1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
レギュラスは、今日も両腕いっぱいに何かを抱えてやって来た。
白いシャツ、淡い灰のローブ、編み込まれたストール、
そして細かな刺繍が施された上質な布の包み。
まるで誰かの誕生日を祝うかのように――
アランのもとへ「初めて」をたくさん運んでくる。
最初の頃こそ、彼が持ってくるものの意味が分からなかった。
けれど今は、扉の開く音がするたびに、
胸の奥が少しだけ熱くなる。
彼の差し出す新しいものに触れるたび、
胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛む。
けれど、それは悲しみの痛みではなかった。
むしろ、久しく忘れていた“人の温もり”の中に立ち戻るような――
切なくて、苦しくて、それでいてどうしようもなく優しい痛みだった。
レギュラスは微笑みながら包みを開く。
淡い藍色のドレスが、光を受けてかすかに揺れる。
かつて貴族の館で舞踏会の夜を待ちわびていた頃、
母が仕立ててくれたドレスの裾を思い出した。
彼はアランの肩にそっと布を掛け、
後ろにまわって紐を整えながら言う。
「これも……似合いますね。」
静かな声だった。
けれど、その一言はまるで魔法のように胸に染みた。
アランはうつむいたまま、ドレスの裾を指先でつまむ。
どれほどの時間が経っても、
“似合う”という言葉を誰かにかけてもらうことが、
こんなにも嬉しいものだなんて――忘れていた。
「すごく綺麗ですよ。」
レギュラスの声は穏やかで、まるで風のようだった。
その声を聞くと、なぜだか心の奥の古い扉が少しずつ開いていく。
母の膝に抱かれながら鏡の前で笑っていた少女の頃、
裾を踏んで転びそうになった時に、兄が笑いながら助け起こしてくれたこと。
そのどれもが遠い夢のようだった。
――でも、今。
レギュラスの言葉が、その記憶をそっと撫でてくる。
彼が持ち込む「初めて」のひとつひとつが、
失われた時間を静かに紡ぎ直していくようだった。
胸の奥が温かくなって、
涙が滲むのを必死で堪える。
声を出したい。
彼の名を呼びたい。
ありがとう、と言いたい。
アランは喉の奥に手をあて、
ゆっくりと息を吸い込んだ。
レギュラスの横顔を見つめ、唇を開く。
――けれど、声が出ない。
喉の奥まで届いた言葉が、
その先に進むことを拒むように固まってしまう。
息だけが空気に溶け、音にはならない。
何度も、何度も繰り返す。
「レギュラス」と呼ぼうとする。
「ありがとう」と伝えようとする。
けれど、声は届かない。
それでも、レギュラスは彼女の表情を見て気づいていた。
小さく震える唇の動きだけで、
彼は彼女の伝えたかった言葉を理解していた。
「……どういたしまして。」
優しく微笑みながら、彼はそう囁いた。
まるでその一言で、
“あなたの声がなくても、ちゃんと届いています”と伝えるように。
アランの胸が熱くなる。
涙がひとしずく、頬を伝った。
レギュラスはそれを指先でそっと拭う。
鎖の音が、じゃらりと鳴った。
その音すらも、今は優しく響いて聞こえた。
彼ともっと話がしたい。
彼の声をもっと聞いて、
頷いて、笑って、返事をして――
ただそれだけのことが、どれほど遠いことか。
けれど、いつか。
この喉が声を取り戻せる日が来るなら、
最初の言葉は、きっと彼の名にしよう。
そう心の中で誓いながら、
アランは微笑んだ。
彼がくれた新しいドレスの裾を、
光のような指先で静かに撫でながら。
地下牢の空気が、いつもよりも冷たかった。
けれどそれは湿気や寒気のせいではない。
――空間そのものが、刺すような圧力で満たされていた。
扉が開く音ひとつで、世界が凍りつく。
その瞬間、アランは理解した。
“彼”が来たのだ。
細く呼吸を吸い込もうとする。
けれど胸の奥で空気が震えて、喉から出るのは細く掠れた音だけだった。
声など、とうに失って久しい。
けれど今日だけは、その沈黙すら許されない気がした。
ゆっくりと二人が現れる。
黒いローブに覆われた影――ヴォルデモート。
そしてその隣で笑うように歩く、ベラトリックス・レストレンジ。
二人が放つ魔力の気配は、空間そのものをねじ曲げるほどに鋭く、
アランの体は無意識のうちに縮こまった。
鎖が、じゃらり、と音を立てて床を擦る。
「……なんだい、その格好は。」
ベラトリックスの声は、氷のように冷たく、刺すようだった。
アランは咄嗟に顔を伏せた。
しかしその仕草さえ気に障ったのだろう、
次の瞬間、ベラトリックスの杖が彼女の胸元に向けられる。
「礼をすることを教わらなかったのかい? 無礼な女だねぇ。」
杖先から放たれた無言の魔力が、
アランの体を無理やり引き上げる。
まるで見えない手に操られる人形のように、背を反らされ、頭を下げさせられた。
体が悲鳴をあげる。
喉が焼けるように痛んだ。
ベラトリックスの笑い声が、金属のように響く。
冷たい石壁に反響して、何重にも重なって降ってくる。
そしてその奥で、ヴォルデモートがゆっくりと歩み寄る音がした。
一歩、また一歩――そのたびに空気が軋む。
アランの心臓は、破裂しそうなほど高鳴っていた。
「お前に新しく“封印”を頼みたいものがある。」
低く、湿った声。
それは命令であり、告知でもあり――宣告でもあった。
ヴォルデモートが掲げた掌の上には、
古びた金の指輪があった。
それはただの装飾品ではなかった。
見た瞬間、アランの中の魔力が警鐘を鳴らした。
禍々しい。
それ以外の言葉が見つからない。
指輪の中に、確かに“何か”が蠢いている。
人の形をしたものではない。
魂そのもの――叫び、呪い、憎悪の塊。
それが今も、指輪の中で呻いていた。
「……っ」
喉の奥で悲鳴がこもる。
ただ見ているだけで、体の奥から魔力が引きずり出されるような錯覚を覚えた。
それに触れたら、きっと、自分の存在そのものが壊れてしまう。
そう分かっているのに、逃げることもできない。
「さっさとおやり!」
ベラトリックスの甲高い声が響く。
杖が掲げられる。
その瞬間、アランの体がまた強張った。
“服従”の呪文が飛ぶ。
喉の奥で息が詰まり、視界が霞んだ。
「少し待て、ベラトリックス。」
ヴォルデモートの声がそれを遮る。
静かでありながら、絶対的な支配を孕んだ声音だった。
「俺様は慈悲深いのだ。」
そう言って、ヴォルデモートはアランの顎を掴んだ。
指が骨に食い込む。
無理やり顔を上に向けさせられる。
目の前にあるのは、人間とは思えぬ顔。
その赤い瞳が、氷のように光る。
「随分とまあ……目をかけられているものだな、あのレギュラス・ブラックに。」
冷たく笑うその声に、ベラトリックスがけたけたと笑い声をあげた。
「ふふ、ほんとに。あの真面目な坊やが女に情けをかけるなんてねぇ!」
二人の笑い声が重なる。
それはこの世のあらゆる残酷を凝縮したような響きだった。
アランは何も言えず、何もできず、
ただその場で震えることしかできなかった。
ヴォルデモートの手が離される。
その勢いで体がよろめき、石の床に手をつく。
冷たさが骨に染みた。
早く――終わらせたい。
これ以上、この場所にこの人たちといたくない。
ただそれだけを思って、アランは指輪へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、
心臓が止まったかのような衝撃が走る。
――悲鳴。
聞こえた。
誰のものか分からない、幾千もの魂の叫び。
その苦痛が、胸の奥に突き刺さる。
それでも彼女は、震える手で杖を握った。
封印の呪文を唱える。
代々セシール家に伝わる、永遠の封印。
血と魂を代償にして、何者も破れぬ枷を作り上げる。
魔力がほとばしる。
光が走り、床に刻まれた紋章が淡く輝いた。
アランの髪が揺れ、涙が頬を伝う。
――お父様、お母様。
どうして、こんな力をこの血に遺したの。
どうして、この力のために、私たちは滅んでいかねばならなかったの。
光が収束し、指輪が沈黙する。
封印は終わった。
ヴォルデモートは満足げに微笑む。
「よくやった。……やはり、セシールの血は使える。」
その一言で、アランの膝が崩れた。
床に落ちる音が響く。
もう、涙が止まらなかった。
ベラトリックスがその姿を見下ろして笑う。
「ほら、やればできるじゃない。可愛い子。」
アランはその声に何も答えられなかった。
ただ、震える手で胸を押さえながら、
息をするたびに喉の奥で嗚咽がこぼれた。
――あぁ、もう何も残っていない。
自分の血も、誇りも、心さえも。
すべては封印と共に奪われていく。
その涙のひと粒ひと粒が、
彼女の唯一残された“人間”の証だった。
どれほどの時間、そうしていたのだろう。
彼女の肩が微かに震え続けていたその震えがようやく静まる頃、
レギュラスはそっとアランの頬に触れた。
指先に、まだ熱の名残があった。
涙の跡が細い線を描いて頬を伝い、
まるで痛みの記憶がそのまま形をとって残ったようだった。
何も言わずに、彼はその涙の跡を唇でなぞる。
塩の味がした。
哀しみと安堵がまざりあったような、静かな痛みの味。
