2章
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扉を開けると、薄明かりの中にアランがいた。
ベッドの端に背筋を伸ばし、淡く微笑んでいる。
「おかえりなさい、レギュラス。」
杖が静かに空を滑り、その文字だけが暖かく灯った。
胸がぎゅっと締まる。
「……眠れなかったですか?」
アランは首を横に振り、長いまつげが微かに揺れた。
レギュラスはゆっくり近づき、アランの前で膝を折って目線を合わせる。
指先でアランの髪をすくい、その柔らかさを確かめるように、そっと撫でた。
髪は昼間より少し乱れていて、寝返りを繰り返していたのだろう。
その小さな乱れが、ひどくいじらしく胸を締め付けた。
「今日……寒くなかったですか?」
アランは小さく、何度も瞬きをして「大丈夫」と伝える。
その瞬きの柔らかさが、罪悪感の奥に冷たい刃のように刺さる。
アランは何も知らない。
知らないまま、ただ自分を待っていた。
だからレギュラスは、触れる指先ひとつにすら怯えてしまう。
——セラのように荒く抱き寄せてはいけない。
——この女は壊れる。
——この女は大切なのだ。
その思いがより強く、より重く染みついていく。
アランの頬に触れた指が、ほんのわずか震えた。
「…… アラン。」
名前を呼ぶ声が、いつもより少し低く湿っていた。
アランは不思議そうに首を傾げる。
その静かな仕草が、余計に胸を締め付けた。
レギュラスはそっとアランの手を握った。
壊れ物に触れるように、細心の注意を払って。
それはセラと交わった後だからではない。
罪悪感がそうさせるのか、
アランを壊さないようにという恐れなのか、
それとも、セラには持たなかった“深い愛”からなのか。
レギュラス自身にも、もうわからなかった。
ただひとつ確かなのは——
アランの前では、どんな熱も荒さも許されない。
ひたすら丁寧に、慎重に、大切に触れなければならない。
それを思い知った夜だった。
アランは優しい瞳でレギュラスを見つめ、
まるで何も知らない天使のように微笑んだ。
その微笑みが、甘いのに苦く、温かいのに痛かった。
そしてレギュラスは、
こんな自分を許してほしいと、誰よりも願いながら、
誰よりも許される資格がないと知っていた。
アランは、寝室の薄いカーテン越しに落ちる朝の光をぼんやりと眺めていた。
まだ体は重い。妊娠初期特有の倦怠感も確かにある。
だが、それ以上に胸の奥を占めて離れないものがあった。
――レギュラスの「優しさ」。
ここ最近、それはまるで別人のように過剰だった。
触れる指先の一つひとつが慎重で、
声は落としたガラスに触れるみたいに柔らかく、
少しでも自分が歩こうとすれば即座に支えようとする。
その優しさの形は、
地下牢から解放された直後、誰よりも自分を案じてくれた頃とも違った。
もっと、何かを“取り戻そうとする”焦りが滲んでいる。
レギュラスが寝室に入ってくる。
今日も彼の歩幅は小さく、自分に近づく瞬間だけ呼吸を静めているように見えた。
笑みは穏やかで、目元には優しさが含まれている。
「アラン、体は……どうです?」
杖を動かす前に、アランはしばし動きを止めた。
まるで、言葉を選ぶ自分に戸惑ったかのように。
優しさそのものは嬉しい。胸の奥が温かく満ちるほどには。
なのに、その温かさの裏に、冷たい影がひどく濃く伸びていた。
――セラ・レヴィントン。
香水の匂いはもうしない。
けれどそれが、むしろ不自然なほどだった。
以前は微かに残った甘く重い匂いが、
今はどれほど彼に近づいても何一つ残っていない。
魔法で消した匂いというのは、空気の隙間に“無”が張りつくように感じる。
以前よりも自然ではない。
消そうとして消した匂いは、決して自然には消えないのだ。
レギュラスはアランの手を取ろうとする。
いつもなら、その温もりだけで幸福に沈んでいたはずなのに——
今日は指が、わずかに震えた。
彼は何から逃げて、その女の手を取るのだろう。
自分のどこが足りなくて、あの女に逃げ道を求めるのだろう。
心に浮かぶ問いは、どこまでも冷たく、どこまでも深い。
探りたい。
探って、真実がどれほど残酷でも受け止めたい。
そう思う自分がいる。
だが同時に——
もし本当の答えを知ってしまったら、
自分はもう立ち直れないのではないかという恐怖がひどく重かった。
地下牢で壊された誇りから救い上げてくれたのはレギュラスだ。
世界に光を取り戻してくれたのもレギュラスだ。
その彼がもし自分を選ばない未来へと歩き出しているとしたら……
どうすれば、この手を離さずにいられるのだろう。
アランは胸を押さえる。
痛いわけではない。
ただ、心臓がどうしようもなく不規則に跳ねた。
レギュラスはその仕草に気づき、強い心配を宿した瞳で覗き込む。
「アラン……? どこか痛みますか? 医務魔法使いを……」
彼の声は限りなく優しいのに、
その優しさこそが、胸の傷に触れてくるように痛い。
アランは首を振り、杖で短く言葉を書く。
大丈夫です。
本当は“大丈夫ではない”。
けれど、それを伝える言葉をアランは持たない。
持っていたとしても、きっと言えなかった。
優しさにすがれば壊れ、
距離を置けば失ってしまうかもしれない——
そんな危うい綱渡りの上で、
今日もアランは静かに呼吸をしていた。
彼の優しさの裏側にある“誰にも言えない秘密”が、
じわりと胸の奥を曇らせながら。
今のアランにできるのはただひとつ。
レギュラスの目を見て微笑むこと。
それだけが、自分の世界を繋ぎ止める唯一の手段だった。
レギュラスが屋敷に姿を見せたのは、バーテミウスがアランと向かい合ってから、すでにしばらく時間が経った頃だった。
玄関の重々しい扉が静かに開き、夜気をまとったレギュラスが現れる。
黒い外套の裾が揺れ、靴底が廊下の大理石を冷たく叩くその足音は、どこか落ち着きすぎていて、逆に何かを隠しているようでもあった。
「やっと来ましたね、レギュラス。」
ソファに腰掛けていたバーテミウスが、わざと軽い調子で声をかける。
「サンドイッチでも食べてました?」
目の端でアランを一瞥しながら、あくまで“冗談”の装いで。
レギュラスは一瞬だけ眉が動いたが、すぐに完璧な無表情へ落とし込む。
華麗に聞こえなかったふりをし、そのままバーテミウスへと歩み寄る。
「書類を。」
バーテミウスは思わず心の中で舌打ちする。
ほんと、こういうところは図太い。
差し出した封筒を受け取ったレギュラスは、すぐに封を切り、さらりと目を走らせた。
その目つきが一瞬で司法官のそれへと変わる。
「……マグルの武装集団、明日午前中から魔法兵を動かす許可まで整えたのですね。」
「ええ。あなたが不在の間にどれほど暴れてくれたかご存じでしょう?」
皮肉めいた声音で、バーテミウス。
レギュラスは息をひとつつき、書類を閉じた。
「明日の朝一で議会に提出します。午前には間に合うでしょう。」
そう、“仕事の話ならば”。
だがバーテミウスは、今日ここに来た目的の半分はそれではない。
そして、レギュラスにもそれが薄く伝わっていた。
気まずげに視線を落とすでもなく、しかし目線だけがアランへ向かないよう、慎重に距離を保っている。
……ああ、図星を刺された子供みたいな顔をして。
バーテミウスは喉の奥で笑いを押し殺しながら、立ち上がった。
「さて、仕事のほうは以上です。……が。」
レギュラスの目がわずかに動いた。
アランは静かに席を立ち、気遣わしげに二人に向けて会釈する。
空気を読んだのだろう、部屋を出ていく。
扉が閉じる——その音を待って、バーテミウスは低く告げた。
「セラ・レヴィントン。あの女は……危険ですよ。」
レギュラスの肩がぴくりと動いた。
「……何が言いたいんです?」
声が乾いていた。
動揺は必死に押し隠しているが、耳元で感じるほどには空気が一度だけ震えた。
バーテミウスはゆっくりと歩き、レギュラスの前に立つ。
肩越しに、アランの去って行った扉をちらりと見てから——
「あの女ね、あなたとアランとの間に生まれた“溝”を……愉しんでますよ。」
レギュラスは息を止めたように黙り込む。
「お前……何を言って——」
「嘘は言いません。僕は今夜、アランと二人きりでしばらく話していたんです。」
レギュラスの眉が鋭く跳ねた。
嫉妬に似た焦りが、ほんの一瞬、凍りついたようにその双眸を曇らせる。
バーテミウスはそれを見逃さず、核心を刺す。
「君の妻は、“感づいている”。完全に、ね。」
レギュラスは言葉を失った。
何一つ証拠がないのに、バーテミウスの言葉が胸の奥で鈍く響く。
今日のアランの沈黙。それが突然つながる。
そしてバーテミウスは、さらに低く声を落とした。
「あなたが気づいている以上に、セラはあなたの“弱み”を握りたがっている。」
レギュラスの瞼がぴくりと震えた。
「弱み?」
「そう。あなたがアランに触れられる場所……その全部を。」
バーテミウスは冷ややかな笑みを浮かべる。
「借りを作ったつもりでいるようですが、あなたはもう、あの女に肩まで沈んでますよ。
手を離せば沈むのはあなたのほうだ。」
レギュラスは初めて、わずかに息を乱した。
「……バーテミウス、詮索はやめてください。」
「詮索じゃありません。忠告です。非公式の。」
そしてバーテミウスは最後に——
薄暗い明かりの下で、声をひそめる。
「“あの女は危険”。
あなたが思っているよりずっと、です。」
その言葉は、冗談の余地が一分もない声音だった。
レギュラスの心臓が、嫌な予感の形をした影にそっと掴まれる。
それが破滅の始まりになることに、まだ本人は気づいていない。
レギュラスは、寝室へ向かうわずかな廊下でさえ息が詰まりそうだった。
バーテミウスの「アランは気づいている」という一言が、頭の奥に棘のように刺さったまま抜けない。
もし、気づいているのだとしたら——なぜ、あんなに静かでいられる?
