3章
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個室に入った瞬間、
空気がすうっと薄くなるような錯覚を覚えた。
そこにいた。
深い葡萄色のドレスを纏った少女。
光を吸い込み、光を返すような長いまつげ。
薄く整えられた口元は微動だにせず、
ただこちらを静かに見ている。
——息が止まった。
美しい、という陳腐な言葉では片づかない。
少女の纏う空気そのものが、何か人間離れしているように見えた。
そして目が合った瞬間——
ロイは胸の奥を鋭い爪で掴まれたような感覚に襲われた。
翡翠。
宝石のように冷たい。
宝石のように硬い。
宝石のように、触れる者を選ぶ色。
その瞳が、わずかに細められた。
……ああ、なるほど。
これが“ブラック家の娘”か。
ロイは思わず、喉の奥で微笑を漏らした。
緊張からではない。
あまりにも、圧倒的だったからだ。
ステラ・ブラックは立ち上がり、軽く会釈した。
それは完璧な礼儀の所作だった。
だが、その美しい顔に宿る情感は——
ひどいほどに冷たい。
目が笑っていない。
微笑んだ形に唇が動いても、心はまったく動いていない。
ロイはその“硬度”を理解した。
この娘は、誰にも寄らぬ。
そして気づく。
この娘は、愛されることを拒んでいる。
それは生まれ持った冷たさではない。
傷つかぬように、拒み続けて固くなった氷の層だ。
ロイは息を整え、丁寧に挨拶を返した。
「ロイ・フロストと申します。
本日はお会いできて光栄です、ステラ嬢」
ステラは薄く微笑む。
「こちらこそ、とても光栄です……フロスト家のご嫡男」
美しい声色。
礼儀正しい言葉。
だが、その奥にあるのは拒絶だ。
ロイは即座に悟る。
……これは、簡単には開かない扉だ。
しかし同時に、強く惹かれてもいた。
ステラはただ美しいだけの少女ではなかった。
純血の血筋でもなかった。
レギュラス・ブラックの娘という肩書きだけでもない。
——彼女自身が、一つの“城”だった。
硬く閉ざされた城壁。
その中に何があるのか、誰にも見せようとしない秘密の塔。
ロイは静かに呼吸を整えた。
面白い……こんな相手は初めてだ。
そこまで考えたとき、ステラがふっと視線を逸らした。
ドレスの裾がわずかに揺れる。
まるで——
「私はあなたに興味はない」と言っているように。
ロイは思わず、笑みを深めた。
……さて。自分は興味を持たれる男になれるだろうか。
ブラック家の娘。
氷を閉じ込めたような、美しい少女。
その心を動かすことができるのか。
ロイ・フロストは、その瞬間、人生の大きな転機を自覚していた。
……これほど空気が重くなる顔合わせが、世の中にどれほど存在するのだろうか
レギュラスは静かにワイングラスを置いた。
響いた小さな音が、やけに大袈裟なほど耳に刺さる。
向かいではロイ・フロストが穏やかに笑い、
隣ではステラが限界まで温度を下げた顔で座っていた。
冷えと温度差の真ん中に自分がいる。
それが今日の地獄だった。
「ステラ嬢のご趣味は?」
ロイが柔らかく問いかける。
「ありませんわ」
——バッサリ。
予想していた返答とはいえ、その切れ味にレギュラスは内心で額を押さえた。
ロイは笑顔を崩さず続ける。
「では、今度ご一緒に乗馬でもどうです? 気分転換になりますよ」
「乗馬の腕なら、あなたを立てることはできそうにありませんが?」
——またバッサリだ。
レギュラスは横目でロイを見る。
普通の男ならここで一歩ひく。不快感を示す。
だがロイは違った。
「それはそうでしょうとも。
何せブラック家のお嬢様ですから、私など到底敵いませんよ」
にこ、と微笑む。
その笑みには、揶揄も焦りもない。
ただただ相手を立てながら懐に入ろうとする柔らかさがあった。
——この男、骨がある。
レギュラスは心中で思う。
冷たさで斬りつけられれば斬り返す貴族が多い中、
ロイは斬られても斬られても微笑んで返す。
そこには幼稚な媚びはなく、むしろ心の強度が見えた。
ステラの刺すような視線にも怯えていない。
むしろ興味深い獣を観察しているような落ち着きすらあった。
それでも——
レギュラスは胃の奥がきゅっと縮むのを感じた。
目の前の二人の間に漂う空気は、
温度差、というより気圧差だった。
ロイは終始穏やかな笑み。
ステラは終始冷たい仮面。
その二人の間に生じる空気の流れが、場の温度を極端に奪っていく。
…なぜこうなるのか。
ステラは美しい。
母の柔らかな容姿を確かに受け継いだ。
けれど内側に宿る気質は、自分譲りというより、
ブラック家数百年の誇りと高慢さをすべて濃縮したような強さがあった。
他者に靡かず、他者に依存せず、
誰にも心を開かない。
ロイは逆だ。
強さを内に秘めつつ、外側には柔らかな気遣いを漂わせる。
だからこそ、ステラのこの刺々しい拒絶を頑なに受け止め続けていた。
これはもう、気質の問題だ……
レギュラスは無言のまま二人を見守った。
ステラが「冷たい壁」だとすれば、
ロイはその壁に静かに手を触れている。
押し付けるのでもなく、諦めるのでもなく。
ただ、そこに立ち、温度を伝えようとするように。
その姿勢が、レギュラスには逆に恐ろしく思えた。
ステラの瞳は、光を弾くほどに硬かった。
ロイの瞳は、逆に相手を包むようにゆっくりと揺れていた。
全く異なる世界同士が隣り合って座らされているようで、
レギュラスは胃のあたりが重くなる。
なぜ娘の顔合わせがこんなに精神力を削るのか。
ステラの返答はすべて短く冷たい。
ロイの応対はすべて柔らかで丁寧。
その対比が、妙に痛々しくて仕方がなかった。
——そして何より。
ロイがステラに向ける視線が、
“物おじしていない”のが恐ろしかった。
あの冷たい娘を前にして微笑める男は、
そう多くはない。
レギュラスは心の中でそっと嘆息した。
ステラもまた、誰にも靡かないはずの少女なのに。
ロイだけは——
その壁を壊せる可能性を持っている。
その事実が、レギュラスの胃にさらなる重石を落とした。
初対面の少女が放つ空気に、ロイは思わず息を呑んだ。
美しい、とか、気品がある、とか……
そういう言葉では到底追いつかない。
鋼のように研ぎ澄まされた“拒絶”そのもの。
それがステラ・ブラックだった。
普通なら心が折れる。
もしくはプライドが傷ついて憤る。
だが、ロイは——
なぜだか笑ってしまいそうになった。
この少女は、なんて面白いのだろう、と。
「ステラ嬢のご趣味は?」
「ありませんわ」
氷の刃で斬りつけるような返し。
だがロイは、傷つくどころか胸がわずかに高鳴った。
ああ……これは、“壁”だな。
この子は世界に対して、極端に強固な壁を張っている。
興味が疼いた。
それは品の悪い好奇心でも、征服欲でもない。
むしろ——
相手の本質に触れてみたい、という知的欲求に近いもの。
「では、今度一緒に乗馬でも——」
「乗馬の腕なら、あなたを立てることはできそうにありませんが?」
笑いそうになった。
この子は、斬るのが上手い。
そして斬っているのは相手ではなく、自分の心の内側だ。
近づかれたくない。
踏み込まれたくない。
誰にも触れられたくない。
これほど徹底した“孤独”を持つ子を、自分は見たことがない。
ロイはステラの冷たい横顔を見つめる。
その瞳は透明度が高すぎて、逆に“光を拒む宝石”のようだった。
レギュラスやアランが持つ柔らかさは一切ない。
ただ純粋に、触れれば切れる刃物のような輝き。
誰がこの子を、こんなにも鋭くしたんだろう。
そんな疑問すら湧く。
ステラは頑なに距離を取る。
声に温度がない。
眼差しは硬質で、まるで他者を“存在しないもの”として扱う。
だが、ロイはその態度の裏に——
誰よりも繊細な心を隠していると直感した。
きっと、簡単に怒る子じゃない。
自分の誇りを守るために、冷たさで武装しているだけだ。
