3章
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病室の扉をノックする前から、奇妙な空気のざわつきを感じていた。
白い廊下に響く靴音が近づき、取っ手を静かに押し下げる。
その瞬間――呼吸が止まった。
そこには、あり得ない存在が立っていた。
アラン・ブラック。
深い翡翠の瞳、淡く透けるような肌、華奢な肩。
レギュラス・ブラックという男の隣に立ち続けてきた、
魔法省が最も庇うべき象徴の妻。
そのアランが――ここにいた。
しかも、シリウスのベッドのそばに。
驚愕に固まっているリリーに気づき、
アランが振り返る。
ただ顔を向けただけなのに、空気が震えた気がした。
彼女が纏う気配は、光でも闇でもなく――
傷ついた透明な硝子のようだった。
「……どうやって、監視を掻い潜ったの?」
問いながらも、自分の声が硬くなったのを自覚した。
アランは迷うようにまばたきをし、
杖を静かに持ち上げる。
空間に細い光の文字が生まれる。
《ごめんなさい。弱い錯乱呪文を……》
淡く浮かぶ文字が消えるころ、
リリーは思わず息を呑んだ。
声を持たない。
けれど、言葉を持っている。
その姿は儚いはずなのに――
なぜか妙に、誇り高かった。
「よぉ、リリー。頼むよ多めに見てやってくれ」
シリウスが笑った。
頬にまだ痛みの痕を残しながら、それでもどこか嬉しそうに。
その笑顔を見た瞬間――
リリーは理解した。
この男は今、救われている。
彼女によって。
どれほど自分たちが側にいても向けられなかった微笑みが、
アランにだけ向いている。
胸に小さく刺さるような痛み。
そして苦い諦めが滲む。
「……感心はできないわ」
そう言いながら、リリーは歩み寄った。
でも――続けた言葉は、少し柔らかくなる。
「シリウスを見舞ってくれて、ありがとう」
アランは深く礼をする。
美しい所作だった。
その礼儀と静けさは、まるで古い肖像画から抜け出した幽霊のようだ。
リリーの視線はアランの横顔に吸い寄せられた。
その翡翠は――自分とよく似ていた。
けれど、色の深さが全く違う。
自分の瞳が森の緑ならば、
アランのそれは沈んだ湖に夜空を写したような色。
美しさに息を呑む。
そして同時に、理解してしまう。
――ジェームズが彼女を嫌う理由。
――シリウスの目が彼女を追ってしまう理由。
――レギュラスが手放せない理由。
ここに立つだけで分かる。
彼女は 弱く見えるのに、世界を揺らす存在だ。
だからこそ、リリーの胸に灯る思いは、
嫉妬でも憎悪でもなく――
哀しみと、願いだった。
どうか……これ以上、シリウスを壊さないで。
言葉にはしなかった。
アランはきっとここに悪意で来てはいない。
優しさで来たのだ。
でも、優しさほど人を傷付けるものはない。
沈黙が落ちた病室で、
リリーはそっとシリウスの枕元に薬瓶を置く。
「……長居は危険よ。すぐに戻りなさい」
アランはゆっくり頷いた。
そして、もう一度だけ――シリウスを見つめた。
その瞳に宿った光があまりにも柔らかく、
リリーは思わず目を背けた。
寝室は静かだった。
暖炉の炎がぱちりと弾ける音だけが、閉ざされた夜の空気を揺らしていた。
レギュラスは扉を閉めると、背をもたれかけずにまっすぐに立った。
いつものように疲労を滲ませた仕草もなく、ただそこに立つ――
問いを携えた支配者の姿だった。
「――どちらに行かれていました?」
声は驚くほど静かで平坦だった。
怒鳴り声よりもずっと残酷な、整いきった音。
怒りを閉じ込め、蓋をし、何層もの冷静という膜で覆い、それでもなお滲む温度――疑念、恐れ、所有欲。
アランの指先が震える。
杖を握ったまま、一度深呼吸し、魔法の光で言葉を綴った。
〈少し外出を〉
レギュラスの瞬きがひどくゆっくりと見えた。
「……どちらへ。」
柔らかい声なのに、逃げ場がなかった。
返答を許さないような、次の言葉が来ると分かっているような問い。
アランは喉の奥が痛む気がした。
書く文字がにじむほど、胸が苦しい。
〈病院です〉
その瞬間、レギュラスの瞳が鋭く光った。
「――騎士団の病院ですか。」
問いではない。
確認。トドメ。
アランは静かに頷いた。
レギュラスが視線を落とす。
まるで言葉より先に心を伏せるように。
アランは耐えられず頭を下げた。
謝罪が言葉にできない代わりに、肩が小さく震えた。
レギュラスはゆっくりと歩き、
いつもの習慣のようにジャケットを脱いだ。
椅子に丁寧にかける。
次に、手首のカフスを外す。
金属が軽く触れ合い、小さな音を立てる。
最後にネクタイを緩め、外す。
その全てが丁寧で無駄がなかった。
怒りで乱れるどころか、逆に整っていく所作。
それがアランには余計に怖かった。
沈黙が重く積もる。
アランは顔を上げられないまま、呼吸だけが浅くなる。
「アラン。」
呼ばれた名は、優しさでも、怒りでもなかった。
決断の前触れ。
顔を上げなければならなかった。
逃げる選択肢は存在しない。
アランがそっと視線を上げると、
レギュラスはすぐ目の前に立っていた。
その黒い瞳は、驚くほど静かで――
言葉が落とされる前から、心を射抜いていた。
「――はっきり言います。」
一拍。
息苦しいほどの間。
「シリウス・ブラックとの関係は、今後一切認めません。いつ、どこで、どの状況下であってもです。」
感情の起伏がない声。
だが奥底には、かすかな震え――恐れと執着。
アランは唇を噛んだ。
頷く。それしかできない。
頷くということは、
従うことであり、服従であり――
夫としての彼の領域を肯定すること。
アランの髪が肩に落ち、その表情が見えたとき、
レギュラスの喉がわずかに動いた。
彼は怒っているのではない。
怒れるほどの余裕もない。
奪われるかもしれない恐怖が、彼をそこへ追い込んでいる。
「……あなたを疑う気はありません。」
それは本当だった。
嘘ではなかった。
けれど――
「ただ、その男があなたに触れる未来だけは、この世界がどう変わろうとも許せません。」
それだけ告げると、レギュラスは視線を逸らした。
踏み込みすぎれば、声が壊れる気がした。
アランは小さく――それでも確かに、うなずいた。
そして夜は、また静かに閉じた。
胸の内だけを鋭く燃やしたまま。
休暇の屋敷には、静けさが満ちていた。
冬の光が大理石の床に広がり、薄く磨かれた家具に淡い反射を落としている。
ここはステラにとって、呼吸すら温度のある場所――なのに、今日はその空気がどこかざらついていた。
玄関のホールに立った瞬間、執事が口を開く。
「フロスト家のご子息が来訪されています」
眉ひとつ動かさず問い返す。
「……なぜ。」
「ステラお嬢様に、ご面会を希望とのことで」
そんな権利、与えた覚えはない。
だが、返事をする間もなく、彼は姿を現した――
ロイ・フロスト。
「やあ、ステラ嬢。休暇でしょう? お話できるかと思いまして」
相変わらずの柔らかな笑み。
こちらの心の壁に気づいていないのか、崩せると思っているのか。
どちらにせよ鬱陶しい。
「……何ですの。」
氷で磨いたような声が出た。
普通ならここで怯む。
距離を置き、礼儀を整え、次の瞬間には退くものだ。
だがロイは――まるで傷を知らない人間のように、微笑んだままだった。
「前回はあまり話せませんでしたから。あなたと話したくて。」
その言葉に、ステラの胸の奥がぎり、と固く痛んだ。
――なぜそこまで踏み込める?
