3章
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レギュラスの変化は、
言葉よりも、触れ方よりも、
もっと静かなところで伝わってきた。
夜、寝室の灯りが落ちる直前。
彼が自分の隣に滑り込み、
そっと腕をまわしてくる動きのなかに。
朝、目を覚ましたとき、
まだそこに彼の温度が残っていることのなかに。
ふとした瞬間の呼吸のリズムの中に。
――ああ、この人は変わった。
アランは、
長く抱えてきた“恐れ”がほどけていくのを感じていた。
しがみつかなければ。
離れてしまう。
奪われてしまう。
どこか遠いところに行ってしまう。
そう思い続けて十数年。
夫婦であるはずなのに、
いつか自分だけ置き去りにされるのではという恐怖は
骨の奥にまで沈み込んでいた。
けれど最近は――
もう、そんな必死さはいらないのだと
身体の芯から思えるのだ。
レギュラスはもう、
自分から離れていく男ではない。
セラの匂いをまとって帰ってきたこともあった。
夜、なんの気配もなく屋敷を出ていったこともあった。
そのたびに心は割れ、
息ができないほど苦しかった。
けれど今のレギュラスは、
その頃の彼とは違う。
欲望を外で散らすのではなく、
まっすぐに自分へ向けてくる。
急ぎ帰ってきて
「アラン」と名を呼ぶ声は低く優しく、
夜、隣で眠る前に触れる指先は
かつてよりずっと深い。
行為そのものは回数が増えた。
けれどそれは“性”のためではなく、
夫婦でいるための温度だった。
アランはその温度に、
初めて本当の意味で満たされていくのを感じていた。
アランは、
別に行為そのものに大きな価値を見出しているわけではない。
けれど――
あれがあるのと、ないのとでは、
夫婦がお互いを見失う可能性は桁違いに違ってくる。
触れ合いは言葉以上に真実を語る。
愛と安心、欲望と信頼。
混ざり、溶け、重なり合う。
声を持たない自分が、
唯一、言葉の代わりに気持ちを伝えられる時間。
その時間がまた戻ってきた。
いや、戻っただけではない。
今はあの頃よりはるかに深く、
はるかに優しく、
はるかに“夫婦”だった。
そして、もうひとつ。
胸の奥でずっと沈んでいた、
黒く重たい影が、
ふと消えていることに気づいた。
セラ・レヴィントン。
笑うたびにアランを見下し、
声のない自分を嘲るように語ってきた女。
レギュラスの身体を知っているというだけで、
自分に向ける優しさを踏みにじった女。
レギュラスが“必要とした”ものを
自分が持っていないと、
残酷に理解させてきた女。
その女が――
いまのアランには、
どれだけ思い出そうとしても
もう“怖い存在”ではなかった。
越えた。
ようやく、越えられたのだ。
レギュラスがアランだけを見つめ、
その腕に抱いてくれる今。
何もかも失いながらも、
それでも愛し続けた時間が
ようやく報われたのだと思えた。
セラが何を知り、
何をしてきたかなど、
もう関係ない。
勝敗でもない。
奪い合いでもない。
ただ――
レギュラスが戻ってきた。
その事実だけが、アランの胸を温かく満たした。
レギュラスの変化は、
アランにとって“帰還”に近かった。
長い逃避の時期を抜けて、
ようやく自分のもとへ帰ってきたのだ。
アランは、
その温もりを確かめるように
そっと彼の胸へ指を伸ばした。
触れたところから温かさが流れ込む。
もう、追いかけなくていい。
掴まえなくてもいい。
必死にすがりつかなくてもいい。
この人は、自分の隣にいてくれる。
そう思えるだけで、
声を持たない胸の奥が、
涙のようにほどけていった。
法務部の朝はいつも通り静かだった。
けれど、その静けさの中心に立つ男――レギュラス・ブラックが、どこか“違っていた”。
暴風の前のように張り詰めていた空気が、
ほんの少し――本当にわずかに――
柔らかく、丸みを帯びている。
それは言葉にしなければ伝わらない変化ではなかった。
部下たちが、資料を持って彼の机へ近づくたびに気づくほどの変化だった。
「ブラック長官……その、こちらの議題ですが……申請期限を三日過ぎてしまいまして……」
怯えながら書類を差し出す若い魔法法務官。
これまでならレギュラスは淡々と、
「規定違反です。次の議題に」
と冷酷に切り捨てていたはずだ。
だが今日は――
「そうですか。では、延長申請をこちらで通しましょう。
すぐに書類を回してください。間に合わせますから。」
やわらかい声だった。
叱責の気配が一切ない。
拒絶も威圧もない。
若い法務官はぽかんと目を丸くした。
頭を何度も下げ、早足で席へ戻っていく。
その背中を見送りながら、
隣のバーテミウスは眉を跳ね上げる。
……誰ですお前は
と、本気で思った。
別の案件。
複雑な魔法痕跡の記録失念が発覚した時も、
本来なら容赦のない檄が飛ぶところが――
「記録の復元をサポートします。
ミスの分は私が引き受けますから、手順だけ示してください。」
責めるどころか、肩を貸した。
さらには部下が言いにくそうに
“報告書の提出欄を間違えていた”
と告げてきたときも――
「次から気をつけてください。
修正はこちらで処理します。」
淡々としながらも、どこか落ち着いた温かみがある。
以前なら絶対に聞けなかったような言葉だ。
レギュラス・ブラックは、
完璧主義で冷徹で
ミスを切り捨てていく刃そのもののような男だった。
それがどうだ。今日の彼は――
柔らかい……?あのレギュラスが?
部下たちがざわつくのも当然だった。
「レギュラス、何か……いいことでもありました?」
昼の書類整理の合間、ふと問いかけると
レギュラスは紙から視線を上げず、
「いいえ、特には。」
と、いつも通りの淡々とした声。
しかし。
纏う空気そのものが、
どうやっても“特別な何か”の存在を隠せていない。
さっきまで冷たさの中にあった男が、
まるで春の陽だまりのような気配を帯びているのだ。
バーテミウスはあっさり確信した。
…… アラン・ブラック、だな。
つい先日、
ウィッチウィークリーの特集で
“理想の夫婦” と大きく掲載された写真を見た。
穏やかでどこか誇らしげに、
アランの隣に立っているレギュラス。
あれは愛想で作った笑顔ではない。
本当に心から満たされた者だけが浮かべる
柔らかな表情だった。
あの男が他人の前であんな顔をするなど……
アランの影響以外にあり得ない
思い出しただけで、
笑いがこみあげる。
レギュラスがその気配を察したらしく、
すっと視線を上げた。
「……なんです?」
「いえ、何も。思い出し笑いです。」
バーテミウスは笑みを押し殺しながら答える。
本当は言いたかった。
――あなたは今、とんでもなく“愛されてる男の顔”をしてますよ。
と。
けれどそれを言えば、
レギュラスはきっと露骨に眉を顰めるだろう。
だから言わなかった。
ただ、心の中でだけそっと呟いた。
……幸せそうで、何よりです。レギュラス。
魔法省から戻り、外套を脱ごうとしたその瞬間だった。
家の結界に届いた“通知”――未成年魔法使いの監視魔法による自動報告。
娘ステラが、魔女セラ・レヴィントンと衝突。
魔力感知は低かったが、精神的衝突の報告が明確に記されていた。
