3章
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夜の帳が降り、屋敷の窓には星々が淡く映り込んでいた。
メイラは寝室の椅子に座ったまま、ぼんやりと両手を見つめていた。
自分の手が、いつもより重たく見えた。
アランに抱きしめられて泣き崩れてから、
ずっと胸の奥で何かが渦を巻いている。
——どうして、父は。
どうしてあんな罪を被ったのだろう。
考えずにはいられなかった。
自分のために。
自分を、この世に残すために。
自分が病で死なないように。
“罪を被る”という言葉の重さを、メイラは今ようやく理解した。
あれは単なる取引なんかじゃない。
恐怖でも、脅しでもない。
……愛だ。
自分を救うために、父は世界に背を向けた。
罪を被り、生きて戻れない場所に送られると分かっていても、
その未来を選んだ。
父の愛の輪郭が、ようやく胸の奥で静かに形を成していく。
メイラの喉が詰まった。
涙がまた溢れそうになる。
そこからさらに思考が進む。
罪を被らせた魔法族——
それが、レギュラスブラックだった。
メイラはその事実に気づいた瞬間、
胸の奥に冷たい風が吹き抜けたように感じた。
自分を救ってくれた“恩人”だと思っていた男が、
父に罪を着せた張本人だった。
寒気がした。
世界がぐらりと揺れた。
だが、メイラはそのあとすぐに気づく。
……でも、あの人は約束を破らなかった。
魔法族が、マグルのために医務魔法使いを動かすなんて異常なことだ。
しかも純血主義の象徴であるブラック家の男が。
取引だったとしても、
医治を施した時点で、レギュラスは“義務以上のこと”をしていた。
そして——
病を治した後も、
狼人間に差し出される施設に預けるだけではなく
アランの願いひとつでメイラを手元に戻した。
どうして……そこまでしてくれたんだろう。
罪悪感だったのか。
贖罪だったのか。
それとも、アランが泣いたからなのか。
理由は分からない。
レギュラスという男の心は常に深い霧の中にあって、
簡単には見えない。
けれど、言えることがひとつだけある。
彼は“約束”を守った。
そして、“その後”も守った。
それだけは紛れもない事実だった。
施設にいた頃の記憶が、ひどく鮮明に蘇る。
――夜が来るたびに消えてゆく子供たち。
――明かりのともらない廊下。
――朝になっても戻らないベッド。
――名前を呼んでも返事のない空白。
あれが、“選別”だったのだ。
背筋に冷たいものが走る。
自分は生き残った。
たまたまじゃない。
アランが迎えに来てくれたから。
あの優しい人が、どれほど危険でも自分を置いていかなかったから。
あの人は、いつだって自分の味方だった。
ステラが嫌な言葉を投げつけても、
祖父母に冷たい目を向けられても、
アランだけは、自分を抱きしめてくれた。
母のように。
家族のように。
そして、レギュラスも。
無愛想で、優しさの見えにくい男だけれど、
あの屋敷で“マグルが息をしていること”を許したのは、
レギュラスの決断だった。
純血の頂点に立つ者が、だ。
それがどれほど異常で、どれほど大きな譲歩か——
メイラは成長してからようやく知った。
……あれが、この家から受け取れる最大限の“愛情”だったのかもしれない。
もう分からない。
正義とは何か。
罪とはどこからか。
なにが愛で、どこからが犠牲で、何が贖罪なのか。
世界はあまりに複雑で、
あまりに曖昧で、
あまりに残酷だった。
でも——
アランが泣きながら伝えてくれた言葉だけは、心の中心に残っている。
「あなたは大切な子」
「娘のように思っている」
「あなたのお父さんは、あなたを愛していた」
その言葉が、夜の闇を静かに照らした。
メイラは胸に手を当てて、息を吸った。
涙は止まらなかったが、
心はほんの少しだけ温かかった。
父の愛を知った。
アランの愛も知っている。
レギュラスの愛は分かりにくいけれど、確かにあった。
それだけで、この夜は十分だった。
部屋の扉を閉めた瞬間、ステラは背を預けるようにしてゆっくりと腰を落とした。
手のひらが細かく震えている。
呼吸が浅く、胸はひどく痛い。
メイラを問い詰めた後、返ってきた断片的な言葉と、母がメイラに教えていた事実。そこから容易に導き出せてしまう“真実”が、頭の中で何度も何度も反芻された。
——父が。
——あのブラック家の当主が。
——マグルなんかと取引をした。
その文だけで、胃の底がぐらりと揺れた。
あり得ない。
絶対にあり得ない。
あってはならない。
けれど、どう言い訳しても最終的にはアランがその少女を屋敷に置き、父がそれを許したという“結果”がすべてを語ってしまっていた。
ステラの視界がじわりとにじむ。
ステラは幼いころから教え込まれてきた。
ブラックであることは誇りであり、
純血であることは血の証であり、
魔法族として折れてはいけない線がある、と。
その矜持を、父と母は何より体現していると思っていた。
父は“決して折れぬ男”だった。
母は“純血の妻として気高くある”存在だった。
——なのに。
たった一人のマグルのために。
たったひとつの取引のために。
ブラック家は揺らいだ。
父が折れ、母が譲り、そして——幼いステラはその影でひっそりと“愛をもらい損ねた”。
その現実が、ステラの心に深い亀裂を生んだ。
「……そんな、ことで……?」
声にならないつぶやきが唇の裏で震える。
こんなもののために。
自分は母の膝を独り占めする時間さえ奪われていたのか。
気がつくと、記憶が洪水のように溢れ出した。
母に抱きつこうとしても、
その腕の中にはいつも病弱な“メイラ”がいた。
母の視線はいつもメイラの具合を気遣い、
ステラの手は空を切った。
メイラが眠る傍で、
母はその髪を撫でて、額に触れ、微笑んでいた。
——なぜあの女のために。
——なぜ自分ではだめだったのか。
あの時の寂しさ、喉の奥を灼くような嫉妬、
それを押し込め続けた幼い自分が胸の奥で泣いている。
もし……あれが父の“贖罪”だったのなら?
胸が冷たく締め付けられた。
贖罪のために置かれた女のために——
自分の母が涙をこぼすほど尽くしてきたというのか。
贖罪のために——
ステラは母の愛を分け与えられていたというのか。
そんな価値のない取引のために……?
「……許せない……」
ようやく絞り出した言葉は、
自分でも驚くほど低く、震えていた。
誇り高きブラックの名を背負う自分が、
譲歩などするはずがない。
折れるべきところでは折れない。
そこに揺らぎがあってはならない。
それなのに。
父は折れた。
母は揺らいだ。
そしてその歪みの上で、ステラは幼少期を生きていた。
どれほど寂しかったか。
どれほど欲しかったか。
母の愛をひとつ、父の誇りをひとつ。
幼い自分はずっと指の隙間から零れていくそれらを見つめ続けていたというのに。
「どうして……」
ステラは喉の奥で嗚咽を押し殺しながら、
拳をぎゅっと握った。
マグルなんかのために。
父と母の在り方が歪んでしまうなど。
純血である誇りに泥を塗るような真似を、
父がするはずがなかったのに。
……あの二人が、そんなことで傾くなんて。
ステラの心は複雑に引き裂かれていた。
——父と母を尊敬したい。
——けれど理解できない。
——許したい。
——けれど許せない。
愛しているからこそ、
その“揺らぎ”が恐ろしくてたまらない。
ブラック家の娘としての誇りと、
娘としての愛の渇望がぶつかりあい、
胸の奥で音を立てて砕けていく。
ステラは涙を拭わなかった。
落ちるままに頬を伝わせた。
この涙は弱さではない。
裏切られた誇りの重さだ。
そしてそれでも、
父と母を愛している自分の苦しさそのものだった。
その夜、屋敷には不自然な静けさがあった。
暖炉の火だけがぱちぱちと乾いた音を立て、
廊下には誰の気配もない。
アランは自室に戻る途中、
ふいに背後で足音が止まるのに気づいた。
「……お母さま」
その声は、いつになく硬かった。
振り返ると、ステラが闇のような瞳で立っていた。
アランの胸がかすかに震えた。
あの子の瞳――幼いころはもっと柔らかかったはずなのに。
ステラはドアをゆっくり閉め、
ふたりきりの空間を作ると、その場に立ったまま口を開いた。
「質問がありますの」
アランは頷き、杖を握りしめる。
何を問われるか――もう察していた。
「メイラの父のこと……本当なの?」
その一言に、胸の奥が重く沈むような痛みが走った。
アランは静かに杖を振り、
空中に文字を描く。
《……ええ》
ステラの眉がぴくりと動いた。
「どうして私には言わなかったの?
