1章
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夜は深く、カーテンの隙間から月明かりが淡く差し込んでいた。
その銀色の光が、アランの白い頬をやわらかく照らしている。
窓の外では梢がかすかに揺れ、遠くでフクロウの鳴く声が響いた。
世界は静まり返っていた――まるで二人だけを残して、時が止まってしまったかのように。
レギュラスはベッドの上で横たわり、
隣にいるアランの手をそっと握っていた。
その手は小さく、まだどこか怯えたように震えている。
指先にかすかな温もりを感じるたびに、
ようやく彼女が“生きて”いるという実感が胸に沁み込んでくる。
「アラン」
呼びかける声は、囁きにも似ていた。
アランはゆっくりと瞼を持ち上げる。
翡翠のような瞳が、月明かりを受けて静かに揺れる。
その視線がレギュラスを捉えた瞬間、
胸の奥がひどく痛んだ。
この人を、どうしても失いたくない――
その想いが、言葉の形をとって溢れ出していく。
「いくつか、約束してくださいね。」
彼女は首を傾げるようにして、ただ黙って聞いていた。
その様子が、あまりにも穏やかで、あまりにも無垢で、
息をするのさえ惜しくなるほどだった。
「まずは……一人の時は、部屋から出ないでください。
庭もです。」
静かな声で、丁寧に言葉を選ぶ。
アランの瞳が、ほんの少しだけ瞬いた。
拒むでもなく、ただ受け入れるように。
レギュラスは一瞬、胸の奥に疼きを覚えた。
それは自分の言葉が、命令としてではなく“支配”として響いたことへの痛みだった。
だが同時に、彼女をこの世界から守るためには、
どうしても必要な“囲い”だと自分に言い聞かせる。
「過保護すぎると思うかもしれません。」
かすかに笑みを浮かべながら、彼は続けた。
「でも……何が起こるか分からないのです。
この家の中にも、外にも。」
実際、闇の勢力の影は、どこに潜んでいるか分からない。
家族でさえ、味方とは限らなかった。
あの地下牢のように、外界から遮断された場所のほうが
安全だったのかもしれない――
そんな皮肉な真実が、頭をかすめる。
アランは、ただ彼の言葉を静かに受け止めていた。
頷きもしない、拒みもしない。
その沈黙が、どこか儚い肯定のように思えた。
レギュラスは息を整え、もうひとつ口を開く。
「もう一つだけ。
どんな時も僕の言葉だけを、信じてください。」
その声音はひどく柔らかかった。
まるで祈るような響きだった。
「父や母、そしてこの家の人間……
色々な言葉があなたに届くかもしれません。
けれど、まずは僕の言葉を信じて。
僕だけを見ていてください。」
アランは少しの間、じっとレギュラスを見つめていた。
その瞳の奥で、何かを探すように。
やがて静かに、ゆっくりと頷いた。
その仕草があまりにも穏やかで、
レギュラスの胸は締めつけられた。
「ありがとう。」
言葉を絞り出すように呟いて、
彼はアランの頬に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、
柔らかな肌の感触が指に伝わる。
その温もりが愛おしすぎて、
目の奥が熱くなる。
アランは何も言わない。
ただ、微かに笑った。
まるで“わかりました”と伝えるように。
レギュラスはその笑みを見て、
胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
彼女を守るために――
そう言い聞かせながら、
自分の言葉で、彼女をひとつひとつ“縛っていく”。
けれどその鎖は、
鉄ではなく、言葉と優しさで編まれたものだった。
彼女を囲い、世界から遠ざけることでしか
守れないと知っているからこそ、
その優しさは、どこか罪の匂いを帯びていた。
彼女の髪に指を通し、頬に唇を寄せる。
アランの睫毛が小さく震え、
彼の胸に身を預ける。
「大丈夫です。あなたは、もうひとりではありません。」
その囁きは、誓いでもあり、呪いでもあった。
やわらかな檻の中で――
アランはゆっくりと目を閉じた。
彼女を包み込む腕の中に、
静かな幸福と、言葉にできない切なさが漂っていた。
ブラック家の応接間は、夜でも灯りが絶えたことがない。
黒檀の家具が整然と並び、銀燭台にともる炎が壁にゆらゆらと影を落としている。
古い肖像画たちが、まるで時代を見下ろすように静かにこちらを見つめていた。
その夜、重く沈む空気の中で、レギュラスは父と母の前に立っていた。
ほんの数日前、この屋敷に“彼女”を連れ帰った。
それがどれほどの衝撃だったか――
両親の反応を見れば、嫌でもわかった。
ヴァルブルガは扇子を握りしめ、
まるで汚れた風が部屋に入り込んだかのような顔をしていた。
一方のオリオンは、低く目を伏せて考え込んでいる。
どちらもレギュラスが予想していた通りの反応だった。
「突然、見知らぬ女をこの家に連れ込むとは――
一体、どういうつもりだ、レギュラス。」
オリオンの声は低く、抑制された怒りを含んでいた。
だが、その奥に理性の光がある。
息子の軽挙を叱りながらも、
真意を探ろうとしているような響きだった。
レギュラスは、まっすぐ父を見た。
「彼女は……闇の帝王が求める“封印の力”を持つ一族の娘です。
セシール家の末裔、アラン・セシール。」
部屋の空気がわずかに揺らぐ。
炎の影がゆらりと歪んだ。
「セシール家……?」
オリオンの目が細くなる。
その名には、ただならぬ重みがあった。
古の時代より、魂を縛り、封じる術を受け継いだ家系。
だが、その血はとうに絶えたと聞いていた。
「今や、あの娘が最後です。」
静かに告げるレギュラスの声に、
オリオンは小さく息を吐いた。
「それを、なぜこの屋敷に?」
「闇の帝王のためです。」
レギュラスはあえて淡々とした声を装った。
「封印の力をより安定させ、強固なものにするためには、
彼女の血を保たねばなりません。
ブラック家の血筋と交われば――
その力を、この家が継ぐことができる。」
沈黙。
オリオンはゆっくりと顎に手を添え、
考えを巡らせている。
「……なるほど。」
短い言葉が静寂を破った。
「つまり、お前の考えでは、
あの娘をこの家の“財”として迎え入れるというわけか。」
「ええ。」
わずかに息を整えて、レギュラスは頷いた。
実際には、彼女をただ“救いたい”という
理屈にもならない感情が先にあった。
だがここでは、理屈が必要だった。
この家において“感情”は無価値であり、
“理”こそが言葉の通貨だった。
「闇の帝王がそれを望むのなら、
確かにこの家にとっても悪くはない。」
オリオンの声音は穏やかだった。
「だが――」
その穏やかさを、ヴァルブルガの甲高い声が破る。
「“だが”じゃありませんわ、オリオン!」
ヴァルブルガは勢いよく立ち上がり、
長いローブの裾が床を擦った。
「礼儀も作法も知らない、血筋もあやしい女が、
ブラック家の屋敷に上がり込むなんて!
