3章
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――魔法法廷・議会閉廷後の廊下
白い魔法灯が整然と並ぶ廊下を、レギュラスとバーテミウスが歩いていた。
議会を終えたばかりの空気はまだざわついており、遠くから議員たちの怒号や記者たちの羽ペンの音が響く。
レギュラスの手には、ついさきほど可決されたばかりの書類綴りがあった。
《魔力無効化ポーション対抗薬 開発支援金制度》
――信じられないほどの速さで通った法案だった。
魔力を完全に“ゼロ”にするポーション――。
それがマグル側によって作られたとなれば、もはや“戦争の号砲”と同義だった。
魔法族の力の源を奪う。
その意図が偶然であるはずがない。
レギュラスは最初から「クーデター」と断定し、態度を崩さなかった。
だからこそ、
魔力消失効果を中和する“新薬”の開発を、魔法製薬会社に即時命令した。
製薬会社には厳命が飛ぶ。
・48時間以内に既存の抗ポーション素材を提出すること
・三社以上の共同研究チームを即編成
・魔法薬学省の地下ラボを夜間もフル稼働
・臨床テスト魔法生物を大量に確保
・政府主導で安全性の最低基準を引き下げる
そのために、レギュラスは議会で前例のない額の支援金を提案した。
金は湯水のように流れ、議員たちはその勢いに飲まれて可決印を押した。
魔法省は今、武力より先に“薬”で戦おうとしている。
その中心にいるのは、レギュラス・ブラックだった。
「長官、今日は本当に……強引でしたね。」
バーテミウスが肩の力を抜きながら言う。
「これは必要な強引さです。」
レギュラスは淡々と答えた。
「騎士団は相当反発しますよ。あれだけ税金を回せば。」
「当然でしょう。彼らは“理想”を掲げ、僕は“現実”を動かす。」
レギュラスの声音は鋭く、それでいて冷えた刃のように静かだ。
そのときだった。
廊下の向こうから足音が二つ。
黒いコートのシリウス・ブラック、そして怒りを飲み込んだままのジェームズ・ポッター。
四人の視線が火花を散らすように交差した。
「おい、レギュラス。」
シリウスが唸るように吐き捨てた。
その声は怒りと、兄としての苛立ちが絡み合った濁った音だった。
「てめぇ、まずは関わった“魔法族”の洗い出しが先だろうが。何だあの訳のわからねぇ声明は。」
シリウスの拳は白くなるほど握られている。
レギュラスはまっすぐに兄を見返し、冷静な声で返した。
「真実より鎮静です。」
その一言で、シリウスの怒りが爆ぜた。
「鎮静してどうすんだよ!
何も解決してねぇじゃねぇか!」
「正義を振り翳し、いつまでも魔法界を混沌させてどうするつもりです?」
レギュラスの声は少しだけ低く落ち、静かに挑発するようだった。
バーテミウスが固唾を飲んだ。
この二人が直接ぶつかることは滅多にない。
まして今は、魔法界全体がきしむように揺れている最中だ。
そのとき、ジェームズが一歩前に出た。
靴底が大理石を叩く音が、異様に大きく響く。
彼の目には炎のようなものが宿っていた。
数年分の積もりに積もった感情――憎しみ、怒り、そして未消化の悲鳴のような哀しみ。
「レギュラス・ブラック。」
静かに、しかし怒りを押し潰すように。
「きみは――」
ジェームズの声が少し震えた。
「――あまりにも“大切なものを失う痛み”を知らなさすぎるんだ。」
レギュラスの睫毛がほんのわずか揺れた。
一瞬だけ、空気が変わる。
「何かの忠告ですか?」
レギュラスは薄く笑った。
それは底知れぬ余裕を装った、鋼の仮面の笑み。
「好きに取るといい。」
ジェームズは吐き捨てるように言い、背を向けた。
その言葉は――
ただの挑発ではない。脅しでもない。忠告でもない。
“宣戦布告”に近かった。
レギュラスは彼の背を見送りながら、ほんの一瞬だけ喉の奥で何かが軋むのを感じた。
――嫌な予感だ。
何かが動き始めた。
静かに、しかし確実に。
ジェームズとシリウスが去ったあと、バーテミウスは青ざめた顔で囁いた。
「レギュラス……いまのは……。」
「わかっています。」
レギュラスは革手袋を外し、指先を押しながら息を吐いた。
「しばらく――騎士団の動向を注視する必要があります。」
その声は静かだったが、どこか緊張を孕んでいた。
レギュラスの中に微かな焦りが生まれたことを、バーテミウスは初めて感じた。
廊下の向こうで、魔法灯がひとつ、チリと揺れる。
それはまるで
これから起こる嵐の前触れのようだった。
夕食の席に座ったとき、アルタイルはいつもの光景が、なぜかひどく胸に沁みた。
長いテーブルの中央、父と母が並んで座っている。
その姿は何年も変わらない――はずなのに、今日だけは何かが違った。
普段であれば、母は杖で、静かに空中へさらさらと文字を描く。
それが母の“声”であり、家族の会話の中心だった。
けれど今日は、母は杖を使わなかった。
代わりに、父の手のひらをそっと取ると、
指先でゆっくり、なにかの文字を描きはじめた。
優しく撫でるような、囁くような、その動き。
どんな言葉を書いたのか、アルタイルからは見えない。
けれど、父の表情が答えを教えてくれた。
レギュラスはふっと息を漏らすように柔らかく笑った。
普段の鋭い光の奥に、あたたかな色が差し込む。
――ああ、これは愛だ。
そう思うだけで、胸がじんわりと熱くなる。
アルタイルは自然と目を逸らした。
見てはいけないものではないけれど、どこか照れくさかった。
思い返せば、家がもっと冷たかった時期がある。
祖父オリオン、祖母ヴァルブルガが屋敷にいた頃だ。
とくに祖母――ヴァルブルガは母を決して好いてはいなかった。
そのことは子どもだったアルタイルにも、痛いほどわかった。
マグルであるメイラを傍に置いていることもそうだ。
だが、それ以上に、
絶滅した名家セシール家の末裔であること
それが祖母の気に入らない理由だった。
母が幼い頃、教育も受けられず、
地下牢で闇の帝王に幽閉されていた――
その生々しい過去を、ヴァルブルガは“教養不足”と決めつけた。
「ブラック家の妻としての品位が足りない」
「学ぶべきことを知らなさすぎる」
直接罵倒したわけではない。
けれど、その刺々しい言葉は決して母に向けられたものではないふりをしながら、確実に母を突き刺していた。
アルタイルはそのたびに、
喉がちぎれるほど叫びたかった。
けれど子供の自分に何ができる?
ただ、小さな手を震わせながら、母の影に隠れて見るしかなかった。
だからこそ、思っていた。
父が母を妻にした理由――
それは愛ではなく、純血の名家が欲しがる“力”のためなのだろう、と。
母はセシール家の封印の魔力を継いでいる。
ブラック家に取り込むべき“価値”が母にはある。
そんな計算で迎えられたのだ、と。
子どもながらに、ずっとそう考えていた。
そうすれば、なんとなく割り切れた。
母だけが父を命の恩人のように慕い続け、
父は彼女を守る義務として支えているだけ――
そんな風に。
でも。
――いま目の前の二人は、違う。
手のひらに描かれた言葉に、父は微笑む。
母はその微笑みに、ほっと胸を撫で下ろしたように目を伏せる。
あれは義務では生まれない表情だ。
あれは計算では動かない心だ。
誰よりも深い場所で、
二人は確かに愛し合っている。
父の目も、母の手も、
互いに触れるその一瞬の仕草さえ、
まるで長い旅路の果てにようやく辿り着いたような穏やかさがあった。
アルタイルは箸を握りしめながら、
泣きそうになるほどの幸福に胸を締めつけられた。
――ああ、よかった。
母は愛されている。
父は母を愛している。
その事実が、自分の世界をどれほど救ってくれるのか、
誰も知らない。
けれどアルタイルの胸の奥では、
温かい光がじんわりと灯り続けていた。
ホグワーツの中庭に、春の光がこぼれていた。
まだ制服の袖が少し長い小柄な一年生――アルタイル・ブラックは、笑っていた。
あどけない表情のまま、しかし誰から見ても将来は父に似て鋭く整うであろう顔立ちで、
男子生徒にも女子生徒にも囲まれ、楽しそうに会話をしていた。
あんな風に笑えることが、眩しくて仕方がない。
ステラは階段の影から、その光景を見ていた。
弟の笑顔が、春の光と同じくらい軽やかに世界を照らしているように感じられる。
――羨ましい、なんて言葉では足りなかった。
アルタイルは自分とは違う。
弟は“跡取り”だ。
ブラック家が長年待ち望んだ、誇りの象徴。
生まれた日から、祖父オリオンに抱きしめられ、
祖母ヴァルブルガの瞳には誇りが浮かび、
父レギュラスは腕の中の小さな命に未来を見ていた。
母アランでさえ、あの時だけは痛みも疲労も越えたように、
微笑んでアルタイルを抱きしめていたのだろう。
自分には一度も向けられたことのない、あのまなざしで。
幼い頃から気づいていた。
どうしても、自分には届かない温度があると。
女である自分は家を継がない。
ブラック家に生まれながら、その中心に立つ資格は初めからなかった。
アルタイルが生まれた時、それは決定的になった。
父の手も、母の微笑みも、祖父母の誇りも――
すべてが弟に向けて注がれた。
ステラがその事実を理解したのは、言葉を覚えるよりもずっと前だった。
けれど、アルタイルがいなければ。
母はきっと潰されていた。
セシール家最後の娘という奇妙な存在、
純血社会の中で強すぎる力を持ちながら教育を受けられなかった少女――
祖母ヴァルブルガの冷たい視線の中に閉じ込められて、
きっとアランは息をする場所さえなかっただろう。
弟は母を救った。
そのことは、ステラも心のどこかで理解している。
でも。
だからこそ苦しいのだ。
母を救った存在に、自分が勝てるはずがない。
母が最も守りたいのはきっとアルタイルで、
ステラ自身はその影のように生きるしかない。
そんな運命が、最初から決められていた気がする。
それに――
価値観も違う。
母が大切にしているマグルの女、メイラ。
自分はどうしてもそれを受け入れられなかった。
母の愛は限りある。
それなのに、なぜ“血も魔力もない女”に割かれてしまうのか。
本来なら、自分たち実の娘と息子だけに向けられるべきものだ。
それを奪われているとしか思えなかった。
けれど、アルタイルは違う。
弟はメイラに優しい。
母がメイラを大切にする理由を、素直に受け止めているようだった。
ステラには理解できない。
どうして怒らないの?