どうして、あんな……マグルなんかを庇うようなことを」
“マグルなんか”
その言葉が鋭く心に刺さる。
アランは息を吸い、
震える手で再び文字を書く。
生きていてほしかったから。
あの子には罪がないわ
「罪がない? 冗談でしょう」
ステラが一歩踏み込む。
黒い髪が揺れ、瞳には怒りとも悲しみともつかぬ色が宿っていた。
「あなたは純血のブラック家の正妻よ。
その立場を、誇りを……本当に理解しているの?」
アランの胸が、ずきりと痛んだ。
“誇りを理解しているのか”
娘から向けられるとは思わなかった言葉。
アランは震える文字を浮かべる。
《理解しているわ。
でも、だからこそ……救いたかったの》
「救いたかった……?」
ステラの声が押し殺した笑いのように揺れた。
「お母さま、それで私の幼い頃はどうなるの?」
アランの手から力が抜ける。
心臓がひどく締めつけられる。
「あなたはメイラを守るために、
私から目をそらしたわ」
その言葉は、凍てついた刃のようだった。
「私がどれだけ……あなたに触れてほしかったか、
どれだけ抱きしめてほしかったか、
分かっています?」
アランは一歩近づく。
腕を伸ばそうとしたが、ステラは後ろへ下がった。
「今更触れないで」
その拒絶が、胸の奥を鋭く裂いた。
アランはそれでも、震える手で文字を書く。
《ステラ……ごめんなさい。
あなたを愛していなかったわけじゃないの》
「愛?」
ステラの瞳が揺らぎ、そして怒りを飲み込んで凍りつく。
「だったらどうして私じゃなく、
あのマグルの子を守ったの?」
《どちらも守りたかったのよ。
あなたも、メイラも》
「うそよ」
ステラは首を横に振った。
涙はこぼれない。ただ、憤りだけが静かに滲む。
「私は……あなたの“娘”よ。
なのに、どうして私じゃなく“あの子”を選んだの?」
アランの喉がきしみ、
声の出ない声が胸にこもる。
文字が震えながら空に描かれる。
《選んでなんかいない。
ステラ……あなたは誇り高く、強い子。
だから、あの頃……
私より、あなたの方がずっと……生きる力があった》
「そんなの、理由にならない」
ステラの声が震えた。
怒りではなく――痛みで。
アランの瞳が潤んだ。
それでも手を伸ばす。
《ごめんなさい。
あなたを傷つけるつもりなんて……一度もなかった》
ステラの唇がわずかに震えた。
「……許せるわけが、ないわ」
それでも、視線はほんの一瞬だけ揺れた。
幼いころ、母に抱かれた記憶を探すかのように。
アランはそっと、ふるえる文字を最後に書いた。
《それでも、あなたを愛しているわ》
ステラは目を閉じた。
涙はこぼれない。
ただ、その肩がかすかに震えた。
「……いまは、無理よ」
それだけ告げて、
ステラは背を向け、部屋を出ていった。
アランは追わなかった。
追う資格が自分にあるのかさえ、わからなかった。
ただ静かに――
娘の背中が遠ざかる音だけを聞きながら、
声の出ない喉の奥が痛みで焼けるように熱くなった。
寝室の扉を開けた瞬間、レギュラスは息を飲んだ。
アランがベッドの端に座り込み、両手で顔を覆ったまま、肩を静かに震わせていた。
嗚咽はない。
声を失った彼女は、泣くときですら音を立てない。
ただ、深く沈み込んだ呼吸が、胸の奥でひゅうひゅうと細く震えている。
レギュラスの心臓が痛むように脈を打った。
「ああ…… アラン」
彼はゆっくり膝をつき、アランの肩に触れようとして――途中で指が止まった。
触れた瞬間に崩れてしまいそうなほど、彼女は弱く見えた。
アランが泣く。
その行為そのものが、レギュラスにとっては“許されざる現実”だった。
十数年前、冷たく湿った石畳の上で、
傷だらけの体で声も出せず震えながら涙を流していた少女。
それを初めて見た日の衝撃が、胸の奥深くに焼きついたまま消えていない。
アランの涙は、あの日の記憶と結びつき、
レギュラスの精神の最も脆い部分を突き刺す。
「……ステラと、何があったんです」
問いかけても、アランは顔を上げない。
その沈黙が全てを物語っているようだった。
レギュラスはそっと、アランの手を取った。
冷たい指先。
震えが伝わってくる。
やっとアランが顔を上げる。
痛むように潤んだ翡翠色の瞳――
その色はいつでも彼を壊してしまう。
「……泣かないでください」
レギュラスは囁くしかできなかった。
自分の声が震えているのが分かる。
アランは杖を探り、震える手で文字を描いた。
《ステラが……メイラのことを……》
そこまで書いただけで、文字は涙に滲んで消えた。
レギュラスは瞼を閉じ、深く息をつく。
やはり――ステラだ。
娘の中に宿る“冷たさ”は、レギュラスが最も恐れていたものだった。
幼い頃は、あれほど素直で、笑うと父そっくりに目尻を下げていたのに。
成長するにつれ、翡翠の瞳の奥に影が落ち、
他者を遠ざけるような誇り高さが育っていった。
あれは……自分に似たのだろうか。
胸がずきりと痛む。
娘は愛し方を知らない。
誰かを守るために、自分の何かを手放すということを知らない。
誰かに尽くすことが“弱さ”だと誤解したまま育ってしまった。
それはきっと――
父としての自分の罪でもあった。
「ステラは悪意を持ってやったのですね」
アランが、泣きながら小さく頷いた。
レギュラスはアランの頬に手を添え、額を寄せた。
まるで祈るように。
「…… アラン。
あの子はまだ“愛する”ということを知らないのです」
アランは潤んだ瞳でレギュラスを見る。
「あなたは知っている。
アルタイルも、メイラでさえ……無償の愛を知っている。
でもステラだけは、誰にも寄りかかることなく、
“強くあらねばならない”と頑なに育ってしまった」
レギュラスの声が静かに滲む。
「いつか――
あの子が誰かを深く愛し、
守るために何かを捨ててもいいと思える日が来れば……
きっと理解してくれます」
アランの涙が一滴こぼれる。
レギュラスはその涙を指で拭った。
「だから……いまは、泣かないでください。
あなたが泣く姿を、僕は二度と見たくない」
レギュラスはアランをそっと抱き寄せた。
その腕の中で、アランの震えが少しずつ静まっていく。
娘と妻の間に走った深い溝。
けれどレギュラスは、その全てを抱きしめる覚悟を決めていた。
いつか必ず――あの子にも伝わる。
愛とは、守るとは、赦すとは。
そして、家族であるということがどういうことか。
レギュラスはアランの髪に顔を埋め、
そっと小さく息を吐いた。
娘の中の氷を溶かすのは、
自分たち親の責任なのだと痛感しながら――
ステラと話さなければならない――
それはずっと胸の奥で呻き続けている痛みだった。
アランが泣いたあの日から、レギュラスはずっと気に病んでいた。
あの翡翠の瞳を曇らせた少女の冷たい言葉を知り、
父として、夫として、どちらにも手を伸ばさなければならないと分かっていた。
だが、現実は残酷なほど容赦なくレギュラスの袖を引っ張る。
法務部の扉を叩く音がやけに重たく響いた。
「長官……例の“魔力無効化ポーション”に関与した女の一族が――ついに絞れました」
報告に来た部下の声は緊張に震えていた。
レギュラスの目が細く鋭くなる。
「場所は?」
「英国内のマグル居住区に潜伏しているとの情報が。
警務部はすぐに踏み込む構えですが……法務部の許可が必要で」
当然だ。
魔法族の犯罪者を追うのとはわけが違う。
マグルの居住区に踏み込むというのは、魔法省が大きく動くということを意味していた。
レギュラスは一度だけ深く息を吐いた。
「書類を出しなさい。すべてを確認してサインします。
ただし……法務部の管轄から外れないよう細心の注意を払わせるように」
「かしこまりました!」
部下が慌ただしく出ていく。
重く閉まる扉の音が、レギュラスの胸の奥まで響いた。
――また、ステラと話す時間が遠のいていく。
政務机に積まれた書類は、雪崩のように増えていった。
警務部からの要請書、潜伏先の調査報告、対策会議の議事録案……
どれも生易しい内容ではない。
今回の事件は、魔法界とマグル界双方に深い爪痕を残した。
特に――魔法族を裏切った魔法使いの女。
彼女が属する一族を探し出し、拘束し、尋問し、裁かねばならない。
世論の眼も厳しい。
少しでも判断を誤れば、魔法界の均衡すべてを揺るがす。
レギュラスは書類をめくる手を止めた。
……ステラ
机の端には便箋が一枚置かれていた。
アランがそっと差し出した“娘と話してください”という静かな願い。
墨色の文字は薄く滲んでいた。
あの日の泣き顔が胸に刺さる。
『あなたが説明してあげて』
『ステラには、父親しか言えないことがある』
アランの言葉――いや、書いた文字の重みを、レギュラスはひしひしと感じていた。
本来なら、政治より優先すべきは家族だ。
だが、いまはその理想すら叶えられない。
魔力無効化ポーションは、魔法界にとって“生命線を奪う兵器”だった。
それに手を貸した魔法族の女……彼女の一族を取り逃がせば、再び同じ悲劇が起こる。
……守らねばならない。魔法界を。そしてアランと、アルタイルと……ステラを
娘の名前を胸中で思うたびに、苦味が増した。
父として向き合うべき時だと分かっていながら、
国家の危機に真正面から立たねばならない現実が、レギュラスの背を押していく。
彼は長い指で署名を記す。
力強く、迷いのない筆跡で。
「……すみません、ステラ。
いまだけは……父親ではなく、法務部の長官でいさせてください」
誰にも届かない小さな独白だった。
書類が回収されると同時に、遠くで重い鐘のような音が鳴る。
魔法警務部が動き始めた合図だ。
部下が駆け足で戻ってくる。
「長官! 指示、受理しました!
