3章
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午前の会議を終え、机上に積み上がった文書の束をようやく片付け始めた頃だった。
バーテミウスが急ぎ足で部屋に入ってきた。
その靴音だけで、良い報せではないと分かる。
「レギュラス、関所の近辺で――マグルたちがデモを起こしています」
一瞬、空気が固まった。
レギュラスは手元の羽根ペンを置き、ゆっくり視線を上げる。
「……デモ、ですか」
「はい。人数は増えつつあります。横断幕や拡声器を使って、“魔法族の支配反対”だの“差別反対”だの……。一部、魔法省職員に暴言も飛ばしているようです」
レギュラスの眉間にわずかな皺が寄った。
嫌悪が眉の奥に静かに沈殿していく。
――ああ、またか。
力も持たぬ者が、集団で吠えたてる滑稽な光景。
「どうします?」とバーテミウスが問う。
レギュラスは椅子から肘を離し、淡々と答えた。
「デモの鎮静は……騎士団に任せましょう。マグルの相手は、彼らの“得意分野”でしょうから」
皮肉が自然と滲み出る。
バーテミウスはその温度を読み取り、口元だけで薄く笑った。
しかしレギュラスの胸中では、冷たい苛立ちが波紋のように広がっていく。
――マグルは、どうしてこうもしつこいのか。
魔力を持たぬというだけで、世界に縋り、集団で暴れ、
相手を恐れながらも、恐怖ゆえに牙を剥こうとする。
弱いのに吠える。
無力のくせに逆らう。
仕組みも理解せず、道理も分からず、ただ噛みつく。
そのすべてが、レギュラスの神経を逆撫でした。
窓の外を見る。
魔法省の塔の影が地上に長く伸びている。
人々が行き交う光景に、魔力の光が揺らめいていた。
これが“世界の秩序”だ。
これが当然だ。
魔法族が治め、マグルはその外周で生きる。
それを揺るがせる権利など、どこにもない。
「バーテミウス。
騎士団に連絡を。デモ鎮圧の許可は出します。
ただし、魔法の直接行使は最小限に抑えるようにと」
「承知しました」
バーテミウスが退出すると、部屋には静寂だけが戻った。
しかし、レギュラスの胸の内のざわつきは収まらない。
――デモに騒ぎ、怒号をあげ、境界を越えようとする。
自分たちが招いた危機だという自覚もない。
魔法族の魔力を奪う薬を作ったのは、どこの誰だ。
その愚かさを棚に上げ、
“差別反対だ”などと口先だけで叫ぶ。
レギュラスは深く息を吐いた。
「弱者とは、なぜこうも自分の弱さを他者のせいにするのか」
独り言は、静かに部屋の空気へと溶けていく。
彼が本当に怒りを覚えているのは、
マグルの行動そのものではなかった。
――その愚かさに、アランがまた怯えるかもしれないという事実。
魔法族の暴動も、マグルの蜂起も、
彼女の平穏を脅かすものは全て排除したかった。
だからこそ、己の中の苛立ちは、
マグルではなく“世界そのもの”へと向かい始めていた。
レギュラスは椅子に深く腰を戻し、
指先で机を軽く叩いた。
規則正しい音が、心の奥の怒りをなだめるように鳴る。
「……騎士団がどう鎮めるか。見ものですね」
その声は凍るほど静かで、
けれど胸の奥には確かに火が灯っていた。
夕刻。窓の外は早くも薄紫に染まり、魔法省の塔の影が長く長く伸びていた。
レギュラスは書類に目を通しながらも、どこか集中しきれずにいた。
胸の奥に沈んだ苛立ちが、さざ波のように広がったまま消えていかない。
扉を叩く音がした。
「どうぞ」と言うと、バーテミウスが姿を見せた。
「……レギュラス。騎士団からデモ鎮圧の報告が入りましたよ」
レギュラスは書類から顔を上げる。
「どうぞ。聞きましょう」
バーテミウスは一枚の報告書を差し出しながら簡潔に述べる。
「暴徒の一部は拘束、負傷者は軽傷が数名。
騎士団は非魔法的手段のみで制圧し、大規模な混乱は回避されたとのことです」
「……そうですか」
声は平板だったが、その発音の一つひとつが冷えていた。
報告を聞き終えたはずなのに、胸のざらつきは収まらない。
バーテミウスは続けた。
「ですが……デモ隊は完全には散っておりません。
マグル側の集会は今後も断続的に行われる可能性が高いようです」
レギュラスの眉が、わずかに動いた。
――やはりか。
デモなど単発の騒動で終わるはずがない。
人間とは、一度声を出すと、次はもっと大きな声を欲しがる。
群れれば群れるほど、理性より感情が勝つ。
「関所の設置を逆恨みしているのでしょうね」とバーテミウス。
逆恨み。
確かにその通りだった。
危険を生んだのは彼ら自身だというのに。
魔力を奪う薬を開発し、魔法族を脅かした側が。
今になって“差別だ”“自由を奪うな”と叫ぶ。
――身の程を、知らない。
レギュラスは無言のまま報告書を受け取り、読み始めた。
一行一行に目を通すほど、微かな苛立ちが積もっていく。
デモは沈静されても、“空気”は沈静化していない。
魔法族とマグルのあいだに、見えない亀裂が広がっていく。
そしてそれがアランの世界にも、じわじわと侵食していく未来が想像できた。
胸の奥が、鋭い刃物で撫でられるようにざわつく。
――そんな未来は、許さない。
彼女がまた怯えるような世界など。
再びマグルの暴力に晒されるような世界など。
絶対に、許さない。
「レギュラス、今後の方針は?」
バーテミウスの声で思考が途切れる。
レギュラスは書類を静かに閉じた。
「……デモ鎮圧は騎士団に任せましょう。
法務部はあくまで秩序の保持に徹する。
ただし――」
一拍置く。
言葉を整えるというより、苛立ちを押し殺すための間だった。
「もしマグル側が暴力に転じれば、
次は警務部の出動を検討します」
バーテミウスの目がわずかに開く。
「……本気で?」
「ええ。必要とあらば。
我々は魔法界を守らねばならない。
“外側”からの脅威には、相応の対処が必要です」
声は静かだったが、奥底には確かな怒りが潜んでいた。
レギュラス自身も気づいていた。
この怒りの源は、マグルへの軽蔑だけではない。
―― アランの世界が揺らぐこと、そのものが許せないのだ。
かつて声も奪われ、狭い石牢で怯え、
美しい瞳を汚されながら、ただ生き延びてきた少女。
彼女の暮らす“今の世界”を壊されるわけにはいかなかった。
レギュラスは椅子から背を離し、深く息を吐いた。
「……これ以上の不穏を広げられません」
それは命令ではなく、
世界そのものに対する警告のようだった。
バーテミウスが退出すると、
部屋には静けさだけが残った。
しかしレギュラスの胸には、不穏が渦を巻き続けていた。
――この揺れは、まだ続くだろう。
だが、絶対に守る。
アランを。家族を。魔法界を。
指先に力が入る。
その白くなるほどの緊張が、レギュラスの決意を物語っていた。
その日の魔法省は、どこかざわめきが違っていた。
広い廊下を歩くたび、視線が自分へ集まってくるのをレギュラスは感じていた。
畏怖――そして期待。
互いに牽制し合っていた部署同士が急速に“同じ方向を見始めた”時に生まれるざわりとした空気。
まるで、風向きが一斉に変わったような感覚だった。
会議室に入り、椅子に腰を下ろすと、すでに警務部長が席を整えて待っていた。
「お待ちしておりました、ブラック卿」
その声は、昨日までよりわずかに低く、慎重だった。
――変わった。
レギュラスは心の中でそう呟いた。
治験に回されたデスイーターの問題。
マグル界での武装集団の動き。
境界線設置後の混乱。
そして、魔法族の力に恐れを抱くマグルたちの連続的な暴動。
そのすべてが「治安の強化」を正当化し始めていた。
「……では始めましょうか」
レギュラスの言葉で、会議室の空気がきつく引き締まる。
警務部長が資料を広げる。
「今回の件を踏まえ、警務部は法務部と完全に情報共有し、指示系統を一本化するべきと考えています。
独断で動く部局が増えれば増えるほど、今の情勢は不安定になりますから」
“警務部が法務部に指揮を委ねる”――
それはつまり、現場部隊と裁決権が一本化されるということ。
魔法界の治安と判断の大半が、レギュラスブラック一人の手に流れ込む。
「……よい判断です」
レギュラスは淡々と頷いたが、胸の奥に微かな熱が灯った。
力が集まる感覚。
求められていく確信。
責任を負うことを恐れない者だけが味わえる、深い静かな昂ぶり。
会議は淡々と進んだ。
警務部がマグル界から撤退した後の監視方法。
関所の増設案。
違法魔法薬の流通と、反体制派魔法族への取締り。
どの議題も、最終的な言葉を求められたのはレギュラスだった。
