3章
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関所を設けるという決定により、
魔法界は今、マグルを“選別”しようとしている。
アランの過去を利用したレギュラスの政治、
罪を抱えたまま押し進められる冷徹な改革。
そのすべてが胸の奥を灼くように痛かった。
シリウスは机に両手を突き、
額を押しつけるようにして俯いた。
あのとき……俺が迷わなければ……
ジェームズと衝突してでも止めていれば……
治験なんてものは、世間に出たはずだった……
こんな決定になる前に、レギュラスを止められたはずなんだ……
後悔は果てしない。
胸の内側が割れるように痛み、
呼吸すら苦しかった。
心が、壊れそうだった。
そしてまた、思ってしまう。
—— アランに会いたい、と。
あの微笑みがほしい。
あの温かさに触れたい。
あの静かな瞳に、自分だけが映されたい。
自分の弱さを、
彼女の手のひらに乗せてしまいたい。
そんな卑怯な願いが胸を締めつける。
正義なんて……どうでもよかった。
この胸の痛みを癒せるのは、
もう自分の中ではアランしかいない。
シリウスは両手で顔を覆う。
「……くそ……なんで、こんなに……」
誰にも見せたくない弱さが、
闇の中で静かに溢れ出していった。
関所が設置された翌朝。
レギュラスは執務室に踏み込むなり、
山積みの報告書と緊急連絡が置かれた机を見て、
静かに眉根を寄せた。
「……想像以上ですね」
バーテミウスが肩を竦める。
「民衆というのは、理解と不満が五分五分の生き物ですから。
通行手形を“特権の象徴”だと歓迎する者と、
“自由の剥奪”と騒ぎ立てる者が綺麗に二分しております」
分かっていた。
こうなると分かっていた。
だが——
起こった混乱は想定よりも“人間的”に荒れていた。
「この通行手形はどういう基準で審査されるんだ!」
「魔法族が我々を監視するための制度だろう!」
「仕事に行かなきゃならないのに、二時間も並ばされてるんだぞ!」
「子供が熱を出しているの! 通してあげてください!」
報告書には、群衆の怒号が細かく記されていた。
初日は手続きに慣れない係員が処理しきれず、
行列が関所を超えてマグル街まで伸びてしまったという。
魔法族側にも不満は爆発していた。
「混血の検査をもう一度やれというのか?」
「マグル界に家族がいる者は皆、疑われるのか?」
「我々は犯罪者扱いか!」
——やれやれ。
レギュラスは目頭を押さえた。
「バーテミウス、通行手形の審査基準を簡略化しましょう。
外見的な確認と居住地だけで“一時的な手形”を出して構いません。
正式な審査は後日でいい」
「簡略化……よろしいのですか?
穴をあけるようなものですが」
「秩序を乱すよりはマシです。
いま必要なのは“形”ではなく“収束”です」
バーテミウスは深く頷いた。
だが問題は、通行手形の有無だけではなかった。
一定数のマグルが『拒否対象』として弾かれていた。
犯罪歴を持つ者、武装集団との接触が疑われる者、
そして……“魔法族に対する敵意”が強い者。
彼らは当然通過できず、関所の端で大声で抗議しているという。
暴れた者は拘束され、マグルの警察機関に引き渡した。
その処理に追われる魔法警務部からの報告が
立て続けに届いていた。
「……頭が痛くなりますね」
レギュラスは低く呟く。
「最初の一週間は荒れますよ。
むしろ“荒れたまま押し切る力”が必要です」
とバーテミウス。
「ええ。
ここで引き返せば、魔法界は二度と立て直せない。
魔力無効化薬が“偶然の事件”ではないと示された以上、
マグルとの境界は今、曖昧にできない」
自分の声が冷えているのが分かった。
関所の設置は“必要悪”だ。
誰よりもそれを理解している。
——だが、理解されることはない。
マグルにも、混血にも、親マグル派にも、騎士団にも。
理解されないまま、憎まれたまま、
それでも前に進まねばならない。
午後には“負傷者”の報告が届いた。
関所の金属ゲートに押し倒された女性や、
魔法反応検査に拒否して暴れた混血の青年。
それを止めようとした係員の腕が骨折していた。
レギュラスは淡々と指示を出す。
「すべて医務魔法使いに回してください。
治療費は関所側が負担。
記録は法務部で保管します。
騎士団には絶対に渡さないように」
「かしこまりました」
次の書類に手を伸ばしながら、
レギュラスはふと、
昨夜アランが静かに眠っていた寝顔を思い出した。
いつもなら、その記憶が心を温めてくれるのに。
今日は——
妙に胸がざわつく。
『シリウスが来たのではないか』
という疑念がまだ胸の底に残っているからか。
それともこの混乱の渦の中で
彼女の安らぎを守れる自信が揺れ始めたからか。
レギュラスはペンを強めに握り直した。
退庁時間を過ぎても報告は止まらず、
どこか遠くの街でまた“衝突”が起きたと連絡が来る。
「初動はどうしても荒れますね……」
「分かっています。
——これが、“必要”なのです」
レギュラスは、外の声を遮断するように
窓に背を向けた。
遠くで、マグルのラジオ局が
「魔法族による圧政だ」と煽り立てている。
それが関所付近の群衆をさらに煽るという
悪循環が生まれていた。
… アランに、こんな世界を歩かせたくない。
その思いが胸で硬く固まっていく。
魔法ラジオは、今日も関所の混乱を報じていた。
アランは暖炉の前で毛布にくるまりながら、
その音声をただ静かに聞いていた。
怒号、抗議、泣き声。
魔法族もマグルも、互いを恐れ、責め、押し返している。
言葉こそ理解できないけれど——
“恐怖の音”だけは、痛いほど分かった。
……あの夜と同じ
胸がきゅうと縮こまる。
幼いとき、封印の力を恐れたマグルたちが
セシール家を襲撃し、屋敷を焼き、
アランが地下に逃げ込み、
そのまま連れ去られ、幽閉されたあの夜。
街のざわめき、火の音、叫び声。
あれと同じ音が、今、関所で起きている——
そう思っただけで、体が震えた。
杖を握る指が汗ばむ。
そんなときだった。
結界の“内側”へ、誰かの気配がふっと滑り込んできた。
アランははっと振り返る。
「……シリウス?」
驚きで杖を落としそうになる。
彼はゆっくり歩み寄り、
いつもの陽気な笑顔などどこにもなかった。
影のような表情だった。
「アラン……」
掠れた声に、アランの胸がきゅっと掴まれる。
杖を拾い、文字を綴る。
《この屋敷には強い結界があります。
