2章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
まだ夜と朝の境目が曖昧な薄明の刻だった。
外は霜が降りたような静けさで、屋敷の石壁まで冷えを帯びている。
レギュラスはうっすら目を開けた。
微かな気配──肩口に触れてくる柔らかな重みで、眠りが浅くほどけていく。
アランが、身を小さく捩らせながら寄ってきていた。
無意識なのだろう。
けれど、そのしぐさはあまりに自然で、あまりに愛おしかった。
彼女の頬は冷えていて、指先まで少し硬い。
細い肩が震えており、まるで温を求める小動物のように胸元へ寄り添ってくる。
それだけのことなのに、レギュラスの胸にじんわりと熱が生まれた。
「……寒いですか?」
低く囁く。
アランは眠りの縁からゆっくりと指を動かし、
少しだけ と言うように空気を撫でた。
その仕草が優しくて、弱くて、
自分を頼ってくれているようで──
胸がきゅう、と締めつけられた。
守られているのは、むしろ自分の方なのではないかとさえ思えるほどに。
「……そうですか」
囁く声が、自分でも驚くほど柔らかかった。
もっと暖めてやりたくて、
そっと足を絡めて布団の中に引き寄せる。
手を包むように握り返すと、アランはふわりと安堵したように息を洩らし、
胸に顔を寄せた。
その表情は、言葉より雄弁だった。
ああ、この人は今、自分のそばを求めている。
たったそれだけのことで、胸の奥底から満たされる。
彼女が距離を置き始めたあの日から、
どれほど必死になって彼女の心に触れようとしただろうか。
触れるたびに壊してしまいそうで、
抱き寄せるたびに怯えさせそうで、
踏み込むたびに自分が間違えてしまうようで。
それなのに今──
その手が、足が、体温が、
こんなふうに自分へ擦り寄ってくる。
それだけで、息が苦しくなるほど救われた。
アランのまぶたは重く、眠りの中のように穏やかだ。
頬は自分の胸に触れてほんのり温まり始めている。
レギュラスはその小さな震えを包み込むように抱き寄せた。
自分の体温が彼女の冷えを追い払い、
胸元に凭れかかる呼吸がすこしずつ落ち着いていく。
満たされる。
こんなにも、ただ寄り添われただけで。
指を絡めた手から伝わる微かな力。
ゆっくり上下する肩の温度。
肌に触れる吐息の柔らかさ。
そのどれもが、もう二度と失いたくないと願わせる。
レギュラスはアランの髪を指先でそっと梳きながら、
胸の奥で静かに呟いた。
どうか、この温もりを永遠に手放さずにいられるように。
久方ぶりに魔法省法務部の廊下を歩くと、空気そのものがほんのわずかに変わっているように感じた。
いつもの乾いた紙の匂いに混じり、どこか軽薄な活気のようなものが漂っている。
レギュラスは胸の奥に嫌なざわつきを覚えながら執務室の扉を開いた。
机の上には、数日分の決裁書類が山のように積まれていた。
普段の倍どころではない。三倍、四倍──いや、五倍近い量になっている。
嫌な予感がした。
レギュラスは一番上の書類を手に取り、目を走らせた。
1枚、2枚──
そして3枚目で、眉がぴくりと震えた。
「マグル孤児院襲撃事件の再調査許可」
「狼人間食殺許可法の撤廃に向けた仮査定」
「最新の武装マグル衝突事件における“マグル側情状酌量”の仮承認」
「アズカバン拘束予定だった武装マグル数名の“身柄一時保留”許可」
「騎士団側の提出した“中立委員会設立”案の一次通過」
「闇陣営に関連しうる捜査案件の一時凍結」
紙面に並ぶ言葉一つ一つが、喉に刺さるような冷たさを帯びていた。
数日前のレギュラスがいれば、瞬時に却下印を叩いていたはずのものばかりだった。
彼は紙の束をもう一度めくる。
数十枚すべてが、“騎士団側に有利な決裁”ばかりだった。
喉の奥がじりじりと熱を帯びる。
胸が冷える。
頭の奥で何かが弾けた。
「……何を、やっているんです……」
呟きが漏れた。
中立的な立場──
レギュラスが不在の間、その“守り手”として配置していたのは、光側にも闇側にも偏らない冷静な判断ができる者たちだった。
あえて闇側の部下に託さなかった。
それは、レギュラスが権力を私物化しているという批判を避けるためだった。
父オリオンからも、他の純血家系からも、そして何より魔法省内部からの視線を考えれば、それが最も正しい選択だった。
──そのはずだった。
たった数日で、光の騎士団側の望む政策が “ほぼ全て” 通ってしまっているなど、ありえない。
レギュラスは掌を額に押し当て、深く息を吐いた。
任せる相手を間違えた。
間違えすぎた。
「……あの愚か者どもが……」
罵倒というよりは、失望に似たかすれた声だった。
闇側に任せれば偏る。
光側に任せれば暴走する。
だから中立に託す──その判断が、最悪の結果を招いてしまった。
レギュラスは書類を一枚一枚確認しながら、
その度に苛立ちと焦りが胸に積み上がっていくのを感じた。
紙をめくる音だけが部屋に響く。
冷たい冬の光が窓から差し込み、机に積まれた書類の影が長く伸びていた。
数日の不在。
それだけのことが、この世界の秩序さえ揺るがせる。
法務部は、レギュラスがいなければこんなにも脆い。
思い知らされる現実に、彼は唇を固く結んだ。
アランのところに帰りたい。支えたい──
彼女とステラのそばで過ごしたい。
その願いは、ほんのわずかな時間だけ叶えられた。
しかし現実は残酷だ。
離れただけで、こうして世界が歪む。
レギュラスはゆっくりと目を伏せた。
