3章
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夕食を終えた食卓には、まだ温かさが残っていた。
煌々と照らすシャンデリアではなく、
壁に等間隔に灯された魔法燭台の柔らかな橙が、
長いテーブルの端に並んだ二人だけの影を静かに揺らしている。
レギュラスは細い脚のクリスタルグラスを指先で支え、
深い赤のワインをゆっくりと口へ運んだ。
香りは複雑で、少し甘く、どこか土の匂いが残る。
味わうというより、夜の静寂を繋ぎ止めるための一口だった。
その隣に―― アランが静かに座っている。
アランは以前より伏せりがちで、
頬にもかつてのふっくらとした温かみがわずかに減っている。
それでも、ランプの灯りに揺れる翡翠の瞳は
変わらず美しく、深く、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細だった。
彼女は杖を持ち、少し迷うように、ためらうように指を動かし――
淡く文字を浮かび上がらせた。
「最近はこうして飲むのが多いのね」
レギュラスはグラスを置き、微笑む。
乾いた唇にほんの少し赤い跡が残っていた。
「こうしていると起きていられるんです。
あなたと……もう少し話していられますから」
アランの睫毛が揺れる。
その揺れは、声を持たない彼女が見せる“頷き”の代わり。
胸に何か小さな温もりが差し込むような、静かな反応だった。
寝室へ移動してしまえば、アランはすぐに眠ってしまう。
彼女の体力は出産以降、完全には戻りきっていない。
それをレギュラスは理解していたし、
自分の欲を優先させるなど到底できるはずもない。
だからこそ――
この“寝室に入る前の短い時間”を、
彼は何よりも大切にするようになっていた。
沈黙が降りる。
だが、それは重たいものではなかった。
二人の間に漂うのは、長年寄り添った夫婦だけが作れる
柔らかく深い静寂だった。
レギュラスは自然な仕草で、アランの手を取った。
大きくも荒くもない。
ただ、彼女の指の形を一つひとつ確かめるような触れ方。
アランは驚いたように目を瞬き、
そのあと、ほんの弱い力で握り返す。
それだけで胸が温かく痺れた。
レギュラスは近くに寄り、
アランの髪をそっと掬い上げた。
淡く波打つ黒髪は相変わらず光を吸い込むようで、
指先に触れるたび切なさが込み上げる。
次に頬へ――
親指でゆっくりとなぞる。
言葉はなくとも、
彼女が“そこにいる”という証そのものを確かめるような仕草。
アランは目を伏せ、
その頬に触れる指に自ら寄り添った。
そのわずかな動きさえ、
レギュラスの胸を深く揺らす。
言葉ではなく、
触れ合いでしか分かり合えない時間がある。
レギュラスはアランの額にそっと口付けた。
軽く、慎重に、
壊してしまわないように触れる羽のようなキスだった。
アランの肩が小さく震える。
それは拒絶ではなく、
受け入れ、安堵し、溶けるような震え。
“行為”は少なくなった。
アランの身体がまだ完全ではないから。
けれど――
こうして寄り添う時間は
かつてよりも深く、
かつてよりも温かく、
何よりもかけがえのないものになっていた。
話すことは多くない。
話さなくてもよくなったのだ。
二人の指先だけで、
触れ合う唇だけで、
十分すぎるほど語り合える。
ワインの赤が、グラスの底で揺れるたび、
その静かな時間を閉じ込めるように夜が深まっていく。
レギュラスはアランの手を、そっともう一度握った。
「……もう少し、ここにいましょう」
アランはゆっくりと頷く。
翡翠の瞳が夜の灯りを映し、優しく瞬いた。
言葉よりも確かな愛が、
食卓の端で静かに息づいていた。
アラン・ブラックを攻撃してやろう。
そう胸に決めてから――気づけば、十年が経っていた。
ジェームズはその年月の重みを、
古い革張りの椅子の軋みが告げるように感じていた。
書類の山、散らばる新聞。
そこには“ブラック家後継誕生”から“ステラのボグワーツ入学”、
そして“アルタイルブラックの驚異的な才能”まで、
魔法界の繁栄と純血の象徴として讃えられる記事ばかりが並ぶ。
――反吐が出る。
ロングボトム夫妻が今なお“壊れたまま”であるというのに。
あれから、ジェームズは一度たりとも
レギュラスブラックを許そうと思ったことはなかった。
許せるわけがない。
何度も夜、怒りで目が冴え、
シリウスを心配させぬよう裏で怒りを隠してきた。
あの“ロングボトム返還”の日に目に焼きついた惨状は、
時間では薄れなかった。
アランを引き剥がし、破壊し、
レギュラスに心底の苦悩と喪失を味わわせるために
セラ・レヴィントンほど利用価値のある駒はいなかった。
彼女がレギュラスを揺らせば、
アランは屋敷から締め出される可能性があった。
それが“隙”になる。
ジェームズは密かに彼女と接触し、
何年もかけて機会を探りに探った。
セラは狡猾で、人の弱みを引きずり出す天才だった。
彼女が動けばレギュラスの心は確実に揺らぐ――
はずだった。
しかし。
レギュラスブラックは何を察したのか。
いや、“嗅ぎつけた”と呼ぶべきか。
ある日を境に、突然――変わった。
屋敷の魔力結界は何重にも強化され、
アランブラックは外出をぱたりとやめた。
闇の帝王の時代に使われていた「魔力遮断の迷宮紋」までが
ブラック家の敷地に施された噂まである。
セラとの逢瀬も、ぱたりと減った。
ほとんど“会わない”と言っていいほどに。
まるで、
アランだけは絶対に傷つけさせない
と決めたかのように。
ジェームズは歯を噛みしめる。
「……何をどこまで読んでるんだ、あの男は」
最初から十手先を読むような男だった。
騎士団の作戦も、世論の動きも、
法務部の裏事情も、
ジェームズたちの苛立ちすら――
まるで見透かしているかのようだった。
セラを距離に置いたのも、
アランを屋敷から出さなくしたのも、
アランを“守る”ためなのか、
それとも、
ジェームズたちの動きを察してのことか。
どちらでもいい。
結果、崩す隙は一つもなかった。
屋敷の外に出ないアランは、徐々に伏せりがちになった。
魔力損耗か、身体の虚弱か――
噂は飛び交った。
ジェームズは思った。
このまま死ねばいい。
アランブラックが死ねば、
レギュラスブラックは揺らぐ。
怒り、悲しみ、絶望し、
あのロングボトム夫妻の苦しみの欠片でも味わうだろう。
それでようやく――
ほんの、ほんの少しでも釣り合う。
しかし。
アランブラックは、死ななかった。
しぶとく、儚い花のように、
しかし確実に生き続けた。
それどころか、
屋敷から漏れ聞こえる噂では――
レギュラスは、彼女にかつてないほど優しくしている。
まるで世界中の悪意から守るために
黒曜石で覆うようなやり方で。
気がつけば、ジェームズの拳は机を殴っていた。
「……ふざけるな。
どうしてあのおぞましい男が――
こんなにも“守られた世界”を持っていられる?」
報いなど、一度も受けていない。
ロングボトム夫妻は壊れたまま。
世界は変わらずブラック家を讃える。
そしてアランは、死なない。
――“神はどちらを愛しているのか”。
ジェームズには、
レギュラスブラックが笑っているように思えた。
あの、冷たい灰銀の瞳で。
昼下がりのダイアゴン横町は、春の風が魔法薬の匂いと甘い菓子の香りをはこんでいた。
アランはアルタイルと並んで歩きながら、遠くで手を振る人影を見つけた。
シリウス。
その名を呼ぶ前に、アルタイルの方が早く反応した。
「シリウス!」
弾む声は幼い頃のままで、けれど走り寄る背中はもう少年のそれだった。
アルタイルはその長い足で駆け寄り、勢いのまま抱きついた。
「おおっと……っ」
シリウスは反射で抱き上げようとしたが、半ば腰を押さえながら顔を歪めた。
「……重っ……。おいアルタイル、お前いつの間にこんな重量級になったんだ?」
「もう子どもじゃないんですから!」
「それでも“赤ん坊の頃のイメージ”ってのがなぁ……。つい持ち上げちまう癖が抜けねぇんだよ」
その言葉にアランの胸がきゅっと締めつけられた。
――赤ん坊の頃。
あのとき、この小さな命を守れるのかどうかさえ不安だった。
産めば死ぬのではないかと医務魔法使いたちが警告していたほど、危うい妊娠だった。
そして、この子を育てられる世界を、自分は持っていなかった。
それでも生まれてきた。
こんなにもまっすぐで、こんなにも強い光を宿した少年に。
シリウスの言葉は、過ぎ去った年月の重さと、積み重なった幸せの尊さを、容赦なく胸に染み込ませてきた。
「ほらアルタイル! この杖、なかなかいい木目してるぞ。ブラック家の坊ちゃんにふさわしい高品質!」
「いやいや、こっちの箒だ。スピードは前の型より格段に上がってる。入学初日から注目の的まちがいなし!」
「魔法フクロウはどうする? この子なんか賢そうだぞ。ほら見ろ、目がいい。レギュラスの冷たい目にちょっと似て――おっと悪い悪い」
アランは思わず肩を揺らして笑う。
声としては出ないが、シリウスは昔からアランの“笑う気配”にすぐ気づく。
「お? 今笑っただろ。なぁ、アルタイル。お前の母さん、俺が冗談言うと絶対笑うんだよな」
「父さんはあんまり笑わせてくれませんからね!」
「だろうな! あいつは昔から石像みたいな性格してる!」
少年の無邪気な声と、シリウスの快活な声が、通りに明るく響いた。
アランはその光景を見ながら胸が少し痛む。
――こんな時間を、自分は何度求めただろう。
市場で手を引いてくれた日、氷菓子を買ってくれた日。
シリウスといる時間は、いつも“音に満ちていた”。
誰よりも不器用なほど感情を押し隠すレギュラスとは違い、
シリウスは感情を外にあふれさせて見せてくれた。
その違いが、
自分の人生に二つの色を与えてしまったのだと、今なら分かる。
「母さん、見てください!」
アルタイルが両手で抱えて持ってきたのは、ふわふわと丸いヒナのような姿の魔法動物だった。
栗色の羽に、星屑のような斑点がある小さなフクロウ――まだ幼い声でピィと鳴いた。
あまりに可愛らしくて、アランは思わず息を呑む。
杖を震える指で動かして、文字を描いた。
可愛い子ね。あなたにぴったりだわ
アルタイルは頬を染めて笑った。
その笑顔は、幼いステラに似ていると同時に、どこかシリウスを思わせる快活さが宿っていた。
「でしょ? この子と一緒に学校に行くんです!」
「名前は決めたのか?」とシリウス。
「はい! “ノア”にします」
「……良い名だ」
アランは胸の奥が温かく、そして切なくなるのを感じた。
息子が巣立つ。
こんな日が、本当に来るのだと思っていなかった。
アルタイルが走り回っている間、シリウスがアランの横に並んだ。
肩がほんの少し触れる距離。
「……お前、楽しそうだな」
アランはゆっくりと頷く。
胸の奥に何かが波紋のように広がる。
ありがとう。シリウス。身に余るほどの幸福です。
描いた文字を見て、シリウスは一瞬だけ目を伏せた。
「……そんなこと言われたら、俺はどうしたらいいんだ」
低く、少し震えた声。
アランは気づかないふりをした。
笑ってはいけないのに笑ってしまう。
悲しんではいけないのに胸が痛む。
レギュラスの妻であり、
アルタイルとステラの母である自分は――
もうこの人の隣に立つ未来を持つことはできない。
それでも、この瞬間は確かに幸福で。
だからこそ、残酷なほど切なかった。
夕刻の屋敷はいつもより静かだった。
入口のホールに入ると、アルタイルの嬉しそうな声が弾んでいるのが聞こえた。
新しいローブ、新しい杖、新しい相棒――少年の心を満たす品々が床に並べられ、ひとつひとつ自慢げに母へ披露している。
レギュラスはその光景を眺めながら、胸の奥に生まれた微かな違和感を押し隠すように微笑んだ。
「アルタイル、入学準備が終わったんですね。……母さんと二人で行ったんですか?」
少年は振り返り、満面の笑みで答えた。
「はい、二人です! とっても楽しかったです!」
その言葉に、レギュラスの胸の奥で小さな何かがざわめいた。
――二人で?