なんて恥知らずな真似を!」
レギュラスは母を見た。
その瞳の中には、かつて兄シリウスを責め立てた時と同じ
激しい狂気の炎が宿っていた。
「母上、彼女は――」
「黙りなさい! あなたまでシリウスと同じように
この家の名を穢すつもりですか!?」
怒声が壁に響く。
炎が風を受けて揺れた。
だがレギュラスは微動だにしなかった。
「すべて、僕が責任を持ちます。」
短く、けれど強く。
その声に、ヴァルブルガの怒りが一瞬止まる。
「礼儀も作法も、この家での振る舞い方も、
僕が一から教えます。
ご安心ください。」
冷静な言葉。
けれど、その裏には鋼のような意志が宿っていた。
ヴァルブルガは舌打ちをして顔を背ける。
「勝手にすればいいわ。
ただし、その娘がこの家の恥になった時――
それはあなたの責任です。」
「ええ。」
レギュラスは短く頷いた。
オリオンが静かに立ち上がる。
「……いいだろう。
お前の言うとおりにしてみろ。」
父の声は、低くもどこか理解を含んでいた。
彼は分かっていたのだ――
息子がただ命令に従うだけの駒ではないことを。
話が終わり、部屋を出る時、
レギュラスはふと振り返った。
父の視線が、静かに彼を見送っていた。
その目に、わずかに“誇り”のような光を見た気がした。
そしてレギュラスは心の中で、
ただ一つのことを思う。
――もう誰にも、アランを踏みにじらせはしない。
たとえこの家が、どれほどの闇を孕んでいようとも。
たとえ彼自身が、闇の中で堕ちていくとしても。
その決意だけが、
レギュラス・ブラックを支えていた。
冬の終わりを告げるように、朝の光が窓辺を薄く照らしていた。
重厚なカーテンの隙間から射し込む陽が、
金の食器を淡く輝かせている。
ダイニングにはいつもと変わらぬ静寂が満ち、
ナイフとフォークの触れ合う音だけが、空間にかすかな響きを残していた。
テーブルの中央には、湯気を立てるスープと、
薄く焼かれた肉、焼きたてのパンが並んでいる。
けれど、それらはほとんど手つかずのままだった。
アランはスプーンを持ったまま、視線を皿の上に落としている。
唇は結ばれ、指先がわずかに震えていた。
レギュラスは静かに息をついた。
医務魔女の診断結果が頭の中で繰り返される。
――「体重を戻せば、時間の経過とともに回復の見込みがあります」
その一言が、どれほど彼の胸を熱くしたことか。
あの日、診察室でアランの傍にいたとき、
彼女の細い手が自分の指をかすかに握り返した瞬間、
ほんの小さな希望が確かに灯った。
それを決して消したくなかった。
だからこそ、レギュラスは今日も彼女の前に皿を並べる。
「これも食べてください。」
穏やかに、しかしどこか切実な声音で。
アランの瞳がゆっくりとレギュラスを見た。
驚きと戸惑い、そして――ほんの少しの困惑。
その視線に「もう十分です」という言葉が滲んでいるのが分かる。
それでもレギュラスは微笑んだ。
「食べないと、体調が戻りませんからね。」
言いながら、肉を小さく切り分ける。
ナイフの刃が皿に当たる音が静かに響く。
切り分けた肉をフォークで彼女の皿に移すと、
淡い香草の香りがふわりと広がった。
アランはほんの少し眉を寄せた。
多すぎる――そう言いたげな顔。
けれど彼女は言葉を発せない。
ただ、視線だけでレギュラスに訴えかける。
レギュラスは首を横に振り、
「少しずつでいいです。無理にとは言いません。」
そう言いながら、彼女の手元にスプーンをそっと置いた。
沈黙の中、アランは小さく息を吐き、
スプーンを手に取る。
手の甲にはまだ、鎖の跡が薄く残っていた。
その痕跡が、彼女の過去を雄弁に語っている。
レギュラスは、彼女の動きを見守りながら、
心の奥で祈るように願っていた。
――どうか、少しでも力を取り戻してほしい。
もう二度と、冷たい地下で命の火が消えかけるようなことがありませんようにと。
スプーンがスープをすくい、
アランの唇に運ばれる。
その動きはぎこちなく、
けれど確かに“生きよう”としていた。
一口、二口。
レギュラスの胸がゆっくりと熱を帯びる。
喉を通るそのたびに、彼の心まで満たされていくようだった。
やがて、アランは少しだけ顔を上げた。
瞳がわずかに柔らかくなっている。
食卓の白いクロスに、こぼれた光が二人の手を照らす。
レギュラスはそっとその手を包み込み、微笑んだ。
「えらいですよ、アラン。」
その一言に、アランのまつ毛が震えた。
彼女の中の小さな変化を見逃さないようにと、
レギュラスはただ見つめ続ける。
食事という行為が、
こんなにも尊く、祈りにも似たものだとは、
これまで知らなかった。
この家の食卓が、
初めて“誰かを生かすための場所”になった。
その夜、レギュラスは静かに思った。
――命を繋ぐとは、きっとこういうことなのだ。
奪うのではなく、与え続けること。
そしてその“与える”相手が、
今、自分の目の前にいるのだと。
寝室の灯りは、ほとんど落とされていた。
窓辺から漏れる月光だけが、淡く白い輪郭を描くように二人の影を照らしている。
その光の中で、アランは薄いナイトドレスに身を包んでいた。
柔らかな布地が彼女の肩をなぞり、微かに透けるようにして肌の色を浮かび上がらせている。
あの屋敷に連れてきたばかりの頃は、彼女の体はあまりにも細く、まるで服に着られているようだった。
袖の中で泳ぐ腕、腰のラインを失った輪郭。
けれど今、月明かりの下にある彼女は、どこかほんのりと丸みを帯びて、柔らかな息づかいと共に女性としての温もりを取り戻していた。
その変化が、レギュラスには何よりも嬉しかった。生きている証が、ここにあるのだと思えた。
彼はベッドの縁に腰を下ろし、横たわるアランの隣へと身を滑らせる。
静寂の中、彼女の髪がさらりと流れ、指先に触れるたびに絹のような感触が広がった。
自然と腕が伸び、アランの体を抱き寄せる。
その行為は、いつの間にか彼の日課のようになっていた。
首筋に唇を落とす。
その一瞬の震え――彼女の息が胸に触れる。
レギュラスの中で、何かがゆっくりと崩れていった。
「……アラン」
低く掠れた声で名を呼ぶ。
その声には理性よりも、感情の方が濃く滲んでいた。
――この腕の中にいる女は、もう守るべき存在ではない。
彼にとっては、ただ一人の“女”だった。
月光に照らされた白いうなじ。
刺繍が施されたナイトドレスが、こんなにも妖艶に映るとは思いもしなかった。
生まれながらの気高さと儚さが同居している。
触れたくなる、けれど壊してしまいそうで怖い。
そんな矛盾が胸を締めつけた。
「アラン……好きです」
抑えきれずに漏れた言葉は、囁きというより祈りに近かった。
アランはゆっくりと目を開け、戸惑いの中でレギュラスを見つめた。
次の瞬間、彼の背に腕を回す。
その仕草は、何の言葉よりも雄弁だった。
“私も、あなたが好き”――そう告げているようで。
胸の奥が焼けるほど愛おしい。
心の奥に長いこと閉じ込めていた想いが、静かに形を持ちはじめる。
レギュラスは彼女の頬に指を滑らせた。
熱を帯びた肌に、触れた指先が震える。
もっと、この時間をゆっくりと――そう思っていたはずだった。
焦らず、少しずつ距離を縮めていこうと。
けれど今、そんな理性はもう何の意味も持たない。
彼は息を詰め、囁く。
「アラン……しませんか?」
問いかけの意味を、アランがどこまで理解しているのかは分からない。
けれど、彼女は静かに頷いた。
その動作は、月光に照らされた羽のように繊細で、けれど確かな意志を感じさせた。
――頷いたからには、それはもう肯定なのだ。
レギュラスは彼女をそっと抱き寄せる。
全てを慈しむように、そして確かめるように。
夜は静まり返り、外の風が窓をかすめた。
二人を包むその音さえも、祝福のように優しかった。
レギュラスは、アランの頷きを見届けたあと、ゆっくりと息を吸い込んだ。
その一呼吸のあいだに、胸の奥で何かがきしむ。
求めていたはずの温もりが、こんなにも痛みを伴うものだとは思っていなかった。
月明かりが静かに揺らめく寝室。
外の風がカーテンを揺らし、その布の影が二人の上をやわらかく流れていく。
レギュラスはそっとアランの頬を撫でた。
彼女はわずかに瞬きをしただけで、何も言わない。
唇を開いても声が出せない。代わりに、沈黙が全てを語っていた。
ナイトドレスの裾に手を伸ばしたとき――
ほんの少し、彼女の体が強張った。
それは微細な震えだったが、レギュラスにははっきりと伝わった。
彼女の肩が、息を呑むようにわずかに跳ねる。
その瞬間、空気が変わった。
香りも、温度も、全てが息を止めたように静まり返る。
彼女の表情が苦しげに歪む。
唇を噛みしめ、何かを必死に堪えるようにして。
閉じられたまぶたの奥に、過去の影が差したのだとレギュラスは悟った。
――あの地下。
鉄と血の匂い、耐え難い恐怖の中で、彼女の尊厳が踏みにじられた場所。
