3章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
その夜、レギュラスの放った静かな言葉のひとつひとつが、胸の奥に沈殿していた。
やわらかな声色で告げられたはずなのに、まるで見えない手で心臓をそっと掴まれたような感覚があった。
──この屋敷には強力な結界が張られていて、侵入者の魔力痕はすべて残る。
その言葉の裏に、レギュラスが何を感じ取っているのかは、聞かなくても分かってしまった。
彼はほんとうに、いつだってすべてに気づいてしまう。
気づかないふりをしても、彼の洞察は鋭く、深く、決して誤らない。
シリウスが来たこと、気づいているかもしれない。
そう理解した途端に、胸が強く締めつけられた。
けれど、言えなかった。
言おうと思えば、今すぐ杖を取って告げられたのに──
喉の奥がぎゅっと細くなったように、何も出せなかった。
レギュラスは追及してこなかった。
問い詰められもしなかった。
その沈黙に甘えてしまったといえばそうかもしれない。
けれど、それだけではなかった。
──シリウスが言おうとした、あの言葉。
その意味を、ほんの少しだけ理解してしまった。
あの瞬間感じた微かなざわめきを、誤魔化しきれなかった。
「もし……もしもだ。
俺がお前を幸せにしたいんだって言ったら……お前は苦しむか?」
あの言葉は、軽い冗談でも酔った思いつきでもなかった。
シリウスの瞳の底にあったのは、真剣で、痛むほどの誠意だった。
それを、レギュラスに伝えるなんて──できるはずがなかった。
彼と自分だけの間に落ちた言葉を、
誰かに漏らすことは、
裏切りでもあり、礼節を欠くことでもあり、
なによりシリウスの気持ちを踏みにじることになると思った。
隠し事でも、やましさでもない。
胸の中で、静かにつぶやく。
ただ──
シリウスがくれたあの瞬間を、
勝手に他人の手に委ねてしまいたくなかった。
彼の真摯な気持ちを、自分以外の誰かが裁くことも、軽んじることも許したくなかったのだ。
レギュラスの隣で、アランはそっと視線を伏せた。
薄明かりの中で、夫の指先が自分の手を優しく包んでいる。
それなのに心の片隅には、まだ温かく震えるように、シリウスの言葉が残っていた。
その静かな震えを抱えたまま、
アランはそっとレギュラスの肩に頭を預けた。
沈黙を選んだ理由を、
いつかこの人は理解してくれるだろうか──。
願いにも似た思いだけを胸に、
アランは深く、ゆっくりと息を吐いた。
アランが決して語ろうとしないもの。
それを問い詰めないと決めたのは自分だ。
だというのに、胸の底で膨らんでいくざわつきを止められなかった。
――シリウスが来たのだ。
それは確信に近い直感だった。
アランのわずかな肩の強張り。
自分の言葉に対する微かな呼吸の乱れ。
そして、結界の話をした時にふと落ちた沈黙。
アランはシリウスの来訪を話さなかった。
話せなかったのだろう。
理由も分かる。あの男の言葉の重さを知ってしまったのだ。
シリウスはアランの前では、いつも真っすぐで、優しくて、
レギュラスには持てない光を持っている。
その光が、アランの胸に影を落としたのかもしれない。
――考えるな。
言い聞かせても、思考は勝手に膨らんでいく。
アルタイルの入学準備の時。本当に二人だけで行ったのか。
父の誕生日の日、アランがわずかに遅く帰った夜。
療養中、庭で誰かと話していた影――あれはただの見間違いか。
シリウスが議会帰りにアランの名を出したあの日から、
レギュラスの胸には薄い裂け目が走っていた。
ステラは冷たく尖り、
騎士団はレギュラスの声明に牙を剥き、
魔法薬開発は今まさに国を揺らし、
マグルと手を組んだ魔法族の調査は泥沼化し、
女の一族は見つからず、警務部は暴走寸前――
積み重なった重圧が、胸の奥で粉々になり始めていた。
抑え込んだ疑念は毒に変わる。
毒は喉を焼き、心を焦がす。
冷静さを奪い、理性を蝕む。
その夜、レギュラスはアランを抱き寄せた。
少し乱暴なほど強く抱きしめ、
そのまま押し倒すように身体を重ねた。
求めることを我慢しない触れ方だった。
痛みも、息の乱れも、いつものように慎重には確認しなかった。
アランのか細い喘ぎが喉奥で震えるたび、
レギュラスの胸に渦巻く何かが、さらに煮えたぎった。
――確かめたい。
この手で抱いたのは誰だと。
愛しているのは誰だと。
触れられることを許すのは、誰なんだと。
アランは声を上げない。
ただ必死にしがみついて、腕を絡めてくる。
その健気さが、レギュラスの胸をどうしようもなく締めつけた。
セラといた時のような、
暴れ火のような欲望だけの行為ではなかった。
むしろ、
愛しすぎて壊れそうなほどの感情
それが暴力性すら帯びてしまっていることが恐ろしかった。
自分の中に、こんな性質が潜んでいるとは――
レギュラスは思い知らされる。
アランを傷つけたくない。
それでも抱きしめる腕に力が入ってしまう。
離れたくなくて、息が苦しくなるほど求めてしまう。
混ざり合う焦燥と愛と嫉妬が、
底なしの沼のように足元から引きずり込んでくる。
アランの指先が、背中にぎゅっと食い込む。
小さな震えが伝わる。
その一つ一つが、レギュラスの荒れた心を少しだけ溶かす。
けれど同時に、罪悪感が胸を刺す。
――こんな抱き方しかできない自分に、失望する。
それでも、やめられなかった。
アランがそこにいて、触れて、応えてくれて。
静かに受け止めてくれた。
ただそれだけで、
世界の全てから救われたような温かさがあった。
行為の最中、レギュラスは何度もアランの髪に口づけた。
頬に触れ、額に触れ、喉元に触れ。
愛している、と何度も心の中で呟いた。
声には出せない。
出したら、何かが壊れてしまいそうだった。
今の自分では、言葉を支えきれないほどに感情が溢れすぎていた。
終わったあと、アランが胸に顔をうずめてくる。
小さく震える肩を抱きしめながら、レギュラスは思う。
――この人を、誰にも渡したくない。
その瞬間、
自分の中に潜む加虐性の影と、
どうしようもないほど深い愛情が、
ひどく残酷な形で重なり合った。
これではいけない。
これに頼ってしまえば、きっと癖になる。
アランを傷つけるたびに、愛しさでごまかしてしまうような――
そんな自分に堕ちてしまいそうで。
けれど、アランの温もりを抱きしめるたびに思ってしまう。
この人がいれば、生きていける。
この人がいなければ、もう立っていられない。
愛しすぎるというのは、こんなにも苦しいのかと。
レギュラスは静かに目を閉じた。
朝の光がゆっくりとカーテンの隙間から差し込み、
薄桃色の光が寝室の白い壁をそっと照らしていた。
アランは、目を開ける前から身体の奥が鈍く痛むのを感じていた。
昨夜の全てが、体温としてまだ生々しく残っている。
けれど、不思議と嫌悪はなく、ただ胸の奥がぎゅうと締めつけられるような切なさだけがあった。
隣では、レギュラスが浅い呼吸で眠っている。
いつもなら乱れない黒い髪が、額にはらりとかかって、
眉の間には薄く皺があった。
まるで寝ている間でさえ何かを抱え込んでいるような、
そんな表情だった。
――疲れているのだ。
アランはそう思った。
昨夜のことを思い返し、胸がちくりと痛む。
求められるままに抱かれ、
腕に力が入りすぎていたことにも気づいていた。
レギュラスは優しさを失ったわけではない。
ただ、余裕がなかったのだ。
そのことが、逆にアランを苦しくさせた。
ゆっくりと体を起こそうとすると、
レギュラスが小さく呼吸を乱しながら目を覚ました。
「…… アラン」
掠れた声だった。
眠る前よりずっと弱い声音。
アランを見るなり、胸に手を伸ばしてくる。
その指先が触れた瞬間、
レギュラスの瞳に一瞬、深い後悔と痛みが走った。
「……痛みませんか?」
その問いに、アランは首を横に振った。
本当は痛む。
けれど、それを伝えたらレギュラスがさらに自分を責めてしまう。
それが何よりも辛かった。
杖を伸ばし、寝台の上で文字を描く。
大丈夫。昨夜のあなたが、嫌ではなかったです。
レギュラスはその文字を一文字一文字なぞるように目で追い、
ゆっくりと息を吐いた。
ほっとしたようであり、
同時に胸の奥を刺されたような罪悪の滲んだ呼吸だった。
「……あれは。
あんなふうに求めるつもりじゃなかった」
言葉が喉でつかえる。
普段なら決して崩さない冷静さが、そこにはなかった。
アランの沈黙は、責めているわけではないのに、
レギュラスには責められているように感じてしまった。
アランはそっと手を伸ばし、
レギュラスの髪に触れた。
ただ、それだけでレギュラスは息を吞む。
ゆっくりと文字を描く。
あなたのせいではないです。
わたしは大丈夫。
だから――そんな顔をしないで。
レギュラスはアランの手首をそっと包むように掴んだ。
その力は昨夜とは真逆で、
壊れ物に触れるように恐る恐るだった。
「…… アラン。
