2章
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深夜。
騎士団本部である古い屋敷は、夜番の灯りだけが廊下に淡く伸び、息を潜めたように静まり返っていた。
その静寂を、ドン、と扉を乱暴に叩く音が切り裂いた。
ジェームズは書類整理の手を止めた。
この時間に訪問者などほとんどいない。
眉をひそめて玄関へ向かうと、扉が勢いよく開かれる。
そして——
ジェームズの視界に飛び込んできた光景は、常識のど真ん中に拳を叩き込むような衝撃だった。
シリウスが、アラン・ブラックを抱きかかえて立っていた。
「………………は?」
開いた口がふさがらなかった。
目は見開いたまま、思考が完全に固まる。
アランは夜着姿で、ほんのり膨らんだ腹を両腕で守るように抱え、
困惑と混乱を滲ませた表情でシリウスの腕の中に収まっていた。
今にも泣き出してしまいそうな、ひどく脆い顔だった。
「何してるんだい、きみたち……」
奥の部屋からリーマスが現れ、状況を見て凍りついた。
声は穏やかなのに、その穏やかさが恐ろしく感じるほどの空気の異常さだった。
「わりぃ、ちょっと……休みたくて」
シリウスの言葉は、あまりにも軽い。
理解など到底追いつかない。
ジェームズは額を押さえ、頭痛すら覚えながらシリウスを睨む。
「なぁ、本気かい君。何考えてんだい。」
「……仕方ねぇだろ。あんな屋敷に置いてられるかよ。」
ジェームズは一瞬、言葉を失った。
やっぱりこうだ、と全身から力が抜ける。
——あの男は、アランのことになると急激に判断能力が死ぬ。
忠告していた。
深入りするな、セラ・レヴィントンの件は夫婦間の問題だ、と。
しかしシリウスは、よりによって“弟の妻”を、妊娠した女を、夜中に、無断で連れ出してきたのだ。
「そんなのは夫婦の問題だ。僕らには関係ないんだ。」
「ほっときたくないんだ。」
シリウスの返答は、真っ直ぐすぎて、どうしようもなく痛い。
ジェームズは息を吐き、苛立ちと呆れが胸を支配した。
「じゃあ聞くが、ここに置いてどうするつもりなんだい?略奪婚でもする気か?」
鋭い言葉に、シリウスは目を伏せた。
否定もしない。肯定もできない。
ただ沈黙が落ちる。
ジェームズの胸に、怒りよりも先に疲労がのしかかった。
「……本気にするなよ。何か言い返せよ。」
それでもシリウスは沈黙を続けた。
その沈黙こそが、どれだけ感情的に動いてしまっているかの証拠だった。
アランは不安げにジェームズとリーマスを交互に見つめ、
胸の上で震える指先を組み合わせている。
この屋敷には、完全な魔力検知不可呪文が張られている。
レギュラス・ブラックがどれほど探しても、ここには辿り着けない。
確かに“安全”ではある。
だが——
正当な理由がひとつもない。
妊娠中の女を誘拐同然に連れてきた以上、こちら側の立場はひどく不利だ。
味方してくれる者など、魔法省には皆無だろう。
ジェームズは盛大にため息をついた。
「……シリウス、頼むから冷静になってくれ。
これは、ただの“優しさ”で済む話じゃない。」
リーマスは静かにアランの肩に上着を掛けながら、
その瞳に深い心配と、どうしようもない同情の色を浮かべていた。
屋敷を満たす沈黙は、重く、張り詰め、どこまでも痛かった。
寝室の扉を開けた瞬間――
レギュラスの背筋を、ぞわりと氷柱が這い上がった。
アランがいない。
その事実だけが、世界を一瞬で音のない暗闇へと変えた。
つい先ほどまで、セラの肌に沈んでいた。
燃え上がる熱と欲望が全身を支配し、
その一瞬だけは、現実も義務も、アランへの罪悪感さえも忘れることができていた。
だが、
その残り香は一瞬で消えた。
胸を締め上げるのは甘い痕跡ではなく、
容赦ない冷気で全身を貫いていく“喪失”の感覚。
「…… アラン?」
声が震えた。
自分の声とは思えないほど弱く、情けない声だった。
窓が開いている。
風がカーテンを揺らし、薄い月光が静かな寝室に落ちている。
蝋燭は半分以上溶けていた。
ゆっくりと流れた蝋の跡が、どれほどの時間が経ったのかを物語っている。
アランは、長くひとりでここにいた――
そして、いなくなった。
レギュラスの喉から、音にならない呼吸が漏れた。
「……どこなんです? アラン……」
寝室を見渡す。
ドレスはきちんと畳まれている。
読んでいた本はしおりの位置が変わっていない。
乱暴に出ていったのではない。
でも、足跡はない。
魔法を使った痕跡もない。
最も嫌な予感が頭をよぎる。
――誰かが連れ出した。
レギュラスは魔力を放った。
普段なら、アランの魔力の揺らぎなど一発で見つけられた。
彼女の魔力は繊細で柔らかいのに、どこか芯が強い。
探ればすぐわかる。
だが、
何も――感じ取れない。
魔力の気配が、完全に途絶えている。
「……検知不可呪文の中にいる……?」
信じがたい。
だが、それしか説明がつかなかった。
どこか“魔力遮断の結界”に入っている。
自分の探知が通らない領域――限られている。
そしてそこを想像した瞬間、背中を恐怖が駆け抜けた。
騎士団本部。
ついさきほどまで、自分はセラに抱き寄せられていた。
甘い吐息に沈み、彼女の嬌声に意識を奪われ、
アランの姿も、ステラの声も――
全部、意図的に忘れようとしていた。
あの瞬間だけは、現実が消えていた。
逃げていた。
そして――
その逃避の代償が、今この空虚な寝室だ。
脳裏にバーテミウスの忠告が蘇る。
アランは気づいていますよ。あなたとセラのことに。
あのとき軽く流した言葉が、
いま刃物のように胸に刺さる。
「アラン……」
情が埋まったと思えば、
また少し離れ、
埋まった気がすれば、
また裂けていく。
あの日以来、ずっと埋めようと必死だった溝が、
一瞬で、深い“断崖”に変わったようだった。
胸が締め付けられて呼吸が浅くなる。
眠っていた“狂気”のような魔力が、皮膚の表面でざわりと逆立つ。
制御しなければ暴走しかねない危うさがあった。
―― アランがいない。
それだけが、
全ての理性を奪っていく。
「どこです……?戻って…… アラン……」
こんな声を出す自分に嫌悪する余裕もなかった。
喉が裂けても構わないと思うほど叫びたかった。
後悔は、もはや痛みではなかった。
恐怖だった。
本能そのものが、アランの不在を“生存の危機”として訴えていた。
レギュラスは、震える手を握りしめて、
たった一つの確信にたどりつく。
奪われたのなら――奪い返す。
その執着だけが、
彼の理性の最後の芯を保っていた。
騎士団本部の作戦室。
夜明け前の薄い光が窓から差し込み、冷たく漂う空気の中で、
ジェームズ・ポッターはゆっくりと息を吐いた。
アラン・ブラックは、長い沈黙ののち――
杖先を震わせながら、板の上に文字を描いた。
「ステラが……いるから。帰りたいです。」
その筆跡は震えていた。
だが、揺るがない意志が込められていた。
ジェームズは、胸の奥で小さく安堵が弾けるのを感じた。
――ようやく、自分たちが“道理の通る判断”を下せる。
ここにアランを匿えばどうなるか。
最悪、純血名門ブラック家と騎士団が“全面戦争”に踏み切る。
レギュラス・ブラックは冷酷だが、情には深く執着するタイプの男だ。
妻が奪われたと知れば、手段を選ばずに噛みついてくるだろう。
それは――
騎士団の理念にとって、何ひとつ益のない災禍だった。
「……帰りたいってわけだね。」
ジェームズは、あえて軽く言う。
けれどその声は、いつもより低かった。
アランの瞳がこちらを見上げる。
その瞳の奥には、恐怖も、孤独も、後悔も、すべて混ざり込んでいた。