その記憶が、わずかな触れ合いで蘇ったのだ。
レギュラスは手を止めた。
動かしてはならないと、全身が叫んでいた。
彼女の頬を撫でる指先が、今度はそっと引いていく。
「……アラン、怖いです?」
低く、壊れ物に触れるような声で問う。
アランは、かすかに首を振った。
けれど、その手はシーツの上で小さく握りしめられていた。
指の節が白くなるほど強く。
それだけが、彼女の心がまだ怯えていることを物語っていた。
レギュラスの胸が締めつけられた。
自分が今しようとしていたことが、どれほど彼女に恐怖を思い出させたのか――
その事実が、刃のように刺さる。
そっと、彼は彼女の衣服を整えた。
はだけた布を丁寧に戻し、髪を撫で、乱れをひとつ残さぬように。
その仕草にこめられたのは、欲ではなく祈りだった。
「……すみません。急ぎすぎましたね」
小さく漏らした言葉は、夜気に溶けて消える。
静けさが戻ると同時に、アランの瞳が開かれた。
翡翠のようなその色が、ゆっくりとレギュラスを映す。
そこにあったのは怯えだけではなかった。
微かに揺れる信頼の光――まるで「あなたを嫌ったわけではない」と伝えるように。
その一瞬、レギュラスの中で安堵の波が静かに広がった。
彼はもう一度、アランの頬に触れた。
今度はただ、掌でその温度を確かめるために。
何も奪わない、何も求めない。
ただ、そこに“生きている”彼女がいることを確かめたかった。
アランのまつげが震え、頬を伝って一粒の涙が落ちる。
レギュラスはその雫を拭わなかった。
それもまた、彼女の過去の一部なのだと思った。
「……もう少し、時間をかけましょう」
囁きながら、彼はアランを抱きしめた。
今度の抱擁には、熱も焦りもなかった。
ただ守りたいという思いだけがあった。
外では風が鳴り、遠くで木々がざわめいている。
夜の世界は、二人を包み込みながら静かに息づいていた。
彼女の髪に頬を寄せ、微かな呼吸の音を聞く。
その音が、確かに今を生きている証であることに、胸が熱くなる。
“奪うことではなく、共に在ること。”
それが彼の愛のかたちだった。
レギュラスは目を閉じ、そっと呟く。
「アラン……あなたが笑えるようになるまで、待ちます」
彼女は何も言わず、ただ小さく頷いた。
その頷きが、すべての言葉の代わりだった。
そして、夜がゆっくりと二人を包み込んでいった。
抱き合いながらも、交わることのないまま。
それでも確かに、愛はそこに息づいていた。
デスイーターたちの間で噂が流れるのに、そう長くはかからなかった。
――レギュラス・ブラックが、あの地下牢に幽閉されていた女を連れ帰った。
集会のたび、誰かがその話を持ち出す。
酒の席では半ば冗談のように笑い合う者もいれば、
裏で顔を寄せ合い、訝しげに囁く者もいた。
「正気を失ったのか」「女の魔力にでも取り憑かれたのか」と。
耳に届かぬはずもなかった。
けれど、レギュラスはどの言葉にも微動だにしなかった。
言葉を返すこともなく、ただ淡々と任務をこなすだけだった。
どう思われようが構わない――
あの女を連れ出せたという事実こそ、彼の誇りであり救いだった。
バーテミウスは、その様子を面白がるように口元を歪めた。
「君、ほんとにやるとは思いませんでしたよ。
さすがですね、レギュラス・ブラック。」
皮肉とも称賛ともつかぬ声に、レギュラスは小さく笑みを浮かべた。
「まだ課された条件を果たせていませんから、気は抜けませんよ。」
「一体、何を取引したんです?」
バーテミウスの瞳が、獣のように光る。
彼は常に興味本位で、核心には踏み込まない。
それがまたレギュラスにとっては心地よかった。
「そのうち、わかります。」
そう言い残し、カップに残ったワインを口に運んだ。
赤い液体が喉を伝うたび、微かな苦味が残る。
彼の脳裏には、昨夜の光景が焼きついて離れなかった。
月明かりの下、アランがベッドの上で眠る姿。
薄いナイトドレスが、ほのかに光を透かしていた。
呼吸のたびに胸元がゆるやかに上下し、
それを見ているだけで、どうしようもなく愛おしかった。
――彼女を抱きたかった。
それは欲望というより、祈りに近い衝動だった。
愛しているから、彼女の温もりを自分の中に刻みたかった。
何も奪わず、何も壊さず、ただ確かめるように触れたかった。
けれど、彼女の体は、ほんの少しの動きにも震えた。
ナイトドレスの布を指先で掴んだ瞬間、
彼女の瞳が大きく見開かれ、
記憶の底から湧き上がる恐怖がそのまま表情に浮かんだ。
その瞬間、レギュラスの手は止まった。
胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
――違う。
これでは駄目だ。
これでは、あの地下で彼女を壊した男たちと何も変わらない。
そっと手を離し、彼女の髪を撫でる。
「アラン……すみません。急ぎすぎました。」
小さく震える体を抱き寄せると、彼女の呼吸が少し落ち着いた。
瞳がゆるやかに開かれ、翡翠の色が再び光を取り戻す。
それだけで、レギュラスの胸が温かく満たされた。
医務魔女の報告では、
「月経も排卵もまだ確認できません」とのことだった。
つまり、彼女を“抱く”理由も、今はまだないということ。
それでも――彼女を求めたのは理屈ではなかった。
血を継ぐためでも、任務を果たすためでもない。
ただ一人の女として、アランを愛してしまった。
それだけのことだった。
レギュラスはバーテミウスの前で、グラスを置く。
「愛というものは、時に厄介ですね。」
「まさか君の口からそんな言葉を聞くとは驚きですよ。」
バーテミウスは目を細め、笑った。
レギュラスは微笑で応えたが、
その奥底で、静かに誓いを立てていた。
――必ず、この手で彼女を癒やす。
彼女が恐怖ではなく、愛の中で微笑めるように。
それまで、自分の欲も焦りも、全て封じてみせる。
外では風が吹き、冬の気配が近づいていた。
その冷たい空気の中で、
レギュラス・ブラックの胸の奥には、
燃えるように熱い灯が揺れていた。
屋敷は、驚くほど静かだった。
風の音さえも遠く、時計の針の進む音がやけに鮮明に聞こえる。
その静寂が、最初は怖かった。音がないということが、こんなにも不安を掻き立てるものなのかと。
けれど、少しずつ気づいていった。
――ここには、叫び声も、鎖の音も、罵倒の声もない。
レギュラスに与えられたのは、彼自身の寝室だった。
広すぎるほどの空間。
厚いカーテンの隙間から差し込む朝の光が、絨毯に柔らかい模様を描く。
あの地下で過ごしていた暗闇と比べれば、まるで別の世界だった。
石壁ではなく、木の香りがする。湿った空気ではなく、どこか甘い花の香りが漂っている。
そのどれもが、まだ夢のようで、信じ切ることができなかった。
レギュラスが部屋を出ている間、
彼が置いていった本の山に、アランは自然と手を伸ばした。
「退屈しないように」と言って書斎から持ってきてくれたものだ。
分厚い革表紙の魔法書。
指でなぞると、長い年月を経た文字が、かすかに浮き上がるように感じられた。
ページをめくる。
かさり――という音が、胸の奥にまで沁みる。
紙をめくるたびに、記憶の底に沈んでいた感覚が蘇る。
幼い頃、母の傍で読んだ魔法史の本。
暖炉のそばで、優しく光るランプの下で過ごした時間。
あれはもう、遠い遠い昔の出来事だった。
けれど今、こうして再びページをめくれることが、どんな言葉よりも幸福だった。
少し読み進めたところで、一枚の写真が挟まっているのに気づいた。
しおり代わりにされていたのだろう。
紙の端がわずかに擦れていて、何度も開かれた跡がある。
手に取って、そっと裏返す。
写っていたのは二人の少年だった。
光の中で肩を並べ、どちらも同じように整った顔立ちをしている。
兄弟――そう思うのが自然だった。
一人は明るい髪を後ろへ撫でつけ、わずかに挑むような笑みを浮かべている。
もう一人は、その隣で静かに微笑んでいた。
その灰銀色の瞳が、あまりにも見覚えがあった。
――レギュラス。
写真の中の少年は、確かに彼だった。
そしてその隣にいるのは、おそらく兄なのだろう。
彼よりも少し背が高く、どこか気品と傲慢さを同時に纏っている。
アランは指先でそっと、二人の顔をなぞった。
あの優しい声の主にも、こんな幼い日があったのだ。
この穏やかな表情の少年が、いつから“闇の印”を刻むようになったのだろう。
いつから、あの残酷な世界の中に身を投じたのだろう。
それを考えると、胸がじんわりと痛くなった。
彼もまた、何かを守るために闇の中へ降りていったのだと、
そんな気がした。
光を受けて微かに反射する写真を、
アランは両手で包み込むようにして見つめた。
その中の少年の笑顔が、まるで今もこちらを見つめ返してくるようで――
涙が一筋、頬を伝った。
「……レギュラス。」
声にならない声が、唇の内側で震える。