怒りも、悲しみも、問いただす仕草もない。
声を持たないからといって、伝える方法は彼女の手にいくつもある。
それなのに、アランは一度たりとも“感情”を表そうとはしない。
その沈黙が、レギュラスには堪らなく怖かった。
⸻
寝室の扉を押し開けると、蝋燭の淡い光が静かに揺れていた。
アランはすでに横になり、薄い呼吸を胸元に刻んでいる。
白い頬は疲れているようで、それでもどこか神聖な静けさの中にあった。
本来なら——
“起こしてはいけない”と、そっと布団を掛け直してやるはずだった。
だが今は、そんな理性も優しさも、焦りの前に形を失っていた。
レギュラスは迷いなくベッドへ近づき、アランの掛け布団をふわりとではなく、必死に掴むようにしてめくった。
冷えた空気に触れたアランは、小さく喉を震わせる。
声を持たない少女が、驚いた時だけ漏らす微かな呼吸——そのかすれた「ヒュッ」という音が、レギュラスの胸を刺した。
「…… アラン、すみません……起こしてしまって……」
揺れる蝋燭の光が、アランの翡翠色の瞳にきらめく。
その瞳が自分を映すと、レギュラスはひどく惨めになった。
何を謝っているのか、自分でもわからない。
何を求めているのかすら曖昧で——ただ、アランの何かに縋りつきたくて仕方がなかった。
レギュラスは衝動に突き動かされるようにアランを抱き寄せ、そのまま唇を重ねた。
最初の口付けは震えていた。
迷いと焦りと恐怖が滲むような、弱々しく擦るだけの口付け。
だが次第に、必死さがその奥に姿を現していく。
重ねた唇を深く押しつけるようにし、アランを自身の胸に強く引き寄せる。
舌を絡めようとするほど深く——けれど、アランの身体に触れるたび、セラとは違う“壊れやすさ”が肝に染みて、レギュラスはその先へ踏み出すことができない。
アランの柔らかい唇だけを、必死に、喉が掠れるほどの焦燥で貪る。
行為には進めないのがわかっているから、余計に、唇だけでもつながっていたかった。
彼女の胸の奥に閉じ込められた感情を、口付け越しに引き出せるのなら——
何でも差し出す、と心のどこかで思った。
アランは驚いたまま、目だけを大きく揺らし、静かにレギュラスを受け入れていた。
拒絶はしない。
だが、抱き返す腕もない。
その中途半端な静けさが、レギュラスには恐ろしくてたまらなかった。
アランの唇を覆いながら、レギュラスは必死に願う。
けれどアランは、ただ静かで——何ひとつ感情を見せない。
その沈黙が、何よりも深く胸を裂いた。
蝋燭がふっと揺れ、ベッドに影が覆いかぶさる。
闇の中で、レギュラスの指先はアランの頬をなぞりながら震えていた。
「…… アラン……」
呼ぶ声だけが、痛いほどに掠れていた。
——失いたくない。
——何かが壊れていくのを止めたい。
——けれど、どうすればいいのかわからない。
その焦りだけが、ベッドの上に濃く滲んでいた。
レギュラスはついに、法務部の人間のほぼ全てを入れ替えた。
あの数日の混乱と失態を二度と繰り返すまいと、身内と言えるほど信用の置ける者だけを配置し直したのだ。
その瞬間から、彼は休みを取ることに一切の躊躇を失っていた。
背中を任せられる者たちがいるという安心感——そして何より、補佐についたバーテミウスの存在は大きい。
バーテミウスは口の悪さと底抜けの好奇心が玉に瑕だが、
“仕事”という一点においては、もはや右腕として申し分ない。
時折こちらの内心を面白がって踏み込んでくるのは鬱陶しいが、それすらも今は頼もしさの一部になりつつあった。
こうしてレギュラスの時間には、
“ アランとステラのために使える”貴重な余白が生まれた。
朝、庭を歩く。
ステラがよちよちと草の上を駆け、アランはその少し後ろを歩く。
レギュラスはアランの手をそっと取り、歩幅を合わせる。
アランが疲れていないか、寒くないか、光が強すぎないか——そんな細部ばかり気にしてしまう。
昼には医務魔法使いの検診に付き添った。
アランがベッドに横になり、白い薄布の上から杖で魔力の反応を確かめる医務魔法使い。
「ステラ様の時よりも、魔力が強いですね。
……男児である可能性が高いかもしれません。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひゅっと熱くなった。
望んでいた跡取り。
ブラック家に求められる“男”の子。
ほんのわずかに息が上がっただけで、アランの指がピクリと震えた。
レギュラスは後悔する。
自分の表情が圧になったのだと悟った。
すぐにアランの手を取り、頬に指を添え、
静かに、震えるほど優しく言った。
「アラン……どちらでもいいんです。あなたが無事であれば。
本当に、どちらでも……。」
アランはわずかに瞬きをして、それが返事の代わりになった。
⸻
その日から、レギュラスは“触れる”という行為を意識して積み重ねた。
午前——ステラを膝に乗せて絵本を読みながら、アランの指に触れる
昼——食事の前に手を取り、温度を確かめるように軽く口付ける
午後——庭で散歩する時、アランの腰に手を添え支える
夕方——暖炉前でステラを寝かしつける間、アランの髪を掬い撫でる
夜——休む前、アランの頬に触れて息をかけるように囁く
どの触れ方も、以前のように求め合う熱ではない。
もっと静かで、深くて、慎重で、壊れ物を扱うような優しさだった。
レギュラスはアランの手を握って離さず、
時折その指先に口付けて、
髪を梳くように掬い、耳の後ろへと流してやった。
アランが本を読んでいる時も、ステラと遊んでいる時も、
レギュラスはつい伸ばしてしまう——
背中へ、肩へ、腰へ。
そっと触れ、確かめ、そこにいることを感じようとする。
アランは声がない。
だから、こうして触れることでしか、彼女の温度も感情も汲みとれない。
そして同時に——
触れ合う一秒一秒が、どうしようもなく切なかった。
距離が縮まっている気もする。
元に戻っている気もする。
けれど本当にそうなのかは、レギュラスにはわからなかった。
それでも、触れ続けるしかなかった。
触れていなければ、不安が押し寄せて押しつぶされそうだった。
アランが自分の手を受け入れてくれる限り、
その一瞬一瞬に縋るように、レギュラスは寄り添い続けた。
騎士団本部の作戦室には、いつにも増して重苦しい空気が漂っていた。
壁面に貼られた地図や、マグル界の武装集団の動向を示す赤いマーカーは、じわじわと魔法界の領域へ侵食するかのように見える。その赤の向こう側に、家族や子供の影があることをジェームズは知っていた。
魔法省直属の魔法兵が、明朝にも“制圧”に動くらしい。
制圧——その言葉には、もはや必要最低限の力ではなく、
無辜の者まで巻き込みかねない暴力の匂いがつきまとっていた。
「正当な武装者ならまだしも……家族に手をかけるような奴らが混じってるんだぞ。」
リーマスは新聞を握りつぶす勢いで呟く。
「わかってる。」ジェームズは短く返す。
本来であれば、その“選別”をするのは法務部の役目だ。
倫理観を持つ者だけが現場に出るように調整するのが本来の流れ。
だが——今の法務部はすでに壊れている。
監査事件以来、レギュラスブラックは法務部全体を“闇の陣営”寄りの人材で固めた。
中立の者などほとんど残っていない。
法務部は今、レギュラスとバーテミウスの意向で動く巨大な黒い塔のようだった。
「もはや正規ルートから止めるのは不可能だな……」
ジェームズは額を押さえ、椅子に深く沈み込んだ。
そんな重たい空気の中で、シリウスが不意に言った。
「——セラ・レヴィントンって女、いたろ。」
ジェームズは顔を上げた。
「誰だい、それ。急に。」
「レギュラスの裁判の時に証拠を提出した女だ。混血だとかなんとか。」
シリウスは言いづらそうに、しかし妙に真剣な表情で続けた。
ジェームズは思考の奥から名前を掘り起こした。
たしかに、あの逆転裁判のとき、レギュラスが提出した“証人の記憶”の持ち主としてその名前をどこかで読んだ。
だが——そこに何の価値が?
