3章
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調査委員会初日の朝、
魔法法廷の半円形の会議室には、緊張が張りつめていた。
大理石の床はひんやりと冷たく、
壁に並ぶ古文書と魔力測定具が
魔法界の歴史そのものを静かに物語っている。
そこへレギュラスが入室すると、
すでに一番目立つ席に“騎士団代表”の名札を置き、
足を組んでふんぞり返っている男がいた。
シリウス・ブラック。
…よりにもよって、こいつを寄越すとは。
レギュラスは内心で舌打ちをした。
だが顔には出さない。
いつもの冷たい平静をそのまま表面に貼り付けた。
シリウスがニヤリと笑い、
挑発を隠そうともしない声で言った。
「おいレギュラス。
立ち上げるのが遅すぎるんだよ、お前は」
その言葉は
“ようやく重い腰を上げたか”
とでも続くような響きだった。
レギュラスは席に書類を置きながら、
深く息を吐くでもなく、ごく淡々と返した。
「鎮静と対抗策の構築が優先だったので。
混乱が続けば全てが瓦解しますから」
「本質的な解決じゃねぇよな、それじゃあ」
シリウスは机を指先でトントンと叩きながら、
皮肉げな笑みを浮かべる。
「俺たちは言ったはずだろ。
“まず裏切り者を洗い出せ”ってよ。
お前が最初からそれをやってりゃ、
今こんなに魔法界が荒れなくて済んだ」
レギュラスは書類を整え、
ふとシリウスに視線だけを向けた。
「騎士団は正義に酔いすぎですよ。
理想論だけで社会は動きません」
「事実から逃げてただけだろ?」
胸を刺すような一言だった。
だがレギュラスは反応を見せない。
むしろ、静かに息を吐いた。
「……問題を起こさないよう、お願いしますよ。
あなたが委員会に来ると、大抵場が荒れるので」
シリウスは椅子をガタンと鳴らして立ち上がり、
レギュラスに歩み寄る。
「初動が遅い方が問題だろうが。
お前みたいに計算ばかりして、
“被害者を見ない政治”が魔法界を腐らせるんだ」
その一言は、
まるで拳で胸を殴られたかのように重かった。
レギュラスはまっすぐにシリウスを見据える。
その瞳は、氷のように凍りついていた。
「……初動が遅かったと言うのなら、
それは私の責任でしょう。
だが、鎮めなければ魔法界は終わっていた。
事実は事実として、あなたも理解しているはずです」
「理解はしてる。
でも納得してねぇ。
そんなやり方で救われない奴らが山ほどいたんだよ」
兄弟というには距離がありすぎる二人が、
正面から火花を散らす。
暑苦しい。
本当に、うんざりするほど暑苦しい。
レギュラスは額に手を当てたくなる衝動を抑え、
書類をぱらりとめくった。
「……議論は委員会でどうぞ。
ここは感情のぶつけ合いをする場所ではありません」
「そうかよ。
じゃあ、“事実”に集中してやるよ」
シリウスは椅子に戻りながら、レギュラスの背中に皮肉を落とす。
「裏切り者は必ず見つけてやる。
特に、お前が庇ってる誰かがいたら面白ぇけどな」
その挑発に、レギュラスのこめかみが僅かに動いた。
庇う?
そんなことは――
ない。はずだ。
会議室の空気は、
まるで夏の雷雨前のように重く張りつめ、
他の委員たちは誰一人として口を開けなかった。
レギュラスは椅子に腰掛け、
静かに目を閉じた。
……委員会にシリウスを入れるべきではなかった
そう思った瞬間、
彼の胸の奥に、
ひどく小さな、しかし鋭い痛みが走った。
兄弟としての距離はまだ遠い。
そしてこの調査は、
それをさらに遠ざけるかもしれない。
その夜は、いつもより少し遅い帰宅だった。
玄関の扉が静かに開く音で、アランは読んでいた本から顔を上げた。
屋敷の夜灯が揺れ、廊下に伸びる影が一瞬だけ大きく歪む。
レギュラスが帰ってきた。
けれど足音には、以前まであった柔らかな弾力がない。
靴音は硬く、重く、どこか冷たい。
室内の温度がほんの少しだけ下がったようにさえ感じる。
アランはゆっくりと立ち上がり、居間の灯りを整えた。
胸の奥がふわりとざわつく。
――今日は、何があったのですか?
問いかける声を持たない代わりに、
アランは杖を握りしめる。
玄関に姿を現したレギュラスは、
いつもの黒いマントを肩から外しながら、
深く息を吐いた。
その吐息さえ、どこか冷え切っている。
アランはそっと歩み寄り、
マントを受け取った。
その布から漂うのは、いつものインクと革の匂いに混じる、
鋭い“政治の気配”――
冷たく、乾いた、誰かと衝突してきた後の匂い。
レギュラスはアランに気づくと、
わずかな微笑を浮かべようとした。
けれど、その微笑みは形だけで、
温度がない。
アランは胸がちくりと痛んだ。
杖を振り、文字を描く。
「おかえりなさい」
レギュラスは、「ただいま」と返す。
声の端に疲れが滲む。
アランは彼の手をそっと取った。
冷たく強張っている。
――今日、何があったの?
書こうとした瞬間、レギュラスが先に言った。
「……委員会が始まりました。
騎士団が、想像以上に噛みついてきます」
“騎士団”。
その言葉を聞いただけで、
アランの胸の奥に冷たい緊張が走る。
案の定、レギュラスの表情が一瞬曇った。
シリウスの名は出さなかった。
だが、出さなくても分かった。
今日、彼は“あの人”と衝突してきたのだ。
アランは手を離し、
小さく杖を動かして文字を書く。
「怒っていますか?」
レギュラスはふっと苦笑した。
「怒り……とは少し違いますね。
ただ……疲れました」
その言葉が、妙に胸に刺さる。
アランは彼の顔をじっと見つめた。
目の下の影がいつもより濃い。
肩は重たく沈み、
身体の周りにいつものあたたかい魔力の揺らぎがなく、
代わりに硬い“政治の冷気”が張り付いている。
それがたまらなく寂しかった。
アランはそっと、
レギュラスの頬に触れた。
レギュラスは目を閉じ、
ほんのわずかだけアランの手に寄りかかる。
そのしぐさに、アランの胸はぎゅっと締め付けられた。
……守りたい。
この人の、この疲れた横顔を。
政治の冷気や争いの影から、
どうか少しでも守りたい。
でも、声がない自分には
言葉で慰めることもできない。
アランはそっとレギュラスの胸に額を寄せた。
レギュラスは静かにその肩を抱いた。
「……あなたがいると、救われます」
小さな声でそう呟かれ、
アランは強く目を閉じた。
彼に寄り添うために、
もっと強くあろうと心の底で決めながら。
その夜、アランはふと気づいた。
――夫の帰宅に混じる政治の冷たい匂いを、
最近、嗅ぎ分けられるようになってしまった。
それは、愛しているからこそ感じ取れてしまう
“微細な痛み”だった
調査委員会が立ち上がってからの数日は、
魔法省の上層階にある会議室が、
まるで戦時下の司令部のような緊張を帯びていた。
魔法地図の上には何重もの封印が貼られ、
部屋の空気は、情報の重さに押しつぶされそうなほど澱んでいる。
騎士団と法務部の混成による委員たちが
休む間もなく調書を読み、
資料を分析し、
投獄されたマグルの取り調べ報告を待つ。
その中でただ一人、
レギュラスだけは静かに、
しかし冷酷な速度で全体を動かしていた。
本来、マグルに対して真実薬の魔法薬を投与することは禁忌に近い。
魔法族の倫理の根幹に触れる問題だからだ。
だがレギュラスはその禁忌を破った。
議会では激しい論争が起きたが、
魔法薬製薬会社の重鎮たちが招かれた宴で
“ アラン・ブラック”という存在を
魔法界の前に差し出したことで、
世論は一気に傾いた。
悲劇の女、セシール家唯一の生き残り。
声を奪われ、暴虐の中を生き抜いた娘。
そのアランを愛し守るレギュラスの決断なら——
「正しい」と捉える者が続出した。
レギュラスは、その世論の風を
見事に使い切った。
真実薬の投与は、
驚くほど簡単に可決された。
その翌日から、取り調べは一気に色を変えた。
嘘は薄皮のように剥がれ落ち、
マグルたちは震えながら真実を語り始める。
最初の衝撃は、
マグル側がある魔法族一族と手を組んでいたという供述だった。
魔力量の高い家系の女。
名家の人間だった。
彼女はマグルの男と恋に落ちた。
秘密裏に、深く、愚かしく。
血の違いも文化の違いも越え、
「二人で世界を変える」などという
若く浅はかな夢を語り合い、
密かに未来を誓った。
しかし彼女の願いは、
あまりにも歪で、危うかった。
真実薬の影響で、
マグルの男は涙を流しながら吐き出した。
「魔法族とマグルが、同じ地平に立つ世界が欲しかった……」
だがその“同じ地平”とは、
魔法族の魔力を奪って
マグルと同等に引き下げるという
暴力的な平等だった。
さらに共犯の魔女はこう願っていたという。
「あなたが魔力より強い“何か”を持つ世界がいいの。
魔法族があなたを見上げる世界がいい」
つまり、
彼女は愛した男を“頂点”に据えるため、
魔法族の力を殺す薬の開発に協力したのだ。
あまりにも身勝手で、
あまりに愚かで、
あまりに短絡的な願い。
だが“愛”は、愚かさを簡単に正当化してしまう。
真実薬は、
その浅はかで危うい愛を
容赦なく白日の下に晒した。
男は涙をこぼしながら証言した。
「最初は……ただ、彼女と……
二人で生きていける世界が欲しかっただけなんだ……!」
だがその願いは、
マグル社会の反魔法族武装集団に嗅ぎつけられた。
