3章
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この議論は必ず決裂する。
そんなことは分かっていた。
だが——
アランの過去を“晒す”という決定だけは、どうしても受け入れられなかった。
アランの微笑みを踏みにじってまで、正義を掲げるのか?
それが本当に正しいのか?
薄い光の差す窓の前で、シリウスは静かに目を閉じた。
そして、自分の胸の奥で揺れていた答えを、初めて自覚した。
……自分はもう、“騎士団の正義”よりも……
あの子の幸せを守りたいと思っている。
その事実は、胸に熱く、苦しく、そして何より確かな痛みとなって広がった。
午後、法務部の執務室は深い静寂に包まれていた。
机上に積み上がった文書の山が、延々と続く政治の現実を無言で突きつけてくる。
そこへ、慌ただしい足音が廊下を走り抜け、扉が短く叩かれた。
「レギュラス……! 一大事です!」
バーテミウスの蒼白な顔。
その表情だけで、レギュラスは最悪の想定を瞬時に描いた。
「逃走した男の件ですか」
「……はい。
騎士団側が動きました。
治験について調査を始め、すでにジェームズ・ポッターの主導で内部会議にかけられています」
予感はあった。
だが、それが現実味を帯びた瞬間——胸の奥で何かが鋭く噛み合う音がした。
騎士団は必ず治験の“非人道性”に噛みついてくる。
それが世間へ漏れれば、法務部は大きく揺らぐ。
しかし問題はそこではない。
—— アランだ。
治験者に選ばれた理由を掘られれば、彼らがアランを辱め続けてきた過去が世に露見する。
それはアランに対する“二度目の処刑”だ。
絶対に許せなかった。
「……バーテミウス。宣言通り治験は一時中断です。」
「え?」
「治験対象者は全員、一般病棟に移せ。
最初から治療目的の入院だったかのように見せかける」
「……偽装ですね」
「必要なことです」
レギュラスの声は冷え切っていた。だが、その奥には煮え滾る怒りと焦燥が渦巻いていた。
レギュラスは机上の地図と資料をじっと見つめた。
「逃げ出した男の供述は——
“精神錯乱の末の妄言”として扱う。
罪悪感から逃れるために虚偽の自白を繰り返している、という筋書きが妥当です」
「騎士団が彼の供述を使おうとしても信憑性が揺らぐ」
「その通りです」
レギュラスは椅子にもたれ、深く息をついた。
本来なら治験は魔法族の未来のため。
政治的な戦略の一環であり、違法性はない。
しかし、そこに私的な怒りが混じっていたのは事実だった。
あの男たちを、処分するだけでは足りなかった。
“未来に役立つ犠牲”にしなければ、意味がなかった。
その判断を誰よりも理解しているのは自分だ。
だが、騎士団がそれをどう扱うかは別問題だった。
「バーテミウス。
騎士団が治験の件を公にしようとした場合の対策は?」
「はい……
騎士団が治験の理由に触れた瞬間、アランブラックの“過去の被害”が世に曝されます。
それは魔法族の女性への重大な人権侵害です」
「つまり、騎士団がそれを口にするということは——」
「魔法族全てからの大反発を受けるでしょう。
世論的にも、騎士団が“女性の尊厳を踏み躙る組織”と見做されかねません」
レギュラスはわずかに口角を上げた。
「そう。
アランの名を出した時点で、騎士団は自爆する」
ジェームズ・ポッターでも、そう簡単には踏み切れないだろう。
レギュラス・ブラックの弱点を利用したつもりだろう。
しかし、それは同時に最も扱いの難しい地雷でもある。
アランの存在は、レギュラスだけの急所ではない。
魔法界にとっても“悲劇の象徴”なのだ。
騎士団がそれを傷つければ——世論は騎士団を許さない。
それでも、胸の底から込み上げてくる怒りは別の場所から湧いていた。
また、あの男がアランを利用しようとしている)
シリウス。
ジェームズ。
そして騎士団。
彼らがアランを“弱点”や“道具”として扱うことが、耐えがたく辛かった。
アランは盾でも、駒でもない。
自分が守るべき、ただ一人の女だ。
誰にも触れさせない……たとえそれが、兄であるシリウスであったとしても。
静かに、しかし確実に、レギュラスの中で決意が固まっていった。
「バーテミウス。
必要なら、騎士団の“先手”を封じ込める声明を出します」
「どのような——?」
「“治験などなかったし、実験に関する噂は精神錯乱者の虚言だ”
“ アランブラックの名をいたずらに利用しようとする勢力がある”
この二つです」
バーテミウスが細く息を呑んだ。
「……騎士団との全面戦争になりますね」
「覚悟しておきましょう」
レギュラスは迷いなく答えた。
——すべてはアランを守るため。
それだけが、この男を動かす唯一の理由だった。
「……なんだと?」
騎士団本部の会議室で、書類を握りしめたシリウスの声が低く震えた。
仲間が持ち帰った報告書には、たった一行——しかし状況を一変させる文が記されていた。
――法務部、治験に関する一切の実施を“否定”。
逃走者の供述は『精神錯乱による虚言』と正式に見解を発表。
レギュラス。
完全に先手を打ってきた。
「……クソッ……!」
シリウスは壁を拳で叩いた。
衝撃で壁掛けのランプが揺れ、鈍い光を散らす。
これでは、逃走デスイーターの証言は“狂人の叫び”にされるだけだ。
レギュラスは非情なまでの冷静さで、自分たちの切り札を封じてきた。
ジェームズが険しい顔で書類を奪い読み込む。
「さすがだな……レギュラス・ブラック。
治験そのものを消しにきたか」
「……やり方がえげつねぇ」
「だが、読めていた。あいつは“政治で戦う男”だ。
こちらが一歩踏み出せば、三歩先を固めてくる」
シリウスは苛立ちに肩を震わせた。
「これじゃ……男の証言が使えねぇ。
治験が本当にあったことを示す証拠も……」
「ある」
ジェームズの声が落ちる。
「だが……その証拠を使うには、アラン・ブラックの過去を世間に晒す必要がある」
沈黙。
シリウスは拳を握りしめた。
—— アランの過去。
あの地下牢で何があったか。
デスイーターがどれほど酷い仕打ちをしたか。
知ってしまった以上、言葉にすれば、それは“彼女を二度殺す”ようなものだった。
「……ジェームズ。
アランの名を使うのは……違う」
「違う? 正義のためだろう?」
「正義ってのは……誰かの人生を潰して得るもんじゃねぇ!」
シリウスの声は怒りではなく、深い苦悩に濡れていた。
アランの笑顔が脳裏に浮かぶ。
声を失っても、必死に生きようとした彼女の姿が蘇る。
レギュラスがどれほど必死に守ってきたか。
自分が、どれほど彼女を大切に思っているか。
あの子を……あんな風に晒すなんて、自分にはできない。
「シリウス。
僕らは魔法族の未来のために戦ってるんだぞ。
彼女一人のために、全てを止めるのか?」
「……止める」
ジェームズが目を大きく見開いた。
「レギュラスが嫌いだからって…… アランは別だ。
あの子は……守られるべきだ。何があっても」
……アランを踏みにじるような正義はいらない)
「……じゃあ、どうするつもりだ?」
「別の方法でレギュラスを追い詰める」
シリウスは紙束を握り潰した。
その拳には悔しさと、諦めきれない正義と、どうにもならない愛が絡みついていた。
「アランを傷つけるくらいなら……正義なんかいらない」
その一言は、騎士団の空気を凍らせた。
だが同時に、シリウス自身の胸の奥で——
何か、長く隠していた感情が、静かに決壊していく音がした。
玄関の扉を閉じた瞬間、いつもの屋敷の静けさが降りた。
だがその夜は、不思議と胸の奥をざわつかせる匂いが漂っている気がした。
寝室の扉を開くと、そこでレギュラスは一瞬息を呑んだ。
——赤。
ランプの柔らかな金色の光の中、アランが赤いレースのナイトドレスを身にまとい、ベッドの端に腰掛けていた。
淡い翡翠色の瞳が緊張で揺れながら、それでもどこか期待を滲ませて、こちらを見つめている。
大胆な色。
普段のアランからは到底想像できない選択だった。
「……どうしたんです?その格好は」
思わず問いかけると、アランは“にこっ”と満面の笑みを浮かべた。
——それだけで、どうでもよくなった。
入手経路も、意味も、きっかけも、全部。
ただ可愛い。それ以外の感情が出てこなかった。
レギュラスはゆっくりジャケットを脱ぎ、丁寧に椅子の背に掛ける。
カフスボタンを外すと、アランの瞳がそこに吸い寄せられるように揺れた。
シャツのボタンを外した時だった。
ふわり、と背中に小さな温もりが触れた。
アランが、レギュラスの背後からそっと抱きついてきたのだ。
「……どうしたんです?」
驚いて振り向いた瞬間——
アランが背伸びをして、つたなく、それでも勇気を振り絞るように唇をそっと重ねてきた。
温かくて、柔らかくて、可愛くて。
思わず心臓が跳ねた。
キスを終えてアランの顔を覗き込むと、彼女は耳まで真っ赤にして小さく俯いた。
「……どういう風の吹き回しです?」
アランは首をぶんぶんと振る。
そしてレギュラスの手を掴み、そのままベッドへ引いていく。