ダイアゴン横町の雑踏、複雑な店の並び。
伏せりがちなアランの身体で、あれほど多くの店を回れるものだろうか。
地図を読みながら、全てを歩いて見て回るなど――
どう考えても不自然だった。
アルタイルがローブを畳みに行った隙に、レギュラスはそっとアランへ視線を向ける。
白い頬、静かな微笑み。
伏せた長い睫毛の下で、その瞳は何ひとつ乱れた気配を見せていない。
欺く時の顔ではないか。
胸の内側が、ひどく冷たく揺らいだ。
レギュラスはアランの椅子の横へ歩み寄った。
わざと穏やかな声で問いかける。
「……誰と行ったんです?
疲れたでしょう。人混みは体に良くありませんから」
アランはすぐに杖を取り、滑らかな手つきで空中に文字を描いた。
アルタイルと二人です。歩き疲れてしまいました。
何の曇りもない。
いつも通りのアランの、静かな、優しい文字。
――それが逆におかしい。
何かを隠している時のアランは、いつもほんの少しだけ筆跡が乱れる。
線が揺れる。
小さく、気づかれないようにだが、必ず“痛み”が文字に滲む。
だが今の文字には乱れがなかった。
整いすぎている。
まるで、前もって用意された返答のように。
レギュラスはその瞬間、全てを悟った。
――二人ではなかった。
誰かが一緒にいた。
アランが決して口にしたくない“誰か”が。
胸の奥で、冷たい波が音もなく立ち上がる。
怒りにはまだ至っていない。
これは怒りの手前にある、もっと冷たく、もっと深い感情だ。
疑念。嫉妬。
そして、傷つきたくないという恐怖。
レギュラスはアランの描いた文字を見つめ続けた。
その柔らかい筆跡の奥に、隠された温度を探そうとする。
「……そうですか」
声は静かだった。
だが、静かであるほど、気付かれないほどに、底が深く沈んでいく。
アランは彼を見上げ、微笑んだ。
その微笑みさえ、完璧に整いすぎている。
――これは嘘をついている顔だ。
レギュラスは愛する女の嘘を、誰よりも正確に読み取れる。
その才能を、今ほど呪ったことはない。
彼はアランの頬に触れた。
冷たい手つきではなく、むしろいつもより優しすぎるほどの触れ方で。
「疲れたなら、今日は早く休んでくださいね」
優しさの仮面をかぶりながら、
胸の奥では、別のものがゆっくりと芽を出していた。
――小さな怒り。
アランが外で誰と会ったのか。
誰の影がふたりの背後にあったのか。
何を共有し、何を笑って過ごしたのか。
理解したくない。
知りたくない。
けれど――想像してしまう。
そして、
“なぜ隠したのか”
その一点が、もっとも激しく、鋭く胸を刺した。
父が部屋に入ってきた瞬間、空気の密度が変わった。
理由はわからない。
温度でも、音でもなく――“気配”としか言えないものだった。
いつも通りの歩き方、いつも通りの声。
食卓で話す時の静けさも、姿勢も、表情さえも変わってないように見えるのに。
何かが違った。
その“ほんのわずかの違い”を察してしまう自分に、アルタイルは幼い頃から苦労していた。
父の機嫌はほとんど顔に出ない。
代わりに空気が変わる。影の質が変わる。沈黙の重みが変わる。
今日の父には、その重みがあった。
「……母さんと二人で買い物に行ったんですか?」
父の声は穏やかだった。
むしろ優しい。
けれど優しい時ほど父は“何かを測っている”のだとアルタイルは知っていた。
母はいつものように杖を取り、
ゆっくりと空中に文字を浮かべた。
アルタイルと二人です。歩き疲れてしまいました。
完璧に整った筆跡。
柔らかく、流れるような線。
……おかしい。
アルタイルは一瞬、胸の奥にひやりとしたものを感じた。
母は嘘がうまくない。
いつも、ほんの少しだけ字が震える。
線が細くなる。
角度がわずかにずれる。
でも今の文字には、乱れがなかった。
嘘の文字だ。
アルタイルはそれに気付いてしまった自分が嫌だった。
父にも、気付かれている気がした。
父は母の文字を、長い時間見つめていた。
怒ってはいない。
声を荒げてもいない。
表情すら変えていない。
――けれど沈黙が痛かった。
まるで静かに深いところへ沈んでいくような沈黙。
目の前にいるのに、遠く離れていくような感覚。
アルタイルは思わず息を呑んだ。
父が“傷ついた時”の顔だ。
彼が怒る前には、必ずこういう“沈む時間”がある。
自分にも向けられたことがある静けさだ。
「疲れたなら、今日は早く休んでくださいね」
父は優しい声で言い、
母の頬へそっと手を添えた。
優しい――
優しいのに、その優しさが不自然に見えた。
本来の父の手つきは、もっと自然で、もっと迷いがない。
けれど今の手つきは、
“奪われないように 確かめるように”
触れている手つきだった。
アルタイルは胸が重くなった。
胸の中がざわつく。
父の視線は、アランの頬から手を離したあとも、しばらくアランを見つめていた。
その目は柔らかいのに、どこか冷たかった。
アルタイルははっきりと悟った。
父は、“誰かが一緒だった”ことを気付いている。
うまく説明できないが、
昔からこういう時の父は――
何かを追い詰める前触れのような、
嵐の直前のような空気をまとっていた。
アルタイルはその空気を読むたびに、
“この人は絶対に裏切らないこと”
“この人の信頼を失わないこと”
それだけを強く誓ってきた。
なのに。
母は嘘をついた。
その事実が、家族の真ん中に
ひどく細い裂け目を作っている気がした。
父はアランの肩を抱いて部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、
アルタイルは胸の中の正体のわからない不安を噛みしめた。
何も起きていないのに、
何かが確実に変わり始めている気がする。
――この家が、少しだけ軋んだ音を立てた。
そんな気がしてならなかった。
アランは古い中庭を歩いていた。
冬の終わりの匂いが漂う石畳。
雪解けのせいか、空気がどこか湿って重かった。
その空気を切り裂くように、足音が近づいてくる。
軽く、一定のリズムを刻むハイヒールの音。
「……こんにちは、アラン・ブラック」
振り返らなくても、誰かはわかった。
声に混じる甘いタバコの匂い――忘れたくても忘れられない匂い。
ゆっくりと振り向くと、そこにはセラ・レヴィントンが立っていた。
相変わらず絵のように美しい女。
金髪の髪をゆるく巻き、向かい風を受けても決して乱れない佇まい。
アランは杖を握り、静かに頷いた。
「……無視されないのね。声が出なくても、礼儀は守るのね。あなたらしいわ」
セラは近づいてきた。
人と話す距離ではない。
呼気がかすかに触れるほどの距離。
「あなた、聞きたいことがあるでしょう?