「魔法族を無力化できる薬」
その情報は、
彼らを狂喜させた。
恋人たちの幼い願いは、
一瞬で“武器”へと変換された。
利用され、
膨らまされ、
武装集団の理想へ捻じ曲げられていった。
――魔法族支配を終わらせろ。
――魔法族を弱体化させろ。
――マグルの世界を取り戻せ。
恋人同士の愚かな願いが、
この大事件の“種”だったとは。
委員会の面々は
その調書を読み、
静かな衝撃に包まれた。
誰も言葉が出ない。
レギュラスだけが、
調書を閉じて深く息を吐いた。
彼の目は、
怒りでも、軽蔑でも、悲しみでもない。
“冷酷な理解”
その色だった。
「これで決まりですね」と彼は言った。
「世論は完全にこちらの味方につく。
そして騎士団の求める“真実の追及”も満たされた」
バーテミウスが静かに頷く。
「……後は、処分を決めるだけです」
レギュラスは動じなかった。
むしろ、冷たく合理的な光を宿していた。
「では次は“共犯魔女”の洗い出しだ。
逃がすつもりはありません」
その時、
レギュラスの頭をほんの一瞬よぎったのは——
――もしアランが、
こんな愚かしい“愛ゆえの犯罪”に関わっていたら。
その想像は、
胸を締め付けるほど痛いものだった。
だからこそ、
レギュラスの声は低く、冷え切っていた。
「愛を口実にした罪ほど、醜いものはない」
その言葉に、
委員会の空気が一気に凍りついた。
魔法省の大広間に設置された掲示板には、
連日更新される“調査委員会の結果報告”が貼り出されていく。
午後の陽が差し込む窓から光が射し、
多くの市民が集まり、
その紙面を食い入るように見つめていた。
そこに書かれていた内容は、
あまりにも醜く、浅はかで、身勝手で——
魔法界全体を危険に晒した源が、
たった二人の歪んだ愛だった
という、信じ難い事実だった。
「……こんな馬鹿げた理由で……」
「ふざけるな……魔法族を巻き込んで……!」
「許されるわけがない……!」
嘆き、怒号、震える吐息。
大広間の空気が重く震えているのがわかった。
ジェームズ・ポッターは少し離れた壁に背を預け、
腕を組みながらその喧噪を静かに眺めていた。
冷静というより、
冷え切っていた。
「身勝手な愛のために魔法界全体を危険に晒すとはな……」
吐き出した声は小さかったが、
自分の中では大きな嘆息となって響いた。
しかしジェームズの視線は、
その身勝手な恋人たちの物語を追いながらも、
どこか別の方向に向かっていく。
脳裏に浮かんだのは
——レギュラス・ブラックとアラン・ブラック。
「……似ているじゃないか」
ジェームズは笑うでも怒るでもなく、
ただ、低く呟いた。
周囲の騒ぎとはまったく別の温度で。
レギュラス・ブラック。
圧倒的な血筋、富、権力、そして野心。
アラン・ブラック。
悲劇の血を宿し、声を奪われ、
気づけば“ブラック家の象徴”として
魔法界の同情を一身に集める存在。
二人は美しく見える。
確かに、誰が見ても美しい。
だがジェームズには、
その美しさの裏に
ゆっくりと倫理を腐らせる影
が見えた。
アラン自身に自覚はないのだろう。
最初はただ、救われた。
ただ、愛された。
ただ、守られた。
そのはずだった。
しかし、
ブラック家の屋敷という、
強大な富と権力が渦巻く密室の中で——
彼女は気づかぬうちに
“自分の倫理”をひとつ、またひとつと
削がれていったのだろう。
「夫の罪から目を背け、
夫を庇い、
夫の罪を肯定し、
それを“愛”だと信じ込む——」
ジェームズはそう呟き、
その哀れさに苦笑した。
アラン・ブラックは悲劇の象徴として
魔法界に持ち上げられているが、
ジェームズの目には違って見える。
もしかしたら、
彼女はもう、
自分自身がなにを許し、
なにを見落としているのかすら
理解できない場所まで連れてこられたのではないか。
ブラック家という檻は、
金色の装飾を施された豪奢な檻だ。
そこで愛され、守られたと信じるうちに——
彼女は自分自身の輪郭を、
少しずつ表面から削り取られてしまったのかもしれない。
ジェームズは深く息を吐く。
レギュラス・ブラックが行った
数々の政治判断。
彼が積み上げた冷淡な決断。
アランはどれひとつ拒めてはいない。
拒むという発想すら
奪われているように見える。
「……愛は、人を盲目にする。
そして時に、罪そのものより残酷だ」
ジェームズは壁から背を離し、
群衆の中に歩み出た。
魔法界中が“身勝手な愛”に怒り震えている。
しかしその怒りの渦中で、
ジェームズだけは別のものを見つめていた。
レギュラスとアラン。
その夫婦こそ、
もっと静かに、もっと深く、
愛という名の狂気に沈んでいるのではないか。
彼には、そうとしか思えなかった。
ホグワーツの休暇の数日。
母と二人で過ごせる時間は、アルタイルにとって特別だった。
母は体が強くない。
それをよく知っているから、
ダイアゴン横丁の雑踏の中では、
できる限り歩かせずに済むようにと気を配っていた。
「母さん、この教科書、僕が見てきます」
杖で書く母にアルタイルは笑顔で告げ、
細い路地の奥へと軽やかに駆けていく。
ほんの数分——
教材を抱えて戻ると、
そこに予想外の人物たちがいた。
赤と金のローブ。
鮮やかな瞳。
ハリー・ポッターと、その父ジェームズ・ポッター。
アルタイルは反射的に深く頭を下げる。
騎士団の名を持つ家の人間だ。
礼儀は欠かせない。
「やあ、アルタイル。君も買いに来たのかい?」
ハリーはいつもと変わらず柔らかな声で笑った。
「うん。この奥にありましたよ」
それだけの会話なのに、
母に似た穏やかな空気が流れる。
ハリーは話しやすい。
立場の違いや思想の違いを感じさせない。
だからアルタイルも自然と微笑んだ。
「お待たせしました、母さん」
紙袋を抱え直して母を見ると、
その翡翠の瞳が、わずかに影を落としていた。
何を見たのか、
誰の声を聞いたのか、
母の表情が静かに強張っている。
その理由はすぐにわかった。
アルタイルを見るジェームズの目が、
どこまでも冷たかったからだ。
「君は……父親によく似ているね」
その声音は、褒め言葉の温度ではなかった。
「はい。僕は父親似だそうです」
けれどアルタイルは素直に胸を張った。
父に似ていると言われるのは誇らしい。
父レギュラスは強く、迷わず、
魔法界の重圧をひとりで受け止める圧倒的な男だ。
だが、ジェームズの瞳には
尊敬どころか、
どす黒い感情が沈んでいた。
「そうか。
……君が、あの男の罪を引き継がないことを祈ってるよ」
静かな声だった。
けれど、そのひと言は
刃のようにアルタイルの胸にひやりと突き刺さった。
“あの男”
“罪”
“引き継がないこと”
何を指しているのか。
どんな罪のことなのか。
幼いアルタイルにはまだ分からない。
分からないが、
その言葉の裏側に潜む敵意だけは、
肌で感じ取れた。
母が突然、アルタイルの手を引いた。
強く、迷いなく、急ぐように。
まるで——
「ここから離れよう」
「聞かなくていい」
「触れなくていい」
そう訴えるように。
母の細い指はひどく冷たかった。
「……失礼します」
アルタイルは丁寧に一礼し、
その場を後にした。
ジェームズ・ポッターとは初対面のはずなのに、
あの男は——
初めから自分を嫌っていた。
父に似ているという理由だけで。
その事実だけが胸の中に重く沈んだ。
母の肩が、歩きながら微かに震えている。
杖を握る手が震えて、
袖の中で小さく音を立てている。
何に怯えたのか、
何を聞いたのか、
母は一言も書こうとはしなかった。
そしてアルタイルは思う。
父は、
外の世界からこんな目で見られているのだろうか。
そして、
その “視線” は——
いつか自分にも向けられるのだろうか。
そんな答えのない問いだけが、
ひんやりと胸の内側に残った。
人混みのざわめきが、ふと遠ざかったように感じた。
細い通路へアルタイルが消えていくのを見送り、
アランは紙袋を胸元に抱き締めながら、静かに待っていた。
買い物客の話し声。
本屋の扉が開く軋み。
杖を擦る音。
その雑踏の中で——
背筋にひやりと何かが触れた。
振り返るとそこに立っていたのは、
赤い騎士団ローブを揺らし、
人混みの光と影を背負った男。
ジェームズ・ポッター。
瞬間、アランの体がきゅっと固くなった。
呼吸がうまくできない。
胸の内側で、心臓が無防備に脈を打つ。
ジェームズの声が静かに落ちた。
「アラン・ブラック。
こんなところで君に会えるとは思わなかった」
アランは、無意識に視線を落としていた。
彼の瞳を直視する勇気がなかった。
代わりに、ジェームズの首元あたりに視線を置く。
震えを抑えて杖を持ち上げる。
こんにちは、ポッターさん。
穏やかな文字が空中に浮かぶ。
ジェームズはどこか薄い笑みを浮かべた。
優しさではなく、見透かすような薄さ。
「魔力を無効化するポーションの事件……君も聞いているだろう?」
アランは小さく頷く。
もちろん知っている。
新聞は毎日その話題で持ちきりだ。
誰もが恐れ、誰もが混乱している。
“怖い薬だ……あまりにも。”
ジェームズはさらに一歩踏み込んでくるように言った。
「レギュラスは、“関わったマグルを一掃する”つもりらしい。
君はどう思う?」
その言葉は、胸に鋭く突き刺さった。
一掃。
どこまでを?