興味は増すばかりだった。
大切に扱うべき宝石のようでもあり、
放っておけば砕けてしまいそうでもあり。
そして……
惹きつけられるほどに、危険な匂いすらした。
ブラック家の娘か。
この家系に流れている血は、やっぱり尋常じゃない。
ロイは薄く息を吐く。
ステラは誰のことも見ていない。
話しかけても、礼儀として返しているだけ。
心は閉ざされたまま。
その完全な拒絶に——
ロイはむしろ、心の奥がじわりと熱を帯びた。
興味は恋ではない。
執着でもない。
もっと原始的で、もっと純粋で、
もっと危うい——
「知りたい」という欲求だった。
この少女が何を恐れ、何を抱え、
なぜここまで孤独を選ぶのか。
——深く知りたくなる。
それはロイ自身も気づかぬほど静かで、
けれど確実に芽吹き始めていた。
ステラ・ブラック……
君は、僕にとって“一筋縄ではいかない相手”だな。
そう思うと、
ロイは気づかないうちに微笑んでいた。
顔合わせの席が終わり、ロイ・フロストが帰ったあと。
ステラは自室へ戻る廊下を歩きながら、
胸のどこかに生まれた小さなざわめきを静かに噛みしめていた。
嫌な笑顔ではなかった。
無礼でもなかったし、不快にさせる意図もなかった。
むしろ、丁寧で、礼儀正しく、終始穏やかだった。
——なのに。
なぜか……気味が悪かった。
理由ははっきりしない。
ただ、あの男の笑顔の奥に、
どこか“覗きこまれる”ような感覚を覚えた。
まるで自分の皮膚の温度、呼吸の深さ、
瞳の奥にある“傷”まで測られているような——
そんな錯覚。
ステラは眉根を寄せた。
部屋に戻ると、鏡越しに自分と向き合う。
美しい顔立ち。
母の面影が強い。
けれど母のような柔らかさはない。
この瞳は澄んでいるが、温度はない。
その瞳をじっと見つめながら、ステラは思う。
あの男……境界線の見極めが異様に速かった。
普通なら、今日の自分の態度なら
もっと傷つくか、怒るか、嫌味を言い返すか、
あるいは見下した態度に出る。
なのにロイは違った。
笑っていた。
まるで「もっと見せてみろ」と言うように。
ステラは胸がひやりと冷えるのを感じた。
興味なんてものは、時に人を狂わせる。
自分に向けていいものではない。
向けられたくない。
ステラは他者に深く触れられることを嫌う。
理解されることも、測られることも嫌いだ。
自分を守るために、
誇りと孤独で身を固めてきた。
なのに。
……あの男は、踏み込んできた。
ほんの一歩。
たった一歩だけ。
だが、その一歩があまりにも自然で、
気づけば呼吸が乱されるほどだった。
ステラは薄く唇を噛んだ。
胸の奥で生まれる感情は
恋ではない。
憧れでもない。
むしろ——
……不快。
だけど……なぜ?
不快なのに、意識が向いてしまう。
触れられたくないのに、警戒心の方が先に働く。
まるで自分の内部を晒されたようで、
その感覚が“怖い”のだと気づく。
この感覚……嫌い。
ステラは反射的に、
両腕を胸の前で抱きしめるようにして立ち尽くした。
ロイの笑顔が脳裏にちらつく。
優しい、柔らかい、紳士的。
だがその奥では、
こちらの反応をじっと観察する、獣のような目。
あの人は……危険だ。
そう思った瞬間、
ステラの背筋にはっと冷気が走る。
あれ以上、近づけてはならない。
自分を守るために。
誇りを守るために。
——そして、心の底に隠したあの空虚を、
誰にも触れさせたくないから。
ステラは鏡の中の自分に静かに告げる。
「……近づけない。絶対に」
鏡の奥の翡翠の瞳は、
どこまでも冷たく、
その奥で境界線を一層固く閉ざしていた。
夕食を終え、アランが夜のハーブティーを淹れてくれたあと。
二人はいつものように寝室へ向かった。
柔らかな灯りが揺れている。
アランはその光の下で髪を下ろし、鏡台の前に座っていた。
レギュラスはドアの側でしばらくぼんやり立ち尽くしていた。
“どう伝えるべきか”という答えが、どうしても見つからなかったからだ。
アランがふいに振り返る。
あの翡翠の瞳が、静かに問いかけていた。
——今日のステラは、どうでした?
声はないのに、
その瞳だけで何でも察してしまう。
レギュラスは喉が詰まった。
ロイ・フロストとの顔合わせは……
予想通り、いや予想以上に重かった。
あの場に漂っていた冷たさは、
もはや将来の話どころではないほどだった。
だが、アランの前で言葉を選ぶことは難しい。
「……ええ。まあ、その……それなりでした」
それが限界だった。
言葉としてあまりにも不十分なのは分かっている。
けれど“酷かった”と正直に伝えてしまえば、
アランの胸がまた痛むだろう。
アランは一瞬だけ瞬きをした。
それから、ふわりと微笑む。
——その微笑みは、世界で一番やさしい温度を持っている。
アランは杖を手に取り、
レギュラスの方へ歩み寄り、
ベッドサイドに腰掛けて静かに文字を綴った。
ステラにも、私にとっての“あなた”のような人が
いつか現れてくれたら……安心です。
レギュラスは言葉を失った。
胸がぎゅっと痛む。
アランは自分の娘を信じ、
未来を願い、
“必ず幸せになれる”と信じている。
だが現実のステラは——
他者を拒絶し、
誇りと孤独を鎧にして、
誰かの愛情に寄りかかることを極端に嫌う。
その姿を思い出すと、
レギュラスの胸には抑えようのない切なさが押し寄せた。
本当に、この女の腹から出てきた娘なのか。
アランの瞳には、
いつだって柔らかい光が宿っている。
静かで、穏やかで、人を癒す光だ。
一方、ステラの瞳は——
同じ翡翠色なのに、なぜあそこまで冷たく刺すのか。
その差が、あまりにも痛々しくて胸が締め付けられる。
「…… アラン」
レギュラスは無意識にアランを抱き寄せていた。
アランは驚きつつも、そっと彼の背中に腕を回す。
温かい。
柔らかい。
静かに息づく、人のぬくもり。
ステラの中にはこの温度があるのだろうか。
いつか誰かに触れた時、
その氷は溶けてくれるのだろうか。
レギュラスはアランの髪に顔を埋め、
肺の奥深くまで息を吸い込んだ。
「……あなたのように優しい娘に、育ててあげられなくてすみません」
言葉は漏れ、胸がじんと痛んだ。
アランはすぐに首を振り、
レギュラスの手の甲にそっと指で書く。
(そんなこと……言わないで)
(あなたは……優しい父です)
翡翠色の瞳が、
月のように静かなやさしさを湛えていた。
レギュラスはアランの手を握り返し、
そっとその顔を胸に引き寄せた。
この女が教えてくれる“温度”。
ステラにもどこかで届くといい——
そんな祈りにも似た願いが、
胸の奥で静かに灯っていた。
夜のホグワーツは、昼間よりもずっと静かだった。
城壁をなでる風の音だけがわずかに響き、冷えた石床には光の粒子がゆらゆら揺れる。
ステラは寮の談話室から自室に戻ろうとしていた。
ふと、廊下の奥に淡い光が歪む。
まるで光の膜がめくれたように視界が裂け——
そこから、ひとりの少年が姿を現した。
ロイ・フロストだった。
その瞬間、ステラの背筋を鋭い冷気が走った。
ありえない。
未成年の魔法使いが《姿くらまし》を使うなど——法律で厳しく禁じられている。
追跡呪文〈トレーサー〉が必ず反応し、その魔力痕は家族にも魔法省にも即座に伝達される。
にもかかわらず、この男は。
「……何のつもりですの?」
ステラは 杖 に触れもしなかった。
ただ声だけは氷のように落とす。
ロイはにこやかな笑顔を崩さず、
そのくせ瞳の奥には得体の知れない光を宿していた。
「やあ、ステラ嬢。
そんなに驚いた顔をされると……来た甲斐があったというものです」
ステラは息をのみ、瞬きを一度だけした。
驚いたなどという表現は正しくない。
もっと呆れに近い。理解不能という意味で。
——この男、頭がおかしいのでは。
「未成年の姿くらましがどれほど重大な違法行為か、ご存じなのでしょう?