胸が一気に冷たくなり、同時に焦燥が駆け上がる。
セラが、ステラに……。
嫌な予感が、骨の奥で警鐘のように鳴った。
あれは挑発のうまい女だ。
攻撃の糸口さえ見つければ、どこまでも相手を弄ぶ。
――そして、ステラは。
アランの瞳を持ちながら、性質はどこまでも自分に似ている。
煽られれば、倍以上に切り返す。
自分がそうだったように。
レギュラスは足早に三階の廊下を進む。
木の床が軋む音さえもどかしい。
ドアをノックすると、すぐにステラの澄んだ声が返ってきた。
「どうぞ、お父様。」
扉を開けると、娘は窓辺に立っていた。
微かな夕光が翡翠色の瞳を照らし、
それはアランと同じ色のはずなのに――
驚くほど、冷たい。
「どうされましたの?」
淀みなく問われ、胸の奥に罪悪感が落ちた。
アランには決して向けられない冷たさ。
だが、どこかで自分の持つ属性そのものでもある。
レギュラスは静かに言った。
「……昼間、誰と会いました?」
「セラ・レヴィントンです。」
ああ、とレギュラスは小さく息を吐く。
胸に刺さるような感覚。
父としてよりも、“男”として痛むところがあった。
「何を話したんです?」
「特には何も。」
そんなはずがない。
報告魔法が“衝突”と判断したのだ。
軽い言い合いなどではない。
娘が本気で相手を斬りつけたのだと、
直感でわかる。
ステラはゆっくりとレギュラスへ視線を向けた。
その目は、アランの柔らかさとは程遠い。
氷の刃のように鋭く、よく研ぎ澄まされている。
「あなたの女だそうですわよ。」
レギュラスは返す言葉を封じられた。
娘の前で。
その一言に。
とっさに、情けないほど浅い否定しかできない。
「戯言です、ステラ。本気にしなくていい。」
「ええ。わかっています。」
「身の程を弁えるように、そう告げただけですの。」
その声に、冷たい誇りが含まれていた。
怒りではなく、“家の娘としての義務”のような口ぶりだった。
レギュラスは胸の奥を掴まれるような痛みを覚えた。
「……ステラ。あまり大人に食ってかかることはやめなさい。」
自分で言いながら、言葉が霞む。
ステラの言葉はセラに向けられた矢だが、
同時に、その矢は――レギュラス自身の胸にも突き刺さっていた。
娘は涼やかな顔のまま告げた。
「純血の母を差し置いて選ぶ女であれば、
せめて、もう少し“品のある女”を選んでくださいませ、お父様。」
その一言に、彼は完全に言葉を失った。
責めているようで、責めてはいない。
だが、責めていないようで――
父として、男として、
これ以上なく痛いところを刺してくる。
その瞳に宿るのは怒りでも戸惑いでもなく、
ただ、ブラック家を背負う者としての冷徹な判断だった。
レギュラスは静かに娘を見つめた。
自分が育て、自分の価値観が滲み、
自分の影を色濃く落とした娘。
――ステラがこうなったのは、
自分自身がそういう背中を見せ続けたからだ。
その事実が、じくりと胸を焼いた。
扉を閉めて廊下に出ると、
レギュラスは小さく頭を押さえた。
娘が他者を冷たく拒絶するように育ってしまったのは、
自分の罪でもある。
アランと違い、ステラには“救い”が存在しない。
アランには優しさがある。
ステラには――誇りと、血の中に染み付いた冷たさしかない。
その冷たさが、今夜、父を深く刺していた。
法務部の執務室に呼び出されたのは、久しぶりに穏やかな朝の空気が漂っていた時のことだった。
厚い扉を開けると、すでに数名の部下が青ざめた顔で待ち構えていた。
室内には、何かが焦げ付く前の“緊張の匂い”が漂っている。
「……重大事案です。」
差し出された書類に目を落とす。
初めはいつも通り淡々と読み始めた――が、一行目で思考が止まった。
食殺許可法に基づき狼人間が引き取った“処理用マグル”の中に、混血魔法使いが含まれていた。
生存者なし。
静寂が落ちた。
瞬きを忘れるほどの、冷たく深い静寂。
魔力を有する者と無能力者を見分けられないはずがない。
担当部署には精密な魔力診断の呪文がある。
それでも“混じった”のだとすれば――
「……これは、故意ですね。」
レギュラスの声は低く静かだったが、室内の全員が身を強張らせた。
怒っているのではない。
むしろ、淡々としたその声音の方が恐ろしかった。
「マグル側が故意に混血の魔法使いを“処分対象リスト”に押し込んだ、という報告です。」
「理由は?」
「まだ調査中ですが……反魔法族思想を掲げる地下組織が、社会から“魔力を持つ子供たち”を排除しようとしている可能性が……」
レギュラスは目を閉じた。
瞼の裏で、ゆっくりと怒りが形をとっていく。
今回の件は、単なる手続きミスでは済まない。
魔法族とマグルの境界そのものを揺るがす “禁忌” に触れている。
狼人間の食殺許可法――
これは魔法界にとって陰の制度であり、同時に必要悪でもある。
それを支える前提は徹底していた。
魔力を持つ者は絶対にリストに入れないこと。
それが破られた。
しかも“混血”だ。
魔法界にとっては同胞。
マグル側から見れば、ただの“異種”。
そして狼人間にとっては“食肉”リストの中に紛れ込んだ不純物。
魔法界・マグル界・狼人間族――
すべての勢力が巻き込まれる火種となる。
「……魔力を感知できないよう細工がされている可能性は?」
レギュラスが問う。
「はい。
混血児の魔力を封じる違法ポーションが現場から出ました。」
「マグルがそんな技術を?」
「闇市場の噂が……魔法使いに師事した者が、マグルを利用して薬の密造を行っていると。」
部屋の空気が重く沈む。
レギュラスは深く息を吐いた。
胸の奥で、久しぶりに“戦争の匂い”が立ち昇る。
……このままでは、魔法界が荒れる。
マグル側は暴走している。
狼人間は怒る。
魔法族は身内を殺された。
どの派閥も収まらない。
レギュラスは机に置いたペンを指で弾き、静かに決断を下す。
「……即時、調査委員会を設置します。
マグル側の地下組織の洗い出しを最優先。
魔力封じポーションの流通経路を完全に暴きましょう。」
「はっ。」
「あと――」
レギュラスの声はさらに低くなる。
「狼人間側には“謝罪”ではなく“鎮静”を。
彼らが暴走すれば、魔法界は保たれません。」
怒らせてはならない。
しかし、魔法族の怒りも抑えねばならない。
そんな綱渡りの難しさが、頭を押さえつけてくる。
書類を閉じたあと、レギュラスは窓の外――
曇り始めた空を見上げる。
魔法界が荒れれば、必ずその影響は“家”に及ぶ。
アラン。
ステラ。
アルタイル。
あの穏やかな食卓。
あの静かな寝室。
取り戻した平穏。
それらすべてが、
ひとつの火種で瓦解する未来が、ありありと浮かんだ。
「……守らねば。」
小さく呟いた声は、誰にも聞かれなかった。
だが、レギュラス自身が最もよく知っている。
これはただの事件ではない。
新たな“戦い”の始まりだ。
数日間、法務部は絶えずざわめきに満ちていた。
混血魔法使いが“食殺対象”に混じり、狼人間に処理された──
その衝撃は、いまや魔法界中を揺るがす大事件となっている。
レギュラスは、山積みになった書類の前に座っていた。
机の上には、遺族への賠償試算書が並び、補佐官たちが次々に数字を読み上げる。