そして――彼はまた、アランに口づけた。
もう何度目になるのか分からない。
それでも、毎回が初めてのように慎重だった。
彼女を壊してしまいそうで、
少しでも強く触れたら、その心のひびが砕け散ってしまいそうで。
最初に触れたとき、アランの唇はいつもと同じように固く閉ざされていた。
彼女の世界では、触れられるということが“恐怖”と同義だったのだろう。
普通の恋人たちが自然に交わす仕草さえ、
アランにはまだ未知の痛みに似ていた。
レギュラスは焦らず、ゆっくりとその硬さがほどけていくのを待った。
呼吸を合わせ、頬を寄せ、
ただ唇と唇が触れ合うだけの時間を長く過ごす。
やがて、
アランの唇から少しだけ力が抜けていく。
その瞬間、胸の奥で何かが緩むような音がした。
彼女の恐怖が、わずかにひとつ溶けていった気がした。
一度、唇を離す。
アランがかすかに目を開け、息を詰めて彼を見上げた。
光の少ない地下牢で、
その瞳の翡翠色だけが奇跡のように輝いている。
「アラン、少し……唇を開けたままにしていてください。」
穏やかに、優しく言葉を添える。
指示の意味を理解できず、アランの瞳が戸惑いに揺れた。
その表情があまりに純粋で、
レギュラスは微笑をこらえることができなかった。
「……こう、です。」
そう言いながら、彼は指先でアランの下唇に触れた。
そっと押し下げる。
小さな唇が、わずかに震えながら開く。
「……そのくらいです。」
声が震えそうになるのを必死で抑える。
どうしてこんなにも、
この小さな仕草ひとつが愛おしく思えるのだろう。
もう一度、唇を重ねた。
今度は、ゆっくりと。
絡めるように、優しく。
彼女の呼吸に合わせて、
その内側に自分の熱を溶かしていくように。
唇と唇が触れるたび、
アランの体温が少しずつ戻ってくる。
冷たく硬かった彼女の指が、
いつの間にかレギュラスの袖を掴んでいた。
レギュラスはその小さな力に気づいて、
唇を離すのをためらった。
そのまま、もう一度深く触れる。
互いの息が混じりあい、
世界がその一点だけで存在しているように感じられた。
やがて、唇を離した。
アランの頬にはまだ涙の跡があった。
けれど、その瞳からはもう涙は落ちていなかった。
静かに、息を整えながら彼を見上げている。
泣き止んでくれた。
それだけで、胸の奥に暖かなものが広がった。
「……いいんです、それで。」
そう言いながら、レギュラスは彼女の頬を包み込む。
親が子を撫でるような、優しい手つきだった。
そのまま、指先で彼女の髪を整える。
かつて恐怖で強張っていた肩の力が、今はゆっくりと抜けていく。
二人の間には言葉はなかった。
けれど、沈黙の中に確かに“会話”があった。
呼吸の重なり、手の温度、
それらすべてが互いの心を撫でていた。
彼はもう一度、彼女の額に唇を落とす。
「……もう泣かないでください。」
その囁きは、祈りのように静かだった。
アランは目を閉じ、
彼の胸の中でそっと息を整えた。
レギュラスは思う。
この人に、“触れる”ことの温かさを知ってほしい。
奪われることではなく、
“与え合う”こととしての触れ方を。
彼女がその意味を少しずつ覚えていくたび、
世界の残酷さが、ほんの少しだけ遠のくような気がした。
そして、
その日以来、アランの涙が長く流れることはなかった。
それは、まるで静かな奇跡のような変化だった。
あの日から――アランは、レギュラスが唇を寄せると、
何も言わずとも自然に力を抜くようになった。
はじめの頃は、触れられるたびに肩をこわばらせ、
呼吸さえ止めてしまっていたのに。
いまは、まるで花が風に身を委ねるように、
彼の指先の動きに合わせて柔らかく揺れる。
唇が触れるたび、かすかな息が漏れる。
それは怯えではなく、信頼の吐息だった。
レギュラスはその変化に気づくたび、
胸の奥に静かな熱が灯るのを感じていた。
唇を離し、彼は穏やかに微笑んだ。
「上手になりましたね。」
まるで子どもを褒めるような柔らかな声音。
けれど、その優しさの下に潜むのは、
どうしようもないほどの愛しさと、
それに混じる危ういほどの欲情だった。
アランはその言葉に、ふわりと微笑んだ。
声を出さずとも、その笑みひとつで十分だった。
頬に淡い血色が差し、
かすかな呼吸が唇を震わせる。
その瞬間、レギュラスの胸の奥がきゅうと軋んだ。
この世でこんなに無垢な微笑みを見せられたら――
誰であっても抗えないだろう。
彼の手がそっとアランの頬に触れる。
その温もりに、アランは何も言わず身を預けた。
その従順さは、痛いほどに純粋だった。
他にも、彼女に“覚えさせた”ことはたくさんあった。
両手を広げれば、迷うことなく彼の胸へ来るように。
壁に寄りかかって座れば、
その膝の間におとなしく座るように。
最初の頃、アランはぎこちなく戸惑いながら動いていた。
どうしてそんなことを求められるのかも分からず、
ただ、彼の指先の動きと表情を頼りに真似をした。
けれど今では、それが自然な習慣のようになっている。
彼が腕を広げると、
アランはまるで命令を受け取ったかのように、
静かに歩み寄り、その胸に顔を埋めた。
その動作の一つひとつに、
まるで祈りのような清らかさが宿っていた。
レギュラスは、その様子を見つめながら、
胸の奥で何かがほどけていくのを感じていた。
もはや“監視”でも“慰め”でもない。
それ以上の、説明のつかない感情が彼の中で膨らんでいく。
――まるで幼子をあやすような気持ちだった。
守りたい。
触れたい。
壊したくない。
その相反する願いが同時に胸を満たす。
彼女が自分の腕の中にすっぽりと収まるたび、
庇護欲と愛情がないまぜになって心を締めつけた。
けれど、それだけでは終わらない。
彼女が自分の胸に頬を寄せ、
ゆっくりと呼吸を重ねてくる瞬間――
その温もりが、何かを侵してくる。
理性の奥に潜む、暗く熱い何かを。
無垢な仕草が、時にあまりにも妖しく映る。
言葉を知らぬ幼子のような従順さと、
成熟した女の身体が同じ場所に存在している。
その乖離が、息を呑むほど美しかった。
レギュラスは、彼女の髪を指で梳きながら思う。
この人は、もはや「囚われの女」ではない。
この地下の空間において、
自分の世界そのものになってしまった。
アランの胸が上下するたび、
彼の呼吸もそれに合わせて揺れる。
時間の流れさえ、彼女の息に支配されているようだった。
――どうしようもなく、愛おしい。
その感情が胸の底で膨れ上がるたびに、
レギュラスはひどく怖くなった。
どこまでが守りで、どこからが堕落なのか。
もはや境界線は分からなかった。
アランは、そんな彼の迷いなど知らぬまま、
ただ静かに彼の胸の中で目を閉じていた。
まるでそこが、自分の帰る場所であるとでも言うように。
そしてレギュラスは、
その小さな頭を抱き寄せながら思った。
――たとえ世界が許さなくとも、
この腕の中の彼女だけは、絶対に離すまいと。
黒曜石のように冷たい床が、杖の先に反響する。
呼び出しの知らせを受けてから、
レギュラスの手は、わずかに震えていた。
それを悟られぬよう、
背筋を真っ直ぐに伸ばし、闇の奥へと進む。
広間の奥、薄暗い光の中に――
彼は座していた。
闇の帝王。
その周囲を取り巻く空気は、命そのものを削ぎ落とすような圧で、
近づくだけで皮膚が焼けるような錯覚さえ覚えた。
「……ミイラ取りがミイラになったか、レギュラス。」
低く湿った声。
その言葉に、わずかな笑いが混じる。
嘲るような、そして試すような声音だった。
レギュラスは跪き、
深く頭を下げる。
「……監視に問題はありません。」
「そうだろうとも。お前の役目は“死なせずに生かす”ことだ。
それ以外に価値はない。」
ヴォルデモートの赤い瞳が、暗闇の中で細く光る。
その視線が、皮膚の下まで入り込んでくるような錯覚。
レギュラスは呼吸を整え、
自分の鼓動を悟られぬよう、静かに言葉を選ぶ。
――だが、もう遅かった。
この心臓の高鳴りは、自分の意志では止められない。
あの女のことを思うたび、
理性の鎧が少しずつひび割れていくのを感じていた。
監視などという言葉では到底収まらない。
知りすぎた。
愛しすぎた。
このままでは、どちらも壊れてしまう。
だから、今日――決めたのだ。
「……彼女を、ブラック家の屋敷に置くことをお認めいただけませんか。」
その瞬間、空気が止まった。
音が消えた。
蝋燭の炎さえ息を潜めるように揺らぎ、
視界の中の世界がひとつの静止画になったかのようだった。
自分の口から出た言葉が、
あまりにも大胆で、あまりにも愚かで――
けれど、もう取り消せない。
心臓が激しく打つ。
血の流れる音が耳の奥で響く。
喉が乾く。
だが、ヴォルデモートの視線だけは外さなかった。
「……面白いことを言うではないか、レギュラス。」
その声には笑いが混じっていた。
だが、その笑いの奥にあるものは毒だ。
少しでも言葉を誤れば、
その瞬間に命を断たれる。
レギュラスは息を吸い込み、
震えそうになる声を押さえつけながら言葉を続けた。
「セシール家の封印の力が、彼女ひとりの代で終わるのは――
