2章
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レギュラス・ブラックが法務部から姿を消して、ひと月、またひと月と過ぎた。
最初は“公休の延長”と説明がつく程度だったが、二か月を超えた時点で、法務部内はざわつき、三か月を超えたころには、もはや“休暇”という言葉では覆いきれない不自然さが滲み出ていた。
だが、その異様な空白の時間の核心――理由――は、屋敷の内側にいたアランだけが知っていた。
レギュラスは、離れようとしなかった。
朝、カーテン越しの淡い光が室内に差し込むころ、アランがゆっくりと目を開けると、必ずレギュラスが隣にいた。
ソファに凭れたまま、不安の隙を与えないとでもいうように眠らずに本を読んでいる日もあった。
ステラが庭で走り回るときも、レギュラスはその数歩後ろをついていく。
ステラが転べば、メイラが駆け寄るよりも先に抱き上げ、服についた砂を払うのも彼だった。
笑うステラの後ろで、アランの肩越しにそっと手を回し、支える仕草が自然に加わっていく。
食卓には、これまでほとんどなかった“穏やかな沈黙”が流れるようになった。
アランが杖で書く文字を見て、レギュラスは落ち着いた声で応える。
食器の触れ合う音すら柔らかい。
彼は仕事の話もほとんど口にせず、ただアランとステラの様子を細やかに見守っていた。
夜が訪れると、レギュラスは寝室の灯りを落とし、アラン が安心して眠りに落ちるまで傍らに座り続けた。
アランの指が布団の上でそっと彼の手を探せば、レギュラスは即座にその手を包み込む。
息が深く落ち着き、アランの胸が静かに上下し始めるまで、ずっと、離れなかった。
その日々が、ひたすらに積み重なっていく。
レギュラスがそばにいる時間が長くなるほど、アランの胸の奥の“ざらつき”はゆっくりと溶けていった。
あの日、レギュラスの中に見た残酷さ。
その影のような恐怖。
セラという名の女の匂いを感じ取ってしまった時の、不安に震えるような痛み。
それらは、レギュラスの手がアランの背を撫でるたび、髪を掬うたび、指先で頬に触れるたびに、少しずつ形を失っていった。
この男は、恐ろしいほど残忍で、冷酷で、時に誰よりも罪深い。
けれど――同時に、あの地獄のような闇から自分を救い上げた、唯一の光でもある。
救いの手の温度を覚えてしまった以上、
アランの心は、どうしてもこの男から離れられない。
そして距離を縮めるのは、レギュラスの方だった。
ふとした瞬間にアランの頬を撫で、肩を抱き寄せ、手を取り、背を支え、視線の先には必ず彼女がいる。
その過剰ともいえるほどの寄り添いが、アランの中の“疑念”という形を持ったものを次々に溶かしていった。
朝目覚めた瞬間から、
ステラと庭に出る時も、
一緒に紅茶を飲むときも、
夜眠りに落ちる瞬間まで。
ひとつひとつの時間が積み上がるごとに、アランの心の中で
“レギュラスしかいない”という思いが、静かに、しかし確実に深く根を張っていった。
許せないはずの罪も、
恐ろしくて震えた夜も、
胸の奥で刺さっていた痛みも――
レギュラスがそばに居続けた数ヶ月の時間が、すべてを丸く削り、なだらかにし、
気づけば跡形もなく消し去っていた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
アランの世界は、再びレギュラス・ブラックひとりへと収束していく。
彼が与える温度だけで、どんな疑念も恐怖も、すべて打ち消されてしまうほどに。
これは、優しさであり、
そして――静かすぎる支配でもあった。
レギュラスは、日々、静かに積み重なっていく“変化”を見逃さなかった。
アランがふとした拍子に自分の袖を掴む仕草、庭でステラを抱き上げたときにそっと肩に寄り添う体温、夜、読書をしている自分の膝に頭を預けるように横たわる柔らかな重み――。
ゆっくりと、しかし確実に。
アランは再び彼に寄りかかり、心を預けるようになっていた。
かつてアランとの間に立ちこめていた“薄い膜”のような距離。
自分を拒むわけではないが、完全には許していない、そんな見えない壁。
その壁は、あの数か月の寄り添いの中で跡形もなく消え去っていた。
今では、アランの境界線がどこにあるのかすら曖昧だった。
彼女に触れるたび、抱き寄せるたび、アランの心の奥に自分が深く深く染み込んでいる――
レギュラスはそんな確信を持つようになっていた。
その自覚が、胸の奥にあたたかな安堵と満ち足りた幸福をもたらす。
手に入れたのではない。
“戻ってきた”のだ。
あの暗い地下で救った少女が、いま再び彼の手の中に確かに存在している。
やがて産まれてくる子の魔力反応も、医務魔法使いたちはこぞって「男児の可能性が高い」と言った。
レギュラスにとって、それは運命が静かに味方している証のように感じられた。
アランの心も取り戻し、後継も得られる――
完璧な未来図が目の前に広がっていた。
そのせいだろうか。
セラ・レヴィントンの存在は、自然とレギュラスの生活から遠ざかっていった。
欲が消えたわけではない。
ただ、わざわざ屋敷を離れる気力すら削がれるほどに、アランとの日々が満ち足りていた。
ある晩、火照るように温かい寝室でのことだった。
アランは枕元で小さくためらい、杖を取り、迷いを含んだ筆致で言葉を浮かべた。
――まだ、私に……魅力はありますか?
一瞬、その意味を取り違えた。
だが、彼の胸元に頬を寄せ、ついと甘えるように身を寄せる彼女の仕草で、その控えめな問いの本質がすぐに伝わった。
妊娠で変わっていく体。
男の目にどう映っているのか。
女としてどう見られているのか。
アランは今なお、そんな不安を抱いていたのだ。
まさか――とレギュラスは小さく笑って、彼女の頬を指で掬った。
「お腹の子に悪いから、我慢しているだけですよ」
アランは驚いたように瞬きをして――
そのあと、ほんの少し頬を赤く染め、また杖を振った。
――じゃあ、産まれたら……また、しますか?