この女にとって“レギュラスの屋敷”は檻も同然。
だが同時に――
そこには幼いステラがいて、
自身の存在理由のすべてがそこにあった。
リーマスが静かに近づく。
「アランさん……大丈夫ですか? 無理をしていないですか?」
アランは微かに微笑み、そっと首を振る。
この仕草を見るたび、ジェームズは複雑な感情に襲われる。
声を奪われても、なお他者を安心させようとする――
そんな優しさを持つ女が、なぜ闇の家に縛られているのか。
けれど同時に、こうも思う。
こんな女を匿う理由が、こちらには何ひとつない。
ジェームズは腕を組み、低く吐き捨てるように言った。
「……正直に言うよ。
僕たちが君をここに置いて得をすることなんて、何一つないんだ。」
リーマスが横目で睨む。
だがジェームズは構わず続けた。
「もし君が、たとえば――
マグル孤児院の虐殺事件の真実を知っているとか、レギュラスの犯罪を証明できる材料を持っているのなら話は別だ。」
アランの指がわずかに震えた。
けれど彼女は何も書かない。
沈黙――その沈黙こそが、何も証言できないという答えだった。
ジェームズは心の底からため息を吐く。
「……だったらなおさらだ。
君を匿う理由なんて本当に一ミリもない。
僕たちは革命家じゃない。自爆覚悟で戦争を仕掛ける馬鹿でもない。」
“誰かの恋愛沙汰”に巻き込まれて命を賭けるほど、騎士団は暇ではない。
リーマスが静かに口を開く。
「アランさん、ステラが待っていますね……
帰りましょう。あなたが望むなら。」
アランはこくりと頷いた。
その瞳に浮かんだ涙の光は、あまりにも弱く、あまりにも強かった。
ジェームズは顎に手を当て、最後の判断を下す。
「……夜明けと同時に送り届けよう。
こちらの魔力痕跡を残さない。
シリウスは同行禁止だ。感情で動かれると困る。」
シリウスが「は?」と叫びかけたが、ジェームズは無視した。
「これは騎士団全体の判断だ。
これ以上の火種は不要だ。
アランを返す。最も安全な方法で。」
アランは胸に手を当て、深く、震えるように頭を下げた。
それは“感謝”ではなかった。
“理解します”という静かな合意だった。
ジェームズは、ほんのわずかに眉を緩めた。
「君を追ってここまで来る――
そんな愚かな弟に、僕たちの基地を荒らされてたまるか。
さっさと返してしまうのが一番安全だ。」
その言い草は冷たかった。
だが、一番理性的で、一番正しい判断だった。
夜が明ける。
アランの帰還が、静かに決まった。
アランは、明け方の冷たい空気を抱いたまま、
静かにブラック家の重い門をくぐった。
屋敷は――まるで巨大な灯籠のように、
普段は落とされるはずの廊下の端々にまで灯りがともり、
暗闇をひとかけらも許さないほど明々と照らされていた。
それだけで胸の奥に痛みが走る。
誰がこれほどの光を必要としたのか。
誰が、眠ることも忘れて探し続けたのか。
扉を押し開け、玄関ホールに足を踏み入れた瞬間だった。
――風を切る音。
次いで、影がひとつこちらへ飛ぶように駆け寄ってきた。
「アラン……!」
レギュラスだった。
呼吸が荒かった。魔力が空気を震わせていた。
いつもの冷たい銀灰色の瞳は、赤く滲むように血走っている。
強い魔法陣を組み続け、魔力探知の呪文を限界以上に重ね続けた証――
長時間、狂気にも似た焦燥で自分を探していた証だった。
その瞳がアランをとらえた瞬間、
レギュラスの足が止まる。
ほぼ同時に、膝がわずかに震えた。
――そんな姿、今まで一度も見たことがなかった。
アランは胸の前で杖を震わせる。
喉が痛いほど胸が詰まっていたが、文字は静かに浮かぶ。
「レギュラス、ごめんなさい……心配をかけました。」
書き終わるより先に、
レギュラスはアランの腕を強く引き寄せた。
ふわり、ではなかった。
崩れ落ちるような抱き寄せ方で、
胸元に縋るように顔を埋めてくる。
「……いいんです……」
低く、かすれた声だった。
その声の震えは、怒りでも責めでもなく――
ただひたすらに、安堵と恐怖が溶け合った震えだった。
「無事で……本当に……よかった……」
アランの肩を抱く腕は、
折れた動物が必死に寄りかかるように、力が入っていた。
掴む手が震え、胸に押し当てられた額が熱を帯びている。
アランはそっと、彼の背中に腕を回した。
心臓の鼓動が耳元で荒く響いていた。
レギュラスほど恐ろしい男が、
こんなにも脆く、息を乱している。
――こんな顔を、どうして自分にだけ見せるのだろう。
レギュラスは顔を上げた。
赤く荒れた瞳が、灯りに照らされて揺れる。
「アラン……いなくならないでください……
あなたが……いない世界なんて……」
声が途切れた。
抑えようと必死に噛みしめた唇から、
微かに血の味がしそうなほど力が入っていた。
アランは胸がつぶれそうになる。
自分がいなくなった時間――
そのすべてを、この男は恐怖で満たされながら探していたのだ。
アランは杖を動かす。
震える手で、短く、しかし確かな文字を書く。
「戻ってきました。ここにいます。」
その瞬間、レギュラスの肩が落ち、
深く、深く息を吐いた。
「……ええ。
あなたが戻ってきてくれた……
それで……それだけでいいんです……」
けれど、その“安堵”の奥に潜む何か――
絡みつくような恐怖、所有の影、そしてまだ消えていない焦燥――
それらすべてを、アランは肌で感じていた。
灯りに照らされた広いロビーで、
二人だけの静かな再会は、
どこまでも優しく、
どこまでも危うい色を帯びていた。
闇の帝王の呼び声は、冬の夜の吹雪よりも冷たく、重かった。
レギュラスが魔力の渦巻く大広間に入ると、すでに黒衣の集団は輪を成していた。
中央には、狂気の光を瞳に宿した女――ベラトリックス・レストレンジが、恍惚とした笑みを浮かべながら佇んでいる。
その足元には、拘束された二人の魔法使い。
ネビル・ロングボトムの両親――騎士団創設者として知られる、フランクとアリス・ロングボトム夫妻だった。
肌には紅蓮の焼跡が無数に刻まれ、精神を押し潰す拷問呪文の余韻がまだ漂っている。
彼らの唇は震え、虚ろな瞳は焦点を失っていた。
そう、ベラトリックスは――“やりすぎた”のだ。
闇の帝王の低い声が闇を裂く。
「レギュラス・ブラック」
レギュラスは膝を折る。
けれど胸の奥で跳ねるのは、忠誠ではなかった。
冷たく、重苦しい計算と焦燥だった。
ベラトリックスがゆっくりと歩み寄り、耳元で囁く。
「坊や。これを不問に、できるわよね?」
その声音には陶酔すら混じり、
狂気の瑞々しさを湛えていた。
――できるわけがない。
――だが、できないと言えば自分が死ぬ。
だからレギュラスは微笑む。
完璧に整えられた冷たい笑みで。
「尽力いたします。」
女は歓喜のように、胸の前で両手を打ち合わせる。
「やっぱり、坊やは賢いわねぇ」
レギュラスは静かに頭を下げた。
その心の奥で沸き立つのは、苛立ちよりも憎悪に近い。
――何度、この女の尻拭いをしてきたことか。
ベラトリックスの魔力は強大だ。
それだけではない。その魔力の流れは歪で、解呪にも偽装にも向いていない。
後始末に使われる魔法と正反対の性質――
“痕跡を残すために生まれた魔力”と言っていい。
今回も、証拠はべっとりと残っている。
精神破壊の呪いは周囲の魔力層に食い込み、
焼痕は魔法の炎の特性が如実に残されている。
隠せるわけがない。
だが、闇の帝王は言った。
――この二人を戻せ。
殺さず、断片化せず。
生かしたまま“見せしめ”にするというのだ。
魔法界の大衆には悟らせず、