誰までを?
なにを代償に?
なにを救うために?
アランは混乱に目を伏せ、杖を動かす。
わかりません。
ジェームズはくすりと笑った。
「良い答えだ。
“分からない”と言っておけば、
言葉に責任を持たなくてすむからね」
その声音は、鋭い刃を包んだように柔らかく、残酷だった。
胸の奥がきゅっと痛む。
ジェームズが、
「レギュラスの妻」
である自分を刺しにきていることが、
言葉の端々から嫌でも伝わってくる。
ジェームズはゆっくり視線を上げ、
低く、確かにこう言った。
「一つ教えておくよ、アラン。
もう忘れてしまったかもしれないけれど……
でも、“君は知っておくべき”ことだ」
アランは瞬時に理解した。
“聞きたくない。”
心がざわざわと騒ぎ、
立っている地面が遠くなるような感覚。
ジェームズは続けた。
「レギュラスが関わった——
あのマグル孤児院惨殺事件の犯人だった男。
アズカバンで、先日死んだよ。
獄中死だ」
音が、すべて消えた。
世界が止まった。
その男が誰なのか。
アランは知っている。
知りすぎている。
メイラの、父。
胸の中で何かがひしゃげたように痛んだ。
呼吸ができない。
喉が焼ける。
酷く冷たいものが背中を走り、
自分の心が崩れてゆく音がした。
ジェームズは、続けなかった。
ただアランの反応だけを静かに受け止めていた。
アランは、震える手で杖を握り直した。
何か言わなければ、と思った。
でも書けない。
指が動かない。
——メイラに、いつ話すべきなのか。
——話せる日なんて来るのか。
——自分は、あの子からどれだけ奪ってきたのか。
胸の奥で、罪の重さが一気に襲いかかる。
ジェームズの声だけが、ひどく遠くで響いた。
「レギュラスの罪は、
君が背負うべきものじゃない。
でも君は……背負ってしまうんだろうね」
アランはうつむいたまま、微動だにできなかった。
ジェームズはそれ以上何も言わず、
ただ静かにその場を離れていった。
足音が遠ざかっていく。
雑踏の音が、少しずつ戻ってくる。
アランは膝が震えて立っていられず、
紙袋を胸に抱きしめたまま必死に息を吸った。
その時。
「母さん?」
アルタイルの明るい声が、背中を支えるように届いた。
アランは振り返り、
息子の笑顔を見て、必死に微笑んだ。
震えたままの指で、
アルタイルの手をそっと握る。
——壊れないように。
——この子の前では、絶対に。
胸の奥に、痛みと愛が混じった。
そんな午後だった。
昼下がりの屋敷は、冬の光をゆっくりと飲み込みながら静けさに満ちていた。
ステラは書斎の隅、窓辺に置かれた長椅子に腰掛けていた。
ストーブの熱がふわりと足元を撫で、新聞紙の乾いた匂いが室内の落ち着いた空気に溶け込んでいる。
ページを捲りながら、特に興味を惹く記事もなく眺めていたその時――
視界に飛び込んできた太字の見出しに、指先が止まった。
『マグルの孤児院惨殺事件——犯人のマグル、
“アーチボルト・ウォルブリッジ”獄中死』
ウォルブリッジ。
「……ウォルブリッジ?」
ステラはその名を小さく繰り返した。
胸の奥に、針のように鋭い違和感が刺さる。
記事には、ステラの生まれるより遥か昔の事件が詳しく書かれていた。
マグルの孤児院が一夜で壊滅し、
数十名の孤児が犠牲になったという惨劇。
魔法界は当時、「魔法痕が残されている」という理由だけで大騒ぎしたらしい。
魔法族の関与を疑う声があった、と。
――なぜ?
ステラは眉を寄せた。
孤児。
マグル。
何も持たず、何の価値もない存在。
彼らが死んだところで、
倫理的に悲しむ者すらいない。
血統もなければ、未来への影響力もない。
たとえ魔法族が関わっていたとしても、騒ぐ価値などない。
「……理解できないわ」
ページを捲る手は落ち着いていたが、
ステラの心は、別の部分でざわついていた。
ウォルブリッジ。
その姓名に、あまりにも覚えのある名が混じっている。
“メイラ・ウォルブリッジ。”
ずっと、母アランのそばに侍っている。
家族の一員のごとく食卓にも同席することがある。
幼い頃から母を独占するように振る舞うマグル。
ステラは薄く目を細めた。
そういえば、と気づく。
——母アランから、メイラの“生い立ち”を聞いたことが一度もない。
——父レギュラスからも、説明を聞いた覚えがない。
気がつけば当然のようにそのマグルは屋敷にいて、
当然のように母に付き従い、
当然のように父からも雇われている。
不自然なほどに、“両親はメイラについて語らなかった”。
……出生を隠す理由でもあるの?
ウォルブリッジという姓。
孤児院惨殺事件の加害者。
記事の中でその名を見た時、
ステラの直感がひどく強く反応した。
「……調べる価値はあるわね」
ステラは新聞を静かに畳み、
長椅子からすっと立ち上がった。
まずは、簡単なところから。
魔法省の公開記録を調べる。
屋敷の書斎にある魔法省データベース接続用の魔法端末へ向かった。
一般に公開されているマグル犯罪者の情報は閲覧できる。
——“アーチボルト・ウォルブリッジ”の家族欄。
空白だった。
「……空白?」
あるべき欄が“意図的に削除されたような空白”だった。
ステラの瞳が冷たく光る。
続いて事件当時のアズカバン収監ログを辿る。
簡素な手続き記録がある。
“拘束後の身内引き取りなし”
“幼い娘がいた可能性の報告あり(確認できず)”
「幼い……娘……」
ステラは画面から視線を離し、
息が少しだけ詰まった。
どう考えても、
メイラ・ウォルブリッジの存在と一致する。
魔法省のマグル保護局が持つ“魔法界に関係したマグル一覧”にアクセスする。
そこには、確かにあった。
『MEIRA WALBRIDGE』
保護者欄にはこう記されていた。
『出生後すぐ所在不明、保護者情報——“ケズウィック地域のマグル家庭に預けられる”』
ステラはゆっくりと椅子にもたれた。
「……やっぱり。
関係がある。」
否定できる余地がなかった。
あのマグル……そんな血を引いていたの?
屋敷でずっと母のそばに立っているメイラ。
自分には理解できないほど柔らかく微笑む母。
何度も母に触れる。
自分には向けられたことのない、あたたかい眼差し。
その相手が——
あの惨殺事件の加害者の娘?