これより警務部、魔法族裏切り者の一族の確保に向かいます!」
レギュラスはわずかに頷く。
「動かしなさい。
マグルに悟られないよう……迅速に」
「はっ!」
部下の姿が消える。
静寂が戻る。
だがその静寂は、嵐の目の中のような息苦しい重さを帯びていた。
レギュラスは立ち上がり、
窓から魔法省の広場に目を落とした。
人々がざわついている。
対抗薬の治験が始まり、
マグルの関与者探索が進み、
魔法界全体が緊張に包まれていた。
……ステラ。
娘の心の中の炎も、見過ごせばいつか大きな危機となる。
彼女の冷たい瞳を思い出して胸が締めつけられる。
本当なら、一番に向き合わなければならない娘。
だが――“国”が先に炎上し始めた。
レギュラスは静かに目を閉じた。
必ず話す。逃げない。
だが……いまだけは待っていてください」
父としての痛みを押し殺し、
レギュラスは法務部の長官として机へ戻った
魔法省の最上階──
戦闘訓練室に続く廊下で、シリウスは重たい足取りのまま立ち止まった。
壁にかかった時計の針が“魔法警務部出動”を示す赤色に変わった瞬間、
胸の奥にひやりとした感覚が走った。
……本気で動くつもりか、法務部は。
魔力無効化ポーション事件で、ついに“魔法族を裏切った魔法使いの女”の一族が割り出された。
だが、その潜伏先は──マグルの地域のど真ん中だった。
シリウスは舌打ちする。
苛立ちというより、恐れに近いものだった。
やり方が悪すぎる。タイミングも、手段も……最悪だ。
魔法警務部がマグル居住区に踏み込むなど、普通ならば考えられない。
それを堂々と許可したのは、レギュラス・ブラック──
魔法界で最も冷静で、最も危険な男。
だが、今回は違う。
今回の動きは、あまりにも“尖りすぎている”。
シリウスは騎士団本部の会議室へ向かった。
扉を開けた瞬間、仲間たちのざわめきが耳に刺さる。
「マグルの区域だぞ!? 魔法警務部が行けば、どう見ても“攻撃”じゃないか!」
「騎士団が表立って反対すれば、闇の陣営に“マグル側に立つ”と揚げ足を取られるぞ!」
「だが──亀裂が広がる。魔法族とマグルの関係が……また!」
皆、焦りと恐怖を隠せていなかった。
シリウスは机を拳で軽く叩いた。
「まずいぞ、これは」
一瞬で静まる室内。
シリウスは低く、しかしはっきりと告げた。
「今回の警務部の動き……“見せしめ”に近すぎる。
マグルに対して、あまりにも威圧的だ。
騎士団としては反対すべきだが──ただ反対するだけでは止まらない」
仲間が息を呑む。
「……レギュラス・ブラックが動いているからか?」
「そうだ」
シリウスは拳を握った。
血が滲むほどの力で。
「レギュラスは“魔法界の秩序”のためなら……
マグル界に恐怖を植えつけることすら厭わない。
いまの法務部は──正義じゃなく、制圧の論理で動いてる」
バン、と資料が投げられる。
そこには
“魔法省警務部:特別許可により踏み込み決行”
の文字。
「馬鹿げてる……これじゃ、戦争だ」
誰かが震えた声で言った。
シリウスは深呼吸をして、椅子に身を預けた。
アルタイル、あいつはどう思うだろう……
アラン。
レギュラスに寄り添うことで、いつのまにか巻き込まれている。
しかも今回の件は── アランの存在が世論を動かしたことで、レギュラスの権限がさらに強まった“結果”でもある。
胸が痛む。
アランがこれを知れば、きっと心を痛める。
だがレギュラスは、妻を利用して政治を進めることに一切迷いがない。
……あいつは、家族と政治を同じ天秤にのせられるタイプだ。
両方守れるのが当たり前だと、そう思ってる。
だがそれは、普通の人間にはできないやり方だ。
アランを知るシリウスだからこそ、胸がざわつく。
騎士団の若手が声を上げた。
「どうすれば……どうすれば止められるんですか」
「止める……か」
シリウスは目を細めた。
この状況を止めるには、たった一つの方法しかない。
「レギュラス・ブラック本人に、“政治の冷えた刃”を自覚させるしかない」
「しかし、あのブラックにそんなことを……!」
「無理だ。まともに言葉が通じる相手じゃない」
仲間が絶望した顔になる。
シリウスは苦笑し、椅子を蹴って立ち上がった。
「だが──俺は行くよ。
正面突破以外、方法がねぇ」
「シリウス!」「相手はブラック長官だぞ!?」「命を削る気か!」
ざわめく仲間たちの中で、シリウスだけが静かに目を閉じた。
(…… アラン)
胸の奥に浮かぶ、あの優しい笑顔。
あの翡翠の瞳。
声を失いながらも、誰よりも優しい心を持つ女。
おまえの夫は、いま……危険な方向に傾きかけてる。
もしレギュラスがこのまま“恐怖政治”に踏み込めば──
魔法界全体が取り返しのつかない流れに呑まれる。
だから止めなければならない。
どれほど危険でも。
どれほど憎み合う間柄でも。
……まだ間に合ううちに、叩きつけてやらねぇとな。
シリウスはコートを翻し、騎士団本部を出た。
向かう先は──
法務部長官室。
レギュラス・ブラックのいる場所。
嵐の前の、張りつめた空気。
その中を歩きながら、シリウスの胸にはただひとつの覚悟だけがあった。
「絶対に……止める。
あの男を。この危険な流れを」
静かな怒りと焦燥だけが、彼の歩を前へ押した。
魔法省法務部──
長官室の静寂を破ったのは、乱暴に開かれた扉の音だった。
レギュラスは書類から目を上げる。
予告もなく踏み込んできた影──
黒い外套を翻し、烈火のような目をした男。
「……シリウス」
その名を呼ぶだけで、空気が鋭く張り詰めた。
「話がある」
「許可していませんが」
「聞く気もねぇからな!」
シリウスは机に両手をつき、身を乗り出す。
その動きはいつもの軽薄さではなく、怒りの芯だけでできているようだった。
「お前、本気でやるつもりか。
マグルの区域にまで警務部を突っ込ませるなんざ──戦争だぞ、レギュラス」
「必要な措置です」
レギュラスは淡々と書類に視線を戻す。
だがシリウスは言葉を止めなかった。
「必要……? ふざけるなよ。
誰のために動いてるつもりだ? 魔法族のためか? 世論のためか?
それとも──」
鋭い視線が突き刺さる。
「アランのためか?」
レギュラスの手がぴたりと止まった。
胸の奥に冷たい怒気が灯る。
「……少し黙ってもらえます?」
「黙ってられるかよ!」
怒鳴り返す声が、長官室の壁に反射して響く。
「お前の政治のやり方のせいで、魔法界全体が冷え込んでる。
その流れにアランまで巻き込まれてるんだぞ!」
「アランを引き合いに出さないでもらえますか」
低く、震えるような怒りがにじむ。
だがシリウスは食い下がる。
「出さずにいられるかよ!
あいつはお前の判断で、まるごと政治の道具にされてんだ!」
「道具などと──」
「じゃなきゃ、あんな公の場に連れ出すか!?」
レギュラスは立ち上がった。
椅子が床を擦る音が鋭く響く。
距離が縮まった瞬間、互いの体温が触れそうなほど近くなった。
「シリウス。
あなたは── アランについて語る資格はありません」
「は? 俺がどれだけ──」
「黙ってください」
冷たい声が、空気を一瞬で凍らせた。
レギュラスの中で、怒りと嫉妬と警戒が渦を巻く。
シリウスがの名を口にするたび、胸の奥に刺ができる。
なぜこの男の口から、の名前を聞かなければならないのか。
何度も、何度も。
アランを守ると言っていたシリウスの声が蘇るたびに、心の底で炎が揺れた。
「あなたの口からアランの名前が出ること自体が不快です。
二度と妻を引き合いに出すないでください」
「……妻、ね」
シリウスは乾いた笑いを漏らした。
「お前が守ってるのは妻じゃねぇ。
自分の“正しさ”を証明するための盾だろ」
「言葉を選んでもらっていいです?」
「慎む気はねぇ!
アランが何を感じてるか、お前は何ひとつ見てねぇ!」
胸ぐらを掴まれた。
レギュラスは反射的にシリウスの手を払い除ける。
「あなたこそ何もわかっていない。
アランの幸せも、アランの選択も。
そして── アランが今どこにいるかも」
「なんだと?」
「あなたではない。“僕の隣”です」
シリウスの瞳が怒りと痛みに揺れた。
机上の書類が大きく揺れるほど、二人の視線が激突する。
沈黙。
しかしその沈黙には、剣よりも鋭い敵意が満ちていた。
先に視線を逸らしたのは──シリウスだった。
「……もういい」
シリウスは外套を払うように肩を振り、背を向けた。
「だが覚えておけ、レギュラス。
今のお前の政治は、まっすぐ“破滅”に向かってる」
「あなたに言われる筋合いはありません」
扉が勢いよく閉まる。
長官室には、レギュラスひとりだけが残された。
深く息を吐く。
シリウスの声がまだ耳に残っていた。
アランの名前を侮辱でも褒美でもなく、純粋に「心配」のために口にした声。
その事実すら腹立たしかった。
夜の屋敷は、ひどく静かだった。
石造りの廊下は足音ひとつ響かず、冷えた月光だけが、磨かれた床に淡い光の線を引いている。
ステラ・ブラックは階段を下りる途中で立ち止まり、手すりに指をそえた。
ふと、階下から微かな声が聞こえた気がしたからだ。
──母の、嗚咽。
すぐに気づいたが、ステラは耳を澄ませようとはしなかった。
その声の意味も、理由も、だいたい分かっていたから。
母が泣く時はいつだって同じだ。
他者に傷つけられた時ではなく、自分のせいで誰かが傷ついた時。
その優しさを、ステラはずっと理解できなかった。
理解したくもなかった。
ステラは階段を再び上がり、廊下の窓から庭を見下ろした。
白い月光が芝に降り注ぎ、夜露が宝石のように反射している。
美しい光景だった。
けれどステラの胸には、冷たい感情だけが浮かんでいた。
──この世界は、結局、力のある者が勝つ。
純血の家に生まれ、ブラックの名を背負い、何不自由なく育った自分。
その座に座るだけで、誰も逆らえない。
では母はどうだ。
声を奪われ、家を奪われ、一族を奪われ、
血筋の価値だけでブラック家に迎えられた女。
本来なら“象徴”として大切にされるはずのその存在が、
あの純血至上主義の屋敷では、ただの弱者でしかなかった。
弱さを持つものは、踏まれる。奪われる。沈む。
それがこの世界の構図だった。
母は優しい。
メイラを“娘のように”可愛がった。
そう言って目を細めた。
ステラは、それが許せなかった。
母が誰かを愛せば愛すほど──その愛は私の取り分から削られた。
たった一人の母なのに。
なぜ、弱いものばかりを守るのか。
なぜ、娘ではなく他者にばかり手を伸ばすのか。
アルタイルには十分すぎるほどの愛情を注ぎ、
メイラには娘のように接し、
ステラには……“自立した娘”として静かに見守るだけ。
それを「平等」だと思っている。
優しさのつもりなのだろう。
でも──その優しさは、とても残酷だった。
だって、力のないものに手を差し伸べれば……
その分、誰かの手を離すことになる。
母の涙の理由をステラは知っている。
メイラを泣かせてしまったことを悲しんでいるのだろう。
滑稽だと思った。
この世界は“弱さ”を庇ったものが負ける世界なのに。
父も同じだ。
レギュラス・ブラックという男は、本来なら誰よりも強く、冷酷で、“勝者である側”の人間なのに。
マグルの少女のために罪を背負い、
母のために倫理を曲げ、
メイラを屋敷に置くために祖父母と衝突し、
弱者のために、自分の強さを削ってきた。
それを、愛と呼ぶのだろう。
愛があれば正しさは曲げてもいいと……?
