2章
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その夜、セラはふたつのシフトを終え、薄暗い飲み屋のカウンターを雑巾でゆっくりゆっくり拭いていた。
夜は魔法族だけでなくマグルも紛れ込んでくる、治安の悪い界隈だ。
酔いと欲と、どうしようもない愚かさが渦を巻く場所。
そんな中、ふらついた魔法使いの男たちが大声で笑い合っていた。
そのうちの一人――酒臭い息を吐きながら豪語する男の言葉に、セラは手を止めた。
「あの鉄仮面のレギュラスブラック、今回は潰れるぞ」
「マグル食殺のリストに紛れ込ませたのは俺だからな」
「奴は終わりだ。ざまあみろ……!」
セラの胸の奥で、何か氷のようなものが静かに鳴った。
……やっぱり。あれは“偶然”なんかじゃなかったわけね
彼が漏らした情報、その姿、その声――その場に流れた空気すらすべて、セラは迷いなく“記憶の糸”として吸い上げ、小瓶に封じ込めた。
それをどこへ持っていくべきか。
答えは最初から決まっていた。
夜明けがまだ浅い頃、
セラは薄い青の空の下、ブラック家の巨大な屋敷門を迷いなく叩いた。
冷たい金属を叩く音が、朝の静寂に溶けていく。
やがて、屋敷しもべ妖精が現れ、目を丸くする。
「なんでございましょう? 混血のご婦人が、朝のこの時間に……」
「レギュラス・ブラックに取り次いでもらえるかしら。セラ・レヴィントンよ」
凛と告げると、しもべ妖精は軽く震えながら屋敷の奥へと消えていった。
ほんの数十秒後――
レギュラスは階段を駆け下りるような勢いで現れた。
その顔には、驚愕と焦燥の色が濃かった。
まるで、“最も来てほしくない瞬間に最も来てほしくない相手が来た”とでも言うような。
「セラ……何事です?」
声は低く、硬い。
ああ、この顔。この緊張。
やっぱりあなたは今、追い込まれているのね
セラは胸の奥で静かに笑った。
「あなた、そんな顔していいのかしら?」
セラは艶のある瞳を細め、からかうように言った。
「この家の坊ちゃんが、今“とんでもなく逼迫してる”って、みんな噂しているわよ」
「……なぜ、それを知ってるんです」
レギュラスの声が、微かに震えた。
その震えには、怒りでも恐れでもない。
“希望と警戒の入り混じった色”――そんな危うさがあった。
セラはためらわず、小瓶をレギュラスの胸元へ差し出す。
透明な瓶の中で、銀色の記憶の糸がゆらりと揺れていた。
「ここに、あなたを陥れようとした男の記憶が入ってるわ。あの事件……あなたを潰すために、誰かが意図的にリストを改竄した。
その証拠よ」
レギュラスの瞳孔がわずかに開いた。
息が止まるような沈黙。
「……セラ。これは……なぜ、あなたが?」
「感謝しなさい、お坊ちゃん」
セラは軽く笑い、頬へ髪を払う仕草をした。
その横顔は、誰にも読めない大人の女の顔だった。
「取引じゃないわ。代わりに何かを求めてるわけでもない。
ただ……あなたが、私に“借り”を作ったってことだけは、忘れないで」
柔らかい声の裏には、鋭い爪のような意図が潜んでいた。
レギュラスは目の奥に複雑な影を落とした。
小瓶を握る手が、ほんのわずかに強くなる。
「セラ……」
「じゃあ仕事があるの。帰るわね」
セラは踵を返し、朝の光の中へと歩み出た。
振り返ることなく、しかしその背中は確かに語っていた。
―この借り、いずれ必ず“効いてくる”。
ブラック家の門が音を立てて閉じる。
その瞬間、レギュラスは小瓶を胸に抱え込むように握りしめ、深く息を吐いた。
彼は理解した。
これは恩義であり、枷であり、鎖だった。
そして――
セラ・レヴィントンという女は、ただの気楽な相手ではなくなったのだ。
その日の議会は、いつも以上に重々しい空気に包まれていた。
壁を覆う古い石の肌が、まるで今にも崩れそうなほどの静かな圧力を帯びている。
扉が開き、レギュラス・ブラックが姿を現した瞬間――
ざわり、と空気が変わった。
美しい所作。
無駄のない歩幅。
冷静に整えられた表情。
まるで今日の議会が“単なる日常の一部”だと言わんばかりの存在感。
ジェームズは奥歯を強く噛み、舌の奥に鉄の味を感じた。
……来たな、悪魔が
レギュラスは席に着くなり、議長からの開会の呼びかけを受け、
静かに立ち上がった。
その姿は、騒動の中心にいるとは到底思えないほど澄んでいた。
「まず、ここ数日の可決における不自然な速度についてご説明いたします」
レギュラスは淡々と語り始めた。
「私は妻の懐妊に伴い職務を一時的に離れておりました。その間、法務部内では複数の案件が停滞し、期限の迫る書類も山積していたことを確認しております」
議会がざわめく前に、彼は続けた。
「そこで私が留守の間、部下に“期限切れギリギリの案件を優先し、明確な差し戻し理由がなければ臨時で可決してよい”と指示していたことを忘れておりました。結果として、可決が集中してしまった。私の采配不足です」
会場が静まる。
まるで“本当にそうだった”かのような、隙のない論理だった。
「さらに、その判断を誤った者たちにはすでに処分を下しています。
地方への人事異動、職務評価の見直し、減給。
責任はすべて法務部内で完了しております」
まるで舞台の台詞のように流れる滑らかな説明。
ジェームズはこめかみを押さえた。
…誤魔化しじゃかないか。全部ただの言い訳だろうに……
だが、議員たちの目には、
それは“非常に筋の通った内部処理”として映ってしまう。
レギュラスは絶妙だった。
自分には一切の非がないように見せ、
しかし“完璧ではない人間味”を演出しつつ、
責任は確実に部下へ落としていく。
計算し尽くされていた。
……殺したいほどムカつく
ジェームズは拳を握り、爪が掌に食い込むのを感じた。
議会の空気が重く沈む。
一番の争点が、この場に影を落としていた。
レギュラスは深く頭を下げ、件のリスト改竄の話に触れた。
「この件については、法務部の重大な不祥事として重く受け止めております。しかし、先ほどの可決案件とは異なり、こちらは“故意の犯罪行為”だと判明しました」
静まり返る議会室。
「昨夜、ある酒場にて──
法務部職員のひとりが“泥酔状態で犯行を自白していた”という記憶の証拠を手に入れました」
ジェームズは首を振る。
心臓が嫌な音を立てた。
まさか……そんな“偶然”が……
レギュラスは小瓶を掲げる。
「これです。この職員が、金銭と私情によって法務部の信用を陥れようと企んだ記憶の糸です。
この職員は本日付で拘束し、記憶照合後に処罰いたします」
議会がどよめいた。
レギュラスは小瓶を議会の中央へ置き、
一歩下がって深く一礼する。
「この不祥事は私の管理不足から生まれました。
しかし、悪意の中心は明確です。
どうか、魔法省全体の信用を守るためにも、
迅速な調査と処罰を認めていただきたい」
完璧だった。
敵に罪をなすりつけることも、
自らの落ち度を“管理”という形に変換することも、
そして“議会に味方している”ように見せることも。
すべてが、美しいほどに完璧だった。
ふざけるな……ふざけるな……!
ジェームズは歯をはぎしりし、首筋に浮いた血管が脈打つ。
狼人間リストの件は、
自分が金を握らせた法務部職員にやらせた工作だった。
だが、その職員は酔って口を滑らせ、
その記憶を“誰か”に吸い上げられ、
そして今こうして議会に晒されている。
あの馬鹿……!
酒に弱いくせに調子に乗りやがって……!
今殺すべきはレギュラスじゃなくて、あの口の軽い間抜けだ……!