あなたに嫌われたら、僕は――」
そこから先は言葉にならなかった。
言えば、脆さが露わになってしまう。
それを認めることが、どうしても怖かった。
アランはただ静かに首を横に振り、
彼の胸に額を寄せた。
レギュラスの腕がそっとアランの背を包む。
その抱擁は、昨夜のような激しさは微塵もなく、
かえって痛いほど優しかった。
外の世界はもう政治と争いで満ちている。
息をするだけで鋭い棘が肺を刺すような毎日だ。
だからこそ、この数分の沈黙は、
互いの体温だけが真実になる貴重な時間だった。
しかし、
アランは知っている。
レギュラスの中でまだ焦燥は消えていない。
そして、
レギュラスも知っている。
アランがシリウスの来訪を言わなかった理由を、
まだ完全には理解しきれていない。
二人の間には確かに“愛”があった。
けれど朝の光の中、
その愛の影が細く長く伸びていた。
午後の陽光が、屋敷の回廊を淡い金色に満たしていた。
仕事へ戻る前にアランの様子を見ておこうと、レギュラスは静かに寝室の扉を開けた。
アランは窓辺の長椅子に座り、
柔らかい膝掛けを抱きしめたまま本を読んでいた。
光に照らされた淡い髪が、薄い金糸のように輝いている。
その姿を見るだけで、胸の奥がじんと温かくなる――
はずだった。
だが、目が慣れるにつれ、
レギュラスの視線は自然とアランの肩へ吸い寄せられた。
膝掛けがずり落ち、
無防備に露わになった肩。
その白い肌の、ちょうど鎖骨の下あたりに――
指の跡が薄く残っていた。
昨夜、必死に抱き寄せたときに付けた跡だった。
レギュラスは一瞬、息が止まった。
喉の奥がぎり、と軋む。
胸の深いところで冷たい痛みが広がる。
そこには、あの夜の激情の証が、
あまりにも鮮明に刻まれていた。
アランは気づいていないようだった。
ページをゆっくりめくり、
ただ穏やかに、静かに息をしている。
――こんな跡をつけたかったわけではない。
こんな女ではなく、
もっと大切に抱きしめたかったはずだ。
声を奪われた少女を、
あの日地下牢で初めて抱き上げたときのように。
「アラン」
声が自然と掠れていた。
アランが顔を上げる。
微笑もうとしたその唇が、
光の加減で少し震えて見えた。
レギュラスは無意識に近寄り、
そっと肩に手を伸ばす。
跡に触れることが怖くて、触れられない。
指先が震えていた。
「……痛みませんか」
ようやく出た声は、
自分でも驚くほど弱々しかった。
アランは少し目を瞬かせ、
杖を取り出し、膝の上に文字を描く。
痛くないです。大丈夫。
優しい文字だった。
肩につけた痕のように、
痛みを隠すための震えは一切なかった。
その優しさこそが、胸を刺した。
アランは、痛みを言わない。
悲しいときも言わない。
苦しいときにも、何も言わず微笑んでくれる。
だからこそ――
守れなかったときの罪悪感は、
鋭く深く、レギュラスの心臓を抉る。
レギュラスは跡の少し上にそっと指を落とした。
触れても痛みはない場所。
肌は薄くて、柔らかくて、
いつか地下で抱き上げたあの体と同じだ。
「…… アラン。
本当に、あなたを傷つけるつもりはなかったんです」
アランは首を横にふる。
その仕草は、言葉よりも優しかった。
けれど――
昨夜の自分を思い出すと、
どうしても視線を彼女から逸らせなくなる。
嫉妬、焦燥、恐れ、
それらを抱えたまま彼女を抱いた。
あれは愛だけではなかった。
だから、胸がつぶれそうだった。
「……僕は、あなたに酷かった」
ようやく口にした瞬間、
アランの瞳に驚きと悲しみが走った。
レギュラスは続ける。
「あなたが沈黙していても……
耐えてくれても……
それに甘えていいはずがないのに」
アランはゆっくりと立ち上がり、
軽い足音を立ててレギュラスの胸元まで歩み寄った。
そして、
胸にそっと額を預けた。
何も言わない。
ただ寄り添って、呼吸の温度を共有してくる。
その沈黙が、
レギュラスにはたまらなかった。
――こんなふうに許されたいわけじゃなかった。
けれど許されてしまう。
それがまた、胸を締めつける。
レギュラスはアランの背に手を回し、
そっと強く抱き寄せた。
昨夜とは違う、
本来求めていた優しさで。
「…… アラン。
僕は、あなたを本気で愛しています。
だからこそ……昨夜の自分が怖い」
アランはそっと胸に指で文字を書く。
わたしは、怖くなかったです。
あなたを愛しているから。
レギュラスは目を閉じた。
喉の奥が熱くなり、
もう少しで声が震えてしまいそうだった。
彼女の愛情は、やさしすぎて、儚すぎて、
抱けば抱くほど壊してしまいそうだった。
だからこそ、
この肩についた小さな跡は、
レギュラスにとって刃物より鋭い痛みだった。
書類の山の向こうで陽光が白く滲んでいた。
昼休憩をとうに過ぎた執務室は静かすぎるほど静まり返り、
レギュラスはずっと同じ行を読み返していた。
頭に入らない。
肝心な箇所に差し掛かるたび、
昨夜のアランの“肩の跡”がまた浮かんでくる。
指の形をしたあの赤み。
強く抱き寄せすぎた瞬間の記憶。
アランが声もなく震えていたこと。
ほんのわずかに触れただけでも
壊れてしまいそうな、
あの白い肌に。
レギュラスはゆっくり、息を吐いた。
喉の奥が熱く重い。
――自分は、あの人に何をしたのだ。
愛していると言いながら、
焦燥と嫉妬と不安を押しつぶす形の行為で埋めようとした。
そこにあったのは欲望か、衝動か、
それともセラとの過去の名残か。
考えたくない言葉が
ひとつずつ形になって胸の奥を汚していく。
セラとの夜の記憶が蘇る。
欲望をぶつけることしか目的がなかった行為。
互いの孤独や虚無を埋めるための、
あまりにも空虚で暴力的な熱。
その影が、昨夜の自分の中に確かにあった。
アランには見せたことのない、
見せてはならないはずの自分の暗部。
レギュラスは顔を覆った。
手のひらに爪が食い込むほど強く。
―― アランは、恐れていただろうか。
――自分を避けるだろうか。
――もう触れられたくなかっただろうか。
胸がぎゅっと縮む。
心臓が脈を打つたび、罪悪感が血のように巡っていく。
アランは、いつだって何も言わず耐えてしまう。
痛みも、悲しみも、
声がないから言わないのではない。
“言わない強さ”を持ってしまっただけだ。
だからこそ、昨夜の沈黙が怖かった。
しがみつく細い指が震えていたことも、
必死に息を整えていたことも、
夕方には跡が薄くなっていたことも。
愛しているのに。
守りたいのに。
誰より大切なのに。
その全てが矛盾するような行いを
自分の手でしてしまった。
机の端に手をついた。
冷たい木の感触が掌を通じて現実に引き戻す。
――セラとは違う。
―― アランは、違う。
――同じに扱ってはならない。
なのに、一瞬でも重ねてしまった自分がいた。
それが耐え難いほど苦しかった。
扉の向こうで、
控えめにノックする音が響く。
「長官、書類の確認を――」
「あとにしてください」
声が低く震え、思わず自分で驚いた。
部下は何も言わず、扉を閉じる。
静寂が戻った瞬間、
胸の真ん中にある“痛みの核”がずきりと脈打つ。
あの白い肩に残った自分の跡。
アランの小さな微笑み。
「痛くない」と告げる優しい文字。
全部が胸を締めつけ、
息が浅くなる。
レギュラスはゆっくり目を閉じた。
――あの人を傷つけたくない。
――たとえ、自分自身を否定することになっても。
――二度と、昨夜のような抱き方はしない。
その決意だけが、
今の自分を辛うじて支えていた。
夜の静寂は、屋敷全体が息を潜めているかのようだった。
廊下を歩くたび、靴音がやけに大きく反響する。
寝室の扉の前で立ち止まり、レギュラスは一度、深く息を吸った。
――今日は、言うつもりだった。
――昨夜のことを、きちんと謝ろうと。
扉を開けた瞬間、柔らかいランプの光の中、
アランがゆっくり振り向いた。
薄い寝衣の袖口から伸びた白い腕に、
昨夜つけてしまった痕はもうほとんど消えているように見える。
けれど、それが余計に胸を締めつけた。
「あの……」
言葉が喉の奥でつかえる。
すぐ近くにいるはずの妻までの距離が、
どうしてこんなに遠く感じるのだろう。
アランは首をかしげ、
“聞く準備があります”とでもいうように
静かに身を向けてくれる。
レギュラスは、そこに飛び込む勇気が出なかった。
――謝れ。
――昨夜のことを正しく言葉にしろ。
――彼女に怖い思いをさせたことを認めろ。
心の中で自分に何度も命じても、
言葉は喉につかえ、石のように動かない。
「…… アラン……」
名前を呼んだ瞬間、
アランはそっと両腕を広げた。
その仕草は、驚くほど優しくて、
責める気配なんて一欠片もなくて、
“わたしは大丈夫だから”という微笑みだけを湛えていた。
その優しさが、レギュラスには地獄だった。
謝罪を受け取る準備をしているのではない。
ただ、傷ついた自分を包み込もうとしてくれている。
胸が痛む。
本当に痛い。