どうして不公平だと思わないの?
どうして“母の愛を奪われている”と感じないの?
弟には守るものが多すぎる。
父がいて、祖父母がいて、魔法界全体が期待を寄せ、
そして母からの愛も、裏切られたことなど一度もない。
そんな弟に、自分の気持ちが分かるはずがない。
ステラが感じてきた、
“中心に立てない娘”の孤独なんて。
アルタイルの笑顔を見つめながら、
ステラは自分の胸の内に渦巻くものをそっと押し殺した。
嫉妬でもない。
憎しみでもない。
名前をつけられないまま、
ずっと心の底で疼き続ける痛み。
――自分はきっと、この家でずっと“影”なのだ。
そう悟りながら、それでも弟の笑顔に少しだけ救われる気がしていた。
矛盾だらけで、どうしようもなく不器用な姉の心。
春の風がそっと吹き抜け、
アルタイルの笑い声が夜空へ溶けていくように響いた。
ステラはゆっくり背を向ける。
その顔に浮かんだ表情は、どこまでも強く、どこまでも脆かった。
秋の陽が短くなりはじめた頃、アランは窓際に腰掛けていた。
優しい午後の光がテーブルの上に落ち、開かれた便箋を淡く照らす。
今日もステラに宛てた手紙を書いている。
細く白い指で杖を握り、とめどなくことばを紡いでいく。
――ホグワーツでの毎日はどうですか?
――暖かいローブは持っていますか?
――怪我はしていませんか?
――新しい友達ができましたか?
聞きたいことはいつも山ほどあった。
けれど、“返事をください”という一言だけは、どうしても書けないままだった。
押し付けるような真似はしたくない。
ステラに負担をかけたくない。
ただ、あの子の心を少しだけでも知りたい――
そんな小さな願いが、いつも行間にだけ滲む。
そしてアランは必ず、
手紙の最後に淡い星を描くのだった。
娘が生まれた日の、あの眩しい星を思い出すように。
アルタイルからの返事は毎週のように届く。
授業のこと、友達のこと、シリウスに褒められただの、
くだらない悪戯をして怒られただの――
ページをめくるたびに楽しそうな気配が溢れ、読むだけで心が満ちていく。
けれど、
ステラからの返事は一度もない。
便箋をそっと折りたたみながら、アランの胸に微かな痛みが落ちる。
――元気ならいい。
――忙しいだけならいい。
そう思おうとする。
娘が大人びたのは誇らしいことだと、そう自分に言い聞かせる。
けれど手紙を出すたびに、封を閉じる瞬間だけはいつも寂しかった。
「アラン、また手紙を書いているんですか?」
背後から、しずかに、低く美しい声が降りる。
振り返ると、レギュラスがワインのグラスを片手に立っていた。
アランは微笑んで頷き、杖を動かして返す。
《ステラに、少しだけ知らせたくて。元気でいるかどうか》
レギュラスは隣に腰掛ける。
微かな笑みを浮かべながら、指でアランの髪を梳いた。
「……あの子は手紙を書くのが苦手なのかもしれませんね」
アランは少しだけ目を伏せた。
否定したかった。
けれど、そう思うようにした。
“返す気がない”のではなく、
“返せないのだ”と。
ほうっと息がもれる。
胸に広がる寂しさは、涙になるほどではない。
ただ静かに重く、心の底に沈む。
レギュラスはアランの指をとり、そっと握りしめた。
「ステラは……あなたが思うより、難しい年頃なんですよ」
アランは微笑んだ。
それが慰めであることをわかっていた。
それでも、この人の吐く言葉は不思議と心を温めてくれる。
そして、自分の心の片隅の不安をすくい取るようにしてくれるのだ。
《わかっています。でも……少し、寂しいのです》
アランの書く文字は、いつもより少し小さかった。
レギュラスはその文字を読むと、
アランの指先にそっと口づけを落とした。
「大丈夫ですよ。あの子は……あなたを誰よりも見ています」
優しい声だった。
けれど、その優しさでさえ、アランの心の底には小さな痛みが残る。
――あの子は、もう手を伸ばせば届く場所にはいないのかもしれない。
娘がどんどん遠くへ歩いていく。
あの子の中で母は、もう“追いかけてもらう存在”ではないのかもしれない。
そう思うと、胸がぎゅっと締め付けられた。
アランはそっとレギュラスの肩に頭を預ける。
レギュラスはそれを受け止め、目を閉じた。
夕暮れの光の中、
二人の影が静かに寄り添う。
手紙はいつか届くだろうか。
返事は、いつか来るだろうか。
その答えはまだ出ない。
けれどアランは、今日もまた便箋を開く。
娘の心に届きますように、と祈りながら。
ステラの手紙が一度として返ってこない――
アランが窓辺で静かに便箋に杖を走らせる姿を見るたび、胸のどこかが鈍く痛んだ。
返事が欲しいとは言わないアラン。
けれど、
あの子を想う手が、何度も何度も同じ文字を描くたび、
レギュラスの胸の奥で古傷のような後悔が疼いた。
レギュラスは、自覚していた。
自分はステラと深く関わることを避けてきた。
避けるつもりなどなかった。
大切に思っていないわけでも、愛していないわけでもない。
ただ――
彼女の瞳を見るたび、どうしようもなく胸が冷たくなる瞬間があったのだ。
アランと同じ翡翠の瞳。
宝石のように美しい、澄んだ色。
けれどその色は、
同時に“忘れられない罪”を呼び覚ます。
レギュラスがかつて、闇の帝王の命により
マグルの孤児院を“処理”した夜。
その中にいた少女。
年齢は十にも満たなかっただろう。
震えながらも必死に声を殺していた少女。
最後まで諦めず、生きようともがき続けた小さな命。
――その少女の瞳が、翡翠だった。
血に沈んでいくその色は、
夜の闇よりも鮮やかで、
死の直前ですら美しかった。
あの光を奪ったのは自分だ。
その罪は、
生涯消えることはない。
ステラが生まれた日のことを、レギュラスは忘れられない。
赤子のステラが開いた瞳。
その瞬間、レギュラスは息が止まった。
翡翠色。
あの少女と同じ、凍えるような翡翠色。
胸が締め付けられ、吐き気すら感じた。
自分は祝福すべき瞬間に、
罪に怯えるみっともない反応をしてしまった。
アランは涙を流しながら娘を抱いていたのに、
レギュラスは一歩、距離を置いた。
ステラが成長すればするほど、
その翡翠色は深く研ぎ澄まされていった。
幼い頃はまだよかった。
手を繋いで笑いかけられれば、
その小さな身体が愛おしくて仕方がなかった。
けれどステラがあの少女の年齢に近づくにつれて、
恐れは増していった。
――自分が奪った命の年齢に重なる。
――まるで「覚えているか、忘れるな」と責められているようだった。
罪は消えていない。
忘れてはいけない。
その声が、ステラを見るたびに響く。
対照的にアルタイルは、
完全にブラック家の血筋そのものだった。
黒曜石のような瞳。
鋭い眉。
純血の象徴のような魔力の気配。
恐れを抱く要素がどこにもなかった。
安心できる。
罪から切り離された存在。
だからレギュラスはアルタイルに多くを注いだ。
自然と。
無意識に。
その分だけ、ステラとの距離は埋まらないままだった。
アランが何度も便箋を折りたたむ姿を見るたび、
胸が締め付けられる。
ステラが返事を出さない理由は、
きっと娘なりの境界線であり、意地であり、誇りなのだろう。
ステラは、
自分の翡翠の瞳が父に何を思い出させているのか知らない。
知る必要もない。
知らなくていい。
――けれど。
だからこそ、レギュラスは胸を痛めるのだ。
ステラが母アランを恋しがっていても。
手紙の返事を返せないほど拗らせていても。
その心の形は、あの翡翠の色を通して、
いつだってレギュラスに刺さってくる。
アランがまた封を閉じる。
静かに、優しく。
レギュラスはその横顔を見つめながら、
心の奥でそっと呟いた。
――ステラ
あの子がアランに返事をしないその理由も痛みも、
父である自分はすべて、
わかってやれないかもしれない。
だが、
愛せないわけでは決して、ない。
ただ……
あの子の瞳が、あまりにも、痛いのだ。
――昼の光が傾きかけた魔法省法務部の執務室。
分厚いガラス越しの光が机の端を白く照らし、書類の山が影の模様をつくっていた。
その静けさを破ったのは、
艶やかなヒールの乾いた音と、
ゆったりとした香水の甘い香りだった。
「お邪魔かしら?」
扉の前に立っていたのは、セラ・レヴィントン。
白いコートを片手に、挑発とも無関心ともつかない微笑みを浮かべている。
レギュラスは、反射的に書類から顔を上げた。
胸の奥で何かが、ひりついたように痛む。
「僕は……席を外したほうがよろしいですかね」
バーテミウスが空気を読み、そっと立ち上がる。
