2章
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レギュラスは書斎から庭へと歩いた。
議会の勝利の余韻がまだ体に残っているのに、
どうしてか胸の奥がざわついて仕方がなかった。
扉を開けた瞬間、
風が頬を撫でていく。
——なにかが、おかしい。
それは本当に微細な“気配”だった。
目に見えない、けれど確かに在る。
この庭に似つかわしくない気配。
レギュラスは無意識に一歩踏み出す。
芝生の上、
さっきまで誰かがそこに立っていたような、
微かな魔力の揺らぎが残っていた。
冷たくも熱くもない。
けれど“強い”魔力の残滓。
ブラック家の者と同じ“血の色”を持った魔力。
その瞬間、脳裏でひとつの名前が浮かんだ。
——シリウス。
理由はない。
ただ、兄の魔力の気配は幼いころから嫌というほど染みついている。
それが、ここにある。
胸が静かに軋んだ。
レギュラスは庭の奥に視線を向ける。
アランがステラを抱き上げ、メイラと共に戻ってくるところだった。
アランの頬はいつもより赤く、
ステラは何かを思い出しているかのように笑っている。
——何があった?
その問いが喉の奥に渦を巻く。
「アラン。」
穏やかに名前を呼ぶ。
声はやわらかかったが、心臓は嫌なほど強く脈打っていた。
アランは杖を構え、いつも通り整った文字を描く。
『おかえりなさい、レギュラス。』
それはあまりに完璧で、
普段より“温度が欠落して”いた。
レギュラスは近づき、注意深くアランの瞳を見る。
翡翠色は揺れていなかった。
曇りも、恐怖も、言い訳も、嘘もない。
ただの平静。
ただの無。
だからこそ不自然だった。
「……ここに誰か、来ましたか?」
丁寧に問うた。
詰問ではなく、探索でもなく、
ただ真実だけを求める声で。
アランはほんの瞬きひとつ分の間を置いた。
そのわずかな空白ですら、レギュラスには刺さる。
そして杖が静かに動いた。
『いいえ。誰も。』
揺れない筆致。
微笑むでもなく、怯えるでもなく。
ただ淡々と。
——嘘かどうか、まったく読めない。
アランはただアランであった。
言葉を持たない無音の世界で、
完璧に感情を封じ込める術をもってしまった少女。
レギュラスは胸の奥で鋭い痛みを感じた。
問い詰めれば──壊してしまう、気がした。
決定的な証拠もない。
ただ「気配」があっただけだ。
兄の影など、魔力の残滓かもしれない。
風が運んだ幻かもしれない。
だが、疑念は静かに沈殿する。
「……そうですか。」
その答えに納得したふりをするしかなかった。
アランは柔らかく微笑む。
その笑みが、どこか“完成された仮面”のようで、
レギュラスは胸の内側から締め付けられるような痛みを覚える。
「疲れていませんか?」
問いながら手を伸ばし、アランの頬に触れた瞬間——
アランの体が僅かにこわばった。
ほんの、指先に伝わる微震。
だがその一瞬だけで、
レギュラスの心臓は大きく跳ねた。
「……寒いですね。中に入りましょう。」
優しく言いながら、
疑念を胸の奥深くへ押し込める。
アランは静かに頷いた。
ステラの笑い声が弾む庭に、
兄の残した気配だけが、
風のように薄く、けれど確かに漂っていた。
レギュラスはアランの手を握りながら、
心の奥で、小さく呟く。
——どうか、違っていてくれ。
その祈りは、誰にも届かない。
寝室に灯された小さなランプが、淡い橙色の光を壁に揺らしていた。
レギュラスはすでに眠っている。
規則正しい呼吸が、静寂の中にゆっくりと溶けていた。
アランはその隣で、ひとり膝を抱えて座っていた。
胸の奥がずきりと痛む。
それは身体の痛みではなく、心の奥深くを引き裂くような痛みだった。
——「男でも女でもいいんだ。お前が元気な子を産んでくれたら、それで嬉しい」
シリウスの言葉が、まるで温かい炎のように胸の中で何度も灯り、
そしてそのたびに、その火が自分の内側を焼いていく。
その言葉の真っ直ぐさ。
まるで自分の命そのものを尊重してくれるかのような優しさ。
そして“産まれる子の性別”に価値を置かない愛情。
アランの胸は熱くなり、気づけば手をぎゅっと押し当てていた。
——もし、自分がレギュラスの隣でなかったなら。
そう思った瞬間、息が止まった。
こんな考え、してはいけない。
それでも、
“もしも”の世界がひどく魅力的に見えてしまった。
もし違う世界なら。
もしレギュラスの名も、ブラック家の圧力も知らぬ世界で育っていたのなら——
子を身籠るという奇跡を、心の底から喜べたのだろうか。
天からの贈り物として、
神に感謝し、喜びに満ちた未来を信じられたのだろうか。
ステラを授かった日の幸福の予感。
ただそれだけを素直に受け止めることができただろうか。
そう考えた瞬間、
アランは自分の両肩を抱いた。
——でも。
レギュラスの隣でない未来なんて、自分には存在しない。
冷たい石の地下牢。
光の届かない闇の中、
鎖が擦れて肌が裂ける音しかしない世界。
魔力を吸い尽くされ、声さえ奪われ、
“封印”という名の呪いに縛られ続けた日々。
あの地獄から引き上げてくれたのは、
誰でもない。
レギュラスだった。
ただの救助ではない。
彼は自分を妻として迎え入れ、
名前を、立場を、日差しを、優しい寝具を、温かな食事を、
“人間として生きる権利”を与えてくれた。
アランは震える指で、レギュラスの寝息が聞こえる方へ視線を向けた。
——この人の隣でなかった世界なんて、ありえない。
それを考えるだけで、
とんでもない裏切りのように胸が潰れそうだった。
なのに、自分の心は一瞬でもその可能性に触れた。
レギュラスのいない未来に、
“もしあの優しい言葉をかけてくれる誰か”がいた世界に、
心が揺れた。
アランは片手で口元を押さえる。
声が出せない自分でさえ、
嗚咽という形で何かが零れ落ちてしまいそうだった。
どうして。どうして、あんなにも真っ直ぐに刺してくるのだろう、シリウスの言葉は。
どうして、
自分の命そのものを救ってくれたレギュラスの隣で、
そんなことを考えてしまうのだろう。
アランはそっとレギュラスの寝顔を見る。
長い睫毛、整った横顔、穏やかな寝息。
愛している。
この人の全てが、自分の世界だ。
それなのに——
心の深いところで別の声が囁く。
「どんな子でもいい。それより、お前が無事でいてくれたら。」
その言葉の温度が、アランの心を激しく揺さぶる。
許してほしい。
どうか、この揺らぎを誰にも見つからないように。
どうか、レギュラスがこの罪に気づきませんように。
アランは胸元を押さえ、
静かな闇の中、
膝を抱えたまま震える体を小さく丸めた。
魔法省法務部の朝。
階下から立ち昇る焙じ茶のような香ばしい香りと、活版機の重たい音が響く。
しかし、その空気の中心にいるレギュラス・ブラックの表情は、いささかも緩んでいなかった。
彼は机の上に積まれた山のような書類を淡々と仕分けながら、
もう片方の手で羽ペンを走らせていた。
——“中立”などという甘い幻想は今日で終わりだ。
ほんの数日の不在。
その間に法務部は「レギュラス不在の隙」を突かれ、
可決されるはずのない案件を山ほど処理され、
施錠も書類管理も崩壊し、
さらに狼人間の食殺リストにまで不正が混入された。
これらは“事件”ではない。
崩壊だった。
ゆえにレギュラスの結論は明確だった。
——法務部は、もう中立など許さない。
最初から最後まで、自分の掌の中で動かす。
そのため、彼はわずか3日で部内の重役の7割を入れ替えた。
能力の低い者、中途半端な正義感を振りかざす者、
騎士団派と微妙な繋がりを持つ者は容赦なく外し、
反対に実務能力が高く、闇の陣営寄りの価値観を持つ魔法使いを引き入れていった。
バーテミウスが小声で言う。
「いやぁ……すごいですね、レギュラス。
まさか、本当にここまで“味方”で固めるとは。」
レギュラスは書類の束を音もなく組み替えながら冷静に答えた。
「“味方”ではないですよ。
使える人間を優先しただけです。
結果的に身内が多くなっただけの話です。」
「いや、まぁ……そうでしょうけどねぇ……」
バーテミウスは肩を竦め、
しかしその口元には笑みが浮かんでいた。
本音では、この新体制がとても心地よかったのだろう。
とはいえ——。
「後処理がこんなにあるなんて、聞いてませんよ……」
テーブルの反対側ではバーテミウスが、
執務室に積まれた“可決取り消し案件”の山を見て呆れ果てていた。
その高さはまるで山脈のようで、書類越しにレギュラスが霞んで見えるほどだ。
「これ全部、今後“棄却”に回すんですか?
何十件、いや百近くありますよ?」
「ええ。僕が不在の間に“勝手に”通ったものですからね。当然、全部白紙です。」
レギュラスの声は淡々としていた。
まるで、この地獄のような業務量が
自分にとっては何でもない些事であるかのように。
「これからの法務部はやりやすくなりますよ。
“敵”も“裏切り者”も、ほぼ追い出しましたから。」
「そういうことではなく!
今目の前にある仕事がしんどいって話をしてるんですよ、私は!!」
バーテミウスがついに声を上げると、
レギュラスは珍しく笑いを押し殺したように唇を歪めた。
「文句を言わずに手を動かしたらどうです?
