3章
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晩餐会の煌びやかな光が、金の燭台と魔法で浮かぶシャンデリアに反射して揺れていた。
招かれた魔法族たちは、歩くたびに衣擦れの音を響かせ、
魔法薬開発の功績を讃え合い、
その場に立つ権力者たちの肩書きはどれもまぶしいほどだった。
その中心に――
彼女がいた。
アラン・ブラック。
ブラック家の正妻。
セシール家の悲劇の生き残り。
翡翠の瞳に柔らかな光を宿し、
深い光沢のローブがまるで彼女のためだけに織り上げられた宝石布のように見えるほど、美しかった。
……だが、その姿が脳裏に刻まれた“過去”と真逆すぎて、
喉がひきつるほどの違和感と、言いようのない戦慄を覚える。
まさか……まさか、あのレギュラス・ブラックが。
思考がどうにもまとまらない。
レギュラス・ブラック。
冷徹、完璧、苛烈。
闇の帝王から絶対的信頼を寄せられ、
一度下した判断は、誰であろうと覆せない。
純血の中でもさらに頂点に立つ、ブラック家の男。
生来の気品、容貌、才能、富、権力、全てを持つ“純血貴族の象徴”。
そんな男が――
あの地下牢に幽閉されていた
〝汚れた女〟
〝ボロ布のような女〟
〝何人に辱められたかも分からない女〟
を、救い出し、
磨き上げ、
正妻にしている。
誰が、そんな未来を想像しただろう。
視界の端で、アランがレギュラスに寄り添う。
レギュラスは彼女の言葉を聞こうと、
少しだけ身体を傾ける。
優しい。
恐ろしいほどに。
……信じられない。
思わずグラスを握る手に汗が滲む。
あの頃。
地下牢の薄暗い松明の下、
痩せこけた腕。
血の滲む脚。
乾いた喉から漏れるかすれ声。
“玩具”のように扱っても、
あの女はいつも静かだった。
時に叫び、時に泣き、時に無抵抗で、
その無力さには正直、退屈すら覚えていた。
けれど――
今目の前にいるアランは、
絶世の美女として世界に称賛されている。
……本当に、同じ女なのか?
そして何より恐ろしいのは――
レギュラスが、あの女を“本気で愛している”という事実だ。
どれだけの暴力が加えられたか。
どれだけの痣が刻まれたか。
どれほど陵辱されたか。
もしレギュラスがその全てを把握した時――
かつて彼女に暴行をしたことがある自分は、果たしてどうなる?
胃がきゅっと縮まる。
背中に嫌な汗が伝う。
……あの女が、覚えていたら?
あの翡翠の瞳が、
地下で見下ろした“加害者の顔”を忘れていなかったら。
復讐のために、
レギュラスに何か一言でも囁いたら。
(――殺される。)
迷いも、躊躇もなく。
静かに、確実に。
処刑されるだろう。
レギュラス・ブラックはそういう男だ。
同情しない。
赦さない。
必要とあらば、家族すら切り捨てる冷徹さを持っている。
彼の“愛する女”に手をかけた加害者など――
生かしておく理由がない。
宴のざわめきの中、
アランがふとこちらを向いた気がした。
ほんの一瞬。
けれどぞわりと背骨が粟立つ。
目が合ったかもしれない。
いや、違う。
違うはずだ。
あの牢で自分を覚えてなどいない。
けれど、
笑っているようで、
どこか底知れない静けさを湛えたその瞳に、
なぜか逃げ出したいほどの恐怖を覚えた。
……頼む。思い出すな。何も喋るな。
生き延びるための祈りにも似て、
心の中で必死に念じた。
だが――
レギュラスの隣で幸せそうに微笑むアランを見て、
その祈りは現実味を帯びる。
彼女が何を覚えているか。
何を忘れているか。
それによって自分の生死が決まる。
その恐怖は、
アランの美しさではなく。
アランの過去でもなく。
―― アランを愛する、“レギュラス・ブラック”という男の存在がもたらしていた。
彼は完璧で、残酷で、赦さない。
大切なものを奪われた時、
その報復は、想像を超えて容赦ない。
自分は、
その“報復の対象”になり得る。
……頼むから、黙っていてくれ。
美しく着飾られたアランを見ながら、
胸の奥では、かつての加害者としての恐怖が
ゆっくり、じわじわと広がっていった。
魔法で防音処理された奥の個室に、かつての同胞が何人か集まっていた。
セバスチャンは濁った琥珀色の酒を煽る。
喉に落ちても、まるで凍った鉛を飲み下すように冷えたままだ。
「……見ただろう? ウィッチウィークリーの記事。」
仲間の一人が震え声で言った。
「見ないわけがねぇ。あんな……綺麗に飾り立てられてよ。」
別の男が吐き捨てるように笑ったが、その笑いは乾ききっていた。
セバスチャンは溜息を吐く。
目の前の酒よりも、この空気の方がよほど酔いそうだ。
あの女―― アラン・ブラック。
かつて、地下牢で鎖に繋がれていた“餌”。
誰もが好き放題に扱い、
泣こうが叫ぼうが、
その悲鳴すら消えゆくほど繰り返し蹂躙された女。
その女が今や、
魔法界で最も尊い家の妻として、
レギュラス・ブラックの隣に立ち、
人々から慈愛と美しさを讃えられている。
おとぎ話か悪夢か区別がつかないほどの現実だ。
「……信じられるか?」
仲間の一人が酒を指で揺らしながら呟く。
「お前、覚えてるよな。あの時……俺たちが何したか。」
「忘れられるかよ。」
セバスチャンは苦く笑った。
笑うしかなかった。
地下牢のあの空気、
湿った石壁、
腐った藁、
怯えきったあの女の瞳。
全部、まだ鮮明に残っている。
「まさかあのレギュラスが正妻にするなんて思わなかった。」
「……あの時の俺らを、あの女が覚えてたらどうするよ。」
「そりゃ……死ぬ。」
ぞっとした沈黙が流れた。
酒場の結界が張られた空間が、
急に狭く感じられる。
「……早いところ消えてもらわねぇと、まずい。」
セバスチャンが低い声で言う。
誰も反論しない。
その沈黙こそが、“全員の総意”だった。
「あんな女一人のせいで、いつまでもビクビク生きてられるか。」
「俺たちの首を差し出すカードを、あの女が持ってるんだぞ。」
「……『レギュラスに言われた』なんて一言でも言われたら終わりだ。」
その瞬間、全員の顔が凍りつく。
レギュラス・ブラック。
闇の帝王に匹敵する冷徹さと判断力。
裏切り者には容赦しない。
必要な犠牲だと思えば躊躇なく切り捨てる。
あの男が“妻への暴力の痕跡”を知ったら――
報復はとてつもなく冷たく、速く、確実だ。
逃げ場はどこにもない。
「……だから、あの女には消えてもらうのが一番いい。」
誰かがぼそりと呟いた。
セバスチャンは酒を置き、
指先でテーブルをゆっくり叩いた。
答えはひとつしかない。
「あの女が生きてる限り、
俺たちはいつまでも恐怖から逃げられねぇんだ。」
静かで、絶望的な確信。
「……いっそ、事故でも起きりゃよかったんだがな。」
そして全員が、
誰ともなく同じ黒い想像を巡らせているのを、
セバスチャンは肌で感じ取った。
アラン・ブラックは――
“いずれ消さなければならない存在”。
そうしなければ、
いずれ自分たちが
レギュラス・ブラックの手で“消される”。
その夜の酒は、
誰一人として旨いと思えなかった。
ただじわじわと喉を焼き、
自分たちが追い詰められていく未来を
浸すように飲み干していくしかなかった。
── アランが生きている限り。
──自分たちの平穏は存在しない。
その真実を誰も口にしないまま、
全員が震えていた。
闇の陣営の集会は、いつもと変わらぬ重苦しい暗黒の空気で満ちていた。
燭台に揺れる緑がかった炎が無数の影を浮かべ、デスイーター達の黒いローブを歪に照らす。
レギュラスは静かに集会の進行を見守っていた。
闇の帝王からの直接の指示を受け、それを的確に、冷徹に振り分けていく。
その判断は迅速で、切り捨てるべきものは迷いなく切り捨てる。
それはいつものことだった。
だが――今日は妙なざわつきが胸に残った。
指示を出した瞬間に走る、いくつかの視線。
自分を恐れている……そういう色ではない。
――怯えている。
自分に、ではない。
何か“自分が気づいていないもの”を恐れて、震えている目だ。
その視線の主の一人が、セバスチャンだった。
数ヶ月前から、奴はどうにもおかしい。
以前はただの下衆な男で、命令には従順、余計なことは言わず、要らぬ勘繰りも見せない。
使い勝手の良い駒の一つにすぎない存在だった。
だがいま、彼の目は――
“罪を持つ者の目”
だった。
レギュラスは淡々と報告を受けつつ、その視線の揺れだけを見逃さないように集中していた。
他にも数名、同じ色をしている者がいる。
恐怖を隠し切れない者の肩は僅かに震え、
声はやや上ずり、
時には目が合うたびに逸らされた。
それが何を意味するのか。
レギュラスは知りすぎていた。
罪を犯した者ほど、権力を持つ者の前では怯える。
そして“急に善人”になりたがる。
丁寧すぎる言葉、過剰な服従、些細な指示でさえ大袈裟な返答。
今のセバスチャンたちは、まさにそれだった。
静かな空気のなか、レギュラスは目を細める。
背筋に薄く冷たいものが走った。
直感が告げている――これは些細な違和感などではない。
見えていないだけで、確実に何かが蠢いている。
セバスチャンと数名の影は、
あたかも自分の息遣いひとつで、縊られてしまうとでも思っているかのように身を固くしている。
罪か。それとも“まだ表に出ていない悪意”か。
この数ヶ月、アランの周囲に不穏な気配が増えている。
彼女の存在を揺るがす“何か”が、どこかで動いている気がしてならなかった。
そしてそれは、たぶん彼らの恐怖と繋がっている。
レギュラスは胸の奥がひどくざらつく感覚に襲われた。
たとえ僅かな違和感でも、それを軽視して破滅した者を何人も見てきた。
