噛みしめた。
その指先が、膝の上の布地をぎゅっと掴む。
「……じゃあ、どうしたら……」
アランは、ほんの一瞬だけ迷った。
この一歩は、きっと戻れない一歩になる。
それでも――胸の奥で、答えはもう出ていた。
杖先から、決意の文字が浮かぶ。
『私が行きます』
メイラは息を呑んだ。
「アランさんが……?」
『ええ』
アランは頷き、続ける。
『私は魔法省の出入り許可を持っています
レギュラスの妻として、これまで何度も同行してきました。
私なら、あなたより疑われずに済むはずです』
もちろん、本当に何も疑われずに済むとは限らない。
レギュラスブラックの妻が、マグル囚人の遺骨を受け取りに来る――
その不自然さに気づく者もいるだろう。
それでも、マイラ一人を向かわせるよりは、ずっとましだと思えた。
『これは、私にできる償いの一つです』
文字を書きながら、胸が締め付けられる。
『あなたをこの屋敷に連れてきたのはレギュラスです。その前に、あなたのお父様に罪を被せたのも、レギュラスです
そしてその男を選び、愛し続けているのは私です』
メイラの瞳が大きく見開かれた。
アランの指は震えながらも、なお文字を紡ぐ。
『だから私は、罪の片割れを背負っています。
そのくせ、彼を責めることも、離れることもできなかった。それが私のいちばん醜いところです』
メイラは首を振った。
強く、必死に。
「そんな、アランさんは……」
けれど、アランはそっと片手を上げて制した。
瞳の奥にあるのは、自分を責め立てる暗さではなく、
それでも前に進もうとする、静かな決意だった。
『だからせめて、あなたのお父様の骨だけは
私の手で、あなたの元に戻したいのです』
ひと文字ごとに、胸から何かが削れていくような感覚がする。
だが同時に、それはアランにとって、どうしても譲れない願いでもあった。
『レギュラスには、言えません』
その一文を書いた時、指先が特に強く震えた。
『彼は今も、マグルの孤児院の事件を引きずっています
自分の決断を、自分なりに正当化しなければ、立っていられないのでしょう。
その傷を、これ以上抉りたくありません』
――本当は、彼と共にこの問題に向き合うべきなのかもしれない。
けれど、今のレギュラスは、法務部の長官として、魔法界の盾として、
あまりにも多くのものを背負いすぎている。
彼からこの問題を奪おうとしているわけではない。
ただ、これ以上負荷をかけたくなかった。
それが正しい選択かどうかも分からないままに。
『だから、これは私の勝手な行動です
私一人の責任で行きます』
メイラは、しばらく言葉を失っていた。
静まり返った部屋の中で、時計の針の音だけがかすかに響く。
やがてメイラは、震える声で言った。
「……危ないかもしれないのに」
アランは微笑んだ。
その笑みは、どこまでも柔らかく、けれど少しだけ哀しかった。
『あなたの父上は、命を賭けてあなたを守りました』
杖が、再び空に文字を描く。
『私は、命までは賭けられないかもしれません。
けれど、恐れよりも、守りたいという気持ちを優先したいのです』
メイラの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
彼女は慌てて目元を拭う。
「……そんな顔、しないでください。
私、アランさんに、そんなことさせたくなんか……」
アランは首を振り、メイラの手をそっと握った。
その手を、ひとつひとつ確かめるように包み込む。
『あなたが望むなら、行きます』
真っ直ぐな一文。
メイラは唇を噛み、アランの瞳を見つめた。
そこにあるのは、迷いのない優しさと、
その優しさを“罪”だと自覚しながら、それでも手放さない強さ。
「……ずるいです」
メイラは小さく笑いながら、涙をこぼした。
「そんなふうに言われたら……断れないじゃないですか」
アランも、少しだけ笑った。
その笑みは、かつて地下牢で声を失った少女が、ようやく手に入れた“今”の証のように、静かに揺れている。
『では――一緒に行きましょう』
最後に、アランはそう書いた。
『表向きは、私が魔法省へ用事があって出向く
あなたはその付き添いとして同行する
関所の許可証の手配は、私がします』
レギュラスには、別の用件で魔法省に顔を出すとだけ伝えればいい。
今の魔法省法務部長官の妻が、魔法省に行くこと自体、不自然ではない。
ただその陰で、一人のマグルの娘が、父の“骨”を求めて足を運ぶ。
それが、どれほど危険な旅路になるのか。
どれほど巧妙に仕組まれた罠であるのか。
――この時のアランもメイラも、まだ知らなかった。
けれど、アランの中ではひとつだけ、確かなことがあった。
これは、自分が選ぶ贖いの形だ。
誰かに許されるためではなく。
自分が、自分でいられるために。
アランはそっとメイラの手を握り直した。
窓の外では、夕暮れがゆっくりと色を変えていく。
静かな屋敷の一室で、二人だけの決意が、ひっそりと固められた。
その朝、ステラは何かがおかしいと、ほとんど直感だけで悟った。
屋敷の一階、長い廊下の突き当たりにある客間の前を通りかかったとき、扉の内側から、紙の擦れる音と、小さく震えたメイラの声が聞こえたのだ。
普段なら足を止めることもなく通り過ぎていたはずの場所で、ステラの脚はぴたりと止まる。
――魔法省の紋章。
少し前に廊下でメイラが抱え込むように持っていた封筒を、ちらりと横目で見たときに視界の端に入ったもの。
そしてその上に薄く押されていた、騎士団の印。
「……また、厄介なものに目を付けられたのですね」
心の中でだけ呟く。
あの時はわざわざ口に出す必要もないと思った。ただでさえマグルであるというだけで、今の世界では足枷が多すぎるのだから。
だが、今日――扉一枚隔てた向こうから伝わってくる空気は、いつもと決定的に違っていた。
やがて、椅子が引かれる音。
それから、杖で机を軽く叩くような小さな音。
アランが文字を書くときの、あの独特のリズムだ。
ステラは、扉に向けていた視線をそらすと、何事もなかったかのように階段を上って自室に戻るふりをした。
が、それはほんの数歩だけのこと。
踵を返して、廊下の角に身を潜める。
――母がマグルの女を連れて、どこかに行こうとしている。
はっきりとそう意識したとき、胸の奥に氷のようなものがすうっと沈んでいく感覚があった。
しばらくして、二人が部屋から出てくる足音がした。
ステラは廊下の角の陰から、わずかに顔を出して様子を伺う。
最初に現れたのはメイラだった。
いつものシンプルな衣服ではなく、目立たないけれど上質な生地のコートを羽織り、靴もきちんと磨かれている。
その後ろに、アランが静かに歩いていた。
母は、外出用の深い緑のマントを纏い、髪を低い位置でまとめている。
翡翠色の瞳はいつも通り柔らかく、けれどどこか決意を帯びていた。
その横顔は、見慣れているはずなのに、ステラには見知らぬ誰かのように思えた。
――なぜ、今、この情勢で。
廊下の窓から見える外は、いつもと変わらず静かだった。
けれど、屋敷の外の世界は、もうずっと前から「いつもと変わらない」どころか、根本から書き換えられている。
魔法界とマグル界を隔てる関所。
魔力を無効化するポーションの事件。
危険因子を排除するという名目で、マグルに対する制限は日に日に強まっている。
そんな世界で、マグルの女を伴って屋敷の外に出る――
それがどれほど愚かで、無用な危険を招く行為か、少し考えれば分かるはずだ。
それでも母は、メイラを連れて行く。
その事実が、どうしようもなく腹立たしかった。
玄関ホールに、二人の足音が吸い込まれていく。
ステラは一拍置いてから、音を立てないように階段を下りた。
吹き抜けの高い天井にはシャンデリアが煌めき、その灯りが大理石の床に淡く反射している。
玄関では、屋敷しもべ妖精がアランのマントの裾を整え、メイラに小さな布鞄を持たせていた。
アランは振り返り、メイラの襟元をそっと正す。
指先は優しく、まるで実の娘にするような仕草だった。
「……どうして」
喉元まで出かかった言葉を、ステラは飲み込む。
そうしないと、声が尖りすぎて、自分でも制御できなくなりそうだった。
――あんなふうに並んで外に連れ出してもらえたことが、自分にあっただろうか。
記憶の中を探る。
幼い頃、母の体調は常に不安定だった。