追跡呪文で、あなたの行動はすべてご実家に筒抜けですわ」
ステラが口にした冷ややかな忠告にも、ロイは肩をすくめただけだった。
「仕方がないでしょう?
あの日は、少しの時間しかあなたと話せませんでしたから。
それがどうにも心残りでね。
……こうしてまた、“驚くあなたの顔”を見られて本当に光栄です」
笑っていた。
本気で、心の底から愉しそうに。
その笑みの柔らかさの裏に、
ステラはぞわりとした危機感を覚えた。
優しさでも好意でもない。
これは、彼の中に巣食う狂気じみた興味だ。
「学校はどうされたのです?
校則どころか、法をも破っていますわ。
……私の父に裁かれたいのですか?」
強めに告げたつもりだった。
だがロイの表情は変わらない。
むしろ愉快そうに微笑む。
「未成年の特権ですよ、ステラ嬢。
始末書くらいで済むでしょう?
あなたのお父上がどれだけ恐ろしくてもね。
僕の“行動力”は、裁けないでしょう」
「……頭が悪いのかしら?」
気づけば、ステラはわずかに毒を混ぜていた。
本心だった。
ここまでの無謀と無警戒は、もはや愚かさの域を超えている。
こんな人物が純血名門フロスト家の後継候補だというのだから、世の中はつくづく滑稽だ。
しかしロイは、むしろ嬉しそうにした。
「そうやって冷たい言葉を投げつけてくれるところが、
あなたの魅力ですよ。ステラ嬢」
瞳の奥が暗くきらめく——
まるで、毒蛇がこちらへ鎌首をもたげるような気配だった。
ステラは一歩だけ引いた。
ロイはその一歩すら、愉しげに見つめていた。
「……帰りなさいよ。今すぐに」
「ええ、帰りますとも。
呼び出しが来る前にね。
また近いうちに、お会いしましょう」
ロイは軽く礼をし、
再び姿くらましの光の膜に身を溶かした。
静寂が戻った廊下で、
ステラはしばらく動けなかった。
背に冷たい汗が伝い、
心臓は一定のリズムを失っていた。
——あの男、本当に危険だ。
初対面の時に感じた違和感は、
もはや確信に変わった。
興味でも好意でもない。
ただ、彼の中にある“歪んだ渇望”が
自分に向けられているのだと理解した。
ステラは胸の奥で静かに息を吸った。
——これは遊びじゃない。
ロイ・フロストという人間が、
自分の人生に介入してくる。
その未来の気配が、
背筋にひりつくほどの悪寒を残していた
昼下がり、法務部の執務室。
細かな書類の束を一つずつ捌いていた最中、
レギュラスの机上に、ホグワーツからの緊急通達が転送されてきた。
魔力痕検出報告書——
しかも“未成年の姿くらまし”という、
本来あり得ない項目が最上段に記されている。
レギュラスは眉をひそめ、すぐさま魔力痕の分析結果に目を滑らせた。
──ロイ・フロスト。
その名が記された瞬間、
さすがのレギュラスでも、思考が一瞬止まった。
怒りも苛立ちも湧かなかった。
むしろ、驚愕に近い「理解不能」が胸を満たした。
未成年の魔法使いが姿くらましを使えば、
専用の追跡呪文が強制的に発動し、
魔法省にも学校にも実家にも痕跡が跳ね返る。
そのリスクを知らないはずがない。
なのに——。
あの男……何を考えている?
ステラに“興味”を抱いたとしても、
これは暴走では済まない。
若気の至りなどという言葉で括れる行為でもない。
レギュラスは深く息を吸った。
胸の内の感情は、怒りというよりただひたすらに——
理解を拒む種類の困惑だった。
娘がどんな顔でロイを迎えたのか。
想像はつく。
アランが自分を出迎える時に見せるような、
柔らかな光も、細やかな温度もない。
ステラは氷のような少女だ。
穏やかに笑って、温かく迎えるなどということは
決してしない。
そんな娘の前へ、
未成年違法を犯してまでやってくるなど——
理解の範疇を超えている。
書類の端に指を置き、軽く押さえる。
……やはり父親として、娘に“近づく男”の意図は量らねばならないが
それ以上に、
ロイ・フロスト自身が危ういのだと感じた。
ステラは鋭い。
人の裏側を見抜くのも早い。
あの娘が、ロイの愚行にどんな視線を向けたか——
考えるだに寒気がした。
レギュラスは羽ペンを取り、
冷静にホグワーツ側への返信文を書き上げた。
「処分はホグワーツおよび、
ロイの通うウィンダーメア高等魔法学院の
規定に準ずるものとする」
無駄に大袈裟に騒ぎ立てる必要はない。
法務部として、未成年の無謀に対し本気で怒るほどの価値もない。
ただし——
これは“家同士の問題”にも変化しうる。
フロスト家は形式上は名門であるが、
代々どこか軽さが抜けない家系だ。
今回の件も、息子の暴走として片づけられるだろう。
レギュラスは苦々しい思いで書類を閉じた。
女のために動く男の愚かさは……理解できなくはないが。
娘が、自分とアランのような柔らかい関係性を築く日は
果たして来るのだろうか。
ステラの瞳はいつも冷たい。
愛を信じず、必要ともしていない。
アランのように誰かを包む柔らかさなど、
持ち合わせていない。
胸の奥に、
重たいものが沈む。
あの娘にも、本当に大切な誰かが現れるのだろうか。
レギュラスは窓の外を見やった。
ホグワーツの尖塔に風が吹き、
遠く、黒い雲がかかっている。
あの城で——
娘がどんな顔でロイを拒絶したのか。
その想像だけが、
妙に胸に引っかかったまま離れなかった。
マグル界から吹き込む冷たい風が廊下を渡り、
法務部の執務室に所在なさげなざわめきを運び込んでいた。
レギュラスは窓の外の曇天をほんの一瞬だけ見やり、
手元の急報に目を落とした。
——警務部、女の拘束完了。
その報告は淡々と記されていたが、
文章の奥には、捜査班が長く張り詰めていた緊張が
ようやく緩んだ気配が漂っていた。
魔法族の魔力を無効化する薬。
その開発に手を貸した魔法族の“女”。
そして、その一族。
マグルの街に潜伏していた一族は、
魔法警務部の突然の強行突入によって
逃げ道を失い、瞬く間に包囲された。
レギュラスは報告書をめくりながら、
脳裏にその光景を静かに描いていた。
強行突入——無言の怒りの発露だ。
魔法界の脅威を作り出し、
マグル武装グループに魔力消失ポーションを渡した罪。
魔法界とマグル双方を巻き込んだ大事件の核心。
容赦する必要は、どこにもなかった。
拘束の瞬間、女は抵抗こそしたが、
魔法警務部の隊員たちが放った拷問呪文の前には長く持たなかった。
赤い光が迸り、
石畳に転がった女の叫びが報告書の行間に滲む。
——一族の潜伏先を言え。
——誰と手を組んだ。
——なぜマグルに力を貸した。
女が吐いたすべての答えは、
魔法界にとって、あまりにも安い動機だった。
愛するマグルの男を“頂点に立たせたい”——
それだけのために、
魔法族全体を揺るがす薬の開発を手助けした。
その結果、武装化したマグル組織に利用され、
魔法界もマグル界も地獄に巻き込まれた。
馬鹿げている。
滑稽ですらあった。
だが、そんな愚かな願いですら、
現実には恐るべき被害を生む。
レギュラスは報告書を閉じた。
本当に……くだらない。
吐息は冷たく落ちる。
「これにて警務部はマグル界から撤退でいいでしょう」
レギュラスは机から顔を上げ、
淡々とした声音で告げた。
その表情は硬いが、冷静そのものだった。
バーテミウスが書類の束を抱えたまま頷く。
「そうしましょう。
“マグルへの脅しだ”と騒ぎ立てる連中も多いですからね。
このまま居座れば、騎士団やら市民団体やら……
声ばかり大きい輩が増えていきます」