「ブラック長官、こちらが遺族側が提示してきた要求額です。
精神損害、逸失魔力量、教育権の剥奪、家系断絶の危険性……
全て込みで、この額に。」
銀縁の眼鏡を押し上げながら、バーテミウスが書類を置く。
レギュラスは目を通した。
一見すると高額すぎるように思える。しかし──
「……妥当ですね。」
静かな声は、補佐官たちの緊張をほどくように、それでいて背筋を伸ばさせるように響いた。
「魔力を持つ子を一人失うというのは、家系としての損失があまりにも大きい。
金で埋まるものではありませんが……最低限の誠意として、これくらいは当然です。」
誰も反論できなかった。
むしろ、レギュラスがここまで柔らかく認めたことに、部屋中がわずかに息を呑んだ。
「ただし──」
レギュラスは書類の端を指で叩く。
「“法務部の過失”という言い方は避けなさい。
原因はあくまで“混血児をマグル側が偽装した”という事実。
魔力封じポーションの存在も裏付けられた。」
「しかし世論は……」
「世論は操作できます。
“我々は迅速に動いた”という事実を示せば良い。」
低く澄んだ声が部下たちを貫いていく。
次の議題は、狼人間族の怒りの鎮静だった。
食殺対象に“魔力を持つ者”が混ざったとなれば、狼人間側も不用意に処理した罪を問われかねない。
だが彼らも被害者なのだ。
「狼人間側への補償、そして鎮静策です。」
バーテミウスが次の資料を開く。
「彼らは“騙された”立場でもあるため、責めずに守る必要があります。」
「その通りです。」
レギュラスは指先で資料を読みながら言う。
「狼人間族に対しては、以下を提示しましょう。」
今後6ヶ月間、狼人間保護基金への特別給付金を増額する。
食殺対象リストを“二重診断制”にし、狼人間側に責任が及ばないよう保証する。
今回の件で処罰は一切行わない、と明言する。
魔法省として正式に“狼人間は被害者である”という声明を出す。
「抑えるべき怒りは、“混血児を偽装した者たち”に向くように導きます。」
レギュラスがそう告げると、周囲の室温がわずかに変わったように感じられた。
「……長官、そこまで……?」
「必要です。」
レギュラスの瞳がわずかに揺れた。
「狼人間が暴れれば、最も脆い者たち──
力のない母親や子供たちが、最初に犠牲になりますから。」
その言葉には、アランと子供たちへの影が確かに滲んでいた。
部屋の空気が、静かに湿るように沈む。
会議が続く。
責務は山ほどある。
事件はまだ半分どころか一歩目でもない。
だが──
壁の時計がある時刻を指すと、レギュラスの背筋がわずかに伸びた。
「……ここまでで。」
「え? まだ資料が……」
「後は各自で進めてください。
必要であれば明日の午前に私が目を通します。」
書類を整え、立ち上がり、ローブを肩にかける。
「お、お帰りになるのですか?」
補佐官がぽかんと口を開けた。
レギュラスは振り返る。
いつもの冷たい眼差しと少し違い、柔らかな影が揺れる。
「ええ。
家で待っている者がいますので。」
静かな微笑を残し、執務室をあとにする。
呆然とした部下たちは、しばし言葉も出せなかった。
歩きながら、レギュラスは密かに息をついた。
家に戻れば、アランがいる。
あの安らぎがある。
忙しさに押し潰されそうになっても、
彼女の手を握れば、すべてが静まる。
…守らなければ。
事件はまだ終わらない。
これから大きな波が来ることもわかっている。
それでも──
レギュラスの足取りは迷いなく、家へ向かっていた。
その日の夕刻、屋敷の空気はしんと静まっていた。
アルタイルは書斎で宿題をしており、メイラは厨房でポットのお湯を沸かしている。
アランは窓辺の椅子に腰掛け、夕焼けに染まる空をぼんやりと眺めていた。
最近のレギュラスは、目に見えて忙しい。
書面だけでは察しきれないが、狼人間の件で魔法省が揺れていることは、屋敷にも噂の形で流れてくる。
法務部長官として、その中心にいるのが夫であることもわかっていた。
だから、今日も帰りは遅いだろうと思っていた。
――ふと。
玄関の床石が軋む。
ふわりと、外気を含んだ冷たい風が廊下をくぐり抜ける。
アランは顔を上げた。
ほんの数秒後、レギュラスが姿を現した。
黒いローブに夜の気配を纏い、しかし目元には疲労の陰りが落ちている。
アランは立ち上がり、廊下へ出迎えに向かう。
レギュラスもすぐに気づいた。
柔らかな笑みを零し、小さく息を吐く。
「……迎えに来てくれたんですか。アラン。」
その声音に、アランの胸はきゅうと締まった。
普段の冷静な響きとは違う。
少し掠れ、少し沈み、どこか頼りなくも感じられる。
アランは杖を取り、ゆっくりと文字を描く。
おかえりなさい。今日は早かったのですね。
レギュラスは一瞬視線を落とし、それからアランの手元にそっと自分の手を添えた。
「……ええ。少し、区切りをつけたくなったんです。」
その“区切り”がきっと仕事だけではないことを、アランは直感で理解した。
レギュラスの右手が、ためらうようにアランの頬へ触れる。
その手は冷たく、乾いていた。
アランは自分の両手でその手を包む。
温度を移すように、そっと指を絡めた。
レギュラスの眉がわずかに揺れる。
「…… アラン。あなたの顔を見ると、安心します。」
その言葉は、普段なら決して漏れない種類の弱さだった。
アランは胸に温かく重いものが流れ込むのを感じた。
長い間、あの冷たい男にすがりつきながら、いつ失われるか怯えながら生きてきた。
それが今、こんなふうに頼られている。
この瞬間、その重さが愛おしくてたまらなかった。
アランは杖を再び動かす。
疲れたでしょう。お茶を入れます。
「……ええ。あなたの淹れるお茶が飲みたい。」
レギュラスはほんの少し身を屈めて、アランの額に口付ける。
その仕草は、優しいというより――祈るようだった。
アランはそっと彼のローブの裾を握り、
「離れないで」という意思を伝えるように引いた。
レギュラスが微笑む。
その笑みはどこまでも穏やかで、どこまでも弱っているように見えた。
今日は抱きしめて、守ってやらなくては。
アランは静かにそう思った。
――魔法省・騎士団本部 地下第二会議室
声明文が発表された直後、騎士団本部の空気は一瞬で凍りついた。
蝋燭の炎が揺れもせずに固まってしまったかのような静寂。
だがその沈黙は、爆発前の「息」を潜めただけのものだった。
誰より先に立ち上がったのは、ジェームズ・ポッターだった。
「……あの野郎がやったな。」
咥えていた羽根ペンをテーブルに叩き落とす。
乾いた音が石壁に反響し、リーマスが眉を寄せてジェームズを見た。
「落ち着け、ジェームズ。まだ情報が――」
「落ち着け?今さら冗談だろ?」
ジェームズはほとんど笑っていた。
怒りと呆れが混じって、笑うしかないという笑いだ。
「“マグルが魔力消失ポーションを作って魔法族を嵌めようとした”だと?
お前も信じるか、そんな作り話。」
リーマスは沈黙した。
信じない。
けれどレギュラスがその「嘘」をあえて選ぶ理由も、痛いほど分かっていた。
そこへウィルキンズが駆け込んでくる。
額には汗。巻物を握りしめている。
「魔法界の世論、完全にマグル側非難で固まり始めています!
