3章
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月日は静かに流れ、
ブラック家の長女ステラ・ブラックは、ついにホグワーツへ入学する年齢になった。
馬車の窓に映る少女の顔はあまりに整っていて、
父レギュラス譲りの彫刻のような輪郭と、
母アラン譲りの柔らかな気配が共存していた。
だが何より目を奪うのは、
セシール家の血が色濃く宿った翡翠色の瞳――
深い湖面をそのまま閉じ込めたような、
ただ見られるだけで人の呼吸を奪う光だった。
ステラ自身、その瞳が自分の誇りであると同時に、
どうしようもない“痛み”を呼び覚ますものでもあった。
翡翠色は、母アランの瞳の色。
けれど、母の愛は……
決して自分だけのものではなかった。
幼い頃から、ステラは母に抱きつくたび、
胸の奥で言いようのないざらつきを感じてきた。
愛されている。
大切にされている。
それは確かにわかる。
だがその愛は――
幼いステラが求めるほど、
“自分だけに向いたもの”ではなかった。
弟アルタイルの存在はいい。
後継として重宝されることも理解している。
嫉妬はあるが、まだ飲み込めた。
けれど。
どうしても理解できない存在がもうひとりいた。
――メイラ・ウォルブリッジ。
マグルの女。
純血の名家ブラック家の屋敷で、
堂々と息をし、
母アランのそばで微笑んでいた。
メイラの手を引く母の仕草、
優しく抱き寄せる腕、
笑ったときの柔らかい眼差し――
すべてが胸の奥で棘になった。
どうして?
どうして自分の母が、魔力を持たないマグルを、
あんなにも大切にするのか……?
この問いはステラの中で
触れるたびに痛みを呼び、
言葉にすれば母を傷つけてしまうと知っていたから、飲み込むしかなかった。
“メイラさえいなければ”
そんな考えが頭をよぎるとき、
ステラは自分自身に恐怖した。
ブラック家では、
男児であるアルタイルに圧倒的な期待が注がれていた。
ステラは幼いながら、
“女は家を継がない”という現実を早々に理解した。
その一方で、
父レギュラスへの思いは、
崇拝にも似た感情を孕んでいた。
魔法界で名を轟かせる男。
恐れられ、畏敬され、
闇にも光にも通じる完璧な支配者。
父を称して“悪魔のような男”と囁く者は多かった。
マグル孤児院の惨劇。
狼人間食殺許可法。
騎士団夫妻の精神を破壊し、生きたまま返した噂。
ステラはそれらをすべて耳にしている。
だが――揺らぐことはなかった。
むしろ。
当然ではないかとさえ思う。
魔法族は神に選ばれた存在。
マグルは持たざる者。
犠牲になることすら、世界の秩序だ。
母の一族セシール家を滅ぼしたのもマグルだ。
ならば、彼らが恐れられ、罰せられることに
何の疑問があるだろう。
騎士団の掲げる“マグルとの共存”。
そんな理想論は、
ステラには滑稽としか映らなかった。
ただ一度、
ステラはほんの少しだけ
自分の思想を母アランに話したことがある。
その瞬間、
アランの手が震えた。
杖を握る指が細かく震え、
悲しみとも恐怖ともつかない文字が
空中に書き殴られた。
――その考えは危険です。
その一文だけで十分だった。
母の真剣な眼差し。
声を持たないのに、
必死に伝えようとするその姿。
ステラの胸は痛んだ。
母とは、根本が違う。
愛しているのに、理解できない。
思想が交わらない。
その現実が、
どれほど少女の心を締めつけたか。
だからステラは、その話題を二度と口にしなかった。
馬車が揺れる。
遠くホグワーツの尖塔が見えてくる。
ステラは胸に手を置いた。
美しくも、どこか冷たい翡翠の瞳がかすかに揺れる。
愛している。
母を愛している。
父も、弟も、この家も。
だが――
この家の価値観に順応すればするほど、
母アランとは遠ざかっていく。
その矛盾が、
ステラをひどく孤独にした。
母の愛を求める心と、
純血主義に染まる心が同時に育ってしまった少女。
ホグワーツへ向かう道は、
彼女にとって、
光と影が入り混じる新たな始まりだった。
ホグワーツ行きの馬車を送り出してしばらく、
レギュラスは屋敷の前庭に立ち尽くしていた。
風が吹くたびに、
ステラの長い黒髪が揺れた姿を思い出す。
あれは、まぎれもなく――
自分の娘だ。
アランの柔らかさを纏いながら、
内面はいつの間にか、
自分の影を濃く宿し始めている。
誇らしい、とレギュラスは思った。
純粋に。何よりも。
ブラック家の名に相応しい気高さ。
誰にも怯えぬ意志。
魔法族の持つべき誇りへの信。
そして――
あの翡翠色の瞳の奥に揺れる“影”。
あれは、かつて自分が少年の頃に抱いていた影と同じものだった。
“魔力ある者は、選ばれし者である”
“持たざる者は、導かれるべき存在である”
そんな思想が、
ステラの中で静かに育っているのを、
レギュラスは知っていた。
アランがどれほど諭そうとも、
あの娘は自分の流れを受け継ぐ。
それは血が決めるものだ。
ステラが自分に似ていく。
それはレギュラスにとって最大の歓びだった。
娘はきっと、
魔法界の上に立つ存在になる。
アルタイルが“力の象徴”ならば、
ステラは“思想の象徴”になれる。
あの翡翠の瞳で世界を見渡し、
人を射抜くような冷徹さと、
美しく凛とした自尊心を持った少女。
思えば――
こんなにも誇りに満ちた娘を得ることになるとは
かつての自分は想像もしなかった。
だが、同時に。
胸の奥で、ひどく小さな棘のような感情が疼いていた。
――危うい。
ステラは、自分よりも純粋に、
純血至上を信じ始めている。
自分は政治という現実の中で
何度か折れ、歪み、調整しながら
思想を操れる“余白”を持った。
だがステラには、その余白が薄い。
アランが必死に止めても、
あの子は自分の中の“真理”から目をそらさない。
たとえば――
マグルの少女メイラを嫌う目。
アルタイル以外の誰も信用しない頑なさ。
母アランの優しさすら理解しきれない幼い現実主義。
その全てが、
レギュラスの若い頃を思い出させる。
似ている。
あまりにも、危ういほどに。
似すぎている。
そこに誇りと同時に、
消えない恐怖のようなものが生まれる。
ステラに柔らかさを与えるのはアランだけだ。
あの声なき優しさが、娘の心をぎりぎりのところで
無垢に引き戻している。
もしアランがいなければ――
ステラはきっと、
自分などより遥かに恐ろしい魔法使いになっていただろう。
レギュラスは窓辺に立ち、
アラン がアルタイルを抱く姿を見つけた。
アランの指がそっと揺れる。
アルタイルに触れるその仕草は、
なぜか胸をひどく締め付けた。
ステラにも、あの柔らかさが必要だ。
そう思う一方で、
アランの優しさとステラの強さが
永遠に交わらない気がして、
ひどく寂しさが胸を打つ。
娘は自分に似ていく。
それは誇らしい。
だが同時に、
その“似すぎている運命”が
いつか娘自身を呪うのではないか――
レギュラスは、そんな考えを振り払えなかった。
けれど。
ステラはもう、自分たちがつくった世界へ歩き出してしまった。
その背中の翡翠の輝きは、
美しく、気高く、危うい。
この娘は、いずれ世界を動かす。
その力は自分をも飲み込む。
そう悟りながら――
レギュラスは、ただ静かに嬉しかった。
ボグワーツの休暇で久しぶりに屋敷へ戻ると、
玄関ホールに柔らかな光が漂っていた。
磨かれた大理石の床には
シャンデリアの灯が揺らぎ、
その中央でメイラが深く一礼をしてステラを迎えた。
「おかえりなさいませ、ステラ様」
その声音は淀みなく、
所作はまるで貴族の侍女のように洗練されていた。
――それが、癪に障った。
魔法も持たないマグルの女が、
あたかもブラック家の“格”にふさわしいかのように
振る舞っていることが。
ステラの胸が静かにざわつく。
「母は?」
「アルタイル様とご一緒です。
リビングでお休みになっています」
メイラはステラのローブを丁寧に受け取り、
圧縮呪文がかけられているため見た目より重い荷物を
両腕で抱え上げようとした。
ぎゅ、と指が震えている。
魔法が使えず、ただ肉体で運ぼうとしている――
その姿が、どうしようもなく“みすぼらしい”ものに映った。
なのに。
なぜ、この女は母の隣に立つ資格があるの?