その名前を呼ぶことができたら、どんなに救われるだろう。
彼がこの写真を挟んだ理由も、
兄とどんな別れをしたのかも、アランには分からない。
けれど、この一枚が語る“過去”が、
彼の優しさと痛みの両方を作り上げたのだと思うと、
胸の奥に静かに灯がともるような気がした。
アランは写真を魔法書の中に戻し、
そっとページを閉じた。
手のひらの中には、まだあたたかいぬくもりが残っている。
まるで、彼がここにいるようだった。
ブラック家の屋敷は、まるで空気そのものに威圧感が漂っていた。
廊下に並ぶ肖像画たちは、代々の当主たちの誇りと傲慢をそのまま額に閉じ込めているようで、視線を感じるたび背筋が凍る。
アランにとって、そこは息を潜めていなければならない場所だった。
オリオン・ブラック――屋敷の主。
その瞳は灰色に沈み、常に何かを測るような冷静さを湛えている。
一方のヴァルブルガは、その夫よりもさらに激情的だった。
細い指先でワイングラスを回しながら、わずかにアランを見るだけで唇の端を吊り上げる。
まるで、穢れたものでも見るように。
「……あれが例の女ですの?」
その声には氷の刃のような刺があった。
「そうです。闇の帝王が封印の継承を必要としている、セシール家の娘です。」
レギュラスの声は冷静で、礼儀正しく響いた。
ブラック家の食卓は広すぎた。
長いテーブルの上には燭台が並び、金の食器が整然と並べられている。
それなのに、食事のたびに張り詰める沈黙は、地下牢の冷気よりも重かった。
アランは、ナイフとフォークの使い方すら思い出すのに時間がかかった。
硬いパンを少し切り取っては、慎ましく口に運ぶ。
その仕草を、ヴァルブルガの冷たい視線が射抜く。
まるで、食事をするという行為そのものが“この家の血を汚す”とでも言いたげに。
「気にしなくて構いませんよ。」
レギュラスが穏やかに微笑みながら、アランの皿に魚を取り分けた。
淡い銀色の瞳が優しく細められ、その一瞬だけ空気が和らぐ。
「……そうは言っても。」
心の中で呟いた言葉は声にならなかった。
気にするなという方が無理だった。
血筋を何より重んじるこの家で、
自分はまるで“穢れ”の象徴のように扱われているのだから。
ヴァルブルガの視線は、棘のようにアランの心に刺さった。
口を開かなくても、その表情が語っていた――
「あなたのような娘が、我が家の血を継ぐなんてありえない」と。
だがレギュラスは、そんな母の視線を一瞥もしない。
アランの皿に次々と料理をのせていく。
肉、野菜、そしてスープ。
少し多いのではと思うほどに。
「そんなことより、ほら。ちゃんと食べてくださいね。」
その声は、まるで幼い子に語りかけるように優しかった。
彼の手が差し出すフォークの先に乗った魚を、アランは静かに口へ運ぶ。
噛み締めた瞬間、舌に広がる塩気が懐かしかった。
――母がよく作ってくれた焼き魚の味に、少し似ている。
胸の奥が熱くなり、喉の奥が詰まる。
あの暗い地下では思い出すことすらできなかった“家庭の味”が、
こんな形で蘇るとは思ってもみなかった。
レギュラスの横顔を盗み見る。
彼は相変わらず穏やかで、どこまでも優しい。
食卓の空気がどれほど冷たくても、
彼だけがひとつの小さな灯火のように見えた。
「……ありがとう。」
声にならない言葉を、心の中で呟く。
それは彼に届くことはない。
けれど、彼の手がそっと自分の皿を引き寄せ、
「もう少し食べましょう」と囁いた瞬間、
アランは思った――
この屋敷のどんな冷たさにも、彼さえいれば耐えられるかもしれないと。
書斎の扉を開けると、長い時間に晒された木の香りがふわりと立ちのぼった。
外の世界と切り離されたような静けさの中で、整然と並んだ本棚が壁一面を覆っている。
重厚な装丁の本がぎっしりと詰められ、魔法史や古代呪文、錬金術の書物から、詩集や童話までが揃っていた。
アランは扉の前で立ち止まり、息を呑むようにその光景を見つめていた。
「ここにある本は、どれでも読んで構いません。」
レギュラスは、彼女の隣に立って微笑んだ。
「僕がいない間、退屈しないように。本を読むのは、心に風を入れるようなものですから。」
アランの翡翠の瞳が静かに揺れる。
長いこと“読む”という行為から遠ざけられていた。
ページをめくる指の感触も、紙の擦れる音も、あの地下では一度も許されなかった。
その世界をもう一度与えられたことが、胸の奥でじんわりと広がる。
「それから……これも、あなたに。」
そう言ってレギュラスは、懐から一本の杖を取り出した。
少し短めで、木肌は深い黒褐色。
ところどころに磨き跡が残り、長年使われてきたことがうかがえる。
「僕が子供の頃に使っていた杖です。少し小さいけれど、きっとあなたに合う。」
アランの唇が震える。
長い間、手の中に何も持てなかった。
武器にも、魔法にも、自分の存在を支える道具にも触れられなかった。
杖を握るという行為が、どれほど懐かしいか。
指先が杖の滑らかな感触を確かめるように撫でた。
その顔に、かすかに笑みが浮かぶ。
――笑った。
レギュラスはその瞬間、心臓が強く跳ねるのを感じた。
ほんのわずかな笑顔だったのに、まるで春の陽光が部屋に差し込んだかのように思えた。
最近、彼女がこうして目を細めて笑う瞬間をよく見る。
そのたびに胸の奥が温かくなる。
アランは杖を軽く振り、宙にそっと文字を描く。
淡い金色の光が空中に線を刻み、やがて美しい筆記体が浮かび上がった。
――Regulus, thank you.
その瞬間、レギュラスの口元に柔らかな笑みが宿った。
「いいですね、これでようやく“話”ができます。」
声を出せない彼女が、それでも自分の言葉を持てた。
それがこんなにも嬉しいとは思わなかった。
アランはゆっくりと書棚を歩き、ふと手を止めた。
そこには古い家族写真が額に収められていた。
少年が二人、肩を並べて笑っている。
片方は少し大人びた表情をしており、もう片方はその陰で控えめに微笑んでいる。
それを見つめながら、アランは杖を動かす。
――どんな子だったの?
レギュラスは苦笑するように息を吐いた。
「普通の学生でしたよ。真面目で……少しばかり神経質で。」
少しの間を置いて、思い出すように視線を遠くへ向ける。
「クィディッチが好きでした。空を飛んでいる時だけは、何もかも忘れられた。」
彼女がその言葉を聞いて、ふと首を傾げた。
「クィディッチ?」と杖の先が文字を描く。
レギュラスは微笑みながらアランの背後に回った。
そっと両腕を伸ばし、アランの持つ杖に自分の手を重ねる。
「少し見ていてください。」
杖先から光が弾け、空中に揺らめく映像が浮かび上がる。
クィディッチの試合。
金色のスニッチが空を舞い、歓声が響く。
幼き日のレギュラスが、スリザリンの緑のローブを纏い、ほとばしる風を切って飛んでいる。
高く、鋭く、そして美しく。
「これが僕です。早いでしょう?」
その声には少年のような誇らしさがあった。
アランは両手を胸の前で重ね、夢のようにその光景を見上げている。
――本当に、この人はこんな風に笑うのだ。
彼の口元に浮かぶ柔らかな笑顔を見て、アランの胸の奥が温かくなった。
この人の過去を知ることは、彼の心の奥へ触れるような気がした。
レギュラスは、彼女の頬にかかる髪をそっと指で払う。
「僕はあまり、過去を語るのは好きではないんです。」
「でも、あなたに見せる過去なら……美しいものだけでありたい。」
アランは振り返る。
光を映した翡翠の瞳がまっすぐに彼を見上げた。
その瞳の奥に、自分の姿が小さく映り込んでいるのを見て、レギュラスは微笑む。
――これまでの自分がどうであれ、
彼女の前では、ただ“優しい男”でありたい。
そう思った瞬間、
クィディッチの歓声が、まるで遠い記憶の向こうで鳴り響くように聞こえた。
寝室は、夜の静寂に包まれていた。
窓辺のカーテンの隙間から、月明かりが細い線を描き、床を淡く照らしている。
その光が、アランの白い頬や髪の輪郭をなぞるように滑り、まるで天から降り注ぐ祝福のように見えた。
レギュラスは、ベッドの上で彼女をそっと抱き寄せていた。
華奢な体はまだ軽く、腕の中にすっぽりと収まってしまう。
その小さな温もりを確かめるように、指先で背中を撫でた。
魔法界のどんな炎よりも、彼女の体温のほうが確かで、柔らかかった。
「いつか――あなたの声が戻る時がくれば、その時は……」
言葉を探すように、レギュラスは囁く。
「いっぱい話してくださいね。僕に、あなたの声を聞かせてください。」
アランは、腕の中で小さく何度も頷いた。
そのたびに、髪が頬に触れ、ふわりと香りが立つ。
夜の静けさの中で、彼女の呼吸の音だけが微かに重なっていた。
レギュラスは思う。
彼女の声を一度も聞いたことがないのに、
その沈黙の中に、確かに“言葉”が宿っていると感じる。