あまりにも、あなたの守るべきものが心許ない。」
ヴォルデモートの瞳が細められる。
その一瞬、空気の重さが増す。
レギュラスは構わず言葉を続けた。
「……分霊箱の守りを、より確固たるものにするためにも、
彼女の血は途絶えさせるべきではありません。」
口にした途端、
自分の全身が氷の中に閉じ込められるような錯覚に陥った。
“分霊箱”――それは、本来知るはずのない言葉。
ヴォルデモートの世界では、それを知ることそのものが死を意味する。
だが、レギュラスはもう後戻りできなかった。
あの日、闇の帝王がアランのもとを訪れたあと。
地下の床に残る、微かな魔力の残滓。
それを辿ったとき、
レギュラスは見てしまったのだ――魂を割いた“器”の痕跡を。
世界を支配するためでも、
純血の未来を守るためでもない。
ヴォルデモートの“理想”は、
ただ自分が死なないための、身勝手な延命のためだった。
その事実を知った瞬間、
彼の信じてきた“忠誠”が音を立てて崩れた。
崇拝していたはずの王の姿が、
一匹の亡霊にしか見えなくなった。
――けれど、それは同時に、希望でもあった。
アランを救う唯一の突破口。
彼女を“封印の器”としてではなく、“生きた者”として取り戻すための。
ヴォルデモートの唇がゆっくりと吊り上がる。
「……何をするつもりだ?」
その声の奥には、冷たい興味が宿っていた。
レギュラスは一瞬の逡巡ののち、
真っ直ぐに言葉を放つ。
「アラン・セシールの血を継ぐ者を――作りましょう。」
沈黙。
その場の空気が、一瞬で氷点下に落ちる。
まるで世界が息を潜めて、二人の言葉を見守っているようだった。
ヴォルデモートはしばらく何も言わず、
指先で蛇杖の先を軽く叩いた。
その音が、心臓の鼓動のように響く。
「……あの女は、欠陥品だったはずだ。」
「では――治しましょう。」
言葉を吐き出した瞬間、レギュラスの手が汗ばむ。
恐怖で、足の感覚が消えていた。
それでも、彼は一歩も退かなかった。
ヴォルデモートの顔に、初めてわずかな笑みが浮かんだ。
「ほう……面白い。」
その声は愉快そうでありながら、
底知れぬ冷たさを孕んでいた。
蛇のように細い舌が、
まるで新たな獲物の匂いを嗅ぎ分けるかのように、
音もなく空気を舐めている。
レギュラスは、その笑みの奥に、
自分が投げた賭けが成功したことを理解していた。
だが同時に――
この瞬間、もう“後戻り”はできなくなったことも。
愛する女を救うために踏み込んだこの一歩が、
同時に、自らを死へと導く一線であることを、
誰よりも彼自身がよく分かっていた。
「治しましょう」――その言葉を吐いた瞬間、
レギュラスの心臓は、凍りついたように動きを止めた。
自分でも、どうやって治すのかなど分からない。
治せる見込みがあるかも知らない。
だが、口にしてしまったからには、
もう後戻りはできなかった。
ヴォルデモートの前で一度でも言葉を撤回することは、
それだけで“忠誠の破綻”と見なされる。
生かされる価値も、名も、血も、すべてを奪われる。
だから、彼はただ、静かに立っていた。
恐怖に支配されながらも、
その瞳だけは揺らさなかった。
「お前の言うことは、たしかに一理ある。」
ヴォルデモートの声は、蛇の舌のように滑らかで、冷たい。
「……あの女の血が途絶えるのは惜しいものだ。」
その言葉に、胸の奥がわずかに脈打つ。
一瞬でも“拒まれなかった”という事実だけが、
わずかな希望として残った。
「全力を尽くします。」
レギュラスは深く頭を垂れた。
闇の帝王の笑いが、空気を震わせる。
その笑いの裏に、どんな思惑が潜んでいるか分からない。
だが、彼にはもう選択肢はなかった。
ブラック家の財を使えば――
この国どころか、国外からでも名のある医務魔法使いを呼び寄せることができる。
知識も、技術も、薬も、あらゆる手段を駆使すれば、
奇跡のひとつくらいは起こせるかもしれない。
そう信じなければ、自分を保てなかった。
セシール家。
その名を思い出すたびに、胸が痛む。
闇の魔法使いたちに利用され続けた一族。
彼らは財を、そして魂までも封じる力を求められ、
そのたびに何かを差し出してきた。
魔力があれば守られると思っていた。
けれど、結末は違った。
“マグル”たちは恐れた。
理解できないもの、見えない力を。
その恐怖はやがて暴走し、
ひとつの家族を滅ぼすまでに膨れ上がった。
火刑の炎。石を投げる群衆。泣き叫ぶ子供たち。
セシール家は、恐怖の象徴として“処刑”された。
唯一の生き残り――それがアラン・セシールだった。
そして彼女を拾い上げ、己の欲のために囲ったのが、
他ならぬ闇の帝王だった。
レギュラスはその事実を知るたびに、
喉の奥で何かが焼けるような思いをした。
“マグルは野蛮だ。”
そう思った。
力のない者が、力ある者を恐れ、滅ぼす。
その愚かさに吐き気がした。
だが同時に――
“ヴォルデモートもまた、同じではないか”
という思いが、何度も胸を掠めた。
マグルと魔法族。
互いの世界を分け、尊重し合うことができれば、
それでいいとレギュラスは思っていた。
血の違いなど、ただの“系譜の差”に過ぎない。
生まれながらに持つ魔力が違うだけで、
価値が決まるはずなどない。
だが、闇の帝王の理想は違った。
彼の望む世界は、選ばれた血以外を排除する“完全な純血”の国。
血の濃さが価値を決め、
支配が秩序だと信じて疑わない。
――それは、セシール家を焼き尽くした“野蛮なマグル”と何が違うのか。
同じ恐怖。
同じ支配。
同じ残酷さ。
ただ“魔力”という名の武器を持っているかどうか。
その違いだけだ。
それに気づいたとき、
レギュラスの胸の中で何かが静かに崩れた。
だが――裏切ることはできない。
この男に背けば、アランを守る術を失う。
この男に従う限り、彼女を手に入れる“可能性”だけは残される。
だから、信念などどうでもよかった。
理想も、誇りも、信仰も。
愛する人を救うためなら、
自分の正義などいくらでも捨てられる。
――いや、とうに捨てたのだ。
ヴォルデモートの冷笑が、まだ耳の奥に残っている。
あの声を思い出すたびに、
レギュラスの中で静かに何かが燃え続けていた。
それは、反逆の炎ではなかった。
ただ一人の女を、この世界のどんな闇からでも救い出したいという――
限りなく愚かで、限りなく純粋な愛の火だった。
地下へと続く石の階段を、レギュラスは軽やかに降りていった。
いつもなら胸の奥に巣食う重い影が、今日だけは嘘のように消えていた。
足取りはまるで春の日差しを踏みしめるように軽い。
闇の底に差す光が、ほんのわずかでも届くと信じられたからだ。
――彼女を連れて出られる。
その確信が胸の中で何度も響く。
あの石牢の冷たさを離れ、陽の光の下で彼女に風を感じさせてやれる。
それだけで、世界のすべてが眩しく見えた。
もちろん、代償はあった。
闇の帝王に告げた――「セシール家の血を継がせる」という約束。
それがどこまで実現できるか、確証はない。
彼女の身体は長い拘束と痛みの中で壊れかけている。
それでも、やるしかなかった。
彼女を救うために、どんな偽りも、どんな手段も受け入れる覚悟があった。
今はただ、彼女をここから出す。
そのことだけを心の芯に刻み、レギュラスは地下牢の扉を開けた。
湿った空気が肌を撫でる。
苔むした石の匂い。
鉄と血の混ざり合った冷たい臭気。
そのすべてが、今日で終わる。
「アラン、ここから出ましょう。」
低く、けれど確かな声で告げた。
囁くような言葉に、アランはゆっくりと顔を上げる。
翡翠の瞳が、驚きと戸惑いで見開かれていた。
まるで、理解が追いつかない――そんな表情。
当然だ。
この地に閉じ込められてから、光へ向かうことなど一度もなかったのだから。
レギュラスは微笑んで彼女に近づいた。
その表情には、どこか少年のような高揚があった。
杖を抜き、そっと彼女の手首と足首にかかる鎖へ向ける。
「Alohomora.」
微かな音を立てて、錆びついた鎖が外れた。
長年その身に絡みついていた金属の重みが、ようやく解かれていく。
金属が床に落ちるたびに、かすかな高音が地下に響き、
それはまるで、自由の鐘の音のようにレギュラスの胸を打った。
「行きましょう。
もう――二度と、こんな場所には戻りません。」
差し出した手を、アランは恐る恐る見つめる。
何度も何度も、信じては裏切られてきた手。
触れた瞬間に呪われるかのような恐怖が、まだ彼女の中に残っている。
けれど、レギュラスの手は暖かかった。
血の通った、人の手だった。
震えながらも、その手に指先を重ねた瞬間――
アランの瞳の奥で、ほんのわずかに光が揺れた。
レギュラスはその小さな変化を見逃さなかった。
胸の奥が熱くなる。
ゆっくりと、彼女の手を引く。
その動作ひとつひとつが、奇跡のように感じられた。
だが、次の瞬間――アランの足が止まった。
鎖を外された足は、思うように動かない。
長い年月、ただ座り、立つことすらままならなかった身体は、
歩くという行為を忘れてしまっている。
石段を一段登ろうとした瞬間、彼女の膝が崩れた。
床に落ちる。