「ブラック卿はどうご判断しますか?」
「最終決定は法務部に準じたい」
「ブラック様のご判断に従います」
一つひとつが積み重なっていく。
気がつけば、彼は机上の資料ではなく、室内の空気そのものを把握していた。
誰が何を求め、誰がどのように動こうとしているのか。
そのすべてが手に取るように分かる。
――自分は、いま魔法界の“中心”にいる。
それは驕りではなく、ただの事実だった。
会議が終わり、皆が退室した後。
レギュラスは静まり返った部屋に一人残った。
窓の外、魔法省の塔の上空をゆっくりと飛ぶフクロウが見える。
その景色すら、いつもと違って見えた。
自分の意志ひとつで、魔法界の動きが変わっていく。
その重さも、責任も、恐ろしいほどに心地よかった。
しかし――
胸の奥に、ひとつだけ硬い棘のような違和感が残る。
アランの不安定な仕草。
昨夜のぎこちない会話。
シリウスの存在。
屋敷に漂う、微かな緊張の残り香。
外側の世界は思い通りに動き始めているのに、
内側――家の中だけがどこか揺らいでいる。
世界を掌握していくほどに、
アランの小さな揺れが、逆に刺さる。
権力が強まれば強まるほど――
彼女の心が遠のいてしまうのではないかという
根拠のない焦燥が、胸の奥で静かに息をしていた。
レギュラスは深く息を吸い、瞼を閉じた。
世界も、家族も、妻も。
すべてを守らなければならない。
それが、
レギュラス・ブラックという男の宿命だった。
ジェームズは、机の上に置かれた一枚の許可証を見つめていた。
薄い羊皮紙に魔法省の紋章が押され、見慣れた政府の署名が光っている。
――許可証。
マグル界へ出向くための、魔法省が発行する正式な通行手形。
それだけ。たったそれだけの紙片一枚で、妻の故郷へ行けるかどうかが決まる。
「リリー、書類……できたよ」
彼女は暖炉のそばでスカーフを畳んでいた。
ジェームズの声に振り返り、微笑もうとして……
微笑みきれず、少し寂しげな表情に変わる。
「ええ……何度見ても、変な感じがするわね」
紙を受け取りながら、リリーの指先が震えている。
ジェームズの胸が痛んだ。
――どうしてこんなものが必要になってしまったんだと。
レギュラス・ブラックの主導する“関所政策”。
魔法界とマグル界を完全に線引きし、行き来を“許可制”とした制度。
魔法族にマグルの血が混じる家庭や、マグルの親を持つ魔法族――
そうした家庭の事情などまるで考慮されていない、冷たい仕組み。
「今度は……両親の家に行くのも、簡単にはいかないわ」
リリーは小さくつぶやいた。
その声が、静かな部屋に落ちていく。
ジェームズは思わず彼女を抱き寄せた。
「ごめん。こんな世界にしてしまって……」
「あなたのせいじゃないわ」
リリーは首を振る。
けれど、その瞳の奥に沈んでいる痛みは消えない。
ジェームズの脳裏に、ハリーの笑顔が浮かんだ。
休日にマグルの街へ連れて行き、映画や公園を見せてやろうと約束した日々。
あれはもう、許可証がなければ叶わない。
――こんなもの、あってたまるか。
怒りが胸を刺した。
レギュラス・ブラック。
完璧な純血貴族、法務部の象徴、そして鉄壁の政治家。
魔法族とマグルをきっぱり切り離し、
“外の世界”を危険だと断じ、
すべてを遠ざけ守ろうとする男。
その決断に、魔法界の世論は乗ってゆく。
恐れから。弱さから。混乱への嫌悪から。
“分断”を正義だと信じるようになってしまっている。
ジェームズの手が無意識に許可証を握りしめた。
薄い紙がきしりと音を立て、折れ曲がる。
「……こんな紙切れ一つで、誰と会えるか、どこに行けるかが決まるなんて」
吐き捨てるような声が漏れた。
「こんな世界、どうかしてる」
リリーはそんな夫を慰めようとしながらも、どこかで怯えているようにも見えた。
もう、彼女の生まれ育った世界は、
“魔法省の許可”がなければ踏み込めない場所になってしまったのだ。
隣国へ行くような気軽さも、
家族に会いに帰る日常も、
マグルの親を持つ魔法族が当然のように享受していた自由も――
全部、レギュラス・ブラックの冷酷な判断によって変えられてしまった。
ジェームズは、ぎゅっとリリーの肩を抱く。
「こんなの……許せるわけがない」
低く押し殺した声は、怒りと悲しみで震えていた。
魔法省に巣食う“純血主義の影”。
レギュラス・ブラックが象徴する“隔絶の思想”。
そのどれもが、ジェームズの大切なものを奪っていく。
そして彼は気づいてしまった。
――これは、ただの政策ではない。
魔法界とマグル界の“決定的な断絶”の始まりだ。
その中心にいるのが、レギュラス・ブラックという男であることが……
ジェームズ・ポッターには、どうしようもなく許せなかった。
ジェームズの家の扉を開けた瞬間、空気が違うと分かった。
温かいはずの居間に、妙な冷たさが沈んでいる――
あれほど明るかったリリーの家が、急に色を失ったように見えた。
「よぉ、ジェームズ、リリー。……どうしたんだ?」
シリウスは軽く笑ってみせたが、
ジェームズは普段の皮肉めいた余裕のない、
押しつぶされそうな表情をしていた。
リリーは手元の羊皮紙を胸元で握りしめていた。
白い指先が震えている。
シリウスは眉を寄せた。
「……何の紙だ?」
ジェームズがその許可証を差し出す。
魔法省の印章。法務部の署名。
レギュラス・ブラックの名前。
シリウスの胃の奥が、きゅう、と縮む。
「……まさか、これが“例の許可証”か?」
ジェームズは目を伏せた。
リリーはゆっくりと頷いた。
「マグル界へ行くには、もうこれが必要なのよ。
私が……自分の世界に帰るために」
その声の震えを聞いた瞬間、
シリウスは喉が焼けるほどの怒りがこみ上がってきた。
「ふざけんなよ……本当に通したのか、あのクソ野郎……」
ジェームズが苦笑いにもならない顔で言う。
「レギュラスの判断だ。
“魔法界の秩序を守るため”だとよ」
秩序――
その言葉ほど、レギュラス・ブラックに似合う皮肉はない。
シリウスは拳を握った。
手首の骨がきしむほど強く。
「お前らが……こんな思いをする必要なんて、どこにもなかったんだ」
怒りが湧く。
胸の奥から、黒い衝動がせり上がる。
この家の暖炉に、こんな殺伐とした空気が流れるなんて。
ハリーの無邪気な笑顔が曇る未来なんて。
全部、レギュラスのせいだ。
リリーが、かすかに声を落とす。
「……両親に会いに行くにも、
もう魔法省の許可が必要なの。
時間も、理由も、すべて審査されるなんて……
こんなこと、あり得ないわ」
シリウスは胸が張り裂けそうになった。
リリーの瞳には涙が光り、
その涙を見てしまったジェームズは歯を食いしばっている。
これはただの制度ではない。
家族の温かさまで奪う暴挙だ。
「……レギュラス。あいつ、本当に最低だな」
呪うように吐き出した声に、
ジェームズは力なく頷いた。
「俺は……もう信じられないよ。
あんな世界をよしとするやつらが、魔法界を動かしてるなんて」
シリウスの胸の奥がざらつく。
レギュラス・ブラック。
アランを手に入れ、世論を掌握し、
魔法界の“新しい秩序”を作り上げようとしている男。
その陰でどれだけの家族が苦しみ、
どれだけの笑顔が奪われていくのか。
――なんで、あいつだけが正しい顔をしていられるのか。
シリウスの心に、怒りと焦りと、どうしようもない無力感が重く沈んだ。
アランのことが頭をよぎる。
こんな世界の中心にいるレギュラスの隣で、
彼女は本当に幸せなのか。
あの時、衝動でキスしてしまった自分を思い出し、喉の奥が重く痛む。
今そんなことを後悔している場合じゃない。
だが――
レギュラスのやり方が許せない。
許しちゃいけない。
「ジェームズ。……俺は黙ってられない」
シリウスの声には、かすかに震えがあった。
怒りだけじゃない。
親友の家族を守りたいという焦燥があった。
ジェームズはゆっくりと頷く。
「……ああ。俺もだ」
その瞬間、
二人の間にあった“引き返せないもの”が静かに形を成した。
レギュラス・ブラックという巨大な影に、
真正面から立ち向かわなければならない。
これはもう、
騎士団の仕事でも、政治の問題でもない。
――守りたいもののために、戦わなければならないのだ。
夕刻、静かな屋敷に“魔法ラジオ”の音が淡々と流れていた。
アランはいつものように、紅茶の湯気をぼんやりと眺めていた。
――そのとき、
ラジオの声が急に緊張を帯びた。
『速報です。
本日午後、関所付近で発生した小規模衝突にて、
騎士団所属のシリウス・ブラック氏が負傷した模様――』