彼女の瞳、表情、仕草――そのどれもが雄弁に語る。
いつか本当に言葉を取り戻したら、
どんな声で笑い、どんな声で怒り、どんな声で“愛してる”と囁くのだろうか。
アランもまた、腕の中で静かに思っていた。
――この人のいろんな声を聞いてみたい。
穏やかに話す時の声、指示を出す時の声、そして……自分の名前を呼ぶ時の声。
それを想像するだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
レギュラスは、彼女の髪を指に絡ませながら、囁くように言った。
「アラン……好きですよ。」
その瞬間、アランがわずかに動いた。
胸元に顔を寄せ、そっとレギュラスの首筋に唇を押し当てた。
あたたかく、やわらかな感触。
レギュラスの身体がびくりと反応する。
それは自分が教えた行為だった。
“好き”と伝えられない代わりに、そうやって想いを返してほしいと。
「僕があなたに“好き”と伝えたら、こうして……」と。
言葉を交わさなくても、心は通じる。
そう信じたかった。
そして彼女は、その教えを忠実に覚え、今、まっすぐに実践してくれたのだ。
その従順さが、愛おしさと同時に、どうしようもないほどの悦びを胸に溢れさせる。
レギュラスは目を閉じ、静かに息を吐いた。
アランの唇の余韻が、まるで炎のように首筋に残る。
それは快楽ではなく、もっと深い場所を震わせる感覚だった。
自分が彼女に与え、そして彼女が返してくれた“愛の形”。
抱き寄せた腕に力を込める。
「……ありがとう、アラン」
声にならない彼女の答えは、ただ寄り添う体温と心臓の鼓動で返ってくる。
外では夜の風が木々を揺らしていた。
だがこの部屋の中だけは、時間が止まったように穏やかだった。
二人の間に流れる静かな鼓動のリズムだけが、世界を満たしていた。
レギュラスの指先が、彼女の髪を梳く。
アランは瞳を閉じ、安らかな呼吸を繰り返す。
その姿に、レギュラスは心の奥で思った。
――言葉を超えた想いは、沈黙の中でこそ確かに育つのかもしれない。
月光が二人を包み、
長い夜は、静かな幸福のうちにゆっくりと更けていった。
その銀色の光が、アランの白い頬をやわらかく照らしている。
窓の外では梢がかすかに揺れ、遠くでフクロウの鳴く声が響いた。
世界は静まり返っていた――まるで二人だけを残して、時が止まってしまったかのように。
レギュラスはベッドの上で横たわり、
隣にいるアランの手をそっと握っていた。
その手は小さく、まだどこか怯えたように震えている。
指先にかすかな温もりを感じるたびに、
ようやく彼女が“生きて”いるという実感が胸に沁み込んでくる。
「アラン」
呼びかける声は、囁きにも似ていた。
アランはゆっくりと瞼を持ち上げる。
翡翠のような瞳が、月明かりを受けて静かに揺れる。
その視線がレギュラスを捉えた瞬間、
胸の奥がひどく痛んだ。
この人を、どうしても失いたくない――
その想いが、言葉の形をとって溢れ出していく。
「いくつか、約束してくださいね。」
彼女は首を傾げるようにして、ただ黙って聞いていた。
その様子が、あまりにも穏やかで、あまりにも無垢で、
息をするのさえ惜しくなるほどだった。
「まずは……一人の時は、部屋から出ないでください。
庭もです。」
静かな声で、丁寧に言葉を選ぶ。
アランの瞳が、ほんの少しだけ瞬いた。
拒むでもなく、ただ受け入れるように。
レギュラスは一瞬、胸の奥に疼きを覚えた。
それは自分の言葉が、命令としてではなく“支配”として響いたことへの痛みだった。
だが同時に、彼女をこの世界から守るためには、
どうしても必要な“囲い”だと自分に言い聞かせる。
「過保護すぎると思うかもしれません。」
かすかに笑みを浮かべながら、彼は続けた。
「でも……何が起こるか分からないのです。
この家の中にも、外にも。」
実際、闇の勢力の影は、どこに潜んでいるか分からない。
家族でさえ、味方とは限らなかった。
あの地下牢のように、外界から遮断された場所のほうが
安全だったのかもしれない――
そんな皮肉な真実が、頭をかすめる。
アランは、ただ彼の言葉を静かに受け止めていた。
頷きもしない、拒みもしない。
その沈黙が、どこか儚い肯定のように思えた。
レギュラスは息を整え、もうひとつ口を開く。
「もう一つだけ。
どんな時も僕の言葉だけを、信じてください。」
その声音はひどく柔らかかった。
まるで祈るような響きだった。
「父や母、そしてこの家の人間……
色々な言葉があなたに届くかもしれません。
けれど、まずは僕の言葉を信じて。
僕だけを見ていてください。」
アランは少しの間、じっとレギュラスを見つめていた。
その瞳の奥で、何かを探すように。
やがて静かに、ゆっくりと頷いた。
その仕草があまりにも穏やかで、
レギュラスの胸は締めつけられた。
「ありがとう。」
言葉を絞り出すように呟いて、
彼はアランの頬に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、
柔らかな肌の感触が指に伝わる。
その温もりが愛おしすぎて、
目の奥が熱くなる。
アランは何も言わない。
ただ、微かに笑った。
まるで“わかりました”と伝えるように。
レギュラスはその笑みを見て、
胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
彼女を守るために――
そう言い聞かせながら、
自分の言葉で、彼女をひとつひとつ“縛っていく”。
けれどその鎖は、
鉄ではなく、言葉と優しさで編まれたものだった。
彼女を囲い、世界から遠ざけることでしか
守れないと知っているからこそ、
その優しさは、どこか罪の匂いを帯びていた。
彼女の髪に指を通し、頬に唇を寄せる。
アランの睫毛が小さく震え、
彼の胸に身を預ける。
「大丈夫です。あなたは、もうひとりではありません。」
その囁きは、誓いでもあり、呪いでもあった。
やわらかな檻の中で――
アランはゆっくりと目を閉じた。
彼女を包み込む腕の中に、
静かな幸福と、言葉にできない切なさが漂っていた。
ブラック家の応接間は、夜でも灯りが絶えたことがない。
黒檀の家具が整然と並び、銀燭台にともる炎が壁にゆらゆらと影を落としている。
古い肖像画たちが、まるで時代を見下ろすように静かにこちらを見つめていた。
その夜、重く沈む空気の中で、レギュラスは父と母の前に立っていた。
ほんの数日前、この屋敷に“彼女”を連れ帰った。
それがどれほどの衝撃だったか――
両親の反応を見れば、嫌でもわかった。
ヴァルブルガは扇子を握りしめ、
まるで汚れた風が部屋に入り込んだかのような顔をしていた。
一方のオリオンは、低く目を伏せて考え込んでいる。
どちらもレギュラスが予想していた通りの反応だった。
「突然、見知らぬ女をこの家に連れ込むとは――
一体、どういうつもりだ、レギュラス。」
オリオンの声は低く、抑制された怒りを含んでいた。
だが、その奥に理性の光がある。
息子の軽挙を叱りながらも、
真意を探ろうとしているような響きだった。
レギュラスは、まっすぐ父を見た。
「彼女は……闇の帝王が求める“封印の力”を持つ一族の娘です。
セシール家の末裔、アラン・セシール。」
部屋の空気がわずかに揺らぐ。
炎の影がゆらりと歪んだ。
「セシール家……?」
オリオンの目が細くなる。
その名には、ただならぬ重みがあった。
古の時代より、魂を縛り、封じる術を受け継いだ家系。
だが、その血はとうに絶えたと聞いていた。
「今や、あの娘が最後です。」
静かに告げるレギュラスの声に、
オリオンは小さく息を吐いた。
「それを、なぜこの屋敷に?」
「闇の帝王のためです。」
レギュラスはあえて淡々とした声を装った。
「封印の力をより安定させ、強固なものにするためには、
彼女の血を保たねばなりません。
ブラック家の血筋と交われば――
その力を、この家が継ぐことができる。」
沈黙。
オリオンはゆっくりと顎に手を添え、
考えを巡らせている。
「……なるほど。」
短い言葉が静寂を破った。
「つまり、お前の考えでは、
あの娘をこの家の“財”として迎え入れるというわけか。」
「ええ。」
わずかに息を整えて、レギュラスは頷いた。
実際には、彼女をただ“救いたい”という
理屈にもならない感情が先にあった。
だがここでは、理屈が必要だった。
この家において“感情”は無価値であり、
“理”こそが言葉の通貨だった。
「闇の帝王がそれを望むのなら、
確かにこの家にとっても悪くはない。」
オリオンの声音は穏やかだった。
「だが――」
その穏やかさを、ヴァルブルガの甲高い声が破る。
「“だが”じゃありませんわ、オリオン!」
ヴァルブルガは勢いよく立ち上がり、
長いローブの裾が床を擦った。
「礼儀も作法も知らない、血筋もあやしい女が、
ブラック家の屋敷に上がり込むなんて!