騎士団にのみ恐怖を刻みつけるために。
矛盾した命令だ。
表社会への露見は避けつつ、最大限の揺さぶりをかけろという。
綱渡りどころではない。
集会が解散し、闇の衣が霧散していった後。
重苦しい静けさだけが広間に残った。
レギュラスはその中心にただ一人立ち尽くしていた。
その横に、音もなくバーテミウスが現れる。
「さて……どうやります?」
バーテミウスの声はいつも通り軽く、
だが目の奥には高い緊張と興奮の光が宿っていた。
レギュラスは深く息を吐く。
夜の冷気よりも冷たい結論が、胸の奥で形を成していた。
「まず、夫妻を“どの程度まで”戻すかだ。」
バーテミウスは眉を上げる。
「つまり、完全ではなく?」
「完全に戻せば、ベラトリックスの魔力の痕跡は消せません。だが、半壊した精神なら残虐痕跡をごまかせる。 “精神的ショックによる失調”という形で処理できる。」
「なるほど、ありそうな話ですし……魔力鑑定に引っかかりませんね。」
「ええ。
そのうえで、夫妻を“騎士団の近くに”戻す。
彼らが自分の子に触れられず、ただ震える姿を見せられれば――」
レギュラスの目が微かに光る。
「騎士団へは最大級の揺さぶりになる。」
バーテミウスは口元を緩める。
「坊や、じゃなくて……さすが“ブラック卿”ですね。」
レギュラスは静かに瞼を閉じる。
――気が重い。
――こんな作業をいったい何度繰り返してきたのか。
ベラトリックスという魔女が残す“狂気の断片”を、
自分は何度消し、何度ごまかし、
そのたびに深い泥の中へ潜っていくのだろう。
だが、やるしかない。
騎士団を押しつぶすためにも。
闇の帝王の信頼を維持するためにも。
そして――
自分の家族を守るためにも。
「……行きますよ、バーテミウス。」
「ええ。地獄の後始末、始めましょう。」
二人はゆっくりと闇の中へ歩みを進めた。
魔法界を震わせる“最悪の舞台”を整えるために。
地下の隔離医療棟は、日光の欠片も届かない深い闇に沈んでいた。
魔力の層が複雑に積み重なり、扉を開けただけで肌にひたりと湿りつくような圧がかかる。
中に安置されているのは二つのベッド。
ロングボトム夫妻――かつて騎士団の象徴とまで言われた二人は、もうその面影すら残さない姿で横たわっていた。
アリスは全身を小刻みに震わせ、
フランクは虚空を見つめながら意味を成さない言葉を泡のように漏らす。
だが、最も目を刺すのは――
皮膚の裏側にまだ残っている“焼けただれた魔力の痕跡”だった。
ベラトリックスの魔法は、暴力的で破壊的で、魂の筋肉にまで爪痕を残す。
治癒魔法で肉体を戻しても、精神の層には深く深く焼き付けられていた。
レギュラスはゆっくりと息を吐いた。
緩やかな灰銀色の瞳が、冷静さと恐れを半々に湛えている。
「……バーテミウス。始めますよ。」
バーテミウスは、作業台の上に並べた水晶球と魔力糸の瓶を手にしながら肩を竦める。
「いやぁ、本当に。あなたのいとこ殿は恐ろしい魔力をお持ちで……
後始末をする側の身にもなってほしいものですよ。」
「言うだけ無駄です。」
二人はロングボトム夫妻のベッドの左右に立つ。
レギュラスはアリスの側、バーテミウスはフランクの側。
まずは精神層の魔力を可視化する必要があった。
レギュラスは細い杖をアリスのこめかみに触れ、ゆっくり呪文を紡ぐ。
途端――
アリスの額から、淡い蒼の糸が何本も立ち上る。
霧のように揺らぎながら空中に広がり、
それらは強くて脆い、凍った蜘蛛の巣のようにひび割れていた。
「……ひどい。」
レギュラスが呟く。
魔力層は三つに層分けされる。
肉体層――感覚層――精神層。
精神層はもっとも複雑で壊れやすい。
ベラトリックスが破壊したのは“精神層の最奥”。魂に最も近い部分だ。
その部分は、無理に手を加えれば一瞬で壊れてしまう。
完全に壊れれば、魂は二度と戻ってこない。
バーテミウスが隣で、フランクの精神糸を浮かび上がらせた。
こちらも同じように破壊されている。
「さて……精神崩壊痕は“自然症状”に偽装しなきゃいけないわけですが……
どうします? 完全に壊したまま返します?」
「……いいえ。
この夫婦には“恐怖と混乱を抱えたまま生かして返す”という闇の帝王の要望がある。」
「ですよねぇ。面倒だ。」
作業の難易度は天井を突き破る。
バーテミウスが表情をしかめるのも無理はない。
レギュラスはアリスの精神糸に指を添えた。
触れた瞬間、彼女の身体がビクリと震え、口からか細い声が漏れる。
「――ぁ……っ……」
「すみません。」
小さく謝りながらも、レギュラスは精神糸のほつれをそっと修繕していく。
古代ルーンの治癒式を織り交ぜながら、“壊れた部分を壊れたまま整える”という矛盾した作業。
長い沈黙の中、バーテミウスの低い独り言が落ちる。
「……しかし、あなたもよくやりますよね。
この作業、失敗すれば一気に精神が崩壊しますよ?」
「分かっています。」
「ロングボトム夫妻は騎士団の象徴。
魔力操作に失敗すれば、あなたが直接手を下したと見られても仕方ない。」
「それでもやらなければならない。」
レギュラスの声音には
“自己犠牲にも似た静かな決意”があった。
「……守らなければならないものが、あるので。」
アラン。ステラ。そして、まだ生まれてくれない第二子。
闇の帝王との均衡が崩れれば、彼らは真っ先に狙われる。
それだけは避けなければならない。
レギュラスは震える指を抑え、精神糸の表層を丁寧に閉じていく。
どれほど時間が経っただろうか。
二人の額には冷たい汗が浮かんでいた。
バーテミウスが深いため息をついた。
「……よし。フランク側は整いました。
“深刻な精神的ショックによる不可逆的な失調”として見えるように調整完了。」
「アリスも同じです。」
アリスはまるで壊れた人形のように、虚空を見つめたまま震えている。
しかし――
ベラトリックスの魔法痕跡は巧妙に隠され、
代わりに“自然な精神崩壊”のような不均一な魔力模様が表層に残された。
これなら魔力鑑定にかけても
「恐怖による精神崩壊」としか判断されない。
最後に、レギュラスが静かに布を夫妻の身体にかけ直した。
「これで……騎士団へ返せます。」
「まるで悪夢の宅配便ですねぇ。
受け取った騎士団側は、とんでもない地獄を見るでしょう。」
バーテミウスは皮肉めいた笑みを浮かべる。
レギュラスはその言葉に何も返さなかった。
ただ、ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥には、冷たい罪悪感がひっそりと沈んでいた。
――どうしてこんな世界で
守るべきものを抱えてしまったのか。
だが後悔も、迷いも、
今はひとまず胸の奥に押し込める。
「……終わりました。帰りましょう、バーテミウス。」
「ええ。
地獄の続きを見るのは、もう明日で十分です。」
二人は静かに闇の医療棟を後にした。
背後に残された夫婦の微かな震えだけが、
ひどく長い夜の終わりを告げていた。
魔力検知不可の結界の奥――
騎士団本部の広間は、その夜ひどく冷え込んでいた。
ジェームズ、シリウス、リーマス、そして何人かの騎士団員が集まっている。
誰も口を開かない。
ただ静まり返った空間に、硬い靴音がひとつだけ響いた。
運ばれてきたのは二つのストレッチャー。
そこに横たわるロングボトム夫妻を見た瞬間、
ジェームズは反射的に息を呑んだ。
「……嘘だろ……」
アリスの瞳は焦点を失い、
フランクの口からは意味をなさない音が途切れ途切れに泡のように漏れ続けている。
生きている。
だが“生きているだけだ”。