「誘っているんです?」
聞きながら、レギュラス自身の体温の方が先に跳ね上がっていた。
体調は本当に大丈夫なのか、と一瞬だけ思った。
けれど、アランがレギュラスの上に乗り、戸惑いながらも体を預けてきた瞬間、その思考は吹き飛んだ。
「今日は……あなたが、上?」
そんな言葉を口にしながらも、自分の理性の崩れていく音を理解していた。
この子がここまで“自分に触れたい”と願ってくれるなんて。
その後のアランは、いつもの大人びた静かな雰囲気が影も形もなかった。
ぎこちなく、戸惑いながら、
手の位置も、体の乗せ方もよく分かっていない。
レギュラスがほんの少し動くだけで、すぐに跳ねて赤面する。
その全てが、胸を掴んで離さなかった。
結局、すべての主導権はレギュラスの手に戻った。
アランは息を切らせながら、一生懸命ついてこようとして、何度もレギュラスを見上げた。
その顔が何よりも美しくて、愛しくて、もうどうしようもなかった。
アランの呼吸がゆっくり落ち着くまで、互いの体温を確かめるように寄り添った。
「……急に、どうしたんです?」
レギュラスが尋ねると、アランは杖を取ってベッドの上に小さく文字を書く。
《ウィッチウィークリーの雑誌で、夫婦のマンネリ防止……と読みました》
思わず笑いがこぼれそうになった。
「そんなこと、気にしなくていいんですよ」
するとアランは続ける。
《この赤いドレス、メイラに買ってきてもらいました》
「メイラに……?」
レギュラスは一瞬だけ複雑なため息をついた。
あのマグルの娘が、この用途の服を買いに行くとは。
アランが何のために必要としているかも、当然理解したうえで——。
アランの世界には、自分と、そしてメイラが確かに存在しているのだ。
その事実に、胸のどこかがちくりと痛む。
だが同時に、目の前の愛しい妻がこのドレスを着て、勇気を振り絞って自分を誘ってきた事実が——
全ての感情を塗り替えてしまった。
「……とても、よく似合っていました。
驚くほど、魅力的でしたよ」
アランはまた真っ赤になって、掛け布団の端を握りしめた。
レギュラスはアランの手を取って、そっと口づけた。
その仕草に、アランの肩がびくりと震える。
こんなに愛しい女が、他にいるはずがない。
そう思いながら、レギュラスはアランを抱き寄せた。
朝の光が、薄いレースカーテンを透かして寝室に落ちていた。
まだ少し肌寒い季節のはずなのに——
昨夜の余韻だけが、自分の体の奥の方をじんわりと温めていた。
目を覚ました瞬間、アランは反射的に布団をぎゅっと抱え込んだ。
——思い出してしまう。
赤いレースのドレス。
鏡の前で何度も深呼吸したこと。
メイラが少し心配そうに「本当にいいんですか?」と訊いてきたこと。
そして、寝室に入ってきたレギュラスの顔。
あんなふうに目を見開いた彼を見るのは、初めてだった。
思い出しただけで、身体中が熱を持つ。
恥ずかしくてどうにかなりそうだった。
……なんで、あんなこと、私……
布団の端を握りしめて、頭を潜らせる。
枕に顔を押し付けると、かすかに昨夜の香りが残っていて、胸がまた跳ねた。
レギュラスの驚く顔。
背伸びして奪った、つたないキス。
そのあと彼の上に跨ったとき、自分の心臓がどれほどうるさかったか。
思い出した瞬間——
布団から出るなんてもう無理だった。
アランは枕を抱えて、布団の中でくしゃりと身を縮める。
やっぱり恥ずかしすぎる……。
ウィッチウィークリーの“夫婦マンネリ防止特集”のページ。
あれを読んでしまった自分。
真っ赤なドレスを買うようメイラに頼んだ自分。
結局、誘うどころか途中からレギュラスに全部持っていかれた自分。
……どう見えたんだろうか。
その瞬間、寝室の扉が“コン”と小さく叩かれた。
「アラン、起きていますか?」
飛び上がりそうなほど心臓が跳ね、アランはさらに布団に潜る。
昨夜の後、レギュラスにどう顔を合わせればいいのか、それすら分からない。
けれど扉越しに聞こえた彼の声は、驚くほど優しかった。
「朝食を持ってきました。無理に起きなくていいですよ」
布団の中で、アランは小さく身を丸める。
昨夜の自分があまりにも大胆で、あまりにも可笑しくて、
そして、あまりにも幸せだったから。
だからなおさら、恥ずかしくてたまらなかった。
扉の向こうでレギュラスが続ける。
「……とても、綺麗でしたよ。昨日のあなた」
布団の中で、アランは顔を覆って悶えた。
涙が出そうなほど恥ずかしいのに、なぜか胸はあたたかくて苦しくて。
またあの夜がくるのだと思うと、頬が熱くなる。
布団に潜り込んだまま、アランは声を出せない代わりに小さく枕を抱きしめた。
彼に見せた勇気が、こんなにも翌朝自分を苦しめるなんて。
それでもまたきっと、同じことをしてしまうのだろうと思えた。
アランが数日ぶりに体調をもち直し、ようやく食卓まで来られるようになった夜。
レギュラスは向かい合って座るの様子を見守りつつも、別のところで神経をすり減らしていた。
——メイラ・ウォルブリッジの視線だ。
いつも通り控えめで、決して屋敷の空気を乱さない少女。
だが時折、アランに寄り添うその動きの端々に……何かを“知っている”気配が滲んでいた。
たとえば食後にアランのカップを片付けるとき、
ほんの一瞬だけレギュラスの横目と交差した表情。
驚きでもなく、怯えでもなく。
——妙に気まずげで、どこか察したような柔らかさ。
背筋がぞわりとした。
アランが真っ赤になって布団に潜り込んだ朝。
レギュラスが寝室を出て、シャワー室に向かう途中でメイラと鉢合わせた。
軽く会釈して通り過ぎようとした彼女が、ふと視線を泳がせた。
まるで——
“気づいています。けれど何も言いません”
そんな遠慮深い、だが確かな理解の光。
自分の血の気が引くのが分かった。
いま思い返しても胃の奥がぎゅっとなる。
その日の昼、アランが体調を崩してベッドで横になっていると、
メイラが新しい冷却パックを持って部屋に入ってきた。
その時のメイラの声がまた、微妙だった。
「無理は……されませんように、アランさん」
“無理”の部分だけ、ほんの少しだけ強調されていたのだ。
レギュラスはその場に居合わせていないのに、
なぜかメイラの言葉が妙に胸を刺した。
さらに追い打ちをかけるように、夕食時。
「アランさん、痛みはありませんか?」
とメイラが聞いたのを聞いて、レギュラスはナイフを落としそうになった。
もちろん、彼女は純粋な気遣いのつもりなのだろう。
アランを守りたいだけ。
しかし、その声音にはどうしても——
“昨夜の夫婦の事情をほぼ理解している女の気遣い”
が混ざっていた。
落ち着かない。
居心地が悪い。
自分の胸の奥を覗かれているような気がしてならない。
しかもメイラは、決して口外しないだろうという信頼感があるからこそ……
余計に気まずい。
今夜もアランの薬を取りに部屋を訪れたメイラは、レギュラスを横目に「失礼します」とだけ言って微笑んだ。
その“微笑み”が、また気まずい。
きっと彼女は、アランの体についた痕も、
朝布団から出られなかった意味も、
全部理解している。
しかし翌朝、
アランに薬を飲ませて布団を整えているメイラの横顔は、
あまりにも優しかった。
その優しさが、レギュラスには逆に堪えた。
そう理解しているのに、やはり顔を合わせるたびに胸がざわつく。
アランは気づいていない。
だからこそ、余計にレギュラスだけが一人で落ち着かなくなる。
政治、治験、騎士団、娘の問題。
それらで鋼のように冷静でいられる男が。
——唯一今、完全に勝てない相手は、屋敷に住む静かなマグルの少女だった。
朝、目を覚ますと隣にはレギュラスがいた。
いつも通り、寝起きのくせに整っている横顔。
その静かな呼吸に安心して、そっと腕を伸ばして肩に触れる。
その瞬間だった。
レギュラスの身体がぴくりと小さく跳ねた。
(……?)
まるで、触れてはいけないものに触れられたかのように——
ほんの一瞬、硬直したのだ。
アランは首をかしげる。
寝ぼけているのかと思い、もう一度そっと肩に手を置く。
すると今度はゆっくりとレギュラスがこちらを向いた。
「……おはようございます、アラン」
声は穏やかだ。
けれど、目だけが妙に泳いでいる。
杖を取って、
おはようございます
と書く。
レギュラスは微笑む。
微笑むけれど、その笑みもどこかぎこちない。
いつものような柔らかな余裕がない。
着替えのときもそうだった。
ふと視線を感じて振り向くと、レギュラスがこちらを見ていて——
目が合った瞬間、慌てたように咳払いして目を逸らした。
まるで、やましいことでもあるかのように。
アランはますます首をかしげる。
朝食のあと、いつも通りメイラが片付けをしてくれる。
食器を受け取る際、レギュラスは不自然なほど距離を取った。
メイラは何も言わず、いつもの丁寧な所作で片付けを続ける。
アランは気づかなかったが——
メイラが去った瞬間、レギュラスはかすかに肩を落としていた。
(……???)