「……まずは、すべてをひっくり返すところからですね。」
その決意は、氷のように静かで、鋭かった。
執務室の片隅に、積み上がった決裁書類の山が不穏な影を落としていた。
数日の不在で崩れかけている秩序を前に、ただでさえ頭を抱えたくなる状況だというのに──
さらに追い打ちをかけるように、最悪の知らせが飛び込んできた。
「本日より臨時監査が入ります」
使いの魔法使いが淡々と告げた瞬間、レギュラスは目を閉じたくなった。
──よりによって今日か。
机に置いていた羽ペンの先が震える。
自分が持ち出している資料はない。
しかし、問題はそこではなかった。
レギュラスがいない間、あの馬鹿ども──
中立だと信じて任せた者たち──
彼らが正しく保管し、保管期限を遵守し、適切に廃棄処理を行っているかどうか。
怪しい。
あまりにも怪しい。
レギュラスは静かに息を吸い込んだ。
喉の奥が乾く。
冷たい汗が背中を伝う。
「……はあ……」
深いため息が勝手に漏れた。
久しくついていなかったような、骨の芯から疲労を吐き出すため息だった。
監査の日程が事前に知らされることはめったにない。
だからこそ、何年も前から徹底して準備してきた。
しかし今回は、数日ぶりに出勤したばかりのぶっつけ本番。
──最悪のタイミング。
嫌な予感しかしなかった。
しばらくすると、重い扉がノックもなく開かれた。
ローブの裾を翻し、魔法監査官たちが五名、音もなく入室してくる。
淡い金刺繍の入った監査官の徽章が、やけに冷たく光って見えた。
「本日、臨時監査を開始させていただきます。
つきましては全員、一度フロアからご退出ください。
おおよそ二時間ほどで終える予定です」
淡々とした声。
氷の刃で背筋をなぞられたような感覚。
レギュラスは慌てず、深く一礼した。
「かしこまりました。すぐに移動いたします」
その返事は完璧に整った声色だった。
だが内心は、打って変わって嵐のようだった。
──やめてくれ。
──今、開けるな。
──その引き出しの中を見るな。
──頼むから、あいつらが触った場所だけは……!
頭の中で叫んでいる自分がいた。
監査官たちが部屋の中に散っていく。
魔法の光が棚や引き出しに淡く触れ、書類の周囲を一斉に照らし出す。
すべてが露わにされる。
もはや隠す術はない。
レギュラスは胸の奥でどくどくと高鳴る鼓動を感じた。
声にならないほどの恐怖が、腹の底からせり上がってくる。
──なにが出てくる?
彼の掌は知らず汗ばんでいた。
ローブの内側で指先が微かに震える。
さきほどまで確認した“騎士団側に有利な可決”の数々。
それだけでも問題は大きい。
だがそれ以上に恐ろしいのは、
書庫・廃棄室・保管庫──あの馬鹿どもが触った場所すべてに“致命的な穴”がある可能性。
魔法省では、些細な記録漏れが国家反逆罪級の扱いになることさえある。
レギュラスは喉の奥で乾いた息を吸い込む。
ぶっつけ本番の監査など、いつ以来だろうか。
記憶を辿れば、かつて学生上がりで法務部に配属されたばかりの頃──
まだ何の信用もなく、すべての判断に疑いを向けられ続けていたあの時期以来だ。
その頃の胸苦しさが甦る。
吐き気に似た焦燥感が足元から這い上がってくる。
監査官の声が響いた。
「では、施錠いたします。
開始しますので、ご退出を」
「承知しました」
レギュラスは振り返りもせず、扉へ向かった。
──心臓がうるさい。
──こんなにも……嫌な予感しかしない。
扉が背後で重く閉まる。
まるで処刑台の音のようだった。
臨時監査によって執務室を追い出されたレギュラスは、重い扉が閉じる音を背に受けながら、ゆっくりと廊下に歩み出た。
冷たい石畳の床が、妙に心臓の鼓動を反響させる。
胸の奥では不安の芯がゆっくり膨れ上がり、脈と同じ速さで疼き続けていた。
廊下にはほとんど人の気配がなかった。
監査官たちが入室した瞬間、このフロア全体が一時的に封鎖され、人払いされているのだろう。
広い空間は静まり返り、魔法省だとは思えないほど張りつめた空気が漂っていた。
「……随分とやられましたね、これは」
声がして振り返ると、壁にもたれかかったバーテミウス・クラウチJr.がいた。
腕を組み、珍しく真面目な顔をしている。
軽口を叩いて場を崩すような余裕は、さすがの彼にもなかったのだろう。
「来ていたんですか、バーテミウス」
「ええ。あなたが“やばい顔”をして戻ってくるのが目に見えましたので」
いつもの茶化しが、今日は乾いた冗談のように響く。
レギュラスは目を細め、わずかに首を横に振った。
「やばい顔ではなく、普通に恐れているだけです」
「それを“やばい”と言うんですよ」
バーテミウスは肩をすくめる。
しかしその眼差しの奥には、僅かながら本気の心配が宿っていた。
「あなたがいない数日で、可決されたものを確認しました?」
「……見ましたよ。胃に穴が開くかと思うほどに」
「でしょうね。僕もひっくり返りそうでしたよ。
反マグル拘束の減罰関連、孤児院襲撃の再調査申請、狼人間食殺許可法の撤廃……
よくもまあ、これだけ一気に通しましたよね」
レギュラスは額に手を当てた。
廊下の冷気では抑えきれないほど、頭の中が熱を帯びていた。
「監査が入ったら、間違いなく“この可決一覧”に監査官の目が行きます。
まとめて通した理由、担当者、経緯の説明……全て詰まれるでしょう」
「……でしょうね」
「あなた、今から返答全て整えられます?」
「無理でしょうね」