なぜ、拒絶すら好意だと錯覚できる?
理解不能だった。
ふと視界の端、
廊下の奥からアランが姿を見せた。
淡いドレスに身を包み、静かな笑顔。
声を持たない代わりに、表情そのものが言葉だった。
アランはロイに向かって杖を振り、挨拶の文字を浮かべる。
〈遠いところ、ようこそ。〉
ロイはそれに優しく礼を返す。
「光栄です、夫人。お招きいただき。」
――その瞬間、胸の奥に、ひやりと冷たいものが降ってくる。
ステラは思った。
この男は危ない。
母と同じ種類だ。
境界線を知らない優しさ。
自分が踏み込んでいることにすら無自覚な接近。
それを「善意」や「平等」で塗り固める危うさ。
そしてそういう種類こそ――
人の心の中に無断で入り込み、奪っていく。
アランを思い出す。
血を分けた娘より、
声も血も形も違うマグルの少女に与えた優しさ。
親への期待を焼かれた記憶。
愛されるべき立場でありながら、
気づけば愛は「均等に割られ」、
意味も価値も失われていった実感。
そして今――
ロイ・フロストが、同じ温度で近づいてくる。
笑顔で、配慮で、開かれた手のひらで。
まるで平等という名の縄で縛るように。
アランが「お茶を」と視線で示した。
ロイは嬉しそうに頷いた。
「ぜひ。夫人のおもてなしなら、きっと格別でしょう。」
ステラは思わず笑った――
冷ややかに。皮肉の色で。
「茶番ですわ。」
ロイが振り返る。
驚きよりも、興味が浮かんだ顔。
「そう思いますか?」
「ええ。あなたのような人間が一番信用なりません。」
「理由を伺っても?」
ステラはゆっくりと彼を見据えた。
その瞳は翡翠。美しく、だが深い冷えを宿す翡翠。
「平等を語る人間ほど、こちらの境界線を踏み荒らす。
あなたの優しさは侵略ですわ。」
沈黙が落ちた。
ロイは、笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ――ほんの少しだけ、目の奥が愉しげに光った。
「それでも……あなたと話す価値はあると思っています。」
ステラは吐き捨てるように返す。
「――滑稽ですわ。」
アランは、二人を不安そうに見つめていた。
しかしステラの表情は動かない。
心の奥は、もう凍っている。
母の優しさにも、
ロイの微笑にも、
侵入される気はない。
もし彼がまた踏み込んでくるなら――
その時は微笑む代わりに、牙を剥くだけだ。
ステラ・ブラック。
初めて会った日もそうだったが――
今日、屋敷の玄関で向けられたあの冷たい瞳は、いっそう強く印象に刻まれた。
拒絶されることは珍しくない。
だが、拒絶の質が違った。
彼女の拒否は幼い反発でも、意地でも、羞恥でもない。
もっと深いところにある――
信念と孤独で研ぎ澄まされた拒絶だった。
廊下の奥へと消えていくその背中を見送りながら、ロイは息をひそめたように笑った。
「……面白い。」
気づけば胸の奥で、微かな熱が広がっていた。
ステラの拒絶は、決して感情の延長ではない。
あれは理性だった。
そして――傷でもあった。
誰かを寄せ付けないように張り巡らせた無数の棘。
綺麗に研ぎ上げられた氷の壁。
ロイは思う。
――あんな壁、誰が作ったのか。
あれほど美しい少女の心に、なぜあれほどの防衛線が必要になった。
父――レギュラス・ブラックのような完璧な男がいて。
母―― アラン・ブラックのような世界に慈愛を注ぐ存在がいて。
その愛の中心に生まれた娘が、どうして孤独を選ぶ?
その答えを知りたい。
その謎をほどいた者だけが――あの心に触れられる。
そんな確信が湧いた。
彼女を一目見た瞬間――ロイは理解した。
これは美しい少女ではない。
崇高な存在だ。
白い肌。
翡翠の瞳。
繊細で、だが芯を感じさせる体つき。
セシール家の血と、ブラック家の血。
その交わりが現実になった証が、彼女だった。
美貌など魔法界には珍しくはない。
だがステラ・ブラックは違う。
彼女の美は、見る者の価値観を試す。
敬意を抱く者と、欲望に染まる者を分ける。
そしてロイは――どちらでもなかった。
ただ、震えるほど惹かれた。
拒絶された瞬間――
普通の男なら引けばいい。
だがロイの胸の奥に灯った火は、静かに、しかし確実に燃え広がった。
自分を見ない少女ほど、見て欲しい。
届かない心ほど、触れてみたい。
それは所有の欲でも、征服でもない。
もっと純粋で、もっと危険な衝動。
――もし、あの少女が自分の隣に立つ日が来るなら。
その未来を思うだけで、背筋が震えた。
客間へと案内される途中、ロイは独り言のように呟いた。
「……逃げる必要はない。
追わなくていい。
きっと――彼女の方から振り向く日が来る。」
思い上がりではなく、賭けでもなく。
そうなる未来が――ありありと見えた。
理由は一つ。
あの少女は孤独だ。
愛を拒むのではなく、
愛に失望している。
ならば――示してやればいい。
逃げなくていい愛を。
奪われない存在を。
並び立つ価値を。
ロイの唇に、深く静かな笑みが浮かぶ。
「ステラ・ブラック。
あなたが拒んでも構わない。
ただ――俺は引かない。」
ロイ・フロストが屋敷を訪ねてきてから三日後。
ステラは一人で庭園の奥にある温室へ向かっていた。
理由は単純。
人が来ない場所がここだけだったから。
温室の中は、冬でも暖かく、魔法で育てられた草花が静かに息づいている。
翡翠色の葉、淡く光を反射する花弁、微かな湿度。
ここだけ空気が柔らかく、喧騒から切り離されている。
足音なく歩き、ステラは白い椅子に腰掛けた。
読もうとしていた魔法薬の本を膝に置き、息を整える。
――すると。
「また偶然だ。」
あの声が背後から落ちてきた。
ステラは振り返りたくなかった。
けれど、仕方なく顎だけ動かし視線を向ける。
そこにはロイ・フロスト。
笑っている。懲りない男。
「偶然ではないでしょう。あなた、私の行動を追っていますわ。」
「ええ。否定はしません。」
ロイは涼しい顔で言った。
本当に悪びれない。
「あなたに話したいことがありました。」
「私にはありません。」
「知ってます。」
ロイは笑う。
言葉のどこにも刺々しさがない。
腹立たしいほど柔らかい。
二人の間に沈黙が落ちた。
本来なら、ステラは立ち上がり、この男の前から去っていただろう。
けれど……今日は疲れていた。
騎士団のニュース。
シリウスの負傷。
父と母の不穏な空気。
心が張り詰めすぎて、切れてしまいそうだった。
逃げる気力すら残っていなかった。
するとロイが言う。
「この花、知ってますか?」
彼が指したのは青白く光を宿す小さな花――月光草(ルミナ・ペタル)。
「この花は、触れる者の感情を映す魔法植物です。
怒りの者には赤く。