そんな理屈、どこに通用するというの。
ステラは小さく、冷たい笑みを浮かべた。
その時、遠くの廊下で扉が開く音がした。
父が帰ってきたのだろう。
彼の足音はいつもと変わらず静かで、ぶれることなく、迷いなく、正確だった。
その足音に母はどんな顔を向けるのだろう。
答えは簡単だった。
泣きはらした目を隠すように微笑み、
夫の背負う冷たさを自分の胸で受け止めるように寄り添うはずだ。
──ああ、そういう世界なのね。
誰かが誰かを愛するために、
誰かが誰かを犠牲にする。
それを“美しい”と呼べる人だけが幸せになれる。
自分はきっと、その価値観を持てない。
だからステラは、月の光に照らされながら、ひとり静かに笑った。
「本当に滑稽な世界だわ」
その声音には、幼さはもう欠片も残っていなかった。
あるのはただ──
この世界の構図を見切った少女の、冷たい諦観と、張りつくような孤独。
シリウスが屋敷の庭門をくぐった時、秋の風がさらりと吹いた。
木々が揺れ、落ち葉がはらりと舞う。
その間を歩くシリウスは、どこか疲れた顔をしていたが、アランの姿を見つけた瞬間、ほんの少しだけ表情を緩めた。
アランは玄関先に立っていた。
薄手のローブの裾が風で揺れ、翡翠の瞳が柔らかく光る。
「…… アラン」
声に滲む安堵と、隠しきれない焦り。
シリウスは近づきながら、胸の奥のざわめきを抑えようとしているように見えた。
アランは彼の姿を見るだけで、胸が温かくなる。
久しぶりに会えたことが嬉しくて、自然と頬がほころんだ。
けれど──今日はひとつだけ伝えなければならないことがあった。
静かに杖を振る。
レギュラスを……責めないでほしいの
シリウスの歩みが止まった。
風が止まり、空気だけが重苦しく張りつめる。
「アラン……」
騎士団の“正義”を掲げて魔法界を歩く男と、
法務部の冷酷な決断を背負って進むレギュラスブラック。
二つの正義は決して交わらない。
そしてシリウスの言葉の切先は、いつもレギュラスに向けられてしまう。
アランは胸に手を当て、もう一度杖を振った。
あの人が倒れたら……私は、一緒に倒れてしまう。
それは“愛しています”と告げる以上に強い言葉だった。
シリウスは目を伏せ、手を固く握り締める。
「そこまでして……レギュラスを、守りたいのか」
アランは頷いた。
迷いも、揺れもなかった。
たとえ自分の命を差し出すことになっても、
あの人を守れるなら構わない──
そんな覚悟が、揺るぎなく胸にあった。
シリウスは、しばらく言葉を失っていた。
喉の奥で何かがつかえ、苦しそうに息を吐き出す。
そして、ようやくかすれた声が落ちる。
「……そうか」
沈黙が落ちた庭に、枯葉を踏む音だけが響く。
「もし……もしもだが」
シリウスは顔を上げた。
その灰色の瞳は、初めて見るほど真剣で、そして痛々しかった。
「俺がお前を──“幸せにしたいんだ”って言ったら……
お前は……苦しむか?」
風が止まり、世界が音を失った。
アランはその言葉を、胸の奥でゆっくりと転がした。
理解しようとする。
でも、どうしたって答えはひとつしか出てこなかった。
杖を振る。
「わたしは、今十分幸せです……」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせるように静かだった。
でも嘘ではない。
本当に、今の自分は幸せだった。
レギュラスと過ごす静かな夜。
積み上げた日々。
守り合い、寄り添い合い、怒りも涙も抱えて歩いてきた年月。
誰かと比べるものではない。
誰かに塗り替えられるものでもない。
「……そうか」
シリウスは少しだけ笑った。
泣きそうにも、諦めたようにも見えた。
「幸せなら……それでいいんだ」
その声はひどくやさしく、けれどどこまでも寂しかった。
もしレギュラスと出会わなければ──
アランはきっとこの男に恋をしていた。
そう思えてしまうほどに、シリウスはまっすぐで、温かくて、愛に満ちたひとだった。
気を取り直したように、シリウスは明るく笑った。
「……なぁ、アラン」
その声に、ようやくいつもの軽やかさが戻る。
「たまにはさ。こうして、お前の可愛い笑顔を見せてくれよ。
それだけで、仕事の疲れが全部飛んじまうからさ」
アランは思わず笑ってしまった。
にっこりと、月の光を受けて柔らかく。
シリウスはその笑顔を見つめ、胸の奥でそっと息を吸った。
幸せそうなその表情が、彼には眩しくて仕方がなかった。
──もう、手を伸ばすことのない幸福。
それでも、守りたいと思ってしまう幸福。
シリウスの瞳に、ほんのわずかに揺れる光が宿った。
「……ありがとうな、アラン」
それは、心からの言葉だった。
夜の帳が屋敷を包み、窓の向こうに揺れるランプの灯りだけが静かに廊下を照らしていた。
レギュラスはまだ執務室にいて、戻る気配はない。
アランはひとり、寝室のソファに腰を下ろしていた。
ふと、肩がわずかに震えた。
胸の奥で、先ほどのシリウスの言葉が何度も何度も反響していた。
「……もしもだ。俺がお前を幸せにしたいんだって言ったら……お前は苦しむか?」
そのときは、意味がよく分からなかった。
いや──分からないふりをしたのかもしれない。
アランはそっと膝を抱えた。
心臓の音が、妙に大きく響いている。
シリウスの顔。
あの、普段は明るくて、強くて、どこか少年のようなまなざしが、
あのときだけはほんの少し沈んでいた。
そして言葉の端に混じった、かすかな震え。
何かを言いかけて、いつも避けてきたものを、あの瞬間だけ掴んで見せようとしていた。
そんな気がした。
アランは胸の上に手を置く。
指先の下で、とくん、とくんと脈が跳ねる。
(幸せに……したい?)
あれは──どういう意味だったのだろう。
シリウスは、家族のように優しくて、兄のように頼もしくて。
世界の見方をたくさん教えてくれた人だった。
けれどその“幸せにしたい”は、どこか、兄でも家族でも、友人でもない響きを孕んでいた。
アランは小さく首を振った。
レギュラスがいる。
夫がいて、子どもがいて、自分は十分に満たされている。
幸せだと、嘘ではなく心から言える。
それなのに──その言葉だけが胸をざわつかせる。
どうして……こんなふうに胸が痛むのか。
シリウスの問いは、責めるものでも、奪うためでもなく。
ただ、そこにある気持ちを形にしただけのように思えた。
もし、あのとき。
「苦しむ?」ではなく、
「俺が、お前を愛していると言ったら──」
そんな言葉が続いていたとしたら。
自分はどうしたのだろう。
答えを選べただろうか。
それを想像してしまった自分に気づいて、アランは大きく息を吸った。
シリウスは、そんなことは言わない。
言う資格がないと、自分で分かっているのだろう。
だから言わなかった。
あの寂しい笑みが胸に残る。
レギュラス以外の誰かから、あんなふうに感情を向けられるとは思っていなかった。
嬉しいのか、怖いのか、罪悪感なのか。
それすらも曖昧で、形にならない。
アランは胸に手を当てる。
「あ……」
声は出ないが、喉の奥がかすかに震えた。
胸の奥のざわつきは、まるで自分の内側で羽ばたく何かのようだった。
そのとき、寝室の扉が静かに開いた。
「アラン?」
レギュラスの低い声。
アランは慌てて顔を上げ、微笑もうとしたが──
その目元には、かすかな涙の跡が残っていた。
レギュラスが歩み寄る。
「泣いていましたか?」
優しく頬に触れてくるその手に、アラン^_^は胸がぎゅっと締め付けられた。
なぜ泣いたのか──言えない。
これは悲しみではなく、
ただ心が揺れただけの涙だから。
アランは首を振り、小さな笑みを返す。
レギュラスは安心したように息を吐き、アランを抱き寄せた。
その腕の中で、アランはそっと目を閉じる。
胸の奥のざわつきは、静かに沈んでいった。
──でも、完全には消えなかった。
その夜、アランは眠りにつくまでずっと、
シリウスの「もしも」という言葉をひっそりと抱え続けていた。
屋敷に戻った瞬間──空気の温度が、わずかに違っていた。
夕刻の光が廊下を金色に染め、静かな屋敷の中にいつもと変わらぬ穏やかさが流れている。
しかし、アランの立つ場所だけ、淡く揺れているように見えた。
レギュラスはゆっくり歩き、アランの前に立つ。
彼女は微笑もうとしていたが、ほんの一瞬だけ視線が揺れた。
その微細な乱れが、レギュラスの胸をざわつかせた。
「…… アラン」
声は静かだった。
しかし、その奥にはかすかな緊張がひそんでいる。
「この屋敷には強力な結界呪文が張られています」
アランの肩がピクリと震えた。
レギュラスは続ける。
淡々と、丁寧に──けれど確実に威圧を含ませながら。
「外部からの攻撃呪文はすべて無効化されますし、
結界を侵入した者の魔力は……必ず痕跡として残るようになっています」
アランは息を呑んだ。
胸の前で指先がわずかに縮こまる。
やはり──何か隠している。
確信が胸を冷たく走り抜けた。
シリウスの顔が、瞬間的に脳裏に浮かぶ。
あの男なら、残留魔力を消しながら侵入することなど造作もない。
だが── アランに“自分が不在の間に誰が来たのか”気づく術があると分からせたかった。
レギュラスはゆっくり言葉を重ねた。
「この屋敷に……不用意に人を入れないように、お願いしますね」
アランの喉がかすかに動いた。
その仕草が、痛いほど健気で、同時に胸のどこかをざわめかせた。
アランは杖を取り、震える指先で言葉を綴る。
《気をつけます》
その文字は、いつもの丸みが少し崩れていた。