「持たなくて結構よ」
冷たく吐き捨てると、
ステラはひと振りで荷物に浮遊呪文をかけた。
荷物はふわりと浮かび、階段の方へ滑っていく。
「すごいですね、ステラ様……!」
メイラの目が純粋な憧れで輝く。
その無邪気さが、逆に腹立たしい。
――たかが浮遊呪文に、何を感動しているの。
ステラは舌の奥が疼くような苛立ちを覚えながら、
荷物を自分の部屋の前に運んだ。
そしてゆっくりと、メイラの方へ向き直る。
「……ひとつ教えてほしいのだけど」
静かな声だった。
けれど、空気はわずかに冷えていく。
「あなたは、なぜこのブラック家で養われているのかしら?」
メイラの肩がびくりと震えた。
「え……あの……
わ、私は…… アラン様のお世話を……」
「母は純血よ。
マグルごときの世話なんて必要かしら?」
刺すような言葉だった。
メイラの表情が凍り、瞳が揺れた。
その反応が――
ステラには、たまらなく“弱々しく”“惨め”に見えた。
「幼い頃に……ブラック家に助けていただきましたから……
その恩を……返したくて……」
「恩?」
ステラは小さく笑った。
その笑みには、幼さと残酷さが同時に滲んでいる。
「あなたごときが返せる恩に、何の価値があるのかしら?」
メイラの喉が詰まったように震え、
言葉が出ない。
ステラはその沈黙を“正解”だと思った。
――やっぱり、あなたはここにふさわしくない。
その思いが胸の中でゆっくりと形をとっていく。
幼い少女の心に生まれた、
“母を奪われたような痛み”が
鋭い牙となってメイラを刺しているのだと、
ステラは自分で理解できていなかった。
ただ、胸の内には
説明のつかない黒い塊が膨らみ続けていた。
そしてメイラはただ、俯いたまま震えていた。
その姿が、ステラをさらに苛立たせる。
「……覚えておいて。
あなたがここにいる理由は、
“母が望んだから”であって――
ブラック家が望んだわけじゃないの」
メイラの瞳が揺れ、
涙のように光る瞬間があった。
ステラはそれを見ると、
胸がざわつき、息が少し乱れた。
“何か”を言い過ぎた気がした――
でも引き返す術もわからなかった。
ただ、静かに部屋の扉を閉めた。
バタンと響いた音は、
奇妙なほどに重く、長くステラの胸に残った。
ステラがホグワーツから戻った日の夕刻、
屋敷の空気はどこか妙に冷えていた。
扉を開けた瞬間に感じる、あの微かな軋み――
誰かが泣いたあと、あるいは誰かが怒りを飲み込んだあとにだけ漂う、
不自然な静寂が屋敷中に薄く張りついているようだった。
レギュラスは廊下を歩きながら、その違和感をすぐに察した。
魔力感知ではない。
長年、魔法と人心の裏側を読み続けてきた者にしかわからない、
“空気の濁り”があった。
リビングに入ると、メイラが小さく背を丸めて立っていた。
気づけば指先が布エプロンを握り、 手が白くなるほど震えている。
「……メイラ」
名前を呼ぶと、メイラはびくりと肩を揺らし、
涙の痕を残したまま頭を下げた。
「す、すみません……あの……ステラ様に……」
声を絞り出すように、
しかしそれ以上は言葉にならなかった。
レギュラスの胸が、静かにざわめいた。
――ついに、この時が来たか。
メイラの頬に残る赤み。
目を合わせられないほどの怯え。
言葉を続けられない沈黙。
それら全てが、雄弁に物語っていた。
ステラが、初めて“誰かを踏みつけた”のだと。
レギュラスは深く息を吸い、吐いた。
怒りではない。
焦りでもない。
――これは、いずれ起きるとわかっていたことだ。
メイラを屋敷に置くことを許したのは、
本来ならあり得ない妥協だった。
かつてメイラを“保護施設”に送った時、
そこが狼人間の食殺用のマグルを選別する組織だと知ったアランが
声なき叫びで自分を責めた日のことを、
レギュラスは今でも鮮烈に覚えている。
喉を震わせ、杖で床を叩き、
泣き崩れながら必死に“倫理”を訴えてきたアラン。
あの痛むような視線が、
レギュラスをして唯一折れさせた。
だからメイラを屋敷に入れた。
本当は二度とマグル女をこの屋敷に足を踏み入れさせたくなかったが。
アランとの亀裂を埋めるために、
レギュラスはその選択を呑んだ。
――だが、それはステラにとっては毒だったらしい。
幼い頃は共に遊んでいたが、
年齢を重ねるごとにステラの瞳は変わっていった。
母の翡翠とは違う、
灰銀色に近い“冷たさと選別”を宿した瞳。
レギュラスはそれを見たとき、
うっすらと嫌な予感を感じていた。
自分に似すぎている。
思想の骨格が、あまりにも似ている。
魔法族とマグルの区別。
選ばれし者と持たざる者の差。
守るものと切り捨てるものの線引き。
幼いステラの中で、それが“真理”のように固まりつつある。
レギュラス自身が、かつて信じて疑わなかった思想と同じだ。
そして――
子供は加減を知らない。
レギュラスには“折れ時”がわかる。
犠牲を最小限にとどめるために手を緩め、
倫理を装い、社会の目を欺くための
絶妙な“さじ加減”が理解できる。
だがステラはまだ十一歳だ。
“正しいと思った方向に、最短距離で突進する”。
それが一番恐ろしい。
レギュラスはゆっくりメイラの前に立つと、
静かに問うた。
「……ステラは、何と言いました?」
メイラは首を横に振るだけ。
言葉を告げることを恐れている。
その反応を見て、レギュラスは確信した。
ステラが本気でメイラを“貶めた”のだと。
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
――自分の娘が、自分と同じ道を辿ろうとしている。
――そしてその道は、アランを必ず傷つける。
それだけは避けなければならない。
レギュラスは静かに目を閉じ、
娘のことを考えた。
ステラは賢く、優雅で、誇り高く、
そして――危うい。
魔法族の誇りをそのまま刃にしてしまうような、
鋭すぎる才能。
「……僕が話をします。
メイラ、今日は部屋で休みなさい」
優しい声音だったが、その奥は深い緊張で満ちていた。
ステラの思想は、放っておけば確実に
“破壊者”になる。
――止める。それが父である自分の役目だ。
レギュラスは静かに踵を返し、
ステラの部屋へと向かった。
扉の向こうに待つのは、
まだ幼い“危険な魔法族”だった。
自分に似すぎた、愛してやまない娘。
その思想をどう軌道修正するか――
レギュラスは生涯で初めて、
“教育”という名の戦いに挑もうとしていた
久しぶりに家族全員が揃った夕餉の時間。
長い楕円の黒檀のテーブルには、屋敷中の灯りが反射し、
黄金のカトラリーが小さな星のように輝いていた。
しかし、その中心に座る母アランは――少し痩せた気がした。
頬が削れて、細い手首が袖口から覗く。
産後の疲れがまだ残っているのだろう。
それとも、もっと別の理由で消耗しているのか。
ステラにはわからなかった。
ただ、強烈にわかったのは――
まだ母を一度も独り占めしたことがないのに、
こんなにも遠い存在のまま、
いつか失ってしまうのではないか。
その恐怖が、胸の奥をぎゅう、と強く締めつけた。
父が正式にブラック家の家督を継いだ今、
祖父オリオンも祖母ヴァルブルガも、この屋敷から去った。
その結果――
メイラが、堂々とこの食卓に座るようになった。
以前なら絶対にあり得なかった。
あの二人はマグルに触れられることすら嫌悪したからだ。
その価値観は、幼かったステラの中にも深く染み込んでいる。
だから今日、
銀食器の軽やかな音に混じって、
マグルの柔らかい声が食卓に響くことが、
どうしても許せなかった。
母が、メイラの話す言葉に微笑む。
父でさえ、それを黙って受け入れている。
その光景に、
ステラは内心で怒りが煮立つのを感じた。
――この高貴なるブラック家の食卓で。
――マグルの声が響くことを。
――父は本当に赦しているの?
誇り高い純血の頂点に立つ男が。
理解できなかった。
理解したくもなかった。
「ステラ、ボグワーツはどうでした?
得意科目は何です?」
父レギュラスが穏やかな声で問う。
その声音だけは昔から優しくて、
ステラはどこか誇らしさすら感じてしまう。
「ありませんわ。」
即答した。
「あなたは全教科できるでしょうね。
――僕の娘ですから。」
父の微笑みに、胸が少しだけ熱くなった。
自信と誇りを与えられ、
それがステラの価値を一層固くする。
そう、自分は“レギュラス・ブラックの娘”なのだ。
全てにおいて最良点を取る以外の人生など、
初めから選択肢にない。
アランがそっと杖を振った。
淡い光が文字を形づくる。
『本当に誇らしいわ。
私の娘とは思えないほどよ。』
優しい笑顔だった。
美しくて、静かで、柔らかい母の顔。
――だが、その言葉だけは
ステラの胸に冷たい棘のように刺さった。
私の娘とは思えないほど。
どういう意味なのだろう。
母はかつて教育を受けられなかった。
幼い頃から闇の帝王の地下に幽閉されていたという過去を
ステラも知っている。
だから母は、自分より賢い娘を
“誇らしい意味”で言ったのだろう。
――わかっている。それは理解している。
それでも。
それでも。
心の奥で別の声が叫んだ。
じゃあ、誰の娘だというのか?
この横に座るマグルの女のほうが
あなたにとっては近いというのか?