昼過ぎ、レギュラスが書斎に行くと言うので、
アランは杖で
いってらっしゃいませ
と書いた。
するとレギュラスは、こちらを振り返りかけて……
止まった。
顔を赤らめて視線をそらし、扉に向かう。
「……今日は早く帰ります」
なぜか声が固い。
アランの中に疑問符がいくつも灯った。
そして夜。
レギュラスが寝室に戻ってきたとき、
アランはベッドに座って彼を待っていた。
レギュラスは動きが硬い。
まるで“家に帰りたての新人”のようなぎこちなさ。
アランはついに堪えられなくなって、
そっとレギュラスの手首を取る。
レギュラスが息を呑む。
アランはゆっくりレギュラスの手のひらに指を走らせる。
今日、一日……どうしたんですか?
レギュラスはその文字を見た瞬間、顔を覆った。
「…… アラン……あなたは、何も……何も気にしないのですか……?」
なにを?
と眉を寄せるアラン。
レギュラスはしばらく沈黙した後、
深いため息を落とした。
「……あなたが、あの赤い……その……」
言い淀む。
「……いえ、その……メイラが……色々……察しているでしょう……?」
やっと言葉を絞り出したその様子に、アランはぽかんとした。
ああ……そういうこと……
ようやくすべて理解した。
朝からの不自然な視線。
ぎこちない態度。
距離の取り方。
昨夜の“赤いドレスの夜”が原因だったなんて。
アランは、思わず笑いそうになってしまった——
もちろん声は出ないから、肩がふるふると震えるだけだが。
その様子を見て、レギュラスはさらに恥ずかしそうに目をそらす。
「……笑わないでください…… アラン……」
アランは手を伸ばし、レギュラスの頬に触れる。
そしてゆっくりと微笑んだ。
大丈夫です。恥ずかしくなんて、ありません。
アランは杖を振った。
レギュラスはしばらく固まったあと、
ようやく胸の奥の“強張り”をほどいて抱き寄せた。
その抱擁は、昨夜の激しさとは違って、
ただただ優しく、温度だけが静かに伝わるものだった。
アランはそんな風に思いながら、
そっとレギュラスの背中を撫でた。
報告を受けたのは、まだ夜明けの色が空に沈んだままの、冷たい早朝だった。
「……死んだ、だと?」
シリウスは椅子から身を乗り出した。
机の上には、騎士団が保護したはずの男——治験から逃げ出した元デスイーターの記録。
つい数時間前まで呼吸をしていた男が、突然、痙攣し絶命したという報告書。
現場にいた騎士団員が震える声で説明した。
「腕の……あの印が、黒く……焼け焦げて……。
身体の中を、何かが逆流するように暴れて……
一瞬で……息絶えました」
その説明で、理解した。
“闇の印”——デスイーターの刻印。
あれはヴォルデモートの魔力が通っている。
忠誠と隷属を示すために刻まれた呪われたしるし。
そしてその印は、
その男に死を流し込む“通路”にもなり得る。
(ヴォルデモート……いや)
シリウスは舌の奥で言葉を押しつぶした。
(――動かしたのは、レギュラスだろう)
ヴォルデモートが勝手に動くはずがない。
あの男は、信頼する数名の助言にしか耳を貸さない。
その中でも——レギュラスブラックは別格だ。
“レギュラスはヴォルデモートの耳元にいる”
魔法界では、誰もが密かにそう噂している。
今回もそうなのだ。
逃げ出したデスイーターが騎士団に駆け込んだこと。
そしてアランの名を出したこと。
その事実をどこかで掴んだレギュラスが、
一呼吸のうちにヴォルデモートを動かした。
——証人は、死んだ。
シリウスの胸に、冷たい刃物のような焦りが走った。
彼はケガ人でも、虐げられた男でもない。
ただの加害者だ。
あの地下牢の罪を重ねた側の男だ。
情けをかける必要は、本当はない。
それでも——胸に残るのは、別の痛みだった。
デスイーターの男が語った“ アランの過去”。
そのすべてを世間に晒して、治験の件を公にする。
それが正しいかもしれない。
だが、それは——彼女の人生を再び“あの地下”の闇に引き戻すことでもある。
あの顔で笑う彼女が、
過去を一生つきまとわれる人生を送るなんて——
想像するだけで胸が潰れそうだった。
こちらが迷ってるうちに、レギュラスは動いた。
レギュラスのやり方は、いつだってそうだ。
容赦がない。
合理的で、正確で、鋭くて。
そして必要とあらば、誰よりも早く“切り捨てる”。
迷いなど持たない。
人を助けるときも、殺すときも、同じ速度で決める男。
彼が動けば、世界が一瞬たじろぐ。
今回もそうだった。
シリウスが迷っている間に——
レギュラスは全てを締め切った。
「……あいつは、本当に……速すぎるんだよ」
呟いた声は、憎しみではなく、苦い 賞賛に似ていた。
あれほど危険な政治の駆け引きの中で、
迷うことなく指揮を取り、
誰にも触れさせず、
すべてを掌の上で動かす。
彼に勝てる魔法族など、どこにもいない。
シリウスは息をついた。
治験の噂は法務部により“根も葉もない”と公表され、
逃げた男は“印の反応による錯乱からの突然死”と処理されるだろう。
騎士団はまた、レギュラス側の盤面に追い返された。
胸の奥で、嫉妬とは違う何かが渦を巻いた。
あの無垢な微笑みの裏で、
妻として、レギュラスと同じ色の罪を背負っていく覚悟をしているのか。
それとも——
まだ彼の冷酷さに気づかずにいるのか。
知りたいのに、聞けない。
彼女は、どこまでその事実を受け止められるのだろうか。
騎士団の廊下に、朝の光が差し込む。
淡い光の中で、シリウスは静かに目を閉じた。
——レギュラスに一手負けた。
それはいつものことだ。
だが今回は、胸の奥がえぐられるように痛んだ。
あの男は、アランを守るためなら……どこまでも冷たくなる。
その冷たさが、今はただ、ひどく眩しく見えた。
晩餐前の柔らかな黄昏の光が、書斎の重厚な机に落ちていた。
レギュラスは静かに封蝋を割り、広げた羊皮紙を読んで眉間に深い影を落とした。
——それは、オリオンとヴァルブルガからの手紙だった。
『ステラの婚約をそろそろ進めるべきだ。
候補と顔合わせを行い、来年のうちには話を固めよ』
代々ブラック家では、これくらいの年齢から婚約話が動く。
貴族の世界ではむしろ遅いくらいだ。
だが、ページを読み終えた瞬間、レギュラスは重く深い息を吐いた。
「……頭が痛くなってきました」
手紙を閉じ、アランの方へ向き直る。
アランは彼の隣で、いつもの優しい眼差しで筆談の準備をしていた。
レギュラスは羊皮紙を差し出しながら、肩をすくめる。
「あなたみたいにもう少し柔らかさがあればいいんですけどね」
その声には、ほんの少しだけ苦い笑いが混じっていた。
アランは目を伏せ、手紙を読み終えると静かに眉尻を落とした。
まるで胸の奥で何かがきゅうっと縮むのを感じたかのように——。
レギュラスは続ける。
「容姿は……限りなくあなたに似ているのに。
どうしてああも違うんでしょうね」
言ってしまってから、少しだけ後悔した。
娘を責めたいわけではない。
ただ、正直に感じている“難しさ”が胸の奥で重く渦巻いていた。
ステラは美しい。
アラン譲りの肌、髪、瞳。
細く整った指先ひとつとっても、純血の中でも際立つ品と華やかさを持っている。
だが——問題はそこではない。
愛嬌がない。
人を寄せ付けない。
選民思想があまりにも強い。
同年代の子どもたちの間でさえ、笑顔の輪には入ろうとしない。
自分より劣ると感じる相手には露骨に興味を示さず、
上位の貴族に対しても遠ざけるような冷たい態度を取る。
あれで婚約など、うまくいくだろうか。
レギュラスは机に肘をついて、こめかみを押さえた。
「……ステラのあの態度では、貴族の間でどう見られるか……。
場合によっては——貰い手がいないかもしれない」
その言葉に、アランの肩がびくりと揺れた。
アランはステラに心から愛情を向けてきた。
どれほど冷たくあしらわれても、
どれほど拒絶されても、
それでも娘を愛そうとしてきた女だ。
その胸の奥を刺すような言葉だっただろう。
アランはゆっくりと杖を取って書いた。
『……ステラは、やさしい子です。
本当は……寂しいのだと思います』
レギュラスはその文字を見て、一瞬、目を伏せた。
アランの優しさは、時に痛烈なほどだった。
「……そうかもしれませんね」
小さく返しながら、彼は心の中で別の思いを噛みしめていた。
ステラはアランの“美しさ”をそのまま受け継いだのに、
アランの“柔らかさ”は受け継がれなかった。
母は声がないからこそ、
一つひとつの表情がどれほど大切に紡がれているのかが伝わる。
対してステラは——
言葉を持って生まれたのに、
その言葉を刃のように使う。
同じ姿をした母娘で、どうしてここまで違うのか。
レギュラスはそっとアランの手に触れた。
アランは驚いたように瞬きをして彼を見つめ返す。
「……あなたのように優しい心を、
あの子もいつか持てるといいんですがね」
アランは微かに切なげに笑った。
声のない笑みは、雪の上にそっと落ちる月明かりのように儚い。
レギュラスはその横顔を見ながら思う。
——ステラは、まだ誰も愛したことがないのだ。
だから、娘は世界が敵に見える。
世界に冷たく振る舞わなければ、自分を守れないのだ。