「それがどうしたんだよ?」ジェームズはぶっきらぼうに返した。
「レギュラスと……なんか、関係がありそうだ。」
“なんか”。
普段なら露骨に言うくせに、シリウスの歯切れの悪さは逆に際立っていた。
「なんかってなんだよ。」
ジェームズは半ば呆れながら聞いた。
「……そういうやつだよ。」
曖昧な表現に、ジェームズは額に手を当てて笑い出しそうになった。
学生時代、校内の女子を片っ端から虜にしていたこの男が、
今さら何を言い淀んでいるのか。
しかし、内容自体は驚くほどではない。
証拠提出者が“若くて美しい女”なら、その裏に男女の関係がある可能性は大いにある。
純血主義を唱えながら、裏で混血の女を抱くなど、いかにもレギュラスブラックらしい矛盾だ。
——そして心底気持ち悪い。
ジェームズの胸に込み上げる嫌悪は、もはや言葉にならなかった。
妻には跡継ぎの男児を産ませるために妊娠を繰り返させ、まるで繁殖の道具のように扱っておきながら、裏では好き勝手に別の女と関係を結ぶ。
その身勝手な男が、今、魔法界の法曹部を掌握している。
「……こんな馬鹿げた話、あるかよ。」
ジェームズは低く吐き捨てた。
責任の重さも倫理も命の価値も
なにもかも自分の都合で捻じ曲げ、
最後は“勝利”と称して堂々と振る舞う。
レギュラス・ブラックという男の存在が、
いまや魔法界そのものを歪ませている。
——それが、ジェームズの最初に抱いた感想だった。
そしてその感情は、刻一刻と“憎悪”へと姿を変えつつあった。
レギュラスは朝の光が差し込む法務部の廊下を、黒いローブを揺らしながら歩いていた。
向かう先は法務部直属《特別治安維持局》。
魔法省直属の魔法兵たちを統括する、治安執行の中枢である。
この部署の最終的な権限は法務部が握っており、魔法兵が動くには必ず法務部の通達と承認が必要になる。
つまり——ここは“闇の陣営”において、最も敏感で手を抜いてはいけない場所だった。
扉を開けると、中では数名の魔法兵が地図を広げ、マグル界での武装集団の動きを確認していた。
上官である治安兵団総監 ラドフォードが、レギュラスの姿に気づき慌てて姿勢を正す。
「ブラック殿……わざわざこちらにお越しとは。」
「ええ、少々確認しておきたいことがありまして。」
レギュラスは机の前に立ち、周囲にいた魔法兵に軽く視線を送った。
全員がぴんと立ち、その場の空気が一瞬にして張りつめる。
「……マグルの女や子供に見境なく手を出している者がいるようですね。」
穏やかな声だった。
けれど、その静けさは鋭い刃のように空気を切り裂く。
総監ラドフォードの喉がひくりと動いた。
「そ、それは……噂程度のものでして……。下級兵の一部が、武装集団の家族にも暴行を働いたと……報告はまだ……」
「噂であれ、事実であれ。」
レギュラスは淡々と言葉を継いだ。
「我々魔法族の品位を落とすような真似はやめましょう。騎士団が喜んで群がりますよ。」
その声音は叱責ではなく、“会話”の形をしていた。
だが逆らえない圧があった。
命令より静かで、命令より恐ろしい声だった。
ラドフォードは背筋を伸ばし、汗ばむ手で敬礼する。
「……肝に銘じます。
以後、部下への指導を厳しく行い、武装集団の家族への接触は一切禁じます。」
「ええ、それが賢明でしょう。」
レギュラスは軽く頷いた。
「騎士団が騒ぎ立てればこちらの仕事が増える。
私は忙しいのでね。」
軽口のように言うが、その奥には明確な線引きがあった。
“マグルを処分すること”は構わない。
だが“魔法族の恥になる方法でやるな”という意味だ。
背を向けて歩き出しながら、レギュラスの表情にわずかな苛立ちが混じった。
——マグルの女を欲の発散に使う?
なんと下等で汚らわしい。
吐き気すらする思いだった。
ましてや、マグルの女の身体に触れて興奮するなど考えられない。
——なのに。
心の奥底が、ぐらりと揺れた。
セラ・レヴィントン。
半分マグルの血を持ち、魔法界の血統主義からは“穢れ”とされる女。
その身体に沈むたび、自分の価値観がばらばらに崩れ落ちるのを感じた。
なぜ、抱けるのか。
なぜ、触れられるのか。
なぜ、心と身体が火をつけられたように反応してしまうのか。
矛盾を説明できない。
それが自分でも歯がゆく、苛立ちの棘が胸の奥で引っかかった。
……理解できない。
理解できないから、深く考えたくなかった。
ただ“発散”だと言い聞かせ、合理化しようとする。
だが、そう思おうとするほど、胸に鈍い痛みが走った。
—— アランには触れられないその強さを、
なぜあの女には求めてしまう?
説明のつかない矛盾。
純血として培ってきた価値観が軋む音が、胸の奥でひどく耳障りだった。
レギュラスは外套の裾を軽く払い、表情を戻す。
「引き続き、慎重に頼みますよ。総監。」
「はっ……!もちろんでございます、ブラック殿!」
レギュラスは静かに頷き、治安維持局を後にした。
外の空気に触れた瞬間、胸にわだかまった矛盾が再び疼く。
……なぜ、あの女なんだ。
答えは出ない。
ただ、わからないまま、焦りだけがゆっくりと積もっていった。
夜の魔法省は、昼間とはまるで別の生き物のように静まり返っていた。
無数の灯りが落とされ、長い廊下の壁にかすかに残った魔力の余韻だけが、ひそひそ声のように揺れている。
シリウスはその陰のなかを歩いていた。黒いローブが床を擦る音すら魔力で消して——影のように。
“尾行”。
騎士団でなら何百回とやってきた常套の手。
魔力検知の範囲から外れ、気配遮断の呪文を重ね、視界に入りながらも存在を感じ取らせない。
レギュラス・ブラックにだけは、これほどの周到さを持って臨む価値があった。
…… アランを裏切るなんてこと、あるはずがない。
そう思っていたし、そう信じていたかった。
レギュラスは誰より残酷で、誰より冷徹で、誰より誇り高い男だが——
一度手に入れたものを手放すような男ではない。
ましてや、あのアランを。
あいつの世界で、生きる道はあの女しかないはずだろ。
なのに、胸の奥底、不吉なざわめきが消えなくて。
確かめずにはいられなかった。
レギュラスがいつも使う法務部へ続く通路。
夜の帰宅までの道を追う。それだけのつもりだった。
だが、廊下の曲がり角——
そこに“女”がいた。
深紅の口紅。
ヒールの音を殺して立ち尽くす曲線。
黒いコートの隙間から覗く白い肌。
セラ・レヴィントン。
シリウスの足が止まる。
何か胸の奥で、嫌な音がした。
女はタバコを吸っていた。
紫煙が廊下に揺れ、魔法省の禁煙指定区域のプレートが虚しく光を反射している。
歩いてきたレギュラスの視線が、女へと吸い寄せられるように向かっていく。
そして、声が落ちた。
「……ここ、禁煙ですよ。」
怒るでもなく、咎めるでもなく。
妙に柔らかい声だった。
女は笑った。
唇の端が艶めかしく上がり、その柔らかな煙がレギュラスの顔を包む。
レギュラスは眉をわずかに寄せ、タバコを女の指から取る。
次の瞬間、自分の掌で無造作に消却呪文をかけた。
白い煙がひゅっと上へ昇り、跡形もなく消える。
その仕草が、あまりにも、自然だった。
女はタバコを失って手持ち無沙汰になった唇を、ゆっくり、ゆっくりと湿らせ——
その目をレギュラスへと向ける。
近づく。
ヒールのせいでほとんど同じ目線になるほどに。
そして——唇を重ねた。
何のためらいもなく。
まるでそこが“定位置”であるかのように。
レギュラスは……拒まなかった。
むしろ応えていた。
一瞬、女の腰に手を添えるのが見えた気がした。
シリウスの胸に、さっと冷たいものが落ちた。
……ああ。
これは……そういう……関係なのか。
吐き気がこみ上げた。
胃の奥を握り潰されたように苦しかった。
アランをあんなふうに屋敷に閉じ込めて、
あんなに大事そうに見せて、
人前で愛を誇示して、
命を二つも求めて。
——裏では別の女に唇を重ねている?