なんて恥知らずな真似を!」
レギュラスは母を見た。
その瞳の中には、かつて兄シリウスを責め立てた時と同じ
激しい狂気の炎が宿っていた。
「母上、彼女は――」
「黙りなさい! あなたまでシリウスと同じように
この家の名を穢すつもりですか!?」
怒声が壁に響く。
炎が風を受けて揺れた。
だがレギュラスは微動だにしなかった。
「すべて、僕が責任を持ちます。」
短く、けれど強く。
その声に、ヴァルブルガの怒りが一瞬止まる。
「礼儀も作法も、この家での振る舞い方も、
僕が一から教えます。
ご安心ください。」
冷静な言葉。
けれど、その裏には鋼のような意志が宿っていた。
ヴァルブルガは舌打ちをして顔を背ける。
「勝手にすればいいわ。
ただし、その娘がこの家の恥になった時――
それはあなたの責任です。」
「ええ。」
レギュラスは短く頷いた。
オリオンが静かに立ち上がる。
「……いいだろう。
お前の言うとおりにしてみろ。」
父の声は、低くもどこか理解を含んでいた。
彼は分かっていたのだ――
息子がただ命令に従うだけの駒ではないことを。
話が終わり、部屋を出る時、
レギュラスはふと振り返った。
父の視線が、静かに彼を見送っていた。
その目に、わずかに“誇り”のような光を見た気がした。
そしてレギュラスは心の中で、
ただ一つのことを思う。
――もう誰にも、アランを踏みにじらせはしない。
たとえこの家が、どれほどの闇を孕んでいようとも。
たとえ彼自身が、闇の中で堕ちていくとしても。
その決意だけが、
レギュラス・ブラックを支えていた。
冬の終わりを告げるように、朝の光が窓辺を薄く照らしていた。
重厚なカーテンの隙間から射し込む陽が、
金の食器を淡く輝かせている。
ダイニングにはいつもと変わらぬ静寂が満ち、
ナイフとフォークの触れ合う音だけが、空間にかすかな響きを残していた。
テーブルの中央には、湯気を立てるスープと、
薄く焼かれた肉、焼きたてのパンが並んでいる。
けれど、それらはほとんど手つかずのままだった。
アランはスプーンを持ったまま、視線を皿の上に落としている。
唇は結ばれ、指先がわずかに震えていた。
レギュラスは静かに息をついた。
医務魔女の診断結果が頭の中で繰り返される。
――「体重を戻せば、時間の経過とともに回復の見込みがあります」
その一言が、どれほど彼の胸を熱くしたことか。
あの日、診察室でアランの傍にいたとき、
彼女の細い手が自分の指をかすかに握り返した瞬間、
ほんの小さな希望が確かに灯った。
それを決して消したくなかった。
だからこそ、レギュラスは今日も彼女の前に皿を並べる。
「これも食べてください。」
穏やかに、しかしどこか切実な声音で。
アランの瞳がゆっくりとレギュラスを見た。
驚きと戸惑い、そして――ほんの少しの困惑。
その視線に「もう十分です」という言葉が滲んでいるのが分かる。
それでもレギュラスは微笑んだ。
「食べないと、体調が戻りませんからね。」
言いながら、肉を小さく切り分ける。
ナイフの刃が皿に当たる音が静かに響く。
切り分けた肉をフォークで彼女の皿に移すと、
淡い香草の香りがふわりと広がった。
アランはほんの少し眉を寄せた。
多すぎる――そう言いたげな顔。
けれど彼女は言葉を発せない。
ただ、視線だけでレギュラスに訴えかける。
レギュラスは首を横に振り、
「少しずつでいいです。無理にとは言いません。」
そう言いながら、彼女の手元にスプーンをそっと置いた。
沈黙の中、アランは小さく息を吐き、
スプーンを手に取る。
手の甲にはまだ、鎖の跡が薄く残っていた。
その痕跡が、彼女の過去を雄弁に語っている。
レギュラスは、彼女の動きを見守りながら、
心の奥で祈るように願っていた。
――どうか、少しでも力を取り戻してほしい。
もう二度と、冷たい地下で命の火が消えかけるようなことがありませんようにと。
スプーンがスープをすくい、
アランの唇に運ばれる。
その動きはぎこちなく、
けれど確かに“生きよう”としていた。
一口、二口。
レギュラスの胸がゆっくりと熱を帯びる。
喉を通るそのたびに、彼の心まで満たされていくようだった。
やがて、アランは少しだけ顔を上げた。
瞳がわずかに柔らかくなっている。
食卓の白いクロスに、こぼれた光が二人の手を照らす。
レギュラスはそっとその手を包み込み、微笑んだ。
「えらいですよ、アラン。」
その一言に、アランのまつ毛が震えた。
彼女の中の小さな変化を見逃さないようにと、
レギュラスはただ見つめ続ける。
食事という行為が、
こんなにも尊く、祈りにも似たものだとは、
これまで知らなかった。
この家の食卓が、
初めて“誰かを生かすための場所”になった。
その夜、レギュラスは静かに思った。
――命を繋ぐとは、きっとこういうことなのだ。
奪うのではなく、与え続けること。
そしてその“与える”相手が、
今、自分の目の前にいるのだと。
寝室の灯りは、ほとんど落とされていた。
窓辺から漏れる月光だけが、淡く白い輪郭を描くように二人の影を照らしている。
その光の中で、アランは薄いナイトドレスに身を包んでいた。
柔らかな布地が彼女の肩をなぞり、微かに透けるようにして肌の色を浮かび上がらせている。
あの屋敷に連れてきたばかりの頃は、彼女の体はあまりにも細く、まるで服に着られているようだった。
袖の中で泳ぐ腕、腰のラインを失った輪郭。
けれど今、月明かりの下にある彼女は、どこかほんのりと丸みを帯びて、柔らかな息づかいと共に女性としての温もりを取り戻していた。
その変化が、レギュラスには何よりも嬉しかった。生きている証が、ここにあるのだと思えた。
彼はベッドの縁に腰を下ろし、横たわるアランの隣へと身を滑らせる。
静寂の中、彼女の髪がさらりと流れ、指先に触れるたびに絹のような感触が広がった。
自然と腕が伸び、アランの体を抱き寄せる。
その行為は、いつの間にか彼の日課のようになっていた。
首筋に唇を落とす。
その一瞬の震え――彼女の息が胸に触れる。
レギュラスの中で、何かがゆっくりと崩れていった。
「……アラン」
低く掠れた声で名を呼ぶ。
その声には理性よりも、感情の方が濃く滲んでいた。
――この腕の中にいる女は、もう守るべき存在ではない。
彼にとっては、ただ一人の“女”だった。
月光に照らされた白いうなじ。
刺繍が施されたナイトドレスが、こんなにも妖艶に映るとは思いもしなかった。
生まれながらの気高さと儚さが同居している。
触れたくなる、けれど壊してしまいそうで怖い。
そんな矛盾が胸を締めつけた。
「アラン……好きです」
抑えきれずに漏れた言葉は、囁きというより祈りに近かった。
アランはゆっくりと目を開け、戸惑いの中でレギュラスを見つめた。
次の瞬間、彼の背に腕を回す。
その仕草は、何の言葉よりも雄弁だった。
“私も、あなたが好き”――そう告げているようで。
胸の奥が焼けるほど愛おしい。
心の奥に長いこと閉じ込めていた想いが、静かに形を持ちはじめる。
レギュラスは彼女の頬に指を滑らせた。
熱を帯びた肌に、触れた指先が震える。
もっと、この時間をゆっくりと――そう思っていたはずだった。
焦らず、少しずつ距離を縮めていこうと。
けれど今、そんな理性はもう何の意味も持たない。
彼は息を詰め、囁く。
「アラン……しませんか?」
問いかけの意味を、アランがどこまで理解しているのかは分からない。
けれど、彼女は静かに頷いた。
その動作は、月光に照らされた羽のように繊細で、けれど確かな意志を感じさせた。
――頷いたからには、それはもう肯定なのだ。
レギュラスは彼女をそっと抱き寄せる。
全てを慈しむように、そして確かめるように。
夜は静まり返り、外の風が窓をかすめた。
二人を包むその音さえも、祝福のように優しかった。
レギュラスは、アランの頷きを見届けたあと、ゆっくりと息を吸い込んだ。
その一呼吸のあいだに、胸の奥で何かがきしむ。
求めていたはずの温もりが、こんなにも痛みを伴うものだとは思っていなかった。
月明かりが静かに揺らめく寝室。
外の風がカーテンを揺らし、その布の影が二人の上をやわらかく流れていく。
レギュラスはそっとアランの頬を撫でた。
彼女はわずかに瞬きをしただけで、何も言わない。
唇を開いても声が出せない。代わりに、沈黙が全てを語っていた。
ナイトドレスの裾に手を伸ばしたとき――
ほんの少し、彼女の体が強張った。
それは微細な震えだったが、レギュラスにははっきりと伝わった。
彼女の肩が、息を呑むようにわずかに跳ねる。
その瞬間、空気が変わった。
香りも、温度も、全てが息を止めたように静まり返る。
彼女の表情が苦しげに歪む。
唇を噛みしめ、何かを必死に堪えるようにして。
閉じられたまぶたの奥に、過去の影が差したのだとレギュラスは悟った。
――あの地下。
鉄と血の匂い、耐え難い恐怖の中で、彼女の尊厳が踏みにじられた場所。
その記憶が、わずかな触れ合いで蘇ったのだ。
レギュラスは手を止めた。
動かしてはならないと、全身が叫んでいた。
彼女の頬を撫でる指先が、今度はそっと引いていく。
「……アラン、怖いです?」
低く、壊れ物に触れるような声で問う。
アランは、かすかに首を振った。
けれど、その手はシーツの上で小さく握りしめられていた。
指の節が白くなるほど強く。
それだけが、彼女の心がまだ怯えていることを物語っていた。
レギュラスの胸が締めつけられた。
自分が今しようとしていたことが、どれほど彼女に恐怖を思い出させたのか――
その事実が、刃のように刺さる。
そっと、彼は彼女の衣服を整えた。