いずれ誰かを深く愛したときに、
初めて“柔らかさ”というものを知るのだろう。
それはいつになるのか、誰なのか——
想像もつかない。
ただ確かなのは、
父と母が歩んだ苦しい道とは、
まったく別の道を歩ませたいという願いだった。
「会わせるべき候補は……僕が選びましょう。
あの子に釣り合う者がいるとは思えませんが」
レギュラスの言葉に、アランはそっと頷いた。
夕刻の光が二人の影を長く伸ばす。
その影の端で、ステラという少女の未来が、
静かに揺らめいていた。
昼下がりの柔らかな陽光が、法務部長執務室の重厚な書棚を淡く照らしていた。
レギュラスは静かに溜息をつきながら、机に積み上げた書類の束を一枚一枚開いていく。
——婚約候補者リスト。
純血貴族の家柄、財産、血統、魔法的能力、将来性。
ブラック家に釣り合い、“ステラ”という少女を受け入れられる器を持つ者。
すべてを満たす者など、そうそういるはずがない。
そんなことは重々承知しているつもりだったが——
いざ探し始めてみれば、予想を遥かに上回っていなかった。
「……これでは、誰も残らない」
気づけば三十人ほどいた候補は、五分の一以下にまで削れた。
魔法的能力は申し分ないが、家柄が弱い者。
家柄は完璧だが、性格が問題視されている者。
財政状況が良くとも、親族構造に不安がある一族。
そして何より——
……ステラの気質に耐えられる、あるいは釣り合う者となると……。
胸の奥で、また深い溜息が漏れる。
アランのような柔らかさを持つ相手なら、まだ希望はあったかもしれない。
だがステラは、ほとんどの青年が一瞬で尻込みするほどの冷ややかさを持っている。
出生も、環境も、価値観も関係なく——
彼女の瞳は氷よりも鋭く、氷よりも脆く、そして冷たい。
その鋭さの理由を理解できるからこそ、レギュラスは胸が重かった。
自分とアランの間に生まれ、愛を受けとるはずだった少女が、
なぜあれほどまでに固く閉じてしまったのか。
そして今、その閉じた心を解きほぐせる相手を探す。
どれほど矛盾だらけの作業だろう。
「……ステラを、どうすればいいのか」
思わず口に出した呟きは、部屋の静寂に吸い込まれるだけだった。
候補の資料を読み進めるうち、
レギュラスはふと一人の青年の名で手を止めた。
「……ロイ・フロスト……?」
血統は悪くない。
学業成績も優秀。
魔法薬学の知識も深く、将来は魔法薬省にも推薦されている。
——だが。
レギュラスは宙を見つめた。
……明るすぎる
ロイ・フロストは非常に社交的で、友人も多く、
男女問わず評判の良い青年であると記されている。
つまり、ステラとは正反対だった。
正反対の者同士が惹かれ合うこともある。
しかし、あの娘の閉ざされた心を思えば——
あまりにも隔たりが大きかった。
……ステラが彼を刺すだろう。
本気でそう思った。
レギュラスは紙をそっと横に置き、額に手を当てた。
「……だめだ。これでは……埒が明かない」
結局のところ、
ステラの婚約という問題は、極めて個人的で複雑な“家族の傷”が関係している。
魔法省の政治問題より厄介だと、心底思う。
夕刻になり、屋敷へ戻ると、
いつも通りアランが柔らかい笑みで迎えてくれた。
その瞬間、レギュラスは胸の奥がきゅっと縮んだ。
……あんなに優しい母の元に育ちながら、
なぜステラはこうも孤独を選ぶのか。
夕食の後、アランが湖水色の寝間着姿で紅茶を用意しているのを眺めながら、
レギュラスはぽつりと呟いた。
「…… アラン、ステラのことなんですが」
アランはカップをそっと置き、こちらを見る。
「……婚約の件、候補を探しているのですが……。
なかなか、うまくいきません」
アランの瞳が、微かに揺れた。
レギュラスは続ける。
「……釣り合う者がいない、というより……
あの子が心を許す相手が、想像できなくて」
アランはゆっくり杖を取り、震える指で文字を書く。
『ステラは……優しい子です。
まだ……見つけられていないだけです』
レギュラスはその文字を見て、胸が少しだけ痛む。
「……そう願いたいですね」
けれど、父としては不安を拭えなかった。
娘は愛を知らない。
愛され方を知らない。
誰かの差し伸べる手を拒み、
拒むことでしか自分を守れない少女に成長してしまった。
そんな娘を誰かに託す——
それは、想像以上の苦しみだった。
夜更け。
レギュラスは寝室の隅に置かれた婚約候補の資料を見つめながら、
ひとり静かに思う。
……ステラを、誰かに委ねる日が来るのだろうか。
答えは出ない。
けれど父として、妻のためにも、娘の未来のためにも——
探し続けなければならない。
それが、レギュラス・ブラックという男の背負った義務だった。
鏡の前に立つと、映った少女はまるで誰か別人のようだった。
淡い黒の髪は母アランの手で丁寧に結い上げられ、
頬には薄く薔薇色が刷かれ、睫毛には繊細な影が落ちている。
身に纏ったドレスは深い葡萄色——
母の選んだその一枚は、ステラの翡翠の瞳をいっそう艶やかに引き立てていた。
完璧だった。
どこから見ても「ブラック家の娘」に相応しい美しさ。
しかし、その完璧さはどこまでも——外側だけだった。
ステラは、鏡に映る自分を冷たく見つめた。
……よく似ているわ、母さんと
骨格も、雰囲気も、眼差しの深さも。
誰もがアランの面影をそこに見いだすだろう。
だが、母とまったく違うものが一つだけあった。
この瞳には、誰にも寄り添わない“思想”が宿っている。
アランの瞳は、誰にでも向けられる優しさで満たされている。
傷ついた者に寄り添い、弱い者を救い、
自分を虐げた世界にさえ、もう刃を向けない。
——だからこそ、ステラには理解できない。
弱さの中に同調し、誰かの庇護のもとで愛を乞うように生きるなんて。
そんな生き方をするくらいなら、
誇りを抱いたまま一人で死ぬ方が、よほど潔いとすら思う。
ステラはゆっくり目を伏せる。
胸の奥に硬く凝った結晶のような感情が沈んでいた。
……ロイ・フロスト、ね
父と母が選んだ婚約候補——
ついに顔合わせまで決まったらしい。
それを聞いた瞬間、ステラはただ、ふっと冷たく笑った。
自分の将来を本気で案じてのことだろう。
ステラの将来が孤独にならないように。
家が、血が、誇りが、途切れないように。
両親なりの“愛”なのだと分かっている。
けれど。
この家の人間は、どうしてこうも「愛」を中心にして世界を見ようとするのだろう。
母は——
幼い頃から閉ざされた地下牢で孤独に耐え、
一歩間違えれば死んでいたはずの少女だった。
そんな母が生き延びたのは、
ただ一人、レギュラスという“圧倒的な存在”に見初められたからだ。
母の人生は、父ありきで成り立っている。
父がいなければ、母は生き方すら選べなかった。
そんな“危うい救い”を、ステラは直視できずにいた。
たとえ幸せそうに微笑んでいても、
その笑顔が、誰か一人の存在に依存しているようで——
恐ろしくて仕方がなかった。
幼い日。
母の愛はステラにだけ向いていたわけではない。
アルタイルが生まれれば、家族も世間も、
まだ幼かったステラの存在は薄く霞んでいった。
さらに、メイラというマグルの少女が屋敷にいた。
母はその少女にも深い愛情を注いだ。
——自分へ向くはずだった愛が、次々と分散されていく。
ステラの幼少期はただ、それを静かに見ているしかできなかった。
だから悟った。
愛を求めるのは、虚しい。
誰かに縋るのは、負けだ。
唯一の愛など存在しない。
そして——
父にも、かつて女がいた。
セラ・レヴィントン。
薄汚れた混血女。
ステラの視点から見れば、父が気まぐれに手を伸ばした“愚かな遊び”でしかない。
……父の愛だって完璧じゃない。
そんなものが信用に値するわけないのだ。
恋愛も、婚約も、信頼も——
そんな脆いものに人生を賭ける愚かさを、ステラは嗤った。
ロイ・フロストとの顔合わせが迫る。
ステラはもう一度鏡を見つめた。
美しい少女が映っていた。
けれど、その胸の奥には——
誰の愛にも染まらない、
たった一つの冷たい誇りが静かに立っていた。
……来るなら来ればいい。
父と母の選んだ“花婿候補”とやら。
笑みは、花のように柔らかく。
しかしその奥には、刃物のような冷たさがひっそりと光っていた。
レストランの個室に案内されるまでの数分、
ロイ・フロストはほとんど会話の内容を頭に入れていなかった。
緊張していたのではない。
フロスト家の跡取りとして、婚約話の席などこれまでいくつも経験してきた。
完璧に礼儀を尽くし、完璧に微笑み、
完璧に淡々とこなして帰っていけばいい——
いつもそうだった。
だが今日は違う。
相手が「ブラック家」の一人娘となれば話は別だ。
純血一族の中でも、もっとも特異で、もっとも“美しく、危険”な血筋。
特にレギュラス・ブラックの名は、若い魔法族の間でも畏怖と尊敬を同時に帯びて語られる。
……その娘と会うのか
そう自分に言い聞かせながらドアをノックした。
そんなことは分かっていた。
だが——
アランの過去を“晒す”という決定だけは、どうしても受け入れられなかった。
アランの微笑みを踏みにじってまで、正義を掲げるのか?