息が詰まり、膝が折れそうになる。
「…… アラン……」
その瞬間、レギュラスは敗北した。
謝罪という責務を捨て、自ら逃げるように、
その腕の中へ飛び込んでしまった。
アランの体温の中に潜りこむと、
押し殺していた衝動が津波のように溢れてくる。
言葉ではなく、行為で埋めようとする最悪の逃避。
それが自分でも分かっているのに止められない。
唇を押し当て、
腕で抱き寄せ、
まるで“言葉の代わりに暴く”ように触れた。
アランは痛みに顔をしかめながらも、
拒まなかった。
ただ両腕を背中に回し、震えを受け止めてくれた。
それが余計に、レギュラスを追い詰めた。
――なぜこんなにも優しい。
――なぜ、責めてくれない。
――なぜ、許す顔をする。
セラといたときには、
行為に罪悪感など一度も抱かなかった。
彼女はただ逃げ場で、自分も彼女も互いの空虚を埋めただけだった。
なのに、
アランを抱くと胸が痛む。
愛しているからこそ、
抱きしめるたびに恐ろしくなる。
アランの肌に触れるたび、
昨夜の痕が、
自分の弱さが、
逃げたという事実が、
何度でも胸を刺した。
行為は流れるように深まり、
刹那の熱が二人をのみ込んでいく。
その最中でさえ、レギュラスは思った。
――これは愛の形ではない。
――これは逃避だ。
――また同じ罪を重ねている。
それでも止められなかった。
アランが抱きしめ返してくれたせいで、
自分の弱さが加速してしまった。
終わったあと、
レギュラスはアランの肩に顔を埋めたまま、
震える呼吸を整えることしかできなかった。
謝りたいのに言えなかった。
反省したいのに行為に逃げた。
彼女を愛しているはずなのに、彼女を傷つける。
その矛盾すべてが、
胸の奥で鉛のように沈んでいく。
アランはそっと髪を撫でた。
慰めるように。
赦すように。
あるいは、ただ寄り添うように。
それがまた、
レギュラスの胸をひどく締めつけた。
――こんなにも弱い自分を、
いつまで隠せるだろうか。
昼過ぎ、法務部の執務室に戻ると、バーテミウスが珍しく落ち着きのない様子で待っていた。
書類を握る指先が白く強張っている。
ただならぬ気配は、部屋に入った瞬間に肌へ刺さるように伝わってきた。
「レギュラス、これは……大変ですよ」
声はかすかに震えていた。
レギュラスはゆっくりとマントを払って背もたれの高い椅子へ腰を下ろす。
「何事です」
抑えた声音は静謐で、しかし底に鋼のような緊張が潜む。
バーテミウスは迷いなく一枚の報告書を差し出してきた。
目を通した瞬間、レギュラスの周囲の空気が、音もなく沈んだ。
治験に回したデスイーターの一人——
逃走。
それだけだった。
けれど、それだけで十分に、喉の奥にひやりとした氷柱のような怒りが現れる。
その男たちの治験結果についても書かれていた。
一人は死亡。
数名は重篤。精神反応の異常も複数。
ページを繰る指先は穏やかなのに、落ちる影だけは深まっていく。
——生ぬるい。
胸の底から、ひたすら冷たい感想が浮かび上がる。
アランがあの地下で受け続けた仕打ちを思えば、
死でもなお軽い。
苦しみの数だけ還元してやっても足りない。
あの少女が声を失うほどの恐怖と暴力の中で生き延びた年月を思えば、
苦しみのいくらかを味わって死んだところで、
償いにもならない。
報告書を閉じると、レギュラスの眼差しは凪のように静かだった。
だが、その静けさは嵐の前のそれだ。
「……逃げたのは、どの男です?」
バーテミウスが名を告げる。
聞き覚えのある名だった。
記憶の中の地下牢の扉が開き、汚らしい手がのび、
アランの細い首を掴み——
声なき少女が震えていた光景が、鮮明に蘇る。
呼吸が一度だけ深く沈み、すぐに整えられた。
「行き先の当たりは?」
「まだです。ですが……レギュラス、早急に洗います。魔力痕を辿れば、数日はかからないでしょうね」
「数日もいりません。今日のうちに範囲を絞りなさい」
低い声は、炎ではなく氷だった。
淡々としているのに、聞く者の背筋を凍らせる冷たさがある。
「……はい。しかし、死亡者も重症の者も多く、治験の負荷は予想以上に……」
「問題ありません」
一刀両断に切り捨てられる。
愛する妻に暴力を加えた者たちだ。
“治験に回してやった”だけでも寛容の極みなのだ。
そのうち一人が逃げたというなら、
残った命のすべては徹底的に回収しなければならない。
レギュラスは立ち上がり、マントを払う。
その動きは整然と美しく、けれど底知れない怒気を含んでいた。
「逃走犯の行き先は、必ず洗い出せます。
見つけたら、即座に拘束を。抵抗した場合は——」
言葉を切る。
バーテミウスが息を呑む。
レギュラスは薄く笑った。
美しく整った、しかし冷ややかすぎる笑み。
「処分して構いません。
……結果は報告だけでいい」
アランの痛みを返すためなら、
犯罪者たちの命など一つ残らず灰にしていい。
あの少女の涙に比べれば、
彼らの犠牲など、あまりに軽い。
「急いでください、バーテミウス」
「…… すぐに」
部屋を出て行くバーテミウスの背中が、
わずかに震えていた。
レギュラスは報告書に視線を落とし、
ゆっくりと瞼を閉じた。
胸の奥の冷たい怒りは、静かに澱のように沈んでいく。
——逃がさない。
—— アランを傷つけた者は、すべて。
その決意は、言葉ではなく、
血のように濃い沈黙の中で固められていった。
息が荒い。
肺が焼けつくように痛い。
それでも走るのを止めることはできなかった。
いま止まれば、追いつかれる。
追いつかれれば、終わる。
——レギュラス・ブラック。
その名を思い出した瞬間、背中に冷水を浴びせられたような悪寒が走る。
魔法界で最も冷酷な判断を迷いなく下す男。
闇の帝王の命令のもと、人を殺すことすら呼吸のように行っていた。
デスイーターの中ですら、近づくのを避ける者が多かった。
その男が、
“あの女に触れた者” を治験に回した。
笑えるか?
はは……なんで、なんでだ……
何年も前の、ほんの一瞬の遊び半分の行為だった。
あの地下牢で、声すら出せない女に、ほんの少し手を伸ばしただけだ。
あんな“使い捨て”みたいな女を、まさかブラック家の正妻にするなんて誰が思うだろうか。
あの時、誰も気にしなかった。
誰も罪悪感なんて持たなかった。
誰もあの女の名前すら知らなかった。
―― アラン。
その名が頭にちらつく。
痩せた体で石床に押し倒され、声も出せず涙だけを落とした少女。
薄暗い中、翡翠の瞳だけが光った。
その瞳が、今もまとわりつく。
走れば走るほど、背後から覗き込むように迫ってくる。
「……やめろ、やめてくれ……!」
幻影だと分かっていても、振り返らずにはいられなかった。
もちろん、誰もいない。
けれど、耳元でかすれた息遣いがした気がして、思わず壁に背を当てへたり込む。
このままでは捕まる。
逃げ切れない。
レギュラスの影は魔法界のどこにでも潜んでいる。
しかも治験で身体はボロボロだ。
骨が軋むたびに、精神がひずむ。
魔力も不安定で、まともな転移もできない。
「……助けが、いる……誰か……」
その瞬間、ふとひらめきが走った。
——騎士団。
連中はレギュラス・ブラックを憎んでいる。
奴を潰したい。
弱点を探している。
ならば……自分の知る“弱点”を売れば、命くらい見逃すはずだ。
アラン・ブラック。
レギュラスが異常なほど執着し、大切にする女。
かつては声を奪われ、地下牢で辱められていた被害者。
その過去を知っている。
誰があの女をどう扱ったかも、知っている。
レギュラスがどんな目であの女を見ていたかも。
アランを揺さぶる情報なら、騎士団は必ず欲しがる。
あの女は、レギュラスを揺るがす唯一の弱点だ。
「……そうだ……そうだ……俺はまだ死ねない……!」
足に力を入れ、よろめきながら立ち上がる。
視界が歪むほどのめまいを耐え、壁を伝って進む。
騎士団本部まで、あと数時間。
魔力はほとんど残っていない。
「ジェームズ・ポッター……シリウス・ブラック……聞け……聞いてくれ……俺は——」
喉がかすれて声にならない。
それでも、心に残る最後の願いはただ一つ。
——生きたい。
そのためなら、仲間でも、過去でも、機密でも、何でも差し出す。
レギュラスを売ること。
そんなもの、ためらいすらない。
アランの顔がまた浮かぶ。
だが今度は怯えていたあの少女ではない。
ブラック家の妻として、凛として立つ女の姿が重なる。
「……俺のせいだ……あの女は……」
心がぐらつき、足がもつれる。
舗道に崩れ落ちた体はもうまともに動かない。
それでも、這うように手を伸ばした。
騎士団本部のある方向へ。
レギュラスブラックの鎖から逃れる唯一の道は、もうそこにしか残っていなかった。
夕方の騎士団本部は、いつものようにざわついていた。
作戦会議の声、報告を書き上げる音、若い隊員たちの笑い声。
外の世界で何が起ころうとも、本部の内部には確かな秩序と規律が満ちていた。