はだけた布を丁寧に戻し、髪を撫で、乱れをひとつ残さぬように。
その仕草にこめられたのは、欲ではなく祈りだった。
「……すみません。急ぎすぎましたね」
小さく漏らした言葉は、夜気に溶けて消える。
静けさが戻ると同時に、アランの瞳が開かれた。
翡翠のようなその色が、ゆっくりとレギュラスを映す。
そこにあったのは怯えだけではなかった。
微かに揺れる信頼の光――まるで「あなたを嫌ったわけではない」と伝えるように。
その一瞬、レギュラスの中で安堵の波が静かに広がった。
彼はもう一度、アランの頬に触れた。
今度はただ、掌でその温度を確かめるために。
何も奪わない、何も求めない。
ただ、そこに“生きている”彼女がいることを確かめたかった。
アランのまつげが震え、頬を伝って一粒の涙が落ちる。
レギュラスはその雫を拭わなかった。
それもまた、彼女の過去の一部なのだと思った。
「……もう少し、時間をかけましょう」
囁きながら、彼はアランを抱きしめた。
今度の抱擁には、熱も焦りもなかった。
ただ守りたいという思いだけがあった。
外では風が鳴り、遠くで木々がざわめいている。
夜の世界は、二人を包み込みながら静かに息づいていた。
彼女の髪に頬を寄せ、微かな呼吸の音を聞く。
その音が、確かに今を生きている証であることに、胸が熱くなる。
“奪うことではなく、共に在ること。”
それが彼の愛のかたちだった。
レギュラスは目を閉じ、そっと呟く。
「アラン……あなたが笑えるようになるまで、待ちます」
彼女は何も言わず、ただ小さく頷いた。
その頷きが、すべての言葉の代わりだった。
そして、夜がゆっくりと二人を包み込んでいった。
抱き合いながらも、交わることのないまま。
それでも確かに、愛はそこに息づいていた。
デスイーターたちの間で噂が流れるのに、そう長くはかからなかった。
――レギュラス・ブラックが、あの地下牢に幽閉されていた女を連れ帰った。
集会のたび、誰かがその話を持ち出す。
酒の席では半ば冗談のように笑い合う者もいれば、
裏で顔を寄せ合い、訝しげに囁く者もいた。
「正気を失ったのか」「女の魔力にでも取り憑かれたのか」と。
耳に届かぬはずもなかった。
けれど、レギュラスはどの言葉にも微動だにしなかった。
言葉を返すこともなく、ただ淡々と任務をこなすだけだった。
どう思われようが構わない――
あの女を連れ出せたという事実こそ、彼の誇りであり救いだった。
バーテミウスは、その様子を面白がるように口元を歪めた。
「君、ほんとにやるとは思いませんでしたよ。
さすがですね、レギュラス・ブラック。」
皮肉とも称賛ともつかぬ声に、レギュラスは小さく笑みを浮かべた。
「まだ課された条件を果たせていませんから、気は抜けませんよ。」
「一体、何を取引したんです?」
バーテミウスの瞳が、獣のように光る。
彼は常に興味本位で、核心には踏み込まない。
それがまたレギュラスにとっては心地よかった。
「そのうち、わかります。」
そう言い残し、カップに残ったワインを口に運んだ。
赤い液体が喉を伝うたび、微かな苦味が残る。
彼の脳裏には、昨夜の光景が焼きついて離れなかった。
月明かりの下、アランがベッドの上で眠る姿。
薄いナイトドレスが、ほのかに光を透かしていた。
呼吸のたびに胸元がゆるやかに上下し、
それを見ているだけで、どうしようもなく愛おしかった。
――彼女を抱きたかった。
それは欲望というより、祈りに近い衝動だった。
愛しているから、彼女の温もりを自分の中に刻みたかった。
何も奪わず、何も壊さず、ただ確かめるように触れたかった。
けれど、彼女の体は、ほんの少しの動きにも震えた。
ナイトドレスの布を指先で掴んだ瞬間、
彼女の瞳が大きく見開かれ、
記憶の底から湧き上がる恐怖がそのまま表情に浮かんだ。
その瞬間、レギュラスの手は止まった。
胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
――違う。
これでは駄目だ。
これでは、あの地下で彼女を壊した男たちと何も変わらない。
そっと手を離し、彼女の髪を撫でる。
「アラン……すみません。急ぎすぎました。」
小さく震える体を抱き寄せると、彼女の呼吸が少し落ち着いた。
瞳がゆるやかに開かれ、翡翠の色が再び光を取り戻す。
それだけで、レギュラスの胸が温かく満たされた。
医務魔女の報告では、
「月経も排卵もまだ確認できません」とのことだった。
つまり、彼女を“抱く”理由も、今はまだないということ。
それでも――彼女を求めたのは理屈ではなかった。
血を継ぐためでも、任務を果たすためでもない。
ただ一人の女として、アランを愛してしまった。
それだけのことだった。
レギュラスはバーテミウスの前で、グラスを置く。
「愛というものは、時に厄介ですね。」
「まさか君の口からそんな言葉を聞くとは驚きですよ。」
バーテミウスは目を細め、笑った。
レギュラスは微笑で応えたが、
その奥底で、静かに誓いを立てていた。
――必ず、この手で彼女を癒やす。
彼女が恐怖ではなく、愛の中で微笑めるように。
それまで、自分の欲も焦りも、全て封じてみせる。
外では風が吹き、冬の気配が近づいていた。
その冷たい空気の中で、
レギュラス・ブラックの胸の奥には、
燃えるように熱い灯が揺れていた。
屋敷は、驚くほど静かだった。
風の音さえも遠く、時計の針の進む音がやけに鮮明に聞こえる。
その静寂が、最初は怖かった。音がないということが、こんなにも不安を掻き立てるものなのかと。
けれど、少しずつ気づいていった。
――ここには、叫び声も、鎖の音も、罵倒の声もない。
レギュラスに与えられたのは、彼自身の寝室だった。
広すぎるほどの空間。
厚いカーテンの隙間から差し込む朝の光が、絨毯に柔らかい模様を描く。
あの地下で過ごしていた暗闇と比べれば、まるで別の世界だった。
石壁ではなく、木の香りがする。湿った空気ではなく、どこか甘い花の香りが漂っている。
そのどれもが、まだ夢のようで、信じ切ることができなかった。
レギュラスが部屋を出ている間、
彼が置いていった本の山に、アランは自然と手を伸ばした。
「退屈しないように」と言って書斎から持ってきてくれたものだ。
分厚い革表紙の魔法書。
指でなぞると、長い年月を経た文字が、かすかに浮き上がるように感じられた。
ページをめくる。
かさり――という音が、胸の奥にまで沁みる。
紙をめくるたびに、記憶の底に沈んでいた感覚が蘇る。
幼い頃、母の傍で読んだ魔法史の本。
暖炉のそばで、優しく光るランプの下で過ごした時間。
あれはもう、遠い遠い昔の出来事だった。
けれど今、こうして再びページをめくれることが、どんな言葉よりも幸福だった。
少し読み進めたところで、一枚の写真が挟まっているのに気づいた。
しおり代わりにされていたのだろう。
紙の端がわずかに擦れていて、何度も開かれた跡がある。
手に取って、そっと裏返す。
写っていたのは二人の少年だった。
光の中で肩を並べ、どちらも同じように整った顔立ちをしている。
兄弟――そう思うのが自然だった。
一人は明るい髪を後ろへ撫でつけ、わずかに挑むような笑みを浮かべている。
もう一人は、その隣で静かに微笑んでいた。
その灰銀色の瞳が、あまりにも見覚えがあった。
――レギュラス。
写真の中の少年は、確かに彼だった。
そしてその隣にいるのは、おそらく兄なのだろう。
彼よりも少し背が高く、どこか気品と傲慢さを同時に纏っている。
アランは指先でそっと、二人の顔をなぞった。
あの優しい声の主にも、こんな幼い日があったのだ。
この穏やかな表情の少年が、いつから“闇の印”を刻むようになったのだろう。
いつから、あの残酷な世界の中に身を投じたのだろう。
それを考えると、胸がじんわりと痛くなった。
彼もまた、何かを守るために闇の中へ降りていったのだと、
そんな気がした。
光を受けて微かに反射する写真を、
アランは両手で包み込むようにして見つめた。
その中の少年の笑顔が、まるで今もこちらを見つめ返してくるようで――
涙が一筋、頬を伝った。
「……レギュラス。」
声にならない声が、唇の内側で震える。
その名前を呼ぶことができたら、どんなに救われるだろう。
彼がこの写真を挟んだ理由も、
兄とどんな別れをしたのかも、アランには分からない。
けれど、この一枚が語る“過去”が、
彼の優しさと痛みの両方を作り上げたのだと思うと、
胸の奥に静かに灯がともるような気がした。
アランは写真を魔法書の中に戻し、
そっとページを閉じた。
手のひらの中には、まだあたたかいぬくもりが残っている。
まるで、彼がここにいるようだった。
ブラック家の屋敷は、まるで空気そのものに威圧感が漂っていた。
廊下に並ぶ肖像画たちは、代々の当主たちの誇りと傲慢をそのまま額に閉じ込めているようで、視線を感じるたび背筋が凍る。
アランにとって、そこは息を潜めていなければならない場所だった。
オリオン・ブラック――屋敷の主。
その瞳は灰色に沈み、常に何かを測るような冷静さを湛えている。
一方のヴァルブルガは、その夫よりもさらに激情的だった。
細い指先でワイングラスを回しながら、わずかにアランを見るだけで唇の端を吊り上げる。
まるで、穢れたものでも見るように。
「……あれが例の女ですの?」
その声には氷の刃のような刺があった。
「そうです。闇の帝王が封印の継承を必要としている、セシール家の娘です。」
レギュラスの声は冷静で、礼儀正しく響いた。
ブラック家の食卓は広すぎた。
長いテーブルの上には燭台が並び、金の食器が整然と並べられている。