そんなこと、あっていいはずが——ない。
それでも、目の前の光景が全てだった。
シリウスは喉が焼けるほどに息を止めた。
もうこれ以上、見たくなかった。
これ以上を見てしまえば、
自分がどうなるのか分からなかった。
アラン……こんな男の隣で……俺が知らない間に……。
胸の奥が裂けそうだった。
もしレギュラスがアランを裏切るなら——
……自分が、彼女を幸せにしたい。
無謀な、叶うはずもない感情。
けれど、その想いが静かに、確実に芽生えた。
廊下の影の奥で、
シリウスは拳を握りしめた。
もはや憎悪なのか、悲しみなのか、
なんの感情なのか自分でもわからないほどに。
ただひとつだけ確かなことがあった。
——レギュラス・ブラックは、アランの心を守る価値のある男ではなくなりつつある。
シリウスは、気づけば夜の石畳を踵で乱暴に蹴りながら歩いていた。
ほとんど反射のような動きだった。
頭では「行くべきじゃない」と理解しているのに、胸の中に渦巻くものがそれを完全に狂わせていた。
あの廊下で見た光景。
セラの唇がレギュラスに触れた瞬間。
レギュラスが拒まず応えた姿。
焼けつくように脳裏に貼り付いて離れない。
…… アランを、あんなふうに裏切って。
こみあげる吐き気を押し殺しながら、シリウスはブラック家の屋敷の門へたどり着いた。
冷えた鉄の門扉を押し開けると、庭を抜け、一度も迷うことなくアランの部屋の窓の前へ。
衝動だけが身体を動かしている。
怒りと悲しみと焦燥と、どう説明すればいいかわからない感情の塊が胸を叩いていた。
ドンッ、ドンッ
乱暴に窓を叩く。
カーテンが揺れて、やがて窓が開いた。
夜の冷気のなか、柔らかな灯りに照らされて—— アランがいた。
薄いナイトドレス。
少し膨らみ始めた腹を両手で支えるように抱いて立っている。
眠りから起きたばかりの翡翠の瞳が、驚きに震えていた。
喉を持たぬ彼女は、一瞬で「どうしたの」と顔全体で語っていた。
シリウスは、一歩も迷わずに手を伸ばした。
「アラン 、行こう!」
息が荒くなるほどの衝動だった。
アランの瞳がまん丸に見開かれる。
戸惑い、困惑、恐怖。どれも正しい反応だろう。
でも、それでも、この家に……置きたくなかった。
アランはかすかに首を振り、慌ててベッドサイドの杖を取る。
震える手で文字を描く。
《いけないわ、レギュラスが戻ってくるから。あなたこそ帰って》
その瞬間、シリウスの胸がズキンと痛んだ。
——レギュラスは帰らない。
——あの女と、夜を過ごすから。
それなのにアランは知らずに、自分の夫を待とうとしている。
従順に、けなげに、疑いもせずに。
そんなふうに……待たなくていいんだよ、アラン。
シリウスはもう言葉を選ぶ余裕を持てなかった。
ただ、彼女を救いたいと言う思いだけが、最も強く胸に残った。
「来い—— アラン」
何も説明せず、彼女の手首を掴んだ。
アランの身体がふわりと宙に浮く。
驚きの息が喉の奥から漏れる。
彼女の細い腕を抱き寄せ——窓辺に用意していた自分の箒の後ろへ乗せた。
夜空へ。
風が二人の髪を強く後ろへなびかせる。
背後でアランの手がシリウスの背中を叩く。
《下ろして》という訴えだった。
でも——戻すことはできなかった。
あの部屋に……戻すわけにはいかない。
しばらく飛んでいると、叩く手は弱まり、やがて止んだ。
ふたりの呼吸だけが、夜空に溶けていく。
シリウスは速度を緩め、空の真ん中でそっと声をかけた。
「……なあ、アラン。上を見てみろよ。」
翡翠の瞳がかすかに上へ向く気配が背中越しに伝わる。
ゆっくりと首を上げ、夜空の深い群青を仰ぐ。
星が——近い。
こんなにも近い。
手を伸ばせば届きそうなほどに、無数の星々が瞬いていた。
アランは息を吸った。
声は持たないけれど、胸の内にふっと広がる驚きと感動は、指先の震えとなってシリウスに伝わる。
シリウスはその反応に、胸が痛くなるほど安堵した。
「……綺麗だろ。こんな空、屋敷の窓からじゃ見えないよな。」
アランの手がそっとシリウスのローブの裾を掴んだ。
怯えでも拒絶でもない、不思議な静けさの灯った手の力だった。
レギュラスに知られれば、許されるはずのない行動だ。
アランにも分かっている。
けれど、星の光に照らされたその手は、ほんの少しだけシリウスに寄り添うように感じられた。
シリウスは夜風に目を細めた。
胸が締め付けられるように苦しいのに、同時に救われるようでもあった。
……大丈夫だ。今だけは、俺が守る。
空には、どこまでも澄んだ星の河が広がっていた。
風が、ふたりの間をやわらかく切り裂いていく。
夜空の高みを滑る箒の背で、アランはそっと顔を上げた。
途端に、胸の奥がひゅっと細く震えた。
——こんなにも、近い。
頭上いっぱいに広がる星の海。
手を伸ばせば、ひとつひとつを掬い取れそうなほど。
風が頬を撫でるたび、星々は色を変え、瞬き、流れ、呼吸しているようだった。
アランは息を吸い込んだ。
声を持たない胸の奥で、その光景に圧倒される。
本物の星空……こんなにも近くで見るなんて。
熱いものが、いきなり目の奥に溢れ上がった。
涙だった。
理由もわからずこぼれ落ちるほどの、止めようのない涙だった。
シリウスが気づいて振り返ろうとする気配があったが、アランは首を振った。
何も言わなくていい、そう伝えるように。
アランの脳裏に、遠い昔の光景が浮かぶ。
あの、凍えるような地下で。
光ひとつ入らない、冷たい石壁に囲まれた暗闇の中で。
レギュラスは、アランに魔法をたくさん見せてくれた。
彼の世界の“美しいもの”を、声のない少女に分け与えるように。
そのひとつに——
天井一面に星空を浮かべる呪文 があった。
あの時の衝撃は忘れられない。
暗闇の牢獄に、突如として現れた宇宙の光。
セシール家の娘として死ぬだけの存在だった自分の世界に、レギュラスは“空”を与えてくれた。
それは救いだった。
絶望の底にも、まだ美しいものがあると示してくれた魔法だった。
今、アランの眼前に広がる星空は、あの幻影ではない。
魔法で作られた虚構ではない。
手を伸ばせば触れられるかもしれない、生きた光だ。
涙が頬を流れ落ち、風で乾いてはまた溢れた。
レギュラス……あなたが見せてくれた星空が、今……ここにあるのに。
胸がぎゅっと掴まれたように痛む。
——けれど。
彼の心が、今はとても遠く感じる。
アランは唇を震わせ、胸の上に置いた手に力を込めた。
数え切れないほどの優しさも、温かさも、愛も与えてくれた男。
あの暗闇で手を伸ばしてくれた唯一の光。
その光にアランは救われ、愛し、全てを捧げてきた。
けれど同じだけ、いやそれ以上に見てしまった。
レギュラスの残酷さを。
苛烈で冷徹で、人を踏み躙る迷いのなさを。
愛しているのに——怖い。
怖いのに——離れられない。
矛盾しているのはわかっている。
けれどその矛盾こそが、アランの心を引き裂いていた。
レギュラスの愛は、あまりにも強烈で重くて、逃げ場がない。
それでも、彼の隣を失うなど考えられない。
暗闇で生きる術を奪われた自分には、あの手だけが世界そのものだったから。
涙が頬を伝うたび、星が滲んで光の輪を描く。
どうして……こんなにも遠いの……あなたの心が。
胸の奥で、静かにヒビが入っていくようだった。
シリウスは、背後で震える気配を感じ取っているのだろう。
彼は何も言わず、ただ低い声で一言だけつぶやいた。
「……泣いていい。ここでは誰も見ちゃいない。」
アランの指が震えながら、シリウスのローブをぎゅっと掴んだ。
涙は止まらないまま、星空を見上げ続けた。
夜空の光はどこまでも優しいのに、胸の痛みはひどく鋭かった。
ベッドの端に背筋を伸ばし、淡く微笑んでいる。
「おかえりなさい、レギュラス。」
杖が静かに空を滑り、その文字だけが暖かく灯った。
胸がぎゅっと締まる。
「……眠れなかったですか?」
アランは首を横に振り、長いまつげが微かに揺れた。
レギュラスはゆっくり近づき、アランの前で膝を折って目線を合わせる。
指先でアランの髪をすくい、その柔らかさを確かめるように、そっと撫でた。
髪は昼間より少し乱れていて、寝返りを繰り返していたのだろう。
その小さな乱れが、ひどくいじらしく胸を締め付けた。
「今日……寒くなかったですか?」
アランは小さく、何度も瞬きをして「大丈夫」と伝える。
その瞬きの柔らかさが、罪悪感の奥に冷たい刃のように刺さる。
アランは何も知らない。
知らないまま、ただ自分を待っていた。
だからレギュラスは、触れる指先ひとつにすら怯えてしまう。
——セラのように荒く抱き寄せてはいけない。
——この女は壊れる。
——この女は大切なのだ。