そこにかつての騎士団の英雄の面影はどこにもなかった。
リーマスがアリスの手を取った瞬間、
アリスはひどく怯えたように身体をひきつらせ、かすれた悲鳴を漏らした。
「……リーマス、離れてやれ。」
ジェームズの声は強張っていた。
シリウスは無言のままフランクの顔をのぞき込み――
その場で拳を握りしめ、手の甲の骨が浮き上がるほど強く噛みしめた。
「……これ、ほんとうに……人間を……戻したと言えるのか……?」
その呟きは、誰にも届かないほど細かったが
内側から燃え上がる怒りが音としてにじみ出ていた。
“拷問の痕跡”は完璧に隠されている
ジェームズは夫婦の周囲に魔力鑑定呪文を展開させた。
淡い光の網が夫妻を包み込み――そして結果に眉をひそめる。
「……精神層の崩壊……ただそれだけだ。」
「痕跡操作されてる。」
リーマスが静かに言う。
「ベラトリックスの魔力流……完全に隠してある。
これは……“自然な精神の崩落”にしか見えない。」
「自然? これが自然にか?」
シリウスの声が震える。
怒りに震える声は、静かな広間に刺さるように響いた。
ジェームズは拳をぎゅっと握った。
「……レギュラスブラックだ。」
名を口にした瞬間、空気が冷たく引き締まった。
ジェームズの声には、怒りと悔しさが入り混じっていた。
「わざわざ“生きて返す”意味を考えろ。
殺さず、壊したまま返すことで、
騎士団に“自分たちの無力さ”を見せつけるつもりなんだ。」
リーマスが短く息を吐く。
「……見せしめ。」
シリウスは黙ってフランクの肩に触れたが、
フランクは怯えた子どものように身体を丸め、意味のない呻き声をあげた。
シリウスの表情がみるみる険しくなる。
「……殺してやったほうが……まだ……」
「言うなシリウス!」
ジェームズが怒鳴る。
けれど、その声にも悲しみが滲んでいた。
「証拠操作も、精神層の偽装も完璧だ。
これは……ベラトリックスではなく、レギュラスの仕事だ。」
ジェームズの横顔は苦く歪んでいた。
「法務部の魔力痕跡偽装術に長けた奴が動いた証拠。
バーテミウス……あの男も関わってるだろう。」
「で……俺たちは?」
シリウス。
「……何もできない。」
ジェームズの低い声で告げられた答えは、残酷だった。
「この夫妻を誰が傷つけたか、魔力鑑定では特定できない。
法的にも、政治的にも……手出しができない。」
広間に沈黙が落ちた。
リーマスが口元を押さえながら呟いた。
「これ……騎士団の心を折るためだけに……?」
「そうだ。」
ジェームズが歯を軋ませて言う。
「レギュラスは、壊すなら徹底的だ。
相手の“核となる希望”を奪って地固めするタイプの男だ。」
そして、息を呑む。
「今回は……
ロングボトム夫妻が“騎士団の核”だと見抜いたからこそ狙った。
その上で――“生かして返す”ことで俺たちの精神を折ろうとしている。」
シリウスは拳を震わせた。
「……クソ野郎が……!」
ジェームズはストレッチャーに視線を落とした。
晒された残酷さに胃が捩れる。
だが、その奥底に燃えるのは――静かな怒りだった。
「……わかったよ、レギュラスブラック。
あんたは……“俺たちの核”を折りにきた。」
その目が鋭く光る。
「なら――こちらも、“あんたの核”を折る。
それしか、この戦いの終わらせ方はない。」
「核?」とリーマス。
ジェームズは静かに言った。
「アランブラック。
そして――あいつが手放さない全てだ。」
広間の空気が、ひどく冷たく震えた。
ロングボトム夫妻の呻き声が、まだ耳の奥にこびりついていた。
アリスの濁った瞳。フランクの壊れた言語。
あの夫婦がどれほど誇り高く、どれほど勇敢だったかを知るジェームズには、その姿は悪夢以上のものだった。
“生きて返す”という残酷。
完全な侮辱。
死よりも残酷な形で、騎士団の“心臓”を潰すやり方。
――やられた。
広間で誰よりも早くその事実を理解したのは、ジェームズ自身だった。
ベラトリックスの狂気だけでは無理だ。
背後にあの男がいる。
レギュラス・ブラック――あの冷徹な策略家の影。
怒りは熱ではなく冷たさを孕んでいた。
氷のように薄く、鋭く、刺すようなものだった。
ジェームズは一人、騎士団本部の書斎に籠った。
ロングボトム夫妻が運び込まれた広間から離れたにもかかわらず、胸の奥の痛みは消えない。
「……レギュラス・ブラック。」
名前を口にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
浮かんできたのは――
魔法省前でレギュラスがアランを抱き寄せ、平然と人前でキスをした光景。
勝利を誇りながら、何もかも掌の上で転がすように笑っていた“あの顔”。
「……お前にだけは、負けられないんだよ。」
ジェームズは深く息を吐き、静かに椅子に腰を下ろした。
ロングボトム夫妻を壊された。
ならば――レギュラスの“核”を壊すべきだ。
あまりにも自然に、その考えが胸に落ちてきた。
正義ではない。
救済でもない。
これは復讐だった。
騎士団の仲間たち――命を賭して闇と戦う者たちが、地に伏せられ、心を折られ、それでも立ち向かってきたその矜持があまりにも踏みにじられた。
レギュラスが罪悪感など抱くはずがない。
あの男には“良心”などというものは存在しない。
感情を捨て、常に最適解だけを選び、必要なら他人の心や人生を簡単に切り捨てる男だ。
ならば――同じやり方で返す以外に道はない。
「……ロングボトム夫妻を壊したように。
お前の大事なものも……壊して返してやる。」
呟いた声は、夜の静けさに溶けてもなお刺々しいままだった。
ジェームズは机に置いていた新聞を指で押さえた。
紙面には、魔法省前でレギュラスとキスしているアランの写真。
涙も、怒りも飲み込み、ただ夫に寄り添っていたあの女。
――あれほど弱い目をしていたのに。
――あれほど壊されやすい心をしているのに。
「…… アラン・ブラック。」
声にしてみると、不思議なほど無機質な音に思えた。
自分の中で、すでに彼女は人ではなかった。
守るべき対象でも、哀れむべき存在でもない。
目的のために利用しうる“駒”。
レギュラス・ブラックという怪物の心臓。
あの男を構成する唯一の柔らかい部分。
傷つければ確実に効く場所。
ジェームズは冷徹な目をした。
「……お前を壊せば、レギュラスは崩れる。」
そう確信した。
愛しているからこそ、壊れれば効く。
守りたいものが大きいほど、奪われれば折れる。
ロングボトム夫妻がそうであったように。
だが――
これだけは、親友には言えなかった。
シリウスはアランという女に特別な優しさを向けるからだ。
どれほど遠くにいようと、親友のその視線の柔らかさだけは変わらなかった。
「シリウス……お前には絶対、言えない。」
もしこの計画を明かせば、親友は激昂して止めるだろう。
拳を振り上げられても文句は言えない。
だがそれほどの友情すら、今のジェームズには“復讐よりも軽い”ものに思えた。
ロングボトム夫妻を見た後では――何もかもが変わる。
「……悪いが、もう僕は“きれいな正義”だけでは戦えない。」
ジェームズの目には、静かな狂気が宿っていた。
ジェームズは魔法地図を広げ、指でひとつの名前をなぞる。
アラン・ブラック
宿っている魔力は、弱く、繊細で、不安定。
騎士団の結界下にいたときの気配も思い出せる。
「お前は利用できる。
……十分に。」
紙の上の小さな“点”に、ジェームズは目を細めた。
「アラン・ブラック。
お前が壊れれば――
レギュラスは必ず崩れ、狂う。
その瞬間こそ、我々の勝機だ。」
指をゆっくりとその名の上から離したとき、