アルタイルが生まれてからは特に――母はしばしば床に伏せ、その枕元にはいつもメイラが控えていた。
母の手は、いつも誰かを撫でている。
額に冷たい布を当てる手。
髪をすくう手。
スープを口元に運ぶ手。
けれどその「誰か」の中に、自分がいた記憶は、驚くほど少ない。
気づけば、母の隣には必ずあのマグルがいた。
自分が小さな手を伸ばした先で、いつもすでにメイラが母の手を握っていた。
――あれは、母の手であって、娘のための手ではない。
ずっとそう思い込んできた。
だから、求め方を覚える前に、求めることを諦めるのが早かった。
「アラン夫人、お気をつけて」と屋敷しもべが頭を下げる。
アランは軽く頷くと、メイラの背中をそっと押して扉へと向かった。
その仕草は、どこまでも自然で、どこまでも優しい。
――あれは、母ではなく、メイラの“母親”の顔だ。
胸の内がひどくざわつく。
血のつながりもない、汚らわしいマグルの女に向けられる眼差しが、
どうして、自分が一度も受け取ったことのない温度を持っているのか。
父がマグルの男に着せた罪。
マグル孤児院惨殺事件――新聞に踊るその見出しと、ウォルブリッジの姓。
それを辿っていけば、メイラがこの屋敷にいる理由など、自ずと見えてくる。
父の温情。
母の罪悪感。
その2つが絡み合った結果、メイラウォルブリッジはここに匿われている。
――マグルごときに情をかけなければならない理由も、
――マグルごときに罪悪感を抱え続ける母も、ステラにはどうしても理解できない。
そんなもののために、自分の幼少期は、どれほど削られたのだろう。
玄関の大扉が、重い音を立てて開く。
外の冷たい空気が一気に流れ込み、ホールの温度をわずかに下げた。
アランとメイラが並んで外へ出る。
その背中のシルエットは、遠目に見れば姉妹か母娘のように見えるだろう。
肩の高さの差も、歩幅の揃い方も、綺麗に噛み合っていた。
ステラは、二人の姿が完全に扉の向こうへ消えるのを待った。
その後で、静かに靴を履き、マントを取る。
「どちらへ……?」
おそるおそる声をかけてきたのは、若い屋敷しもべだった。
ステラは振り向きもせず、マントの留め具を留めながら淡々と答える。
「少し、散歩に出るだけです」
声は冷え切っているのに、口調は礼儀正しい。
屋敷しもべは不安そうに目を揺らしたが、それ以上は何も言えなかった。
扉が再び開く。
外気が肌をなで、ステラの頬に薄く冷たさが乗る。
通りに出ると、アランとメイラの姿は、少し先の角を曲がるところだった。
ステラは距離を保ちつつ、足音を殺して後を追う。
石畳の路地。
両側には古いレンガ造りの建物が並び、煙突から白い煙がゆらゆらと上がっている。
行き交う魔法族は以前より減り、代わりに検問所へと続く道には、見慣れない制服の警備員が立っていた。
――今、この世界でマグルと一緒に歩くということが、どれほど目立つか。
母は知っているはずだ。
それでもなお、メイラを連れて行く。
それがステラには理解を超えて、苛立ちを通り越して、奇妙な恐怖すら感じさせる。
母は、何をしに行くつもりなのだろう。
魔法省の封蝋。
騎士団の印。
メイラの父の名前。
点と点が、頭の中でいくつも浮かぶのに、それが線になる前に感情が邪魔をして、まとまった思考に繋がらない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
――母は、自分のためには決して選ばない危険を、マグルのためになら選んだ。
そんな理不尽が、どこにあるだろう。
アランが、歩調を少し緩める。
メイラの息遣いを気遣っているのだろう。
そのたびに、母のマントの裾がふわりと揺れ、隣を歩くマグルの裾がそれを追いかけるように揺れる。
ステラは、遠くからその光景を見つめながら、胸の内側で凍った何かがきしむ音を聞いた気がした。
あの人は、誰の母なのか。
ステラブラックの母か。
アルタイルブラックの母か。
それとも――メイラウォルブリッジの母か。
問いの答えを、ステラはとうに知っている。
だからこそ、目を逸らしたかった。
けれど、足は止まらない。
レギュラスブラックの罪。
アランブラックの罪。
そして、その罪を正当化しようとするかのように続けられる“償い”という名の行動。
その全てが、ステラにとっては、許し難い茶番にしか見えなかった。
母とマグルの背中は、やがて魔法省へと続く大通りへと吸い込まれていく。
関所へ向かう人々の列が遠くに見え、許可証を確認する役人の声が乾いた空気に混じって響いていた。
ステラは、少し離れた建物の影からその光景を見下ろす。
指先には、いつでも杖を抜けるように微かな力が籠っていた。
どこまで堕ちていくのかしら、この家族は。
そう思うと、笑い出したいような、泣き出したいような、得体の知れない衝動が喉の奥まで込み上げてきた。
けれど彼女は、どちらも選ばなかった。
笑いもせず、泣きもせず。
ただ、研ぎ澄まされた冷たい瞳で、母とマグルの小さな背中を追い続ける。
この日、ステラはまだ知らない。
母が何を抱えてその道を歩いているのかも、
その先に待ち構えているものがどれほど危険かも。
ただ一つだけ確かなのは――
この日、彼女が「後を追う」という選択をした瞬間から、
ブラック家の娘としてのステラの運命もまた、静かに軌道をずらし始めていたということだった。
石畳が、いやに冷たかった。
魔法省の裏手にある小さな中庭――職員でもほとんど通らない、搬入口と古い書庫をつなぐような狭い空間。
灰色の空からは光が差し込まず、四方を囲む高い壁が、外界の喧噪を完全に遮っている。
アランはそこで立ち止まっていた。
細い肩をマントに沈め、両手で小さく丸められた書簡を握りしめている。
騎士団と魔法省の印が押された封筒――あれを見た瞬間から、彼女の決意は固まっていた。
メイラの父の骨を返す、と。
アズカバンで無実の罪を着せられたまま死んだ男の――遺骸を。
中庭の中央付近で、アランは周囲を見回した。
約束の時刻。
それなのに、案内役の姿はどこにもない。
書庫へと続く扉も、搬入口の扉も、固く閉ざされたまま、気配一つ漏らしてこない。
おかしい――
石壁に反響するのは、アラン自身の呼吸音と、マントの裾が擦れる小さな衣擦れだけ。
人の出入りが全くない、あまりにも“きれいすぎる静寂”だった。
その様子を、少し離れた屋根付きの通路から、ステラは息を潜めて見下ろしていた。
石柱の陰に身を寄せ、冷たい手すりに指先をかける。
眼下、翡翠の瞳を持つ女――自分の母が、独りで立っている。
その背中はいつも通り華奢で、体の弱さが遠目からでも分かるほどだった。
空気が、ひらりと裂けた。
ほんの一瞬、視界が歪んだように見えたかと思うと、中庭の四方に黒い影が現れる。
姿くらましの痕跡。
それは何度も見てきたものなのに――この場に現れたそれは、どこか質が違って見えた。
影は、素早く形を取り戻す。
フード付きのローブ、顔を覆い隠す無機質な仮面。
銀でも黒でもない、鈍く曇った色合いの仮面が、光の乏しい中庭にずらりと並んだ。
四人、五人……いや、もっといる。
アランの周囲を囲むように、それぞれ距離を保って配置につく。
手にはすでに杖。
その先端にかすかな光が灯る。
刺客――
ステラの背筋に、冷水を流し込まれたような感覚が走った。
騎士団の正式な制服でもない。
魔法省の職員にも見えない。
けれど、立ち方、間合いの詰め方、互いの位置取り――
どれも“訓練された戦闘集団”特有の匂いを纏っている。
アランの肩が、小さく震えた。
喉元にそっと手をやり、何か言葉を出そうとするような仕草を一瞬見せて――
すぐにそれを諦める。
彼女には声がない。助けを求める叫びを上げることもできない。
ただ、杖を握る手に力を込め、じっと敵を見据えるしかない。
――これは、偶然の襲撃なんかじゃない。
ステラは奥歯を噛みしめた。
魔法省からの封筒。
形式ばった文面。
骨の受け渡しという名目。
人目につかない裏中庭。
それらが一つに繋がるのに、長い時間は必要なかった。
最初から、そのつもりだった。母を、ここに“呼び出す”ためだけに。
騎士団が。
魔法界の“正義”を掲げる彼らが。
では、なぜ――
なぜ、そこまでして母を消さなければならないのか。
メイラの父の罪?
マグル孤児院の事件?
マグルとの取引の証拠を隠すため?