「ええ、お願いします」
レギュラスは目を伏せて応えた。
バーテミウスが扉を閉めた瞬間、
執務室には三ヶ月ぶりの、重苦しい沈黙が落ちた。
「切り込むのは、あなたからがいいのかしら」
セラは机の前に立ち、足を組み替えた。
レギュラスは口を開きかけるが、言葉が喉に詰まる。
頭の中で何度も練習したはずの言葉が、形にならない。
「……何か、あったのかしら。急に来なくなったと思ったら」
レギュラスのところへ送られたフクロウ便も、
最近はいくつも未開封のままだ。
「すみません……ここ数ヶ月、問題が山積みで」
「問題?」
セラの唇がわずかに歪む。
「あなたの娘に会ったわよ。ステラ・ブラック。――まぁ、あれは随分と…気の強い娘ね」
その瞬間、レギュラスの胸がぎゅっと痛んだ。
ステラからの報告ではなく、
“未成年魔力検知”の公式通知で知らされた、あの日のことを思い出す。
暗い封筒を開いた瞬間、血の気が引いた。
自分の過ちが、また別の形で家族に影を落としたのだと。
「……あの件は本当に申し訳ありません。気の強い娘ですので。あなたが不快に思ったなら――」
「いいのよ。別に気にしてない」
セラは肩をすくめて笑った。
むしろあの衝突を、どこか誇らしげにすら見えた。
けれど、その笑みの奥には
“何も終わっていない”という匂いがあった。
再び沈黙が訪れる。
レギュラスは深く息を吸った。
肺に空気が入るたび、胸の奥に刺さる罪悪感が膨らむ。
「――セラ」
「なに?」
「……もう、会えそうにはありません」
セラの顔に初めて、明確な色が浮かんだ。
驚愕か、怒りか、失望か。
その複雑な感情が一瞬だけ揺れ、すぐに艶のある笑みへと戻る。
「ふぅん。切るつもりだったのね。わたしを」
レギュラスは視線を落とした。
指先がわずかに震えている。
自分がこの女のそばで、
どれほど“逃げ続けてきた”のかを知っている。
アランにぶつけられなかった感情。
言葉にできない苛立ち、虚しさ、渇き。
弱さをさらけ出すことができず、抱えきれなかったすべてを
セラで手早く満たし続けた年月。
それがどれほど傲慢で、どれほど残酷だったか。
ようやく、痛覚を伴って理解していた。
「責めているのではありません。」
レギュラスは静かに告げた。
「……ただ、終わりにしたいだけです」
セラは机に手をつき、身を乗り出す。
「アランが怖くなった?
それとも――ステラに知られたのが痛かった?」
レギュラスの喉がひくりと動く。
何も言い返せない。
セラは薄く笑った。
その笑みは、哀れみでも嘲りでもない。
ただ――終わりを見届ける者の、鋭い美しさだった。
「あなたって、本当に罪深い男ね。
わたしを求めたのも、逃げるのも――全部、自分のため。」
レギュラスは否定しなかった。
否定できなかった。
「……申し訳ありません」
その言葉は、薄氷の上を歩くように震えていた。
アランが差し出した喉元の白い肌。
あの夜の、確かな温度。
“壊れてもあなたが治してくれるから。恐れずに壊していい。”
声なきアランのその願いが
胸の奥を焼くように貫いた。
あの瞬間、レギュラスは理解した。
――もう二度と、この人を裏切れない。
現実逃避でもなく、空白を埋めるためでもなく。
ただ、アランの隣にいたい。
その願いだけが、本物だった。
「……さよなら、レギュラス」
セラはゆっくり立ち上がり、
右手でコートを整えた。
その横顔は凛としていて、少しだけ寂しそうで、
どこか誇り高かった。
扉が閉まる瞬間、
レギュラスはその背に小さく目を瞑った。
彼女に向けた、最初で最後の謝罪として。
執務室に残された沈黙は、
不思議と冷たくなかった。
罪悪感の痛みの奥に、
ようやく掴んだひとつの確信が
静かに温かく燃えている。
――本当に自分が望んでいたのは、
逃げ場ではない。
ただ、アラン・ブラックだけだった。
魔法省の大広間は、いつもの無機質な光ではなく、
魔法薬学の黄金灯を象徴する琥珀色の光で満たされていた。
巨大な天井のシャンデリアには、薬草を象ったガラス細工が揺れ、
魔力を帯びた湯気のような金色の霧がゆるやかに空気を漂っている。
魔法薬製造における重鎮たち――
各社の代表、薬学博士、研究主任、貴族の投資家たち。
全員が、今“時代の転換点”に立ち会っていると理解していた。
マグルが作り出した魔力中和ポーション。
あれは魔法族への敵意であり、挑戦であり、陰謀だった。
それに対抗する新薬の誕生を祝う夜。
魔法界全体が注目している。
レギュラス・ブラックは、その中央へ歩いてきた。
普段の法務部では見せない、貴族らしい威厳を漂わせながら。
その横に―― アラン。
客たちの視線が一気にそちらへ吸い寄せられる。
まるで風向きが変わったようだった。
アランは純白のローブに、銀糸の刺繍がわずかに光を放つ。
静かに立つだけで、空間の温度が変わるほど美しい。
翡翠色の瞳は深い湖のようで、声を失っているという儚さが、
その美しさにいっそうの透明さを与えていた。
「……あれが、セシール家の娘……」
「生き残り……本物だわ……」
「なんて綺麗なんだ。まるで絵画の……」
低く押し殺した声が、ざわめきのように広がった。
レギュラスはそれを正しく計算し尽くしていた。
アランという存在が世論に与える影響――
それは“絶対的な同情”と“確固たる支持”。
セシール家の悲劇は今でも語り草だ。
マグルの暴徒により、一家が一夜にして虐殺された。
唯一の生き残りで、声を失うほどの恐怖と痛みに晒された少女。
その娘が、今や法務長官の妻として静かに微笑んでいる。
この構図は、あまりにも強い。
それは、レギュラスが法務部でどれほど強い決断を下そうと、
「アランがいる」という事実そのものが説得力を持つことを意味した。
レギュラスはアランの手をとり、軽く添えた。
アランの肩にかかる力がほんの少し抜ける。
「疲れるでしょうが……今日だけ、僕につきあってください。」
低く静かな声だった。
アランは杖も使わず、ただ頷いた。
ゆっくりと、柔らかく。
その仕草だけで、周囲の人間は心を掴まれたような顔をした。
宴が始まると、魔法薬各社の代表者たちは次々とレギュラスのもとへ集まった。
深い礼をし、賞賛を述べ、握手を求めてくる。
「奥様にお目にかかれて光栄です、ブラック長官。」
「お美しい……本当に……」
「この悲劇の時代に、あなたのような方がそばにおられるとは……」
アランはそのたびに小さく微笑む。
声を出さぬ沈黙の微笑みは、逆に強烈だった。
慰め
同情
純粋な崇拝
そして、彼女を守る夫への信頼
人々の感情がひとつの方向へ収束していく。
レギュラスはその横顔を見ながら思った。
美しすぎる……
この夜のために贈った銀の耳飾りが、
灯りを反射して小さく揺れる。
長年、血のように張りついていた政治の重圧が、
アランが隣にいるだけで、すっと遠のく。
この女がいるだけで
どれほど世界が静かになるか。
その気持ちを、言葉にする必要はなかった。
アランはレギュラスの視線を感じ取り、
そっと彼の袖を摘んだ。
握られた指先が、少しだけ震えていた。
人前に立つ緊張なのか、
それとも愛しさによるかすかな震えなのか。
レギュラスは静かにアランの手を包み込んだ。
「大丈夫です。あなたはただ、今日ここにいてくれればいい。」
アランは短くまばたきをし、微かに微笑んだ。
そしてその微笑みは――
レギュラスの胸の奥に、深く深く沈んでいった。
魔法薬製薬会社の重鎮を集めた夜会から、わずか数日。
魔法界の空気は、驚くほど急速に変わり始めていた。
その中心にいたのは――
レギュラス・ブラックではなく、
彼の隣で静かに微笑んでいた“ アラン・ブラック”だった。
翌朝のウィッチウィークリーには、
大きく美しい写真が掲載された。
──「悲劇のセシール家の娘、アラン・ブラック夫人
製薬会社の夜会に姿を見せる」
その記事は、政治色を帯びながらも、どこか優しい筆致だった。
アランの純白の肌、翡翠の瞳、そして声を失ったことによる儚さが、
紙面いっぱいに“魔法界が守るべき象徴”として描かれていた。
読者の声もすぐに届き始める。
「息を呑むほど美しい……」
「戦争の犠牲となった女性を、もっと保護しなければならない」
「ブラック長官の決断は正しい。
あのような女性を護り得た男に、政治を任せるべきだ」
当初は、レギュラスの強引な声明に反感を抱いていた層さえ、
アランの存在を通して、柔らかく流されていった。
魔法薬の新開発支援金についての議会は、
通常ならば反対派がこぞって難癖をつけるはずだった。