シリウスは執務机の上に散らばった報告書を片手で押し戻し、疲れた目元を指でこすった。
ここ数日の仕事量は、騎士団の中でもトップクラスの自分にさえ限界を感じさせるほどだった。
——魔法界がきな臭い。
その感覚だけが、ずっと胸の奥に沈殿している。
レギュラスの暴走、法務部の強権的なやり方、調査委員会の動き。
何もかもが、危険な方向へ転がり始めていた。
「ブラック隊長——!」
急に声が響いたかと思うと、執務室の扉が荒々しく開かれた。
「……なんだ、騒がしいな」
眉をひそめて振り返る。
次の瞬間、シリウスは目を見開いた。
扉の向こう、若い隊員たちが支えきれずにいる“男”。
汚れたローブ、泥と血でぐしゃぐしゃの髪。
虚ろな目つきと、不規則な呼吸。
逃走したデスイーターの一人だった。
「……っ、お、お前が……ブラック、だな……騎士団の……」
男は膝から崩れ落ち、床に吐き捨てるような息を漏らした。
精神は限界に追い詰められ、肉体は治験でボロボロだ。
シリウスは冷ややかな表情のまま近づき、男を見下ろした。
「何をしに来た。
捕まえてほしいなら、まずは理由を言え」
男の肩が震える。
恐怖と後悔と焦燥が混ざり合ったその震えは、震災の余波のように止まることがなかった。
「た、助けて……くれ……俺は……あの男に……殺される……レギュラス・ブラックに……!」
シリウスのまぶたがわずかにぴくりと動いた。
しかし表情は変えない。
「理由は?」
「……お、俺は……あの女を……、アラン・…… アラン・ブラックに……っ」
その瞬間、
シリウスの顔に、はっきりとした変化が走った。
笑顔でも怒号でもない。
ただ、表情の温度がすっと消えた。
氷点に落ちるような冷たさ。
呼吸が一度止まり、次に通った空気は驚くほど静かだった。
言葉にする前の怒りが、シリウスの全身に満ちていく。
「…… アランの名前を、汚すな」
それだけで部屋の空気が変わった。
騎士団員たちが思わず背筋を伸ばす。
男は震えながら続ける。
「お、俺は……っ……ただ……みんな、やってた……あの女は……声も出ねぇし……っ……」
ぱん、と乾いた音が響いた。
音の正体に気づいたのは数秒後だった。
シリウスの手の甲が、男の頬を打ち据えていた。
「二度と…… アランをそんな言い方で語るな」
低く、震えるほど静かな声。
怒鳴るよりもはるかに怖い声音だった。
男は涙と涎で顔を濡らしながら、床に崩れ落ちる。
「……お、俺は……全部話す……レギュラス・ブラックの……弱点…… アランが……!」
それを聞いた瞬間、
シリウスの内側で何かが“爆ぜた”。
怒りではない。
衝撃ではない。
——守らなければ。
——何があっても。
そんな強固な決意のような感情が、胸の奥で燃え上がった。
「……話せ。
これから全部、聞かせてもらう」
静かに告げるシリウスの声は、まるで刃のように鋭かった。
アランの名前を口にしたその瞬間から、
デスイーターの運命は、もう決まっていた。
突然、執務室の扉が激しく叩かれた。
バーテミウスが蒼白な顔で入ってきた瞬間、レギュラスは直感した。
——嫌な報せだ。
「レギュラス……逃げた男ですが……」
「捕まえたのですか」
「……いえ。
……騎士団本部に向かったようです」
レギュラスの指先から、ゆっくりと力が抜け、
そして次の瞬間、逆に指の関節が白くなるほど強く机の端を握りしめた。
胸の奥で、冷たい何かがはぜた。
「……騎士団に?」
声は驚くほど静かだった。
その静けさが、バーテミウスの背筋をぞくりと震わせる。
「はい。息も絶え絶えの状態で……騎士団に助けを求めたようで……
おそらく……治験の件を……」
治験。
魔力無効化ポーションへの対抗薬。
魔法族の未来のための最終治験。
極めて人道的とは言い難いが、必要な犠牲であり、
何より——あの男たちに与えた罰としては、生ぬるいくらいだった。
その“事実”を騎士団が利用しようと考えるのは容易に想像できた。
レギュラスはゆっくりと椅子から立ち上がった。
黒いローブの裾が床に触れ、静かな音を立てた。
「……なるほど。
こちらの足元を崩したいのですね、騎士団は」
怒りは火ではなく、氷だ。
じわじわと体の奥から冷やしてくる。
もし、騎士団が治験の件を公にすれば——
法務部の決定は「非人道的」と批判されるだろう。
レギュラス自身の政治生命にも傷がつく。
だが、それはまだいい。
一番問題なのは—— アランだ。
もし治験の背景を暴けば、必ず“あの地下”の真実も付随して暴かれる。
アランがどれほどの暴力と辱めを受けていたか。
声を失うまで泣き叫び、身体が壊れそうになるほど痛めつけられていたか。
そのすべてが“世間の好奇の目”に晒される。
それだけは、絶対に、許さない。
騎士団がどれほど正義を語ろうと。
アランの過去を晒すのなら、容赦しない。
「バーテミウス。
治験は即刻、中断させましょう」
「……中断、ですか?」
「はい。残っている男たちはすべて一般病棟に移しなさい。
“治療を受けている患者”として扱います」
「……なるほど。表向きは治験などなかったかのように、ですね」
「ええ。
逃げた男の供述など、精神錯乱による自己破壊。
罪悪感に押しつぶされ、妄想を語っただけだ——
そういう形で統一します」
レギュラスは軽く指を鳴らす。
政治家としての顔が、完璧に整っていく。
「記者には、
“妄言を繰り返す元デスイーターが騎士団に迷惑をかけた”
これで通します。
……騎士団が世間に公表する前になら、こちらで“事実”を作れる」
「了解しました……すぐに動きます」
「ただし、バーテミウス——」
「はい?」
レギュラスの声が、わずかに低くなる。
「もし騎士団が、治験のことを公表するなら……
アランの過去も同時に暴かれます」
バーテミウスの顔色が変わる。
「しかし、それは——!」
「ええ。騎士団にとって命取りになるでしょうね。
“被害者”を二度傷つけたという罪は重い。
世論が黙っているはずがありません」
さあ、シリウス。ジェームズ。
あなたたちはこのカードを切れるか?
アランを再び血まみれの地獄へ突き落とす覚悟があるのか?
レギュラスは静かに微笑んだ。
その笑みは、怒りと冷徹な策略が完璧に混ざり合ったものだった。
「法務部としては怯みません。」
低い声が、部屋の空気を張り詰めさせた。
「バーテミウス。
逃げた男を最優先で捕らえてください。
……どんな手を使っても」
「……はい、すぐに」
倒れ込むように騎士団本部へ引きずり込まれた男は、息を切らしながら呟いていた。
——ブラックの女、アランセシール……ッ
——レギュラスが治験に回した理由は……ッ
——あいつらのせいで、俺たちは……
その言葉の断片が耳に触れた瞬間、シリウスの内側で何かがばちりと弾けた。
アラン?
なぜ彼女の名がここに出てくる?
胸がざらつき、吐き気に似た痛みが喉をせり上がる。
男の語る内容は、あまりにも、あまりにも醜悪だった。
決して口に出してはいけないほどの、人間の尊厳を踏みにじる行為の数々。
無邪気に笑っていたが、その過去の上に立っていたなんて——
想像しただけで、視界がかすむほど胸が痛んだ。
怒りも、悲しみも、嫌悪も、全部ひとまとめになり、シリウスの拳を震わせた。
こんなものを、アランに、背負わせていたのか。
その自責の念は、レギュラスへの憎しみではなく、もはや自分自身への怒りに近かった。
夜、会議室の空気は荒れていた。
治験を巡るニュースはまだ外に漏れていない。
しかし、その衝撃の大きさは、爆弾を抱えているのと同じだった。
ジェームズは机に両手をつき、鋭い声を投げつけた。
「治験の件はすぐに公表しよう。
法務部の信頼は一気に崩れる。
レギュラスブラックが“非人道的な決定”を下したと世に示せば、連中は終わりだ」
その言葉に、室内にいる騎士団員の何人かは静かに頷いた。
正しい。
正義だ。
非道を暴くべきだ。
——そのはずだった。
しかし。
シリウスの胸は重く、ぜんぜん動かなかった。
「……ジェームズ。それを暴露するってことは……」
シリウスは、あえて一拍置いた。
自分の声が震えていないか確かめるように。
「つまり……なぜ“あの男たち”が治験に回されたかを世に明かすことになる」
「当然だ。
レギュラスの“私憤”が治験リストを作らせたと知れれば、世論は黙っていない」
「…… アランの過去も、公表することになる」
ジェームズが沈黙したのはほんの二秒。
しかし、シリウスには永遠に感じられた。
そして。
「仕方のない犠牲だ」
その冷たい言葉が落ちた瞬間、シリウスの中で何かがきしんでひび割れた。
仕方のない犠牲?
なにを……言ってるんだ……
アランは——
彼女は、声を奪われるほどの苦しみを乗り越えてきた。
やっと平穏を手に入れて、やっと笑えるようになった。
その微笑みを守るために、レギュラスがどれほどの罪を背負ったのかも、シリウスは痛いほどわかっている。
それを、“犠牲”で済ませるのか。
……ジェームズ……お前、本気で言ってるのか?