悲しむ者には青く。
愛を持つ者には金色に。」
「…雑誌の引用ですわね。」
「よくご存知で。」
ロイは軽く笑う。
「ステラ嬢。」
ロイは花に指先を添えながら、ゆっくり問いかけた。
「もしあなたが触れたら……何色になると思います?」
挑発――ではない。
興味。純粋な意味での。
ステラは答えなかった。
ただ、花に触れた。
青。
深い、夜のような青。
ロイの目が僅かに揺れた。
「……悲しい色だ。」
「違いますわ。」
ステラは本を閉じ、静かに答えた。
「これは落ち着きの色。
怒りも愛も必要としない時に出る色です。」
ロイは息を小さく笑いへ吐き出した。
「あなたらしい解釈ですね。」
「あなたには理解できません。」
「——ですが、知りたい。」
ステラのまつ毛が僅かに震える。
言葉ではなく、その真っ直ぐな視線が胸に刺さった。
ロイは椅子を引き、彼女から正しい距離を保って座った。
いつものように迫らない。
拒否も強制もしない。
ただそこにいた。
その沈黙は、これまでの二人の沈黙とは違った。
重さではなく、余白があった。
ステラは気づきたくなかったが――気づいてしまった。
今日は、ロイの存在が鬱陶しくなかった。
むしろ。
蔓延る混乱と不安の中で、
この男だけが妙に静かに、穏やかにそこにいた。
ほんの少しだけ。
ほんのひと欠片だけ。
距離が溶けた。
立ち上がる前に、ロイがぽつりと呟いた。
「……あなたが青のままでいられる世界であればいい。」
ステラは返事をしなかった。
けれど胸の奥が、わずかに動いた。
気づかれない程度に。
自分でも認めたくないほどに。
ブラック家の客間に身を落ち着けて三日。
その豪奢さにも、魔法仕掛けの調度品にも驚きはもうなかった。
目が慣れてしまうほど、すべてが完璧で整えられていた。
――だが。
完璧なものほど、隠された綻びは際立つ。
ロイ・フロストは日に日に募るある種のざらついた違和感に、心を捉われていた。
朝、廊下を歩けば忙しなく動く影。
マグル。
ブラック家がマグルを屋敷しもべのように雇う噂は少し前に貴族界で流行したが、それは飾り。
まるで珍しい小鳥を飼うような“見せびらかしの遊び”であるはずだった。
だが、ここは違う。
アラン・ブラックの傍に控えるその女――メイラと呼ばれていた――は、主との距離感が異様だった。
彼女は奉仕し、支える。
だがその仕草には卑屈さがなく、むしろ家族に寄り添う娘のような遠慮のなさがあった。
そして何より奇妙なのは――
その様子をレギュラス・ブラックが咎めないという事実だ。
もしこの男が噂通りの冷徹な純血至上主義者であるなら、あの女は一日たりとも屋敷に眠れなかったはずだ。
口にした水ですら制されただろう。
だが――現実はその正反対。
沈黙。容認。否、放置。
その無言は肯定よりタチが悪く、何かを隠しているようだった。
夕食の時間。
長いテーブルに家族と客人が座る。
蝋燭の火が揺らぎ、銀製のカトラリーが光を返す。
一見、理想そのものの貴族一家――。
――の、はずだった。
レギュラス・ブラックは、ステラを見ない。
本当に、見ないのだ。
娘が席につこうが、パンに手を伸ばそうが、ワインを注ごうが、
視線はかすりもしない。
冷たさではない。
無関心でもない。
あれは――避けている目だ。
罪悪感のある者が、過去の傷や後ろ暗さを持つ相手を見れない時の眼。
ロイはその視線の動きを追いながら確信した。
この父と娘の間には、表に出ていない、深く重い何かがある。
アラン・ブラック。
声なき妻。
誰より静かで、誰より存在感があった。
杖で文字を綴り、周囲はその筆跡で気持ちを読み取る。
不可解な沈黙。
言葉の欠落。
その違和感は、慣れれば美しい儀式にすら見える。
だがロイには、不自然に思えてならなかった。
この屋敷のルールは、彼女の沈黙を前提に形作られている。
まるで――
アランの声が世界から消えた瞬間に、この家族の時間も止まったかのように。
そして最後に、息子。
アルタイル・ブラック。
彼は――無邪気すぎた。
純粋で、よく笑い、魔法で遊び、使用人と気軽に話す。
まるで、世界の残酷さを知らない子供。
――いや。
世界の残酷さから徹底的に隔離された子供。
その幼さは可愛らしさではなく、保護されすぎた温室の脆さに見えた。
父は世界を支配し、娘は鋭く尖り、母は沈黙し、マグルが傍にいる家で――
息子だけが奇妙なほどただの子供だった。
ロイは思った。
この家族の形は、美しい仮面だ。
触れなければ壊れないが、触れた瞬間、音もなく崩れ去る。
ロイ・フロストは薄暗い客間で、暖炉の前に立ちながら思考をまとめた。
この家は完璧ではない。
むしろ綻びを必死に縫い合わせている。
そしてその裂け目は、ステラに繋がっている――それだけは確信した。
彼女の瞳に宿る冷たい拒絶。
誰にも心を預けない孤独。
幼いはずなのに大人よりも理解してしまっている世界。
ロイの胸が静かに、しかし確かに熱を帯びる。
――知りたい。
――暴きたい。
――触れたい。
そこに踏み込むことが危険だと理解してもなお。
彼は目を逸らさなかった。
ロイ・フロストが屋敷に滞在して四日目。
その存在は、思った以上に厄介だった。
彼は慇懃無礼でもなく、傲慢でもない。
礼儀正しく、柔和で、会話の間の取り方にも癖がない。
だが――
目が、嫌だった。
ロイは微笑みながら、真正面からこちらを見てくる。
その視線は、上辺ではなく――内部を覗き込もうとしてくる種類のもの。
自分が何者なのか。
何を恐れ、何を拒み、どこで折れ、どこで強張るのか。
まるで観察対象のようにじっと、静かに、しかし確実に理解しようとしてくる。
紅茶の香りが漂う客間。
昼下がりの光がレースカーテンを通して床に淡い模様を落としていた。
ロイはいつもの――人を油断させる笑顔で告げてきた。
「せっかくの休暇でしょう。外の空気を吸えば気分も変わります」
ステラは視線すら返さず、淡々と言った。
「外の空気を吸わなければ崩れてしまうような弱い精神ではありませんわ」
「ええ、そうでしょうね」
即答。
しかも、揶揄でも反論でもない声色。
ただ――事実を肯定する音。
ステラは思わずロイを見る。
彼はまだ笑っていた。
その笑顔は薄く、しかし確かに――こちらを見透かしていた。
その瞬間、胸の奥に火花のような苛立ちが弾ける。
どうして。
どうして、何も言わずに理解したふうな目をするのか。
母は甘さで包み込み、
父は沈黙で距離を置き、
弟は無邪気さで世界をぼかし、
世間は血筋だけを見て跪く。
誰も、ステラそのものを見ようとしなかった。
理解したような顔をする者ほど浅かった。
だから慣れていた。
だから拒絶し続けた。