私とレギュラスのこと」
アランは表情を変えないように心を固めた。
変えた瞬間、この女は牙を剥く。
それを本能的に理解していた。
セラは微笑み、指先でアランの髪をすくうように見つめた。
「あなたには……しないのよね。彼、あの“喉元を押さえつける”やつ」
アランの血の気が音を立てて引いていく。
セラは続ける。楽しげだった。
「息が止まりそうになるまで、押し伏せて……
涙が出て、掠れた声で名前を呼ぶまで、離さない」
喉元が焼けるように痛む。
アランはただ、静かに視線を落とした。
動揺を悟らせないために、指先さえ動かさなかった。
「驚かないのね?」とセラ。
アランはゆっくり杖を動かし、短く文字を浮かべる。
知っています。
セラの目が一瞬だけ揺れた。
その揺れがほんの刹那で、また妖艶な笑みに戻った。
「知っていて……まだ、妻を続けているのね。
強い女だわ。普通なら壊れるのに」
アランは胸奥を締め付けられたように感じた。
セラの言う「壊れる」は、アランにとってとうの昔に通った場所だった。
レギュラスは残酷な人だ。
けれど同時に――一度壊したものを、誰より美しく修復しようとする男だ。
支配するように抱き寄せ、
沈黙を破るように触れ、
愛していると言葉ではなく行動で押しつけてくる。
そのすべてが、アランを何度も“死なせては蘇らせた”。
皮肉だった。
この女が満たす“暴力的な部分”を、
アランには与えられないことを――
アラン自身が誰より理解しているなんて。
傷ついた心を最後に癒すのは、
いつだってレギュラスだったのだから。
「ねぇ」
セラはアランの顔を覗き込む。
「あなた、どうして黙っていられるの?
どうして怒らないの?
どうして奪い返そうとしないの?」
――目的が読めない。
アランはそれだけを思った。
この女が何を望んでいるのか。
嫉妬を煽りたいのか、精神を壊したいのか。
それとも、レギュラスの足元を揺らそうとしているのか。
セラの目の奥には、ただ一つだけ確かな熱があった。
「知りたい」という、純粋で冷酷な欲望。
女の直感で理解した。
この女は、アランの反応を観察し、
レギュラスを揺さぶる“材料”にしようとしている。
アランは杖を振り、静かに文字を浮かべる。
あなたの目的は、何ですか。
セラは微笑む。
その笑みは、深い霧のように本心を隠していた。
「さぁ。あなたはどう思う?」
意味のない返答。
けれど、その“意味のなさ”こそが最も危険だった。
セラは踵を返し、去り際に振り向いた。
「また話しましょう、アラン・ブラック。
あなたのその沈黙……すごく気に入ったわ」
夜の帳が降り、寝室の空気は深い静寂に満ちていた。
カーテンの隙間から漏れた月光が床を細く照らし、寝台の上には薄い銀の影が落ちている。
レギュラスが静かに横になる音がした。
ベッドがわずかに沈み、温もりが隣に伝わってくる。
アランは目を閉じたまま、その気配を待つように息を潜める。
「…… アラン」
かすれた囁き。
次の瞬間、頬に触れた指は驚くほど優しく、まるで壊れ物を扱うようだった。
指先の温度がじんわりと皮膚に染み込む。
そうして、そっと唇が重ねられた。
触れ方一つで胸の奥が揺れる。
視界が滲むほど愛しく、同時に、酷く苦しい。
――どうしてこんなにも優しいのだろう。
レギュラスの触れ方は、いつもそうだった。
丁寧で、静かで、柔らかくて。
まるでアランという存在そのものを祈るように、大事に大事に扱ってくれる。
だからこそ、胸が裂けそうになる。
暴力的な面なんて、一度も見せられたことがない。
セラが言った“彼の好む行為”――
あの、喉元を押さえつける力強い仕草。
息が止まるほどの強さで支配し、追い詰め、泣き声を搾りとるようなもの。
レギュラスはアランに、それをしたことがない。
まるで、アランだけは壊してはいけないものだとでもいうように。
アランはゆっくり目を開いた。
目の前には月光に照らされたレギュラスの横顔がある。
長いまつ毛の下に落ちる影が、どこか寂しげで美しい。
この人は何度もアランの心を壊した。
そして、壊すたびに……誰より優しく治してくれた。
抱いて、抱きしめて、
頬を撫でて、髪をすくって、
沈黙の奥深くにまで寄り添って、
キスというキスで心を縫い合わせてくれた。
――壊したのはあなた。
――治したのもあなた。
その繰り返しの中で、アランは生きてきた。
だから思う。
壊れても、きっとまたあなたが治せる。
ならば、いっそ恐れず壊してしまえばいいのに――。
この衝動は狂気ではなく、祈りに近かった。
アランの胸の奥で、冷たい波が音を立てる。
セラが言ったこと。
暴露した“彼の激しさ”。
そのすべてが、アランの心を針のように刺した。
彼はその一面を、アランには決して見せない。
優しい夫としての顔だけを向ける。
それが、どうしようもなく残酷だった。
本当に自分には与えられないものなのか。
それを確かめるには、体験してみないとわからない。
セラを真似ようと思った。
声質を、仕草を、呼び方を――
だが、すぐに無理だと思い知る。
自分には声がない。
セラのように甘く掠れた声を出すことはできない。
どれほど上手く形を真似ても、決定的に欠けている。
アランの胸に、静かな絶望が落ちる。
レギュラスがアランの手を握った。
柔らかい掌の温度が、つめたい心を包むように広がる。
「眠れますか?」
アランは頷き、レギュラスの胸元に顔を寄せた。
彼の心臓の音が、規則正しく耳に響く。
その音に、何度救われたことだろう。
壊すことを望んでしまった自分がとても醜く感じられた。
けれど――それでも。
この人に壊され、この人に治されるならば。
その果てにしか存在しない愛がある気がした。
アランは静かに目を閉じた。
レギュラスの手がアランの背中を滑り、
また優しい口付けが額に落ちる。
この優しさで。
この触れ方で。
自分だけを満たそうとしてくれるこの時間で。
セラがもたらした“揺れ”を、すべてなかったことにできてしまう。
そのこと自体が、どこか悲しく、どこか幸福だった。
アランが自分の手を掴んだとき、レギュラスはただ戸惑っていた。
だがその手が自らの喉元へ導かれた瞬間、
胸の奥で何かが軋むような音がした。
まるで――
「さあ、あなたが欲したものを私にしていい」と
差し出すような、そんな静かな意志の宿った仕草。
その意味に気づいたのは、ほんの一瞬後だった。
……セラだ。
あの女が、またアランに接触したのだ。
自分が知らないところで。
そして――
自分がセラにしたことを、アランに話した。
アランには決して見せたことのない、
むしろ見せるべきではなかった、
本能の奥底に沈んだ獣じみた衝動。
暴力とも呼べる強さで喉を掴む行為。
あれはセラが求めるから応じただけで、
アランには――
アランだけは絶対に触れさせてはならない部分だった。
その行為を
“愛し合うためのもの”だと誤解させるようなことは、
絶対あってはならなかった。
なのに。
アランは今、
薄い寝間着の襟元からのぞく白い喉を、
自らの手にそっと押し当てている。
それを見た瞬間、
レギュラスの全身に冷たい震えが走った。
「…… アラン」
声が震え、喉が詰まった。
その温度があまりにも無防備だったから。
アランは静かに、
ただ静かにこちらを見つめていた。
翡翠の瞳の奥に、怖がる色も、迷う影もなく。
――私は壊れない。
――あなたの欲を拒まない。
――あなたを満たせる。
その意志が、何も言わずとも伝わってきた。
だが、レギュラスは息さえできなかった。
アランの喉元は、
自分が今まで壊れてしまうほど愛して、
守って、抱き締めてきた場所だ。
そこに向かって、
過去にセラにしたのと同じ強さで触れろと……?
想像しただけで、
胸の内側で何かが悲鳴をあげた。
「…… アラン、これは……違います」
拒むように言ったつもりが、
声はひどく掠れていた。
説得というより、必死の懇願に近い。
アランはそっと首をかしげる。
何を怖れているの?
どうして触れないの?