自嘲気味に言うレギュラスに、バーテミウスはふっと笑った。
「ほう、珍しい。
あのレギュラス・ブラックが“無理”と言いました」
「これを無理と言わない人間がいたら、正気を疑いたくなりますよ」
レギュラスは背中の壁に軽くもたれ、深く息を吐いた。
胸がざわめく。
微かな吐き気さえ混ざっていた。
「…… アランはどうです?」と、バーテミウスは不意に話題を変えた。
鋭い眼がレギュラスの横顔を観察している。
「体は……万全ではない。
懐妊も、医務魔法使いは『見送るべき』と言ったほどで」
「……あなたの顔を見ればわかりますよ。
心配なんでしょうね」
レギュラスは目を閉じた。
アランの冷えた瞳。
距離を置くようになった微かな仕草。
声のない彼女の中で何が起きているのか、もう読み取れなくなりつつある。
──失いたくない。
──あれ以上離れられたら、自分は壊れる。
その恐怖が、今の仕事の焦りと絡まり、胸の奥でひどく軋み続けていた。
「……今、非常に悪い流れが続いています」
「ですね。家庭と職場、両方地獄」
「地獄なんて軽い言葉で済ませたくない心地ですよ」
「ならば地獄以上ですかね。まあ……」
バーテミウスは壁から身体を離し、軽く肩を叩いた。
「戻ってくるまで、僕が監査官に少しぐらい牽制をかけておきますよ。
あなたのいない数日がどれほど混乱だったのか、上手く伝えておきます」
「……助かります」
「ただし」
バーテミウスは笑う。
だがその目は冗談の色がない。
「本気で立て直さないと、今回は本当に首が飛びますよ、レギュラス。
あなた自身の首だけじゃない。
“守りたい者”ごと、全部巻き込まれかねません」
レギュラスの胸が、重く沈んだ。
その言葉は脅しではない。
事実だ。
「……わかっています」
「ならいい。
さ、覚悟して待ちましょう。
監査は“戻れない真実”をほじくり返すのが大好きですから」
バーテミウスの声が、廊下の冷えた空気にひどく響いた。
レギュラスは、強く拳を握った。
──どうか。
──これ以上、何も壊れないでほしい。
廊下には、監査室の奥から淡い魔力が波のように漏れ続けていた。
扉の向こうで、何かが暴かれようとしている音がした。
「監査終了です。長官、こちらへ」
呼ばれた瞬間、胸がひとつ大きく跳ねた。
レギュラスはゆっくりと執務室へ戻る。
扉を開けると、複数の監査官が淡々とした顔で列を作り、机には厚い書類束が積まれていた。
「ブラック長官。まず、書類の保管期限について」
一番端の監査官が低い声で告げる。
レギュラスは無言で頷くしかなかった。
「この数日間、期限切れ書類が未破棄のまま残っています。
本来であれば、破棄魔法処理室へ送られているはずの書類です。
……あなたがいない間に放置された、とみられます」
心臓に冷たい指が触れたような感覚がした。
いつもなら誰より真っ先に処理し、瑕疵のないよう整えてきた場所だ。
その秩序が、たった数日で崩れた。
「次に──ここ数日で異様な可決ラッシュが起きています」
別の監査官が、可決一覧を魔法で宙に広げる。
銀色のリストがパラパラと宙をめくり、数十の項目が光る。
「今まで長く否決し続けてきた案件が、あなたのいない短期間に一挙に可決されている。
この変化は不可解です。
今まで否決していた理由は何です? 法的な理由? 倫理的理由?
……それとも、あなた個人の判断基準ですか?」
喉が痩せて、声が出なかった。
「いずれにせよ、これは後日の“長官判断の是非調査”が必須となります。
レギュラス・ブラックという個人の偏りが、法務部の判断に影響していなかったか──
それを調べさせていただきます」
──最悪の言葉が、静かに胸に突き刺さる。
次の監査官が、鍵を指先で弄びながら言う。
「本来施錠されていなければならない棚が、複数開いた状態で放置されていました。
管理台帳にも施錠記録がありません」
ぱちん、と鍵が軽く鳴った。
その小さな音がやけに大きく耳に響いた。
「持ち出された資料がある可能性があります。
その点も後日、徹底的に調査させていただきます」
レギュラスの背筋がぞくりと冷えた。
だが──
その次に読み上げられた項目が、すべての不安を凌駕した。
「そして……狼人間の“マグル食殺許可リスト”について」
空気が、ぴしりと裂けたように感じた。
「対象外のマグルが──意図的に紛れ込まされている痕跡があります」
レギュラスは息を呑んだ。
世界が急速に狭まっていくような圧迫感が走る。
「この数日間に追加された記録ですが……
“書き換え”ではなく“混入”の痕跡がある。
意図的である可能性が高い。
法務部長官の承認印まで仮押しされています」
「……仮押し?」レギュラスの声がかすれた。
「ええ。あなたが不在の間に、長官印を扱った者がいる可能性があるということです」
胸に氷柱が刺さったようだった。
吐き気と怒りと恐怖が混ざり合い、視界が一瞬だけ白く霞む。
──法務部長官の印章を使って、
──“リストに存在しないマグル”を狼の餌にしようとした者がいる。
もしこれが明るみに出れば、
己だけではなく、ブラック家が、アランが、ステラが──
すべて巻き込まれる。
監査官は淡々と言い放つ。
「これは“最優先調査項目”です。
重大な不正、もしくは犯罪に当たる可能性がありますので」
部屋の空気が、今までに感じたことのないほど凍りついた。
「また、他にも──」
監査項目は続いた。
大小の不始末が次々に読み上げられ、辺りに渦を巻くように重なっていった。