皮肉を含んだ声音に、
レギュラスは小さく鼻で笑った。
「本当に……どこまでも騒がしい」
窓の外では、薄い霧が街の屋根を覆っていた。
遠い景色の中に、かつて魔法族とマグルの均衡が
たしかに存在していたはずの時代を微かに思い出す。
あの均衡は、儚い。
誰かの愚かさ一つで簡単に崩れる。
……アランも、あの頃を思い出しているだろうか。
魔力を恐れたマグルが、
セシール家を滅ぼした夜。
あの残酷な連鎖は、今も世界の底流でうごめき続けている。
バーテミウスが撤退書類をまとめながら言う。
「これでとりあえず、
“マグル界への強圧”という批判は鎮まるでしょう。
しかし……騎士団は動くかもしれません」
「……好きにさせておけばいい」
レギュラスは立ち上がり、
外套を肩にかけた。
冷ややかな瞳の奥で、
ただ一つの問題だけが微かな熱を帯びている。
女の一族を捕らえ、薬の出処を断ち切った。
魔法界は守られた。
それでいいはずなのに——。
おそらく騎士団は、まだこちらを疑うだろう。
治験の件、逃亡者の死、アランの過去——
シリウスが動く気配が残っている。
世界が片側へ傾かないようにするというのは、
いつだって容易ではない。
だが、
守るべき中心がアランであることだけは
揺らぎようがなかった。
「バーテミウス。撤退後、報告書を全てこちらに通してください」
「もちろんです。
……お疲れのご様子ですね」
「問題ありません。
ただ、少々……雑音が多いだけです」
レギュラスは静かに歩き出した。
マグル界での捜査が終わっただけ。
だが、その裏側で水面下の均衡は大きく揺らぎ始めている。
世界は静かに――
より深い闇へと向かおうとしていた。
魔法省・法務部で開かれた臨時会議は、
朝からどこか張り詰めた氷の膜をまとっていた。
壁際のランプが揺れ、黄金色の光が
長机に座る面々の硬い表情を照らし出す。
魔法族の世界に生きる者たちの息遣いが、
まるで寒空に晒されているかのように鈍く、重かった。
レギュラス・ブラックは議長席から周囲を見渡し、
静かに口を開いた。
「今後、マグルの武装集団が再び立ち上がる可能性は――
極めて高いと判断します」
ざわめきが一瞬走り、すぐに喉の奥へ飲み込まれた。
「魔力を無効化するポーションの存在が明らかになった以上、
魔法族はこれまで経験したことのない危険にさらされた。
我々は、その脅威を無視することはできません」
レギュラスの声音は鋭く、
法務部の漆黒の制服を纏った彼の姿は
沈痛さと強靭さを併せ持つ影のように見えた。
「法務部として、魔法界とマグル界の境界線に
関所を設置する方針を提案します」
その言葉が発せられた瞬間、
空気が凍りついたように静まり返った。
「今後は、マグルが魔法界に入る際は
通行手形を所持する者のみ入国を許可します」
小さく誰かが息を呑む音がした。
「また、マグル生まれの魔法使い、
混血の魔法使いがマグル界に戻る場合も、
許可証の提出を必須とします」
レギュラスの言葉は淡々としていたが、
その裏には断固たる意志があった。
「魔法界の安全を守るために、
我々は線引きをせざるを得ないのです」
提案は瞬く間に魔法界中へと広まった。
新聞、ラジオ、雑談、家庭──
どの場所でも人々がこの話題を口にした。
恐怖を覚える者たちはこの決定を歓迎した。
魔力消失ポーションの恐ろしさは、
すでに魔法界の記憶に深く刻み込まれている。
「マグルに好き勝手される時代は終わりだ」
「魔法族を守るのが何よりも先だ」
そうした声が大多数を占めた。
一方で――
親マグル派や騎士団は激しく反対した。
「隔離政策だ!」
「マグルを敵とみなす行いそのものだ!」
「これでは魔法界が自ら高い壁を築くようなものだ!」
シリウスは特に声を荒げ、
騎士団内部を動揺で満たした。
しかし——
世論は、思った以上にレギュラスを支持した。
魔法界を震わせた“あの薬”の恐怖は、
誰しもの胸の奥に根を張っていたからだ。
大反対の嵐が吹き荒れる中でも、
法務部の決定は揺るがなかった。
「魔法界の中に、不純物や危険を持ち込まれないようにするための
最低限の措置です」
その論理はあまりにも明確で、
反論の余地を削ぎ落としていた。
こうして、
魔法界とマグル界を隔てる“見えない壁”は、
ついに現実の形として立ち上がり始めた。
会議が終わり、
夜の法務部の廊下にレギュラスは独り残された。
橙色の灯が揺れるたび、
黒い外套の影が床を流れる。
この決定がどれほどの波紋を生むか、
彼は理解していた。
騎士団との対立も深まるだろう。
マグル界との緊張もさらに増す。
しかし、
あの薬が流通し、
魔法族が無力化される世界だけは——
絶対に、許すわけにはいかない。
その背には、
アランと、アルタイルと、ステラ——
守るべき世界があった。
そして彼は歩き出す。
重く、冷たく、
だが確固とした意志で。
魔法界を守るために。
関所――。
魔法界とマグル界の境界に、通行手形と許可証を必須とする。
そんな法務部の決定が下ったとき、
シリウスは報告書を握りしめた拳の震えを止められなかった。
喉が焼けるように熱かった。
胸が締めつけられるように痛かった。
間に合わなかった。
逃げ込んできたデスイーターが吐き出した
アラン・ブラックの惨すぎる過去。
そして、それを暴露したあとでレギュラスが
奴を“治験”と称して危険な薬の実験台に回した事実。
本来であれば、それを世間に公表して
レギュラス・ブラックを真正面から追及できていたはずだった。
だが現実には——
アランを守りたいという思いが
ジェームズの提案を止めてしまった。
その迷いは、レギュラスの“先手”によって
完全に封じ込められた。
シリウスは報告書を机に叩きつけた。
ジェームズは眉一つ動かさず、淡々と言った。
「非人道的な治験だ。公表すべきだろう?」
「それを公表したらアランの過去も晒すことになる!」
「……わかっている。けれど、正義のためには犠牲が出る」
シリウスの血が逆流した。
「犠牲ってなんだよ、ジェームズ。“ アラン”を犠牲って言ってるのか?」
「シリウス……彼女だけを特別扱いするわけにはいかない」
「できるに決まってんだろ! 俺は……あいつを……!」
言葉のあとが喉で止まった。
ジェームズは、親友を真っ直ぐに見た。
「……シリウス、お前さ……昔から、アランのことになると冷静さを全部なくす」
返す言葉はなかった。
その沈黙の中で、二人の理念が真っ向からぶつかり、
長年の友情に深い亀裂が生まれていくのを
シリウス自身も感じ取った。
ジェームズの正義も理解している。
むしろ“正しい”のはジェームズなのだと
頭ではわかっている。
だが——
アランが絡んだ瞬間に、正義なんてものは霞む。
空気がすうっと薄くなるような錯覚を覚えた。
そこにいた。
深い葡萄色のドレスを纏った少女。
光を吸い込み、光を返すような長いまつげ。
薄く整えられた口元は微動だにせず、
ただこちらを静かに見ている。
——息が止まった。
美しい、という陳腐な言葉では片づかない。
少女の纏う空気そのものが、何か人間離れしているように見えた。
そして目が合った瞬間——
ロイは胸の奥を鋭い爪で掴まれたような感覚に襲われた。
翡翠。
宝石のように冷たい。
宝石のように硬い。
宝石のように、触れる者を選ぶ色。
その瞳が、わずかに細められた。
……ああ、なるほど。
これが“ブラック家の娘”か。