その思いがより強く、より重く染みついていく。
アランの頬に触れた指が、ほんのわずか震えた。
「…… アラン。」
名前を呼ぶ声が、いつもより少し低く湿っていた。
アランは不思議そうに首を傾げる。
その静かな仕草が、余計に胸を締め付けた。
レギュラスはそっとアランの手を握った。
壊れ物に触れるように、細心の注意を払って。
それはセラと交わった後だからではない。
罪悪感がそうさせるのか、
アランを壊さないようにという恐れなのか、
それとも、セラには持たなかった“深い愛”からなのか。
レギュラス自身にも、もうわからなかった。
ただひとつ確かなのは——
アランの前では、どんな熱も荒さも許されない。
ひたすら丁寧に、慎重に、大切に触れなければならない。
それを思い知った夜だった。
アランは優しい瞳でレギュラスを見つめ、
まるで何も知らない天使のように微笑んだ。
その微笑みが、甘いのに苦く、温かいのに痛かった。
そしてレギュラスは、
こんな自分を許してほしいと、誰よりも願いながら、
誰よりも許される資格がないと知っていた。
アランは、寝室の薄いカーテン越しに落ちる朝の光をぼんやりと眺めていた。
まだ体は重い。妊娠初期特有の倦怠感も確かにある。
だが、それ以上に胸の奥を占めて離れないものがあった。
――レギュラスの「優しさ」。
ここ最近、それはまるで別人のように過剰だった。
触れる指先の一つひとつが慎重で、
声は落としたガラスに触れるみたいに柔らかく、
少しでも自分が歩こうとすれば即座に支えようとする。
その優しさの形は、
地下牢から解放された直後、誰よりも自分を案じてくれた頃とも違った。
もっと、何かを“取り戻そうとする”焦りが滲んでいる。
レギュラスが寝室に入ってくる。
今日も彼の歩幅は小さく、自分に近づく瞬間だけ呼吸を静めているように見えた。
笑みは穏やかで、目元には優しさが含まれている。
「アラン、体は……どうです?」
杖を動かす前に、アランはしばし動きを止めた。
まるで、言葉を選ぶ自分に戸惑ったかのように。
優しさそのものは嬉しい。胸の奥が温かく満ちるほどには。
なのに、その温かさの裏に、冷たい影がひどく濃く伸びていた。
――セラ・レヴィントン。
香水の匂いはもうしない。
けれどそれが、むしろ不自然なほどだった。
以前は微かに残った甘く重い匂いが、
今はどれほど彼に近づいても何一つ残っていない。
魔法で消した匂いというのは、空気の隙間に“無”が張りつくように感じる。
以前よりも自然ではない。
消そうとして消した匂いは、決して自然には消えないのだ。
レギュラスはアランの手を取ろうとする。
いつもなら、その温もりだけで幸福に沈んでいたはずなのに——
今日は指が、わずかに震えた。
彼は何から逃げて、その女の手を取るのだろう。
自分のどこが足りなくて、あの女に逃げ道を求めるのだろう。
心に浮かぶ問いは、どこまでも冷たく、どこまでも深い。
探りたい。
探って、真実がどれほど残酷でも受け止めたい。
そう思う自分がいる。
だが同時に——
もし本当の答えを知ってしまったら、
自分はもう立ち直れないのではないかという恐怖がひどく重かった。
地下牢で壊された誇りから救い上げてくれたのはレギュラスだ。
世界に光を取り戻してくれたのもレギュラスだ。
その彼がもし自分を選ばない未来へと歩き出しているとしたら……
どうすれば、この手を離さずにいられるのだろう。
アランは胸を押さえる。
痛いわけではない。
ただ、心臓がどうしようもなく不規則に跳ねた。
レギュラスはその仕草に気づき、強い心配を宿した瞳で覗き込む。
「アラン……? どこか痛みますか? 医務魔法使いを……」
彼の声は限りなく優しいのに、
その優しさこそが、胸の傷に触れてくるように痛い。
アランは首を振り、杖で短く言葉を書く。
大丈夫です。
本当は“大丈夫ではない”。
けれど、それを伝える言葉をアランは持たない。
持っていたとしても、きっと言えなかった。
優しさにすがれば壊れ、
距離を置けば失ってしまうかもしれない——
そんな危うい綱渡りの上で、
今日もアランは静かに呼吸をしていた。
彼の優しさの裏側にある“誰にも言えない秘密”が、
じわりと胸の奥を曇らせながら。
今のアランにできるのはただひとつ。
レギュラスの目を見て微笑むこと。
それだけが、自分の世界を繋ぎ止める唯一の手段だった。
レギュラスが屋敷に姿を見せたのは、バーテミウスがアランと向かい合ってから、すでにしばらく時間が経った頃だった。
玄関の重々しい扉が静かに開き、夜気をまとったレギュラスが現れる。
黒い外套の裾が揺れ、靴底が廊下の大理石を冷たく叩くその足音は、どこか落ち着きすぎていて、逆に何かを隠しているようでもあった。
「やっと来ましたね、レギュラス。」
ソファに腰掛けていたバーテミウスが、わざと軽い調子で声をかける。
「サンドイッチでも食べてました?」
目の端でアランを一瞥しながら、あくまで“冗談”の装いで。
レギュラスは一瞬だけ眉が動いたが、すぐに完璧な無表情へ落とし込む。
華麗に聞こえなかったふりをし、そのままバーテミウスへと歩み寄る。
「書類を。」
バーテミウスは思わず心の中で舌打ちする。
ほんと、こういうところは図太い。
差し出した封筒を受け取ったレギュラスは、すぐに封を切り、さらりと目を走らせた。
その目つきが一瞬で司法官のそれへと変わる。
「……マグルの武装集団、明日午前中から魔法兵を動かす許可まで整えたのですね。」
「ええ。あなたが不在の間にどれほど暴れてくれたかご存じでしょう?」
皮肉めいた声音で、バーテミウス。
レギュラスは息をひとつつき、書類を閉じた。
「明日の朝一で議会に提出します。午前には間に合うでしょう。」
そう、“仕事の話ならば”。
だがバーテミウスは、今日ここに来た目的の半分はそれではない。
そして、レギュラスにもそれが薄く伝わっていた。
気まずげに視線を落とすでもなく、しかし目線だけがアランへ向かないよう、慎重に距離を保っている。
……ああ、図星を刺された子供みたいな顔をして。
バーテミウスは喉の奥で笑いを押し殺しながら、立ち上がった。
「さて、仕事のほうは以上です。……が。」
レギュラスの目がわずかに動いた。
アランは静かに席を立ち、気遣わしげに二人に向けて会釈する。
空気を読んだのだろう、部屋を出ていく。
扉が閉じる——その音を待って、バーテミウスは低く告げた。
「セラ・レヴィントン。あの女は……危険ですよ。」
レギュラスの肩がぴくりと動いた。
「……何が言いたいんです?」
声が乾いていた。
動揺は必死に押し隠しているが、耳元で感じるほどには空気が一度だけ震えた。
バーテミウスはゆっくりと歩き、レギュラスの前に立つ。
肩越しに、アランの去って行った扉をちらりと見てから——
「あの女ね、あなたとアランとの間に生まれた“溝”を……愉しんでますよ。」
レギュラスは息を止めたように黙り込む。
「お前……何を言って——」
「嘘は言いません。僕は今夜、アランと二人きりでしばらく話していたんです。」
レギュラスの眉が鋭く跳ねた。
嫉妬に似た焦りが、ほんの一瞬、凍りついたようにその双眸を曇らせる。
バーテミウスはそれを見逃さず、核心を刺す。
「君の妻は、“感づいている”。完全に、ね。」
レギュラスは言葉を失った。
何一つ証拠がないのに、バーテミウスの言葉が胸の奥で鈍く響く。
今日のアランの沈黙。それが突然つながる。
そしてバーテミウスは、さらに低く声を落とした。
「あなたが気づいている以上に、セラはあなたの“弱み”を握りたがっている。」
レギュラスの瞼がぴくりと震えた。
「弱み?」
「そう。あなたがアランに触れられる場所……その全部を。」
バーテミウスは冷ややかな笑みを浮かべる。
「借りを作ったつもりでいるようですが、あなたはもう、あの女に肩まで沈んでますよ。
手を離せば沈むのはあなたのほうだ。」
レギュラスは初めて、わずかに息を乱した。
「……バーテミウス、詮索はやめてください。」
「詮索じゃありません。忠告です。非公式の。」
そしてバーテミウスは最後に——
薄暗い明かりの下で、声をひそめる。
「“あの女は危険”。
あなたが思っているよりずっと、です。」
その言葉は、冗談の余地が一分もない声音だった。
レギュラスの心臓が、嫌な予感の形をした影にそっと掴まれる。
それが破滅の始まりになることに、まだ本人は気づいていない。
レギュラスは、寝室へ向かうわずかな廊下でさえ息が詰まりそうだった。
バーテミウスの「アランは気づいている」という一言が、頭の奥に棘のように刺さったまま抜けない。
もし、気づいているのだとしたら——なぜ、あんなに静かでいられる?