許せるはず、ないじゃない……。
胸の奥で熱いものが泡立つ。
怒りでも憎しみでもない。
もっと複雑で、
もっと形のない、不快な感情。
“嫌悪”。
“警戒”。
“拒絶”。
そしてほんのわずかな——
“母を奪われるような痛み”。
「……調べきらなきゃ」
父も母も言わないのなら自分が掴むしかない。
ウォルブリッジ。
メイラ。
そして母アラン。
父レギュラス。
この4つの点が、一本の線で結ばれている。
その線を解かずに放置するほど、
ステラは鈍くも愚かでもない。
ステラは椅子から静かに立ち上がった。
まだ調べられる場所はある。
魔法省の記録室。
ホグワーツの古い書庫。
そして——メイラ本人。
ステラの瞳が翡翠のように鋭く光った。
「あなたの出自を暴かせてもらうわ、
メイラ・ウォルブリッジ。」
静かな屋敷の空気が、
ひたひたと緊張を孕んで揺れた。
屋敷は夕方特有の、紫がかった淡い光に包まれていた。
燭台の炎が廊下の壁に揺らぎ、どこかゆっくりとした静けが落ちている。
ステラは自室を出て、まっすぐにアランの私室へ向かった。
歩くたびに、靴音が冷たく石畳に反響する。
——メイラは今、母の部屋で作業をしている。
そう執事に聞いたばかりだった。
胸の奥で何かがぴんと張りつめる。
怒りでも、嫉妬でもなく。
“確かめなければならない”という、鋭い責務のようなもの。
扉の前で足を止め、軽くノックした。
「メイラ。います?」
「……はい、ステラ様」
少し緊張を含んだ声だった。
扉が静かに開き、
メイラがほそりとした肩を揺らしながら姿を見せた。
メイラはいつものように柔らかな表情で、
手には畳んだばかりのアランのガウンを抱えていた。
「アラン様お着替えを……戻していたところです」
声は小さく、遠慮がちで、
魔法族独特の鋭さを欠いた——“マグルの女の声”だった。
ステラはその声音が妙に胸につかえて、
微笑みもせず部屋へ入った。
「少し、話せるかしら」
メイラは戸惑ったように瞬きをする。
「……はい。なんでしょうか」
ステラは部屋の中央に進み、
窓からの淡い夕光の中に立った。
シルエットになった自分の姿が、床に細く伸びている。
メイラは正面で直立し、
少し緊張しているようだった。
「あなた、魔法界に来る前のことって……どれくらい覚えているの?」
メイラはきょとんとした。
「え……? あまり……はっきりとは……」
その無防備な表情が、ステラの心にざらりとした 違和感を生む。
本当に何も知らないの……?
それとも、知らない“ふり”をしているの?
「覚えている限りでいいわ。
どんな生活をしていたの?」
少し間があった。
メイラは、そっと視線を落として言う。
「父と……ふたりで暮らしていました。
父は、あまり家には帰ってこなかったけれど……とても優しい人でした」
ステラの胸が冷たくなる。
優しい?
父親が?
“アーチボルト・ウォルブリッジ”が?
その名が頭を過った瞬間、
ステラの笑みはひどく冷たく歪んだ。
メイラは気づかない。
「あなたのお父様は……どうして亡くなったの?」
メイラの肩がぴくりと震えた。
「……気づいたら、いなくなっていました」
「死因を聞かされなかったの?」
「はい……施設の人たちが……
『急に亡くなった』って……それだけで……」
ステラは、ゆっくりとメイラの顔を覗き込む。
「施設、というと?」
「父が亡くなったあと……私は体が弱かったので、
しばらくマグルの療養所のような場所に……
それから、魔法界に引き取られて……」
「どうして魔法界に?」
「……わかりません」
本当に何も知らない。
瞳の揺れ方、声の震え方、言葉の間——
嘘をつく癖のある者のそれではなかった。
ステラは息をひとつだけ静かに吐いた。
ステラの“冷たい翡翠”がメイラを射抜く
「ねぇ、メイラ。
あなた、自分の父親がどんな人だったか……本当に知らないの?」
メイラがはっと顔を上げる。
「え……?」
ステラは一歩、近づいた。
わずかに見上げる形になるメイラの前で、
翡翠の瞳が凍りつくような光を帯びた。
「あなたの姓——ウォルブリッジ。
それ、最近大きなニュースになっていた名前よ」
メイラの顔色が変わった。
「に……ニュース? 父が……?」
「知らないのね。
教えてもらってないのね。
……わざと?」
ステラの声は静か。
だが、切っ先のように鋭い。
「あなたのお父様——
“アーチボルト・ウォルブリッジ”という名のマグルは、
かつて大規模な孤児院惨殺事件の加害者として捕まったの」
音が消えたような静寂が部屋に落ちる。
メイラの唇が、ゆっくり震え始めた。
「……うそ……」
「新聞に載っていたわ。
獄中死したって」
メイラは、床に崩れそうになる膝を必死に支えた。
「あなたは……そういう血を引いている」
「やめ……て……」
「あら。
別に私は嘘なんて言っていないわ。
事実を伝えているだけよ?」
メイラの瞳には涙が溢れかけていた。
ステラは表情を動かさない。
「母のそばにいる割に、
自分の生まれを何も知らないなんて——
ずいぶんと、無邪気なものね」
「……ステラ様……」
「あなたの存在は、
ブラック家にとって“何”なのか。
あなたは考えたこと、ある?」
メイラの喉がひくりと鳴った。
ステラの声は冷たく、美しかった。
「母に取り入りたいから?
それとも、ただ甘えていたいだけ?」
「ちが……違います……そんな……」
「なら証明してみせればいいでしょう。
出自も知らず、この家に居続けるなんて、
ブラック家の娘として黙って見ていられないもの」
ステラは髪をかすかに揺らし、踵を返した。
「続きは……また聞くわ」
扉が閉じる瞬間、
メイラが堪えきれず崩れ落ちる気配が背後から伝わってきた。
ステラは振り返らなかった。
その胸には怒りとも憎しみともつかない、
得体の知れない感情がぐらぐらと渦を巻いていた。
母に寄り添う、あのマグルの女。
母の笑みを奪う存在。
そして——
“父の過去”と結びつきうる危険な血筋。
すべてを確かめずにはいられなかった。
アランは、廊下の奥から微かな嗚咽を聞いた瞬間、
胸の奥をつかまれたように足を止めた。
——メイラ。
その泣き声には、幼い頃からアランの耳に刻まれている、
あの少女の震え方が、確かに混ざっていた。
扉を押し開けた瞬間、
夕日が傾きはじめた部屋の中で、
メイラが床に座り込んでいた。
両手で顔を覆い、
肩が小刻みに震えている。
アランの呼吸が止まった。
杖が指からかすかに滑り落ちそうになる。
……メイラ……?
メイラはゆっくりと顔を上げ、
涙に濡れた大きな瞳でアランを見た。
「アラン様……っ……」
声がひきつれ、喉が詰まり、
もう一言も続かない。
アランは駆け寄り、
反射的にメイラの肩を抱きしめた。
その体は、子どもに戻ったかのように細く、震えていた。
ステラ……
その名が胸の奥で鋭く点火する。
怒りではなく——恐怖だった。
ステラは知ってしまったのだ。
メイラの姓も、新聞も、疑いの線も。
そしておそらく、
言葉として口にしてしまった。
アランはメイラの髪を撫でながら、
震える指で杖を握る。
——聞かなければならない。
けれど、聞くことが怖かった。
杖先が震えるまま、空中に文字を描いた。
『ステラが……何か言ったのね?』
メイラは唇を噛み、
涙の粒をこぼしながら、首を縦に振った。
「お……お父さん……
わたしのお父……さん……
罪人……だったって……」
その瞬間、アランの心臓は、
まるで鋭い刃で貫かれたようだった。
違う——違うの、メイラ……!