ジェームズの胸には不気味なほど静かな決意だけが残っていた。
騎士団本部である古い屋敷は、夜番の灯りだけが廊下に淡く伸び、息を潜めたように静まり返っていた。
その静寂を、ドン、と扉を乱暴に叩く音が切り裂いた。
ジェームズは書類整理の手を止めた。
この時間に訪問者などほとんどいない。
眉をひそめて玄関へ向かうと、扉が勢いよく開かれる。
そして——
ジェームズの視界に飛び込んできた光景は、常識のど真ん中に拳を叩き込むような衝撃だった。
シリウスが、アラン・ブラックを抱きかかえて立っていた。
「………………は?」
開いた口がふさがらなかった。
目は見開いたまま、思考が完全に固まる。
アランは夜着姿で、ほんのり膨らんだ腹を両腕で守るように抱え、
困惑と混乱を滲ませた表情でシリウスの腕の中に収まっていた。
今にも泣き出してしまいそうな、ひどく脆い顔だった。
「何してるんだい、きみたち……」
奥の部屋からリーマスが現れ、状況を見て凍りついた。
声は穏やかなのに、その穏やかさが恐ろしく感じるほどの空気の異常さだった。
「わりぃ、ちょっと……休みたくて」
シリウスの言葉は、あまりにも軽い。
理解など到底追いつかない。
ジェームズは額を押さえ、頭痛すら覚えながらシリウスを睨む。
「なぁ、本気かい君。何考えてんだい。」
「……仕方ねぇだろ。あんな屋敷に置いてられるかよ。」
ジェームズは一瞬、言葉を失った。
やっぱりこうだ、と全身から力が抜ける。
——あの男は、アランのことになると急激に判断能力が死ぬ。
忠告していた。
深入りするな、セラ・レヴィントンの件は夫婦間の問題だ、と。
しかしシリウスは、よりによって“弟の妻”を、妊娠した女を、夜中に、無断で連れ出してきたのだ。
「そんなのは夫婦の問題だ。僕らには関係ないんだ。」
「ほっときたくないんだ。」
シリウスの返答は、真っ直ぐすぎて、どうしようもなく痛い。
ジェームズは息を吐き、苛立ちと呆れが胸を支配した。
「じゃあ聞くが、ここに置いてどうするつもりなんだい?略奪婚でもする気か?」
鋭い言葉に、シリウスは目を伏せた。
否定もしない。肯定もできない。
ただ沈黙が落ちる。
ジェームズの胸に、怒りよりも先に疲労がのしかかった。
「……本気にするなよ。何か言い返せよ。」
それでもシリウスは沈黙を続けた。
その沈黙こそが、どれだけ感情的に動いてしまっているかの証拠だった。
アランは不安げにジェームズとリーマスを交互に見つめ、
胸の上で震える指先を組み合わせている。
この屋敷には、完全な魔力検知不可呪文が張られている。
レギュラス・ブラックがどれほど探しても、ここには辿り着けない。
確かに“安全”ではある。
だが——
正当な理由がひとつもない。
妊娠中の女を誘拐同然に連れてきた以上、こちら側の立場はひどく不利だ。
味方してくれる者など、魔法省には皆無だろう。
ジェームズは盛大にため息をついた。
「……シリウス、頼むから冷静になってくれ。
これは、ただの“優しさ”で済む話じゃない。」
リーマスは静かにアランの肩に上着を掛けながら、
その瞳に深い心配と、どうしようもない同情の色を浮かべていた。
屋敷を満たす沈黙は、重く、張り詰め、どこまでも痛かった。
寝室の扉を開けた瞬間――
レギュラスの背筋を、ぞわりと氷柱が這い上がった。
アランがいない。
その事実だけが、世界を一瞬で音のない暗闇へと変えた。
つい先ほどまで、セラの肌に沈んでいた。
燃え上がる熱と欲望が全身を支配し、
その一瞬だけは、現実も義務も、アランへの罪悪感さえも忘れることができていた。
だが、
その残り香は一瞬で消えた。
胸を締め上げるのは甘い痕跡ではなく、
容赦ない冷気で全身を貫いていく“喪失”の感覚。
「…… アラン?」
声が震えた。
自分の声とは思えないほど弱く、情けない声だった。
窓が開いている。
風がカーテンを揺らし、薄い月光が静かな寝室に落ちている。
蝋燭は半分以上溶けていた。
ゆっくりと流れた蝋の跡が、どれほどの時間が経ったのかを物語っている。
アランは、長くひとりでここにいた――
そして、いなくなった。
レギュラスの喉から、音にならない呼吸が漏れた。
「……どこなんです? アラン……」
寝室を見渡す。
ドレスはきちんと畳まれている。
読んでいた本はしおりの位置が変わっていない。
乱暴に出ていったのではない。
でも、足跡はない。
魔法を使った痕跡もない。
最も嫌な予感が頭をよぎる。
――誰かが連れ出した。
レギュラスは魔力を放った。
普段なら、アランの魔力の揺らぎなど一発で見つけられた。
彼女の魔力は繊細で柔らかいのに、どこか芯が強い。
探ればすぐわかる。
だが、
何も――感じ取れない。
魔力の気配が、完全に途絶えている。
「……検知不可呪文の中にいる……?」
信じがたい。
だが、それしか説明がつかなかった。
どこか“魔力遮断の結界”に入っている。
自分の探知が通らない領域――限られている。
そしてそこを想像した瞬間、背中を恐怖が駆け抜けた。
騎士団本部。
ついさきほどまで、自分はセラに抱き寄せられていた。
甘い吐息に沈み、彼女の嬌声に意識を奪われ、
アランの姿も、ステラの声も――
全部、意図的に忘れようとしていた。
あの瞬間だけは、現実が消えていた。
逃げていた。
そして――
その逃避の代償が、今この空虚な寝室だ。
脳裏にバーテミウスの忠告が蘇る。
アランは気づいていますよ。あなたとセラのことに。
あのとき軽く流した言葉が、
いま刃物のように胸に刺さる。
「アラン……」
情が埋まったと思えば、
また少し離れ、
埋まった気がすれば、
また裂けていく。
あの日以来、ずっと埋めようと必死だった溝が、
一瞬で、深い“断崖”に変わったようだった。
胸が締め付けられて呼吸が浅くなる。
眠っていた“狂気”のような魔力が、皮膚の表面でざわりと逆立つ。
制御しなければ暴走しかねない危うさがあった。
―― アランがいない。
それだけが、
全ての理性を奪っていく。
「どこです……?戻って…… アラン……」
こんな声を出す自分に嫌悪する余裕もなかった。
喉が裂けても構わないと思うほど叫びたかった。
後悔は、もはや痛みではなかった。
恐怖だった。
本能そのものが、アランの不在を“生存の危機”として訴えていた。
レギュラスは、震える手を握りしめて、
たった一つの確信にたどりつく。
奪われたのなら――奪い返す。
その執着だけが、
彼の理性の最後の芯を保っていた。
騎士団本部の作戦室。
夜明け前の薄い光が窓から差し込み、冷たく漂う空気の中で、
ジェームズ・ポッターはゆっくりと息を吐いた。
アラン・ブラックは、長い沈黙ののち――
杖先を震わせながら、板の上に文字を描いた。
「ステラが……いるから。帰りたいです。」
その筆跡は震えていた。
だが、揺るがない意志が込められていた。
ジェームズは、胸の奥で小さく安堵が弾けるのを感じた。
――ようやく、自分たちが“道理の通る判断”を下せる。
ここにアランを匿えばどうなるか。
最悪、純血名門ブラック家と騎士団が“全面戦争”に踏み切る。
レギュラス・ブラックは冷酷だが、情には深く執着するタイプの男だ。
妻が奪われたと知れば、手段を選ばずに噛みついてくるだろう。
それは――
騎士団の理念にとって、何ひとつ益のない災禍だった。
「……帰りたいってわけだね。」
ジェームズは、あえて軽く言う。
けれどその声は、いつもより低かった。
アランの瞳がこちらを見上げる。
その瞳の奥には、恐怖も、孤独も、後悔も、すべて混ざり込んでいた。
この女にとって“レギュラスの屋敷”は檻も同然。