怒りも、悲しみも、問いただす仕草もない。
声を持たないからといって、伝える方法は彼女の手にいくつもある。
それなのに、アランは一度たりとも“感情”を表そうとはしない。
その沈黙が、レギュラスには堪らなく怖かった。
⸻
寝室の扉を押し開けると、蝋燭の淡い光が静かに揺れていた。
アランはすでに横になり、薄い呼吸を胸元に刻んでいる。
白い頬は疲れているようで、それでもどこか神聖な静けさの中にあった。
本来なら——
“起こしてはいけない”と、そっと布団を掛け直してやるはずだった。
だが今は、そんな理性も優しさも、焦りの前に形を失っていた。
レギュラスは迷いなくベッドへ近づき、アランの掛け布団をふわりとではなく、必死に掴むようにしてめくった。
冷えた空気に触れたアランは、小さく喉を震わせる。
声を持たない少女が、驚いた時だけ漏らす微かな呼吸——そのかすれた「ヒュッ」という音が、レギュラスの胸を刺した。
「…… アラン、すみません……起こしてしまって……」
揺れる蝋燭の光が、アランの翡翠色の瞳にきらめく。
その瞳が自分を映すと、レギュラスはひどく惨めになった。
何を謝っているのか、自分でもわからない。
何を求めているのかすら曖昧で——ただ、アランの何かに縋りつきたくて仕方がなかった。
レギュラスは衝動に突き動かされるようにアランを抱き寄せ、そのまま唇を重ねた。
最初の口付けは震えていた。
迷いと焦りと恐怖が滲むような、弱々しく擦るだけの口付け。
だが次第に、必死さがその奥に姿を現していく。
重ねた唇を深く押しつけるようにし、アランを自身の胸に強く引き寄せる。
舌を絡めようとするほど深く——けれど、アランの身体に触れるたび、セラとは違う“壊れやすさ”が肝に染みて、レギュラスはその先へ踏み出すことができない。
アランの柔らかい唇だけを、必死に、喉が掠れるほどの焦燥で貪る。
行為には進めないのがわかっているから、余計に、唇だけでもつながっていたかった。
彼女の胸の奥に閉じ込められた感情を、口付け越しに引き出せるのなら——
何でも差し出す、と心のどこかで思った。
アランは驚いたまま、目だけを大きく揺らし、静かにレギュラスを受け入れていた。
拒絶はしない。
だが、抱き返す腕もない。
その中途半端な静けさが、レギュラスには恐ろしくてたまらなかった。
アランの唇を覆いながら、レギュラスは必死に願う。
けれどアランは、ただ静かで——何ひとつ感情を見せない。
その沈黙が、何よりも深く胸を裂いた。
蝋燭がふっと揺れ、ベッドに影が覆いかぶさる。
闇の中で、レギュラスの指先はアランの頬をなぞりながら震えていた。
「…… アラン……」
呼ぶ声だけが、痛いほどに掠れていた。
——失いたくない。
——何かが壊れていくのを止めたい。
——けれど、どうすればいいのかわからない。
その焦りだけが、ベッドの上に濃く滲んでいた。
レギュラスはついに、法務部の人間のほぼ全てを入れ替えた。
あの数日の混乱と失態を二度と繰り返すまいと、身内と言えるほど信用の置ける者だけを配置し直したのだ。
その瞬間から、彼は休みを取ることに一切の躊躇を失っていた。
背中を任せられる者たちがいるという安心感——そして何より、補佐についたバーテミウスの存在は大きい。
バーテミウスは口の悪さと底抜けの好奇心が玉に瑕だが、
“仕事”という一点においては、もはや右腕として申し分ない。
時折こちらの内心を面白がって踏み込んでくるのは鬱陶しいが、それすらも今は頼もしさの一部になりつつあった。
こうしてレギュラスの時間には、
“ アランとステラのために使える”貴重な余白が生まれた。
朝、庭を歩く。
ステラがよちよちと草の上を駆け、アランはその少し後ろを歩く。
レギュラスはアランの手をそっと取り、歩幅を合わせる。
アランが疲れていないか、寒くないか、光が強すぎないか——そんな細部ばかり気にしてしまう。
昼には医務魔法使いの検診に付き添った。
アランがベッドに横になり、白い薄布の上から杖で魔力の反応を確かめる医務魔法使い。
「ステラ様の時よりも、魔力が強いですね。
……男児である可能性が高いかもしれません。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひゅっと熱くなった。
望んでいた跡取り。
ブラック家に求められる“男”の子。
ほんのわずかに息が上がっただけで、アランの指がピクリと震えた。
レギュラスは後悔する。
自分の表情が圧になったのだと悟った。
すぐにアランの手を取り、頬に指を添え、
静かに、震えるほど優しく言った。
「アラン……どちらでもいいんです。あなたが無事であれば。
本当に、どちらでも……。」
アランはわずかに瞬きをして、それが返事の代わりになった。
⸻
その日から、レギュラスは“触れる”という行為を意識して積み重ねた。
午前——ステラを膝に乗せて絵本を読みながら、アランの指に触れる
昼——食事の前に手を取り、温度を確かめるように軽く口付ける
午後——庭で散歩する時、アランの腰に手を添え支える
夕方——暖炉前でステラを寝かしつける間、アランの髪を掬い撫でる
夜——休む前、アランの頬に触れて息をかけるように囁く
どの触れ方も、以前のように求め合う熱ではない。
もっと静かで、深くて、慎重で、壊れ物を扱うような優しさだった。
レギュラスはアランの手を握って離さず、
時折その指先に口付けて、
髪を梳くように掬い、耳の後ろへと流してやった。
アランが本を読んでいる時も、ステラと遊んでいる時も、
レギュラスはつい伸ばしてしまう——
背中へ、肩へ、腰へ。
そっと触れ、確かめ、そこにいることを感じようとする。
アランは声がない。
だから、こうして触れることでしか、彼女の温度も感情も汲みとれない。
そして同時に——
触れ合う一秒一秒が、どうしようもなく切なかった。
距離が縮まっている気もする。
元に戻っている気もする。
けれど本当にそうなのかは、レギュラスにはわからなかった。
それでも、触れ続けるしかなかった。
触れていなければ、不安が押し寄せて押しつぶされそうだった。
アランが自分の手を受け入れてくれる限り、
その一瞬一瞬に縋るように、レギュラスは寄り添い続けた。
騎士団本部の作戦室には、いつにも増して重苦しい空気が漂っていた。
壁面に貼られた地図や、マグル界の武装集団の動向を示す赤いマーカーは、じわじわと魔法界の領域へ侵食するかのように見える。その赤の向こう側に、家族や子供の影があることをジェームズは知っていた。
魔法省直属の魔法兵が、明朝にも“制圧”に動くらしい。
制圧——その言葉には、もはや必要最低限の力ではなく、
無辜の者まで巻き込みかねない暴力の匂いがつきまとっていた。
「正当な武装者ならまだしも……家族に手をかけるような奴らが混じってるんだぞ。」
リーマスは新聞を握りつぶす勢いで呟く。
「わかってる。」ジェームズは短く返す。
本来であれば、その“選別”をするのは法務部の役目だ。
倫理観を持つ者だけが現場に出るように調整するのが本来の流れ。
だが——今の法務部はすでに壊れている。
監査事件以来、レギュラスブラックは法務部全体を“闇の陣営”寄りの人材で固めた。
中立の者などほとんど残っていない。
法務部は今、レギュラスとバーテミウスの意向で動く巨大な黒い塔のようだった。
「もはや正規ルートから止めるのは不可能だな……」
ジェームズは額を押さえ、椅子に深く沈み込んだ。
そんな重たい空気の中で、シリウスが不意に言った。
「——セラ・レヴィントンって女、いたろ。」
ジェームズは顔を上げた。
「誰だい、それ。急に。」
「レギュラスの裁判の時に証拠を提出した女だ。混血だとかなんとか。」
シリウスは言いづらそうに、しかし妙に真剣な表情で続けた。
ジェームズは思考の奥から名前を掘り起こした。
たしかに、あの逆転裁判のとき、レギュラスが提出した“証人の記憶”の持ち主としてその名前をどこかで読んだ。
だが——そこに何の価値が?