けれど――
議場の空気は、どこか妙に穏やかだった。
「ブラック長官……
あの夜会でお会いした奥方……素晴らしい方でした」
「セシール家を守れなかった我々の責任は、
この支援金によって少しでも返すべきだ」
「魔力無効化ポーションなど存在してはならない。
魔法族を守るのは我々の義務だ」
批判などどこにもなかった。
むしろ賛成が溢れ、議案は異様な速度で可決されていく。
レギュラスは静かに議場の中央に立ち、
淡々と答弁を重ねる。
だがその瞳の奥には、
確かに喜びと驚きを滲ませる光があった。
……こんなに、変わるものなのか。
いつもなら剣のような視線を送ってくる議員たちが、
今は彼の手を取るように歩み寄ってきている。
その理由はレギュラスには痛いほど分かっていた。
アランのおかげだ。
ただそこにいて、微笑むだけで。
彼の政治を支える“世論そのもの”を、
アランは一晩で動かしてしまった。
議会を終え、法務部に戻ると、
バーテミウスが書類から顔を上げた。
「……とんでもないですね。
あなたの奥方は。世論という名の魔法を使われましたよ」
レギュラスは苦笑する。
「本人は、何もしていません。
ただ……隣にいただけです」
「だからすごいんです。
馬鹿みたいですね。十年以上、敵と味方が拮抗していたのに。
たった数時間で、全部ひっくり返された」
からかうようなバーテミウスの声に、
レギュラスは珍しく言葉を失っていた。
政治の世界で、こんなにも“得をする”のは珍しい。
今まで数え切れないほどの敵意と戦い続けてきた男が、
この数日だけ異様なほどに追い風を受けている。
アランの微笑みは、
レギュラスが振るう政治の“正当性”を補完した。
その効果は絶大だった。
その夜。
レギュラスが屋敷に戻ると、
アランは廊下で灯りを持って待っていた。
疲労が滲む顔を見て、心配そうに近づいてくる。
レギュラスはそっとアランの頬に触れた。
「……あなたのおかげで、
今日はすべてがうまくいきました」
アランは小さく首を傾ける。
レギュラスは続けた。
「あなたは……いつも静かに、
僕の背を押してくれる」
アランは杖を取り、ゆっくりと空中に文字を描いた。
──何もしていません。
──ただ、あなたの隣にいただけです。
その言葉が胸に落ちた瞬間、
レギュラスは堪えきれずアランを抱きしめた。
「それが……いちばんの力なんです」
アランが息を詰める。
そしてゆっくりと、
レギュラスの胸元に手を添えて抱き返した。
その微細な動作だけで――
レギュラスの世界は、すべて軌道に乗った。
ルシウス・マルフォイは、白い大理石の暖炉の前で椅子に深く腰を下ろし、
優雅に紅茶を口に含みながらウィッチウィークリーの最新号をめくっていた。
紙面中央には、大粒の魔法石のように輝く翡翠の瞳をした女――
アラン・ブラックが、レギュラスの隣に佇んでいる写真が大きく掲載されている。
「……なるほど。こういう見せ方をするか。」
写真の中のアランは、夜会で着ていた美しいのローブを纏い、
声を失った悲劇の淑女として、魔法界の共感を一身に集めていた。
わずかに微笑んだだけで、彼女の周囲の空気が柔らかくなり、
その存在が“純血社会の守るべき象徴”であるかのような錯覚を抱かせる。
レギュラス・ブラックはこの女を、
見事に“武器”として使いこなしている。
だが――
ルシウスは薄く笑い、紙面を閉じた。
「美しい写真だ。……しかし、真実を知る者には滑稽ですらある。」
ルシウスの記憶は、黒い霧のように過去へと遡っていく。
アラン・ブラック――
あの女が“セシール家の生き残り”と大々的に名乗る前。
赤茶けた石壁の地下牢に放り込まれ、
ボロ布のような衣服を身体に貼りつかせていた頃の姿を。
肌は生気を失い、痩せ細った四肢には無数の手形の痣。
誰かに蹴られたのか、肋に走る紫紺の裂傷。
顔立ちの美しさだけが異様に浮き彫りになっていて、
それが逆に、獰猛な下っ端デスイーターたちを刺激していた。
「さぞ、好き勝手に汚されたことだろうな。」
あれほどの数の男たちが代わる代わる、
飢えを満たすためにあの牢に入り浸っていた。
汚辱と暴力の巣窟だった。
その地獄を、ルシウスは“知っている”。
忘れられるわけがない。
――あの頃、彼女の瞳には何も映っていなかった。
虚ろで、壊れていて、
今紙面で持ち上げられている“悲劇の淑女”とは
あまりにもかけ離れた存在だった。
レギュラスは、そんな女を引きずり出し――
美しく仕立て上げ、
ブラック家の妻として立たせた。
その努力と執着は称賛に値する。
だが、ルシウスには理解できない。
「……あの女の過去を知っていて、なお愛せるのか?」
自分ならば、受け入れられない。
魔法族としての気品。
純血の血統だけが持つ滲み出る高貴さ。
ナルシッサはそのどれをも備えている。
“どこの誰に汚されたのかわからない女”など、
妻として迎えるなど考えもしない。
それが、純血の誇りというものだ。
さらに、あの夜会でのアランの振る舞いにも、
ルシウスは冷ややかな視線を送っていた。
「……テーブルの料理を指で示し、夫に要求とは。はしたない。」
周囲は「仲睦まじい」と微笑ましい記事を書いていたが、
ルシウスには、教養の欠如が露わに見えた。
セシールの末裔とはいえ、
長年の幽閉で教育を受けられなかった女に
ブラック家の淑女たちのような作法を求めるのは酷ではあるが――
それでも、あの仕草は、貴族の場に相応しくなかった。
とはいえ――
アラン・ブラックは役目を果たした。
“美しさ”という圧倒的な説得力。
“悲劇の生き残り”という物語性。
そして、レギュラスがどこまでも庇護するその姿勢。
それが世論を動かし、
今回の対抗薬開発支援金の可決を後押しし、
魔法族の側に風を吹かせた。
「……使えるものはなんでも使う。
レギュラスはそれが誰よりも上手い。」
感心はした。
だが――
理解はしない。
あの女を愛せる理由など、
ルシウスには最後まで分からなかった。
むしろ、理解できないことこそが、
“レギュラス・ブラックという男の気味の悪い底知れなさ”でもあった。
白い魔法灯が整然と並ぶ廊下を、レギュラスとバーテミウスが歩いていた。
議会を終えたばかりの空気はまだざわついており、遠くから議員たちの怒号や記者たちの羽ペンの音が響く。
レギュラスの手には、ついさきほど可決されたばかりの書類綴りがあった。
《魔力無効化ポーション対抗薬 開発支援金制度》
――信じられないほどの速さで通った法案だった。
魔力を完全に“ゼロ”にするポーション――。
それがマグル側によって作られたとなれば、もはや“戦争の号砲”と同義だった。
魔法族の力の源を奪う。
その意図が偶然であるはずがない。
レギュラスは最初から「クーデター」と断定し、態度を崩さなかった。
だからこそ、
魔力消失効果を中和する“新薬”の開発を、魔法製薬会社に即時命令した。
製薬会社には厳命が飛ぶ。
・48時間以内に既存の抗ポーション素材を提出すること
・三社以上の共同研究チームを即編成
・魔法薬学省の地下ラボを夜間もフル稼働
・臨床テスト魔法生物を大量に確保
・政府主導で安全性の最低基準を引き下げる
そのために、レギュラスは議会で前例のない額の支援金を提案した。
金は湯水のように流れ、議員たちはその勢いに飲まれて可決印を押した。
魔法省は今、武力より先に“薬”で戦おうとしている。
その中心にいるのは、レギュラス・ブラックだった。
「長官、今日は本当に……強引でしたね。」
バーテミウスが肩の力を抜きながら言う。
「これは必要な強引さです。」
レギュラスは淡々と答えた。
「騎士団は相当反発しますよ。あれだけ税金を回せば。」
「当然でしょう。彼らは“理想”を掲げ、僕は“現実”を動かす。」
レギュラスの声音は鋭く、それでいて冷えた刃のように静かだ。
そのときだった。
廊下の向こうから足音が二つ。
黒いコートのシリウス・ブラック、そして怒りを飲み込んだままのジェームズ・ポッター。
四人の視線が火花を散らすように交差した。
「おい、レギュラス。」
シリウスが唸るように吐き捨てた。
その声は怒りと、兄としての苛立ちが絡み合った濁った音だった。
「てめぇ、まずは関わった“魔法族”の洗い出しが先だろうが。何だあの訳のわからねぇ声明は。」
シリウスの拳は白くなるほど握られている。
レギュラスはまっすぐに兄を見返し、冷静な声で返した。
「真実より鎮静です。」
その一言で、シリウスの怒りが爆ぜた。
「鎮静してどうすんだよ!