あなたの魔力を検知されたら——》
「大丈夫だよ」
シリウスはかぶりを振った。
かすかに微笑もうとするが、それはすぐ崩れた。
「ちゃんと、魔力痕は覆ってきた。
痕跡も匂いも残してねぇ。
バレねぇよ」
その言葉に、アランはほっと息を吐いた。
安堵と同時に、
こんな状態でわざわざ来たことへの胸騒ぎが押し寄せる。
次の瞬間——
シリウスはふらりと近づき、そのままアランを抱き締めた。
「!」
背中に大きな腕が回り、
アランは小さく震えながら杖を落としてしまった。
床に転がる乾いた音すら聞こえないほど、
シリウスの体温が近かった。
「アラン……俺……ちょっと、疲れちまったんだ……」
その声は、
太陽みたいに明るかった彼のどの声とも違った。
弱くて
萎んでいて
壊れそうで
泣きだしそうな声だった。
胸が締めつけられる。
彼の肩がわずかに震えているのが伝わる。
……この人は、今日の境界線のことを聞いたのだ。
マグル界と魔法界を分断する新しい関所。
大勢の魔法族が声を荒げ、
マグルは怯え、
政治家たちは言い争い、
騎士団は批判し、
法務部は押し通す。
——正しいのはどちらなのか分からない。
レギュラスを責めることはできない。
彼は魔法界の安全を守ろうとしているのだと思う。
危険から自分を守ろうとしている。
けれどシリウスたち騎士団の言う“弱き者の側に立つ正義”も、
痛いほど理解できてしまう。
どちらも正しくて、
どちらも間違っているようで、
どちらにも寄れない。
アランはそっとシリウスの背に手を伸ばす。
抱き返すことはできない。
けれど、それでも。
寄り添うくらいはできる。
シリウスはアランの肩に額を押しつけたまま、
ぽつりと呟いた。
「……誰が正しいかなんて、もうわかんねぇよな」
アランは答えられない。
ただ静かに目を伏せる。
自分してあげられることなんて……
——何一つ、浮かばなかった。
大した魔法も、言葉も持たない自分にできるのは、
ただ静かにここに立ち続けることだけだった。
シリウスの震えがすこし落ち着くまで、
アランは黙って寄り添っていた。
アランを抱きしめた瞬間、
胸の奥で張りつめていた糸が、ぷつんと切れた。
彼女の体温が腕の中で震えている。
儚い、柔らかい、どこまでも大切な存在が、
こんなにも近くにいるのに——
自分は、何ひとつ救えていない。
喉が焼けるように痛かった。
「…… アラン」
声を出したところで、何も変えられないのに。
でも、呼ばずにはいられなかった。
彼女は静かに顔を上げる。
翡翠の瞳が揺れている。
怯えではない。
迷いでもない。
——ただ、人を受け止めようとする優しさだけがあった。
それが、たまらなく胸を刺した。
どうして、こんなときまで優しいのか。
どうして、こんな世界で笑おうとするのか。
感情が、堰を切って溢れた。
気づいたときには——
シリウスはアランの頬をそっとつかみ、
軽く、確かめるように顔を近づけていた。
アランの唇が震える。
逃げようとはしなかった。
けれど、戸惑いの息が彼女の喉からこぼれる。
本当は、してはいけない。
本当は、踏み越えてはいけない。
本当は、レギュラスが、彼女が選んだ男だ。
——全部わかっている。
それでも。
ただ一度だけ、触れたかった。
この気持ちが確かに存在した証として。
シリウスは、
そっと彼女の唇に触れた。
熱くもなく、深くもなく、
けれど胸の奥を焼くほどの、
ひどく短いキスだった。
触れた瞬間、
彼女の息がふっと止まり、
瞳が大きく揺れる。
その震えに——
シリウスの心臓は爆発しそうだった。
唇を離したあと、
アランの表情が崩れる。
「……ごめん」
謝罪は、吐息のようにこぼれた。
彼女を傷つけたくはなかった。
困らせるつもりも、揺らすつもりもなかった。
ただ、どうしようもなく——
愛してしまっていた。
けれど。
「今のは忘れてくれ」
自分の声がどこか遠くで響いているように感じた。
アランの瞳は、大きく揺れたまま涙の膜を張り、
何かを言おうと口を開いたが、
当然言葉は一つも出なかった。
シリウスは微笑んだ。
限界まで優しい顔で。
「お前は何も悪くない。
全部、俺の弱さだ」
そう告げると、
彼は静かにアランを離し、
結界の気配を乱さぬよう姿を消した。
シリウスがいなくなった部屋に、
ぽつんと自分だけが残された。
閉じた扉の前で、アランはしばらく動けなかった。
呼吸ができない。
胸の奥で、鼓動が壊れたように暴れている。
いま、何が起きたのか……?
唇に残る微かな感触が、
いつまでも熱を宿したまま消えなかった。
自分から彼を抱き寄せたわけでもない。
求めたわけでもない。
けれど——
拒むことも、できなかった。
その事実が、
何より恐ろしくてたまらなかった。
杖を拾おうとした指が震える。
握ろうとしても、思うように力が入らない。
胸の奥が、ずっとざわざわしている。
シリウスの腕に抱かれたときのあの温度。
ふいに降りかかった、弱さの影。
あの男があれほど頼りなく見えたのは——
初めてだった。
その弱さに、
自分はほんの一瞬、胸を締め付けられた。
あの一瞬の揺らぎが——
シリウスの唇を拒めなくしたのではないか。
そう考えた瞬間、
胃の底に落ち込むような罪悪感が押し寄せた。
レギュラスの顔が浮かぶ。
自分に触れるとき、どれほど丁寧に、
どれほど大切に扱ってくれるかを知っている。
彼の手の温度、
あの静かな優しさ、
何度も何度も救ってくれた夜。
——裏切ったわけじゃない。
——でも、裏切らなかったわけでもない。
その曖昧さが、耐え難く苦しかった。
ゆっくりと壁にもたれ、
アランは胸元を握りしめる。
息が震える。
喉が詰まり、声は出ない。
涙が落ちそうになるが、
それすら堪えた。
レギュラスに知られたら……
あの人は、気づく。
どれだけ隠しても、必ず見抜いてしまう。
結界の乱れ——
いや、魔力痕を覆い隠す呪文をシリウスは使ったと言っていた。
きっと、見破られない。
そう信じたい。
けれど。
この胸のざわめきまで隠せるだろうか。
頬の赤みも、呼吸の乱れも、言葉にできない動揺も。
レギュラスの前に立ったら、
自分は平静でいられる自信がなかった。
罪悪感と恐れが、胸を締めつける。
そしてもうひとつ——
いちばん扱い方がわからない感情が胸に残っていた。
シリウスの言葉の重さ。
“もし……もしもだ。俺がお前を幸せにしたいんだって言ったら、
お前は苦しむか?”