レギュラスは目を細める。
言葉よりも、沈黙の方が雄弁に語る瞬間だった。
(……言わないのか)
ここまで話したのだから、
あの男──シリウスが来たことを認めるかと思った。
だが。
アランは最後まで言わなかった。
視線を伏せたまま、ひたすらに沈黙を守った。
それが、胸の奥をひどく疼かせる。
追及するのは簡単だった。
魔力痕を辿ればすぐに分かる。
だが。
レギュラスはその先の言葉を飲み込んだ。
アランは嘘がつけない人だ。
それでも“言わない”という選択をしたのなら──
その沈黙は、彼女なりの誠実でもあるのだと理解できてしまった。
だから、レギュラスもそれ以上は問えなかった。
沈黙が二人の間に落ちる。
重く、苦しく、それでも壊せない静寂。
レギュラスはそっとアランの頬に触れた。
その指先に、かすかな緊張と乱れが伝わってくる。
何があったのですか、アラン。
問いは心の中に沈めたまま、
レギュラスはただ彼女の温度を確かめ続けた。
その夜、彼はいつになく遅くまでアランの手を離さなかった。
まるで、失いかけた何かを確かめるように──。
メイラは寝室の椅子に座ったまま、ぼんやりと両手を見つめていた。
自分の手が、いつもより重たく見えた。
アランに抱きしめられて泣き崩れてから、
ずっと胸の奥で何かが渦を巻いている。
——どうして、父は。
どうしてあんな罪を被ったのだろう。
考えずにはいられなかった。
自分のために。
自分を、この世に残すために。
自分が病で死なないように。
“罪を被る”という言葉の重さを、メイラは今ようやく理解した。
あれは単なる取引なんかじゃない。
恐怖でも、脅しでもない。
……愛だ。
自分を救うために、父は世界に背を向けた。
罪を被り、生きて戻れない場所に送られると分かっていても、
その未来を選んだ。
父の愛の輪郭が、ようやく胸の奥で静かに形を成していく。
メイラの喉が詰まった。
涙がまた溢れそうになる。
そこからさらに思考が進む。
罪を被らせた魔法族——
それが、レギュラスブラックだった。
メイラはその事実に気づいた瞬間、
胸の奥に冷たい風が吹き抜けたように感じた。
自分を救ってくれた“恩人”だと思っていた男が、
父に罪を着せた張本人だった。
寒気がした。
世界がぐらりと揺れた。
だが、メイラはそのあとすぐに気づく。
……でも、あの人は約束を破らなかった。
魔法族が、マグルのために医務魔法使いを動かすなんて異常なことだ。
しかも純血主義の象徴であるブラック家の男が。
取引だったとしても、
医治を施した時点で、レギュラスは“義務以上のこと”をしていた。
そして——
病を治した後も、
狼人間に差し出される施設に預けるだけではなく
アランの願いひとつでメイラを手元に戻した。
どうして……そこまでしてくれたんだろう。
罪悪感だったのか。
贖罪だったのか。
それとも、アランが泣いたからなのか。
理由は分からない。
レギュラスという男の心は常に深い霧の中にあって、
簡単には見えない。
けれど、言えることがひとつだけある。
彼は“約束”を守った。
そして、“その後”も守った。
それだけは紛れもない事実だった。
施設にいた頃の記憶が、ひどく鮮明に蘇る。
――夜が来るたびに消えてゆく子供たち。
――明かりのともらない廊下。
――朝になっても戻らないベッド。
――名前を呼んでも返事のない空白。
あれが、“選別”だったのだ。
背筋に冷たいものが走る。
自分は生き残った。
たまたまじゃない。
アランが迎えに来てくれたから。
あの優しい人が、どれほど危険でも自分を置いていかなかったから。
あの人は、いつだって自分の味方だった。
ステラが嫌な言葉を投げつけても、
祖父母に冷たい目を向けられても、
アランだけは、自分を抱きしめてくれた。
母のように。
家族のように。
そして、レギュラスも。
無愛想で、優しさの見えにくい男だけれど、
あの屋敷で“マグルが息をしていること”を許したのは、
レギュラスの決断だった。
純血の頂点に立つ者が、だ。
それがどれほど異常で、どれほど大きな譲歩か——
メイラは成長してからようやく知った。
……あれが、この家から受け取れる最大限の“愛情”だったのかもしれない。
もう分からない。
正義とは何か。
罪とはどこからか。
なにが愛で、どこからが犠牲で、何が贖罪なのか。
世界はあまりに複雑で、
あまりに曖昧で、
あまりに残酷だった。
でも——
アランが泣きながら伝えてくれた言葉だけは、心の中心に残っている。
「あなたは大切な子」
「娘のように思っている」
「あなたのお父さんは、あなたを愛していた」
その言葉が、夜の闇を静かに照らした。
メイラは胸に手を当てて、息を吸った。
涙は止まらなかったが、
心はほんの少しだけ温かかった。
父の愛を知った。
アランの愛も知っている。
レギュラスの愛は分かりにくいけれど、確かにあった。
それだけで、この夜は十分だった。
部屋の扉を閉めた瞬間、ステラは背を預けるようにしてゆっくりと腰を落とした。
手のひらが細かく震えている。
呼吸が浅く、胸はひどく痛い。
メイラを問い詰めた後、返ってきた断片的な言葉と、母がメイラに教えていた事実。そこから容易に導き出せてしまう“真実”が、頭の中で何度も何度も反芻された。
——父が。
——あのブラック家の当主が。
——マグルなんかと取引をした。
その文だけで、胃の底がぐらりと揺れた。
あり得ない。
絶対にあり得ない。
あってはならない。
けれど、どう言い訳しても最終的にはアランがその少女を屋敷に置き、父がそれを許したという“結果”がすべてを語ってしまっていた。
ステラの視界がじわりとにじむ。
ステラは幼いころから教え込まれてきた。
ブラックであることは誇りであり、
純血であることは血の証であり、
魔法族として折れてはいけない線がある、と。
その矜持を、父と母は何より体現していると思っていた。
父は“決して折れぬ男”だった。
母は“純血の妻として気高くある”存在だった。
——なのに。
たった一人のマグルのために。
たったひとつの取引のために。
ブラック家は揺らいだ。
父が折れ、母が譲り、そして——幼いステラはその影でひっそりと“愛をもらい損ねた”。
その現実が、ステラの心に深い亀裂を生んだ。
「……そんな、ことで……?」
声にならないつぶやきが唇の裏で震える。
こんなもののために。
自分は母の膝を独り占めする時間さえ奪われていたのか。
気がつくと、記憶が洪水のように溢れ出した。
母に抱きつこうとしても、
その腕の中にはいつも病弱な“メイラ”がいた。
母の視線はいつもメイラの具合を気遣い、
ステラの手は空を切った。
メイラが眠る傍で、
母はその髪を撫でて、額に触れ、微笑んでいた。
——なぜあの女のために。
——なぜ自分ではだめだったのか。
あの時の寂しさ、喉の奥を灼くような嫉妬、
それを押し込め続けた幼い自分が胸の奥で泣いている。
もし……あれが父の“贖罪”だったのなら?
胸が冷たく締め付けられた。
贖罪のために置かれた女のために——
自分の母が涙をこぼすほど尽くしてきたというのか。
贖罪のために——
ステラは母の愛を分け与えられていたというのか。
そんな価値のない取引のために……?
「……許せない……」
ようやく絞り出した言葉は、
自分でも驚くほど低く、震えていた。
誇り高きブラックの名を背負う自分が、
譲歩などするはずがない。
折れるべきところでは折れない。
そこに揺らぎがあってはならない。
それなのに。
父は折れた。
母は揺らいだ。
そしてその歪みの上で、ステラは幼少期を生きていた。
どれほど寂しかったか。
どれほど欲しかったか。
母の愛をひとつ、父の誇りをひとつ。
幼い自分はずっと指の隙間から零れていくそれらを見つめ続けていたというのに。
「どうして……」
ステラは喉の奥で嗚咽を押し殺しながら、
拳をぎゅっと握った。
マグルなんかのために。
父と母の在り方が歪んでしまうなど。
純血である誇りに泥を塗るような真似を、
父がするはずがなかったのに。
……あの二人が、そんなことで傾くなんて。
ステラの心は複雑に引き裂かれていた。
——父と母を尊敬したい。
——けれど理解できない。
——許したい。
——けれど許せない。
愛しているからこそ、
その“揺らぎ”が恐ろしくてたまらない。
ブラック家の娘としての誇りと、
娘としての愛の渇望がぶつかりあい、
胸の奥で音を立てて砕けていく。
ステラは涙を拭わなかった。
落ちるままに頬を伝わせた。
この涙は弱さではない。
裏切られた誇りの重さだ。
そしてそれでも、
父と母を愛している自分の苦しさそのものだった。
その夜、屋敷には不自然な静けさがあった。
暖炉の火だけがぱちぱちと乾いた音を立て、
廊下には誰の気配もない。
アランは自室に戻る途中、
ふいに背後で足音が止まるのに気づいた。
「……お母さま」
その声は、いつになく硬かった。
振り返ると、ステラが闇のような瞳で立っていた。
アランの胸がかすかに震えた。
あの子の瞳――幼いころはもっと柔らかかったはずなのに。
ステラはドアをゆっくり閉め、
ふたりきりの空間を作ると、その場に立ったまま口を開いた。
「質問がありますの」
アランは頷き、杖を握りしめる。
何を問われるか――もう察していた。
「メイラの父のこと……本当なの?」
その一言に、胸の奥が重く沈むような痛みが走った。
アランは静かに杖を振り、
空中に文字を描く。
《……ええ》
ステラの眉がぴくりと動いた。
「どうして私には言わなかったの?