だが同時に――
そこには幼いステラがいて、
自身の存在理由のすべてがそこにあった。
リーマスが静かに近づく。
「アランさん……大丈夫ですか? 無理をしていないですか?」
アランは微かに微笑み、そっと首を振る。
この仕草を見るたび、ジェームズは複雑な感情に襲われる。
声を奪われても、なお他者を安心させようとする――
そんな優しさを持つ女が、なぜ闇の家に縛られているのか。
けれど同時に、こうも思う。
こんな女を匿う理由が、こちらには何ひとつない。
ジェームズは腕を組み、低く吐き捨てるように言った。
「……正直に言うよ。
僕たちが君をここに置いて得をすることなんて、何一つないんだ。」
リーマスが横目で睨む。
だがジェームズは構わず続けた。
「もし君が、たとえば――
マグル孤児院の虐殺事件の真実を知っているとか、レギュラスの犯罪を証明できる材料を持っているのなら話は別だ。」
アランの指がわずかに震えた。
けれど彼女は何も書かない。
沈黙――その沈黙こそが、何も証言できないという答えだった。
ジェームズは心の底からため息を吐く。
「……だったらなおさらだ。
君を匿う理由なんて本当に一ミリもない。
僕たちは革命家じゃない。自爆覚悟で戦争を仕掛ける馬鹿でもない。」
“誰かの恋愛沙汰”に巻き込まれて命を賭けるほど、騎士団は暇ではない。
リーマスが静かに口を開く。
「アランさん、ステラが待っていますね……
帰りましょう。あなたが望むなら。」
アランはこくりと頷いた。
その瞳に浮かんだ涙の光は、あまりにも弱く、あまりにも強かった。
ジェームズは顎に手を当て、最後の判断を下す。
「……夜明けと同時に送り届けよう。
こちらの魔力痕跡を残さない。
シリウスは同行禁止だ。感情で動かれると困る。」
シリウスが「は?」と叫びかけたが、ジェームズは無視した。
「これは騎士団全体の判断だ。
これ以上の火種は不要だ。
アランを返す。最も安全な方法で。」
アランは胸に手を当て、深く、震えるように頭を下げた。
それは“感謝”ではなかった。
“理解します”という静かな合意だった。
ジェームズは、ほんのわずかに眉を緩めた。
「君を追ってここまで来る――
そんな愚かな弟に、僕たちの基地を荒らされてたまるか。
さっさと返してしまうのが一番安全だ。」
その言い草は冷たかった。
だが、一番理性的で、一番正しい判断だった。
夜が明ける。
アランの帰還が、静かに決まった。
アランは、明け方の冷たい空気を抱いたまま、
静かにブラック家の重い門をくぐった。
屋敷は――まるで巨大な灯籠のように、
普段は落とされるはずの廊下の端々にまで灯りがともり、
暗闇をひとかけらも許さないほど明々と照らされていた。
それだけで胸の奥に痛みが走る。
誰がこれほどの光を必要としたのか。
誰が、眠ることも忘れて探し続けたのか。
扉を押し開け、玄関ホールに足を踏み入れた瞬間だった。
――風を切る音。
次いで、影がひとつこちらへ飛ぶように駆け寄ってきた。
「アラン……!」
レギュラスだった。
呼吸が荒かった。魔力が空気を震わせていた。
いつもの冷たい銀灰色の瞳は、赤く滲むように血走っている。
強い魔法陣を組み続け、魔力探知の呪文を限界以上に重ね続けた証――
長時間、狂気にも似た焦燥で自分を探していた証だった。
その瞳がアランをとらえた瞬間、
レギュラスの足が止まる。
ほぼ同時に、膝がわずかに震えた。
――そんな姿、今まで一度も見たことがなかった。
アランは胸の前で杖を震わせる。
喉が痛いほど胸が詰まっていたが、文字は静かに浮かぶ。
「レギュラス、ごめんなさい……心配をかけました。」
書き終わるより先に、
レギュラスはアランの腕を強く引き寄せた。
ふわり、ではなかった。
崩れ落ちるような抱き寄せ方で、
胸元に縋るように顔を埋めてくる。
「……いいんです……」
低く、かすれた声だった。
その声の震えは、怒りでも責めでもなく――
ただひたすらに、安堵と恐怖が溶け合った震えだった。
「無事で……本当に……よかった……」
アランの肩を抱く腕は、
折れた動物が必死に寄りかかるように、力が入っていた。
掴む手が震え、胸に押し当てられた額が熱を帯びている。
アランはそっと、彼の背中に腕を回した。
心臓の鼓動が耳元で荒く響いていた。
レギュラスほど恐ろしい男が、
こんなにも脆く、息を乱している。
――こんな顔を、どうして自分にだけ見せるのだろう。
レギュラスは顔を上げた。
赤く荒れた瞳が、灯りに照らされて揺れる。
「アラン……いなくならないでください……
あなたが……いない世界なんて……」
声が途切れた。
抑えようと必死に噛みしめた唇から、
微かに血の味がしそうなほど力が入っていた。
アランは胸がつぶれそうになる。
自分がいなくなった時間――
そのすべてを、この男は恐怖で満たされながら探していたのだ。
アランは杖を動かす。
震える手で、短く、しかし確かな文字を書く。
「戻ってきました。ここにいます。」
その瞬間、レギュラスの肩が落ち、
深く、深く息を吐いた。
「……ええ。
あなたが戻ってきてくれた……
それで……それだけでいいんです……」
けれど、その“安堵”の奥に潜む何か――
絡みつくような恐怖、所有の影、そしてまだ消えていない焦燥――
それらすべてを、アランは肌で感じていた。
灯りに照らされた広いロビーで、
二人だけの静かな再会は、
どこまでも優しく、
どこまでも危うい色を帯びていた。
闇の帝王の呼び声は、冬の夜の吹雪よりも冷たく、重かった。
レギュラスが魔力の渦巻く大広間に入ると、すでに黒衣の集団は輪を成していた。
中央には、狂気の光を瞳に宿した女――ベラトリックス・レストレンジが、恍惚とした笑みを浮かべながら佇んでいる。
その足元には、拘束された二人の魔法使い。
ネビル・ロングボトムの両親――騎士団創設者として知られる、フランクとアリス・ロングボトム夫妻だった。
肌には紅蓮の焼跡が無数に刻まれ、精神を押し潰す拷問呪文の余韻がまだ漂っている。
彼らの唇は震え、虚ろな瞳は焦点を失っていた。
そう、ベラトリックスは――“やりすぎた”のだ。
闇の帝王の低い声が闇を裂く。
「レギュラス・ブラック」
レギュラスは膝を折る。
けれど胸の奥で跳ねるのは、忠誠ではなかった。
冷たく、重苦しい計算と焦燥だった。
ベラトリックスがゆっくりと歩み寄り、耳元で囁く。
「坊や。これを不問に、できるわよね?」
その声音には陶酔すら混じり、
狂気の瑞々しさを湛えていた。
――できるわけがない。
――だが、できないと言えば自分が死ぬ。
だからレギュラスは微笑む。
完璧に整えられた冷たい笑みで。
「尽力いたします。」
女は歓喜のように、胸の前で両手を打ち合わせる。
「やっぱり、坊やは賢いわねぇ」
レギュラスは静かに頭を下げた。
その心の奥で沸き立つのは、苛立ちよりも憎悪に近い。
――何度、この女の尻拭いをしてきたことか。
ベラトリックスの魔力は強大だ。
それだけではない。その魔力の流れは歪で、解呪にも偽装にも向いていない。
後始末に使われる魔法と正反対の性質――
“痕跡を残すために生まれた魔力”と言っていい。
今回も、証拠はべっとりと残っている。
精神破壊の呪いは周囲の魔力層に食い込み、
焼痕は魔法の炎の特性が如実に残されている。
隠せるわけがない。
だが、闇の帝王は言った。
――この二人を戻せ。
殺さず、断片化せず。
生かしたまま“見せしめ”にするというのだ。
魔法界の大衆には悟らせず、
騎士団にのみ恐怖を刻みつけるために。
矛盾した命令だ。