その瞬間、
湯気がしゅんとしぼむように、胸の奥が冷えきった。
紅茶を持つ指先がかすかに震え、
カップが小さく、カチ、と音を立てた。
まさか――
あのシリウスが。
あれほど強くて、太陽みたいに明るくて、どんな相手にも怯まず笑っていたあの人が“負傷”なんて。
アランは膝の上で手を重ね、
落ち着こうとするみたいに指を絡めた。
でも胸のざわつきは止まらなかった。
思わず、ラジオに杖を向ける。
もっと情報を、と魔法を飛ばしたが、
流れてきたのは短い事務的な文章だけ。
『命に別状はないとのことですが、
詳細は明かされておりません――』
命に別状はない。
そう言われても、
その一文の余白に潜む“どれほどの傷か”が怖かった。
アランは気づいたら立ち上がり、
暖炉の前でそっと胸を抱きしめていた。
あの日――
疲れ果てたように屋敷に来たシリウス。
「…… アラン、俺……ちょっと疲れちまった」
いつもの豪胆さが欠片もなかった。
壊れそうな声音。
弱さを見せまいとする男が、耐えきれず抱きしめてきた腕の震え。
その頬に触れたときの熱。
そして、ふいのキス。
あの温度が、
あの迷いが、
あの一瞬のやさしさが、
胸の奥をぎゅっと締めつける。
――生きててくれただろうか。
――どれほどの怪我なのだろう。
――痛くなかっただろうか。
考えれば考えるほど、
心がひやりと縮む。
あの時彼は言った。
『もし……もしもだ。
俺がお前を幸せにしたいんだって言ったら……
お前は苦しむか?』
その意味を今も完全には掴めていない。
でも、
あの言葉の奥にある“彼の孤独”だけは、
確かに感じてしまった。
アランは部屋を何度も往復した。
理由もなく、ただ胸騒ぎを鎮めるためだけに。
暖炉の火がゆらゆらと揺れるたび、
シリウスの笑顔が浮かぶ。
額の汗を袖で拭う姿が浮かぶ。
傷だらけでも冗談を言って笑っていた顔が浮かぶ。
――どうか無事でいて。
――お願いだから、もう傷つかないで。
杖を握りしめた指に力が入り、
爪が白くなる。
シリウスは“強い”。
そう思っていた。
思い込んでいた。
でもそれは、
彼がいつも誰かの前では弱さを見せないように努力していただけで、
実際には人一倍傷つき、人一倍迷い、人一倍優しいから――
だからこそ、心が壊れかける時もある。
そのことを、
あのキスが教えていた。
――あなたに、あんな弱い声を二度と言わせたくない。
声も出せない自分では、
励ますことも慰めることもできない。
その不自由さが胸を突き刺した。
ただただ祈るしかなかった。
どうかシリウスが、
またあの太陽のような笑顔で立ち上がってくれますようにと。
夜が更けても胸のざわめきは収まらなかった。
屋敷は静まり返っている。
廊下に灯された魔法灯の淡い光が、壁に細長い影を落としていた。
アランは、
自室の窓辺に座り、
冷え切った手を胸元に押し当てた。
――会わなければ。
理由は言葉にならない。
ただ、そのひとつだけの思いが胸の奥で膨らみつづけ、
もう自分では押し込められないほどに肥大していた。
シリウスが負傷した、と聞いたときの冷たい衝撃。
あの人なら大丈夫だと、
強いから大丈夫だと、
何度言い聞かせても胸の震えは止まらなかった。
――無事なのか。
――痛くないのか。
――ひとりで辛がっていないか。
考えるたび、息が浅くなる。
そして、
気づけばアランはマントを羽織り、
フードを深く被り、
そっと扉へ手を伸ばしていた。
扉を開けた、その瞬間。
「…… アランさん?」
月光の差す廊下に、メイラが立っていた。
ランプを持ち、心配そうな顔でこちらを見ている。
アランは一瞬、息が止まった。
逃げるようにフードを深くかぶり直すが、
メイラには気づかれている。
「どこへ行かれるおつもりですか……?」
アランは杖を握ったまま、
言葉を作ろうとするが、震えて書けない。
その揺れる手元を見て、
メイラはすぐに察した。
「シリウスブラックのところですね……」
アランの肩がびくりと揺れた。
メイラはアランへ歩み寄り、
その手をぎゅっと両手で包み込んだ。
「……ダメです。アランさん」
その声は震えていた。
叱るような色ではない。
恐れと、切実な願いと、心からの忠誠が混じっていた。
「レギュラス様に知られたら……
アランさんこそ危ないんです。
どうか、どうか行かないでください」
その言葉は重かった。
痛いほど正しかった。
けれど、
胸の奥でうごめくものは、止めようとしても止まらない。
あの夜――
壊れそうな声で抱きしめられた瞬間のシリウスの弱さが、
キスの温度が、
今もアランの心を締め付けて離さない。
アランは、そっとメイラの手を外した。
その動作だけで、
メイラは青ざめる。
「アランさん……!
本当に、ダメです……!」
メイラは必死に袖をつかんだ。
震えるほどの力で。
アランはフードの影から、
静かに首を横に振った。
そして、杖を動かす。
――どうしても、行かなければならないの。
浮かび上がった文字は、
メイラの胸を深く揺らすほどに真っ直ぐだった。
「……なぜそこまで……」
アランは答えられなかった。
答えられないほどに、
胸の奥の衝動が強かった。
命に別状はない。
何度もラジオはそう言った。
けれど、
“命に別状はない”の裏には
“傷は深いかもしれない”
“心が折れかけているかもしれない”
そんな曖昧な不安が残っている。
そして彼は、
弱っている時ほど無茶をする男だった。
アランは杖で最後の言葉を書く。
――少しだけ、顔を見るだけ。
――それだけでいいの。
メイラは唇を噛み、
涙を堪えるように俯いた。
「……なら……
私もついていきます。
おひとりでは、絶対に危ないから……!」
アランは驚いて目を見開く。
メイラは続けた。
「アランさんをひとりで行かせるくらいなら……
レギュラス様に殺されてもいいです……。
でも……
あなたが行くというなら、私も行きます」
その必死な覚悟に胸が痛んだ。
だが、
アランは静かに首を横に振った。
彼女を巻き込めない。
そして小さく微笑んだ。
――ありがとう。でも大丈夫。
――必ず、すぐ戻るから。
メイラの瞳が揺れる。
それでもアランの決意は揺れなかった。
アランはフードを深くかぶり、
そっと玄関の扉へ向かった。
夜気が冷たい。
だけど、それ以上に胸が熱く、苦しい。
――どうか無事でいて。
――どうか笑っていて。
ただその祈りだけを抱きながら、
アランは夜の闇に踏み出した。
深夜のロンドンに、霧が静かに降りていた。
街灯の光が白く滲み、ひんやりとした空気を纏って道を照らしている。
アランはフードを深くかぶり、
細い指で杖を握りしめたまま、
ふらつく足取りで歩いていた。
――また……魔力が……落ちている。
胸が苦しい。
息が浅い。
肺の奥に冷たい針が刺さるように痛む。
それでも止まれなかった。
シリウスが入院している病院を、
なんとかした魔法を使って突き止めた瞬間から、
身体は勝手に動いていた。
魔力切れを補うために、
小さな補助魔法を何度も重ねたせいで、
膝は震え、視界は揺れる。
――こんなにも……弱くて……情けない。
そう思いながらも、
歩みだけは止めなかった。
あの日。
屋敷で――
シリウスはアランの肩を抱きしめ、
かすれた声で「疲れた」と言った。
その声が、
ずっと耳から離れない。
“疲れた”という言葉の奥に、
どれほどの痛みがあったのか。
どれほどの孤独があったのか。
アランは気づいていた。
気づいていながら――
抱き返すことも、
「あなたは大丈夫」と伝えることもできなかった。
声を持たない自分を、
あの瞬間だけは恨んだ。
もっと、何かしてあげられたはずなのに。
ただ抱かれるまま震えることしかできなかった。
その後の、
あの衝撃的なキスの温度さえ――
思い返すたびに胸が締め付けられる。
ようやく視界の先に、
魔法使い専用の療養病棟が現れた。
外壁は白く、
夜の冷たい光を受けて静かに浮かび上がっている。
アランは胸に手を当てた。
――本当に……ここにいるのね。
胸の奥がズキリと痛んだ。
不安と恐怖と祈りが入り混じる。
病院の前まで来て、
初めて気づく。
魔力の使用が限界に近い。
手が震えて、杖を握る力すら弱っていた。
それでも。
――シリウスの瞳が翳っていないといい。
あの明るすぎるほどの瞳が、
どうか、まだ光を失っていませんように。
アランは胸元をきゅっと押さえた。
心臓が早鐘のように鳴る。
病院の扉に手をかけたところで、
アランは一度立ち止まった。
もし、彼がひどく傷ついていたら?