“あなたがしたいことをして”と言っているのに。
そんな静かな問いが瞳に宿っていた。
レギュラスの理性が
ふっと軋みを上げながら揺らいだ。
触れたい。
抱きしめたい。
自分のものだと刻みつけたい。
その衝動は確かにある。
何年アランを愛し、何度抱き、
何度この温度に救われたか数え切れない。
なのに。
喉元に触れたままの自分の指先が、
かすかに震えている。
その震えは、欲ではなく――
恐怖だった。
もしも力加減を誤ったら。
もしもアランが痛みに顔を歪めたら。
もしもアランの中で何かが再び壊れてしまったら。
そんな未来を思うだけで、
理性が瓦解していくようだった。
「アラン……あなたに、こんなこと……」
身体が勝手にアランを抱き寄せた。
喉から手を離し、肩を抱きしめるようにして胸に引き寄せる。
押し倒した姿勢のまま、
彼女を自分の影の中に閉じ込めるように。
アランの体温が胸に伝わる。
細い腕が、ためらいがちにレギュラスの背に回った。
その仕草が、
逆に胸を締め付けた。
アランは、
“自分が壊れてもレギュラスが治せる”
そう信じているのだ。
あまりにも重く、
あまりにも狂おしい信頼。
「アラン……僕は……あなたには……」
自分でも言葉が見つからなかった。
愛している。
抱きしめたい。
欲している。
全部ある。
それでも――
「……同じことは、できません。
あなたに……だけは」
その言葉は苦しげで、
どこか泣きそうですらあった。
アランがあまりにも愛しく、
あまりにも壊れやすく、
そして――あまりにも強く差し出してくるから。
レギュラスの理性は、
触れたい衝動と、壊したくない恐怖の狭間で
静かに泣き叫んでいた。
アランの喉元から自分の手をようやく離したあと、
レギュラスはしばらくその場に固まっていた。
腕の中で静かに呼吸するアランの体温だけが、
現実に自分を繋ぎ止めていた。
怖かった。本当に。
あんな差し出され方をされたら、
心のどこかに潜んでいた暗い衝動が、
呼び起こされてしまいそうで。
セラと重ねた夜の記憶が、
まるで毒のように脳裏をかすめるたびに、
吐き気がするほど自分が嫌になった。
その影を、
アランにだけは絶対に触れさせてはいけない。
そうずっと思い続けてきた。
なのに――
アランは迷いも恐れもなく、
その影に触れようと手を伸ばしてきた。
その事実が胸の奥に深く沈み込んで、
レギュラスの心は軋んだまま戻らなくなっていた。
どうして。
どうしてあんなことができるのだ。
「…… アラン」
震える声で名を呼び、
レギュラスはそっと彼女の肩に額を預けた。
アランの細い腕が、不思議なほど優しく、
ためらいながらも背中に添えられる。
その柔らかい温もりが、
レギュラスの胸をさらに締めつけた。
そのまま、
ゆっくりアランの体を寝台に押し戻し、
覆いかぶさるように抱き寄せる。
いつものようにではない。
欲を求めてではなく、
愛を確かめるためでもなく、
ただ――
祈るように。
縋るように。
壊れそうな心をどうにかつなぎ止めるために。
アランは声を持たない。
けれどその瞳が何度も何度も、
「ここにいる」と語りかけてくる。
その瞳が痛かった。
「アラン……あなたは……」
言葉の続きを、どうしても紡げなかった。
“強すぎる”と告げてしまえば、
彼女はまた自分の強さを証明しようとしてしまうだろう。
“怖い”と正直に言えば、
彼女は自分のせいだと傷ついてしまう。
だから、何も言えなかった。
ただ抱き締めた。
胸に引き寄せ、髪を撫で、唇を額に押し当て、
アランの名前を何度も心の中で呼び続けた。
アランは静かに目を閉じた。
まるでレギュラスの震えを受け止めるように。
触れられている部分すべてで、
「大丈夫です」と伝えているように。
その優しさが、また苦しかった。
どれほど抱きしめても、
この想いの複雑さは消えてくれない。
セラの影がアランに触れた。
そしてその影は、自分にも触れた。
彼女の喉元に触れた手の感触が、
まだ自分の掌に残っている。
消えない。
消したいと願うほど、
皮膚の奥に染み込んで抜けない。
だからレギュラスは、
まるで儀式を繰り返すように、
何度もアランへ触れた。
頬へ、額へ、指先へ、胸へ。
優しさだけで触れ続けた。
セラから学んでしまった“強い触れ方”ではなく、
アランがずっと求めてきた、
あの静かな愛だけで。
「……もう、あの女には会いません」
アランが眠る気配に包まれた寝室で、
レギュラスは誰にも聞こえない声で呟いた。
本当に、決めたのだ。
もう終わりにしなければならない。
切るに切れず、ただ流されてきた関係。
惰性で、欲望で、孤独で、何となく続けた歪な夜。
どんな理由をつけても、
その全部がアランを刺してしまう。
あの日のように、
アランが自分の喉へ手を導く姿など――
二度と見たくない。
そんな世界は耐えられない。
レギュラスは眠るアランの髪を掬い、
額に長く長く口付けた。
この夜、
彼は初めて本気で、
セラと決別しようと心に誓った。
祈るように、
縋るように、
アランを抱きしめながら。
セラと決別すると決めてから、
レギュラスの胸の奥に長いあいだ絡みついていた黒い霧のようなものが、
少しずつ薄れていくのを感じていた。
まだセラとは直接の別れ話をしていない。
だが、それでも――
決意というものは、確かに心の形を変えるのだと知った。
喉の奥につかえていた何かが取れて、
胸を占めていた重石のような負担がふっと軽くなる。
息が深く吸えるようになり、視界が澄んでいく。
そして、驚くほど自然に気づいた。
――自分はずっと、アランを避けていたのだ、と。
罪悪感があったから。
重ねるたびに心のどこかが痛むから。
アランの静かな瞳が、
自分がセラで満たしてきた獣の部分を鏡に映すようで怖かった。
けれど、今は違う。
セラとの影を断つと決めただけで、
アランに向ける視線も、触れ方も、
不思議なほど澄み渡っていった。
これまでセラに逃がしていた欲も、
アランの前ではどう扱えばいいかわからず濁っていた衝動も、
ただ正直に、
遠慮なく、アランにぶつけていいものだと思えるようになった。
すると、驚くほど優しい形に変わった。
セラとのように激しく燃え上がるわけではない。
身体の奥に火をつけ、貪り合うような衝動ではない。
アランとは――
静かに満ちていく。
ゆっくりと灯り続ける月のように。
そんな愛の形だった。
ある夜、レギュラスは法務部の書類で遅くなった。
アランは寝室のランプの下で、
半分まどろみながらも帰りを待ってくれていた。
「…… アラン」
名を呼んで抱き寄せれば、
アランは目を細めながら、眠たげにレギュラスを迎えた。
そして、軽く頷く。
その、
“眠たいのに応えようとする仕草”――
初めて見る一面だった。
レギュラスは胸が詰まるほど愛しくなった。
アランは決して声をあげないけれど、
熱に揺れながら腕を伸ばし、
求められれば求められた分だけ返してくる。
触れれば触れるほど、
穏やかで深い波のように心が満たされていく。
セラとの情事では得たことのない感覚だった。
渇きが満たされるのではなく、
心がゆっくり満ちていく――そんな充足。
別の夜。
アランは本当に限界だったのだろう。
レギュラスがそっと腕を伸ばして腰に手を添えると、
アランは寝台の上でふらりと身を起こし、
寝ぼけた顔のまま杖を取り――
『今日は寝るわ!』
と、
ベッドの上に大きな文字を描いた。
そのまま、
ふいっと反対側に向き直り、
毛布を引き寄せて潜り込む。
あまりにも可愛くて、
レギュラスは笑うしかなかった。
後頭部しか見えないアランの背に、
そっと手を添えて囁く。
「……わかりました。おやすみなさい、アラン」
返事はもちろんない。
だが、毛布の中で小さく動いた肩が、
それだけで十分だった。
セラという影を切ろうと決めただけで、
アランの見せてくる色がこんなにも違うのかと驚いた。
眠たげにまどろむ顔。
甘えるように縋ってくる顔。
拒むでもなく応えるでもなく、
ただ静かに受け止める顔。
少しわがままを言うような顔。
そして――
時折ふわりと笑ってみせる、
柔らかくて小さな笑み。
どれも知らなかった。
どれも、見ようとしてこなかった。
セラの影が消えていくたびに、
アランの新しい色がひとつずつ増えていった。
激しい快楽とは違う。
即物的な満足とも違う。
アランに触れる夜は、
静かに、じんわりと胸の奥が満ちていき、
呼吸までもが温かくなるような――
そんな幸福だった。
セラとは断ち切らなければならない。
そう強く思えば思うほど、
アランとの夜が澄んでいく。
何年かけても埋まらなかった影が、
少しずつ払い落ちていくように。
レギュラスは横になったアランの細い手を握り、
そっと額に唇を寄せた。
この愛を守りたい――
そう初めて、心から思えた。
レギュラスブラックが帰宅する時間は、
気づけばほんの少しずつ早くなっていた。
以前は夕食を取るか取らないかもわからないまま、
深夜に戻ってくることだって多かったのに。
最近では屋敷の扉が閉まる音が、
夕暮れの色の残るうちに響くこともある。
そして食卓に姿を見せるのも昔より増えた。
ただし、それでも長居はしない。
アランの隣で少しだけ食事を取ると、
レギュラスは「先に失礼します」と静かに席を立ち、
そのまま寝室へ向かってしまう。
――寝室へ。
メイラはその意図が、
大人として“なんとなく”理解できた。
ここで働くようになって十年以上、
屋敷の夫婦事情や男女の話を耳にすることはほとんどなかった。
興味を持つことも恐れ多くて、
そういう話題を知る必要すらなかった。
それでも、女として。
そしてアランの隣に仕えてきた者として。
最近、はっきりと感じることがあった。
アランの着替えを手伝う時。
長い髪をまとめて湯浴みの支度をする時。
ふとした拍子に、
胸元に淡く広がる指の跡のようなあざを見つけることがあった。
白い肩口に残る、消えかけた赤み。
大腿の付け根にそっと染まった微かな痕。
どれも痛々しいほど深いものではない。
けれど――
あれは、触れられた痕だ。
その痕の奥には、
レギュラスブラックという男の“形”が
確かに存在しているように感じられた。
そして、それだけではない。
アランの肌には、
説明できないほど柔らかな光沢が宿っている時がある。
ほんのりと薔薇の香油と混じる匂いの奥に、
もうひとつ淡く残る、
レギュラスの匂いがした。
それは何も直接的な香水のようなものではなく、
もっと静かで、もっと個人的で、
“ふたりの時間のあと”にしか残らない、
そんな気配だった。
メイラは頬が一気に熱くなるのを抑えられなかった。
アランが湯から上がったあと、
髪を拭き、ナイトドレスを着せる。
その指先の下で、
アランの身体からふわりと甘い熱が立ちのぼる瞬間がある。
それは恥じらいなどを超えて――
ああ、愛されているんだ。
この人は、ちゃんと愛されているんだ。
そんな実感を、
肌越しに教えてくれるようだった。
その事実に触れるたびに、
胸が不思議と温かくなる。
アランはあれほど優しいのに。
声を持たず、痛みも苦しみも、
幸せですら言葉にすることができないのに。
それでも“愛されている”とわかれば、
その沈黙がどうしようもなく尊く思えた。
ずっと見守ってきたメイラとしては、
どこか泣きたいような気持ちで、
しかし幸せで胸がいっぱいになる。
以前は、
アランの背中にはどこか陰りがあった。
抱えきれないほどの痛みを、
声もなく堪えている背中だった。
けれど最近は、
ほんの少しだけ明るさがあるように見える。
レギュラスが戻る気配を感じれば、
アランの頬はわずかに緩む。
レギュラス様が去ったあとの寝室は、
柔らかく温まっている。
その全てが、
ふたりの絆が静かに深まっている証だった。
メイラは廊下の灯りをひとつ消しながら、
胸の奥でそっと祈っていた。
どうか、この夫婦が壊れませんように。
どうか、アランの沈黙が報われ続けますように。
どうか、レギュラスの愛が、
この温かさのまま続きますように。