怒りが喉を焼いた。
テーブルに置かれた拳が震える。
「ジェームズ。
アランは……もう、十分すぎるほど苦しんだ。
あれを公表したら……あいつは……」
声が詰まる。
情けないと思いながらも、どうしても言葉が続かなかった。
彼女の涙も、微笑みも、震える指先も。
ぜんぶ思い出してしまい、胸が痛くてたまらなかった。
「……シリウス、これは政治だ。
個人の感情で判断するな」
「違う。これは感情じゃねぇ……あれは……」
あれは……守らなきゃいけないものなんだ。
喉まで出かかった叫びは、どうしても形にならなかった。
やわらかな声色で告げられたはずなのに、まるで見えない手で心臓をそっと掴まれたような感覚があった。
──この屋敷には強力な結界が張られていて、侵入者の魔力痕はすべて残る。
その言葉の裏に、レギュラスが何を感じ取っているのかは、聞かなくても分かってしまった。
彼はほんとうに、いつだってすべてに気づいてしまう。
気づかないふりをしても、彼の洞察は鋭く、深く、決して誤らない。
シリウスが来たこと、気づいているかもしれない。
そう理解した途端に、胸が強く締めつけられた。
けれど、言えなかった。
言おうと思えば、今すぐ杖を取って告げられたのに──
喉の奥がぎゅっと細くなったように、何も出せなかった。
レギュラスは追及してこなかった。
問い詰められもしなかった。
その沈黙に甘えてしまったといえばそうかもしれない。
けれど、それだけではなかった。
──シリウスが言おうとした、あの言葉。
その意味を、ほんの少しだけ理解してしまった。
あの瞬間感じた微かなざわめきを、誤魔化しきれなかった。
「もし……もしもだ。
俺がお前を幸せにしたいんだって言ったら……お前は苦しむか?」
あの言葉は、軽い冗談でも酔った思いつきでもなかった。
シリウスの瞳の底にあったのは、真剣で、痛むほどの誠意だった。
それを、レギュラスに伝えるなんて──できるはずがなかった。
彼と自分だけの間に落ちた言葉を、
誰かに漏らすことは、
裏切りでもあり、礼節を欠くことでもあり、
なによりシリウスの気持ちを踏みにじることになると思った。
隠し事でも、やましさでもない。
胸の中で、静かにつぶやく。
ただ──
シリウスがくれたあの瞬間を、
勝手に他人の手に委ねてしまいたくなかった。
彼の真摯な気持ちを、自分以外の誰かが裁くことも、軽んじることも許したくなかったのだ。
レギュラスの隣で、アランはそっと視線を伏せた。
薄明かりの中で、夫の指先が自分の手を優しく包んでいる。
それなのに心の片隅には、まだ温かく震えるように、シリウスの言葉が残っていた。
その静かな震えを抱えたまま、
アランはそっとレギュラスの肩に頭を預けた。
沈黙を選んだ理由を、
いつかこの人は理解してくれるだろうか──。
願いにも似た思いだけを胸に、
アランは深く、ゆっくりと息を吐いた。
アランが決して語ろうとしないもの。
それを問い詰めないと決めたのは自分だ。
だというのに、胸の底で膨らんでいくざわつきを止められなかった。
――シリウスが来たのだ。
それは確信に近い直感だった。
アランのわずかな肩の強張り。
自分の言葉に対する微かな呼吸の乱れ。
そして、結界の話をした時にふと落ちた沈黙。
アランはシリウスの来訪を話さなかった。
話せなかったのだろう。
理由も分かる。あの男の言葉の重さを知ってしまったのだ。
シリウスはアランの前では、いつも真っすぐで、優しくて、
レギュラスには持てない光を持っている。
その光が、アランの胸に影を落としたのかもしれない。
――考えるな。
言い聞かせても、思考は勝手に膨らんでいく。
アルタイルの入学準備の時。本当に二人だけで行ったのか。
父の誕生日の日、アランがわずかに遅く帰った夜。
療養中、庭で誰かと話していた影――あれはただの見間違いか。
シリウスが議会帰りにアランの名を出したあの日から、
レギュラスの胸には薄い裂け目が走っていた。
ステラは冷たく尖り、
騎士団はレギュラスの声明に牙を剥き、
魔法薬開発は今まさに国を揺らし、
マグルと手を組んだ魔法族の調査は泥沼化し、
女の一族は見つからず、警務部は暴走寸前――
積み重なった重圧が、胸の奥で粉々になり始めていた。
抑え込んだ疑念は毒に変わる。
毒は喉を焼き、心を焦がす。
冷静さを奪い、理性を蝕む。
その夜、レギュラスはアランを抱き寄せた。
少し乱暴なほど強く抱きしめ、
そのまま押し倒すように身体を重ねた。
求めることを我慢しない触れ方だった。
痛みも、息の乱れも、いつものように慎重には確認しなかった。
アランのか細い喘ぎが喉奥で震えるたび、
レギュラスの胸に渦巻く何かが、さらに煮えたぎった。
――確かめたい。
この手で抱いたのは誰だと。
愛しているのは誰だと。
触れられることを許すのは、誰なんだと。
アランは声を上げない。
ただ必死にしがみついて、腕を絡めてくる。
その健気さが、レギュラスの胸をどうしようもなく締めつけた。
セラといた時のような、
暴れ火のような欲望だけの行為ではなかった。
むしろ、
愛しすぎて壊れそうなほどの感情
それが暴力性すら帯びてしまっていることが恐ろしかった。
自分の中に、こんな性質が潜んでいるとは――
レギュラスは思い知らされる。
アランを傷つけたくない。
それでも抱きしめる腕に力が入ってしまう。
離れたくなくて、息が苦しくなるほど求めてしまう。
混ざり合う焦燥と愛と嫉妬が、
底なしの沼のように足元から引きずり込んでくる。
アランの指先が、背中にぎゅっと食い込む。
小さな震えが伝わる。
その一つ一つが、レギュラスの荒れた心を少しだけ溶かす。
けれど同時に、罪悪感が胸を刺す。
――こんな抱き方しかできない自分に、失望する。
それでも、やめられなかった。
アランがそこにいて、触れて、応えてくれて。
静かに受け止めてくれた。
ただそれだけで、
世界の全てから救われたような温かさがあった。
行為の最中、レギュラスは何度もアランの髪に口づけた。
頬に触れ、額に触れ、喉元に触れ。
愛している、と何度も心の中で呟いた。
声には出せない。
出したら、何かが壊れてしまいそうだった。
今の自分では、言葉を支えきれないほどに感情が溢れすぎていた。
終わったあと、アランが胸に顔をうずめてくる。
小さく震える肩を抱きしめながら、レギュラスは思う。
――この人を、誰にも渡したくない。
その瞬間、
自分の中に潜む加虐性の影と、
どうしようもないほど深い愛情が、
ひどく残酷な形で重なり合った。
これではいけない。
これに頼ってしまえば、きっと癖になる。
アランを傷つけるたびに、愛しさでごまかしてしまうような――
そんな自分に堕ちてしまいそうで。
けれど、アランの温もりを抱きしめるたびに思ってしまう。
この人がいれば、生きていける。
この人がいなければ、もう立っていられない。
愛しすぎるというのは、こんなにも苦しいのかと。
レギュラスは静かに目を閉じた。
朝の光がゆっくりとカーテンの隙間から差し込み、
薄桃色の光が寝室の白い壁をそっと照らしていた。
アランは、目を開ける前から身体の奥が鈍く痛むのを感じていた。
昨夜の全てが、体温としてまだ生々しく残っている。
けれど、不思議と嫌悪はなく、ただ胸の奥がぎゅうと締めつけられるような切なさだけがあった。
隣では、レギュラスが浅い呼吸で眠っている。
いつもなら乱れない黒い髪が、額にはらりとかかって、
眉の間には薄く皺があった。
まるで寝ている間でさえ何かを抱え込んでいるような、
そんな表情だった。
――疲れているのだ。
アランはそう思った。
昨夜のことを思い返し、胸がちくりと痛む。
求められるままに抱かれ、
腕に力が入りすぎていたことにも気づいていた。
レギュラスは優しさを失ったわけではない。
ただ、余裕がなかったのだ。
そのことが、逆にアランを苦しくさせた。
ゆっくりと体を起こそうとすると、
レギュラスが小さく呼吸を乱しながら目を覚ました。
「…… アラン」
掠れた声だった。
眠る前よりずっと弱い声音。
アランを見るなり、胸に手を伸ばしてくる。
その指先が触れた瞬間、
レギュラスの瞳に一瞬、深い後悔と痛みが走った。
「……痛みませんか?」
その問いに、アランは首を横に振った。
本当は痛む。
けれど、それを伝えたらレギュラスがさらに自分を責めてしまう。
それが何よりも辛かった。
杖を伸ばし、寝台の上で文字を描く。
大丈夫。昨夜のあなたが、嫌ではなかったです。
レギュラスはその文字を一文字一文字なぞるように目で追い、
ゆっくりと息を吐いた。
ほっとしたようであり、
同時に胸の奥を刺されたような罪悪の滲んだ呼吸だった。
「……あれは。
あんなふうに求めるつもりじゃなかった」
言葉が喉でつかえる。
普段なら決して崩さない冷静さが、そこにはなかった。
アランの沈黙は、責めているわけではないのに、
レギュラスには責められているように感じてしまった。
アランはそっと手を伸ばし、
レギュラスの髪に触れた。
ただ、それだけでレギュラスは息を吞む。
ゆっくりと文字を描く。
あなたのせいではないです。
わたしは大丈夫。
だから――そんな顔をしないで。