子供のようにおずおずと、それでいて、内容はどこまでも大人の問い。
そのアンバランスさが、レギュラスの胸をじんわりと掴んだ。
「ええ。もちろん。あなたの体調が戻ったら――お願いします、アラン」
アランは、胸の前で大切なものを抱きしめるように杖を握りしめ、
“早く元気になります”
と文字を浮かべた。
真剣で、純粋で、ひどく愛らしかった。
レギュラスはアランの手を包み込み、額にそっと口づけた。
灯した蝋燭の炎が揺れ、二人の影を寄り添わせる。
――ああ、すべてが整っていく。
手に入れたものは戻らないどころか、さらに深く彼のものへと染まっていく。
アランがこんなにも自分の言葉で揺れ、求め、甘えてくる。
その事実が、どんな勝利よりも甘美で、
どんな権力よりも強い陶酔をレギュラスに与えていた。
幸福と安堵が、二人の間に静かに満ちていく夜だった。
深い冬の夜明けのような静けさの中で、アランはようやく産声を聞いた。
それはステラが生まれた日の泣き声よりも、澄み切って鋭く、力強かった。
その声が屋敷中に響いた瞬間、ブラック家全体がまるで解き放たれたように明るさを帯びた。
「男児だ――!」
助産にあたった医務魔法使いたちがそう告げた途端、オリオンの顔には滅多に見せない誇らしげな光が射した。
ヴァルブルガは美しい順礼服を羽織り、まるで自ら後継者を生み出したかのように高揚し、
使用人たちは慌ただしく祝杯の準備へと走り、
屋敷は歓喜に沸いた。
ステラのときよりも遥かに盛大な祝の宴。
大広間には金糸を織り込んだ幕が張られ、
レギュラスの名を讃える声と、ブラック家の未来を祝する賛辞が飛び交った。
その中心に、赤子――
アルタイル・ブラック
と名付けられた男児がいた。
オリオンが自ら名を与えたことも異例だった。
「レギュラスと並び立つ“星”となれ」
という意味が込められているのだと、屋敷中が囁いた。
――しかし。
その華々しさの陰で、アランは深い闇の淵にいた。
産後のベッドで、アランは自分の体が“壊れている”ことを悟っていた。
目を閉じるだけで痛む。
息をするだけで軋む。
魔力が走れば、裂けた内側に針が突き刺さるような激痛が走る。
医務魔法使いたちは言った。
「この子は、レギュラス様の魔力の影響を強く受けすぎています。
お腹の中にいる段階で、奥方様の魔力許容量を大きく超えていたのでしょう」
つまり――
アルタイルは強すぎた。
あまりにも“ブラック家の子”として完璧すぎたのだ。
レギュラスの血を濃厚に受け継ぎ、
レギュラスの魔力をそのまま受け継ぎ、
レギュラスが望んだ通りの男児で生まれてきた。
だがその代償として、アランの体は許容量を超えてしまった。
回復は遅い。
きっとかなり遅れてしまう。
動けるようになるまで長い時間がかかるだろうと。
祝いの声が響く大広間とは隔離された静かな寝室で、アランは薄いシーツの中で震えていた。
痛むせいではない。
――怖かった。
あの日、レギュラスと交わした約束が胸を刺す。
「体調が戻ったら、また……お願いします」
「ええ。もちろん」
あれほど嬉しそうに言ってくれた。
アランの胸にも確かに小さな光が灯った。
まるで自分がまだ“女として”愛されているのだと、初めて確信できた日だった。
けれど今、アランの体はその約束からあまりにも遠い。
レギュラスの望みに応えられなくなるのではないか――。
女としての役目を果たせなくなるのではないか――。
そんな恐怖が、産後の痛みよりも強くアランを締め付けた。
薄闇の中、そっと自分の腹に触れる。
そこにはもうアルタイルはいない。
ただ深く、重く、傷だけが残っている。
天井には、かつてレギュラスが見せてくれたような星空は浮かばない。
ただ、ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎だけが、焦げた影を落としていた。
廊下から聞こえる祝いの騒めきが、
まるで自分とは別の世界の音のように遠かった。
アランは静かにまぶたを閉じ、
胸の奥で小さく震えながら思った。
――自分は、この先もレギュラスの隣に立てるのだろうか。
――あの約束の続きを、本当に迎えられるのだろうか。
答えのない恐怖だけが、静かに、深く、体の底に沈んでいった。
レギュラスは、まるで長い冬の氷が一斉に溶け出したかのような解放感に包まれていた。
アルタイルが産まれた瞬間、屋敷中を震わせた歓声も、医務魔法使いの賛嘆の声も、すべてが自分の運命を祝福しているかのようだった。
腕の中で眠る小さな男児。
その体から滲み出る魔力の密度――生まれたばかりとは思えないほど強く濃い。
脈動するたびに、まるで胸の奥の古い誇りを揺り動かすようだった。
この子は、星だ。
自分も、オリオンも、いずれは超えてゆく。
純血社会を象徴する、新しい光となる。
長年ブラック家に覆い被さっていた“不運”は今日で終わった。
アルタイルがそれを証明してくれた。
――ただひとつ。
アランの損傷だけが胸の奥に微かな影を落とす。
医務魔法使いが寝室から下りてきたときの緊張を、レギュラスは忘れられない。
「長期の回復が必要です」と静かに告げられた瞬間、誇り高い勝利にほんのわずかな罅が入ったように感じた。
それほどまでに、アランの体は限界を超えてアルタイルを産んだのだ。
アランの寝室は、薄く灯された魔法燭台の光に照らされ、静謐な空気が満ちていた。
レギュラスが入ると、アランは弱々しく視線を上げる。
その瞳は、いつもの翡翠色ではあるが、痛みに曇り、深い不安を滲ませていた。
レギュラスはため息を噛み殺しながら、ベッドに腰を下ろす。
アランの背後に手を回し、へこんだ腹にそっと触れた。
皮膚はまだ張り詰めていて、その下にある傷や損傷を手のひらが静かに拾った。
「何が不安ですか、アラン」
囁くような声に、アランはかすかに震え、杖を取った。
ゆっくりと、ためらいながら空中に文字が浮かぶ。
《私がもう…あなたにとって不要になりそうで》
レギュラスは一瞬、言葉を失った。
そして胸の奥に重くのしかかるような痛みと怒り――
彼女がそんなふうに自分を見ていたのかという衝撃が走る。
「……そんなわけがないでしょう。僕はこんなにもそばにいるのに」
アランは目を伏せながらも、その瞳に怯えた光を浮かべていた。
まるで、捨てられる前に縋りつこうとする子供のように、頼りなげで、危うい。
レギュラスの胸に、妙な甘さが滲んだ。
この女は、自分のすべてを賭けて――彼を失うことだけを恐れている。
どれほど深く愛しているか、その怯え方が物語ってしまっている。
彼はふと、胸の奥に湿った熱のようなものが湧き上がるのを感じた。
「そんなに……したいです?」
少し意地悪く問いながら、自分でも声がわずかに低く掠れているのを感じた。
探るような問いでありながら、その実、彼自身の方が答えを欲していた。
アランは迷わなかった。
ふらつく手で杖を握り、真っ直ぐに空中へ文字を走らせる。
《はい。早くあなたとしたいです》
あまりにも飾らない、あまりにも真っ直ぐな言葉。
甘えでも媚びでもない。
ただ、心の奥にある願いをそのまま差し出しただけの純度。
レギュラスの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
呼吸のしかたさえ忘れそうになるほど、衝撃だった。
――意地悪な問いなど、すべきではなかった。
――こんなにも純粋に返されるとは思わなかった。
アランは震えたまま、レギュラスを見上げている。
痛む体で、こんな言葉を伝えてくれた。
レギュラスは堪えきれず、アランの頬に手を添えた。
その肌はまだ火照り、弱り、儚い。
「…… アラン。あなたは、不要どころか……」
言葉の続きは声にならなかった。