どうして、あんな……マグルなんかを庇うようなことを」
“マグルなんか”
その言葉が鋭く心に刺さる。
アランは息を吸い、
震える手で再び文字を書く。
生きていてほしかったから。
あの子には罪がないわ
「罪がない? 冗談でしょう」
ステラが一歩踏み込む。
黒い髪が揺れ、瞳には怒りとも悲しみともつかぬ色が宿っていた。
「あなたは純血のブラック家の正妻よ。
その立場を、誇りを……本当に理解しているの?」
アランの胸が、ずきりと痛んだ。
“誇りを理解しているのか”
娘から向けられるとは思わなかった言葉。
アランは震える文字を浮かべる。
《理解しているわ。
でも、だからこそ……救いたかったの》
「救いたかった……?」
ステラの声が押し殺した笑いのように揺れた。
「お母さま、それで私の幼い頃はどうなるの?」
アランの手から力が抜ける。
心臓がひどく締めつけられる。
「あなたはメイラを守るために、
私から目をそらしたわ」
その言葉は、凍てついた刃のようだった。
「私がどれだけ……あなたに触れてほしかったか、
どれだけ抱きしめてほしかったか、
分かっています?」
アランは一歩近づく。
腕を伸ばそうとしたが、ステラは後ろへ下がった。
「今更触れないで」
その拒絶が、胸の奥を鋭く裂いた。
アランはそれでも、震える手で文字を書く。
《ステラ……ごめんなさい。
あなたを愛していなかったわけじゃないの》
「愛?」
ステラの瞳が揺らぎ、そして怒りを飲み込んで凍りつく。
「だったらどうして私じゃなく、
あのマグルの子を守ったの?」
《どちらも守りたかったのよ。
あなたも、メイラも》
「うそよ」
ステラは首を横に振った。
涙はこぼれない。ただ、憤りだけが静かに滲む。
「私は……あなたの“娘”よ。
なのに、どうして私じゃなく“あの子”を選んだの?」
アランの喉がきしみ、
声の出ない声が胸にこもる。
文字が震えながら空に描かれる。
《選んでなんかいない。
ステラ……あなたは誇り高く、強い子。
だから、あの頃……
私より、あなたの方がずっと……生きる力があった》
「そんなの、理由にならない」
ステラの声が震えた。
怒りではなく――痛みで。
アランの瞳が潤んだ。
それでも手を伸ばす。
《ごめんなさい。
あなたを傷つけるつもりなんて……一度もなかった》
ステラの唇がわずかに震えた。
「……許せるわけが、ないわ」
それでも、視線はほんの一瞬だけ揺れた。
幼いころ、母に抱かれた記憶を探すかのように。
アランはそっと、ふるえる文字を最後に書いた。
《それでも、あなたを愛しているわ》
ステラは目を閉じた。
涙はこぼれない。
ただ、その肩がかすかに震えた。
「……いまは、無理よ」
それだけ告げて、
ステラは背を向け、部屋を出ていった。
アランは追わなかった。
追う資格が自分にあるのかさえ、わからなかった。
ただ静かに――
娘の背中が遠ざかる音だけを聞きながら、
声の出ない喉の奥が痛みで焼けるように熱くなった。
寝室の扉を開けた瞬間、レギュラスは息を飲んだ。
アランがベッドの端に座り込み、両手で顔を覆ったまま、肩を静かに震わせていた。
嗚咽はない。
声を失った彼女は、泣くときですら音を立てない。
ただ、深く沈み込んだ呼吸が、胸の奥でひゅうひゅうと細く震えている。
レギュラスの心臓が痛むように脈を打った。
「ああ…… アラン」
彼はゆっくり膝をつき、アランの肩に触れようとして――途中で指が止まった。
触れた瞬間に崩れてしまいそうなほど、彼女は弱く見えた。
アランが泣く。
その行為そのものが、レギュラスにとっては“許されざる現実”だった。
十数年前、冷たく湿った石畳の上で、
傷だらけの体で声も出せず震えながら涙を流していた少女。
それを初めて見た日の衝撃が、胸の奥深くに焼きついたまま消えていない。
アランの涙は、あの日の記憶と結びつき、
レギュラスの精神の最も脆い部分を突き刺す。
「……ステラと、何があったんです」
問いかけても、アランは顔を上げない。
その沈黙が全てを物語っているようだった。
レギュラスはそっと、アランの手を取った。
冷たい指先。
震えが伝わってくる。
やっとアランが顔を上げる。
痛むように潤んだ翡翠色の瞳――
その色はいつでも彼を壊してしまう。
「……泣かないでください」
レギュラスは囁くしかできなかった。
自分の声が震えているのが分かる。
アランは杖を探り、震える手で文字を描いた。
《ステラが……メイラのことを……》
そこまで書いただけで、文字は涙に滲んで消えた。
レギュラスは瞼を閉じ、深く息をつく。
やはり――ステラだ。
娘の中に宿る“冷たさ”は、レギュラスが最も恐れていたものだった。
幼い頃は、あれほど素直で、笑うと父そっくりに目尻を下げていたのに。
成長するにつれ、翡翠の瞳の奥に影が落ち、
他者を遠ざけるような誇り高さが育っていった。
あれは……自分に似たのだろうか。
胸がずきりと痛む。
娘は愛し方を知らない。
誰かを守るために、自分の何かを手放すということを知らない。
誰かに尽くすことが“弱さ”だと誤解したまま育ってしまった。
それはきっと――
父としての自分の罪でもあった。
「ステラは悪意を持ってやったのですね」
アランが、泣きながら小さく頷いた。
レギュラスはアランの頬に手を添え、額を寄せた。
まるで祈るように。
「…… アラン。
あの子はまだ“愛する”ということを知らないのです」
アランは潤んだ瞳でレギュラスを見る。
「あなたは知っている。
アルタイルも、メイラでさえ……無償の愛を知っている。
でもステラだけは、誰にも寄りかかることなく、
“強くあらねばならない”と頑なに育ってしまった」
レギュラスの声が静かに滲む。
「いつか――
あの子が誰かを深く愛し、
守るために何かを捨ててもいいと思える日が来れば……
きっと理解してくれます」
アランの涙が一滴こぼれる。
レギュラスはその涙を指で拭った。
「だから……いまは、泣かないでください。
あなたが泣く姿を、僕は二度と見たくない」
レギュラスはアランをそっと抱き寄せた。
その腕の中で、アランの震えが少しずつ静まっていく。
娘と妻の間に走った深い溝。
けれどレギュラスは、その全てを抱きしめる覚悟を決めていた。
いつか必ず――あの子にも伝わる。
愛とは、守るとは、赦すとは。
そして、家族であるということがどういうことか。
レギュラスはアランの髪に顔を埋め、
そっと小さく息を吐いた。
娘の中の氷を溶かすのは、
自分たち親の責任なのだと痛感しながら――
ステラと話さなければならない――
それはずっと胸の奥で呻き続けている痛みだった。
アランが泣いたあの日から、レギュラスはずっと気に病んでいた。
あの翡翠の瞳を曇らせた少女の冷たい言葉を知り、
父として、夫として、どちらにも手を伸ばさなければならないと分かっていた。
だが、現実は残酷なほど容赦なくレギュラスの袖を引っ張る。
法務部の扉を叩く音がやけに重たく響いた。
「長官……例の“魔力無効化ポーション”に関与した女の一族が――ついに絞れました」
報告に来た部下の声は緊張に震えていた。
レギュラスの目が細く鋭くなる。
「場所は?」
「英国内のマグル居住区に潜伏しているとの情報が。
警務部はすぐに踏み込む構えですが……法務部の許可が必要で」
当然だ。
魔法族の犯罪者を追うのとはわけが違う。
マグルの居住区に踏み込むというのは、魔法省が大きく動くということを意味していた。
レギュラスは一度だけ深く息を吐いた。
「書類を出しなさい。すべてを確認してサインします。
ただし……法務部の管轄から外れないよう細心の注意を払わせるように」
「かしこまりました!」
部下が慌ただしく出ていく。
重く閉まる扉の音が、レギュラスの胸の奥まで響いた。
――また、ステラと話す時間が遠のいていく。
政務机に積まれた書類は、雪崩のように増えていった。
警務部からの要請書、潜伏先の調査報告、対策会議の議事録案……
どれも生易しい内容ではない。
今回の事件は、魔法界とマグル界双方に深い爪痕を残した。
特に――魔法族を裏切った魔法使いの女。
彼女が属する一族を探し出し、拘束し、尋問し、裁かねばならない。
世論の眼も厳しい。
少しでも判断を誤れば、魔法界の均衡すべてを揺るがす。
レギュラスは書類をめくる手を止めた。
……ステラ
机の端には便箋が一枚置かれていた。
アランがそっと差し出した“娘と話してください”という静かな願い。
墨色の文字は薄く滲んでいた。
あの日の泣き顔が胸に刺さる。
『あなたが説明してあげて』
『ステラには、父親しか言えないことがある』
アランの言葉――いや、書いた文字の重みを、レギュラスはひしひしと感じていた。
本来なら、政治より優先すべきは家族だ。
だが、いまはその理想すら叶えられない。
魔力無効化ポーションは、魔法界にとって“生命線を奪う兵器”だった。
それに手を貸した魔法族の女……彼女の一族を取り逃がせば、再び同じ悲劇が起こる。
……守らねばならない。魔法界を。そしてアランと、アルタイルと……ステラを
娘の名前を胸中で思うたびに、苦味が増した。
父として向き合うべき時だと分かっていながら、
国家の危機に真正面から立たねばならない現実が、レギュラスの背を押していく。
彼は長い指で署名を記す。
力強く、迷いのない筆跡で。
「……すみません、ステラ。
いまだけは……父親ではなく、法務部の長官でいさせてください」
誰にも届かない小さな独白だった。
書類が回収されると同時に、遠くで重い鐘のような音が鳴る。
魔法警務部が動き始めた合図だ。
部下が駆け足で戻ってくる。
「長官! 指示、受理しました!