自分がそばにいる意味があるのなら、
それは――
アランの幸福を少しでも支えられること。
ただそれだけでよかった。
ふたりの“愛の痕跡”を目にするたび、
メイラの心には静かな幸福が満ちていった
煌々と照らすシャンデリアではなく、
壁に等間隔に灯された魔法燭台の柔らかな橙が、
長いテーブルの端に並んだ二人だけの影を静かに揺らしている。
レギュラスは細い脚のクリスタルグラスを指先で支え、
深い赤のワインをゆっくりと口へ運んだ。
香りは複雑で、少し甘く、どこか土の匂いが残る。
味わうというより、夜の静寂を繋ぎ止めるための一口だった。
その隣に―― アランが静かに座っている。
アランは以前より伏せりがちで、
頬にもかつてのふっくらとした温かみがわずかに減っている。
それでも、ランプの灯りに揺れる翡翠の瞳は
変わらず美しく、深く、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細だった。
彼女は杖を持ち、少し迷うように、ためらうように指を動かし――
淡く文字を浮かび上がらせた。
「最近はこうして飲むのが多いのね」
レギュラスはグラスを置き、微笑む。
乾いた唇にほんの少し赤い跡が残っていた。
「こうしていると起きていられるんです。
あなたと……もう少し話していられますから」
アランの睫毛が揺れる。
その揺れは、声を持たない彼女が見せる“頷き”の代わり。
胸に何か小さな温もりが差し込むような、静かな反応だった。
寝室へ移動してしまえば、アランはすぐに眠ってしまう。
彼女の体力は出産以降、完全には戻りきっていない。
それをレギュラスは理解していたし、
自分の欲を優先させるなど到底できるはずもない。
だからこそ――
この“寝室に入る前の短い時間”を、
彼は何よりも大切にするようになっていた。
沈黙が降りる。
だが、それは重たいものではなかった。
二人の間に漂うのは、長年寄り添った夫婦だけが作れる
柔らかく深い静寂だった。
レギュラスは自然な仕草で、アランの手を取った。
大きくも荒くもない。
ただ、彼女の指の形を一つひとつ確かめるような触れ方。
アランは驚いたように目を瞬き、
そのあと、ほんの弱い力で握り返す。
それだけで胸が温かく痺れた。
レギュラスは近くに寄り、
アランの髪をそっと掬い上げた。
淡く波打つ黒髪は相変わらず光を吸い込むようで、
指先に触れるたび切なさが込み上げる。
次に頬へ――
親指でゆっくりとなぞる。
言葉はなくとも、
彼女が“そこにいる”という証そのものを確かめるような仕草。
アランは目を伏せ、
その頬に触れる指に自ら寄り添った。
そのわずかな動きさえ、
レギュラスの胸を深く揺らす。
言葉ではなく、
触れ合いでしか分かり合えない時間がある。
レギュラスはアランの額にそっと口付けた。
軽く、慎重に、
壊してしまわないように触れる羽のようなキスだった。
アランの肩が小さく震える。
それは拒絶ではなく、
受け入れ、安堵し、溶けるような震え。
“行為”は少なくなった。
アランの身体がまだ完全ではないから。
けれど――
こうして寄り添う時間は
かつてよりも深く、
かつてよりも温かく、
何よりもかけがえのないものになっていた。
話すことは多くない。
話さなくてもよくなったのだ。
二人の指先だけで、
触れ合う唇だけで、
十分すぎるほど語り合える。
ワインの赤が、グラスの底で揺れるたび、
その静かな時間を閉じ込めるように夜が深まっていく。
レギュラスはアランの手を、そっともう一度握った。
「……もう少し、ここにいましょう」
アランはゆっくりと頷く。
翡翠の瞳が夜の灯りを映し、優しく瞬いた。
言葉よりも確かな愛が、
食卓の端で静かに息づいていた。
アラン・ブラックを攻撃してやろう。
そう胸に決めてから――気づけば、十年が経っていた。
ジェームズはその年月の重みを、
古い革張りの椅子の軋みが告げるように感じていた。
書類の山、散らばる新聞。
そこには“ブラック家後継誕生”から“ステラのボグワーツ入学”、
そして“アルタイルブラックの驚異的な才能”まで、
魔法界の繁栄と純血の象徴として讃えられる記事ばかりが並ぶ。
――反吐が出る。
ロングボトム夫妻が今なお“壊れたまま”であるというのに。
あれから、ジェームズは一度たりとも
レギュラスブラックを許そうと思ったことはなかった。
許せるわけがない。
何度も夜、怒りで目が冴え、
シリウスを心配させぬよう裏で怒りを隠してきた。
あの“ロングボトム返還”の日に目に焼きついた惨状は、
時間では薄れなかった。
アランを引き剥がし、破壊し、
レギュラスに心底の苦悩と喪失を味わわせるために
セラ・レヴィントンほど利用価値のある駒はいなかった。
彼女がレギュラスを揺らせば、
アランは屋敷から締め出される可能性があった。
それが“隙”になる。
ジェームズは密かに彼女と接触し、
何年もかけて機会を探りに探った。
セラは狡猾で、人の弱みを引きずり出す天才だった。
彼女が動けばレギュラスの心は確実に揺らぐ――
はずだった。
しかし。
レギュラスブラックは何を察したのか。
いや、“嗅ぎつけた”と呼ぶべきか。
ある日を境に、突然――変わった。
屋敷の魔力結界は何重にも強化され、
アランブラックは外出をぱたりとやめた。
闇の帝王の時代に使われていた「魔力遮断の迷宮紋」までが
ブラック家の敷地に施された噂まである。
セラとの逢瀬も、ぱたりと減った。
ほとんど“会わない”と言っていいほどに。
まるで、
アランだけは絶対に傷つけさせない
と決めたかのように。
ジェームズは歯を噛みしめる。
「……何をどこまで読んでるんだ、あの男は」
最初から十手先を読むような男だった。
騎士団の作戦も、世論の動きも、
法務部の裏事情も、
ジェームズたちの苛立ちすら――
まるで見透かしているかのようだった。
セラを距離に置いたのも、
アランを屋敷から出さなくしたのも、
アランを“守る”ためなのか、
それとも、
ジェームズたちの動きを察してのことか。
どちらでもいい。
結果、崩す隙は一つもなかった。
屋敷の外に出ないアランは、徐々に伏せりがちになった。
魔力損耗か、身体の虚弱か――
噂は飛び交った。
ジェームズは思った。
このまま死ねばいい。
アランブラックが死ねば、
レギュラスブラックは揺らぐ。
怒り、悲しみ、絶望し、
あのロングボトム夫妻の苦しみの欠片でも味わうだろう。
それでようやく――
ほんの、ほんの少しでも釣り合う。
しかし。
アランブラックは、死ななかった。
しぶとく、儚い花のように、
しかし確実に生き続けた。
それどころか、
屋敷から漏れ聞こえる噂では――
レギュラスは、彼女にかつてないほど優しくしている。
まるで世界中の悪意から守るために
黒曜石で覆うようなやり方で。
気がつけば、ジェームズの拳は机を殴っていた。
「……ふざけるな。
どうしてあのおぞましい男が――
こんなにも“守られた世界”を持っていられる?」
報いなど、一度も受けていない。
ロングボトム夫妻は壊れたまま。
世界は変わらずブラック家を讃える。
そしてアランは、死なない。
――“神はどちらを愛しているのか”。
ジェームズには、
レギュラスブラックが笑っているように思えた。
あの、冷たい灰銀の瞳で。
昼下がりのダイアゴン横町は、春の風が魔法薬の匂いと甘い菓子の香りをはこんでいた。
アランはアルタイルと並んで歩きながら、遠くで手を振る人影を見つけた。
シリウス。
その名を呼ぶ前に、アルタイルの方が早く反応した。
「シリウス!」
弾む声は幼い頃のままで、けれど走り寄る背中はもう少年のそれだった。
アルタイルはその長い足で駆け寄り、勢いのまま抱きついた。
「おおっと……っ」
シリウスは反射で抱き上げようとしたが、半ば腰を押さえながら顔を歪めた。
「……重っ……。おいアルタイル、お前いつの間にこんな重量級になったんだ?」
「もう子どもじゃないんですから!」
「それでも“赤ん坊の頃のイメージ”ってのがなぁ……。つい持ち上げちまう癖が抜けねぇんだよ」
その言葉にアランの胸がきゅっと締めつけられた。
――赤ん坊の頃。
あのとき、この小さな命を守れるのかどうかさえ不安だった。
産めば死ぬのではないかと医務魔法使いたちが警告していたほど、危うい妊娠だった。
そして、この子を育てられる世界を、自分は持っていなかった。
それでも生まれてきた。
こんなにもまっすぐで、こんなにも強い光を宿した少年に。
シリウスの言葉は、過ぎ去った年月の重さと、積み重なった幸せの尊さを、容赦なく胸に染み込ませてきた。
「ほらアルタイル! この杖、なかなかいい木目してるぞ。ブラック家の坊ちゃんにふさわしい高品質!」
「いやいや、こっちの箒だ。スピードは前の型より格段に上がってる。入学初日から注目の的まちがいなし!」
「魔法フクロウはどうする? この子なんか賢そうだぞ。ほら見ろ、目がいい。レギュラスの冷たい目にちょっと似て――おっと悪い悪い」
アランは思わず肩を揺らして笑う。
声としては出ないが、シリウスは昔からアランの“笑う気配”にすぐ気づく。
「お? 今笑っただろ。なぁ、アルタイル。お前の母さん、俺が冗談言うと絶対笑うんだよな」
「父さんはあんまり笑わせてくれませんからね!」
「だろうな! あいつは昔から石像みたいな性格してる!」
少年の無邪気な声と、シリウスの快活な声が、通りに明るく響いた。
アランはその光景を見ながら胸が少し痛む。
――こんな時間を、自分は何度求めただろう。
市場で手を引いてくれた日、氷菓子を買ってくれた日。
シリウスといる時間は、いつも“音に満ちていた”。
誰よりも不器用なほど感情を押し隠すレギュラスとは違い、
シリウスは感情を外にあふれさせて見せてくれた。
その違いが、
自分の人生に二つの色を与えてしまったのだと、今なら分かる。
「母さん、見てください!」
アルタイルが両手で抱えて持ってきたのは、ふわふわと丸いヒナのような姿の魔法動物だった。
栗色の羽に、星屑のような斑点がある小さなフクロウ――まだ幼い声でピィと鳴いた。
あまりに可愛らしくて、アランは思わず息を呑む。
杖を震える指で動かして、文字を描いた。
可愛い子ね。あなたにぴったりだわ
アルタイルは頬を染めて笑った。
その笑顔は、幼いステラに似ていると同時に、どこかシリウスを思わせる快活さが宿っていた。
「でしょ? この子と一緒に学校に行くんです!」
「名前は決めたのか?」とシリウス。
「はい! “ノア”にします」
「……良い名だ」
アランは胸の奥が温かく、そして切なくなるのを感じた。
息子が巣立つ。
こんな日が、本当に来るのだと思っていなかった。
アルタイルが走り回っている間、シリウスがアランの横に並んだ。
肩がほんの少し触れる距離。
「……お前、楽しそうだな」
アランはゆっくりと頷く。
胸の奥に何かが波紋のように広がる。
ありがとう。シリウス。身に余るほどの幸福です。
描いた文字を見て、シリウスは一瞬だけ目を伏せた。
「……そんなこと言われたら、俺はどうしたらいいんだ」
低く、少し震えた声。
アランは気づかないふりをした。
笑ってはいけないのに笑ってしまう。
悲しんではいけないのに胸が痛む。
レギュラスの妻であり、
アルタイルとステラの母である自分は――
もうこの人の隣に立つ未来を持つことはできない。
それでも、この瞬間は確かに幸福で。
だからこそ、残酷なほど切なかった。
夕刻の屋敷はいつもより静かだった。
入口のホールに入ると、アルタイルの嬉しそうな声が弾んでいるのが聞こえた。
新しいローブ、新しい杖、新しい相棒――少年の心を満たす品々が床に並べられ、ひとつひとつ自慢げに母へ披露している。
レギュラスはその光景を眺めながら、胸の奥に生まれた微かな違和感を押し隠すように微笑んだ。
「アルタイル、入学準備が終わったんですね。……母さんと二人で行ったんですか?」
少年は振り返り、満面の笑みで答えた。
「はい、二人です! とっても楽しかったです!」
その言葉に、レギュラスの胸の奥で小さな何かがざわめいた。
――二人で?