メイラの笑顔が視界にちらりと入る。
不思議そうに、嬉しそうに、
自分の褒められたわけでもないのに微笑んでいる。
その瞬間、
胸の奥の苛立ちが、ふわりと湧き上がり、
頬を内側から熱くした。
ステラはかすかに口角を上げ、
礼節の微笑みを浮かべた。
――決して表に出さない。
――出せば母を悲しませるから。
だが心の内側で、
黒い影のような感情が静かに広がっていく。
“母を奪ったのはこの女だ”
という感情が。
その感情の危うさに、
ステラ自身まだ気づいていなかった。
ホグワーツ大広間の天井に、夜空の魔法が淡く揺らめいていた。
組み分け帽子の古い声が響く。
「――スリザリン!」
その瞬間、緑と銀のテーブルがざわめきに揺れた。
ステラ・ブラック。
純血の名家ブラック家の長女。
レギュラス・ブラックとアラン・セシールの娘。
リーマスは教員席から静かにその姿を眺めていた。
まだ十一歳。
しかし、その瞳に宿る光は、すでに少女のものではなかった。
凛とした直立。
背筋の一本も揺らがない。
気迫にも似た、誇りの匂い。
アランの持つ透き通る翡翠のような美しさを兼ね備え、
それにレギュラスの静かな冷気と影を重ね合わせたような――
そんな危うい調和が、すでに彼女の中で完成しつつあった。
リーマスが担当する防衛術の授業。
最前列でもなく後ろでもなく、中央よりやや前。
ステラはいつもそこで座っていた。
姿勢は寸分の乱れもなく、
筆を取るときの動作すらも洗練されている。
努力を努力の顔で見せる生徒ではなかった。
――これは、生まれついての“領域”だ。
そんな印象すら抱かせる。
ステラが立って呪文を唱えるたび、
クラスの空気がわずかに引き締まるのをリーマスは感じた。
はっきりと言葉を紡ぎ、
杖先の動きは迷いなく、
十一歳とは思えないほど正確だった。
力量の高さよりも、
“迷いがない”ことの方が気になった。
普通の子は、自信の裏に怯えがある。
けれどステラには不安の影は一片もなかった。
休み時間、スリザリンの男子生徒たちが
ステラを囲むように話しかけることがあった。
「ステラ、良かったら――」
「課題、一緒にしない?」
「君の呪文の癖を教えてほしいんだ」
どの顔も年相応の好意と興味に満ちている。
しかしステラは、微笑みすら浮かべず、
ただ静かに目を伏せて言うのだ。
「興味ありませんわ。」
拒絶の仕方ひとつにも品があった。
だが品の奥に、明確な線がある。
“選ばれた血の者以外、私の隣には立てない。”
そんな無言の理を突きつけられているようだった。
男子たちはその冷たさすら魅力だと言わんばかりに
ますます惹かれていく。
――危うい、と思った。
レギュラスによく似ている。
魅了し、引きつけ、
しかし決して手の届かない高さに立ち続けるところが。
廊下を歩けば振り返る者が多い。
ステラの黒髪は、アランゆずりの柔らかい光沢があり、
翡翠の瞳はろうそくの火を反射してまるで宝石のようだった。
おまけに成績は常に最上位。
礼儀・身のこなし・発言、どれも完璧。
女生徒たちが囁いている。
「高嶺の花よね……」
「完璧すぎて、近寄るのが怖いくらい」
「でも、ステラ様が笑ったらきっと嬉しい」
敬意と憧れ。
それが自然とこの少女の周りに生まれていた。
ステラの翡翠の瞳が教室の光を受けて煌めくたびに、
リーマスの心には奇妙なざわめきが走る。
美しさの奥で、何かが静かに育っている。
誇り、優秀さ、気高さ――
それらはすべて良い。
だがそこに“偏り”が混じると、
少女は父よりも危険な存在になる。
リーマスにはそれが見えた。
アランゆずりの純粋さと、
レギュラスゆずりの冷徹さが――
まだ幼い器の中では混ざらず、
二層にくっきりと分かれている。
そして、その境界線が揺れ始めている。
チャイムが鳴り、生徒たちが一斉に立ち上がる。
ステラはリーマスに軽く頷いた。
「本日の授業、刺激的でしたわ。先生。」
その声音には丁寧な礼儀と、淑やかな艶が混ざる。
十一歳の少女のそれではなかった。
リーマスは思う。
――レギュラス、君はどんな子を育ててしまったんだ。
そして同時に。
―― アラン、君はこの娘の“危うさ”に気づいているのだろうか。
ステラはスリザリンの緑のローブを揺らし、
堂々と教室を去っていった。
その背中にひらめく黒髪が、
闇の中の星のように静かに輝いていた。
白大理石の床が、レギュラス・ブラックの足音を澄んだ反響で返した。
高い天井から吊るされた光球が、冷たい光を注ぎ、
法廷の空気は、緊張と沈黙が折り重なって張り詰めている。
議長席に座る者たちの顔は硬く、
裁判席には騎士団側の重鎮たち――
ジェームズ・ポッター、リーマス・ルーピンの姿があった。
事件は単純だ。
魔法省直属の魔法兵が、マグル武装集団の一部を「違法に拘束」したという告発。
法務部の責任者として、レギュラスが答弁に立たされていた。
「確かに――」
レギュラスの声は、低く澄んで、静かに法廷を満たした。
「調査したところ、魔法兵たちの中に、独断で暴走した者がおりました。
その行為は、魔法省の理念にも、我々法務部の誇りにも反します。」
ざわり、と空気が揺らぐ。
純血主義者の筆頭格が、マグル側の指摘を“認めた”のだ。
レギュラスは続ける。
「該当者の処分については、騎士団側の裁量に委ねます。
魔法兵の名誉が傷つくことのないよう、法務部は速やかに改善を行います。」
その朗々とした声は、責任者として完璧に整っていた。
言い訳も、押しつけも、権力の威圧もない。
ただ――美しいまでに、折れた。
折れるべき時に折れるという、“策略”の仕草だった。
ジェームズが眉を跳ね上げる。
「どういう風の吹き回しだい? ブラック。」
ほんの皮肉のように吐き出した声だったが、
その奥には、“理解できない”という戸惑いが濃かった。
レギュラスは足を止め、振り返る。
灰銀色の瞳は微動だにしない。
「何か、問題でも?」
答え方は極めて丁寧なのに、
その実、相手の言葉の本質を踏みにじるような程の冷ややかさがあった。
リーマスがジェームズの肩に触れ、落ち着かせるように一歩前に出る。
「驚いてるだけだよ。
君が、こんなふうに“素直に認める”なんて。」
「こちら側の非ですから。
当然の判断でしょう。」
レギュラスの声音は、どこまでも澄み切っていて、
一切の濁りがなかった。
騎士団側は、マグルへの不当拘束の件で魔法兵を追及している。
だが――レギュラスの頭の中ではまったく別の計算が進んでいた。
騎士団に、魔法兵の“管轄権”を奪われるわけにはいかない。
魔法兵を失えば、
純血社会の力は半分失われると言ってもいい。
それほどまでに彼らは、魔法界の“武力”なのだから。
もし今回の不祥事を
「そんな事件はなかった」とねじ伏せてしまえば――
・騎士団は躍起になって再調査を始める
・世論が騎士団側につく
・魔法兵の権限を魔法省から剥奪される未来も、十分あり得る
――面倒だ。
――実入りがない。
だからこそレギュラスは、
この程度の不祥事ならば、騎士団に“餌”として差し出した。
魔法兵の上官たちを震え上がらせるのにも丁度いい。
折れたふりをして、より強固に支配する。
それが、レギュラスのやり方だった。
「君が、そんな殊勝な態度を取るとは思わなかったな。」
ジェームズの声には皮肉と怒りが入り混じっている。
彼にとって、レギュラスは“決して折れない悪魔”だった。
レギュラスはふと、微笑んだ。
それは、魔法法廷の冷えた空気の中に溶けていくような、
どこか透明な微笑みだった。
「折れるべき時に折れるだけです。
必要な犠牲は、最小限に。」
その言葉には――
法廷中の誰もが気づかないほど静かに、
鋭利な刃が隠されていた。
レギュラスが背を向け歩き出すと、
黒いローブの裾がひらりと揺れた。
その後ろ姿は、
敗北でも服従でもなく、
“勝ち戦の帰途”そのものだった。
ジェームズは悔しげに舌打ちする。
「……あの男、いったい何を企んでいる。」
リーマスだけは、静かに目を閉じた。
「何も変わってないよ、ジェームズ。
ただ――
あれは、折れたふりをしているだけだ。」
魔法法廷の白い光の中で、
レギュラス・ブラックの影は、
誰よりも静かで、誰よりも濃く伸びていった。
久しぶりに会うセラ・レヴィントンは、
変わらず艶めいていた。
闇が落ちた街路に立つ彼女の姿は、
灯りの少ない魔法省裏道の寂れたアーチの下でも
ひとりだけ色彩を持って輝いているようだった。
もう何年になるのだろう――
レギュラスは思う。
切るべきだと何度思っただろう。
切れると何度言い聞かせただろう。
それでも彼女と会う夜は、
いつの間にか別の必然のように
自然に自分の生活へ戻ってきてしまう。
そんな自分が、
たまらなく情けなく、
それでいてどうしようもなく彼女に惹かれ続けていた。
セラが紙袋を差し出す。
「どうぞ、懐かしいでしょ? あなたの好きなサンドイッチ。」
レギュラスは思わず笑った。
「そういえば……昔は毎日のように頼んでいましたね。」
紙袋はあたたかく、
セラの手の熱がまだわずかに残っている。
初めて会った頃、
彼女はあのカフェで店員をしていた。
レギュラスは昼休みにサンドイッチを買い、
店先の席で書類を読んで過ごした。
そのうち、
昼より夜に、
食事より行為に、
いつの間にかすべてがすり替わっていた。
彼女の丁寧な仕事ぶりを気に入ったはずが、
いつの間にか別の何かを求めるようになっていた。
アランとの行為が少なくなり、
その空白を埋めるように
セラの身体に逃げ込む夜が増えた。
どれだけ抱いても、
アランとの差は埋まるどころか
むしろ痛いほど広がっていくのに。
わかっているのに。
それでも切れない。
夜の冷たい風が、レギュラスの襟元を震わせた。
「そういえば――」
セラが紙袋をサイドテーブルに置きながら言った。
「あなたの娘、ボグワーツに入ったんですってね?」
何気ないようで、
鋭利なものを含んだ問い。
「本当に……好きですねあなたは。ブラック家のことも、僕の家族のことも。」
レギュラスは微笑を返すしかなかった。
セラの情報収集力は昔から異常に鋭い。
「気になるじゃない。」
セラが楽しそうに肩をすくめる。
「恐ろしいほどに気が強い娘ですよ。」
口にして、レギュラスは自分でも苦笑した。
娘のことを誰かに語る時、
気が強い――その言葉しか出てこない。
確かに美しい。
アラン譲りの翡翠の瞳も、セシール家の静かな気品もある。
だがその奥には、
レギュラスと同じ冷たさ、揺らがない芯、他者を寄せつけない威圧。
そんな“ブラック家の血”が、
彼女の中に濃く流れている。
柔らかさがアランに似ていれば、
男たちは群がっただろう。
だがステラは違う。
近寄る者を選別し、
合わぬ者には露骨なほど関心を向けない。
――まるで自分だ。
その事実が、
誇らしいようで、
同時にどこか危険な影も見せる。
セラは唇に笑みを浮かべていた。
「気が強い娘……それ、あなたにそっくりじゃない。」
「……否定できませんね。」
「そりゃあ興味があるわよ。美しい子でしょうし、あなたみたいな危うい光を持ってるんでしょ?」
「危うい……ですか。」
「あなたも娘も、ほら……“線を越えることを恐れない顔”をしている。」
セラの言葉は、