その細い体を、レギュラスは慌てて抱き留めた。
「……首に、捕まってください。」
囁きながら、自らの背に彼女の腕をまわさせる。
震える手が、ためらいがちに彼の首筋に触れた。
その瞬間、アランの指先が、彼の鼓動を感じ取る。
生きた鼓動。
彼女の世界には、長い間なかった“命の音”だった。
レギュラスはゆっくりと彼女の体を抱き上げる。
軽かった。
あまりにも軽すぎて、抱き上げた腕が痛みを覚えるほどだった。
階段を登る。
一段ごとに、長い闇の時間が剥がれ落ちていくようだった。
そのたびに、石壁に反響する鎖の残響が遠のいていく。
まるで、過去の亡霊たちがその音に吸い込まれていくように。
アランはレギュラスの胸に顔を埋めたまま、
何も言わなかった。
けれど、彼の衣服を握る手の力が、
確かに“生きたい”という意志を伝えていた。
光が見えてきた。
階段の上から、わずかに白い光が差している。
それはほんの針の穴ほどの明かりだったが、
二人にはそれが夜明けのように見えた。
「もう少しです。」
レギュラスの声が、震えていた。
息が詰まるほど胸が熱くなる。
夢のようだった。
――まさか、本当にこの手で、彼女を闇の底から連れ出せるなんて。
アランの瞳が、光を映した。
その翡翠の中に、初めて“外の世界”が宿った瞬間だった。
レギュラスはその光を見つめながら、
心の中で静かに誓った。
「もう二度と、誰にも触れさせはしない。」
階段の頂に辿り着いたとき、
二人の周囲を包んだ空気は、
確かに“自由”の匂いをしていた。
屋敷の扉を開けた瞬間、
レギュラスの胸の奥に、長く忘れていた温かさが満ちていった。
自分の住む場所――
ブラック家の古びた屋敷の中に、
ようやく「光」を連れ帰ることができたのだと思った。
長い闇の底から掬い上げた一人の女。
この瞬間が、どれほど遠く感じられていたことか。
ゆっくりと歩みを進めるアランの後ろ姿は、まだ怯えている。
足取りは不安定で、まるで生まれたばかりの小鹿のように細い。
けれど、その一歩一歩が確かに“自由”の証だった。
階段を上がり、自分の寝室の前で立ち止まる。
重厚な黒檀の扉を押し開けると、
ほのかなランプの灯りが部屋を柔らかく包み込む。
「――ここが今日から、あなたの家です。」
そう告げた声が、思いのほか震えていた。
胸の奥に溢れるものが多すぎて、
言葉をひとつ発するたびに喉が熱くなる。
アランはゆっくりと顔を上げ、部屋を見渡した。
重厚なカーテン、淡い光沢を放つ鏡台、
古いが丁寧に手入れされたベッド。
柔らかなカーペットの上で、彼女の裸足が小さく沈み込む。
まるで夢を見ているかのような眼差しだった。
現実という言葉が、彼女にはまだ馴染まないのだろう。
牢獄の石と鉄に囲まれた日々の記憶が、
この優しい空気を拒んでいるかのようだった。
それでも――レギュラスには分かっていた。
時間が必要なのだと。
恐れを溶かし、希望を沁み込ませるための時間が。
彼はアランの手を取り、ベッドへと導いた。
「どうぞ、座って。」
アランはおそるおそる腰を下ろす。
その動作ひとつひとつが、信じられないほど慎ましくて、
レギュラスは胸が痛むほどに愛おしさを感じた。
彼女の手をそっと取る。
そして、その手首に指を滑らせる。
白磁のような肌。
そこに、深く刻まれた赤黒い跡。
長年、鉄の鎖が擦りつづけた痕跡。
あまりにも無惨で、あまりにも痛ましかった。
生きるために繋がれ、
呼吸するたびにその痕が彼女の存在を縛ってきたのだ。
指先で、その跡をなぞる。
跡のひとつひとつが、彼女の過去そのものだった。
「……これからは、あなたを縛る鎖も、闇もありません。」
静かな声で言葉を置く。
慰めではなく、誓いとして。
その言葉がどれほど現実味を帯びて聞こえるか分からない。
けれど、それでも伝えたかった。
今この瞬間だけは、恐怖よりも安堵を覚えてほしかった。
アランは目を瞬かせる。
その翡翠の瞳は、まだ夢の中のように揺れていた。
信じたいのに信じられない。
そんな複雑な光が、瞳の奥でさざめいていた。
レギュラスはそっと微笑んだ。
彼女の頬に手を添えると、その冷たさに小さく息を呑む。
「大丈夫です。」
短い言葉。けれど、その中にありったけの想いを込めた。
アランは何も言わず、ただ小さく頷いた。
ゆっくりと肩の力を抜き、背を預けるようにしてベッドの端に座る。
カーテンの隙間から射す淡い光が、
その頬を金色に染めた。
――まるで、長い夜の果てに初めて朝を迎えた人のようだった。
レギュラスはその姿を見つめながら、
胸の奥で静かに息を整える。
自分の世界の中に、ようやく「彼女」がいる。
この部屋に漂う香り、空気、すべてが、
今だけは穏やかに満ちていた。
アランの指先が、そっとシーツを撫でる。
布の感触を確かめるように、ゆっくりと。
その仕草が、あまりにも慎ましくて、
レギュラスの心はまた痛みを覚えた。
“これが普通の生活というものだ”――
そう教えてやりたい。
彼女に当たり前の幸せを、もう一度感じさせたい。
それが、自分の新しい使命だと思った。
彼はベッドの脇に膝をつき、
そっとその手をもう一度包み込んだ。
「ここは、あなたの家です。
どんな夜も、どんな影も、もうあなたを追いません。」
アランはその言葉を聞いて、
ゆっくりと瞬きをした。
そして――ほんのわずかに、唇の端が動いた。
微笑んだのか、涙を堪えたのか。
どちらともつかないその表情が、
この世界でいちばん美しかった。
レギュラスは、アランのそばを離れなかった。
朝の陽が差し込むたび、彼女の寝台の傍に立ち、
静かにその呼吸を確かめるのが日課になっていた。
屋敷の一角、食堂では、白いクロスが敷かれたテーブルの上に
銀のナイフとフォークが規則正しく並べられている。
けれど、アランの前ではそれも意味をなさない。
ナイフを手にしても、使い方を忘れてしまったかのように
指先がわずかに震える。
「いいですよ、僕が。」
レギュラスは柔らかく微笑み、
肉を切り分けては彼女の皿に静かに移した。
スープの温度を確かめ、パンの端を整える。
その仕草は執事のようでもあり、
けれどそこにはどこか、恋人が恋人に注ぐような
細やかで優しい気配があった。
オリオンとヴァルブルガ――両親の視線が、
背中に鋭く刺さる。
息子が、血筋の分からぬ女に手をかけている。
その視線に込められた嫌悪も軽蔑も、
レギュラスにはどうでもよかった。
目の前にいる彼女が、生きて食事をしている。
それだけで、世界は満たされていた。
午後には庭へ出た。
長く寝たきりだった足を、ゆっくりと地につけさせる。
緑の芝に足を乗せるのも、アランにとっては久方ぶりのことだ。
陽の光を浴びて、翡翠の瞳がきらりと瞬いた。
風が頬を撫で、
レギュラスの黒いローブの裾が静かに揺れた。
「少しずつで構いません。ほら、手を。」
アランは小さく頷き、彼の指に自分の指を絡めた。
その手はまだ細く、骨の輪郭が透けて見えるほどだった。
けれど、その指先には確かに“生”の温度があった。
屋敷の庭を、二人でゆっくりと歩いた。
数歩進むたびに、アランの肩が上下し、
息が上がる。
レギュラスはそのたびに歩調を合わせ、
時折彼女の背を支えた。
木陰に差し込む光が、
二人の影を一つに重ねた。
夜。
レギュラスは医務魔女を呼んだ。
長いこと監禁され、衰弱していた彼女の身体を
専門の目で調べさせるためだ。
「衰弱、栄養失調、魔力の循環の滞り……」
医務魔女が淡々と述べる。
その言葉は、レギュラスにとって聞き飽きた診断だった。
だが――今回はそれだけでは足りなかった。
彼女の身体が“命を宿せる”かどうか。
そこにこそ、彼の焦燥があった。
それが闇の帝王に対して
彼女を外に出すことを許された唯一の条件でもあった。
「アラン、大丈夫です。調べるだけですから。」
レギュラスは、彼女の耳元で穏やかに囁いた。
彼女の瞳が不安に揺れ、
けれど、やがて静かに頷いた。
ベッドの上でアランは横たわり、
医務魔女の指示に従う。
レギュラスはその手を握った。
冷たい手のひらを包み込むように。
医務魔女の杖が、彼女の体の上を滑る。
診察の光が淡く揺れ、
アランの白い肌の上に儚い影を落とした。
――こんな姿を見せてしまっていいのか。
本来なら、女の診療に男が立ち会うなど、
礼節に反する。
けれど、レギュラスには離れることができなかった。
ここで手を離せば、彼女はまた
あの暗闇に引き戻されるような気がした。
「怖くありません、大丈夫。」
握る手に力を込める。
アランの指が、ほんの少しだけ動いた。
それは“ありがとう”という言葉の代わりに、
彼女ができる精一杯の返答だった。
診察が終わる。
医務魔女は小さく眉を寄せながら、何枚かの記録をまとめる。
レギュラスは息を潜めて待った。
結果がどんなものであろうと、
自分はこの女を手放さない。
それだけは決めていた。
ただ、彼女が目を閉じている間――
レギュラスは、そっとその額に唇を落とした。
それは祈りだった。
彼女の身体がもう一度、
“生きる”という循環の中に戻れますように。
闇ではなく、
光の中で息をし続けられますように。
鎖の痕を消すのは、
