3章
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夜、眠りにつく前の寝室。
レギュラスは椅子に座り、蝋燭の光に照らされながら本を読んでいた。
その横顔は冷静で、理知的で、美しかった。
同時に、遠かった。
アランはベッドの端に腰掛ける。
手元の杖を握りしめ、何度も文字を書こうとしては止めた。
ごめんなさい。
どうか話してください。
怒っているなら怒ってください。
見捨てないで。
言葉はいくつも浮かぶのに、どれも正しいものではない気がした。
間違えた言葉を出せば、壊れてしまいそうな気がした。
いや、本当は――
壊れてしまうのが怖いのではなく、彼の心に届かないと知ってしまうことが怖かった。
レギュラスが寝台へ向かう気配に、息が止まる。
灯りが消され、闇が広がる。
布団が沈むわずかな重み。
横にいる。触れられる距離にいる。
なのに、その距離は壁より遠かった。
触れたい。
寄り添いたい。
謝りたい。
赦されたい。
胸の中で渦巻く感情は、声を持たない自分の身体の奥で膨れ続ける。
その苦しさだけが呼吸を曇らせて、眠りを遠ざけた。
暗闇の中、アランはそっと手を伸ばす。
触れたかった。
彼の背に、腕に、体温に。
しかし触れる寸前で、その指先は空中で止まった。
――もし触れて、拒まれたら。
もう二度と戻れなくなる。
アランはそっと手を胸に戻した。
瞳を閉じ、息を殺しながら。
届かない想いの底で、ただ願った。
明日こそ、彼に届きますように。
この沈黙が終わりますように。
彼を失わないで済みますようにと――。
屋敷を囲む黒鉄の門が視界に現れたとき、胸の奥が跳ねた。
昔から変わらない、威圧的で誇り高いブラック家の象徴。
この家に向かって帰ってきたことはあっても、
今のように“迎えを拒まれるかもしれない相手”として立つのは初めてだった。
結界の魔力は強く、肌の表面が痺れるような感覚が走る。
だがレギュラスの領地の魔法くらい、隠す術はいくつでもある。
ゆっくり息を吸い込み、門を越えた。
足が屋敷へ向かうたび、迷いが薄れ、衝動が形を持ち始める。
「アラン!」
声が響いた瞬間、屋敷の大窓が揺れた。
弾かれたようにアランが姿を現し、こちらへ駆け寄る。
驚きと困惑が混ざったその表情。
昔と変わらない――なのにどこか影が差していた。
アランは杖を持ち上げ、空中に文字を描く。
《もう、体は大丈夫なのですか?》
その問いかけだけで、胸の奥が温かくなった。
人混みのどこからでも見つけられそうな翡翠の瞳。
その瞳が心配を帯びて自分を見るなんて――あり得ないくらい幸福だった。
「平気さ。ほんとは一昨日から退院してよかったらしいけどな。
リリーのやつが“安静に”ってうるさくてよ。」
笑いながら答えながら、喉の奥で痛みがじんと広がる。
言葉にすればするほど、生きて戻ってきた理由が一つに収束していく。
―― アランに会いたかったからだ。
シリウスは肩に背負っていた箒を下ろし、柄を軽く叩いた。
木の表面は手になじみ、何度も空を駆けた感覚が蘇る。
「なあ、アラン。飛ぼう。」
差し出した手は、迷いのないものだった。
アランは一瞬戸惑い、少しだけ眉を下げ――それからそっと手を重ねた。
箒に跨ると、風の匂いと高さの感覚が一気に蘇る。
空は完全な青ではなく、灰色がかった曇り空。
けれど――どこまでも自由だった。
風が二人の髪を乱し、外套が羽のように翻る。
「綺麗な空じゃねぇけど……悪くねぇだろ?」
シリウスは冗談のつもりで言った。
けれど返ってきた言葉は予想を遥かに越えた。
アランの杖先が、空に柔らかく文字を描く。
《あなたの瞳の色みたい》
風が一瞬止まったように感じた。
「こんな、濁った灰色か?」
思わず笑う。
でもその笑いの裏には、少しだけ痛みがあった。
灰色は寒さの色、曇りの色、失う前触れの色だと思っていたから。
しかし次の瞬間――
アランの瞳がまっすぐこちらを射抜いた。
《銀色です。光り輝く銀の色》
胸が締めつけられた。
息が止まった。
誰にもそんなふうに言われたことはなかった。
血を分けた家族でさえ。
親友でさえ。
世界のどこにも――そんな風に見てくれた者はいなかった。
風景が遠く霞んだ。
胸の奥に、名前のない痛みが溢れる。
そして気づいた。
これは恋なんかじゃない。
もっとずっと昔から沈んでいた、埋まらない欠落を埋めようとする衝動だ。
シリウスはゆっくり言葉を絞り出した。
「…… アラン。お前に、そんなふうに言われる日が来るとはな。」
声が震えていた。
それでも風がさらってくれることを期待して、笑った。
空が、遠くまで灰銀色に広がっていた。
まるで――本当にアランが言うように、自分の瞳の色を世界が写したみたいに。
その夜、屋敷の結界はいつもより静かだった。
だが――静かすぎた。
レギュラスは書類を閉じ、執務室から立ち上がると、指先で結界監視石を軽く叩いた。
魔力痕の履歴が淡く水晶の内部に浮かび上がる。
そこには――
“ アランの魔力だけが、不自然に途切れていた。”
一点だけ綺麗に抜け落ちている。
かけられたのは錯乱系の魔術。
かなり巧妙だ。
その痕跡から導き出される答えは――ひとつ。
誰かがアランを連れ出した。
しかも式典級の結界を欺けるほどの魔力量と技量を持つ者が。
舌打ちが無意識に漏れた。
「……シリウス・ブラック。」
その名を口にした瞬間、胸の奥で何かが切れる音がした。
レギュラスは黒の外套を羽織り、杖を握り締めた。
屋敷を出ると夜風が肌を刺すように冷たい。
それでも怒りの熱が内部から焼くように沸き上がって、寒さは感じなかった。
杖先で空気を切る。
「Revelio Tracem.」
視界に魔力の残光が走り、複雑な軌跡を描きながら空へ伸びた。
細く、儚い。
だが――間違いなく、アランの魔力と、それに絡む別の魔力。
灰銀色の魔力だ。
あの忌々しい男のもの。
レギュラスは無言で箒に跨り、軌跡を追って夜空へ上昇した。
空は曇っていた。
月明かりも薄く、黒墨のように広がる夜。
その高み――吹き荒れた風の層に、魔力がかすかに残っていた。
その瞬間、胸の奥に鋭く刺さるものがある。
ここで――
アランはシリウスと飛んだのか。
背筋に走ったのは冷気ではなかった。
怒り。
嫉妬。
裏切りにも似た痛み。
それらが、ひどく静かに、しかし確実に燃えていた。
――飛んだのか。
――風を切って笑ったのか。
――あの男の腕の中で。
思考がそこまで繋がった瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
怒りに支配されたはずの思考が、理性を引き裂きながら声を上げる。
「アラン……あなたは……」
言葉は途中で途切れ、風に飲まれた。
代わりに指先へ力が籠もり、杖が震えるほど握られる。
レギュラスは空の只中に立ち尽くすように浮かびながら、ゆっくり息を吐いた。
冷静になれ。
追い詰めすぎるな。
アランは、自分を裏切るような女ではない。
――けれど。
シリウスは、アランに手を伸ばせる男だ。
それが何より危険だった。
風が凍りつくように静かになる。
空気が魔力に共鳴し、彼の魔力の輪郭を照らす。
翌日の夕食は、いつもと同じ席順だった。
だというのに――空気だけが決定的に違っていた。
テーブル中央には豪奢なローストが並び、香草の香りが柔らかく漂っている。
銀器は整然と並び、グラスには深い赤のワイン。
完璧に整えられた食卓――それだけは、何ひとつ乱れていなかった。