レギュラスの胸の奥のどこかを冷たく撫でた。
娘の危うさも、
自分の危うさも、
セラは簡単に見抜いてしまう。
紙袋の中のサンドイッチは冷め始めていた。
セラは何気なく指先でレギュラスの胸元を撫でる。
「ねぇ……久しぶりだけど、なんだかあなた、前よりずっと大人になった気がするわ。」
「そうでしょうか。」
「ええ。でも……まだ切れないんでしょう? わたしたちの関係。」
その問いに、レギュラスは笑うしかなかった。
――切りたい。
――切れない。
その矛盾の間で揺れ続ける。
アランとの行為は、
どれほど慎重に交わっても心の深い水脈の部分で触れ合える。
癒やされ、満たされ、浄化されていくような感覚がある。
けれどセラとの行為は、
刺激、依存、逃避、虚無、衝動。
その全てを詰め込んだ、
“闇の快楽”だった。
どちらもレギュラスの一部であり、
どちらも必要だった。
その醜さを、
もっともよく知っているのがセラであり、
もっとも受け入れてくれるのもセラだった。
それが、切れない理由だった。
「娘さんに会ってみたいわ。」
「……やめてください。あなたは、騒ぎを起こしすぎる。」
「ふふ、相変わらずねぇ。」
セラの手が、レギュラスの頬に触れる。
軽く、記憶を弄ぶみたいな触れ方だった。
「ま、いいわ。今日はこれだけ。」
セラは踵を返し、闇へ消える。
その背中は昔より少しやせ、
しかし何もかもを知っている者の余裕に満ちていた。
残り香だけが夜気に漂う。
レギュラスはひとり立ち尽くす。
娘の未来。
アランとの関係。
セラとの繋がり。
政治の渦と暴力の影。
全てを背負った肩は、
この数年で確かに重くなった。
けれど――
それでもなお、切れない関係がある。
セラが夜に残していった熱は、
レギュラスの胸の奥の“情けなさ”と“弱さ”を
痛いほど浮かび上がらせる。
闇の香りとともに。
その日アランは、屋敷の裏庭にある離れの温室でシリウスと会っていた。
ガラス越しに冬の陽が柔らかく差し込み、空気は冷えているのに、温室の中だけ穏やかにあたたかい。
レギュラスが法務部で過ごす日、
こうして密かに会うようになって何年経つのだろう。
終わらせようと思ったことは何度もあった。
けれど、背中に張り付くような閉塞感を抱えた日々の中で、
シリウスが運んでくれる“飾り気のない自由”は、
まるで陽だまりのように心をほぐしてくれる。
杖を振らなくても伝わる気楽さと、
言葉を失った自分でも笑わせてくれる明るさ。
アランの胸の奥深くを、
いつも蜃気楼のように軽やかに撫でていく存在だった。
「聞けよアラン、今日のバカな話。」
シリウスは腰に手を当て、得意げに語りだす。
「ジェームズがな、騎士団の会議でまた偉そうに演説ぶったんだよ。
あいつ、“正義は必ず勝つ!”って机叩いた瞬間、
自分のマントの裾で隣のヤツの紅茶ひっくり返しやがってさ。
真っ白い書類が全部茶色になって、もう阿鼻叫喚。」
アランは肩を震わせる。声が出ない分、表情にすべてが出た。
その笑い顔を見るのが、シリウスは何より好きだった。
「あと、リーマスが忘れ物するのはいつものことだけどよ、
昨日なんてパンツ逆に履いたまま講義したんだってよ。
“なんか右側だけチクチクするなぁ”ってずっと言っててさ。」
アランは胸を押さえ、涙が滲むほど笑った。
ほんの一瞬でも、息苦しい日々を忘れられる。
――どうしてこの人の話は、こんなにも引き込まれるのだろう。
不思議だった。
ずっと聞いていたくなる。
何時間でも、何日でも、この声音に身を委ねていたいと思うほど。
レギュラスとの会話は多くない。
静かで重たく、沈黙の中に愛が宿る。
触れれば深く沈むような、暗い湖底のような愛。
対照的に、シリウスは――
光そのものだった。
まるで絶えず火花が散るような、きらきらした音で世界を満たす。
アランは杖を動かす。
「ありがとう。シリウス、あなたと話すと、一生分笑った気持ちになります。」
文字が空中に浮かぶと、
シリウスは少し照れたように鼻をこすった。
「そんな大げさな。」
でも嬉しそうに笑った。
「でだ、アルタイル。おまえのママは飯食ってるか?」
シリウスが真剣な顔で問いかける。
少年は少し胸を張って答えた。
「はい。食べてないときは僕が言うようにしてます。」
「よし、それでこそ男だ。」
シリウスは豪快にアルタイルの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
アルタイルはよくシリウスに懐いた。
父レギュラスよりもずっと。
レギュラスの愛は深いが、どうしても重い。
誇りと期待がいつも影のようにまとわりつく。
それが幼いアルタイルには息苦しいのだろう。
シリウスは違った。
気取らず、対等で、明るく、守るべき相手ではなく、
一緒に笑う相手としてアルタイルを見てくれる。
その優しさは、アルタイルの心に簡単に入り込んだ。
そして――
ステラは反対だった。
彼女はいつからかシリウスに近づかなくなった。
レギュラスを絶対的に信じる娘にとって、
“父と対立する思想”にいるシリウスは馴染まなかったのだろう。
アランはそれを悟られぬよう、
「年頃だから」と曖昧な理由をシリウスに伝えた。
本当の理由を言えば、シリウスは深く傷つくとわかっていた。
温室の外、冬の空気は冷たい。
けれどこの小さな空間だけは笑い声で満ちていた。
アランの胸に浮かんだ奇妙な痛み。
レギュラスがいない間、
こうして別の人に救われてしまっているという後ろめたさ。
そしてふと思い出す。
――レギュラスもまた、別の人に救われている。
静かで冷たい愛の奥に、
燃え盛るような欲をむき出しにできる相手。
理解したくないが、セラという女が
レギュラスの光と影の両方を握っている。
アランとシリウスは、
穏やかに心を解きほぐす関係。
レギュラスとセラは、
互いの暗さと欲望を抱き合う関係。
同じ“夫婦の外側の関係”でありながら、
あまりにも違う種類の重さを帯びていた。
その対比が、痛いほどに胸を裂く。
シリウスがふと静かに言った。
「…… アラン。おまえが笑っていれば、それでいいんだ。」
アランは胸の奥に熱が広がるのを感じた。
けれど同時に、耐えがたい切なさも押し寄せる。
――どうしてあなたはそんなにも優しいの。
――どうしてレギュラスはそんなにも遠いの。
杖を震わせながら、
アランは「ありがとう」とだけ書いた。
その文字が消えていく頃、
温室の外で風が吹いた。
まるで、
やわらかな光と刺すような闇の狭間で揺れる心を
すべて見透かされているように。
母が―― アランが――シリウスブラックと会っている。
その事実を知ったのは、ほんの偶然だった。
屋敷の中で、聞き慣れない男の笑い声がふと聞こえた。
母の笑い顔。けれど、それは父に向ける時とは違った。
もっと軽く、自由で、弾むようで――
幼い頃、母を笑わせていたあの人の声が混ざっていた。
シリウス。
かつての自分にとって、兄のように親しい存在だった人。
彼はいつも自分を抱き上げ、空に放り投げては受け止めてくれた。
大きな手のひらも、暖かくて少し雑な抱きしめ方も、
あの頃のステラには安心の象徴だった。
――でも、あれは幼い頃だけだ。
自分の立つべき場所を理解してからは、
気軽に抱きつくなんてできなくなった。
ブラック家の娘として生まれたということは
誇りと責務の両方を背負うということ。
父レギュラスブラックの思想。
純血の頂点としての重圧。
魔法界全体を動かす闇の陣営の中心にいる男の娘として。
シリウスの所属する騎士団は――
何度も父の思想を否定し、
父を法廷で追い詰めようとしてきた集団だ。
その事実を知った瞬間、
ステラの胸にあった“幼い日の憧れ”は音を立てて崩れた。
父を、誇りを、家を――敵視する者。
その中に彼がいる。
幼い頃感じた“兄のような優しさ”は、
敵の姿をした影へと変わっていった。
だが……怖かったのは、それだけではない。
夜、寝台の上で目を閉じても眠れない日が続いた。
母の心が、もしシリウスに向いてしまったら――
そんな悪夢のような想像が、繰り返し胸に浮かぶ。
母は静かな人だ。
声を持たず、感情のほとんどを目で語る。
それなのに、シリウスの前ではどこか温度が違う。
“父に向ける愛”が、
もしシリウスブラックに向けられるものに変わってしまったのなら。
母がレギュラスブラックの妻であることをやめたら。
――自分の母ではなくなる。
それが何よりも恐ろしかった。
自分は、ただでさえ母の愛を独占したことなど一度もない。
いつだってアルタイルがいる。
そしてメイラという、奇妙な位置に立つ女もいる。
母が誰かの手を取るたびに、
ステラの居場所は少しずつ削られていく気がしていた。
もしその“誰か”が父の対立する男シリウスだったら――
母ごと奪われるのではないか。
自分という存在が、完全に消されてしまうのではないか。
シリウスを拒む理由は、ただ一つ。
――母を失うかもしれないという恐怖だった。
純血の娘としての誇りではない。
政治的立場でもない。
もっと幼く、もっと生々しい、
“居場所を奪われる痛み”だった。
シリウスは時折ステラに視線を向ける。
寂しそうに、何かを期待しているように。
けれどステラは目を逸らす。
声をかけられても、無表情のまま丁寧に頭を下げ、
その場を立ち去る。
心の奥底は嵐のように荒れているのに、
表には何ひとつ出さない。
――近づきたくない。
――触れられたくない。
――母を奪わないで。
そう叫びたくても、
ステラはそんな惨めな言葉を吐く娘ではない。
父の娘としての誇りがそれを許さない。
だからただ、静かに距離を置く。
拒絶していると悟られないように、冷たくなりすぎないように。
それでも確かに一線を引く。
その沈黙こそが、
ステラが抱えた深い恐怖の正体なのだ。
ブラック家の長女ステラ・ブラックは、ついにホグワーツへ入学する年齢になった。
馬車の窓に映る少女の顔はあまりに整っていて、
父レギュラス譲りの彫刻のような輪郭と、
母アラン譲りの柔らかな気配が共存していた。
だが何より目を奪うのは、
セシール家の血が色濃く宿った翡翠色の瞳――
深い湖面をそのまま閉じ込めたような、
ただ見られるだけで人の呼吸を奪う光だった。
ステラ自身、その瞳が自分の誇りであると同時に、
どうしようもない“痛み”を呼び覚ますものでもあった。
翡翠色は、母アランの瞳の色。
けれど、母の愛は……
決して自分だけのものではなかった。
幼い頃から、ステラは母に抱きつくたび、
胸の奥で言いようのないざらつきを感じてきた。
愛されている。
大切にされている。
それは確かにわかる。
だがその愛は――
幼いステラが求めるほど、
“自分だけに向いたもの”ではなかった。
弟アルタイルの存在はいい。
後継として重宝されることも理解している。
嫉妬はあるが、まだ飲み込めた。
けれど。
どうしても理解できない存在がもうひとりいた。
――メイラ・ウォルブリッジ。
マグルの女。
純血の名家ブラック家の屋敷で、
堂々と息をし、
母アランのそばで微笑んでいた。
メイラの手を引く母の仕草、
優しく抱き寄せる腕、
笑ったときの柔らかい眼差し――
すべてが胸の奥で棘になった。
どうして?