どれも違う、と本能が告げていた。
母が握っているものは、もっと根本的な「何か」だ。
母にしかない力。
母の血の中に流れる“セシール家”の何か。
幼い頃、廊下の曲がり角で聞いてしまった大人たちの囁き声。
「封印」「呪い」「セシールの娘」
理解できないまま胸の奥に沈めてきた言葉たちが、一気に浮かび上がる。
――セシールの封印の呪い。
母の中にある「封じている何か」。
その存在が、騎士団にとって都合が悪いのだ。
だから、彼らは母を殺そうとしている。
息が詰まる。
目の前の光景が、まるで遠く霞んだ舞台のように現実感を失っていくのに、心臓だけが異様な速さで打ち続けた。
仮面の一人が、一歩、前に出た。
杖の先がわずかに持ち上がる。
その動きに合わせて、他の刺客たちもそれぞれ、別の角度から杖を構えた。
捕縛の陣形ではない。
逃げ道を計算して残し、“取り押さえる”ための配列ではない。
これは――完全に“殺す”ための包囲だ。
アランは、わずかに後ずさる。
背中が、ひやりとした石壁に触れた瞬間――逃げ場がないことを悟っただろう。
彼女の翡翠の瞳が、ほんの一瞬だけ、空を仰ぐように揺れる。
体の弱い母に、こんな戦い方ができるわけがない。
普通の決闘だって向いていないのに。
それなのに複数人を相手にしろというのか。
――無理だ。
思考より先に、足が動いていた。
「――っ!」
石段を蹴る音が、中庭に響いた。
仮面の一人が反射的に振り向く。
その視界の端を、黒い影が斜めに走り抜けた。
ローブの裾が風を切り、冷えた空気が一瞬だけ動く。
アランの前に、誰かが立った。
細く長い背中。
腰まで届く黒髪。
振り返る余裕もないまま、自分の前に出たその人物――
ステラだった。
「……ステラ……?」
アランの喉から、声にならない息が漏れる。
その瞳が大きく見開かれ、娘の後ろ姿を捉えた。
ステラは、振り向かない。
ただ、仮面の男たちに真正面から向き合いながら、無言で杖を抜いた。
その動きは、滑らかで迷いがない。
ホグワーツで最優秀の成績を取ると噂される、生粋のブラック家の魔女の所作だった。
刺客の一人が苛立ったように杖を振り上げる。
その瞬間――
「――!」
光が弾けた。
ステラの杖先から展開された防御呪文が、半透明の壁となって目の前に張り巡らされる。
直後に飛来した攻撃呪文がその表面にぶつかり、眩しい火花を散らして弾かれた。
石畳が震え、熱の残滓が空気を焦がす。
アランは反射的に娘のローブの袖を掴んだ。
震える指先が、かろうじて布を捉える。
必死に引き止めようとするように、しかし力はあまりに弱い。
「下がっていてください、母さん」
振り向かないまま、ステラは低く言った。
その声には、これまでアランが見たことのない鋭さと――微かな震えが混じっていた。
恐れているのだ。
それでも、退かないと決めた声だった。
――どうして、こんなことになったのだろう。
目の前の仮面たちは、何の感情も読み取れない無機質な顔をこちらに向けている。
けれど、その沈黙の奥に潜む殺意だけは、皮膚に刺さるほどはっきりと伝わってきた。
母が握る“何か”のため。
セシール家の封印の力のため。
その「邪魔」を、彼らはここで排除しようとしている。
そんな理屈は、ステラには理解できない。
けれど――
母を殺させるわけにはいかない。
母がどれほどマグルを庇おうと、
どれほどメイラを娘のように扱おうと、
どれほど自分を見落とし続けてきたとしても。
「……あの人は、私の母だ」
ステラは、胸の奥で静かにそう言い切った。
ブラック家の娘として。
セシールの血を引く者として。
世界中の理屈が、騎士団の正義が、マグルの涙が、
何を訴えようと構わない。
――この場でだけは、自分が守る。
仮面の一人が、舌打ちを漏らす気配がした。
次の瞬間、四方から一斉に呪文の光が放たれる。
ステラは杖を高く掲げ、迫り来る光の奔流を迎え撃った。
冷たい空の下で、
母を囲む輪は、
いつの間にか、
“母娘二人”を飲み込む陣形へと変わっていた。
騎士団にとって、それは完全な誤算だった。
本来、今日の標的はアラン・ブラック。ただ一人。
病弱で、決して戦闘に長けているとは言えない女を、静かに、確実に仕留める――はずだった。
なのに、彼らの前に立ちふさがっているのは、想定にない影だ。
ステラ・ブラック。
まだホグワーツに通う年頃の少女。
けれど、杖を握りしめるその腕には、子供らしさは微塵もない。
足をわずかに開き、肩の力を抜き、いつでも重心を移動できるように構えた姿勢は、訓練を受けた決闘者そのものだった。
「……クソ、なんなんだ、あの子供は」
仮面の下で、ひとりが低く唸る。
返ってくるのは短い舌打ちと、互いに交わす視線だけ。
声を出せば、それだけで隙になる。
だから彼らは、わずかな目配せだけで意思を伝え合う。
――子供には致命傷を与えるな。
――標的はあくまでアラン・ブラック。
出発前に何度も念押しされた指示が、脳裏にちらつく。
だが、いま目の前の現実は、その指示をきれいに裏切っていた。
「インカーセルス!」
ひとりが放った拘束呪文が、蛇のようにステラの足元へと伸びる。
素早く絡みつき、転倒させる算段だった――が。
「――甘いわ」
ステラの唇が、冷ややかに動いたように見えた。
次の瞬間、彼女の杖先から鋭い光が放たれる。
「レディクト・シェル!」
拘束呪文の縄目を正面から叩き割るような反撃。
空中でほどけた縄が、破片となって霧散する。
同時に、ステラの足が石畳を軽く蹴った。
細い体が、滑るように横へと移動する。
直後、先ほどまで彼女が立っていた場所の石畳が、爆ぜた。
別の仮面が放った衝撃呪文が地面を抉り、破片が飛び散る。
(今のを避けるのか……?)
ひとりが背筋に冷汗を流す。
狙いは外さなかった。他の大人の魔法使いなら確実に直撃していたはずだ。
それなのに、彼女はまるで“予測していたかのように”、そこから抜けていた。
「さっきから……全部、読まれてる……?」
声にならない疑問が、陣形の中を駆け抜ける。
ステラの瞳は、氷のように冷たかった。
敵の数を数える。
五人。いや、影の動きからして六人目もどこかに潜んでいる。
正面、斜め両側、高所――
それぞれが別角度から呪文を撃ち込み、逃げ道を削る形を取っている。
正面からは無理。防御と反撃を同時にやるしかない――
耳の奥で脈打つ鼓動がうるさい。
けれど、そのうるささがかえって意識を研ぎ澄ませてくれる。
ひとつひとつの杖の動き、指先のわずかな癖、足の踏み込み――
視線だけで、それらを逃さないようにした。
背後には、アラン。
細い指が、ステラのローブの袖を掴んでいる感触がある。
その小さな力が、かえって彼女の中の何かを固くする。
――この人は、戦えない。
――なら、戦うしかないのは、自分。
「プロテゴ!」
左から飛来した赤い呪文が、透明な盾に弾かれ、火花を散らして斜め上へ逸れる。
その反射軌道の先にいる別の仮面へと、ほとんど同時にステラは杖を振るった。
「ストゥーピファイ!」
紅い光が走り、仮面の胸元を直撃する。
男の体が後ろへ吹き飛び、石壁にぶつかって崩れ落ちる。
口元から短い呻きが漏れ、杖が手から滑り落ちた。
「……一人」
冷静に数を減らしていく自分の思考が、どこか他人事のように感じられた。
胸は確かに怖さで締め付けられているのに、指先は驚くほどよく動く。
恐怖の上に、純粋な「戦闘の感覚」が乗っている――そんな奇妙な状態だった。
「くそっ……子供だぞ、相手は……!」
仮面越しの視界の端で、倒れた仲間の姿を確認しながら、別の男が歯噛みする。
ステラは容赦しない。
だが、その呪文には一線があった。
殺傷呪文ではない。
骨を砕く呪文でも、切り裂く呪文でもない。
眠らせる、痺れさせる、吹き飛ばす――
あくまで“戦闘不能”にするためだけの魔法ばかりだ。
あれだけの魔力を持っているのに……殺すことだけは、選んでいない。
その事実に気づいた瞬間、仮面の下で、ひとりの男の表情が歪んだ。
自分たちのほうがよほど、血に飢えた獣に近いのかもしれない、という気づきが、喉の奥に苦いものを残す。
だが、迷っている暇はなかった。
「右から詰めろ!」
短く叫ぶ。
指示と同時に、右側の二人がステラを挟み込むように前へ出る。
ひとりは地面を狙い、もうひとりはステラの杖を狙う。
足場を崩しつつ、武器を叩き落とす――捕縛の常套手段だ。
茶色い光が石畳に走り、地面が波打つ。
同時に、ステラの手元へ向けて白い閃光が飛ぶ。
「……遅い」
ステラは低く呟いた。
次の瞬間、足元の揺れをものともせず、片足だけでバランスを取りながら、杖を真横に払う。
「ディフィンド・フレア!」
細く鋭い切断呪文が、白い閃光を斜めに叩き割る。
弾かれた光は軌道を逸れ、ステラの髪先をかすめて消えた。
揺れる黒髪の先端が、ほんの少し焦げる匂いがする。
「っ……!」
右側の仮面が、思わず一歩退いた。
その退き足を逃さず、ステラは杖を向ける。
「エクスパルソ!」
衝撃呪文が短く炸裂し、男の体が斜め後ろへと弾き飛ばされる。
石柱に肩を打ち付け、鈍い音を立てて崩れ落ちる気配。
「(これ以上は、まずい……!)」
残った仮面たちの間に、焦燥が走る。
ここまで、アラン・ブラックにはひとつの呪文も届いていない。
彼らが撃ち込んだ呪文は、すべてステラ・ブラックによって遮られ、弾き返され、撃ち落とされ続けている。
本来の計画では、アランに向けて集中砲火を浴びせ、一瞬で決着をつけるはずだった。
体力のない彼女なら、それだけで終わっただろう。
だが今は――
ステラが真正面に立ち、アランを完全に死角に押し込めている。