レギュラスは静かに目を閉じた。
──たった数日で、ここまで崩れるのか。
手放した瞬間、
築き上げた秩序が砂の城のように崩壊していく。
恐ろしいほどに、あっけなく。
監査官の声が遠くなる。
「ブラック長官。
後日、あなた個人への事情聴取を行います。
ご覚悟ください」
覚悟。
その単語に、心臓がどくんと強く脈打った。
──覚悟など、とっくの昔にしている。
崩れていく世界の中で、自分が守りたいものはひとつしかない。
アラン。
ステラ。
そして……ブラック家という名の盾。
監査官たちが部屋を出ていく音が響く。
扉が閉まり、静寂が戻る。
レギュラスは机に手をつき、深く息を吐いた。
指先がかすかに震えていた。
魔法省の廊下に、緊張とざわめきが満ちていた。
監査が終わったばかりの法務部から、まるで悪臭のように“不穏”が漏れ出している。
書類の混入、施錠不備、可決の乱発──
そして、狼人間の食殺リストへの“意図的なマグルの紛れ込み”。
そのすべてが、ひとつの名前へと集約されていく。
──レギュラス・ブラック。
「……来たね、ついに」
ジェームズは薄闇の中で息を吐いた。
その目には、冷たい光が宿っている。
隣にはリーマス。
さらにその後ろには、魔法省の調査部門の若い魔法使いたちが数名控えていた。
彼らは皆、騎士団側に近しく、中立を装った改革派だ。
ジェームズは全員に視線を配り、低く告げた。
「今日を逃せば、二度とチャンスは来ない。
レギュラス・ブラックは普段、法務部の全てを掌握している。
だが──今日だけは違う。
奴は“不在の数日間の責任”として、徹底的に調査される側に回った」
「今、いちばん弱っている、と?」と若い魔法使いが問う。
「そうだ。
いつもの鉄壁のブラックじゃない。
……今が“叩けば壊れる”唯一の瞬間だ」
ジェームズの声は静かだが、熱があった。
怒りと正義と復讐と──そしてシリウスへの憐れみが混ざり合っている。
リーマスがファイルを開く。
「再調査希望の案件、それぞれの書類をまとめてきたよ。
孤児院襲撃事件、狼人間の食殺許可法……
それと、前々からジェームズが疑っていた“罪のすり替え”の記録も」
「あのマグルの男の件だ」とジェームズが眉を寄せる。
「あれは、明らかにレギュラスが“誰かの罪を肩代わりさせた”。
公にできなかったが……今日なら切り込める」
若い魔法使いのひとりが緊張した声で問う。
「でも……ブラック家ですよ?
名門中の名門。魔法界の象徴のような一族に、そんな追及を仕掛けたら──」
「相手が誰であろうと関係ない」
ジェームズの声が鋭く降りた。
「俺たちは法に従う。
奴が犯した罪があるなら、全て暴くべきだ。
……たとえ、あの女が泣くことになっても」
その言葉に、リーマスが少しだけ顔を曇らせた。
「ジェームズ、アランのことは──」
「彼女は関係ない。
だが……邪魔になるなら、切り捨てるしかない」
ジェームズはその言葉を飲み込むように低く呟いた。
レギュラスを倒すためなら、
あの沈黙の美しい妻が“盾”になり得ることも、理解していた。
そこへひとりの魔法使いが駆け寄る。
「ポッターさん! 監査の結果、正式に“レギュラスブラックの聴取”が決まりました。
今日、または明日中にも行われる予定です!」
ジェームズは満足げに笑った。
「いいね。……ようやくだ。
奴の作り上げた鉄壁の王国に、ヒビを入れられる」
そして、静かに続ける。
「俺たちは、“聴取の前段階”として──
調査の必要がある案件を“一斉に提出”する。
根拠は全部ある。
奴が何もできない、このタイミングで全て叩きつける」
リーマスが冷静に確認する。
「つまり……
レギュラスが自らの火消しのために走り回っている間に、さらに大きな火をつける、ということだね」
「その通り」
ジェームズは小さく頷く。
「奴が家に籠りがちなのも好都合だ。
ブラック家の名を守りたいなら……ここで騒ぎを起こされるのが一番痛い。
レギュラスは“妻と子のために沈黙する”だろう」
リーマスは内心でアランの顔を思い浮かべる。
あの優しい瞳。
声を失った少女。
その“優しさ”ごと、レギュラスに利用されるのか……
胸の奥が少し痛んだ。
だが、ジェームズは迷わない。
「やるよ。
魔法界の秩序のために──
そして、シリウスのためにも」
ジェームズは書類束を片手に持つ。
その瞳は凍てつくように鋭かった。
「──レギュラス・ブラックを、引きずり下ろす」
その宣言に、周囲の魔法使いたちは息を呑んだ。
歴史が、確かに動き始めた瞬間だった。
監査員たちが去った瞬間、執務室は静けさよりも“荒れ果てた廃墟の空気”のほうが近かった。
机の上、足元、棚の中──
どこを見ても乱雑に引きずり出された書類の束が山脈のように積み上がり、紙の繊維が空気中に漂っている。
レギュラスとバーテミウスは、その惨状の真ん中に立ち尽くしていた。
言葉が、出ない。
監査員が読み上げた“瑕疵”の数々は、もはや単発の失態ではない。
すでに“法務部長官レギュラス・ブラック”の権威そのものを揺るがす破壊力を孕んでいた。
保管期限切れの書類。
施錠されていない棚。
未破棄の内部資料。
そして──狼人間食殺リストへの、意図的なマグルの追加。
あの瞬間、レギュラスの体内で何かが破裂した。
だが、今は怒りも恐怖も、全てが麻痺していた。
「……さて、」とバーテミウスがかすれた声で言った。
その声が、この重苦しすぎる空気に唯一の“動き”を与えた。
「ここから、どう巻き返していきます?