あなたの得意技でしょう。」
「褒めても何も出ませんけどね……!」
それでもバーテミウスは、
ぶつぶつ言いながらもペンを取り、
手際よく“棄却処理”を始める。
二人の机に、
羽ペンのさらさらとした音が静かに降り積もっていく。
この一見地味で膨大な作業の一つひとつが、
彼らにとっては再び法務部の権力を握り締めるための要だった。
レギュラスは、半ば無意識に額を押さえながら小さく息を吐く。
ほんの数日の不在。
その間に法務部は自分の想像以上に脆かった。
だからもう二度と——
こんな隙を与えるつもりはなかった。
「……でもまぁ、」
レギュラスが静かに呟く。
「アランのそばにいた時間は、何よりも価値がありました。
失ってもいいものと、失ってはいけないものの区別くらい、
僕もわかっているつもりです。」
その言葉にバーテミウスは顔を上げる。
「……なるほど。
じゃあ、今のこの地獄みたいな仕事量も“その代償”ってことですか。」
「そういうことです。」
レギュラスは淡く笑った。
その笑みは、疲労よりも、
大切なものを守れた満足感のほうが濃かった。
夜も深まり、法務部の執務室は書類の山と魔法の灯りだけが淡く揺れていた。
誰もいない廊下を見渡すと、灯りの魔法の明滅が、長い影を床に伸ばしている。
レギュラスの机の前には、まだ片付かない書類の束。
その横で椅子に背中を預け、伸びをしながらバーテミウスは嘆息した。
「……しかし、君は本当に頑丈ですね。
僕なんかもう三回は死んだ気がしてるんですが。」
「何を言ってるんです。あなたは少し喋りすぎただけでしょう。」
レギュラスは書類に視線を落としたまま淡々と返す。
そのやり取りはいつも通りだったが、
バーテミウスの視線は時折、レギュラスの横顔をじっと観察するように動いた。
……妙に丁寧なスーツの襟元。
……今日はいつもより整えている髪。
……そして、仕事が終わったにもかかわらず、心ここにあらずのような落ち着きのなさ。
バーテミウスは気づいていた。
レギュラスの心に、
“仕事以外の何か”がまとわりついていることに。
「レギュラス。」
「何です。」
「あなた最近、カフェで昼を買ってこないじゃないですか。」
手が止まった。
レギュラスの肩がほんのわずか、しかし確かに揺れた。
「……忙しいだけですよ。」
「それにしちゃあ、カフェの袋は書斎のゴミ箱に普通にありましたけど?」
鋭い指摘に、レギュラスは少しだけ息を呑んだ。
バーテミウスは椅子を回し、完全にレギュラスへ身体を向ける。
「あなたほどの用心深い男が、
わざわざ妻に知られないように袋を片付けるなんて、ありましたっけ?」
レギュラスは何も答えない。
だが沈黙こそが“答え”だった。
バーテミウスはひどくゆっくりと笑い出す。
「……あぁ、なるほどねぇ。」
「なにが、です。」
「いやいや。言わないでもいいですよ。」
バーテミウスは机に肘をつき、顎を手に乗せた。
「正直に言いましょう。
あのセラ・レヴィントンという女……なかなかに“気配”が強い。
ああいう女は、あなたのような男に絡んだら、簡単には離れませんよ。」
レギュラスの眉がピクリと動く。
「……やめてください。何もありません。」
「そう?あなたの『何も』は、信用できないんですよね。」
その言い方は、挑発のようでもあり、
親しい者の苦い忠告のようでもあった。
「あなた、セラの来訪にあんなに慌てていたでしょう。
あれは、ただの常連の来訪に見える態度ではありませんでしたよ?」
「……。」
「君が怯える顔なんて久しぶりに見ました。」
「怯えたわけではありません。」
「嘘が下手ですねぇ。妻には見せられない影がある、と。」
レギュラスの目がすっと鋭く細められた。
その瞳には、
“これ以上触れるな”
という暗い警告が宿った。
だがバーテミウスは退かない。
むしろ一歩踏み込んだ。
「レギュラス、僕はね。
あなたがどれほどアラン・ブラックを大事にしているかを知っています。」
レギュラスは微かに瞳を揺らした。
「……なら、なおさら黙っていてください。」
「だからこそ言ってるんですよ。
あなたのその影……妻は絶対に気づきます。」
もう気づかれているだろうに……
——その言葉は胸の内で飲み込んだ。
「セラ嬢は大人です。
良くも悪くも、あなたの“弱っている部分”に寄り添う女です。
そして、あなたが手を離せば、彼女はもっと深く食い込みます。」
静寂。
レギュラスの喉が、かすかに震えた。
「……バーテミウス。」
「はい。」
「あなたは、僕の何を見ているつもりですか。」
「全部ですよ。仕事も、戦略も、
そして……“あなたの崩れそうな部分”も。」
レギュラスは目を伏せた。
図星だった。
バーテミウスは淡く笑い、書類の山を指で叩いた。
「ま、忠告はしましたよ。
あなた自身がその“影”にどう向き合うかは、あなた次第です。」
さらりと言ったその声は軽い。
だが含む重さは、レギュラスの胸に鋭く突き刺さる。
レギュラスは静かに息を吐いた。
そして言う。
「……僕は、アランを失いません。」
「なら、影と遊ぶのはほどほどに。」
バーテミウスは笑ったが、
レギュラスは笑えなかった。
胸の奥に、小さな、しかし消えない恐怖が生まれてしまったからだ。
昼下がりの陽が、大通りの石畳にやわらかく落ちている。
魔法省の近くにある小さなカフェ——名前も気に留めないほどありふれた店だ。
それでも、シリウスは今日やけに腹が減って、流れでふらりとドアを押し開けた。
ベルの音が軽く響き、店内の温かな空気が一気に広がる。
香ばしいパンの匂い。
焼きたてサンドイッチの蒸気。
ミルクティーの甘ったるい香り。
なんの変哲もない昼下がり。
ただそれだけのはずなのに。
シリウスの足はカウンターの前でぴたりと止まった。
店員の胸元——そこに付けられたネームプレート。
《Sera Levington》
セラ・レヴィントン。
シリウスの眉がわずかに引き寄せられる。
……どっかで聞いた名前、だよな。
だが記憶の引き出しを開けても、空白ばかりが広がっていく。
何かに引っかかるのに、決定的な像はなにも出てこない。
その不気味さだけが、胸に薄く残った。
「いらっしゃいませ。
サンドイッチでしたら、あちらが焼き立てですよ。」
セラは柔らかく微笑んだ。
その微笑みは美しい——整った顔立ち。
だが、それ以上に“艶”があった。
妖美、という表現がぴたりと合うような。
……ジェームズは絶対こういうタイプ嫌いだな。
シリウスは瞬時にそう結論づけた。
気の強そうな女、他人を値踏みするように見ながらも、笑顔の裏に何か毒を隠している女——
ジェームズが最も信頼しないタイプ。
だが、シリウス自身はーー
学生時代の血が僅かに疼いた。
昔の俺なら、一回は軽く手ぇ出してみたいって思ってたかもしれねぇな……
そんな馬鹿げた感想を自嘲しながら、カウンターに向き直る。
焼きたてのハムサンドを受け取り、釣り銭をもらい、礼を言う。
そのとき。
セラの髪がわずかに揺れ、ほのかに香水の匂いがした。
近づくと、妙に記憶がざわついた。
セラ……レヴィントン……どこで……?
どうにも思い出せない。
もやのように浮かんでは消える名前。
シリウスはサンドイッチ片手に窓際の席に腰を下ろした。
外を歩く魔法使いたちと馬車を眺めながら、サンドイッチを一口かじる。
パンの柔らかさも味もしっかりとしている——
なのに、妙に味が頭に残らない。
ちくしょう……なんでこんな引っかかるんだ。
食事の手を止め、セラの働く姿を盗み見る。
髪を耳にかけ、カウンターの上を拭いたり、他の客に紅茶を出したり。
その仕草にはどこかゆっくりとした余裕がある。
彼女は時折、客の反応を測るように視線を送る。
掴む、放す、また少し掴む——
そんな波のような会話のリズム。
……誰に似てんだ?違う。誰の周囲に……?
一瞬、胸のどこかで冷たい電流が走った気がした。
だが、名前の輪郭は相変わらずぼやけている。
サンドイッチを再びかじったが、視線は自然とセラへ向かう。
店内の魔法ランプの光が、彼女の頬を淡く照らしている。
その横顔を見て——
何かがまた、かすかに脳裏を掠めた。
なんなんだ……どこだ……
その“どこかで聞いた名前”が、
たった数週間前、新聞の隅に載った写真の中か、
それとも誰かの口から出た名前なのか——
思い出せない。
ただ、胸がざわつく。
落ち着かない。
理由もわからないまま、背筋が冷たくなっていく。
サンドイッチを食べ終わっても、
名前は記憶の表面へ浮かんでこなかった。
しかし一つだけ確かなのは、
“セラ・レヴィントン”という名が、これで済むはずがない。
そんな“悪い予感”だけが、
シリウスの胸に小さく、だが鋭く刺さったまま残った。
午後の柔らかな陽が、ブラック家の広い窓辺から差し込んでいた。
アランは寝台の上に身を預け、薄く膨らみ始めた腹をそっと撫でながら、小瓶から取り出した“何か”を口へ運んでいた。
それは淡い金色をした固形の何か。
乾燥ハーブのようにも見え、しかし魔法薬の材料の一部にも見えなくもない。
はっきりとしたものではなかった。
書斎から戻ってきたレギュラスは、それを見た瞬間動きを止めた。
空気がわずかに冷えたような気がした。
「……アラン。何です? これ。」
声は低く、抑えていながらも冷気を含んでいた。
アランはふと手を止め、レギュラスを見る。
レギュラスは一歩、二歩と近づき、アランの指先からその小瓶を奪うようにして取って覗き込む。
魔法省で鍛えたその目は、即座に“屋敷の正式な調達品ではない”と判断した。
「変なものは口にしない方がいいです。」
低い声が寝室に落ちた。
その声音に、そばにいたメイラがハッとして顔を上げる。
「あ、あのっ……!」
「これは……先日、私が市場で買ってきたものなんです。妊婦さんの滋養強壮に効くと聞いて……!」
メイラは慌てて言葉を重ねた。
アランのために、少しでも良いものを——そう思って選んだのだろう。
その表情には純粋な善意だけが滲んでいた。
しかしレギュラスの反応は、冷酷なほど鋭かった。
「……そうですか。」
一瞬だけ、唇の端がかすかに上がった。
笑った、というより“感情を隠すために形だけ口角を動かした”。
そんな笑みだった。
「では、すべて処分を。
アランが口にするものは——屋敷が正式に管理したものだけにします。」
有無を言わせない、完全な命令の語調。
「ご、ごめんなさい……」
メイラの声は濡れた。
アランはすぐに杖を取り、レギュラスの前へそっと掲げた。
その瞳は、まるで小さな光を灯すように優しく揺れていた。
《そんな言い方をしないで。
私の体を案じてくれただけです》
レギュラスはその文字を見つめる。
その一文字一文字が、まるで彼の心へ鋭く刺さるようだった。
「……ええ、わかっています。」
苦く息を吐き出すように言う。
「ですが、市場のものが安全である保証などどこにもありません。
なにが混じっているか……知っているでしょう?」
その“知っているでしょう”という最後の一言が、痛烈だった。
アランの過去を思えば、言葉にせずとも理解できてしまう。
メイラは項垂れ、唇を噛む。
レギュラスは、そんな彼女にふと視線を移した。
その目には冷たさが戻っていたが、その奥底に——かすかなためらいが見えた。
「……メイラ。」
呼ばれた少女はびくりと肩を震わせる。
「市場へ行くのなら——ノクターン横丁には近づかないことです。
柄の悪いごろつきが屯しています。
あそこは、あなたのような子が行くべき場所ではありません。」
「は、はい……。気をつけます……」
そのとき、メイラの表情が少し緩んだ。
怒られた恥ずかしさと、身を案じてもらえた安堵が混ざった、複雑な笑顔。
アランはその様子を見て、ほっと息を吐く。
——いささか強引ではあるが、レギュラスはメイラを気にかけている。
アランにはそれがわかる。
レギュラスは小瓶をもう一度見下ろした。
光に透かして、中身を揺らす。
表情には出さなかったが——
胸の内では冷たい不安がゆっくり広がっていた。
…一体何を口にさせられそうになっていた?