まして――
アランが関わる可能性があるならば、絶対に見過ごせない。
集会場の冷たい空気の中で、
レギュラスは誰にも悟られぬよう静かに息を吐いた。
そして、不安の種を胸の奥深くに刻みつけた。
“何かが動き始めている”──
その確信だけが、静かに彼の心臓を締めつけていった。
デスイーターたちが去った後、
闇の帝王の城に満ちる静寂は、かえって耳を痛くするほどだった。
扉が閉まる鈍い音を聞き、レギュラスはゆっくりと息を吐く。
残された魔法の痕がまだ空気に沈殿している。
その余韻の中で、胸の奥にまとわりついて離れない“ざわつき”だけが、確かな重みを帯びていた。
セバスチャンに限らない。
今日、数名の目に宿ったあの震え。
隠しきれない焦燥。
無意味に過剰な従順。
“何か裏がある時の目だ。”
長い年月、人の罪と嘘と裏切りを見続けてきたレギュラスには、その色だけは間違わなかった。
レギュラスは目を伏せ、思考を静かに深めた。
胸の奥が、料理に混ざった小骨のようにざらつく。
吐き出すことも飲み込むこともできない不快感。
レギュラスはローブの袖口を整え、
誰もいなくなった石造りの廊下へ足を向けた。
靴音が長く響き、吸い込まれていく。
淡々と歩きながらも、脳裏では迅速な段取りが組まれていく。
闇の陣営としての行動記録。
セバスチャンを含む数名が、いつ、どこに、誰といたのか。
これは、魔法省の治安部が極秘裏に管理している。
レギュラスは当然、その最上位の閲覧権限を持っていた。
……妙に空白のある日があるはずだ。
そんな予感が確信に近い形で胸に浮かぶ。
魔法薬製造や攻撃用呪文の痕跡は、
たとえ洗い落としても“微量の魔力パターン”が残る。
専門の部署に“匿名”で検査依頼を出すつもりだった。
名義に“レギュラス・ブラック”と出せば、事が大きくなりすぎる。
あくまで裏で。
アズカバン収容歴のある元デスイーターや、
下級の魔法族に金を与えれば、案外あっさり口を割る。
……何か知っているはずだ。
レギュラスは誰よりも冷静で、
誰よりも残酷なほど正確に罪を炙り出せる男だった。
だが今回は――
胸の奥に、別の感情がひっそりと疼いていた。
彼女を傷つけ得る“何か”が動いているとしたら。
たとえ相手が仲間であっても、容赦などしない。
むしろ――裏切り者として、徹底的に始末するだけだ。
その夜、レギュラスは法務部の執務室に一人こもり、
ろうそくの炎だけを頼りに膨大な資料を漁り始めた。
魔力検知の記録。
デスイーターたちの移動履歴。
許可された任務の詳細。
無許可の外出、魔力痕の消失。
ページをめくる手が止まる。
セバスチャンの行動記録に、明らかにおかしな空白があった。
それも“十数年前”、アランがまだ体力を落としてふせっていた頃の時期だ。
レギュラスはそっと目を細めた。
……過去の件か
…… アランに関して、奴らは“何か”を隠している。
指先が冷え、胸の内側だけが熱を帯びていく。
集会で感じたあの怯え――
あれはやはり、ただの臆病ではない。
“罪を暴かれる恐怖”を知る者の目。
レギュラスは静かに資料を閉じる。
アランの前では決して見せない、
冷酷で無慈悲な闇の表情が、
蝋燭の影に滲むように浮かび上がっていった。
法務部の執務室は、夜になると空気そのものが硬質になる。
魔法灯の光が書類の縁を照らし、影が鋭く伸びては重なる。
その中に座るレギュラス・ブラックは、
どこか“音のない深海”のようだった。
机に広げられた記録簿、
許可証の写し、
魔力痕分析の資料。
それらを前にしたレギュラスはいつものように涼しい顔をしている――
が、何かが決定的に違った。
バーテミウスは、椅子に腰を下ろすレギュラスの横顔を盗み見る。
通常なら、書類を眺める指先がわずかに動き、
眉がほんの少しだけ緩むか寄るか……
彼の感情は細かな“揺れ”となって必ず表れる。
だが今日のレギュラスは――揺れが一切なかった。
完全な静止。
水面ひとつ乱れない、深すぎる湖のような沈黙。
ただの事務処理のはずがない。
ページをめくる仕草は遅い。
調査対象は“人”ではなく“時系列”。
記録を追う目の奥に、濃い影が横たわっている。
その影を見た瞬間、バーテミウスは確信した。
なにかを“追い詰めるとき”のレギュラスは、
怒りも苛立ちも見せない。
むしろ逆で――静かになりすぎる。
静かに、静かに、
底の見えないところへ潜っていく。
最近、デスイーターの数名の顔色が悪いことを、バーテミウスも感じ取っていた。
レギュラスの前で視線が泳ぎ、
魔力の揺らぎが異様に乱れている。
後ろ暗い者の典型的な反応だった。
バーテミウスは腕を組んで薄く笑う。
この男の前で隠し通せると思ったのなら、そりゃ大馬鹿だ。
レギュラスは記録簿の一頁を指で叩いた。
そこに書かれた“十数年前の空白”。
バーテミウスは悟った。
これからレギュラスは、
部下の誰も気づかない形で、
裏で一人ひとりの過去を剥がしていく。
そして――
犯人に気づいた瞬間、
感情もなく切り捨てる。
静かな殺意を孕んだ男の横顔に、
バーテミウスは久しぶりに背筋が粟立つのを感じた。
さて……誰が死ぬ?
コートの襟を正し、
バーテミウスは席を立った。
レギュラスが“調べ始めた”なら、
事の収束は必ず血の匂いを伴う。
そして今回――レギュラスは明らかに“ アラン”を中心に動いている。
バーテミウスは灯りの落ちた廊下へ歩きながら、
薄く笑った。
魔法省の廊下の空気が、日に日に重くのしかかってくる。
セバスチャンは肩をすくめながら、
背後から聞こえる“誰かの視線”を振り払うように速足で歩いた。
彼は知っている。
誰でもなく――
レギュラス・ブラックが、何かに気づき始めている。
何年前のことか、
もう数えるのも嫌になる。
あの地下牢。
あの静寂。
あの細い腕の女。
初めて見たときは、ただの“遊び道具”だと思った。
声を上げれば、それは退屈しのぎになったし、
泣けば泣くほど興奮した。
自分だけではない。
多くのデスイーターたちが、飢えた獣として群がっていた。
まさか、その女が――ブラック家の奥方になるなんて。
手のひらが冷たく汗ばむ。
レギュラスのあの目。
冷たくて、静かで、
すべてを真っ直ぐ見通すあの目。
最近、視線が合っただけで心臓が強く脈を打つ。
けれど今日は決定的だった。
集会の最中、レギュラスの目が一瞬こちらを“射抜いた”。
ほんの一瞬。
なのに、全身が凍りついた。
あの目は――“気づいた男の目”だ。
まさか……“記録”を調べているのか?
魔力痕を……?
あの日の……あの部屋の……。
喉が焼けるように乾く。
セバスチャンは寮の個室へ転移し、
乱暴に扉を閉めた。
胸が上下する。
視界が揺れる。
すべてが終わる。
死ぬしかない。
いや、死ぬどころでは済まない。
レギュラス・ブラックに裁かれるということは――
死よりも残酷な罰を意味する。
机に手をつく。
震えが止まらない。
あの時……手を出すんじゃなかった……
仲間がやるからって……軽い気持ちで……
まさか……まさか……
脳裏に、かつての光景が蘇る。
血。
泣き声。
鉤爪を立てる狼人間。
笑いながら押し倒す仲間の顔。
蹴りつけた時の身体の軽さ。
そして、見開いた翡翠の瞳。
その後、あの女は声を失った。
だから語れないと思っていた。
思い込んでいた。
だが――
彼女がレギュラスの妻になった時、
それはすべて変わった。
もしも。
もしもあの女が文字で告げたなら。
レギュラスは迷いなく、
自分たちを“処刑”する。
床に座り込み、膝を抱えた。
息がうまくできない。
終わった……終わった……
俺はもう……
その瞬間――
扉の向こうから、“衣擦れの音”がした。
セバスチャンの心臓が跳ね上がる。
杖を構えた手が震える。
しかし扉は開かない。
ただ、足音が廊下を遠ざかっていった。
セバスチャンは顔を歪め、
静かに泣き崩れた。
自分の犯した罪は――
逃げても、消しても、
レギュラス・ブラックという“裁く側”には、必ず届く。
それが一番恐ろしかった。
法務部執務室の夜の空気は、どこか“語らない亡霊”のように重たかった。
椅子を引く音すら吸い込むような沈黙の中で、バーテミウスはレギュラスの机に積み上がった資料の山をちらと盗み見た。
記録簿。
尋問報告書。
捕縛履歴。
闇の陣営の移動ログ。
そして――当時の地下牢の収監名簿。
レギュラスは誰にも何も言わない。
感情も表情も変わらない。
ただ淡々と書類を読み進める。
けれど――彼は何かの“匂い”を追っている。
それを、バーテミウスは空気で理解した。
常人では分からない。
けれど長年レギュラスの傍で働いてきたバーテミウスには分かる。
――レギュラス・ブラックは“誰かを殺す”前の静けさになる。
そんな静けさだった。
あれは数日前。
闇の陣営の会合の後、レギュラスの視線が一瞬だけ特定の人物へ向いた。
セバスチャン。
そして、その周囲の男たち。
その一瞬に滲んだ“気配”を見逃すような男ではない。
レギュラスはもう、半分答えに辿り着いている。
だからこそ、バーテミウスは決意した。
――この男を、できるかぎり静かに、速く導いてやろう。
誰にも“調査をしている”と悟らせないように。
レギュラスは表に出せない。
アランが巻き込まれる可能性が少しでもある以上、
自分の疑念など絶対に漏らす男ではない。
ならば――バーテミウスが裏側から手をまわすしかない。
バーテミウスは自席に戻ると、
ゆっくりと机の上のランプに灯りを落とした。
宵の蒼さを含んだ魔法灯が、資料の文字を浮かび上がらせる。
さて……どこからだ?