喉奥に留めたまま、彼はアランの額に静かに口づける。
その小さな仕草だけで、アランは胸を震わせ、目元を緩めた。
レギュラスは思った。
――ああ、やはりこの女の全てを自分が抱え続けるのだと。
――決して手放せない、手放したくない。
歓喜の夜と、愛の不安が溶け合って、
寝室の空気はどこまでも甘く、脆く、そして危ういほどに満ちていた。
魔法界全土がざわめいていた。
まるで新しい星が天に昇ったかのように、あらゆる新聞が一面で報じている。
《ブラック家、待望の男児誕生》
《アルタイル・ブラック――星の名を冠する新しき後継者》
その見出しは街の雑踏にも、ラジオの周波にも、魔法雑誌の号外にも溢れていた。
騎士団本部の食堂には、朝日が差し込んでいる。
静まり返った空気を破るように、ジェームズは手にしていた号外をテーブルに叩きつけた。
紙の擦れる音が、異様に響く。
「……今回は流れなかったんだな。まったく。どれだけの強運なんだ、あの男は」
怒りの熱を抑えきれず吐き捨てた声に、近くの椅子に腰掛けていたリーマスが顔を上げた。
「ジェームズ、さすがに言い過ぎだ」
その穏やかな隣人のような口ぶりが、ジェームズには逆に神経を逆撫でする。
胸の奥に押し込んでいた憤怒が、再び勢いを増した。
「言い過ぎ? 本当にそう思ってるのか?」
ジェームズは号外を指で二度、乱暴に叩く。
「ロングボトム夫妻がどんな目に遭って帰ってきたのか、忘れたとは言わせないよ」
リーマスは唇を結び、しばし沈黙した。
視線をテーブルに落としながら、苦しげに言葉を紡ぐ。
「……それとこれとは話が別だ」
「別、だって?」
ジェームズは鼻で笑った。
笑いながらも、瞳の奥には炎が揺れる。
「ロングボトム夫妻は、生まれたばかりの息子を抱くことすらできない。認識すらできないんだぞ。
誰だって幸福を奪われるのは理不尽だ。でも、あれは“理不尽”なんて生やさしい言葉じゃ片付かない地獄だ」
部屋の温度がじわりと下がった気がした。
「それなのに、だ」
ジェームズは立ち上がり、部屋をゆっくりと歩きながら吐き捨てる。
「レギュラス・ブラックは? あいつは腕の中に新しい後継を抱いて、誇り高く微笑んでいる。
勝ち誇ったように、すべてを掌に収めたように」
視線が鋭く、獣のように光る。
「許せるわけがない。
許してはいけない」
リーマスは息を呑んだ。
ジェームズの声は熱ではなく、氷に近い冷たさを帯び始めていた。
「子が流れるか、アラン・ブラックがそのまま命を落とすか。
そのくらいの“代償”があってようやく釣り合うんじゃないか?」
「ジェームズ――!」
リーマスが叫ぶが、その声は途中でかすれる。
親友の瞳に宿る黒い決意が、言葉を凍りつかせる。
ジェームズの頭の中で、ある形のない“作戦”が芽を出し始めていた。
無謀で、非情で、誰も口にしない種類の作戦。
「アラン・ブラックが死ぬ。
――これは視野に入れてもいい作戦だ」
リーマスの肩が震えた。
しかしジェームズはその反応さえ目に入らないように、ゆっくり席へ戻り、号外を指先で整える。
紙面には、微笑むレギュラスと、その腕の中に抱かれたアルタイルが写っていた。
生まれながらにして未来を約束された、星の名を持つ男児。
ジェームズの目は、その写真を鋭く射抜いた。
――あの男に、同じ痛みを。
――あの男にも、理不尽を。
胸の奥底で形を成しつつある黒い炎が、静かに、しかし確実に燃え広がっていった。
久方ぶりに、法務部の重厚な扉が静かに開いた。
石畳を叩く革靴の音が、広い部屋の空気を驚かせる。
数ヶ月ぶりの主宰の帰還――その存在感は、ただ立っているだけで空気を変えてしまうほどだった。
部屋にいた魔法文官たちの背筋が、自然と伸びる。
緊張が走るのではなく、“戻ってきた”という圧倒的な安堵と、同時に押し寄せる畏怖が入り混じった空気だった。
レギュラスは一歩、また一歩と奥へ進み、椅子に腰掛けるバーテミウスの机の前で立ち止まった。
「――監査は来てないでしょうね?」
落ち着いた声なのに、冷ややかな刃が潜んでいる。
この一言だけで、バーテミウスは肩を落とし、机に額をつけそうな表情をした。
「やめてくださいよ。本当に思い出したくないんですよあれは」
「そうでしょうね」
淡く笑うレギュラス。その笑みは柔和に見えつつも、底の読めない深い色をしていた。
しかし、部屋の中は驚くほど整っていた。
乱れた書類も、放置された案件もなく、全てが精妙に仕上がっている。
書類の山を手に取り、レギュラスは静かに目を走らせた。
「……よくやってくれましたね。数ヶ月も空けていたとは思えない」
ほんの短い賞賛だったが、バーテミウスの表情が微かにほころぶ。
主宰の不在にもかかわらず、この男の手によって法務部は“揺るぎなく”保たれていた。
ふと、レギュラスの目が一枚の書類で止まる。
そこには騎士団による新たな声明案――
『ロングボトム夫妻拷問事件は闇の陣営の仕業である』
という文言が、いかにも正義面した筆致でまとめられていた。
その瞬間、レギュラスの唇が、ゆっくりと美しい弧を描いた。
「……なるほど。こう来ますか」
バーテミウスが眉をひそめる。
「奴ら、また妙なことを公表しようとしてますね。懲りませんね」
レギュラスは書類を軽く持ち上げ、光に透かしながら微笑む。
その笑みは、底冷えするような余裕と確信に満ちていた。
「好きにすればいいんです。どうせ無駄ですから」
その言い方は、何かを見下ろすように静かで淡々としていた。
「完璧に上書きしてあります。
ベラトリックスの痕跡は“別の魔力流”として構築し直した。
多少の手抜かりがあったとしても、騎士団が糾弾すればするほど――」
レギュラスは書類を机に置き、指先で軽く叩く。
「彼ら自身が、でっち上げをしているようにしか見えなくなる」
バーテミウスの口元に、じわりと笑みが広がる。
「つまり、“やれるもんならやってみろ”ってわけですか?」
「ええ。法廷で踊るのは、いつだって愚かな方でしょう」
書類を整えながら、レギュラスはゆっくりと椅子に腰を下ろす。
ほんの数ヶ月前まで激しく揺れていた法務部が嘘のように、空間は安定していた。
そしてその中心で、レギュラスは再び法務部の“心臓”として脈動を始めたのだ。
その横顔は静かで穏やかに見えるのに――
背後には、誰よりも濃い闇と鋭い知性が共存していた。
騎士団が何を叫ぼうとも、もはやこの男の前ではただの雑音にすぎない。
そんな“絶対的な優位”を自覚した者の、傲慢で美しい微笑が浮かんでいた。
夕方の法務省裏通りは、薄い霧が立ち込めるようにして温度が下がっていく時間帯だった。
人の気配はまばらで、魔法灯の光だけが石畳に淡く揺れている。
その灯りの下で――セラ・レヴィントンは壁にもたれ、タバコを細い指の間に挟んでいた。
煙草の火が赤く瞬き、吐き出された煙がゆらりと夜気に溶ける。
「……また禁煙場所で吸うんですから、あなたは」
不意に背後からかけられた声に、セラは片眉を上げて微笑んだ。
挑発するというより、“待ち伏せを楽しんでいた”女の顔だった。
「相変わらずね、お坊ちゃん」
振り返ったレギュラスは、数ヶ月ぶりに見るその姿に、一瞬だけ瞳の奥が揺れた。
変わらぬ妖しい美しさ。
アランとは正反対の、作ったように完璧な化粧。
喉の奥で甘く笑う声。
すべてが、かつて自分を惑わせた“異物のような魅力”をそのまま残している。
レギュラスはタバコを取り上げ、呆れたように手のひらで小さく炎を灯す。
煙草は瞬時に黒い灰になって散った。
「おめでとう、レギュラス。欲しいものを手にしたわね」
セラはまるで祝福の言葉を言うかのように柔らかい声を落とした。
その言葉の意味を悟ったレギュラスは微かに表情を曇らせる。
——男児の誕生。
確かにそれは、ブラック家にとって悲願だった。