ダイアゴン横町の雑踏、複雑な店の並び。
伏せりがちなアランの身体で、あれほど多くの店を回れるものだろうか。
地図を読みながら、全てを歩いて見て回るなど――
どう考えても不自然だった。
アルタイルがローブを畳みに行った隙に、レギュラスはそっとアランへ視線を向ける。
白い頬、静かな微笑み。
伏せた長い睫毛の下で、その瞳は何ひとつ乱れた気配を見せていない。
欺く時の顔ではないか。
胸の内側が、ひどく冷たく揺らいだ。
レギュラスはアランの椅子の横へ歩み寄った。
わざと穏やかな声で問いかける。
「……誰と行ったんです?
疲れたでしょう。人混みは体に良くありませんから」
アランはすぐに杖を取り、滑らかな手つきで空中に文字を描いた。
アルタイルと二人です。歩き疲れてしまいました。
何の曇りもない。
いつも通りのアランの、静かな、優しい文字。
――それが逆におかしい。
何かを隠している時のアランは、いつもほんの少しだけ筆跡が乱れる。
線が揺れる。
小さく、気づかれないようにだが、必ず“痛み”が文字に滲む。
だが今の文字には乱れがなかった。
整いすぎている。
まるで、前もって用意された返答のように。
レギュラスはその瞬間、全てを悟った。
――二人ではなかった。
誰かが一緒にいた。
アランが決して口にしたくない“誰か”が。
胸の奥で、冷たい波が音もなく立ち上がる。
怒りにはまだ至っていない。
これは怒りの手前にある、もっと冷たく、もっと深い感情だ。
疑念。嫉妬。
そして、傷つきたくないという恐怖。
レギュラスはアランの描いた文字を見つめ続けた。
その柔らかい筆跡の奥に、隠された温度を探そうとする。
「……そうですか」
声は静かだった。
だが、静かであるほど、気付かれないほどに、底が深く沈んでいく。
アランは彼を見上げ、微笑んだ。
その微笑みさえ、完璧に整いすぎている。
――これは嘘をついている顔だ。
レギュラスは愛する女の嘘を、誰よりも正確に読み取れる。
その才能を、今ほど呪ったことはない。
彼はアランの頬に触れた。
冷たい手つきではなく、むしろいつもより優しすぎるほどの触れ方で。
「疲れたなら、今日は早く休んでくださいね」
優しさの仮面をかぶりながら、
胸の奥では、別のものがゆっくりと芽を出していた。
――小さな怒り。
アランが外で誰と会ったのか。
誰の影がふたりの背後にあったのか。
何を共有し、何を笑って過ごしたのか。
理解したくない。
知りたくない。
けれど――想像してしまう。
そして、
“なぜ隠したのか”
その一点が、もっとも激しく、鋭く胸を刺した。
父が部屋に入ってきた瞬間、空気の密度が変わった。
理由はわからない。
温度でも、音でもなく――“気配”としか言えないものだった。
いつも通りの歩き方、いつも通りの声。
食卓で話す時の静けさも、姿勢も、表情さえも変わってないように見えるのに。
何かが違った。
その“ほんのわずかの違い”を察してしまう自分に、アルタイルは幼い頃から苦労していた。
父の機嫌はほとんど顔に出ない。
代わりに空気が変わる。影の質が変わる。沈黙の重みが変わる。
今日の父には、その重みがあった。
「……母さんと二人で買い物に行ったんですか?」
父の声は穏やかだった。
むしろ優しい。
けれど優しい時ほど父は“何かを測っている”のだとアルタイルは知っていた。
母はいつものように杖を取り、
ゆっくりと空中に文字を浮かべた。
アルタイルと二人です。歩き疲れてしまいました。
完璧に整った筆跡。
柔らかく、流れるような線。
……おかしい。
アルタイルは一瞬、胸の奥にひやりとしたものを感じた。
母は嘘がうまくない。
いつも、ほんの少しだけ字が震える。
線が細くなる。
角度がわずかにずれる。
でも今の文字には、乱れがなかった。
嘘の文字だ。
アルタイルはそれに気付いてしまった自分が嫌だった。
父にも、気付かれている気がした。
父は母の文字を、長い時間見つめていた。
怒ってはいない。
声を荒げてもいない。
表情すら変えていない。
――けれど沈黙が痛かった。
まるで静かに深いところへ沈んでいくような沈黙。
目の前にいるのに、遠く離れていくような感覚。
アルタイルは思わず息を呑んだ。
父が“傷ついた時”の顔だ。
彼が怒る前には、必ずこういう“沈む時間”がある。
自分にも向けられたことがある静けさだ。
「疲れたなら、今日は早く休んでくださいね」
父は優しい声で言い、
母の頬へそっと手を添えた。
優しい――
優しいのに、その優しさが不自然に見えた。
本来の父の手つきは、もっと自然で、もっと迷いがない。
けれど今の手つきは、
“奪われないように 確かめるように”
触れている手つきだった。
アルタイルは胸が重くなった。
胸の中がざわつく。
父の視線は、アランの頬から手を離したあとも、しばらくアランを見つめていた。
その目は柔らかいのに、どこか冷たかった。
アルタイルははっきりと悟った。
父は、“誰かが一緒だった”ことを気付いている。
うまく説明できないが、
昔からこういう時の父は――
何かを追い詰める前触れのような、
嵐の直前のような空気をまとっていた。
アルタイルはその空気を読むたびに、
“この人は絶対に裏切らないこと”
“この人の信頼を失わないこと”
それだけを強く誓ってきた。
なのに。
母は嘘をついた。
その事実が、家族の真ん中に
ひどく細い裂け目を作っている気がした。
父はアランの肩を抱いて部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、
アルタイルは胸の中の正体のわからない不安を噛みしめた。
何も起きていないのに、
何かが確実に変わり始めている気がする。
――この家が、少しだけ軋んだ音を立てた。
そんな気がしてならなかった。
アランは古い中庭を歩いていた。
冬の終わりの匂いが漂う石畳。
雪解けのせいか、空気がどこか湿って重かった。
その空気を切り裂くように、足音が近づいてくる。
軽く、一定のリズムを刻むハイヒールの音。
「……こんにちは、アラン・ブラック」
振り返らなくても、誰かはわかった。
声に混じる甘いタバコの匂い――忘れたくても忘れられない匂い。
ゆっくりと振り向くと、そこにはセラ・レヴィントンが立っていた。
相変わらず絵のように美しい女。
金髪の髪をゆるく巻き、向かい風を受けても決して乱れない佇まい。
アランは杖を握り、静かに頷いた。
「……無視されないのね。声が出なくても、礼儀は守るのね。あなたらしいわ」
セラは近づいてきた。
人と話す距離ではない。
呼気がかすかに触れるほどの距離。
「あなた、聞きたいことがあるでしょう?