なのに――
この男は違う。
理解しようとしているのではない。
既に理解し始めている。
「……ステラ嬢?」
ロイの低く穏やかな声が、微かに距離を詰めた。
ステラは肩が僅かに強張るのを、自分でも抑えられなかった。
怖い。
そう感じた。
理解されるのがではない。
理解されてしまう可能性が。
触れられたことのない場所に手を伸ばされるような感覚。
薄い氷の上に、誰かの足が乗った音がした。
「あなた……私をどうしたいの?」
小さく投げつけるように言った声は、自分でも驚くほど震えていた。
ロイは少しだけ瞬きし、そして――微笑みをわずかに緩めた。
「知りたいだけですよ。あなたがどうやって、ここまで美しく強くなったのか」
甘い言葉だった。
だがその奥にあるものは、優しさではない。
興味。
欲。
執着の芽。
それがはっきりと――皮膚の下に触れた。
本来ならすぐに背を向け、二度と相手にしなかっただろう。
いつものように、扉を閉ざし、心を凍らせ、それで終わりだった。
けれど。
――この男は、初めてだった。
この家族の歪みを、察した男。
父の視線の意味を。
母の沈黙の形を。
アルタイルの幼さの理由を。
そして自分の孤独を――眉一つ動かさず理解してくる。
だから。
完全に拒絶することが――できなかった。
数日が経った。
けれど、胸に沈殿しているものは薄まるどころか、形を持ち始めていた。
――苛立ち。疑念。焦燥。嫉妬。
名をつければ、それはどれも醜く、幼稚で、支配欲めいた色をしていた。
だが、それでも否定できなかった。理性で押し潰せるものではなかった。
書類の山に目を通していても、万年筆を持つ手はふいに止まり、脳裏に同じ問いが浮かぶ。
なぜあの日、アランはシリウスのもとへ行ったのか。
ただの心配か。
ただの善意か。
ただの昔からの縁か。
――それだけなのか。
紙をめくる音が静かな執務室に響く。
窓の外では冬の空が重たく陰り、灰色の空気が屋敷全体を包んでいた。
レギュラスはふっと目線を落とした。
そこには淡いインクで走らせられた報告書。
けれど文字列は、もう頭になにも入ってこなかった。
目の奥に、あの日のアランの顔が浮かぶ。
――あの不可解な沈黙。
――視線の揺らぎ。
――触れられると逃げるように震えた肩。
あれはただの罪悪感か。
それとも別の感情か。
思えばアランは昔から嘘が下手だった。
声を持たない分、表情と仕草と沈黙が、何より雄弁だった。
だからこそ、余計に分かる。
あの日の沈黙は、なにか隠していた。
シリウス・ブラックという存在は、レギュラスにとって単なる兄ではない。
反逆者。
騎士団。
思想の対立。
そして―― アランの“可能性”だった男。
シリウスがアランをどう見ているか、レギュラスはとうに理解している。
あの男はアランに優しさを向ける。
弱さごと抱きしめるように。
過去の痛みを許容し、自由を与えようとする。
自分とは違うやり方で。
その事実が、胸を灼いた。
レギュラスは立ち上がり、ゆっくり歩きながら深呼吸する。
大理石の床に靴音が響く。
手袋越しの拳が自然と強く握られた。
アランは、あの日何を思ったのか?
シリウスに何を見たのか?
何を返そうとしたのか?
慰めか。
共感か。
哀れみか。
――それとも。
レギュラスの胸の奥が、ずきりと軋んだ。
揺れたのか。
それが怖かった。
アランは自分の所有物でもない。
縛りつけたくて選んだわけでもない。
「……くだらない。」
誰にも聞かれない声で呟く。
嫉妬だと自覚した瞬間、惨めさと同時に――確かな痛みが走る。
深く、鋭く、自分自身に突き刺さるような痛み。
レギュラスは眉間を押さえた。
法務部を動かし、魔法省を動かし、国を動かすことができる自分が。
ひとりの女の胸の内一つ理解できず苛立っている。
その現実が、何より苛立つ。
アランは昔、地下で壊れかけた少女だった。
触れることすら躊躇うほど繊細で、静かで、怯えていた。
それなのに、今は――
自分に触れ、微笑み、家族を守り、意志を持ち始めた。
変わったのだ。
その変化は誇らしく、救いであり――
同時に、恐怖だった。
自分に背を向ける可能性が、ようやく生まれてしまったから。
レギュラスは窓辺に立ち、冬の空を見上げる。
黒く冷えた雲の向こうで星は見えない。
その曇天は今の自分の心のようだった。
シリウスの影が、消えない。
アランの沈黙が、刺さる。
問いは増えるばかりで、どれも答えがない。
ただひとつ確かなのは――
アランを失う選択肢はない。
それだけだった。
屋敷の空気は、言葉よりも静寂の方が多く満ちていた。
廊下を歩く靴音、銀器が皿に触れるわずかな音、書類をめくる紙の擦れる音――
それらが、レギュラスの沈黙をより濃く、冷たく映し出していた。
レギュラスは問いただすことをしなくなった。
あの日のように、責める言葉も、鋭い沈黙も向けてこない。
代わりに――淡々と、一定の距離を置き続けていた。
称してしまえば、それは拒絶ではなく、制御された怒りだった。
爆発するものではなく、ひたすら深く沈み、触れた瞬間に崩れてしまいそうな危うい静けさ。
その沈黙が一番怖かった。
朝食の席では、いつものようにパンと紅茶が並ぶ。
けれど、会話はない。
声を持たない自分には、沈黙はいつも普通の一部だったはずなのに――
今は違った。
カップを置く音が思いのほか大きく響き、そのたびに胸が跳ねる。
レギュラスは淡々と新聞に目を走らせているが、
その肩、指先、わずかに強張った呼吸が語っていた。
――まだ怒っている。
その事実が胸を締めつけた。
寄り添おうと思えば、拒まれる気がした。
触れれば、振り払われるかもしれない。
問いを発すれば、彼の沈黙に傷つくかもしれない。
恐怖ではなく、喪失が怖かった。
廊下でふいにすれ違ったとき、レギュラスの袖にそっと触れようとした。
一瞬だけ、ほんの布の端を掴むほどの弱い触れ方で。
けれどその瞬間、レギュラスはまるで気づかなかったかのように歩みを止めず、
コートの裾だけが自分の指先を掠めていった。
拒絶されたわけではない。
けれど、受け取られなかった。
その差が、残酷だった。
白い廊下に響く靴音が近づき、取っ手を静かに押し下げる。
その瞬間――呼吸が止まった。
そこには、あり得ない存在が立っていた。
アラン・ブラック。
深い翡翠の瞳、淡く透けるような肌、華奢な肩。
レギュラス・ブラックという男の隣に立ち続けてきた、
魔法省が最も庇うべき象徴の妻。
そのアランが――ここにいた。
しかも、シリウスのベッドのそばに。
驚愕に固まっているリリーに気づき、
アランが振り返る。
ただ顔を向けただけなのに、空気が震えた気がした。