それが本当に正しいのか?
薄い光の差す窓の前で、シリウスは静かに目を閉じた。
そして、自分の胸の奥で揺れていた答えを、初めて自覚した。
……自分はもう、“騎士団の正義”よりも……
あの子の幸せを守りたいと思っている。
その事実は、胸に熱く、苦しく、そして何より確かな痛みとなって広がった。
午後、法務部の執務室は深い静寂に包まれていた。
机上に積み上がった文書の山が、延々と続く政治の現実を無言で突きつけてくる。
そこへ、慌ただしい足音が廊下を走り抜け、扉が短く叩かれた。
「レギュラス……! 一大事です!」
バーテミウスの蒼白な顔。
その表情だけで、レギュラスは最悪の想定を瞬時に描いた。
「逃走した男の件ですか」
「……はい。
騎士団側が動きました。
治験について調査を始め、すでにジェームズ・ポッターの主導で内部会議にかけられています」
予感はあった。
だが、それが現実味を帯びた瞬間——胸の奥で何かが鋭く噛み合う音がした。
騎士団は必ず治験の“非人道性”に噛みついてくる。
それが世間へ漏れれば、法務部は大きく揺らぐ。
しかし問題はそこではない。
—— アランだ。
治験者に選ばれた理由を掘られれば、彼らがアランを辱め続けてきた過去が世に露見する。
それはアランに対する“二度目の処刑”だ。
絶対に許せなかった。
「……バーテミウス。宣言通り治験は一時中断です。」
「え?」
「治験対象者は全員、一般病棟に移せ。
最初から治療目的の入院だったかのように見せかける」
「……偽装ですね」
「必要なことです」
レギュラスの声は冷え切っていた。だが、その奥には煮え滾る怒りと焦燥が渦巻いていた。
レギュラスは机上の地図と資料をじっと見つめた。
「逃げ出した男の供述は——
“精神錯乱の末の妄言”として扱う。
罪悪感から逃れるために虚偽の自白を繰り返している、という筋書きが妥当です」
「騎士団が彼の供述を使おうとしても信憑性が揺らぐ」
「その通りです」
レギュラスは椅子にもたれ、深く息をついた。
本来なら治験は魔法族の未来のため。
政治的な戦略の一環であり、違法性はない。
しかし、そこに私的な怒りが混じっていたのは事実だった。
あの男たちを、処分するだけでは足りなかった。
“未来に役立つ犠牲”にしなければ、意味がなかった。
その判断を誰よりも理解しているのは自分だ。
だが、騎士団がそれをどう扱うかは別問題だった。
「バーテミウス。
騎士団が治験の件を公にしようとした場合の対策は?」
「はい……
騎士団が治験の理由に触れた瞬間、アランブラックの“過去の被害”が世に曝されます。
それは魔法族の女性への重大な人権侵害です」
「つまり、騎士団がそれを口にするということは——」
「魔法族全てからの大反発を受けるでしょう。
世論的にも、騎士団が“女性の尊厳を踏み躙る組織”と見做されかねません」
レギュラスはわずかに口角を上げた。
「そう。
アランの名を出した時点で、騎士団は自爆する」
ジェームズ・ポッターでも、そう簡単には踏み切れないだろう。
レギュラス・ブラックの弱点を利用したつもりだろう。
しかし、それは同時に最も扱いの難しい地雷でもある。
アランの存在は、レギュラスだけの急所ではない。
魔法界にとっても“悲劇の象徴”なのだ。
騎士団がそれを傷つければ——世論は騎士団を許さない。
それでも、胸の底から込み上げてくる怒りは別の場所から湧いていた。
また、あの男がアランを利用しようとしている)
シリウス。
ジェームズ。
そして騎士団。
彼らがアランを“弱点”や“道具”として扱うことが、耐えがたく辛かった。
アランは盾でも、駒でもない。
自分が守るべき、ただ一人の女だ。
誰にも触れさせない……たとえそれが、兄であるシリウスであったとしても。
静かに、しかし確実に、レギュラスの中で決意が固まっていった。
「バーテミウス。
必要なら、騎士団の“先手”を封じ込める声明を出します」
「どのような——?」
「“治験などなかったし、実験に関する噂は精神錯乱者の虚言だ”
“ アランブラックの名をいたずらに利用しようとする勢力がある”
この二つです」
バーテミウスが細く息を呑んだ。
「……騎士団との全面戦争になりますね」
「覚悟しておきましょう」
レギュラスは迷いなく答えた。
——すべてはアランを守るため。
それだけが、この男を動かす唯一の理由だった。
「……なんだと?」
騎士団本部の会議室で、書類を握りしめたシリウスの声が低く震えた。
仲間が持ち帰った報告書には、たった一行——しかし状況を一変させる文が記されていた。
――法務部、治験に関する一切の実施を“否定”。
逃走者の供述は『精神錯乱による虚言』と正式に見解を発表。
レギュラス。
完全に先手を打ってきた。
「……クソッ……!」
シリウスは壁を拳で叩いた。
衝撃で壁掛けのランプが揺れ、鈍い光を散らす。
これでは、逃走デスイーターの証言は“狂人の叫び”にされるだけだ。
レギュラスは非情なまでの冷静さで、自分たちの切り札を封じてきた。
ジェームズが険しい顔で書類を奪い読み込む。
「さすがだな……レギュラス・ブラック。
治験そのものを消しにきたか」
「……やり方がえげつねぇ」
「だが、読めていた。あいつは“政治で戦う男”だ。
こちらが一歩踏み出せば、三歩先を固めてくる」
シリウスは苛立ちに肩を震わせた。
「これじゃ……男の証言が使えねぇ。
治験が本当にあったことを示す証拠も……」
「ある」
ジェームズの声が落ちる。
「だが……その証拠を使うには、アラン・ブラックの過去を世間に晒す必要がある」
沈黙。
シリウスは拳を握りしめた。
—— アランの過去。
あの地下牢で何があったか。
デスイーターがどれほど酷い仕打ちをしたか。
知ってしまった以上、言葉にすれば、それは“彼女を二度殺す”ようなものだった。
「……ジェームズ。
アランの名を使うのは……違う」
「違う? 正義のためだろう?」
「正義ってのは……誰かの人生を潰して得るもんじゃねぇ!」
シリウスの声は怒りではなく、深い苦悩に濡れていた。
アランの笑顔が脳裏に浮かぶ。
声を失っても、必死に生きようとした彼女の姿が蘇る。
レギュラスがどれほど必死に守ってきたか。
自分が、どれほど彼女を大切に思っているか。
あの子を……あんな風に晒すなんて、自分にはできない。
「シリウス。
僕らは魔法族の未来のために戦ってるんだぞ。
彼女一人のために、全てを止めるのか?」
「……止める」
ジェームズが目を大きく見開いた。
「レギュラスが嫌いだからって…… アランは別だ。
あの子は……守られるべきだ。何があっても」
……アランを踏みにじるような正義はいらない)
「……じゃあ、どうするつもりだ?」
「別の方法でレギュラスを追い詰める」
シリウスは紙束を握り潰した。
その拳には悔しさと、諦めきれない正義と、どうにもならない愛が絡みついていた。
「アランを傷つけるくらいなら……正義なんかいらない」
その一言は、騎士団の空気を凍らせた。
だが同時に、シリウス自身の胸の奥で——
何か、長く隠していた感情が、静かに決壊していく音がした。
玄関の扉を閉じた瞬間、いつもの屋敷の静けさが降りた。
だがその夜は、不思議と胸の奥をざわつかせる匂いが漂っている気がした。
寝室の扉を開くと、そこでレギュラスは一瞬息を呑んだ。
——赤。
ランプの柔らかな金色の光の中、アランが赤いレースのナイトドレスを身にまとい、ベッドの端に腰掛けていた。
淡い翡翠色の瞳が緊張で揺れながら、それでもどこか期待を滲ませて、こちらを見つめている。
大胆な色。
普段のアランからは到底想像できない選択だった。
「……どうしたんです?その格好は」
思わず問いかけると、アランは“にこっ”と満面の笑みを浮かべた。
——それだけで、どうでもよくなった。
入手経路も、意味も、きっかけも、全部。
ただ可愛い。それ以外の感情が出てこなかった。
レギュラスはゆっくりジャケットを脱ぎ、丁寧に椅子の背に掛ける。
カフスボタンを外すと、アランの瞳がそこに吸い寄せられるように揺れた。
シャツのボタンを外した時だった。
ふわり、と背中に小さな温もりが触れた。
アランが、レギュラスの背後からそっと抱きついてきたのだ。
「……どうしたんです?」
驚いて振り向いた瞬間——
アランが背伸びをして、つたなく、それでも勇気を振り絞るように唇をそっと重ねてきた。
温かくて、柔らかくて、可愛くて。
思わず心臓が跳ねた。
キスを終えてアランの顔を覗き込むと、彼女は耳まで真っ赤にして小さく俯いた。
「……どういう風の吹き回しです?」
アランは首をぶんぶんと振る。
そしてレギュラスの手を掴み、そのままベッドへ引いていく。
「誘っているんです?」
聞きながら、レギュラス自身の体温の方が先に跳ね上がっていた。
体調は本当に大丈夫なのか、と一瞬だけ思った。