ロイは思わず、喉の奥で微笑を漏らした。
緊張からではない。
あまりにも、圧倒的だったからだ。
ステラ・ブラックは立ち上がり、軽く会釈した。
それは完璧な礼儀の所作だった。
だが、その美しい顔に宿る情感は——
ひどいほどに冷たい。
目が笑っていない。
微笑んだ形に唇が動いても、心はまったく動いていない。
ロイはその“硬度”を理解した。
この娘は、誰にも寄らぬ。
そして気づく。
この娘は、愛されることを拒んでいる。
それは生まれ持った冷たさではない。
傷つかぬように、拒み続けて固くなった氷の層だ。
ロイは息を整え、丁寧に挨拶を返した。
「ロイ・フロストと申します。
本日はお会いできて光栄です、ステラ嬢」
ステラは薄く微笑む。
「こちらこそ、とても光栄です……フロスト家のご嫡男」
美しい声色。
礼儀正しい言葉。
だが、その奥にあるのは拒絶だ。
ロイは即座に悟る。
……これは、簡単には開かない扉だ。
しかし同時に、強く惹かれてもいた。
ステラはただ美しいだけの少女ではなかった。
純血の血筋でもなかった。
レギュラス・ブラックの娘という肩書きだけでもない。
——彼女自身が、一つの“城”だった。
硬く閉ざされた城壁。
その中に何があるのか、誰にも見せようとしない秘密の塔。
ロイは静かに呼吸を整えた。
面白い……こんな相手は初めてだ。
そこまで考えたとき、ステラがふっと視線を逸らした。
ドレスの裾がわずかに揺れる。
まるで——
「私はあなたに興味はない」と言っているように。
ロイは思わず、笑みを深めた。
……さて。自分は興味を持たれる男になれるだろうか。
ブラック家の娘。
氷を閉じ込めたような、美しい少女。
その心を動かすことができるのか。
ロイ・フロストは、その瞬間、人生の大きな転機を自覚していた。
……これほど空気が重くなる顔合わせが、世の中にどれほど存在するのだろうか
レギュラスは静かにワイングラスを置いた。
響いた小さな音が、やけに大袈裟なほど耳に刺さる。
向かいではロイ・フロストが穏やかに笑い、
隣ではステラが限界まで温度を下げた顔で座っていた。
冷えと温度差の真ん中に自分がいる。
それが今日の地獄だった。
「ステラ嬢のご趣味は?」
ロイが柔らかく問いかける。
「ありませんわ」
——バッサリ。
予想していた返答とはいえ、その切れ味にレギュラスは内心で額を押さえた。
ロイは笑顔を崩さず続ける。
「では、今度ご一緒に乗馬でもどうです? 気分転換になりますよ」
「乗馬の腕なら、あなたを立てることはできそうにありませんが?」
——またバッサリだ。
レギュラスは横目でロイを見る。
普通の男ならここで一歩ひく。不快感を示す。
だがロイは違った。
「それはそうでしょうとも。
何せブラック家のお嬢様ですから、私など到底敵いませんよ」
にこ、と微笑む。
その笑みには、揶揄も焦りもない。
ただただ相手を立てながら懐に入ろうとする柔らかさがあった。
——この男、骨がある。
レギュラスは心中で思う。
冷たさで斬りつけられれば斬り返す貴族が多い中、
ロイは斬られても斬られても微笑んで返す。
そこには幼稚な媚びはなく、むしろ心の強度が見えた。
ステラの刺すような視線にも怯えていない。
むしろ興味深い獣を観察しているような落ち着きすらあった。
それでも——
レギュラスは胃の奥がきゅっと縮むのを感じた。
目の前の二人の間に漂う空気は、
温度差、というより気圧差だった。
ロイは終始穏やかな笑み。
ステラは終始冷たい仮面。
その二人の間に生じる空気の流れが、場の温度を極端に奪っていく。
…なぜこうなるのか。
ステラは美しい。
母の柔らかな容姿を確かに受け継いだ。
けれど内側に宿る気質は、自分譲りというより、
ブラック家数百年の誇りと高慢さをすべて濃縮したような強さがあった。
他者に靡かず、他者に依存せず、
誰にも心を開かない。
ロイは逆だ。
強さを内に秘めつつ、外側には柔らかな気遣いを漂わせる。
だからこそ、ステラのこの刺々しい拒絶を頑なに受け止め続けていた。
これはもう、気質の問題だ……
レギュラスは無言のまま二人を見守った。
ステラが「冷たい壁」だとすれば、
ロイはその壁に静かに手を触れている。
押し付けるのでもなく、諦めるのでもなく。
ただ、そこに立ち、温度を伝えようとするように。
その姿勢が、レギュラスには逆に恐ろしく思えた。
ステラの瞳は、光を弾くほどに硬かった。
ロイの瞳は、逆に相手を包むようにゆっくりと揺れていた。
全く異なる世界同士が隣り合って座らされているようで、
レギュラスは胃のあたりが重くなる。
なぜ娘の顔合わせがこんなに精神力を削るのか。
ステラの返答はすべて短く冷たい。
ロイの応対はすべて柔らかで丁寧。
その対比が、妙に痛々しくて仕方がなかった。
——そして何より。
ロイがステラに向ける視線が、
“物おじしていない”のが恐ろしかった。
あの冷たい娘を前にして微笑める男は、
そう多くはない。
レギュラスは心の中でそっと嘆息した。
ステラもまた、誰にも靡かないはずの少女なのに。
ロイだけは——
その壁を壊せる可能性を持っている。
その事実が、レギュラスの胃にさらなる重石を落とした。
初対面の少女が放つ空気に、ロイは思わず息を呑んだ。
美しい、とか、気品がある、とか……
そういう言葉では到底追いつかない。
鋼のように研ぎ澄まされた“拒絶”そのもの。
それがステラ・ブラックだった。
普通なら心が折れる。
もしくはプライドが傷ついて憤る。
だが、ロイは——
なぜだか笑ってしまいそうになった。
この少女は、なんて面白いのだろう、と。
「ステラ嬢のご趣味は?」
「ありませんわ」
氷の刃で斬りつけるような返し。
だがロイは、傷つくどころか胸がわずかに高鳴った。
ああ……これは、“壁”だな。
この子は世界に対して、極端に強固な壁を張っている。
興味が疼いた。
それは品の悪い好奇心でも、征服欲でもない。
むしろ——
相手の本質に触れてみたい、という知的欲求に近いもの。
「では、今度一緒に乗馬でも——」
「乗馬の腕なら、あなたを立てることはできそうにありませんが?」
笑いそうになった。
この子は、斬るのが上手い。
そして斬っているのは相手ではなく、自分の心の内側だ。
近づかれたくない。
踏み込まれたくない。
誰にも触れられたくない。
これほど徹底した“孤独”を持つ子を、自分は見たことがない。
ロイはステラの冷たい横顔を見つめる。
その瞳は透明度が高すぎて、逆に“光を拒む宝石”のようだった。
レギュラスやアランが持つ柔らかさは一切ない。
ただ純粋に、触れれば切れる刃物のような輝き。
誰がこの子を、こんなにも鋭くしたんだろう。
そんな疑問すら湧く。
ステラは頑なに距離を取る。
声に温度がない。
眼差しは硬質で、まるで他者を“存在しないもの”として扱う。
だが、ロイはその態度の裏に——
誰よりも繊細な心を隠していると直感した。
きっと、簡単に怒る子じゃない。
自分の誇りを守るために、冷たさで武装しているだけだ。
興味は増すばかりだった。
大切に扱うべき宝石のようでもあり、
放っておけば砕けてしまいそうでもあり。
そして……
惹きつけられるほどに、危険な匂いすらした。
ブラック家の娘か。
この家系に流れている血は、やっぱり尋常じゃない。
ロイは薄く息を吐く。
ステラは誰のことも見ていない。
話しかけても、礼儀として返しているだけ。
心は閉ざされたまま。