(…… アランを狙えば、あの娘に直撃する)
騎士団の名を持つ以上、子供を殺したという汚名だけは絶対に避けなければならない。
どれほど目的が重くとも、それだけは許されない。
だから、狙えない。
だから、撃てない。
気づけば、彼らは“標的以外”を相手に戦い続けるという、最も想定したくなかった状況に追い込まれていた。
アランは、ステラの背中越しに戦いを見ていた。
目の前で飛び交う光の奔流。
空気を切り裂く熱と圧力。
耳元で弾ける衝撃音。
杖を握る手が震える。
彼女だって、戦える魔女だ。
けれど、娘の一歩後ろに立った瞬間から、足が前に出なかった。
ステラがいなければ、今頃自分は――
その事実があまりにも鮮烈で、足元がふらつく。
指先に残るローブの布の感触だけが、自分がまだここにいるのだと教えてくれていた。
ステラの横顔は、横から見るとまだあどけなかった。
けれど今、彼女の瞳には、子供らしい迷いは欠片もない。
意地も、誇りも、怒りも――
そしてきっと、恐怖も。
全部を飲み込んだうえで、それでも前に立っている。
アランの胸に、ものすごい衝動が込み上げる。
守られているという現実と、
守らせてしまっているという罪悪感と、
それでも娘の背中があまりにも誇らしいという矛盾した感情が、いっぺんに押し寄せてきた。
「おい、退くか?」
短い問いが、仮面の内側で交わされる。
返ってきたのは、迷いを含んだ沈黙だった。
退けば、今日の計画は水泡に帰す。
それだけではない。
アラン・ブラックを取り逃がすことは、ヴォルデモートに繋がる「鍵」をそのまま法務部と闇の陣営に渡し続けることと同義だ。
ジェームズの顔が脳裏をよぎる。
あの男は、絶対に諦めろとは言わないだろう。
(でも、このままだと……)
ステラの杖さばきは、明らかに“慣れている”。
学校で習う程度のものではない。
実戦を想定した動き。
誰かが教え込んだのだ。
ブラック家の男たちの誰かが。
仮面の内側で、ひとりが静かに決意を固める。
――いい、ここで「情報」だけでも持って帰る。
アランの力。
ステラの実力。
ブラック家の娘がどこまで戦えるのか。
今日、命は奪えなくとも、得られるものはある。
「――全員、同時に撃つな。順番に削れ」
低い声が、圧縮された空気を震わせた。
ステラを倒すことは目的ではない。
息を切らせ、魔力を消耗させ、母から引き離す。
その隙が生まれた瞬間こそが、本当の狙い目になる。
ステラの額に、じわりと汗が滲み始めていた。
いくら若くても、無尽蔵に魔力が湧くわけではない。
防御と反撃を同時に続けていれば、やがて限界が来る。
それを、相手はよく理解していた。
さっきまでのような一斉射撃はなくなった。
代わりに、間断のない“リズム”が生まれ始める。
右から一発。
――プロテゴ。
左から二発。
――跳ね返す。
上から、遅れて一発。
――弾く。
防いだ直後に、また別方向からの攻撃が飛ぶ。
隙間の時間がほんの少しずつ削られていき、呼吸の余裕が奪われていく。
「っ……!」
ステラの肩が、初めてわずかに浮いた。
プロテゴの展開が、さっきまでより一瞬だけ遅れる。
飛来した呪文の端が、彼女の左の上腕を掠めた。
焼けるような痛みが走る。
ローブの布地が裂け、肌に赤い線が浮かんだ。
「ステラ!」
アランの悲鳴のような息が、背中にぶつかる。
ステラは振り返らない。
ただ、短くひとつだけ笑った。
「大丈夫です、母さん」
その声には、震えがなかった。
痛みを押し込めるように、さらに強く杖を握り直す。
――ここで退いたら、この人はきっと死ぬ。
――だから、退けない。
戦いは、終わらなかった。
呪文の光が交錯し続ける。
石畳は焼け焦げ、壁には黒い跡が増えていく。
中庭を包む空気は、熱と焦げた匂いと金属のような魔力の匂いで重く満ちていた。
騎士団にとって、この状況は明らかに“予定外”だった。
標的に一歩も近づけないまま、彼らはブラック家の娘一人に足止めされている。
それでも、誰一人として杖を下ろそうとはしなかった。
ステラもまた、倒れない。
息は上がり、腕は震え、それでも一歩も下がらない。
アランの背を庇うように立ち続けるその姿は、
皮肉にも――騎士団が掲げる「守る」という理念の、もっとも純粋な形そのものに見えた。
だからこそ、誰もが眉をひそめる。
自分たちはいったい何をしているのか、と。
だが、迷いは喉を越えない。
誰かが引き返せば、この場の理屈が崩壊すると知っているからだ。
冷たい空の下で、
仮面と少女の戦いだけが、
ひたすらに続いていた。
異常魔力反応の水晶板が、甲高く鳴り響いた。
レギュラスは書類から顔を上げる。
法務部長官室の壁に埋め込まれた魔力検知装置――未成年の魔法の匂いを拾えば、真っ先にここへ知らせが飛ぶようになっている。
水晶板の表面には、淡い翡翠色の光が渦を巻いていた。
その色に、心臓がひとつ大きく跳ねる。
「……ステラ?」
刻印された名札の文字が、じわりと浮かび上がる。
“STELLA BLACK”
未成年の魔法使いは、学校の外で魔法を使えない。
使えば、魔力の匂いが即座に拾われ、居場所が特定される。
それを誰よりもよく知っているはずの娘が、今まさに魔法省の庁舎内で、しかも連続して衝突呪文を放っているというのだ。
「どのフロアです?」
レギュラスの問いに、検知室の係官が蒼白な顔で答えた。
「下層、旧資料棟の中庭です、長官。魔力衝突反応が連続して――かなり激しい応酬かと」
それ以上、聞いている余裕はなかった。
レギュラスは椅子を弾くようにして立ち上がる。
ローブの裾が大きく翻り、部屋中の書類が風に揺れた。
「部下は?」
「今、警務部に――」
「間に合いません」
冷たく切り捨てると、杖を握り込み、その場で姿を消す。
夕方の光がステンドグラス越しに差し込み、大理石の床に淡い色彩の影を落としている。その光の中で、メイラは両手で一通の封筒を握りしめていた。
封蝋には、見慣れた紋章が押されている。
魔法省――そしてその上に、薄く浮かぶもう一つの印。
騎士団が公式文書として使う、あの堅苦しい意匠。
メイラの指先は、封筒の端をくしゃりと折り曲げてしまうほど強く力が入っていた。
「アランさん……」
自分一人で開けるには、あまりにも重苦しすぎる。
そう判断したのだろう。
メイラは慎重に封筒を抱えなおし、アランの居る小さな応接間の扉をノックした。
応接間は、柔らかな午後の名残の光に満ちていた。
レースのカーテン越しに差し込む陽光が、古いソファと木製のテーブルを温かな色に染めている。
アランは窓辺で編みかけのショールを膝に広げ、静かに針を動かしていた。
扉がノックされる音。
振り向くと、メイラがそこに立っている。顔色は悪く、唇はきゅっと結ばれていた。
「…… アランさん」
メイラは扉をそっと閉め、まるで壊れものでも扱うような慎重さで封筒を差し出した。
アランは編み針を膝の上に置き、両手を伸ばしてその封筒を受け取る。
封蝋に押された紋章を見た瞬間、胸がどくりと跳ねた。
魔法省――そして、騎士団の印。
最近はレギュラスの仕事の関係もあり、その紋章を見ない日はないと言っていい。
なのに、今日は、胸の奥を冷たい指で掴まれたような感覚に襲われた。
――嫌な予感。
アランは杖を手に取り、空中にふわりと文字を浮かべる。
『開けても?』
メイラは小さく頷いた。
その頷きの中に、「一人では怖くて」とすがるような感情が隠れているのが、アランにはありありと分かった。
封蝋にそっと指を滑らせ、魔法でそれを切り開く。
パリ、と乾いた音が部屋に響き、厚手の羊皮紙が現れた。
アランは文面に目を走らせる。
一行、また一行。
読み進めるごとに、胸の中の何かがざわざわと騒ぎ始めた。
――アズカバン。
――エドワード・ウォルブリッジ。
――遺骨の一部、特例として魔法省保管庫に保管。
――遺族による引き取りを希望する場合は、所定の日時に魔法省に出頭のこと。
淡々と記された文字は、感情を一切帯びていない。
だからこそ、その内容の重さが直接喉元に突きつけられてくるようだった。
アランラの父の名。
これまで書面で見たことのあるはずの文字列が、今日は酷く生々しく感じられる。
「……どうしたら、いいですか……?」
メイラの声は震えていた。
アランの膝の上に視線を落とし、両手をぎゅっと握りしめている。
「本当に……父の骨が、そこにあるんでしょうか。
手紙には“特例案件として保管”って……。
でも、どうして今になって……」
言葉は、そこで途切れた。
彼女は続きに何を言おうとしたのか――
“どうして今になって、私なんかにそんなことを教えようとするのか”
その疑念が、喉の奥で石のように固まっているのだろう。
アランは羊皮紙から視線を離し、ゆっくりとメイラを見た。
長い時間を共に過ごしてきた“娘”のような存在。
彼女の頬は蒼白で、それでも瞳だけが必死に何かを掴もうとしている。
――あの日。
レギュラスが罪を着せた一人のマグルの男。
病に伏した娘を救う代わりに、罪を被ると告げた父親。
その取引に、アランは直接立ち会っていない。
けれど、後に聞かされた時、胸が裂けるような苦しさを覚えた。
メイラを迎えに行かせたのは、レギュラスの手配だった。
病を癒し、保護施設に送った――はずだった。
だがその施設は、狼人間に差し出すマグルを選別する場所でもあった。
だからこそ、アランはメイラを奪い返した。
レギュラスと対立してでも。
あの時、自分は彼女を救ったのか。それとも、ただ別の檻に移しただけなのか。
胸の奥の、答えの出ない問いが疼く。
アランは深く息を吸い、杖を取り、空中に文字を綴った。
『あなた一人で行くのは危険です』