彼女が纏う気配は、光でも闇でもなく――
傷ついた透明な硝子のようだった。
「……どうやって、監視を掻い潜ったの?」
問いながらも、自分の声が硬くなったのを自覚した。
アランは迷うようにまばたきをし、
杖を静かに持ち上げる。
空間に細い光の文字が生まれる。
《ごめんなさい。弱い錯乱呪文を……》
淡く浮かぶ文字が消えるころ、
リリーは思わず息を呑んだ。
声を持たない。
けれど、言葉を持っている。
その姿は儚いはずなのに――
なぜか妙に、誇り高かった。
「よぉ、リリー。頼むよ多めに見てやってくれ」
シリウスが笑った。
頬にまだ痛みの痕を残しながら、それでもどこか嬉しそうに。
その笑顔を見た瞬間――
リリーは理解した。
この男は今、救われている。
彼女によって。
どれほど自分たちが側にいても向けられなかった微笑みが、
アランにだけ向いている。
胸に小さく刺さるような痛み。
そして苦い諦めが滲む。
「……感心はできないわ」
そう言いながら、リリーは歩み寄った。
でも――続けた言葉は、少し柔らかくなる。
「シリウスを見舞ってくれて、ありがとう」
アランは深く礼をする。
美しい所作だった。
その礼儀と静けさは、まるで古い肖像画から抜け出した幽霊のようだ。
リリーの視線はアランの横顔に吸い寄せられた。
その翡翠は――自分とよく似ていた。
けれど、色の深さが全く違う。
自分の瞳が森の緑ならば、
アランのそれは沈んだ湖に夜空を写したような色。
美しさに息を呑む。
そして同時に、理解してしまう。
――ジェームズが彼女を嫌う理由。
――シリウスの目が彼女を追ってしまう理由。
――レギュラスが手放せない理由。
ここに立つだけで分かる。
彼女は 弱く見えるのに、世界を揺らす存在だ。
だからこそ、リリーの胸に灯る思いは、
嫉妬でも憎悪でもなく――
哀しみと、願いだった。
どうか……これ以上、シリウスを壊さないで。
言葉にはしなかった。
アランはきっとここに悪意で来てはいない。
優しさで来たのだ。
でも、優しさほど人を傷付けるものはない。
沈黙が落ちた病室で、
リリーはそっとシリウスの枕元に薬瓶を置く。
「……長居は危険よ。すぐに戻りなさい」
アランはゆっくり頷いた。
そして、もう一度だけ――シリウスを見つめた。
その瞳に宿った光があまりにも柔らかく、
リリーは思わず目を背けた。
寝室は静かだった。
暖炉の炎がぱちりと弾ける音だけが、閉ざされた夜の空気を揺らしていた。
レギュラスは扉を閉めると、背をもたれかけずにまっすぐに立った。
いつものように疲労を滲ませた仕草もなく、ただそこに立つ――
問いを携えた支配者の姿だった。
「――どちらに行かれていました?」
声は驚くほど静かで平坦だった。
怒鳴り声よりもずっと残酷な、整いきった音。
怒りを閉じ込め、蓋をし、何層もの冷静という膜で覆い、それでもなお滲む温度――疑念、恐れ、所有欲。
アランの指先が震える。
杖を握ったまま、一度深呼吸し、魔法の光で言葉を綴った。
〈少し外出を〉
レギュラスの瞬きがひどくゆっくりと見えた。
「……どちらへ。」
柔らかい声なのに、逃げ場がなかった。
返答を許さないような、次の言葉が来ると分かっているような問い。
アランは喉の奥が痛む気がした。
書く文字がにじむほど、胸が苦しい。
〈病院です〉
その瞬間、レギュラスの瞳が鋭く光った。
「――騎士団の病院ですか。」
問いではない。
確認。トドメ。
アランは静かに頷いた。
レギュラスが視線を落とす。
まるで言葉より先に心を伏せるように。
アランは耐えられず頭を下げた。
謝罪が言葉にできない代わりに、肩が小さく震えた。
レギュラスはゆっくりと歩き、
いつもの習慣のようにジャケットを脱いだ。
椅子に丁寧にかける。
次に、手首のカフスを外す。
金属が軽く触れ合い、小さな音を立てる。
最後にネクタイを緩め、外す。
その全てが丁寧で無駄がなかった。
怒りで乱れるどころか、逆に整っていく所作。
それがアランには余計に怖かった。
沈黙が重く積もる。
アランは顔を上げられないまま、呼吸だけが浅くなる。
「アラン。」
呼ばれた名は、優しさでも、怒りでもなかった。
決断の前触れ。
顔を上げなければならなかった。
逃げる選択肢は存在しない。
アランがそっと視線を上げると、
レギュラスはすぐ目の前に立っていた。
その黒い瞳は、驚くほど静かで――
言葉が落とされる前から、心を射抜いていた。
「――はっきり言います。」
一拍。
息苦しいほどの間。
「シリウス・ブラックとの関係は、今後一切認めません。いつ、どこで、どの状況下であってもです。」
感情の起伏がない声。
だが奥底には、かすかな震え――恐れと執着。
アランは唇を噛んだ。
頷く。それしかできない。
頷くということは、
従うことであり、服従であり――
夫としての彼の領域を肯定すること。
アランの髪が肩に落ち、その表情が見えたとき、
レギュラスの喉がわずかに動いた。
彼は怒っているのではない。
怒れるほどの余裕もない。
奪われるかもしれない恐怖が、彼をそこへ追い込んでいる。
「……あなたを疑う気はありません。」
それは本当だった。
嘘ではなかった。
けれど――
「ただ、その男があなたに触れる未来だけは、この世界がどう変わろうとも許せません。」
それだけ告げると、レギュラスは視線を逸らした。
踏み込みすぎれば、声が壊れる気がした。
アランは小さく――それでも確かに、うなずいた。
そして夜は、また静かに閉じた。
胸の内だけを鋭く燃やしたまま。
休暇の屋敷には、静けさが満ちていた。
冬の光が大理石の床に広がり、薄く磨かれた家具に淡い反射を落としている。
ここはステラにとって、呼吸すら温度のある場所――なのに、今日はその空気がどこかざらついていた。
玄関のホールに立った瞬間、執事が口を開く。
「フロスト家のご子息が来訪されています」
眉ひとつ動かさず問い返す。
「……なぜ。」
「ステラお嬢様に、ご面会を希望とのことで」
そんな権利、与えた覚えはない。
だが、返事をする間もなく、彼は姿を現した――
ロイ・フロスト。
「やあ、ステラ嬢。休暇でしょう? お話できるかと思いまして」
相変わらずの柔らかな笑み。
こちらの心の壁に気づいていないのか、崩せると思っているのか。
どちらにせよ鬱陶しい。
「……何ですの。」
氷で磨いたような声が出た。
普通ならここで怯む。
距離を置き、礼儀を整え、次の瞬間には退くものだ。
だがロイは――まるで傷を知らない人間のように、微笑んだままだった。
「前回はあまり話せませんでしたから。あなたと話したくて。」
その言葉に、ステラの胸の奥がぎり、と固く痛んだ。
――なぜそこまで踏み込める?