けれど、アランがレギュラスの上に乗り、戸惑いながらも体を預けてきた瞬間、その思考は吹き飛んだ。
「今日は……あなたが、上?」
そんな言葉を口にしながらも、自分の理性の崩れていく音を理解していた。
この子がここまで“自分に触れたい”と願ってくれるなんて。
その後のアランは、いつもの大人びた静かな雰囲気が影も形もなかった。
ぎこちなく、戸惑いながら、
手の位置も、体の乗せ方もよく分かっていない。
レギュラスがほんの少し動くだけで、すぐに跳ねて赤面する。
その全てが、胸を掴んで離さなかった。
結局、すべての主導権はレギュラスの手に戻った。
アランは息を切らせながら、一生懸命ついてこようとして、何度もレギュラスを見上げた。
その顔が何よりも美しくて、愛しくて、もうどうしようもなかった。
アランの呼吸がゆっくり落ち着くまで、互いの体温を確かめるように寄り添った。
「……急に、どうしたんです?」
レギュラスが尋ねると、アランは杖を取ってベッドの上に小さく文字を書く。
《ウィッチウィークリーの雑誌で、夫婦のマンネリ防止……と読みました》
思わず笑いがこぼれそうになった。
「そんなこと、気にしなくていいんですよ」
するとアランは続ける。
《この赤いドレス、メイラに買ってきてもらいました》
「メイラに……?」
レギュラスは一瞬だけ複雑なため息をついた。
あのマグルの娘が、この用途の服を買いに行くとは。
アランが何のために必要としているかも、当然理解したうえで——。
アランの世界には、自分と、そしてメイラが確かに存在しているのだ。
その事実に、胸のどこかがちくりと痛む。
だが同時に、目の前の愛しい妻がこのドレスを着て、勇気を振り絞って自分を誘ってきた事実が——
全ての感情を塗り替えてしまった。
「……とても、よく似合っていました。
驚くほど、魅力的でしたよ」
アランはまた真っ赤になって、掛け布団の端を握りしめた。
レギュラスはアランの手を取って、そっと口づけた。
その仕草に、アランの肩がびくりと震える。
こんなに愛しい女が、他にいるはずがない。
そう思いながら、レギュラスはアランを抱き寄せた。
朝の光が、薄いレースカーテンを透かして寝室に落ちていた。
まだ少し肌寒い季節のはずなのに——
昨夜の余韻だけが、自分の体の奥の方をじんわりと温めていた。
目を覚ました瞬間、アランは反射的に布団をぎゅっと抱え込んだ。
——思い出してしまう。
赤いレースのドレス。
鏡の前で何度も深呼吸したこと。
メイラが少し心配そうに「本当にいいんですか?」と訊いてきたこと。
そして、寝室に入ってきたレギュラスの顔。
あんなふうに目を見開いた彼を見るのは、初めてだった。
思い出しただけで、身体中が熱を持つ。
恥ずかしくてどうにかなりそうだった。
……なんで、あんなこと、私……
布団の端を握りしめて、頭を潜らせる。
枕に顔を押し付けると、かすかに昨夜の香りが残っていて、胸がまた跳ねた。
レギュラスの驚く顔。
背伸びして奪った、つたないキス。
そのあと彼の上に跨ったとき、自分の心臓がどれほどうるさかったか。
思い出した瞬間——
布団から出るなんてもう無理だった。
アランは枕を抱えて、布団の中でくしゃりと身を縮める。
やっぱり恥ずかしすぎる……。
ウィッチウィークリーの“夫婦マンネリ防止特集”のページ。
あれを読んでしまった自分。
真っ赤なドレスを買うようメイラに頼んだ自分。
結局、誘うどころか途中からレギュラスに全部持っていかれた自分。
……どう見えたんだろうか。
その瞬間、寝室の扉が“コン”と小さく叩かれた。
「アラン、起きていますか?」
飛び上がりそうなほど心臓が跳ね、アランはさらに布団に潜る。
昨夜の後、レギュラスにどう顔を合わせればいいのか、それすら分からない。
けれど扉越しに聞こえた彼の声は、驚くほど優しかった。
「朝食を持ってきました。無理に起きなくていいですよ」
布団の中で、アランは小さく身を丸める。
昨夜の自分があまりにも大胆で、あまりにも可笑しくて、
そして、あまりにも幸せだったから。
だからなおさら、恥ずかしくてたまらなかった。
扉の向こうでレギュラスが続ける。
「……とても、綺麗でしたよ。昨日のあなた」
布団の中で、アランは顔を覆って悶えた。
涙が出そうなほど恥ずかしいのに、なぜか胸はあたたかくて苦しくて。
またあの夜がくるのだと思うと、頬が熱くなる。
布団に潜り込んだまま、アランは声を出せない代わりに小さく枕を抱きしめた。
彼に見せた勇気が、こんなにも翌朝自分を苦しめるなんて。
それでもまたきっと、同じことをしてしまうのだろうと思えた。
アランが数日ぶりに体調をもち直し、ようやく食卓まで来られるようになった夜。
レギュラスは向かい合って座るの様子を見守りつつも、別のところで神経をすり減らしていた。
——メイラ・ウォルブリッジの視線だ。
いつも通り控えめで、決して屋敷の空気を乱さない少女。
だが時折、アランに寄り添うその動きの端々に……何かを“知っている”気配が滲んでいた。
たとえば食後にアランのカップを片付けるとき、
ほんの一瞬だけレギュラスの横目と交差した表情。
驚きでもなく、怯えでもなく。
——妙に気まずげで、どこか察したような柔らかさ。
背筋がぞわりとした。
アランが真っ赤になって布団に潜り込んだ朝。
レギュラスが寝室を出て、シャワー室に向かう途中でメイラと鉢合わせた。
軽く会釈して通り過ぎようとした彼女が、ふと視線を泳がせた。
まるで——
“気づいています。けれど何も言いません”
そんな遠慮深い、だが確かな理解の光。
自分の血の気が引くのが分かった。
いま思い返しても胃の奥がぎゅっとなる。
その日の昼、アランが体調を崩してベッドで横になっていると、
メイラが新しい冷却パックを持って部屋に入ってきた。
その時のメイラの声がまた、微妙だった。
「無理は……されませんように、アランさん」
“無理”の部分だけ、ほんの少しだけ強調されていたのだ。
レギュラスはその場に居合わせていないのに、
なぜかメイラの言葉が妙に胸を刺した。
さらに追い打ちをかけるように、夕食時。
「アランさん、痛みはありませんか?」
とメイラが聞いたのを聞いて、レギュラスはナイフを落としそうになった。
もちろん、彼女は純粋な気遣いのつもりなのだろう。
アランを守りたいだけ。
しかし、その声音にはどうしても——
“昨夜の夫婦の事情をほぼ理解している女の気遣い”
が混ざっていた。
落ち着かない。
居心地が悪い。
自分の胸の奥を覗かれているような気がしてならない。
しかもメイラは、決して口外しないだろうという信頼感があるからこそ……
余計に気まずい。
今夜もアランの薬を取りに部屋を訪れたメイラは、レギュラスを横目に「失礼します」とだけ言って微笑んだ。
その“微笑み”が、また気まずい。
きっと彼女は、アランの体についた痕も、
朝布団から出られなかった意味も、
全部理解している。
しかし翌朝、
アランに薬を飲ませて布団を整えているメイラの横顔は、
あまりにも優しかった。
その優しさが、レギュラスには逆に堪えた。
そう理解しているのに、やはり顔を合わせるたびに胸がざわつく。
アランは気づいていない。
だからこそ、余計にレギュラスだけが一人で落ち着かなくなる。
政治、治験、騎士団、娘の問題。
それらで鋼のように冷静でいられる男が。
——唯一今、完全に勝てない相手は、屋敷に住む静かなマグルの少女だった。
朝、目を覚ますと隣にはレギュラスがいた。
いつも通り、寝起きのくせに整っている横顔。
その静かな呼吸に安心して、そっと腕を伸ばして肩に触れる。
その瞬間だった。
レギュラスの身体がぴくりと小さく跳ねた。
(……?)
まるで、触れてはいけないものに触れられたかのように——
ほんの一瞬、硬直したのだ。
アランは首をかしげる。
寝ぼけているのかと思い、もう一度そっと肩に手を置く。
すると今度はゆっくりとレギュラスがこちらを向いた。
「……おはようございます、アラン」
声は穏やかだ。
けれど、目だけが妙に泳いでいる。
杖を取って、
おはようございます
と書く。
レギュラスは微笑む。
微笑むけれど、その笑みもどこかぎこちない。
いつものような柔らかな余裕がない。
着替えのときもそうだった。
ふと視線を感じて振り向くと、レギュラスがこちらを見ていて——
目が合った瞬間、慌てたように咳払いして目を逸らした。
まるで、やましいことでもあるかのように。
アランはますます首をかしげる。
朝食のあと、いつも通りメイラが片付けをしてくれる。
食器を受け取る際、レギュラスは不自然なほど距離を取った。
メイラは何も言わず、いつもの丁寧な所作で片付けを続ける。
アランは気づかなかったが——
メイラが去った瞬間、レギュラスはかすかに肩を落としていた。
(……???)