何も解決してねぇじゃねぇか!」
「正義を振り翳し、いつまでも魔法界を混沌させてどうするつもりです?」
レギュラスの声は少しだけ低く落ち、静かに挑発するようだった。
バーテミウスが固唾を飲んだ。
この二人が直接ぶつかることは滅多にない。
まして今は、魔法界全体がきしむように揺れている最中だ。
そのとき、ジェームズが一歩前に出た。
靴底が大理石を叩く音が、異様に大きく響く。
彼の目には炎のようなものが宿っていた。
数年分の積もりに積もった感情――憎しみ、怒り、そして未消化の悲鳴のような哀しみ。
「レギュラス・ブラック。」
静かに、しかし怒りを押し潰すように。
「きみは――」
ジェームズの声が少し震えた。
「――あまりにも“大切なものを失う痛み”を知らなさすぎるんだ。」
レギュラスの睫毛がほんのわずか揺れた。
一瞬だけ、空気が変わる。
「何かの忠告ですか?」
レギュラスは薄く笑った。
それは底知れぬ余裕を装った、鋼の仮面の笑み。
「好きに取るといい。」
ジェームズは吐き捨てるように言い、背を向けた。
その言葉は――
ただの挑発ではない。脅しでもない。忠告でもない。
“宣戦布告”に近かった。
レギュラスは彼の背を見送りながら、ほんの一瞬だけ喉の奥で何かが軋むのを感じた。
――嫌な予感だ。
何かが動き始めた。
静かに、しかし確実に。
ジェームズとシリウスが去ったあと、バーテミウスは青ざめた顔で囁いた。
「レギュラス……いまのは……。」
「わかっています。」
レギュラスは革手袋を外し、指先を押しながら息を吐いた。
「しばらく――騎士団の動向を注視する必要があります。」
その声は静かだったが、どこか緊張を孕んでいた。
レギュラスの中に微かな焦りが生まれたことを、バーテミウスは初めて感じた。
廊下の向こうで、魔法灯がひとつ、チリと揺れる。
それはまるで
これから起こる嵐の前触れのようだった。
夕食の席に座ったとき、アルタイルはいつもの光景が、なぜかひどく胸に沁みた。
長いテーブルの中央、父と母が並んで座っている。
その姿は何年も変わらない――はずなのに、今日だけは何かが違った。
普段であれば、母は杖で、静かに空中へさらさらと文字を描く。
それが母の“声”であり、家族の会話の中心だった。
けれど今日は、母は杖を使わなかった。
代わりに、父の手のひらをそっと取ると、
指先でゆっくり、なにかの文字を描きはじめた。
優しく撫でるような、囁くような、その動き。
どんな言葉を書いたのか、アルタイルからは見えない。
けれど、父の表情が答えを教えてくれた。
レギュラスはふっと息を漏らすように柔らかく笑った。
普段の鋭い光の奥に、あたたかな色が差し込む。
――ああ、これは愛だ。
そう思うだけで、胸がじんわりと熱くなる。
アルタイルは自然と目を逸らした。
見てはいけないものではないけれど、どこか照れくさかった。
思い返せば、家がもっと冷たかった時期がある。
祖父オリオン、祖母ヴァルブルガが屋敷にいた頃だ。
とくに祖母――ヴァルブルガは母を決して好いてはいなかった。
そのことは子どもだったアルタイルにも、痛いほどわかった。
マグルであるメイラを傍に置いていることもそうだ。
だが、それ以上に、
絶滅した名家セシール家の末裔であること
それが祖母の気に入らない理由だった。
母が幼い頃、教育も受けられず、
地下牢で闇の帝王に幽閉されていた――
その生々しい過去を、ヴァルブルガは“教養不足”と決めつけた。
「ブラック家の妻としての品位が足りない」
「学ぶべきことを知らなさすぎる」
直接罵倒したわけではない。
けれど、その刺々しい言葉は決して母に向けられたものではないふりをしながら、確実に母を突き刺していた。
アルタイルはそのたびに、
喉がちぎれるほど叫びたかった。
けれど子供の自分に何ができる?
ただ、小さな手を震わせながら、母の影に隠れて見るしかなかった。
だからこそ、思っていた。
父が母を妻にした理由――
それは愛ではなく、純血の名家が欲しがる“力”のためなのだろう、と。
母はセシール家の封印の魔力を継いでいる。
ブラック家に取り込むべき“価値”が母にはある。
そんな計算で迎えられたのだ、と。
子どもながらに、ずっとそう考えていた。
そうすれば、なんとなく割り切れた。
母だけが父を命の恩人のように慕い続け、
父は彼女を守る義務として支えているだけ――
そんな風に。
でも。
――いま目の前の二人は、違う。
手のひらに描かれた言葉に、父は微笑む。
母はその微笑みに、ほっと胸を撫で下ろしたように目を伏せる。
あれは義務では生まれない表情だ。
あれは計算では動かない心だ。
誰よりも深い場所で、
二人は確かに愛し合っている。
父の目も、母の手も、
互いに触れるその一瞬の仕草さえ、
まるで長い旅路の果てにようやく辿り着いたような穏やかさがあった。
アルタイルは箸を握りしめながら、
泣きそうになるほどの幸福に胸を締めつけられた。
――ああ、よかった。
母は愛されている。
父は母を愛している。
その事実が、自分の世界をどれほど救ってくれるのか、
誰も知らない。
けれどアルタイルの胸の奥では、
温かい光がじんわりと灯り続けていた。
ホグワーツの中庭に、春の光がこぼれていた。
まだ制服の袖が少し長い小柄な一年生――アルタイル・ブラックは、笑っていた。
あどけない表情のまま、しかし誰から見ても将来は父に似て鋭く整うであろう顔立ちで、
男子生徒にも女子生徒にも囲まれ、楽しそうに会話をしていた。
あんな風に笑えることが、眩しくて仕方がない。
ステラは階段の影から、その光景を見ていた。
弟の笑顔が、春の光と同じくらい軽やかに世界を照らしているように感じられる。
――羨ましい、なんて言葉では足りなかった。
アルタイルは自分とは違う。
弟は“跡取り”だ。
ブラック家が長年待ち望んだ、誇りの象徴。
生まれた日から、祖父オリオンに抱きしめられ、
祖母ヴァルブルガの瞳には誇りが浮かび、
父レギュラスは腕の中の小さな命に未来を見ていた。
母アランでさえ、あの時だけは痛みも疲労も越えたように、
微笑んでアルタイルを抱きしめていたのだろう。
自分には一度も向けられたことのない、あのまなざしで。
幼い頃から気づいていた。
どうしても、自分には届かない温度があると。
女である自分は家を継がない。
ブラック家に生まれながら、その中心に立つ資格は初めからなかった。
アルタイルが生まれた時、それは決定的になった。
父の手も、母の微笑みも、祖父母の誇りも――
すべてが弟に向けて注がれた。
ステラがその事実を理解したのは、言葉を覚えるよりもずっと前だった。
けれど、アルタイルがいなければ。
母はきっと潰されていた。
セシール家最後の娘という奇妙な存在、
純血社会の中で強すぎる力を持ちながら教育を受けられなかった少女――
祖母ヴァルブルガの冷たい視線の中に閉じ込められて、
きっとアランは息をする場所さえなかっただろう。
弟は母を救った。
そのことは、ステラも心のどこかで理解している。
でも。
だからこそ苦しいのだ。
母を救った存在に、自分が勝てるはずがない。
母が最も守りたいのはきっとアルタイルで、
ステラ自身はその影のように生きるしかない。
そんな運命が、最初から決められていた気がする。
それに――
価値観も違う。
母が大切にしているマグルの女、メイラ。
自分はどうしてもそれを受け入れられなかった。
母の愛は限りある。
それなのに、なぜ“血も魔力もない女”に割かれてしまうのか。
本来なら、自分たち実の娘と息子だけに向けられるべきものだ。
それを奪われているとしか思えなかった。
けれど、アルタイルは違う。
弟はメイラに優しい。
母がメイラを大切にする理由を、素直に受け止めているようだった。
ステラには理解できない。
どうして怒らないの?