まずは、
地下牢の管理記録
闇の陣営の巡回ログ
魔力痕保管庫の台帳
これらを“誰にも気づかれないように”閲覧する必要がある。
バーテミウスは椅子に背をもたれさせ、
無表情のまま指先で資料を仕分けしていく。
彼の頭の中には、すでに
“レギュラスが向かっているであろう答えへのロードマップ”
がほぼできあがっていた。
まずは、当時の収監記録の抜けを洗ってやるか。
バーテミウスは書類を重ね、
さりげなく第三補完保管室へ向かう。
ここは通常、立ち入りには長官の許可がいる。
だがバーテミウスは長年、レギュラスの右腕としてあらゆる鍵を預かってきた。
――たとえレギュラス本人ですら忘れているような古い鍵でさえ。
錠前が静かに外れ、
闇に沈む保管室の中へ足を踏み入れる。
古い湿った紙の匂いが鼻をかすめる。
バーテミウスは小声で呟いた。
「……さて、誰が“消された”んだ?」
棚から引き出したのは、
闇の陣営の魔力痕登録簿(当時のもの)
あの頃の記録には雑さが残っている。
登録が遅れたり重複したり――
裏で動きのあったデスイーターは“わざと痕跡を薄めている”ことも多い。
バーテミウスは一冊ずつめくり、
時系列を見比べる。
複数名の痕跡が“同じ時間帯に、同室で、同じ魔法痕を残している”。
つまり、
複数人が同じ“獲物”に群がった痕跡だ。
アランが囚われていた地下牢の部屋番号――
そこに複数回痕跡を残している者は決まっている。
セバスチャン。
ワーレン。
ダグラス。
そして、その数名の取り巻き。
バーテミウスは薄く笑った。
あとはレギュラスが気づくまでに、
すべての証拠を“並べておいてやればいい”。
レギュラスは誰よりも速く、鋭く真実に辿り着く男だ。
しかし“調査の前段階”を整えてやれば、
その速度はさらに加速する。
ら
夜の法務部は、昼間とはまるで別世界だった。
人のざわめきも、書類の山をひっくり返す音も、
魔法が火花を散らす気配すらない。
ただ、静寂だけがある。
レギュラスはその静寂を踏みながら、
目的の部屋へ進んでいた。
第三補完保管室。
彼が直々に鍵を開けるなど、
これまでほとんどなかった。
それだけで、この夜が“特別な意味を持つ”と世界に告げているようだった。
扉がわずかに軋みながら開いた。
薄暗い室内に、レギュラスの魔法灯が柔らかく広がる。
棚が並ぶ。
古い紙の匂いが漂う。
足を踏み入れた瞬間、
――心の奥で一つの確信が形になった。
あの日、会議室の隅でセバスチャンたちが見せた
“説明のつかない怯え”。
それは、追い詰められた者が持つ目だった。
あれは“指示への恐れ”ではない。
あれは――“罪の露見”への恐怖。
アランを宴に連れていったあの日、
地下牢で彼女を見ていたデスイーターたちは全員、ぎょっと目を見張って息を詰めていた。
無理もない。
泥と血に塗れ、千切れた布で隠れていた体が、
今や信じられないほど美しく、気高い姿で立っている。
――彼らが“汚した女”が、蘇ったのだ。
レギュラスはその視線に気づかなかったわけではない。
気づかぬふりをしていた。
ただ、それだけだった。
だが今は違う。
胸の奥底に沈んでいた冷たい怒気が、ゆっくりと形を取り始める。
レギュラスは棚の中からバーテミウスが整えておいた記録簿を取り出す。
――魔力痕登録簿
――巡回ログ
――収監室使用記録
――当時の尋問台帳
全て順番に、ゆっくりめくる。
ページをめくるたび、
彼の心の中に“見たくなかった線”が繋がっていく。
・同じ時間帯に複数の魔力痕
・同室での乱れた残滓
・日付ごとに重なる同じ魔法の癖
・複数人の魔力衝撃が同一点で跳ねた跡
そして――
<部屋番号 13—A>
記録:収監者 アラン・セシール
魔力痕:セバスチャン・ローエル
魔力痕:ワーレン・ブルース
魔力痕:ダグラス・マイルズ
……他2名
レギュラスの指先が、そこで止まった。
息を吸う。
深く吸って、肺が痛むほど吸って、
それでも吐く息は冷たかった。
アランが繋がれていたあの部屋に、
疑っていた男たちの痕跡が重なっている。
それだけではない。
魔力痕の重なり具合が、“暴力の衝撃”の形をしている。
殴る魔力。
押し倒す魔力。
強引な拘束魔法の痕。
――それは、熟知している。
昔、自分が闇の帝王の命令で
処刑対象に使っていた魔法の痕に、よく似ていた。
レギュラスは、記録簿を閉じた。
その音は、
“殺意が静かに完成した瞬間”の音だった。
アランの顔が頭に浮かんだ。
弱々しく笑って、
傷を隠して、
声を奪われたままこちらを見上げてきたあの少女。
思い返せば思い返すほど胸が締め付けられる。
彼女は何も言わなかった。
それは愛ではなく、きっと“諦め”だった。
彼の目が細くすがるように閉じられ、
次に開いたときには、
深く強い光を宿していた。
レギュラスは記録簿をゆっくり棚に戻す。
そして、手袋を外し、
冷えた指で埃を払った。
その仕草は丁寧で――
まるで、
これから命を奪う敵に対して
最後の礼儀を払うようだった。
「……バーテミウス」
静かな呼び声に、
扉の影から副官が現れた。
「準備をしましょう。
いくつか、調査を正式に依頼します」
それは“調査”ではなく、
死刑執行のための事前確認だった。
バーテミウスは微笑した。
「かしこまりました」
レギュラスは廊下に出ると、
上着の襟を押さえ、静かに歩き出した。
夜の魔法省を抜ける風が、
決意を撫でる。
そして、胸の奥で囁いた。
――奪われた彼女の声を、
奪った者たちの声で償わせよう。
その歩みは、
闇よりも静かで、
死よりも確実だった。
闇の帝王に命じられた、
“ただの確認作業”――そのはずだった。
囚人の状態を把握し、必要なら処分し、
必要なら治療し、必要なら――利用する。
その程度の事務的な命令。
冷気の染み込む深い地下の階段を降りながら、
レギュラスは心のどこかでうんざりしていた。
どうせまた、汚れた囚人の面倒を見なければならないのだろう。
目も当てられないような格好で、救いようのない魂が転がっているだけだ。
そう思っていた。
――扉を開ける、その瞬間まで。
きぃ、と錆びついた音が鳴る。
光が差す。
その薄明かりの中で――彼女はいた。
冷たい石畳の上に、
まるで誰かに投げ捨てられたように横たわった少女。
体はあざだらけで、
頬には乾いた血がこびりつき、
伸びきった髪は砂と埃を吸い込み、
布切れのような服はほとんど肌を隠しきれない。
それらすべてが、現実離れしたほど悲惨で、惨めで、汚れていて。
――それでも。
その瞳だけは。
翡翠が光を宿していた。
息を呑んだ自分を、今もはっきり覚えている。
本能が震えた。
その瞬間、自分はきっと彼女を愛してしまったのだ、と
今なら言える。
理性も、立場も、家柄も関係なく。
ただ、あの翡翠が、
暗闇の底で唯一光を失わずに瞬いていたその姿が――
息をするより自然に、
レギュラスの胸を打ち抜いた。
様子を見るうちに気づいた。
彼女は声を出さないのではなく――
出せないのだ。
恐怖で喉を潰されたのだと理解するのに、
時間はかからなかった。
食事もまともに与えられていなかった。
牢の前には、ひっくり返った器が乾いたまま放置されている。
怒りというより、胸の奥がキリキリと痛んだ。
少女は手を伸ばすことさえ躊躇う。
差し出すと、一瞬怯えて身を竦ませる。
温かいスープを手渡し、
ゆっくり飲むように促すと、
時間をかけて少しだけ口をつけるようになった。
初めて少しだけ飲んだ夜のことを、
レギュラスは鮮明に覚えている。
彼女の唇があまりにも細く震えていて――
守るべきものとは、こういうものなのだと、
胸が締め付けられた。
そしてある夜。
巡回の順番が少し前後したため、
いつもより遅く地下牢に向かった。
そこで――
見てしまった。
鍵が半開きのままの牢。
ズボンを下ろしたままの男の背中。
垂れたベルトが、石畳の上で無様に揺れていた。
男はギョッと振り返った。
アランは石畳に押し倒され、
服は乱れ、目は恐怖で大きく見開かれていた。
レギュラスは無言で杖を抜いた。
あの時の、生理的な嫌悪感――
吐き気にも似た冷たい怒り。
喉が震えた。
理性でかろうじて男を殺さずに済んだのは、
命令違反による処罰が騒ぎになることだけが理由だった。
本心では、あの場で杖を折ってやりたかった。
男が逃げ出すように去ったあと、
アランは石畳の上で小刻みに震えていた。
声が出ないから、泣き声もあげられない。
ただ、ぽたぽたと静かに涙が落ちるだけ。
その夜、少女の喉に触れた指先の震えは、
今でも忘れない。
そして――
今。
法務部の記録室で、
レギュラスの視線は一点に止まっていた。
そこには、
セバスチャン・ローエル
ワーレン・ブルース
ダグラス・マイルズ
……ほか数名の名が並んでいた。
“あの部屋”に残された魔力痕の主たち。
アランが閉じ込められていた部屋番号の記録。
当時の巡回ログ。
魔力痕の衝突跡。
全部が、
全部が――
“暴力の証拠”として揃っていた。
紙の文字なのに、
血だまりのように見えた。
怒りというより、
胸の奥がゆっくりと焼けるような感覚だった。
かすかに震えた声が漏れる。
「…… アラン」
あの翡翠の瞳で、
どれほどの恐怖と痛みを飲み込んできたのだろう。
声を奪われ、
誇りを踏みにじられ、
名前も尊厳も汚されながら――
それでも折れずに生きていた少女を、
自分は助けることもできず見過ごしていた。
紙を握る指先に、力が入る。
レギュラスは目を伏せた。
そのまぶたの裏に、
石畳の上で泣き声すら出せず震えていた少女の姿が浮かぶ。
後悔でも、怒りでもない。
それは“静かな死刑宣告”のような感情だった。
記録簿を閉じる音が、
部屋の中に冷たく響く。
「――償わせてあげましょう」
囁きは、魔法灯より冷たかった。
魔法法廷の地下資料室には、
魔力灯の青い光だけが淡く揺れていた。
壁一面に並ぶ古い羊皮紙の匂いと、
石造りの床に染み込んだ冷気が、
レギュラスの思考を静かに研ぎ澄ませていく。
机の上には――
アランを踏みにじった男たちの名が並んだリスト。
セバスチャン・ローエル
ワーレン・ブルース
ダグラス・マイルズ
……他数名。
レギュラスはその名を、
淡々と、しかし確実に“処理対象”として区別していく。
紙片を閉じた瞬間、
胸の奥で、
黒い衝動がゆっくりと形を成した。
「……すぐに処分するなど、安すぎますね」
静かな声だった。
怒りの色は一切ない。
けれどその落ち着きこそが、何より恐ろしく冷たかった。
レギュラスは机に肘をつき、
指先で軽くこめかみを押さえる。
今、魔法界全体が揺れている。
マグルの作った“魔力無効化ポーション”という非常識な薬に対抗するため、
大手製薬会社が命懸けで新薬を開発している。
だが、その最終段階――
臨床治験 はどうしても魔法族の体が必要だ。
大勢の志願者から安全性を問われる段階ではない。
強い毒性の可能性がある段階だ。
普通は“犯罪者”でもなるべく避ける。
だからこそ――
レギュラスは薄く笑った。
「治験にまわしましょう」
バーテミウスが瞬きをした。
「……治験、ですか?」
レギュラスは頷く。
「自由に試せる魔法族の体は貴重です」
言いながら、アランの翡翠の瞳を思い出した。
恐怖に震え、声を奪われ、
それでも生きようともがいていた少女。
胸の奥がふつふつと熱を帯びる。
レギュラスの声はどこまでも静謐だった
「どうせなら、使ってから処分するべきです」
小声なのに、
部屋の温度が下がるような響きを持っていた。
「最終治験は毒性の確認が最重要課題です。反応が強く出ることが望ましい。
……彼らは、適任でしょう」
紙を指先で整えながら、
レギュラスは、淡々と“未来の死”を読み上げるように話す。
「ええ……それは、いいアイデアですね」
バーテミウスが低く応じた。
その声には、震えにも似た戦慄が滲んでいる。
ただの復讐ではない。
法務部長としての合理性と、
アランを愛する男としての静かな憤怒とが綺麗に融合していた。
レギュラスは立ち上がる。
ローブの裾が、
魔力灯の灯りをゆらりと揺らす。
「書類を整えてください。