その言葉が、
噛みしめるように、胸の奥をゆっくりと刺してくる。
アランは布団に潜り込んだ。
体を丸め、震える手で頬を覆う。
消したいのは記憶ではなく、
心の揺らぎそのものだった。
けれど。
揺らいだという事実だけが、あまりにも鮮明だった。
レギュラスを失いたくない。
その思いだけは、確固としてゆるがないはずなのに。
なぜこんなにも胸が痛いのだろう。
アランは目を閉じ、
長い夜をひとり静かに震えながら耐えた。
その夜。
いつもより少し遅めの時間に、寝室の扉が静かに開いた。
カチリ、と取っ手が戻る乾いた音が、
アランの背筋を一瞬で凍らせる。
――帰ってきた。
灯していたスタンドの柔らかな光が、レギュラスの姿をぼんやりと照らした。
いつもと同じ、黒いローブ。いつもと同じ、整った顔。
いつもと同じはずなのに。
胸が、苦しいほど跳ね上がる。
アランは本を膝に置いたまま固まった。
レギュラスの目が、すぐにこちらを見つける。
「…… アラン?」
優しい声だった。
いつものように柔らかく、帰宅の気配をほどいていくあの音。
なのに――耳が痛いほど響いた。
アランは反射的に杖を取ろうとして、
けれど指が震えて掴めなかった。
レギュラスが眉を寄せる。
その仕草だけで、胸がぎゅっと縮む。
「どうしました? 具合が悪いんですか」
近づいてくる。
一歩、また一歩。
そのたびに、心臓が砕けそうに跳ねる。
知られたのではないか。
気づかれてしまうのではないか。
唇に残る微かな熱が、彼の目に映ってしまうのではないか。
アランは思わず視線を落とした。
レギュラスの胸元あたりへ――そこなら表情を見られない。
それでも彼は、顔を覗き込もうとしてくる。
その優しさが、いまは恐ろしくて仕方がなかった。
「アラン……本当に大丈夫ですか?」
手が伸びてきて、アランの頬に触れようとする。
その瞬間、アランは反射的に肩を震わせた。
触れられたら、全部溢れてしまう。
触れられたら、泣いてしまう。
レギュラスの指先が、頬に触れる寸前で止まる。
――気づいた。
アランは一瞬で悟った。
レギュラスは、アランの反応一つで何でも読み取ってしまう男だ。
「……何か、ありましたね」
低く、静かな声。
追い詰めるような鋭さはない。
ただ真っ直ぐな、愛する人を案じる声音。
だからこそ痛かった。
アランは必死に首を振る。
違う、何もない、ただ――と心の中で叫ぶ。
けれど、文字にしようとしても、
杖を握る手が震えすぎて書けなかった。
レギュラスがその手をそっと包む。
それだけで、涙が込み上げる。
「…… アラン」
彼は、絞り出すように言った。
「言わないのなら、無理に聞きません。
ただ……そんなふうに怯えた顔で、僕を見ないでください」
その一言が、胸の奥深くに突き刺さる。
怯えているのではなかった。
ただ、罪悪感が苦しくてたまらなかっただけ。
けれど彼には怯えているように見えたのだとしたら――
それはアランが一番傷つけたくない部分だった。
涙が一粒、ぽとりと落ちた。
レギュラスは驚き、すぐにアランを抱き寄せた。
強くではなく、そっと包むように。
「……怖がらないでください。
僕はあなたを傷つけません」
アランは胸元に顔を埋めた。
レギュラスの香りがした。
安心する香りなのに、今日は胸が痛くなるばかりだ。
シリウスにキスをされたなんて。
レギュラスにだけは、知られたくなかった。
アランはひたすら震えながら、
ただ彼の胸にしがみついた。
言えない。
でも嘘もつけない。
そんな狭間で、静かに夜が更けていった。
その夜、シリウスはひとり、魔法界の裏通りにある場末の酒場を出て、ふらつく足取りのまま路地へと出た。
吐く息が白い。
夜気が冷たい。
それでも胸の奥のほうだけは、焼けるように熱かった。
――やってしまった。
壁に片手をつき、シリウスは深く俯いた。
酒の匂いよりも、後悔の匂いの方が強く鼻につく。
アランの、驚いた顔が焼きついて離れない。
抱きしめた瞬間の、あの細い体の震え。
そして、唇が触れたときのあの微かな温度――
あれは優しさでも、喜びでもなかった。
ただ、戸惑いと、恐れだった。
「……バカだろ、俺は」
かすれた声が夜空に消えた。
酒に酔っていたわけではない。
ただ、気持ちが先に走った。
あの柔らかい笑顔が、今日だけは救われていない顔をしていたから。
助けたかった。
支えたかった。
――けれどあれは、ただ自分が楽になりたかっただけだ。
守りたいと思っていたはずなのに。
結果的に彼女を苦しめ、怖がらせた。
「……最低だ」
シリウスは自分の胸の前を握りしめる。
胸を抉られるように痛かった。
レギュラスの決定にも、騎士団の正義にも、
もう耐えられないほどの亀裂が走っていて。
どこにも吐き出し口がないままアランの前に立ってしまった。
アランだけが、いつでも自分をまっすぐ見てくれる。
声が出なくても、気持ちを真っ直ぐ伝えてくれる。
あの笑顔に、どれほど救われてきたか分からない。
だから――甘えた。
「……最悪だ、本当に」
シリウスはその場に座り込んだ。
石畳が背中の冷えを吸っていく。
どうしてあんなことをしたんだ。
何を求めていたんだ。
アランが望んでいないことくらい、
あの一瞬で分かったはずなのに。
自嘲の笑いがこみ上げて、喉の奥で詰まった。
「……あいつに知られたら、俺、殺されても文句言えねぇな」
そう呟くと、背筋がひやりと震えた。
本気で思った。
アランはレギュラスが命を懸けて守る存在だ。
彼女の頬に触れることすら、許されない。
――なのに自分は、全部わかっていながらキスをした。
罪悪感に胸が詰まり、シリウスは頭を抱えた。
もう、どの道にも進めない。
騎士団の正義も、レギュラスとの誤差も、
アランへの想いも、全部手に余るほど重くて苦しい。
苦しさは酒では誤魔化せなかった。
ただ、痛みだけが胸に残った。
「…… アラン」
名前を呼ぶ。
その声は、誰よりも優しく、誰よりも届かない。
そのままシリウスは、夜の冷たい路地で目を閉じた。
酔いが回ったわけでもない。
ただ、心が疲れ果てていた。
月の光だけが、彼の肩を静かに照らしていた。
その夜、ベッドに横たわっても、アランの胸はひどくざわめいていた。
寝室には常夜灯の柔らかな光が揺れ、カーテンの向こうには風の音が擦れる。
いつもなら、その静けさはすぐに眠りへ導いてくれるはずだった。