だが、音がない。
箸の触れる音すら、遠慮がち。
ステラは黙々と食事を進めている。
アルタイルはこの空気の重さを察しているのか、珍しく口数が少なかった。
メイラは息を潜めるように姿勢を正し、食器を持つ手が微かに震えている。
――そして、アランとレギュラス。
アランは、向かいに座る夫を一度も見なかった。
見るのが怖かった。
あの夜空に立っていたかのような冷たい気配を背に感じているというのに――視線を上げることができなかった。
レギュラスもまた、ほとんどアランを見なかった。
だが、見ていないふりをして、すべてを見ていた。
アランがフォークを持つ指先の震え。
グラスに口をつけるときの浅い呼吸。
喉を通るたび、首筋の筋がわずかに強張ること。
――見なくても分かる。
アランは怯えている。
自分の怒りではなく、自分の沈黙に。
やがて、ステラが静かにナプキンを置いた。
「ごちそうさまでした。失礼します。」
その声がやけに響いた。
ステラが席を立つ。
続いてアルタイル、メイラもそれに続いた。
椅子の脚が床をすべる音が、無駄に大きく聞こえた。
扉が閉まり――
残されたのは二人だけ。
レギュラスはワイングラスを持ち、軽く揺らした。
赤色が照明の下で揺れ、影がアランの手元へ落ちる。
「……食事、進んでいませんね。」
静かに落とされた言葉。
それは優しさにも冷たさにも聞こえる曖昧な声音だった。
アランは杖を取り、震える字で皿の脇に文字を浮かべる。
「味がよく分からなくて……すみません。」
その謝罪が、レギュラスの胸に鈍く刺さる。
謝る必要などない。
それでも彼女は謝る。
「謝罪はいりません。」
返した声は静かだったが、アランの肩がびくりと震えた。
レギュラスは息を飲み、言い直そうとする――だが、言葉が見つからない。
本当は言いたかった。
――なぜあの男のところへ行ったのか。
――なぜ自分よりも先に、彼を案じたのか。
――なぜ否定しない。なぜ逃げない。なぜ隠した。
その感情が喉元までせりあがり、言葉にならないまま崩れ落ちていく。
レギュラスはゆっくり椅子を引き、アランの隣へ移動した。
触れない距離。
けれど逃がさない距離。
アランが小さく息を呑む。
その肩がすこし強張った。
レギュラスは彼女の手に触れようとして――途中で止めた。
触れれば、柔らかくて、温かくて。
その瞬間すべてが許されてしまいそうで。
それが悔しかった。
「……食べられそうな時で構いません。
部屋に運ばせましょう。」
それだけ言い、ゆっくり立ち上がる。
背を向ける寸前、わずかに振り返り、小さく告げた。
「アラン。」
アランは顔を上げた。
「……僕は、怒っているわけではありません。
ただ――まだ整理ができていないだけです。」
言葉は静かなのに、胸の奥深くまで響く声だった。
「……だから、少しだけ待ってください。」
そう言うと、レギュラスは去っていった。
報告が入ったのは夕刻だった。
窓の外では薄暮が深まり、深い紫が空を染めている。
書類が積み上げられた執務室の中、レギュラスはペンを置いた。
「……また関所で騒ぎです。」
バーテミウスの低い声。
その声音には疲労と、わずかな苛立ちが滲んでいた。
レギュラスは眉を寄せたまま沈黙する。
そしてわずかに、指先でこめかみを押さえた。
まただ。
何度整理しても、何度法令を明確にしても、何度公示を貼っても――
マグルは理解しない。
理解しないのか、理解する気がないのか。
そのどちらでも、結論は同じだった。
呆れるほどに愚かだ。
「騎士団に制圧を任せていたはずだが、なぜ鎮圧できない。」
声は低く、だが刃物のように冷たい。
バーテミウスが肩をすくめる。
「……彼らは“対話で解決したい”そうですよ。
武力を示せば火に油を注ぐ、との考えだとか。」
レギュラスは乾いた笑いを喉の奥で転がした。
「綺麗事だ。」
バーテミウスは頷く。
レギュラスは立ち上がり、窓の外の関所方向――遠く灯りの点る方角を見つめた。
そこでは、マグルが旗を掲げ声を荒げ、警備魔法使いたちを取り囲んでいる。
魔力と魔法の存在を恐れながら、同時に挑もうとしてくる無謀さ。
理解を超えていた。
まるで――
弱さを盾にしながら、強い者を引きずり下ろしたいだけの集団。
「どうします?」とバーテミウスが再度問う。
長い沈黙が落ちた。
レギュラスは息をゆっくり吐き、口元だけで微笑むような表情をつくった。
その笑みは、冷えた鋼のように硬質だった。
「騎士団に通告しましょう。」
「内容は?」
「――三日です」
レギュラスの声は低く、はっきりと響いた。
「三日以内に鎮静化できないのであれば、警務部を派遣します。」
バーテミウスの顔に、安堵とも楽しみともつかない影が浮かぶ。
「容赦なく、ですか。」
「当然です。」
レギュラスは机に手を置き、その指先に力をこめた。
「マグルは、優しさを与えれば――
それを譲歩だと勘違いする。
対等に扱えば――対等に戦えると勘違いする。」
瞳に鋭い光が宿る。
「思い知らせなければいけませんね。
境界線は境界線であり――越えて良い場所ではないことを。」
沈黙を破ったのは、レギュラス自身だった。
「むしろ……これは好機です。」
「好機?」
「騎士団は理想を掲げている。
それはそれでいい。
ただ――その理想とやらで、国ひとつ守れるならの話ですがね」
喉の奥で小さく笑う。
「三日間で鎮められないのであれば――
彼ら自身が、自らの理想を否定することになります」
「つまり……」
「その瞬間、我々のやり方が正しいと世論が理解するでしょう」
バーテミウスの目が愉快そうに細められた。
「……実に法務部らしい考え方ですね。」
「法とはそういうものです。」
「感情ではなく、結果で語らなければならない。」
レギュラスは椅子に戻り、手元の羽ペンを取った。
冷静な表情。
けれど胸の奥では、灰色の炎がゆっくりと燃え始めていた。
――混乱を終わらせる。
――誰にも触れさせない。
――魔法界も、家族も、アランも。
レギュラスの声は低く、確固としていた。
「通知文を作成します。
……バーテミウス、準備を。」
「承知しました。」
ドアが閉まる。
部屋には、紙を走る羽ペンの音だけが残った。
封筒の縁に触れた瞬間、胸の奥がざらりとした。
黒い蝋印――蛇と盾、法務部の紋章。
無機質で、威圧的で、冷酷なまでに整った印章。
その象徴を目にしただけで、喉の奥に苦い鉄の味が広がる。
「……またあいつか。」
声は低く、押し殺したはずなのに、
部屋の空気が震えたように見えた。
リリーが気まずそうにこちらを盗み見る。
ジェームズは苦々しい顔で腕を組んだまま、壁にもたれている。
「開けろよ、シリウス。」
ジェームズの声はやけに静かだった。
静かすぎて、逆に鼓膜を刺す。
封を切る。
羊皮紙の擦れる音すら、神経に触った。
――騎士団に通告する。
三日以内に関所周辺のマグル暴動を鎮静化せよ。
実行できない場合、警務部が介入する。
それは即ち騎士団の理念に基づく統治能力が無いと判断し、
今後の境界管理権限を法務部が全面的に掌握するものとする。
レギュラス・ブラック
法務部代表代理・魔法省権限保持者
最後の署名部分だけ、やけに丁寧な筆跡だった。
余裕すら感じる自信の線。
まるで――
“どうせお前らには無理だ”
と書かれているようだった。
羊皮紙が指の中で音を立てる。
握る力が強すぎて、皺がついた。
ジェームズが眉を寄せる。
「……落ち着け。」
落ち着け?
落ち着けだと――?