レギュラスはアランの手首をそっと包むように掴んだ。
その力は昨夜とは真逆で、
壊れ物に触れるように恐る恐るだった。
「…… アラン。
あなたに嫌われたら、僕は――」
そこから先は言葉にならなかった。
言えば、脆さが露わになってしまう。
それを認めることが、どうしても怖かった。
アランはただ静かに首を横に振り、
彼の胸に額を寄せた。
レギュラスの腕がそっとアランの背を包む。
その抱擁は、昨夜のような激しさは微塵もなく、
かえって痛いほど優しかった。
外の世界はもう政治と争いで満ちている。
息をするだけで鋭い棘が肺を刺すような毎日だ。
だからこそ、この数分の沈黙は、
互いの体温だけが真実になる貴重な時間だった。
しかし、
アランは知っている。
レギュラスの中でまだ焦燥は消えていない。
そして、
レギュラスも知っている。
アランがシリウスの来訪を言わなかった理由を、
まだ完全には理解しきれていない。
二人の間には確かに“愛”があった。
けれど朝の光の中、
その愛の影が細く長く伸びていた。
午後の陽光が、屋敷の回廊を淡い金色に満たしていた。
仕事へ戻る前にアランの様子を見ておこうと、レギュラスは静かに寝室の扉を開けた。
アランは窓辺の長椅子に座り、
柔らかい膝掛けを抱きしめたまま本を読んでいた。
光に照らされた淡い髪が、薄い金糸のように輝いている。
その姿を見るだけで、胸の奥がじんと温かくなる――
はずだった。
だが、目が慣れるにつれ、
レギュラスの視線は自然とアランの肩へ吸い寄せられた。
膝掛けがずり落ち、
無防備に露わになった肩。
その白い肌の、ちょうど鎖骨の下あたりに――
指の跡が薄く残っていた。
昨夜、必死に抱き寄せたときに付けた跡だった。
レギュラスは一瞬、息が止まった。
喉の奥がぎり、と軋む。
胸の深いところで冷たい痛みが広がる。
そこには、あの夜の激情の証が、
あまりにも鮮明に刻まれていた。
アランは気づいていないようだった。
ページをゆっくりめくり、
ただ穏やかに、静かに息をしている。
――こんな跡をつけたかったわけではない。
こんな女ではなく、
もっと大切に抱きしめたかったはずだ。
声を奪われた少女を、
あの日地下牢で初めて抱き上げたときのように。
「アラン」
声が自然と掠れていた。
アランが顔を上げる。
微笑もうとしたその唇が、
光の加減で少し震えて見えた。
レギュラスは無意識に近寄り、
そっと肩に手を伸ばす。
跡に触れることが怖くて、触れられない。
指先が震えていた。
「……痛みませんか」
ようやく出た声は、
自分でも驚くほど弱々しかった。
アランは少し目を瞬かせ、
杖を取り出し、膝の上に文字を描く。
痛くないです。大丈夫。
優しい文字だった。
肩につけた痕のように、
痛みを隠すための震えは一切なかった。
その優しさこそが、胸を刺した。
アランは、痛みを言わない。
悲しいときも言わない。
苦しいときにも、何も言わず微笑んでくれる。
だからこそ――
守れなかったときの罪悪感は、
鋭く深く、レギュラスの心臓を抉る。
レギュラスは跡の少し上にそっと指を落とした。
触れても痛みはない場所。
肌は薄くて、柔らかくて、
いつか地下で抱き上げたあの体と同じだ。
「…… アラン。
本当に、あなたを傷つけるつもりはなかったんです」
アランは首を横にふる。
その仕草は、言葉よりも優しかった。
けれど――
昨夜の自分を思い出すと、
どうしても視線を彼女から逸らせなくなる。
嫉妬、焦燥、恐れ、
それらを抱えたまま彼女を抱いた。
あれは愛だけではなかった。
だから、胸がつぶれそうだった。
「……僕は、あなたに酷かった」
ようやく口にした瞬間、
アランの瞳に驚きと悲しみが走った。
レギュラスは続ける。
「あなたが沈黙していても……
耐えてくれても……
それに甘えていいはずがないのに」
アランはゆっくりと立ち上がり、
軽い足音を立ててレギュラスの胸元まで歩み寄った。
そして、
胸にそっと額を預けた。
何も言わない。
ただ寄り添って、呼吸の温度を共有してくる。
その沈黙が、
レギュラスにはたまらなかった。
――こんなふうに許されたいわけじゃなかった。
けれど許されてしまう。
それがまた、胸を締めつける。
レギュラスはアランの背に手を回し、
そっと強く抱き寄せた。
昨夜とは違う、
本来求めていた優しさで。
「…… アラン。
僕は、あなたを本気で愛しています。
だからこそ……昨夜の自分が怖い」
アランはそっと胸に指で文字を書く。
わたしは、怖くなかったです。
あなたを愛しているから。
レギュラスは目を閉じた。
喉の奥が熱くなり、
もう少しで声が震えてしまいそうだった。
彼女の愛情は、やさしすぎて、儚すぎて、
抱けば抱くほど壊してしまいそうだった。
だからこそ、
この肩についた小さな跡は、
レギュラスにとって刃物より鋭い痛みだった。
書類の山の向こうで陽光が白く滲んでいた。
昼休憩をとうに過ぎた執務室は静かすぎるほど静まり返り、
レギュラスはずっと同じ行を読み返していた。
頭に入らない。
肝心な箇所に差し掛かるたび、
昨夜のアランの“肩の跡”がまた浮かんでくる。
指の形をしたあの赤み。
強く抱き寄せすぎた瞬間の記憶。
アランが声もなく震えていたこと。
ほんのわずかに触れただけでも
壊れてしまいそうな、
あの白い肌に。
レギュラスはゆっくり、息を吐いた。
喉の奥が熱く重い。
――自分は、あの人に何をしたのだ。
愛していると言いながら、
焦燥と嫉妬と不安を押しつぶす形の行為で埋めようとした。
そこにあったのは欲望か、衝動か、
それともセラとの過去の名残か。
考えたくない言葉が
ひとつずつ形になって胸の奥を汚していく。
セラとの夜の記憶が蘇る。
欲望をぶつけることしか目的がなかった行為。
互いの孤独や虚無を埋めるための、
あまりにも空虚で暴力的な熱。
その影が、昨夜の自分の中に確かにあった。
アランには見せたことのない、
見せてはならないはずの自分の暗部。
レギュラスは顔を覆った。
手のひらに爪が食い込むほど強く。
―― アランは、恐れていただろうか。
――自分を避けるだろうか。
――もう触れられたくなかっただろうか。
胸がぎゅっと縮む。
心臓が脈を打つたび、罪悪感が血のように巡っていく。
アランは、いつだって何も言わず耐えてしまう。
痛みも、悲しみも、
声がないから言わないのではない。
“言わない強さ”を持ってしまっただけだ。
だからこそ、昨夜の沈黙が怖かった。
しがみつく細い指が震えていたことも、
必死に息を整えていたことも、
夕方には跡が薄くなっていたことも。
愛しているのに。
守りたいのに。
誰より大切なのに。
その全てが矛盾するような行いを
自分の手でしてしまった。
机の端に手をついた。
冷たい木の感触が掌を通じて現実に引き戻す。
――セラとは違う。
―― アランは、違う。
――同じに扱ってはならない。
なのに、一瞬でも重ねてしまった自分がいた。
それが耐え難いほど苦しかった。
扉の向こうで、
控えめにノックする音が響く。
「長官、書類の確認を――」
「あとにしてください」
声が低く震え、思わず自分で驚いた。
部下は何も言わず、扉を閉じる。
静寂が戻った瞬間、
胸の真ん中にある“痛みの核”がずきりと脈打つ。
あの白い肩に残った自分の跡。
アランの小さな微笑み。
「痛くない」と告げる優しい文字。
全部が胸を締めつけ、
息が浅くなる。
レギュラスはゆっくり目を閉じた。
――あの人を傷つけたくない。
――たとえ、自分自身を否定することになっても。
――二度と、昨夜のような抱き方はしない。
その決意だけが、
今の自分を辛うじて支えていた。
夜の静寂は、屋敷全体が息を潜めているかのようだった。
廊下を歩くたび、靴音がやけに大きく反響する。
寝室の扉の前で立ち止まり、レギュラスは一度、深く息を吸った。
――今日は、言うつもりだった。
――昨夜のことを、きちんと謝ろうと。
扉を開けた瞬間、柔らかいランプの光の中、
アランがゆっくり振り向いた。
薄い寝衣の袖口から伸びた白い腕に、
昨夜つけてしまった痕はもうほとんど消えているように見える。
けれど、それが余計に胸を締めつけた。
「あの……」
言葉が喉の奥でつかえる。
すぐ近くにいるはずの妻までの距離が、
どうしてこんなに遠く感じるのだろう。
アランは首をかしげ、
“聞く準備があります”とでもいうように
静かに身を向けてくれる。
レギュラスは、そこに飛び込む勇気が出なかった。
――謝れ。
――昨夜のことを正しく言葉にしろ。
――彼女に怖い思いをさせたことを認めろ。
心の中で自分に何度も命じても、
言葉は喉につかえ、石のように動かない。
「…… アラン……」
名前を呼んだ瞬間、
アランはそっと両腕を広げた。
その仕草は、驚くほど優しくて、
責める気配なんて一欠片もなくて、
“わたしは大丈夫だから”という微笑みだけを湛えていた。
その優しさが、レギュラスには地獄だった。
謝罪を受け取る準備をしているのではない。
ただ、傷ついた自分を包み込もうとしてくれている。
胸が痛む。
本当に痛い。
息が詰まり、膝が折れそうになる。
「…… アラン……」
その瞬間、レギュラスは敗北した。