けれど、アランはまだ床に伏せている。
傷は深く、魔力の過負担も著しく、回復には長い時間が必要とされている。
“欲しいものを手にした”
その言葉が、彼の胸の奥で鋭くひっかかった。
「……そう簡単な話ではありません」
レギュラスがそう返すと、セラはわざとらしく肩をすくめた。
「あなたって本当に面白いわ。
全部手に入れても、どこか満たされない顔をするんだもの」
挑発する声と同時に、セラは一歩踏み込む。
ハイヒールの音が乾いた石畳に響き、レギュラスとの距離がほとんど消える。
次の瞬間、彼の唇にセラの唇が触れた。
深くではない。
けれど、あの独特の香水の匂いと、艶やかな口紅の感触が、久しぶりにレギュラスの記憶を刺す。
ほんの一瞬凍ったように動けなくなる自分に、レギュラスは腹立たしささえ覚えた。
セラはその反応を愉しむように、赤い唇をかすかに歪めた。
「礼を言うわ、レギュラス・ブラック」
レギュラスはゆっくりと口角を上げた。
それは微笑みというより、感情を削ぎ落とした儀礼的な表情だった。
「当然のことをしたまでです」
実際、レギュラスはこの数ヶ月、セラへの連絡を完全に絶っていた。
屋敷に来られるのを防ぐためだ。
アランとアルタイルの安全が最優先で、セラの存在はあまりにも危うい。
代わりに――
彼はセラ宛てに小切手を送っていた。
彼女の身元、そして息子の存在まで調べ上げた上で、魔法学校の入学金、寄付金、装具一式を最高級で揃えられるほどの額を。
セラが一生働いても稼げないような金額を。
「どうぞ。最高品質の教育を受けさせてあげてください」
レギュラスが静かに言うと、セラは喉の奥で笑った。
「じゃあ、会うのはもうこれきりかしら?」
胸に頬を寄せながら、上目づかいで問う。
その仕草は、かつてレギュラスの欲をくすぶらせた“魔性”そのものだった。
レギュラスは咄嗟に返せなかった。
断ち切らなければならない。
その意思は確かにある。
アランとアルタイルのためにも、セラと交わる理由など一つもない。
それでも――
彼女が胸元に顔を寄せた瞬間、
甘い香りと体温の記憶が、ほんの一秒だけ彼の心を揺らした。
情けないほどに。
「……」
レギュラスの沈黙を肯定だと受け取ったように、
セラはなめらかな笑みを浮かべた。
「また来るわ」
彼の返答を待つこともせず、ヒールの音を鳴らして背を向ける。
香水の残り香だけが、しばらくその場に漂っていた。
レギュラスは拳を握り締めた。
揺れた自分を恥じた。
同時に、セラという女の“引力”が、まだ完全には消えていない厄介さに苛立ちを覚えた。
闇が落ちた法務省裏通りで――
彼はただ立ち尽くし、自分の中の小さな不安の正を探るしかなかった。
セラと別れた帰り道、
レギュラスの胸の奥ではさざ波のような違和感が、
ずっと静かに、しかし確実に揺れ続けていた。
久しぶりに目にしたセラは、相変わらず艶やかで挑発的で、
あの女特有の妖しい温度をそのまま纏っていた。
気づけば自分の心が、ほんのわずかながらかき乱されていたことが、
レギュラスには悔しくて仕方がなかった。
――揺らぐな。
――惑わされるな。
――自分にとって守るべき場所は、ただ一つだ。
その思いを胸に帰宅したとき、
アランは静かにベッドの上で身体を横たえていた。
弱い魔灯の光が、彼女の頬を淡く照らしている。
産後の回復が遅れているとはいえ、
その横顔はどこまでも穏やかで、
まるで世界の喧騒とは無縁の場所にいるようだった。
レギュラスは彼女のそばに腰を下ろし、
一度だけ深く息を吸った。
胸の奥のざわめきを鎮めようとするように。
「…… アラン」
囁きかけると、
アランは静かにまぶたを上げ、翡翠の瞳を向けてきた。
その視線に触れた瞬間、
レギュラスの胸の奥で、何かがほどけるように緩んだ。
――この女こそが、自分の“核”なのだ。
その確信にすがるように、
レギュラスは彼女の頬に触れた。
アランは拒まなかった。
むしろ、既にわかっているように優しく身体を寄せてきた。
「……早いかもしれません」
気付けば、そんな言葉が喉から漏れていた。
自分でも笑ってしまいたくなるほど弱い声で。
アランは首を振る。
杖を使わず、ただ唇を結びながら、
その動きがすべてを肯定していた。
――約束、覚えています。
――あなたを受け入れる準備は、ずっとしていました。
そんな静かな意思が、
触れただけで伝わってくるようだった。
レギュラスはアランの上にそっと身体を重ねる。
強く求めるのではなく、
確かめるように、ゆっくりと。
何度も動きを止め、
アランの表情を読む。
眉のわずかな揺れ、
呼吸の深さ、
瞳の潤み。
一つひとつを丁寧に拾い上げるように、
慎重に、慎重に動く。
身体的な快をむさぼるためではなかった。
そんなものは、今のレギュラスにはどうでもよかった。
胸の奥のざわつきを溶かし、
心の深い場所を満たしきりたかった。
他の誰でもない、
この女との間にだけ存在する“愛の形”を、
もう一度確かめたかった。
アランがふっと微笑んだ。
弱い光の中でその微笑は、
ため息が出るほど美しく、
そしてどこまでも優しかった。
レギュラスも自然と笑みが滲む。
微笑み返すという行為が、
こんなにも胸を温かくするものなのかと胸が震えた。
指を絡めると、
アランは小さな力でぎゅっと握り返してくる。
その弱々しい力が、
たまらなく愛しく、
胸の奥を締め付けた。
アランの核に触れている。
この女の真ん中にある、
静かで、壊れやすくて、
けれど強い芯に。
そこへ触れているだけで、
セラの妖しい匂いも、笑みも、記憶に残った仕草さえも――
すべて霧のように消えていった。
――惑わされるわけがない。
――この心に入り込めるのは、
アランだけなのだから。
レギュラスはアランの額に口づける。
そっと、息を溶かすように。
アランも静かにまぶたを閉じ、
まるでそのキスを迎え入れるように
首をわずかに傾けた。
胸の奥が軋むほど、
切なく、温かく、満たされていく。
セラの影が強く揺れたあの瞬間は、
遠い幻のように薄れていった。
愛したいのは、
求めたいのは、
触れたいのは――
やはりアランただ一人だった。
その夜、騎士団の本部は静まり返っていた。
外では冬の寒気がしんしんと落ち、
古い屋敷の壁を通してわずかに冷気が忍び込んでくる。
リーマスは薄暗い執務室に一人残り、
木製の机に積まれた資料を前にして、
手元のペンをしばらく動かすことができずにいた。
ジェームズの、あの言葉。
「アランブラックはもう守る対象ではない」
それがリーマスの脳裏に、
雪のように音もなく、何度も何度も降り積もっていく。
紙をめくる指先がふと止まる。
そのままペンを置き、
額に手を押し当てるようにして深く息を吐いた。
――あの男は、本気だ。
そう確信せざるを得なかった。
数日来のジェームズの表情には、
もはや“正義の怒り”だけでは片付かない、
鋭く、焦げつくような憎悪が宿りはじめていた。
ロングボトム夫妻の惨状を目にした者ならば、
怒り狂って当然だ。
夫婦ともに精神は壊れ、
息子を認識することさえできない姿で返還された。
騎士団の誰もが動揺し、
その怒りの矛先は自然と、
あの“器用で冷徹な法務部の男”――
レギュラスブラックに向かっていった。
だが。
リーマスは、違う方向へ胸が痛んだ。
怒りに飲まれていない者などいない。
自分も、胸の内側が焼けるように憤っている。
それでも――彼女を傷つけるという選択だけは、どうしても呑めなかった。
「…… アランブラックは、違う」
小さく呟いた声は、
静まり返った室内に、わずかに溶けて消えた。
彼女は以前、取り調べ室で会ったとき、
ただひたすらに“沈黙”を貫いた。
正義の側からすれば歯痒いほどだった。
愛という名の鎧でレギュラスを庇うその姿勢は、