視界の端でレギュラスが一礼し、席へ戻る。
冷静で、静かで、優雅で。
まるで“勝つことを確信している者”の歩みだった。
ジェームズの拳は震えていた。
…絶対に潰す。
どんな手を使ってでも……)
魔法省全体を巻き込んだ監査騒動の翌日。
アランは夜の寝室で、レギュラスとバーテミウスが一睡もせず、
積み上がった書類と向き合い続けていた姿を覚えていた。
紙をめくる乾いた音。
低く押し殺した声。
必死に整合性をつけようとする焦りと苛立ち。
ふたりの会話の中に、耳を塞ぎたくなる言葉が紛れていた。
――“誰かを立て替える”
――“記憶を作り直す”
――“罪を被らせるしかない”
冷たい戦略。
過去にアランを震え上がらせた、あの残酷な手法。
メイラの父親がマグル孤児院大量虐殺の罪を着せられ、アズカバンへ送られたあの日から、
レギュラスの“闇のやり方”だけは、今でも喉の奥を締めつけるように怖かった。
また……繰り返すのだろうか
胸に小さな命を宿しながら、アランはそっと腹に手を当てた。
震えが止まらない。
だが今日、魔法法廷が開かれる。
レギュラスは出廷し、すべての説明を行うという。
アランは椅子から立ち上がるたび、体がじくじくと痛んだ。
それでも行かなければと思った。
……見なければ。
彼が、どれほどの罪を背負っていくのか。
誰を犠牲にしたのか……確かめなければ
メイラはそんなアランの決意を知ってか知らずか、小さな体で必死に支えてくれていた。
「アランさん、体キツくなったら言ってくださいね。すぐ戻りましょう」
アランはメイラの手を握り返す。
その手は温かく、自分よりもずっと強い気がした。
法廷までの道は苦しかった。
屋敷の庭をひと回りするよりはるかに長く、
石畳のちいさな段差でさえ、腹の奥の痛みに響く。
息が上がり、まるで心臓の鼓動が喉までせり上がってくるようだった。
メイラは何も言わない。
ただ、そっと手を引いてくれる。
まるで、以前の自分が
息も絶え絶えに牢から引き出された時のように。
不意に心に刺す記憶があった。
地下で泣いている自分に触れたレギュラスの手。
あの時は救われたと錯覚した。
今はどうだろう。
あの人の残酷さと優しさの二つの側面が、
互いに喰い合うように胸を締めつける。
魔法法廷の扉が見えたとき、
アランは無意識に胃を押さえた。
中から記者たちがどっと溢れ出てくる。
「いや見事だったよ……」
「レギュラス・ブラックはやはり法務部の至宝だ」
「危機的状況だったのに……まるで何事もなかったように論破してみせた」
「相変わらず完璧な男だ」
称賛の声ばかりが耳に入る。
まるで革命でも起こした英雄のように。
アランは目を伏せた。
……やはり、成功したのですね)
ひとまずの安堵が胸に流れ込む。
無事だということ。
今日もあの人は法廷を制したということ。
けれど、同時に冷たいものが喉元を這い上がってきた。
……誰を犠牲にしたのですか
わかってしまう。
レギュラスの完璧さの裏には、必ず“切り捨てる者”がいる。
彼は自分の正義のためなら、喜びも悲しみも、他者の人生さえも踏み台にできる。
今、記者たちの笑顔の裏に
ひとりの魔法使いが泣いているかもしれない。
刑務所に送られるかもしれない。
そして──それを思うと、アランの心にひりつく痛みが走る。
メイラの父を思い出す。
あの夜の、狂った光景。
すべての罪を背負わされた哀れな男。
また、繰り返したのだろうか。
どうして……どうしてなの……
震えが止まらない。
喉の奥が焼けるように熱く、
呼吸が乱れ、足が震え、視界の端がちかちかした。
メイラが慌てて支える。
「アランさん……! ちょっと、休みましょう!」
アランはかすかに頷く。
人々の称賛がこだまする法廷前で、
たったひとり震えている自分が、
あまりにも取り残された存在に思えた。
……あなたは今日も世界を味方につけた。
でも私は……どうすればいいのですか。
胸に宿る小さな生命に手を当てながら
アランは静かに息を吐いた。
喜びも、安堵も、希望も──
何ひとつ純粋に味わえなかった。
議場の扉が大きく開き、
記者たちが押し寄せる波のように廊下へあふれ出していく中、
レギュラスは遠くにアランの姿を見つけた。
白い壁に寄りかかるようにして、
メイラに支えられながら立っている。
頬がわずかに青ざめていた。
その瞬間──
胸の奥で何かが弾けた。
すべてを忘れていた。
議会での勝利も、
監査の恐怖も、
記者たちのざわめきも。
ただ、アランだけが目に映った。
「アラン…!」
声が震えていた。
自分でも驚くほどに。
人々の間を大股でかき分け、
レギュラスはアランの元へ駆け寄った。
「なぜ来たんです……!?」
息を乱しながら、腕を取る。
アランは杖を握り、
小さく、なめらかな文字を紡いだ。
――“心配だったから”
その一言で、
喉の奥が熱くなる。
今日、法廷で完全勝利を収め、
危機を逃れ、
肩にのしかかっていた全てから解放された矢先。
最も欲しかった言葉が、
最も欲しかった人から与えられた。
抑えきれなかった。
「…… アラン」
掴んだ肩をそっと胸へ引き寄せる。
人前だということが完全に頭から抜け落ちていた。
この腕の中に生きて戻ってきたこと。
この目の前に立っていてくれること。
そして自分を案じて歩いてきてくれたこと。
全てが、心を決壊させた
気づけば手がアランの頬に触れていた。
指先が震えている。
そして──
レギュラスはアランに口付けた。
静かな廊下が、
一瞬でざわめきの渦へ変わる。
フラッシュが幾度も閃いた。
アランは驚きに目を見開き、
身体が硬直していたが、
レギュラスは離れられなかった。
たとえ誰にどう見られようと、
今は抱きしめていたかった。
「ミスターブラック、こちらを向いてください!」
「魔法省の危機的状況をどう乗り越えたのですか!」
「奥方のご体調は!?懐妊は本当ですか!?」
記者たちが一斉に押し寄せる。
質問の嵐、光の雨。
アランの肩にかかった負担すら、
彼は許せなかった。
強く抱き寄せ、
レギュラスは短く、けれど力強く言った。
「すみません……後にしてください。
今は……家族のもとへ戻ります」
低く礼をしてから、
アランの手をしっかりと握り、
人々の間をくぐり抜けるように歩いた。
メイラが後から追いかけてくる。
馬車の前に来たとき、
アランはわずかに肩を震わせていた。
疲労か、安堵か、それとも別の感情か。
レギュラスには読み取れない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
――彼女を失いたくない。
――何よりも。誰よりも。
――これ以上、離れられない。
翌朝。
まだカフェが開く前。
薄曇りの光が店内の木のテーブルを淡く照らしている頃、
セラは仕入れに来ていた新聞を一枚引き抜いた。
見出しは、やはり。
昨日の魔法法廷のことだった。
ナイフのように鋭い赤文字が躍る。
《法務部長官レギュラス・ブラック、議会を圧倒的勝利で突破》
《記者団の前で“正妻アランブラック”へ情熱の口付け──衝撃の瞬間》
その下に、
あの瞬間の写真が大きく印刷されていた。
セラは思わず息を漏らして笑った。
「……あらまあ。やっぱり、やるわね」
レギュラスがアランを抱き寄せ、
静かに、けれど熱を抑えきれないように口付けている。
写真越しでも伝わるほど、
男が“帰る場所を見つけた”あの瞬間の顔をしていた。
こんなところで、あんな顔をするのね。
あなた、結構大胆じゃない。
肩をすくめながら次のページをめくる。
記事はどれも、
レギュラスの手腕や議会での反撃に称賛を送るものだったが、
どの紙面でも必ず最後に――
「愛妻アランブラックの姿」
「夫婦の絆を象徴する情熱的な口付け」
そう書かれていた。
セラは苦笑する。
嫉妬は、なかった。
恋慕の痛みも、ない。
ただ純粋に“面白い”のだった。
あの人、あれだけ焦りで顔色悪くしてたのに……
結局ここぞという時に、世界中が見る前で妻に口付けするんだもの。
どこまでも極端で、
真面目すぎて、
不器用で、
そしてとんでもなく“運命体質”な男だ。
カウンターの前で掃除をしていた従業員が声をかける。
「セラさん、それ……昨日の議会の写真ですよね?ブラック家の奥様って本当に美しいんですね」
「ええ、とても。まるでガラス細工のようだわ。
触れたらすぐに壊れそうな、そんな儚さがある」
セラの声はどこか愉快だった。
壊れそう?
いいえ……違うわね。
写真のアランの表情を覗き込む。
驚きの中に、かすかな迷いと静かな光がある。
脆さではない。
“揺らぎ”だ。
それはセラが持っていないもの。
そして、男たちを惑わせる不思議な魔力。
「……なるほど。これは勝てないわけだ」
小さく呟き、指先で新聞を折る。
自分とアランを比べる必要はない。
レギュラスの心の中心は、どこまでも妻にある。
それを知った上で――
それでも彼に興味を惹かれるのは、
自分が大人で、
そして人生を“遊べる”女だからだ。
さて。恩も売ったし、切れない関係にはなった。
次はどう揺さぶって遊ぼうかしら。
悪意はない。
ただ、
“もっとこの男を知りたい”
そんな好奇心が、胸の奥でふつふつと沸き立っていた。
彼の隣に立つあの無声の妻ごと、
この奇妙で歪な三角形を、
舞台の上から見物するように楽しみたい。
セラは新聞を畳み、
唇の端をゆっくりと上げた。
腹の底が煮えくり返っていた。
ジェームズは自室の机に新聞を叩きつけ、
その上に映るレギュラス・ブラックの端正な横顔を睨みつける。
議会の場で勝ち誇ったように口角をわずかに上げ、
冷静沈着、鉄壁と呼ばれる法務部主宰の態度そのままで可決の山を捌き、
その後――
記者団の前で、
外で待っていたアランを抱き寄せて口付ける。
あれは芝居か?
舞台俳優の真似事か?