謝罪という責務を捨て、自ら逃げるように、
その腕の中へ飛び込んでしまった。
アランの体温の中に潜りこむと、
押し殺していた衝動が津波のように溢れてくる。
言葉ではなく、行為で埋めようとする最悪の逃避。
それが自分でも分かっているのに止められない。
唇を押し当て、
腕で抱き寄せ、
まるで“言葉の代わりに暴く”ように触れた。
アランは痛みに顔をしかめながらも、
拒まなかった。
ただ両腕を背中に回し、震えを受け止めてくれた。
それが余計に、レギュラスを追い詰めた。
――なぜこんなにも優しい。
――なぜ、責めてくれない。
――なぜ、許す顔をする。
セラといたときには、
行為に罪悪感など一度も抱かなかった。
彼女はただ逃げ場で、自分も彼女も互いの空虚を埋めただけだった。
なのに、
アランを抱くと胸が痛む。
愛しているからこそ、
抱きしめるたびに恐ろしくなる。
アランの肌に触れるたび、
昨夜の痕が、
自分の弱さが、
逃げたという事実が、
何度でも胸を刺した。
行為は流れるように深まり、
刹那の熱が二人をのみ込んでいく。
その最中でさえ、レギュラスは思った。
――これは愛の形ではない。
――これは逃避だ。
――また同じ罪を重ねている。
それでも止められなかった。
アランが抱きしめ返してくれたせいで、
自分の弱さが加速してしまった。
終わったあと、
レギュラスはアランの肩に顔を埋めたまま、
震える呼吸を整えることしかできなかった。
謝りたいのに言えなかった。
反省したいのに行為に逃げた。
彼女を愛しているはずなのに、彼女を傷つける。
その矛盾すべてが、
胸の奥で鉛のように沈んでいく。
アランはそっと髪を撫でた。
慰めるように。
赦すように。
あるいは、ただ寄り添うように。
それがまた、
レギュラスの胸をひどく締めつけた。
――こんなにも弱い自分を、
いつまで隠せるだろうか。
昼過ぎ、法務部の執務室に戻ると、バーテミウスが珍しく落ち着きのない様子で待っていた。
書類を握る指先が白く強張っている。
ただならぬ気配は、部屋に入った瞬間に肌へ刺さるように伝わってきた。
「レギュラス、これは……大変ですよ」
声はかすかに震えていた。
レギュラスはゆっくりとマントを払って背もたれの高い椅子へ腰を下ろす。
「何事です」
抑えた声音は静謐で、しかし底に鋼のような緊張が潜む。
バーテミウスは迷いなく一枚の報告書を差し出してきた。
目を通した瞬間、レギュラスの周囲の空気が、音もなく沈んだ。
治験に回したデスイーターの一人——
逃走。
それだけだった。
けれど、それだけで十分に、喉の奥にひやりとした氷柱のような怒りが現れる。
その男たちの治験結果についても書かれていた。
一人は死亡。
数名は重篤。精神反応の異常も複数。
ページを繰る指先は穏やかなのに、落ちる影だけは深まっていく。
——生ぬるい。
胸の底から、ひたすら冷たい感想が浮かび上がる。
アランがあの地下で受け続けた仕打ちを思えば、
死でもなお軽い。
苦しみの数だけ還元してやっても足りない。
あの少女が声を失うほどの恐怖と暴力の中で生き延びた年月を思えば、
苦しみのいくらかを味わって死んだところで、
償いにもならない。
報告書を閉じると、レギュラスの眼差しは凪のように静かだった。
だが、その静けさは嵐の前のそれだ。
「……逃げたのは、どの男です?」
バーテミウスが名を告げる。
聞き覚えのある名だった。
記憶の中の地下牢の扉が開き、汚らしい手がのび、
アランの細い首を掴み——
声なき少女が震えていた光景が、鮮明に蘇る。
呼吸が一度だけ深く沈み、すぐに整えられた。
「行き先の当たりは?」
「まだです。ですが……レギュラス、早急に洗います。魔力痕を辿れば、数日はかからないでしょうね」
「数日もいりません。今日のうちに範囲を絞りなさい」
低い声は、炎ではなく氷だった。
淡々としているのに、聞く者の背筋を凍らせる冷たさがある。
「……はい。しかし、死亡者も重症の者も多く、治験の負荷は予想以上に……」
「問題ありません」
一刀両断に切り捨てられる。
愛する妻に暴力を加えた者たちだ。
“治験に回してやった”だけでも寛容の極みなのだ。
そのうち一人が逃げたというなら、
残った命のすべては徹底的に回収しなければならない。
レギュラスは立ち上がり、マントを払う。
その動きは整然と美しく、けれど底知れない怒気を含んでいた。
「逃走犯の行き先は、必ず洗い出せます。
見つけたら、即座に拘束を。抵抗した場合は——」
言葉を切る。
バーテミウスが息を呑む。
レギュラスは薄く笑った。
美しく整った、しかし冷ややかすぎる笑み。
「処分して構いません。
……結果は報告だけでいい」
アランの痛みを返すためなら、
犯罪者たちの命など一つ残らず灰にしていい。
あの少女の涙に比べれば、
彼らの犠牲など、あまりに軽い。
「急いでください、バーテミウス」
「…… すぐに」
部屋を出て行くバーテミウスの背中が、
わずかに震えていた。
レギュラスは報告書に視線を落とし、
ゆっくりと瞼を閉じた。
胸の奥の冷たい怒りは、静かに澱のように沈んでいく。
——逃がさない。
—— アランを傷つけた者は、すべて。
その決意は、言葉ではなく、
血のように濃い沈黙の中で固められていった。
息が荒い。
肺が焼けつくように痛い。
それでも走るのを止めることはできなかった。
いま止まれば、追いつかれる。
追いつかれれば、終わる。
——レギュラス・ブラック。
その名を思い出した瞬間、背中に冷水を浴びせられたような悪寒が走る。
魔法界で最も冷酷な判断を迷いなく下す男。
闇の帝王の命令のもと、人を殺すことすら呼吸のように行っていた。
デスイーターの中ですら、近づくのを避ける者が多かった。
その男が、
“あの女に触れた者” を治験に回した。
笑えるか?
はは……なんで、なんでだ……
何年も前の、ほんの一瞬の遊び半分の行為だった。
あの地下牢で、声すら出せない女に、ほんの少し手を伸ばしただけだ。
あんな“使い捨て”みたいな女を、まさかブラック家の正妻にするなんて誰が思うだろうか。
あの時、誰も気にしなかった。
誰も罪悪感なんて持たなかった。
誰もあの女の名前すら知らなかった。
―― アラン。
その名が頭にちらつく。
痩せた体で石床に押し倒され、声も出せず涙だけを落とした少女。
薄暗い中、翡翠の瞳だけが光った。
その瞳が、今もまとわりつく。
走れば走るほど、背後から覗き込むように迫ってくる。
「……やめろ、やめてくれ……!」
幻影だと分かっていても、振り返らずにはいられなかった。
もちろん、誰もいない。
けれど、耳元でかすれた息遣いがした気がして、思わず壁に背を当てへたり込む。
このままでは捕まる。
逃げ切れない。
レギュラスの影は魔法界のどこにでも潜んでいる。
しかも治験で身体はボロボロだ。
骨が軋むたびに、精神がひずむ。
魔力も不安定で、まともな転移もできない。
「……助けが、いる……誰か……」
その瞬間、ふとひらめきが走った。
——騎士団。
連中はレギュラス・ブラックを憎んでいる。
奴を潰したい。
弱点を探している。
ならば……自分の知る“弱点”を売れば、命くらい見逃すはずだ。
アラン・ブラック。
レギュラスが異常なほど執着し、大切にする女。
かつては声を奪われ、地下牢で辱められていた被害者。
その過去を知っている。
誰があの女をどう扱ったかも、知っている。
レギュラスがどんな目であの女を見ていたかも。
アランを揺さぶる情報なら、騎士団は必ず欲しがる。
あの女は、レギュラスを揺るがす唯一の弱点だ。
「……そうだ……そうだ……俺はまだ死ねない……!」
足に力を入れ、よろめきながら立ち上がる。
視界が歪むほどのめまいを耐え、壁を伝って進む。
騎士団本部まで、あと数時間。
魔力はほとんど残っていない。
「ジェームズ・ポッター……シリウス・ブラック……聞け……聞いてくれ……俺は——」
喉がかすれて声にならない。
それでも、心に残る最後の願いはただ一つ。
——生きたい。
そのためなら、仲間でも、過去でも、機密でも、何でも差し出す。
レギュラスを売ること。
そんなもの、ためらいすらない。
アランの顔がまた浮かぶ。
だが今度は怯えていたあの少女ではない。
ブラック家の妻として、凛として立つ女の姿が重なる。
「……俺のせいだ……あの女は……」
心がぐらつき、足がもつれる。
舗道に崩れ落ちた体はもうまともに動かない。
それでも、這うように手を伸ばした。
騎士団本部のある方向へ。
レギュラスブラックの鎖から逃れる唯一の道は、もうそこにしか残っていなかった。
夕方の騎士団本部は、いつものようにざわついていた。
作戦会議の声、報告を書き上げる音、若い隊員たちの笑い声。
外の世界で何が起ころうとも、本部の内部には確かな秩序と規律が満ちていた。
シリウスは執務机の上に散らばった報告書を片手で押し戻し、疲れた目元を指でこすった。
ここ数日の仕事量は、騎士団の中でもトップクラスの自分にさえ限界を感じさせるほどだった。
——魔法界がきな臭い。
その感覚だけが、ずっと胸の奥に沈殿している。
レギュラスの暴走、法務部の強権的なやり方、調査委員会の動き。
何もかもが、危険な方向へ転がり始めていた。