どうして不公平だと思わないの?
どうして“母の愛を奪われている”と感じないの?
弟には守るものが多すぎる。
父がいて、祖父母がいて、魔法界全体が期待を寄せ、
そして母からの愛も、裏切られたことなど一度もない。
そんな弟に、自分の気持ちが分かるはずがない。
ステラが感じてきた、
“中心に立てない娘”の孤独なんて。
アルタイルの笑顔を見つめながら、
ステラは自分の胸の内に渦巻くものをそっと押し殺した。
嫉妬でもない。
憎しみでもない。
名前をつけられないまま、
ずっと心の底で疼き続ける痛み。
――自分はきっと、この家でずっと“影”なのだ。
そう悟りながら、それでも弟の笑顔に少しだけ救われる気がしていた。
矛盾だらけで、どうしようもなく不器用な姉の心。
春の風がそっと吹き抜け、
アルタイルの笑い声が夜空へ溶けていくように響いた。
ステラはゆっくり背を向ける。
その顔に浮かんだ表情は、どこまでも強く、どこまでも脆かった。
秋の陽が短くなりはじめた頃、アランは窓際に腰掛けていた。
優しい午後の光がテーブルの上に落ち、開かれた便箋を淡く照らす。
今日もステラに宛てた手紙を書いている。
細く白い指で杖を握り、とめどなくことばを紡いでいく。
――ホグワーツでの毎日はどうですか?
――暖かいローブは持っていますか?
――怪我はしていませんか?
――新しい友達ができましたか?
聞きたいことはいつも山ほどあった。
けれど、“返事をください”という一言だけは、どうしても書けないままだった。
押し付けるような真似はしたくない。
ステラに負担をかけたくない。
ただ、あの子の心を少しだけでも知りたい――
そんな小さな願いが、いつも行間にだけ滲む。
そしてアランは必ず、
手紙の最後に淡い星を描くのだった。
娘が生まれた日の、あの眩しい星を思い出すように。
アルタイルからの返事は毎週のように届く。
授業のこと、友達のこと、シリウスに褒められただの、
くだらない悪戯をして怒られただの――
ページをめくるたびに楽しそうな気配が溢れ、読むだけで心が満ちていく。
けれど、
ステラからの返事は一度もない。
便箋をそっと折りたたみながら、アランの胸に微かな痛みが落ちる。
――元気ならいい。
――忙しいだけならいい。
そう思おうとする。
娘が大人びたのは誇らしいことだと、そう自分に言い聞かせる。
けれど手紙を出すたびに、封を閉じる瞬間だけはいつも寂しかった。
「アラン、また手紙を書いているんですか?」
背後から、しずかに、低く美しい声が降りる。
振り返ると、レギュラスがワインのグラスを片手に立っていた。
アランは微笑んで頷き、杖を動かして返す。
《ステラに、少しだけ知らせたくて。元気でいるかどうか》
レギュラスは隣に腰掛ける。
微かな笑みを浮かべながら、指でアランの髪を梳いた。
「……あの子は手紙を書くのが苦手なのかもしれませんね」
アランは少しだけ目を伏せた。
否定したかった。
けれど、そう思うようにした。
“返す気がない”のではなく、
“返せないのだ”と。
ほうっと息がもれる。
胸に広がる寂しさは、涙になるほどではない。
ただ静かに重く、心の底に沈む。
レギュラスはアランの指をとり、そっと握りしめた。
「ステラは……あなたが思うより、難しい年頃なんですよ」
アランは微笑んだ。
それが慰めであることをわかっていた。
それでも、この人の吐く言葉は不思議と心を温めてくれる。
そして、自分の心の片隅の不安をすくい取るようにしてくれるのだ。
《わかっています。でも……少し、寂しいのです》
アランの書く文字は、いつもより少し小さかった。
レギュラスはその文字を読むと、
アランの指先にそっと口づけを落とした。
「大丈夫ですよ。あの子は……あなたを誰よりも見ています」
優しい声だった。
けれど、その優しさでさえ、アランの心の底には小さな痛みが残る。
――あの子は、もう手を伸ばせば届く場所にはいないのかもしれない。
娘がどんどん遠くへ歩いていく。
あの子の中で母は、もう“追いかけてもらう存在”ではないのかもしれない。
そう思うと、胸がぎゅっと締め付けられた。
アランはそっとレギュラスの肩に頭を預ける。
レギュラスはそれを受け止め、目を閉じた。
夕暮れの光の中、
二人の影が静かに寄り添う。
手紙はいつか届くだろうか。
返事は、いつか来るだろうか。
その答えはまだ出ない。
けれどアランは、今日もまた便箋を開く。
娘の心に届きますように、と祈りながら。
ステラの手紙が一度として返ってこない――
アランが窓辺で静かに便箋に杖を走らせる姿を見るたび、胸のどこかが鈍く痛んだ。
返事が欲しいとは言わないアラン。
けれど、
あの子を想う手が、何度も何度も同じ文字を描くたび、
レギュラスの胸の奥で古傷のような後悔が疼いた。
レギュラスは、自覚していた。
自分はステラと深く関わることを避けてきた。
避けるつもりなどなかった。
大切に思っていないわけでも、愛していないわけでもない。
ただ――
彼女の瞳を見るたび、どうしようもなく胸が冷たくなる瞬間があったのだ。
アランと同じ翡翠の瞳。
宝石のように美しい、澄んだ色。
けれどその色は、
同時に“忘れられない罪”を呼び覚ます。
レギュラスがかつて、闇の帝王の命により
マグルの孤児院を“処理”した夜。
その中にいた少女。
年齢は十にも満たなかっただろう。
震えながらも必死に声を殺していた少女。
最後まで諦めず、生きようともがき続けた小さな命。
――その少女の瞳が、翡翠だった。
血に沈んでいくその色は、
夜の闇よりも鮮やかで、
死の直前ですら美しかった。
あの光を奪ったのは自分だ。
その罪は、
生涯消えることはない。
ステラが生まれた日のことを、レギュラスは忘れられない。
赤子のステラが開いた瞳。
その瞬間、レギュラスは息が止まった。
翡翠色。
あの少女と同じ、凍えるような翡翠色。
胸が締め付けられ、吐き気すら感じた。
自分は祝福すべき瞬間に、
罪に怯えるみっともない反応をしてしまった。
アランは涙を流しながら娘を抱いていたのに、
レギュラスは一歩、距離を置いた。
ステラが成長すればするほど、
その翡翠色は深く研ぎ澄まされていった。
幼い頃はまだよかった。
手を繋いで笑いかけられれば、
その小さな身体が愛おしくて仕方がなかった。
けれどステラがあの少女の年齢に近づくにつれて、
恐れは増していった。
――自分が奪った命の年齢に重なる。
――まるで「覚えているか、忘れるな」と責められているようだった。
罪は消えていない。
忘れてはいけない。
その声が、ステラを見るたびに響く。
対照的にアルタイルは、
完全にブラック家の血筋そのものだった。
黒曜石のような瞳。
鋭い眉。
純血の象徴のような魔力の気配。
恐れを抱く要素がどこにもなかった。
安心できる。
罪から切り離された存在。
だからレギュラスはアルタイルに多くを注いだ。
自然と。
無意識に。
その分だけ、ステラとの距離は埋まらないままだった。
アランが何度も便箋を折りたたむ姿を見るたび、
胸が締め付けられる。
ステラが返事を出さない理由は、
きっと娘なりの境界線であり、意地であり、誇りなのだろう。
ステラは、
自分の翡翠の瞳が父に何を思い出させているのか知らない。
知る必要もない。
知らなくていい。
――けれど。
だからこそ、レギュラスは胸を痛めるのだ。
ステラが母アランを恋しがっていても。
手紙の返事を返せないほど拗らせていても。
その心の形は、あの翡翠の色を通して、
いつだってレギュラスに刺さってくる。
アランがまた封を閉じる。
静かに、優しく。
レギュラスはその横顔を見つめながら、
心の奥でそっと呟いた。
――ステラ
あの子がアランに返事をしないその理由も痛みも、