SNSも新聞もラジオも、“魔力保持者を狙った卑劣な計画だ”と……!」
「――完璧にやったな。」
ジェームズの声は低く落ちた。
レギュラス・ブラック。
魔法法務部長官。
鉄より固い理性を盾に、欲しい方向へ世界を動かしてしまう男。
ジェームズの拳が震えた。
「真実を潰して、嘘を事実に変えて……
マグルの殺害リストに混血魔法使いを紛れ込ませた“真犯人”から目を逸らさせた。」
それだけではない。
レギュラスは
“遺族の補償に即応し、狼人間を鎮静させた”
という実績までも同時に積み上げて、誰も彼を責められない状況を作った。
「長官は“正しいことをした”ように見える。
その裏で何人の命が切り捨てられてると思ってる……!」
ジェームズの怒りは、今にも魔力を弾けさせるほどだった。
リーマスが低く制した。
「ジェームズ、行動は慎重に。
レギュラスを敵に回すのは、魔法省全体を敵に回すのと同じだ。」
「もう敵だよ。」
ジェームズは言い切った。
「俺たちの“正義”をねじ曲げて、世界に嘘を飲ませたんだから。」
その言葉に、騎士団の数名が息を呑んだ。
ポッターが“本気”になった時の危うさを、皆知っている。
「……何をしようとしてる?」
リーマスが問う。
「真実を明るみに出す。
魔力消失ポーションを作れたのが“マグルだけ”なわけがない。
裏で動いた魔法族がいる。」
ジェームズはコートを掴み、扉へ向かう。
「今回はレギュラスが完全に勝った。
だからこそ――次は俺たちが潰す番だ。」
振り返りざま、ジェームズの瞳が鋭く光った。
「レギュラス・ブラック。
あの男が守ろうとしている“何か”を突き崩せばいい。」
その“何か”がアラン・ブラックだと知っているのは、
この部屋でジェームズだけだった。
「俺たちは――あいつの弱点を狙う。」
その宣告が、騎士団全体の空気を変えた。
正義のため、と言いながらもどこかに復讐の影を落とした重い決意。
レギュラスとジェームズ。
長年すれ違ってきた二つの対立が、
ついに“真正面からぶつかる未来”を不可避にした瞬間だった。
レギュラスが寝室に戻ったのは、いつもより少し遅い時間だった。
けれど、遅いといっても以前のような深夜帰りではない。
残ってきた疲労の気配を、アランは肌で感じ取った。
蝋燭の光が揺れ、寝室の空気に柔らかな陰影が落ちる。
ベッドに腰を下ろしたレギュラスは、軽くネクタイを緩め、肩で息を吐いた。
そのわずかな仕草だけで、胸の奥がざわついた。
――今日は、何かあった。
彼は一見いつも通りに見える。
その声も、触れ方も、アランへの視線も。
けれど、長年寄り添ってきた直感が告げていた。
“レギュラスが意図的に隠している”と。
アランは枕を背にして上体を起こし、そっとレギュラスの手に触れた。
ひどく冷えている。
寒さではない。
張り詰めた思考と緊張に、魔力がぎゅっと収縮した時の冷たさ。
アランは杖を取って、ゆっくりと宙に文字を描いた。
『今日……何がありましたか?』
レギュラスは少しだけ目を伏せた。
答えに迷う時間。
その沈黙が、何よりの異変だった。
「……何も。大したことはありません。
ただ、仕事が立て込んでいるのです。」
“嘘だ”と、直感ははっきり告げていた。
レギュラスは嘘をつく時、声が低く滑らかになりすぎる。
アランの不安を少しでも軽くしようとして、あえて落ち着いた音色で話すのだ。
その優しさが、逆に胸を締め付けた。
アランはレギュラスの胸に手を置いた。
強くではない。
けれど「逃さない」と伝えるには十分な温度で。
そして続けて文字を書く。
『あなたの声は、嘘をつく時だけ“優しくなりすぎる”。本当は苦しいんでしょう?』
レギュラスは驚いたように瞬きをした。
次の瞬間、微かに笑った。
諦めたような、守ろうとして失敗したことに気づいたような笑み。
「……参りましたね。
あなたには隠し事はできません。」
その声の端に、疲れがにじんでいた。
アランはそっとレギュラスの頬に触れた。
そして、声が出た頃の自分のように、ゆっくり首を横に振った。
言葉はなくても伝えられる。
――話して。あなたの痛みを、私は見捨てない。
レギュラスはアランの手を強く握った。
その力は、まるで沈んでいく者が唯一の浮き輪を掴むかのような必死さだった。
「……騎士団が、我々の声明に激しく反発しています。
特にジェームズ・ポッター。
あの男は、僕を“正面から潰す”つもりでしょう。」
アランの胸が冷える。
ジェームズ。
あの鋭い怒りを宿した男の顔が脳裏に浮かぶ。
彼が“何か”を決断した時、それは必ず実行される。
レギュラスの表情に影が落ちていた。
「彼らは……弱点を探し始めるはずです。
僕を追い詰めるために。」
弱点。
その単語が刺さるように重かった。
アランは書かずに、胸に手を当てた。
“その弱点は自分だ”と、言葉がなくても伝えていた。
レギュラスはアランを抱き寄せる。
まるで祈るように、守るように。
「あなたには、絶対に指一本触れさせません。」
その声は誓いだった。
アランは思った。
――“指一本触れさせない”と言われるほど、もう危険が迫っているのだと。
レギュラスの温度、息遣い、抱きしめる腕の力。
それらのすべてが、来るべき嵐を告げているようだった。
胸の奥に、静かに、確実に冷たい影が落ちていく。
不穏が始まった。
きっと、もう引き返せない方向へ。
――騎士団本部・作戦室、深夜
重い雨が塔の窓を叩き、湿った空気が石造りの部屋に滲み込んでいた。
その中心で、ジェームズ・ポッターは机に両手をつき、血走った目でレギュラスの声明文を睨みつけていた。
無数に赤い線が引かれ、メモが貼り付けられている。
「マグルの陰謀」
「魔力消失ポーションはマグル製」
「狼人間側も納得」――
どれも、ジェームズにとっては“侮辱そのもの”だった。
「これは、許せない。」
低く、押し殺した声でジェームズは言った。
リーマスが横で静かに息を吐く。
「ジェームズ……落ち着け。まだ断定するには早い。資料は揃っていない。」
「揃える必要なんかない。」
ジェームズは振り返り、剣のような目でリーマスを切るように見た。
「レギュラス・ブラックは、また自分の都合のいいように“真実”をねじ曲げたんだ。」
机の上には、これまでブラック家が起こした事件の捜査資料がいくつも散らばっていた。
マグル孤児院の惨殺。
狼人間食殺許可法。
ロングボトム夫妻の精神崩壊事件。
証拠は曖昧で、何重にも偽装され、本丸には一度も手が届かなかった。
ジェームズの拳が机を打つ。
「いいか、レギュラス・ブラックを倒すには“正面突破”じゃ無理だ。
奴はいつも先回りして全てを塞ぐ。」
その声には、長い年月積もり続けた敗北の痛みがにじんでいた。
リーマスが眉を寄せる。
「……だからといって、また“あの考え”を持ち出すつもりじゃないだろうな。」
その一言で、室内の空気が急に冷えた。
ジェームズはゆっくりと顔を上げ、影のように低く笑った。
「俺はもう迷わない。
レギュラスの弱点は“ アラン・ブラック”。
奴が唯一、守ろうと必死になる女だ。」
リーマスは目を見開いた。
「ジェームズ……! やめろ。あの人は関係ない。
彼女はレギュラスの思想に関与していない。孤児院の件も――」
「知ってたんだよ。」
ジェームズは鋭い声で遮った。
「夫が犯した罪を知ってて黙ってた。
黙認した時点で同罪だ。」
リーマスの顔が強く歪む。
「だからといって殺すのか……? そんなの正義じゃない!」
「正義じゃない?」
ジェームズは鼻で笑い、椅子を蹴り飛ばした。
木片が散り、部屋の空気が震える。
「ロングボトム夫妻は、あの時赤ん坊を抱くことすらできなかった。
未来を根こそぎ奪われた。
それなのにレギュラスは何一つ失っていない。」