時間ではなく、愛でなければならない。
そのことを、レギュラスは深く知っていた。
白いシャツ、淡い灰のローブ、編み込まれたストール、
そして細かな刺繍が施された上質な布の包み。
まるで誰かの誕生日を祝うかのように――
アランのもとへ「初めて」をたくさん運んでくる。
最初の頃こそ、彼が持ってくるものの意味が分からなかった。
けれど今は、扉の開く音がするたびに、
胸の奥が少しだけ熱くなる。
彼の差し出す新しいものに触れるたび、
胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛む。
けれど、それは悲しみの痛みではなかった。
むしろ、久しく忘れていた“人の温もり”の中に立ち戻るような――
切なくて、苦しくて、それでいてどうしようもなく優しい痛みだった。
レギュラスは微笑みながら包みを開く。
淡い藍色のドレスが、光を受けてかすかに揺れる。
かつて貴族の館で舞踏会の夜を待ちわびていた頃、
母が仕立ててくれたドレスの裾を思い出した。
彼はアランの肩にそっと布を掛け、
後ろにまわって紐を整えながら言う。
「これも……似合いますね。」
静かな声だった。
けれど、その一言はまるで魔法のように胸に染みた。
アランはうつむいたまま、ドレスの裾を指先でつまむ。
どれほどの時間が経っても、
“似合う”という言葉を誰かにかけてもらうことが、
こんなにも嬉しいものだなんて――忘れていた。
「すごく綺麗ですよ。」
レギュラスの声は穏やかで、まるで風のようだった。
その声を聞くと、なぜだか心の奥の古い扉が少しずつ開いていく。
母の膝に抱かれながら鏡の前で笑っていた少女の頃、
裾を踏んで転びそうになった時に、兄が笑いながら助け起こしてくれたこと。
そのどれもが遠い夢のようだった。
――でも、今。
レギュラスの言葉が、その記憶をそっと撫でてくる。
彼が持ち込む「初めて」のひとつひとつが、
失われた時間を静かに紡ぎ直していくようだった。
胸の奥が温かくなって、
涙が滲むのを必死で堪える。
声を出したい。
彼の名を呼びたい。
ありがとう、と言いたい。
アランは喉の奥に手をあて、
ゆっくりと息を吸い込んだ。
レギュラスの横顔を見つめ、唇を開く。
――けれど、声が出ない。
喉の奥まで届いた言葉が、
その先に進むことを拒むように固まってしまう。
息だけが空気に溶け、音にはならない。
何度も、何度も繰り返す。
「レギュラス」と呼ぼうとする。
「ありがとう」と伝えようとする。
けれど、声は届かない。
それでも、レギュラスは彼女の表情を見て気づいていた。
小さく震える唇の動きだけで、
彼は彼女の伝えたかった言葉を理解していた。
「……どういたしまして。」
優しく微笑みながら、彼はそう囁いた。
まるでその一言で、
“あなたの声がなくても、ちゃんと届いています”と伝えるように。
アランの胸が熱くなる。
涙がひとしずく、頬を伝った。
レギュラスはそれを指先でそっと拭う。
鎖の音が、じゃらりと鳴った。
その音すらも、今は優しく響いて聞こえた。
彼ともっと話がしたい。
彼の声をもっと聞いて、
頷いて、笑って、返事をして――
ただそれだけのことが、どれほど遠いことか。
けれど、いつか。
この喉が声を取り戻せる日が来るなら、
最初の言葉は、きっと彼の名にしよう。
そう心の中で誓いながら、
アランは微笑んだ。
彼がくれた新しいドレスの裾を、
光のような指先で静かに撫でながら。
地下牢の空気が、いつもよりも冷たかった。
けれどそれは湿気や寒気のせいではない。
――空間そのものが、刺すような圧力で満たされていた。
扉が開く音ひとつで、世界が凍りつく。
その瞬間、アランは理解した。
“彼”が来たのだ。
細く呼吸を吸い込もうとする。
けれど胸の奥で空気が震えて、喉から出るのは細く掠れた音だけだった。
声など、とうに失って久しい。
けれど今日だけは、その沈黙すら許されない気がした。
ゆっくりと二人が現れる。
黒いローブに覆われた影――ヴォルデモート。
そしてその隣で笑うように歩く、ベラトリックス・レストレンジ。
二人が放つ魔力の気配は、空間そのものをねじ曲げるほどに鋭く、
アランの体は無意識のうちに縮こまった。
鎖が、じゃらり、と音を立てて床を擦る。
「……なんだい、その格好は。」
ベラトリックスの声は、氷のように冷たく、刺すようだった。
アランは咄嗟に顔を伏せた。
しかしその仕草さえ気に障ったのだろう、
次の瞬間、ベラトリックスの杖が彼女の胸元に向けられる。
「礼をすることを教わらなかったのかい? 無礼な女だねぇ。」
杖先から放たれた無言の魔力が、
アランの体を無理やり引き上げる。
まるで見えない手に操られる人形のように、背を反らされ、頭を下げさせられた。
体が悲鳴をあげる。
喉が焼けるように痛んだ。
ベラトリックスの笑い声が、金属のように響く。
冷たい石壁に反響して、何重にも重なって降ってくる。
そしてその奥で、ヴォルデモートがゆっくりと歩み寄る音がした。
一歩、また一歩――そのたびに空気が軋む。
アランの心臓は、破裂しそうなほど高鳴っていた。
「お前に新しく“封印”を頼みたいものがある。」
低く、湿った声。
それは命令であり、告知でもあり――宣告でもあった。
ヴォルデモートが掲げた掌の上には、
古びた金の指輪があった。
それはただの装飾品ではなかった。
見た瞬間、アランの中の魔力が警鐘を鳴らした。
禍々しい。
それ以外の言葉が見つからない。
指輪の中に、確かに“何か”が蠢いている。
人の形をしたものではない。
魂そのもの――叫び、呪い、憎悪の塊。
それが今も、指輪の中で呻いていた。
「……っ」
喉の奥で悲鳴がこもる。
ただ見ているだけで、体の奥から魔力が引きずり出されるような錯覚を覚えた。
それに触れたら、きっと、自分の存在そのものが壊れてしまう。
そう分かっているのに、逃げることもできない。
「さっさとおやり!」
ベラトリックスの甲高い声が響く。
杖が掲げられる。
その瞬間、アランの体がまた強張った。
“服従”の呪文が飛ぶ。
喉の奥で息が詰まり、視界が霞んだ。
「少し待て、ベラトリックス。」
ヴォルデモートの声がそれを遮る。
静かでありながら、絶対的な支配を孕んだ声音だった。
「俺様は慈悲深いのだ。」
そう言って、ヴォルデモートはアランの顎を掴んだ。
指が骨に食い込む。
無理やり顔を上に向けさせられる。
目の前にあるのは、人間とは思えぬ顔。
その赤い瞳が、氷のように光る。
「随分とまあ……目をかけられているものだな、あのレギュラス・ブラックに。」
冷たく笑うその声に、ベラトリックスがけたけたと笑い声をあげた。
「ふふ、ほんとに。あの真面目な坊やが女に情けをかけるなんてねぇ!」
二人の笑い声が重なる。
それはこの世のあらゆる残酷を凝縮したような響きだった。
アランは何も言えず、何もできず、
ただその場で震えることしかできなかった。
ヴォルデモートの手が離される。
その勢いで体がよろめき、石の床に手をつく。
冷たさが骨に染みた。
早く――終わらせたい。
これ以上、この場所にこの人たちといたくない。
ただそれだけを思って、アランは指輪へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、
心臓が止まったかのような衝撃が走る。
――悲鳴。
聞こえた。
誰のものか分からない、幾千もの魂の叫び。
その苦痛が、胸の奥に突き刺さる。
それでも彼女は、震える手で杖を握った。
封印の呪文を唱える。
代々セシール家に伝わる、永遠の封印。
血と魂を代償にして、何者も破れぬ枷を作り上げる。
魔力がほとばしる。
光が走り、床に刻まれた紋章が淡く輝いた。
アランの髪が揺れ、涙が頬を伝う。
――お父様、お母様。
どうして、こんな力をこの血に遺したの。
どうして、この力のために、私たちは滅んでいかねばならなかったの。
光が収束し、指輪が沈黙する。
封印は終わった。
ヴォルデモートは満足げに微笑む。
「よくやった。……やはり、セシールの血は使える。」
その一言で、アランの膝が崩れた。
床に落ちる音が響く。
もう、涙が止まらなかった。
ベラトリックスがその姿を見下ろして笑う。
「ほら、やればできるじゃない。可愛い子。」
アランはその声に何も答えられなかった。
ただ、震える手で胸を押さえながら、
息をするたびに喉の奥で嗚咽がこぼれた。
――あぁ、もう何も残っていない。
自分の血も、誇りも、心さえも。
すべては封印と共に奪われていく。
その涙のひと粒ひと粒が、
彼女の唯一残された“人間”の証だった。
どれほどの時間、そうしていたのだろう。
彼女の肩が微かに震え続けていたその震えがようやく静まる頃、
レギュラスはそっとアランの頬に触れた。
指先に、まだ熱の名残があった。
涙の跡が細い線を描いて頬を伝い、
まるで痛みの記憶がそのまま形をとって残ったようだった。
何も言わずに、彼はその涙の跡を唇でなぞる。
塩の味がした。
哀しみと安堵がまざりあったような、静かな痛みの味。
そして――彼はまた、アランに口づけた。
もう何度目になるのか分からない。