アランの体に、子に、万一でも危険があったら……
その想像にざらつく焦りが喉を焼いた。
アランは杖で言葉を書かない。
ただ静かにレギュラスを見つめていた。
その視線だけが、今日いちばんの痛みとなってレギュラスの胸に落ちていった——。
深夜。屋敷の廊下はしんと静まり返り、寝室の扉の向こうからはアランとステラの穏やかな寝息がかすかに流れていた。
レギュラスはそっと寝室を出て、灯りを最小限に落とした書斎へ向かった。
机に置いたのは、昼間アランが口にしていた、あの小瓶。
淡い金色の粒が、月明かりを反射してかすかな光を返している。
瓶をひねり開けた瞬間、ほのかに土と木の香りが混じったような、異国の匂いが漂った。
……これは。魔法薬の匂いではない。
レギュラスは杖を取り、静かに解析呪文をかける。
瓶の上空に淡い青白い光が生まれ、成分の一覧が文字となって浮かび上がっていく。
《当帰》
《杜仲》
《黄耆》
《枸杞子》
《茯苓》
見たことのない表記が並ぶ。
レギュラスは眉をひそめ、辞典を引き寄せる。
分厚い外国魔法植物辞典をめくり、さらに、マグル医学書物の輸入版をとり出して照らし合わせる。
ページをめくるたび、胸の内にひやりとしたものが広がっていく。
——これは東洋の薬剤だ。
魔法界ではまず扱わない。
マグル界経由でなければ手に入らない。
辞書の解説が静かに語りかけてくる。
「……漢方薬、などと言うのか。」
低く呟く。
その声はわずかに震えていた。
ここに並んだ生薬は、妊婦の身体を温め、気血を補うものばかり。
——危険性はない。むしろ、身体の弱い者に優しい効能だった。
それが逆に、レギュラスの胸を締め付けた。
……メイラが市場で買った、と言っていたが。
市場で?
この国のどこに、こんな高度で純度の高い東洋薬を扱う店がある。
さらに輸入も制限されている以上、市場どころか魔法薬店ですら取り扱えないものだ。
——メイラの説明は嘘だ。
しかし少女はアランを想って行動しただけ。
アランの前で、あの優しい少女に真実を吐かせる?
それは絶対に出来ない。
つまり、こうなる。
…… アランは誰かから渡されたものを、メイラの買い物だと言い換えた。
胸がざわり、と音を立てる。
冷たい汗が背を伝って落ちていく。
——誰だ。
この薬を渡せる者。
マグル界との往来が可能な者。
アランが嘘をついてまで庇うような者。
その条件が、ひとりの名を静かに浮かび上がらせた。
……シリウス。
レギュラスは机に手をつき、目を閉じた。
先日、庭に確かに感じた気配。
アランは否定したが、あれは——兄の気配以外の何ものでもなかった。
そして今日、アランが薬を口にする時の、どこか後ろめたいような、しかし覚悟したような静かな表情。
……顔色ひとつ変えずに、嘘をつけるのか。
胸が深く軋んだ。
まるで心臓が爪で引っ掻かれるような痛み。
アランは、いつだって表情を優しく整える。
声を持たない彼女の代わりに、感情は瞳に宿るはずなのに。
——あの日の彼女の瞳は、深く、静かで、沈んでいた。
シリウスが再びアランのそばへ現れたのか?
アランは彼の言葉を受け取ったのか?
他にも……自分の知らないところで、どんな接触を許しているのか。
レギュラスは小瓶を握り締めた。
まるで、それが答えを握っているみたいに。
……他にも、隠しているものがあるのではないか。
暗い思考が静かに膨らんでいく。
アランの心は、どこまで自分に向いている?
どこから嘘で、どこまで本音なのか。
自分の知らない“影”が、どれほど入り込んでいるのか。
恐怖が喉もとを掴んだ。
小瓶を光にかざしたその指が、わずかに震えていることに、レギュラス自身気づいていなかった。
法務部の資料室——。
夜、ランプの灯りが揺れる静かな空間で、シリウスは積み上がった資料の山を片付けながら、ふと手が止まった。
《セラ・レヴィントン》
その名前を見た瞬間、脳裏のどこかがきりりと音を立てた。
……この名前、どこかで。
レギュラスが証人提出した“記憶の糸”。
あの男を逆転的に救い上げた、決定的な証拠。
そこに――確かにこの“女の記憶”が使われていた。
まさか……
シリウスは、その数日前を思い出す。
サンドイッチを買いに立ち寄った、あの魔法省近くのカフェ。
妖美な笑み。
大人の色気をまとった店員。
名札——セラ・レヴィントン。
……あの女だったのか。
背筋へ、ひやりと冷たい感触が走った。
レギュラスが、ああいうタイプの女と関わる?
信じられないと思う反面、彼の口にするはずのない女の名前を、レギュラスが議会で堂々と提出していた事実が、その疑問を強制的に現実へ変えていく。
調べると、彼女は混血の魔法使い。
シングルマザー。
……ありえない。あいつがそんな女を選ぶ?
純血主義の象徴とも言われるブラック家。
その中心にいるレギュラスが?
どれほど堕ちたとしても、
——あんな“半純血のシングルマザー”を、わざわざ関係に選ぶような男ではないはずだ。
シリウスは息を吐いた。
……わからねぇ。何がどうなってる。
その答えを知るため、シリウスは翌朝、迷わずカフェへ向かった。
昼時、店はほどよく賑わっていた。
シリウスはいつものように窓際へ行こうとしたが、ふと足を止めた。
——今日は違う。
セラのすぐ近く。
カウンター端の、あの席へ腰かけた。
女は気づいたとたん、くすりと笑った。
「兄弟揃って同じ席を選ぶのね。面白いわ。」
シリウスの肩がわずかに動く。
……兄弟? やっぱり気づいてたか。
セラの笑みには、妙な含みがある。
人を手玉に取り、弄び、揺さぶるような——大人の女特有の、妖しい柔らかさ。
シリウスはサンドイッチを受け取り、そのまま直球で投げた。
「——どういう関係だ?」
セラの眉が、少しだけ上がった。
「関係?」
「混血のシングルマザーが、純血の当主に恩を売るって、普通じゃねぇだろ。
あんたの記憶が、あいつを救ったんだ。あれは……どういうつもりだ?」
セラはすぐに答えない。
コーヒーをカップに注ぎ、その香りを楽しむように目を細める。
「ねぇ、あなたって……全然似てないのね。」
その言い方に、シリウスは内心で舌打ちした。
答えになってねぇ……。
ジェームズだったら、もう椅子を蹴ってるだろう。
そう思うと、この女のペースに乗ること自体が癪に障った。
セラはカウンターに手をつき、シリウスの目をのぞく。
「純血とか、身分とか……あなたたちは本当にそればかり。
でも、関係ってそんな簡単な言葉じゃ説明できないものよ。」
「……遊んでるのか?」
「遊んであげてるのよ。」
ぞくり、と背筋に冷気が走った。
この女は、レギュラスと自分の距離感を——
まるで掌の上に乗せて楽しんでいるようだった。
「わからない?」とセラ。
「あなたの弟はね、案外……脆いのよ。」
シリウスの表情が強張る。
「脆い?」
「ええ。崩れやすい。本気になりやすい。
あなたには、想像もつかないでしょうけれど。」
「……言ってる意味がわからねぇ。」
セラはまた、楽しげに笑う。
「そのうち、わかるわよ。あなたの大切な“義妹”の顔を見れば。」
その言葉にひそませた“含み”。
シリウスは、胸の奥に薄暗い嫌な予感がじわりと広がっていくのを感じた。
この女は、ただの証言者じゃない。
ただの店員でも、ただの情婦でもない。
——もっと複雑で、もっと危うくて、もっとレギュラスの急所に近い存在だ。
確信にも似た不安が、静かに膨れあがっていった。
レギュラスブラックの屋敷を訪れたあの日。
セラはアランに会わなかった。
いや、会いに行こうとは少しだけ思っていたのだ。
だが、証拠の“小瓶”を渡すという急務が優先され、
黒曜石のように冷えた屋敷の空気と、レギュラスの張り詰めた表情に、余計な一歩を踏み出すタイミングを逸してしまった。
——それでも、興味は消えない。
むしろ日を追うごとに濃くなっていった。
あのときレギュラスが見せた狼狽ぶり。
視線を泳がせ、頬を強張らせ、セラという名前を“うっかり”呼んでしまったこと。
あれは……可愛いくらいに焦ってたわね。
セラはカウンター拭きをしながら、あの瞬間を思い返して微笑む。
レギュラスの普段の落ち着きは、
——どんな男よりも冷静で、理性的で、汚れも傷も寄せつけない硬質な気配だ。
それが、あんなにも乱れるなんて。
あの女が、理由なのね。
アランブラック。
年若い。
声がなく、杖を使って会話をする。
肌は雪のように白く、儚さと神秘性を併せ持つ、不思議な存在感を放っていた。
そして何より——
レギュラスが、アランの前だと急に“少年のようになる”。
その変化を、セラは決して見逃していなかった。
カフェで初めてその女を見たとき。
アールグレイを出しただけで、アランはこちらをじっと見ていた。
あれは……品定めというより、察し。女の勘。
自分に警戒した、そんな顔だった。
セラの胸に、くすぐるような好奇心がゆっくりと膨らんでいく。
何がそんなに特別なの?