ジェームズの声が震える。
怒りだけじゃない。
憎しみと、悔しさと、正義への執念が混ざった震え。
「バランスを取らなきゃいけないんだ。
この世界は、等しく痛みを支払わなきゃ前に進めない。」
リーマスは立ち上がる。
「ジェームズ。やめろ。本気で言ってるのか?」
ジェームズは静かに頷いた。
「アランを狙えば、レギュラスは狂う。
冷静さを失う。判断を誤る。
そこを突けば、奴をようやく落とせる。」
その戦略はあまりにも冷酷で、あまりにも理に適っていた。
ジェームズはゆっくりと手袋をはめた。
黒い革が指に馴染み、殺気が形になる。
「俺が動く。」
リーマスは駆け寄り、ジェームズの肩を掴む。
「待て!! そんなことをしたら――」
「止めるな、リーマス。」
ジェームズの瞳は、もう何も映していなかった。
ただ一つの目的だけを見据えた、戦場の兵士の目。
「正義を語るだけじゃ、この世界は救えない。
俺たちは――“悪”にも手を染めなきゃいけない時がある。」
その瞬間、ジェームズの魔力が作戦室に広がる。
雷が走るような、鋭く重い気配。
リーマスは拳を握った。
止めたい。
止めるべきだ。
けれど――ジェームズは長年の相棒であり、親友だ。
無理に止めれば、その絆は二度と戻らない。
リーマスの声は震えていた。
「……ジェームズ。どうか、アランだけは――」
「それを言うな。」
ジェームズは振り返らずに扉へ向かう。
「これは“罪の均衡”だ。」
扉が閉まった瞬間、リーマスは頭を抱えた。
分かっていた。
ジェームズがこのトーンで動き出せば――もう誰にも止められない。
その夜、騎士団本部の廊下に静かに響いた靴音は、
アラン・ブラックの平穏が終わり始めた合図だった。
言葉よりも、触れ方よりも、
もっと静かなところで伝わってきた。
夜、寝室の灯りが落ちる直前。
彼が自分の隣に滑り込み、
そっと腕をまわしてくる動きのなかに。
朝、目を覚ましたとき、
まだそこに彼の温度が残っていることのなかに。
ふとした瞬間の呼吸のリズムの中に。
――ああ、この人は変わった。
アランは、
長く抱えてきた“恐れ”がほどけていくのを感じていた。
しがみつかなければ。
離れてしまう。
奪われてしまう。
どこか遠いところに行ってしまう。
そう思い続けて十数年。
夫婦であるはずなのに、
いつか自分だけ置き去りにされるのではという恐怖は
骨の奥にまで沈み込んでいた。
けれど最近は――
もう、そんな必死さはいらないのだと
身体の芯から思えるのだ。
レギュラスはもう、
自分から離れていく男ではない。
セラの匂いをまとって帰ってきたこともあった。
夜、なんの気配もなく屋敷を出ていったこともあった。
そのたびに心は割れ、
息ができないほど苦しかった。
けれど今のレギュラスは、
その頃の彼とは違う。
欲望を外で散らすのではなく、
まっすぐに自分へ向けてくる。
急ぎ帰ってきて
「アラン」と名を呼ぶ声は低く優しく、
夜、隣で眠る前に触れる指先は
かつてよりずっと深い。
行為そのものは回数が増えた。
けれどそれは“性”のためではなく、
夫婦でいるための温度だった。
アランはその温度に、
初めて本当の意味で満たされていくのを感じていた。
アランは、
別に行為そのものに大きな価値を見出しているわけではない。
けれど――
あれがあるのと、ないのとでは、
夫婦がお互いを見失う可能性は桁違いに違ってくる。
触れ合いは言葉以上に真実を語る。
愛と安心、欲望と信頼。
混ざり、溶け、重なり合う。
声を持たない自分が、
唯一、言葉の代わりに気持ちを伝えられる時間。
その時間がまた戻ってきた。
いや、戻っただけではない。
今はあの頃よりはるかに深く、
はるかに優しく、
はるかに“夫婦”だった。
そして、もうひとつ。
胸の奥でずっと沈んでいた、
黒く重たい影が、
ふと消えていることに気づいた。
セラ・レヴィントン。
笑うたびにアランを見下し、
声のない自分を嘲るように語ってきた女。
レギュラスの身体を知っているというだけで、
自分に向ける優しさを踏みにじった女。
レギュラスが“必要とした”ものを
自分が持っていないと、
残酷に理解させてきた女。
その女が――
いまのアランには、
どれだけ思い出そうとしても
もう“怖い存在”ではなかった。
越えた。
ようやく、越えられたのだ。
レギュラスがアランだけを見つめ、
その腕に抱いてくれる今。
何もかも失いながらも、
それでも愛し続けた時間が
ようやく報われたのだと思えた。
セラが何を知り、
何をしてきたかなど、
もう関係ない。
勝敗でもない。
奪い合いでもない。
ただ――
レギュラスが戻ってきた。
その事実だけが、アランの胸を温かく満たした。
レギュラスの変化は、
アランにとって“帰還”に近かった。
長い逃避の時期を抜けて、
ようやく自分のもとへ帰ってきたのだ。
アランは、
その温もりを確かめるように
そっと彼の胸へ指を伸ばした。
触れたところから温かさが流れ込む。
もう、追いかけなくていい。
掴まえなくてもいい。
必死にすがりつかなくてもいい。
この人は、自分の隣にいてくれる。
そう思えるだけで、
声を持たない胸の奥が、
涙のようにほどけていった。
法務部の朝はいつも通り静かだった。
けれど、その静けさの中心に立つ男――レギュラス・ブラックが、どこか“違っていた”。
暴風の前のように張り詰めていた空気が、
ほんの少し――本当にわずかに――
柔らかく、丸みを帯びている。
それは言葉にしなければ伝わらない変化ではなかった。
部下たちが、資料を持って彼の机へ近づくたびに気づくほどの変化だった。
「ブラック長官……その、こちらの議題ですが……申請期限を三日過ぎてしまいまして……」
怯えながら書類を差し出す若い魔法法務官。
これまでならレギュラスは淡々と、
「規定違反です。次の議題に」
と冷酷に切り捨てていたはずだ。
だが今日は――
「そうですか。では、延長申請をこちらで通しましょう。
すぐに書類を回してください。間に合わせますから。」
やわらかい声だった。
叱責の気配が一切ない。
拒絶も威圧もない。
若い法務官はぽかんと目を丸くした。
頭を何度も下げ、早足で席へ戻っていく。
その背中を見送りながら、
隣のバーテミウスは眉を跳ね上げる。
……誰ですお前は
と、本気で思った。
別の案件。
複雑な魔法痕跡の記録失念が発覚した時も、
本来なら容赦のない檄が飛ぶところが――
「記録の復元をサポートします。
ミスの分は私が引き受けますから、手順だけ示してください。」
責めるどころか、肩を貸した。
さらには部下が言いにくそうに
“報告書の提出欄を間違えていた”
と告げてきたときも――
「次から気をつけてください。
修正はこちらで処理します。」
淡々としながらも、どこか落ち着いた温かみがある。
以前なら絶対に聞けなかったような言葉だ。
レギュラス・ブラックは、
完璧主義で冷徹で
ミスを切り捨てていく刃そのもののような男だった。
それがどうだ。今日の彼は――
柔らかい……?あのレギュラスが?
部下たちがざわつくのも当然だった。
「レギュラス、何か……いいことでもありました?」
昼の書類整理の合間、ふと問いかけると
レギュラスは紙から視線を上げず、
「いいえ、特には。」
と、いつも通りの淡々とした声。
しかし。
纏う空気そのものが、
どうやっても“特別な何か”の存在を隠せていない。
さっきまで冷たさの中にあった男が、
まるで春の陽だまりのような気配を帯びているのだ。
バーテミウスはあっさり確信した。
…… アラン・ブラック、だな。
つい先日、
ウィッチウィークリーの特集で
“理想の夫婦” と大きく掲載された写真を見た。
穏やかでどこか誇らしげに、