表社会への露見は避けつつ、最大限の揺さぶりをかけろという。
綱渡りどころではない。
集会が解散し、闇の衣が霧散していった後。
重苦しい静けさだけが広間に残った。
レギュラスはその中心にただ一人立ち尽くしていた。
その横に、音もなくバーテミウスが現れる。
「さて……どうやります?」
バーテミウスの声はいつも通り軽く、
だが目の奥には高い緊張と興奮の光が宿っていた。
レギュラスは深く息を吐く。
夜の冷気よりも冷たい結論が、胸の奥で形を成していた。
「まず、夫妻を“どの程度まで”戻すかだ。」
バーテミウスは眉を上げる。
「つまり、完全ではなく?」
「完全に戻せば、ベラトリックスの魔力の痕跡は消せません。だが、半壊した精神なら残虐痕跡をごまかせる。 “精神的ショックによる失調”という形で処理できる。」
「なるほど、ありそうな話ですし……魔力鑑定に引っかかりませんね。」
「ええ。
そのうえで、夫妻を“騎士団の近くに”戻す。
彼らが自分の子に触れられず、ただ震える姿を見せられれば――」
レギュラスの目が微かに光る。
「騎士団へは最大級の揺さぶりになる。」
バーテミウスは口元を緩める。
「坊や、じゃなくて……さすが“ブラック卿”ですね。」
レギュラスは静かに瞼を閉じる。
――気が重い。
――こんな作業をいったい何度繰り返してきたのか。
ベラトリックスという魔女が残す“狂気の断片”を、
自分は何度消し、何度ごまかし、
そのたびに深い泥の中へ潜っていくのだろう。
だが、やるしかない。
騎士団を押しつぶすためにも。
闇の帝王の信頼を維持するためにも。
そして――
自分の家族を守るためにも。
「……行きますよ、バーテミウス。」
「ええ。地獄の後始末、始めましょう。」
二人はゆっくりと闇の中へ歩みを進めた。
魔法界を震わせる“最悪の舞台”を整えるために。
地下の隔離医療棟は、日光の欠片も届かない深い闇に沈んでいた。
魔力の層が複雑に積み重なり、扉を開けただけで肌にひたりと湿りつくような圧がかかる。
中に安置されているのは二つのベッド。
ロングボトム夫妻――かつて騎士団の象徴とまで言われた二人は、もうその面影すら残さない姿で横たわっていた。
アリスは全身を小刻みに震わせ、
フランクは虚空を見つめながら意味を成さない言葉を泡のように漏らす。
だが、最も目を刺すのは――
皮膚の裏側にまだ残っている“焼けただれた魔力の痕跡”だった。
ベラトリックスの魔法は、暴力的で破壊的で、魂の筋肉にまで爪痕を残す。
治癒魔法で肉体を戻しても、精神の層には深く深く焼き付けられていた。
レギュラスはゆっくりと息を吐いた。
緩やかな灰銀色の瞳が、冷静さと恐れを半々に湛えている。
「……バーテミウス。始めますよ。」
バーテミウスは、作業台の上に並べた水晶球と魔力糸の瓶を手にしながら肩を竦める。
「いやぁ、本当に。あなたのいとこ殿は恐ろしい魔力をお持ちで……
後始末をする側の身にもなってほしいものですよ。」
「言うだけ無駄です。」
二人はロングボトム夫妻のベッドの左右に立つ。
レギュラスはアリスの側、バーテミウスはフランクの側。
まずは精神層の魔力を可視化する必要があった。
レギュラスは細い杖をアリスのこめかみに触れ、ゆっくり呪文を紡ぐ。
途端――
アリスの額から、淡い蒼の糸が何本も立ち上る。
霧のように揺らぎながら空中に広がり、
それらは強くて脆い、凍った蜘蛛の巣のようにひび割れていた。
「……ひどい。」
レギュラスが呟く。
魔力層は三つに層分けされる。
肉体層――感覚層――精神層。
精神層はもっとも複雑で壊れやすい。
ベラトリックスが破壊したのは“精神層の最奥”。魂に最も近い部分だ。
その部分は、無理に手を加えれば一瞬で壊れてしまう。
完全に壊れれば、魂は二度と戻ってこない。
バーテミウスが隣で、フランクの精神糸を浮かび上がらせた。
こちらも同じように破壊されている。
「さて……精神崩壊痕は“自然症状”に偽装しなきゃいけないわけですが……
どうします? 完全に壊したまま返します?」
「……いいえ。
この夫婦には“恐怖と混乱を抱えたまま生かして返す”という闇の帝王の要望がある。」
「ですよねぇ。面倒だ。」
作業の難易度は天井を突き破る。
バーテミウスが表情をしかめるのも無理はない。
レギュラスはアリスの精神糸に指を添えた。
触れた瞬間、彼女の身体がビクリと震え、口からか細い声が漏れる。
「――ぁ……っ……」
「すみません。」
小さく謝りながらも、レギュラスは精神糸のほつれをそっと修繕していく。
古代ルーンの治癒式を織り交ぜながら、“壊れた部分を壊れたまま整える”という矛盾した作業。
長い沈黙の中、バーテミウスの低い独り言が落ちる。
「……しかし、あなたもよくやりますよね。
この作業、失敗すれば一気に精神が崩壊しますよ?」
「分かっています。」
「ロングボトム夫妻は騎士団の象徴。
魔力操作に失敗すれば、あなたが直接手を下したと見られても仕方ない。」
「それでもやらなければならない。」
レギュラスの声音には
“自己犠牲にも似た静かな決意”があった。
「……守らなければならないものが、あるので。」
アラン。ステラ。そして、まだ生まれてくれない第二子。
闇の帝王との均衡が崩れれば、彼らは真っ先に狙われる。
それだけは避けなければならない。
レギュラスは震える指を抑え、精神糸の表層を丁寧に閉じていく。
どれほど時間が経っただろうか。
二人の額には冷たい汗が浮かんでいた。
バーテミウスが深いため息をついた。
「……よし。フランク側は整いました。
“深刻な精神的ショックによる不可逆的な失調”として見えるように調整完了。」
「アリスも同じです。」
アリスはまるで壊れた人形のように、虚空を見つめたまま震えている。
しかし――
ベラトリックスの魔法痕跡は巧妙に隠され、
代わりに“自然な精神崩壊”のような不均一な魔力模様が表層に残された。
これなら魔力鑑定にかけても
「恐怖による精神崩壊」としか判断されない。
最後に、レギュラスが静かに布を夫妻の身体にかけ直した。
「これで……騎士団へ返せます。」
「まるで悪夢の宅配便ですねぇ。
受け取った騎士団側は、とんでもない地獄を見るでしょう。」
バーテミウスは皮肉めいた笑みを浮かべる。
レギュラスはその言葉に何も返さなかった。
ただ、ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥には、冷たい罪悪感がひっそりと沈んでいた。
――どうしてこんな世界で
守るべきものを抱えてしまったのか。
だが後悔も、迷いも、
今はひとまず胸の奥に押し込める。
「……終わりました。帰りましょう、バーテミウス。」
「ええ。
地獄の続きを見るのは、もう明日で十分です。」
二人は静かに闇の医療棟を後にした。
背後に残された夫婦の微かな震えだけが、
ひどく長い夜の終わりを告げていた。
魔力検知不可の結界の奥――
騎士団本部の広間は、その夜ひどく冷え込んでいた。
ジェームズ、シリウス、リーマス、そして何人かの騎士団員が集まっている。
誰も口を開かない。
ただ静まり返った空間に、硬い靴音がひとつだけ響いた。
運ばれてきたのは二つのストレッチャー。
そこに横たわるロングボトム夫妻を見た瞬間、
ジェームズは反射的に息を呑んだ。
「……嘘だろ……」
アリスの瞳は焦点を失い、
フランクの口からは意味をなさない音が途切れ途切れに泡のように漏れ続けている。
生きている。
だが“生きているだけだ”。
そこにかつての騎士団の英雄の面影はどこにもなかった。
リーマスがアリスの手を取った瞬間、