どうして自分の母が、魔力を持たないマグルを、
あんなにも大切にするのか……?
この問いはステラの中で
触れるたびに痛みを呼び、
言葉にすれば母を傷つけてしまうと知っていたから、飲み込むしかなかった。
“メイラさえいなければ”
そんな考えが頭をよぎるとき、
ステラは自分自身に恐怖した。
ブラック家では、
男児であるアルタイルに圧倒的な期待が注がれていた。
ステラは幼いながら、
“女は家を継がない”という現実を早々に理解した。
その一方で、
父レギュラスへの思いは、
崇拝にも似た感情を孕んでいた。
魔法界で名を轟かせる男。
恐れられ、畏敬され、
闇にも光にも通じる完璧な支配者。
父を称して“悪魔のような男”と囁く者は多かった。
マグル孤児院の惨劇。
狼人間食殺許可法。
騎士団夫妻の精神を破壊し、生きたまま返した噂。
ステラはそれらをすべて耳にしている。
だが――揺らぐことはなかった。
むしろ。
当然ではないかとさえ思う。
魔法族は神に選ばれた存在。
マグルは持たざる者。
犠牲になることすら、世界の秩序だ。
母の一族セシール家を滅ぼしたのもマグルだ。
ならば、彼らが恐れられ、罰せられることに
何の疑問があるだろう。
騎士団の掲げる“マグルとの共存”。
そんな理想論は、
ステラには滑稽としか映らなかった。
ただ一度、
ステラはほんの少しだけ
自分の思想を母アランに話したことがある。
その瞬間、
アランの手が震えた。
杖を握る指が細かく震え、
悲しみとも恐怖ともつかない文字が
空中に書き殴られた。
――その考えは危険です。
その一文だけで十分だった。
母の真剣な眼差し。
声を持たないのに、
必死に伝えようとするその姿。
ステラの胸は痛んだ。
母とは、根本が違う。
愛しているのに、理解できない。
思想が交わらない。
その現実が、
どれほど少女の心を締めつけたか。
だからステラは、その話題を二度と口にしなかった。
馬車が揺れる。
遠くホグワーツの尖塔が見えてくる。
ステラは胸に手を置いた。
美しくも、どこか冷たい翡翠の瞳がかすかに揺れる。
愛している。
母を愛している。
父も、弟も、この家も。
だが――
この家の価値観に順応すればするほど、
母アランとは遠ざかっていく。
その矛盾が、
ステラをひどく孤独にした。
母の愛を求める心と、
純血主義に染まる心が同時に育ってしまった少女。
ホグワーツへ向かう道は、
彼女にとって、
光と影が入り混じる新たな始まりだった。
ホグワーツ行きの馬車を送り出してしばらく、
レギュラスは屋敷の前庭に立ち尽くしていた。
風が吹くたびに、
ステラの長い黒髪が揺れた姿を思い出す。
あれは、まぎれもなく――
自分の娘だ。
アランの柔らかさを纏いながら、
内面はいつの間にか、
自分の影を濃く宿し始めている。
誇らしい、とレギュラスは思った。
純粋に。何よりも。
ブラック家の名に相応しい気高さ。
誰にも怯えぬ意志。
魔法族の持つべき誇りへの信。
そして――
あの翡翠色の瞳の奥に揺れる“影”。
あれは、かつて自分が少年の頃に抱いていた影と同じものだった。
“魔力ある者は、選ばれし者である”
“持たざる者は、導かれるべき存在である”
そんな思想が、
ステラの中で静かに育っているのを、
レギュラスは知っていた。
アランがどれほど諭そうとも、
あの娘は自分の流れを受け継ぐ。
それは血が決めるものだ。
ステラが自分に似ていく。
それはレギュラスにとって最大の歓びだった。
娘はきっと、
魔法界の上に立つ存在になる。
アルタイルが“力の象徴”ならば、
ステラは“思想の象徴”になれる。
あの翡翠の瞳で世界を見渡し、
人を射抜くような冷徹さと、
美しく凛とした自尊心を持った少女。
思えば――
こんなにも誇りに満ちた娘を得ることになるとは
かつての自分は想像もしなかった。
だが、同時に。
胸の奥で、ひどく小さな棘のような感情が疼いていた。
――危うい。
ステラは、自分よりも純粋に、
純血至上を信じ始めている。
自分は政治という現実の中で
何度か折れ、歪み、調整しながら
思想を操れる“余白”を持った。
だがステラには、その余白が薄い。
アランが必死に止めても、
あの子は自分の中の“真理”から目をそらさない。
たとえば――
マグルの少女メイラを嫌う目。
アルタイル以外の誰も信用しない頑なさ。
母アランの優しさすら理解しきれない幼い現実主義。
その全てが、
レギュラスの若い頃を思い出させる。
似ている。
あまりにも、危ういほどに。
似すぎている。
そこに誇りと同時に、
消えない恐怖のようなものが生まれる。
ステラに柔らかさを与えるのはアランだけだ。
あの声なき優しさが、娘の心をぎりぎりのところで
無垢に引き戻している。
もしアランがいなければ――
ステラはきっと、
自分などより遥かに恐ろしい魔法使いになっていただろう。
レギュラスは窓辺に立ち、
アラン がアルタイルを抱く姿を見つけた。
アランの指がそっと揺れる。
アルタイルに触れるその仕草は、
なぜか胸をひどく締め付けた。
ステラにも、あの柔らかさが必要だ。
そう思う一方で、
アランの優しさとステラの強さが
永遠に交わらない気がして、
ひどく寂しさが胸を打つ。
娘は自分に似ていく。
それは誇らしい。
だが同時に、
その“似すぎている運命”が
いつか娘自身を呪うのではないか――
レギュラスは、そんな考えを振り払えなかった。
けれど。
ステラはもう、自分たちがつくった世界へ歩き出してしまった。
その背中の翡翠の輝きは、
美しく、気高く、危うい。
この娘は、いずれ世界を動かす。
その力は自分をも飲み込む。
そう悟りながら――
レギュラスは、ただ静かに嬉しかった。
ボグワーツの休暇で久しぶりに屋敷へ戻ると、
玄関ホールに柔らかな光が漂っていた。
磨かれた大理石の床には
シャンデリアの灯が揺らぎ、
その中央でメイラが深く一礼をしてステラを迎えた。
「おかえりなさいませ、ステラ様」
その声音は淀みなく、
所作はまるで貴族の侍女のように洗練されていた。
――それが、癪に障った。
魔法も持たないマグルの女が、
あたかもブラック家の“格”にふさわしいかのように
振る舞っていることが。
ステラの胸が静かにざわつく。
「母は?」
「アルタイル様とご一緒です。
リビングでお休みになっています」
メイラはステラのローブを丁寧に受け取り、
圧縮呪文がかけられているため見た目より重い荷物を
両腕で抱え上げようとした。
ぎゅ、と指が震えている。
魔法が使えず、ただ肉体で運ぼうとしている――
その姿が、どうしようもなく“みすぼらしい”ものに映った。
なのに。
なぜ、この女は母の隣に立つ資格があるの?