けれど今日は違った。
胸の奥が、何か鋭いものでかき混ぜられるように痛む。
――シリウスが、抱きしめてきた。
そして、そのあとで。
唇が触れた感触が、まだほんのり残っている気がする。
アランはそっと手を伸ばし、指先で自分の口元を押さえた。
指に触れた唇は、いつも通りなのに。
心が、まるで知らない場所に引きずられてしまったように不安定だった。
あの瞬間――
驚きで身体が固まり、杖が手から滑り落ちた。
シリウスの腕に触れた肩が、まだ熱い。
抱きしめられた胸元が、今もどくどくと脈打っている気がする。
拒むべきだった。
突き放すべきだった。
でも、あまりに突然で。
あの声が、疲れ切って沈んでいて。
胸が締め付けられて、動けなかった。
――これは裏切りなのだろうか。
そう思った瞬間、アランは胸の奥がずきりと痛むのを感じた。
レギュラスの顔が浮かんだ。
帰って来る時の、少し疲れたけれど穏やかな瞳。
アランを見つけた時の、柔らかい安心の色。
あの瞳を裏切ってしまったのではないか。
言われていないのに、まるで叱られているような気持ちになってしまう。
――なぜ、何も言えなかったんだろう。
アランは布団をぎゅっと握りしめる。
喉に力を込めても声は出ない。
ただ胸の奥が焦げつくように苦しくて、息が浅くなる。
あれは、シリウスの弱さが溢れただけ。
アランを求めたのではなく、慰めを求めただけ。
……そう思おうとするのに、心は少し混乱していた。
シリウスの唇が触れた瞬間の、胸の跳ねるような痛み――
それが、“恐怖”だけではなかったような気がしたのだ。
気のせいだ。
そうでなければならない。
レギュラスがこの部屋に入ってくるときの、
そっと額に触れてくれるあの温度を知っている。
彼の腕に抱かれると、どれほど安心できるかも知っている。
その全てを思い出すだけで、胸がじんわり温かくなるはずなのに。
今日はなぜか、胸に刺さる痛い針のような違和感が消えなかった。
アランは目を閉じても、
瞼の裏にはシリウスの、あの沈んだ瞳と近づいてくる顔が浮かんでしまう。
唇に触れた感触が、まるで残像のように繰り返しよみがえり、
寝返りを打つたびに胸がざわざわと波立つ。
――言わなければならないのだろうか。
レギュラスに、あの出来事を。
だが、告げたらレギュラスはどうなる?
シリウスとの関係は壊れ、
レギュラス自身の心にも深い傷を残すはずだ。
どちらも望まない。
どちらも壊したくない。
アランは布団に顔を埋め、声にならない息を震わせた。
眠れないまま夜が深まり、
窓の外の月は、彼女の胸の乱れを黙って照らしていた。
翌朝。
寝室のカーテン越しに差し込む光はいつもと変わらず淡く柔らかいのに、
レギュラスの胸の奥では、何か冷たい鉛のようなものが沈んでいた。
アランは、すでに起きていた。
窓際で、静かにカーテンを整えている。
薄い寝間着の肩越しに、繊細な髪がさらりと揺れた。
――ほんの些細な違和感。
けれど、それがやけに胸に引っかかった。
いつもなら、レギュラスが目覚める気配を察すると、
アランはすぐにふわりと振り返り、
微笑みながら「おはようございます」と指を動かしてくれる。
けれど今日の彼女は、こちらを振り返らなかった。
何かをごまかすように、
いつもより丁寧にカーテンの皺を伸ばし続けている。
――あの仕草は、何だ?
「アラン」
呼びかけると、
アランの肩がほんのわずかに跳ねた。
その反応に、胸がどくりと脈打つ。
ゆっくりこちらを向いたアランは、微笑んでいる。
いつもと同じように見えるのに、どこかぎこちない。
眠れなかったのか?
それとも、体調が戻っていないのか?
あるいは――
「具合はどうです? まだ本調子ではありませんか」
レギュラスは近づき、アランの頬に触れようと手を伸ばす。
するとアランは、その手に触れる一瞬前に、そっと顔を引いた。
拒絶ではない。
気に病むほどの拒みではない。
けれど、避けられたのは確かだった。
心臓が、鋭く痛む。
「……?」
問いかけようとして、言葉にならなかった。
何を問えばいいのか、レギュラス自身わからなかった。
見つめると、アランは慌てたように杖を取り上げ、指を動かした。
《ちょっと……寝不足で》
寝不足。
ただそれだけのこと――
……のはずなのに。
レギュラスは、信じたかった。
だが、胸のざわめきは収まらない。
アランは昨夜、早めに横になっていた。
枕が少し乱れていたのは、夜中に何度か起きた証拠だろう。
寝不足――それ自体は不自然ではない。
しかし、アランには“理由のない乱れ”などほとんどない。
彼女の心のわずかな波は、
いつも身体の仕草にそのまま現れる。
だからこそ、わかった。
――何かあった。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、アランの動きをただ静かに追った。
朝食の支度のために杖を使う手が、ほんの少し震えている。
「アラン……本当に、大丈夫ですか?」
問いにアランは微笑んだ。
それ自体はいつもの穏やかな微笑みだ。
だが、瞳の奥の透明な光が、ほんの少し曇っていた。
――嘘をついている。
そう確信した瞬間、胸の奥に押し込めていた不安が、
ゆっくりと、しかし確実に膨張していく。
この家の結界は完全だ。
誰が侵入すれば必ず痕跡が残るように施してある。
だからこそ――
アランの乱れ方が、他者との接触があったことを示しているようで、胸が痛んだ。
しかし、アランに問いただすことはできなかった。
追い詰めるのが怖かったのではない。
――もし、答えが自分の想像しているものだった場合。
レギュラス自身が、何をしてしまうかわからなかったからだ。
重たい沈黙が落ちる。
アランが用意した朝食を、レギュラスは手につけられなかった。
微笑むアラン。
けれど、その笑顔の気配が、どこか遠い。
胸騒ぎは、収まるどころか悪化していく。
動悸が静かに波打つように続き、
レギュラスはただ、そっとアランの肩に触れた。
その柔らかな肩が、ぴくりと緊張する。
――これは、ただの寝不足ではない。
そう理解した瞬間、レギュラスの指先がひどく冷たくなった。
知らなければならない。
しかし、知るのが怖い。
胸騒ぎという名の静かな嵐は、
アランの微笑の奥に隠された何かに、確実に触れようとしていた。