それなのに、食事のたびに張り詰める沈黙は、地下牢の冷気よりも重かった。
アランは、ナイフとフォークの使い方すら思い出すのに時間がかかった。
硬いパンを少し切り取っては、慎ましく口に運ぶ。
その仕草を、ヴァルブルガの冷たい視線が射抜く。
まるで、食事をするという行為そのものが“この家の血を汚す”とでも言いたげに。
「気にしなくて構いませんよ。」
レギュラスが穏やかに微笑みながら、アランの皿に魚を取り分けた。
淡い銀色の瞳が優しく細められ、その一瞬だけ空気が和らぐ。
「……そうは言っても。」
心の中で呟いた言葉は声にならなかった。
気にするなという方が無理だった。
血筋を何より重んじるこの家で、
自分はまるで“穢れ”の象徴のように扱われているのだから。
ヴァルブルガの視線は、棘のようにアランの心に刺さった。
口を開かなくても、その表情が語っていた――
「あなたのような娘が、我が家の血を継ぐなんてありえない」と。
だがレギュラスは、そんな母の視線を一瞥もしない。
アランの皿に次々と料理をのせていく。
肉、野菜、そしてスープ。
少し多いのではと思うほどに。
「そんなことより、ほら。ちゃんと食べてくださいね。」
その声は、まるで幼い子に語りかけるように優しかった。
彼の手が差し出すフォークの先に乗った魚を、アランは静かに口へ運ぶ。
噛み締めた瞬間、舌に広がる塩気が懐かしかった。
――母がよく作ってくれた焼き魚の味に、少し似ている。
胸の奥が熱くなり、喉の奥が詰まる。
あの暗い地下では思い出すことすらできなかった“家庭の味”が、
こんな形で蘇るとは思ってもみなかった。
レギュラスの横顔を盗み見る。
彼は相変わらず穏やかで、どこまでも優しい。
食卓の空気がどれほど冷たくても、
彼だけがひとつの小さな灯火のように見えた。
「……ありがとう。」
声にならない言葉を、心の中で呟く。
それは彼に届くことはない。
けれど、彼の手がそっと自分の皿を引き寄せ、
「もう少し食べましょう」と囁いた瞬間、
アランは思った――
この屋敷のどんな冷たさにも、彼さえいれば耐えられるかもしれないと。
書斎の扉を開けると、長い時間に晒された木の香りがふわりと立ちのぼった。
外の世界と切り離されたような静けさの中で、整然と並んだ本棚が壁一面を覆っている。
重厚な装丁の本がぎっしりと詰められ、魔法史や古代呪文、錬金術の書物から、詩集や童話までが揃っていた。
アランは扉の前で立ち止まり、息を呑むようにその光景を見つめていた。
「ここにある本は、どれでも読んで構いません。」
レギュラスは、彼女の隣に立って微笑んだ。
「僕がいない間、退屈しないように。本を読むのは、心に風を入れるようなものですから。」
アランの翡翠の瞳が静かに揺れる。
長いこと“読む”という行為から遠ざけられていた。
ページをめくる指の感触も、紙の擦れる音も、あの地下では一度も許されなかった。
その世界をもう一度与えられたことが、胸の奥でじんわりと広がる。
「それから……これも、あなたに。」
そう言ってレギュラスは、懐から一本の杖を取り出した。
少し短めで、木肌は深い黒褐色。
ところどころに磨き跡が残り、長年使われてきたことがうかがえる。
「僕が子供の頃に使っていた杖です。少し小さいけれど、きっとあなたに合う。」
アランの唇が震える。
長い間、手の中に何も持てなかった。
武器にも、魔法にも、自分の存在を支える道具にも触れられなかった。
杖を握るという行為が、どれほど懐かしいか。
指先が杖の滑らかな感触を確かめるように撫でた。
その顔に、かすかに笑みが浮かぶ。
――笑った。
レギュラスはその瞬間、心臓が強く跳ねるのを感じた。
ほんのわずかな笑顔だったのに、まるで春の陽光が部屋に差し込んだかのように思えた。
最近、彼女がこうして目を細めて笑う瞬間をよく見る。
そのたびに胸の奥が温かくなる。
アランは杖を軽く振り、宙にそっと文字を描く。
淡い金色の光が空中に線を刻み、やがて美しい筆記体が浮かび上がった。
――Regulus, thank you.
その瞬間、レギュラスの口元に柔らかな笑みが宿った。
「いいですね、これでようやく“話”ができます。」
声を出せない彼女が、それでも自分の言葉を持てた。
それがこんなにも嬉しいとは思わなかった。
アランはゆっくりと書棚を歩き、ふと手を止めた。
そこには古い家族写真が額に収められていた。
少年が二人、肩を並べて笑っている。
片方は少し大人びた表情をしており、もう片方はその陰で控えめに微笑んでいる。
それを見つめながら、アランは杖を動かす。
――どんな子だったの?
レギュラスは苦笑するように息を吐いた。
「普通の学生でしたよ。真面目で……少しばかり神経質で。」
少しの間を置いて、思い出すように視線を遠くへ向ける。
「クィディッチが好きでした。空を飛んでいる時だけは、何もかも忘れられた。」
彼女がその言葉を聞いて、ふと首を傾げた。
「クィディッチ?」と杖の先が文字を描く。
レギュラスは微笑みながらアランの背後に回った。
そっと両腕を伸ばし、アランの持つ杖に自分の手を重ねる。
「少し見ていてください。」
杖先から光が弾け、空中に揺らめく映像が浮かび上がる。
クィディッチの試合。
金色のスニッチが空を舞い、歓声が響く。
幼き日のレギュラスが、スリザリンの緑のローブを纏い、ほとばしる風を切って飛んでいる。
高く、鋭く、そして美しく。
「これが僕です。早いでしょう?」
その声には少年のような誇らしさがあった。
アランは両手を胸の前で重ね、夢のようにその光景を見上げている。
――本当に、この人はこんな風に笑うのだ。
彼の口元に浮かぶ柔らかな笑顔を見て、アランの胸の奥が温かくなった。
この人の過去を知ることは、彼の心の奥へ触れるような気がした。
レギュラスは、彼女の頬にかかる髪をそっと指で払う。
「僕はあまり、過去を語るのは好きではないんです。」
「でも、あなたに見せる過去なら……美しいものだけでありたい。」
アランは振り返る。
光を映した翡翠の瞳がまっすぐに彼を見上げた。
その瞳の奥に、自分の姿が小さく映り込んでいるのを見て、レギュラスは微笑む。
――これまでの自分がどうであれ、
彼女の前では、ただ“優しい男”でありたい。
そう思った瞬間、
クィディッチの歓声が、まるで遠い記憶の向こうで鳴り響くように聞こえた。
寝室は、夜の静寂に包まれていた。
窓辺のカーテンの隙間から、月明かりが細い線を描き、床を淡く照らしている。
その光が、アランの白い頬や髪の輪郭をなぞるように滑り、まるで天から降り注ぐ祝福のように見えた。
レギュラスは、ベッドの上で彼女をそっと抱き寄せていた。
華奢な体はまだ軽く、腕の中にすっぽりと収まってしまう。
その小さな温もりを確かめるように、指先で背中を撫でた。
魔法界のどんな炎よりも、彼女の体温のほうが確かで、柔らかかった。
「いつか――あなたの声が戻る時がくれば、その時は……」
言葉を探すように、レギュラスは囁く。
「いっぱい話してくださいね。僕に、あなたの声を聞かせてください。」
アランは、腕の中で小さく何度も頷いた。
そのたびに、髪が頬に触れ、ふわりと香りが立つ。
夜の静けさの中で、彼女の呼吸の音だけが微かに重なっていた。
レギュラスは思う。
彼女の声を一度も聞いたことがないのに、
その沈黙の中に、確かに“言葉”が宿っていると感じる。
彼女の瞳、表情、仕草――そのどれもが雄弁に語る。
いつか本当に言葉を取り戻したら、
どんな声で笑い、どんな声で怒り、どんな声で“愛してる”と囁くのだろうか。
アランもまた、腕の中で静かに思っていた。
――この人のいろんな声を聞いてみたい。
穏やかに話す時の声、指示を出す時の声、そして……自分の名前を呼ぶ時の声。
それを想像するだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
レギュラスは、彼女の髪を指に絡ませながら、囁くように言った。
「アラン……好きですよ。」
その瞬間、アランがわずかに動いた。
胸元に顔を寄せ、そっとレギュラスの首筋に唇を押し当てた。
あたたかく、やわらかな感触。
レギュラスの身体がびくりと反応する。
それは自分が教えた行為だった。
“好き”と伝えられない代わりに、そうやって想いを返してほしいと。
「僕があなたに“好き”と伝えたら、こうして……」と。
言葉を交わさなくても、心は通じる。
そう信じたかった。
そして彼女は、その教えを忠実に覚え、今、まっすぐに実践してくれたのだ。
その従順さが、愛おしさと同時に、どうしようもないほどの悦びを胸に溢れさせる。
レギュラスは目を閉じ、静かに息を吐いた。
アランの唇の余韻が、まるで炎のように首筋に残る。
それは快楽ではなく、もっと深い場所を震わせる感覚だった。
自分が彼女に与え、そして彼女が返してくれた“愛の形”。
抱き寄せた腕に力を込める。
「……ありがとう、アラン」
声にならない彼女の答えは、ただ寄り添う体温と心臓の鼓動で返ってくる。
外では夜の風が木々を揺らしていた。
だがこの部屋の中だけは、時間が止まったように穏やかだった。
二人の間に流れる静かな鼓動のリズムだけが、世界を満たしていた。
レギュラスの指先が、彼女の髪を梳く。
アランは瞳を閉じ、安らかな呼吸を繰り返す。
その姿に、レギュラスは心の奥で思った。
――言葉を超えた想いは、沈黙の中でこそ確かに育つのかもしれない。
月光が二人を包み、
長い夜は、静かな幸福のうちにゆっくりと更けていった。