なぜ、拒絶すら好意だと錯覚できる?
理解不能だった。
ふと視界の端、
廊下の奥からアランが姿を見せた。
淡いドレスに身を包み、静かな笑顔。
声を持たない代わりに、表情そのものが言葉だった。
アランはロイに向かって杖を振り、挨拶の文字を浮かべる。
〈遠いところ、ようこそ。〉
ロイはそれに優しく礼を返す。
「光栄です、夫人。お招きいただき。」
――その瞬間、胸の奥に、ひやりと冷たいものが降ってくる。
ステラは思った。
この男は危ない。
母と同じ種類だ。
境界線を知らない優しさ。
自分が踏み込んでいることにすら無自覚な接近。
それを「善意」や「平等」で塗り固める危うさ。
そしてそういう種類こそ――
人の心の中に無断で入り込み、奪っていく。
アランを思い出す。
血を分けた娘より、
声も血も形も違うマグルの少女に与えた優しさ。
親への期待を焼かれた記憶。
愛されるべき立場でありながら、
気づけば愛は「均等に割られ」、
意味も価値も失われていった実感。
そして今――
ロイ・フロストが、同じ温度で近づいてくる。
笑顔で、配慮で、開かれた手のひらで。
まるで平等という名の縄で縛るように。
アランが「お茶を」と視線で示した。
ロイは嬉しそうに頷いた。
「ぜひ。夫人のおもてなしなら、きっと格別でしょう。」
ステラは思わず笑った――
冷ややかに。皮肉の色で。
「茶番ですわ。」
ロイが振り返る。
驚きよりも、興味が浮かんだ顔。
「そう思いますか?」
「ええ。あなたのような人間が一番信用なりません。」
「理由を伺っても?」
ステラはゆっくりと彼を見据えた。
その瞳は翡翠。美しく、だが深い冷えを宿す翡翠。
「平等を語る人間ほど、こちらの境界線を踏み荒らす。
あなたの優しさは侵略ですわ。」
沈黙が落ちた。
ロイは、笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ――ほんの少しだけ、目の奥が愉しげに光った。
「それでも……あなたと話す価値はあると思っています。」
ステラは吐き捨てるように返す。
「――滑稽ですわ。」
アランは、二人を不安そうに見つめていた。
しかしステラの表情は動かない。
心の奥は、もう凍っている。
母の優しさにも、
ロイの微笑にも、
侵入される気はない。
もし彼がまた踏み込んでくるなら――
その時は微笑む代わりに、牙を剥くだけだ。
ステラ・ブラック。
初めて会った日もそうだったが――
今日、屋敷の玄関で向けられたあの冷たい瞳は、いっそう強く印象に刻まれた。
拒絶されることは珍しくない。
だが、拒絶の質が違った。
彼女の拒否は幼い反発でも、意地でも、羞恥でもない。
もっと深いところにある――
信念と孤独で研ぎ澄まされた拒絶だった。
廊下の奥へと消えていくその背中を見送りながら、ロイは息をひそめたように笑った。
「……面白い。」
気づけば胸の奥で、微かな熱が広がっていた。
ステラの拒絶は、決して感情の延長ではない。
あれは理性だった。
そして――傷でもあった。
誰かを寄せ付けないように張り巡らせた無数の棘。
綺麗に研ぎ上げられた氷の壁。
ロイは思う。
――あんな壁、誰が作ったのか。
あれほど美しい少女の心に、なぜあれほどの防衛線が必要になった。
父――レギュラス・ブラックのような完璧な男がいて。
母―― アラン・ブラックのような世界に慈愛を注ぐ存在がいて。
その愛の中心に生まれた娘が、どうして孤独を選ぶ?
その答えを知りたい。
その謎をほどいた者だけが――あの心に触れられる。
そんな確信が湧いた。
彼女を一目見た瞬間――ロイは理解した。
これは美しい少女ではない。
崇高な存在だ。
白い肌。
翡翠の瞳。
繊細で、だが芯を感じさせる体つき。
セシール家の血と、ブラック家の血。
その交わりが現実になった証が、彼女だった。
美貌など魔法界には珍しくはない。
だがステラ・ブラックは違う。
彼女の美は、見る者の価値観を試す。
敬意を抱く者と、欲望に染まる者を分ける。
そしてロイは――どちらでもなかった。
ただ、震えるほど惹かれた。
拒絶された瞬間――
普通の男なら引けばいい。
だがロイの胸の奥に灯った火は、静かに、しかし確実に燃え広がった。
自分を見ない少女ほど、見て欲しい。
届かない心ほど、触れてみたい。
それは所有の欲でも、征服でもない。
もっと純粋で、もっと危険な衝動。
――もし、あの少女が自分の隣に立つ日が来るなら。
その未来を思うだけで、背筋が震えた。
客間へと案内される途中、ロイは独り言のように呟いた。
「……逃げる必要はない。
追わなくていい。
きっと――彼女の方から振り向く日が来る。」
思い上がりではなく、賭けでもなく。
そうなる未来が――ありありと見えた。
理由は一つ。
あの少女は孤独だ。
愛を拒むのではなく、
愛に失望している。
ならば――示してやればいい。
逃げなくていい愛を。
奪われない存在を。
並び立つ価値を。
ロイの唇に、深く静かな笑みが浮かぶ。
「ステラ・ブラック。
あなたが拒んでも構わない。
ただ――俺は引かない。」
ロイ・フロストが屋敷を訪ねてきてから三日後。
ステラは一人で庭園の奥にある温室へ向かっていた。
理由は単純。
人が来ない場所がここだけだったから。
温室の中は、冬でも暖かく、魔法で育てられた草花が静かに息づいている。
翡翠色の葉、淡く光を反射する花弁、微かな湿度。
ここだけ空気が柔らかく、喧騒から切り離されている。
足音なく歩き、ステラは白い椅子に腰掛けた。
読もうとしていた魔法薬の本を膝に置き、息を整える。
――すると。
「また偶然だ。」
あの声が背後から落ちてきた。
ステラは振り返りたくなかった。
けれど、仕方なく顎だけ動かし視線を向ける。
そこにはロイ・フロスト。
笑っている。懲りない男。
「偶然ではないでしょう。あなた、私の行動を追っていますわ。」
「ええ。否定はしません。」
ロイは涼しい顔で言った。
本当に悪びれない。
「あなたに話したいことがありました。」
「私にはありません。」
「知ってます。」
ロイは笑う。
言葉のどこにも刺々しさがない。
腹立たしいほど柔らかい。
二人の間に沈黙が落ちた。
本来なら、ステラは立ち上がり、この男の前から去っていただろう。
けれど……今日は疲れていた。
騎士団のニュース。
シリウスの負傷。
父と母の不穏な空気。
心が張り詰めすぎて、切れてしまいそうだった。
逃げる気力すら残っていなかった。
するとロイが言う。