魔法界は今、マグルを“選別”しようとしている。
アランの過去を利用したレギュラスの政治、
罪を抱えたまま押し進められる冷徹な改革。
そのすべてが胸の奥を灼くように痛かった。
シリウスは机に両手を突き、
額を押しつけるようにして俯いた。
あのとき……俺が迷わなければ……
ジェームズと衝突してでも止めていれば……
治験なんてものは、世間に出たはずだった……
こんな決定になる前に、レギュラスを止められたはずなんだ……
後悔は果てしない。
胸の内側が割れるように痛み、
呼吸すら苦しかった。
心が、壊れそうだった。
そしてまた、思ってしまう。
—— アランに会いたい、と。
あの微笑みがほしい。
あの温かさに触れたい。
あの静かな瞳に、自分だけが映されたい。
自分の弱さを、
彼女の手のひらに乗せてしまいたい。
そんな卑怯な願いが胸を締めつける。
正義なんて……どうでもよかった。
この胸の痛みを癒せるのは、
もう自分の中ではアランしかいない。
シリウスは両手で顔を覆う。
「……くそ……なんで、こんなに……」
誰にも見せたくない弱さが、
闇の中で静かに溢れ出していった。
関所が設置された翌朝。
レギュラスは執務室に踏み込むなり、
山積みの報告書と緊急連絡が置かれた机を見て、
静かに眉根を寄せた。
「……想像以上ですね」
バーテミウスが肩を竦める。
「民衆というのは、理解と不満が五分五分の生き物ですから。
通行手形を“特権の象徴”だと歓迎する者と、
“自由の剥奪”と騒ぎ立てる者が綺麗に二分しております」
分かっていた。
こうなると分かっていた。
だが——
起こった混乱は想定よりも“人間的”に荒れていた。
「この通行手形はどういう基準で審査されるんだ!」
「魔法族が我々を監視するための制度だろう!」
「仕事に行かなきゃならないのに、二時間も並ばされてるんだぞ!」
「子供が熱を出しているの! 通してあげてください!」
報告書には、群衆の怒号が細かく記されていた。
初日は手続きに慣れない係員が処理しきれず、
行列が関所を超えてマグル街まで伸びてしまったという。
魔法族側にも不満は爆発していた。
「混血の検査をもう一度やれというのか?」
「マグル界に家族がいる者は皆、疑われるのか?」
「我々は犯罪者扱いか!」
——やれやれ。
レギュラスは目頭を押さえた。
「バーテミウス、通行手形の審査基準を簡略化しましょう。
外見的な確認と居住地だけで“一時的な手形”を出して構いません。
正式な審査は後日でいい」
「簡略化……よろしいのですか?
穴をあけるようなものですが」
「秩序を乱すよりはマシです。
いま必要なのは“形”ではなく“収束”です」
バーテミウスは深く頷いた。
だが問題は、通行手形の有無だけではなかった。
一定数のマグルが『拒否対象』として弾かれていた。
犯罪歴を持つ者、武装集団との接触が疑われる者、
そして……“魔法族に対する敵意”が強い者。
彼らは当然通過できず、関所の端で大声で抗議しているという。
暴れた者は拘束され、マグルの警察機関に引き渡した。
その処理に追われる魔法警務部からの報告が
立て続けに届いていた。
「……頭が痛くなりますね」
レギュラスは低く呟く。
「最初の一週間は荒れますよ。
むしろ“荒れたまま押し切る力”が必要です」
とバーテミウス。
「ええ。
ここで引き返せば、魔法界は二度と立て直せない。
魔力無効化薬が“偶然の事件”ではないと示された以上、
マグルとの境界は今、曖昧にできない」
自分の声が冷えているのが分かった。
関所の設置は“必要悪”だ。
誰よりもそれを理解している。
——だが、理解されることはない。
マグルにも、混血にも、親マグル派にも、騎士団にも。
理解されないまま、憎まれたまま、
それでも前に進まねばならない。
午後には“負傷者”の報告が届いた。
関所の金属ゲートに押し倒された女性や、
魔法反応検査に拒否して暴れた混血の青年。
それを止めようとした係員の腕が骨折していた。
レギュラスは淡々と指示を出す。
「すべて医務魔法使いに回してください。
治療費は関所側が負担。
記録は法務部で保管します。
騎士団には絶対に渡さないように」
「かしこまりました」
次の書類に手を伸ばしながら、
レギュラスはふと、
昨夜アランが静かに眠っていた寝顔を思い出した。
いつもなら、その記憶が心を温めてくれるのに。
今日は——
妙に胸がざわつく。
『シリウスが来たのではないか』
という疑念がまだ胸の底に残っているからか。
それともこの混乱の渦の中で
彼女の安らぎを守れる自信が揺れ始めたからか。
レギュラスはペンを強めに握り直した。
退庁時間を過ぎても報告は止まらず、
どこか遠くの街でまた“衝突”が起きたと連絡が来る。
「初動はどうしても荒れますね……」
「分かっています。
——これが、“必要”なのです」
レギュラスは、外の声を遮断するように
窓に背を向けた。
遠くで、マグルのラジオ局が
「魔法族による圧政だ」と煽り立てている。
それが関所付近の群衆をさらに煽るという
悪循環が生まれていた。
… アランに、こんな世界を歩かせたくない。
その思いが胸で硬く固まっていく。
魔法ラジオは、今日も関所の混乱を報じていた。
アランは暖炉の前で毛布にくるまりながら、
その音声をただ静かに聞いていた。
怒号、抗議、泣き声。
魔法族もマグルも、互いを恐れ、責め、押し返している。
言葉こそ理解できないけれど——
“恐怖の音”だけは、痛いほど分かった。
……あの夜と同じ
胸がきゅうと縮こまる。
幼いとき、封印の力を恐れたマグルたちが
セシール家を襲撃し、屋敷を焼き、
アランが地下に逃げ込み、
そのまま連れ去られ、幽閉されたあの夜。
街のざわめき、火の音、叫び声。
あれと同じ音が、今、関所で起きている——
そう思っただけで、体が震えた。
杖を握る指が汗ばむ。
そんなときだった。
結界の“内側”へ、誰かの気配がふっと滑り込んできた。
アランははっと振り返る。
「……シリウス?」
驚きで杖を落としそうになる。
彼はゆっくり歩み寄り、
いつもの陽気な笑顔などどこにもなかった。
影のような表情だった。
「アラン……」
掠れた声に、アランの胸がきゅっと掴まれる。
杖を拾い、文字を綴る。
《この屋敷には強い結界があります。
あなたの魔力を検知されたら——》
「大丈夫だよ」