“魔法薬治験志願者”として、彼らの名前を回します」
バーテミウスが頭を下げる。
「承知しました」
レギュラスの視線は、どこか遠くを見ていた
アランは知らない。
自分のために、
自分の誇りのために、
自分の声の代わりに――
夫が静かに裁きを進めていることを。
その確固たる決意が、
レギュラスの全身に静かに宿っていた。
最後に小さく呟いた。
「……生きたまま、この手で終わらせてあげます」
魔法灯がざわりと揺れた気がした。
魔法省・法務部地下回廊。
薄く漂う薬品の匂いと、硬い石壁に灯る淡い魔力灯の光が
長い影を床に落としていた。
その中央に、レギュラス・ブラックは立っていた。
ローブの襟元まできっちり閉じ、
いつもと変わらぬ冷静さを湛えた佇まい。
だが――
彼の立つ空気だけが、どこか異様なほどに澄んでいた。
黒く、深く、静かで。
無言の刃のように冷たい緊張を孕んでいた。
「では――治験を開始します」
その一言は、荒声でも怒号でもない。
ただ、優雅で落ち着いた声。
けれど、その静けさがかえって背筋を凍えさせた。
回廊に並ぶ数名のデスイーターたち、
セバスチャン、ワーレン、ダグラス……
皆、一瞬で顔色を変えた。
怯えが、無様なまでに表情に滲み出る。
レギュラスは歩きながら、
一人ひとりと視線を合わせる。
いつも通りの穏やかさ。
しかし、瞳の奥は底知れない。
その目に見つめられるたび、
男たちは無意識に喉を鳴らしていた。
「各社より、新薬は治験段階に入りました。
魔力への影響、毒性、持続性……
魔法族の体での確認が必要です」
淡々とした声。
言葉のひとつひとつが、
まるで儀式の宣言のように冷たく響く。
「皆さんには魔法省の指名により、
“重要な役割” を担っていただきます。
……喜ばしいことです」
その微笑みが、あまりにも美しく恐ろしかった。
叫びたいのに声が出ない。
不自然なほどの沈黙が場を包む。
そのとき――
レギュラスがふと、セバスチャンのほうへ目を向けた。
「そういえば……」
石畳に靴音が、ひたひたと響く。
「…… アラン・セシールのことは、どうでした?」
空気が、一瞬で変わった。
冷たい石造りの回廊が、
まるで底なしの深淵へと変貌したかのようだった。
セバスチャンは、顔から血の気が引くのがわかった。
喉が音を失い、言葉が形にならない。
「……え……あ……」
何も言えない。
何を答えても死ぬ、と本能が告げていた。
レギュラスはまぶたをすう、と細くした。
表情に怒りも苛立ちもない。
ただ、静かに見下ろすような視線。
その優雅な無表情ほど恐ろしいものはなかった。
「……答えられませんか?」
穏やかな声。
逆らえない声。
セバスチャンは震えながら、小さく頭を垂れた。
レギュラスは小さく息を吐いた。
「よろしい。
いずれ……“薬” がすべてを明らかにするでしょう」
その声は優しく、
まるで子供をあやすような柔らかさだった。
だがその裏には――
確実な死刑宣告 の音が潜んでいた。
「バーテミウス、書類を整えてください。
治験は本日より開始。
彼らを治験棟へ送致します」
「承知しました、レギュラス」
レギュラスはローブの裾を揺らし、
回廊の奥へと歩み去る。
その背中はどこまでも静かで、気品に満ちていた。
だが――
デスイーターたちには、
その姿が“死神”のように見えた。
レギュラスが階段を上がり、
靴音が遠ざかる。
残された男たちは、その場で崩れ落ちた。
震える手で石畳を支えながら、
必死に息を吸い込む。
だが胸はひどく締めつけられ、
呼吸が浅くなる。
魔力灯の青白い光が揺れる。
まるで、
彼らの“残された短い時間”を数えているかのように。
静かな執務室に、
魔法薬研究棟の封蝋が押された厚い封書が運び込まれた。
「……初日の、報告書です」
部下が机に置いた瞬間、
紙の端からほのかな薬剤の匂いが漂った。
焦げた魔力と、少しの鉄の香り。
治験特有の“魔法反応残渣”だ。
レギュラスはゆっくりと封を切る。
乱暴な音は立てない。
むしろ、儀式のような静けさで。
一枚目を開いた瞬間、
淡々とした研究員の筆致が目に流れ込んできた。
〈被験者001〜005〉
初期投与量に対し、反応は強度。
魔力暴走の兆候1名。
肉体拒絶反応2名。
精神的混乱5名中4名。
意識消失1名。
投与継続の判断は可。
淡々とした報告。
しかし文面には、
魔法薬が“容赦なく体内の魔力系統をかき乱した”痕跡が明確に刻まれている。
レギュラスの指先が、
わずかに紙を押し込む。
怒りではない。
興奮でもない。
――静かな、満足。
いや、もっと正しく言えば。
「当然の報いが始まった」
その確かな実感。
二枚目、三枚目と読み進める。
どの被験者も、
魔力の流路が破壊的に波打っている。
治験薬に耐え切れず、精神が乱れ、
魔法抵抗そのものが剥がれ落ちる者もいた。
それらの名前を見下ろしたとき、
レギュラスは声を出さず微笑んだ。
――知っている名だ。
何度も、あの地下牢の前を通った者たち。
荒んだ顔で、血の匂いをまとっていた者たち。
そして何より、
アランに触れた手を持つ者たちだった。
静脈のように細かく震える怒りを、
自覚しないほど深く沈めていた年月。
それが今日、静かに結実したのだ。
「……そうですか」
誰に聞かせるわけでもない、
独り言のような低い声が漏れる。
レギュラスは報告書を閉じた。
その表情は、
怒りでも憎悪でもなく――
深く、穏やかで、満ち足りた静寂。
バーテミウスが、
気配を読んだかのようにそっと執務室に入る。
「初日……問題なさそうですか?」
「ええ。
治験薬は、予想以上に良好な反応を示しています」
レギュラスは穏やかに微笑んだ。
その笑みが、
“どんな地獄であっても躊躇しない”
そんな種類の静かさを帯びていることを、
バーテミウスは敏感に察した。
バーテミウスは何も言わなかった。
ただ、黙って頷いた。
レギュラスは椅子に深く身を預けた。
「彼らには、まだ働いてもらいます。
魔法界は今、混乱の渦中ですから。
……身体を張って貢献していただきましょう」
まるで“善良な市民に感謝している”かのような声音だった。
だが、その言葉の裏に潜む真実は――
救いではなく、
緩やかに確実に命を削る制裁。
「続報は夕刻に届きます。
では……引き続き、見守りましょう」
紙の上で、
アランの過去を踏みにじった男たちの名前は、
静かに運命を刻まれていく。
レギュラスは報告書をしまい、
指先で机を軽く叩いた。
その仕草は、
まるでひとつの“区切り”を告げる合図のようだった。
静かな満足。
静かな裁き。
静かに始まった報復。
魔法界のための治験とは名ばかりの、
しかし完璧に“法務部の正当な業務”として
成立してしまっている恐ろしい構造。
そしてレギュラスは次の書類に手を伸ばした。
――何事もなかったような顔で。
まるで今日が、
ただの平穏な一日であるかのように。
魔法省法務部の執務室には、
薄い冬の日差しが石造りの壁を染めていた。
冷たい光でありながら、それでも部屋を静かに照らす程度の温度はあった。
机上には、開発支援金の議事録、治験報告書、魔法族遺族への補償証書――
魔法界を震わせる問題が山積みになっている。
その最上部に、レギュラスは新しい書類を置いた。
調査委員会設置命令書。
「……避けて通れませんね」
誰に聞かせるでもない声でつぶやく。
半年以上、あえて沈静化と対抗薬開発に全力を注いできた。
その判断は正しかった。現場が混乱に沈む中で、“犯人捜し”を始めてしまえば、
魔法族同士の不信が爆発し、誰も前に進まなくなる。
だが――
この問題は無視できる種類のものではない。
魔力を消すポーションを作るには、
“魔法族の魔力構造”を正確に知っている者が必要だ。
マグルが独力で作れるはずがない。
必ず、魔法族の協力者が存在する。
騎士団が口をそろえて言う
「魔法族の裏切り者を探せ」
という声は、鬱陶しくもあるが、間違いではない。
バーテミウスが書類を抱えて入室した。
「レギュラス、委員名簿をまとめました。
魔法史研究者、薬学省、魔力構造学者、それから——騎士団からも二名ほど」
「……騎士団は、入れざるをえませんね」
「ええ。彼らを排除すればまた議会で揉めますから」
レギュラスは深く息を吐いた。
委員会を作れば、当然ながら矛先は法務部にも向く。
魔法族の関与が認められれば、
“なぜ気づけなかったのか”と延々責め立てられるだろう。
けれど、それでも――
この調査を避けることは不可能だった。
「魔法族の協力者は、必ずあぶり出します」
レギュラスの声は低いが揺らがない。
綺麗事を言うつもりはなかった。
裏切りがあれば、容赦なく裁く。
そんな強い意志が、言葉の奥に潜んでいる。
バーテミウスが言う。
「調査項目も記載しました。“動機”“取引”“思想的背景”“接触したマグルの特定”…
かなり広範囲になります」
「当然です。
──魔法族でありながら、魔法族の首を絞める行為をしたのです。
徹底しなければ意味がない」
レギュラスは指先で書類を撫でるようにしながら、
淡々と告げた。
「魔力体系の情報を渡すというのは、
魔法族にとって“身体を差し出すのと変わらない”。
その覚悟を持って、“裏切った”ということでしょう」
彼の声は穏やかだ。
だがその穏やかさが、底無しの冷酷さを含んでいる。
レギュラスは席を立ち、
窓辺に向かった。
外はすでに薄い夕闇が降り、
街では灯火が点り始めていた。
魔法界を揺るがす影は、まだ完全に姿を現していない。
しかしレギュラスは確信していた。
――協力者は、必ずいる。
――その者は最後に、この手で裁かれる。
「委員会は明朝に発足させます。
すぐに通達を」
「承知しました」
バーテミウスが室を出ると、
レギュラスはひとり静かに目を閉じた。
治験も始まり、政治も動いた。
そして今度は、裏切り者の炙り出しだ。
混沌を切り開くのはいつだって法務部。
いつだって、自分だ。
アランの声なき優しさが家で待っている。
その穏やかさを守るためにも――
魔法界の腐敗は許せない。
許すつもりもない。
「……始めましょうか。
裏切り者を、ひとり残らず」
静かだが、確実に冷えた声が
執務室に落ちた。
その瞬間、
魔法界の闇の奥底で、
ひとつの捜査が静かに動き始めた。
招かれた魔法族たちは、歩くたびに衣擦れの音を響かせ、
魔法薬開発の功績を讃え合い、
その場に立つ権力者たちの肩書きはどれもまぶしいほどだった。
その中心に――
彼女がいた。
アラン・ブラック。
ブラック家の正妻。
セシール家の悲劇の生き残り。
翡翠の瞳に柔らかな光を宿し、
深い光沢のローブがまるで彼女のためだけに織り上げられた宝石布のように見えるほど、美しかった。
……だが、その姿が脳裏に刻まれた“過去”と真逆すぎて、
喉がひきつるほどの違和感と、言いようのない戦慄を覚える。
まさか……まさか、あのレギュラス・ブラックが。
思考がどうにもまとまらない。
レギュラス・ブラック。
冷徹、完璧、苛烈。
闇の帝王から絶対的信頼を寄せられ、
一度下した判断は、誰であろうと覆せない。
純血の中でもさらに頂点に立つ、ブラック家の男。
生来の気品、容貌、才能、富、権力、全てを持つ“純血貴族の象徴”。
そんな男が――
あの地下牢に幽閉されていた
〝汚れた女〟
〝ボロ布のような女〟
〝何人に辱められたかも分からない女〟
を、救い出し、
磨き上げ、
正妻にしている。
誰が、そんな未来を想像しただろう。
視界の端で、アランがレギュラスに寄り添う。
レギュラスは彼女の言葉を聞こうと、
少しだけ身体を傾ける。
優しい。
恐ろしいほどに。
……信じられない。
思わずグラスを握る手に汗が滲む。
あの頃。
地下牢の薄暗い松明の下、
痩せこけた腕。
血の滲む脚。
乾いた喉から漏れるかすれ声。
“玩具”のように扱っても、
あの女はいつも静かだった。
時に叫び、時に泣き、時に無抵抗で、
その無力さには正直、退屈すら覚えていた。
けれど――
今目の前にいるアランは、
絶世の美女として世界に称賛されている。
……本当に、同じ女なのか?