胸の奥が爆ぜた。
「落ち着けだと?あいつは――」
声が低く笑った。
自分の声なのに、知らない誰かのようだった。
「“三日で沈められなかったら、お前たちの理想は茶番だ”って、そう言ってんだぞ?」
拳が震える。
羊皮紙が耐えきれずに破れた。
バリ、と乾いた音。
リリーがわずかに息を呑んだ。
「……シリウス。」
ジェームズが名前を呼ぶ。
気遣う色が滲んでいた。
シリウスは苦笑した。
「知ってるさ。分かってる。
あいつがやってることも、目的も、全部理解はできる。」
目を伏せる。
吐き出すように続けた。
「でも――」
「でも、やり方が気に入らねぇ。」
理想を語ることが罪だと言わんばかりに。
希望を持つことすら滑稽だと笑うように。
あいつは、世界を力で締め上げようとしている。
そう思うだけで、胃の奥まで熱くなった。
拳を額に当てる。
目を閉じると、彼女の顔が浮かんだ。
翡翠の瞳。
静かに微笑む口元。
声を持たない代わりに、震えるほど優しい仕草で言葉を伝える手。
―― アラン。
その名前ひとつで、呼吸が乱れる。
彼女はあの屋敷にいる。
あの男の横に。
レギュラス・ブラック――
冷酷で、鋭く、そして恐ろしいまでに正確な男。
あいつの決定に、
彼女の想いはどれほど縛られてしまったのだろう。
思うだけで胸が裂けそうだった。
「……ジェームズ。」
「なんだ。」
「三日なんて、あいつに勝たせるつもりで言ってる期限だ。本気で殴り返さねぇと――」
銀色の瞳が怒りに燃えた。
「魔法界そのものが、あいつの形に書き換えられる。」
ジェームズはゆっくり頷いた。
「分かってる。だから戦う。
これは――もう、思想の問題じゃない。」
「じゃあ何だ?」
ジェームズの答えは重かった。
「――未来の問題だ。」
部屋に沈黙が落ちた。
嵐の前の、息を潜めた静寂。
会議室の扉を開けた瞬間、張りつめた緊張が肌に触れた。
壁に掲げられた騎士団の紋章。
円卓。
すでに数名が席に着き、資料を開いたまま硬い顔で沈黙していた。
今日の議題はひとつ。
──法務部からの通達、および境界線情勢への対応。
空気は重く、煤のように淀んでいた。
席につく前に、シリウスの姿を確認する。
負傷したとは思えないほど、背筋が伸び、目だけが鋭く光っていた。
ジェームズは席に座り、深く息を吸う。
「……始めよう。」
騎士団員たちは法務部からの通告にざわめき出す。
「言いたいことは分かる。
だが冷静になれ。」
視線をゆっくり巡らせ、言葉を続ける。
「私たちは魔法族とマグルの架け橋として立ってきた。
レギュラスブラックは壁を作った。
強固で、冷たい壁だ。」
何人かが目を伏せる。
「だが……その壁が支持され始めている。」
その現実は、胸に鉛を落とすようだった。
「我々が理念を掲げている間に、法務部は“結果”を提示した。
民衆は――残念ながら、理想よりも結果を見る。」
その瞬間、シリウスが低く言った。
「だったら結果を出すしかねぇ。」
ジェームズはわずかに微笑む。
「そうだ。三日だ。」
円卓の上に地図が広げられる。
境界線、デモ拠点、指揮塔、地形、魔力反応。
「暴力で押し返す気はない。
それでは法務部と同じになる。」
誰も反論しない。
「まず、話せる者を前線に。
煽動されて暴走している者ではなく、迷っている者を探す。」
指先で地図を叩く。
黒い点が集まる地点。
「そこに揺らぎがある。
動機が怒りだけではない者がいる。」
「同時に、偽情報を流す。
“法務部は完全鎮圧と拘束を検討している”と。」
ざわり、と空気が動く。
「追い詰められた者ほど、恐怖より“選択肢”に反応する。
我々が対話という未来を提示すれば、潮が変わる。」
ジェームズは立ち上がる。
「我々は“マグルを守るため”ではない。」
視線が鋭くなる。
「魔法族とマグル、両方の未来を守るために動く。
それが創設以来、我々が掲げてきた正義だ。」
沈黙。
そして――
「──動こう」
椅子が次々と立ち上がり、黒いローブが翻る。
その背に、ジェームズは確かに見た。
まだ負けていない火種が燃えている。
会議室に残ったのはジェームズとシリウスだけ。
「……本当にやるのか?」
シリウスは答えず、ローブを肩にかけた。
「ジェームズ。俺はな……」
銀の瞳が揺れた。
「なんとしてでも、あいつに負けたくない。」
誰を指しているのか、ジェームズは聞かなかった。
分かりすぎるほど分かっていたからだ。
その日――屋敷の空気は、冷たい冬の朝のようだった。
窓辺に落ちる光は柔らかいのに、部屋に満ちる気配は静電気のように刺々しく、息をするたび胸が細く締め付けられる。
レギュラスが書斎から戻ってきたのは、昼をとうに過ぎた頃だった。
ジャケットはきちんと着ているのに、肩の形がどこか乱れて見える。
手袋の指先には微かに魔力痕の煙の跡。
疲労と苛立ちが彼の全身に張り付いていて、歩くその靴音すら重く響いた。
アランはそっと杖を手に取り、テーブルに魔法文字を浮かべた。
「レギュラス……どうしました?」
言葉は静かに浮かんだ。
けれど、胸の内では氷の粒のような不安がざらざらと転がっていた。
レギュラスは一度深く息を吐いた。
そして、髪をかき上げる仕草のあと、抑え込んだ声音で答える。
「──騎士団がちょろちょろ動いているようです。
問題は山積みですよ。」
低く、乾いた声。
言葉ひとつひとつに、刺のような鋭さが潜んでいた。
アランは息を呑む。
怒っている、というより――追われている獣が牙を剥く前の沈黙に近かった。
レギュラスは椅子に座るなり、カフスを乱暴に外し、机に叩きつけるように置いた。
「……どいつもこいつも。理想だけ語るなら机の前で語っていればいいでしょうに。」
その声に宿る苛立ちは、鋭い刃物のようだった。
ほんの少し触れるだけで、切れてしまいそうな。
アランはそっと近づき、紅茶を置こうとした――けれど、レギュラスの視線が瞬間的に鋭く動き、手がぴたりと止まった。
怖い。
その感情が胸の奥で静かに震えた。
それでも――逃げたくなかった。
アラン はもう一度、杖で文字を描く。
「あなたは……疲れています。」
「少し、休んでください。」
それは“お願い”ではなく。
“祈り”に近かった。
レギュラスはその文字を見た。
眉が動いた気がした――けれどすぐに消える。
「休めません。今は、まだ。」
返された声は冷え切っていたが、わずかに震えていた。
まるで感情すら整理できず、手の中に溢れてしまっているような。
アランは動けないまま、ただ夫の疲れた横顔を見つめた。
魔法界が変わろうとしている――そう思った。
境界線、混乱、騎士団、そしてレギュラスの権力が加速していく現実。
すべてが、見えない巨大な波のように押し寄せてくる。
アランは胸に手を当てた。
その波に、レギュラスが飲み込まれていってしまうのではないか。
彼自身が誰かではなく、権力という名前の怪物に変わってしまうのではないか。
怖かった。
けれど――それでも、彼の背を支えたいと思ってしまう。
それが愛なのか、依存なのか。
分からない。
ただ胸が痛むほどに、彼を失いたくない。
アランはそっと、レギュラスの手に触れた。
レギュラスは目を伏せ――そして、気づかぬふりをした。
触れた指先に返ってくるものはない。
けれど、その手は振り払われなかった。
十分だった。
「……私はここにいます。」
杖の先で、机にその文字をそっと刻む。
レギュラスはその文字をじっと見つめ――
ほんの一瞬だけ、眉が揺れた。
それだけのことなのに、胸が温かくなった。
その日の朝刊は、珍しく一面から最後のページまで、騎士団と法務部の名前で埋め尽くされていた。
「マグル拘束は法務部の指示のもと行われている」
「騎士団はあくまで“後処理役”――内部関係者が語る衝撃の実態」
煽るような見出しが、それぞれの紙面で躍っている。
執務室の窓際に立ったレギュラスは、静かに新聞を折り畳んだ。
机上には、同じような内容の記事が載った新聞や雑誌が、無造作に積み重ねられている。紙とインクの匂いが、午前中の魔法灯の光のなかでわずかに立ちのぼっていた。
「……ずいぶん分かりやすいことをしますね、騎士団も」
ぼそりと呟いた声は、誰に聞かせるでもない。
その直後、ノックの音と共にバーテミウスが姿を現した。
「レギュラス、世論調査部門からです」
差し出された書類には、簡易集計された世論の反応が並んでいた。
レギュラスは椅子に戻り、視線だけで続きを促す。