理解できないほど徹底していた。
だがその沈黙は、頑なさではなかった。
暴力的な嘘でも、計算でもない。
あの目は……ただ、清らかだった。
美しさと恐ろしさが同居した沈黙。
彼女の中にある“正義”は、
こちら側の正義とは別軸に存在している。
それがわかってしまったからこそ、
リーマスは彼女を責めることができない。
――あれは、罪ではない。
――彼女にとっての正しさの形なのだ。
ジェームズは理解できないだろう。
怒りが人を盲目にし、
大切なものを見落とさせる――
それを今のジェームズが象徴していた。
だが、だからと言ってシリウスに言えるわけがない。
シリウスが真実を聞けば、
間違いなく激昂し、
ジェームズと正面衝突する。
そして、レギュラスブラックに対して
手の施しようのない暴走を始めるだろう。
そんな未来は絶対に避けなければならない。
リーマスは目を閉じた。
机の上の蝋燭が揺れ、
薄く温かい光がまぶたを透かして橙に染める。
「……どうすればいいんだ、これは」
声は震えていた。
静かに、しかし逃げ場のない苦悩に満ちて。
ジェームズの怒りも、理解できる。
ロングボトム夫婦という犠牲を前に、
正義を語るのはあまりにも軽薄に聞こえてしまう。
ジェームズが“報い”を求めるのは当然のことだ。
だが、だからといってアランを手にかけるのは――違う。
あの優しさと沈黙を知ってしまった以上、
どうしても倫理観が許さなかった。
リーマスはゆっくりと椅子に背を預けた。
天井を見上げれば、古いシャンデリアの影が室内に揺れている。
――シリウスには言えない。
――ジェームズは止まらない。
―― アランを守りたい自分がいる。
――レギュラスを許せない仲間もいる。
そのすべてが、
リーマスという男の胸の内で、
息の詰まるほど複雑に絡まり合っていた。
「……こんなときに、
僕が何を“正義”と呼べばいいんだ」
静かな独白だけが、
寒い夜の空気に落ちていった。
最初は“公休の延長”と説明がつく程度だったが、二か月を超えた時点で、法務部内はざわつき、三か月を超えたころには、もはや“休暇”という言葉では覆いきれない不自然さが滲み出ていた。
だが、その異様な空白の時間の核心――理由――は、屋敷の内側にいたアランだけが知っていた。
レギュラスは、離れようとしなかった。
朝、カーテン越しの淡い光が室内に差し込むころ、アランがゆっくりと目を開けると、必ずレギュラスが隣にいた。
ソファに凭れたまま、不安の隙を与えないとでもいうように眠らずに本を読んでいる日もあった。
ステラが庭で走り回るときも、レギュラスはその数歩後ろをついていく。
ステラが転べば、メイラが駆け寄るよりも先に抱き上げ、服についた砂を払うのも彼だった。
笑うステラの後ろで、アランの肩越しにそっと手を回し、支える仕草が自然に加わっていく。
食卓には、これまでほとんどなかった“穏やかな沈黙”が流れるようになった。
アランが杖で書く文字を見て、レギュラスは落ち着いた声で応える。
食器の触れ合う音すら柔らかい。
彼は仕事の話もほとんど口にせず、ただアランとステラの様子を細やかに見守っていた。
夜が訪れると、レギュラスは寝室の灯りを落とし、アラン が安心して眠りに落ちるまで傍らに座り続けた。
アランの指が布団の上でそっと彼の手を探せば、レギュラスは即座にその手を包み込む。
息が深く落ち着き、アランの胸が静かに上下し始めるまで、ずっと、離れなかった。
その日々が、ひたすらに積み重なっていく。
レギュラスがそばにいる時間が長くなるほど、アランの胸の奥の“ざらつき”はゆっくりと溶けていった。
あの日、レギュラスの中に見た残酷さ。
その影のような恐怖。
セラという名の女の匂いを感じ取ってしまった時の、不安に震えるような痛み。
それらは、レギュラスの手がアランの背を撫でるたび、髪を掬うたび、指先で頬に触れるたびに、少しずつ形を失っていった。
この男は、恐ろしいほど残忍で、冷酷で、時に誰よりも罪深い。
けれど――同時に、あの地獄のような闇から自分を救い上げた、唯一の光でもある。
救いの手の温度を覚えてしまった以上、
アランの心は、どうしてもこの男から離れられない。
そして距離を縮めるのは、レギュラスの方だった。
ふとした瞬間にアランの頬を撫で、肩を抱き寄せ、手を取り、背を支え、視線の先には必ず彼女がいる。
その過剰ともいえるほどの寄り添いが、アランの中の“疑念”という形を持ったものを次々に溶かしていった。
朝目覚めた瞬間から、
ステラと庭に出る時も、
一緒に紅茶を飲むときも、
夜眠りに落ちる瞬間まで。
ひとつひとつの時間が積み上がるごとに、アランの心の中で
“レギュラスしかいない”という思いが、静かに、しかし確実に深く根を張っていった。
許せないはずの罪も、
恐ろしくて震えた夜も、
胸の奥で刺さっていた痛みも――
レギュラスがそばに居続けた数ヶ月の時間が、すべてを丸く削り、なだらかにし、
気づけば跡形もなく消し去っていた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
アランの世界は、再びレギュラス・ブラックひとりへと収束していく。
彼が与える温度だけで、どんな疑念も恐怖も、すべて打ち消されてしまうほどに。
これは、優しさであり、
そして――静かすぎる支配でもあった。
レギュラスは、日々、静かに積み重なっていく“変化”を見逃さなかった。
アランがふとした拍子に自分の袖を掴む仕草、庭でステラを抱き上げたときにそっと肩に寄り添う体温、夜、読書をしている自分の膝に頭を預けるように横たわる柔らかな重み――。
ゆっくりと、しかし確実に。
アランは再び彼に寄りかかり、心を預けるようになっていた。
かつてアランとの間に立ちこめていた“薄い膜”のような距離。
自分を拒むわけではないが、完全には許していない、そんな見えない壁。
その壁は、あの数か月の寄り添いの中で跡形もなく消え去っていた。
今では、アランの境界線がどこにあるのかすら曖昧だった。
彼女に触れるたび、抱き寄せるたび、アランの心の奥に自分が深く深く染み込んでいる――
レギュラスはそんな確信を持つようになっていた。
その自覚が、胸の奥にあたたかな安堵と満ち足りた幸福をもたらす。
手に入れたのではない。
“戻ってきた”のだ。
あの暗い地下で救った少女が、いま再び彼の手の中に確かに存在している。
やがて産まれてくる子の魔力反応も、医務魔法使いたちはこぞって「男児の可能性が高い」と言った。
レギュラスにとって、それは運命が静かに味方している証のように感じられた。
アランの心も取り戻し、後継も得られる――
完璧な未来図が目の前に広がっていた。
そのせいだろうか。
セラ・レヴィントンの存在は、自然とレギュラスの生活から遠ざかっていった。
欲が消えたわけではない。
ただ、わざわざ屋敷を離れる気力すら削がれるほどに、アランとの日々が満ち足りていた。
ある晩、火照るように温かい寝室でのことだった。
アランは枕元で小さくためらい、杖を取り、迷いを含んだ筆致で言葉を浮かべた。
――まだ、私に……魅力はありますか?
一瞬、その意味を取り違えた。
だが、彼の胸元に頬を寄せ、ついと甘えるように身を寄せる彼女の仕草で、その控えめな問いの本質がすぐに伝わった。
妊娠で変わっていく体。
男の目にどう映っているのか。
女としてどう見られているのか。
アランは今なお、そんな不安を抱いていたのだ。
まさか――とレギュラスは小さく笑って、彼女の頬を指で掬った。
「お腹の子に悪いから、我慢しているだけですよ」
アランは驚いたように瞬きをして――
そのあと、ほんの少し頬を赤く染め、また杖を振った。
――じゃあ、産まれたら……また、しますか?