あまりにも量が多い……どれから手をつけるべきか……正直僕には見えませんね」
レギュラスはゆっくりと額を押さえ、深い呼吸を繰り返す。
怒鳴り散らすような気持ちがなかったわけではない。
だが今の彼に残っているのは、ただ途方に暮れた男の静かな息だけだった。
「……明日中には再監査の通知が来るでしょう」
かすかに震える声だった。
「その前に、少なくとも“意図的な工作”を疑われる部分を洗い出さないと……話にならない」
バーテミウスは頷いた。
「手伝いましょう、レギュラス。
僕も巻き込まれているんですから、責任はありますしね」
「……ええ」
その返事は力がなかった。
だが、確かに同意の響きを持っていた。
レギュラスはゆっくり執務机に歩み寄り、散乱した書類をひと束手に取る。
完全に無秩序で、どれが本来どこにあったのかさえ再現が難しい。
この執務室に、今のままこもって再構築をはかる──
それはあまりにも危険だった。
壁一面の棚。
床に散らばった封筒。
圧縮呪文を解かれたままの大量の箱。
監査員が二度来れば、また好き放題かき回される。
「……ここでやるのは、無理ですね」レギュラスが呟く。
「ええ。
いかにも“逃げ道を探してます”と言っているような状態ですし」
バーテミウスも肩を竦めて言う。
「完全にこの場を離れたほうがいい」
レギュラスは奥歯を噛みしめる。
逃げの色を見せるのは屈辱だ。
だが、それ以上に──“この部屋にいて追い詰められる未来”のほうが恐ろしかった。
「……持ち出しましょう。
必要な書類すべて。
屋敷で照合するほうが安全です」
「屋敷、ですか」
「ええ。
外の目が届かないところで整合性を作り直すしかない」
それはレギュラスにとって“最後の砦”を使うという意味だった。
ブラック家の屋敷内なら、監査員たちも容易に踏み込めない。
純血の家の結界の前では、魔法省の権力すら剥がれ落ちる。
ただし──
に、こんな重荷を見せるのは……
内心に重い影が落ちた。
は今、懐妊したばかりで不安定だ。
夫婦の溝も、完全に埋まったわけではない。
ステラもメイラも屋敷にいる。
──そんな場所に、この地獄の書類を持ち込む。
それだけで、胸が軋むほどの罪悪感があった。
だが、それでも。
「……行きましょう、バーテミウス」
「はい」
ふたりは杖を振る。
山のような書類が次々に圧縮され、手のひらに収まるほどの小さな巻物となっていく。
本来なら許可なしに持ち出してはならない資料だが──
今はそんな規則を言っている余裕はなかった。
圧縮を終えた書類を黒いローブの内ポケットに押し込みながら、レギュラスは僅かに震える手を握りしめた。
「……僕が失敗したんじゃない。
だが、僕が責任を取るしかない」
その呟きは、バーテミウスだけに聞こえていた。
「レギュラス、
あなたは誰よりも完璧に職務を遂行してきた。
今回は……周りが愚かすぎただけですよ」
「そうだとしても──
長官は、結果で裁かれる」
レギュラスは乾いた笑みを浮かべた。
まるで刃のような疲労がその声に滲んでいた。
そして──
「行きましょう。
“逃げる”前に、“生き残る算段”を立てないと」
執務室の扉が軋む音を立てて閉じられた。
彼らの影が廊下に伸びる。
それは、これから巻き起こる“嵐”の前触れのようだった。
屋敷に戻ると、レギュラスはまず書斎へ向かおうとした。
しかし足が途中で止まる。
書斎は屋敷の奥、アランから最も離れた位置にある。
そこで長時間こもれば、彼女はきっと不安に沈む。
彼女自身の体も、妊娠の初期で不安定だ。
階段から落ち、まだ痛みも完全には癒えていない。
──離れられない。
こんな時こそ、いちばん近くにいたかった。
「レギュラス? 書斎に向かわないんですか?」
後ろからついてきたバーテミウスが問う。
「……寝室にします」
「は?」
呆れたような声が落ちる。
「書斎は遠すぎる。
アランの様子が心配で……数時間離れるわけにはいきません」
「なるほど」
バーテミウスは腕を組み、にやりとした。
「つまり寝室に僕を連れ込むわけですね。
レギュラス、あなた……なんの性癖です?」
「馬鹿言わないでください」
レギュラスは眉を寄せた。
「あなたと二人きりで書斎に閉じこもるよりは、こっちの方がまだ正常です」
「正常の基準が崩壊してますよ」
「黙ってついてきてください」
軽口を叩く余裕があるのはバーテミウスだけだった。
レギュラスは、焦りと恐怖を隠すように早歩きで寝室の扉を押し開けた。
寝室では、アランがベッドの上で読書をしていた。
柔らかな夜灯の光が翡翠の瞳を照らし、ページをめくる指先が静かに動いている。
その光景は一瞬、レギュラスの心をほっと緩ませた。
だが、すぐに現実が追い付く。
後ろから入ってきたバーテミウスを見て、アランは小さく目を見開いた。
彼女が驚くのも当然だ。
寝室はこの家で最も“外”を排除した空間なのだから。
「すみませんね、奥方」
バーテミウスは軽く会釈をする。
「急に現れて。僕らのクビがかかっているわけなんで……ご理解いただけると助かります」
アランは静かに頷いた。
その仕草は、小鳥が羽を震わせるほど控えめで、どこか不安げだった。
レギュラスは胸がきゅっと締め付けられる。
「アラン……非常にまずい事態が起きまして」
膝をつき、アランの前に視線を合わせる。
「しばらくここで、バーテミウスと書類整理をさせてください」
アランは本を閉じ、ゆっくりと頷いた。
拒絶も責める気配もない。
ただ受け入れるだけ。
それが返って胸を刺す。
「ありがとう……」
小さく呟いて、レギュラスは立ち上がり、書類の圧縮巻物を広げ始めた。
ぱん、と柔らかな音がして、無数の書類が空中に展開される。
魔法でホバリングする大量の羊皮紙が、寝室中に淡く光って舞う。