これが、セラの本音だった。
レギュラスは美しい。
背筋は伸び、礼儀正しく、頭は切れ、危ういほど冷静で——
そのくせ、女の身体を抱くときにはとんでもない熱を持つ。
大人の女を惹きつける色気。
少年のような孤独。
支配者の傲慢と、捨てられた子供の痛み。
……セラのような女が惹かれるには充分だった。
その彼が、あそこまで“乱れる”なんて。
どれほどの女なの…… アランブラック。
嫉妬ではない。
もっと純粋な“興味”。
男を狂わせる女に対する、同じ女としての本能的な探求心。
男を溺れさせるのは、どんな女か。
どんな顔をして泣くのか、笑うのか、怒るのか。
ただ、それを知りたいだけだった。
夜、店じまいの時間。
机を拭き、灯りを落としながら、セラはふと考える。
次は…… アランブラックに会いましょう。
レギュラスは今、“恩義”という手綱を首に巻かれている。
逃げられない。
彼は絶対に自分を拒めない。
ならば、アランに会いに行くことも止められない。
カフェで会ったとき、
アランの目はまるで“レギュラスを守る壁”みたいだった。
どんな顔をして私を見るのかしら。
気に入られるかどうかはどうでもいい。
ただ、レギュラスをあそこまで焦らせた女。
一度くらいは、まともに言葉を交わしてみたい。
「さて……どうやって、接触しましょうか。」
セラは軽く口角を上げながら、
黒いコートを羽織って店を出た。
——好奇心はもう、止まらない。
アランブラックという“謎”へ、女の影が静かに忍び寄っていく。
壁紙の褪せたモーテルの部屋。
かすれたランプが黄色く光り、夜気をしっとりと乗せたカーテンが微かに揺れている。
セラに指定されたその場所に、レギュラスは迷いながらも足を運んだ。
——借りがある。
——恩義を返さなければならない。
そんな理由を自分につけて。
だが、服を脱ぎかけた瞬間から、
彼は“返す側”ではなく、“飲み込まれる側”になっていた。
セラは笑っていた。
挑発的に、吸い寄せるように。
その指先は彼の胸をなぞり、爪の先で緩やかに皮膚をくすぐる。
「そんな顔して……本当に、追い込まれてたのね。」
低く囁かれる声が、体温を簡単に溶かしていく。
アランとは違う、圧倒的に“大人の女”の声。
レギュラスの理性は一瞬で溶け落ちた。
セラの体はしなやかで、触れれば熱があり、押し寄せれば受け止め返してくる。
——痛がらない。
——震えない。
——怯えない。
アランと違って。
アランの細い腰は必ず手加減を必要とした。
胸の下あたりに触れると、どこか傷の痛みが蘇ったように硬直することもあった。
だからレギュラスは常に緊張していた。
アランを抱く時は、愛と同時に恐怖があった。
だが今、目の前のセラは違う。
「もっと——来なさいよ、レギュラス。」
挑発的に唇を噛み、
腰を引き寄せ、
レギュラスの背に爪を立てる。
その瞬間、彼は身体の奥で何かが切れたように思った。
痛みを訴えない身体。
苦しそうに眉を寄せない身体。
声を持っていて、歓喜をあげてくれる身体。
アランには与えられないすべてが、ここにはあった。
セラの嬌声は、湿った空気を震わせて部屋に満ちる。
レギュラスはその音に思わず目を細めてしまう。
アランには声がない。
アランには“名前”を呼んでもらえない。
ただ、震える指先と、荒くなる呼吸と、焦点の合わない瞳でしか愛を返せない。
あの日のベッド。
アランの痛みに耐える沈黙。
口を開けても音にならない、苦しげで美しい呼吸。
もし……あの子に声があったなら。
呼んでくれたなら。
どれほど満たされるだろう。
そんな願望を抱いた瞬間、
胸がぎゅっと締めつけられる。
叶わないのだ。
絶対に。
その現実が、セラの声を余計に甘く、罪深く感じさせた。
「ねぇ、どこ見てるの?」
セラは湿った吐息をレギュラスの耳元へ落としながら、
ゆっくり彼の頬を指でつまんで正面に向ける。
「他の女のことなんて考えないで。
今、あなたが抱いてるのは“私”なんだから。」
瞳が笑っているのに、声は鋭く刺さる。
レギュラスは返事をしなかった。
だが、その沈黙さえセラには挑発に見えたらしい。
「ふふ……で、何を考えていたの?
そんな顔、奥さんには見せないんでしょうね?」
「……何も。」
「嘘。あなた、嘘が下手。」
そう言って、セラは彼の首に腕を絡め、
唇を深く奪った。
レギュラスは抵抗できなかった。
彼女の身体の温度に、本能があまりに素直に反応してしまう。
アランには絶対に求められることのない、
熱と、声と、強さ。
それがレギュラスをますます切なくさせた。
…… アラン。
名前を心の中だけで呼んだ。
罪悪感なのか、彼女への恋慕なのか、わからない。
だが確かなのは——
ここで得ている快楽は、ただの逃避だ。
アランの笑顔も、苦しみも、掌に残る温度も、ひとつも埋められない。
それなのに、肉体はセラを求めてしまう。
レギュラスは自分が壊れていく音を聞いていた。
ランプの弱い明かりが、行為のあとの湿った空気にじわりと溶け込んでいた。
乱れたシーツの上でまだ火照りの残るレギュラスは、深く息を整えようとしていた。
その背後で、セラがベッドの縁に腰を下ろし、ライターを鳴らす。
パチ、と小さな火花が上がる。
彼女の指先が軽く震え、細く長い煙がゆっくりと天井に登っていく。
夜のモーテル特有の静けさを、タバコの香りだけがかすかに汚していた。
セラは横目でレギュラスを見ながら、くゆる煙の向こうに微笑みを乗せる。
「ねぇ、レギュラス。
——アラン・ブラックって、どんな女なの?」
声は軽い。
けれど、問いの奥は決して浅くない。
レギュラスはその瞬間、体温より先に神経が冷える感覚を覚えた。
「……一度、カフェで見たでしょう。見た通りですよ。」
落ち着いた声を作りながら、喉の奥で硬く息を飲む。
アランの名が、この毒のような煙の中に持ち出されるのが気に入らなかった。
セラはタバコを唇から少し離し、揶揄うように目を細める。
「ふぅん。あの子……きれいだったわね。
ちょっと神様の彫った像みたいで。折れそうで。触ったら壊れそうで。」
レギュラスの肩がわずかに強張る。
セラはそれを逃さない。
「…… アランへの接触はやめてくださいね。」
静かだが、確実に低く沈んだ警告だった。
だがセラは驚くでも怯えるでもなく、むしろ楽しそうに笑う。
「やだ。怖い顔して。
取って食おうなんて思ってないわよ?」
煙を吐きながら、彼女は喉の奥でくすくすと笑う。
「純粋な興味よ。ただの“観察”。
あなたたち夫婦って……なんだか、とても……興味深いもの。」
その“興味深い”が何より危険だ。
この女の「純粋」は、刃物のように鋭い。
レギュラスは眉間に指を押し当てる。
深い吐息が胸の奥で渦巻く。
——セラを完全に拒むことはできない。
——恩がある。
——そして、身体の関係を持った事実が彼女を縛っている。
完全に強く出られるはずもない。
「……セラ。」
「ん?」と彼女は軽く振り向く。
「あなたの“興味”ほど恐ろしいものは、ない。」
セラは笑う。
妖艶に、勝ち誇るように。
「そう?褒め言葉として受け取っておくわ、レギュラス。」
レギュラスは口を閉じた。
それ以上言えば、この女の心をむしろ刺激してしまう。
だから、引き際を見極めるしかない。
だが、胸の奥で静かに広がる嫌な予感は消えなかった。
セラの“興味”の矛先がアランに向かったとき、何が起きるのか——
レギュラスには想像すらしたくなかった。
それでも、彼は一言も言えなかった。
セラに対して線を引くには、もう遅すぎる。
煙がゆっくりと上へ昇っていく。
レギュラスはぼんやりとその先を見上げながら、
胸の奥に沈んだ焦燥と罪悪感が、またひとつ深くなるのを感じていた。
夜の冷気がまだ外套にまとわりついていた。
モーテルを出てから屋敷に戻るまでのわずかな道のりが、やけに長く、そしてやけに静かに感じられた。
指先に残る余熱さえ、歩くほどに薄まっていく。
解放されたはずなのに、胸の奥は重かった。
セラの部屋で吐き出した欲望は、確かに“発散”だった。
久しぶりに本能のままに身体をぶつけ合い、声を貪り合い、抑え続けた衝動を燃やした。
——なのに、満足の余韻よりも、罪悪感のざらつきの方が濃い。
自分の中の獣が満足げに眠っている一方で、
夫として、父として、男としての自分が薄暗い場所に沈んでいく感覚。
だからこそレギュラスは、屋敷の門に入る前に深く息を吸い、
匂い消しの呪文を二度、三度、重ねがけした。
セラの香り、肌の熱、タバコの煙、指に残った甘い匂い——
アランに嗅ぎ取られるわけにはいかない。
目に見えない痕跡など、アランの前では一切許されなかった。
議会の勝利の余韻がまだ体に残っているのに、
どうしてか胸の奥がざわついて仕方がなかった。
扉を開けた瞬間、
風が頬を撫でていく。
——なにかが、おかしい。
それは本当に微細な“気配”だった。
目に見えない、けれど確かに在る。
この庭に似つかわしくない気配。
レギュラスは無意識に一歩踏み出す。
芝生の上、
さっきまで誰かがそこに立っていたような、
微かな魔力の揺らぎが残っていた。
冷たくも熱くもない。
けれど“強い”魔力の残滓。
ブラック家の者と同じ“血の色”を持った魔力。
その瞬間、脳裏でひとつの名前が浮かんだ。
——シリウス。
理由はない。
ただ、兄の魔力の気配は幼いころから嫌というほど染みついている。
それが、ここにある。
胸が静かに軋んだ。
レギュラスは庭の奥に視線を向ける。
アランがステラを抱き上げ、メイラと共に戻ってくるところだった。
アランの頬はいつもより赤く、
ステラは何かを思い出しているかのように笑っている。
——何があった?