メイラは顔を上げる。
その瞳の奥に張り詰めた不安が揺れている。
「……でも、アランさん。
これは、私に宛てられたものです。
“遺族”として、来るなら来いって……そう書いてあります」
魔法界とマグル界の間には、もう昔のような自由さはない。
街路を歩くマグルは、必ず滞在許可証を携え、関所で細かい検問を受ける。
些細な違反でも問われれば、即刻“魔法界からの追放”という烙印が押される。
それほどまでに、今の世界は徹底した線引きの上に成り立っていた。
マグルが魔法省に呼び出され、“遺族として出頭せよ”と書かれた手紙を持っていく――
その行為が、どれほど危うい意味を持つか、アランには痛いほどわかる。
これは、ただの通知ではない。
何者かの意図が、確実に絡んでいる。
胸の奥で、警鐘が鳴る。
法務部の書式、魔法省の印、騎士団の紋章――全ては整いすぎている。
だからこそ、そこに潜む意図が見えないほどに。
アランは、もう一度羊皮紙を見つめた。
メイラの父の名。
“遺骨は適切に保管されている”という文言。
“遺族の立ち会いのもと、返還手続きを行う”という約束。
――これは、罠かもしれない。
けれど、それでも。
アランの胸には、抑えきれない思いが渦巻いていた。
メイラは、父の愛を奪われた。
その父は、罪人として死に、真実を知られることもなく名前だけを汚されたままだ。
自分は、その一部始終を知りながら、レギュラスの隣に立つことを選んだ。
彼を愛しているから。彼と共にあることを選んだから。
――それが、自分自身の“狡さ”だ。
愛している。
だから、彼の罪を糾弾できない。
だから、彼の決断を根本から否定することもできない。
その代わりに、自分を責める。
自分を削って、罪を引き受けているつもりになる。
――それもまた、ひとつの逃避に違いないのに。
アランは、静かに杖を走らせた。
『……あなたの父上は、
無実の罪を被って、あなたを守ってくださった方です』
メイラの瞳が大きく揺れる。
それはアランが先日、涙ながらに真実を告げた時と同じ揺れだった。
『本当は、私が行くべきではないのかもしれません
これは、あなたとお父様の問題だから』
書きながら、指先が微かに震えた。
本当なら、これは“家族”だけで決着をつけるべきことだ。
他人である自分が間に入るのは、筋違いなのかもしれない。
だが、そう思う一方で――
『けれど、今の魔法界はマグルにあまりにも厳しい世界です』
アランはゆっくりと文字を続ける。
『関所を越えるにも、許可証が必要です
魔法省に行くにも、必ず誰かの目に触れます
もし何かが起きたら、危険なのはあなたです』
メイラは唇を噛みしめた。
その指先が、膝の上の布地をぎゅっと掴む。
「……じゃあ、どうしたら……」
アランは、ほんの一瞬だけ迷った。
この一歩は、きっと戻れない一歩になる。
それでも――胸の奥で、答えはもう出ていた。
杖先から、決意の文字が浮かぶ。
『私が行きます』
メイラは息を呑んだ。
「アランさんが……?」
『ええ』
アランは頷き、続ける。
『私は魔法省の出入り許可を持っています
レギュラスの妻として、これまで何度も同行してきました。
私なら、あなたより疑われずに済むはずです』
もちろん、本当に何も疑われずに済むとは限らない。
レギュラスブラックの妻が、マグル囚人の遺骨を受け取りに来る――
その不自然さに気づく者もいるだろう。
それでも、マイラ一人を向かわせるよりは、ずっとましだと思えた。
『これは、私にできる償いの一つです』
文字を書きながら、胸が締め付けられる。
『あなたをこの屋敷に連れてきたのはレギュラスです。その前に、あなたのお父様に罪を被せたのも、レギュラスです
そしてその男を選び、愛し続けているのは私です』
メイラの瞳が大きく見開かれた。
アランの指は震えながらも、なお文字を紡ぐ。
『だから私は、罪の片割れを背負っています。
そのくせ、彼を責めることも、離れることもできなかった。それが私のいちばん醜いところです』
メイラは首を振った。
強く、必死に。
「そんな、アランさんは……」
けれど、アランはそっと片手を上げて制した。
瞳の奥にあるのは、自分を責め立てる暗さではなく、
それでも前に進もうとする、静かな決意だった。
『だからせめて、あなたのお父様の骨だけは
私の手で、あなたの元に戻したいのです』
ひと文字ごとに、胸から何かが削れていくような感覚がする。
だが同時に、それはアランにとって、どうしても譲れない願いでもあった。
『レギュラスには、言えません』
その一文を書いた時、指先が特に強く震えた。
『彼は今も、マグルの孤児院の事件を引きずっています
自分の決断を、自分なりに正当化しなければ、立っていられないのでしょう。
その傷を、これ以上抉りたくありません』
――本当は、彼と共にこの問題に向き合うべきなのかもしれない。
けれど、今のレギュラスは、法務部の長官として、魔法界の盾として、
あまりにも多くのものを背負いすぎている。
彼からこの問題を奪おうとしているわけではない。
ただ、これ以上負荷をかけたくなかった。
それが正しい選択かどうかも分からないままに。
『だから、これは私の勝手な行動です
私一人の責任で行きます』
メイラは、しばらく言葉を失っていた。
静まり返った部屋の中で、時計の針の音だけがかすかに響く。
やがてメイラは、震える声で言った。
「……危ないかもしれないのに」
アランは微笑んだ。
その笑みは、どこまでも柔らかく、けれど少しだけ哀しかった。
『あなたの父上は、命を賭けてあなたを守りました』
杖が、再び空に文字を描く。
『私は、命までは賭けられないかもしれません。
けれど、恐れよりも、守りたいという気持ちを優先したいのです』
メイラの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
彼女は慌てて目元を拭う。
「……そんな顔、しないでください。
私、アランさんに、そんなことさせたくなんか……」
アランは首を振り、メイラの手をそっと握った。
その手を、ひとつひとつ確かめるように包み込む。
『あなたが望むなら、行きます』
真っ直ぐな一文。
メイラは唇を噛み、アランの瞳を見つめた。
そこにあるのは、迷いのない優しさと、
その優しさを“罪”だと自覚しながら、それでも手放さない強さ。
「……ずるいです」
メイラは小さく笑いながら、涙をこぼした。
「そんなふうに言われたら……断れないじゃないですか」
アランも、少しだけ笑った。
その笑みは、かつて地下牢で声を失った少女が、ようやく手に入れた“今”の証のように、静かに揺れている。
『では――一緒に行きましょう』
最後に、アランはそう書いた。
『表向きは、私が魔法省へ用事があって出向く
あなたはその付き添いとして同行する
関所の許可証の手配は、私がします』
レギュラスには、別の用件で魔法省に顔を出すとだけ伝えればいい。
今の魔法省法務部長官の妻が、魔法省に行くこと自体、不自然ではない。
ただその陰で、一人のマグルの娘が、父の“骨”を求めて足を運ぶ。
それが、どれほど危険な旅路になるのか。
どれほど巧妙に仕組まれた罠であるのか。
――この時のアランもメイラも、まだ知らなかった。
けれど、アランの中ではひとつだけ、確かなことがあった。
これは、自分が選ぶ贖いの形だ。
誰かに許されるためではなく。
自分が、自分でいられるために。
アランはそっとメイラの手を握り直した。
窓の外では、夕暮れがゆっくりと色を変えていく。
静かな屋敷の一室で、二人だけの決意が、ひっそりと固められた。
その朝、ステラは何かがおかしいと、ほとんど直感だけで悟った。
屋敷の一階、長い廊下の突き当たりにある客間の前を通りかかったとき、扉の内側から、紙の擦れる音と、小さく震えたメイラの声が聞こえたのだ。
普段なら足を止めることもなく通り過ぎていたはずの場所で、ステラの脚はぴたりと止まる。
――魔法省の紋章。
少し前に廊下でメイラが抱え込むように持っていた封筒を、ちらりと横目で見たときに視界の端に入ったもの。
そしてその上に薄く押されていた、騎士団の印。
「……また、厄介なものに目を付けられたのですね」
心の中でだけ呟く。
あの時はわざわざ口に出す必要もないと思った。ただでさえマグルであるというだけで、今の世界では足枷が多すぎるのだから。
だが、今日――扉一枚隔てた向こうから伝わってくる空気は、いつもと決定的に違っていた。
やがて、椅子が引かれる音。
それから、杖で机を軽く叩くような小さな音。
アランが文字を書くときの、あの独特のリズムだ。
ステラは、扉に向けていた視線をそらすと、何事もなかったかのように階段を上って自室に戻るふりをした。
が、それはほんの数歩だけのこと。
踵を返して、廊下の角に身を潜める。
――母がマグルの女を連れて、どこかに行こうとしている。
はっきりとそう意識したとき、胸の奥に氷のようなものがすうっと沈んでいく感覚があった。
しばらくして、二人が部屋から出てくる足音がした。
ステラは廊下の角の陰から、わずかに顔を出して様子を伺う。
最初に現れたのはメイラだった。
いつものシンプルな衣服ではなく、目立たないけれど上質な生地のコートを羽織り、靴もきちんと磨かれている。
その後ろに、アランが静かに歩いていた。
母は、外出用の深い緑のマントを纏い、髪を低い位置でまとめている。
翡翠色の瞳はいつも通り柔らかく、けれどどこか決意を帯びていた。
その横顔は、見慣れているはずなのに、ステラには見知らぬ誰かのように思えた。
――なぜ、今、この情勢で。