「それがどうしたんだよ?」ジェームズはぶっきらぼうに返した。
「レギュラスと……なんか、関係がありそうだ。」
“なんか”。
普段なら露骨に言うくせに、シリウスの歯切れの悪さは逆に際立っていた。
「なんかってなんだよ。」
ジェームズは半ば呆れながら聞いた。
「……そういうやつだよ。」
曖昧な表現に、ジェームズは額に手を当てて笑い出しそうになった。
学生時代、校内の女子を片っ端から虜にしていたこの男が、
今さら何を言い淀んでいるのか。
しかし、内容自体は驚くほどではない。
証拠提出者が“若くて美しい女”なら、その裏に男女の関係がある可能性は大いにある。
純血主義を唱えながら、裏で混血の女を抱くなど、いかにもレギュラスブラックらしい矛盾だ。
——そして心底気持ち悪い。
ジェームズの胸に込み上げる嫌悪は、もはや言葉にならなかった。
妻には跡継ぎの男児を産ませるために妊娠を繰り返させ、まるで繁殖の道具のように扱っておきながら、裏では好き勝手に別の女と関係を結ぶ。
その身勝手な男が、今、魔法界の法曹部を掌握している。
「……こんな馬鹿げた話、あるかよ。」
ジェームズは低く吐き捨てた。
責任の重さも倫理も命の価値も
なにもかも自分の都合で捻じ曲げ、
最後は“勝利”と称して堂々と振る舞う。
レギュラス・ブラックという男の存在が、
いまや魔法界そのものを歪ませている。
——それが、ジェームズの最初に抱いた感想だった。
そしてその感情は、刻一刻と“憎悪”へと姿を変えつつあった。
レギュラスは朝の光が差し込む法務部の廊下を、黒いローブを揺らしながら歩いていた。
向かう先は法務部直属《特別治安維持局》。
魔法省直属の魔法兵たちを統括する、治安執行の中枢である。
この部署の最終的な権限は法務部が握っており、魔法兵が動くには必ず法務部の通達と承認が必要になる。
つまり——ここは“闇の陣営”において、最も敏感で手を抜いてはいけない場所だった。
扉を開けると、中では数名の魔法兵が地図を広げ、マグル界での武装集団の動きを確認していた。
上官である治安兵団総監 ラドフォードが、レギュラスの姿に気づき慌てて姿勢を正す。
「ブラック殿……わざわざこちらにお越しとは。」
「ええ、少々確認しておきたいことがありまして。」
レギュラスは机の前に立ち、周囲にいた魔法兵に軽く視線を送った。
全員がぴんと立ち、その場の空気が一瞬にして張りつめる。
「……マグルの女や子供に見境なく手を出している者がいるようですね。」
穏やかな声だった。
けれど、その静けさは鋭い刃のように空気を切り裂く。
総監ラドフォードの喉がひくりと動いた。
「そ、それは……噂程度のものでして……。下級兵の一部が、武装集団の家族にも暴行を働いたと……報告はまだ……」
「噂であれ、事実であれ。」
レギュラスは淡々と言葉を継いだ。
「我々魔法族の品位を落とすような真似はやめましょう。騎士団が喜んで群がりますよ。」
その声音は叱責ではなく、“会話”の形をしていた。
だが逆らえない圧があった。
命令より静かで、命令より恐ろしい声だった。
ラドフォードは背筋を伸ばし、汗ばむ手で敬礼する。
「……肝に銘じます。
以後、部下への指導を厳しく行い、武装集団の家族への接触は一切禁じます。」
「ええ、それが賢明でしょう。」
レギュラスは軽く頷いた。
「騎士団が騒ぎ立てればこちらの仕事が増える。
私は忙しいのでね。」
軽口のように言うが、その奥には明確な線引きがあった。
“マグルを処分すること”は構わない。
だが“魔法族の恥になる方法でやるな”という意味だ。
背を向けて歩き出しながら、レギュラスの表情にわずかな苛立ちが混じった。
——マグルの女を欲の発散に使う?
なんと下等で汚らわしい。
吐き気すらする思いだった。
ましてや、マグルの女の身体に触れて興奮するなど考えられない。
——なのに。
心の奥底が、ぐらりと揺れた。
セラ・レヴィントン。
半分マグルの血を持ち、魔法界の血統主義からは“穢れ”とされる女。
その身体に沈むたび、自分の価値観がばらばらに崩れ落ちるのを感じた。
なぜ、抱けるのか。
なぜ、触れられるのか。
なぜ、心と身体が火をつけられたように反応してしまうのか。
矛盾を説明できない。
それが自分でも歯がゆく、苛立ちの棘が胸の奥で引っかかった。
……理解できない。
理解できないから、深く考えたくなかった。
ただ“発散”だと言い聞かせ、合理化しようとする。
だが、そう思おうとするほど、胸に鈍い痛みが走った。
—— アランには触れられないその強さを、
なぜあの女には求めてしまう?
説明のつかない矛盾。
純血として培ってきた価値観が軋む音が、胸の奥でひどく耳障りだった。
レギュラスは外套の裾を軽く払い、表情を戻す。
「引き続き、慎重に頼みますよ。総監。」
「はっ……!もちろんでございます、ブラック殿!」
レギュラスは静かに頷き、治安維持局を後にした。
外の空気に触れた瞬間、胸にわだかまった矛盾が再び疼く。
……なぜ、あの女なんだ。
答えは出ない。
ただ、わからないまま、焦りだけがゆっくりと積もっていった。
夜の魔法省は、昼間とはまるで別の生き物のように静まり返っていた。
無数の灯りが落とされ、長い廊下の壁にかすかに残った魔力の余韻だけが、ひそひそ声のように揺れている。
シリウスはその陰のなかを歩いていた。黒いローブが床を擦る音すら魔力で消して——影のように。
“尾行”。
騎士団でなら何百回とやってきた常套の手。
魔力検知の範囲から外れ、気配遮断の呪文を重ね、視界に入りながらも存在を感じ取らせない。
レギュラス・ブラックにだけは、これほどの周到さを持って臨む価値があった。
…… アランを裏切るなんてこと、あるはずがない。
そう思っていたし、そう信じていたかった。
レギュラスは誰より残酷で、誰より冷徹で、誰より誇り高い男だが——
一度手に入れたものを手放すような男ではない。
ましてや、あのアランを。
あいつの世界で、生きる道はあの女しかないはずだろ。
なのに、胸の奥底、不吉なざわめきが消えなくて。
確かめずにはいられなかった。
レギュラスがいつも使う法務部へ続く通路。
夜の帰宅までの道を追う。それだけのつもりだった。
だが、廊下の曲がり角——
そこに“女”がいた。
深紅の口紅。
ヒールの音を殺して立ち尽くす曲線。
黒いコートの隙間から覗く白い肌。
セラ・レヴィントン。
シリウスの足が止まる。
何か胸の奥で、嫌な音がした。
女はタバコを吸っていた。
紫煙が廊下に揺れ、魔法省の禁煙指定区域のプレートが虚しく光を反射している。
歩いてきたレギュラスの視線が、女へと吸い寄せられるように向かっていく。
そして、声が落ちた。
「……ここ、禁煙ですよ。」
怒るでもなく、咎めるでもなく。
妙に柔らかい声だった。
女は笑った。
唇の端が艶めかしく上がり、その柔らかな煙がレギュラスの顔を包む。
レギュラスは眉をわずかに寄せ、タバコを女の指から取る。
次の瞬間、自分の掌で無造作に消却呪文をかけた。
白い煙がひゅっと上へ昇り、跡形もなく消える。
その仕草が、あまりにも、自然だった。
女はタバコを失って手持ち無沙汰になった唇を、ゆっくり、ゆっくりと湿らせ——
その目をレギュラスへと向ける。
近づく。
ヒールのせいでほとんど同じ目線になるほどに。
そして——唇を重ねた。
何のためらいもなく。
まるでそこが“定位置”であるかのように。
レギュラスは……拒まなかった。
むしろ応えていた。
一瞬、女の腰に手を添えるのが見えた気がした。
シリウスの胸に、さっと冷たいものが落ちた。
……ああ。
これは……そういう……関係なのか。
吐き気がこみ上げた。
胃の奥を握り潰されたように苦しかった。
アランをあんなふうに屋敷に閉じ込めて、
あんなに大事そうに見せて、
人前で愛を誇示して、
命を二つも求めて。
——裏では別の女に唇を重ねている?