「偽情報らしきものが出回ってから、確かに法務部への“非人道的だ”という声も少し増えています。ですが――」
バーテミウスは、口元に苦笑を浮かべた。
「それ以上に、“デモを鎮められない騎士団に何の意味があるのか”という声が急増中です。特に関所近辺の住民からの不満が顕著です」
レギュラスは、喉の奥で短く笑った。
それは決して愉快さからではなく、あまりの拙さに呆れたがゆえの、乾いた笑いだった。
「自分たちの不手際を覆い隠すために、法務部を悪役に仕立て上げようとして――その結果、“鎮圧できない騎士団”という印象だけを強めているわけですか」
指先で机を軽く叩く。堅い木の感触が、思考を整えるように伝わってくる。
「愚かですね。嘘をつくにしても、最低限“結果”を伴わせなければならない。
デモをきっちり収束させてからなら、まだ言い訳の余地もあったでしょうに」
バーテミウスは肩をすくめた。
「“拘束はすべて法務部が主導している”という話が、関所周辺のマグルコミュニティでも広まっているようですが……」
「ええ。予想通りでしょう」
レギュラスはすぐさま遮った。
「しかし、その情報を流したのが騎士団だと知られた瞬間、その責任は彼ら自身に跳ね返る。
……“マグルも守るはずの騎士団が、法務部の陰に隠れてデモを処理させようとしている”とね」
書類の一枚を指先でずらす。
グラフの線は、はっきりと騎士団への不信感の上昇を示していた。
「非人道的だ、と僕を批判する声があることはわかっています」
レギュラスは淡々と続けた。
「ですが同時に、“とにかく日常を取り戻したい”と願う市民の声も確かに存在する。
その人々にとって重要なのは、理念ではなく“静かな夜が戻るかどうか”だけです」
窓の外では、魔法省の塔を吹き抜ける風が旗を揺らしていた。
旗に刻まれた紋章は、いまや魔法界の秩序そのものを意味する。
「関所周辺で爆音が響き、子供たちが泣き、店が閉まり、仕事に出られない――そのたびに、騎士団は“対話を続ける”と言って何も変えない。
そんな連中が、法務部のやり方を“非人道的だ”と責めたところで、心の中ではこう思われるのです――
『どちらがいいかはともかく、とりあえず騒動を終わらせてくれる方に任せたい』と」
バーテミウスは頷き、淡々と補足する。
「現場の報告でも、“法務部に管理権を委ねたほうが早いのではないか”という声が、かなり上がってきています。特に、関所周辺の商人たちから」
「当然です」
レギュラスは椅子の背にもたれ、長い息を吐いた。
疲労ではない。むしろ、静かな確信のため息だった。
「偽情報を流して我々の信頼を落とそうとしたのでしょうが――」
唇に、かすかな皮肉めいた笑みが浮かぶ。
「結果として、“デモを止められない騎士団”という現実だけが、世間の目に焼きついただけです。
……自分で自分の首を絞めるとは、なんとも滑稽ですね」
沈黙が落ちる。
書類をめくる音だけが、執務室にしずかに広がった。
机の端には、関所管理権限移譲に関する正式な文書が置かれている。
魔法省の印章とともに記された期日まで、もうわずかだった。
「管理権限の移行は予定通りです」
バーテミウスが確認するように口にする。
「はい」
レギュラスは短く答えた。
「騎士団には“立場を守るための情報戦”に忙しくしていてもらいましょう。その間に、僕たちは静かに、必要な準備だけ整えておけばいい」
視線を窓の外に向ける。
魔法省の上空は、いつもと変わらぬ曇り空だったが、その下で渦巻くものは日に日に濃度を増している。
――やがて、関所の全てが法務部の掌中に収まる。
そのとき、マグルの流れも、魔法族の出入りも、すべて自分の指先一つで調整が可能になる。
焦る必要はなかった。
怒りを、恐れを、苛立ちを、すべて何重もの冷たい膜で包み込む。
レギュラスの中にあるのは、ただ一つ――結果だけを見据える視線だった。
「関所の管理権限がこちらに渡るまで、あと少しです」
バーテミウスが呟く。
「ええ」
レギュラスは静かに頷いた。
「騎士団が無様にもがくさまを見届けたら――あとは、こちらが“正しく”片をつけるだけです」
机上に置かれた砂時計の砂が、さらさらと落ちていく。
その音さえも、彼にとっては心地よいカウントダウンに思えた。
レギュラスは、ただ静かに、その時を待った。
――自分の出番が来る瞬間を。
その夜、ブラック家の屋敷は、まるで外界のざわめきとは無縁であるかのように静まり返っていた。
廊下に灯された魔法灯は、柔らかな金色の光を落としているのに、その温度がレギュラスにはどこまでも遠く感じられた。
書斎の重たい扉を閉めると、世界はさらに狭くなる。
壁一面を埋める本棚。整然と並んだ分厚い法律書、判例集、内密の記録文書。
暖炉の火はすでに落とされ、薄暗い室内で唯一動いているのは、机の上でゆらゆらと揺れる魔法灯の光だけだった。
レギュラスは椅子にもたれ、額を押さえる。
脳裏には、解決しないまま積もり続ける案件が、次々と浮かんでは消えていった。
関所の騒動。
マグルのデモ。
騎士団の動き。
治験の痕跡。
魔力無効化ポーションの一件で露わになった魔法族の闇。
そして――何より、シリウスとアランの接触。
追い詰められて病室で出会ったあの日からずっと、胸の片隅で燻り続けている疑念。
病室に行ったと素直に告げたアランの文字の軌跡。
「ごめんなさい」と頭を下げる姿。
追及しようと思えば、いくらでもできた。
どんな言葉を交わし、どんな顔をして、どこまで近づいたのか。
問いただす言葉はいくらでも浮かぶのに、それを口にした瞬間、自分が見たくない答えまで掘り起こしてしまう気がして、喉でせき止めた。
――問い詰めるのは、やめよう。
そう決めて飲み込んだはずなのに。
納得など、できるはずもなかった。
胸の奥で、苛立ちがマグマのように湧き上がる。
理性という薄い岩盤でなんとか蓋をしているが、いつ割れてもおかしくないくらいの圧力で、内側から自分を押し広げてくる。
机に置かれたインク壺の縁を無意味になぞりながら、レギュラスはゆっくりと息を吐いた。
視界の端で、時計の振り子が規則正しく揺れている。
――もう、とっくに寝る時間だ。
そこへ、控えめなノックの音がした。
振り返ると、少しだけ扉が開き、ランプの光に縁取られたの姿が覗いていた。
「レギュラス」
彼女は静かに入ってくると、手にした杖を軽く振った。
宙に薄く淡い光の文字が浮かび上がる。
『レギュラス、もう寝ませんか?』
翡翠の瞳が、不安と気遣いを溶かしたような色で、こちらを見つめていた。
その表情が、「大丈夫ですか」と問いかけているのはすぐにわかる。
――いつもなら。
いつもなら、その誘いに乗ってしまえばいいだけの話だった。
寝室に戻り、いつものように並んで横になり、彼女の体温を感じて、静かに目を閉じればいい。
それだけで、少しは心が落ち着くと知っている。
だが、今は無理だった。
同じ顔でシリウスを見舞ったのか――
同じように、夜更けの病室で「もう休みましょう」と微笑んだのか――
そんな想像ばかりが、容赦なく胸を刺してくる。
「……」
喉が強く締め付けられる。
言葉を選ばないといけないと、頭ではわかっているのに。
視界の端で、の表情が、心配そうに揺れた。
『お疲れでしょう? 少し休んでください』
再び浮かぶ文字は、柔らかく、優しく、それでいてあまりにも無防備だった。
自分の心の内側で渦巻く、醜い怒りや疑念の存在など、ひと欠片も知らないというように。
――知らないのではない。ただ、見ないようにしているのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥で、抑え込んでいた何かが音を立てた。
「……一人にしてもらえます?」
自分の口からこぼれた声に、レギュラスは一瞬、遅れて驚いた。
氷の刃を押しつけたような、あまりにも冷たい響きだったからだ。
アランの瞳が、はっと見開かれる。
杖先が小さく震え、先ほどまで浮かんでいた文字が、淡い光の粒になって空中に散っていく。
――しまった。
そう思った時にはもう遅かった。
言葉は、決して戻せない。
アランは、ほんのわずか唇を噛みしめるような表情を浮かべた。
それは「傷ついた」と声にして訴える代わりの、ささやかな痛みの合図だった。
彼女は何も書かない。
ただ、杖をそっと胸の前に下ろすと、小さく礼をして踵を返した。
黒髪が揺れ、淡いガウンの裾が、床を撫でるように揺れていく。