アランの隣に立っているレギュラス。
あれは愛想で作った笑顔ではない。
本当に心から満たされた者だけが浮かべる
柔らかな表情だった。
あの男が他人の前であんな顔をするなど……
アランの影響以外にあり得ない
思い出しただけで、
笑いがこみあげる。
レギュラスがその気配を察したらしく、
すっと視線を上げた。
「……なんです?」
「いえ、何も。思い出し笑いです。」
バーテミウスは笑みを押し殺しながら答える。
本当は言いたかった。
――あなたは今、とんでもなく“愛されてる男の顔”をしてますよ。
と。
けれどそれを言えば、
レギュラスはきっと露骨に眉を顰めるだろう。
だから言わなかった。
ただ、心の中でだけそっと呟いた。
……幸せそうで、何よりです。レギュラス。
魔法省から戻り、外套を脱ごうとしたその瞬間だった。
家の結界に届いた“通知”――未成年魔法使いの監視魔法による自動報告。
娘ステラが、魔女セラ・レヴィントンと衝突。
魔力感知は低かったが、精神的衝突の報告が明確に記されていた。
胸が一気に冷たくなり、同時に焦燥が駆け上がる。
セラが、ステラに……。
嫌な予感が、骨の奥で警鐘のように鳴った。
あれは挑発のうまい女だ。
攻撃の糸口さえ見つければ、どこまでも相手を弄ぶ。
――そして、ステラは。
アランの瞳を持ちながら、性質はどこまでも自分に似ている。
煽られれば、倍以上に切り返す。
自分がそうだったように。
レギュラスは足早に三階の廊下を進む。
木の床が軋む音さえもどかしい。
ドアをノックすると、すぐにステラの澄んだ声が返ってきた。
「どうぞ、お父様。」
扉を開けると、娘は窓辺に立っていた。
微かな夕光が翡翠色の瞳を照らし、
それはアランと同じ色のはずなのに――
驚くほど、冷たい。
「どうされましたの?」
淀みなく問われ、胸の奥に罪悪感が落ちた。
アランには決して向けられない冷たさ。
だが、どこかで自分の持つ属性そのものでもある。
レギュラスは静かに言った。
「……昼間、誰と会いました?」
「セラ・レヴィントンです。」
ああ、とレギュラスは小さく息を吐く。
胸に刺さるような感覚。
父としてよりも、“男”として痛むところがあった。
「何を話したんです?」
「特には何も。」
そんなはずがない。
報告魔法が“衝突”と判断したのだ。
軽い言い合いなどではない。
娘が本気で相手を斬りつけたのだと、
直感でわかる。
ステラはゆっくりとレギュラスへ視線を向けた。
その目は、アランの柔らかさとは程遠い。
氷の刃のように鋭く、よく研ぎ澄まされている。
「あなたの女だそうですわよ。」
レギュラスは返す言葉を封じられた。
娘の前で。
その一言に。
とっさに、情けないほど浅い否定しかできない。
「戯言です、ステラ。本気にしなくていい。」
「ええ。わかっています。」
「身の程を弁えるように、そう告げただけですの。」
その声に、冷たい誇りが含まれていた。
怒りではなく、“家の娘としての義務”のような口ぶりだった。
レギュラスは胸の奥を掴まれるような痛みを覚えた。
「……ステラ。あまり大人に食ってかかることはやめなさい。」
自分で言いながら、言葉が霞む。
ステラの言葉はセラに向けられた矢だが、
同時に、その矢は――レギュラス自身の胸にも突き刺さっていた。
娘は涼やかな顔のまま告げた。
「純血の母を差し置いて選ぶ女であれば、
せめて、もう少し“品のある女”を選んでくださいませ、お父様。」
その一言に、彼は完全に言葉を失った。
責めているようで、責めてはいない。
だが、責めていないようで――
父として、男として、
これ以上なく痛いところを刺してくる。
その瞳に宿るのは怒りでも戸惑いでもなく、
ただ、ブラック家を背負う者としての冷徹な判断だった。
レギュラスは静かに娘を見つめた。
自分が育て、自分の価値観が滲み、
自分の影を色濃く落とした娘。
――ステラがこうなったのは、
自分自身がそういう背中を見せ続けたからだ。
その事実が、じくりと胸を焼いた。
扉を閉めて廊下に出ると、
レギュラスは小さく頭を押さえた。
娘が他者を冷たく拒絶するように育ってしまったのは、
自分の罪でもある。
アランと違い、ステラには“救い”が存在しない。
アランには優しさがある。
ステラには――誇りと、血の中に染み付いた冷たさしかない。
その冷たさが、今夜、父を深く刺していた。
法務部の執務室に呼び出されたのは、久しぶりに穏やかな朝の空気が漂っていた時のことだった。
厚い扉を開けると、すでに数名の部下が青ざめた顔で待ち構えていた。
室内には、何かが焦げ付く前の“緊張の匂い”が漂っている。
「……重大事案です。」
差し出された書類に目を落とす。
初めはいつも通り淡々と読み始めた――が、一行目で思考が止まった。
食殺許可法に基づき狼人間が引き取った“処理用マグル”の中に、混血魔法使いが含まれていた。
生存者なし。
静寂が落ちた。
瞬きを忘れるほどの、冷たく深い静寂。
魔力を有する者と無能力者を見分けられないはずがない。
担当部署には精密な魔力診断の呪文がある。
それでも“混じった”のだとすれば――
「……これは、故意ですね。」
レギュラスの声は低く静かだったが、室内の全員が身を強張らせた。
怒っているのではない。
むしろ、淡々としたその声音の方が恐ろしかった。
「マグル側が故意に混血の魔法使いを“処分対象リスト”に押し込んだ、という報告です。」
「理由は?」
「まだ調査中ですが……反魔法族思想を掲げる地下組織が、社会から“魔力を持つ子供たち”を排除しようとしている可能性が……」
レギュラスは目を閉じた。
瞼の裏で、ゆっくりと怒りが形をとっていく。
今回の件は、単なる手続きミスでは済まない。
魔法族とマグルの境界そのものを揺るがす “禁忌” に触れている。
狼人間の食殺許可法――
これは魔法界にとって陰の制度であり、同時に必要悪でもある。
それを支える前提は徹底していた。
魔力を持つ者は絶対にリストに入れないこと。
それが破られた。
しかも“混血”だ。
魔法界にとっては同胞。
マグル側から見れば、ただの“異種”。
そして狼人間にとっては“食肉”リストの中に紛れ込んだ不純物。
魔法界・マグル界・狼人間族――
すべての勢力が巻き込まれる火種となる。
「……魔力を感知できないよう細工がされている可能性は?」
レギュラスが問う。
「はい。
混血児の魔力を封じる違法ポーションが現場から出ました。」
「マグルがそんな技術を?」
「闇市場の噂が……魔法使いに師事した者が、マグルを利用して薬の密造を行っていると。」
部屋の空気が重く沈む。
レギュラスは深く息を吐いた。
胸の奥で、久しぶりに“戦争の匂い”が立ち昇る。
……このままでは、魔法界が荒れる。
マグル側は暴走している。
狼人間は怒る。
魔法族は身内を殺された。
どの派閥も収まらない。
レギュラスは机に置いたペンを指で弾き、静かに決断を下す。
「……即時、調査委員会を設置します。
マグル側の地下組織の洗い出しを最優先。
魔力封じポーションの流通経路を完全に暴きましょう。」
「はっ。」
「あと――」
レギュラスの声はさらに低くなる。
「狼人間側には“謝罪”ではなく“鎮静”を。
彼らが暴走すれば、魔法界は保たれません。」
怒らせてはならない。
しかし、魔法族の怒りも抑えねばならない。
そんな綱渡りの難しさが、頭を押さえつけてくる。
書類を閉じたあと、レギュラスは窓の外――
曇り始めた空を見上げる。
魔法界が荒れれば、必ずその影響は“家”に及ぶ。
アラン。
ステラ。
アルタイル。
あの穏やかな食卓。
あの静かな寝室。
取り戻した平穏。
それらすべてが、
ひとつの火種で瓦解する未来が、ありありと浮かんだ。
「……守らねば。」