喉から声が出なくても、
胸の奥は叫んでいた。
アランはメイラの頬を両手で包み、
その額に自分の額をそっと合わせた。
——母が、娘を抱きしめるように。
涙がぽたりと落ちた。
アランは膝をついたまま、
震えながら杖を掲げる。
空中に綴られた文字は、
涙でかすれた軌跡を描いた。
『メイラ、違うの。
あなたのお父さんは……罪人なんかじゃない。』
メイラが驚いたように目を見開く。
「……え……?」
アランはさらに文字を書き続ける。
『あの事件には……魔法族が関わっていた。
魔法族が……孤児院を襲ったの。』
メイラは言葉を失った。
アランは涙をこぼしながら、
懺悔するように事実を紡いでいく。
『あなたのお父さんは……
病気のあなたを治す代わりに、
“罪を被る”取引をさせられたの。』
『加害者なんかじゃない。
むしろ……あなたを守ろうとした。
あなたを……生かそうとした人よ。』
杖を握る手が震え、
書く文字が滲む。
メイラの呼吸が乱れ、小さな声が漏れた。
「そんな……そんなの……」
『レギュラスたちが連れて行った。
治療を受けさせる代わりに。
その後、あなたは療養所へ送られた。
でも……その施設が……』
アランは一度書く手を止め、
唇を噛んで涙をこぼした。
そして意を決したように、
ゆっくりと続きを描く。
『狼人間に差し出されるマグルを
“選別”している場所だった。』
メイラの顔色が失われていく。
アランはメイラの手をぎゅっと包み込み、
必死に続けた。
『私は……あなたを失いたくなかった。
あんな場所に置いておけなかった。
だから……どうしても取り戻したかった。』
『あの日……あなたを連れ出したのは……
あなたを守るためだったの。
あなたが……消えてしまわないように。』
文字が涙で溶けてゆく。
メイラはアランの手の甲に涙を落としながら、
震える声でささやいた。
「アラン様……わたし……」
アランは強く首を振り、
メイラの頬に両手を添えた。
——あなたの人生は、罪なんかじゃない。
杖先から最後の言葉が描かれる。
『あなたは……大切な子。
私の……娘みたいな子。
お願い、信じて。
あなたのお父さんは——
あなたを愛していた。
罪人なんかじゃないの。』
メイラの泣き声が、
部屋に静かに響いた。
アランも泣いた。
声なき嗚咽がふたりを包み込み、
夕日はゆっくりと沈んでいった。
魔法法廷の半円形の会議室には、緊張が張りつめていた。
大理石の床はひんやりと冷たく、
壁に並ぶ古文書と魔力測定具が
魔法界の歴史そのものを静かに物語っている。
そこへレギュラスが入室すると、
すでに一番目立つ席に“騎士団代表”の名札を置き、
足を組んでふんぞり返っている男がいた。
シリウス・ブラック。
…よりにもよって、こいつを寄越すとは。
レギュラスは内心で舌打ちをした。
だが顔には出さない。
いつもの冷たい平静をそのまま表面に貼り付けた。
シリウスがニヤリと笑い、
挑発を隠そうともしない声で言った。
「おいレギュラス。
立ち上げるのが遅すぎるんだよ、お前は」
その言葉は
“ようやく重い腰を上げたか”
とでも続くような響きだった。
レギュラスは席に書類を置きながら、
深く息を吐くでもなく、ごく淡々と返した。
「鎮静と対抗策の構築が優先だったので。
混乱が続けば全てが瓦解しますから」
「本質的な解決じゃねぇよな、それじゃあ」
シリウスは机を指先でトントンと叩きながら、
皮肉げな笑みを浮かべる。
「俺たちは言ったはずだろ。
“まず裏切り者を洗い出せ”ってよ。
お前が最初からそれをやってりゃ、
今こんなに魔法界が荒れなくて済んだ」
レギュラスは書類を整え、
ふとシリウスに視線だけを向けた。
「騎士団は正義に酔いすぎですよ。
理想論だけで社会は動きません」
「事実から逃げてただけだろ?」
胸を刺すような一言だった。
だがレギュラスは反応を見せない。
むしろ、静かに息を吐いた。
「……問題を起こさないよう、お願いしますよ。
あなたが委員会に来ると、大抵場が荒れるので」
シリウスは椅子をガタンと鳴らして立ち上がり、
レギュラスに歩み寄る。
「初動が遅い方が問題だろうが。
お前みたいに計算ばかりして、
“被害者を見ない政治”が魔法界を腐らせるんだ」
その一言は、
まるで拳で胸を殴られたかのように重かった。
レギュラスはまっすぐにシリウスを見据える。
その瞳は、氷のように凍りついていた。
「……初動が遅かったと言うのなら、
それは私の責任でしょう。
だが、鎮めなければ魔法界は終わっていた。
事実は事実として、あなたも理解しているはずです」
「理解はしてる。
でも納得してねぇ。
そんなやり方で救われない奴らが山ほどいたんだよ」
兄弟というには距離がありすぎる二人が、
正面から火花を散らす。
暑苦しい。
本当に、うんざりするほど暑苦しい。
レギュラスは額に手を当てたくなる衝動を抑え、
書類をぱらりとめくった。
「……議論は委員会でどうぞ。
ここは感情のぶつけ合いをする場所ではありません」
「そうかよ。
じゃあ、“事実”に集中してやるよ」
シリウスは椅子に戻りながら、レギュラスの背中に皮肉を落とす。
「裏切り者は必ず見つけてやる。
特に、お前が庇ってる誰かがいたら面白ぇけどな」
その挑発に、レギュラスのこめかみが僅かに動いた。
庇う?
そんなことは――
ない。はずだ。
会議室の空気は、
まるで夏の雷雨前のように重く張りつめ、
他の委員たちは誰一人として口を開けなかった。
レギュラスは椅子に腰掛け、
静かに目を閉じた。
……委員会にシリウスを入れるべきではなかった
そう思った瞬間、
彼の胸の奥に、
ひどく小さな、しかし鋭い痛みが走った。
兄弟としての距離はまだ遠い。
そしてこの調査は、
それをさらに遠ざけるかもしれない。
その夜は、いつもより少し遅い帰宅だった。
玄関の扉が静かに開く音で、アランは読んでいた本から顔を上げた。
屋敷の夜灯が揺れ、廊下に伸びる影が一瞬だけ大きく歪む。
レギュラスが帰ってきた。
けれど足音には、以前まであった柔らかな弾力がない。
靴音は硬く、重く、どこか冷たい。
室内の温度がほんの少しだけ下がったようにさえ感じる。
アランはゆっくりと立ち上がり、居間の灯りを整えた。
胸の奥がふわりとざわつく。
――今日は、何があったのですか?
問いかける声を持たない代わりに、
アランは杖を握りしめる。
玄関に姿を現したレギュラスは、
いつもの黒いマントを肩から外しながら、
深く息を吐いた。
その吐息さえ、どこか冷え切っている。
アランはそっと歩み寄り、
マントを受け取った。
その布から漂うのは、いつものインクと革の匂いに混じる、
鋭い“政治の気配”――
冷たく、乾いた、誰かと衝突してきた後の匂い。
レギュラスはアランに気づくと、
わずかな微笑を浮かべようとした。
けれど、その微笑みは形だけで、
温度がない。
アランは胸がちくりと痛んだ。
杖を振り、文字を描く。
「おかえりなさい」
レギュラスは、「ただいま」と返す。
声の端に疲れが滲む。
アランは彼の手をそっと取った。
冷たく強張っている。
――今日、何があったの?
書こうとした瞬間、レギュラスが先に言った。
「……委員会が始まりました。
騎士団が、想像以上に噛みついてきます」
“騎士団”。
その言葉を聞いただけで、
アランの胸の奥に冷たい緊張が走る。
案の定、レギュラスの表情が一瞬曇った。
シリウスの名は出さなかった。
だが、出さなくても分かった。
今日、彼は“あの人”と衝突してきたのだ。
アランは手を離し、
小さく杖を動かして文字を書く。
「怒っていますか?」
レギュラスはふっと苦笑した。
「怒り……とは少し違いますね。
ただ……疲れました」
その言葉が、妙に胸に刺さる。
アランは彼の顔をじっと見つめた。
目の下の影がいつもより濃い。
肩は重たく沈み、
身体の周りにいつものあたたかい魔力の揺らぎがなく、
代わりに硬い“政治の冷気”が張り付いている。
それがたまらなく寂しかった。
アランはそっと、
レギュラスの頬に触れた。
レギュラスは目を閉じ、
ほんのわずかだけアランの手に寄りかかる。
そのしぐさに、アランの胸はぎゅっと締め付けられた。
……守りたい。
この人の、この疲れた横顔を。
政治の冷気や争いの影から、
どうか少しでも守りたい。
でも、声がない自分には
言葉で慰めることもできない。
アランはそっとレギュラスの胸に額を寄せた。
レギュラスは静かにその肩を抱いた。
「……あなたがいると、救われます」
小さな声でそう呟かれ、
アランは強く目を閉じた。
彼に寄り添うために、
もっと強くあろうと心の底で決めながら。
その夜、アランはふと気づいた。
――夫の帰宅に混じる政治の冷たい匂いを、
最近、嗅ぎ分けられるようになってしまった。
それは、愛しているからこそ感じ取れてしまう
“微細な痛み”だった
調査委員会が立ち上がってからの数日は、
魔法省の上層階にある会議室が、
まるで戦時下の司令部のような緊張を帯びていた。
魔法地図の上には何重もの封印が貼られ、
部屋の空気は、情報の重さに押しつぶされそうなほど澱んでいる。
騎士団と法務部の混成による委員たちが
休む間もなく調書を読み、
資料を分析し、
投獄されたマグルの取り調べ報告を待つ。
その中でただ一人、
レギュラスだけは静かに、
しかし冷酷な速度で全体を動かしていた。
本来、マグルに対して真実薬の魔法薬を投与することは禁忌に近い。
魔法族の倫理の根幹に触れる問題だからだ。
だがレギュラスはその禁忌を破った。
議会では激しい論争が起きたが、
魔法薬製薬会社の重鎮たちが招かれた宴で
“ アラン・ブラック”という存在を
魔法界の前に差し出したことで、
世論は一気に傾いた。
悲劇の女、セシール家唯一の生き残り。
声を奪われ、暴虐の中を生き抜いた娘。
そのアランを愛し守るレギュラスの決断なら——
「正しい」と捉える者が続出した。
レギュラスは、その世論の風を
見事に使い切った。
真実薬の投与は、
驚くほど簡単に可決された。
その翌日から、取り調べは一気に色を変えた。
嘘は薄皮のように剥がれ落ち、
マグルたちは震えながら真実を語り始める。
最初の衝撃は、
マグル側がある魔法族一族と手を組んでいたという供述だった。
魔力量の高い家系の女。
名家の人間だった。
彼女はマグルの男と恋に落ちた。
秘密裏に、深く、愚かしく。
血の違いも文化の違いも越え、