父である自分はすべて、
わかってやれないかもしれない。
だが、
愛せないわけでは決して、ない。
ただ……
あの子の瞳が、あまりにも、痛いのだ。
――昼の光が傾きかけた魔法省法務部の執務室。
分厚いガラス越しの光が机の端を白く照らし、書類の山が影の模様をつくっていた。
その静けさを破ったのは、
艶やかなヒールの乾いた音と、
ゆったりとした香水の甘い香りだった。
「お邪魔かしら?」
扉の前に立っていたのは、セラ・レヴィントン。
白いコートを片手に、挑発とも無関心ともつかない微笑みを浮かべている。
レギュラスは、反射的に書類から顔を上げた。
胸の奥で何かが、ひりついたように痛む。
「僕は……席を外したほうがよろしいですかね」
バーテミウスが空気を読み、そっと立ち上がる。
「ええ、お願いします」
レギュラスは目を伏せて応えた。
バーテミウスが扉を閉めた瞬間、
執務室には三ヶ月ぶりの、重苦しい沈黙が落ちた。
「切り込むのは、あなたからがいいのかしら」
セラは机の前に立ち、足を組み替えた。
レギュラスは口を開きかけるが、言葉が喉に詰まる。
頭の中で何度も練習したはずの言葉が、形にならない。
「……何か、あったのかしら。急に来なくなったと思ったら」
レギュラスのところへ送られたフクロウ便も、
最近はいくつも未開封のままだ。
「すみません……ここ数ヶ月、問題が山積みで」
「問題?」
セラの唇がわずかに歪む。
「あなたの娘に会ったわよ。ステラ・ブラック。――まぁ、あれは随分と…気の強い娘ね」
その瞬間、レギュラスの胸がぎゅっと痛んだ。
ステラからの報告ではなく、
“未成年魔力検知”の公式通知で知らされた、あの日のことを思い出す。
暗い封筒を開いた瞬間、血の気が引いた。
自分の過ちが、また別の形で家族に影を落としたのだと。
「……あの件は本当に申し訳ありません。気の強い娘ですので。あなたが不快に思ったなら――」
「いいのよ。別に気にしてない」
セラは肩をすくめて笑った。
むしろあの衝突を、どこか誇らしげにすら見えた。
けれど、その笑みの奥には
“何も終わっていない”という匂いがあった。
再び沈黙が訪れる。
レギュラスは深く息を吸った。
肺に空気が入るたび、胸の奥に刺さる罪悪感が膨らむ。
「――セラ」
「なに?」
「……もう、会えそうにはありません」
セラの顔に初めて、明確な色が浮かんだ。
驚愕か、怒りか、失望か。
その複雑な感情が一瞬だけ揺れ、すぐに艶のある笑みへと戻る。
「ふぅん。切るつもりだったのね。わたしを」
レギュラスは視線を落とした。
指先がわずかに震えている。
自分がこの女のそばで、
どれほど“逃げ続けてきた”のかを知っている。
アランにぶつけられなかった感情。
言葉にできない苛立ち、虚しさ、渇き。
弱さをさらけ出すことができず、抱えきれなかったすべてを
セラで手早く満たし続けた年月。
それがどれほど傲慢で、どれほど残酷だったか。
ようやく、痛覚を伴って理解していた。
「責めているのではありません。」
レギュラスは静かに告げた。
「……ただ、終わりにしたいだけです」
セラは机に手をつき、身を乗り出す。
「アランが怖くなった?
それとも――ステラに知られたのが痛かった?」
レギュラスの喉がひくりと動く。
何も言い返せない。
セラは薄く笑った。
その笑みは、哀れみでも嘲りでもない。
ただ――終わりを見届ける者の、鋭い美しさだった。
「あなたって、本当に罪深い男ね。
わたしを求めたのも、逃げるのも――全部、自分のため。」
レギュラスは否定しなかった。
否定できなかった。
「……申し訳ありません」
その言葉は、薄氷の上を歩くように震えていた。
アランが差し出した喉元の白い肌。
あの夜の、確かな温度。
“壊れてもあなたが治してくれるから。恐れずに壊していい。”
声なきアランのその願いが
胸の奥を焼くように貫いた。
あの瞬間、レギュラスは理解した。
――もう二度と、この人を裏切れない。
現実逃避でもなく、空白を埋めるためでもなく。
ただ、アランの隣にいたい。
その願いだけが、本物だった。
「……さよなら、レギュラス」
セラはゆっくり立ち上がり、
右手でコートを整えた。
その横顔は凛としていて、少しだけ寂しそうで、
どこか誇り高かった。
扉が閉まる瞬間、
レギュラスはその背に小さく目を瞑った。
彼女に向けた、最初で最後の謝罪として。
執務室に残された沈黙は、
不思議と冷たくなかった。
罪悪感の痛みの奥に、
ようやく掴んだひとつの確信が
静かに温かく燃えている。
――本当に自分が望んでいたのは、
逃げ場ではない。
ただ、アラン・ブラックだけだった。
魔法省の大広間は、いつもの無機質な光ではなく、
魔法薬学の黄金灯を象徴する琥珀色の光で満たされていた。
巨大な天井のシャンデリアには、薬草を象ったガラス細工が揺れ、
魔力を帯びた湯気のような金色の霧がゆるやかに空気を漂っている。
魔法薬製造における重鎮たち――
各社の代表、薬学博士、研究主任、貴族の投資家たち。
全員が、今“時代の転換点”に立ち会っていると理解していた。
マグルが作り出した魔力中和ポーション。
あれは魔法族への敵意であり、挑戦であり、陰謀だった。
それに対抗する新薬の誕生を祝う夜。
魔法界全体が注目している。
レギュラス・ブラックは、その中央へ歩いてきた。
普段の法務部では見せない、貴族らしい威厳を漂わせながら。
その横に―― アラン。
客たちの視線が一気にそちらへ吸い寄せられる。
まるで風向きが変わったようだった。
アランは純白のローブに、銀糸の刺繍がわずかに光を放つ。
静かに立つだけで、空間の温度が変わるほど美しい。
翡翠色の瞳は深い湖のようで、声を失っているという儚さが、
その美しさにいっそうの透明さを与えていた。
「……あれが、セシール家の娘……」
「生き残り……本物だわ……」
「なんて綺麗なんだ。まるで絵画の……」
低く押し殺した声が、ざわめきのように広がった。
レギュラスはそれを正しく計算し尽くしていた。
アランという存在が世論に与える影響――
それは“絶対的な同情”と“確固たる支持”。
セシール家の悲劇は今でも語り草だ。
マグルの暴徒により、一家が一夜にして虐殺された。
唯一の生き残りで、声を失うほどの恐怖と痛みに晒された少女。
その娘が、今や法務長官の妻として静かに微笑んでいる。
この構図は、あまりにも強い。
それは、レギュラスが法務部でどれほど強い決断を下そうと、
「アランがいる」という事実そのものが説得力を持つことを意味した。
レギュラスはアランの手をとり、軽く添えた。
アランの肩にかかる力がほんの少し抜ける。
「疲れるでしょうが……今日だけ、僕につきあってください。」
低く静かな声だった。
アランは杖も使わず、ただ頷いた。
ゆっくりと、柔らかく。
その仕草だけで、周囲の人間は心を掴まれたような顔をした。
宴が始まると、魔法薬各社の代表者たちは次々とレギュラスのもとへ集まった。
深い礼をし、賞賛を述べ、握手を求めてくる。
「奥様にお目にかかれて光栄です、ブラック長官。」
「お美しい……本当に……」
「この悲劇の時代に、あなたのような方がそばにおられるとは……」
アランはそのたびに小さく微笑む。
声を出さぬ沈黙の微笑みは、逆に強烈だった。
慰め
同情
純粋な崇拝
そして、彼女を守る夫への信頼
人々の感情がひとつの方向へ収束していく。
レギュラスはその横顔を見ながら思った。
美しすぎる……
この夜のために贈った銀の耳飾りが、
灯りを反射して小さく揺れる。
長年、血のように張りついていた政治の重圧が、
アランが隣にいるだけで、すっと遠のく。
この女がいるだけで
どれほど世界が静かになるか。