子供のようにおずおずと、それでいて、内容はどこまでも大人の問い。
そのアンバランスさが、レギュラスの胸をじんわりと掴んだ。
「ええ。もちろん。あなたの体調が戻ったら――お願いします、アラン」
アランは、胸の前で大切なものを抱きしめるように杖を握りしめ、
“早く元気になります”
と文字を浮かべた。
真剣で、純粋で、ひどく愛らしかった。
レギュラスはアランの手を包み込み、額にそっと口づけた。
灯した蝋燭の炎が揺れ、二人の影を寄り添わせる。
――ああ、すべてが整っていく。
手に入れたものは戻らないどころか、さらに深く彼のものへと染まっていく。
アランがこんなにも自分の言葉で揺れ、求め、甘えてくる。
その事実が、どんな勝利よりも甘美で、
どんな権力よりも強い陶酔をレギュラスに与えていた。
幸福と安堵が、二人の間に静かに満ちていく夜だった。
深い冬の夜明けのような静けさの中で、アランはようやく産声を聞いた。
それはステラが生まれた日の泣き声よりも、澄み切って鋭く、力強かった。
その声が屋敷中に響いた瞬間、ブラック家全体がまるで解き放たれたように明るさを帯びた。
「男児だ――!」
助産にあたった医務魔法使いたちがそう告げた途端、オリオンの顔には滅多に見せない誇らしげな光が射した。
ヴァルブルガは美しい順礼服を羽織り、まるで自ら後継者を生み出したかのように高揚し、
使用人たちは慌ただしく祝杯の準備へと走り、
屋敷は歓喜に沸いた。
ステラのときよりも遥かに盛大な祝の宴。
大広間には金糸を織り込んだ幕が張られ、
レギュラスの名を讃える声と、ブラック家の未来を祝する賛辞が飛び交った。
その中心に、赤子――
アルタイル・ブラック
と名付けられた男児がいた。
オリオンが自ら名を与えたことも異例だった。
「レギュラスと並び立つ“星”となれ」
という意味が込められているのだと、屋敷中が囁いた。
――しかし。
その華々しさの陰で、アランは深い闇の淵にいた。
産後のベッドで、アランは自分の体が“壊れている”ことを悟っていた。
目を閉じるだけで痛む。
息をするだけで軋む。
魔力が走れば、裂けた内側に針が突き刺さるような激痛が走る。
医務魔法使いたちは言った。
「この子は、レギュラス様の魔力の影響を強く受けすぎています。
お腹の中にいる段階で、奥方様の魔力許容量を大きく超えていたのでしょう」
つまり――
アルタイルは強すぎた。
あまりにも“ブラック家の子”として完璧すぎたのだ。
レギュラスの血を濃厚に受け継ぎ、
レギュラスの魔力をそのまま受け継ぎ、
レギュラスが望んだ通りの男児で生まれてきた。
だがその代償として、アランの体は許容量を超えてしまった。
回復は遅い。
きっとかなり遅れてしまう。
動けるようになるまで長い時間がかかるだろうと。
祝いの声が響く大広間とは隔離された静かな寝室で、アランは薄いシーツの中で震えていた。
痛むせいではない。
――怖かった。
あの日、レギュラスと交わした約束が胸を刺す。
「体調が戻ったら、また……お願いします」
「ええ。もちろん」
あれほど嬉しそうに言ってくれた。
アランの胸にも確かに小さな光が灯った。
まるで自分がまだ“女として”愛されているのだと、初めて確信できた日だった。
けれど今、アランの体はその約束からあまりにも遠い。
レギュラスの望みに応えられなくなるのではないか――。
女としての役目を果たせなくなるのではないか――。
そんな恐怖が、産後の痛みよりも強くアランを締め付けた。
薄闇の中、そっと自分の腹に触れる。
そこにはもうアルタイルはいない。
ただ深く、重く、傷だけが残っている。
天井には、かつてレギュラスが見せてくれたような星空は浮かばない。
ただ、ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎だけが、焦げた影を落としていた。
廊下から聞こえる祝いの騒めきが、
まるで自分とは別の世界の音のように遠かった。
アランは静かにまぶたを閉じ、
胸の奥で小さく震えながら思った。
――自分は、この先もレギュラスの隣に立てるのだろうか。
――あの約束の続きを、本当に迎えられるのだろうか。
答えのない恐怖だけが、静かに、深く、体の底に沈んでいった。
レギュラスは、まるで長い冬の氷が一斉に溶け出したかのような解放感に包まれていた。
アルタイルが産まれた瞬間、屋敷中を震わせた歓声も、医務魔法使いの賛嘆の声も、すべてが自分の運命を祝福しているかのようだった。
腕の中で眠る小さな男児。
その体から滲み出る魔力の密度――生まれたばかりとは思えないほど強く濃い。
脈動するたびに、まるで胸の奥の古い誇りを揺り動かすようだった。
この子は、星だ。
自分も、オリオンも、いずれは超えてゆく。
純血社会を象徴する、新しい光となる。
長年ブラック家に覆い被さっていた“不運”は今日で終わった。
アルタイルがそれを証明してくれた。
――ただひとつ。
アランの損傷だけが胸の奥に微かな影を落とす。
医務魔法使いが寝室から下りてきたときの緊張を、レギュラスは忘れられない。
「長期の回復が必要です」と静かに告げられた瞬間、誇り高い勝利にほんのわずかな罅が入ったように感じた。
それほどまでに、アランの体は限界を超えてアルタイルを産んだのだ。
アランの寝室は、薄く灯された魔法燭台の光に照らされ、静謐な空気が満ちていた。
レギュラスが入ると、アランは弱々しく視線を上げる。
その瞳は、いつもの翡翠色ではあるが、痛みに曇り、深い不安を滲ませていた。
レギュラスはため息を噛み殺しながら、ベッドに腰を下ろす。
アランの背後に手を回し、へこんだ腹にそっと触れた。
皮膚はまだ張り詰めていて、その下にある傷や損傷を手のひらが静かに拾った。
「何が不安ですか、アラン」
囁くような声に、アランはかすかに震え、杖を取った。
ゆっくりと、ためらいながら空中に文字が浮かぶ。
《私がもう…あなたにとって不要になりそうで》
レギュラスは一瞬、言葉を失った。
そして胸の奥に重くのしかかるような痛みと怒り――
彼女がそんなふうに自分を見ていたのかという衝撃が走る。
「……そんなわけがないでしょう。僕はこんなにもそばにいるのに」
アランは目を伏せながらも、その瞳に怯えた光を浮かべていた。
まるで、捨てられる前に縋りつこうとする子供のように、頼りなげで、危うい。
レギュラスの胸に、妙な甘さが滲んだ。
この女は、自分のすべてを賭けて――彼を失うことだけを恐れている。
どれほど深く愛しているか、その怯え方が物語ってしまっている。
彼はふと、胸の奥に湿った熱のようなものが湧き上がるのを感じた。
「そんなに……したいです?」
少し意地悪く問いながら、自分でも声がわずかに低く掠れているのを感じた。
探るような問いでありながら、その実、彼自身の方が答えを欲していた。
アランは迷わなかった。
ふらつく手で杖を握り、真っ直ぐに空中へ文字を走らせる。
《はい。早くあなたとしたいです》
あまりにも飾らない、あまりにも真っ直ぐな言葉。
甘えでも媚びでもない。
ただ、心の奥にある願いをそのまま差し出しただけの純度。
レギュラスの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
呼吸のしかたさえ忘れそうになるほど、衝撃だった。
――意地悪な問いなど、すべきではなかった。
――こんなにも純粋に返されるとは思わなかった。
アランは震えたまま、レギュラスを見上げている。
痛む体で、こんな言葉を伝えてくれた。
レギュラスは堪えきれず、アランの頬に手を添えた。
その肌はまだ火照り、弱り、儚い。
「…… アラン。あなたは、不要どころか……」
言葉の続きは声にならなかった。
喉奥に留めたまま、彼はアランの額に静かに口づける。
その小さな仕草だけで、アランは胸を震わせ、目元を緩めた。
レギュラスは思った。
――ああ、やはりこの女の全てを自分が抱え続けるのだと。
――決して手放せない、手放したくない。
歓喜の夜と、愛の不安が溶け合って、
寝室の空気はどこまでも甘く、脆く、そして危ういほどに満ちていた。
魔法界全土がざわめいていた。
まるで新しい星が天に昇ったかのように、あらゆる新聞が一面で報じている。
《ブラック家、待望の男児誕生》
《アルタイル・ブラック――星の名を冠する新しき後継者》
その見出しは街の雑踏にも、ラジオの周波にも、魔法雑誌の号外にも溢れていた。