「この花、知ってますか?」
彼が指したのは青白く光を宿す小さな花――月光草(ルミナ・ペタル)。
「この花は、触れる者の感情を映す魔法植物です。
怒りの者には赤く。
悲しむ者には青く。
愛を持つ者には金色に。」
「…雑誌の引用ですわね。」
「よくご存知で。」
ロイは軽く笑う。
「ステラ嬢。」
ロイは花に指先を添えながら、ゆっくり問いかけた。
「もしあなたが触れたら……何色になると思います?」
挑発――ではない。
興味。純粋な意味での。
ステラは答えなかった。
ただ、花に触れた。
青。
深い、夜のような青。
ロイの目が僅かに揺れた。
「……悲しい色だ。」
「違いますわ。」
ステラは本を閉じ、静かに答えた。
「これは落ち着きの色。
怒りも愛も必要としない時に出る色です。」
ロイは息を小さく笑いへ吐き出した。
「あなたらしい解釈ですね。」
「あなたには理解できません。」
「——ですが、知りたい。」
ステラのまつ毛が僅かに震える。
言葉ではなく、その真っ直ぐな視線が胸に刺さった。
ロイは椅子を引き、彼女から正しい距離を保って座った。
いつものように迫らない。
拒否も強制もしない。
ただそこにいた。
その沈黙は、これまでの二人の沈黙とは違った。
重さではなく、余白があった。
ステラは気づきたくなかったが――気づいてしまった。
今日は、ロイの存在が鬱陶しくなかった。
むしろ。
蔓延る混乱と不安の中で、
この男だけが妙に静かに、穏やかにそこにいた。
ほんの少しだけ。
ほんのひと欠片だけ。
距離が溶けた。
立ち上がる前に、ロイがぽつりと呟いた。
「……あなたが青のままでいられる世界であればいい。」
ステラは返事をしなかった。
けれど胸の奥が、わずかに動いた。
気づかれない程度に。
自分でも認めたくないほどに。
ブラック家の客間に身を落ち着けて三日。
その豪奢さにも、魔法仕掛けの調度品にも驚きはもうなかった。
目が慣れてしまうほど、すべてが完璧で整えられていた。
――だが。
完璧なものほど、隠された綻びは際立つ。
ロイ・フロストは日に日に募るある種のざらついた違和感に、心を捉われていた。
朝、廊下を歩けば忙しなく動く影。
マグル。
ブラック家がマグルを屋敷しもべのように雇う噂は少し前に貴族界で流行したが、それは飾り。
まるで珍しい小鳥を飼うような“見せびらかしの遊び”であるはずだった。
だが、ここは違う。
アラン・ブラックの傍に控えるその女――メイラと呼ばれていた――は、主との距離感が異様だった。
彼女は奉仕し、支える。
だがその仕草には卑屈さがなく、むしろ家族に寄り添う娘のような遠慮のなさがあった。
そして何より奇妙なのは――
その様子をレギュラス・ブラックが咎めないという事実だ。
もしこの男が噂通りの冷徹な純血至上主義者であるなら、あの女は一日たりとも屋敷に眠れなかったはずだ。
口にした水ですら制されただろう。
だが――現実はその正反対。
沈黙。容認。否、放置。
その無言は肯定よりタチが悪く、何かを隠しているようだった。
夕食の時間。
長いテーブルに家族と客人が座る。
蝋燭の火が揺らぎ、銀製のカトラリーが光を返す。
一見、理想そのものの貴族一家――。
――の、はずだった。
レギュラス・ブラックは、ステラを見ない。
本当に、見ないのだ。
娘が席につこうが、パンに手を伸ばそうが、ワインを注ごうが、
視線はかすりもしない。
冷たさではない。
無関心でもない。
あれは――避けている目だ。
罪悪感のある者が、過去の傷や後ろ暗さを持つ相手を見れない時の眼。
ロイはその視線の動きを追いながら確信した。
この父と娘の間には、表に出ていない、深く重い何かがある。
アラン・ブラック。
声なき妻。
誰より静かで、誰より存在感があった。
杖で文字を綴り、周囲はその筆跡で気持ちを読み取る。
不可解な沈黙。
言葉の欠落。
その違和感は、慣れれば美しい儀式にすら見える。
だがロイには、不自然に思えてならなかった。
この屋敷のルールは、彼女の沈黙を前提に形作られている。
まるで――
アランの声が世界から消えた瞬間に、この家族の時間も止まったかのように。
そして最後に、息子。
アルタイル・ブラック。
彼は――無邪気すぎた。
純粋で、よく笑い、魔法で遊び、使用人と気軽に話す。
まるで、世界の残酷さを知らない子供。
――いや。
世界の残酷さから徹底的に隔離された子供。
その幼さは可愛らしさではなく、保護されすぎた温室の脆さに見えた。
父は世界を支配し、娘は鋭く尖り、母は沈黙し、マグルが傍にいる家で――
息子だけが奇妙なほどただの子供だった。
ロイは思った。
この家族の形は、美しい仮面だ。
触れなければ壊れないが、触れた瞬間、音もなく崩れ去る。
ロイ・フロストは薄暗い客間で、暖炉の前に立ちながら思考をまとめた。
この家は完璧ではない。
むしろ綻びを必死に縫い合わせている。
そしてその裂け目は、ステラに繋がっている――それだけは確信した。
彼女の瞳に宿る冷たい拒絶。
誰にも心を預けない孤独。
幼いはずなのに大人よりも理解してしまっている世界。
ロイの胸が静かに、しかし確かに熱を帯びる。
――知りたい。
――暴きたい。
――触れたい。
そこに踏み込むことが危険だと理解してもなお。
彼は目を逸らさなかった。
ロイ・フロストが屋敷に滞在して四日目。
その存在は、思った以上に厄介だった。
彼は慇懃無礼でもなく、傲慢でもない。
礼儀正しく、柔和で、会話の間の取り方にも癖がない。
だが――
目が、嫌だった。
ロイは微笑みながら、真正面からこちらを見てくる。
その視線は、上辺ではなく――内部を覗き込もうとしてくる種類のもの。
自分が何者なのか。
何を恐れ、何を拒み、どこで折れ、どこで強張るのか。
まるで観察対象のようにじっと、静かに、しかし確実に理解しようとしてくる。
紅茶の香りが漂う客間。
昼下がりの光がレースカーテンを通して床に淡い模様を落としていた。
ロイはいつもの――人を油断させる笑顔で告げてきた。
「せっかくの休暇でしょう。外の空気を吸えば気分も変わります」
ステラは視線すら返さず、淡々と言った。
「外の空気を吸わなければ崩れてしまうような弱い精神ではありませんわ」
「ええ、そうでしょうね」
即答。
しかも、揶揄でも反論でもない声色。
ただ――事実を肯定する音。
ステラは思わずロイを見る。
彼はまだ笑っていた。
その笑顔は薄く、しかし確かに――こちらを見透かしていた。
その瞬間、胸の奥に火花のような苛立ちが弾ける。