それでも、毎回が初めてのように慎重だった。
彼女を壊してしまいそうで、
少しでも強く触れたら、その心のひびが砕け散ってしまいそうで。
最初に触れたとき、アランの唇はいつもと同じように固く閉ざされていた。
彼女の世界では、触れられるということが“恐怖”と同義だったのだろう。
普通の恋人たちが自然に交わす仕草さえ、
アランにはまだ未知の痛みに似ていた。
レギュラスは焦らず、ゆっくりとその硬さがほどけていくのを待った。
呼吸を合わせ、頬を寄せ、
ただ唇と唇が触れ合うだけの時間を長く過ごす。
やがて、
アランの唇から少しだけ力が抜けていく。
その瞬間、胸の奥で何かが緩むような音がした。
彼女の恐怖が、わずかにひとつ溶けていった気がした。
一度、唇を離す。
アランがかすかに目を開け、息を詰めて彼を見上げた。
光の少ない地下牢で、
その瞳の翡翠色だけが奇跡のように輝いている。
「アラン、少し……唇を開けたままにしていてください。」
穏やかに、優しく言葉を添える。
指示の意味を理解できず、アランの瞳が戸惑いに揺れた。
その表情があまりに純粋で、
レギュラスは微笑をこらえることができなかった。
「……こう、です。」
そう言いながら、彼は指先でアランの下唇に触れた。
そっと押し下げる。
小さな唇が、わずかに震えながら開く。
「……そのくらいです。」
声が震えそうになるのを必死で抑える。
どうしてこんなにも、
この小さな仕草ひとつが愛おしく思えるのだろう。
もう一度、唇を重ねた。
今度は、ゆっくりと。
絡めるように、優しく。
彼女の呼吸に合わせて、
その内側に自分の熱を溶かしていくように。
唇と唇が触れるたび、
アランの体温が少しずつ戻ってくる。
冷たく硬かった彼女の指が、
いつの間にかレギュラスの袖を掴んでいた。
レギュラスはその小さな力に気づいて、
唇を離すのをためらった。
そのまま、もう一度深く触れる。
互いの息が混じりあい、
世界がその一点だけで存在しているように感じられた。
やがて、唇を離した。
アランの頬にはまだ涙の跡があった。
けれど、その瞳からはもう涙は落ちていなかった。
静かに、息を整えながら彼を見上げている。
泣き止んでくれた。
それだけで、胸の奥に暖かなものが広がった。
「……いいんです、それで。」
そう言いながら、レギュラスは彼女の頬を包み込む。
親が子を撫でるような、優しい手つきだった。
そのまま、指先で彼女の髪を整える。
かつて恐怖で強張っていた肩の力が、今はゆっくりと抜けていく。
二人の間には言葉はなかった。
けれど、沈黙の中に確かに“会話”があった。
呼吸の重なり、手の温度、
それらすべてが互いの心を撫でていた。
彼はもう一度、彼女の額に唇を落とす。
「……もう泣かないでください。」
その囁きは、祈りのように静かだった。
アランは目を閉じ、
彼の胸の中でそっと息を整えた。
レギュラスは思う。
この人に、“触れる”ことの温かさを知ってほしい。
奪われることではなく、
“与え合う”こととしての触れ方を。
彼女がその意味を少しずつ覚えていくたび、
世界の残酷さが、ほんの少しだけ遠のくような気がした。
そして、
その日以来、アランの涙が長く流れることはなかった。
それは、まるで静かな奇跡のような変化だった。
あの日から――アランは、レギュラスが唇を寄せると、
何も言わずとも自然に力を抜くようになった。
はじめの頃は、触れられるたびに肩をこわばらせ、
呼吸さえ止めてしまっていたのに。
いまは、まるで花が風に身を委ねるように、
彼の指先の動きに合わせて柔らかく揺れる。
唇が触れるたび、かすかな息が漏れる。
それは怯えではなく、信頼の吐息だった。
レギュラスはその変化に気づくたび、
胸の奥に静かな熱が灯るのを感じていた。
唇を離し、彼は穏やかに微笑んだ。
「上手になりましたね。」
まるで子どもを褒めるような柔らかな声音。
けれど、その優しさの下に潜むのは、
どうしようもないほどの愛しさと、
それに混じる危ういほどの欲情だった。
アランはその言葉に、ふわりと微笑んだ。
声を出さずとも、その笑みひとつで十分だった。
頬に淡い血色が差し、
かすかな呼吸が唇を震わせる。
その瞬間、レギュラスの胸の奥がきゅうと軋んだ。
この世でこんなに無垢な微笑みを見せられたら――
誰であっても抗えないだろう。
彼の手がそっとアランの頬に触れる。
その温もりに、アランは何も言わず身を預けた。
その従順さは、痛いほどに純粋だった。
他にも、彼女に“覚えさせた”ことはたくさんあった。
両手を広げれば、迷うことなく彼の胸へ来るように。
壁に寄りかかって座れば、
その膝の間におとなしく座るように。
最初の頃、アランはぎこちなく戸惑いながら動いていた。
どうしてそんなことを求められるのかも分からず、
ただ、彼の指先の動きと表情を頼りに真似をした。
けれど今では、それが自然な習慣のようになっている。
彼が腕を広げると、
アランはまるで命令を受け取ったかのように、
静かに歩み寄り、その胸に顔を埋めた。
その動作の一つひとつに、
まるで祈りのような清らかさが宿っていた。
レギュラスは、その様子を見つめながら、
胸の奥で何かがほどけていくのを感じていた。
もはや“監視”でも“慰め”でもない。
それ以上の、説明のつかない感情が彼の中で膨らんでいく。
――まるで幼子をあやすような気持ちだった。
守りたい。
触れたい。
壊したくない。
その相反する願いが同時に胸を満たす。
彼女が自分の腕の中にすっぽりと収まるたび、
庇護欲と愛情がないまぜになって心を締めつけた。
けれど、それだけでは終わらない。
彼女が自分の胸に頬を寄せ、
ゆっくりと呼吸を重ねてくる瞬間――
その温もりが、何かを侵してくる。
理性の奥に潜む、暗く熱い何かを。
無垢な仕草が、時にあまりにも妖しく映る。
言葉を知らぬ幼子のような従順さと、
成熟した女の身体が同じ場所に存在している。
その乖離が、息を呑むほど美しかった。
レギュラスは、彼女の髪を指で梳きながら思う。
この人は、もはや「囚われの女」ではない。
この地下の空間において、
自分の世界そのものになってしまった。
アランの胸が上下するたび、
彼の呼吸もそれに合わせて揺れる。
時間の流れさえ、彼女の息に支配されているようだった。
――どうしようもなく、愛おしい。
その感情が胸の底で膨れ上がるたびに、
レギュラスはひどく怖くなった。
どこまでが守りで、どこからが堕落なのか。
もはや境界線は分からなかった。
アランは、そんな彼の迷いなど知らぬまま、
ただ静かに彼の胸の中で目を閉じていた。
まるでそこが、自分の帰る場所であるとでも言うように。
そしてレギュラスは、
その小さな頭を抱き寄せながら思った。
――たとえ世界が許さなくとも、
この腕の中の彼女だけは、絶対に離すまいと。
黒曜石のように冷たい床が、杖の先に反響する。
呼び出しの知らせを受けてから、
レギュラスの手は、わずかに震えていた。
それを悟られぬよう、
背筋を真っ直ぐに伸ばし、闇の奥へと進む。
広間の奥、薄暗い光の中に――
彼は座していた。
闇の帝王。
その周囲を取り巻く空気は、命そのものを削ぎ落とすような圧で、
近づくだけで皮膚が焼けるような錯覚さえ覚えた。
「……ミイラ取りがミイラになったか、レギュラス。」
低く湿った声。
その言葉に、わずかな笑いが混じる。
嘲るような、そして試すような声音だった。
レギュラスは跪き、
深く頭を下げる。
「……監視に問題はありません。」
「そうだろうとも。お前の役目は“死なせずに生かす”ことだ。
それ以外に価値はない。」
ヴォルデモートの赤い瞳が、暗闇の中で細く光る。
その視線が、皮膚の下まで入り込んでくるような錯覚。
レギュラスは呼吸を整え、
自分の鼓動を悟られぬよう、静かに言葉を選ぶ。
――だが、もう遅かった。
この心臓の高鳴りは、自分の意志では止められない。
あの女のことを思うたび、
理性の鎧が少しずつひび割れていくのを感じていた。
監視などという言葉では到底収まらない。
知りすぎた。
愛しすぎた。
このままでは、どちらも壊れてしまう。
だから、今日――決めたのだ。
「……彼女を、ブラック家の屋敷に置くことをお認めいただけませんか。」
その瞬間、空気が止まった。
音が消えた。
蝋燭の炎さえ息を潜めるように揺らぎ、
視界の中の世界がひとつの静止画になったかのようだった。
自分の口から出た言葉が、
あまりにも大胆で、あまりにも愚かで――
けれど、もう取り消せない。
心臓が激しく打つ。
血の流れる音が耳の奥で響く。
喉が乾く。
だが、ヴォルデモートの視線だけは外さなかった。
「……面白いことを言うではないか、レギュラス。」
その声には笑いが混じっていた。
だが、その笑いの奥にあるものは毒だ。
少しでも言葉を誤れば、
その瞬間に命を断たれる。
レギュラスは息を吸い込み、
震えそうになる声を押さえつけながら言葉を続けた。
「セシール家の封印の力が、彼女ひとりの代で終わるのは――
あまりにも、あなたの守るべきものが心許ない。」
ヴォルデモートの瞳が細められる。