それとも全世界に向けた“余裕の誇示”なのか?
胸の奥でぎり、と歯が軋む。
どこまでも気に食わないやつだ……!
正義を語る資格があるかのようなあの態度。
議会の追及を紙をめくるようにいなして、
最後には慈愛の夫を演じてみせる余裕。
——白々しい。
机の上の新聞をぐしゃりと握りつぶす。
お前が何をしてきたか、忘れたと思うなよ。
どれほどのマグルが、お前の下で死んだと思っている。
仮に世間が気づかなくとも、
ジェームズだけはレギュラスが“闇の側”の中心にいることを知っている。
だがーー
それ以上に腹立たしいのが、今回の件。
酒場で無様に喋り散らかした法務部の男。
ジェームズが金を握らせ、
レギュラス追及のためにリスト改竄を指示したその男。
あの男を、レギュラスは 「騎士団側へ引き渡す」 と言い出したのだ。
公平な裁きを、と。
まるで慈悲深く言っているようでいて、
実際にはこう言われているようなものだ。
——『お前たちが仕込んだ小細工など、とうにお見通しだ』
——『だからこそ、敢えてそちらへ罪人を渡してやる』
——『あとはそちらの良心で裁け』
その残酷な皮肉が、ジェームズの胸に突き刺さる。
「……くそ、なんなんだあいつは」
拳が震えた。
リーマスが壁にもたれて、静かに言う。
「ジェームズ、君のやり方は時々、危ういよ。」
「危うい? じゃあ聞くけど、他にどうする方法があった?」
ジェームズの声は低く唸るようだった。
「レギュラス・ブラックを倒す隙が、他のどこにあった?
あいつを放置すれば、マグルがどれだけ死ぬと思ってる?」
リーマスは目を伏せた。
彼は“正しさ”を重んじる。
ジェームズとは違い、いつも律儀で、道を踏み外さない。
――だが、正義だけでは世界は変わらない。
ジェームズは深く息を吸い、苦く吐き出す。
「必要だったんだよ……あの手は。
あいつを引き摺り降ろすためには、あれしかなかった」
自分の中にある“正義”と“憎しみ”の境界が、
だんだん曖昧になっていくのを感じる。
レギュラス・ブラックという男。
あの刑務台のように冷えた視線。
涼しい顔で罪を積み重ねながら、
同時に妻には慈悲深い夫の顔を見せる、あの二面性。
あいつは……必ず、堕とす
世界が称賛しようと、
新聞が英雄扱いしようと、
議会の老人たちが味方しようと。
“あれ”の裏にある巨大な闇を知ってしまった以上、
ジェームズ・ポッターは引くことができない。
たとえ、その道が今よりもずっと血にまみれるとしても。
「リーマス。
これからもう一度、あの男の揺らぎを探す。
あいつにも必ず弱点がある。」
リーマスは黙ったままジェームズを見つめる。
友情ゆえの心配。
それは分かる。
けれど、今のジェームズの執念を止めることはできない。
レギュラス・ブラック。
なぜお前だけが、あんなふうに勝ち続ける?
新聞のしわくちゃの写真の中で、
レギュラスはアランを抱き寄せ、
世界の中心に立つ男のような顔で微笑んでいた。
その笑顔が、
ジェームズの胸の奥に、火のような怒りを宿らせ続ける。
ブラック家の広い食堂には、柔らかな金色の光が落ちていた。
夜の来訪者はひとり。
椅子に深く腰を下ろしたバーテミウス・クラウチは、グラスをゆるやかに傾け、
赤ワインの表面を満足げに揺らしていた。
「見事でしたよ、レギュラス。」
そう告げるバーテミウスの声には、
敗北の匂いを知らぬ者だけが持ち得る、澄んだ余裕があった。
「……ええ、本当に。」
レギュラスもまた、静かに笑みを返す。
その笑みには、先ほどまで議会の場で見せていた鉄仮面めいた気迫が抜け、
代わりに勝利を手にした男の柔らかな色がにじんでいた。
テーブルには、手をかけすぎない程度の料理が並んでいる。
勝利の宴といっても大仰ではなく、むしろ控えめだ。
だが、そこには達成と安堵を分かち合う親密さが満ちていた。
アランが同席していたからこそ、会話の内容には制限があった。
それでも、彼女が椅子の上で静かにグラスを手にしているだけで、
この食卓が“家庭の場”に戻っていることを、レギュラスは奇妙なほど意識させられた。
「飲みすぎないでくださいね。」
アランは杖を指先で軽く振り、
卓上に優雅に文字を描き出す。
レギュラスは一瞬だけ目を細め、それから微笑んだ。
「もちろん。あなたが見ているのに、飲み過ぎるわけがないでしょう。」
アランはほんの一度だけ瞬きをし、肯定も否定もせずにワインへ視線を落とした。
「それにしても……騎士団の連中の顔は、実に見物でしたよ。」
バーテミウスが楽しげに肩を揺らす。
「ジェームズ・ポッター。あの男は覚えておいた方がいい。」
「ネズミのように我々の周囲を這い回る……そういう人間ですよ。」
レギュラスは苦い笑みを返す。
「ええ。あれは“追いかけ続ける側”の男です。
我々の勝利が気に入らないのでしょう。毎度のことです。」
バーテミウスはグラスを回しながら、面白がるように言った。
「君は例の証人を騎士団側に引き渡したんだってね。いやぁ、慈悲深いじゃないか。」
「慈悲、ですか。」
レギュラスはグラスを口元に寄せ、ゆるく微笑む。
「こちらで裁いても、何ひとつ面白くありませんからね。
あの男が次にどんな供述をするか……
その方がよほど見物でしょう?」
二人は声を潜めて笑い合う。
その笑いは、勝者だけが許される響きを持っていた。
アランは、その光景をゆっくりと視界の端で追う。
笑っている。
ふたりとも、心の底から。
ここ数日の騒動を押し退け、
不正を覆い、追及をいなし、
議会での勝利を手にし――
そして今、家族の前で
“何事もなかったように笑う”レギュラス。
アランの胸の奥に、説明のつかない冷たい波が寄せては返す。
それでも、自分はただ静かに座り、
ステラを寝かしつけてきた手を膝に置き、
ワインに口をつけるだけだ。
レギュラスの視線が時折アランに流れる。
そのたびに彼は、ごく僅かに柔らかくなる。
それが“彼女だけに向けられる特別”なのか、
それとも“罪悪感”の揺らぎなのか、アランにはもう判断がつかなかった。
「レギュラス、君は本当に……今日の主役ですよ」
バーテミウスが笑いながら言った。
「主役、ね。」
「まあ、今日くらいは……そういうことにしておきましょう。」
レギュラスはワインを飲み干し、
アランにだけ向けてそっと微笑む。
「アラン、今日は本当に……あなたがいてくれてよかった。」
アランはゆっくりとまばたきをし、
ただ静かにうなずいた。
その小さなうなずきだけで、
レギュラスの胸の奥にある緊張がすっと緩むのを、彼ははっきりと自覚していた。
勝者たちの笑い声。
一方で、静かに座るアランの沈黙。
同じ食卓の上に、
誇りと、
安堵と、
不安と、
ひびのような影が、
ひとつの皿のように並べられていた。
アランがステラの様子を見に行くと言い残し、
静かに椅子を立った。
ドレスの裾が床をすべり、扉の向こうに消えていく。
その瞬間、食堂にはレギュラスとバーテミウスだけが残された。
さきほどまで漂っていた“家庭の静けさ”は跡形もなく、
代わりに、男たちだけが持つ
影の濃い、政治の匂いのする空気がすっと満ちていった。
バーテミウスはワインを揺らしながら、
何気ないような顔つきで口を開いた。
「ところで……あの女に、ひとつ借りができましたね。」
その言い方が、まるで楽しむようで、
レギュラスは肩を揺らして笑った。
「ええ、確かに。
……何を望まれるんでしょうね。」
口ぶりは軽い。
しかし、瞳の奥でかすかに光るものは、警戒と興味の入り混じった色。
セラ・レヴィントン。
あの女は——
向こう見ずではないし、無知でもない。
魔法界の男たちの心の隙を読むことを、
あまりにも自然に、
そして的確にやってのける。
たまたま現場を見ただけではない。
“引き渡す情報の価値”を理解し、
それをどれほどの恩に変えられるのかまで理解していた。
「金なら……まぁ、いくらでも出せます。
それとも“時々会う時間”を望まれるんでしょうかね。」
レギュラスは、グラスの脚を軽く指で弾いた。
やけに静かな音が響く。
「それも……どうにか作れるでしょう。」
冷静に思考しているようで……