それは、普段なら「美しい」と感じてもいい魔法の光景だった。
だが今は──ただの“罪の証拠の群れ”にしか見えなかった。
寝室に三つの空気が同居していた。
書類が宙に浮かぶ緊迫感。
バーテミウスの冷静さの裏に潜む皮肉な熱。
そして、ベッドに座り読書を続けるアランの静寂。
どれも崩れそうで、どこか歪だった。
レギュラスは、アランに背を向けて作業をしているときでさえ、彼女の気配を絶えず意識していた。
ページをめくる音。
小さく息を吸う気配。
ステラの昼寝のように穏やかな体温。
心配で、誰にも触れさせたくなくて。
それでも今、自分はその背後で“法務部主宰としての犯罪に近い作業”をしている。
矛盾が胸をえぐる。
「レギュラス、この件はまず分類からですね」
バーテミウスが手際よく書類を分類し始める。
「期限切れ、施錠不備、持ち出し疑惑、可決乱発、そして……“例のリスト”。」
“例のリスト”──
狼人間食殺対象に、意図的に混ぜこまれたマグルの名。
レギュラスはその束を見ただけで、喉が焼けるように痛んだ。
「…… アランの前では、あまりその話題を大きくしないように」
声が震え、低くなる。
「頼みます」
「もちろん」
バーテミウスは軽く頷いたが、その目は鋭かった。
レギュラスがこうまで怯える姿には、長い付き合いの彼ですら見覚えがない。
アランは読書に目を落としたまま、決して邪魔をしようとはせず、ただ静かに二人を受け入れていた。
だが時折、彼女の指先がわずかに震える。
本のページをめくる角度がぎこちなくなる。
表情が僅かに曇る。
──不安を隠している。
レギュラスには、その小さな変化が痛いほどわかる。
守らなければ……
これ以上アランを巻き込ませるわけにはいかない
そう思えば思うほど、背中に重みが増していく。
今、彼は“ アランとの寝室”という最も穏やかな場所で──
“闇の仕事の後処理”をしている。
その矛盾はあまりにも皮肉で、あまりにも残酷だった。
レギュラスは震える指を止めないよう、意識的に深く息を吸った。
「……必ず整えてみせます」
小さく呟く。
アランには聞こえたかどうか分からない。
だが、レギュラスはその言葉を“誓い”のように胸の奥深くへ落とし込んだ。
愛する人を守るために。
自分だけがこの泥を被ればいい。
寝室に並ぶ書類の光が、彼の決意を照らしていた。
レギュラスとバーテミウスは、寝室の中央に広げられた無数の羊皮紙の渦の中で、ほとんど呼吸も忘れたように作業を続けていた。
空中にふわりと並ぶ書類群。
その一枚一枚に魔法省の紋章が刻まれ、どれもが――
たった数日で崩壊し始めた“法務部の信用そのもの”だった。
部屋の奥ではアランがベッドに腰掛けて読む本を静かに伏せる。
その柔らかな気配が、ぎりぎりの綱渡りをしているレギュラスの背中に刺さるようだった。
「さて……」
バーテミウスは書類を数枚宙に引き寄せる。
「この数日の可決ラッシュ……どう誤魔化します?」
言いながらも、彼の目は冗談の色をひとかけらも帯びていない。
むしろ“ここを間違えれば死ぬ”と悟っている冷静さだった。
レギュラスは手を止めず、声だけで返す。
「誤魔化すんじゃない。
なんとか整合性をつけるんです」
その声音は低く乾いていた。
法務部長官としての責務と、すぐそばで本を読むアランへの気遣いと、崖っぷちに追い詰められている焦燥が複雑に混ざった声。
「整合性ねぇ……」
バーテミウスは肩をすくめる。
「このスピードで通った可決に、整合性なんて存在すると思います?」
「思いませんね」
レギュラスは淡々と答える。
「だから“後付け”で作るんです。死に物狂いで」
「あなたらしい」
ふっと皮肉な笑みを浮かべて、バーテミウスは次の束へ手を伸ばした。
「まず、施錠し忘れの件ですが」
バーテミウスが苦々しげに言う。
レギュラスは即答した。
「どう考えても職務怠慢だ」
「ですよねぇ」
バーテミウスはため息をつく。
「どうします? 何か理由を……“不可抗力の呪力干渉”とか?」
「いいえ、そんな言い訳は逆に疑われます」
レギュラスは顔を上げずに続ける。
「この数日間を任せた馬鹿どもを、全員地方に島流ししてやります」
「……豪快ですね」
バーテミウスの口調が少しだけ愉快そうになる。
「処罰としては妥当ですが、まさか本当に“島流し”とは」
「やりますよ。
あれは単なる施錠忘れではなく、重大な信用失墜です」
レギュラスの指先は震えている。
だが書類をめくるスピードは落ちない。
背後のベッドでアランがページを静かにめくる音が、小さく響いた。
耳の奥に沁みる。
その静かな音が、レギュラスの焦る胸をさらに締めつける。
守りたい。
何があっても守らなければ。
アランとステラ――この寝室にある小さな世界を。
だからこそ、今この瞬間も、彼は自分の手を汚している。
「では、保管書類の期限切れは?」
バーテミウスが次の束を掲げる。
レギュラスは即座に答えた。
「これも島流しでいいですね」
「ええ。施錠忘れとセットで処理しましょう」
「そうしましょう」
息を合わせるように、二人は書類を分類していく。
寝室の空気はしんと静まり返って、
遠くで灯るランプの光が羊皮紙を淡く照らす。
その中で、彼らはまるで外科手術を行う医師のように慎重に、
ひとつひとつの証拠を“安全な場所”へと押し込んでいく。
「……ふぅ」
レギュラスが一枚の羊皮紙を手に、静かに息を吐いた。
焦燥、緊張、恐怖。
それらが重なり、まるで肺に重石が乗っているようだ。
「少し、水飲みます?」とバーテミウス。
「いえ……大丈夫です」
レギュラスは背後に視線だけ向けた。
アランはまだ読書をしている。
けれどその瞳の奥に、どこか不安の影が見えた。