そんなこと、あっていいはずが——ない。
それでも、目の前の光景が全てだった。
シリウスは喉が焼けるほどに息を止めた。
もうこれ以上、見たくなかった。
これ以上を見てしまえば、
自分がどうなるのか分からなかった。
アラン……こんな男の隣で……俺が知らない間に……。
胸の奥が裂けそうだった。
もしレギュラスがアランを裏切るなら——
……自分が、彼女を幸せにしたい。
無謀な、叶うはずもない感情。
けれど、その想いが静かに、確実に芽生えた。
廊下の影の奥で、
シリウスは拳を握りしめた。
もはや憎悪なのか、悲しみなのか、
なんの感情なのか自分でもわからないほどに。
ただひとつだけ確かなことがあった。
——レギュラス・ブラックは、アランの心を守る価値のある男ではなくなりつつある。
シリウスは、気づけば夜の石畳を踵で乱暴に蹴りながら歩いていた。
ほとんど反射のような動きだった。
頭では「行くべきじゃない」と理解しているのに、胸の中に渦巻くものがそれを完全に狂わせていた。
あの廊下で見た光景。
セラの唇がレギュラスに触れた瞬間。
レギュラスが拒まず応えた姿。
焼けつくように脳裏に貼り付いて離れない。
…… アランを、あんなふうに裏切って。
こみあげる吐き気を押し殺しながら、シリウスはブラック家の屋敷の門へたどり着いた。
冷えた鉄の門扉を押し開けると、庭を抜け、一度も迷うことなくアランの部屋の窓の前へ。
衝動だけが身体を動かしている。
怒りと悲しみと焦燥と、どう説明すればいいかわからない感情の塊が胸を叩いていた。
ドンッ、ドンッ
乱暴に窓を叩く。
カーテンが揺れて、やがて窓が開いた。
夜の冷気のなか、柔らかな灯りに照らされて—— アランがいた。
薄いナイトドレス。
少し膨らみ始めた腹を両手で支えるように抱いて立っている。
眠りから起きたばかりの翡翠の瞳が、驚きに震えていた。
喉を持たぬ彼女は、一瞬で「どうしたの」と顔全体で語っていた。
シリウスは、一歩も迷わずに手を伸ばした。
「アラン 、行こう!」
息が荒くなるほどの衝動だった。
アランの瞳がまん丸に見開かれる。
戸惑い、困惑、恐怖。どれも正しい反応だろう。
でも、それでも、この家に……置きたくなかった。
アランはかすかに首を振り、慌ててベッドサイドの杖を取る。
震える手で文字を描く。
《いけないわ、レギュラスが戻ってくるから。あなたこそ帰って》
その瞬間、シリウスの胸がズキンと痛んだ。
——レギュラスは帰らない。
——あの女と、夜を過ごすから。
それなのにアランは知らずに、自分の夫を待とうとしている。
従順に、けなげに、疑いもせずに。
そんなふうに……待たなくていいんだよ、アラン。
シリウスはもう言葉を選ぶ余裕を持てなかった。
ただ、彼女を救いたいと言う思いだけが、最も強く胸に残った。
「来い—— アラン」
何も説明せず、彼女の手首を掴んだ。
アランの身体がふわりと宙に浮く。
驚きの息が喉の奥から漏れる。
彼女の細い腕を抱き寄せ——窓辺に用意していた自分の箒の後ろへ乗せた。
夜空へ。
風が二人の髪を強く後ろへなびかせる。
背後でアランの手がシリウスの背中を叩く。
《下ろして》という訴えだった。
でも——戻すことはできなかった。
あの部屋に……戻すわけにはいかない。
しばらく飛んでいると、叩く手は弱まり、やがて止んだ。
ふたりの呼吸だけが、夜空に溶けていく。
シリウスは速度を緩め、空の真ん中でそっと声をかけた。
「……なあ、アラン。上を見てみろよ。」
翡翠の瞳がかすかに上へ向く気配が背中越しに伝わる。
ゆっくりと首を上げ、夜空の深い群青を仰ぐ。
星が——近い。
こんなにも近い。
手を伸ばせば届きそうなほどに、無数の星々が瞬いていた。
アランは息を吸った。
声は持たないけれど、胸の内にふっと広がる驚きと感動は、指先の震えとなってシリウスに伝わる。
シリウスはその反応に、胸が痛くなるほど安堵した。
「……綺麗だろ。こんな空、屋敷の窓からじゃ見えないよな。」
アランの手がそっとシリウスのローブの裾を掴んだ。
怯えでも拒絶でもない、不思議な静けさの灯った手の力だった。
レギュラスに知られれば、許されるはずのない行動だ。
アランにも分かっている。
けれど、星の光に照らされたその手は、ほんの少しだけシリウスに寄り添うように感じられた。
シリウスは夜風に目を細めた。
胸が締め付けられるように苦しいのに、同時に救われるようでもあった。
……大丈夫だ。今だけは、俺が守る。
空には、どこまでも澄んだ星の河が広がっていた。
風が、ふたりの間をやわらかく切り裂いていく。
夜空の高みを滑る箒の背で、アランはそっと顔を上げた。
途端に、胸の奥がひゅっと細く震えた。
——こんなにも、近い。
頭上いっぱいに広がる星の海。
手を伸ばせば、ひとつひとつを掬い取れそうなほど。
風が頬を撫でるたび、星々は色を変え、瞬き、流れ、呼吸しているようだった。
アランは息を吸い込んだ。
声を持たない胸の奥で、その光景に圧倒される。
本物の星空……こんなにも近くで見るなんて。
熱いものが、いきなり目の奥に溢れ上がった。
涙だった。
理由もわからずこぼれ落ちるほどの、止めようのない涙だった。
シリウスが気づいて振り返ろうとする気配があったが、アランは首を振った。
何も言わなくていい、そう伝えるように。
アランの脳裏に、遠い昔の光景が浮かぶ。
あの、凍えるような地下で。
光ひとつ入らない、冷たい石壁に囲まれた暗闇の中で。
レギュラスは、アランに魔法をたくさん見せてくれた。
彼の世界の“美しいもの”を、声のない少女に分け与えるように。
そのひとつに——
天井一面に星空を浮かべる呪文 があった。
あの時の衝撃は忘れられない。
暗闇の牢獄に、突如として現れた宇宙の光。
セシール家の娘として死ぬだけの存在だった自分の世界に、レギュラスは“空”を与えてくれた。
それは救いだった。
絶望の底にも、まだ美しいものがあると示してくれた魔法だった。
今、アランの眼前に広がる星空は、あの幻影ではない。
魔法で作られた虚構ではない。
手を伸ばせば触れられるかもしれない、生きた光だ。
涙が頬を流れ落ち、風で乾いてはまた溢れた。
レギュラス……あなたが見せてくれた星空が、今……ここにあるのに。
胸がぎゅっと掴まれたように痛む。
——けれど。
彼の心が、今はとても遠く感じる。
アランは唇を震わせ、胸の上に置いた手に力を込めた。
数え切れないほどの優しさも、温かさも、愛も与えてくれた男。
あの暗闇で手を伸ばしてくれた唯一の光。
その光にアランは救われ、愛し、全てを捧げてきた。
けれど同じだけ、いやそれ以上に見てしまった。
レギュラスの残酷さを。
苛烈で冷徹で、人を踏み躙る迷いのなさを。
愛しているのに——怖い。
怖いのに——離れられない。
矛盾しているのはわかっている。
けれどその矛盾こそが、アランの心を引き裂いていた。
レギュラスの愛は、あまりにも強烈で重くて、逃げ場がない。
それでも、彼の隣を失うなど考えられない。
暗闇で生きる術を奪われた自分には、あの手だけが世界そのものだったから。
涙が頬を伝うたび、星が滲んで光の輪を描く。
どうして……こんなにも遠いの……あなたの心が。
胸の奥で、静かにヒビが入っていくようだった。
シリウスは、背後で震える気配を感じ取っているのだろう。
彼は何も言わず、ただ低い声で一言だけつぶやいた。
「……泣いていい。ここでは誰も見ちゃいない。」
アランの指が震えながら、シリウスのローブをぎゅっと掴んだ。
涙は止まらないまま、星空を見上げ続けた。
夜空の光はどこまでも優しいのに、胸の痛みはひどく鋭かった。