もし、あの時の弱い声よりもさらに弱々しくなっていたら?
その姿を見てしまったら、
自分は――
崩れてしまうかもしれない。
でも。
それでも行きたかった。
彼が生きているなら、
声にならない声でもいい、
伝えたかった。
――大丈夫と。
――あなたはひとりじゃない、と。
アランは震える手で扉を押した。
冷たい白光の廊下が、
ゆっくりと視界に広がる。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
この先に、
シリウスがいるのだ。
アランは深く息を吸い、
ふらつく足取りで歩き出した。
――会いたい。
――どうしても会いたい。
その一心だけで、
アランは病院の奥へと進んでいった。
薄暗い病室に、魔法灯の白い光がぼんやりと滲んでいる。
点滴のチューブが腕に刺さり、脈が通るたびに微かに揺れた。
胸の痛みはまだ引かない。
肋骨にかけられた治癒魔法の痕がときどきうずき、
深く息を吸うだけで身体が軋む。
それでも――
意識だけは妙にはっきりしていた。
仲間の声も、外のざわめきも、
今は遠い世界の話のように感じられる。
ただぽつんと、
自分だけが静かな水底に沈んでいるようだった。
ふいに、
病室の扉がかすかに軋んだ。
反射的に目が向く。
来客は許可していないはずだった。
医療魔法使いでも仲間でも、
今は誰の顔も見たくないと思っていた。
だから――
次の瞬間、視界に入ってきたその姿に、
シリウスの呼吸は、
完全に――止まった。
フードを深くかぶり、
肩で息をしながら立ち尽くしている女。
その指先には杖が震え、
頬は蒼白で、
瞳はまっすぐこちらだけを探している。
―― アラン。
名前が胸の奥で爆ぜたようだった。
呆然とする。
寝返りも痛い身体が、
思わず跳ね起きそうになるほど驚いた。
「…… アラン……?」
声が掠れ、自分でも驚くほど弱かった。
本当に彼女なのか確かめたくて、
シリウスはゆっくり身体を起こした。
アランの足元がふらりと揺れた。
それだけで胸がざわりと騒ぐ。
魔力切れの気配。
喉を焼くような呼吸の浅さ。
ここに来るまで、どれだけ無茶をしたのか分かった。
「……なんで……来たんだよ……」
驚きと、
嬉しさと、
そして恐怖が混じった声が漏れた。
――来るなよ。
――来られたら……もう、気持ちが止められなくなる。
そんな本音が喉にせり上がる。
アランはよろめきながら
ひと足、こちらへ踏み出した。
その瞬間――
シリウスの胸がぎゅっと縮まる。
彼女の瞳は震えていた。
「……っ」
言葉は発せられないが、
その瞳ははっきりと――
“あなたが生きていて良かった”
と叫んでいた。
その表情が、あまりにも優しくて。
あの日見せた切なさと罪悪感を含んだ瞳が――
今は、ただただ自分の無事だけを祈っている。
本当は、
あの日キスをしてしまった自分が
彼女に何かを求める権利なんてない。
もう二度と会いに来てはいけない相手だ。
レギュラスの妻であり、
触れてはいけない存在だ。
それなのに。
――来てくれた。
その事実が胸にあまりにも強く響き、
気づけば喉の奥から絞るような声が漏れた。
「…… アラン……」
名前を呼ぶだけで、
胸の奥が熱くなる。
会いたかった。
ずっと、会いたかった。
でも、会っちゃいけなかった。
そのすべてが交錯して、
シリウスの目が痛むように熱くなった。
アランはもう限界に近い身体で、
必死に立っていた。
「……おい、アラン。来るなって……言ったろ……」
そう言いながら、
声が震えてしまう。
その怯えた、苦しげな、
それでもまっすぐ自分を見る瞳が――
――どうしようもなく、愛しかった。
病室の空気は、思っていたよりも冷たかった。
魔法灯の淡い光が白い寝具と壁に反射し、
まるでそこだけが季節から切り離されたように静かだった。
扉を閉めたとたん、足元の力が崩れそうになる。
胸が強く波打ち、呼吸の仕方がわからなくなる。
――来てはいけなかった。
――でも、来ずにはいられなかった。
その矛盾が胸の奥で暴れ続けていた。
ベッドの上、ゆっくりと身体を起こしてこちらを見る男。
黒髪は乱れ、無造作に額にかかっている。
いつも太陽のように笑っていたその瞳は、
今日は少しだけ陰りを帯びている。
それなのに。
アランが見たどんな姿よりも――生きていてよかったと思った。
喉の奥が熱くなり、
胸がいっぱいになって視界が滲む。
杖を指先で握りしめる。
震えそうになった手を押さえつけるように。
そして――ゆっくり空中に文字を描いた。
《あなたが負傷したと聞きました》
文字が宙に淡く光った瞬間、
胸の奥で張り詰めていた糸が――ぷつり、と切れた。
シリウスが息を吸う音が聞こえた。
驚愕でも、困惑でもない。
むしろ―― 安堵だった。
「……ああ。そうみたいだな、俺」
軽く笑おうとした声は、
ひどく掠れていた。
アランは次の言葉を書こうとして、
でも手が動かなくなった。
本当は――
――無事でよかった。
それだけを伝えたかったのに。
言葉にならなかった。
胸の奥に溢れるものが、
痛みなのか安心なのか、
もう自分でも分からなかった。
アランはゆっくりと歩み寄り、
ベッドの手すりに触れた。
ただそれだけの動作なのに、
足元がぐらりと揺れる。
「…… アラン?」
シリウスの声が呼び止める。
アランは首を横に振る。
大丈夫、と伝えたかった。
けれど、涙が浮かんでしまった。
シリウスがそっと手を伸ばした。
その指先がアランの頬に触れるか触れないか、
ほんのわずかな距離で止まった。
その距離が――苦しかった。
声を持たない口が、震えながら何度も開いては閉じる。
喉の奥から何かが溢れそうなのに、形にはならない。
杖を再び持ち直す。
そして、震える手で文字を描いた。
《生きていて……よかった》
その文字が空中に浮かぶと、
シリウスは息を飲むように目を閉じた。
次に開いた瞳には、
苦しみ、悔しさ、そして――温かい光が宿っていた。
「……そんな顔させたくなかった」
その言葉は、涙のように静かだった。
アランはもう耐えられなかった。
そっと――シリウスの腕に触れた。
触れた瞬間、
全身が震えた。
あの日のキス。
あの日の声。
あの日の弱さ。
忘れたかった。
忘れなければならなかった。
けれど――
会ってしまえば、すべてが溢れてくる。
心の中で叫ぶ。
――こんな気持ち、持ってはいけない。
――でも、抑えられない。
肩が震え、涙が零れた。
声を持たない喉が、
震える息だけを吐き出す。
シリウスが苦しげに眉を寄せた。
「……泣くなよ。俺はこんなんでも、ちゃんと生きてる」
その慰めすら優しすぎて、
涙は止まらなかった。
バーテミウスが急ぎ足で部屋に入ってきた。
その靴音だけで、良い報せではないと分かる。
「レギュラス、関所の近辺で――マグルたちがデモを起こしています」
一瞬、空気が固まった。
レギュラスは手元の羽根ペンを置き、ゆっくり視線を上げる。
「……デモ、ですか」
「はい。人数は増えつつあります。横断幕や拡声器を使って、“魔法族の支配反対”だの“差別反対”だの……。一部、魔法省職員に暴言も飛ばしているようです」
レギュラスの眉間にわずかな皺が寄った。
嫌悪が眉の奥に静かに沈殿していく。
――ああ、またか。
力も持たぬ者が、集団で吠えたてる滑稽な光景。
「どうします?」とバーテミウスが問う。
レギュラスは椅子から肘を離し、淡々と答えた。
「デモの鎮静は……騎士団に任せましょう。マグルの相手は、彼らの“得意分野”でしょうから」
皮肉が自然と滲み出る。
バーテミウスはその温度を読み取り、口元だけで薄く笑った。
しかしレギュラスの胸中では、冷たい苛立ちが波紋のように広がっていく。
――マグルは、どうしてこうもしつこいのか。
魔力を持たぬというだけで、世界に縋り、集団で暴れ、
相手を恐れながらも、恐怖ゆえに牙を剥こうとする。
弱いのに吠える。
無力のくせに逆らう。
仕組みも理解せず、道理も分からず、ただ噛みつく。