ほんの小さな影。
それを見落とすことができるほど、彼は鈍くない。
レギュラスは再び書類へ目を落とし、指を動かし始めた。
逃げ道を作るための作業は、まだ始まったばかりだった。
バーテミウスはようやく椅子から背を離し、ぎし、と背伸びをした。
何時間、ぶっ通しでこの寝室に籠もっているのだろう。
ランプの光は弱まり、ゆらゆらと寝室の壁を揺らしている。
その揺らぎの中、アランはベッドの端で本を閉じ、静かに目を閉じていた。
その姿は息を呑むほど静謐で、端正で、儚い。
あたかも“この屋敷の祈りそのもの”のようだった。
それは夜の空気を張り詰めたまま働き続ける男ふたりとは違いすぎて、どこか現実味がなかった。
まるで絵画の中の人物。
そう、美しいという言葉では足りない──神聖ですらあった。
「……はぁ、もう背中が折れそうですね」
バーテミウスはぼそりと呟きながら、縮こまった肩を回した。
レギュラスは無言で書類の山を整理し続けている。
彼自身も限界に近いはずなのに、アランの眠る寝室で声を荒げることもため息を吐くことすら控えている。
その気遣いを見れば、レギュラスという男が何に縋り、何を守ろうとしているのかが痛いほどわかる。
そして――
その優しさこそが、今この状況をさらに追い込んでいることも。
「……だいたい、形はできてきましたね」
バーテミウスは羊皮紙の束に魔法の光を当てながら言った。
「ええ……あとは、最大の問題だ」
二人が同時に視線を向けたのは、ベッドとは反対側の机に置かれた
狼人間によるマグル食殺許可リスト。
そして、その末尾。
不自然に紛れ込んだ“無関係のマグルたち”の名前。
彼らは本来、標的ではない。
なのに数日間レギュラスが不在にしている間に、なぜかリストに入れられ、承認印が押されていた。
それは最悪の汚点だった。
だれかが意図的に仕組んだ。
魔法省内部の人間の悪意か、あるいは陥れるための罠か。
「……この件だけは、本気で死にますね、僕ら」
バーテミウスが冗談めかして言うが、その声には笑いの色はない。
「死にはしませんが……最悪、職務剥奪でしょう」
レギュラスは低く答え、眉間を押さえた。
本当はわかっている。
これは“失職”で済む類の不始末ではない。
政治的に利用され、騎士団に叩き潰され、名誉を剥がされ、家名すら揺らぎかねない。
それほどに深刻だった。
「……で、どうします?」
バーテミウスは机の角を指で叩く。
レギュラスは長く息を吐いた。
そして、決意の色を濃くしながら言った。
「――建て替えます」
「やっぱり、それしかないですよね」
二人の視線が鋭く交錯する。
「把握する時間もない。犯人を特定する時間もない。
となれば……記憶の改竄をして、すべての罪を“ひとり”に負わせる」
「我々の陣営の、お得意の手じゃないですか」
バーテミウスは乾いた笑いを漏らす。
それは最悪にして、最善の方法。
最も汚れているが、最も確実。
魔法界の闇が長い歴史で研ぎ澄ましてきた、犯罪すれすれの政治工作。
「候補は?」とバーテミウス。
「……今日、施錠を放置した人間がいたでしょう。
あの者に被らせます」
「妥当ですね」
バーテミウスは淡々と頷く。
「正直……あのレベルの怠慢、むしろちょうどいい」
「本人にとっては不幸でしょうが」
「ええ。でも……我々が死ぬよりは、ね」
淡々と、とてつもなく残酷な会話を交わす二人。
その背後でアランは静かに目を閉じ、胸を上下させて眠っている。
その姿が、痛かった。
レギュラスにとっては特に。
アランは知らない。
夫がいま何をしているか、どれほど汚れた政治の泥に手を突っ込み、必死に家を守ろうとしているのか。
そして、これこそが彼の“生きてきた世界”であることも。
守るしかない……
この人を、ステラを……
その思いだけがレギュラスの精神を支えていた。
「……さて」
バーテミウスはリストをぱたんと閉じる。
「建て替える候補も決まった。あとは……」
「明朝までに“全ての整合性”を作り上げる」
レギュラスは淡々と告げた。
バーテミウスは小さく口笛を鳴らす。
「鬼ですね、あなた」
「守るべきものがあるので」
その一言は、寝室の空気を震わせるほどの重みを持っていた。
ランプの光が弱まり、夜はさらに深まっていく。
ベッドで眠るアランの、静かな呼吸。
レギュラスの震える指先。
バーテミウスの冷静な計算。
机に積まれた膨大な書類の影。
この寝室は、今だけ“戦場”だった。
外は霜が降りたような静けさで、屋敷の石壁まで冷えを帯びている。
レギュラスはうっすら目を開けた。
微かな気配──肩口に触れてくる柔らかな重みで、眠りが浅くほどけていく。
アランが、身を小さく捩らせながら寄ってきていた。
無意識なのだろう。
けれど、そのしぐさはあまりに自然で、あまりに愛おしかった。
彼女の頬は冷えていて、指先まで少し硬い。
細い肩が震えており、まるで温を求める小動物のように胸元へ寄り添ってくる。
それだけのことなのに、レギュラスの胸にじんわりと熱が生まれた。
「……寒いですか?」
低く囁く。
アランは眠りの縁からゆっくりと指を動かし、
少しだけ と言うように空気を撫でた。
その仕草が優しくて、弱くて、
自分を頼ってくれているようで──
胸がきゅう、と締めつけられた。
守られているのは、むしろ自分の方なのではないかとさえ思えるほどに。
「……そうですか」
囁く声が、自分でも驚くほど柔らかかった。
もっと暖めてやりたくて、
そっと足を絡めて布団の中に引き寄せる。
手を包むように握り返すと、アランはふわりと安堵したように息を洩らし、
胸に顔を寄せた。
その表情は、言葉より雄弁だった。
ああ、この人は今、自分のそばを求めている。