その問いが喉の奥に渦を巻く。
「アラン。」
穏やかに名前を呼ぶ。
声はやわらかかったが、心臓は嫌なほど強く脈打っていた。
アランは杖を構え、いつも通り整った文字を描く。
『おかえりなさい、レギュラス。』
それはあまりに完璧で、
普段より“温度が欠落して”いた。
レギュラスは近づき、注意深くアランの瞳を見る。
翡翠色は揺れていなかった。
曇りも、恐怖も、言い訳も、嘘もない。
ただの平静。
ただの無。
だからこそ不自然だった。
「……ここに誰か、来ましたか?」
丁寧に問うた。
詰問ではなく、探索でもなく、
ただ真実だけを求める声で。
アランはほんの瞬きひとつ分の間を置いた。
そのわずかな空白ですら、レギュラスには刺さる。
そして杖が静かに動いた。
『いいえ。誰も。』
揺れない筆致。
微笑むでもなく、怯えるでもなく。
ただ淡々と。
——嘘かどうか、まったく読めない。
アランはただアランであった。
言葉を持たない無音の世界で、
完璧に感情を封じ込める術をもってしまった少女。
レギュラスは胸の奥で鋭い痛みを感じた。
問い詰めれば──壊してしまう、気がした。
決定的な証拠もない。
ただ「気配」があっただけだ。
兄の影など、魔力の残滓かもしれない。
風が運んだ幻かもしれない。
だが、疑念は静かに沈殿する。
「……そうですか。」
その答えに納得したふりをするしかなかった。
アランは柔らかく微笑む。
その笑みが、どこか“完成された仮面”のようで、
レギュラスは胸の内側から締め付けられるような痛みを覚える。
「疲れていませんか?」
問いながら手を伸ばし、アランの頬に触れた瞬間——
アランの体が僅かにこわばった。
ほんの、指先に伝わる微震。
だがその一瞬だけで、
レギュラスの心臓は大きく跳ねた。
「……寒いですね。中に入りましょう。」
優しく言いながら、
疑念を胸の奥深くへ押し込める。
アランは静かに頷いた。
ステラの笑い声が弾む庭に、
兄の残した気配だけが、
風のように薄く、けれど確かに漂っていた。
レギュラスはアランの手を握りながら、
心の奥で、小さく呟く。
——どうか、違っていてくれ。
その祈りは、誰にも届かない。
寝室に灯された小さなランプが、淡い橙色の光を壁に揺らしていた。
レギュラスはすでに眠っている。
規則正しい呼吸が、静寂の中にゆっくりと溶けていた。
アランはその隣で、ひとり膝を抱えて座っていた。
胸の奥がずきりと痛む。
それは身体の痛みではなく、心の奥深くを引き裂くような痛みだった。
——「男でも女でもいいんだ。お前が元気な子を産んでくれたら、それで嬉しい」
シリウスの言葉が、まるで温かい炎のように胸の中で何度も灯り、
そしてそのたびに、その火が自分の内側を焼いていく。
その言葉の真っ直ぐさ。
まるで自分の命そのものを尊重してくれるかのような優しさ。
そして“産まれる子の性別”に価値を置かない愛情。
アランの胸は熱くなり、気づけば手をぎゅっと押し当てていた。
——もし、自分がレギュラスの隣でなかったなら。
そう思った瞬間、息が止まった。
こんな考え、してはいけない。
それでも、
“もしも”の世界がひどく魅力的に見えてしまった。
もし違う世界なら。
もしレギュラスの名も、ブラック家の圧力も知らぬ世界で育っていたのなら——
子を身籠るという奇跡を、心の底から喜べたのだろうか。
天からの贈り物として、
神に感謝し、喜びに満ちた未来を信じられたのだろうか。
ステラを授かった日の幸福の予感。
ただそれだけを素直に受け止めることができただろうか。
そう考えた瞬間、
アランは自分の両肩を抱いた。
——でも。
レギュラスの隣でない未来なんて、自分には存在しない。
冷たい石の地下牢。
光の届かない闇の中、
鎖が擦れて肌が裂ける音しかしない世界。
魔力を吸い尽くされ、声さえ奪われ、
“封印”という名の呪いに縛られ続けた日々。
あの地獄から引き上げてくれたのは、
誰でもない。
レギュラスだった。
ただの救助ではない。
彼は自分を妻として迎え入れ、
名前を、立場を、日差しを、優しい寝具を、温かな食事を、
“人間として生きる権利”を与えてくれた。
アランは震える指で、レギュラスの寝息が聞こえる方へ視線を向けた。
——この人の隣でなかった世界なんて、ありえない。
それを考えるだけで、
とんでもない裏切りのように胸が潰れそうだった。
なのに、自分の心は一瞬でもその可能性に触れた。
レギュラスのいない未来に、
“もしあの優しい言葉をかけてくれる誰か”がいた世界に、
心が揺れた。
アランは片手で口元を押さえる。
声が出せない自分でさえ、
嗚咽という形で何かが零れ落ちてしまいそうだった。
どうして。どうして、あんなにも真っ直ぐに刺してくるのだろう、シリウスの言葉は。
どうして、
自分の命そのものを救ってくれたレギュラスの隣で、
そんなことを考えてしまうのだろう。
アランはそっとレギュラスの寝顔を見る。
長い睫毛、整った横顔、穏やかな寝息。
愛している。
この人の全てが、自分の世界だ。
それなのに——
心の深いところで別の声が囁く。
「どんな子でもいい。それより、お前が無事でいてくれたら。」
その言葉の温度が、アランの心を激しく揺さぶる。
許してほしい。
どうか、この揺らぎを誰にも見つからないように。
どうか、レギュラスがこの罪に気づきませんように。
アランは胸元を押さえ、
静かな闇の中、
膝を抱えたまま震える体を小さく丸めた。
魔法省法務部の朝。
階下から立ち昇る焙じ茶のような香ばしい香りと、活版機の重たい音が響く。
しかし、その空気の中心にいるレギュラス・ブラックの表情は、いささかも緩んでいなかった。
彼は机の上に積まれた山のような書類を淡々と仕分けながら、
もう片方の手で羽ペンを走らせていた。
——“中立”などという甘い幻想は今日で終わりだ。
ほんの数日の不在。
その間に法務部は「レギュラス不在の隙」を突かれ、
可決されるはずのない案件を山ほど処理され、
施錠も書類管理も崩壊し、
さらに狼人間の食殺リストにまで不正が混入された。
これらは“事件”ではない。
崩壊だった。
ゆえにレギュラスの結論は明確だった。
——法務部は、もう中立など許さない。
最初から最後まで、自分の掌の中で動かす。
そのため、彼はわずか3日で部内の重役の7割を入れ替えた。
能力の低い者、中途半端な正義感を振りかざす者、
騎士団派と微妙な繋がりを持つ者は容赦なく外し、
反対に実務能力が高く、闇の陣営寄りの価値観を持つ魔法使いを引き入れていった。
バーテミウスが小声で言う。
「いやぁ……すごいですね、レギュラス。
まさか、本当にここまで“味方”で固めるとは。」
レギュラスは書類の束を音もなく組み替えながら冷静に答えた。
「“味方”ではないですよ。
使える人間を優先しただけです。
結果的に身内が多くなっただけの話です。」
「いや、まぁ……そうでしょうけどねぇ……」
バーテミウスは肩を竦め、
しかしその口元には笑みが浮かんでいた。
本音では、この新体制がとても心地よかったのだろう。
とはいえ——。
「後処理がこんなにあるなんて、聞いてませんよ……」
テーブルの反対側ではバーテミウスが、
執務室に積まれた“可決取り消し案件”の山を見て呆れ果てていた。
その高さはまるで山脈のようで、書類越しにレギュラスが霞んで見えるほどだ。
「これ全部、今後“棄却”に回すんですか?
何十件、いや百近くありますよ?」
「ええ。僕が不在の間に“勝手に”通ったものですからね。当然、全部白紙です。」
レギュラスの声は淡々としていた。
まるで、この地獄のような業務量が
自分にとっては何でもない些事であるかのように。
「これからの法務部はやりやすくなりますよ。
“敵”も“裏切り者”も、ほぼ追い出しましたから。」
「そういうことではなく!
今目の前にある仕事がしんどいって話をしてるんですよ、私は!!」
バーテミウスがついに声を上げると、
レギュラスは珍しく笑いを押し殺したように唇を歪めた。
「文句を言わずに手を動かしたらどうです?