これより警務部、魔法族裏切り者の一族の確保に向かいます!」
レギュラスはわずかに頷く。
「動かしなさい。
マグルに悟られないよう……迅速に」
「はっ!」
部下の姿が消える。
静寂が戻る。
だがその静寂は、嵐の目の中のような息苦しい重さを帯びていた。
レギュラスは立ち上がり、
窓から魔法省の広場に目を落とした。
人々がざわついている。
対抗薬の治験が始まり、
マグルの関与者探索が進み、
魔法界全体が緊張に包まれていた。
……ステラ。
娘の心の中の炎も、見過ごせばいつか大きな危機となる。
彼女の冷たい瞳を思い出して胸が締めつけられる。
本当なら、一番に向き合わなければならない娘。
だが――“国”が先に炎上し始めた。
レギュラスは静かに目を閉じた。
必ず話す。逃げない。
だが……いまだけは待っていてください」
父としての痛みを押し殺し、
レギュラスは法務部の長官として机へ戻った
魔法省の最上階──
戦闘訓練室に続く廊下で、シリウスは重たい足取りのまま立ち止まった。
壁にかかった時計の針が“魔法警務部出動”を示す赤色に変わった瞬間、
胸の奥にひやりとした感覚が走った。
……本気で動くつもりか、法務部は。
魔力無効化ポーション事件で、ついに“魔法族を裏切った魔法使いの女”の一族が割り出された。
だが、その潜伏先は──マグルの地域のど真ん中だった。
シリウスは舌打ちする。
苛立ちというより、恐れに近いものだった。
やり方が悪すぎる。タイミングも、手段も……最悪だ。
魔法警務部がマグル居住区に踏み込むなど、普通ならば考えられない。
それを堂々と許可したのは、レギュラス・ブラック──
魔法界で最も冷静で、最も危険な男。
だが、今回は違う。
今回の動きは、あまりにも“尖りすぎている”。
シリウスは騎士団本部の会議室へ向かった。
扉を開けた瞬間、仲間たちのざわめきが耳に刺さる。
「マグルの区域だぞ!? 魔法警務部が行けば、どう見ても“攻撃”じゃないか!」
「騎士団が表立って反対すれば、闇の陣営に“マグル側に立つ”と揚げ足を取られるぞ!」
「だが──亀裂が広がる。魔法族とマグルの関係が……また!」
皆、焦りと恐怖を隠せていなかった。
シリウスは机を拳で軽く叩いた。
「まずいぞ、これは」
一瞬で静まる室内。
シリウスは低く、しかしはっきりと告げた。
「今回の警務部の動き……“見せしめ”に近すぎる。
マグルに対して、あまりにも威圧的だ。
騎士団としては反対すべきだが──ただ反対するだけでは止まらない」
仲間が息を呑む。
「……レギュラス・ブラックが動いているからか?」
「そうだ」
シリウスは拳を握った。
血が滲むほどの力で。
「レギュラスは“魔法界の秩序”のためなら……
マグル界に恐怖を植えつけることすら厭わない。
いまの法務部は──正義じゃなく、制圧の論理で動いてる」
バン、と資料が投げられる。
そこには
“魔法省警務部:特別許可により踏み込み決行”
の文字。
「馬鹿げてる……これじゃ、戦争だ」
誰かが震えた声で言った。
シリウスは深呼吸をして、椅子に身を預けた。
アルタイル、あいつはどう思うだろう……
アラン。
レギュラスに寄り添うことで、いつのまにか巻き込まれている。
しかも今回の件は── アランの存在が世論を動かしたことで、レギュラスの権限がさらに強まった“結果”でもある。
胸が痛む。
アランがこれを知れば、きっと心を痛める。
だがレギュラスは、妻を利用して政治を進めることに一切迷いがない。
……あいつは、家族と政治を同じ天秤にのせられるタイプだ。
両方守れるのが当たり前だと、そう思ってる。
だがそれは、普通の人間にはできないやり方だ。
アランを知るシリウスだからこそ、胸がざわつく。
騎士団の若手が声を上げた。
「どうすれば……どうすれば止められるんですか」
「止める……か」
シリウスは目を細めた。
この状況を止めるには、たった一つの方法しかない。
「レギュラス・ブラック本人に、“政治の冷えた刃”を自覚させるしかない」
「しかし、あのブラックにそんなことを……!」
「無理だ。まともに言葉が通じる相手じゃない」
仲間が絶望した顔になる。
シリウスは苦笑し、椅子を蹴って立ち上がった。
「だが──俺は行くよ。
正面突破以外、方法がねぇ」
「シリウス!」「相手はブラック長官だぞ!?」「命を削る気か!」
ざわめく仲間たちの中で、シリウスだけが静かに目を閉じた。
(…… アラン)
胸の奥に浮かぶ、あの優しい笑顔。
あの翡翠の瞳。
声を失いながらも、誰よりも優しい心を持つ女。
おまえの夫は、いま……危険な方向に傾きかけてる。
もしレギュラスがこのまま“恐怖政治”に踏み込めば──
魔法界全体が取り返しのつかない流れに呑まれる。
だから止めなければならない。
どれほど危険でも。
どれほど憎み合う間柄でも。
……まだ間に合ううちに、叩きつけてやらねぇとな。
シリウスはコートを翻し、騎士団本部を出た。
向かう先は──
法務部長官室。
レギュラス・ブラックのいる場所。
嵐の前の、張りつめた空気。
その中を歩きながら、シリウスの胸にはただひとつの覚悟だけがあった。
「絶対に……止める。
あの男を。この危険な流れを」
静かな怒りと焦燥だけが、彼の歩を前へ押した。
魔法省法務部──
長官室の静寂を破ったのは、乱暴に開かれた扉の音だった。
レギュラスは書類から目を上げる。
予告もなく踏み込んできた影──
黒い外套を翻し、烈火のような目をした男。
「……シリウス」
その名を呼ぶだけで、空気が鋭く張り詰めた。
「話がある」
「許可していませんが」
「聞く気もねぇからな!」
シリウスは机に両手をつき、身を乗り出す。
その動きはいつもの軽薄さではなく、怒りの芯だけでできているようだった。
「お前、本気でやるつもりか。
マグルの区域にまで警務部を突っ込ませるなんざ──戦争だぞ、レギュラス」
「必要な措置です」
レギュラスは淡々と書類に視線を戻す。
だがシリウスは言葉を止めなかった。
「必要……? ふざけるなよ。
誰のために動いてるつもりだ? 魔法族のためか? 世論のためか?
それとも──」
鋭い視線が突き刺さる。
「アランのためか?」
レギュラスの手がぴたりと止まった。
胸の奥に冷たい怒気が灯る。
「……少し黙ってもらえます?」
「黙ってられるかよ!」
怒鳴り返す声が、長官室の壁に反射して響く。
「お前の政治のやり方のせいで、魔法界全体が冷え込んでる。
その流れにアランまで巻き込まれてるんだぞ!」
「アランを引き合いに出さないでもらえますか」
低く、震えるような怒りがにじむ。
だがシリウスは食い下がる。
「出さずにいられるかよ!
あいつはお前の判断で、まるごと政治の道具にされてんだ!」
「道具などと──」
「じゃなきゃ、あんな公の場に連れ出すか!?」
レギュラスは立ち上がった。
椅子が床を擦る音が鋭く響く。
距離が縮まった瞬間、互いの体温が触れそうなほど近くなった。
「シリウス。
あなたは── アランについて語る資格はありません」
「は? 俺がどれだけ──」
「黙ってください」
冷たい声が、空気を一瞬で凍らせた。
レギュラスの中で、怒りと嫉妬と警戒が渦を巻く。
シリウスがの名を口にするたび、胸の奥に刺ができる。
なぜこの男の口から、の名前を聞かなければならないのか。
何度も、何度も。
アランを守ると言っていたシリウスの声が蘇るたびに、心の底で炎が揺れた。
「あなたの口からアランの名前が出ること自体が不快です。
二度と妻を引き合いに出すないでください」
「……妻、ね」
シリウスは乾いた笑いを漏らした。
「お前が守ってるのは妻じゃねぇ。
自分の“正しさ”を証明するための盾だろ」
「言葉を選んでもらっていいです?」
「慎む気はねぇ!
アランが何を感じてるか、お前は何ひとつ見てねぇ!」
胸ぐらを掴まれた。
レギュラスは反射的にシリウスの手を払い除ける。
「あなたこそ何もわかっていない。
アランの幸せも、アランの選択も。
そして── アランが今どこにいるかも」
「なんだと?」
「あなたではない。“僕の隣”です」
シリウスの瞳が怒りと痛みに揺れた。
机上の書類が大きく揺れるほど、二人の視線が激突する。
沈黙。
しかしその沈黙には、剣よりも鋭い敵意が満ちていた。
先に視線を逸らしたのは──シリウスだった。
「……もういい」
シリウスは外套を払うように肩を振り、背を向けた。
「だが覚えておけ、レギュラス。
今のお前の政治は、まっすぐ“破滅”に向かってる」
「あなたに言われる筋合いはありません」
扉が勢いよく閉まる。
長官室には、レギュラスひとりだけが残された。
深く息を吐く。
シリウスの声がまだ耳に残っていた。
アランの名前を侮辱でも褒美でもなく、純粋に「心配」のために口にした声。
その事実すら腹立たしかった。
夜の屋敷は、ひどく静かだった。
石造りの廊下は足音ひとつ響かず、冷えた月光だけが、磨かれた床に淡い光の線を引いている。
ステラ・ブラックは階段を下りる途中で立ち止まり、手すりに指をそえた。
ふと、階下から微かな声が聞こえた気がしたからだ。
──母の、嗚咽。
すぐに気づいたが、ステラは耳を澄ませようとはしなかった。
その声の意味も、理由も、だいたい分かっていたから。
母が泣く時はいつだって同じだ。
他者に傷つけられた時ではなく、自分のせいで誰かが傷ついた時。
その優しさを、ステラはずっと理解できなかった。
理解したくもなかった。
ステラは階段を再び上がり、廊下の窓から庭を見下ろした。
白い月光が芝に降り注ぎ、夜露が宝石のように反射している。
美しい光景だった。
けれどステラの胸には、冷たい感情だけが浮かんでいた。
──この世界は、結局、力のある者が勝つ。
純血の家に生まれ、ブラックの名を背負い、何不自由なく育った自分。
その座に座るだけで、誰も逆らえない。
では母はどうだ。
声を奪われ、家を奪われ、一族を奪われ、
血筋の価値だけでブラック家に迎えられた女。
本来なら“象徴”として大切にされるはずのその存在が、
あの純血至上主義の屋敷では、ただの弱者でしかなかった。
弱さを持つものは、踏まれる。奪われる。沈む。
それがこの世界の構図だった。
母は優しい。
メイラを“娘のように”可愛がった。
そう言って目を細めた。
ステラは、それが許せなかった。
母が誰かを愛せば愛すほど──その愛は私の取り分から削られた。
たった一人の母なのに。
なぜ、弱いものばかりを守るのか。
なぜ、娘ではなく他者にばかり手を伸ばすのか。
アルタイルには十分すぎるほどの愛情を注ぎ、
メイラには娘のように接し、
ステラには……“自立した娘”として静かに見守るだけ。
それを「平等」だと思っている。
優しさのつもりなのだろう。
でも──その優しさは、とても残酷だった。
だって、力のないものに手を差し伸べれば……
その分、誰かの手を離すことになる。
母の涙の理由をステラは知っている。
メイラを泣かせてしまったことを悲しんでいるのだろう。
滑稽だと思った。
この世界は“弱さ”を庇ったものが負ける世界なのに。
父も同じだ。
レギュラス・ブラックという男は、本来なら誰よりも強く、冷酷で、“勝者である側”の人間なのに。
マグルの少女のために罪を背負い、
母のために倫理を曲げ、
メイラを屋敷に置くために祖父母と衝突し、
弱者のために、自分の強さを削ってきた。
それを、愛と呼ぶのだろう。
愛があれば正しさは曲げてもいいと……?