小さく呟いた声は、誰にも聞かれなかった。
だが、レギュラス自身が最もよく知っている。
これはただの事件ではない。
新たな“戦い”の始まりだ。
数日間、法務部は絶えずざわめきに満ちていた。
混血魔法使いが“食殺対象”に混じり、狼人間に処理された──
その衝撃は、いまや魔法界中を揺るがす大事件となっている。
レギュラスは、山積みになった書類の前に座っていた。
机の上には、遺族への賠償試算書が並び、補佐官たちが次々に数字を読み上げる。
「ブラック長官、こちらが遺族側が提示してきた要求額です。
精神損害、逸失魔力量、教育権の剥奪、家系断絶の危険性……
全て込みで、この額に。」
銀縁の眼鏡を押し上げながら、バーテミウスが書類を置く。
レギュラスは目を通した。
一見すると高額すぎるように思える。しかし──
「……妥当ですね。」
静かな声は、補佐官たちの緊張をほどくように、それでいて背筋を伸ばさせるように響いた。
「魔力を持つ子を一人失うというのは、家系としての損失があまりにも大きい。
金で埋まるものではありませんが……最低限の誠意として、これくらいは当然です。」
誰も反論できなかった。
むしろ、レギュラスがここまで柔らかく認めたことに、部屋中がわずかに息を呑んだ。
「ただし──」
レギュラスは書類の端を指で叩く。
「“法務部の過失”という言い方は避けなさい。
原因はあくまで“混血児をマグル側が偽装した”という事実。
魔力封じポーションの存在も裏付けられた。」
「しかし世論は……」
「世論は操作できます。
“我々は迅速に動いた”という事実を示せば良い。」
低く澄んだ声が部下たちを貫いていく。
次の議題は、狼人間族の怒りの鎮静だった。
食殺対象に“魔力を持つ者”が混ざったとなれば、狼人間側も不用意に処理した罪を問われかねない。
だが彼らも被害者なのだ。
「狼人間側への補償、そして鎮静策です。」
バーテミウスが次の資料を開く。
「彼らは“騙された”立場でもあるため、責めずに守る必要があります。」
「その通りです。」
レギュラスは指先で資料を読みながら言う。
「狼人間族に対しては、以下を提示しましょう。」
今後6ヶ月間、狼人間保護基金への特別給付金を増額する。
食殺対象リストを“二重診断制”にし、狼人間側に責任が及ばないよう保証する。
今回の件で処罰は一切行わない、と明言する。
魔法省として正式に“狼人間は被害者である”という声明を出す。
「抑えるべき怒りは、“混血児を偽装した者たち”に向くように導きます。」
レギュラスがそう告げると、周囲の室温がわずかに変わったように感じられた。
「……長官、そこまで……?」
「必要です。」
レギュラスの瞳がわずかに揺れた。
「狼人間が暴れれば、最も脆い者たち──
力のない母親や子供たちが、最初に犠牲になりますから。」
その言葉には、アランと子供たちへの影が確かに滲んでいた。
部屋の空気が、静かに湿るように沈む。
会議が続く。
責務は山ほどある。
事件はまだ半分どころか一歩目でもない。
だが──
壁の時計がある時刻を指すと、レギュラスの背筋がわずかに伸びた。
「……ここまでで。」
「え? まだ資料が……」
「後は各自で進めてください。
必要であれば明日の午前に私が目を通します。」
書類を整え、立ち上がり、ローブを肩にかける。
「お、お帰りになるのですか?」
補佐官がぽかんと口を開けた。
レギュラスは振り返る。
いつもの冷たい眼差しと少し違い、柔らかな影が揺れる。
「ええ。
家で待っている者がいますので。」
静かな微笑を残し、執務室をあとにする。
呆然とした部下たちは、しばし言葉も出せなかった。
歩きながら、レギュラスは密かに息をついた。
家に戻れば、アランがいる。
あの安らぎがある。
忙しさに押し潰されそうになっても、
彼女の手を握れば、すべてが静まる。
…守らなければ。
事件はまだ終わらない。
これから大きな波が来ることもわかっている。
それでも──
レギュラスの足取りは迷いなく、家へ向かっていた。
その日の夕刻、屋敷の空気はしんと静まっていた。
アルタイルは書斎で宿題をしており、メイラは厨房でポットのお湯を沸かしている。
アランは窓辺の椅子に腰掛け、夕焼けに染まる空をぼんやりと眺めていた。
最近のレギュラスは、目に見えて忙しい。
書面だけでは察しきれないが、狼人間の件で魔法省が揺れていることは、屋敷にも噂の形で流れてくる。
法務部長官として、その中心にいるのが夫であることもわかっていた。
だから、今日も帰りは遅いだろうと思っていた。
――ふと。
玄関の床石が軋む。
ふわりと、外気を含んだ冷たい風が廊下をくぐり抜ける。
アランは顔を上げた。
ほんの数秒後、レギュラスが姿を現した。
黒いローブに夜の気配を纏い、しかし目元には疲労の陰りが落ちている。
アランは立ち上がり、廊下へ出迎えに向かう。
レギュラスもすぐに気づいた。
柔らかな笑みを零し、小さく息を吐く。
「……迎えに来てくれたんですか。アラン。」
その声音に、アランの胸はきゅうと締まった。
普段の冷静な響きとは違う。
少し掠れ、少し沈み、どこか頼りなくも感じられる。
アランは杖を取り、ゆっくりと文字を描く。
おかえりなさい。今日は早かったのですね。
レギュラスは一瞬視線を落とし、それからアランの手元にそっと自分の手を添えた。
「……ええ。少し、区切りをつけたくなったんです。」
その“区切り”がきっと仕事だけではないことを、アランは直感で理解した。
レギュラスの右手が、ためらうようにアランの頬へ触れる。
その手は冷たく、乾いていた。
アランは自分の両手でその手を包む。
温度を移すように、そっと指を絡めた。
レギュラスの眉がわずかに揺れる。
「…… アラン。あなたの顔を見ると、安心します。」
その言葉は、普段なら決して漏れない種類の弱さだった。
アランは胸に温かく重いものが流れ込むのを感じた。
長い間、あの冷たい男にすがりつきながら、いつ失われるか怯えながら生きてきた。
それが今、こんなふうに頼られている。
この瞬間、その重さが愛おしくてたまらなかった。
アランは杖を再び動かす。
疲れたでしょう。お茶を入れます。
「……ええ。あなたの淹れるお茶が飲みたい。」
レギュラスはほんの少し身を屈めて、アランの額に口付ける。
その仕草は、優しいというより――祈るようだった。
アランはそっと彼のローブの裾を握り、
「離れないで」という意思を伝えるように引いた。
レギュラスが微笑む。
その笑みはどこまでも穏やかで、どこまでも弱っているように見えた。
今日は抱きしめて、守ってやらなくては。
アランは静かにそう思った。
――魔法省・騎士団本部 地下第二会議室
声明文が発表された直後、騎士団本部の空気は一瞬で凍りついた。
蝋燭の炎が揺れもせずに固まってしまったかのような静寂。
だがその沈黙は、爆発前の「息」を潜めただけのものだった。
誰より先に立ち上がったのは、ジェームズ・ポッターだった。
「……あの野郎がやったな。」
咥えていた羽根ペンをテーブルに叩き落とす。
乾いた音が石壁に反響し、リーマスが眉を寄せてジェームズを見た。
「落ち着け、ジェームズ。まだ情報が――」
「落ち着け?今さら冗談だろ?」
ジェームズはほとんど笑っていた。
怒りと呆れが混じって、笑うしかないという笑いだ。
「“マグルが魔力消失ポーションを作って魔法族を嵌めようとした”だと?
お前も信じるか、そんな作り話。」
リーマスは沈黙した。
信じない。
けれどレギュラスがその「嘘」をあえて選ぶ理由も、痛いほど分かっていた。
そこへウィルキンズが駆け込んでくる。
額には汗。巻物を握りしめている。
「魔法界の世論、完全にマグル側非難で固まり始めています!