「二人で世界を変える」などという
若く浅はかな夢を語り合い、
密かに未来を誓った。
しかし彼女の願いは、
あまりにも歪で、危うかった。
真実薬の影響で、
マグルの男は涙を流しながら吐き出した。
「魔法族とマグルが、同じ地平に立つ世界が欲しかった……」
だがその“同じ地平”とは、
魔法族の魔力を奪って
マグルと同等に引き下げるという
暴力的な平等だった。
さらに共犯の魔女はこう願っていたという。
「あなたが魔力より強い“何か”を持つ世界がいいの。
魔法族があなたを見上げる世界がいい」
つまり、
彼女は愛した男を“頂点”に据えるため、
魔法族の力を殺す薬の開発に協力したのだ。
あまりにも身勝手で、
あまりに愚かで、
あまりに短絡的な願い。
だが“愛”は、愚かさを簡単に正当化してしまう。
真実薬は、
その浅はかで危うい愛を
容赦なく白日の下に晒した。
男は涙をこぼしながら証言した。
「最初は……ただ、彼女と……
二人で生きていける世界が欲しかっただけなんだ……!」
だがその願いは、
マグル社会の反魔法族武装集団に嗅ぎつけられた。
「魔法族を無力化できる薬」
その情報は、
彼らを狂喜させた。
恋人たちの幼い願いは、
一瞬で“武器”へと変換された。
利用され、
膨らまされ、
武装集団の理想へ捻じ曲げられていった。
――魔法族支配を終わらせろ。
――魔法族を弱体化させろ。
――マグルの世界を取り戻せ。
恋人同士の愚かな願いが、
この大事件の“種”だったとは。
委員会の面々は
その調書を読み、
静かな衝撃に包まれた。
誰も言葉が出ない。
レギュラスだけが、
調書を閉じて深く息を吐いた。
彼の目は、
怒りでも、軽蔑でも、悲しみでもない。
“冷酷な理解”
その色だった。
「これで決まりですね」と彼は言った。
「世論は完全にこちらの味方につく。
そして騎士団の求める“真実の追及”も満たされた」
バーテミウスが静かに頷く。
「……後は、処分を決めるだけです」
レギュラスは動じなかった。
むしろ、冷たく合理的な光を宿していた。
「では次は“共犯魔女”の洗い出しだ。
逃がすつもりはありません」
その時、
レギュラスの頭をほんの一瞬よぎったのは——
――もしアランが、
こんな愚かしい“愛ゆえの犯罪”に関わっていたら。
その想像は、
胸を締め付けるほど痛いものだった。
だからこそ、
レギュラスの声は低く、冷え切っていた。
「愛を口実にした罪ほど、醜いものはない」
その言葉に、
委員会の空気が一気に凍りついた。
魔法省の大広間に設置された掲示板には、
連日更新される“調査委員会の結果報告”が貼り出されていく。
午後の陽が差し込む窓から光が射し、
多くの市民が集まり、
その紙面を食い入るように見つめていた。
そこに書かれていた内容は、
あまりにも醜く、浅はかで、身勝手で——
魔法界全体を危険に晒した源が、
たった二人の歪んだ愛だった
という、信じ難い事実だった。
「……こんな馬鹿げた理由で……」
「ふざけるな……魔法族を巻き込んで……!」
「許されるわけがない……!」
嘆き、怒号、震える吐息。
大広間の空気が重く震えているのがわかった。
ジェームズ・ポッターは少し離れた壁に背を預け、
腕を組みながらその喧噪を静かに眺めていた。
冷静というより、
冷え切っていた。
「身勝手な愛のために魔法界全体を危険に晒すとはな……」
吐き出した声は小さかったが、
自分の中では大きな嘆息となって響いた。
しかしジェームズの視線は、
その身勝手な恋人たちの物語を追いながらも、
どこか別の方向に向かっていく。
脳裏に浮かんだのは
——レギュラス・ブラックとアラン・ブラック。
「……似ているじゃないか」
ジェームズは笑うでも怒るでもなく、
ただ、低く呟いた。
周囲の騒ぎとはまったく別の温度で。
レギュラス・ブラック。
圧倒的な血筋、富、権力、そして野心。
アラン・ブラック。
悲劇の血を宿し、声を奪われ、
気づけば“ブラック家の象徴”として
魔法界の同情を一身に集める存在。
二人は美しく見える。
確かに、誰が見ても美しい。
だがジェームズには、
その美しさの裏に
ゆっくりと倫理を腐らせる影
が見えた。
アラン自身に自覚はないのだろう。
最初はただ、救われた。
ただ、愛された。
ただ、守られた。
そのはずだった。
しかし、
ブラック家の屋敷という、
強大な富と権力が渦巻く密室の中で——
彼女は気づかぬうちに
“自分の倫理”をひとつ、またひとつと
削がれていったのだろう。
「夫の罪から目を背け、
夫を庇い、
夫の罪を肯定し、
それを“愛”だと信じ込む——」
ジェームズはそう呟き、
その哀れさに苦笑した。
アラン・ブラックは悲劇の象徴として
魔法界に持ち上げられているが、
ジェームズの目には違って見える。
もしかしたら、
彼女はもう、
自分自身がなにを許し、
なにを見落としているのかすら
理解できない場所まで連れてこられたのではないか。
ブラック家という檻は、
金色の装飾を施された豪奢な檻だ。
そこで愛され、守られたと信じるうちに——
彼女は自分自身の輪郭を、
少しずつ表面から削り取られてしまったのかもしれない。
ジェームズは深く息を吐く。
レギュラス・ブラックが行った
数々の政治判断。
彼が積み上げた冷淡な決断。
アランはどれひとつ拒めてはいない。
拒むという発想すら
奪われているように見える。
「……愛は、人を盲目にする。
そして時に、罪そのものより残酷だ」
ジェームズは壁から背を離し、
群衆の中に歩み出た。
魔法界中が“身勝手な愛”に怒り震えている。
しかしその怒りの渦中で、
ジェームズだけは別のものを見つめていた。
レギュラスとアラン。
その夫婦こそ、
もっと静かに、もっと深く、
愛という名の狂気に沈んでいるのではないか。
彼には、そうとしか思えなかった。
ホグワーツの休暇の数日。
母と二人で過ごせる時間は、アルタイルにとって特別だった。
母は体が強くない。
それをよく知っているから、
ダイアゴン横丁の雑踏の中では、
できる限り歩かせずに済むようにと気を配っていた。
「母さん、この教科書、僕が見てきます」
杖で書く母にアルタイルは笑顔で告げ、
細い路地の奥へと軽やかに駆けていく。
ほんの数分——
教材を抱えて戻ると、
そこに予想外の人物たちがいた。
赤と金のローブ。
鮮やかな瞳。
ハリー・ポッターと、その父ジェームズ・ポッター。
アルタイルは反射的に深く頭を下げる。
騎士団の名を持つ家の人間だ。
礼儀は欠かせない。
「やあ、アルタイル。君も買いに来たのかい?」
ハリーはいつもと変わらず柔らかな声で笑った。
「うん。この奥にありましたよ」
それだけの会話なのに、
母に似た穏やかな空気が流れる。
ハリーは話しやすい。
立場の違いや思想の違いを感じさせない。
だからアルタイルも自然と微笑んだ。
「お待たせしました、母さん」
紙袋を抱え直して母を見ると、
その翡翠の瞳が、わずかに影を落としていた。
何を見たのか、
誰の声を聞いたのか、
母の表情が静かに強張っている。
その理由はすぐにわかった。
アルタイルを見るジェームズの目が、
どこまでも冷たかったからだ。
「君は……父親によく似ているね」
その声音は、褒め言葉の温度ではなかった。
「はい。僕は父親似だそうです」
けれどアルタイルは素直に胸を張った。
父に似ていると言われるのは誇らしい。
父レギュラスは強く、迷わず、
魔法界の重圧をひとりで受け止める圧倒的な男だ。
だが、ジェームズの瞳には
尊敬どころか、
どす黒い感情が沈んでいた。
「そうか。
……君が、あの男の罪を引き継がないことを祈ってるよ」
静かな声だった。
けれど、そのひと言は
刃のようにアルタイルの胸にひやりと突き刺さった。
“あの男”
“罪”
“引き継がないこと”
何を指しているのか。
どんな罪のことなのか。
幼いアルタイルにはまだ分からない。
分からないが、
その言葉の裏側に潜む敵意だけは、
肌で感じ取れた。
母が突然、アルタイルの手を引いた。
強く、迷いなく、急ぐように。
まるで——
「ここから離れよう」
「聞かなくていい」
「触れなくていい」
そう訴えるように。
母の細い指はひどく冷たかった。
「……失礼します」
アルタイルは丁寧に一礼し、
その場を後にした。
ジェームズ・ポッターとは初対面のはずなのに、
あの男は——
初めから自分を嫌っていた。
父に似ているという理由だけで。
その事実だけが胸の中に重く沈んだ。
母の肩が、歩きながら微かに震えている。
杖を握る手が震えて、
袖の中で小さく音を立てている。
何に怯えたのか、
何を聞いたのか、
母は一言も書こうとはしなかった。
そしてアルタイルは思う。
父は、
外の世界からこんな目で見られているのだろうか。
そして、
その “視線” は——
いつか自分にも向けられるのだろうか。
そんな答えのない問いだけが、
ひんやりと胸の内側に残った。
人混みのざわめきが、ふと遠ざかったように感じた。
細い通路へアルタイルが消えていくのを見送り、
アランは紙袋を胸元に抱き締めながら、静かに待っていた。
買い物客の話し声。
本屋の扉が開く軋み。
杖を擦る音。
その雑踏の中で——
背筋にひやりと何かが触れた。
振り返るとそこに立っていたのは、
赤い騎士団ローブを揺らし、
人混みの光と影を背負った男。
ジェームズ・ポッター。
瞬間、アランの体がきゅっと固くなった。
呼吸がうまくできない。
胸の内側で、心臓が無防備に脈を打つ。
ジェームズの声が静かに落ちた。
「アラン・ブラック。
こんなところで君に会えるとは思わなかった」
アランは、無意識に視線を落としていた。
彼の瞳を直視する勇気がなかった。
代わりに、ジェームズの首元あたりに視線を置く。
震えを抑えて杖を持ち上げる。
こんにちは、ポッターさん。
穏やかな文字が空中に浮かぶ。
ジェームズはどこか薄い笑みを浮かべた。
優しさではなく、見透かすような薄さ。
「魔力を無効化するポーションの事件……君も聞いているだろう?」
アランは小さく頷く。
もちろん知っている。
新聞は毎日その話題で持ちきりだ。
誰もが恐れ、誰もが混乱している。
“怖い薬だ……あまりにも。”
ジェームズはさらに一歩踏み込んでくるように言った。
「レギュラスは、“関わったマグルを一掃する”つもりらしい。
君はどう思う?」
その言葉は、胸に鋭く突き刺さった。
一掃。
どこまでを?