そんな理屈、どこに通用するというの。
ステラは小さく、冷たい笑みを浮かべた。
その時、遠くの廊下で扉が開く音がした。
父が帰ってきたのだろう。
彼の足音はいつもと変わらず静かで、ぶれることなく、迷いなく、正確だった。
その足音に母はどんな顔を向けるのだろう。
答えは簡単だった。
泣きはらした目を隠すように微笑み、
夫の背負う冷たさを自分の胸で受け止めるように寄り添うはずだ。
──ああ、そういう世界なのね。
誰かが誰かを愛するために、
誰かが誰かを犠牲にする。
それを“美しい”と呼べる人だけが幸せになれる。
自分はきっと、その価値観を持てない。
だからステラは、月の光に照らされながら、ひとり静かに笑った。
「本当に滑稽な世界だわ」
その声音には、幼さはもう欠片も残っていなかった。
あるのはただ──
この世界の構図を見切った少女の、冷たい諦観と、張りつくような孤独。
シリウスが屋敷の庭門をくぐった時、秋の風がさらりと吹いた。
木々が揺れ、落ち葉がはらりと舞う。
その間を歩くシリウスは、どこか疲れた顔をしていたが、アランの姿を見つけた瞬間、ほんの少しだけ表情を緩めた。
アランは玄関先に立っていた。
薄手のローブの裾が風で揺れ、翡翠の瞳が柔らかく光る。
「…… アラン」
声に滲む安堵と、隠しきれない焦り。
シリウスは近づきながら、胸の奥のざわめきを抑えようとしているように見えた。
アランは彼の姿を見るだけで、胸が温かくなる。
久しぶりに会えたことが嬉しくて、自然と頬がほころんだ。
けれど──今日はひとつだけ伝えなければならないことがあった。
静かに杖を振る。
レギュラスを……責めないでほしいの
シリウスの歩みが止まった。
風が止まり、空気だけが重苦しく張りつめる。
「アラン……」
騎士団の“正義”を掲げて魔法界を歩く男と、
法務部の冷酷な決断を背負って進むレギュラスブラック。
二つの正義は決して交わらない。
そしてシリウスの言葉の切先は、いつもレギュラスに向けられてしまう。
アランは胸に手を当て、もう一度杖を振った。
あの人が倒れたら……私は、一緒に倒れてしまう。
それは“愛しています”と告げる以上に強い言葉だった。
シリウスは目を伏せ、手を固く握り締める。
「そこまでして……レギュラスを、守りたいのか」
アランは頷いた。
迷いも、揺れもなかった。
たとえ自分の命を差し出すことになっても、
あの人を守れるなら構わない──
そんな覚悟が、揺るぎなく胸にあった。
シリウスは、しばらく言葉を失っていた。
喉の奥で何かがつかえ、苦しそうに息を吐き出す。
そして、ようやくかすれた声が落ちる。
「……そうか」
沈黙が落ちた庭に、枯葉を踏む音だけが響く。
「もし……もしもだが」
シリウスは顔を上げた。
その灰色の瞳は、初めて見るほど真剣で、そして痛々しかった。
「俺がお前を──“幸せにしたいんだ”って言ったら……
お前は……苦しむか?」
風が止まり、世界が音を失った。
アランはその言葉を、胸の奥でゆっくりと転がした。
理解しようとする。
でも、どうしたって答えはひとつしか出てこなかった。
杖を振る。
「わたしは、今十分幸せです……」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせるように静かだった。
でも嘘ではない。
本当に、今の自分は幸せだった。
レギュラスと過ごす静かな夜。
積み上げた日々。
守り合い、寄り添い合い、怒りも涙も抱えて歩いてきた年月。
誰かと比べるものではない。
誰かに塗り替えられるものでもない。
「……そうか」
シリウスは少しだけ笑った。
泣きそうにも、諦めたようにも見えた。
「幸せなら……それでいいんだ」
その声はひどくやさしく、けれどどこまでも寂しかった。
もしレギュラスと出会わなければ──
アランはきっとこの男に恋をしていた。
そう思えてしまうほどに、シリウスはまっすぐで、温かくて、愛に満ちたひとだった。
気を取り直したように、シリウスは明るく笑った。
「……なぁ、アラン」
その声に、ようやくいつもの軽やかさが戻る。
「たまにはさ。こうして、お前の可愛い笑顔を見せてくれよ。
それだけで、仕事の疲れが全部飛んじまうからさ」
アランは思わず笑ってしまった。
にっこりと、月の光を受けて柔らかく。
シリウスはその笑顔を見つめ、胸の奥でそっと息を吸った。
幸せそうなその表情が、彼には眩しくて仕方がなかった。
──もう、手を伸ばすことのない幸福。
それでも、守りたいと思ってしまう幸福。
シリウスの瞳に、ほんのわずかに揺れる光が宿った。
「……ありがとうな、アラン」
それは、心からの言葉だった。
夜の帳が屋敷を包み、窓の向こうに揺れるランプの灯りだけが静かに廊下を照らしていた。
レギュラスはまだ執務室にいて、戻る気配はない。
アランはひとり、寝室のソファに腰を下ろしていた。
ふと、肩がわずかに震えた。
胸の奥で、先ほどのシリウスの言葉が何度も何度も反響していた。
「……もしもだ。俺がお前を幸せにしたいんだって言ったら……お前は苦しむか?」
そのときは、意味がよく分からなかった。
いや──分からないふりをしたのかもしれない。
アランはそっと膝を抱えた。
心臓の音が、妙に大きく響いている。
シリウスの顔。
あの、普段は明るくて、強くて、どこか少年のようなまなざしが、
あのときだけはほんの少し沈んでいた。
そして言葉の端に混じった、かすかな震え。
何かを言いかけて、いつも避けてきたものを、あの瞬間だけ掴んで見せようとしていた。
そんな気がした。
アランは胸の上に手を置く。
指先の下で、とくん、とくんと脈が跳ねる。
(幸せに……したい?)
あれは──どういう意味だったのだろう。
シリウスは、家族のように優しくて、兄のように頼もしくて。
世界の見方をたくさん教えてくれた人だった。
けれどその“幸せにしたい”は、どこか、兄でも家族でも、友人でもない響きを孕んでいた。
アランは小さく首を振った。
レギュラスがいる。
夫がいて、子どもがいて、自分は十分に満たされている。
幸せだと、嘘ではなく心から言える。
それなのに──その言葉だけが胸をざわつかせる。
どうして……こんなふうに胸が痛むのか。
シリウスの問いは、責めるものでも、奪うためでもなく。
ただ、そこにある気持ちを形にしただけのように思えた。
もし、あのとき。
「苦しむ?」ではなく、
「俺が、お前を愛していると言ったら──」
そんな言葉が続いていたとしたら。
自分はどうしたのだろう。
答えを選べただろうか。
それを想像してしまった自分に気づいて、アランは大きく息を吸った。
シリウスは、そんなことは言わない。
言う資格がないと、自分で分かっているのだろう。
だから言わなかった。
あの寂しい笑みが胸に残る。
レギュラス以外の誰かから、あんなふうに感情を向けられるとは思っていなかった。
嬉しいのか、怖いのか、罪悪感なのか。
それすらも曖昧で、形にならない。
アランは胸に手を当てる。
「あ……」
声は出ないが、喉の奥がかすかに震えた。
胸の奥のざわつきは、まるで自分の内側で羽ばたく何かのようだった。
そのとき、寝室の扉が静かに開いた。
「アラン?」
レギュラスの低い声。
アランは慌てて顔を上げ、微笑もうとしたが──
その目元には、かすかな涙の跡が残っていた。
レギュラスが歩み寄る。
「泣いていましたか?」
優しく頬に触れてくるその手に、アラン^_^は胸がぎゅっと締め付けられた。
なぜ泣いたのか──言えない。
これは悲しみではなく、
ただ心が揺れただけの涙だから。
アランは首を振り、小さな笑みを返す。
レギュラスは安心したように息を吐き、アランを抱き寄せた。
その腕の中で、アランはそっと目を閉じる。
胸の奥のざわつきは、静かに沈んでいった。
──でも、完全には消えなかった。
その夜、アランは眠りにつくまでずっと、
シリウスの「もしも」という言葉をひっそりと抱え続けていた。
屋敷に戻った瞬間──空気の温度が、わずかに違っていた。
夕刻の光が廊下を金色に染め、静かな屋敷の中にいつもと変わらぬ穏やかさが流れている。
しかし、アランの立つ場所だけ、淡く揺れているように見えた。
レギュラスはゆっくり歩き、アランの前に立つ。
彼女は微笑もうとしていたが、ほんの一瞬だけ視線が揺れた。
その微細な乱れが、レギュラスの胸をざわつかせた。
「…… アラン」
声は静かだった。
しかし、その奥にはかすかな緊張がひそんでいる。
「この屋敷には強力な結界呪文が張られています」
アランの肩がピクリと震えた。
レギュラスは続ける。
淡々と、丁寧に──けれど確実に威圧を含ませながら。
「外部からの攻撃呪文はすべて無効化されますし、
結界を侵入した者の魔力は……必ず痕跡として残るようになっています」
アランは息を呑んだ。
胸の前で指先がわずかに縮こまる。
やはり──何か隠している。
確信が胸を冷たく走り抜けた。
シリウスの顔が、瞬間的に脳裏に浮かぶ。
あの男なら、残留魔力を消しながら侵入することなど造作もない。
だが── アランに“自分が不在の間に誰が来たのか”気づく術があると分からせたかった。
レギュラスはゆっくり言葉を重ねた。
「この屋敷に……不用意に人を入れないように、お願いしますね」
アランの喉がかすかに動いた。
その仕草が、痛いほど健気で、同時に胸のどこかをざわめかせた。
アランは杖を取り、震える指先で言葉を綴る。
《気をつけます》
その文字は、いつもの丸みが少し崩れていた。
レギュラスは目を細める。
言葉よりも、沈黙の方が雄弁に語る瞬間だった。
(……言わないのか)
ここまで話したのだから、
あの男──シリウスが来たことを認めるかと思った。
だが。
アランは最後まで言わなかった。
視線を伏せたまま、ひたすらに沈黙を守った。
それが、胸の奥をひどく疼かせる。
追及するのは簡単だった。
魔力痕を辿ればすぐに分かる。
だが。
レギュラスはその先の言葉を飲み込んだ。
アランは嘘がつけない人だ。
それでも“言わない”という選択をしたのなら──
その沈黙は、彼女なりの誠実でもあるのだと理解できてしまった。
だから、レギュラスもそれ以上は問えなかった。
沈黙が二人の間に落ちる。
重く、苦しく、それでも壊せない静寂。
レギュラスはそっとアランの頬に触れた。
その指先に、かすかな緊張と乱れが伝わってくる。
何があったのですか、アラン。
問いは心の中に沈めたまま、
レギュラスはただ彼女の温度を確かめ続けた。
その夜、彼はいつになく遅くまでアランの手を離さなかった。
まるで、失いかけた何かを確かめるように──。