騎士団本部の食堂には、朝日が差し込んでいる。
静まり返った空気を破るように、ジェームズは手にしていた号外をテーブルに叩きつけた。
紙の擦れる音が、異様に響く。
「……今回は流れなかったんだな。まったく。どれだけの強運なんだ、あの男は」
怒りの熱を抑えきれず吐き捨てた声に、近くの椅子に腰掛けていたリーマスが顔を上げた。
「ジェームズ、さすがに言い過ぎだ」
その穏やかな隣人のような口ぶりが、ジェームズには逆に神経を逆撫でする。
胸の奥に押し込んでいた憤怒が、再び勢いを増した。
「言い過ぎ? 本当にそう思ってるのか?」
ジェームズは号外を指で二度、乱暴に叩く。
「ロングボトム夫妻がどんな目に遭って帰ってきたのか、忘れたとは言わせないよ」
リーマスは唇を結び、しばし沈黙した。
視線をテーブルに落としながら、苦しげに言葉を紡ぐ。
「……それとこれとは話が別だ」
「別、だって?」
ジェームズは鼻で笑った。
笑いながらも、瞳の奥には炎が揺れる。
「ロングボトム夫妻は、生まれたばかりの息子を抱くことすらできない。認識すらできないんだぞ。
誰だって幸福を奪われるのは理不尽だ。でも、あれは“理不尽”なんて生やさしい言葉じゃ片付かない地獄だ」
部屋の温度がじわりと下がった気がした。
「それなのに、だ」
ジェームズは立ち上がり、部屋をゆっくりと歩きながら吐き捨てる。
「レギュラス・ブラックは? あいつは腕の中に新しい後継を抱いて、誇り高く微笑んでいる。
勝ち誇ったように、すべてを掌に収めたように」
視線が鋭く、獣のように光る。
「許せるわけがない。
許してはいけない」
リーマスは息を呑んだ。
ジェームズの声は熱ではなく、氷に近い冷たさを帯び始めていた。
「子が流れるか、アラン・ブラックがそのまま命を落とすか。
そのくらいの“代償”があってようやく釣り合うんじゃないか?」
「ジェームズ――!」
リーマスが叫ぶが、その声は途中でかすれる。
親友の瞳に宿る黒い決意が、言葉を凍りつかせる。
ジェームズの頭の中で、ある形のない“作戦”が芽を出し始めていた。
無謀で、非情で、誰も口にしない種類の作戦。
「アラン・ブラックが死ぬ。
――これは視野に入れてもいい作戦だ」
リーマスの肩が震えた。
しかしジェームズはその反応さえ目に入らないように、ゆっくり席へ戻り、号外を指先で整える。
紙面には、微笑むレギュラスと、その腕の中に抱かれたアルタイルが写っていた。
生まれながらにして未来を約束された、星の名を持つ男児。
ジェームズの目は、その写真を鋭く射抜いた。
――あの男に、同じ痛みを。
――あの男にも、理不尽を。
胸の奥底で形を成しつつある黒い炎が、静かに、しかし確実に燃え広がっていった。
久方ぶりに、法務部の重厚な扉が静かに開いた。
石畳を叩く革靴の音が、広い部屋の空気を驚かせる。
数ヶ月ぶりの主宰の帰還――その存在感は、ただ立っているだけで空気を変えてしまうほどだった。
部屋にいた魔法文官たちの背筋が、自然と伸びる。
緊張が走るのではなく、“戻ってきた”という圧倒的な安堵と、同時に押し寄せる畏怖が入り混じった空気だった。
レギュラスは一歩、また一歩と奥へ進み、椅子に腰掛けるバーテミウスの机の前で立ち止まった。
「――監査は来てないでしょうね?」
落ち着いた声なのに、冷ややかな刃が潜んでいる。
この一言だけで、バーテミウスは肩を落とし、机に額をつけそうな表情をした。
「やめてくださいよ。本当に思い出したくないんですよあれは」
「そうでしょうね」
淡く笑うレギュラス。その笑みは柔和に見えつつも、底の読めない深い色をしていた。
しかし、部屋の中は驚くほど整っていた。
乱れた書類も、放置された案件もなく、全てが精妙に仕上がっている。
書類の山を手に取り、レギュラスは静かに目を走らせた。
「……よくやってくれましたね。数ヶ月も空けていたとは思えない」
ほんの短い賞賛だったが、バーテミウスの表情が微かにほころぶ。
主宰の不在にもかかわらず、この男の手によって法務部は“揺るぎなく”保たれていた。
ふと、レギュラスの目が一枚の書類で止まる。
そこには騎士団による新たな声明案――
『ロングボトム夫妻拷問事件は闇の陣営の仕業である』
という文言が、いかにも正義面した筆致でまとめられていた。
その瞬間、レギュラスの唇が、ゆっくりと美しい弧を描いた。
「……なるほど。こう来ますか」
バーテミウスが眉をひそめる。
「奴ら、また妙なことを公表しようとしてますね。懲りませんね」
レギュラスは書類を軽く持ち上げ、光に透かしながら微笑む。
その笑みは、底冷えするような余裕と確信に満ちていた。
「好きにすればいいんです。どうせ無駄ですから」
その言い方は、何かを見下ろすように静かで淡々としていた。
「完璧に上書きしてあります。
ベラトリックスの痕跡は“別の魔力流”として構築し直した。
多少の手抜かりがあったとしても、騎士団が糾弾すればするほど――」
レギュラスは書類を机に置き、指先で軽く叩く。
「彼ら自身が、でっち上げをしているようにしか見えなくなる」
バーテミウスの口元に、じわりと笑みが広がる。
「つまり、“やれるもんならやってみろ”ってわけですか?」
「ええ。法廷で踊るのは、いつだって愚かな方でしょう」
書類を整えながら、レギュラスはゆっくりと椅子に腰を下ろす。
ほんの数ヶ月前まで激しく揺れていた法務部が嘘のように、空間は安定していた。
そしてその中心で、レギュラスは再び法務部の“心臓”として脈動を始めたのだ。
その横顔は静かで穏やかに見えるのに――
背後には、誰よりも濃い闇と鋭い知性が共存していた。
騎士団が何を叫ぼうとも、もはやこの男の前ではただの雑音にすぎない。
そんな“絶対的な優位”を自覚した者の、傲慢で美しい微笑が浮かんでいた。
夕方の法務省裏通りは、薄い霧が立ち込めるようにして温度が下がっていく時間帯だった。
人の気配はまばらで、魔法灯の光だけが石畳に淡く揺れている。
その灯りの下で――セラ・レヴィントンは壁にもたれ、タバコを細い指の間に挟んでいた。
煙草の火が赤く瞬き、吐き出された煙がゆらりと夜気に溶ける。
「……また禁煙場所で吸うんですから、あなたは」
不意に背後からかけられた声に、セラは片眉を上げて微笑んだ。
挑発するというより、“待ち伏せを楽しんでいた”女の顔だった。
「相変わらずね、お坊ちゃん」
振り返ったレギュラスは、数ヶ月ぶりに見るその姿に、一瞬だけ瞳の奥が揺れた。
変わらぬ妖しい美しさ。
アランとは正反対の、作ったように完璧な化粧。
喉の奥で甘く笑う声。
すべてが、かつて自分を惑わせた“異物のような魅力”をそのまま残している。
レギュラスはタバコを取り上げ、呆れたように手のひらで小さく炎を灯す。
煙草は瞬時に黒い灰になって散った。
「おめでとう、レギュラス。欲しいものを手にしたわね」
セラはまるで祝福の言葉を言うかのように柔らかい声を落とした。
その言葉の意味を悟ったレギュラスは微かに表情を曇らせる。
——男児の誕生。
確かにそれは、ブラック家にとって悲願だった。
けれど、アランはまだ床に伏せている。
傷は深く、魔力の過負担も著しく、回復には長い時間が必要とされている。
“欲しいものを手にした”
その言葉が、彼の胸の奥で鋭くひっかかった。
「……そう簡単な話ではありません」
レギュラスがそう返すと、セラはわざとらしく肩をすくめた。
「あなたって本当に面白いわ。
全部手に入れても、どこか満たされない顔をするんだもの」
挑発する声と同時に、セラは一歩踏み込む。
ハイヒールの音が乾いた石畳に響き、レギュラスとの距離がほとんど消える。
次の瞬間、彼の唇にセラの唇が触れた。
深くではない。
けれど、あの独特の香水の匂いと、艶やかな口紅の感触が、久しぶりにレギュラスの記憶を刺す。
ほんの一瞬凍ったように動けなくなる自分に、レギュラスは腹立たしささえ覚えた。
セラはその反応を愉しむように、赤い唇をかすかに歪めた。
「礼を言うわ、レギュラス・ブラック」
レギュラスはゆっくりと口角を上げた。
それは微笑みというより、感情を削ぎ落とした儀礼的な表情だった。
「当然のことをしたまでです」
実際、レギュラスはこの数ヶ月、セラへの連絡を完全に絶っていた。
屋敷に来られるのを防ぐためだ。
アランとアルタイルの安全が最優先で、セラの存在はあまりにも危うい。
代わりに――