シリウスはかぶりを振った。
かすかに微笑もうとするが、それはすぐ崩れた。
「ちゃんと、魔力痕は覆ってきた。
痕跡も匂いも残してねぇ。
バレねぇよ」
その言葉に、アランはほっと息を吐いた。
安堵と同時に、
こんな状態でわざわざ来たことへの胸騒ぎが押し寄せる。
次の瞬間——
シリウスはふらりと近づき、そのままアランを抱き締めた。
「!」
背中に大きな腕が回り、
アランは小さく震えながら杖を落としてしまった。
床に転がる乾いた音すら聞こえないほど、
シリウスの体温が近かった。
「アラン……俺……ちょっと、疲れちまったんだ……」
その声は、
太陽みたいに明るかった彼のどの声とも違った。
弱くて
萎んでいて
壊れそうで
泣きだしそうな声だった。
胸が締めつけられる。
彼の肩がわずかに震えているのが伝わる。
……この人は、今日の境界線のことを聞いたのだ。
マグル界と魔法界を分断する新しい関所。
大勢の魔法族が声を荒げ、
マグルは怯え、
政治家たちは言い争い、
騎士団は批判し、
法務部は押し通す。
——正しいのはどちらなのか分からない。
レギュラスを責めることはできない。
彼は魔法界の安全を守ろうとしているのだと思う。
危険から自分を守ろうとしている。
けれどシリウスたち騎士団の言う“弱き者の側に立つ正義”も、
痛いほど理解できてしまう。
どちらも正しくて、
どちらも間違っているようで、
どちらにも寄れない。
アランはそっとシリウスの背に手を伸ばす。
抱き返すことはできない。
けれど、それでも。
寄り添うくらいはできる。
シリウスはアランの肩に額を押しつけたまま、
ぽつりと呟いた。
「……誰が正しいかなんて、もうわかんねぇよな」
アランは答えられない。
ただ静かに目を伏せる。
自分してあげられることなんて……
——何一つ、浮かばなかった。
大した魔法も、言葉も持たない自分にできるのは、
ただ静かにここに立ち続けることだけだった。
シリウスの震えがすこし落ち着くまで、
アランは黙って寄り添っていた。
アランを抱きしめた瞬間、
胸の奥で張りつめていた糸が、ぷつんと切れた。
彼女の体温が腕の中で震えている。
儚い、柔らかい、どこまでも大切な存在が、
こんなにも近くにいるのに——
自分は、何ひとつ救えていない。
喉が焼けるように痛かった。
「…… アラン」
声を出したところで、何も変えられないのに。
でも、呼ばずにはいられなかった。
彼女は静かに顔を上げる。
翡翠の瞳が揺れている。
怯えではない。
迷いでもない。
——ただ、人を受け止めようとする優しさだけがあった。
それが、たまらなく胸を刺した。
どうして、こんなときまで優しいのか。
どうして、こんな世界で笑おうとするのか。
感情が、堰を切って溢れた。
気づいたときには——
シリウスはアランの頬をそっとつかみ、
軽く、確かめるように顔を近づけていた。
アランの唇が震える。
逃げようとはしなかった。
けれど、戸惑いの息が彼女の喉からこぼれる。
本当は、してはいけない。
本当は、踏み越えてはいけない。
本当は、レギュラスが、彼女が選んだ男だ。
——全部わかっている。
それでも。
ただ一度だけ、触れたかった。
この気持ちが確かに存在した証として。
シリウスは、
そっと彼女の唇に触れた。
熱くもなく、深くもなく、
けれど胸の奥を焼くほどの、
ひどく短いキスだった。
触れた瞬間、
彼女の息がふっと止まり、
瞳が大きく揺れる。
その震えに——
シリウスの心臓は爆発しそうだった。
唇を離したあと、
アランの表情が崩れる。
「……ごめん」
謝罪は、吐息のようにこぼれた。
彼女を傷つけたくはなかった。
困らせるつもりも、揺らすつもりもなかった。
ただ、どうしようもなく——
愛してしまっていた。
けれど。
「今のは忘れてくれ」
自分の声がどこか遠くで響いているように感じた。
アランの瞳は、大きく揺れたまま涙の膜を張り、
何かを言おうと口を開いたが、
当然言葉は一つも出なかった。
シリウスは微笑んだ。
限界まで優しい顔で。
「お前は何も悪くない。
全部、俺の弱さだ」
そう告げると、
彼は静かにアランを離し、
結界の気配を乱さぬよう姿を消した。
シリウスがいなくなった部屋に、
ぽつんと自分だけが残された。
閉じた扉の前で、アランはしばらく動けなかった。
呼吸ができない。
胸の奥で、鼓動が壊れたように暴れている。
いま、何が起きたのか……?
唇に残る微かな感触が、
いつまでも熱を宿したまま消えなかった。
自分から彼を抱き寄せたわけでもない。
求めたわけでもない。
けれど——
拒むことも、できなかった。
その事実が、
何より恐ろしくてたまらなかった。
杖を拾おうとした指が震える。
握ろうとしても、思うように力が入らない。
胸の奥が、ずっとざわざわしている。
シリウスの腕に抱かれたときのあの温度。
ふいに降りかかった、弱さの影。
あの男があれほど頼りなく見えたのは——
初めてだった。
その弱さに、
自分はほんの一瞬、胸を締め付けられた。
あの一瞬の揺らぎが——
シリウスの唇を拒めなくしたのではないか。
そう考えた瞬間、
胃の底に落ち込むような罪悪感が押し寄せた。
レギュラスの顔が浮かぶ。
自分に触れるとき、どれほど丁寧に、
どれほど大切に扱ってくれるかを知っている。
彼の手の温度、
あの静かな優しさ、
何度も何度も救ってくれた夜。
——裏切ったわけじゃない。
——でも、裏切らなかったわけでもない。
その曖昧さが、耐え難く苦しかった。
ゆっくりと壁にもたれ、
アランは胸元を握りしめる。
息が震える。
喉が詰まり、声は出ない。
涙が落ちそうになるが、
それすら堪えた。
レギュラスに知られたら……
あの人は、気づく。
どれだけ隠しても、必ず見抜いてしまう。
結界の乱れ——
いや、魔力痕を覆い隠す呪文をシリウスは使ったと言っていた。
きっと、見破られない。
そう信じたい。
けれど。
この胸のざわめきまで隠せるだろうか。
頬の赤みも、呼吸の乱れも、言葉にできない動揺も。
レギュラスの前に立ったら、
自分は平静でいられる自信がなかった。
罪悪感と恐れが、胸を締めつける。
そしてもうひとつ——
いちばん扱い方がわからない感情が胸に残っていた。
シリウスの言葉の重さ。
“もし……もしもだ。俺がお前を幸せにしたいんだって言ったら、
お前は苦しむか?”