廊下の窓から見える外は、いつもと変わらず静かだった。
けれど、屋敷の外の世界は、もうずっと前から「いつもと変わらない」どころか、根本から書き換えられている。
魔法界とマグル界を隔てる関所。
魔力を無効化するポーションの事件。
危険因子を排除するという名目で、マグルに対する制限は日に日に強まっている。
そんな世界で、マグルの女を伴って屋敷の外に出る――
それがどれほど愚かで、無用な危険を招く行為か、少し考えれば分かるはずだ。
それでも母は、メイラを連れて行く。
その事実が、どうしようもなく腹立たしかった。
玄関ホールに、二人の足音が吸い込まれていく。
ステラは一拍置いてから、音を立てないように階段を下りた。
吹き抜けの高い天井にはシャンデリアが煌めき、その灯りが大理石の床に淡く反射している。
玄関では、屋敷しもべ妖精がアランのマントの裾を整え、メイラに小さな布鞄を持たせていた。
アランは振り返り、メイラの襟元をそっと正す。
指先は優しく、まるで実の娘にするような仕草だった。
「……どうして」
喉元まで出かかった言葉を、ステラは飲み込む。
そうしないと、声が尖りすぎて、自分でも制御できなくなりそうだった。
――あんなふうに並んで外に連れ出してもらえたことが、自分にあっただろうか。
記憶の中を探る。
幼い頃、母の体調は常に不安定だった。
アルタイルが生まれてからは特に――母はしばしば床に伏せ、その枕元にはいつもメイラが控えていた。
母の手は、いつも誰かを撫でている。
額に冷たい布を当てる手。
髪をすくう手。
スープを口元に運ぶ手。
けれどその「誰か」の中に、自分がいた記憶は、驚くほど少ない。
気づけば、母の隣には必ずあのマグルがいた。
自分が小さな手を伸ばした先で、いつもすでにメイラが母の手を握っていた。
――あれは、母の手であって、娘のための手ではない。
ずっとそう思い込んできた。
だから、求め方を覚える前に、求めることを諦めるのが早かった。
「アラン夫人、お気をつけて」と屋敷しもべが頭を下げる。
アランは軽く頷くと、メイラの背中をそっと押して扉へと向かった。
その仕草は、どこまでも自然で、どこまでも優しい。
――あれは、母ではなく、メイラの“母親”の顔だ。
胸の内がひどくざわつく。
血のつながりもない、汚らわしいマグルの女に向けられる眼差しが、
どうして、自分が一度も受け取ったことのない温度を持っているのか。
父がマグルの男に着せた罪。
マグル孤児院惨殺事件――新聞に踊るその見出しと、ウォルブリッジの姓。
それを辿っていけば、メイラがこの屋敷にいる理由など、自ずと見えてくる。
父の温情。
母の罪悪感。
その2つが絡み合った結果、メイラウォルブリッジはここに匿われている。
――マグルごときに情をかけなければならない理由も、
――マグルごときに罪悪感を抱え続ける母も、ステラにはどうしても理解できない。
そんなもののために、自分の幼少期は、どれほど削られたのだろう。
玄関の大扉が、重い音を立てて開く。
外の冷たい空気が一気に流れ込み、ホールの温度をわずかに下げた。
アランとメイラが並んで外へ出る。
その背中のシルエットは、遠目に見れば姉妹か母娘のように見えるだろう。
肩の高さの差も、歩幅の揃い方も、綺麗に噛み合っていた。
ステラは、二人の姿が完全に扉の向こうへ消えるのを待った。
その後で、静かに靴を履き、マントを取る。
「どちらへ……?」
おそるおそる声をかけてきたのは、若い屋敷しもべだった。
ステラは振り向きもせず、マントの留め具を留めながら淡々と答える。
「少し、散歩に出るだけです」
声は冷え切っているのに、口調は礼儀正しい。
屋敷しもべは不安そうに目を揺らしたが、それ以上は何も言えなかった。
扉が再び開く。
外気が肌をなで、ステラの頬に薄く冷たさが乗る。
通りに出ると、アランとメイラの姿は、少し先の角を曲がるところだった。
ステラは距離を保ちつつ、足音を殺して後を追う。
石畳の路地。
両側には古いレンガ造りの建物が並び、煙突から白い煙がゆらゆらと上がっている。
行き交う魔法族は以前より減り、代わりに検問所へと続く道には、見慣れない制服の警備員が立っていた。
――今、この世界でマグルと一緒に歩くということが、どれほど目立つか。
母は知っているはずだ。
それでもなお、メイラを連れて行く。
それがステラには理解を超えて、苛立ちを通り越して、奇妙な恐怖すら感じさせる。
母は、何をしに行くつもりなのだろう。
魔法省の封蝋。
騎士団の印。
メイラの父の名前。
点と点が、頭の中でいくつも浮かぶのに、それが線になる前に感情が邪魔をして、まとまった思考に繋がらない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
――母は、自分のためには決して選ばない危険を、マグルのためになら選んだ。
そんな理不尽が、どこにあるだろう。
アランが、歩調を少し緩める。
メイラの息遣いを気遣っているのだろう。
そのたびに、母のマントの裾がふわりと揺れ、隣を歩くマグルの裾がそれを追いかけるように揺れる。
ステラは、遠くからその光景を見つめながら、胸の内側で凍った何かがきしむ音を聞いた気がした。
あの人は、誰の母なのか。
ステラブラックの母か。
アルタイルブラックの母か。
それとも――メイラウォルブリッジの母か。
問いの答えを、ステラはとうに知っている。
だからこそ、目を逸らしたかった。
けれど、足は止まらない。
レギュラスブラックの罪。
アランブラックの罪。
そして、その罪を正当化しようとするかのように続けられる“償い”という名の行動。
その全てが、ステラにとっては、許し難い茶番にしか見えなかった。
母とマグルの背中は、やがて魔法省へと続く大通りへと吸い込まれていく。
関所へ向かう人々の列が遠くに見え、許可証を確認する役人の声が乾いた空気に混じって響いていた。
ステラは、少し離れた建物の影からその光景を見下ろす。
指先には、いつでも杖を抜けるように微かな力が籠っていた。
どこまで堕ちていくのかしら、この家族は。
そう思うと、笑い出したいような、泣き出したいような、得体の知れない衝動が喉の奥まで込み上げてきた。
けれど彼女は、どちらも選ばなかった。
笑いもせず、泣きもせず。
ただ、研ぎ澄まされた冷たい瞳で、母とマグルの小さな背中を追い続ける。
この日、ステラはまだ知らない。
母が何を抱えてその道を歩いているのかも、
その先に待ち構えているものがどれほど危険かも。
ただ一つだけ確かなのは――
この日、彼女が「後を追う」という選択をした瞬間から、
ブラック家の娘としてのステラの運命もまた、静かに軌道をずらし始めていたということだった。
石畳が、いやに冷たかった。
魔法省の裏手にある小さな中庭――職員でもほとんど通らない、搬入口と古い書庫をつなぐような狭い空間。
灰色の空からは光が差し込まず、四方を囲む高い壁が、外界の喧噪を完全に遮っている。
アランはそこで立ち止まっていた。
細い肩をマントに沈め、両手で小さく丸められた書簡を握りしめている。
騎士団と魔法省の印が押された封筒――あれを見た瞬間から、彼女の決意は固まっていた。
メイラの父の骨を返す、と。
アズカバンで無実の罪を着せられたまま死んだ男の――遺骸を。
中庭の中央付近で、アランは周囲を見回した。
約束の時刻。
それなのに、案内役の姿はどこにもない。
書庫へと続く扉も、搬入口の扉も、固く閉ざされたまま、気配一つ漏らしてこない。
おかしい――
石壁に反響するのは、アラン自身の呼吸音と、マントの裾が擦れる小さな衣擦れだけ。
人の出入りが全くない、あまりにも“きれいすぎる静寂”だった。
その様子を、少し離れた屋根付きの通路から、ステラは息を潜めて見下ろしていた。
石柱の陰に身を寄せ、冷たい手すりに指先をかける。
眼下、翡翠の瞳を持つ女――自分の母が、独りで立っている。
その背中はいつも通り華奢で、体の弱さが遠目からでも分かるほどだった。
空気が、ひらりと裂けた。
ほんの一瞬、視界が歪んだように見えたかと思うと、中庭の四方に黒い影が現れる。
姿くらましの痕跡。
それは何度も見てきたものなのに――この場に現れたそれは、どこか質が違って見えた。
影は、素早く形を取り戻す。
フード付きのローブ、顔を覆い隠す無機質な仮面。
銀でも黒でもない、鈍く曇った色合いの仮面が、光の乏しい中庭にずらりと並んだ。
四人、五人……いや、もっといる。
アランの周囲を囲むように、それぞれ距離を保って配置につく。
手にはすでに杖。
その先端にかすかな光が灯る。
刺客――
ステラの背筋に、冷水を流し込まれたような感覚が走った。
騎士団の正式な制服でもない。
魔法省の職員にも見えない。
けれど、立ち方、間合いの詰め方、互いの位置取り――
どれも“訓練された戦闘集団”特有の匂いを纏っている。
アランの肩が、小さく震えた。
喉元にそっと手をやり、何か言葉を出そうとするような仕草を一瞬見せて――
すぐにそれを諦める。
彼女には声がない。助けを求める叫びを上げることもできない。
ただ、杖を握る手に力を込め、じっと敵を見据えるしかない。
――これは、偶然の襲撃なんかじゃない。
ステラは奥歯を噛みしめた。
魔法省からの封筒。
形式ばった文面。
骨の受け渡しという名目。
人目につかない裏中庭。
それらが一つに繋がるのに、長い時間は必要なかった。
最初から、そのつもりだった。母を、ここに“呼び出す”ためだけに。
騎士団が。
魔法界の“正義”を掲げる彼らが。
では、なぜ――
なぜ、そこまでして母を消さなければならないのか。
メイラの父の罪?