アリスはひどく怯えたように身体をひきつらせ、かすれた悲鳴を漏らした。
「……リーマス、離れてやれ。」
ジェームズの声は強張っていた。
シリウスは無言のままフランクの顔をのぞき込み――
その場で拳を握りしめ、手の甲の骨が浮き上がるほど強く噛みしめた。
「……これ、ほんとうに……人間を……戻したと言えるのか……?」
その呟きは、誰にも届かないほど細かったが
内側から燃え上がる怒りが音としてにじみ出ていた。
“拷問の痕跡”は完璧に隠されている
ジェームズは夫婦の周囲に魔力鑑定呪文を展開させた。
淡い光の網が夫妻を包み込み――そして結果に眉をひそめる。
「……精神層の崩壊……ただそれだけだ。」
「痕跡操作されてる。」
リーマスが静かに言う。
「ベラトリックスの魔力流……完全に隠してある。
これは……“自然な精神の崩落”にしか見えない。」
「自然? これが自然にか?」
シリウスの声が震える。
怒りに震える声は、静かな広間に刺さるように響いた。
ジェームズは拳をぎゅっと握った。
「……レギュラスブラックだ。」
名を口にした瞬間、空気が冷たく引き締まった。
ジェームズの声には、怒りと悔しさが入り混じっていた。
「わざわざ“生きて返す”意味を考えろ。
殺さず、壊したまま返すことで、
騎士団に“自分たちの無力さ”を見せつけるつもりなんだ。」
リーマスが短く息を吐く。
「……見せしめ。」
シリウスは黙ってフランクの肩に触れたが、
フランクは怯えた子どものように身体を丸め、意味のない呻き声をあげた。
シリウスの表情がみるみる険しくなる。
「……殺してやったほうが……まだ……」
「言うなシリウス!」
ジェームズが怒鳴る。
けれど、その声にも悲しみが滲んでいた。
「証拠操作も、精神層の偽装も完璧だ。
これは……ベラトリックスではなく、レギュラスの仕事だ。」
ジェームズの横顔は苦く歪んでいた。
「法務部の魔力痕跡偽装術に長けた奴が動いた証拠。
バーテミウス……あの男も関わってるだろう。」
「で……俺たちは?」
シリウス。
「……何もできない。」
ジェームズの低い声で告げられた答えは、残酷だった。
「この夫妻を誰が傷つけたか、魔力鑑定では特定できない。
法的にも、政治的にも……手出しができない。」
広間に沈黙が落ちた。
リーマスが口元を押さえながら呟いた。
「これ……騎士団の心を折るためだけに……?」
「そうだ。」
ジェームズが歯を軋ませて言う。
「レギュラスは、壊すなら徹底的だ。
相手の“核となる希望”を奪って地固めするタイプの男だ。」
そして、息を呑む。
「今回は……
ロングボトム夫妻が“騎士団の核”だと見抜いたからこそ狙った。
その上で――“生かして返す”ことで俺たちの精神を折ろうとしている。」
シリウスは拳を震わせた。
「……クソ野郎が……!」
ジェームズはストレッチャーに視線を落とした。
晒された残酷さに胃が捩れる。
だが、その奥底に燃えるのは――静かな怒りだった。
「……わかったよ、レギュラスブラック。
あんたは……“俺たちの核”を折りにきた。」
その目が鋭く光る。
「なら――こちらも、“あんたの核”を折る。
それしか、この戦いの終わらせ方はない。」
「核?」とリーマス。
ジェームズは静かに言った。
「アランブラック。
そして――あいつが手放さない全てだ。」
広間の空気が、ひどく冷たく震えた。
ロングボトム夫妻の呻き声が、まだ耳の奥にこびりついていた。
アリスの濁った瞳。フランクの壊れた言語。
あの夫婦がどれほど誇り高く、どれほど勇敢だったかを知るジェームズには、その姿は悪夢以上のものだった。
“生きて返す”という残酷。
完全な侮辱。
死よりも残酷な形で、騎士団の“心臓”を潰すやり方。
――やられた。
広間で誰よりも早くその事実を理解したのは、ジェームズ自身だった。
ベラトリックスの狂気だけでは無理だ。
背後にあの男がいる。
レギュラス・ブラック――あの冷徹な策略家の影。
怒りは熱ではなく冷たさを孕んでいた。
氷のように薄く、鋭く、刺すようなものだった。
ジェームズは一人、騎士団本部の書斎に籠った。
ロングボトム夫妻が運び込まれた広間から離れたにもかかわらず、胸の奥の痛みは消えない。
「……レギュラス・ブラック。」
名前を口にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
浮かんできたのは――
魔法省前でレギュラスがアランを抱き寄せ、平然と人前でキスをした光景。
勝利を誇りながら、何もかも掌の上で転がすように笑っていた“あの顔”。
「……お前にだけは、負けられないんだよ。」
ジェームズは深く息を吐き、静かに椅子に腰を下ろした。
ロングボトム夫妻を壊された。
ならば――レギュラスの“核”を壊すべきだ。
あまりにも自然に、その考えが胸に落ちてきた。
正義ではない。
救済でもない。
これは復讐だった。
騎士団の仲間たち――命を賭して闇と戦う者たちが、地に伏せられ、心を折られ、それでも立ち向かってきたその矜持があまりにも踏みにじられた。
レギュラスが罪悪感など抱くはずがない。
あの男には“良心”などというものは存在しない。
感情を捨て、常に最適解だけを選び、必要なら他人の心や人生を簡単に切り捨てる男だ。
ならば――同じやり方で返す以外に道はない。
「……ロングボトム夫妻を壊したように。
お前の大事なものも……壊して返してやる。」
呟いた声は、夜の静けさに溶けてもなお刺々しいままだった。
ジェームズは机に置いていた新聞を指で押さえた。
紙面には、魔法省前でレギュラスとキスしているアランの写真。
涙も、怒りも飲み込み、ただ夫に寄り添っていたあの女。
――あれほど弱い目をしていたのに。
――あれほど壊されやすい心をしているのに。
「…… アラン・ブラック。」
声にしてみると、不思議なほど無機質な音に思えた。
自分の中で、すでに彼女は人ではなかった。
守るべき対象でも、哀れむべき存在でもない。
目的のために利用しうる“駒”。
レギュラス・ブラックという怪物の心臓。
あの男を構成する唯一の柔らかい部分。
傷つければ確実に効く場所。
ジェームズは冷徹な目をした。
「……お前を壊せば、レギュラスは崩れる。」
そう確信した。
愛しているからこそ、壊れれば効く。
守りたいものが大きいほど、奪われれば折れる。
ロングボトム夫妻がそうであったように。
だが――
これだけは、親友には言えなかった。
シリウスはアランという女に特別な優しさを向けるからだ。
どれほど遠くにいようと、親友のその視線の柔らかさだけは変わらなかった。
「シリウス……お前には絶対、言えない。」
もしこの計画を明かせば、親友は激昂して止めるだろう。
拳を振り上げられても文句は言えない。
だがそれほどの友情すら、今のジェームズには“復讐よりも軽い”ものに思えた。
ロングボトム夫妻を見た後では――何もかもが変わる。
「……悪いが、もう僕は“きれいな正義”だけでは戦えない。」
ジェームズの目には、静かな狂気が宿っていた。
ジェームズは魔法地図を広げ、指でひとつの名前をなぞる。
アラン・ブラック
宿っている魔力は、弱く、繊細で、不安定。
騎士団の結界下にいたときの気配も思い出せる。
「お前は利用できる。
……十分に。」
紙の上の小さな“点”に、ジェームズは目を細めた。
「アラン・ブラック。
お前が壊れれば――
レギュラスは必ず崩れ、狂う。
その瞬間こそ、我々の勝機だ。」
指をゆっくりとその名の上から離したとき、
ジェームズの胸には不気味なほど静かな決意だけが残っていた。