「ブラック隊長——!」
急に声が響いたかと思うと、執務室の扉が荒々しく開かれた。
「……なんだ、騒がしいな」
眉をひそめて振り返る。
次の瞬間、シリウスは目を見開いた。
扉の向こう、若い隊員たちが支えきれずにいる“男”。
汚れたローブ、泥と血でぐしゃぐしゃの髪。
虚ろな目つきと、不規則な呼吸。
逃走したデスイーターの一人だった。
「……っ、お、お前が……ブラック、だな……騎士団の……」
男は膝から崩れ落ち、床に吐き捨てるような息を漏らした。
精神は限界に追い詰められ、肉体は治験でボロボロだ。
シリウスは冷ややかな表情のまま近づき、男を見下ろした。
「何をしに来た。
捕まえてほしいなら、まずは理由を言え」
男の肩が震える。
恐怖と後悔と焦燥が混ざり合ったその震えは、震災の余波のように止まることがなかった。
「た、助けて……くれ……俺は……あの男に……殺される……レギュラス・ブラックに……!」
シリウスのまぶたがわずかにぴくりと動いた。
しかし表情は変えない。
「理由は?」
「……お、俺は……あの女を……、アラン・…… アラン・ブラックに……っ」
その瞬間、
シリウスの顔に、はっきりとした変化が走った。
笑顔でも怒号でもない。
ただ、表情の温度がすっと消えた。
氷点に落ちるような冷たさ。
呼吸が一度止まり、次に通った空気は驚くほど静かだった。
言葉にする前の怒りが、シリウスの全身に満ちていく。
「…… アランの名前を、汚すな」
それだけで部屋の空気が変わった。
騎士団員たちが思わず背筋を伸ばす。
男は震えながら続ける。
「お、俺は……っ……ただ……みんな、やってた……あの女は……声も出ねぇし……っ……」
ぱん、と乾いた音が響いた。
音の正体に気づいたのは数秒後だった。
シリウスの手の甲が、男の頬を打ち据えていた。
「二度と…… アランをそんな言い方で語るな」
低く、震えるほど静かな声。
怒鳴るよりもはるかに怖い声音だった。
男は涙と涎で顔を濡らしながら、床に崩れ落ちる。
「……お、俺は……全部話す……レギュラス・ブラックの……弱点…… アランが……!」
それを聞いた瞬間、
シリウスの内側で何かが“爆ぜた”。
怒りではない。
衝撃ではない。
——守らなければ。
——何があっても。
そんな強固な決意のような感情が、胸の奥で燃え上がった。
「……話せ。
これから全部、聞かせてもらう」
静かに告げるシリウスの声は、まるで刃のように鋭かった。
アランの名前を口にしたその瞬間から、
デスイーターの運命は、もう決まっていた。
突然、執務室の扉が激しく叩かれた。
バーテミウスが蒼白な顔で入ってきた瞬間、レギュラスは直感した。
——嫌な報せだ。
「レギュラス……逃げた男ですが……」
「捕まえたのですか」
「……いえ。
……騎士団本部に向かったようです」
レギュラスの指先から、ゆっくりと力が抜け、
そして次の瞬間、逆に指の関節が白くなるほど強く机の端を握りしめた。
胸の奥で、冷たい何かがはぜた。
「……騎士団に?」
声は驚くほど静かだった。
その静けさが、バーテミウスの背筋をぞくりと震わせる。
「はい。息も絶え絶えの状態で……騎士団に助けを求めたようで……
おそらく……治験の件を……」
治験。
魔力無効化ポーションへの対抗薬。
魔法族の未来のための最終治験。
極めて人道的とは言い難いが、必要な犠牲であり、
何より——あの男たちに与えた罰としては、生ぬるいくらいだった。
その“事実”を騎士団が利用しようと考えるのは容易に想像できた。
レギュラスはゆっくりと椅子から立ち上がった。
黒いローブの裾が床に触れ、静かな音を立てた。
「……なるほど。
こちらの足元を崩したいのですね、騎士団は」
怒りは火ではなく、氷だ。
じわじわと体の奥から冷やしてくる。
もし、騎士団が治験の件を公にすれば——
法務部の決定は「非人道的」と批判されるだろう。
レギュラス自身の政治生命にも傷がつく。
だが、それはまだいい。
一番問題なのは—— アランだ。
もし治験の背景を暴けば、必ず“あの地下”の真実も付随して暴かれる。
アランがどれほどの暴力と辱めを受けていたか。
声を失うまで泣き叫び、身体が壊れそうになるほど痛めつけられていたか。
そのすべてが“世間の好奇の目”に晒される。
それだけは、絶対に、許さない。
騎士団がどれほど正義を語ろうと。
アランの過去を晒すのなら、容赦しない。
「バーテミウス。
治験は即刻、中断させましょう」
「……中断、ですか?」
「はい。残っている男たちはすべて一般病棟に移しなさい。
“治療を受けている患者”として扱います」
「……なるほど。表向きは治験などなかったかのように、ですね」
「ええ。
逃げた男の供述など、精神錯乱による自己破壊。
罪悪感に押しつぶされ、妄想を語っただけだ——
そういう形で統一します」
レギュラスは軽く指を鳴らす。
政治家としての顔が、完璧に整っていく。
「記者には、
“妄言を繰り返す元デスイーターが騎士団に迷惑をかけた”
これで通します。
……騎士団が世間に公表する前になら、こちらで“事実”を作れる」
「了解しました……すぐに動きます」
「ただし、バーテミウス——」
「はい?」
レギュラスの声が、わずかに低くなる。
「もし騎士団が、治験のことを公表するなら……
アランの過去も同時に暴かれます」
バーテミウスの顔色が変わる。
「しかし、それは——!」
「ええ。騎士団にとって命取りになるでしょうね。
“被害者”を二度傷つけたという罪は重い。
世論が黙っているはずがありません」
さあ、シリウス。ジェームズ。
あなたたちはこのカードを切れるか?
アランを再び血まみれの地獄へ突き落とす覚悟があるのか?
レギュラスは静かに微笑んだ。
その笑みは、怒りと冷徹な策略が完璧に混ざり合ったものだった。
「法務部としては怯みません。」
低い声が、部屋の空気を張り詰めさせた。
「バーテミウス。
逃げた男を最優先で捕らえてください。
……どんな手を使っても」
「……はい、すぐに」
倒れ込むように騎士団本部へ引きずり込まれた男は、息を切らしながら呟いていた。
——ブラックの女、アランセシール……ッ
——レギュラスが治験に回した理由は……ッ
——あいつらのせいで、俺たちは……
その言葉の断片が耳に触れた瞬間、シリウスの内側で何かがばちりと弾けた。
アラン?
なぜ彼女の名がここに出てくる?
胸がざらつき、吐き気に似た痛みが喉をせり上がる。
男の語る内容は、あまりにも、あまりにも醜悪だった。
決して口に出してはいけないほどの、人間の尊厳を踏みにじる行為の数々。
無邪気に笑っていたが、その過去の上に立っていたなんて——
想像しただけで、視界がかすむほど胸が痛んだ。
怒りも、悲しみも、嫌悪も、全部ひとまとめになり、シリウスの拳を震わせた。
こんなものを、アランに、背負わせていたのか。
その自責の念は、レギュラスへの憎しみではなく、もはや自分自身への怒りに近かった。
夜、会議室の空気は荒れていた。
治験を巡るニュースはまだ外に漏れていない。
しかし、その衝撃の大きさは、爆弾を抱えているのと同じだった。
ジェームズは机に両手をつき、鋭い声を投げつけた。
「治験の件はすぐに公表しよう。
法務部の信頼は一気に崩れる。
レギュラスブラックが“非人道的な決定”を下したと世に示せば、連中は終わりだ」
その言葉に、室内にいる騎士団員の何人かは静かに頷いた。
正しい。
正義だ。
非道を暴くべきだ。
——そのはずだった。
しかし。
シリウスの胸は重く、ぜんぜん動かなかった。
「……ジェームズ。それを暴露するってことは……」
シリウスは、あえて一拍置いた。
自分の声が震えていないか確かめるように。
「つまり……なぜ“あの男たち”が治験に回されたかを世に明かすことになる」
「当然だ。
レギュラスの“私憤”が治験リストを作らせたと知れれば、世論は黙っていない」
「…… アランの過去も、公表することになる」
ジェームズが沈黙したのはほんの二秒。
しかし、シリウスには永遠に感じられた。
そして。
「仕方のない犠牲だ」
その冷たい言葉が落ちた瞬間、シリウスの中で何かがきしんでひび割れた。
仕方のない犠牲?
なにを……言ってるんだ……
アランは——
彼女は、声を奪われるほどの苦しみを乗り越えてきた。
やっと平穏を手に入れて、やっと笑えるようになった。
その微笑みを守るために、レギュラスがどれほどの罪を背負ったのかも、シリウスは痛いほどわかっている。
それを、“犠牲”で済ませるのか。
……ジェームズ……お前、本気で言ってるのか?
怒りが喉を焼いた。
テーブルに置かれた拳が震える。
「ジェームズ。
アランは……もう、十分すぎるほど苦しんだ。
あれを公表したら……あいつは……」
声が詰まる。
情けないと思いながらも、どうしても言葉が続かなかった。
彼女の涙も、微笑みも、震える指先も。
ぜんぶ思い出してしまい、胸が痛くてたまらなかった。
「……シリウス、これは政治だ。
個人の感情で判断するな」
「違う。これは感情じゃねぇ……あれは……」
あれは……守らなきゃいけないものなんだ。
喉まで出かかった叫びは、どうしても形にならなかった。