私とレギュラスのこと」
アランは表情を変えないように心を固めた。
変えた瞬間、この女は牙を剥く。
それを本能的に理解していた。
セラは微笑み、指先でアランの髪をすくうように見つめた。
「あなたには……しないのよね。彼、あの“喉元を押さえつける”やつ」
アランの血の気が音を立てて引いていく。
セラは続ける。楽しげだった。
「息が止まりそうになるまで、押し伏せて……
涙が出て、掠れた声で名前を呼ぶまで、離さない」
喉元が焼けるように痛む。
アランはただ、静かに視線を落とした。
動揺を悟らせないために、指先さえ動かさなかった。
「驚かないのね?」とセラ。
アランはゆっくり杖を動かし、短く文字を浮かべる。
知っています。
セラの目が一瞬だけ揺れた。
その揺れがほんの刹那で、また妖艶な笑みに戻った。
「知っていて……まだ、妻を続けているのね。
強い女だわ。普通なら壊れるのに」
アランは胸奥を締め付けられたように感じた。
セラの言う「壊れる」は、アランにとってとうの昔に通った場所だった。
レギュラスは残酷な人だ。
けれど同時に――一度壊したものを、誰より美しく修復しようとする男だ。
支配するように抱き寄せ、
沈黙を破るように触れ、
愛していると言葉ではなく行動で押しつけてくる。
そのすべてが、アランを何度も“死なせては蘇らせた”。
皮肉だった。
この女が満たす“暴力的な部分”を、
アランには与えられないことを――
アラン自身が誰より理解しているなんて。
傷ついた心を最後に癒すのは、
いつだってレギュラスだったのだから。
「ねぇ」
セラはアランの顔を覗き込む。
「あなた、どうして黙っていられるの?
どうして怒らないの?
どうして奪い返そうとしないの?」
――目的が読めない。
アランはそれだけを思った。
この女が何を望んでいるのか。
嫉妬を煽りたいのか、精神を壊したいのか。
それとも、レギュラスの足元を揺らそうとしているのか。
セラの目の奥には、ただ一つだけ確かな熱があった。
「知りたい」という、純粋で冷酷な欲望。
女の直感で理解した。
この女は、アランの反応を観察し、
レギュラスを揺さぶる“材料”にしようとしている。
アランは杖を振り、静かに文字を浮かべる。
あなたの目的は、何ですか。
セラは微笑む。
その笑みは、深い霧のように本心を隠していた。
「さぁ。あなたはどう思う?」
意味のない返答。
けれど、その“意味のなさ”こそが最も危険だった。
セラは踵を返し、去り際に振り向いた。
「また話しましょう、アラン・ブラック。
あなたのその沈黙……すごく気に入ったわ」
夜の帳が降り、寝室の空気は深い静寂に満ちていた。
カーテンの隙間から漏れた月光が床を細く照らし、寝台の上には薄い銀の影が落ちている。
レギュラスが静かに横になる音がした。
ベッドがわずかに沈み、温もりが隣に伝わってくる。
アランは目を閉じたまま、その気配を待つように息を潜める。
「…… アラン」
かすれた囁き。
次の瞬間、頬に触れた指は驚くほど優しく、まるで壊れ物を扱うようだった。
指先の温度がじんわりと皮膚に染み込む。
そうして、そっと唇が重ねられた。
触れ方一つで胸の奥が揺れる。
視界が滲むほど愛しく、同時に、酷く苦しい。
――どうしてこんなにも優しいのだろう。
レギュラスの触れ方は、いつもそうだった。
丁寧で、静かで、柔らかくて。
まるでアランという存在そのものを祈るように、大事に大事に扱ってくれる。
だからこそ、胸が裂けそうになる。
暴力的な面なんて、一度も見せられたことがない。
セラが言った“彼の好む行為”――
あの、喉元を押さえつける力強い仕草。
息が止まるほどの強さで支配し、追い詰め、泣き声を搾りとるようなもの。
レギュラスはアランに、それをしたことがない。
まるで、アランだけは壊してはいけないものだとでもいうように。
アランはゆっくり目を開いた。
目の前には月光に照らされたレギュラスの横顔がある。
長いまつ毛の下に落ちる影が、どこか寂しげで美しい。
この人は何度もアランの心を壊した。
そして、壊すたびに……誰より優しく治してくれた。
抱いて、抱きしめて、
頬を撫でて、髪をすくって、
沈黙の奥深くにまで寄り添って、
キスというキスで心を縫い合わせてくれた。
――壊したのはあなた。
――治したのもあなた。
その繰り返しの中で、アランは生きてきた。
だから思う。
壊れても、きっとまたあなたが治せる。
ならば、いっそ恐れず壊してしまえばいいのに――。
この衝動は狂気ではなく、祈りに近かった。
アランの胸の奥で、冷たい波が音を立てる。
セラが言ったこと。
暴露した“彼の激しさ”。
そのすべてが、アランの心を針のように刺した。
彼はその一面を、アランには決して見せない。
優しい夫としての顔だけを向ける。
それが、どうしようもなく残酷だった。
本当に自分には与えられないものなのか。
それを確かめるには、体験してみないとわからない。
セラを真似ようと思った。
声質を、仕草を、呼び方を――
だが、すぐに無理だと思い知る。
自分には声がない。
セラのように甘く掠れた声を出すことはできない。
どれほど上手く形を真似ても、決定的に欠けている。
アランの胸に、静かな絶望が落ちる。
レギュラスがアランの手を握った。
柔らかい掌の温度が、つめたい心を包むように広がる。
「眠れますか?」
アランは頷き、レギュラスの胸元に顔を寄せた。
彼の心臓の音が、規則正しく耳に響く。
その音に、何度救われたことだろう。
壊すことを望んでしまった自分がとても醜く感じられた。
けれど――それでも。
この人に壊され、この人に治されるならば。
その果てにしか存在しない愛がある気がした。
アランは静かに目を閉じた。
レギュラスの手がアランの背中を滑り、
また優しい口付けが額に落ちる。
この優しさで。
この触れ方で。
自分だけを満たそうとしてくれるこの時間で。
セラがもたらした“揺れ”を、すべてなかったことにできてしまう。
そのこと自体が、どこか悲しく、どこか幸福だった。
アランが自分の手を掴んだとき、レギュラスはただ戸惑っていた。
だがその手が自らの喉元へ導かれた瞬間、
胸の奥で何かが軋むような音がした。
まるで――
「さあ、あなたが欲したものを私にしていい」と
差し出すような、そんな静かな意志の宿った仕草。
その意味に気づいたのは、ほんの一瞬後だった。
……セラだ。
あの女が、またアランに接触したのだ。
自分が知らないところで。
そして――
自分がセラにしたことを、アランに話した。
アランには決して見せたことのない、
むしろ見せるべきではなかった、
本能の奥底に沈んだ獣じみた衝動。
暴力とも呼べる強さで喉を掴む行為。
あれはセラが求めるから応じただけで、
アランには――
アランだけは絶対に触れさせてはならない部分だった。
その行為を
“愛し合うためのもの”だと誤解させるようなことは、
絶対あってはならなかった。
なのに。
アランは今、
薄い寝間着の襟元からのぞく白い喉を、
自らの手にそっと押し当てている。
それを見た瞬間、
レギュラスの全身に冷たい震えが走った。
「…… アラン」
声が震え、喉が詰まった。
その温度があまりにも無防備だったから。
アランは静かに、
ただ静かにこちらを見つめていた。
翡翠の瞳の奥に、怖がる色も、迷う影もなく。
――私は壊れない。
――あなたの欲を拒まない。
――あなたを満たせる。
その意志が、何も言わずとも伝わってきた。
だが、レギュラスは息さえできなかった。
アランの喉元は、
自分が今まで壊れてしまうほど愛して、
守って、抱き締めてきた場所だ。
そこに向かって、
過去にセラにしたのと同じ強さで触れろと……?
想像しただけで、
胸の内側で何かが悲鳴をあげた。
「…… アラン、これは……違います」
拒むように言ったつもりが、
声はひどく掠れていた。
説得というより、必死の懇願に近い。
アランはそっと首をかしげる。
何を怖れているの?
どうして触れないの?