背中越しにも伝わる、ひそやかな落胆。
「邪魔をしてしまいましたね」と、そう言っているような静かな退き際。
――違う。そうじゃない。
レギュラスは椅子から半ば立ち上がりかけて、そこで動きを止めた。
呼び止めるべきだと、頭では理解している。
今この場で言葉を修正しなければ、さらに距離は開く一方だとわかっている。
それでも喉から先に、言葉が出てこない。
扉が静かに閉まる音がした。
それは、屋敷の中に開いてしまった、見えない“隙間”の輪郭をなぞるように耳に残る。
書斎に、ひとりきりになる。
先ほどまでそこにあったアランの気配が、すっと消えてしまったことで、逆にその不在がやけに鮮明だった。
レギュラスは両手で顔を覆う。
――せめて、この女だけは。
どれほど世論が荒れようと、騎士団が牙を剥こうと、マグルと魔法族の対立が深まろうと。
地下牢の石畳から自分の元へと歩いてきた、この女だけは。
何があろうと、自分の隣に立ち続けるべきだ。
どれほど残酷な決定でも、最後には自分の判断を信じ、従ってくれる存在であってほしい。
――それなのに。
自分の苛立ちの矛先を、最も守りたかったはずの彼女に向けてしまっている。
押し込めきれなかった疑念や焦燥が、言葉の端々に棘を生えさせ、彼女の柔らかな心を傷つけていく。
マグマのような怒りは、いまや外にではなく、内側に向かっていた。
自分自身の愚かさを焼き尽くそうとするように、胸の奥でじりじりと燃え続けている。
机の上には、未処理の書類が積み上がっている。
関所の報告書。騎士団からの通達。警務部との連絡。
どれも今すぐ目を通すべきものばかりだ。
だが、しばらくのあいだ、レギュラスは何も掴めなかった。
ただ、空いた椅子と閉ざされた扉を見つめながら、静かに奥歯を噛みしめる。
――せめて、この女だけは。
心の中で繰り返したその願いが、
現実の行動と、あまりにも乖離していることに気づきながらも。
彼はまだ、うまく軌道を修正する術を持てずにいた。
レギュラスは椅子に座り、蝋燭の光に照らされながら本を読んでいた。
その横顔は冷静で、理知的で、美しかった。
同時に、遠かった。
アランはベッドの端に腰掛ける。
手元の杖を握りしめ、何度も文字を書こうとしては止めた。
ごめんなさい。
どうか話してください。
怒っているなら怒ってください。
見捨てないで。
言葉はいくつも浮かぶのに、どれも正しいものではない気がした。
間違えた言葉を出せば、壊れてしまいそうな気がした。
いや、本当は――
壊れてしまうのが怖いのではなく、彼の心に届かないと知ってしまうことが怖かった。
レギュラスが寝台へ向かう気配に、息が止まる。
灯りが消され、闇が広がる。
布団が沈むわずかな重み。
横にいる。触れられる距離にいる。
なのに、その距離は壁より遠かった。
触れたい。
寄り添いたい。
謝りたい。
赦されたい。
胸の中で渦巻く感情は、声を持たない自分の身体の奥で膨れ続ける。
その苦しさだけが呼吸を曇らせて、眠りを遠ざけた。
暗闇の中、アランはそっと手を伸ばす。
触れたかった。
彼の背に、腕に、体温に。
しかし触れる寸前で、その指先は空中で止まった。
――もし触れて、拒まれたら。
もう二度と戻れなくなる。
アランはそっと手を胸に戻した。
瞳を閉じ、息を殺しながら。
届かない想いの底で、ただ願った。
明日こそ、彼に届きますように。
この沈黙が終わりますように。
彼を失わないで済みますようにと――。
屋敷を囲む黒鉄の門が視界に現れたとき、胸の奥が跳ねた。
昔から変わらない、威圧的で誇り高いブラック家の象徴。
この家に向かって帰ってきたことはあっても、
今のように“迎えを拒まれるかもしれない相手”として立つのは初めてだった。
結界の魔力は強く、肌の表面が痺れるような感覚が走る。
だがレギュラスの領地の魔法くらい、隠す術はいくつでもある。
ゆっくり息を吸い込み、門を越えた。
足が屋敷へ向かうたび、迷いが薄れ、衝動が形を持ち始める。
「アラン!」
声が響いた瞬間、屋敷の大窓が揺れた。
弾かれたようにアランが姿を現し、こちらへ駆け寄る。
驚きと困惑が混ざったその表情。
昔と変わらない――なのにどこか影が差していた。
アランは杖を持ち上げ、空中に文字を描く。
《もう、体は大丈夫なのですか?》
その問いかけだけで、胸の奥が温かくなった。
人混みのどこからでも見つけられそうな翡翠の瞳。
その瞳が心配を帯びて自分を見るなんて――あり得ないくらい幸福だった。
「平気さ。ほんとは一昨日から退院してよかったらしいけどな。
リリーのやつが“安静に”ってうるさくてよ。」
笑いながら答えながら、喉の奥で痛みがじんと広がる。
言葉にすればするほど、生きて戻ってきた理由が一つに収束していく。
―― アランに会いたかったからだ。
シリウスは肩に背負っていた箒を下ろし、柄を軽く叩いた。
木の表面は手になじみ、何度も空を駆けた感覚が蘇る。
「なあ、アラン。飛ぼう。」
差し出した手は、迷いのないものだった。
アランは一瞬戸惑い、少しだけ眉を下げ――それからそっと手を重ねた。
箒に跨ると、風の匂いと高さの感覚が一気に蘇る。
空は完全な青ではなく、灰色がかった曇り空。
けれど――どこまでも自由だった。
風が二人の髪を乱し、外套が羽のように翻る。
「綺麗な空じゃねぇけど……悪くねぇだろ?」
シリウスは冗談のつもりで言った。
けれど返ってきた言葉は予想を遥かに越えた。
アランの杖先が、空に柔らかく文字を描く。
《あなたの瞳の色みたい》
風が一瞬止まったように感じた。
「こんな、濁った灰色か?」
思わず笑う。
でもその笑いの裏には、少しだけ痛みがあった。
灰色は寒さの色、曇りの色、失う前触れの色だと思っていたから。
しかし次の瞬間――
アランの瞳がまっすぐこちらを射抜いた。
《銀色です。光り輝く銀の色》
胸が締めつけられた。
息が止まった。
誰にもそんなふうに言われたことはなかった。
血を分けた家族でさえ。
親友でさえ。
世界のどこにも――そんな風に見てくれた者はいなかった。
風景が遠く霞んだ。
胸の奥に、名前のない痛みが溢れる。
そして気づいた。
これは恋なんかじゃない。
もっとずっと昔から沈んでいた、埋まらない欠落を埋めようとする衝動だ。
シリウスはゆっくり言葉を絞り出した。
「…… アラン。お前に、そんなふうに言われる日が来るとはな。」
声が震えていた。
それでも風がさらってくれることを期待して、笑った。
空が、遠くまで灰銀色に広がっていた。
まるで――本当にアランが言うように、自分の瞳の色を世界が写したみたいに。
その夜、屋敷の結界はいつもより静かだった。
だが――静かすぎた。
レギュラスは書類を閉じ、執務室から立ち上がると、指先で結界監視石を軽く叩いた。
魔力痕の履歴が淡く水晶の内部に浮かび上がる。
そこには――
“ アランの魔力だけが、不自然に途切れていた。”
一点だけ綺麗に抜け落ちている。
かけられたのは錯乱系の魔術。
かなり巧妙だ。
その痕跡から導き出される答えは――ひとつ。
誰かがアランを連れ出した。
しかも式典級の結界を欺けるほどの魔力量と技量を持つ者が。
舌打ちが無意識に漏れた。
「……シリウス・ブラック。」
その名を口にした瞬間、胸の奥で何かが切れる音がした。
レギュラスは黒の外套を羽織り、杖を握り締めた。
屋敷を出ると夜風が肌を刺すように冷たい。
それでも怒りの熱が内部から焼くように沸き上がって、寒さは感じなかった。
杖先で空気を切る。
「Revelio Tracem.」
視界に魔力の残光が走り、複雑な軌跡を描きながら空へ伸びた。
細く、儚い。
だが――間違いなく、アランの魔力と、それに絡む別の魔力。
灰銀色の魔力だ。
あの忌々しい男のもの。
レギュラスは無言で箒に跨り、軌跡を追って夜空へ上昇した。
空は曇っていた。
月明かりも薄く、黒墨のように広がる夜。
その高み――吹き荒れた風の層に、魔力がかすかに残っていた。
その瞬間、胸の奥に鋭く刺さるものがある。
ここで――
アランはシリウスと飛んだのか。
背筋に走ったのは冷気ではなかった。
怒り。
嫉妬。
裏切りにも似た痛み。
それらが、ひどく静かに、しかし確実に燃えていた。
――飛んだのか。
――風を切って笑ったのか。
――あの男の腕の中で。
思考がそこまで繋がった瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