SNSも新聞もラジオも、“魔力保持者を狙った卑劣な計画だ”と……!」
「――完璧にやったな。」
ジェームズの声は低く落ちた。
レギュラス・ブラック。
魔法法務部長官。
鉄より固い理性を盾に、欲しい方向へ世界を動かしてしまう男。
ジェームズの拳が震えた。
「真実を潰して、嘘を事実に変えて……
マグルの殺害リストに混血魔法使いを紛れ込ませた“真犯人”から目を逸らさせた。」
それだけではない。
レギュラスは
“遺族の補償に即応し、狼人間を鎮静させた”
という実績までも同時に積み上げて、誰も彼を責められない状況を作った。
「長官は“正しいことをした”ように見える。
その裏で何人の命が切り捨てられてると思ってる……!」
ジェームズの怒りは、今にも魔力を弾けさせるほどだった。
リーマスが低く制した。
「ジェームズ、行動は慎重に。
レギュラスを敵に回すのは、魔法省全体を敵に回すのと同じだ。」
「もう敵だよ。」
ジェームズは言い切った。
「俺たちの“正義”をねじ曲げて、世界に嘘を飲ませたんだから。」
その言葉に、騎士団の数名が息を呑んだ。
ポッターが“本気”になった時の危うさを、皆知っている。
「……何をしようとしてる?」
リーマスが問う。
「真実を明るみに出す。
魔力消失ポーションを作れたのが“マグルだけ”なわけがない。
裏で動いた魔法族がいる。」
ジェームズはコートを掴み、扉へ向かう。
「今回はレギュラスが完全に勝った。
だからこそ――次は俺たちが潰す番だ。」
振り返りざま、ジェームズの瞳が鋭く光った。
「レギュラス・ブラック。
あの男が守ろうとしている“何か”を突き崩せばいい。」
その“何か”がアラン・ブラックだと知っているのは、
この部屋でジェームズだけだった。
「俺たちは――あいつの弱点を狙う。」
その宣告が、騎士団全体の空気を変えた。
正義のため、と言いながらもどこかに復讐の影を落とした重い決意。
レギュラスとジェームズ。
長年すれ違ってきた二つの対立が、
ついに“真正面からぶつかる未来”を不可避にした瞬間だった。
レギュラスが寝室に戻ったのは、いつもより少し遅い時間だった。
けれど、遅いといっても以前のような深夜帰りではない。
残ってきた疲労の気配を、アランは肌で感じ取った。
蝋燭の光が揺れ、寝室の空気に柔らかな陰影が落ちる。
ベッドに腰を下ろしたレギュラスは、軽くネクタイを緩め、肩で息を吐いた。
そのわずかな仕草だけで、胸の奥がざわついた。
――今日は、何かあった。
彼は一見いつも通りに見える。
その声も、触れ方も、アランへの視線も。
けれど、長年寄り添ってきた直感が告げていた。
“レギュラスが意図的に隠している”と。
アランは枕を背にして上体を起こし、そっとレギュラスの手に触れた。
ひどく冷えている。
寒さではない。
張り詰めた思考と緊張に、魔力がぎゅっと収縮した時の冷たさ。
アランは杖を取って、ゆっくりと宙に文字を描いた。
『今日……何がありましたか?』
レギュラスは少しだけ目を伏せた。
答えに迷う時間。
その沈黙が、何よりの異変だった。
「……何も。大したことはありません。
ただ、仕事が立て込んでいるのです。」
“嘘だ”と、直感ははっきり告げていた。
レギュラスは嘘をつく時、声が低く滑らかになりすぎる。
アランの不安を少しでも軽くしようとして、あえて落ち着いた音色で話すのだ。
その優しさが、逆に胸を締め付けた。
アランはレギュラスの胸に手を置いた。
強くではない。
けれど「逃さない」と伝えるには十分な温度で。
そして続けて文字を書く。
『あなたの声は、嘘をつく時だけ“優しくなりすぎる”。本当は苦しいんでしょう?』
レギュラスは驚いたように瞬きをした。
次の瞬間、微かに笑った。
諦めたような、守ろうとして失敗したことに気づいたような笑み。
「……参りましたね。
あなたには隠し事はできません。」
その声の端に、疲れがにじんでいた。
アランはそっとレギュラスの頬に触れた。
そして、声が出た頃の自分のように、ゆっくり首を横に振った。
言葉はなくても伝えられる。
――話して。あなたの痛みを、私は見捨てない。
レギュラスはアランの手を強く握った。
その力は、まるで沈んでいく者が唯一の浮き輪を掴むかのような必死さだった。
「……騎士団が、我々の声明に激しく反発しています。
特にジェームズ・ポッター。
あの男は、僕を“正面から潰す”つもりでしょう。」
アランの胸が冷える。
ジェームズ。
あの鋭い怒りを宿した男の顔が脳裏に浮かぶ。
彼が“何か”を決断した時、それは必ず実行される。
レギュラスの表情に影が落ちていた。
「彼らは……弱点を探し始めるはずです。
僕を追い詰めるために。」
弱点。
その単語が刺さるように重かった。
アランは書かずに、胸に手を当てた。
“その弱点は自分だ”と、言葉がなくても伝えていた。
レギュラスはアランを抱き寄せる。
まるで祈るように、守るように。
「あなたには、絶対に指一本触れさせません。」
その声は誓いだった。
アランは思った。
――“指一本触れさせない”と言われるほど、もう危険が迫っているのだと。
レギュラスの温度、息遣い、抱きしめる腕の力。
それらのすべてが、来るべき嵐を告げているようだった。
胸の奥に、静かに、確実に冷たい影が落ちていく。
不穏が始まった。
きっと、もう引き返せない方向へ。
――騎士団本部・作戦室、深夜
重い雨が塔の窓を叩き、湿った空気が石造りの部屋に滲み込んでいた。
その中心で、ジェームズ・ポッターは机に両手をつき、血走った目でレギュラスの声明文を睨みつけていた。
無数に赤い線が引かれ、メモが貼り付けられている。
「マグルの陰謀」
「魔力消失ポーションはマグル製」
「狼人間側も納得」――
どれも、ジェームズにとっては“侮辱そのもの”だった。
「これは、許せない。」
低く、押し殺した声でジェームズは言った。
リーマスが横で静かに息を吐く。
「ジェームズ……落ち着け。まだ断定するには早い。資料は揃っていない。」
「揃える必要なんかない。」
ジェームズは振り返り、剣のような目でリーマスを切るように見た。
「レギュラス・ブラックは、また自分の都合のいいように“真実”をねじ曲げたんだ。」
机の上には、これまでブラック家が起こした事件の捜査資料がいくつも散らばっていた。
マグル孤児院の惨殺。
狼人間食殺許可法。
ロングボトム夫妻の精神崩壊事件。
証拠は曖昧で、何重にも偽装され、本丸には一度も手が届かなかった。
ジェームズの拳が机を打つ。
「いいか、レギュラス・ブラックを倒すには“正面突破”じゃ無理だ。
奴はいつも先回りして全てを塞ぐ。」
その声には、長い年月積もり続けた敗北の痛みがにじんでいた。
リーマスが眉を寄せる。
「……だからといって、また“あの考え”を持ち出すつもりじゃないだろうな。」
その一言で、室内の空気が急に冷えた。
ジェームズはゆっくりと顔を上げ、影のように低く笑った。
「俺はもう迷わない。
レギュラスの弱点は“ アラン・ブラック”。
奴が唯一、守ろうと必死になる女だ。」
リーマスは目を見開いた。
「ジェームズ……! やめろ。あの人は関係ない。
彼女はレギュラスの思想に関与していない。孤児院の件も――」
「知ってたんだよ。」
ジェームズは鋭い声で遮った。
「夫が犯した罪を知ってて黙ってた。
黙認した時点で同罪だ。」
リーマスの顔が強く歪む。
「だからといって殺すのか……? そんなの正義じゃない!」
「正義じゃない?」
ジェームズは鼻で笑い、椅子を蹴り飛ばした。
木片が散り、部屋の空気が震える。
「ロングボトム夫妻は、あの時赤ん坊を抱くことすらできなかった。
未来を根こそぎ奪われた。
それなのにレギュラスは何一つ失っていない。」
ジェームズの声が震える。
怒りだけじゃない。
憎しみと、悔しさと、正義への執念が混ざった震え。
「バランスを取らなきゃいけないんだ。
この世界は、等しく痛みを支払わなきゃ前に進めない。」
リーマスは立ち上がる。
「ジェームズ。やめろ。本気で言ってるのか?」
ジェームズは静かに頷いた。
「アランを狙えば、レギュラスは狂う。
冷静さを失う。判断を誤る。
そこを突けば、奴をようやく落とせる。」
その戦略はあまりにも冷酷で、あまりにも理に適っていた。
ジェームズはゆっくりと手袋をはめた。
黒い革が指に馴染み、殺気が形になる。
「俺が動く。」
リーマスは駆け寄り、ジェームズの肩を掴む。
「待て!! そんなことをしたら――」
「止めるな、リーマス。」
ジェームズの瞳は、もう何も映していなかった。
ただ一つの目的だけを見据えた、戦場の兵士の目。
「正義を語るだけじゃ、この世界は救えない。
俺たちは――“悪”にも手を染めなきゃいけない時がある。」
その瞬間、ジェームズの魔力が作戦室に広がる。
雷が走るような、鋭く重い気配。
リーマスは拳を握った。
止めたい。
止めるべきだ。
けれど――ジェームズは長年の相棒であり、親友だ。
無理に止めれば、その絆は二度と戻らない。
リーマスの声は震えていた。
「……ジェームズ。どうか、アランだけは――」
「それを言うな。」
ジェームズは振り返らずに扉へ向かう。
「これは“罪の均衡”だ。」
扉が閉まった瞬間、リーマスは頭を抱えた。
分かっていた。
ジェームズがこのトーンで動き出せば――もう誰にも止められない。
その夜、騎士団本部の廊下に静かに響いた靴音は、
アラン・ブラックの平穏が終わり始めた合図だった。