あなたの得意技でしょう。」
「褒めても何も出ませんけどね……!」
それでもバーテミウスは、
ぶつぶつ言いながらもペンを取り、
手際よく“棄却処理”を始める。
二人の机に、
羽ペンのさらさらとした音が静かに降り積もっていく。
この一見地味で膨大な作業の一つひとつが、
彼らにとっては再び法務部の権力を握り締めるための要だった。
レギュラスは、半ば無意識に額を押さえながら小さく息を吐く。
ほんの数日の不在。
その間に法務部は自分の想像以上に脆かった。
だからもう二度と——
こんな隙を与えるつもりはなかった。
「……でもまぁ、」
レギュラスが静かに呟く。
「アランのそばにいた時間は、何よりも価値がありました。
失ってもいいものと、失ってはいけないものの区別くらい、
僕もわかっているつもりです。」
その言葉にバーテミウスは顔を上げる。
「……なるほど。
じゃあ、今のこの地獄みたいな仕事量も“その代償”ってことですか。」
「そういうことです。」
レギュラスは淡く笑った。
その笑みは、疲労よりも、
大切なものを守れた満足感のほうが濃かった。
夜も深まり、法務部の執務室は書類の山と魔法の灯りだけが淡く揺れていた。
誰もいない廊下を見渡すと、灯りの魔法の明滅が、長い影を床に伸ばしている。
レギュラスの机の前には、まだ片付かない書類の束。
その横で椅子に背中を預け、伸びをしながらバーテミウスは嘆息した。
「……しかし、君は本当に頑丈ですね。
僕なんかもう三回は死んだ気がしてるんですが。」
「何を言ってるんです。あなたは少し喋りすぎただけでしょう。」
レギュラスは書類に視線を落としたまま淡々と返す。
そのやり取りはいつも通りだったが、
バーテミウスの視線は時折、レギュラスの横顔をじっと観察するように動いた。
……妙に丁寧なスーツの襟元。
……今日はいつもより整えている髪。
……そして、仕事が終わったにもかかわらず、心ここにあらずのような落ち着きのなさ。
バーテミウスは気づいていた。
レギュラスの心に、
“仕事以外の何か”がまとわりついていることに。
「レギュラス。」
「何です。」
「あなた最近、カフェで昼を買ってこないじゃないですか。」
手が止まった。
レギュラスの肩がほんのわずか、しかし確かに揺れた。
「……忙しいだけですよ。」
「それにしちゃあ、カフェの袋は書斎のゴミ箱に普通にありましたけど?」
鋭い指摘に、レギュラスは少しだけ息を呑んだ。
バーテミウスは椅子を回し、完全にレギュラスへ身体を向ける。
「あなたほどの用心深い男が、
わざわざ妻に知られないように袋を片付けるなんて、ありましたっけ?」
レギュラスは何も答えない。
だが沈黙こそが“答え”だった。
バーテミウスはひどくゆっくりと笑い出す。
「……あぁ、なるほどねぇ。」
「なにが、です。」
「いやいや。言わないでもいいですよ。」
バーテミウスは机に肘をつき、顎を手に乗せた。
「正直に言いましょう。
あのセラ・レヴィントンという女……なかなかに“気配”が強い。
ああいう女は、あなたのような男に絡んだら、簡単には離れませんよ。」
レギュラスの眉がピクリと動く。
「……やめてください。何もありません。」
「そう?あなたの『何も』は、信用できないんですよね。」
その言い方は、挑発のようでもあり、
親しい者の苦い忠告のようでもあった。
「あなた、セラの来訪にあんなに慌てていたでしょう。
あれは、ただの常連の来訪に見える態度ではありませんでしたよ?」
「……。」
「君が怯える顔なんて久しぶりに見ました。」
「怯えたわけではありません。」
「嘘が下手ですねぇ。妻には見せられない影がある、と。」
レギュラスの目がすっと鋭く細められた。
その瞳には、
“これ以上触れるな”
という暗い警告が宿った。
だがバーテミウスは退かない。
むしろ一歩踏み込んだ。
「レギュラス、僕はね。
あなたがどれほどアラン・ブラックを大事にしているかを知っています。」
レギュラスは微かに瞳を揺らした。
「……なら、なおさら黙っていてください。」
「だからこそ言ってるんですよ。
あなたのその影……妻は絶対に気づきます。」
もう気づかれているだろうに……
——その言葉は胸の内で飲み込んだ。
「セラ嬢は大人です。
良くも悪くも、あなたの“弱っている部分”に寄り添う女です。
そして、あなたが手を離せば、彼女はもっと深く食い込みます。」
静寂。
レギュラスの喉が、かすかに震えた。
「……バーテミウス。」
「はい。」
「あなたは、僕の何を見ているつもりですか。」
「全部ですよ。仕事も、戦略も、
そして……“あなたの崩れそうな部分”も。」
レギュラスは目を伏せた。
図星だった。
バーテミウスは淡く笑い、書類の山を指で叩いた。
「ま、忠告はしましたよ。
あなた自身がその“影”にどう向き合うかは、あなた次第です。」
さらりと言ったその声は軽い。
だが含む重さは、レギュラスの胸に鋭く突き刺さる。
レギュラスは静かに息を吐いた。
そして言う。
「……僕は、アランを失いません。」
「なら、影と遊ぶのはほどほどに。」
バーテミウスは笑ったが、
レギュラスは笑えなかった。
胸の奥に、小さな、しかし消えない恐怖が生まれてしまったからだ。
昼下がりの陽が、大通りの石畳にやわらかく落ちている。
魔法省の近くにある小さなカフェ——名前も気に留めないほどありふれた店だ。
それでも、シリウスは今日やけに腹が減って、流れでふらりとドアを押し開けた。
ベルの音が軽く響き、店内の温かな空気が一気に広がる。
香ばしいパンの匂い。
焼きたてサンドイッチの蒸気。
ミルクティーの甘ったるい香り。
なんの変哲もない昼下がり。
ただそれだけのはずなのに。
シリウスの足はカウンターの前でぴたりと止まった。
店員の胸元——そこに付けられたネームプレート。
《Sera Levington》
セラ・レヴィントン。
シリウスの眉がわずかに引き寄せられる。
……どっかで聞いた名前、だよな。
だが記憶の引き出しを開けても、空白ばかりが広がっていく。
何かに引っかかるのに、決定的な像はなにも出てこない。
その不気味さだけが、胸に薄く残った。
「いらっしゃいませ。
サンドイッチでしたら、あちらが焼き立てですよ。」
セラは柔らかく微笑んだ。
その微笑みは美しい——整った顔立ち。
だが、それ以上に“艶”があった。
妖美、という表現がぴたりと合うような。
……ジェームズは絶対こういうタイプ嫌いだな。
シリウスは瞬時にそう結論づけた。
気の強そうな女、他人を値踏みするように見ながらも、笑顔の裏に何か毒を隠している女——
ジェームズが最も信頼しないタイプ。
だが、シリウス自身はーー
学生時代の血が僅かに疼いた。
昔の俺なら、一回は軽く手ぇ出してみたいって思ってたかもしれねぇな……
そんな馬鹿げた感想を自嘲しながら、カウンターに向き直る。
焼きたてのハムサンドを受け取り、釣り銭をもらい、礼を言う。
そのとき。
セラの髪がわずかに揺れ、ほのかに香水の匂いがした。
近づくと、妙に記憶がざわついた。
セラ……レヴィントン……どこで……?
どうにも思い出せない。
もやのように浮かんでは消える名前。
シリウスはサンドイッチ片手に窓際の席に腰を下ろした。
外を歩く魔法使いたちと馬車を眺めながら、サンドイッチを一口かじる。
パンの柔らかさも味もしっかりとしている——
なのに、妙に味が頭に残らない。
ちくしょう……なんでこんな引っかかるんだ。
食事の手を止め、セラの働く姿を盗み見る。
髪を耳にかけ、カウンターの上を拭いたり、他の客に紅茶を出したり。
その仕草にはどこかゆっくりとした余裕がある。
彼女は時折、客の反応を測るように視線を送る。
掴む、放す、また少し掴む——
そんな波のような会話のリズム。
……誰に似てんだ?違う。誰の周囲に……?
一瞬、胸のどこかで冷たい電流が走った気がした。
だが、名前の輪郭は相変わらずぼやけている。
サンドイッチを再びかじったが、視線は自然とセラへ向かう。
店内の魔法ランプの光が、彼女の頬を淡く照らしている。
その横顔を見て——
何かがまた、かすかに脳裏を掠めた。
なんなんだ……どこだ……
その“どこかで聞いた名前”が、
たった数週間前、新聞の隅に載った写真の中か、
それとも誰かの口から出た名前なのか——
思い出せない。
ただ、胸がざわつく。
落ち着かない。
理由もわからないまま、背筋が冷たくなっていく。
サンドイッチを食べ終わっても、
名前は記憶の表面へ浮かんでこなかった。
しかし一つだけ確かなのは、
“セラ・レヴィントン”という名が、これで済むはずがない。
そんな“悪い予感”だけが、
シリウスの胸に小さく、だが鋭く刺さったまま残った。
午後の柔らかな陽が、ブラック家の広い窓辺から差し込んでいた。
アランは寝台の上に身を預け、薄く膨らみ始めた腹をそっと撫でながら、小瓶から取り出した“何か”を口へ運んでいた。
それは淡い金色をした固形の何か。
乾燥ハーブのようにも見え、しかし魔法薬の材料の一部にも見えなくもない。
はっきりとしたものではなかった。
書斎から戻ってきたレギュラスは、それを見た瞬間動きを止めた。
空気がわずかに冷えたような気がした。
「……アラン。何です? これ。」
声は低く、抑えていながらも冷気を含んでいた。
アランはふと手を止め、レギュラスを見る。
レギュラスは一歩、二歩と近づき、アランの指先からその小瓶を奪うようにして取って覗き込む。
魔法省で鍛えたその目は、即座に“屋敷の正式な調達品ではない”と判断した。
「変なものは口にしない方がいいです。」
低い声が寝室に落ちた。
その声音に、そばにいたメイラがハッとして顔を上げる。
「あ、あのっ……!」
「これは……先日、私が市場で買ってきたものなんです。妊婦さんの滋養強壮に効くと聞いて……!」
メイラは慌てて言葉を重ねた。
アランのために、少しでも良いものを——そう思って選んだのだろう。
その表情には純粋な善意だけが滲んでいた。
しかしレギュラスの反応は、冷酷なほど鋭かった。
「……そうですか。」
一瞬だけ、唇の端がかすかに上がった。
笑った、というより“感情を隠すために形だけ口角を動かした”。
そんな笑みだった。
「では、すべて処分を。
アランが口にするものは——屋敷が正式に管理したものだけにします。」
有無を言わせない、完全な命令の語調。
「ご、ごめんなさい……」
メイラの声は濡れた。
アランはすぐに杖を取り、レギュラスの前へそっと掲げた。
その瞳は、まるで小さな光を灯すように優しく揺れていた。
《そんな言い方をしないで。
私の体を案じてくれただけです》
レギュラスはその文字を見つめる。
その一文字一文字が、まるで彼の心へ鋭く刺さるようだった。
「……ええ、わかっています。」
苦く息を吐き出すように言う。
「ですが、市場のものが安全である保証などどこにもありません。
なにが混じっているか……知っているでしょう?」
その“知っているでしょう”という最後の一言が、痛烈だった。
アランの過去を思えば、言葉にせずとも理解できてしまう。
メイラは項垂れ、唇を噛む。
レギュラスは、そんな彼女にふと視線を移した。
その目には冷たさが戻っていたが、その奥底に——かすかなためらいが見えた。
「……メイラ。」
呼ばれた少女はびくりと肩を震わせる。
「市場へ行くのなら——ノクターン横丁には近づかないことです。
柄の悪いごろつきが屯しています。
あそこは、あなたのような子が行くべき場所ではありません。」
「は、はい……。気をつけます……」
そのとき、メイラの表情が少し緩んだ。
怒られた恥ずかしさと、身を案じてもらえた安堵が混ざった、複雑な笑顔。
アランはその様子を見て、ほっと息を吐く。
——いささか強引ではあるが、レギュラスはメイラを気にかけている。
アランにはそれがわかる。
レギュラスは小瓶をもう一度見下ろした。
光に透かして、中身を揺らす。
表情には出さなかったが——
胸の内では冷たい不安がゆっくり広がっていた。
…一体何を口にさせられそうになっていた?