怒りに支配されたはずの思考が、理性を引き裂きながら声を上げる。
「アラン……あなたは……」
言葉は途中で途切れ、風に飲まれた。
代わりに指先へ力が籠もり、杖が震えるほど握られる。
レギュラスは空の只中に立ち尽くすように浮かびながら、ゆっくり息を吐いた。
冷静になれ。
追い詰めすぎるな。
アランは、自分を裏切るような女ではない。
――けれど。
シリウスは、アランに手を伸ばせる男だ。
それが何より危険だった。
風が凍りつくように静かになる。
空気が魔力に共鳴し、彼の魔力の輪郭を照らす。
翌日の夕食は、いつもと同じ席順だった。
だというのに――空気だけが決定的に違っていた。
テーブル中央には豪奢なローストが並び、香草の香りが柔らかく漂っている。
銀器は整然と並び、グラスには深い赤のワイン。
完璧に整えられた食卓――それだけは、何ひとつ乱れていなかった。
だが、音がない。
箸の触れる音すら、遠慮がち。
ステラは黙々と食事を進めている。
アルタイルはこの空気の重さを察しているのか、珍しく口数が少なかった。
メイラは息を潜めるように姿勢を正し、食器を持つ手が微かに震えている。
――そして、アランとレギュラス。
アランは、向かいに座る夫を一度も見なかった。
見るのが怖かった。
あの夜空に立っていたかのような冷たい気配を背に感じているというのに――視線を上げることができなかった。
レギュラスもまた、ほとんどアランを見なかった。
だが、見ていないふりをして、すべてを見ていた。
アランがフォークを持つ指先の震え。
グラスに口をつけるときの浅い呼吸。
喉を通るたび、首筋の筋がわずかに強張ること。
――見なくても分かる。
アランは怯えている。
自分の怒りではなく、自分の沈黙に。
やがて、ステラが静かにナプキンを置いた。
「ごちそうさまでした。失礼します。」
その声がやけに響いた。
ステラが席を立つ。
続いてアルタイル、メイラもそれに続いた。
椅子の脚が床をすべる音が、無駄に大きく聞こえた。
扉が閉まり――
残されたのは二人だけ。
レギュラスはワイングラスを持ち、軽く揺らした。
赤色が照明の下で揺れ、影がアランの手元へ落ちる。
「……食事、進んでいませんね。」
静かに落とされた言葉。
それは優しさにも冷たさにも聞こえる曖昧な声音だった。
アランは杖を取り、震える字で皿の脇に文字を浮かべる。
「味がよく分からなくて……すみません。」
その謝罪が、レギュラスの胸に鈍く刺さる。
謝る必要などない。
それでも彼女は謝る。
「謝罪はいりません。」
返した声は静かだったが、アランの肩がびくりと震えた。
レギュラスは息を飲み、言い直そうとする――だが、言葉が見つからない。
本当は言いたかった。
――なぜあの男のところへ行ったのか。
――なぜ自分よりも先に、彼を案じたのか。
――なぜ否定しない。なぜ逃げない。なぜ隠した。
その感情が喉元までせりあがり、言葉にならないまま崩れ落ちていく。
レギュラスはゆっくり椅子を引き、アランの隣へ移動した。
触れない距離。
けれど逃がさない距離。
アランが小さく息を呑む。
その肩がすこし強張った。
レギュラスは彼女の手に触れようとして――途中で止めた。
触れれば、柔らかくて、温かくて。
その瞬間すべてが許されてしまいそうで。
それが悔しかった。
「……食べられそうな時で構いません。
部屋に運ばせましょう。」
それだけ言い、ゆっくり立ち上がる。
背を向ける寸前、わずかに振り返り、小さく告げた。
「アラン。」
アランは顔を上げた。
「……僕は、怒っているわけではありません。
ただ――まだ整理ができていないだけです。」
言葉は静かなのに、胸の奥深くまで響く声だった。
「……だから、少しだけ待ってください。」
そう言うと、レギュラスは去っていった。
報告が入ったのは夕刻だった。
窓の外では薄暮が深まり、深い紫が空を染めている。
書類が積み上げられた執務室の中、レギュラスはペンを置いた。
「……また関所で騒ぎです。」
バーテミウスの低い声。
その声音には疲労と、わずかな苛立ちが滲んでいた。
レギュラスは眉を寄せたまま沈黙する。
そしてわずかに、指先でこめかみを押さえた。
まただ。
何度整理しても、何度法令を明確にしても、何度公示を貼っても――
マグルは理解しない。
理解しないのか、理解する気がないのか。
そのどちらでも、結論は同じだった。
呆れるほどに愚かだ。
「騎士団に制圧を任せていたはずだが、なぜ鎮圧できない。」
声は低く、だが刃物のように冷たい。
バーテミウスが肩をすくめる。
「……彼らは“対話で解決したい”そうですよ。
武力を示せば火に油を注ぐ、との考えだとか。」
レギュラスは乾いた笑いを喉の奥で転がした。
「綺麗事だ。」
バーテミウスは頷く。
レギュラスは立ち上がり、窓の外の関所方向――遠く灯りの点る方角を見つめた。
そこでは、マグルが旗を掲げ声を荒げ、警備魔法使いたちを取り囲んでいる。
魔力と魔法の存在を恐れながら、同時に挑もうとしてくる無謀さ。
理解を超えていた。
まるで――
弱さを盾にしながら、強い者を引きずり下ろしたいだけの集団。
「どうします?」とバーテミウスが再度問う。
長い沈黙が落ちた。
レギュラスは息をゆっくり吐き、口元だけで微笑むような表情をつくった。
その笑みは、冷えた鋼のように硬質だった。
「騎士団に通告しましょう。」
「内容は?」
「――三日です」
レギュラスの声は低く、はっきりと響いた。
「三日以内に鎮静化できないのであれば、警務部を派遣します。」
バーテミウスの顔に、安堵とも楽しみともつかない影が浮かぶ。
「容赦なく、ですか。」
「当然です。」
レギュラスは机に手を置き、その指先に力をこめた。
「マグルは、優しさを与えれば――
それを譲歩だと勘違いする。
対等に扱えば――対等に戦えると勘違いする。」
瞳に鋭い光が宿る。
「思い知らせなければいけませんね。
境界線は境界線であり――越えて良い場所ではないことを。」
沈黙を破ったのは、レギュラス自身だった。
「むしろ……これは好機です。」
「好機?」
「騎士団は理想を掲げている。
それはそれでいい。
ただ――その理想とやらで、国ひとつ守れるならの話ですがね」
喉の奥で小さく笑う。
「三日間で鎮められないのであれば――
彼ら自身が、自らの理想を否定することになります」
「つまり……」
「その瞬間、我々のやり方が正しいと世論が理解するでしょう」
バーテミウスの目が愉快そうに細められた。
「……実に法務部らしい考え方ですね。」
「法とはそういうものです。」
「感情ではなく、結果で語らなければならない。」
レギュラスは椅子に戻り、手元の羽ペンを取った。
冷静な表情。
けれど胸の奥では、灰色の炎がゆっくりと燃え始めていた。
――混乱を終わらせる。
――誰にも触れさせない。
――魔法界も、家族も、アランも。
レギュラスの声は低く、確固としていた。
「通知文を作成します。
……バーテミウス、準備を。」
「承知しました。」
ドアが閉まる。
部屋には、紙を走る羽ペンの音だけが残った。
封筒の縁に触れた瞬間、胸の奥がざらりとした。
黒い蝋印――蛇と盾、法務部の紋章。
無機質で、威圧的で、冷酷なまでに整った印章。
その象徴を目にしただけで、喉の奥に苦い鉄の味が広がる。
「……またあいつか。」
声は低く、押し殺したはずなのに、
部屋の空気が震えたように見えた。
リリーが気まずそうにこちらを盗み見る。
ジェームズは苦々しい顔で腕を組んだまま、壁にもたれている。
「開けろよ、シリウス。」
ジェームズの声はやけに静かだった。
静かすぎて、逆に鼓膜を刺す。
封を切る。
羊皮紙の擦れる音すら、神経に触った。
――騎士団に通告する。
三日以内に関所周辺のマグル暴動を鎮静化せよ。
実行できない場合、警務部が介入する。
それは即ち騎士団の理念に基づく統治能力が無いと判断し、
今後の境界管理権限を法務部が全面的に掌握するものとする。
レギュラス・ブラック
法務部代表代理・魔法省権限保持者
最後の署名部分だけ、やけに丁寧な筆跡だった。
余裕すら感じる自信の線。
まるで――
“どうせお前らには無理だ”
と書かれているようだった。
羊皮紙が指の中で音を立てる。
握る力が強すぎて、皺がついた。
ジェームズが眉を寄せる。
「……落ち着け。」
落ち着け?
落ち着けだと――?