昼過ぎ、レギュラスが書斎に行くと言うので、
アランは杖で
いってらっしゃいませ
と書いた。
するとレギュラスは、こちらを振り返りかけて……
止まった。
顔を赤らめて視線をそらし、扉に向かう。
「……今日は早く帰ります」
なぜか声が固い。
アランの中に疑問符がいくつも灯った。
そして夜。
レギュラスが寝室に戻ってきたとき、
アランはベッドに座って彼を待っていた。
レギュラスは動きが硬い。
まるで“家に帰りたての新人”のようなぎこちなさ。
アランはついに堪えられなくなって、
そっとレギュラスの手首を取る。
レギュラスが息を呑む。
アランはゆっくりレギュラスの手のひらに指を走らせる。
今日、一日……どうしたんですか?
レギュラスはその文字を見た瞬間、顔を覆った。
「…… アラン……あなたは、何も……何も気にしないのですか……?」
なにを?
と眉を寄せるアラン。
レギュラスはしばらく沈黙した後、
深いため息を落とした。
「……あなたが、あの赤い……その……」
言い淀む。
「……いえ、その……メイラが……色々……察しているでしょう……?」
やっと言葉を絞り出したその様子に、アランはぽかんとした。
ああ……そういうこと……
ようやくすべて理解した。
朝からの不自然な視線。
ぎこちない態度。
距離の取り方。
昨夜の“赤いドレスの夜”が原因だったなんて。
アランは、思わず笑いそうになってしまった——
もちろん声は出ないから、肩がふるふると震えるだけだが。
その様子を見て、レギュラスはさらに恥ずかしそうに目をそらす。
「……笑わないでください…… アラン……」
アランは手を伸ばし、レギュラスの頬に触れる。
そしてゆっくりと微笑んだ。
大丈夫です。恥ずかしくなんて、ありません。
アランは杖を振った。
レギュラスはしばらく固まったあと、
ようやく胸の奥の“強張り”をほどいて抱き寄せた。
その抱擁は、昨夜の激しさとは違って、
ただただ優しく、温度だけが静かに伝わるものだった。
アランはそんな風に思いながら、
そっとレギュラスの背中を撫でた。
報告を受けたのは、まだ夜明けの色が空に沈んだままの、冷たい早朝だった。
「……死んだ、だと?」
シリウスは椅子から身を乗り出した。
机の上には、騎士団が保護したはずの男——治験から逃げ出した元デスイーターの記録。
つい数時間前まで呼吸をしていた男が、突然、痙攣し絶命したという報告書。
現場にいた騎士団員が震える声で説明した。
「腕の……あの印が、黒く……焼け焦げて……。
身体の中を、何かが逆流するように暴れて……
一瞬で……息絶えました」
その説明で、理解した。
“闇の印”——デスイーターの刻印。
あれはヴォルデモートの魔力が通っている。
忠誠と隷属を示すために刻まれた呪われたしるし。
そしてその印は、
その男に死を流し込む“通路”にもなり得る。
(ヴォルデモート……いや)
シリウスは舌の奥で言葉を押しつぶした。
(――動かしたのは、レギュラスだろう)
ヴォルデモートが勝手に動くはずがない。
あの男は、信頼する数名の助言にしか耳を貸さない。
その中でも——レギュラスブラックは別格だ。
“レギュラスはヴォルデモートの耳元にいる”
魔法界では、誰もが密かにそう噂している。
今回もそうなのだ。
逃げ出したデスイーターが騎士団に駆け込んだこと。
そしてアランの名を出したこと。
その事実をどこかで掴んだレギュラスが、
一呼吸のうちにヴォルデモートを動かした。
——証人は、死んだ。
シリウスの胸に、冷たい刃物のような焦りが走った。
彼はケガ人でも、虐げられた男でもない。
ただの加害者だ。
あの地下牢の罪を重ねた側の男だ。
情けをかける必要は、本当はない。
それでも——胸に残るのは、別の痛みだった。
デスイーターの男が語った“ アランの過去”。
そのすべてを世間に晒して、治験の件を公にする。
それが正しいかもしれない。
だが、それは——彼女の人生を再び“あの地下”の闇に引き戻すことでもある。
あの顔で笑う彼女が、
過去を一生つきまとわれる人生を送るなんて——
想像するだけで胸が潰れそうだった。
こちらが迷ってるうちに、レギュラスは動いた。
レギュラスのやり方は、いつだってそうだ。
容赦がない。
合理的で、正確で、鋭くて。
そして必要とあらば、誰よりも早く“切り捨てる”。
迷いなど持たない。
人を助けるときも、殺すときも、同じ速度で決める男。
彼が動けば、世界が一瞬たじろぐ。
今回もそうだった。
シリウスが迷っている間に——
レギュラスは全てを締め切った。
「……あいつは、本当に……速すぎるんだよ」
呟いた声は、憎しみではなく、苦い 賞賛に似ていた。
あれほど危険な政治の駆け引きの中で、
迷うことなく指揮を取り、
誰にも触れさせず、
すべてを掌の上で動かす。
彼に勝てる魔法族など、どこにもいない。
シリウスは息をついた。
治験の噂は法務部により“根も葉もない”と公表され、
逃げた男は“印の反応による錯乱からの突然死”と処理されるだろう。
騎士団はまた、レギュラス側の盤面に追い返された。
胸の奥で、嫉妬とは違う何かが渦を巻いた。
あの無垢な微笑みの裏で、
妻として、レギュラスと同じ色の罪を背負っていく覚悟をしているのか。
それとも——
まだ彼の冷酷さに気づかずにいるのか。
知りたいのに、聞けない。
彼女は、どこまでその事実を受け止められるのだろうか。
騎士団の廊下に、朝の光が差し込む。
淡い光の中で、シリウスは静かに目を閉じた。
——レギュラスに一手負けた。
それはいつものことだ。
だが今回は、胸の奥がえぐられるように痛んだ。
あの男は、アランを守るためなら……どこまでも冷たくなる。
その冷たさが、今はただ、ひどく眩しく見えた。
晩餐前の柔らかな黄昏の光が、書斎の重厚な机に落ちていた。
レギュラスは静かに封蝋を割り、広げた羊皮紙を読んで眉間に深い影を落とした。
——それは、オリオンとヴァルブルガからの手紙だった。
『ステラの婚約をそろそろ進めるべきだ。
候補と顔合わせを行い、来年のうちには話を固めよ』
代々ブラック家では、これくらいの年齢から婚約話が動く。
貴族の世界ではむしろ遅いくらいだ。
だが、ページを読み終えた瞬間、レギュラスは重く深い息を吐いた。
「……頭が痛くなってきました」
手紙を閉じ、アランの方へ向き直る。
アランは彼の隣で、いつもの優しい眼差しで筆談の準備をしていた。
レギュラスは羊皮紙を差し出しながら、肩をすくめる。
「あなたみたいにもう少し柔らかさがあればいいんですけどね」
その声には、ほんの少しだけ苦い笑いが混じっていた。
アランは目を伏せ、手紙を読み終えると静かに眉尻を落とした。
まるで胸の奥で何かがきゅうっと縮むのを感じたかのように——。
レギュラスは続ける。
「容姿は……限りなくあなたに似ているのに。
どうしてああも違うんでしょうね」
言ってしまってから、少しだけ後悔した。
娘を責めたいわけではない。
ただ、正直に感じている“難しさ”が胸の奥で重く渦巻いていた。
ステラは美しい。
アラン譲りの肌、髪、瞳。
細く整った指先ひとつとっても、純血の中でも際立つ品と華やかさを持っている。
だが——問題はそこではない。
愛嬌がない。
人を寄せ付けない。
選民思想があまりにも強い。
同年代の子どもたちの間でさえ、笑顔の輪には入ろうとしない。
自分より劣ると感じる相手には露骨に興味を示さず、
上位の貴族に対しても遠ざけるような冷たい態度を取る。
あれで婚約など、うまくいくだろうか。
レギュラスは机に肘をついて、こめかみを押さえた。
「……ステラのあの態度では、貴族の間でどう見られるか……。
場合によっては——貰い手がいないかもしれない」
その言葉に、アランの肩がびくりと揺れた。
アランはステラに心から愛情を向けてきた。
どれほど冷たくあしらわれても、
どれほど拒絶されても、
それでも娘を愛そうとしてきた女だ。
その胸の奥を刺すような言葉だっただろう。
アランはゆっくりと杖を取って書いた。
『……ステラは、やさしい子です。
本当は……寂しいのだと思います』
レギュラスはその文字を見て、一瞬、目を伏せた。
アランの優しさは、時に痛烈なほどだった。
「……そうかもしれませんね」
小さく返しながら、彼は心の中で別の思いを噛みしめていた。
ステラはアランの“美しさ”をそのまま受け継いだのに、
アランの“柔らかさ”は受け継がれなかった。
母は声がないからこそ、
一つひとつの表情がどれほど大切に紡がれているのかが伝わる。
対してステラは——
言葉を持って生まれたのに、
その言葉を刃のように使う。
同じ姿をした母娘で、どうしてここまで違うのか。
レギュラスはそっとアランの手に触れた。
アランは驚いたように瞬きをして彼を見つめ返す。
「……あなたのように優しい心を、
あの子もいつか持てるといいんですがね」
アランは微かに切なげに笑った。
声のない笑みは、雪の上にそっと落ちる月明かりのように儚い。
レギュラスはその横顔を見ながら思う。
——ステラは、まだ誰も愛したことがないのだ。