「持たなくて結構よ」
冷たく吐き捨てると、
ステラはひと振りで荷物に浮遊呪文をかけた。
荷物はふわりと浮かび、階段の方へ滑っていく。
「すごいですね、ステラ様……!」
メイラの目が純粋な憧れで輝く。
その無邪気さが、逆に腹立たしい。
――たかが浮遊呪文に、何を感動しているの。
ステラは舌の奥が疼くような苛立ちを覚えながら、
荷物を自分の部屋の前に運んだ。
そしてゆっくりと、メイラの方へ向き直る。
「……ひとつ教えてほしいのだけど」
静かな声だった。
けれど、空気はわずかに冷えていく。
「あなたは、なぜこのブラック家で養われているのかしら?」
メイラの肩がびくりと震えた。
「え……あの……
わ、私は…… アラン様のお世話を……」
「母は純血よ。
マグルごときの世話なんて必要かしら?」
刺すような言葉だった。
メイラの表情が凍り、瞳が揺れた。
その反応が――
ステラには、たまらなく“弱々しく”“惨め”に見えた。
「幼い頃に……ブラック家に助けていただきましたから……
その恩を……返したくて……」
「恩?」
ステラは小さく笑った。
その笑みには、幼さと残酷さが同時に滲んでいる。
「あなたごときが返せる恩に、何の価値があるのかしら?」
メイラの喉が詰まったように震え、
言葉が出ない。
ステラはその沈黙を“正解”だと思った。
――やっぱり、あなたはここにふさわしくない。
その思いが胸の中でゆっくりと形をとっていく。
幼い少女の心に生まれた、
“母を奪われたような痛み”が
鋭い牙となってメイラを刺しているのだと、
ステラは自分で理解できていなかった。
ただ、胸の内には
説明のつかない黒い塊が膨らみ続けていた。
そしてメイラはただ、俯いたまま震えていた。
その姿が、ステラをさらに苛立たせる。
「……覚えておいて。
あなたがここにいる理由は、
“母が望んだから”であって――
ブラック家が望んだわけじゃないの」
メイラの瞳が揺れ、
涙のように光る瞬間があった。
ステラはそれを見ると、
胸がざわつき、息が少し乱れた。
“何か”を言い過ぎた気がした――
でも引き返す術もわからなかった。
ただ、静かに部屋の扉を閉めた。
バタンと響いた音は、
奇妙なほどに重く、長くステラの胸に残った。
ステラがホグワーツから戻った日の夕刻、
屋敷の空気はどこか妙に冷えていた。
扉を開けた瞬間に感じる、あの微かな軋み――
誰かが泣いたあと、あるいは誰かが怒りを飲み込んだあとにだけ漂う、
不自然な静寂が屋敷中に薄く張りついているようだった。
レギュラスは廊下を歩きながら、その違和感をすぐに察した。
魔力感知ではない。
長年、魔法と人心の裏側を読み続けてきた者にしかわからない、
“空気の濁り”があった。
リビングに入ると、メイラが小さく背を丸めて立っていた。
気づけば指先が布エプロンを握り、 手が白くなるほど震えている。
「……メイラ」
名前を呼ぶと、メイラはびくりと肩を揺らし、
涙の痕を残したまま頭を下げた。
「す、すみません……あの……ステラ様に……」
声を絞り出すように、
しかしそれ以上は言葉にならなかった。
レギュラスの胸が、静かにざわめいた。
――ついに、この時が来たか。
メイラの頬に残る赤み。
目を合わせられないほどの怯え。
言葉を続けられない沈黙。
それら全てが、雄弁に物語っていた。
ステラが、初めて“誰かを踏みつけた”のだと。
レギュラスは深く息を吸い、吐いた。
怒りではない。
焦りでもない。
――これは、いずれ起きるとわかっていたことだ。
メイラを屋敷に置くことを許したのは、
本来ならあり得ない妥協だった。
かつてメイラを“保護施設”に送った時、
そこが狼人間の食殺用のマグルを選別する組織だと知ったアランが
声なき叫びで自分を責めた日のことを、
レギュラスは今でも鮮烈に覚えている。
喉を震わせ、杖で床を叩き、
泣き崩れながら必死に“倫理”を訴えてきたアラン。
あの痛むような視線が、
レギュラスをして唯一折れさせた。
だからメイラを屋敷に入れた。
本当は二度とマグル女をこの屋敷に足を踏み入れさせたくなかったが。
アランとの亀裂を埋めるために、
レギュラスはその選択を呑んだ。
――だが、それはステラにとっては毒だったらしい。
幼い頃は共に遊んでいたが、
年齢を重ねるごとにステラの瞳は変わっていった。
母の翡翠とは違う、
灰銀色に近い“冷たさと選別”を宿した瞳。
レギュラスはそれを見たとき、
うっすらと嫌な予感を感じていた。
自分に似すぎている。
思想の骨格が、あまりにも似ている。
魔法族とマグルの区別。
選ばれし者と持たざる者の差。
守るものと切り捨てるものの線引き。
幼いステラの中で、それが“真理”のように固まりつつある。
レギュラス自身が、かつて信じて疑わなかった思想と同じだ。
そして――
子供は加減を知らない。
レギュラスには“折れ時”がわかる。
犠牲を最小限にとどめるために手を緩め、
倫理を装い、社会の目を欺くための
絶妙な“さじ加減”が理解できる。
だがステラはまだ十一歳だ。
“正しいと思った方向に、最短距離で突進する”。
それが一番恐ろしい。
レギュラスはゆっくりメイラの前に立つと、
静かに問うた。
「……ステラは、何と言いました?」
メイラは首を横に振るだけ。
言葉を告げることを恐れている。
その反応を見て、レギュラスは確信した。
ステラが本気でメイラを“貶めた”のだと。
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
――自分の娘が、自分と同じ道を辿ろうとしている。
――そしてその道は、アランを必ず傷つける。
それだけは避けなければならない。
レギュラスは静かに目を閉じ、
娘のことを考えた。
ステラは賢く、優雅で、誇り高く、
そして――危うい。
魔法族の誇りをそのまま刃にしてしまうような、
鋭すぎる才能。
「……僕が話をします。
メイラ、今日は部屋で休みなさい」
優しい声音だったが、その奥は深い緊張で満ちていた。
ステラの思想は、放っておけば確実に
“破壊者”になる。
――止める。それが父である自分の役目だ。
レギュラスは静かに踵を返し、
ステラの部屋へと向かった。
扉の向こうに待つのは、
まだ幼い“危険な魔法族”だった。
自分に似すぎた、愛してやまない娘。
その思想をどう軌道修正するか――
レギュラスは生涯で初めて、
“教育”という名の戦いに挑もうとしていた
久しぶりに家族全員が揃った夕餉の時間。
長い楕円の黒檀のテーブルには、屋敷中の灯りが反射し、
黄金のカトラリーが小さな星のように輝いていた。
しかし、その中心に座る母アランは――少し痩せた気がした。
頬が削れて、細い手首が袖口から覗く。
産後の疲れがまだ残っているのだろう。
それとも、もっと別の理由で消耗しているのか。
ステラにはわからなかった。
ただ、強烈にわかったのは――
まだ母を一度も独り占めしたことがないのに、
こんなにも遠い存在のまま、
いつか失ってしまうのではないか。
その恐怖が、胸の奥をぎゅう、と強く締めつけた。
父が正式にブラック家の家督を継いだ今、
祖父オリオンも祖母ヴァルブルガも、この屋敷から去った。
その結果――
メイラが、堂々とこの食卓に座るようになった。
以前なら絶対にあり得なかった。
あの二人はマグルに触れられることすら嫌悪したからだ。
その価値観は、幼かったステラの中にも深く染み込んでいる。
だから今日、
銀食器の軽やかな音に混じって、
マグルの柔らかい声が食卓に響くことが、
どうしても許せなかった。
母が、メイラの話す言葉に微笑む。
父でさえ、それを黙って受け入れている。
その光景に、
ステラは内心で怒りが煮立つのを感じた。
――この高貴なるブラック家の食卓で。
――マグルの声が響くことを。
――父は本当に赦しているの?
誇り高い純血の頂点に立つ男が。
理解できなかった。
理解したくもなかった。
「ステラ、ボグワーツはどうでした?
得意科目は何です?」
父レギュラスが穏やかな声で問う。
その声音だけは昔から優しくて、
ステラはどこか誇らしさすら感じてしまう。
「ありませんわ。」
即答した。
「あなたは全教科できるでしょうね。
――僕の娘ですから。」
父の微笑みに、胸が少しだけ熱くなった。
自信と誇りを与えられ、
それがステラの価値を一層固くする。
そう、自分は“レギュラス・ブラックの娘”なのだ。
全てにおいて最良点を取る以外の人生など、
初めから選択肢にない。
アランがそっと杖を振った。
淡い光が文字を形づくる。
『本当に誇らしいわ。
私の娘とは思えないほどよ。』
優しい笑顔だった。
美しくて、静かで、柔らかい母の顔。
――だが、その言葉だけは
ステラの胸に冷たい棘のように刺さった。
私の娘とは思えないほど。
どういう意味なのだろう。
母はかつて教育を受けられなかった。
幼い頃から闇の帝王の地下に幽閉されていたという過去を
ステラも知っている。
だから母は、自分より賢い娘を
“誇らしい意味”で言ったのだろう。
――わかっている。それは理解している。
それでも。
それでも。
心の奥で別の声が叫んだ。
じゃあ、誰の娘だというのか?
この横に座るマグルの女のほうが
あなたにとっては近いというのか?