胸の奥が爆ぜた。
「落ち着けだと?あいつは――」
声が低く笑った。
自分の声なのに、知らない誰かのようだった。
「“三日で沈められなかったら、お前たちの理想は茶番だ”って、そう言ってんだぞ?」
拳が震える。
羊皮紙が耐えきれずに破れた。
バリ、と乾いた音。
リリーがわずかに息を呑んだ。
「……シリウス。」
ジェームズが名前を呼ぶ。
気遣う色が滲んでいた。
シリウスは苦笑した。
「知ってるさ。分かってる。
あいつがやってることも、目的も、全部理解はできる。」
目を伏せる。
吐き出すように続けた。
「でも――」
「でも、やり方が気に入らねぇ。」
理想を語ることが罪だと言わんばかりに。
希望を持つことすら滑稽だと笑うように。
あいつは、世界を力で締め上げようとしている。
そう思うだけで、胃の奥まで熱くなった。
拳を額に当てる。
目を閉じると、彼女の顔が浮かんだ。
翡翠の瞳。
静かに微笑む口元。
声を持たない代わりに、震えるほど優しい仕草で言葉を伝える手。
―― アラン。
その名前ひとつで、呼吸が乱れる。
彼女はあの屋敷にいる。
あの男の横に。
レギュラス・ブラック――
冷酷で、鋭く、そして恐ろしいまでに正確な男。
あいつの決定に、
彼女の想いはどれほど縛られてしまったのだろう。
思うだけで胸が裂けそうだった。
「……ジェームズ。」
「なんだ。」
「三日なんて、あいつに勝たせるつもりで言ってる期限だ。本気で殴り返さねぇと――」
銀色の瞳が怒りに燃えた。
「魔法界そのものが、あいつの形に書き換えられる。」
ジェームズはゆっくり頷いた。
「分かってる。だから戦う。
これは――もう、思想の問題じゃない。」
「じゃあ何だ?」
ジェームズの答えは重かった。
「――未来の問題だ。」
部屋に沈黙が落ちた。
嵐の前の、息を潜めた静寂。
会議室の扉を開けた瞬間、張りつめた緊張が肌に触れた。
壁に掲げられた騎士団の紋章。
円卓。
すでに数名が席に着き、資料を開いたまま硬い顔で沈黙していた。
今日の議題はひとつ。
──法務部からの通達、および境界線情勢への対応。
空気は重く、煤のように淀んでいた。
席につく前に、シリウスの姿を確認する。
負傷したとは思えないほど、背筋が伸び、目だけが鋭く光っていた。
ジェームズは席に座り、深く息を吸う。
「……始めよう。」
騎士団員たちは法務部からの通告にざわめき出す。
「言いたいことは分かる。
だが冷静になれ。」
視線をゆっくり巡らせ、言葉を続ける。
「私たちは魔法族とマグルの架け橋として立ってきた。
レギュラスブラックは壁を作った。
強固で、冷たい壁だ。」
何人かが目を伏せる。
「だが……その壁が支持され始めている。」
その現実は、胸に鉛を落とすようだった。
「我々が理念を掲げている間に、法務部は“結果”を提示した。
民衆は――残念ながら、理想よりも結果を見る。」
その瞬間、シリウスが低く言った。
「だったら結果を出すしかねぇ。」
ジェームズはわずかに微笑む。
「そうだ。三日だ。」
円卓の上に地図が広げられる。
境界線、デモ拠点、指揮塔、地形、魔力反応。
「暴力で押し返す気はない。
それでは法務部と同じになる。」
誰も反論しない。
「まず、話せる者を前線に。
煽動されて暴走している者ではなく、迷っている者を探す。」
指先で地図を叩く。
黒い点が集まる地点。
「そこに揺らぎがある。
動機が怒りだけではない者がいる。」
「同時に、偽情報を流す。
“法務部は完全鎮圧と拘束を検討している”と。」
ざわり、と空気が動く。
「追い詰められた者ほど、恐怖より“選択肢”に反応する。
我々が対話という未来を提示すれば、潮が変わる。」
ジェームズは立ち上がる。
「我々は“マグルを守るため”ではない。」
視線が鋭くなる。
「魔法族とマグル、両方の未来を守るために動く。
それが創設以来、我々が掲げてきた正義だ。」
沈黙。
そして――
「──動こう」
椅子が次々と立ち上がり、黒いローブが翻る。
その背に、ジェームズは確かに見た。
まだ負けていない火種が燃えている。
会議室に残ったのはジェームズとシリウスだけ。
「……本当にやるのか?」
シリウスは答えず、ローブを肩にかけた。
「ジェームズ。俺はな……」
銀の瞳が揺れた。
「なんとしてでも、あいつに負けたくない。」
誰を指しているのか、ジェームズは聞かなかった。
分かりすぎるほど分かっていたからだ。
その日――屋敷の空気は、冷たい冬の朝のようだった。
窓辺に落ちる光は柔らかいのに、部屋に満ちる気配は静電気のように刺々しく、息をするたび胸が細く締め付けられる。
レギュラスが書斎から戻ってきたのは、昼をとうに過ぎた頃だった。
ジャケットはきちんと着ているのに、肩の形がどこか乱れて見える。
手袋の指先には微かに魔力痕の煙の跡。
疲労と苛立ちが彼の全身に張り付いていて、歩くその靴音すら重く響いた。
アランはそっと杖を手に取り、テーブルに魔法文字を浮かべた。
「レギュラス……どうしました?」
言葉は静かに浮かんだ。
けれど、胸の内では氷の粒のような不安がざらざらと転がっていた。
レギュラスは一度深く息を吐いた。
そして、髪をかき上げる仕草のあと、抑え込んだ声音で答える。
「──騎士団がちょろちょろ動いているようです。
問題は山積みですよ。」
低く、乾いた声。
言葉ひとつひとつに、刺のような鋭さが潜んでいた。
アランは息を呑む。
怒っている、というより――追われている獣が牙を剥く前の沈黙に近かった。
レギュラスは椅子に座るなり、カフスを乱暴に外し、机に叩きつけるように置いた。
「……どいつもこいつも。理想だけ語るなら机の前で語っていればいいでしょうに。」
その声に宿る苛立ちは、鋭い刃物のようだった。
ほんの少し触れるだけで、切れてしまいそうな。
アランはそっと近づき、紅茶を置こうとした――けれど、レギュラスの視線が瞬間的に鋭く動き、手がぴたりと止まった。
怖い。
その感情が胸の奥で静かに震えた。
それでも――逃げたくなかった。
アラン はもう一度、杖で文字を描く。
「あなたは……疲れています。」
「少し、休んでください。」
それは“お願い”ではなく。
“祈り”に近かった。
レギュラスはその文字を見た。
眉が動いた気がした――けれどすぐに消える。
「休めません。今は、まだ。」
返された声は冷え切っていたが、わずかに震えていた。
まるで感情すら整理できず、手の中に溢れてしまっているような。
アランは動けないまま、ただ夫の疲れた横顔を見つめた。
魔法界が変わろうとしている――そう思った。
境界線、混乱、騎士団、そしてレギュラスの権力が加速していく現実。
すべてが、見えない巨大な波のように押し寄せてくる。
アランは胸に手を当てた。
その波に、レギュラスが飲み込まれていってしまうのではないか。
彼自身が誰かではなく、権力という名前の怪物に変わってしまうのではないか。
怖かった。
けれど――それでも、彼の背を支えたいと思ってしまう。
それが愛なのか、依存なのか。
分からない。
ただ胸が痛むほどに、彼を失いたくない。
アランはそっと、レギュラスの手に触れた。
レギュラスは目を伏せ――そして、気づかぬふりをした。
触れた指先に返ってくるものはない。
けれど、その手は振り払われなかった。
十分だった。
「……私はここにいます。」
杖の先で、机にその文字をそっと刻む。
レギュラスはその文字をじっと見つめ――
ほんの一瞬だけ、眉が揺れた。
それだけのことなのに、胸が温かくなった。
その日の朝刊は、珍しく一面から最後のページまで、騎士団と法務部の名前で埋め尽くされていた。
「マグル拘束は法務部の指示のもと行われている」
「騎士団はあくまで“後処理役”――内部関係者が語る衝撃の実態」
煽るような見出しが、それぞれの紙面で躍っている。
執務室の窓際に立ったレギュラスは、静かに新聞を折り畳んだ。
机上には、同じような内容の記事が載った新聞や雑誌が、無造作に積み重ねられている。紙とインクの匂いが、午前中の魔法灯の光のなかでわずかに立ちのぼっていた。
「……ずいぶん分かりやすいことをしますね、騎士団も」
ぼそりと呟いた声は、誰に聞かせるでもない。
その直後、ノックの音と共にバーテミウスが姿を現した。
「レギュラス、世論調査部門からです」
差し出された書類には、簡易集計された世論の反応が並んでいた。
レギュラスは椅子に戻り、視線だけで続きを促す。
「偽情報らしきものが出回ってから、確かに法務部への“非人道的だ”という声も少し増えています。ですが――」
バーテミウスは、口元に苦笑を浮かべた。
「それ以上に、“デモを鎮められない騎士団に何の意味があるのか”という声が急増中です。特に関所近辺の住民からの不満が顕著です」
レギュラスは、喉の奥で短く笑った。
それは決して愉快さからではなく、あまりの拙さに呆れたがゆえの、乾いた笑いだった。
「自分たちの不手際を覆い隠すために、法務部を悪役に仕立て上げようとして――その結果、“鎮圧できない騎士団”という印象だけを強めているわけですか」
指先で机を軽く叩く。堅い木の感触が、思考を整えるように伝わってくる。
「愚かですね。嘘をつくにしても、最低限“結果”を伴わせなければならない。
デモをきっちり収束させてからなら、まだ言い訳の余地もあったでしょうに」
バーテミウスは肩をすくめた。
「“拘束はすべて法務部が主導している”という話が、関所周辺のマグルコミュニティでも広まっているようですが……」