アランの体に、子に、万一でも危険があったら……
その想像にざらつく焦りが喉を焼いた。
アランは杖で言葉を書かない。
ただ静かにレギュラスを見つめていた。
その視線だけが、今日いちばんの痛みとなってレギュラスの胸に落ちていった——。
深夜。屋敷の廊下はしんと静まり返り、寝室の扉の向こうからはアランとステラの穏やかな寝息がかすかに流れていた。
レギュラスはそっと寝室を出て、灯りを最小限に落とした書斎へ向かった。
机に置いたのは、昼間アランが口にしていた、あの小瓶。
淡い金色の粒が、月明かりを反射してかすかな光を返している。
瓶をひねり開けた瞬間、ほのかに土と木の香りが混じったような、異国の匂いが漂った。
……これは。魔法薬の匂いではない。
レギュラスは杖を取り、静かに解析呪文をかける。
瓶の上空に淡い青白い光が生まれ、成分の一覧が文字となって浮かび上がっていく。
《当帰》
《杜仲》
《黄耆》
《枸杞子》
《茯苓》
見たことのない表記が並ぶ。
レギュラスは眉をひそめ、辞典を引き寄せる。
分厚い外国魔法植物辞典をめくり、さらに、マグル医学書物の輸入版をとり出して照らし合わせる。
ページをめくるたび、胸の内にひやりとしたものが広がっていく。
——これは東洋の薬剤だ。
魔法界ではまず扱わない。
マグル界経由でなければ手に入らない。
辞書の解説が静かに語りかけてくる。
「……漢方薬、などと言うのか。」
低く呟く。
その声はわずかに震えていた。
ここに並んだ生薬は、妊婦の身体を温め、気血を補うものばかり。
——危険性はない。むしろ、身体の弱い者に優しい効能だった。
それが逆に、レギュラスの胸を締め付けた。
……メイラが市場で買った、と言っていたが。
市場で?
この国のどこに、こんな高度で純度の高い東洋薬を扱う店がある。
さらに輸入も制限されている以上、市場どころか魔法薬店ですら取り扱えないものだ。
——メイラの説明は嘘だ。
しかし少女はアランを想って行動しただけ。
アランの前で、あの優しい少女に真実を吐かせる?
それは絶対に出来ない。
つまり、こうなる。
…… アランは誰かから渡されたものを、メイラの買い物だと言い換えた。
胸がざわり、と音を立てる。
冷たい汗が背を伝って落ちていく。
——誰だ。
この薬を渡せる者。
マグル界との往来が可能な者。
アランが嘘をついてまで庇うような者。
その条件が、ひとりの名を静かに浮かび上がらせた。
……シリウス。
レギュラスは机に手をつき、目を閉じた。
先日、庭に確かに感じた気配。
アランは否定したが、あれは——兄の気配以外の何ものでもなかった。
そして今日、アランが薬を口にする時の、どこか後ろめたいような、しかし覚悟したような静かな表情。
……顔色ひとつ変えずに、嘘をつけるのか。
胸が深く軋んだ。
まるで心臓が爪で引っ掻かれるような痛み。
アランは、いつだって表情を優しく整える。
声を持たない彼女の代わりに、感情は瞳に宿るはずなのに。
——あの日の彼女の瞳は、深く、静かで、沈んでいた。
シリウスが再びアランのそばへ現れたのか?
アランは彼の言葉を受け取ったのか?
他にも……自分の知らないところで、どんな接触を許しているのか。
レギュラスは小瓶を握り締めた。
まるで、それが答えを握っているみたいに。
……他にも、隠しているものがあるのではないか。
暗い思考が静かに膨らんでいく。
アランの心は、どこまで自分に向いている?
どこから嘘で、どこまで本音なのか。
自分の知らない“影”が、どれほど入り込んでいるのか。
恐怖が喉もとを掴んだ。
小瓶を光にかざしたその指が、わずかに震えていることに、レギュラス自身気づいていなかった。
法務部の資料室——。
夜、ランプの灯りが揺れる静かな空間で、シリウスは積み上がった資料の山を片付けながら、ふと手が止まった。
《セラ・レヴィントン》
その名前を見た瞬間、脳裏のどこかがきりりと音を立てた。
……この名前、どこかで。
レギュラスが証人提出した“記憶の糸”。
あの男を逆転的に救い上げた、決定的な証拠。
そこに――確かにこの“女の記憶”が使われていた。
まさか……
シリウスは、その数日前を思い出す。
サンドイッチを買いに立ち寄った、あの魔法省近くのカフェ。
妖美な笑み。
大人の色気をまとった店員。
名札——セラ・レヴィントン。
……あの女だったのか。
背筋へ、ひやりと冷たい感触が走った。
レギュラスが、ああいうタイプの女と関わる?
信じられないと思う反面、彼の口にするはずのない女の名前を、レギュラスが議会で堂々と提出していた事実が、その疑問を強制的に現実へ変えていく。
調べると、彼女は混血の魔法使い。
シングルマザー。
……ありえない。あいつがそんな女を選ぶ?
純血主義の象徴とも言われるブラック家。
その中心にいるレギュラスが?
どれほど堕ちたとしても、
——あんな“半純血のシングルマザー”を、わざわざ関係に選ぶような男ではないはずだ。
シリウスは息を吐いた。
……わからねぇ。何がどうなってる。
その答えを知るため、シリウスは翌朝、迷わずカフェへ向かった。
昼時、店はほどよく賑わっていた。
シリウスはいつものように窓際へ行こうとしたが、ふと足を止めた。
——今日は違う。
セラのすぐ近く。
カウンター端の、あの席へ腰かけた。
女は気づいたとたん、くすりと笑った。
「兄弟揃って同じ席を選ぶのね。面白いわ。」
シリウスの肩がわずかに動く。
……兄弟? やっぱり気づいてたか。
セラの笑みには、妙な含みがある。
人を手玉に取り、弄び、揺さぶるような——大人の女特有の、妖しい柔らかさ。
シリウスはサンドイッチを受け取り、そのまま直球で投げた。
「——どういう関係だ?」
セラの眉が、少しだけ上がった。
「関係?」
「混血のシングルマザーが、純血の当主に恩を売るって、普通じゃねぇだろ。
あんたの記憶が、あいつを救ったんだ。あれは……どういうつもりだ?」
セラはすぐに答えない。
コーヒーをカップに注ぎ、その香りを楽しむように目を細める。
「ねぇ、あなたって……全然似てないのね。」
その言い方に、シリウスは内心で舌打ちした。
答えになってねぇ……。
ジェームズだったら、もう椅子を蹴ってるだろう。
そう思うと、この女のペースに乗ること自体が癪に障った。
セラはカウンターに手をつき、シリウスの目をのぞく。
「純血とか、身分とか……あなたたちは本当にそればかり。
でも、関係ってそんな簡単な言葉じゃ説明できないものよ。」
「……遊んでるのか?」
「遊んであげてるのよ。」
ぞくり、と背筋に冷気が走った。
この女は、レギュラスと自分の距離感を——
まるで掌の上に乗せて楽しんでいるようだった。
「わからない?」とセラ。
「あなたの弟はね、案外……脆いのよ。」
シリウスの表情が強張る。
「脆い?」
「ええ。崩れやすい。本気になりやすい。
あなたには、想像もつかないでしょうけれど。」
「……言ってる意味がわからねぇ。」
セラはまた、楽しげに笑う。
「そのうち、わかるわよ。あなたの大切な“義妹”の顔を見れば。」
その言葉にひそませた“含み”。
シリウスは、胸の奥に薄暗い嫌な予感がじわりと広がっていくのを感じた。
この女は、ただの証言者じゃない。
ただの店員でも、ただの情婦でもない。
——もっと複雑で、もっと危うくて、もっとレギュラスの急所に近い存在だ。
確信にも似た不安が、静かに膨れあがっていった。
レギュラスブラックの屋敷を訪れたあの日。
セラはアランに会わなかった。
いや、会いに行こうとは少しだけ思っていたのだ。
だが、証拠の“小瓶”を渡すという急務が優先され、
黒曜石のように冷えた屋敷の空気と、レギュラスの張り詰めた表情に、余計な一歩を踏み出すタイミングを逸してしまった。
——それでも、興味は消えない。
むしろ日を追うごとに濃くなっていった。
あのときレギュラスが見せた狼狽ぶり。
視線を泳がせ、頬を強張らせ、セラという名前を“うっかり”呼んでしまったこと。
あれは……可愛いくらいに焦ってたわね。
セラはカウンター拭きをしながら、あの瞬間を思い返して微笑む。
レギュラスの普段の落ち着きは、
——どんな男よりも冷静で、理性的で、汚れも傷も寄せつけない硬質な気配だ。
それが、あんなにも乱れるなんて。
あの女が、理由なのね。
アランブラック。
年若い。
声がなく、杖を使って会話をする。
肌は雪のように白く、儚さと神秘性を併せ持つ、不思議な存在感を放っていた。
そして何より——
レギュラスが、アランの前だと急に“少年のようになる”。
その変化を、セラは決して見逃していなかった。
カフェで初めてその女を見たとき。
アールグレイを出しただけで、アランはこちらをじっと見ていた。
あれは……品定めというより、察し。女の勘。
自分に警戒した、そんな顔だった。
セラの胸に、くすぐるような好奇心がゆっくりと膨らんでいく。
何がそんなに特別なの?