メイラの笑顔が視界にちらりと入る。
不思議そうに、嬉しそうに、
自分の褒められたわけでもないのに微笑んでいる。
その瞬間、
胸の奥の苛立ちが、ふわりと湧き上がり、
頬を内側から熱くした。
ステラはかすかに口角を上げ、
礼節の微笑みを浮かべた。
――決して表に出さない。
――出せば母を悲しませるから。
だが心の内側で、
黒い影のような感情が静かに広がっていく。
“母を奪ったのはこの女だ”
という感情が。
その感情の危うさに、
ステラ自身まだ気づいていなかった。
ホグワーツ大広間の天井に、夜空の魔法が淡く揺らめいていた。
組み分け帽子の古い声が響く。
「――スリザリン!」
その瞬間、緑と銀のテーブルがざわめきに揺れた。
ステラ・ブラック。
純血の名家ブラック家の長女。
レギュラス・ブラックとアラン・セシールの娘。
リーマスは教員席から静かにその姿を眺めていた。
まだ十一歳。
しかし、その瞳に宿る光は、すでに少女のものではなかった。
凛とした直立。
背筋の一本も揺らがない。
気迫にも似た、誇りの匂い。
アランの持つ透き通る翡翠のような美しさを兼ね備え、
それにレギュラスの静かな冷気と影を重ね合わせたような――
そんな危うい調和が、すでに彼女の中で完成しつつあった。
リーマスが担当する防衛術の授業。
最前列でもなく後ろでもなく、中央よりやや前。
ステラはいつもそこで座っていた。
姿勢は寸分の乱れもなく、
筆を取るときの動作すらも洗練されている。
努力を努力の顔で見せる生徒ではなかった。
――これは、生まれついての“領域”だ。
そんな印象すら抱かせる。
ステラが立って呪文を唱えるたび、
クラスの空気がわずかに引き締まるのをリーマスは感じた。
はっきりと言葉を紡ぎ、
杖先の動きは迷いなく、
十一歳とは思えないほど正確だった。
力量の高さよりも、
“迷いがない”ことの方が気になった。
普通の子は、自信の裏に怯えがある。
けれどステラには不安の影は一片もなかった。
休み時間、スリザリンの男子生徒たちが
ステラを囲むように話しかけることがあった。
「ステラ、良かったら――」
「課題、一緒にしない?」
「君の呪文の癖を教えてほしいんだ」
どの顔も年相応の好意と興味に満ちている。
しかしステラは、微笑みすら浮かべず、
ただ静かに目を伏せて言うのだ。
「興味ありませんわ。」
拒絶の仕方ひとつにも品があった。
だが品の奥に、明確な線がある。
“選ばれた血の者以外、私の隣には立てない。”
そんな無言の理を突きつけられているようだった。
男子たちはその冷たさすら魅力だと言わんばかりに
ますます惹かれていく。
――危うい、と思った。
レギュラスによく似ている。
魅了し、引きつけ、
しかし決して手の届かない高さに立ち続けるところが。
廊下を歩けば振り返る者が多い。
ステラの黒髪は、アランゆずりの柔らかい光沢があり、
翡翠の瞳はろうそくの火を反射してまるで宝石のようだった。
おまけに成績は常に最上位。
礼儀・身のこなし・発言、どれも完璧。
女生徒たちが囁いている。
「高嶺の花よね……」
「完璧すぎて、近寄るのが怖いくらい」
「でも、ステラ様が笑ったらきっと嬉しい」
敬意と憧れ。
それが自然とこの少女の周りに生まれていた。
ステラの翡翠の瞳が教室の光を受けて煌めくたびに、
リーマスの心には奇妙なざわめきが走る。
美しさの奥で、何かが静かに育っている。
誇り、優秀さ、気高さ――
それらはすべて良い。
だがそこに“偏り”が混じると、
少女は父よりも危険な存在になる。
リーマスにはそれが見えた。
アランゆずりの純粋さと、
レギュラスゆずりの冷徹さが――
まだ幼い器の中では混ざらず、
二層にくっきりと分かれている。
そして、その境界線が揺れ始めている。
チャイムが鳴り、生徒たちが一斉に立ち上がる。
ステラはリーマスに軽く頷いた。
「本日の授業、刺激的でしたわ。先生。」
その声音には丁寧な礼儀と、淑やかな艶が混ざる。
十一歳の少女のそれではなかった。
リーマスは思う。
――レギュラス、君はどんな子を育ててしまったんだ。
そして同時に。
―― アラン、君はこの娘の“危うさ”に気づいているのだろうか。
ステラはスリザリンの緑のローブを揺らし、
堂々と教室を去っていった。
その背中にひらめく黒髪が、
闇の中の星のように静かに輝いていた。
白大理石の床が、レギュラス・ブラックの足音を澄んだ反響で返した。
高い天井から吊るされた光球が、冷たい光を注ぎ、
法廷の空気は、緊張と沈黙が折り重なって張り詰めている。
議長席に座る者たちの顔は硬く、
裁判席には騎士団側の重鎮たち――
ジェームズ・ポッター、リーマス・ルーピンの姿があった。
事件は単純だ。
魔法省直属の魔法兵が、マグル武装集団の一部を「違法に拘束」したという告発。
法務部の責任者として、レギュラスが答弁に立たされていた。
「確かに――」
レギュラスの声は、低く澄んで、静かに法廷を満たした。
「調査したところ、魔法兵たちの中に、独断で暴走した者がおりました。
その行為は、魔法省の理念にも、我々法務部の誇りにも反します。」
ざわり、と空気が揺らぐ。
純血主義者の筆頭格が、マグル側の指摘を“認めた”のだ。
レギュラスは続ける。
「該当者の処分については、騎士団側の裁量に委ねます。
魔法兵の名誉が傷つくことのないよう、法務部は速やかに改善を行います。」
その朗々とした声は、責任者として完璧に整っていた。
言い訳も、押しつけも、権力の威圧もない。
ただ――美しいまでに、折れた。
折れるべき時に折れるという、“策略”の仕草だった。
ジェームズが眉を跳ね上げる。
「どういう風の吹き回しだい? ブラック。」
ほんの皮肉のように吐き出した声だったが、
その奥には、“理解できない”という戸惑いが濃かった。
レギュラスは足を止め、振り返る。
灰銀色の瞳は微動だにしない。
「何か、問題でも?」
答え方は極めて丁寧なのに、
その実、相手の言葉の本質を踏みにじるような程の冷ややかさがあった。
リーマスがジェームズの肩に触れ、落ち着かせるように一歩前に出る。
「驚いてるだけだよ。
君が、こんなふうに“素直に認める”なんて。」
「こちら側の非ですから。
当然の判断でしょう。」
レギュラスの声音は、どこまでも澄み切っていて、
一切の濁りがなかった。
騎士団側は、マグルへの不当拘束の件で魔法兵を追及している。
だが――レギュラスの頭の中ではまったく別の計算が進んでいた。
騎士団に、魔法兵の“管轄権”を奪われるわけにはいかない。
魔法兵を失えば、
純血社会の力は半分失われると言ってもいい。
それほどまでに彼らは、魔法界の“武力”なのだから。
もし今回の不祥事を
「そんな事件はなかった」とねじ伏せてしまえば――
・騎士団は躍起になって再調査を始める
・世論が騎士団側につく
・魔法兵の権限を魔法省から剥奪される未来も、十分あり得る
――面倒だ。
――実入りがない。
だからこそレギュラスは、
この程度の不祥事ならば、騎士団に“餌”として差し出した。
魔法兵の上官たちを震え上がらせるのにも丁度いい。
折れたふりをして、より強固に支配する。
それが、レギュラスのやり方だった。
「君が、そんな殊勝な態度を取るとは思わなかったな。」
ジェームズの声には皮肉と怒りが入り混じっている。
彼にとって、レギュラスは“決して折れない悪魔”だった。
レギュラスはふと、微笑んだ。
それは、魔法法廷の冷えた空気の中に溶けていくような、
どこか透明な微笑みだった。
「折れるべき時に折れるだけです。
必要な犠牲は、最小限に。」
その言葉には――
法廷中の誰もが気づかないほど静かに、
鋭利な刃が隠されていた。
レギュラスが背を向け歩き出すと、
黒いローブの裾がひらりと揺れた。
その後ろ姿は、
敗北でも服従でもなく、
“勝ち戦の帰途”そのものだった。
ジェームズは悔しげに舌打ちする。
「……あの男、いったい何を企んでいる。」
リーマスだけは、静かに目を閉じた。
「何も変わってないよ、ジェームズ。
ただ――
あれは、折れたふりをしているだけだ。」
魔法法廷の白い光の中で、
レギュラス・ブラックの影は、
誰よりも静かで、誰よりも濃く伸びていった。
久しぶりに会うセラ・レヴィントンは、
変わらず艶めいていた。
闇が落ちた街路に立つ彼女の姿は、
灯りの少ない魔法省裏道の寂れたアーチの下でも
ひとりだけ色彩を持って輝いているようだった。
もう何年になるのだろう――
レギュラスは思う。
切るべきだと何度思っただろう。
切れると何度言い聞かせただろう。
それでも彼女と会う夜は、
いつの間にか別の必然のように
自然に自分の生活へ戻ってきてしまう。
そんな自分が、
たまらなく情けなく、
それでいてどうしようもなく彼女に惹かれ続けていた。
セラが紙袋を差し出す。
「どうぞ、懐かしいでしょ? あなたの好きなサンドイッチ。」
レギュラスは思わず笑った。
「そういえば……昔は毎日のように頼んでいましたね。」
紙袋はあたたかく、
セラの手の熱がまだわずかに残っている。
初めて会った頃、
彼女はあのカフェで店員をしていた。
レギュラスは昼休みにサンドイッチを買い、
店先の席で書類を読んで過ごした。
そのうち、
昼より夜に、
食事より行為に、
いつの間にかすべてがすり替わっていた。
彼女の丁寧な仕事ぶりを気に入ったはずが、
いつの間にか別の何かを求めるようになっていた。
アランとの行為が少なくなり、
その空白を埋めるように
セラの身体に逃げ込む夜が増えた。
どれだけ抱いても、
アランとの差は埋まるどころか
むしろ痛いほど広がっていくのに。
わかっているのに。
それでも切れない。
夜の冷たい風が、レギュラスの襟元を震わせた。
「そういえば――」
セラが紙袋をサイドテーブルに置きながら言った。
「あなたの娘、ボグワーツに入ったんですってね?」
何気ないようで、
鋭利なものを含んだ問い。
「本当に……好きですねあなたは。ブラック家のことも、僕の家族のことも。」
レギュラスは微笑を返すしかなかった。
セラの情報収集力は昔から異常に鋭い。
「気になるじゃない。」
セラが楽しそうに肩をすくめる。
「恐ろしいほどに気が強い娘ですよ。」
口にして、レギュラスは自分でも苦笑した。
娘のことを誰かに語る時、
気が強い――その言葉しか出てこない。
確かに美しい。
アラン譲りの翡翠の瞳も、セシール家の静かな気品もある。
だがその奥には、
レギュラスと同じ冷たさ、揺らがない芯、他者を寄せつけない威圧。