“あなたがしたいことをして”と言っているのに。
そんな静かな問いが瞳に宿っていた。
レギュラスの理性が
ふっと軋みを上げながら揺らいだ。
触れたい。
抱きしめたい。
自分のものだと刻みつけたい。
その衝動は確かにある。
何年アランを愛し、何度抱き、
何度この温度に救われたか数え切れない。
なのに。
喉元に触れたままの自分の指先が、
かすかに震えている。
その震えは、欲ではなく――
恐怖だった。
もしも力加減を誤ったら。
もしもアランが痛みに顔を歪めたら。
もしもアランの中で何かが再び壊れてしまったら。
そんな未来を思うだけで、
理性が瓦解していくようだった。
「アラン……あなたに、こんなこと……」
身体が勝手にアランを抱き寄せた。
喉から手を離し、肩を抱きしめるようにして胸に引き寄せる。
押し倒した姿勢のまま、
彼女を自分の影の中に閉じ込めるように。
アランの体温が胸に伝わる。
細い腕が、ためらいがちにレギュラスの背に回った。
その仕草が、
逆に胸を締め付けた。
アランは、
“自分が壊れてもレギュラスが治せる”
そう信じているのだ。
あまりにも重く、
あまりにも狂おしい信頼。
「アラン……僕は……あなたには……」
自分でも言葉が見つからなかった。
愛している。
抱きしめたい。
欲している。
全部ある。
それでも――
「……同じことは、できません。
あなたに……だけは」
その言葉は苦しげで、
どこか泣きそうですらあった。
アランがあまりにも愛しく、
あまりにも壊れやすく、
そして――あまりにも強く差し出してくるから。
レギュラスの理性は、
触れたい衝動と、壊したくない恐怖の狭間で
静かに泣き叫んでいた。
アランの喉元から自分の手をようやく離したあと、
レギュラスはしばらくその場に固まっていた。
腕の中で静かに呼吸するアランの体温だけが、
現実に自分を繋ぎ止めていた。
怖かった。本当に。
あんな差し出され方をされたら、
心のどこかに潜んでいた暗い衝動が、
呼び起こされてしまいそうで。
セラと重ねた夜の記憶が、
まるで毒のように脳裏をかすめるたびに、
吐き気がするほど自分が嫌になった。
その影を、
アランにだけは絶対に触れさせてはいけない。
そうずっと思い続けてきた。
なのに――
アランは迷いも恐れもなく、
その影に触れようと手を伸ばしてきた。
その事実が胸の奥に深く沈み込んで、
レギュラスの心は軋んだまま戻らなくなっていた。
どうして。
どうしてあんなことができるのだ。
「…… アラン」
震える声で名を呼び、
レギュラスはそっと彼女の肩に額を預けた。
アランの細い腕が、不思議なほど優しく、
ためらいながらも背中に添えられる。
その柔らかい温もりが、
レギュラスの胸をさらに締めつけた。
そのまま、
ゆっくりアランの体を寝台に押し戻し、
覆いかぶさるように抱き寄せる。
いつものようにではない。
欲を求めてではなく、
愛を確かめるためでもなく、
ただ――
祈るように。
縋るように。
壊れそうな心をどうにかつなぎ止めるために。
アランは声を持たない。
けれどその瞳が何度も何度も、
「ここにいる」と語りかけてくる。
その瞳が痛かった。
「アラン……あなたは……」
言葉の続きを、どうしても紡げなかった。
“強すぎる”と告げてしまえば、
彼女はまた自分の強さを証明しようとしてしまうだろう。
“怖い”と正直に言えば、
彼女は自分のせいだと傷ついてしまう。
だから、何も言えなかった。
ただ抱き締めた。
胸に引き寄せ、髪を撫で、唇を額に押し当て、
アランの名前を何度も心の中で呼び続けた。
アランは静かに目を閉じた。
まるでレギュラスの震えを受け止めるように。
触れられている部分すべてで、
「大丈夫です」と伝えているように。
その優しさが、また苦しかった。
どれほど抱きしめても、
この想いの複雑さは消えてくれない。
セラの影がアランに触れた。
そしてその影は、自分にも触れた。
彼女の喉元に触れた手の感触が、
まだ自分の掌に残っている。
消えない。
消したいと願うほど、
皮膚の奥に染み込んで抜けない。
だからレギュラスは、
まるで儀式を繰り返すように、
何度もアランへ触れた。
頬へ、額へ、指先へ、胸へ。
優しさだけで触れ続けた。
セラから学んでしまった“強い触れ方”ではなく、
アランがずっと求めてきた、
あの静かな愛だけで。
「……もう、あの女には会いません」
アランが眠る気配に包まれた寝室で、
レギュラスは誰にも聞こえない声で呟いた。
本当に、決めたのだ。
もう終わりにしなければならない。
切るに切れず、ただ流されてきた関係。
惰性で、欲望で、孤独で、何となく続けた歪な夜。
どんな理由をつけても、
その全部がアランを刺してしまう。
あの日のように、
アランが自分の喉へ手を導く姿など――
二度と見たくない。
そんな世界は耐えられない。
レギュラスは眠るアランの髪を掬い、
額に長く長く口付けた。
この夜、
彼は初めて本気で、
セラと決別しようと心に誓った。
祈るように、
縋るように、
アランを抱きしめながら。
セラと決別すると決めてから、
レギュラスの胸の奥に長いあいだ絡みついていた黒い霧のようなものが、
少しずつ薄れていくのを感じていた。
まだセラとは直接の別れ話をしていない。
だが、それでも――
決意というものは、確かに心の形を変えるのだと知った。
喉の奥につかえていた何かが取れて、
胸を占めていた重石のような負担がふっと軽くなる。
息が深く吸えるようになり、視界が澄んでいく。
そして、驚くほど自然に気づいた。
――自分はずっと、アランを避けていたのだ、と。
罪悪感があったから。
重ねるたびに心のどこかが痛むから。
アランの静かな瞳が、
自分がセラで満たしてきた獣の部分を鏡に映すようで怖かった。
けれど、今は違う。
セラとの影を断つと決めただけで、
アランに向ける視線も、触れ方も、
不思議なほど澄み渡っていった。
これまでセラに逃がしていた欲も、
アランの前ではどう扱えばいいかわからず濁っていた衝動も、
ただ正直に、
遠慮なく、アランにぶつけていいものだと思えるようになった。
すると、驚くほど優しい形に変わった。
セラとのように激しく燃え上がるわけではない。
身体の奥に火をつけ、貪り合うような衝動ではない。
アランとは――
静かに満ちていく。
ゆっくりと灯り続ける月のように。
そんな愛の形だった。
ある夜、レギュラスは法務部の書類で遅くなった。
アランは寝室のランプの下で、
半分まどろみながらも帰りを待ってくれていた。
「…… アラン」
名を呼んで抱き寄せれば、
アランは目を細めながら、眠たげにレギュラスを迎えた。
そして、軽く頷く。
その、
“眠たいのに応えようとする仕草”――
初めて見る一面だった。
レギュラスは胸が詰まるほど愛しくなった。
アランは決して声をあげないけれど、
熱に揺れながら腕を伸ばし、
求められれば求められた分だけ返してくる。
触れれば触れるほど、
穏やかで深い波のように心が満たされていく。
セラとの情事では得たことのない感覚だった。
渇きが満たされるのではなく、
心がゆっくり満ちていく――そんな充足。
別の夜。
アランは本当に限界だったのだろう。
レギュラスがそっと腕を伸ばして腰に手を添えると、
アランは寝台の上でふらりと身を起こし、
寝ぼけた顔のまま杖を取り――
『今日は寝るわ!』
と、
ベッドの上に大きな文字を描いた。
そのまま、
ふいっと反対側に向き直り、
毛布を引き寄せて潜り込む。
あまりにも可愛くて、
レギュラスは笑うしかなかった。
後頭部しか見えないアランの背に、
そっと手を添えて囁く。
「……わかりました。おやすみなさい、アラン」
返事はもちろんない。
だが、毛布の中で小さく動いた肩が、
それだけで十分だった。
セラという影を切ろうと決めただけで、
アランの見せてくる色がこんなにも違うのかと驚いた。
眠たげにまどろむ顔。
甘えるように縋ってくる顔。
拒むでもなく応えるでもなく、
ただ静かに受け止める顔。
少しわがままを言うような顔。
そして――
時折ふわりと笑ってみせる、
柔らかくて小さな笑み。
どれも知らなかった。
どれも、見ようとしてこなかった。
セラの影が消えていくたびに、
アランの新しい色がひとつずつ増えていった。
激しい快楽とは違う。
即物的な満足とも違う。
アランに触れる夜は、
静かに、じんわりと胸の奥が満ちていき、
呼吸までもが温かくなるような――
そんな幸福だった。
セラとは断ち切らなければならない。
そう強く思えば思うほど、
アランとの夜が澄んでいく。
何年かけても埋まらなかった影が、
少しずつ払い落ちていくように。
レギュラスは横になったアランの細い手を握り、
そっと額に唇を寄せた。
この愛を守りたい――
そう初めて、心から思えた。
レギュラスブラックが帰宅する時間は、
気づけばほんの少しずつ早くなっていた。
以前は夕食を取るか取らないかもわからないまま、
深夜に戻ってくることだって多かったのに。
最近では屋敷の扉が閉まる音が、
夕暮れの色の残るうちに響くこともある。
そして食卓に姿を見せるのも昔より増えた。
ただし、それでも長居はしない。
アランの隣で少しだけ食事を取ると、
レギュラスは「先に失礼します」と静かに席を立ち、
そのまま寝室へ向かってしまう。
――寝室へ。
メイラはその意図が、
大人として“なんとなく”理解できた。
ここで働くようになって十年以上、
屋敷の夫婦事情や男女の話を耳にすることはほとんどなかった。
興味を持つことも恐れ多くて、
そういう話題を知る必要すらなかった。
それでも、女として。
そしてアランの隣に仕えてきた者として。
最近、はっきりと感じることがあった。
アランの着替えを手伝う時。
長い髪をまとめて湯浴みの支度をする時。
ふとした拍子に、
胸元に淡く広がる指の跡のようなあざを見つけることがあった。
白い肩口に残る、消えかけた赤み。
大腿の付け根にそっと染まった微かな痕。
どれも痛々しいほど深いものではない。
けれど――
あれは、触れられた痕だ。
その痕の奥には、
レギュラスブラックという男の“形”が
確かに存在しているように感じられた。
そして、それだけではない。
アランの肌には、
説明できないほど柔らかな光沢が宿っている時がある。
ほんのりと薔薇の香油と混じる匂いの奥に、
もうひとつ淡く残る、
レギュラスの匂いがした。
それは何も直接的な香水のようなものではなく、
もっと静かで、もっと個人的で、
“ふたりの時間のあと”にしか残らない、
そんな気配だった。
メイラは頬が一気に熱くなるのを抑えられなかった。
アランが湯から上がったあと、
髪を拭き、ナイトドレスを着せる。
その指先の下で、
アランの身体からふわりと甘い熱が立ちのぼる瞬間がある。
それは恥じらいなどを超えて――
ああ、愛されているんだ。
この人は、ちゃんと愛されているんだ。
そんな実感を、
肌越しに教えてくれるようだった。
その事実に触れるたびに、
胸が不思議と温かくなる。
アランはあれほど優しいのに。
声を持たず、痛みも苦しみも、
幸せですら言葉にすることができないのに。
それでも“愛されている”とわかれば、
その沈黙がどうしようもなく尊く思えた。
ずっと見守ってきたメイラとしては、
どこか泣きたいような気持ちで、
しかし幸せで胸がいっぱいになる。
以前は、
アランの背中にはどこか陰りがあった。
抱えきれないほどの痛みを、
声もなく堪えている背中だった。
けれど最近は、
ほんの少しだけ明るさがあるように見える。
レギュラスが戻る気配を感じれば、
アランの頬はわずかに緩む。
レギュラス様が去ったあとの寝室は、
柔らかく温まっている。
その全てが、
ふたりの絆が静かに深まっている証だった。
メイラは廊下の灯りをひとつ消しながら、
胸の奥でそっと祈っていた。
どうか、この夫婦が壊れませんように。
どうか、アランの沈黙が報われ続けますように。
どうか、レギュラスの愛が、
この温かさのまま続きますように。
自分がそばにいる意味があるのなら、
それは――
アランの幸福を少しでも支えられること。
ただそれだけでよかった。
ふたりの“愛の痕跡”を目にするたび、
メイラの心には静かな幸福が満ちていった