その言葉が、
噛みしめるように、胸の奥をゆっくりと刺してくる。
アランは布団に潜り込んだ。
体を丸め、震える手で頬を覆う。
消したいのは記憶ではなく、
心の揺らぎそのものだった。
けれど。
揺らいだという事実だけが、あまりにも鮮明だった。
レギュラスを失いたくない。
その思いだけは、確固としてゆるがないはずなのに。
なぜこんなにも胸が痛いのだろう。
アランは目を閉じ、
長い夜をひとり静かに震えながら耐えた。
その夜。
いつもより少し遅めの時間に、寝室の扉が静かに開いた。
カチリ、と取っ手が戻る乾いた音が、
アランの背筋を一瞬で凍らせる。
――帰ってきた。
灯していたスタンドの柔らかな光が、レギュラスの姿をぼんやりと照らした。
いつもと同じ、黒いローブ。いつもと同じ、整った顔。
いつもと同じはずなのに。
胸が、苦しいほど跳ね上がる。
アランは本を膝に置いたまま固まった。
レギュラスの目が、すぐにこちらを見つける。
「…… アラン?」
優しい声だった。
いつものように柔らかく、帰宅の気配をほどいていくあの音。
なのに――耳が痛いほど響いた。
アランは反射的に杖を取ろうとして、
けれど指が震えて掴めなかった。
レギュラスが眉を寄せる。
その仕草だけで、胸がぎゅっと縮む。
「どうしました? 具合が悪いんですか」
近づいてくる。
一歩、また一歩。
そのたびに、心臓が砕けそうに跳ねる。
知られたのではないか。
気づかれてしまうのではないか。
唇に残る微かな熱が、彼の目に映ってしまうのではないか。
アランは思わず視線を落とした。
レギュラスの胸元あたりへ――そこなら表情を見られない。
それでも彼は、顔を覗き込もうとしてくる。
その優しさが、いまは恐ろしくて仕方がなかった。
「アラン……本当に大丈夫ですか?」
手が伸びてきて、アランの頬に触れようとする。
その瞬間、アランは反射的に肩を震わせた。
触れられたら、全部溢れてしまう。
触れられたら、泣いてしまう。
レギュラスの指先が、頬に触れる寸前で止まる。
――気づいた。
アランは一瞬で悟った。
レギュラスは、アランの反応一つで何でも読み取ってしまう男だ。
「……何か、ありましたね」
低く、静かな声。
追い詰めるような鋭さはない。
ただ真っ直ぐな、愛する人を案じる声音。
だからこそ痛かった。
アランは必死に首を振る。
違う、何もない、ただ――と心の中で叫ぶ。
けれど、文字にしようとしても、
杖を握る手が震えすぎて書けなかった。
レギュラスがその手をそっと包む。
それだけで、涙が込み上げる。
「…… アラン」
彼は、絞り出すように言った。
「言わないのなら、無理に聞きません。
ただ……そんなふうに怯えた顔で、僕を見ないでください」
その一言が、胸の奥深くに突き刺さる。
怯えているのではなかった。
ただ、罪悪感が苦しくてたまらなかっただけ。
けれど彼には怯えているように見えたのだとしたら――
それはアランが一番傷つけたくない部分だった。
涙が一粒、ぽとりと落ちた。
レギュラスは驚き、すぐにアランを抱き寄せた。
強くではなく、そっと包むように。
「……怖がらないでください。
僕はあなたを傷つけません」
アランは胸元に顔を埋めた。
レギュラスの香りがした。
安心する香りなのに、今日は胸が痛くなるばかりだ。
シリウスにキスをされたなんて。
レギュラスにだけは、知られたくなかった。
アランはひたすら震えながら、
ただ彼の胸にしがみついた。
言えない。
でも嘘もつけない。
そんな狭間で、静かに夜が更けていった。
その夜、シリウスはひとり、魔法界の裏通りにある場末の酒場を出て、ふらつく足取りのまま路地へと出た。
吐く息が白い。
夜気が冷たい。
それでも胸の奥のほうだけは、焼けるように熱かった。
――やってしまった。
壁に片手をつき、シリウスは深く俯いた。
酒の匂いよりも、後悔の匂いの方が強く鼻につく。
アランの、驚いた顔が焼きついて離れない。
抱きしめた瞬間の、あの細い体の震え。
そして、唇が触れたときのあの微かな温度――
あれは優しさでも、喜びでもなかった。
ただ、戸惑いと、恐れだった。
「……バカだろ、俺は」
かすれた声が夜空に消えた。
酒に酔っていたわけではない。
ただ、気持ちが先に走った。
あの柔らかい笑顔が、今日だけは救われていない顔をしていたから。
助けたかった。
支えたかった。
――けれどあれは、ただ自分が楽になりたかっただけだ。
守りたいと思っていたはずなのに。
結果的に彼女を苦しめ、怖がらせた。
「……最低だ」
シリウスは自分の胸の前を握りしめる。
胸を抉られるように痛かった。
レギュラスの決定にも、騎士団の正義にも、
もう耐えられないほどの亀裂が走っていて。
どこにも吐き出し口がないままアランの前に立ってしまった。
アランだけが、いつでも自分をまっすぐ見てくれる。
声が出なくても、気持ちを真っ直ぐ伝えてくれる。
あの笑顔に、どれほど救われてきたか分からない。
だから――甘えた。
「……最悪だ、本当に」
シリウスはその場に座り込んだ。
石畳が背中の冷えを吸っていく。
どうしてあんなことをしたんだ。
何を求めていたんだ。
アランが望んでいないことくらい、
あの一瞬で分かったはずなのに。
自嘲の笑いがこみ上げて、喉の奥で詰まった。
「……あいつに知られたら、俺、殺されても文句言えねぇな」
そう呟くと、背筋がひやりと震えた。
本気で思った。
アランはレギュラスが命を懸けて守る存在だ。
彼女の頬に触れることすら、許されない。
――なのに自分は、全部わかっていながらキスをした。
罪悪感に胸が詰まり、シリウスは頭を抱えた。
もう、どの道にも進めない。
騎士団の正義も、レギュラスとの誤差も、
アランへの想いも、全部手に余るほど重くて苦しい。
苦しさは酒では誤魔化せなかった。
ただ、痛みだけが胸に残った。
「…… アラン」
名前を呼ぶ。
その声は、誰よりも優しく、誰よりも届かない。
そのままシリウスは、夜の冷たい路地で目を閉じた。
酔いが回ったわけでもない。
ただ、心が疲れ果てていた。
月の光だけが、彼の肩を静かに照らしていた。
その夜、ベッドに横たわっても、アランの胸はひどくざわめいていた。
寝室には常夜灯の柔らかな光が揺れ、カーテンの向こうには風の音が擦れる。
いつもなら、その静けさはすぐに眠りへ導いてくれるはずだった。