そのくせ、言いながらどこか愉快そうにすら見えた。
自分に向けられる好奇心が、
“あの女の視線の熱さ”や
“手慣れた仕草”と結びつくたびに、
気持ちが妙にざわつくのだった。
バーテミウスはそんなレギュラスの変化を、
見逃すはずもない。
「おや……?」
「そこまで嫌そうではない感じですね?」
わざとらしく眉を上げ、
面白がるような声音。
レギュラスは苦笑し、肩をすくめた。
「詮索はやめてくれません?」
そう言いながらも、
その声色には怒気の一片すらない。
純粋に“からかわれて困っている”
そんな軽やかさがあった。
「はは……珍しいですね、レギュラス。
君がそんなふうに笑うのは。」
「今日は……特別ですよ。」
レギュラスはワインを少し口に運んだ。
その表情は、
この数日の地獄のような緊張が
ようやく解けた男の顔だった。
議会での完全勝利。
監査の突破。
失墜の危機を覆した鮮やかな反撃。
そして——
アランが自分を案じて法廷まで来てくれたという事実。
レギュラスの胸の内には、
高揚、自信、安堵、誇り……
複雑なものが波のように折り重なっていた。
この上機嫌は、
決して勝利だけでは生まれない。
崩れかけていた“家族”を守り抜けたという
強烈な達成感。
そして、
あの静かな妻の姿を
再び自分のそばに繋ぎ留められたという——
ほとんど執着に近い安堵。
バーテミウスは、そんなレギュラスを見ると、満足気に笑った。
「いや、本当に……今日は最高だ。
まるで悪夢をひっくり返してみせたような逆転劇できた。」
「ええ、我々らしくていいでしょう。」
二人の笑みは鏡のようにゆっくりと重なる。
勝者たちの静かな夜は、
まるでひとつの舞台の幕間のように、
しばらく穏やかに続いた。
その日の午後、
アランはステラを連れて庭に出ていた。
春の光はやわらかく、
青々とした芝生の上を走り回るステラの足音が、
陽だまりの空気を弾ませている。
ステラが笑えば、アランの胸にも小さな風が吹く。
そばに寄り添うメイラの気配も穏やかだった。
——そのときだった。
気配が、すっと空気を揺らした。
足音がない。
風も動いていない。
ただ、影がひとつ増えたように。
「アランさん……」
先に気づいたのはメイラだった。
少女はアランのドレスの裾をぎゅっと握り、
何かの警告を告げるように見上げた。
アランがゆっくり振り返ると、
そこに——
黒い髪を乱し、どこか疲れた影を背負いながらも
強い光を宿したシリウスの姿があった。
その瞬間、走り回っていたステラが
きゃあっと声をあげてシリウスの方へ突進した。
「おっと、来たな!」
シリウスは迷いなくステラを抱き上げ、
そのまま大きな円を描くようにくるくると回転した。
「キャッキャッ!」
ステラは止まらない笑い声をあげ、
シリウスもまた、
どこか救われたような優しい顔で笑っている。
「可愛い声で笑うなぁ、ステラ。」
その声は、
アランがかつて見たシリウスの“本物のやわらかさ”を帯びていた。
アランは思わずそのそばへ寄る。
「こんにちは、シリウス。」
杖をそっとふり、
アランは静かな文字で挨拶を綴った。
「ああ。……顔を見に来たんだ。
無理してないか?」
シリウスの瞳がアランを見つめる。
その真っ直ぐな心配の色は、
戦場の騎士のそれでも、
兄のような優しさでもあった。
アランは小さく杖を振って応える。
「私は平気です。
……でも、あなたたちこそ。
先日の魔法法廷、大変だったと聞いています。」
話題に触れると、
シリウスの顔に一瞬、苦さが走った。
法務部の男が騎士団から金を受け取り、
狼人間の食殺リストを改竄していたという噂。
騎士団は正式には認めていない。
けれど、魔法省の廊下でも、新聞社の酒場でも、
既に誰もがその名をひそひそと囁き合っていた。
アランは、
ジェームズたちの火消しの忙しさを想像した。
彼らは、レギュラスを追い込むために
“汚れ仕事”に手を染めたのだ。
それでも——
彼らは誰も殺していない。
方やレギュラスは、
罪なきマグルをアズカバンに落とし、
幾度も血を流させてきた。
残酷さで比べれば、
レギュラスのほうがはるかに深い闇を持っている。
「……あれは……」
シリウスは小さく息を吐いた。
「俺たちのやり方の方が汚すぎた。
……しくじって当然だ。
むしろ、すまねぇ。」
悔しさと、自嘲と、
少しの申し訳なさがにじむ声だった。
アランはすぐに首を振った。
違う、と伝えるように。
レギュラスを庇うためでも、
騎士団を責めるためでもない。
ただ、
誰もが汚れている。
けれど汚れ方の質は違う——
そう感じていることを伝えたかった。
シリウスはアランの表情を読み、
少しだけ微笑んだように見えた。
ステラがシリウスの腕の中でもぞもぞと動く。
「ぱぱは?」
幼い声で父を探すステラに、
アランの胸がすっと痛んだ。
いまこの瞬間、
ステラは確かに幸せそうで、
シリウスは確かに優しい。
——けれどこの温かな光景は、
ブラック家という巨大な闇に飲み込まれれば
簡単に消えてしまう。
そう思うと、
アランはほんの少しだけ呼吸を強く吸い込んだ。
この穏やかな時間が、
たとえ一瞬でも続きますように。
そう祈るように。
芝生の上をわずかな風がすべる。
陽光は柔らかく、ステラが走り回るたびに
その小さな影が揺れて、庭に生きた模様を描いた。
そんな穏やかな午後に、
シリウスはアランの前に立った。
「子供ができたんだってな……」
ほんの少し声が掠れていた。
祝福の色をまといながら、
奥底に言い淀む影がひそんでいる。
アランの腹はまだ平らなまま。
それでも新たな命は確かにそこに宿っている。
シリウスは言いかけた。
早すぎるだろう、と。
だがその言葉は飲み込み、喉の奥で静かに消えた。
——命は、もうそこにいるのだから。
無神経な言葉で、祝福を曇らせたくない。
アランは杖を振る。
ひらりと浮かぶ文字が、白い光に揺れた。
『はい。
次こそは男の子が来てくれることを祈っています。』
その一文に、シリウスの胸がぎゅっと痛んだ。
男の子。
跡継ぎ。
価値の象徴。
アラン自身の望みというより、
背中にのしかかる“期待”の重さが
言葉から滲み出ていた。
「……そうか。」
返す声は、どこかひどく低かった。
本来——
子供というのは性別で価値を測るものじゃない。
男でも、女でも。
元気に生まれてきてくれるだけで宝物だ。
だがこの家では、
アランは「男児を産む駒」のように扱われている。
彼女がそれを当然の義務だと思い込まされている。
その事実が、シリウスにはどうしようもなく許せなかった。
「ほら、これ。」
思い直すように表情を柔らげ、
圧縮袋を持ち上げる。
「体にいいもん、たくさん持ってきたんだ。」
袋を開くと——
香りがふわりとこぼれる。
・ドラゴンフルーツの滋養シロップ
・月桂樹の葉を漬けた強壮ポーション
・魔法界でも珍しい金木犀蜂蜜
・マグルのハーブティー(カモミール、レモングラス)
・フェニックスの羽根の魔力を微量抽出した胎教守護飴
・鉄分補給用の魔法カカオ
・吐き気止めのジンジャービスケット
——などなど、
まるで宝の山のように次々と出てくる。
シリウスはどれも誇らしげに説明しながら、
アランに手渡した。
「これも……これも……。
全部、妊婦にいいらしいって聞いてな。
お前が食べりゃ、子どもも強く育つ。
ステラみたいに。」
アランの瞳が、驚きと嬉しさで揺れた。
見たことのないものがたくさんあり、
手に取るたびに息を吸い込むように見つめる。
ステラはというと、
カラフルな瓶や包みを“おもちゃ”と思い込んだようで、
よちよちと近づき手を伸ばす。
「おいおい、ステラ。」
シリウスは慌てて取り上げる。
「これはおもちゃじゃないんだぞ。
食べたら元気になるやつだ。」
ステラはぷぅっと頬を膨らませ、
少ししてケラケラと笑い出した。
アランはその光景を見ながら、杖を振る。
『ありがとう、シリウス。
元気な男の子を産んでみせます。』
その“決意”の色に満ちた一文に、
シリウスは静かに息を吸った。
「……ああ。」
一度頷く。
「でもな、アラン。」
シリウスの声は、
今まで聞いたどんな声より真っ直ぐだった。