そして何より恐ろしいのは――
レギュラスが、あの女を“本気で愛している”という事実だ。
どれだけの暴力が加えられたか。
どれだけの痣が刻まれたか。
どれほど陵辱されたか。
もしレギュラスがその全てを把握した時――
かつて彼女に暴行をしたことがある自分は、果たしてどうなる?
胃がきゅっと縮まる。
背中に嫌な汗が伝う。
……あの女が、覚えていたら?
あの翡翠の瞳が、
地下で見下ろした“加害者の顔”を忘れていなかったら。
復讐のために、
レギュラスに何か一言でも囁いたら。
(――殺される。)
迷いも、躊躇もなく。
静かに、確実に。
処刑されるだろう。
レギュラス・ブラックはそういう男だ。
同情しない。
赦さない。
必要とあらば、家族すら切り捨てる冷徹さを持っている。
彼の“愛する女”に手をかけた加害者など――
生かしておく理由がない。
宴のざわめきの中、
アランがふとこちらを向いた気がした。
ほんの一瞬。
けれどぞわりと背骨が粟立つ。
目が合ったかもしれない。
いや、違う。
違うはずだ。
あの牢で自分を覚えてなどいない。
けれど、
笑っているようで、
どこか底知れない静けさを湛えたその瞳に、
なぜか逃げ出したいほどの恐怖を覚えた。
……頼む。思い出すな。何も喋るな。
生き延びるための祈りにも似て、
心の中で必死に念じた。
だが――
レギュラスの隣で幸せそうに微笑むアランを見て、
その祈りは現実味を帯びる。
彼女が何を覚えているか。
何を忘れているか。
それによって自分の生死が決まる。
その恐怖は、
アランの美しさではなく。
アランの過去でもなく。
―― アランを愛する、“レギュラス・ブラック”という男の存在がもたらしていた。
彼は完璧で、残酷で、赦さない。
大切なものを奪われた時、
その報復は、想像を超えて容赦ない。
自分は、
その“報復の対象”になり得る。
……頼むから、黙っていてくれ。
美しく着飾られたアランを見ながら、
胸の奥では、かつての加害者としての恐怖が
ゆっくり、じわじわと広がっていった。
魔法で防音処理された奥の個室に、かつての同胞が何人か集まっていた。
セバスチャンは濁った琥珀色の酒を煽る。
喉に落ちても、まるで凍った鉛を飲み下すように冷えたままだ。
「……見ただろう? ウィッチウィークリーの記事。」
仲間の一人が震え声で言った。
「見ないわけがねぇ。あんな……綺麗に飾り立てられてよ。」
別の男が吐き捨てるように笑ったが、その笑いは乾ききっていた。
セバスチャンは溜息を吐く。
目の前の酒よりも、この空気の方がよほど酔いそうだ。
あの女―― アラン・ブラック。
かつて、地下牢で鎖に繋がれていた“餌”。
誰もが好き放題に扱い、
泣こうが叫ぼうが、
その悲鳴すら消えゆくほど繰り返し蹂躙された女。
その女が今や、
魔法界で最も尊い家の妻として、
レギュラス・ブラックの隣に立ち、
人々から慈愛と美しさを讃えられている。
おとぎ話か悪夢か区別がつかないほどの現実だ。
「……信じられるか?」
仲間の一人が酒を指で揺らしながら呟く。
「お前、覚えてるよな。あの時……俺たちが何したか。」
「忘れられるかよ。」
セバスチャンは苦く笑った。
笑うしかなかった。
地下牢のあの空気、
湿った石壁、
腐った藁、
怯えきったあの女の瞳。
全部、まだ鮮明に残っている。
「まさかあのレギュラスが正妻にするなんて思わなかった。」
「……あの時の俺らを、あの女が覚えてたらどうするよ。」
「そりゃ……死ぬ。」
ぞっとした沈黙が流れた。
酒場の結界が張られた空間が、
急に狭く感じられる。
「……早いところ消えてもらわねぇと、まずい。」
セバスチャンが低い声で言う。
誰も反論しない。
その沈黙こそが、“全員の総意”だった。
「あんな女一人のせいで、いつまでもビクビク生きてられるか。」
「俺たちの首を差し出すカードを、あの女が持ってるんだぞ。」
「……『レギュラスに言われた』なんて一言でも言われたら終わりだ。」
その瞬間、全員の顔が凍りつく。
レギュラス・ブラック。
闇の帝王に匹敵する冷徹さと判断力。
裏切り者には容赦しない。
必要な犠牲だと思えば躊躇なく切り捨てる。
あの男が“妻への暴力の痕跡”を知ったら――
報復はとてつもなく冷たく、速く、確実だ。
逃げ場はどこにもない。
「……だから、あの女には消えてもらうのが一番いい。」
誰かがぼそりと呟いた。
セバスチャンは酒を置き、
指先でテーブルをゆっくり叩いた。
答えはひとつしかない。
「あの女が生きてる限り、
俺たちはいつまでも恐怖から逃げられねぇんだ。」
静かで、絶望的な確信。
「……いっそ、事故でも起きりゃよかったんだがな。」
そして全員が、
誰ともなく同じ黒い想像を巡らせているのを、
セバスチャンは肌で感じ取った。
アラン・ブラックは――
“いずれ消さなければならない存在”。
そうしなければ、
いずれ自分たちが
レギュラス・ブラックの手で“消される”。
その夜の酒は、
誰一人として旨いと思えなかった。
ただじわじわと喉を焼き、
自分たちが追い詰められていく未来を
浸すように飲み干していくしかなかった。
── アランが生きている限り。
──自分たちの平穏は存在しない。
その真実を誰も口にしないまま、
全員が震えていた。
闇の陣営の集会は、いつもと変わらぬ重苦しい暗黒の空気で満ちていた。
燭台に揺れる緑がかった炎が無数の影を浮かべ、デスイーター達の黒いローブを歪に照らす。
レギュラスは静かに集会の進行を見守っていた。
闇の帝王からの直接の指示を受け、それを的確に、冷徹に振り分けていく。
その判断は迅速で、切り捨てるべきものは迷いなく切り捨てる。
それはいつものことだった。
だが――今日は妙なざわつきが胸に残った。
指示を出した瞬間に走る、いくつかの視線。
自分を恐れている……そういう色ではない。
――怯えている。
自分に、ではない。
何か“自分が気づいていないもの”を恐れて、震えている目だ。
その視線の主の一人が、セバスチャンだった。
数ヶ月前から、奴はどうにもおかしい。
以前はただの下衆な男で、命令には従順、余計なことは言わず、要らぬ勘繰りも見せない。
使い勝手の良い駒の一つにすぎない存在だった。
だがいま、彼の目は――
“罪を持つ者の目”
だった。
レギュラスは淡々と報告を受けつつ、その視線の揺れだけを見逃さないように集中していた。
他にも数名、同じ色をしている者がいる。
恐怖を隠し切れない者の肩は僅かに震え、
声はやや上ずり、
時には目が合うたびに逸らされた。
それが何を意味するのか。
レギュラスは知りすぎていた。
罪を犯した者ほど、権力を持つ者の前では怯える。
そして“急に善人”になりたがる。
丁寧すぎる言葉、過剰な服従、些細な指示でさえ大袈裟な返答。
今のセバスチャンたちは、まさにそれだった。
静かな空気のなか、レギュラスは目を細める。
背筋に薄く冷たいものが走った。
直感が告げている――これは些細な違和感などではない。
見えていないだけで、確実に何かが蠢いている。
セバスチャンと数名の影は、
あたかも自分の息遣いひとつで、縊られてしまうとでも思っているかのように身を固くしている。
罪か。それとも“まだ表に出ていない悪意”か。
この数ヶ月、アランの周囲に不穏な気配が増えている。
彼女の存在を揺るがす“何か”が、どこかで動いている気がしてならなかった。
そしてそれは、たぶん彼らの恐怖と繋がっている。
レギュラスは胸の奥がひどくざらつく感覚に襲われた。
たとえ僅かな違和感でも、それを軽視して破滅した者を何人も見てきた。
まして――
アランが関わる可能性があるならば、絶対に見過ごせない。
集会場の冷たい空気の中で、
レギュラスは誰にも悟られぬよう静かに息を吐いた。
そして、不安の種を胸の奥深くに刻みつけた。
“何かが動き始めている”──
その確信だけが、静かに彼の心臓を締めつけていった。
デスイーターたちが去った後、
闇の帝王の城に満ちる静寂は、かえって耳を痛くするほどだった。
扉が閉まる鈍い音を聞き、レギュラスはゆっくりと息を吐く。
残された魔法の痕がまだ空気に沈殿している。
その余韻の中で、胸の奥にまとわりついて離れない“ざわつき”だけが、確かな重みを帯びていた。
セバスチャンに限らない。
今日、数名の目に宿ったあの震え。
隠しきれない焦燥。
無意味に過剰な従順。
“何か裏がある時の目だ。”
長い年月、人の罪と嘘と裏切りを見続けてきたレギュラスには、その色だけは間違わなかった。
レギュラスは目を伏せ、思考を静かに深めた。