マグル孤児院の事件?
マグルとの取引の証拠を隠すため?
どれも違う、と本能が告げていた。
母が握っているものは、もっと根本的な「何か」だ。
母にしかない力。
母の血の中に流れる“セシール家”の何か。
幼い頃、廊下の曲がり角で聞いてしまった大人たちの囁き声。
「封印」「呪い」「セシールの娘」
理解できないまま胸の奥に沈めてきた言葉たちが、一気に浮かび上がる。
――セシールの封印の呪い。
母の中にある「封じている何か」。
その存在が、騎士団にとって都合が悪いのだ。
だから、彼らは母を殺そうとしている。
息が詰まる。
目の前の光景が、まるで遠く霞んだ舞台のように現実感を失っていくのに、心臓だけが異様な速さで打ち続けた。
仮面の一人が、一歩、前に出た。
杖の先がわずかに持ち上がる。
その動きに合わせて、他の刺客たちもそれぞれ、別の角度から杖を構えた。
捕縛の陣形ではない。
逃げ道を計算して残し、“取り押さえる”ための配列ではない。
これは――完全に“殺す”ための包囲だ。
アランは、わずかに後ずさる。
背中が、ひやりとした石壁に触れた瞬間――逃げ場がないことを悟っただろう。
彼女の翡翠の瞳が、ほんの一瞬だけ、空を仰ぐように揺れる。
体の弱い母に、こんな戦い方ができるわけがない。
普通の決闘だって向いていないのに。
それなのに複数人を相手にしろというのか。
――無理だ。
思考より先に、足が動いていた。
「――っ!」
石段を蹴る音が、中庭に響いた。
仮面の一人が反射的に振り向く。
その視界の端を、黒い影が斜めに走り抜けた。
ローブの裾が風を切り、冷えた空気が一瞬だけ動く。
アランの前に、誰かが立った。
細く長い背中。
腰まで届く黒髪。
振り返る余裕もないまま、自分の前に出たその人物――
ステラだった。
「……ステラ……?」
アランの喉から、声にならない息が漏れる。
その瞳が大きく見開かれ、娘の後ろ姿を捉えた。
ステラは、振り向かない。
ただ、仮面の男たちに真正面から向き合いながら、無言で杖を抜いた。
その動きは、滑らかで迷いがない。
ホグワーツで最優秀の成績を取ると噂される、生粋のブラック家の魔女の所作だった。
刺客の一人が苛立ったように杖を振り上げる。
その瞬間――
「――!」
光が弾けた。
ステラの杖先から展開された防御呪文が、半透明の壁となって目の前に張り巡らされる。
直後に飛来した攻撃呪文がその表面にぶつかり、眩しい火花を散らして弾かれた。
石畳が震え、熱の残滓が空気を焦がす。
アランは反射的に娘のローブの袖を掴んだ。
震える指先が、かろうじて布を捉える。
必死に引き止めようとするように、しかし力はあまりに弱い。
「下がっていてください、母さん」
振り向かないまま、ステラは低く言った。
その声には、これまでアランが見たことのない鋭さと――微かな震えが混じっていた。
恐れているのだ。
それでも、退かないと決めた声だった。
――どうして、こんなことになったのだろう。
目の前の仮面たちは、何の感情も読み取れない無機質な顔をこちらに向けている。
けれど、その沈黙の奥に潜む殺意だけは、皮膚に刺さるほどはっきりと伝わってきた。
母が握る“何か”のため。
セシール家の封印の力のため。
その「邪魔」を、彼らはここで排除しようとしている。
そんな理屈は、ステラには理解できない。
けれど――
母を殺させるわけにはいかない。
母がどれほどマグルを庇おうと、
どれほどメイラを娘のように扱おうと、
どれほど自分を見落とし続けてきたとしても。
「……あの人は、私の母だ」
ステラは、胸の奥で静かにそう言い切った。
ブラック家の娘として。
セシールの血を引く者として。
世界中の理屈が、騎士団の正義が、マグルの涙が、
何を訴えようと構わない。
――この場でだけは、自分が守る。
仮面の一人が、舌打ちを漏らす気配がした。
次の瞬間、四方から一斉に呪文の光が放たれる。
ステラは杖を高く掲げ、迫り来る光の奔流を迎え撃った。
冷たい空の下で、
母を囲む輪は、
いつの間にか、
“母娘二人”を飲み込む陣形へと変わっていた。
騎士団にとって、それは完全な誤算だった。
本来、今日の標的はアラン・ブラック。ただ一人。
病弱で、決して戦闘に長けているとは言えない女を、静かに、確実に仕留める――はずだった。
なのに、彼らの前に立ちふさがっているのは、想定にない影だ。
ステラ・ブラック。
まだホグワーツに通う年頃の少女。
けれど、杖を握りしめるその腕には、子供らしさは微塵もない。
足をわずかに開き、肩の力を抜き、いつでも重心を移動できるように構えた姿勢は、訓練を受けた決闘者そのものだった。
「……クソ、なんなんだ、あの子供は」
仮面の下で、ひとりが低く唸る。
返ってくるのは短い舌打ちと、互いに交わす視線だけ。
声を出せば、それだけで隙になる。
だから彼らは、わずかな目配せだけで意思を伝え合う。
――子供には致命傷を与えるな。
――標的はあくまでアラン・ブラック。
出発前に何度も念押しされた指示が、脳裏にちらつく。
だが、いま目の前の現実は、その指示をきれいに裏切っていた。
「インカーセルス!」
ひとりが放った拘束呪文が、蛇のようにステラの足元へと伸びる。
素早く絡みつき、転倒させる算段だった――が。
「――甘いわ」
ステラの唇が、冷ややかに動いたように見えた。
次の瞬間、彼女の杖先から鋭い光が放たれる。
「レディクト・シェル!」
拘束呪文の縄目を正面から叩き割るような反撃。
空中でほどけた縄が、破片となって霧散する。
同時に、ステラの足が石畳を軽く蹴った。
細い体が、滑るように横へと移動する。
直後、先ほどまで彼女が立っていた場所の石畳が、爆ぜた。
別の仮面が放った衝撃呪文が地面を抉り、破片が飛び散る。
(今のを避けるのか……?)