その気持ちを、言葉にする必要はなかった。
アランはレギュラスの視線を感じ取り、
そっと彼の袖を摘んだ。
握られた指先が、少しだけ震えていた。
人前に立つ緊張なのか、
それとも愛しさによるかすかな震えなのか。
レギュラスは静かにアランの手を包み込んだ。
「大丈夫です。あなたはただ、今日ここにいてくれればいい。」
アランは短くまばたきをし、微かに微笑んだ。
そしてその微笑みは――
レギュラスの胸の奥に、深く深く沈んでいった。
魔法薬製薬会社の重鎮を集めた夜会から、わずか数日。
魔法界の空気は、驚くほど急速に変わり始めていた。
その中心にいたのは――
レギュラス・ブラックではなく、
彼の隣で静かに微笑んでいた“ アラン・ブラック”だった。
翌朝のウィッチウィークリーには、
大きく美しい写真が掲載された。
──「悲劇のセシール家の娘、アラン・ブラック夫人
製薬会社の夜会に姿を見せる」
その記事は、政治色を帯びながらも、どこか優しい筆致だった。
アランの純白の肌、翡翠の瞳、そして声を失ったことによる儚さが、
紙面いっぱいに“魔法界が守るべき象徴”として描かれていた。
読者の声もすぐに届き始める。
「息を呑むほど美しい……」
「戦争の犠牲となった女性を、もっと保護しなければならない」
「ブラック長官の決断は正しい。
あのような女性を護り得た男に、政治を任せるべきだ」
当初は、レギュラスの強引な声明に反感を抱いていた層さえ、
アランの存在を通して、柔らかく流されていった。
魔法薬の新開発支援金についての議会は、
通常ならば反対派がこぞって難癖をつけるはずだった。
けれど――
議場の空気は、どこか妙に穏やかだった。
「ブラック長官……
あの夜会でお会いした奥方……素晴らしい方でした」
「セシール家を守れなかった我々の責任は、
この支援金によって少しでも返すべきだ」
「魔力無効化ポーションなど存在してはならない。
魔法族を守るのは我々の義務だ」
批判などどこにもなかった。
むしろ賛成が溢れ、議案は異様な速度で可決されていく。
レギュラスは静かに議場の中央に立ち、
淡々と答弁を重ねる。
だがその瞳の奥には、
確かに喜びと驚きを滲ませる光があった。
……こんなに、変わるものなのか。
いつもなら剣のような視線を送ってくる議員たちが、
今は彼の手を取るように歩み寄ってきている。
その理由はレギュラスには痛いほど分かっていた。
アランのおかげだ。
ただそこにいて、微笑むだけで。
彼の政治を支える“世論そのもの”を、
アランは一晩で動かしてしまった。
議会を終え、法務部に戻ると、
バーテミウスが書類から顔を上げた。
「……とんでもないですね。
あなたの奥方は。世論という名の魔法を使われましたよ」
レギュラスは苦笑する。
「本人は、何もしていません。
ただ……隣にいただけです」
「だからすごいんです。
馬鹿みたいですね。十年以上、敵と味方が拮抗していたのに。
たった数時間で、全部ひっくり返された」
からかうようなバーテミウスの声に、
レギュラスは珍しく言葉を失っていた。
政治の世界で、こんなにも“得をする”のは珍しい。
今まで数え切れないほどの敵意と戦い続けてきた男が、
この数日だけ異様なほどに追い風を受けている。
アランの微笑みは、
レギュラスが振るう政治の“正当性”を補完した。
その効果は絶大だった。
その夜。
レギュラスが屋敷に戻ると、
アランは廊下で灯りを持って待っていた。
疲労が滲む顔を見て、心配そうに近づいてくる。
レギュラスはそっとアランの頬に触れた。
「……あなたのおかげで、
今日はすべてがうまくいきました」
アランは小さく首を傾ける。
レギュラスは続けた。
「あなたは……いつも静かに、
僕の背を押してくれる」
アランは杖を取り、ゆっくりと空中に文字を描いた。
──何もしていません。
──ただ、あなたの隣にいただけです。
その言葉が胸に落ちた瞬間、
レギュラスは堪えきれずアランを抱きしめた。
「それが……いちばんの力なんです」
アランが息を詰める。
そしてゆっくりと、
レギュラスの胸元に手を添えて抱き返した。
その微細な動作だけで――
レギュラスの世界は、すべて軌道に乗った。
ルシウス・マルフォイは、白い大理石の暖炉の前で椅子に深く腰を下ろし、
優雅に紅茶を口に含みながらウィッチウィークリーの最新号をめくっていた。
紙面中央には、大粒の魔法石のように輝く翡翠の瞳をした女――
アラン・ブラックが、レギュラスの隣に佇んでいる写真が大きく掲載されている。
「……なるほど。こういう見せ方をするか。」
写真の中のアランは、夜会で着ていた美しいのローブを纏い、
声を失った悲劇の淑女として、魔法界の共感を一身に集めていた。
わずかに微笑んだだけで、彼女の周囲の空気が柔らかくなり、
その存在が“純血社会の守るべき象徴”であるかのような錯覚を抱かせる。
レギュラス・ブラックはこの女を、
見事に“武器”として使いこなしている。
だが――
ルシウスは薄く笑い、紙面を閉じた。
「美しい写真だ。……しかし、真実を知る者には滑稽ですらある。」
ルシウスの記憶は、黒い霧のように過去へと遡っていく。
アラン・ブラック――
あの女が“セシール家の生き残り”と大々的に名乗る前。
赤茶けた石壁の地下牢に放り込まれ、
ボロ布のような衣服を身体に貼りつかせていた頃の姿を。
肌は生気を失い、痩せ細った四肢には無数の手形の痣。
誰かに蹴られたのか、肋に走る紫紺の裂傷。
顔立ちの美しさだけが異様に浮き彫りになっていて、
それが逆に、獰猛な下っ端デスイーターたちを刺激していた。
「さぞ、好き勝手に汚されたことだろうな。」
あれほどの数の男たちが代わる代わる、
飢えを満たすためにあの牢に入り浸っていた。
汚辱と暴力の巣窟だった。
その地獄を、ルシウスは“知っている”。
忘れられるわけがない。
――あの頃、彼女の瞳には何も映っていなかった。
虚ろで、壊れていて、
今紙面で持ち上げられている“悲劇の淑女”とは
あまりにもかけ離れた存在だった。
レギュラスは、そんな女を引きずり出し――
美しく仕立て上げ、
ブラック家の妻として立たせた。
その努力と執着は称賛に値する。
だが、ルシウスには理解できない。
「……あの女の過去を知っていて、なお愛せるのか?」
自分ならば、受け入れられない。
魔法族としての気品。
純血の血統だけが持つ滲み出る高貴さ。
ナルシッサはそのどれをも備えている。
“どこの誰に汚されたのかわからない女”など、
妻として迎えるなど考えもしない。
それが、純血の誇りというものだ。
さらに、あの夜会でのアランの振る舞いにも、
ルシウスは冷ややかな視線を送っていた。
「……テーブルの料理を指で示し、夫に要求とは。はしたない。」
周囲は「仲睦まじい」と微笑ましい記事を書いていたが、
ルシウスには、教養の欠如が露わに見えた。
セシールの末裔とはいえ、
長年の幽閉で教育を受けられなかった女に
ブラック家の淑女たちのような作法を求めるのは酷ではあるが――
それでも、あの仕草は、貴族の場に相応しくなかった。
とはいえ――
アラン・ブラックは役目を果たした。
“美しさ”という圧倒的な説得力。
“悲劇の生き残り”という物語性。
そして、レギュラスがどこまでも庇護するその姿勢。
それが世論を動かし、
今回の対抗薬開発支援金の可決を後押しし、
魔法族の側に風を吹かせた。
「……使えるものはなんでも使う。
レギュラスはそれが誰よりも上手い。」
感心はした。
だが――
理解はしない。
あの女を愛せる理由など、
ルシウスには最後まで分からなかった。
むしろ、理解できないことこそが、
“レギュラス・ブラックという男の気味の悪い底知れなさ”でもあった。