「男でも女でも……どっちでもいいんだ。」
アランの体が僅かに揺れた。
「お前が……元気な子を産んでくれたら。
それだけで俺は嬉しい。」
瞬間——
アランは呼吸の仕方を忘れた。
胸の奥に、
どすん、と衝撃が落ちてくる。
どうしてこの人の言葉は、
こんなにもまっすぐで、
こんなにも温かくて、
こんなにも痛いのだろう。
レギュラスの世界では決して聞けない言葉。
ブラック家という巨大な呪いの中では
決して許されない価値観。
——“あなたが無事であることが一番だ。”
ただそれだけの気持ちが、
シリウスの言葉には満ちていた。
炎のように熱く、
けれど優しすぎて痛いほどの言葉。
アランの心は、
その一撃で深く揺らいでしまった。
午後の日差しが、庭の芝生にゆるやかに沈み込んでいた。
ステラの足跡が小さく点々と残り、そのすべてがいつもより賑やかに見える。
夜は魔法族だけでなくマグルも紛れ込んでくる、治安の悪い界隈だ。
酔いと欲と、どうしようもない愚かさが渦を巻く場所。
そんな中、ふらついた魔法使いの男たちが大声で笑い合っていた。
そのうちの一人――酒臭い息を吐きながら豪語する男の言葉に、セラは手を止めた。
「あの鉄仮面のレギュラスブラック、今回は潰れるぞ」
「マグル食殺のリストに紛れ込ませたのは俺だからな」
「奴は終わりだ。ざまあみろ……!」
セラの胸の奥で、何か氷のようなものが静かに鳴った。
……やっぱり。あれは“偶然”なんかじゃなかったわけね
彼が漏らした情報、その姿、その声――その場に流れた空気すらすべて、セラは迷いなく“記憶の糸”として吸い上げ、小瓶に封じ込めた。
それをどこへ持っていくべきか。
答えは最初から決まっていた。
夜明けがまだ浅い頃、
セラは薄い青の空の下、ブラック家の巨大な屋敷門を迷いなく叩いた。
冷たい金属を叩く音が、朝の静寂に溶けていく。
やがて、屋敷しもべ妖精が現れ、目を丸くする。
「なんでございましょう? 混血のご婦人が、朝のこの時間に……」
「レギュラス・ブラックに取り次いでもらえるかしら。セラ・レヴィントンよ」
凛と告げると、しもべ妖精は軽く震えながら屋敷の奥へと消えていった。
ほんの数十秒後――
レギュラスは階段を駆け下りるような勢いで現れた。
その顔には、驚愕と焦燥の色が濃かった。
まるで、“最も来てほしくない瞬間に最も来てほしくない相手が来た”とでも言うような。
「セラ……何事です?」
声は低く、硬い。
ああ、この顔。この緊張。
やっぱりあなたは今、追い込まれているのね
セラは胸の奥で静かに笑った。
「あなた、そんな顔していいのかしら?」
セラは艶のある瞳を細め、からかうように言った。
「この家の坊ちゃんが、今“とんでもなく逼迫してる”って、みんな噂しているわよ」
「……なぜ、それを知ってるんです」
レギュラスの声が、微かに震えた。
その震えには、怒りでも恐れでもない。
“希望と警戒の入り混じった色”――そんな危うさがあった。
セラはためらわず、小瓶をレギュラスの胸元へ差し出す。
透明な瓶の中で、銀色の記憶の糸がゆらりと揺れていた。
「ここに、あなたを陥れようとした男の記憶が入ってるわ。あの事件……あなたを潰すために、誰かが意図的にリストを改竄した。
その証拠よ」
レギュラスの瞳孔がわずかに開いた。
息が止まるような沈黙。
「……セラ。これは……なぜ、あなたが?」
「感謝しなさい、お坊ちゃん」
セラは軽く笑い、頬へ髪を払う仕草をした。
その横顔は、誰にも読めない大人の女の顔だった。
「取引じゃないわ。代わりに何かを求めてるわけでもない。
ただ……あなたが、私に“借り”を作ったってことだけは、忘れないで」
柔らかい声の裏には、鋭い爪のような意図が潜んでいた。
レギュラスは目の奥に複雑な影を落とした。
小瓶を握る手が、ほんのわずかに強くなる。
「セラ……」
「じゃあ仕事があるの。帰るわね」
セラは踵を返し、朝の光の中へと歩み出た。
振り返ることなく、しかしその背中は確かに語っていた。
―この借り、いずれ必ず“効いてくる”。
ブラック家の門が音を立てて閉じる。
その瞬間、レギュラスは小瓶を胸に抱え込むように握りしめ、深く息を吐いた。
彼は理解した。
これは恩義であり、枷であり、鎖だった。
そして――
セラ・レヴィントンという女は、ただの気楽な相手ではなくなったのだ。
その日の議会は、いつも以上に重々しい空気に包まれていた。
壁を覆う古い石の肌が、まるで今にも崩れそうなほどの静かな圧力を帯びている。
扉が開き、レギュラス・ブラックが姿を現した瞬間――
ざわり、と空気が変わった。
美しい所作。
無駄のない歩幅。
冷静に整えられた表情。
まるで今日の議会が“単なる日常の一部”だと言わんばかりの存在感。
ジェームズは奥歯を強く噛み、舌の奥に鉄の味を感じた。
……来たな、悪魔が
レギュラスは席に着くなり、議長からの開会の呼びかけを受け、
静かに立ち上がった。
その姿は、騒動の中心にいるとは到底思えないほど澄んでいた。
「まず、ここ数日の可決における不自然な速度についてご説明いたします」
レギュラスは淡々と語り始めた。
「私は妻の懐妊に伴い職務を一時的に離れておりました。その間、法務部内では複数の案件が停滞し、期限の迫る書類も山積していたことを確認しております」
議会がざわめく前に、彼は続けた。
「そこで私が留守の間、部下に“期限切れギリギリの案件を優先し、明確な差し戻し理由がなければ臨時で可決してよい”と指示していたことを忘れておりました。結果として、可決が集中してしまった。私の采配不足です」
会場が静まる。
まるで“本当にそうだった”かのような、隙のない論理だった。
「さらに、その判断を誤った者たちにはすでに処分を下しています。
地方への人事異動、職務評価の見直し、減給。
責任はすべて法務部内で完了しております」
まるで舞台の台詞のように流れる滑らかな説明。
ジェームズはこめかみを押さえた。
…誤魔化しじゃかないか。全部ただの言い訳だろうに……
だが、議員たちの目には、
それは“非常に筋の通った内部処理”として映ってしまう。
レギュラスは絶妙だった。
自分には一切の非がないように見せ、
しかし“完璧ではない人間味”を演出しつつ、
責任は確実に部下へ落としていく。
計算し尽くされていた。
……殺したいほどムカつく
ジェームズは拳を握り、爪が掌に食い込むのを感じた。
議会の空気が重く沈む。
一番の争点が、この場に影を落としていた。
レギュラスは深く頭を下げ、件のリスト改竄の話に触れた。
「この件については、法務部の重大な不祥事として重く受け止めております。しかし、先ほどの可決案件とは異なり、こちらは“故意の犯罪行為”だと判明しました」
静まり返る議会室。
「昨夜、ある酒場にて──
法務部職員のひとりが“泥酔状態で犯行を自白していた”という記憶の証拠を手に入れました」
ジェームズは首を振る。
心臓が嫌な音を立てた。
まさか……そんな“偶然”が……
レギュラスは小瓶を掲げる。
「これです。この職員が、金銭と私情によって法務部の信用を陥れようと企んだ記憶の糸です。
この職員は本日付で拘束し、記憶照合後に処罰いたします」
議会がどよめいた。
レギュラスは小瓶を議会の中央へ置き、
一歩下がって深く一礼する。
「この不祥事は私の管理不足から生まれました。
しかし、悪意の中心は明確です。
どうか、魔法省全体の信用を守るためにも、
迅速な調査と処罰を認めていただきたい」
完璧だった。
敵に罪をなすりつけることも、
自らの落ち度を“管理”という形に変換することも、
そして“議会に味方している”ように見せることも。
すべてが、美しいほどに完璧だった。
ふざけるな……ふざけるな……!
ジェームズは歯をはぎしりし、首筋に浮いた血管が脈打つ。
狼人間リストの件は、
自分が金を握らせた法務部職員にやらせた工作だった。
だが、その職員は酔って口を滑らせ、
その記憶を“誰か”に吸い上げられ、
そして今こうして議会に晒されている。
あの馬鹿……!
酒に弱いくせに調子に乗りやがって……!
今殺すべきはレギュラスじゃなくて、あの口の軽い間抜けだ……!