その一瞬、空気の重さが増す。
レギュラスは構わず言葉を続けた。
「……分霊箱の守りを、より確固たるものにするためにも、
彼女の血は途絶えさせるべきではありません。」
口にした途端、
自分の全身が氷の中に閉じ込められるような錯覚に陥った。
“分霊箱”――それは、本来知るはずのない言葉。
ヴォルデモートの世界では、それを知ることそのものが死を意味する。
だが、レギュラスはもう後戻りできなかった。
あの日、闇の帝王がアランのもとを訪れたあと。
地下の床に残る、微かな魔力の残滓。
それを辿ったとき、
レギュラスは見てしまったのだ――魂を割いた“器”の痕跡を。
世界を支配するためでも、
純血の未来を守るためでもない。
ヴォルデモートの“理想”は、
ただ自分が死なないための、身勝手な延命のためだった。
その事実を知った瞬間、
彼の信じてきた“忠誠”が音を立てて崩れた。
崇拝していたはずの王の姿が、
一匹の亡霊にしか見えなくなった。
――けれど、それは同時に、希望でもあった。
アランを救う唯一の突破口。
彼女を“封印の器”としてではなく、“生きた者”として取り戻すための。
ヴォルデモートの唇がゆっくりと吊り上がる。
「……何をするつもりだ?」
その声の奥には、冷たい興味が宿っていた。
レギュラスは一瞬の逡巡ののち、
真っ直ぐに言葉を放つ。
「アラン・セシールの血を継ぐ者を――作りましょう。」
沈黙。
その場の空気が、一瞬で氷点下に落ちる。
まるで世界が息を潜めて、二人の言葉を見守っているようだった。
ヴォルデモートはしばらく何も言わず、
指先で蛇杖の先を軽く叩いた。
その音が、心臓の鼓動のように響く。
「……あの女は、欠陥品だったはずだ。」
「では――治しましょう。」
言葉を吐き出した瞬間、レギュラスの手が汗ばむ。
恐怖で、足の感覚が消えていた。
それでも、彼は一歩も退かなかった。
ヴォルデモートの顔に、初めてわずかな笑みが浮かんだ。
「ほう……面白い。」
その声は愉快そうでありながら、
底知れぬ冷たさを孕んでいた。
蛇のように細い舌が、
まるで新たな獲物の匂いを嗅ぎ分けるかのように、
音もなく空気を舐めている。
レギュラスは、その笑みの奥に、
自分が投げた賭けが成功したことを理解していた。
だが同時に――
この瞬間、もう“後戻り”はできなくなったことも。
愛する女を救うために踏み込んだこの一歩が、
同時に、自らを死へと導く一線であることを、
誰よりも彼自身がよく分かっていた。
「治しましょう」――その言葉を吐いた瞬間、
レギュラスの心臓は、凍りついたように動きを止めた。
自分でも、どうやって治すのかなど分からない。
治せる見込みがあるかも知らない。
だが、口にしてしまったからには、
もう後戻りはできなかった。
ヴォルデモートの前で一度でも言葉を撤回することは、
それだけで“忠誠の破綻”と見なされる。
生かされる価値も、名も、血も、すべてを奪われる。
だから、彼はただ、静かに立っていた。
恐怖に支配されながらも、
その瞳だけは揺らさなかった。
「お前の言うことは、たしかに一理ある。」
ヴォルデモートの声は、蛇の舌のように滑らかで、冷たい。
「……あの女の血が途絶えるのは惜しいものだ。」
その言葉に、胸の奥がわずかに脈打つ。
一瞬でも“拒まれなかった”という事実だけが、
わずかな希望として残った。
「全力を尽くします。」
レギュラスは深く頭を垂れた。
闇の帝王の笑いが、空気を震わせる。
その笑いの裏に、どんな思惑が潜んでいるか分からない。
だが、彼にはもう選択肢はなかった。
ブラック家の財を使えば――
この国どころか、国外からでも名のある医務魔法使いを呼び寄せることができる。
知識も、技術も、薬も、あらゆる手段を駆使すれば、
奇跡のひとつくらいは起こせるかもしれない。
そう信じなければ、自分を保てなかった。
セシール家。
その名を思い出すたびに、胸が痛む。
闇の魔法使いたちに利用され続けた一族。
彼らは財を、そして魂までも封じる力を求められ、
そのたびに何かを差し出してきた。
魔力があれば守られると思っていた。
けれど、結末は違った。
“マグル”たちは恐れた。
理解できないもの、見えない力を。
その恐怖はやがて暴走し、
ひとつの家族を滅ぼすまでに膨れ上がった。
火刑の炎。石を投げる群衆。泣き叫ぶ子供たち。
セシール家は、恐怖の象徴として“処刑”された。
唯一の生き残り――それがアラン・セシールだった。
そして彼女を拾い上げ、己の欲のために囲ったのが、
他ならぬ闇の帝王だった。
レギュラスはその事実を知るたびに、
喉の奥で何かが焼けるような思いをした。
“マグルは野蛮だ。”
そう思った。
力のない者が、力ある者を恐れ、滅ぼす。
その愚かさに吐き気がした。
だが同時に――
“ヴォルデモートもまた、同じではないか”
という思いが、何度も胸を掠めた。
マグルと魔法族。
互いの世界を分け、尊重し合うことができれば、
それでいいとレギュラスは思っていた。
血の違いなど、ただの“系譜の差”に過ぎない。
生まれながらに持つ魔力が違うだけで、
価値が決まるはずなどない。
だが、闇の帝王の理想は違った。
彼の望む世界は、選ばれた血以外を排除する“完全な純血”の国。
血の濃さが価値を決め、
支配が秩序だと信じて疑わない。
――それは、セシール家を焼き尽くした“野蛮なマグル”と何が違うのか。
同じ恐怖。
同じ支配。
同じ残酷さ。
ただ“魔力”という名の武器を持っているかどうか。
その違いだけだ。
それに気づいたとき、
レギュラスの胸の中で何かが静かに崩れた。
だが――裏切ることはできない。
この男に背けば、アランを守る術を失う。
この男に従う限り、彼女を手に入れる“可能性”だけは残される。
だから、信念などどうでもよかった。
理想も、誇りも、信仰も。
愛する人を救うためなら、
自分の正義などいくらでも捨てられる。
――いや、とうに捨てたのだ。
ヴォルデモートの冷笑が、まだ耳の奥に残っている。
あの声を思い出すたびに、
レギュラスの中で静かに何かが燃え続けていた。
それは、反逆の炎ではなかった。
ただ一人の女を、この世界のどんな闇からでも救い出したいという――
限りなく愚かで、限りなく純粋な愛の火だった。
地下へと続く石の階段を、レギュラスは軽やかに降りていった。
いつもなら胸の奥に巣食う重い影が、今日だけは嘘のように消えていた。
足取りはまるで春の日差しを踏みしめるように軽い。
闇の底に差す光が、ほんのわずかでも届くと信じられたからだ。
――彼女を連れて出られる。
その確信が胸の中で何度も響く。
あの石牢の冷たさを離れ、陽の光の下で彼女に風を感じさせてやれる。
それだけで、世界のすべてが眩しく見えた。
もちろん、代償はあった。
闇の帝王に告げた――「セシール家の血を継がせる」という約束。
それがどこまで実現できるか、確証はない。
彼女の身体は長い拘束と痛みの中で壊れかけている。
それでも、やるしかなかった。
彼女を救うために、どんな偽りも、どんな手段も受け入れる覚悟があった。
今はただ、彼女をここから出す。
そのことだけを心の芯に刻み、レギュラスは地下牢の扉を開けた。
湿った空気が肌を撫でる。
苔むした石の匂い。
鉄と血の混ざり合った冷たい臭気。
そのすべてが、今日で終わる。
「アラン、ここから出ましょう。」
低く、けれど確かな声で告げた。
囁くような言葉に、アランはゆっくりと顔を上げる。
翡翠の瞳が、驚きと戸惑いで見開かれていた。
まるで、理解が追いつかない――そんな表情。
当然だ。
この地に閉じ込められてから、光へ向かうことなど一度もなかったのだから。
レギュラスは微笑んで彼女に近づいた。
その表情には、どこか少年のような高揚があった。
杖を抜き、そっと彼女の手首と足首にかかる鎖へ向ける。
「Alohomora.」
微かな音を立てて、錆びついた鎖が外れた。
長年その身に絡みついていた金属の重みが、ようやく解かれていく。
金属が床に落ちるたびに、かすかな高音が地下に響き、
それはまるで、自由の鐘の音のようにレギュラスの胸を打った。
「行きましょう。
もう――二度と、こんな場所には戻りません。」
差し出した手を、アランは恐る恐る見つめる。
何度も何度も、信じては裏切られてきた手。
触れた瞬間に呪われるかのような恐怖が、まだ彼女の中に残っている。
けれど、レギュラスの手は暖かかった。
血の通った、人の手だった。
震えながらも、その手に指先を重ねた瞬間――
アランの瞳の奥で、ほんのわずかに光が揺れた。
レギュラスはその小さな変化を見逃さなかった。
胸の奥が熱くなる。
ゆっくりと、彼女の手を引く。
その動作ひとつひとつが、奇跡のように感じられた。
だが、次の瞬間――アランの足が止まった。
鎖を外された足は、思うように動かない。
長い年月、ただ座り、立つことすらままならなかった身体は、
歩くという行為を忘れてしまっている。
石段を一段登ろうとした瞬間、彼女の膝が崩れた。
床に落ちる。
その細い体を、レギュラスは慌てて抱き留めた。
「……首に、捕まってください。」