その完全な拒絶に——
ロイはむしろ、心の奥がじわりと熱を帯びた。
興味は恋ではない。
執着でもない。
もっと原始的で、もっと純粋で、
もっと危うい——
「知りたい」という欲求だった。
この少女が何を恐れ、何を抱え、
なぜここまで孤独を選ぶのか。
——深く知りたくなる。
それはロイ自身も気づかぬほど静かで、
けれど確実に芽吹き始めていた。
ステラ・ブラック……
君は、僕にとって“一筋縄ではいかない相手”だな。
そう思うと、
ロイは気づかないうちに微笑んでいた。
顔合わせの席が終わり、ロイ・フロストが帰ったあと。
ステラは自室へ戻る廊下を歩きながら、
胸のどこかに生まれた小さなざわめきを静かに噛みしめていた。
嫌な笑顔ではなかった。
無礼でもなかったし、不快にさせる意図もなかった。
むしろ、丁寧で、礼儀正しく、終始穏やかだった。
——なのに。
なぜか……気味が悪かった。
理由ははっきりしない。
ただ、あの男の笑顔の奥に、
どこか“覗きこまれる”ような感覚を覚えた。
まるで自分の皮膚の温度、呼吸の深さ、
瞳の奥にある“傷”まで測られているような——
そんな錯覚。
ステラは眉根を寄せた。
部屋に戻ると、鏡越しに自分と向き合う。
美しい顔立ち。
母の面影が強い。
けれど母のような柔らかさはない。
この瞳は澄んでいるが、温度はない。
その瞳をじっと見つめながら、ステラは思う。
あの男……境界線の見極めが異様に速かった。
普通なら、今日の自分の態度なら
もっと傷つくか、怒るか、嫌味を言い返すか、
あるいは見下した態度に出る。
なのにロイは違った。
笑っていた。
まるで「もっと見せてみろ」と言うように。
ステラは胸がひやりと冷えるのを感じた。
興味なんてものは、時に人を狂わせる。
自分に向けていいものではない。
向けられたくない。
ステラは他者に深く触れられることを嫌う。
理解されることも、測られることも嫌いだ。
自分を守るために、
誇りと孤独で身を固めてきた。
なのに。
……あの男は、踏み込んできた。
ほんの一歩。
たった一歩だけ。
だが、その一歩があまりにも自然で、
気づけば呼吸が乱されるほどだった。
ステラは薄く唇を噛んだ。
胸の奥で生まれる感情は
恋ではない。
憧れでもない。
むしろ——
……不快。
だけど……なぜ?
不快なのに、意識が向いてしまう。
触れられたくないのに、警戒心の方が先に働く。
まるで自分の内部を晒されたようで、
その感覚が“怖い”のだと気づく。
この感覚……嫌い。
ステラは反射的に、
両腕を胸の前で抱きしめるようにして立ち尽くした。
ロイの笑顔が脳裏にちらつく。
優しい、柔らかい、紳士的。
だがその奥では、
こちらの反応をじっと観察する、獣のような目。
あの人は……危険だ。
そう思った瞬間、
ステラの背筋にはっと冷気が走る。
あれ以上、近づけてはならない。
自分を守るために。
誇りを守るために。
——そして、心の底に隠したあの空虚を、
誰にも触れさせたくないから。
ステラは鏡の中の自分に静かに告げる。
「……近づけない。絶対に」
鏡の奥の翡翠の瞳は、
どこまでも冷たく、
その奥で境界線を一層固く閉ざしていた。
夕食を終え、アランが夜のハーブティーを淹れてくれたあと。
二人はいつものように寝室へ向かった。
柔らかな灯りが揺れている。
アランはその光の下で髪を下ろし、鏡台の前に座っていた。
レギュラスはドアの側でしばらくぼんやり立ち尽くしていた。
“どう伝えるべきか”という答えが、どうしても見つからなかったからだ。
アランがふいに振り返る。
あの翡翠の瞳が、静かに問いかけていた。
——今日のステラは、どうでした?
声はないのに、
その瞳だけで何でも察してしまう。
レギュラスは喉が詰まった。
ロイ・フロストとの顔合わせは……
予想通り、いや予想以上に重かった。
あの場に漂っていた冷たさは、
もはや将来の話どころではないほどだった。
だが、アランの前で言葉を選ぶことは難しい。
「……ええ。まあ、その……それなりでした」
それが限界だった。
言葉としてあまりにも不十分なのは分かっている。
けれど“酷かった”と正直に伝えてしまえば、
アランの胸がまた痛むだろう。
アランは一瞬だけ瞬きをした。
それから、ふわりと微笑む。
——その微笑みは、世界で一番やさしい温度を持っている。
アランは杖を手に取り、
レギュラスの方へ歩み寄り、
ベッドサイドに腰掛けて静かに文字を綴った。
ステラにも、私にとっての“あなた”のような人が
いつか現れてくれたら……安心です。
レギュラスは言葉を失った。
胸がぎゅっと痛む。
アランは自分の娘を信じ、
未来を願い、
“必ず幸せになれる”と信じている。
だが現実のステラは——
他者を拒絶し、
誇りと孤独を鎧にして、
誰かの愛情に寄りかかることを極端に嫌う。
その姿を思い出すと、
レギュラスの胸には抑えようのない切なさが押し寄せた。
本当に、この女の腹から出てきた娘なのか。
アランの瞳には、
いつだって柔らかい光が宿っている。
静かで、穏やかで、人を癒す光だ。
一方、ステラの瞳は——
同じ翡翠色なのに、なぜあそこまで冷たく刺すのか。
その差が、あまりにも痛々しくて胸が締め付けられる。
「…… アラン」
レギュラスは無意識にアランを抱き寄せていた。
アランは驚きつつも、そっと彼の背中に腕を回す。
温かい。
柔らかい。
静かに息づく、人のぬくもり。
ステラの中にはこの温度があるのだろうか。
いつか誰かに触れた時、
その氷は溶けてくれるのだろうか。
レギュラスはアランの髪に顔を埋め、
肺の奥深くまで息を吸い込んだ。
「……あなたのように優しい娘に、育ててあげられなくてすみません」
言葉は漏れ、胸がじんと痛んだ。
アランはすぐに首を振り、
レギュラスの手の甲にそっと指で書く。
(そんなこと……言わないで)
(あなたは……優しい父です)
翡翠色の瞳が、
月のように静かなやさしさを湛えていた。
レギュラスはアランの手を握り返し、
そっとその顔を胸に引き寄せた。
この女が教えてくれる“温度”。
ステラにもどこかで届くといい——
そんな祈りにも似た願いが、
胸の奥で静かに灯っていた。
夜のホグワーツは、昼間よりもずっと静かだった。
城壁をなでる風の音だけがわずかに響き、冷えた石床には光の粒子がゆらゆら揺れる。
ステラは寮の談話室から自室に戻ろうとしていた。
ふと、廊下の奥に淡い光が歪む。
まるで光の膜がめくれたように視界が裂け——
そこから、ひとりの少年が姿を現した。
ロイ・フロストだった。
その瞬間、ステラの背筋を鋭い冷気が走った。
ありえない。
未成年の魔法使いが《姿くらまし》を使うなど——法律で厳しく禁じられている。
追跡呪文〈トレーサー〉が必ず反応し、その魔力痕は家族にも魔法省にも即座に伝達される。
にもかかわらず、この男は。
「……何のつもりですの?」
ステラは 杖 に触れもしなかった。
ただ声だけは氷のように落とす。
ロイはにこやかな笑顔を崩さず、
そのくせ瞳の奥には得体の知れない光を宿していた。
「やあ、ステラ嬢。
そんなに驚いた顔をされると……来た甲斐があったというものです」
ステラは息をのみ、瞬きを一度だけした。
驚いたなどという表現は正しくない。
もっと呆れに近い。理解不能という意味で。
——この男、頭がおかしいのでは。
「未成年の姿くらましがどれほど重大な違法行為か、ご存じなのでしょう?