視界の端でレギュラスが一礼し、席へ戻る。
冷静で、静かで、優雅で。
まるで“勝つことを確信している者”の歩みだった。
ジェームズの拳は震えていた。
…絶対に潰す。
どんな手を使ってでも……)
魔法省全体を巻き込んだ監査騒動の翌日。
アランは夜の寝室で、レギュラスとバーテミウスが一睡もせず、
積み上がった書類と向き合い続けていた姿を覚えていた。
紙をめくる乾いた音。
低く押し殺した声。
必死に整合性をつけようとする焦りと苛立ち。
ふたりの会話の中に、耳を塞ぎたくなる言葉が紛れていた。
――“誰かを立て替える”
――“記憶を作り直す”
――“罪を被らせるしかない”
冷たい戦略。
過去にアランを震え上がらせた、あの残酷な手法。
メイラの父親がマグル孤児院大量虐殺の罪を着せられ、アズカバンへ送られたあの日から、
レギュラスの“闇のやり方”だけは、今でも喉の奥を締めつけるように怖かった。
また……繰り返すのだろうか
胸に小さな命を宿しながら、アランはそっと腹に手を当てた。
震えが止まらない。
だが今日、魔法法廷が開かれる。
レギュラスは出廷し、すべての説明を行うという。
アランは椅子から立ち上がるたび、体がじくじくと痛んだ。
それでも行かなければと思った。
……見なければ。
彼が、どれほどの罪を背負っていくのか。
誰を犠牲にしたのか……確かめなければ
メイラはそんなアランの決意を知ってか知らずか、小さな体で必死に支えてくれていた。
「アランさん、体キツくなったら言ってくださいね。すぐ戻りましょう」
アランはメイラの手を握り返す。
その手は温かく、自分よりもずっと強い気がした。
法廷までの道は苦しかった。
屋敷の庭をひと回りするよりはるかに長く、
石畳のちいさな段差でさえ、腹の奥の痛みに響く。
息が上がり、まるで心臓の鼓動が喉までせり上がってくるようだった。
メイラは何も言わない。
ただ、そっと手を引いてくれる。
まるで、以前の自分が
息も絶え絶えに牢から引き出された時のように。
不意に心に刺す記憶があった。
地下で泣いている自分に触れたレギュラスの手。
あの時は救われたと錯覚した。
今はどうだろう。
あの人の残酷さと優しさの二つの側面が、
互いに喰い合うように胸を締めつける。
魔法法廷の扉が見えたとき、
アランは無意識に胃を押さえた。
中から記者たちがどっと溢れ出てくる。
「いや見事だったよ……」
「レギュラス・ブラックはやはり法務部の至宝だ」
「危機的状況だったのに……まるで何事もなかったように論破してみせた」
「相変わらず完璧な男だ」
称賛の声ばかりが耳に入る。
まるで革命でも起こした英雄のように。
アランは目を伏せた。
……やはり、成功したのですね)
ひとまずの安堵が胸に流れ込む。
無事だということ。
今日もあの人は法廷を制したということ。
けれど、同時に冷たいものが喉元を這い上がってきた。
……誰を犠牲にしたのですか
わかってしまう。
レギュラスの完璧さの裏には、必ず“切り捨てる者”がいる。
彼は自分の正義のためなら、喜びも悲しみも、他者の人生さえも踏み台にできる。
今、記者たちの笑顔の裏に
ひとりの魔法使いが泣いているかもしれない。
刑務所に送られるかもしれない。
そして──それを思うと、アランの心にひりつく痛みが走る。
メイラの父を思い出す。
あの夜の、狂った光景。
すべての罪を背負わされた哀れな男。
また、繰り返したのだろうか。
どうして……どうしてなの……
震えが止まらない。
喉の奥が焼けるように熱く、
呼吸が乱れ、足が震え、視界の端がちかちかした。
メイラが慌てて支える。
「アランさん……! ちょっと、休みましょう!」
アランはかすかに頷く。
人々の称賛がこだまする法廷前で、
たったひとり震えている自分が、
あまりにも取り残された存在に思えた。
……あなたは今日も世界を味方につけた。
でも私は……どうすればいいのですか。
胸に宿る小さな生命に手を当てながら
アランは静かに息を吐いた。
喜びも、安堵も、希望も──
何ひとつ純粋に味わえなかった。
議場の扉が大きく開き、
記者たちが押し寄せる波のように廊下へあふれ出していく中、
レギュラスは遠くにアランの姿を見つけた。
白い壁に寄りかかるようにして、
メイラに支えられながら立っている。
頬がわずかに青ざめていた。
その瞬間──
胸の奥で何かが弾けた。
すべてを忘れていた。
議会での勝利も、
監査の恐怖も、
記者たちのざわめきも。
ただ、アランだけが目に映った。
「アラン…!」
声が震えていた。
自分でも驚くほどに。
人々の間を大股でかき分け、
レギュラスはアランの元へ駆け寄った。
「なぜ来たんです……!?」
息を乱しながら、腕を取る。
アランは杖を握り、
小さく、なめらかな文字を紡いだ。
――“心配だったから”
その一言で、
喉の奥が熱くなる。
今日、法廷で完全勝利を収め、
危機を逃れ、
肩にのしかかっていた全てから解放された矢先。
最も欲しかった言葉が、
最も欲しかった人から与えられた。
抑えきれなかった。
「…… アラン」
掴んだ肩をそっと胸へ引き寄せる。
人前だということが完全に頭から抜け落ちていた。
この腕の中に生きて戻ってきたこと。
この目の前に立っていてくれること。
そして自分を案じて歩いてきてくれたこと。
全てが、心を決壊させた
気づけば手がアランの頬に触れていた。
指先が震えている。
そして──
レギュラスはアランに口付けた。
静かな廊下が、
一瞬でざわめきの渦へ変わる。
フラッシュが幾度も閃いた。
アランは驚きに目を見開き、
身体が硬直していたが、
レギュラスは離れられなかった。
たとえ誰にどう見られようと、
今は抱きしめていたかった。
「ミスターブラック、こちらを向いてください!」
「魔法省の危機的状況をどう乗り越えたのですか!」
「奥方のご体調は!?懐妊は本当ですか!?」
記者たちが一斉に押し寄せる。
質問の嵐、光の雨。
アランの肩にかかった負担すら、
彼は許せなかった。
強く抱き寄せ、
レギュラスは短く、けれど力強く言った。
「すみません……後にしてください。
今は……家族のもとへ戻ります」
低く礼をしてから、
アランの手をしっかりと握り、
人々の間をくぐり抜けるように歩いた。
メイラが後から追いかけてくる。
馬車の前に来たとき、
アランはわずかに肩を震わせていた。
疲労か、安堵か、それとも別の感情か。
レギュラスには読み取れない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
――彼女を失いたくない。
――何よりも。誰よりも。
――これ以上、離れられない。
翌朝。
まだカフェが開く前。
薄曇りの光が店内の木のテーブルを淡く照らしている頃、
セラは仕入れに来ていた新聞を一枚引き抜いた。
見出しは、やはり。
昨日の魔法法廷のことだった。
ナイフのように鋭い赤文字が躍る。
《法務部長官レギュラス・ブラック、議会を圧倒的勝利で突破》
《記者団の前で“正妻アランブラック”へ情熱の口付け──衝撃の瞬間》
その下に、
あの瞬間の写真が大きく印刷されていた。
セラは思わず息を漏らして笑った。
「……あらまあ。やっぱり、やるわね」
レギュラスがアランを抱き寄せ、
静かに、けれど熱を抑えきれないように口付けている。
写真越しでも伝わるほど、
男が“帰る場所を見つけた”あの瞬間の顔をしていた。
こんなところで、あんな顔をするのね。
あなた、結構大胆じゃない。
肩をすくめながら次のページをめくる。
記事はどれも、
レギュラスの手腕や議会での反撃に称賛を送るものだったが、
どの紙面でも必ず最後に――
「愛妻アランブラックの姿」
「夫婦の絆を象徴する情熱的な口付け」
そう書かれていた。
セラは苦笑する。
嫉妬は、なかった。
恋慕の痛みも、ない。
ただ純粋に“面白い”のだった。
あの人、あれだけ焦りで顔色悪くしてたのに……
結局ここぞという時に、世界中が見る前で妻に口付けするんだもの。
どこまでも極端で、
真面目すぎて、
不器用で、
そしてとんでもなく“運命体質”な男だ。
カウンターの前で掃除をしていた従業員が声をかける。
「セラさん、それ……昨日の議会の写真ですよね?ブラック家の奥様って本当に美しいんですね」
「ええ、とても。まるでガラス細工のようだわ。
触れたらすぐに壊れそうな、そんな儚さがある」
セラの声はどこか愉快だった。
壊れそう?
いいえ……違うわね。
写真のアランの表情を覗き込む。
驚きの中に、かすかな迷いと静かな光がある。
脆さではない。
“揺らぎ”だ。
それはセラが持っていないもの。
そして、男たちを惑わせる不思議な魔力。
「……なるほど。これは勝てないわけだ」
小さく呟き、指先で新聞を折る。
自分とアランを比べる必要はない。
レギュラスの心の中心は、どこまでも妻にある。
それを知った上で――
それでも彼に興味を惹かれるのは、
自分が大人で、
そして人生を“遊べる”女だからだ。
さて。恩も売ったし、切れない関係にはなった。
次はどう揺さぶって遊ぼうかしら。
悪意はない。
ただ、
“もっとこの男を知りたい”
そんな好奇心が、胸の奥でふつふつと沸き立っていた。
彼の隣に立つあの無声の妻ごと、
この奇妙で歪な三角形を、
舞台の上から見物するように楽しみたい。
セラは新聞を畳み、
唇の端をゆっくりと上げた。
腹の底が煮えくり返っていた。
ジェームズは自室の机に新聞を叩きつけ、
その上に映るレギュラス・ブラックの端正な横顔を睨みつける。
議会の場で勝ち誇ったように口角をわずかに上げ、
冷静沈着、鉄壁と呼ばれる法務部主宰の態度そのままで可決の山を捌き、
その後――
記者団の前で、
外で待っていたアランを抱き寄せて口付ける。
あれは芝居か?
舞台俳優の真似事か?
それとも全世界に向けた“余裕の誇示”なのか?