胸の奥が、料理に混ざった小骨のようにざらつく。
吐き出すことも飲み込むこともできない不快感。
レギュラスはローブの袖口を整え、
誰もいなくなった石造りの廊下へ足を向けた。
靴音が長く響き、吸い込まれていく。
淡々と歩きながらも、脳裏では迅速な段取りが組まれていく。
闇の陣営としての行動記録。
セバスチャンを含む数名が、いつ、どこに、誰といたのか。
これは、魔法省の治安部が極秘裏に管理している。
レギュラスは当然、その最上位の閲覧権限を持っていた。
……妙に空白のある日があるはずだ。
そんな予感が確信に近い形で胸に浮かぶ。
魔法薬製造や攻撃用呪文の痕跡は、
たとえ洗い落としても“微量の魔力パターン”が残る。
専門の部署に“匿名”で検査依頼を出すつもりだった。
名義に“レギュラス・ブラック”と出せば、事が大きくなりすぎる。
あくまで裏で。
アズカバン収容歴のある元デスイーターや、
下級の魔法族に金を与えれば、案外あっさり口を割る。
……何か知っているはずだ。
レギュラスは誰よりも冷静で、
誰よりも残酷なほど正確に罪を炙り出せる男だった。
だが今回は――
胸の奥に、別の感情がひっそりと疼いていた。
彼女を傷つけ得る“何か”が動いているとしたら。
たとえ相手が仲間であっても、容赦などしない。
むしろ――裏切り者として、徹底的に始末するだけだ。
その夜、レギュラスは法務部の執務室に一人こもり、
ろうそくの炎だけを頼りに膨大な資料を漁り始めた。
魔力検知の記録。
デスイーターたちの移動履歴。
許可された任務の詳細。
無許可の外出、魔力痕の消失。
ページをめくる手が止まる。
セバスチャンの行動記録に、明らかにおかしな空白があった。
それも“十数年前”、アランがまだ体力を落としてふせっていた頃の時期だ。
レギュラスはそっと目を細めた。
……過去の件か
…… アランに関して、奴らは“何か”を隠している。
指先が冷え、胸の内側だけが熱を帯びていく。
集会で感じたあの怯え――
あれはやはり、ただの臆病ではない。
“罪を暴かれる恐怖”を知る者の目。
レギュラスは静かに資料を閉じる。
アランの前では決して見せない、
冷酷で無慈悲な闇の表情が、
蝋燭の影に滲むように浮かび上がっていった。
法務部の執務室は、夜になると空気そのものが硬質になる。
魔法灯の光が書類の縁を照らし、影が鋭く伸びては重なる。
その中に座るレギュラス・ブラックは、
どこか“音のない深海”のようだった。
机に広げられた記録簿、
許可証の写し、
魔力痕分析の資料。
それらを前にしたレギュラスはいつものように涼しい顔をしている――
が、何かが決定的に違った。
バーテミウスは、椅子に腰を下ろすレギュラスの横顔を盗み見る。
通常なら、書類を眺める指先がわずかに動き、
眉がほんの少しだけ緩むか寄るか……
彼の感情は細かな“揺れ”となって必ず表れる。
だが今日のレギュラスは――揺れが一切なかった。
完全な静止。
水面ひとつ乱れない、深すぎる湖のような沈黙。
ただの事務処理のはずがない。
ページをめくる仕草は遅い。
調査対象は“人”ではなく“時系列”。
記録を追う目の奥に、濃い影が横たわっている。
その影を見た瞬間、バーテミウスは確信した。
なにかを“追い詰めるとき”のレギュラスは、
怒りも苛立ちも見せない。
むしろ逆で――静かになりすぎる。
静かに、静かに、
底の見えないところへ潜っていく。
最近、デスイーターの数名の顔色が悪いことを、バーテミウスも感じ取っていた。
レギュラスの前で視線が泳ぎ、
魔力の揺らぎが異様に乱れている。
後ろ暗い者の典型的な反応だった。
バーテミウスは腕を組んで薄く笑う。
この男の前で隠し通せると思ったのなら、そりゃ大馬鹿だ。
レギュラスは記録簿の一頁を指で叩いた。
そこに書かれた“十数年前の空白”。
バーテミウスは悟った。
これからレギュラスは、
部下の誰も気づかない形で、
裏で一人ひとりの過去を剥がしていく。
そして――
犯人に気づいた瞬間、
感情もなく切り捨てる。
静かな殺意を孕んだ男の横顔に、
バーテミウスは久しぶりに背筋が粟立つのを感じた。
さて……誰が死ぬ?
コートの襟を正し、
バーテミウスは席を立った。
レギュラスが“調べ始めた”なら、
事の収束は必ず血の匂いを伴う。
そして今回――レギュラスは明らかに“ アラン”を中心に動いている。
バーテミウスは灯りの落ちた廊下へ歩きながら、
薄く笑った。
魔法省の廊下の空気が、日に日に重くのしかかってくる。
セバスチャンは肩をすくめながら、
背後から聞こえる“誰かの視線”を振り払うように速足で歩いた。
彼は知っている。
誰でもなく――
レギュラス・ブラックが、何かに気づき始めている。
何年前のことか、
もう数えるのも嫌になる。
あの地下牢。
あの静寂。
あの細い腕の女。
初めて見たときは、ただの“遊び道具”だと思った。
声を上げれば、それは退屈しのぎになったし、
泣けば泣くほど興奮した。
自分だけではない。
多くのデスイーターたちが、飢えた獣として群がっていた。
まさか、その女が――ブラック家の奥方になるなんて。
手のひらが冷たく汗ばむ。
レギュラスのあの目。
冷たくて、静かで、
すべてを真っ直ぐ見通すあの目。
最近、視線が合っただけで心臓が強く脈を打つ。
けれど今日は決定的だった。
集会の最中、レギュラスの目が一瞬こちらを“射抜いた”。
ほんの一瞬。
なのに、全身が凍りついた。
あの目は――“気づいた男の目”だ。
まさか……“記録”を調べているのか?
魔力痕を……?
あの日の……あの部屋の……。
喉が焼けるように乾く。
セバスチャンは寮の個室へ転移し、
乱暴に扉を閉めた。
胸が上下する。
視界が揺れる。
すべてが終わる。
死ぬしかない。
いや、死ぬどころでは済まない。
レギュラス・ブラックに裁かれるということは――
死よりも残酷な罰を意味する。
机に手をつく。
震えが止まらない。
あの時……手を出すんじゃなかった……
仲間がやるからって……軽い気持ちで……
まさか……まさか……
脳裏に、かつての光景が蘇る。
血。
泣き声。
鉤爪を立てる狼人間。
笑いながら押し倒す仲間の顔。
蹴りつけた時の身体の軽さ。
そして、見開いた翡翠の瞳。
その後、あの女は声を失った。
だから語れないと思っていた。
思い込んでいた。
だが――
彼女がレギュラスの妻になった時、
それはすべて変わった。
もしも。
もしもあの女が文字で告げたなら。
レギュラスは迷いなく、
自分たちを“処刑”する。
床に座り込み、膝を抱えた。
息がうまくできない。
終わった……終わった……
俺はもう……
その瞬間――
扉の向こうから、“衣擦れの音”がした。
セバスチャンの心臓が跳ね上がる。
杖を構えた手が震える。
しかし扉は開かない。
ただ、足音が廊下を遠ざかっていった。
セバスチャンは顔を歪め、
静かに泣き崩れた。
自分の犯した罪は――
逃げても、消しても、
レギュラス・ブラックという“裁く側”には、必ず届く。
それが一番恐ろしかった。
法務部執務室の夜の空気は、どこか“語らない亡霊”のように重たかった。
椅子を引く音すら吸い込むような沈黙の中で、バーテミウスはレギュラスの机に積み上がった資料の山をちらと盗み見た。
記録簿。
尋問報告書。
捕縛履歴。
闇の陣営の移動ログ。
そして――当時の地下牢の収監名簿。
レギュラスは誰にも何も言わない。
感情も表情も変わらない。
ただ淡々と書類を読み進める。
けれど――彼は何かの“匂い”を追っている。
それを、バーテミウスは空気で理解した。
常人では分からない。
けれど長年レギュラスの傍で働いてきたバーテミウスには分かる。
――レギュラス・ブラックは“誰かを殺す”前の静けさになる。
そんな静けさだった。
あれは数日前。
闇の陣営の会合の後、レギュラスの視線が一瞬だけ特定の人物へ向いた。
セバスチャン。
そして、その周囲の男たち。
その一瞬に滲んだ“気配”を見逃すような男ではない。
レギュラスはもう、半分答えに辿り着いている。
だからこそ、バーテミウスは決意した。
――この男を、できるかぎり静かに、速く導いてやろう。
誰にも“調査をしている”と悟らせないように。
レギュラスは表に出せない。
アランが巻き込まれる可能性が少しでもある以上、
自分の疑念など絶対に漏らす男ではない。
ならば――バーテミウスが裏側から手をまわすしかない。
バーテミウスは自席に戻ると、
ゆっくりと机の上のランプに灯りを落とした。
宵の蒼さを含んだ魔法灯が、資料の文字を浮かび上がらせる。
さて……どこからだ?