そんな“ブラック家の血”が、
彼女の中に濃く流れている。
柔らかさがアランに似ていれば、
男たちは群がっただろう。
だがステラは違う。
近寄る者を選別し、
合わぬ者には露骨なほど関心を向けない。
――まるで自分だ。
その事実が、
誇らしいようで、
同時にどこか危険な影も見せる。
セラは唇に笑みを浮かべていた。
「気が強い娘……それ、あなたにそっくりじゃない。」
「……否定できませんね。」
「そりゃあ興味があるわよ。美しい子でしょうし、あなたみたいな危うい光を持ってるんでしょ?」
「危うい……ですか。」
「あなたも娘も、ほら……“線を越えることを恐れない顔”をしている。」
セラの言葉は、
レギュラスの胸の奥のどこかを冷たく撫でた。
娘の危うさも、
自分の危うさも、
セラは簡単に見抜いてしまう。
紙袋の中のサンドイッチは冷め始めていた。
セラは何気なく指先でレギュラスの胸元を撫でる。
「ねぇ……久しぶりだけど、なんだかあなた、前よりずっと大人になった気がするわ。」
「そうでしょうか。」
「ええ。でも……まだ切れないんでしょう? わたしたちの関係。」
その問いに、レギュラスは笑うしかなかった。
――切りたい。
――切れない。
その矛盾の間で揺れ続ける。
アランとの行為は、
どれほど慎重に交わっても心の深い水脈の部分で触れ合える。
癒やされ、満たされ、浄化されていくような感覚がある。
けれどセラとの行為は、
刺激、依存、逃避、虚無、衝動。
その全てを詰め込んだ、
“闇の快楽”だった。
どちらもレギュラスの一部であり、
どちらも必要だった。
その醜さを、
もっともよく知っているのがセラであり、
もっとも受け入れてくれるのもセラだった。
それが、切れない理由だった。
「娘さんに会ってみたいわ。」
「……やめてください。あなたは、騒ぎを起こしすぎる。」
「ふふ、相変わらずねぇ。」
セラの手が、レギュラスの頬に触れる。
軽く、記憶を弄ぶみたいな触れ方だった。
「ま、いいわ。今日はこれだけ。」
セラは踵を返し、闇へ消える。
その背中は昔より少しやせ、
しかし何もかもを知っている者の余裕に満ちていた。
残り香だけが夜気に漂う。
レギュラスはひとり立ち尽くす。
娘の未来。
アランとの関係。
セラとの繋がり。
政治の渦と暴力の影。
全てを背負った肩は、
この数年で確かに重くなった。
けれど――
それでもなお、切れない関係がある。
セラが夜に残していった熱は、
レギュラスの胸の奥の“情けなさ”と“弱さ”を
痛いほど浮かび上がらせる。
闇の香りとともに。
その日アランは、屋敷の裏庭にある離れの温室でシリウスと会っていた。
ガラス越しに冬の陽が柔らかく差し込み、空気は冷えているのに、温室の中だけ穏やかにあたたかい。
レギュラスが法務部で過ごす日、
こうして密かに会うようになって何年経つのだろう。
終わらせようと思ったことは何度もあった。
けれど、背中に張り付くような閉塞感を抱えた日々の中で、
シリウスが運んでくれる“飾り気のない自由”は、
まるで陽だまりのように心をほぐしてくれる。
杖を振らなくても伝わる気楽さと、
言葉を失った自分でも笑わせてくれる明るさ。
アランの胸の奥深くを、
いつも蜃気楼のように軽やかに撫でていく存在だった。
「聞けよアラン、今日のバカな話。」
シリウスは腰に手を当て、得意げに語りだす。
「ジェームズがな、騎士団の会議でまた偉そうに演説ぶったんだよ。
あいつ、“正義は必ず勝つ!”って机叩いた瞬間、
自分のマントの裾で隣のヤツの紅茶ひっくり返しやがってさ。
真っ白い書類が全部茶色になって、もう阿鼻叫喚。」
アランは肩を震わせる。声が出ない分、表情にすべてが出た。
その笑い顔を見るのが、シリウスは何より好きだった。
「あと、リーマスが忘れ物するのはいつものことだけどよ、
昨日なんてパンツ逆に履いたまま講義したんだってよ。
“なんか右側だけチクチクするなぁ”ってずっと言っててさ。」
アランは胸を押さえ、涙が滲むほど笑った。
ほんの一瞬でも、息苦しい日々を忘れられる。
――どうしてこの人の話は、こんなにも引き込まれるのだろう。
不思議だった。
ずっと聞いていたくなる。
何時間でも、何日でも、この声音に身を委ねていたいと思うほど。
レギュラスとの会話は多くない。
静かで重たく、沈黙の中に愛が宿る。
触れれば深く沈むような、暗い湖底のような愛。
対照的に、シリウスは――
光そのものだった。
まるで絶えず火花が散るような、きらきらした音で世界を満たす。
アランは杖を動かす。
「ありがとう。シリウス、あなたと話すと、一生分笑った気持ちになります。」
文字が空中に浮かぶと、
シリウスは少し照れたように鼻をこすった。
「そんな大げさな。」
でも嬉しそうに笑った。
「でだ、アルタイル。おまえのママは飯食ってるか?」
シリウスが真剣な顔で問いかける。
少年は少し胸を張って答えた。
「はい。食べてないときは僕が言うようにしてます。」
「よし、それでこそ男だ。」
シリウスは豪快にアルタイルの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
アルタイルはよくシリウスに懐いた。
父レギュラスよりもずっと。
レギュラスの愛は深いが、どうしても重い。
誇りと期待がいつも影のようにまとわりつく。
それが幼いアルタイルには息苦しいのだろう。
シリウスは違った。
気取らず、対等で、明るく、守るべき相手ではなく、
一緒に笑う相手としてアルタイルを見てくれる。
その優しさは、アルタイルの心に簡単に入り込んだ。
そして――
ステラは反対だった。
彼女はいつからかシリウスに近づかなくなった。
レギュラスを絶対的に信じる娘にとって、
“父と対立する思想”にいるシリウスは馴染まなかったのだろう。
アランはそれを悟られぬよう、
「年頃だから」と曖昧な理由をシリウスに伝えた。
本当の理由を言えば、シリウスは深く傷つくとわかっていた。
温室の外、冬の空気は冷たい。
けれどこの小さな空間だけは笑い声で満ちていた。
アランの胸に浮かんだ奇妙な痛み。
レギュラスがいない間、
こうして別の人に救われてしまっているという後ろめたさ。
そしてふと思い出す。
――レギュラスもまた、別の人に救われている。
静かで冷たい愛の奥に、
燃え盛るような欲をむき出しにできる相手。
理解したくないが、セラという女が
レギュラスの光と影の両方を握っている。
アランとシリウスは、
穏やかに心を解きほぐす関係。
レギュラスとセラは、
互いの暗さと欲望を抱き合う関係。
同じ“夫婦の外側の関係”でありながら、
あまりにも違う種類の重さを帯びていた。
その対比が、痛いほどに胸を裂く。
シリウスがふと静かに言った。
「…… アラン。おまえが笑っていれば、それでいいんだ。」
アランは胸の奥に熱が広がるのを感じた。
けれど同時に、耐えがたい切なさも押し寄せる。
――どうしてあなたはそんなにも優しいの。
――どうしてレギュラスはそんなにも遠いの。
杖を震わせながら、
アランは「ありがとう」とだけ書いた。
その文字が消えていく頃、
温室の外で風が吹いた。
まるで、
やわらかな光と刺すような闇の狭間で揺れる心を
すべて見透かされているように。
母が―― アランが――シリウスブラックと会っている。
その事実を知ったのは、ほんの偶然だった。
屋敷の中で、聞き慣れない男の笑い声がふと聞こえた。
母の笑い顔。けれど、それは父に向ける時とは違った。
もっと軽く、自由で、弾むようで――
幼い頃、母を笑わせていたあの人の声が混ざっていた。
シリウス。
かつての自分にとって、兄のように親しい存在だった人。
彼はいつも自分を抱き上げ、空に放り投げては受け止めてくれた。
大きな手のひらも、暖かくて少し雑な抱きしめ方も、
あの頃のステラには安心の象徴だった。
――でも、あれは幼い頃だけだ。
自分の立つべき場所を理解してからは、
気軽に抱きつくなんてできなくなった。
ブラック家の娘として生まれたということは
誇りと責務の両方を背負うということ。
父レギュラスブラックの思想。
純血の頂点としての重圧。
魔法界全体を動かす闇の陣営の中心にいる男の娘として。
シリウスの所属する騎士団は――
何度も父の思想を否定し、
父を法廷で追い詰めようとしてきた集団だ。
その事実を知った瞬間、
ステラの胸にあった“幼い日の憧れ”は音を立てて崩れた。
父を、誇りを、家を――敵視する者。
その中に彼がいる。
幼い頃感じた“兄のような優しさ”は、
敵の姿をした影へと変わっていった。
だが……怖かったのは、それだけではない。
夜、寝台の上で目を閉じても眠れない日が続いた。
母の心が、もしシリウスに向いてしまったら――
そんな悪夢のような想像が、繰り返し胸に浮かぶ。
母は静かな人だ。
声を持たず、感情のほとんどを目で語る。
それなのに、シリウスの前ではどこか温度が違う。
“父に向ける愛”が、
もしシリウスブラックに向けられるものに変わってしまったのなら。
母がレギュラスブラックの妻であることをやめたら。
――自分の母ではなくなる。
それが何よりも恐ろしかった。
自分は、ただでさえ母の愛を独占したことなど一度もない。
いつだってアルタイルがいる。
そしてメイラという、奇妙な位置に立つ女もいる。
母が誰かの手を取るたびに、
ステラの居場所は少しずつ削られていく気がしていた。
もしその“誰か”が父の対立する男シリウスだったら――
母ごと奪われるのではないか。
自分という存在が、完全に消されてしまうのではないか。
シリウスを拒む理由は、ただ一つ。
――母を失うかもしれないという恐怖だった。
純血の娘としての誇りではない。
政治的立場でもない。
もっと幼く、もっと生々しい、
“居場所を奪われる痛み”だった。
シリウスは時折ステラに視線を向ける。
寂しそうに、何かを期待しているように。
けれどステラは目を逸らす。
声をかけられても、無表情のまま丁寧に頭を下げ、
その場を立ち去る。
心の奥底は嵐のように荒れているのに、
表には何ひとつ出さない。
――近づきたくない。
――触れられたくない。
――母を奪わないで。
そう叫びたくても、
ステラはそんな惨めな言葉を吐く娘ではない。
父の娘としての誇りがそれを許さない。
だからただ、静かに距離を置く。
拒絶していると悟られないように、冷たくなりすぎないように。
それでも確かに一線を引く。
その沈黙こそが、
ステラが抱えた深い恐怖の正体なのだ。