誰までを?
なにを代償に?
なにを救うために?
アランは混乱に目を伏せ、杖を動かす。
わかりません。
ジェームズはくすりと笑った。
「良い答えだ。
“分からない”と言っておけば、
言葉に責任を持たなくてすむからね」
その声音は、鋭い刃を包んだように柔らかく、残酷だった。
胸の奥がきゅっと痛む。
ジェームズが、
「レギュラスの妻」
である自分を刺しにきていることが、
言葉の端々から嫌でも伝わってくる。
ジェームズはゆっくり視線を上げ、
低く、確かにこう言った。
「一つ教えておくよ、アラン。
もう忘れてしまったかもしれないけれど……
でも、“君は知っておくべき”ことだ」
アランは瞬時に理解した。
“聞きたくない。”
心がざわざわと騒ぎ、
立っている地面が遠くなるような感覚。
ジェームズは続けた。
「レギュラスが関わった——
あのマグル孤児院惨殺事件の犯人だった男。
アズカバンで、先日死んだよ。
獄中死だ」
音が、すべて消えた。
世界が止まった。
その男が誰なのか。
アランは知っている。
知りすぎている。
メイラの、父。
胸の中で何かがひしゃげたように痛んだ。
呼吸ができない。
喉が焼ける。
酷く冷たいものが背中を走り、
自分の心が崩れてゆく音がした。
ジェームズは、続けなかった。
ただアランの反応だけを静かに受け止めていた。
アランは、震える手で杖を握り直した。
何か言わなければ、と思った。
でも書けない。
指が動かない。
——メイラに、いつ話すべきなのか。
——話せる日なんて来るのか。
——自分は、あの子からどれだけ奪ってきたのか。
胸の奥で、罪の重さが一気に襲いかかる。
ジェームズの声だけが、ひどく遠くで響いた。
「レギュラスの罪は、
君が背負うべきものじゃない。
でも君は……背負ってしまうんだろうね」
アランはうつむいたまま、微動だにできなかった。
ジェームズはそれ以上何も言わず、
ただ静かにその場を離れていった。
足音が遠ざかっていく。
雑踏の音が、少しずつ戻ってくる。
アランは膝が震えて立っていられず、
紙袋を胸に抱きしめたまま必死に息を吸った。
その時。
「母さん?」
アルタイルの明るい声が、背中を支えるように届いた。
アランは振り返り、
息子の笑顔を見て、必死に微笑んだ。
震えたままの指で、
アルタイルの手をそっと握る。
——壊れないように。
——この子の前では、絶対に。
胸の奥に、痛みと愛が混じった。
そんな午後だった。
昼下がりの屋敷は、冬の光をゆっくりと飲み込みながら静けさに満ちていた。
ステラは書斎の隅、窓辺に置かれた長椅子に腰掛けていた。
ストーブの熱がふわりと足元を撫で、新聞紙の乾いた匂いが室内の落ち着いた空気に溶け込んでいる。
ページを捲りながら、特に興味を惹く記事もなく眺めていたその時――
視界に飛び込んできた太字の見出しに、指先が止まった。
『マグルの孤児院惨殺事件——犯人のマグル、
“アーチボルト・ウォルブリッジ”獄中死』
ウォルブリッジ。
「……ウォルブリッジ?」
ステラはその名を小さく繰り返した。
胸の奥に、針のように鋭い違和感が刺さる。
記事には、ステラの生まれるより遥か昔の事件が詳しく書かれていた。
マグルの孤児院が一夜で壊滅し、
数十名の孤児が犠牲になったという惨劇。
魔法界は当時、「魔法痕が残されている」という理由だけで大騒ぎしたらしい。
魔法族の関与を疑う声があった、と。
――なぜ?
ステラは眉を寄せた。
孤児。
マグル。
何も持たず、何の価値もない存在。
彼らが死んだところで、
倫理的に悲しむ者すらいない。
血統もなければ、未来への影響力もない。
たとえ魔法族が関わっていたとしても、騒ぐ価値などない。
「……理解できないわ」
ページを捲る手は落ち着いていたが、
ステラの心は、別の部分でざわついていた。
ウォルブリッジ。
その姓名に、あまりにも覚えのある名が混じっている。
“メイラ・ウォルブリッジ。”
ずっと、母アランのそばに侍っている。
家族の一員のごとく食卓にも同席することがある。
幼い頃から母を独占するように振る舞うマグル。
ステラは薄く目を細めた。
そういえば、と気づく。
——母アランから、メイラの“生い立ち”を聞いたことが一度もない。
——父レギュラスからも、説明を聞いた覚えがない。
気がつけば当然のようにそのマグルは屋敷にいて、
当然のように母に付き従い、
当然のように父からも雇われている。
不自然なほどに、“両親はメイラについて語らなかった”。
……出生を隠す理由でもあるの?
ウォルブリッジという姓。
孤児院惨殺事件の加害者。
記事の中でその名を見た時、
ステラの直感がひどく強く反応した。
「……調べる価値はあるわね」
ステラは新聞を静かに畳み、
長椅子からすっと立ち上がった。
まずは、簡単なところから。
魔法省の公開記録を調べる。
屋敷の書斎にある魔法省データベース接続用の魔法端末へ向かった。
一般に公開されているマグル犯罪者の情報は閲覧できる。
——“アーチボルト・ウォルブリッジ”の家族欄。
空白だった。
「……空白?」
あるべき欄が“意図的に削除されたような空白”だった。
ステラの瞳が冷たく光る。
続いて事件当時のアズカバン収監ログを辿る。
簡素な手続き記録がある。
“拘束後の身内引き取りなし”
“幼い娘がいた可能性の報告あり(確認できず)”
「幼い……娘……」
ステラは画面から視線を離し、
息が少しだけ詰まった。
どう考えても、
メイラ・ウォルブリッジの存在と一致する。
魔法省のマグル保護局が持つ“魔法界に関係したマグル一覧”にアクセスする。
そこには、確かにあった。
『MEIRA WALBRIDGE』
保護者欄にはこう記されていた。
『出生後すぐ所在不明、保護者情報——“ケズウィック地域のマグル家庭に預けられる”』
ステラはゆっくりと椅子にもたれた。
「……やっぱり。
関係がある。」
否定できる余地がなかった。
あのマグル……そんな血を引いていたの?
屋敷でずっと母のそばに立っているメイラ。
自分には理解できないほど柔らかく微笑む母。
何度も母に触れる。
自分には向けられたことのない、あたたかい眼差し。
その相手が——
あの惨殺事件の加害者の娘?