そのすべてが、レギュラスの神経を逆撫でした。
窓の外を見る。
魔法省の塔の影が地上に長く伸びている。
人々が行き交う光景に、魔力の光が揺らめいていた。
これが“世界の秩序”だ。
これが当然だ。
魔法族が治め、マグルはその外周で生きる。
それを揺るがせる権利など、どこにもない。
「バーテミウス。
騎士団に連絡を。デモ鎮圧の許可は出します。
ただし、魔法の直接行使は最小限に抑えるようにと」
「承知しました」
バーテミウスが退出すると、部屋には静寂だけが戻った。
しかし、レギュラスの胸の内のざわつきは収まらない。
――デモに騒ぎ、怒号をあげ、境界を越えようとする。
自分たちが招いた危機だという自覚もない。
魔法族の魔力を奪う薬を作ったのは、どこの誰だ。
その愚かさを棚に上げ、
“差別反対だ”などと口先だけで叫ぶ。
レギュラスは深く息を吐いた。
「弱者とは、なぜこうも自分の弱さを他者のせいにするのか」
独り言は、静かに部屋の空気へと溶けていく。
彼が本当に怒りを覚えているのは、
マグルの行動そのものではなかった。
――その愚かさに、アランがまた怯えるかもしれないという事実。
魔法族の暴動も、マグルの蜂起も、
彼女の平穏を脅かすものは全て排除したかった。
だからこそ、己の中の苛立ちは、
マグルではなく“世界そのもの”へと向かい始めていた。
レギュラスは椅子に深く腰を戻し、
指先で机を軽く叩いた。
規則正しい音が、心の奥の怒りをなだめるように鳴る。
「……騎士団がどう鎮めるか。見ものですね」
その声は凍るほど静かで、
けれど胸の奥には確かに火が灯っていた。
夕刻。窓の外は早くも薄紫に染まり、魔法省の塔の影が長く長く伸びていた。
レギュラスは書類に目を通しながらも、どこか集中しきれずにいた。
胸の奥に沈んだ苛立ちが、さざ波のように広がったまま消えていかない。
扉を叩く音がした。
「どうぞ」と言うと、バーテミウスが姿を見せた。
「……レギュラス。騎士団からデモ鎮圧の報告が入りましたよ」
レギュラスは書類から顔を上げる。
「どうぞ。聞きましょう」
バーテミウスは一枚の報告書を差し出しながら簡潔に述べる。
「暴徒の一部は拘束、負傷者は軽傷が数名。
騎士団は非魔法的手段のみで制圧し、大規模な混乱は回避されたとのことです」
「……そうですか」
声は平板だったが、その発音の一つひとつが冷えていた。
報告を聞き終えたはずなのに、胸のざらつきは収まらない。
バーテミウスは続けた。
「ですが……デモ隊は完全には散っておりません。
マグル側の集会は今後も断続的に行われる可能性が高いようです」
レギュラスの眉が、わずかに動いた。
――やはりか。
デモなど単発の騒動で終わるはずがない。
人間とは、一度声を出すと、次はもっと大きな声を欲しがる。
群れれば群れるほど、理性より感情が勝つ。
「関所の設置を逆恨みしているのでしょうね」とバーテミウス。
逆恨み。
確かにその通りだった。
危険を生んだのは彼ら自身だというのに。
魔力を奪う薬を開発し、魔法族を脅かした側が。
今になって“差別だ”“自由を奪うな”と叫ぶ。
――身の程を、知らない。
レギュラスは無言のまま報告書を受け取り、読み始めた。
一行一行に目を通すほど、微かな苛立ちが積もっていく。
デモは沈静されても、“空気”は沈静化していない。
魔法族とマグルのあいだに、見えない亀裂が広がっていく。
そしてそれがアランの世界にも、じわじわと侵食していく未来が想像できた。
胸の奥が、鋭い刃物で撫でられるようにざわつく。
――そんな未来は、許さない。
彼女がまた怯えるような世界など。
再びマグルの暴力に晒されるような世界など。
絶対に、許さない。
「レギュラス、今後の方針は?」
バーテミウスの声で思考が途切れる。
レギュラスは書類を静かに閉じた。
「……デモ鎮圧は騎士団に任せましょう。
法務部はあくまで秩序の保持に徹する。
ただし――」
一拍置く。
言葉を整えるというより、苛立ちを押し殺すための間だった。
「もしマグル側が暴力に転じれば、
次は警務部の出動を検討します」
バーテミウスの目がわずかに開く。
「……本気で?」
「ええ。必要とあらば。
我々は魔法界を守らねばならない。
“外側”からの脅威には、相応の対処が必要です」
声は静かだったが、奥底には確かな怒りが潜んでいた。
レギュラス自身も気づいていた。
この怒りの源は、マグルへの軽蔑だけではない。
―― アランの世界が揺らぐこと、そのものが許せないのだ。
かつて声も奪われ、狭い石牢で怯え、
美しい瞳を汚されながら、ただ生き延びてきた少女。
彼女の暮らす“今の世界”を壊されるわけにはいかなかった。
レギュラスは椅子から背を離し、深く息を吐いた。
「……これ以上の不穏を広げられません」
それは命令ではなく、
世界そのものに対する警告のようだった。
バーテミウスが退出すると、
部屋には静けさだけが残った。
しかしレギュラスの胸には、不穏が渦を巻き続けていた。
――この揺れは、まだ続くだろう。
だが、絶対に守る。
アランを。家族を。魔法界を。
指先に力が入る。
その白くなるほどの緊張が、レギュラスの決意を物語っていた。
その日の魔法省は、どこかざわめきが違っていた。
広い廊下を歩くたび、視線が自分へ集まってくるのをレギュラスは感じていた。
畏怖――そして期待。
互いに牽制し合っていた部署同士が急速に“同じ方向を見始めた”時に生まれるざわりとした空気。
まるで、風向きが一斉に変わったような感覚だった。
会議室に入り、椅子に腰を下ろすと、すでに警務部長が席を整えて待っていた。
「お待ちしておりました、ブラック卿」
その声は、昨日までよりわずかに低く、慎重だった。
――変わった。
レギュラスは心の中でそう呟いた。
治験に回されたデスイーターの問題。
マグル界での武装集団の動き。
境界線設置後の混乱。
そして、魔法族の力に恐れを抱くマグルたちの連続的な暴動。
そのすべてが「治安の強化」を正当化し始めていた。
「……では始めましょうか」
レギュラスの言葉で、会議室の空気がきつく引き締まる。
警務部長が資料を広げる。
「今回の件を踏まえ、警務部は法務部と完全に情報共有し、指示系統を一本化するべきと考えています。
独断で動く部局が増えれば増えるほど、今の情勢は不安定になりますから」
“警務部が法務部に指揮を委ねる”――
それはつまり、現場部隊と裁決権が一本化されるということ。
魔法界の治安と判断の大半が、レギュラスブラック一人の手に流れ込む。
「……よい判断です」
レギュラスは淡々と頷いたが、胸の奥に微かな熱が灯った。
力が集まる感覚。
求められていく確信。
責任を負うことを恐れない者だけが味わえる、深い静かな昂ぶり。
会議は淡々と進んだ。
警務部がマグル界から撤退した後の監視方法。
関所の増設案。
違法魔法薬の流通と、反体制派魔法族への取締り。
どの議題も、最終的な言葉を求められたのはレギュラスだった。
「ブラック卿はどうご判断しますか?」
「最終決定は法務部に準じたい」
「ブラック様のご判断に従います」
一つひとつが積み重なっていく。
気がつけば、彼は机上の資料ではなく、室内の空気そのものを把握していた。
誰が何を求め、誰がどのように動こうとしているのか。
そのすべてが手に取るように分かる。
――自分は、いま魔法界の“中心”にいる。
それは驕りではなく、ただの事実だった。
会議が終わり、皆が退室した後。
レギュラスは静まり返った部屋に一人残った。
窓の外、魔法省の塔の上空をゆっくりと飛ぶフクロウが見える。
その景色すら、いつもと違って見えた。
自分の意志ひとつで、魔法界の動きが変わっていく。
その重さも、責任も、恐ろしいほどに心地よかった。
しかし――
胸の奥に、ひとつだけ硬い棘のような違和感が残る。
アランの不安定な仕草。
昨夜のぎこちない会話。
シリウスの存在。
屋敷に漂う、微かな緊張の残り香。
外側の世界は思い通りに動き始めているのに、
内側――家の中だけがどこか揺らいでいる。