ひとりが背筋に冷汗を流す。
狙いは外さなかった。他の大人の魔法使いなら確実に直撃していたはずだ。
それなのに、彼女はまるで“予測していたかのように”、そこから抜けていた。
「さっきから……全部、読まれてる……?」
声にならない疑問が、陣形の中を駆け抜ける。
ステラの瞳は、氷のように冷たかった。
敵の数を数える。
五人。いや、影の動きからして六人目もどこかに潜んでいる。
正面、斜め両側、高所――
それぞれが別角度から呪文を撃ち込み、逃げ道を削る形を取っている。
正面からは無理。防御と反撃を同時にやるしかない――
耳の奥で脈打つ鼓動がうるさい。
けれど、そのうるささがかえって意識を研ぎ澄ませてくれる。
ひとつひとつの杖の動き、指先のわずかな癖、足の踏み込み――
視線だけで、それらを逃さないようにした。
背後には、アラン。
細い指が、ステラのローブの袖を掴んでいる感触がある。
その小さな力が、かえって彼女の中の何かを固くする。
――この人は、戦えない。
――なら、戦うしかないのは、自分。
「プロテゴ!」
左から飛来した赤い呪文が、透明な盾に弾かれ、火花を散らして斜め上へ逸れる。
その反射軌道の先にいる別の仮面へと、ほとんど同時にステラは杖を振るった。
「ストゥーピファイ!」
紅い光が走り、仮面の胸元を直撃する。
男の体が後ろへ吹き飛び、石壁にぶつかって崩れ落ちる。
口元から短い呻きが漏れ、杖が手から滑り落ちた。
「……一人」
冷静に数を減らしていく自分の思考が、どこか他人事のように感じられた。
胸は確かに怖さで締め付けられているのに、指先は驚くほどよく動く。
恐怖の上に、純粋な「戦闘の感覚」が乗っている――そんな奇妙な状態だった。
「くそっ……子供だぞ、相手は……!」
仮面越しの視界の端で、倒れた仲間の姿を確認しながら、別の男が歯噛みする。
ステラは容赦しない。
だが、その呪文には一線があった。
殺傷呪文ではない。
骨を砕く呪文でも、切り裂く呪文でもない。
眠らせる、痺れさせる、吹き飛ばす――
あくまで“戦闘不能”にするためだけの魔法ばかりだ。
あれだけの魔力を持っているのに……殺すことだけは、選んでいない。
その事実に気づいた瞬間、仮面の下で、ひとりの男の表情が歪んだ。
自分たちのほうがよほど、血に飢えた獣に近いのかもしれない、という気づきが、喉の奥に苦いものを残す。
だが、迷っている暇はなかった。
「右から詰めろ!」
短く叫ぶ。
指示と同時に、右側の二人がステラを挟み込むように前へ出る。
ひとりは地面を狙い、もうひとりはステラの杖を狙う。
足場を崩しつつ、武器を叩き落とす――捕縛の常套手段だ。
茶色い光が石畳に走り、地面が波打つ。
同時に、ステラの手元へ向けて白い閃光が飛ぶ。
「……遅い」
ステラは低く呟いた。
次の瞬間、足元の揺れをものともせず、片足だけでバランスを取りながら、杖を真横に払う。
「ディフィンド・フレア!」
細く鋭い切断呪文が、白い閃光を斜めに叩き割る。
弾かれた光は軌道を逸れ、ステラの髪先をかすめて消えた。
揺れる黒髪の先端が、ほんの少し焦げる匂いがする。
「っ……!」
右側の仮面が、思わず一歩退いた。
その退き足を逃さず、ステラは杖を向ける。
「エクスパルソ!」
衝撃呪文が短く炸裂し、男の体が斜め後ろへと弾き飛ばされる。
石柱に肩を打ち付け、鈍い音を立てて崩れ落ちる気配。
「(これ以上は、まずい……!)」
残った仮面たちの間に、焦燥が走る。
ここまで、アラン・ブラックにはひとつの呪文も届いていない。
彼らが撃ち込んだ呪文は、すべてステラ・ブラックによって遮られ、弾き返され、撃ち落とされ続けている。
本来の計画では、アランに向けて集中砲火を浴びせ、一瞬で決着をつけるはずだった。
体力のない彼女なら、それだけで終わっただろう。
だが今は――
ステラが真正面に立ち、アランを完全に死角に押し込めている。
(…… アランを狙えば、あの娘に直撃する)
騎士団の名を持つ以上、子供を殺したという汚名だけは絶対に避けなければならない。
どれほど目的が重くとも、それだけは許されない。
だから、狙えない。
だから、撃てない。
気づけば、彼らは“標的以外”を相手に戦い続けるという、最も想定したくなかった状況に追い込まれていた。
アランは、ステラの背中越しに戦いを見ていた。
目の前で飛び交う光の奔流。
空気を切り裂く熱と圧力。
耳元で弾ける衝撃音。
杖を握る手が震える。
彼女だって、戦える魔女だ。
けれど、娘の一歩後ろに立った瞬間から、足が前に出なかった。
ステラがいなければ、今頃自分は――
その事実があまりにも鮮烈で、足元がふらつく。
指先に残るローブの布の感触だけが、自分がまだここにいるのだと教えてくれていた。
ステラの横顔は、横から見るとまだあどけなかった。
けれど今、彼女の瞳には、子供らしい迷いは欠片もない。
意地も、誇りも、怒りも――
そしてきっと、恐怖も。
全部を飲み込んだうえで、それでも前に立っている。
アランの胸に、ものすごい衝動が込み上げる。
守られているという現実と、
守らせてしまっているという罪悪感と、
それでも娘の背中があまりにも誇らしいという矛盾した感情が、いっぺんに押し寄せてきた。
「おい、退くか?」
短い問いが、仮面の内側で交わされる。
返ってきたのは、迷いを含んだ沈黙だった。
退けば、今日の計画は水泡に帰す。
それだけではない。
アラン・ブラックを取り逃がすことは、ヴォルデモートに繋がる「鍵」をそのまま法務部と闇の陣営に渡し続けることと同義だ。
ジェームズの顔が脳裏をよぎる。
あの男は、絶対に諦めろとは言わないだろう。
(でも、このままだと……)
ステラの杖さばきは、明らかに“慣れている”。
学校で習う程度のものではない。
実戦を想定した動き。
誰かが教え込んだのだ。
ブラック家の男たちの誰かが。
仮面の内側で、ひとりが静かに決意を固める。
――いい、ここで「情報」だけでも持って帰る。
アランの力。
ステラの実力。
ブラック家の娘がどこまで戦えるのか。
今日、命は奪えなくとも、得られるものはある。
「――全員、同時に撃つな。順番に削れ」
低い声が、圧縮された空気を震わせた。
ステラを倒すことは目的ではない。
息を切らせ、魔力を消耗させ、母から引き離す。
その隙が生まれた瞬間こそが、本当の狙い目になる。
ステラの額に、じわりと汗が滲み始めていた。
いくら若くても、無尽蔵に魔力が湧くわけではない。
防御と反撃を同時に続けていれば、やがて限界が来る。
それを、相手はよく理解していた。
さっきまでのような一斉射撃はなくなった。
代わりに、間断のない“リズム”が生まれ始める。
右から一発。
――プロテゴ。
左から二発。
――跳ね返す。
上から、遅れて一発。
――弾く。
防いだ直後に、また別方向からの攻撃が飛ぶ。
隙間の時間がほんの少しずつ削られていき、呼吸の余裕が奪われていく。
「っ……!」
ステラの肩が、初めてわずかに浮いた。
プロテゴの展開が、さっきまでより一瞬だけ遅れる。
飛来した呪文の端が、彼女の左の上腕を掠めた。
焼けるような痛みが走る。
ローブの布地が裂け、肌に赤い線が浮かんだ。
「ステラ!」
アランの悲鳴のような息が、背中にぶつかる。
ステラは振り返らない。
ただ、短くひとつだけ笑った。
「大丈夫です、母さん」
その声には、震えがなかった。
痛みを押し込めるように、さらに強く杖を握り直す。
――ここで退いたら、この人はきっと死ぬ。
――だから、退けない。
戦いは、終わらなかった。
呪文の光が交錯し続ける。
石畳は焼け焦げ、壁には黒い跡が増えていく。
中庭を包む空気は、熱と焦げた匂いと金属のような魔力の匂いで重く満ちていた。
騎士団にとって、この状況は明らかに“予定外”だった。
標的に一歩も近づけないまま、彼らはブラック家の娘一人に足止めされている。
それでも、誰一人として杖を下ろそうとはしなかった。
ステラもまた、倒れない。
息は上がり、腕は震え、それでも一歩も下がらない。
アランの背を庇うように立ち続けるその姿は、
皮肉にも――騎士団が掲げる「守る」という理念の、もっとも純粋な形そのものに見えた。
だからこそ、誰もが眉をひそめる。
自分たちはいったい何をしているのか、と。
だが、迷いは喉を越えない。
誰かが引き返せば、この場の理屈が崩壊すると知っているからだ。
冷たい空の下で、
仮面と少女の戦いだけが、
ひたすらに続いていた。
異常魔力反応の水晶板が、甲高く鳴り響いた。
レギュラスは書類から顔を上げる。
法務部長官室の壁に埋め込まれた魔力検知装置――未成年の魔法の匂いを拾えば、真っ先にここへ知らせが飛ぶようになっている。
水晶板の表面には、淡い翡翠色の光が渦を巻いていた。
その色に、心臓がひとつ大きく跳ねる。
「……ステラ?」
刻印された名札の文字が、じわりと浮かび上がる。
“STELLA BLACK”
未成年の魔法使いは、学校の外で魔法を使えない。
使えば、魔力の匂いが即座に拾われ、居場所が特定される。
それを誰よりもよく知っているはずの娘が、今まさに魔法省の庁舎内で、しかも連続して衝突呪文を放っているというのだ。
「どのフロアです?」
レギュラスの問いに、検知室の係官が蒼白な顔で答えた。
「下層、旧資料棟の中庭です、長官。魔力衝突反応が連続して――かなり激しい応酬かと」
それ以上、聞いている余裕はなかった。
レギュラスは椅子を弾くようにして立ち上がる。
ローブの裾が大きく翻り、部屋中の書類が風に揺れた。
「部下は?」
「今、警務部に――」
「間に合いません」
冷たく切り捨てると、杖を握り込み、その場で姿を消す。