どうして。
どうして、何も言わずに理解したふうな目をするのか。
母は甘さで包み込み、
父は沈黙で距離を置き、
弟は無邪気さで世界をぼかし、
世間は血筋だけを見て跪く。
誰も、ステラそのものを見ようとしなかった。
理解したような顔をする者ほど浅かった。
だから慣れていた。
だから拒絶し続けた。
なのに――
この男は違う。
理解しようとしているのではない。
既に理解し始めている。
「……ステラ嬢?」
ロイの低く穏やかな声が、微かに距離を詰めた。
ステラは肩が僅かに強張るのを、自分でも抑えられなかった。
怖い。
そう感じた。
理解されるのがではない。
理解されてしまう可能性が。
触れられたことのない場所に手を伸ばされるような感覚。
薄い氷の上に、誰かの足が乗った音がした。
「あなた……私をどうしたいの?」
小さく投げつけるように言った声は、自分でも驚くほど震えていた。
ロイは少しだけ瞬きし、そして――微笑みをわずかに緩めた。
「知りたいだけですよ。あなたがどうやって、ここまで美しく強くなったのか」
甘い言葉だった。
だがその奥にあるものは、優しさではない。
興味。
欲。
執着の芽。
それがはっきりと――皮膚の下に触れた。
本来ならすぐに背を向け、二度と相手にしなかっただろう。
いつものように、扉を閉ざし、心を凍らせ、それで終わりだった。
けれど。
――この男は、初めてだった。
この家族の歪みを、察した男。
父の視線の意味を。
母の沈黙の形を。
アルタイルの幼さの理由を。
そして自分の孤独を――眉一つ動かさず理解してくる。
だから。
完全に拒絶することが――できなかった。
数日が経った。
けれど、胸に沈殿しているものは薄まるどころか、形を持ち始めていた。
――苛立ち。疑念。焦燥。嫉妬。
名をつければ、それはどれも醜く、幼稚で、支配欲めいた色をしていた。
だが、それでも否定できなかった。理性で押し潰せるものではなかった。
書類の山に目を通していても、万年筆を持つ手はふいに止まり、脳裏に同じ問いが浮かぶ。
なぜあの日、アランはシリウスのもとへ行ったのか。
ただの心配か。
ただの善意か。
ただの昔からの縁か。
――それだけなのか。
紙をめくる音が静かな執務室に響く。
窓の外では冬の空が重たく陰り、灰色の空気が屋敷全体を包んでいた。
レギュラスはふっと目線を落とした。
そこには淡いインクで走らせられた報告書。
けれど文字列は、もう頭になにも入ってこなかった。
目の奥に、あの日のアランの顔が浮かぶ。
――あの不可解な沈黙。
――視線の揺らぎ。
――触れられると逃げるように震えた肩。
あれはただの罪悪感か。
それとも別の感情か。
思えばアランは昔から嘘が下手だった。
声を持たない分、表情と仕草と沈黙が、何より雄弁だった。
だからこそ、余計に分かる。
あの日の沈黙は、なにか隠していた。
シリウス・ブラックという存在は、レギュラスにとって単なる兄ではない。
反逆者。
騎士団。
思想の対立。
そして―― アランの“可能性”だった男。
シリウスがアランをどう見ているか、レギュラスはとうに理解している。
あの男はアランに優しさを向ける。
弱さごと抱きしめるように。
過去の痛みを許容し、自由を与えようとする。
自分とは違うやり方で。
その事実が、胸を灼いた。
レギュラスは立ち上がり、ゆっくり歩きながら深呼吸する。
大理石の床に靴音が響く。
手袋越しの拳が自然と強く握られた。
アランは、あの日何を思ったのか?
シリウスに何を見たのか?
何を返そうとしたのか?
慰めか。
共感か。
哀れみか。
――それとも。
レギュラスの胸の奥が、ずきりと軋んだ。
揺れたのか。
それが怖かった。
アランは自分の所有物でもない。
縛りつけたくて選んだわけでもない。
「……くだらない。」
誰にも聞かれない声で呟く。
嫉妬だと自覚した瞬間、惨めさと同時に――確かな痛みが走る。
深く、鋭く、自分自身に突き刺さるような痛み。
レギュラスは眉間を押さえた。
法務部を動かし、魔法省を動かし、国を動かすことができる自分が。
ひとりの女の胸の内一つ理解できず苛立っている。
その現実が、何より苛立つ。
アランは昔、地下で壊れかけた少女だった。
触れることすら躊躇うほど繊細で、静かで、怯えていた。
それなのに、今は――
自分に触れ、微笑み、家族を守り、意志を持ち始めた。
変わったのだ。
その変化は誇らしく、救いであり――
同時に、恐怖だった。
自分に背を向ける可能性が、ようやく生まれてしまったから。
レギュラスは窓辺に立ち、冬の空を見上げる。
黒く冷えた雲の向こうで星は見えない。
その曇天は今の自分の心のようだった。
シリウスの影が、消えない。
アランの沈黙が、刺さる。
問いは増えるばかりで、どれも答えがない。
ただひとつ確かなのは――
アランを失う選択肢はない。
それだけだった。
屋敷の空気は、言葉よりも静寂の方が多く満ちていた。
廊下を歩く靴音、銀器が皿に触れるわずかな音、書類をめくる紙の擦れる音――
それらが、レギュラスの沈黙をより濃く、冷たく映し出していた。
レギュラスは問いただすことをしなくなった。
あの日のように、責める言葉も、鋭い沈黙も向けてこない。
代わりに――淡々と、一定の距離を置き続けていた。
称してしまえば、それは拒絶ではなく、制御された怒りだった。
爆発するものではなく、ひたすら深く沈み、触れた瞬間に崩れてしまいそうな危うい静けさ。
その沈黙が一番怖かった。
朝食の席では、いつものようにパンと紅茶が並ぶ。
けれど、会話はない。
声を持たない自分には、沈黙はいつも普通の一部だったはずなのに――
今は違った。
カップを置く音が思いのほか大きく響き、そのたびに胸が跳ねる。
レギュラスは淡々と新聞に目を走らせているが、
その肩、指先、わずかに強張った呼吸が語っていた。
――まだ怒っている。
その事実が胸を締めつけた。
寄り添おうと思えば、拒まれる気がした。
触れれば、振り払われるかもしれない。
問いを発すれば、彼の沈黙に傷つくかもしれない。
恐怖ではなく、喪失が怖かった。
廊下でふいにすれ違ったとき、レギュラスの袖にそっと触れようとした。
一瞬だけ、ほんの布の端を掴むほどの弱い触れ方で。
けれどその瞬間、レギュラスはまるで気づかなかったかのように歩みを止めず、
コートの裾だけが自分の指先を掠めていった。
拒絶されたわけではない。
けれど、受け取られなかった。
その差が、残酷だった。