だから、娘は世界が敵に見える。
世界に冷たく振る舞わなければ、自分を守れないのだ。
いずれ誰かを深く愛したときに、
初めて“柔らかさ”というものを知るのだろう。
それはいつになるのか、誰なのか——
想像もつかない。
ただ確かなのは、
父と母が歩んだ苦しい道とは、
まったく別の道を歩ませたいという願いだった。
「会わせるべき候補は……僕が選びましょう。
あの子に釣り合う者がいるとは思えませんが」
レギュラスの言葉に、アランはそっと頷いた。
夕刻の光が二人の影を長く伸ばす。
その影の端で、ステラという少女の未来が、
静かに揺らめいていた。
昼下がりの柔らかな陽光が、法務部長執務室の重厚な書棚を淡く照らしていた。
レギュラスは静かに溜息をつきながら、机に積み上げた書類の束を一枚一枚開いていく。
——婚約候補者リスト。
純血貴族の家柄、財産、血統、魔法的能力、将来性。
ブラック家に釣り合い、“ステラ”という少女を受け入れられる器を持つ者。
すべてを満たす者など、そうそういるはずがない。
そんなことは重々承知しているつもりだったが——
いざ探し始めてみれば、予想を遥かに上回っていなかった。
「……これでは、誰も残らない」
気づけば三十人ほどいた候補は、五分の一以下にまで削れた。
魔法的能力は申し分ないが、家柄が弱い者。
家柄は完璧だが、性格が問題視されている者。
財政状況が良くとも、親族構造に不安がある一族。
そして何より——
……ステラの気質に耐えられる、あるいは釣り合う者となると……。
胸の奥で、また深い溜息が漏れる。
アランのような柔らかさを持つ相手なら、まだ希望はあったかもしれない。
だがステラは、ほとんどの青年が一瞬で尻込みするほどの冷ややかさを持っている。
出生も、環境も、価値観も関係なく——
彼女の瞳は氷よりも鋭く、氷よりも脆く、そして冷たい。
その鋭さの理由を理解できるからこそ、レギュラスは胸が重かった。
自分とアランの間に生まれ、愛を受けとるはずだった少女が、
なぜあれほどまでに固く閉じてしまったのか。
そして今、その閉じた心を解きほぐせる相手を探す。
どれほど矛盾だらけの作業だろう。
「……ステラを、どうすればいいのか」
思わず口に出した呟きは、部屋の静寂に吸い込まれるだけだった。
候補の資料を読み進めるうち、
レギュラスはふと一人の青年の名で手を止めた。
「……ロイ・フロスト……?」
血統は悪くない。
学業成績も優秀。
魔法薬学の知識も深く、将来は魔法薬省にも推薦されている。
——だが。
レギュラスは宙を見つめた。
……明るすぎる
ロイ・フロストは非常に社交的で、友人も多く、
男女問わず評判の良い青年であると記されている。
つまり、ステラとは正反対だった。
正反対の者同士が惹かれ合うこともある。
しかし、あの娘の閉ざされた心を思えば——
あまりにも隔たりが大きかった。
……ステラが彼を刺すだろう。
本気でそう思った。
レギュラスは紙をそっと横に置き、額に手を当てた。
「……だめだ。これでは……埒が明かない」
結局のところ、
ステラの婚約という問題は、極めて個人的で複雑な“家族の傷”が関係している。
魔法省の政治問題より厄介だと、心底思う。
夕刻になり、屋敷へ戻ると、
いつも通りアランが柔らかい笑みで迎えてくれた。
その瞬間、レギュラスは胸の奥がきゅっと縮んだ。
……あんなに優しい母の元に育ちながら、
なぜステラはこうも孤独を選ぶのか。
夕食の後、アランが湖水色の寝間着姿で紅茶を用意しているのを眺めながら、
レギュラスはぽつりと呟いた。
「…… アラン、ステラのことなんですが」
アランはカップをそっと置き、こちらを見る。
「……婚約の件、候補を探しているのですが……。
なかなか、うまくいきません」
アランの瞳が、微かに揺れた。
レギュラスは続ける。
「……釣り合う者がいない、というより……
あの子が心を許す相手が、想像できなくて」
アランはゆっくり杖を取り、震える指で文字を書く。
『ステラは……優しい子です。
まだ……見つけられていないだけです』
レギュラスはその文字を見て、胸が少しだけ痛む。
「……そう願いたいですね」
けれど、父としては不安を拭えなかった。
娘は愛を知らない。
愛され方を知らない。
誰かの差し伸べる手を拒み、
拒むことでしか自分を守れない少女に成長してしまった。
そんな娘を誰かに託す——
それは、想像以上の苦しみだった。
夜更け。
レギュラスは寝室の隅に置かれた婚約候補の資料を見つめながら、
ひとり静かに思う。
……ステラを、誰かに委ねる日が来るのだろうか。
答えは出ない。
けれど父として、妻のためにも、娘の未来のためにも——
探し続けなければならない。
それが、レギュラス・ブラックという男の背負った義務だった。
鏡の前に立つと、映った少女はまるで誰か別人のようだった。
淡い黒の髪は母アランの手で丁寧に結い上げられ、
頬には薄く薔薇色が刷かれ、睫毛には繊細な影が落ちている。
身に纏ったドレスは深い葡萄色——
母の選んだその一枚は、ステラの翡翠の瞳をいっそう艶やかに引き立てていた。
完璧だった。
どこから見ても「ブラック家の娘」に相応しい美しさ。
しかし、その完璧さはどこまでも——外側だけだった。
ステラは、鏡に映る自分を冷たく見つめた。
……よく似ているわ、母さんと
骨格も、雰囲気も、眼差しの深さも。
誰もがアランの面影をそこに見いだすだろう。
だが、母とまったく違うものが一つだけあった。
この瞳には、誰にも寄り添わない“思想”が宿っている。
アランの瞳は、誰にでも向けられる優しさで満たされている。
傷ついた者に寄り添い、弱い者を救い、
自分を虐げた世界にさえ、もう刃を向けない。
——だからこそ、ステラには理解できない。
弱さの中に同調し、誰かの庇護のもとで愛を乞うように生きるなんて。
そんな生き方をするくらいなら、
誇りを抱いたまま一人で死ぬ方が、よほど潔いとすら思う。
ステラはゆっくり目を伏せる。
胸の奥に硬く凝った結晶のような感情が沈んでいた。
……ロイ・フロスト、ね
父と母が選んだ婚約候補——
ついに顔合わせまで決まったらしい。
それを聞いた瞬間、ステラはただ、ふっと冷たく笑った。
自分の将来を本気で案じてのことだろう。
ステラの将来が孤独にならないように。
家が、血が、誇りが、途切れないように。
両親なりの“愛”なのだと分かっている。
けれど。
この家の人間は、どうしてこうも「愛」を中心にして世界を見ようとするのだろう。
母は——
幼い頃から閉ざされた地下牢で孤独に耐え、
一歩間違えれば死んでいたはずの少女だった。
そんな母が生き延びたのは、
ただ一人、レギュラスという“圧倒的な存在”に見初められたからだ。
母の人生は、父ありきで成り立っている。
父がいなければ、母は生き方すら選べなかった。
そんな“危うい救い”を、ステラは直視できずにいた。
たとえ幸せそうに微笑んでいても、
その笑顔が、誰か一人の存在に依存しているようで——
恐ろしくて仕方がなかった。
幼い日。
母の愛はステラにだけ向いていたわけではない。
アルタイルが生まれれば、家族も世間も、
まだ幼かったステラの存在は薄く霞んでいった。
さらに、メイラというマグルの少女が屋敷にいた。
母はその少女にも深い愛情を注いだ。
——自分へ向くはずだった愛が、次々と分散されていく。
ステラの幼少期はただ、それを静かに見ているしかできなかった。
だから悟った。
愛を求めるのは、虚しい。
誰かに縋るのは、負けだ。
唯一の愛など存在しない。
そして——
父にも、かつて女がいた。
セラ・レヴィントン。
薄汚れた混血女。
ステラの視点から見れば、父が気まぐれに手を伸ばした“愚かな遊び”でしかない。
……父の愛だって完璧じゃない。
そんなものが信用に値するわけないのだ。
恋愛も、婚約も、信頼も——
そんな脆いものに人生を賭ける愚かさを、ステラは嗤った。
ロイ・フロストとの顔合わせが迫る。
ステラはもう一度鏡を見つめた。
美しい少女が映っていた。
けれど、その胸の奥には——
誰の愛にも染まらない、
たった一つの冷たい誇りが静かに立っていた。
……来るなら来ればいい。
父と母の選んだ“花婿候補”とやら。
笑みは、花のように柔らかく。
しかしその奥には、刃物のような冷たさがひっそりと光っていた。
レストランの個室に案内されるまでの数分、
ロイ・フロストはほとんど会話の内容を頭に入れていなかった。
緊張していたのではない。
フロスト家の跡取りとして、婚約話の席などこれまでいくつも経験してきた。
完璧に礼儀を尽くし、完璧に微笑み、
完璧に淡々とこなして帰っていけばいい——
いつもそうだった。
だが今日は違う。
相手が「ブラック家」の一人娘となれば話は別だ。
純血一族の中でも、もっとも特異で、もっとも“美しく、危険”な血筋。
特にレギュラス・ブラックの名は、若い魔法族の間でも畏怖と尊敬を同時に帯びて語られる。
……その娘と会うのか
そう自分に言い聞かせながらドアをノックした。