胸の奥でぎり、と歯が軋む。
どこまでも気に食わないやつだ……!
正義を語る資格があるかのようなあの態度。
議会の追及を紙をめくるようにいなして、
最後には慈愛の夫を演じてみせる余裕。
——白々しい。
机の上の新聞をぐしゃりと握りつぶす。
お前が何をしてきたか、忘れたと思うなよ。
どれほどのマグルが、お前の下で死んだと思っている。
仮に世間が気づかなくとも、
ジェームズだけはレギュラスが“闇の側”の中心にいることを知っている。
だがーー
それ以上に腹立たしいのが、今回の件。
酒場で無様に喋り散らかした法務部の男。
ジェームズが金を握らせ、
レギュラス追及のためにリスト改竄を指示したその男。
あの男を、レギュラスは 「騎士団側へ引き渡す」 と言い出したのだ。
公平な裁きを、と。
まるで慈悲深く言っているようでいて、
実際にはこう言われているようなものだ。
——『お前たちが仕込んだ小細工など、とうにお見通しだ』
——『だからこそ、敢えてそちらへ罪人を渡してやる』
——『あとはそちらの良心で裁け』
その残酷な皮肉が、ジェームズの胸に突き刺さる。
「……くそ、なんなんだあいつは」
拳が震えた。
リーマスが壁にもたれて、静かに言う。
「ジェームズ、君のやり方は時々、危ういよ。」
「危うい? じゃあ聞くけど、他にどうする方法があった?」
ジェームズの声は低く唸るようだった。
「レギュラス・ブラックを倒す隙が、他のどこにあった?
あいつを放置すれば、マグルがどれだけ死ぬと思ってる?」
リーマスは目を伏せた。
彼は“正しさ”を重んじる。
ジェームズとは違い、いつも律儀で、道を踏み外さない。
――だが、正義だけでは世界は変わらない。
ジェームズは深く息を吸い、苦く吐き出す。
「必要だったんだよ……あの手は。
あいつを引き摺り降ろすためには、あれしかなかった」
自分の中にある“正義”と“憎しみ”の境界が、
だんだん曖昧になっていくのを感じる。
レギュラス・ブラックという男。
あの刑務台のように冷えた視線。
涼しい顔で罪を積み重ねながら、
同時に妻には慈悲深い夫の顔を見せる、あの二面性。
あいつは……必ず、堕とす
世界が称賛しようと、
新聞が英雄扱いしようと、
議会の老人たちが味方しようと。
“あれ”の裏にある巨大な闇を知ってしまった以上、
ジェームズ・ポッターは引くことができない。
たとえ、その道が今よりもずっと血にまみれるとしても。
「リーマス。
これからもう一度、あの男の揺らぎを探す。
あいつにも必ず弱点がある。」
リーマスは黙ったままジェームズを見つめる。
友情ゆえの心配。
それは分かる。
けれど、今のジェームズの執念を止めることはできない。
レギュラス・ブラック。
なぜお前だけが、あんなふうに勝ち続ける?
新聞のしわくちゃの写真の中で、
レギュラスはアランを抱き寄せ、
世界の中心に立つ男のような顔で微笑んでいた。
その笑顔が、
ジェームズの胸の奥に、火のような怒りを宿らせ続ける。
ブラック家の広い食堂には、柔らかな金色の光が落ちていた。
夜の来訪者はひとり。
椅子に深く腰を下ろしたバーテミウス・クラウチは、グラスをゆるやかに傾け、
赤ワインの表面を満足げに揺らしていた。
「見事でしたよ、レギュラス。」
そう告げるバーテミウスの声には、
敗北の匂いを知らぬ者だけが持ち得る、澄んだ余裕があった。
「……ええ、本当に。」
レギュラスもまた、静かに笑みを返す。
その笑みには、先ほどまで議会の場で見せていた鉄仮面めいた気迫が抜け、
代わりに勝利を手にした男の柔らかな色がにじんでいた。
テーブルには、手をかけすぎない程度の料理が並んでいる。
勝利の宴といっても大仰ではなく、むしろ控えめだ。
だが、そこには達成と安堵を分かち合う親密さが満ちていた。
アランが同席していたからこそ、会話の内容には制限があった。
それでも、彼女が椅子の上で静かにグラスを手にしているだけで、
この食卓が“家庭の場”に戻っていることを、レギュラスは奇妙なほど意識させられた。
「飲みすぎないでくださいね。」
アランは杖を指先で軽く振り、
卓上に優雅に文字を描き出す。
レギュラスは一瞬だけ目を細め、それから微笑んだ。
「もちろん。あなたが見ているのに、飲み過ぎるわけがないでしょう。」
アランはほんの一度だけ瞬きをし、肯定も否定もせずにワインへ視線を落とした。
「それにしても……騎士団の連中の顔は、実に見物でしたよ。」
バーテミウスが楽しげに肩を揺らす。
「ジェームズ・ポッター。あの男は覚えておいた方がいい。」
「ネズミのように我々の周囲を這い回る……そういう人間ですよ。」
レギュラスは苦い笑みを返す。
「ええ。あれは“追いかけ続ける側”の男です。
我々の勝利が気に入らないのでしょう。毎度のことです。」
バーテミウスはグラスを回しながら、面白がるように言った。
「君は例の証人を騎士団側に引き渡したんだってね。いやぁ、慈悲深いじゃないか。」
「慈悲、ですか。」
レギュラスはグラスを口元に寄せ、ゆるく微笑む。
「こちらで裁いても、何ひとつ面白くありませんからね。
あの男が次にどんな供述をするか……
その方がよほど見物でしょう?」
二人は声を潜めて笑い合う。
その笑いは、勝者だけが許される響きを持っていた。
アランは、その光景をゆっくりと視界の端で追う。
笑っている。
ふたりとも、心の底から。
ここ数日の騒動を押し退け、
不正を覆い、追及をいなし、
議会での勝利を手にし――
そして今、家族の前で
“何事もなかったように笑う”レギュラス。
アランの胸の奥に、説明のつかない冷たい波が寄せては返す。
それでも、自分はただ静かに座り、
ステラを寝かしつけてきた手を膝に置き、
ワインに口をつけるだけだ。
レギュラスの視線が時折アランに流れる。
そのたびに彼は、ごく僅かに柔らかくなる。
それが“彼女だけに向けられる特別”なのか、
それとも“罪悪感”の揺らぎなのか、アランにはもう判断がつかなかった。
「レギュラス、君は本当に……今日の主役ですよ」
バーテミウスが笑いながら言った。
「主役、ね。」
「まあ、今日くらいは……そういうことにしておきましょう。」
レギュラスはワインを飲み干し、
アランにだけ向けてそっと微笑む。
「アラン、今日は本当に……あなたがいてくれてよかった。」
アランはゆっくりとまばたきをし、
ただ静かにうなずいた。
その小さなうなずきだけで、
レギュラスの胸の奥にある緊張がすっと緩むのを、彼ははっきりと自覚していた。
勝者たちの笑い声。
一方で、静かに座るアランの沈黙。
同じ食卓の上に、
誇りと、
安堵と、
不安と、
ひびのような影が、
ひとつの皿のように並べられていた。
アランがステラの様子を見に行くと言い残し、
静かに椅子を立った。
ドレスの裾が床をすべり、扉の向こうに消えていく。
その瞬間、食堂にはレギュラスとバーテミウスだけが残された。
さきほどまで漂っていた“家庭の静けさ”は跡形もなく、
代わりに、男たちだけが持つ
影の濃い、政治の匂いのする空気がすっと満ちていった。
バーテミウスはワインを揺らしながら、
何気ないような顔つきで口を開いた。
「ところで……あの女に、ひとつ借りができましたね。」
その言い方が、まるで楽しむようで、
レギュラスは肩を揺らして笑った。
「ええ、確かに。
……何を望まれるんでしょうね。」
口ぶりは軽い。
しかし、瞳の奥でかすかに光るものは、警戒と興味の入り混じった色。
セラ・レヴィントン。
あの女は——
向こう見ずではないし、無知でもない。
魔法界の男たちの心の隙を読むことを、
あまりにも自然に、
そして的確にやってのける。
たまたま現場を見ただけではない。
“引き渡す情報の価値”を理解し、
それをどれほどの恩に変えられるのかまで理解していた。
「金なら……まぁ、いくらでも出せます。
それとも“時々会う時間”を望まれるんでしょうかね。」
レギュラスは、グラスの脚を軽く指で弾いた。
やけに静かな音が響く。
「それも……どうにか作れるでしょう。」
冷静に思考しているようで……
そのくせ、言いながらどこか愉快そうにすら見えた。
自分に向けられる好奇心が、
“あの女の視線の熱さ”や
“手慣れた仕草”と結びつくたびに、
気持ちが妙にざわつくのだった。
バーテミウスはそんなレギュラスの変化を、
見逃すはずもない。
「おや……?」
「そこまで嫌そうではない感じですね?」
わざとらしく眉を上げ、
面白がるような声音。
レギュラスは苦笑し、肩をすくめた。
「詮索はやめてくれません?」