まずは、
地下牢の管理記録
闇の陣営の巡回ログ
魔力痕保管庫の台帳
これらを“誰にも気づかれないように”閲覧する必要がある。
バーテミウスは椅子に背をもたれさせ、
無表情のまま指先で資料を仕分けしていく。
彼の頭の中には、すでに
“レギュラスが向かっているであろう答えへのロードマップ”
がほぼできあがっていた。
まずは、当時の収監記録の抜けを洗ってやるか。
バーテミウスは書類を重ね、
さりげなく第三補完保管室へ向かう。
ここは通常、立ち入りには長官の許可がいる。
だがバーテミウスは長年、レギュラスの右腕としてあらゆる鍵を預かってきた。
――たとえレギュラス本人ですら忘れているような古い鍵でさえ。
錠前が静かに外れ、
闇に沈む保管室の中へ足を踏み入れる。
古い湿った紙の匂いが鼻をかすめる。
バーテミウスは小声で呟いた。
「……さて、誰が“消された”んだ?」
棚から引き出したのは、
闇の陣営の魔力痕登録簿(当時のもの)
あの頃の記録には雑さが残っている。
登録が遅れたり重複したり――
裏で動きのあったデスイーターは“わざと痕跡を薄めている”ことも多い。
バーテミウスは一冊ずつめくり、
時系列を見比べる。
複数名の痕跡が“同じ時間帯に、同室で、同じ魔法痕を残している”。
つまり、
複数人が同じ“獲物”に群がった痕跡だ。
アランが囚われていた地下牢の部屋番号――
そこに複数回痕跡を残している者は決まっている。
セバスチャン。
ワーレン。
ダグラス。
そして、その数名の取り巻き。
バーテミウスは薄く笑った。
あとはレギュラスが気づくまでに、
すべての証拠を“並べておいてやればいい”。
レギュラスは誰よりも速く、鋭く真実に辿り着く男だ。
しかし“調査の前段階”を整えてやれば、
その速度はさらに加速する。
ら
夜の法務部は、昼間とはまるで別世界だった。
人のざわめきも、書類の山をひっくり返す音も、
魔法が火花を散らす気配すらない。
ただ、静寂だけがある。
レギュラスはその静寂を踏みながら、
目的の部屋へ進んでいた。
第三補完保管室。
彼が直々に鍵を開けるなど、
これまでほとんどなかった。
それだけで、この夜が“特別な意味を持つ”と世界に告げているようだった。
扉がわずかに軋みながら開いた。
薄暗い室内に、レギュラスの魔法灯が柔らかく広がる。
棚が並ぶ。
古い紙の匂いが漂う。
足を踏み入れた瞬間、
――心の奥で一つの確信が形になった。
あの日、会議室の隅でセバスチャンたちが見せた
“説明のつかない怯え”。
それは、追い詰められた者が持つ目だった。
あれは“指示への恐れ”ではない。
あれは――“罪の露見”への恐怖。
アランを宴に連れていったあの日、
地下牢で彼女を見ていたデスイーターたちは全員、ぎょっと目を見張って息を詰めていた。
無理もない。
泥と血に塗れ、千切れた布で隠れていた体が、
今や信じられないほど美しく、気高い姿で立っている。
――彼らが“汚した女”が、蘇ったのだ。
レギュラスはその視線に気づかなかったわけではない。
気づかぬふりをしていた。
ただ、それだけだった。
だが今は違う。
胸の奥底に沈んでいた冷たい怒気が、ゆっくりと形を取り始める。
レギュラスは棚の中からバーテミウスが整えておいた記録簿を取り出す。
――魔力痕登録簿
――巡回ログ
――収監室使用記録
――当時の尋問台帳
全て順番に、ゆっくりめくる。
ページをめくるたび、
彼の心の中に“見たくなかった線”が繋がっていく。
・同じ時間帯に複数の魔力痕
・同室での乱れた残滓
・日付ごとに重なる同じ魔法の癖
・複数人の魔力衝撃が同一点で跳ねた跡
そして――
<部屋番号 13—A>
記録:収監者 アラン・セシール
魔力痕:セバスチャン・ローエル
魔力痕:ワーレン・ブルース
魔力痕:ダグラス・マイルズ
……他2名
レギュラスの指先が、そこで止まった。
息を吸う。
深く吸って、肺が痛むほど吸って、
それでも吐く息は冷たかった。
アランが繋がれていたあの部屋に、
疑っていた男たちの痕跡が重なっている。
それだけではない。
魔力痕の重なり具合が、“暴力の衝撃”の形をしている。
殴る魔力。
押し倒す魔力。
強引な拘束魔法の痕。
――それは、熟知している。
昔、自分が闇の帝王の命令で
処刑対象に使っていた魔法の痕に、よく似ていた。
レギュラスは、記録簿を閉じた。
その音は、
“殺意が静かに完成した瞬間”の音だった。
アランの顔が頭に浮かんだ。
弱々しく笑って、
傷を隠して、
声を奪われたままこちらを見上げてきたあの少女。
思い返せば思い返すほど胸が締め付けられる。
彼女は何も言わなかった。
それは愛ではなく、きっと“諦め”だった。
彼の目が細くすがるように閉じられ、
次に開いたときには、
深く強い光を宿していた。
レギュラスは記録簿をゆっくり棚に戻す。
そして、手袋を外し、
冷えた指で埃を払った。
その仕草は丁寧で――
まるで、
これから命を奪う敵に対して
最後の礼儀を払うようだった。
「……バーテミウス」
静かな呼び声に、
扉の影から副官が現れた。
「準備をしましょう。
いくつか、調査を正式に依頼します」
それは“調査”ではなく、
死刑執行のための事前確認だった。
バーテミウスは微笑した。
「かしこまりました」
レギュラスは廊下に出ると、
上着の襟を押さえ、静かに歩き出した。
夜の魔法省を抜ける風が、
決意を撫でる。
そして、胸の奥で囁いた。
――奪われた彼女の声を、
奪った者たちの声で償わせよう。
その歩みは、
闇よりも静かで、
死よりも確実だった。
闇の帝王に命じられた、
“ただの確認作業”――そのはずだった。
囚人の状態を把握し、必要なら処分し、
必要なら治療し、必要なら――利用する。
その程度の事務的な命令。
冷気の染み込む深い地下の階段を降りながら、
レギュラスは心のどこかでうんざりしていた。
どうせまた、汚れた囚人の面倒を見なければならないのだろう。
目も当てられないような格好で、救いようのない魂が転がっているだけだ。
そう思っていた。
――扉を開ける、その瞬間まで。
きぃ、と錆びついた音が鳴る。
光が差す。
その薄明かりの中で――彼女はいた。
冷たい石畳の上に、
まるで誰かに投げ捨てられたように横たわった少女。
体はあざだらけで、
頬には乾いた血がこびりつき、
伸びきった髪は砂と埃を吸い込み、
布切れのような服はほとんど肌を隠しきれない。
それらすべてが、現実離れしたほど悲惨で、惨めで、汚れていて。
――それでも。
その瞳だけは。
翡翠が光を宿していた。
息を呑んだ自分を、今もはっきり覚えている。
本能が震えた。
その瞬間、自分はきっと彼女を愛してしまったのだ、と
今なら言える。
理性も、立場も、家柄も関係なく。
ただ、あの翡翠が、
暗闇の底で唯一光を失わずに瞬いていたその姿が――
息をするより自然に、
レギュラスの胸を打ち抜いた。
様子を見るうちに気づいた。
彼女は声を出さないのではなく――
出せないのだ。
恐怖で喉を潰されたのだと理解するのに、
時間はかからなかった。
食事もまともに与えられていなかった。
牢の前には、ひっくり返った器が乾いたまま放置されている。
怒りというより、胸の奥がキリキリと痛んだ。
少女は手を伸ばすことさえ躊躇う。
差し出すと、一瞬怯えて身を竦ませる。
温かいスープを手渡し、
ゆっくり飲むように促すと、
時間をかけて少しだけ口をつけるようになった。
初めて少しだけ飲んだ夜のことを、
レギュラスは鮮明に覚えている。
彼女の唇があまりにも細く震えていて――
守るべきものとは、こういうものなのだと、
胸が締め付けられた。
そしてある夜。
巡回の順番が少し前後したため、
いつもより遅く地下牢に向かった。
そこで――
見てしまった。
鍵が半開きのままの牢。
ズボンを下ろしたままの男の背中。
垂れたベルトが、石畳の上で無様に揺れていた。
男はギョッと振り返った。
アランは石畳に押し倒され、
服は乱れ、目は恐怖で大きく見開かれていた。
レギュラスは無言で杖を抜いた。
あの時の、生理的な嫌悪感――
吐き気にも似た冷たい怒り。
喉が震えた。
理性でかろうじて男を殺さずに済んだのは、
命令違反による処罰が騒ぎになることだけが理由だった。
本心では、あの場で杖を折ってやりたかった。
男が逃げ出すように去ったあと、
アランは石畳の上で小刻みに震えていた。
声が出ないから、泣き声もあげられない。
ただ、ぽたぽたと静かに涙が落ちるだけ。
その夜、少女の喉に触れた指先の震えは、
今でも忘れない。
そして――
今。
法務部の記録室で、
レギュラスの視線は一点に止まっていた。
そこには、
セバスチャン・ローエル
ワーレン・ブルース
ダグラス・マイルズ
……ほか数名の名が並んでいた。
“あの部屋”に残された魔力痕の主たち。
アランが閉じ込められていた部屋番号の記録。
当時の巡回ログ。
魔力痕の衝突跡。
全部が、
全部が――
“暴力の証拠”として揃っていた。
紙の文字なのに、
血だまりのように見えた。
怒りというより、
胸の奥がゆっくりと焼けるような感覚だった。
かすかに震えた声が漏れる。
「…… アラン」
あの翡翠の瞳で、
どれほどの恐怖と痛みを飲み込んできたのだろう。
声を奪われ、
誇りを踏みにじられ、
名前も尊厳も汚されながら――
それでも折れずに生きていた少女を、
自分は助けることもできず見過ごしていた。
紙を握る指先に、力が入る。
レギュラスは目を伏せた。
そのまぶたの裏に、
石畳の上で泣き声すら出せず震えていた少女の姿が浮かぶ。
後悔でも、怒りでもない。
それは“静かな死刑宣告”のような感情だった。
記録簿を閉じる音が、
部屋の中に冷たく響く。
「――償わせてあげましょう」
囁きは、魔法灯より冷たかった。
魔法法廷の地下資料室には、
魔力灯の青い光だけが淡く揺れていた。
壁一面に並ぶ古い羊皮紙の匂いと、
石造りの床に染み込んだ冷気が、
レギュラスの思考を静かに研ぎ澄ませていく。
机の上には――
アランを踏みにじった男たちの名が並んだリスト。
セバスチャン・ローエル
ワーレン・ブルース
ダグラス・マイルズ
……他数名。
レギュラスはその名を、
淡々と、しかし確実に“処理対象”として区別していく。
紙片を閉じた瞬間、
胸の奥で、
黒い衝動がゆっくりと形を成した。
「……すぐに処分するなど、安すぎますね」
静かな声だった。
怒りの色は一切ない。
けれどその落ち着きこそが、何より恐ろしく冷たかった。
レギュラスは机に肘をつき、
指先で軽くこめかみを押さえる。
今、魔法界全体が揺れている。
マグルの作った“魔力無効化ポーション”という非常識な薬に対抗するため、
大手製薬会社が命懸けで新薬を開発している。
だが、その最終段階――
臨床治験 はどうしても魔法族の体が必要だ。
大勢の志願者から安全性を問われる段階ではない。
強い毒性の可能性がある段階だ。
普通は“犯罪者”でもなるべく避ける。
だからこそ――
レギュラスは薄く笑った。
「治験にまわしましょう」
バーテミウスが瞬きをした。
「……治験、ですか?」
レギュラスは頷く。
「自由に試せる魔法族の体は貴重です」