けれど今日は違った。
胸の奥が、何か鋭いものでかき混ぜられるように痛む。
――シリウスが、抱きしめてきた。
そして、そのあとで。
唇が触れた感触が、まだほんのり残っている気がする。
アランはそっと手を伸ばし、指先で自分の口元を押さえた。
指に触れた唇は、いつも通りなのに。
心が、まるで知らない場所に引きずられてしまったように不安定だった。
あの瞬間――
驚きで身体が固まり、杖が手から滑り落ちた。
シリウスの腕に触れた肩が、まだ熱い。
抱きしめられた胸元が、今もどくどくと脈打っている気がする。
拒むべきだった。
突き放すべきだった。
でも、あまりに突然で。
あの声が、疲れ切って沈んでいて。
胸が締め付けられて、動けなかった。
――これは裏切りなのだろうか。
そう思った瞬間、アランは胸の奥がずきりと痛むのを感じた。
レギュラスの顔が浮かんだ。
帰って来る時の、少し疲れたけれど穏やかな瞳。
アランを見つけた時の、柔らかい安心の色。
あの瞳を裏切ってしまったのではないか。
言われていないのに、まるで叱られているような気持ちになってしまう。
――なぜ、何も言えなかったんだろう。
アランは布団をぎゅっと握りしめる。
喉に力を込めても声は出ない。
ただ胸の奥が焦げつくように苦しくて、息が浅くなる。
あれは、シリウスの弱さが溢れただけ。
アランを求めたのではなく、慰めを求めただけ。
……そう思おうとするのに、心は少し混乱していた。
シリウスの唇が触れた瞬間の、胸の跳ねるような痛み――
それが、“恐怖”だけではなかったような気がしたのだ。
気のせいだ。
そうでなければならない。
レギュラスがこの部屋に入ってくるときの、
そっと額に触れてくれるあの温度を知っている。
彼の腕に抱かれると、どれほど安心できるかも知っている。
その全てを思い出すだけで、胸がじんわり温かくなるはずなのに。
今日はなぜか、胸に刺さる痛い針のような違和感が消えなかった。
アランは目を閉じても、
瞼の裏にはシリウスの、あの沈んだ瞳と近づいてくる顔が浮かんでしまう。
唇に触れた感触が、まるで残像のように繰り返しよみがえり、
寝返りを打つたびに胸がざわざわと波立つ。
――言わなければならないのだろうか。
レギュラスに、あの出来事を。
だが、告げたらレギュラスはどうなる?
シリウスとの関係は壊れ、
レギュラス自身の心にも深い傷を残すはずだ。
どちらも望まない。
どちらも壊したくない。
アランは布団に顔を埋め、声にならない息を震わせた。
眠れないまま夜が深まり、
窓の外の月は、彼女の胸の乱れを黙って照らしていた。
翌朝。
寝室のカーテン越しに差し込む光はいつもと変わらず淡く柔らかいのに、
レギュラスの胸の奥では、何か冷たい鉛のようなものが沈んでいた。
アランは、すでに起きていた。
窓際で、静かにカーテンを整えている。
薄い寝間着の肩越しに、繊細な髪がさらりと揺れた。
――ほんの些細な違和感。
けれど、それがやけに胸に引っかかった。
いつもなら、レギュラスが目覚める気配を察すると、
アランはすぐにふわりと振り返り、
微笑みながら「おはようございます」と指を動かしてくれる。
けれど今日の彼女は、こちらを振り返らなかった。
何かをごまかすように、
いつもより丁寧にカーテンの皺を伸ばし続けている。
――あの仕草は、何だ?
「アラン」
呼びかけると、
アランの肩がほんのわずかに跳ねた。
その反応に、胸がどくりと脈打つ。
ゆっくりこちらを向いたアランは、微笑んでいる。
いつもと同じように見えるのに、どこかぎこちない。
眠れなかったのか?
それとも、体調が戻っていないのか?
あるいは――
「具合はどうです? まだ本調子ではありませんか」
レギュラスは近づき、アランの頬に触れようと手を伸ばす。
するとアランは、その手に触れる一瞬前に、そっと顔を引いた。
拒絶ではない。
気に病むほどの拒みではない。
けれど、避けられたのは確かだった。
心臓が、鋭く痛む。
「……?」
問いかけようとして、言葉にならなかった。
何を問えばいいのか、レギュラス自身わからなかった。
見つめると、アランは慌てたように杖を取り上げ、指を動かした。
《ちょっと……寝不足で》
寝不足。
ただそれだけのこと――
……のはずなのに。
レギュラスは、信じたかった。
だが、胸のざわめきは収まらない。
アランは昨夜、早めに横になっていた。
枕が少し乱れていたのは、夜中に何度か起きた証拠だろう。
寝不足――それ自体は不自然ではない。
しかし、アランには“理由のない乱れ”などほとんどない。
彼女の心のわずかな波は、
いつも身体の仕草にそのまま現れる。
だからこそ、わかった。
――何かあった。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、アランの動きをただ静かに追った。
朝食の支度のために杖を使う手が、ほんの少し震えている。
「アラン……本当に、大丈夫ですか?」
問いにアランは微笑んだ。
それ自体はいつもの穏やかな微笑みだ。
だが、瞳の奥の透明な光が、ほんの少し曇っていた。
――嘘をついている。
そう確信した瞬間、胸の奥に押し込めていた不安が、
ゆっくりと、しかし確実に膨張していく。
この家の結界は完全だ。
誰が侵入すれば必ず痕跡が残るように施してある。
だからこそ――
アランの乱れ方が、他者との接触があったことを示しているようで、胸が痛んだ。
しかし、アランに問いただすことはできなかった。
追い詰めるのが怖かったのではない。
――もし、答えが自分の想像しているものだった場合。
レギュラス自身が、何をしてしまうかわからなかったからだ。
重たい沈黙が落ちる。
アランが用意した朝食を、レギュラスは手につけられなかった。
微笑むアラン。
けれど、その笑顔の気配が、どこか遠い。
胸騒ぎは、収まるどころか悪化していく。
動悸が静かに波打つように続き、
レギュラスはただ、そっとアランの肩に触れた。
その柔らかな肩が、ぴくりと緊張する。
――これは、ただの寝不足ではない。
そう理解した瞬間、レギュラスの指先がひどく冷たくなった。
知らなければならない。
しかし、知るのが怖い。
胸騒ぎという名の静かな嵐は、
アランの微笑の奥に隠された何かに、確実に触れようとしていた。