これが、セラの本音だった。
レギュラスは美しい。
背筋は伸び、礼儀正しく、頭は切れ、危ういほど冷静で——
そのくせ、女の身体を抱くときにはとんでもない熱を持つ。
大人の女を惹きつける色気。
少年のような孤独。
支配者の傲慢と、捨てられた子供の痛み。
……セラのような女が惹かれるには充分だった。
その彼が、あそこまで“乱れる”なんて。
どれほどの女なの…… アランブラック。
嫉妬ではない。
もっと純粋な“興味”。
男を狂わせる女に対する、同じ女としての本能的な探求心。
男を溺れさせるのは、どんな女か。
どんな顔をして泣くのか、笑うのか、怒るのか。
ただ、それを知りたいだけだった。
夜、店じまいの時間。
机を拭き、灯りを落としながら、セラはふと考える。
次は…… アランブラックに会いましょう。
レギュラスは今、“恩義”という手綱を首に巻かれている。
逃げられない。
彼は絶対に自分を拒めない。
ならば、アランに会いに行くことも止められない。
カフェで会ったとき、
アランの目はまるで“レギュラスを守る壁”みたいだった。
どんな顔をして私を見るのかしら。
気に入られるかどうかはどうでもいい。
ただ、レギュラスをあそこまで焦らせた女。
一度くらいは、まともに言葉を交わしてみたい。
「さて……どうやって、接触しましょうか。」
セラは軽く口角を上げながら、
黒いコートを羽織って店を出た。
——好奇心はもう、止まらない。
アランブラックという“謎”へ、女の影が静かに忍び寄っていく。
壁紙の褪せたモーテルの部屋。
かすれたランプが黄色く光り、夜気をしっとりと乗せたカーテンが微かに揺れている。
セラに指定されたその場所に、レギュラスは迷いながらも足を運んだ。
——借りがある。
——恩義を返さなければならない。
そんな理由を自分につけて。
だが、服を脱ぎかけた瞬間から、
彼は“返す側”ではなく、“飲み込まれる側”になっていた。
セラは笑っていた。
挑発的に、吸い寄せるように。
その指先は彼の胸をなぞり、爪の先で緩やかに皮膚をくすぐる。
「そんな顔して……本当に、追い込まれてたのね。」
低く囁かれる声が、体温を簡単に溶かしていく。
アランとは違う、圧倒的に“大人の女”の声。
レギュラスの理性は一瞬で溶け落ちた。
セラの体はしなやかで、触れれば熱があり、押し寄せれば受け止め返してくる。
——痛がらない。
——震えない。
——怯えない。
アランと違って。
アランの細い腰は必ず手加減を必要とした。
胸の下あたりに触れると、どこか傷の痛みが蘇ったように硬直することもあった。
だからレギュラスは常に緊張していた。
アランを抱く時は、愛と同時に恐怖があった。
だが今、目の前のセラは違う。
「もっと——来なさいよ、レギュラス。」
挑発的に唇を噛み、
腰を引き寄せ、
レギュラスの背に爪を立てる。
その瞬間、彼は身体の奥で何かが切れたように思った。
痛みを訴えない身体。
苦しそうに眉を寄せない身体。
声を持っていて、歓喜をあげてくれる身体。
アランには与えられないすべてが、ここにはあった。
セラの嬌声は、湿った空気を震わせて部屋に満ちる。
レギュラスはその音に思わず目を細めてしまう。
アランには声がない。
アランには“名前”を呼んでもらえない。
ただ、震える指先と、荒くなる呼吸と、焦点の合わない瞳でしか愛を返せない。
あの日のベッド。
アランの痛みに耐える沈黙。
口を開けても音にならない、苦しげで美しい呼吸。
もし……あの子に声があったなら。
呼んでくれたなら。
どれほど満たされるだろう。
そんな願望を抱いた瞬間、
胸がぎゅっと締めつけられる。
叶わないのだ。
絶対に。
その現実が、セラの声を余計に甘く、罪深く感じさせた。
「ねぇ、どこ見てるの?」
セラは湿った吐息をレギュラスの耳元へ落としながら、
ゆっくり彼の頬を指でつまんで正面に向ける。
「他の女のことなんて考えないで。
今、あなたが抱いてるのは“私”なんだから。」
瞳が笑っているのに、声は鋭く刺さる。
レギュラスは返事をしなかった。
だが、その沈黙さえセラには挑発に見えたらしい。
「ふふ……で、何を考えていたの?
そんな顔、奥さんには見せないんでしょうね?」
「……何も。」
「嘘。あなた、嘘が下手。」
そう言って、セラは彼の首に腕を絡め、
唇を深く奪った。
レギュラスは抵抗できなかった。
彼女の身体の温度に、本能があまりに素直に反応してしまう。
アランには絶対に求められることのない、
熱と、声と、強さ。
それがレギュラスをますます切なくさせた。
…… アラン。
名前を心の中だけで呼んだ。
罪悪感なのか、彼女への恋慕なのか、わからない。
だが確かなのは——
ここで得ている快楽は、ただの逃避だ。
アランの笑顔も、苦しみも、掌に残る温度も、ひとつも埋められない。
それなのに、肉体はセラを求めてしまう。
レギュラスは自分が壊れていく音を聞いていた。
ランプの弱い明かりが、行為のあとの湿った空気にじわりと溶け込んでいた。
乱れたシーツの上でまだ火照りの残るレギュラスは、深く息を整えようとしていた。
その背後で、セラがベッドの縁に腰を下ろし、ライターを鳴らす。
パチ、と小さな火花が上がる。
彼女の指先が軽く震え、細く長い煙がゆっくりと天井に登っていく。
夜のモーテル特有の静けさを、タバコの香りだけがかすかに汚していた。
セラは横目でレギュラスを見ながら、くゆる煙の向こうに微笑みを乗せる。
「ねぇ、レギュラス。
——アラン・ブラックって、どんな女なの?」
声は軽い。
けれど、問いの奥は決して浅くない。
レギュラスはその瞬間、体温より先に神経が冷える感覚を覚えた。
「……一度、カフェで見たでしょう。見た通りですよ。」
落ち着いた声を作りながら、喉の奥で硬く息を飲む。
アランの名が、この毒のような煙の中に持ち出されるのが気に入らなかった。
セラはタバコを唇から少し離し、揶揄うように目を細める。
「ふぅん。あの子……きれいだったわね。
ちょっと神様の彫った像みたいで。折れそうで。触ったら壊れそうで。」
レギュラスの肩がわずかに強張る。
セラはそれを逃さない。
「…… アランへの接触はやめてくださいね。」
静かだが、確実に低く沈んだ警告だった。
だがセラは驚くでも怯えるでもなく、むしろ楽しそうに笑う。
「やだ。怖い顔して。
取って食おうなんて思ってないわよ?」
煙を吐きながら、彼女は喉の奥でくすくすと笑う。
「純粋な興味よ。ただの“観察”。
あなたたち夫婦って……なんだか、とても……興味深いもの。」
その“興味深い”が何より危険だ。
この女の「純粋」は、刃物のように鋭い。
レギュラスは眉間に指を押し当てる。
深い吐息が胸の奥で渦巻く。
——セラを完全に拒むことはできない。
——恩がある。
——そして、身体の関係を持った事実が彼女を縛っている。
完全に強く出られるはずもない。
「……セラ。」
「ん?」と彼女は軽く振り向く。
「あなたの“興味”ほど恐ろしいものは、ない。」
セラは笑う。
妖艶に、勝ち誇るように。
「そう?褒め言葉として受け取っておくわ、レギュラス。」
レギュラスは口を閉じた。
それ以上言えば、この女の心をむしろ刺激してしまう。
だから、引き際を見極めるしかない。
だが、胸の奥で静かに広がる嫌な予感は消えなかった。
セラの“興味”の矛先がアランに向かったとき、何が起きるのか——
レギュラスには想像すらしたくなかった。
それでも、彼は一言も言えなかった。
セラに対して線を引くには、もう遅すぎる。
煙がゆっくりと上へ昇っていく。
レギュラスはぼんやりとその先を見上げながら、
胸の奥に沈んだ焦燥と罪悪感が、またひとつ深くなるのを感じていた。
夜の冷気がまだ外套にまとわりついていた。
モーテルを出てから屋敷に戻るまでのわずかな道のりが、やけに長く、そしてやけに静かに感じられた。
指先に残る余熱さえ、歩くほどに薄まっていく。
解放されたはずなのに、胸の奥は重かった。
セラの部屋で吐き出した欲望は、確かに“発散”だった。
久しぶりに本能のままに身体をぶつけ合い、声を貪り合い、抑え続けた衝動を燃やした。
——なのに、満足の余韻よりも、罪悪感のざらつきの方が濃い。
自分の中の獣が満足げに眠っている一方で、
夫として、父として、男としての自分が薄暗い場所に沈んでいく感覚。
だからこそレギュラスは、屋敷の門に入る前に深く息を吸い、
匂い消しの呪文を二度、三度、重ねがけした。
セラの香り、肌の熱、タバコの煙、指に残った甘い匂い——
アランに嗅ぎ取られるわけにはいかない。
目に見えない痕跡など、アランの前では一切許されなかった。