言いながら、アランの翡翠の瞳を思い出した。
恐怖に震え、声を奪われ、
それでも生きようともがいていた少女。
胸の奥がふつふつと熱を帯びる。
レギュラスの声はどこまでも静謐だった
「どうせなら、使ってから処分するべきです」
小声なのに、
部屋の温度が下がるような響きを持っていた。
「最終治験は毒性の確認が最重要課題です。反応が強く出ることが望ましい。
……彼らは、適任でしょう」
紙を指先で整えながら、
レギュラスは、淡々と“未来の死”を読み上げるように話す。
「ええ……それは、いいアイデアですね」
バーテミウスが低く応じた。
その声には、震えにも似た戦慄が滲んでいる。
ただの復讐ではない。
法務部長としての合理性と、
アランを愛する男としての静かな憤怒とが綺麗に融合していた。
レギュラスは立ち上がる。
ローブの裾が、
魔力灯の灯りをゆらりと揺らす。
「書類を整えてください。
“魔法薬治験志願者”として、彼らの名前を回します」
バーテミウスが頭を下げる。
「承知しました」
レギュラスの視線は、どこか遠くを見ていた
アランは知らない。
自分のために、
自分の誇りのために、
自分の声の代わりに――
夫が静かに裁きを進めていることを。
その確固たる決意が、
レギュラスの全身に静かに宿っていた。
最後に小さく呟いた。
「……生きたまま、この手で終わらせてあげます」
魔法灯がざわりと揺れた気がした。
魔法省・法務部地下回廊。
薄く漂う薬品の匂いと、硬い石壁に灯る淡い魔力灯の光が
長い影を床に落としていた。
その中央に、レギュラス・ブラックは立っていた。
ローブの襟元まできっちり閉じ、
いつもと変わらぬ冷静さを湛えた佇まい。
だが――
彼の立つ空気だけが、どこか異様なほどに澄んでいた。
黒く、深く、静かで。
無言の刃のように冷たい緊張を孕んでいた。
「では――治験を開始します」
その一言は、荒声でも怒号でもない。
ただ、優雅で落ち着いた声。
けれど、その静けさがかえって背筋を凍えさせた。
回廊に並ぶ数名のデスイーターたち、
セバスチャン、ワーレン、ダグラス……
皆、一瞬で顔色を変えた。
怯えが、無様なまでに表情に滲み出る。
レギュラスは歩きながら、
一人ひとりと視線を合わせる。
いつも通りの穏やかさ。
しかし、瞳の奥は底知れない。
その目に見つめられるたび、
男たちは無意識に喉を鳴らしていた。
「各社より、新薬は治験段階に入りました。
魔力への影響、毒性、持続性……
魔法族の体での確認が必要です」
淡々とした声。
言葉のひとつひとつが、
まるで儀式の宣言のように冷たく響く。
「皆さんには魔法省の指名により、
“重要な役割” を担っていただきます。
……喜ばしいことです」
その微笑みが、あまりにも美しく恐ろしかった。
叫びたいのに声が出ない。
不自然なほどの沈黙が場を包む。
そのとき――
レギュラスがふと、セバスチャンのほうへ目を向けた。
「そういえば……」
石畳に靴音が、ひたひたと響く。
「…… アラン・セシールのことは、どうでした?」
空気が、一瞬で変わった。
冷たい石造りの回廊が、
まるで底なしの深淵へと変貌したかのようだった。
セバスチャンは、顔から血の気が引くのがわかった。
喉が音を失い、言葉が形にならない。
「……え……あ……」
何も言えない。
何を答えても死ぬ、と本能が告げていた。
レギュラスはまぶたをすう、と細くした。
表情に怒りも苛立ちもない。
ただ、静かに見下ろすような視線。
その優雅な無表情ほど恐ろしいものはなかった。
「……答えられませんか?」
穏やかな声。
逆らえない声。
セバスチャンは震えながら、小さく頭を垂れた。
レギュラスは小さく息を吐いた。
「よろしい。
いずれ……“薬” がすべてを明らかにするでしょう」
その声は優しく、
まるで子供をあやすような柔らかさだった。
だがその裏には――
確実な死刑宣告 の音が潜んでいた。
「バーテミウス、書類を整えてください。
治験は本日より開始。
彼らを治験棟へ送致します」
「承知しました、レギュラス」
レギュラスはローブの裾を揺らし、
回廊の奥へと歩み去る。
その背中はどこまでも静かで、気品に満ちていた。
だが――
デスイーターたちには、
その姿が“死神”のように見えた。
レギュラスが階段を上がり、
靴音が遠ざかる。
残された男たちは、その場で崩れ落ちた。
震える手で石畳を支えながら、
必死に息を吸い込む。
だが胸はひどく締めつけられ、
呼吸が浅くなる。
魔力灯の青白い光が揺れる。
まるで、
彼らの“残された短い時間”を数えているかのように。
静かな執務室に、
魔法薬研究棟の封蝋が押された厚い封書が運び込まれた。
「……初日の、報告書です」
部下が机に置いた瞬間、
紙の端からほのかな薬剤の匂いが漂った。
焦げた魔力と、少しの鉄の香り。
治験特有の“魔法反応残渣”だ。
レギュラスはゆっくりと封を切る。
乱暴な音は立てない。
むしろ、儀式のような静けさで。
一枚目を開いた瞬間、
淡々とした研究員の筆致が目に流れ込んできた。
〈被験者001〜005〉
初期投与量に対し、反応は強度。
魔力暴走の兆候1名。
肉体拒絶反応2名。
精神的混乱5名中4名。
意識消失1名。
投与継続の判断は可。
淡々とした報告。
しかし文面には、
魔法薬が“容赦なく体内の魔力系統をかき乱した”痕跡が明確に刻まれている。
レギュラスの指先が、
わずかに紙を押し込む。
怒りではない。
興奮でもない。
――静かな、満足。
いや、もっと正しく言えば。
「当然の報いが始まった」
その確かな実感。
二枚目、三枚目と読み進める。
どの被験者も、
魔力の流路が破壊的に波打っている。
治験薬に耐え切れず、精神が乱れ、
魔法抵抗そのものが剥がれ落ちる者もいた。
それらの名前を見下ろしたとき、
レギュラスは声を出さず微笑んだ。
――知っている名だ。
何度も、あの地下牢の前を通った者たち。
荒んだ顔で、血の匂いをまとっていた者たち。
そして何より、
アランに触れた手を持つ者たちだった。
静脈のように細かく震える怒りを、
自覚しないほど深く沈めていた年月。
それが今日、静かに結実したのだ。
「……そうですか」
誰に聞かせるわけでもない、
独り言のような低い声が漏れる。
レギュラスは報告書を閉じた。
その表情は、
怒りでも憎悪でもなく――
深く、穏やかで、満ち足りた静寂。
バーテミウスが、
気配を読んだかのようにそっと執務室に入る。
「初日……問題なさそうですか?」
「ええ。
治験薬は、予想以上に良好な反応を示しています」
レギュラスは穏やかに微笑んだ。
その笑みが、
“どんな地獄であっても躊躇しない”
そんな種類の静かさを帯びていることを、
バーテミウスは敏感に察した。
バーテミウスは何も言わなかった。
ただ、黙って頷いた。
レギュラスは椅子に深く身を預けた。
「彼らには、まだ働いてもらいます。
魔法界は今、混乱の渦中ですから。
……身体を張って貢献していただきましょう」
まるで“善良な市民に感謝している”かのような声音だった。
だが、その言葉の裏に潜む真実は――
救いではなく、
緩やかに確実に命を削る制裁。
「続報は夕刻に届きます。
では……引き続き、見守りましょう」
紙の上で、
アランの過去を踏みにじった男たちの名前は、
静かに運命を刻まれていく。
レギュラスは報告書をしまい、
指先で机を軽く叩いた。
その仕草は、
まるでひとつの“区切り”を告げる合図のようだった。
静かな満足。
静かな裁き。
静かに始まった報復。
魔法界のための治験とは名ばかりの、
しかし完璧に“法務部の正当な業務”として
成立してしまっている恐ろしい構造。
そしてレギュラスは次の書類に手を伸ばした。
――何事もなかったような顔で。
まるで今日が、
ただの平穏な一日であるかのように。
魔法省法務部の執務室には、
薄い冬の日差しが石造りの壁を染めていた。
冷たい光でありながら、それでも部屋を静かに照らす程度の温度はあった。
机上には、開発支援金の議事録、治験報告書、魔法族遺族への補償証書――
魔法界を震わせる問題が山積みになっている。
その最上部に、レギュラスは新しい書類を置いた。
調査委員会設置命令書。
「……避けて通れませんね」
誰に聞かせるでもない声でつぶやく。
半年以上、あえて沈静化と対抗薬開発に全力を注いできた。
その判断は正しかった。現場が混乱に沈む中で、“犯人捜し”を始めてしまえば、
魔法族同士の不信が爆発し、誰も前に進まなくなる。
だが――
この問題は無視できる種類のものではない。
魔力を消すポーションを作るには、
“魔法族の魔力構造”を正確に知っている者が必要だ。
マグルが独力で作れるはずがない。
必ず、魔法族の協力者が存在する。
騎士団が口をそろえて言う
「魔法族の裏切り者を探せ」
という声は、鬱陶しくもあるが、間違いではない。
バーテミウスが書類を抱えて入室した。
「レギュラス、委員名簿をまとめました。
魔法史研究者、薬学省、魔力構造学者、それから——騎士団からも二名ほど」
「……騎士団は、入れざるをえませんね」
「ええ。彼らを排除すればまた議会で揉めますから」
レギュラスは深く息を吐いた。
委員会を作れば、当然ながら矛先は法務部にも向く。
魔法族の関与が認められれば、
“なぜ気づけなかったのか”と延々責め立てられるだろう。
けれど、それでも――
この調査を避けることは不可能だった。
「魔法族の協力者は、必ずあぶり出します」
レギュラスの声は低いが揺らがない。
綺麗事を言うつもりはなかった。
裏切りがあれば、容赦なく裁く。
そんな強い意志が、言葉の奥に潜んでいる。
バーテミウスが言う。
「調査項目も記載しました。“動機”“取引”“思想的背景”“接触したマグルの特定”…
かなり広範囲になります」
「当然です。
──魔法族でありながら、魔法族の首を絞める行為をしたのです。
徹底しなければ意味がない」
レギュラスは指先で書類を撫でるようにしながら、
淡々と告げた。
「魔力体系の情報を渡すというのは、
魔法族にとって“身体を差し出すのと変わらない”。
その覚悟を持って、“裏切った”ということでしょう」
彼の声は穏やかだ。
だがその穏やかさが、底無しの冷酷さを含んでいる。
レギュラスは席を立ち、
窓辺に向かった。
外はすでに薄い夕闇が降り、
街では灯火が点り始めていた。
魔法界を揺るがす影は、まだ完全に姿を現していない。
しかしレギュラスは確信していた。
――協力者は、必ずいる。
――その者は最後に、この手で裁かれる。
「委員会は明朝に発足させます。
すぐに通達を」
「承知しました」
バーテミウスが室を出ると、
レギュラスはひとり静かに目を閉じた。
治験も始まり、政治も動いた。
そして今度は、裏切り者の炙り出しだ。
混沌を切り開くのはいつだって法務部。
いつだって、自分だ。
アランの声なき優しさが家で待っている。
その穏やかさを守るためにも――
魔法界の腐敗は許せない。
許すつもりもない。
「……始めましょうか。
裏切り者を、ひとり残らず」
静かだが、確実に冷えた声が
執務室に落ちた。
その瞬間、
魔法界の闇の奥底で、
ひとつの捜査が静かに動き始めた。