追跡呪文で、あなたの行動はすべてご実家に筒抜けですわ」
ステラが口にした冷ややかな忠告にも、ロイは肩をすくめただけだった。
「仕方がないでしょう?
あの日は、少しの時間しかあなたと話せませんでしたから。
それがどうにも心残りでね。
……こうしてまた、“驚くあなたの顔”を見られて本当に光栄です」
笑っていた。
本気で、心の底から愉しそうに。
その笑みの柔らかさの裏に、
ステラはぞわりとした危機感を覚えた。
優しさでも好意でもない。
これは、彼の中に巣食う狂気じみた興味だ。
「学校はどうされたのです?
校則どころか、法をも破っていますわ。
……私の父に裁かれたいのですか?」
強めに告げたつもりだった。
だがロイの表情は変わらない。
むしろ愉快そうに微笑む。
「未成年の特権ですよ、ステラ嬢。
始末書くらいで済むでしょう?
あなたのお父上がどれだけ恐ろしくてもね。
僕の“行動力”は、裁けないでしょう」
「……頭が悪いのかしら?」
気づけば、ステラはわずかに毒を混ぜていた。
本心だった。
ここまでの無謀と無警戒は、もはや愚かさの域を超えている。
こんな人物が純血名門フロスト家の後継候補だというのだから、世の中はつくづく滑稽だ。
しかしロイは、むしろ嬉しそうにした。
「そうやって冷たい言葉を投げつけてくれるところが、
あなたの魅力ですよ。ステラ嬢」
瞳の奥が暗くきらめく——
まるで、毒蛇がこちらへ鎌首をもたげるような気配だった。
ステラは一歩だけ引いた。
ロイはその一歩すら、愉しげに見つめていた。
「……帰りなさいよ。今すぐに」
「ええ、帰りますとも。
呼び出しが来る前にね。
また近いうちに、お会いしましょう」
ロイは軽く礼をし、
再び姿くらましの光の膜に身を溶かした。
静寂が戻った廊下で、
ステラはしばらく動けなかった。
背に冷たい汗が伝い、
心臓は一定のリズムを失っていた。
——あの男、本当に危険だ。
初対面の時に感じた違和感は、
もはや確信に変わった。
興味でも好意でもない。
ただ、彼の中にある“歪んだ渇望”が
自分に向けられているのだと理解した。
ステラは胸の奥で静かに息を吸った。
——これは遊びじゃない。
ロイ・フロストという人間が、
自分の人生に介入してくる。
その未来の気配が、
背筋にひりつくほどの悪寒を残していた
昼下がり、法務部の執務室。
細かな書類の束を一つずつ捌いていた最中、
レギュラスの机上に、ホグワーツからの緊急通達が転送されてきた。
魔力痕検出報告書——
しかも“未成年の姿くらまし”という、
本来あり得ない項目が最上段に記されている。
レギュラスは眉をひそめ、すぐさま魔力痕の分析結果に目を滑らせた。
──ロイ・フロスト。
その名が記された瞬間、
さすがのレギュラスでも、思考が一瞬止まった。
怒りも苛立ちも湧かなかった。
むしろ、驚愕に近い「理解不能」が胸を満たした。
未成年の魔法使いが姿くらましを使えば、
専用の追跡呪文が強制的に発動し、
魔法省にも学校にも実家にも痕跡が跳ね返る。
そのリスクを知らないはずがない。
なのに——。
あの男……何を考えている?
ステラに“興味”を抱いたとしても、
これは暴走では済まない。
若気の至りなどという言葉で括れる行為でもない。
レギュラスは深く息を吸った。
胸の内の感情は、怒りというよりただひたすらに——
理解を拒む種類の困惑だった。
娘がどんな顔でロイを迎えたのか。
想像はつく。
アランが自分を出迎える時に見せるような、
柔らかな光も、細やかな温度もない。
ステラは氷のような少女だ。
穏やかに笑って、温かく迎えるなどということは
決してしない。
そんな娘の前へ、
未成年違法を犯してまでやってくるなど——
理解の範疇を超えている。
書類の端に指を置き、軽く押さえる。
……やはり父親として、娘に“近づく男”の意図は量らねばならないが
それ以上に、
ロイ・フロスト自身が危ういのだと感じた。
ステラは鋭い。
人の裏側を見抜くのも早い。
あの娘が、ロイの愚行にどんな視線を向けたか——
考えるだに寒気がした。
レギュラスは羽ペンを取り、
冷静にホグワーツ側への返信文を書き上げた。
「処分はホグワーツおよび、
ロイの通うウィンダーメア高等魔法学院の
規定に準ずるものとする」
無駄に大袈裟に騒ぎ立てる必要はない。
法務部として、未成年の無謀に対し本気で怒るほどの価値もない。
ただし——
これは“家同士の問題”にも変化しうる。
フロスト家は形式上は名門であるが、
代々どこか軽さが抜けない家系だ。
今回の件も、息子の暴走として片づけられるだろう。
レギュラスは苦々しい思いで書類を閉じた。
女のために動く男の愚かさは……理解できなくはないが。
娘が、自分とアランのような柔らかい関係性を築く日は
果たして来るのだろうか。
ステラの瞳はいつも冷たい。
愛を信じず、必要ともしていない。
アランのように誰かを包む柔らかさなど、
持ち合わせていない。
胸の奥に、
重たいものが沈む。
あの娘にも、本当に大切な誰かが現れるのだろうか。
レギュラスは窓の外を見やった。
ホグワーツの尖塔に風が吹き、
遠く、黒い雲がかかっている。
あの城で——
娘がどんな顔でロイを拒絶したのか。
その想像だけが、
妙に胸に引っかかったまま離れなかった。
マグル界から吹き込む冷たい風が廊下を渡り、
法務部の執務室に所在なさげなざわめきを運び込んでいた。
レギュラスは窓の外の曇天をほんの一瞬だけ見やり、
手元の急報に目を落とした。
——警務部、女の拘束完了。
その報告は淡々と記されていたが、
文章の奥には、捜査班が長く張り詰めていた緊張が
ようやく緩んだ気配が漂っていた。
魔法族の魔力を無効化する薬。
その開発に手を貸した魔法族の“女”。
そして、その一族。
マグルの街に潜伏していた一族は、
魔法警務部の突然の強行突入によって
逃げ道を失い、瞬く間に包囲された。
レギュラスは報告書をめくりながら、
脳裏にその光景を静かに描いていた。
強行突入——無言の怒りの発露だ。
魔法界の脅威を作り出し、
マグル武装グループに魔力消失ポーションを渡した罪。
魔法界とマグル双方を巻き込んだ大事件の核心。
容赦する必要は、どこにもなかった。
拘束の瞬間、女は抵抗こそしたが、
魔法警務部の隊員たちが放った拷問呪文の前には長く持たなかった。
赤い光が迸り、
石畳に転がった女の叫びが報告書の行間に滲む。
——一族の潜伏先を言え。
——誰と手を組んだ。
——なぜマグルに力を貸した。
女が吐いたすべての答えは、
魔法界にとって、あまりにも安い動機だった。
愛するマグルの男を“頂点に立たせたい”——
それだけのために、
魔法族全体を揺るがす薬の開発を手助けした。
その結果、武装化したマグル組織に利用され、
魔法界もマグル界も地獄に巻き込まれた。
馬鹿げている。
滑稽ですらあった。
だが、そんな愚かな願いですら、
現実には恐るべき被害を生む。
レギュラスは報告書を閉じた。
本当に……くだらない。
吐息は冷たく落ちる。
「これにて警務部はマグル界から撤退でいいでしょう」
レギュラスは机から顔を上げ、
淡々とした声音で告げた。