彼はセラ宛てに小切手を送っていた。
彼女の身元、そして息子の存在まで調べ上げた上で、魔法学校の入学金、寄付金、装具一式を最高級で揃えられるほどの額を。
セラが一生働いても稼げないような金額を。
「どうぞ。最高品質の教育を受けさせてあげてください」
レギュラスが静かに言うと、セラは喉の奥で笑った。
「じゃあ、会うのはもうこれきりかしら?」
胸に頬を寄せながら、上目づかいで問う。
その仕草は、かつてレギュラスの欲をくすぶらせた“魔性”そのものだった。
レギュラスは咄嗟に返せなかった。
断ち切らなければならない。
その意思は確かにある。
アランとアルタイルのためにも、セラと交わる理由など一つもない。
それでも――
彼女が胸元に顔を寄せた瞬間、
甘い香りと体温の記憶が、ほんの一秒だけ彼の心を揺らした。
情けないほどに。
「……」
レギュラスの沈黙を肯定だと受け取ったように、
セラはなめらかな笑みを浮かべた。
「また来るわ」
彼の返答を待つこともせず、ヒールの音を鳴らして背を向ける。
香水の残り香だけが、しばらくその場に漂っていた。
レギュラスは拳を握り締めた。
揺れた自分を恥じた。
同時に、セラという女の“引力”が、まだ完全には消えていない厄介さに苛立ちを覚えた。
闇が落ちた法務省裏通りで――
彼はただ立ち尽くし、自分の中の小さな不安の正を探るしかなかった。
セラと別れた帰り道、
レギュラスの胸の奥ではさざ波のような違和感が、
ずっと静かに、しかし確実に揺れ続けていた。
久しぶりに目にしたセラは、相変わらず艶やかで挑発的で、
あの女特有の妖しい温度をそのまま纏っていた。
気づけば自分の心が、ほんのわずかながらかき乱されていたことが、
レギュラスには悔しくて仕方がなかった。
――揺らぐな。
――惑わされるな。
――自分にとって守るべき場所は、ただ一つだ。
その思いを胸に帰宅したとき、
アランは静かにベッドの上で身体を横たえていた。
弱い魔灯の光が、彼女の頬を淡く照らしている。
産後の回復が遅れているとはいえ、
その横顔はどこまでも穏やかで、
まるで世界の喧騒とは無縁の場所にいるようだった。
レギュラスは彼女のそばに腰を下ろし、
一度だけ深く息を吸った。
胸の奥のざわめきを鎮めようとするように。
「…… アラン」
囁きかけると、
アランは静かにまぶたを上げ、翡翠の瞳を向けてきた。
その視線に触れた瞬間、
レギュラスの胸の奥で、何かがほどけるように緩んだ。
――この女こそが、自分の“核”なのだ。
その確信にすがるように、
レギュラスは彼女の頬に触れた。
アランは拒まなかった。
むしろ、既にわかっているように優しく身体を寄せてきた。
「……早いかもしれません」
気付けば、そんな言葉が喉から漏れていた。
自分でも笑ってしまいたくなるほど弱い声で。
アランは首を振る。
杖を使わず、ただ唇を結びながら、
その動きがすべてを肯定していた。
――約束、覚えています。
――あなたを受け入れる準備は、ずっとしていました。
そんな静かな意思が、
触れただけで伝わってくるようだった。
レギュラスはアランの上にそっと身体を重ねる。
強く求めるのではなく、
確かめるように、ゆっくりと。
何度も動きを止め、
アランの表情を読む。
眉のわずかな揺れ、
呼吸の深さ、
瞳の潤み。
一つひとつを丁寧に拾い上げるように、
慎重に、慎重に動く。
身体的な快をむさぼるためではなかった。
そんなものは、今のレギュラスにはどうでもよかった。
胸の奥のざわつきを溶かし、
心の深い場所を満たしきりたかった。
他の誰でもない、
この女との間にだけ存在する“愛の形”を、
もう一度確かめたかった。
アランがふっと微笑んだ。
弱い光の中でその微笑は、
ため息が出るほど美しく、
そしてどこまでも優しかった。
レギュラスも自然と笑みが滲む。
微笑み返すという行為が、
こんなにも胸を温かくするものなのかと胸が震えた。
指を絡めると、
アランは小さな力でぎゅっと握り返してくる。
その弱々しい力が、
たまらなく愛しく、
胸の奥を締め付けた。
アランの核に触れている。
この女の真ん中にある、
静かで、壊れやすくて、
けれど強い芯に。
そこへ触れているだけで、
セラの妖しい匂いも、笑みも、記憶に残った仕草さえも――
すべて霧のように消えていった。
――惑わされるわけがない。
――この心に入り込めるのは、
アランだけなのだから。
レギュラスはアランの額に口づける。
そっと、息を溶かすように。
アランも静かにまぶたを閉じ、
まるでそのキスを迎え入れるように
首をわずかに傾けた。
胸の奥が軋むほど、
切なく、温かく、満たされていく。
セラの影が強く揺れたあの瞬間は、
遠い幻のように薄れていった。
愛したいのは、
求めたいのは、
触れたいのは――
やはりアランただ一人だった。
その夜、騎士団の本部は静まり返っていた。
外では冬の寒気がしんしんと落ち、
古い屋敷の壁を通してわずかに冷気が忍び込んでくる。
リーマスは薄暗い執務室に一人残り、
木製の机に積まれた資料を前にして、
手元のペンをしばらく動かすことができずにいた。
ジェームズの、あの言葉。
「アランブラックはもう守る対象ではない」
それがリーマスの脳裏に、
雪のように音もなく、何度も何度も降り積もっていく。
紙をめくる指先がふと止まる。
そのままペンを置き、
額に手を押し当てるようにして深く息を吐いた。
――あの男は、本気だ。
そう確信せざるを得なかった。
数日来のジェームズの表情には、
もはや“正義の怒り”だけでは片付かない、
鋭く、焦げつくような憎悪が宿りはじめていた。
ロングボトム夫妻の惨状を目にした者ならば、
怒り狂って当然だ。
夫婦ともに精神は壊れ、
息子を認識することさえできない姿で返還された。
騎士団の誰もが動揺し、
その怒りの矛先は自然と、
あの“器用で冷徹な法務部の男”――
レギュラスブラックに向かっていった。
だが。
リーマスは、違う方向へ胸が痛んだ。
怒りに飲まれていない者などいない。
自分も、胸の内側が焼けるように憤っている。
それでも――彼女を傷つけるという選択だけは、どうしても呑めなかった。
「…… アランブラックは、違う」
小さく呟いた声は、
静まり返った室内に、わずかに溶けて消えた。
彼女は以前、取り調べ室で会ったとき、
ただひたすらに“沈黙”を貫いた。
正義の側からすれば歯痒いほどだった。
愛という名の鎧でレギュラスを庇うその姿勢は、
理解できないほど徹底していた。
だがその沈黙は、頑なさではなかった。
暴力的な嘘でも、計算でもない。
あの目は……ただ、清らかだった。
美しさと恐ろしさが同居した沈黙。
彼女の中にある“正義”は、
こちら側の正義とは別軸に存在している。
それがわかってしまったからこそ、
リーマスは彼女を責めることができない。
――あれは、罪ではない。
――彼女にとっての正しさの形なのだ。
ジェームズは理解できないだろう。
怒りが人を盲目にし、
大切なものを見落とさせる――
それを今のジェームズが象徴していた。
だが、だからと言ってシリウスに言えるわけがない。
シリウスが真実を聞けば、
間違いなく激昂し、
ジェームズと正面衝突する。
そして、レギュラスブラックに対して
手の施しようのない暴走を始めるだろう。
そんな未来は絶対に避けなければならない。
リーマスは目を閉じた。
机の上の蝋燭が揺れ、
薄く温かい光がまぶたを透かして橙に染める。
「……どうすればいいんだ、これは」
声は震えていた。
静かに、しかし逃げ場のない苦悩に満ちて。
ジェームズの怒りも、理解できる。
ロングボトム夫婦という犠牲を前に、
正義を語るのはあまりにも軽薄に聞こえてしまう。
ジェームズが“報い”を求めるのは当然のことだ。
だが、だからといってアランを手にかけるのは――違う。
あの優しさと沈黙を知ってしまった以上、
どうしても倫理観が許さなかった。
リーマスはゆっくりと椅子に背を預けた。
天井を見上げれば、古いシャンデリアの影が室内に揺れている。
――シリウスには言えない。
――ジェームズは止まらない。
―― アランを守りたい自分がいる。
――レギュラスを許せない仲間もいる。
そのすべてが、
リーマスという男の胸の内で、
息の詰まるほど複雑に絡まり合っていた。
「……こんなときに、
僕が何を“正義”と呼べばいいんだ」
静かな独白だけが、
寒い夜の空気に落ちていった。