世界を掌握していくほどに、
アランの小さな揺れが、逆に刺さる。
権力が強まれば強まるほど――
彼女の心が遠のいてしまうのではないかという
根拠のない焦燥が、胸の奥で静かに息をしていた。
レギュラスは深く息を吸い、瞼を閉じた。
世界も、家族も、妻も。
すべてを守らなければならない。
それが、
レギュラス・ブラックという男の宿命だった。
ジェームズは、机の上に置かれた一枚の許可証を見つめていた。
薄い羊皮紙に魔法省の紋章が押され、見慣れた政府の署名が光っている。
――許可証。
マグル界へ出向くための、魔法省が発行する正式な通行手形。
それだけ。たったそれだけの紙片一枚で、妻の故郷へ行けるかどうかが決まる。
「リリー、書類……できたよ」
彼女は暖炉のそばでスカーフを畳んでいた。
ジェームズの声に振り返り、微笑もうとして……
微笑みきれず、少し寂しげな表情に変わる。
「ええ……何度見ても、変な感じがするわね」
紙を受け取りながら、リリーの指先が震えている。
ジェームズの胸が痛んだ。
――どうしてこんなものが必要になってしまったんだと。
レギュラス・ブラックの主導する“関所政策”。
魔法界とマグル界を完全に線引きし、行き来を“許可制”とした制度。
魔法族にマグルの血が混じる家庭や、マグルの親を持つ魔法族――
そうした家庭の事情などまるで考慮されていない、冷たい仕組み。
「今度は……両親の家に行くのも、簡単にはいかないわ」
リリーは小さくつぶやいた。
その声が、静かな部屋に落ちていく。
ジェームズは思わず彼女を抱き寄せた。
「ごめん。こんな世界にしてしまって……」
「あなたのせいじゃないわ」
リリーは首を振る。
けれど、その瞳の奥に沈んでいる痛みは消えない。
ジェームズの脳裏に、ハリーの笑顔が浮かんだ。
休日にマグルの街へ連れて行き、映画や公園を見せてやろうと約束した日々。
あれはもう、許可証がなければ叶わない。
――こんなもの、あってたまるか。
怒りが胸を刺した。
レギュラス・ブラック。
完璧な純血貴族、法務部の象徴、そして鉄壁の政治家。
魔法族とマグルをきっぱり切り離し、
“外の世界”を危険だと断じ、
すべてを遠ざけ守ろうとする男。
その決断に、魔法界の世論は乗ってゆく。
恐れから。弱さから。混乱への嫌悪から。
“分断”を正義だと信じるようになってしまっている。
ジェームズの手が無意識に許可証を握りしめた。
薄い紙がきしりと音を立て、折れ曲がる。
「……こんな紙切れ一つで、誰と会えるか、どこに行けるかが決まるなんて」
吐き捨てるような声が漏れた。
「こんな世界、どうかしてる」
リリーはそんな夫を慰めようとしながらも、どこかで怯えているようにも見えた。
もう、彼女の生まれ育った世界は、
“魔法省の許可”がなければ踏み込めない場所になってしまったのだ。
隣国へ行くような気軽さも、
家族に会いに帰る日常も、
マグルの親を持つ魔法族が当然のように享受していた自由も――
全部、レギュラス・ブラックの冷酷な判断によって変えられてしまった。
ジェームズは、ぎゅっとリリーの肩を抱く。
「こんなの……許せるわけがない」
低く押し殺した声は、怒りと悲しみで震えていた。
魔法省に巣食う“純血主義の影”。
レギュラス・ブラックが象徴する“隔絶の思想”。
そのどれもが、ジェームズの大切なものを奪っていく。
そして彼は気づいてしまった。
――これは、ただの政策ではない。
魔法界とマグル界の“決定的な断絶”の始まりだ。
その中心にいるのが、レギュラス・ブラックという男であることが……
ジェームズ・ポッターには、どうしようもなく許せなかった。
ジェームズの家の扉を開けた瞬間、空気が違うと分かった。
温かいはずの居間に、妙な冷たさが沈んでいる――
あれほど明るかったリリーの家が、急に色を失ったように見えた。
「よぉ、ジェームズ、リリー。……どうしたんだ?」
シリウスは軽く笑ってみせたが、
ジェームズは普段の皮肉めいた余裕のない、
押しつぶされそうな表情をしていた。
リリーは手元の羊皮紙を胸元で握りしめていた。
白い指先が震えている。
シリウスは眉を寄せた。
「……何の紙だ?」
ジェームズがその許可証を差し出す。
魔法省の印章。法務部の署名。
レギュラス・ブラックの名前。
シリウスの胃の奥が、きゅう、と縮む。
「……まさか、これが“例の許可証”か?」
ジェームズは目を伏せた。
リリーはゆっくりと頷いた。
「マグル界へ行くには、もうこれが必要なのよ。
私が……自分の世界に帰るために」
その声の震えを聞いた瞬間、
シリウスは喉が焼けるほどの怒りがこみ上がってきた。
「ふざけんなよ……本当に通したのか、あのクソ野郎……」
ジェームズが苦笑いにもならない顔で言う。
「レギュラスの判断だ。
“魔法界の秩序を守るため”だとよ」
秩序――
その言葉ほど、レギュラス・ブラックに似合う皮肉はない。
シリウスは拳を握った。
手首の骨がきしむほど強く。
「お前らが……こんな思いをする必要なんて、どこにもなかったんだ」
怒りが湧く。
胸の奥から、黒い衝動がせり上がる。
この家の暖炉に、こんな殺伐とした空気が流れるなんて。
ハリーの無邪気な笑顔が曇る未来なんて。
全部、レギュラスのせいだ。
リリーが、かすかに声を落とす。
「……両親に会いに行くにも、
もう魔法省の許可が必要なの。
時間も、理由も、すべて審査されるなんて……
こんなこと、あり得ないわ」
シリウスは胸が張り裂けそうになった。
リリーの瞳には涙が光り、
その涙を見てしまったジェームズは歯を食いしばっている。
これはただの制度ではない。
家族の温かさまで奪う暴挙だ。
「……レギュラス。あいつ、本当に最低だな」
呪うように吐き出した声に、
ジェームズは力なく頷いた。
「俺は……もう信じられないよ。
あんな世界をよしとするやつらが、魔法界を動かしてるなんて」
シリウスの胸の奥がざらつく。
レギュラス・ブラック。
アランを手に入れ、世論を掌握し、
魔法界の“新しい秩序”を作り上げようとしている男。
その陰でどれだけの家族が苦しみ、
どれだけの笑顔が奪われていくのか。
――なんで、あいつだけが正しい顔をしていられるのか。
シリウスの心に、怒りと焦りと、どうしようもない無力感が重く沈んだ。
アランのことが頭をよぎる。
こんな世界の中心にいるレギュラスの隣で、
彼女は本当に幸せなのか。
あの時、衝動でキスしてしまった自分を思い出し、喉の奥が重く痛む。
今そんなことを後悔している場合じゃない。
だが――
レギュラスのやり方が許せない。
許しちゃいけない。
「ジェームズ。……俺は黙ってられない」
シリウスの声には、かすかに震えがあった。
怒りだけじゃない。
親友の家族を守りたいという焦燥があった。
ジェームズはゆっくりと頷く。
「……ああ。俺もだ」
その瞬間、
二人の間にあった“引き返せないもの”が静かに形を成した。
レギュラス・ブラックという巨大な影に、
真正面から立ち向かわなければならない。
これはもう、
騎士団の仕事でも、政治の問題でもない。
――守りたいもののために、戦わなければならないのだ。
夕刻、静かな屋敷に“魔法ラジオ”の音が淡々と流れていた。
アランはいつものように、紅茶の湯気をぼんやりと眺めていた。
――そのとき、
ラジオの声が急に緊張を帯びた。
『速報です。
本日午後、関所付近で発生した小規模衝突にて、
騎士団所属のシリウス・ブラック氏が負傷した模様――』
その瞬間、
湯気がしゅんとしぼむように、胸の奥が冷えきった。
紅茶を持つ指先がかすかに震え、
カップが小さく、カチ、と音を立てた。
まさか――
あのシリウスが。
あれほど強くて、太陽みたいに明るくて、どんな相手にも怯まず笑っていたあの人が“負傷”なんて。
アランは膝の上で手を重ね、
落ち着こうとするみたいに指を絡めた。
でも胸のざわつきは止まらなかった。
思わず、ラジオに杖を向ける。
もっと情報を、と魔法を飛ばしたが、