許せるはず、ないじゃない……。
胸の奥で熱いものが泡立つ。
怒りでも憎しみでもない。
もっと複雑で、
もっと形のない、不快な感情。
“嫌悪”。
“警戒”。
“拒絶”。
そしてほんのわずかな——
“母を奪われるような痛み”。
「……調べきらなきゃ」
父も母も言わないのなら自分が掴むしかない。
ウォルブリッジ。
メイラ。
そして母アラン。
父レギュラス。
この4つの点が、一本の線で結ばれている。
その線を解かずに放置するほど、
ステラは鈍くも愚かでもない。
ステラは椅子から静かに立ち上がった。
まだ調べられる場所はある。
魔法省の記録室。
ホグワーツの古い書庫。
そして——メイラ本人。
ステラの瞳が翡翠のように鋭く光った。
「あなたの出自を暴かせてもらうわ、
メイラ・ウォルブリッジ。」
静かな屋敷の空気が、
ひたひたと緊張を孕んで揺れた。
屋敷は夕方特有の、紫がかった淡い光に包まれていた。
燭台の炎が廊下の壁に揺らぎ、どこかゆっくりとした静けが落ちている。
ステラは自室を出て、まっすぐにアランの私室へ向かった。
歩くたびに、靴音が冷たく石畳に反響する。
——メイラは今、母の部屋で作業をしている。
そう執事に聞いたばかりだった。
胸の奥で何かがぴんと張りつめる。
怒りでも、嫉妬でもなく。
“確かめなければならない”という、鋭い責務のようなもの。
扉の前で足を止め、軽くノックした。
「メイラ。います?」
「……はい、ステラ様」
少し緊張を含んだ声だった。
扉が静かに開き、
メイラがほそりとした肩を揺らしながら姿を見せた。
メイラはいつものように柔らかな表情で、
手には畳んだばかりのアランのガウンを抱えていた。
「アラン様お着替えを……戻していたところです」
声は小さく、遠慮がちで、
魔法族独特の鋭さを欠いた——“マグルの女の声”だった。
ステラはその声音が妙に胸につかえて、
微笑みもせず部屋へ入った。
「少し、話せるかしら」
メイラは戸惑ったように瞬きをする。
「……はい。なんでしょうか」
ステラは部屋の中央に進み、
窓からの淡い夕光の中に立った。
シルエットになった自分の姿が、床に細く伸びている。
メイラは正面で直立し、
少し緊張しているようだった。
「あなた、魔法界に来る前のことって……どれくらい覚えているの?」
メイラはきょとんとした。
「え……? あまり……はっきりとは……」
その無防備な表情が、ステラの心にざらりとした 違和感を生む。
本当に何も知らないの……?
それとも、知らない“ふり”をしているの?
「覚えている限りでいいわ。
どんな生活をしていたの?」
少し間があった。
メイラは、そっと視線を落として言う。
「父と……ふたりで暮らしていました。
父は、あまり家には帰ってこなかったけれど……とても優しい人でした」
ステラの胸が冷たくなる。
優しい?
父親が?
“アーチボルト・ウォルブリッジ”が?
その名が頭を過った瞬間、
ステラの笑みはひどく冷たく歪んだ。
メイラは気づかない。
「あなたのお父様は……どうして亡くなったの?」
メイラの肩がぴくりと震えた。
「……気づいたら、いなくなっていました」
「死因を聞かされなかったの?」
「はい……施設の人たちが……
『急に亡くなった』って……それだけで……」
ステラは、ゆっくりとメイラの顔を覗き込む。
「施設、というと?」
「父が亡くなったあと……私は体が弱かったので、
しばらくマグルの療養所のような場所に……
それから、魔法界に引き取られて……」
「どうして魔法界に?」
「……わかりません」
本当に何も知らない。
瞳の揺れ方、声の震え方、言葉の間——
嘘をつく癖のある者のそれではなかった。
ステラは息をひとつだけ静かに吐いた。
ステラの“冷たい翡翠”がメイラを射抜く
「ねぇ、メイラ。
あなた、自分の父親がどんな人だったか……本当に知らないの?」
メイラがはっと顔を上げる。
「え……?」
ステラは一歩、近づいた。
わずかに見上げる形になるメイラの前で、
翡翠の瞳が凍りつくような光を帯びた。
「あなたの姓——ウォルブリッジ。
それ、最近大きなニュースになっていた名前よ」
メイラの顔色が変わった。
「に……ニュース? 父が……?」
「知らないのね。
教えてもらってないのね。
……わざと?」
ステラの声は静か。
だが、切っ先のように鋭い。
「あなたのお父様——
“アーチボルト・ウォルブリッジ”という名のマグルは、
かつて大規模な孤児院惨殺事件の加害者として捕まったの」
音が消えたような静寂が部屋に落ちる。
メイラの唇が、ゆっくり震え始めた。
「……うそ……」
「新聞に載っていたわ。
獄中死したって」
メイラは、床に崩れそうになる膝を必死に支えた。
「あなたは……そういう血を引いている」
「やめ……て……」
「あら。
別に私は嘘なんて言っていないわ。
事実を伝えているだけよ?」
メイラの瞳には涙が溢れかけていた。
ステラは表情を動かさない。
「母のそばにいる割に、
自分の生まれを何も知らないなんて——
ずいぶんと、無邪気なものね」
「……ステラ様……」
「あなたの存在は、
ブラック家にとって“何”なのか。
あなたは考えたこと、ある?」
メイラの喉がひくりと鳴った。
ステラの声は冷たく、美しかった。
「母に取り入りたいから?
それとも、ただ甘えていたいだけ?」
「ちが……違います……そんな……」
「なら証明してみせればいいでしょう。
出自も知らず、この家に居続けるなんて、
ブラック家の娘として黙って見ていられないもの」
ステラは髪をかすかに揺らし、踵を返した。
「続きは……また聞くわ」
扉が閉じる瞬間、
メイラが堪えきれず崩れ落ちる気配が背後から伝わってきた。
ステラは振り返らなかった。
その胸には怒りとも憎しみともつかない、
得体の知れない感情がぐらぐらと渦を巻いていた。
母に寄り添う、あのマグルの女。
母の笑みを奪う存在。
そして——
“父の過去”と結びつきうる危険な血筋。
すべてを確かめずにはいられなかった。
アランは、廊下の奥から微かな嗚咽を聞いた瞬間、
胸の奥をつかまれたように足を止めた。
——メイラ。
その泣き声には、幼い頃からアランの耳に刻まれている、
あの少女の震え方が、確かに混ざっていた。
扉を押し開けた瞬間、
夕日が傾きはじめた部屋の中で、
メイラが床に座り込んでいた。
両手で顔を覆い、
肩が小刻みに震えている。
アランの呼吸が止まった。
杖が指からかすかに滑り落ちそうになる。
……メイラ……?
メイラはゆっくりと顔を上げ、
涙に濡れた大きな瞳でアランを見た。
「アラン様……っ……」
声がひきつれ、喉が詰まり、
もう一言も続かない。
アランは駆け寄り、
反射的にメイラの肩を抱きしめた。
その体は、子どもに戻ったかのように細く、震えていた。
ステラ……
その名が胸の奥で鋭く点火する。
怒りではなく——恐怖だった。
ステラは知ってしまったのだ。
メイラの姓も、新聞も、疑いの線も。
そしておそらく、
言葉として口にしてしまった。
アランはメイラの髪を撫でながら、
震える指で杖を握る。
——聞かなければならない。
けれど、聞くことが怖かった。
杖先が震えるまま、空中に文字を描いた。
『ステラが……何か言ったのね?』
メイラは唇を噛み、
涙の粒をこぼしながら、首を縦に振った。
「お……お父さん……
わたしのお父……さん……
罪人……だったって……」
その瞬間、アランの心臓は、
まるで鋭い刃で貫かれたようだった。
違う——違うの、メイラ……!
喉から声が出なくても、
胸の奥は叫んでいた。
アランはメイラの頬を両手で包み、
その額に自分の額をそっと合わせた。
——母が、娘を抱きしめるように。
涙がぽたりと落ちた。
アランは膝をついたまま、
震えながら杖を掲げる。
空中に綴られた文字は、
涙でかすれた軌跡を描いた。
『メイラ、違うの。
あなたのお父さんは……罪人なんかじゃない。』
メイラが驚いたように目を見開く。
「……え……?」
アランはさらに文字を書き続ける。
『あの事件には……魔法族が関わっていた。
魔法族が……孤児院を襲ったの。』
メイラは言葉を失った。
アランは涙をこぼしながら、
懺悔するように事実を紡いでいく。
『あなたのお父さんは……
病気のあなたを治す代わりに、
“罪を被る”取引をさせられたの。』
『加害者なんかじゃない。
むしろ……あなたを守ろうとした。
あなたを……生かそうとした人よ。』
杖を握る手が震え、
書く文字が滲む。
メイラの呼吸が乱れ、小さな声が漏れた。
「そんな……そんなの……」
『レギュラスたちが連れて行った。
治療を受けさせる代わりに。
その後、あなたは療養所へ送られた。
でも……その施設が……』
アランは一度書く手を止め、
唇を噛んで涙をこぼした。
そして意を決したように、
ゆっくりと続きを描く。
『狼人間に差し出されるマグルを
“選別”している場所だった。』
メイラの顔色が失われていく。
アランはメイラの手をぎゅっと包み込み、
必死に続けた。
『私は……あなたを失いたくなかった。
あんな場所に置いておけなかった。
だから……どうしても取り戻したかった。』
『あの日……あなたを連れ出したのは……
あなたを守るためだったの。
あなたが……消えてしまわないように。』
文字が涙で溶けてゆく。
メイラはアランの手の甲に涙を落としながら、
震える声でささやいた。
「アラン様……わたし……」
アランは強く首を振り、
メイラの頬に両手を添えた。
——あなたの人生は、罪なんかじゃない。
杖先から最後の言葉が描かれる。
『あなたは……大切な子。
私の……娘みたいな子。
お願い、信じて。
あなたのお父さんは——
あなたを愛していた。
罪人なんかじゃないの。』
メイラの泣き声が、
部屋に静かに響いた。
アランも泣いた。
声なき嗚咽がふたりを包み込み、
夕日はゆっくりと沈んでいった。