「ええ。予想通りでしょう」
レギュラスはすぐさま遮った。
「しかし、その情報を流したのが騎士団だと知られた瞬間、その責任は彼ら自身に跳ね返る。
……“マグルも守るはずの騎士団が、法務部の陰に隠れてデモを処理させようとしている”とね」
書類の一枚を指先でずらす。
グラフの線は、はっきりと騎士団への不信感の上昇を示していた。
「非人道的だ、と僕を批判する声があることはわかっています」
レギュラスは淡々と続けた。
「ですが同時に、“とにかく日常を取り戻したい”と願う市民の声も確かに存在する。
その人々にとって重要なのは、理念ではなく“静かな夜が戻るかどうか”だけです」
窓の外では、魔法省の塔を吹き抜ける風が旗を揺らしていた。
旗に刻まれた紋章は、いまや魔法界の秩序そのものを意味する。
「関所周辺で爆音が響き、子供たちが泣き、店が閉まり、仕事に出られない――そのたびに、騎士団は“対話を続ける”と言って何も変えない。
そんな連中が、法務部のやり方を“非人道的だ”と責めたところで、心の中ではこう思われるのです――
『どちらがいいかはともかく、とりあえず騒動を終わらせてくれる方に任せたい』と」
バーテミウスは頷き、淡々と補足する。
「現場の報告でも、“法務部に管理権を委ねたほうが早いのではないか”という声が、かなり上がってきています。特に、関所周辺の商人たちから」
「当然です」
レギュラスは椅子の背にもたれ、長い息を吐いた。
疲労ではない。むしろ、静かな確信のため息だった。
「偽情報を流して我々の信頼を落とそうとしたのでしょうが――」
唇に、かすかな皮肉めいた笑みが浮かぶ。
「結果として、“デモを止められない騎士団”という現実だけが、世間の目に焼きついただけです。
……自分で自分の首を絞めるとは、なんとも滑稽ですね」
沈黙が落ちる。
書類をめくる音だけが、執務室にしずかに広がった。
机の端には、関所管理権限移譲に関する正式な文書が置かれている。
魔法省の印章とともに記された期日まで、もうわずかだった。
「管理権限の移行は予定通りです」
バーテミウスが確認するように口にする。
「はい」
レギュラスは短く答えた。
「騎士団には“立場を守るための情報戦”に忙しくしていてもらいましょう。その間に、僕たちは静かに、必要な準備だけ整えておけばいい」
視線を窓の外に向ける。
魔法省の上空は、いつもと変わらぬ曇り空だったが、その下で渦巻くものは日に日に濃度を増している。
――やがて、関所の全てが法務部の掌中に収まる。
そのとき、マグルの流れも、魔法族の出入りも、すべて自分の指先一つで調整が可能になる。
焦る必要はなかった。
怒りを、恐れを、苛立ちを、すべて何重もの冷たい膜で包み込む。
レギュラスの中にあるのは、ただ一つ――結果だけを見据える視線だった。
「関所の管理権限がこちらに渡るまで、あと少しです」
バーテミウスが呟く。
「ええ」
レギュラスは静かに頷いた。
「騎士団が無様にもがくさまを見届けたら――あとは、こちらが“正しく”片をつけるだけです」
机上に置かれた砂時計の砂が、さらさらと落ちていく。
その音さえも、彼にとっては心地よいカウントダウンに思えた。
レギュラスは、ただ静かに、その時を待った。
――自分の出番が来る瞬間を。
その夜、ブラック家の屋敷は、まるで外界のざわめきとは無縁であるかのように静まり返っていた。
廊下に灯された魔法灯は、柔らかな金色の光を落としているのに、その温度がレギュラスにはどこまでも遠く感じられた。
書斎の重たい扉を閉めると、世界はさらに狭くなる。
壁一面を埋める本棚。整然と並んだ分厚い法律書、判例集、内密の記録文書。
暖炉の火はすでに落とされ、薄暗い室内で唯一動いているのは、机の上でゆらゆらと揺れる魔法灯の光だけだった。
レギュラスは椅子にもたれ、額を押さえる。
脳裏には、解決しないまま積もり続ける案件が、次々と浮かんでは消えていった。
関所の騒動。
マグルのデモ。
騎士団の動き。
治験の痕跡。
魔力無効化ポーションの一件で露わになった魔法族の闇。
そして――何より、シリウスとアランの接触。
追い詰められて病室で出会ったあの日からずっと、胸の片隅で燻り続けている疑念。
病室に行ったと素直に告げたアランの文字の軌跡。
「ごめんなさい」と頭を下げる姿。
追及しようと思えば、いくらでもできた。
どんな言葉を交わし、どんな顔をして、どこまで近づいたのか。
問いただす言葉はいくらでも浮かぶのに、それを口にした瞬間、自分が見たくない答えまで掘り起こしてしまう気がして、喉でせき止めた。
――問い詰めるのは、やめよう。
そう決めて飲み込んだはずなのに。
納得など、できるはずもなかった。
胸の奥で、苛立ちがマグマのように湧き上がる。
理性という薄い岩盤でなんとか蓋をしているが、いつ割れてもおかしくないくらいの圧力で、内側から自分を押し広げてくる。
机に置かれたインク壺の縁を無意味になぞりながら、レギュラスはゆっくりと息を吐いた。
視界の端で、時計の振り子が規則正しく揺れている。
――もう、とっくに寝る時間だ。
そこへ、控えめなノックの音がした。
振り返ると、少しだけ扉が開き、ランプの光に縁取られたの姿が覗いていた。
「レギュラス」
彼女は静かに入ってくると、手にした杖を軽く振った。
宙に薄く淡い光の文字が浮かび上がる。
『レギュラス、もう寝ませんか?』
翡翠の瞳が、不安と気遣いを溶かしたような色で、こちらを見つめていた。
その表情が、「大丈夫ですか」と問いかけているのはすぐにわかる。
――いつもなら。
いつもなら、その誘いに乗ってしまえばいいだけの話だった。
寝室に戻り、いつものように並んで横になり、彼女の体温を感じて、静かに目を閉じればいい。
それだけで、少しは心が落ち着くと知っている。
だが、今は無理だった。
同じ顔でシリウスを見舞ったのか――
同じように、夜更けの病室で「もう休みましょう」と微笑んだのか――
そんな想像ばかりが、容赦なく胸を刺してくる。
「……」
喉が強く締め付けられる。
言葉を選ばないといけないと、頭ではわかっているのに。
視界の端で、の表情が、心配そうに揺れた。
『お疲れでしょう? 少し休んでください』
再び浮かぶ文字は、柔らかく、優しく、それでいてあまりにも無防備だった。
自分の心の内側で渦巻く、醜い怒りや疑念の存在など、ひと欠片も知らないというように。
――知らないのではない。ただ、見ないようにしているのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥で、抑え込んでいた何かが音を立てた。
「……一人にしてもらえます?」
自分の口からこぼれた声に、レギュラスは一瞬、遅れて驚いた。
氷の刃を押しつけたような、あまりにも冷たい響きだったからだ。
アランの瞳が、はっと見開かれる。
杖先が小さく震え、先ほどまで浮かんでいた文字が、淡い光の粒になって空中に散っていく。
――しまった。
そう思った時にはもう遅かった。
言葉は、決して戻せない。
アランは、ほんのわずか唇を噛みしめるような表情を浮かべた。
それは「傷ついた」と声にして訴える代わりの、ささやかな痛みの合図だった。
彼女は何も書かない。
ただ、杖をそっと胸の前に下ろすと、小さく礼をして踵を返した。
黒髪が揺れ、淡いガウンの裾が、床を撫でるように揺れていく。
背中越しにも伝わる、ひそやかな落胆。
「邪魔をしてしまいましたね」と、そう言っているような静かな退き際。
――違う。そうじゃない。
レギュラスは椅子から半ば立ち上がりかけて、そこで動きを止めた。
呼び止めるべきだと、頭では理解している。
今この場で言葉を修正しなければ、さらに距離は開く一方だとわかっている。
それでも喉から先に、言葉が出てこない。
扉が静かに閉まる音がした。
それは、屋敷の中に開いてしまった、見えない“隙間”の輪郭をなぞるように耳に残る。
書斎に、ひとりきりになる。
先ほどまでそこにあったアランの気配が、すっと消えてしまったことで、逆にその不在がやけに鮮明だった。
レギュラスは両手で顔を覆う。
――せめて、この女だけは。
どれほど世論が荒れようと、騎士団が牙を剥こうと、マグルと魔法族の対立が深まろうと。
地下牢の石畳から自分の元へと歩いてきた、この女だけは。
何があろうと、自分の隣に立ち続けるべきだ。
どれほど残酷な決定でも、最後には自分の判断を信じ、従ってくれる存在であってほしい。
――それなのに。
自分の苛立ちの矛先を、最も守りたかったはずの彼女に向けてしまっている。
押し込めきれなかった疑念や焦燥が、言葉の端々に棘を生えさせ、彼女の柔らかな心を傷つけていく。
マグマのような怒りは、いまや外にではなく、内側に向かっていた。
自分自身の愚かさを焼き尽くそうとするように、胸の奥でじりじりと燃え続けている。
机の上には、未処理の書類が積み上がっている。
関所の報告書。騎士団からの通達。警務部との連絡。
どれも今すぐ目を通すべきものばかりだ。
だが、しばらくのあいだ、レギュラスは何も掴めなかった。
ただ、空いた椅子と閉ざされた扉を見つめながら、静かに奥歯を噛みしめる。
――せめて、この女だけは。
心の中で繰り返したその願いが、
現実の行動と、あまりにも乖離していることに気づきながらも。
彼はまだ、うまく軌道を修正する術を持てずにいた。