囁きながら、自らの背に彼女の腕をまわさせる。
震える手が、ためらいがちに彼の首筋に触れた。
その瞬間、アランの指先が、彼の鼓動を感じ取る。
生きた鼓動。
彼女の世界には、長い間なかった“命の音”だった。
レギュラスはゆっくりと彼女の体を抱き上げる。
軽かった。
あまりにも軽すぎて、抱き上げた腕が痛みを覚えるほどだった。
階段を登る。
一段ごとに、長い闇の時間が剥がれ落ちていくようだった。
そのたびに、石壁に反響する鎖の残響が遠のいていく。
まるで、過去の亡霊たちがその音に吸い込まれていくように。
アランはレギュラスの胸に顔を埋めたまま、
何も言わなかった。
けれど、彼の衣服を握る手の力が、
確かに“生きたい”という意志を伝えていた。
光が見えてきた。
階段の上から、わずかに白い光が差している。
それはほんの針の穴ほどの明かりだったが、
二人にはそれが夜明けのように見えた。
「もう少しです。」
レギュラスの声が、震えていた。
息が詰まるほど胸が熱くなる。
夢のようだった。
――まさか、本当にこの手で、彼女を闇の底から連れ出せるなんて。
アランの瞳が、光を映した。
その翡翠の中に、初めて“外の世界”が宿った瞬間だった。
レギュラスはその光を見つめながら、
心の中で静かに誓った。
「もう二度と、誰にも触れさせはしない。」
階段の頂に辿り着いたとき、
二人の周囲を包んだ空気は、
確かに“自由”の匂いをしていた。
屋敷の扉を開けた瞬間、
レギュラスの胸の奥に、長く忘れていた温かさが満ちていった。
自分の住む場所――
ブラック家の古びた屋敷の中に、
ようやく「光」を連れ帰ることができたのだと思った。
長い闇の底から掬い上げた一人の女。
この瞬間が、どれほど遠く感じられていたことか。
ゆっくりと歩みを進めるアランの後ろ姿は、まだ怯えている。
足取りは不安定で、まるで生まれたばかりの小鹿のように細い。
けれど、その一歩一歩が確かに“自由”の証だった。
階段を上がり、自分の寝室の前で立ち止まる。
重厚な黒檀の扉を押し開けると、
ほのかなランプの灯りが部屋を柔らかく包み込む。
「――ここが今日から、あなたの家です。」
そう告げた声が、思いのほか震えていた。
胸の奥に溢れるものが多すぎて、
言葉をひとつ発するたびに喉が熱くなる。
アランはゆっくりと顔を上げ、部屋を見渡した。
重厚なカーテン、淡い光沢を放つ鏡台、
古いが丁寧に手入れされたベッド。
柔らかなカーペットの上で、彼女の裸足が小さく沈み込む。
まるで夢を見ているかのような眼差しだった。
現実という言葉が、彼女にはまだ馴染まないのだろう。
牢獄の石と鉄に囲まれた日々の記憶が、
この優しい空気を拒んでいるかのようだった。
それでも――レギュラスには分かっていた。
時間が必要なのだと。
恐れを溶かし、希望を沁み込ませるための時間が。
彼はアランの手を取り、ベッドへと導いた。
「どうぞ、座って。」
アランはおそるおそる腰を下ろす。
その動作ひとつひとつが、信じられないほど慎ましくて、
レギュラスは胸が痛むほどに愛おしさを感じた。
彼女の手をそっと取る。
そして、その手首に指を滑らせる。
白磁のような肌。
そこに、深く刻まれた赤黒い跡。
長年、鉄の鎖が擦りつづけた痕跡。
あまりにも無惨で、あまりにも痛ましかった。
生きるために繋がれ、
呼吸するたびにその痕が彼女の存在を縛ってきたのだ。
指先で、その跡をなぞる。
跡のひとつひとつが、彼女の過去そのものだった。
「……これからは、あなたを縛る鎖も、闇もありません。」
静かな声で言葉を置く。
慰めではなく、誓いとして。
その言葉がどれほど現実味を帯びて聞こえるか分からない。
けれど、それでも伝えたかった。
今この瞬間だけは、恐怖よりも安堵を覚えてほしかった。
アランは目を瞬かせる。
その翡翠の瞳は、まだ夢の中のように揺れていた。
信じたいのに信じられない。
そんな複雑な光が、瞳の奥でさざめいていた。
レギュラスはそっと微笑んだ。
彼女の頬に手を添えると、その冷たさに小さく息を呑む。
「大丈夫です。」
短い言葉。けれど、その中にありったけの想いを込めた。
アランは何も言わず、ただ小さく頷いた。
ゆっくりと肩の力を抜き、背を預けるようにしてベッドの端に座る。
カーテンの隙間から射す淡い光が、
その頬を金色に染めた。
――まるで、長い夜の果てに初めて朝を迎えた人のようだった。
レギュラスはその姿を見つめながら、
胸の奥で静かに息を整える。
自分の世界の中に、ようやく「彼女」がいる。
この部屋に漂う香り、空気、すべてが、
今だけは穏やかに満ちていた。
アランの指先が、そっとシーツを撫でる。
布の感触を確かめるように、ゆっくりと。
その仕草が、あまりにも慎ましくて、
レギュラスの心はまた痛みを覚えた。
“これが普通の生活というものだ”――
そう教えてやりたい。
彼女に当たり前の幸せを、もう一度感じさせたい。
それが、自分の新しい使命だと思った。
彼はベッドの脇に膝をつき、
そっとその手をもう一度包み込んだ。
「ここは、あなたの家です。
どんな夜も、どんな影も、もうあなたを追いません。」
アランはその言葉を聞いて、
ゆっくりと瞬きをした。
そして――ほんのわずかに、唇の端が動いた。
微笑んだのか、涙を堪えたのか。
どちらともつかないその表情が、
この世界でいちばん美しかった。
レギュラスは、アランのそばを離れなかった。
朝の陽が差し込むたび、彼女の寝台の傍に立ち、
静かにその呼吸を確かめるのが日課になっていた。
屋敷の一角、食堂では、白いクロスが敷かれたテーブルの上に
銀のナイフとフォークが規則正しく並べられている。
けれど、アランの前ではそれも意味をなさない。
ナイフを手にしても、使い方を忘れてしまったかのように
指先がわずかに震える。
「いいですよ、僕が。」
レギュラスは柔らかく微笑み、
肉を切り分けては彼女の皿に静かに移した。
スープの温度を確かめ、パンの端を整える。
その仕草は執事のようでもあり、
けれどそこにはどこか、恋人が恋人に注ぐような
細やかで優しい気配があった。
オリオンとヴァルブルガ――両親の視線が、
背中に鋭く刺さる。
息子が、血筋の分からぬ女に手をかけている。
その視線に込められた嫌悪も軽蔑も、
レギュラスにはどうでもよかった。
目の前にいる彼女が、生きて食事をしている。
それだけで、世界は満たされていた。
午後には庭へ出た。
長く寝たきりだった足を、ゆっくりと地につけさせる。
緑の芝に足を乗せるのも、アランにとっては久方ぶりのことだ。
陽の光を浴びて、翡翠の瞳がきらりと瞬いた。
風が頬を撫で、
レギュラスの黒いローブの裾が静かに揺れた。
「少しずつで構いません。ほら、手を。」
アランは小さく頷き、彼の指に自分の指を絡めた。
その手はまだ細く、骨の輪郭が透けて見えるほどだった。
けれど、その指先には確かに“生”の温度があった。
屋敷の庭を、二人でゆっくりと歩いた。
数歩進むたびに、アランの肩が上下し、
息が上がる。
レギュラスはそのたびに歩調を合わせ、
時折彼女の背を支えた。
木陰に差し込む光が、
二人の影を一つに重ねた。
夜。
レギュラスは医務魔女を呼んだ。
長いこと監禁され、衰弱していた彼女の身体を
専門の目で調べさせるためだ。
「衰弱、栄養失調、魔力の循環の滞り……」
医務魔女が淡々と述べる。
その言葉は、レギュラスにとって聞き飽きた診断だった。
だが――今回はそれだけでは足りなかった。
彼女の身体が“命を宿せる”かどうか。
そこにこそ、彼の焦燥があった。
それが闇の帝王に対して
彼女を外に出すことを許された唯一の条件でもあった。
「アラン、大丈夫です。調べるだけですから。」
レギュラスは、彼女の耳元で穏やかに囁いた。
彼女の瞳が不安に揺れ、
けれど、やがて静かに頷いた。
ベッドの上でアランは横たわり、
医務魔女の指示に従う。
レギュラスはその手を握った。
冷たい手のひらを包み込むように。
医務魔女の杖が、彼女の体の上を滑る。
診察の光が淡く揺れ、
アランの白い肌の上に儚い影を落とした。
――こんな姿を見せてしまっていいのか。
本来なら、女の診療に男が立ち会うなど、
礼節に反する。
けれど、レギュラスには離れることができなかった。
ここで手を離せば、彼女はまた
あの暗闇に引き戻されるような気がした。
「怖くありません、大丈夫。」
握る手に力を込める。
アランの指が、ほんの少しだけ動いた。
それは“ありがとう”という言葉の代わりに、
彼女ができる精一杯の返答だった。
診察が終わる。
医務魔女は小さく眉を寄せながら、何枚かの記録をまとめる。
レギュラスは息を潜めて待った。
結果がどんなものであろうと、
自分はこの女を手放さない。
それだけは決めていた。
ただ、彼女が目を閉じている間――
レギュラスは、そっとその額に唇を落とした。
それは祈りだった。
彼女の身体がもう一度、
“生きる”という循環の中に戻れますように。
闇ではなく、
光の中で息をし続けられますように。
鎖の痕を消すのは、
時間ではなく、愛でなければならない。
そのことを、レギュラスは深く知っていた。