その表情は硬いが、冷静そのものだった。
バーテミウスが書類の束を抱えたまま頷く。
「そうしましょう。
“マグルへの脅しだ”と騒ぎ立てる連中も多いですからね。
このまま居座れば、騎士団やら市民団体やら……
声ばかり大きい輩が増えていきます」
皮肉を含んだ声音に、
レギュラスは小さく鼻で笑った。
「本当に……どこまでも騒がしい」
窓の外では、薄い霧が街の屋根を覆っていた。
遠い景色の中に、かつて魔法族とマグルの均衡が
たしかに存在していたはずの時代を微かに思い出す。
あの均衡は、儚い。
誰かの愚かさ一つで簡単に崩れる。
……アランも、あの頃を思い出しているだろうか。
魔力を恐れたマグルが、
セシール家を滅ぼした夜。
あの残酷な連鎖は、今も世界の底流でうごめき続けている。
バーテミウスが撤退書類をまとめながら言う。
「これでとりあえず、
“マグル界への強圧”という批判は鎮まるでしょう。
しかし……騎士団は動くかもしれません」
「……好きにさせておけばいい」
レギュラスは立ち上がり、
外套を肩にかけた。
冷ややかな瞳の奥で、
ただ一つの問題だけが微かな熱を帯びている。
女の一族を捕らえ、薬の出処を断ち切った。
魔法界は守られた。
それでいいはずなのに——。
おそらく騎士団は、まだこちらを疑うだろう。
治験の件、逃亡者の死、アランの過去——
シリウスが動く気配が残っている。
世界が片側へ傾かないようにするというのは、
いつだって容易ではない。
だが、
守るべき中心がアランであることだけは
揺らぎようがなかった。
「バーテミウス。撤退後、報告書を全てこちらに通してください」
「もちろんです。
……お疲れのご様子ですね」
「問題ありません。
ただ、少々……雑音が多いだけです」
レギュラスは静かに歩き出した。
マグル界での捜査が終わっただけ。
だが、その裏側で水面下の均衡は大きく揺らぎ始めている。
世界は静かに――
より深い闇へと向かおうとしていた。
魔法省・法務部で開かれた臨時会議は、
朝からどこか張り詰めた氷の膜をまとっていた。
壁際のランプが揺れ、黄金色の光が
長机に座る面々の硬い表情を照らし出す。
魔法族の世界に生きる者たちの息遣いが、
まるで寒空に晒されているかのように鈍く、重かった。
レギュラス・ブラックは議長席から周囲を見渡し、
静かに口を開いた。
「今後、マグルの武装集団が再び立ち上がる可能性は――
極めて高いと判断します」
ざわめきが一瞬走り、すぐに喉の奥へ飲み込まれた。
「魔力を無効化するポーションの存在が明らかになった以上、
魔法族はこれまで経験したことのない危険にさらされた。
我々は、その脅威を無視することはできません」
レギュラスの声音は鋭く、
法務部の漆黒の制服を纏った彼の姿は
沈痛さと強靭さを併せ持つ影のように見えた。
「法務部として、魔法界とマグル界の境界線に
関所を設置する方針を提案します」
その言葉が発せられた瞬間、
空気が凍りついたように静まり返った。
「今後は、マグルが魔法界に入る際は
通行手形を所持する者のみ入国を許可します」
小さく誰かが息を呑む音がした。
「また、マグル生まれの魔法使い、
混血の魔法使いがマグル界に戻る場合も、
許可証の提出を必須とします」
レギュラスの言葉は淡々としていたが、
その裏には断固たる意志があった。
「魔法界の安全を守るために、
我々は線引きをせざるを得ないのです」
提案は瞬く間に魔法界中へと広まった。
新聞、ラジオ、雑談、家庭──
どの場所でも人々がこの話題を口にした。
恐怖を覚える者たちはこの決定を歓迎した。
魔力消失ポーションの恐ろしさは、
すでに魔法界の記憶に深く刻み込まれている。
「マグルに好き勝手される時代は終わりだ」
「魔法族を守るのが何よりも先だ」
そうした声が大多数を占めた。
一方で――
親マグル派や騎士団は激しく反対した。
「隔離政策だ!」
「マグルを敵とみなす行いそのものだ!」
「これでは魔法界が自ら高い壁を築くようなものだ!」
シリウスは特に声を荒げ、
騎士団内部を動揺で満たした。
しかし——
世論は、思った以上にレギュラスを支持した。
魔法界を震わせた“あの薬”の恐怖は、
誰しもの胸の奥に根を張っていたからだ。
大反対の嵐が吹き荒れる中でも、
法務部の決定は揺るがなかった。
「魔法界の中に、不純物や危険を持ち込まれないようにするための
最低限の措置です」
その論理はあまりにも明確で、
反論の余地を削ぎ落としていた。
こうして、
魔法界とマグル界を隔てる“見えない壁”は、
ついに現実の形として立ち上がり始めた。
会議が終わり、
夜の法務部の廊下にレギュラスは独り残された。
橙色の灯が揺れるたび、
黒い外套の影が床を流れる。
この決定がどれほどの波紋を生むか、
彼は理解していた。
騎士団との対立も深まるだろう。
マグル界との緊張もさらに増す。
しかし、
あの薬が流通し、
魔法族が無力化される世界だけは——
絶対に、許すわけにはいかない。
その背には、
アランと、アルタイルと、ステラ——
守るべき世界があった。
そして彼は歩き出す。
重く、冷たく、
だが確固とした意志で。
魔法界を守るために。
関所――。
魔法界とマグル界の境界に、通行手形と許可証を必須とする。
そんな法務部の決定が下ったとき、
シリウスは報告書を握りしめた拳の震えを止められなかった。
喉が焼けるように熱かった。
胸が締めつけられるように痛かった。
間に合わなかった。
逃げ込んできたデスイーターが吐き出した
アラン・ブラックの惨すぎる過去。
そして、それを暴露したあとでレギュラスが
奴を“治験”と称して危険な薬の実験台に回した事実。
本来であれば、それを世間に公表して
レギュラス・ブラックを真正面から追及できていたはずだった。
だが現実には——
アランを守りたいという思いが
ジェームズの提案を止めてしまった。
その迷いは、レギュラスの“先手”によって
完全に封じ込められた。
シリウスは報告書を机に叩きつけた。
ジェームズは眉一つ動かさず、淡々と言った。
「非人道的な治験だ。公表すべきだろう?」
「それを公表したらアランの過去も晒すことになる!」
「……わかっている。けれど、正義のためには犠牲が出る」
シリウスの血が逆流した。
「犠牲ってなんだよ、ジェームズ。“ アラン”を犠牲って言ってるのか?」
「シリウス……彼女だけを特別扱いするわけにはいかない」
「できるに決まってんだろ! 俺は……あいつを……!」
言葉のあとが喉で止まった。
ジェームズは、親友を真っ直ぐに見た。
「……シリウス、お前さ……昔から、アランのことになると冷静さを全部なくす」
返す言葉はなかった。
その沈黙の中で、二人の理念が真っ向からぶつかり、
長年の友情に深い亀裂が生まれていくのを
シリウス自身も感じ取った。
ジェームズの正義も理解している。
むしろ“正しい”のはジェームズなのだと
頭ではわかっている。
だが——
アランが絡んだ瞬間に、正義なんてものは霞む。
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