流れてきたのは短い事務的な文章だけ。
『命に別状はないとのことですが、
詳細は明かされておりません――』
命に別状はない。
そう言われても、
その一文の余白に潜む“どれほどの傷か”が怖かった。
アランは気づいたら立ち上がり、
暖炉の前でそっと胸を抱きしめていた。
あの日――
疲れ果てたように屋敷に来たシリウス。
「…… アラン、俺……ちょっと疲れちまった」
いつもの豪胆さが欠片もなかった。
壊れそうな声音。
弱さを見せまいとする男が、耐えきれず抱きしめてきた腕の震え。
その頬に触れたときの熱。
そして、ふいのキス。
あの温度が、
あの迷いが、
あの一瞬のやさしさが、
胸の奥をぎゅっと締めつける。
――生きててくれただろうか。
――どれほどの怪我なのだろう。
――痛くなかっただろうか。
考えれば考えるほど、
心がひやりと縮む。
あの時彼は言った。
『もし……もしもだ。
俺がお前を幸せにしたいんだって言ったら……
お前は苦しむか?』
その意味を今も完全には掴めていない。
でも、
あの言葉の奥にある“彼の孤独”だけは、
確かに感じてしまった。
アランは部屋を何度も往復した。
理由もなく、ただ胸騒ぎを鎮めるためだけに。
暖炉の火がゆらゆらと揺れるたび、
シリウスの笑顔が浮かぶ。
額の汗を袖で拭う姿が浮かぶ。
傷だらけでも冗談を言って笑っていた顔が浮かぶ。
――どうか無事でいて。
――お願いだから、もう傷つかないで。
杖を握りしめた指に力が入り、
爪が白くなる。
シリウスは“強い”。
そう思っていた。
思い込んでいた。
でもそれは、
彼がいつも誰かの前では弱さを見せないように努力していただけで、
実際には人一倍傷つき、人一倍迷い、人一倍優しいから――
だからこそ、心が壊れかける時もある。
そのことを、
あのキスが教えていた。
――あなたに、あんな弱い声を二度と言わせたくない。
声も出せない自分では、
励ますことも慰めることもできない。
その不自由さが胸を突き刺した。
ただただ祈るしかなかった。
どうかシリウスが、
またあの太陽のような笑顔で立ち上がってくれますようにと。
夜が更けても胸のざわめきは収まらなかった。
屋敷は静まり返っている。
廊下に灯された魔法灯の淡い光が、壁に細長い影を落としていた。
アランは、
自室の窓辺に座り、
冷え切った手を胸元に押し当てた。
――会わなければ。
理由は言葉にならない。
ただ、そのひとつだけの思いが胸の奥で膨らみつづけ、
もう自分では押し込められないほどに肥大していた。
シリウスが負傷した、と聞いたときの冷たい衝撃。
あの人なら大丈夫だと、
強いから大丈夫だと、
何度言い聞かせても胸の震えは止まらなかった。
――無事なのか。
――痛くないのか。
――ひとりで辛がっていないか。
考えるたび、息が浅くなる。
そして、
気づけばアランはマントを羽織り、
フードを深く被り、
そっと扉へ手を伸ばしていた。
扉を開けた、その瞬間。
「…… アランさん?」
月光の差す廊下に、メイラが立っていた。
ランプを持ち、心配そうな顔でこちらを見ている。
アランは一瞬、息が止まった。
逃げるようにフードを深くかぶり直すが、
メイラには気づかれている。
「どこへ行かれるおつもりですか……?」
アランは杖を握ったまま、
言葉を作ろうとするが、震えて書けない。
その揺れる手元を見て、
メイラはすぐに察した。
「シリウスブラックのところですね……」
アランの肩がびくりと揺れた。
メイラはアランへ歩み寄り、
その手をぎゅっと両手で包み込んだ。
「……ダメです。アランさん」
その声は震えていた。
叱るような色ではない。
恐れと、切実な願いと、心からの忠誠が混じっていた。
「レギュラス様に知られたら……
アランさんこそ危ないんです。
どうか、どうか行かないでください」
その言葉は重かった。
痛いほど正しかった。
けれど、
胸の奥でうごめくものは、止めようとしても止まらない。
あの夜――
壊れそうな声で抱きしめられた瞬間のシリウスの弱さが、
キスの温度が、
今もアランの心を締め付けて離さない。
アランは、そっとメイラの手を外した。
その動作だけで、
メイラは青ざめる。
「アランさん……!
本当に、ダメです……!」
メイラは必死に袖をつかんだ。
震えるほどの力で。
アランはフードの影から、
静かに首を横に振った。
そして、杖を動かす。
――どうしても、行かなければならないの。
浮かび上がった文字は、
メイラの胸を深く揺らすほどに真っ直ぐだった。
「……なぜそこまで……」
アランは答えられなかった。
答えられないほどに、
胸の奥の衝動が強かった。
命に別状はない。
何度もラジオはそう言った。
けれど、
“命に別状はない”の裏には
“傷は深いかもしれない”
“心が折れかけているかもしれない”
そんな曖昧な不安が残っている。
そして彼は、
弱っている時ほど無茶をする男だった。
アランは杖で最後の言葉を書く。
――少しだけ、顔を見るだけ。
――それだけでいいの。
メイラは唇を噛み、
涙を堪えるように俯いた。
「……なら……
私もついていきます。
おひとりでは、絶対に危ないから……!」
アランは驚いて目を見開く。
メイラは続けた。
「アランさんをひとりで行かせるくらいなら……
レギュラス様に殺されてもいいです……。
でも……
あなたが行くというなら、私も行きます」
その必死な覚悟に胸が痛んだ。
だが、
アランは静かに首を横に振った。
彼女を巻き込めない。
そして小さく微笑んだ。
――ありがとう。でも大丈夫。
――必ず、すぐ戻るから。
メイラの瞳が揺れる。
それでもアランの決意は揺れなかった。
アランはフードを深くかぶり、
そっと玄関の扉へ向かった。
夜気が冷たい。
だけど、それ以上に胸が熱く、苦しい。
――どうか無事でいて。
――どうか笑っていて。
ただその祈りだけを抱きながら、
アランは夜の闇に踏み出した。
深夜のロンドンに、霧が静かに降りていた。
街灯の光が白く滲み、ひんやりとした空気を纏って道を照らしている。
アランはフードを深くかぶり、
細い指で杖を握りしめたまま、
ふらつく足取りで歩いていた。
――また……魔力が……落ちている。
胸が苦しい。
息が浅い。
肺の奥に冷たい針が刺さるように痛む。
それでも止まれなかった。
シリウスが入院している病院を、
なんとかした魔法を使って突き止めた瞬間から、
身体は勝手に動いていた。
魔力切れを補うために、
小さな補助魔法を何度も重ねたせいで、
膝は震え、視界は揺れる。
――こんなにも……弱くて……情けない。
そう思いながらも、
歩みだけは止めなかった。
あの日。
屋敷で――
シリウスはアランの肩を抱きしめ、
かすれた声で「疲れた」と言った。
その声が、
ずっと耳から離れない。
“疲れた”という言葉の奥に、
どれほどの痛みがあったのか。
どれほどの孤独があったのか。
アランは気づいていた。
気づいていながら――
抱き返すことも、
「あなたは大丈夫」と伝えることもできなかった。
声を持たない自分を、
あの瞬間だけは恨んだ。
もっと、何かしてあげられたはずなのに。
ただ抱かれるまま震えることしかできなかった。
その後の、
あの衝撃的なキスの温度さえ――
思い返すたびに胸が締め付けられる。
ようやく視界の先に、
魔法使い専用の療養病棟が現れた。
外壁は白く、
夜の冷たい光を受けて静かに浮かび上がっている。
アランは胸に手を当てた。
――本当に……ここにいるのね。
胸の奥がズキリと痛んだ。
不安と恐怖と祈りが入り混じる。
病院の前まで来て、
初めて気づく。
魔力の使用が限界に近い。
手が震えて、杖を握る力すら弱っていた。
それでも。
――シリウスの瞳が翳っていないといい。
あの明るすぎるほどの瞳が、
どうか、まだ光を失っていませんように。
アランは胸元をきゅっと押さえた。
心臓が早鐘のように鳴る。
病院の扉に手をかけたところで、
アランは一度立ち止まった。
もし、彼がひどく傷ついていたら?