そう言いながらも、
その声色には怒気の一片すらない。
純粋に“からかわれて困っている”
そんな軽やかさがあった。
「はは……珍しいですね、レギュラス。
君がそんなふうに笑うのは。」
「今日は……特別ですよ。」
レギュラスはワインを少し口に運んだ。
その表情は、
この数日の地獄のような緊張が
ようやく解けた男の顔だった。
議会での完全勝利。
監査の突破。
失墜の危機を覆した鮮やかな反撃。
そして——
アランが自分を案じて法廷まで来てくれたという事実。
レギュラスの胸の内には、
高揚、自信、安堵、誇り……
複雑なものが波のように折り重なっていた。
この上機嫌は、
決して勝利だけでは生まれない。
崩れかけていた“家族”を守り抜けたという
強烈な達成感。
そして、
あの静かな妻の姿を
再び自分のそばに繋ぎ留められたという——
ほとんど執着に近い安堵。
バーテミウスは、そんなレギュラスを見ると、満足気に笑った。
「いや、本当に……今日は最高だ。
まるで悪夢をひっくり返してみせたような逆転劇できた。」
「ええ、我々らしくていいでしょう。」
二人の笑みは鏡のようにゆっくりと重なる。
勝者たちの静かな夜は、
まるでひとつの舞台の幕間のように、
しばらく穏やかに続いた。
その日の午後、
アランはステラを連れて庭に出ていた。
春の光はやわらかく、
青々とした芝生の上を走り回るステラの足音が、
陽だまりの空気を弾ませている。
ステラが笑えば、アランの胸にも小さな風が吹く。
そばに寄り添うメイラの気配も穏やかだった。
——そのときだった。
気配が、すっと空気を揺らした。
足音がない。
風も動いていない。
ただ、影がひとつ増えたように。
「アランさん……」
先に気づいたのはメイラだった。
少女はアランのドレスの裾をぎゅっと握り、
何かの警告を告げるように見上げた。
アランがゆっくり振り返ると、
そこに——
黒い髪を乱し、どこか疲れた影を背負いながらも
強い光を宿したシリウスの姿があった。
その瞬間、走り回っていたステラが
きゃあっと声をあげてシリウスの方へ突進した。
「おっと、来たな!」
シリウスは迷いなくステラを抱き上げ、
そのまま大きな円を描くようにくるくると回転した。
「キャッキャッ!」
ステラは止まらない笑い声をあげ、
シリウスもまた、
どこか救われたような優しい顔で笑っている。
「可愛い声で笑うなぁ、ステラ。」
その声は、
アランがかつて見たシリウスの“本物のやわらかさ”を帯びていた。
アランは思わずそのそばへ寄る。
「こんにちは、シリウス。」
杖をそっとふり、
アランは静かな文字で挨拶を綴った。
「ああ。……顔を見に来たんだ。
無理してないか?」
シリウスの瞳がアランを見つめる。
その真っ直ぐな心配の色は、
戦場の騎士のそれでも、
兄のような優しさでもあった。
アランは小さく杖を振って応える。
「私は平気です。
……でも、あなたたちこそ。
先日の魔法法廷、大変だったと聞いています。」
話題に触れると、
シリウスの顔に一瞬、苦さが走った。
法務部の男が騎士団から金を受け取り、
狼人間の食殺リストを改竄していたという噂。
騎士団は正式には認めていない。
けれど、魔法省の廊下でも、新聞社の酒場でも、
既に誰もがその名をひそひそと囁き合っていた。
アランは、
ジェームズたちの火消しの忙しさを想像した。
彼らは、レギュラスを追い込むために
“汚れ仕事”に手を染めたのだ。
それでも——
彼らは誰も殺していない。
方やレギュラスは、
罪なきマグルをアズカバンに落とし、
幾度も血を流させてきた。
残酷さで比べれば、
レギュラスのほうがはるかに深い闇を持っている。
「……あれは……」
シリウスは小さく息を吐いた。
「俺たちのやり方の方が汚すぎた。
……しくじって当然だ。
むしろ、すまねぇ。」
悔しさと、自嘲と、
少しの申し訳なさがにじむ声だった。
アランはすぐに首を振った。
違う、と伝えるように。
レギュラスを庇うためでも、
騎士団を責めるためでもない。
ただ、
誰もが汚れている。
けれど汚れ方の質は違う——
そう感じていることを伝えたかった。
シリウスはアランの表情を読み、
少しだけ微笑んだように見えた。
ステラがシリウスの腕の中でもぞもぞと動く。
「ぱぱは?」
幼い声で父を探すステラに、
アランの胸がすっと痛んだ。
いまこの瞬間、
ステラは確かに幸せそうで、
シリウスは確かに優しい。
——けれどこの温かな光景は、
ブラック家という巨大な闇に飲み込まれれば
簡単に消えてしまう。
そう思うと、
アランはほんの少しだけ呼吸を強く吸い込んだ。
この穏やかな時間が、
たとえ一瞬でも続きますように。
そう祈るように。
芝生の上をわずかな風がすべる。
陽光は柔らかく、ステラが走り回るたびに
その小さな影が揺れて、庭に生きた模様を描いた。
そんな穏やかな午後に、
シリウスはアランの前に立った。
「子供ができたんだってな……」
ほんの少し声が掠れていた。
祝福の色をまといながら、
奥底に言い淀む影がひそんでいる。
アランの腹はまだ平らなまま。
それでも新たな命は確かにそこに宿っている。
シリウスは言いかけた。
早すぎるだろう、と。
だがその言葉は飲み込み、喉の奥で静かに消えた。
——命は、もうそこにいるのだから。
無神経な言葉で、祝福を曇らせたくない。
アランは杖を振る。
ひらりと浮かぶ文字が、白い光に揺れた。
『はい。
次こそは男の子が来てくれることを祈っています。』
その一文に、シリウスの胸がぎゅっと痛んだ。
男の子。
跡継ぎ。
価値の象徴。
アラン自身の望みというより、
背中にのしかかる“期待”の重さが
言葉から滲み出ていた。
「……そうか。」
返す声は、どこかひどく低かった。
本来——
子供というのは性別で価値を測るものじゃない。
男でも、女でも。
元気に生まれてきてくれるだけで宝物だ。
だがこの家では、
アランは「男児を産む駒」のように扱われている。
彼女がそれを当然の義務だと思い込まされている。
その事実が、シリウスにはどうしようもなく許せなかった。
「ほら、これ。」
思い直すように表情を柔らげ、
圧縮袋を持ち上げる。
「体にいいもん、たくさん持ってきたんだ。」
袋を開くと——
香りがふわりとこぼれる。
・ドラゴンフルーツの滋養シロップ
・月桂樹の葉を漬けた強壮ポーション
・魔法界でも珍しい金木犀蜂蜜
・マグルのハーブティー(カモミール、レモングラス)
・フェニックスの羽根の魔力を微量抽出した胎教守護飴
・鉄分補給用の魔法カカオ
・吐き気止めのジンジャービスケット
——などなど、
まるで宝の山のように次々と出てくる。
シリウスはどれも誇らしげに説明しながら、
アランに手渡した。
「これも……これも……。
全部、妊婦にいいらしいって聞いてな。
お前が食べりゃ、子どもも強く育つ。
ステラみたいに。」
アランの瞳が、驚きと嬉しさで揺れた。
見たことのないものがたくさんあり、
手に取るたびに息を吸い込むように見つめる。
ステラはというと、
カラフルな瓶や包みを“おもちゃ”と思い込んだようで、
よちよちと近づき手を伸ばす。
「おいおい、ステラ。」
シリウスは慌てて取り上げる。
「これはおもちゃじゃないんだぞ。
食べたら元気になるやつだ。」
ステラはぷぅっと頬を膨らませ、
少ししてケラケラと笑い出した。
アランはその光景を見ながら、杖を振る。
『ありがとう、シリウス。
元気な男の子を産んでみせます。』
その“決意”の色に満ちた一文に、
シリウスは静かに息を吸った。
「……ああ。」
一度頷く。
「でもな、アラン。」
シリウスの声は、
今まで聞いたどんな声より真っ直ぐだった。
「男でも女でも……どっちでもいいんだ。」
アランの体が僅かに揺れた。
「お前が……元気な子を産んでくれたら。
それだけで俺は嬉しい。」
瞬間——
アランは呼吸の仕方を忘れた。
胸の奥に、
どすん、と衝撃が落ちてくる。
どうしてこの人の言葉は、
こんなにもまっすぐで、
こんなにも温かくて、
こんなにも痛いのだろう。
レギュラスの世界では決して聞けない言葉。
ブラック家という巨大な呪いの中では
決して許されない価値観。
——“あなたが無事であることが一番だ。”
ただそれだけの気持ちが、
シリウスの言葉には満ちていた。
炎のように熱く、
けれど優しすぎて痛いほどの言葉。
アランの心は、
その一撃で深く揺らいでしまった。
午後の日差しが、庭の芝生にゆるやかに沈み込んでいた。
ステラの足跡が小さく点々と残り、そのすべてがいつもより賑やかに見える。