もし、あの時の弱い声よりもさらに弱々しくなっていたら?
その姿を見てしまったら、
自分は――
崩れてしまうかもしれない。
でも。
それでも行きたかった。
彼が生きているなら、
声にならない声でもいい、
伝えたかった。
――大丈夫と。
――あなたはひとりじゃない、と。
アランは震える手で扉を押した。
冷たい白光の廊下が、
ゆっくりと視界に広がる。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
この先に、
シリウスがいるのだ。
アランは深く息を吸い、
ふらつく足取りで歩き出した。
――会いたい。
――どうしても会いたい。
その一心だけで、
アランは病院の奥へと進んでいった。
薄暗い病室に、魔法灯の白い光がぼんやりと滲んでいる。
点滴のチューブが腕に刺さり、脈が通るたびに微かに揺れた。
胸の痛みはまだ引かない。
肋骨にかけられた治癒魔法の痕がときどきうずき、
深く息を吸うだけで身体が軋む。
それでも――
意識だけは妙にはっきりしていた。
仲間の声も、外のざわめきも、
今は遠い世界の話のように感じられる。
ただぽつんと、
自分だけが静かな水底に沈んでいるようだった。
ふいに、
病室の扉がかすかに軋んだ。
反射的に目が向く。
来客は許可していないはずだった。
医療魔法使いでも仲間でも、
今は誰の顔も見たくないと思っていた。
だから――
次の瞬間、視界に入ってきたその姿に、
シリウスの呼吸は、
完全に――止まった。
フードを深くかぶり、
肩で息をしながら立ち尽くしている女。
その指先には杖が震え、
頬は蒼白で、
瞳はまっすぐこちらだけを探している。
―― アラン。
名前が胸の奥で爆ぜたようだった。
呆然とする。
寝返りも痛い身体が、
思わず跳ね起きそうになるほど驚いた。
「…… アラン……?」
声が掠れ、自分でも驚くほど弱かった。
本当に彼女なのか確かめたくて、
シリウスはゆっくり身体を起こした。
アランの足元がふらりと揺れた。
それだけで胸がざわりと騒ぐ。
魔力切れの気配。
喉を焼くような呼吸の浅さ。
ここに来るまで、どれだけ無茶をしたのか分かった。
「……なんで……来たんだよ……」
驚きと、
嬉しさと、
そして恐怖が混じった声が漏れた。
――来るなよ。
――来られたら……もう、気持ちが止められなくなる。
そんな本音が喉にせり上がる。
アランはよろめきながら
ひと足、こちらへ踏み出した。
その瞬間――
シリウスの胸がぎゅっと縮まる。
彼女の瞳は震えていた。
「……っ」
言葉は発せられないが、
その瞳ははっきりと――
“あなたが生きていて良かった”
と叫んでいた。
その表情が、あまりにも優しくて。
あの日見せた切なさと罪悪感を含んだ瞳が――
今は、ただただ自分の無事だけを祈っている。
本当は、
あの日キスをしてしまった自分が
彼女に何かを求める権利なんてない。
もう二度と会いに来てはいけない相手だ。
レギュラスの妻であり、
触れてはいけない存在だ。
それなのに。
――来てくれた。
その事実が胸にあまりにも強く響き、
気づけば喉の奥から絞るような声が漏れた。
「…… アラン……」
名前を呼ぶだけで、
胸の奥が熱くなる。
会いたかった。
ずっと、会いたかった。
でも、会っちゃいけなかった。
そのすべてが交錯して、
シリウスの目が痛むように熱くなった。
アランはもう限界に近い身体で、
必死に立っていた。
「……おい、アラン。来るなって……言ったろ……」
そう言いながら、
声が震えてしまう。
その怯えた、苦しげな、
それでもまっすぐ自分を見る瞳が――
――どうしようもなく、愛しかった。
病室の空気は、思っていたよりも冷たかった。
魔法灯の淡い光が白い寝具と壁に反射し、
まるでそこだけが季節から切り離されたように静かだった。
扉を閉めたとたん、足元の力が崩れそうになる。
胸が強く波打ち、呼吸の仕方がわからなくなる。
――来てはいけなかった。
――でも、来ずにはいられなかった。
その矛盾が胸の奥で暴れ続けていた。
ベッドの上、ゆっくりと身体を起こしてこちらを見る男。
黒髪は乱れ、無造作に額にかかっている。
いつも太陽のように笑っていたその瞳は、
今日は少しだけ陰りを帯びている。
それなのに。
アランが見たどんな姿よりも――生きていてよかったと思った。
喉の奥が熱くなり、
胸がいっぱいになって視界が滲む。
杖を指先で握りしめる。
震えそうになった手を押さえつけるように。
そして――ゆっくり空中に文字を描いた。
《あなたが負傷したと聞きました》
文字が宙に淡く光った瞬間、
胸の奥で張り詰めていた糸が――ぷつり、と切れた。
シリウスが息を吸う音が聞こえた。
驚愕でも、困惑でもない。
むしろ―― 安堵だった。
「……ああ。そうみたいだな、俺」
軽く笑おうとした声は、
ひどく掠れていた。
アランは次の言葉を書こうとして、
でも手が動かなくなった。
本当は――
――無事でよかった。
それだけを伝えたかったのに。
言葉にならなかった。
胸の奥に溢れるものが、
痛みなのか安心なのか、
もう自分でも分からなかった。
アランはゆっくりと歩み寄り、
ベッドの手すりに触れた。
ただそれだけの動作なのに、
足元がぐらりと揺れる。
「…… アラン?」
シリウスの声が呼び止める。
アランは首を横に振る。
大丈夫、と伝えたかった。
けれど、涙が浮かんでしまった。
シリウスがそっと手を伸ばした。
その指先がアランの頬に触れるか触れないか、
ほんのわずかな距離で止まった。
その距離が――苦しかった。
声を持たない口が、震えながら何度も開いては閉じる。
喉の奥から何かが溢れそうなのに、形にはならない。
杖を再び持ち直す。
そして、震える手で文字を描いた。
《生きていて……よかった》
その文字が空中に浮かぶと、
シリウスは息を飲むように目を閉じた。
次に開いた瞳には、
苦しみ、悔しさ、そして――温かい光が宿っていた。
「……そんな顔させたくなかった」
その言葉は、涙のように静かだった。
アランはもう耐えられなかった。
そっと――シリウスの腕に触れた。
触れた瞬間、
全身が震えた。
あの日のキス。
あの日の声。
あの日の弱さ。
忘れたかった。
忘れなければならなかった。
けれど――
会ってしまえば、すべてが溢れてくる。
心の中で叫ぶ。
――こんな気持ち、持ってはいけない。
――でも、抑えられない。
肩が震え、涙が零れた。
声を持たない喉が、
震える息だけを吐き出す。
シリウスが苦しげに眉を寄せた。
「……泣くなよ。俺はこんなんでも、ちゃんと生きてる」
その慰めすら優しすぎて、
涙は止まらなかった。