たったそれだけのことで、胸の奥底から満たされる。
彼女が距離を置き始めたあの日から、
どれほど必死になって彼女の心に触れようとしただろうか。
触れるたびに壊してしまいそうで、
抱き寄せるたびに怯えさせそうで、
踏み込むたびに自分が間違えてしまうようで。
それなのに今──
その手が、足が、体温が、
こんなふうに自分へ擦り寄ってくる。
それだけで、息が苦しくなるほど救われた。
アランのまぶたは重く、眠りの中のように穏やかだ。
頬は自分の胸に触れてほんのり温まり始めている。
レギュラスはその小さな震えを包み込むように抱き寄せた。
自分の体温が彼女の冷えを追い払い、
胸元に凭れかかる呼吸がすこしずつ落ち着いていく。
満たされる。
こんなにも、ただ寄り添われただけで。
指を絡めた手から伝わる微かな力。
ゆっくり上下する肩の温度。
肌に触れる吐息の柔らかさ。
そのどれもが、もう二度と失いたくないと願わせる。
レギュラスはアランの髪を指先でそっと梳きながら、
胸の奥で静かに呟いた。
どうか、この温もりを永遠に手放さずにいられるように。
久方ぶりに魔法省法務部の廊下を歩くと、空気そのものがほんのわずかに変わっているように感じた。
いつもの乾いた紙の匂いに混じり、どこか軽薄な活気のようなものが漂っている。
レギュラスは胸の奥に嫌なざわつきを覚えながら執務室の扉を開いた。
机の上には、数日分の決裁書類が山のように積まれていた。
普段の倍どころではない。三倍、四倍──いや、五倍近い量になっている。
嫌な予感がした。
レギュラスは一番上の書類を手に取り、目を走らせた。
1枚、2枚──
そして3枚目で、眉がぴくりと震えた。
「マグル孤児院襲撃事件の再調査許可」
「狼人間食殺許可法の撤廃に向けた仮査定」
「最新の武装マグル衝突事件における“マグル側情状酌量”の仮承認」
「アズカバン拘束予定だった武装マグル数名の“身柄一時保留”許可」
「騎士団側の提出した“中立委員会設立”案の一次通過」
「闇陣営に関連しうる捜査案件の一時凍結」
紙面に並ぶ言葉一つ一つが、喉に刺さるような冷たさを帯びていた。
数日前のレギュラスがいれば、瞬時に却下印を叩いていたはずのものばかりだった。
彼は紙の束をもう一度めくる。
数十枚すべてが、“騎士団側に有利な決裁”ばかりだった。
喉の奥がじりじりと熱を帯びる。
胸が冷える。
頭の奥で何かが弾けた。
「……何を、やっているんです……」
呟きが漏れた。
中立的な立場──
レギュラスが不在の間、その“守り手”として配置していたのは、光側にも闇側にも偏らない冷静な判断ができる者たちだった。
あえて闇側の部下に託さなかった。
それは、レギュラスが権力を私物化しているという批判を避けるためだった。
父オリオンからも、他の純血家系からも、そして何より魔法省内部からの視線を考えれば、それが最も正しい選択だった。
──そのはずだった。
たった数日で、光の騎士団側の望む政策が “ほぼ全て” 通ってしまっているなど、ありえない。
レギュラスは掌を額に押し当て、深く息を吐いた。
任せる相手を間違えた。
間違えすぎた。
「……あの愚か者どもが……」
罵倒というよりは、失望に似たかすれた声だった。
闇側に任せれば偏る。
光側に任せれば暴走する。
だから中立に託す──その判断が、最悪の結果を招いてしまった。
レギュラスは書類を一枚一枚確認しながら、
その度に苛立ちと焦りが胸に積み上がっていくのを感じた。
紙をめくる音だけが部屋に響く。
冷たい冬の光が窓から差し込み、机に積まれた書類の影が長く伸びていた。
数日の不在。
それだけのことが、この世界の秩序さえ揺るがせる。
法務部は、レギュラスがいなければこんなにも脆い。
思い知らされる現実に、彼は唇を固く結んだ。
アランのところに帰りたい。支えたい──
彼女とステラのそばで過ごしたい。
その願いは、ほんのわずかな時間だけ叶えられた。
しかし現実は残酷だ。
離れただけで、こうして世界が歪む。
レギュラスはゆっくりと目を伏せた。
「……まずは、すべてをひっくり返すところからですね。」
その決意は、氷のように静かで、鋭かった。
執務室の片隅に、積み上がった決裁書類の山が不穏な影を落としていた。
数日の不在で崩れかけている秩序を前に、ただでさえ頭を抱えたくなる状況だというのに──
さらに追い打ちをかけるように、最悪の知らせが飛び込んできた。
「本日より臨時監査が入ります」
使いの魔法使いが淡々と告げた瞬間、レギュラスは目を閉じたくなった。
──よりによって今日か。
机に置いていた羽ペンの先が震える。
自分が持ち出している資料はない。
しかし、問題はそこではなかった。
レギュラスがいない間、あの馬鹿ども──
中立だと信じて任せた者たち──
彼らが正しく保管し、保管期限を遵守し、適切に廃棄処理を行っているかどうか。
怪しい。
あまりにも怪しい。
レギュラスは静かに息を吸い込んだ。
喉の奥が乾く。
冷たい汗が背中を伝う。
「……はあ……」
深いため息が勝手に漏れた。
久しくついていなかったような、骨の芯から疲労を吐き出すため息だった。
監査の日程が事前に知らされることはめったにない。
だからこそ、何年も前から徹底して準備してきた。
しかし今回は、数日ぶりに出勤したばかりのぶっつけ本番。
──最悪のタイミング。
嫌な予感しかしなかった。
しばらくすると、重い扉がノックもなく開かれた。
ローブの裾を翻し、魔法監査官たちが五名、音もなく入室してくる。
淡い金刺繍の入った監査官の徽章が、やけに冷たく光って見えた。
「本日、臨時監査を開始させていただきます。
つきましては全員、一度フロアからご退出ください。
おおよそ二時間ほどで終える予定です」
淡々とした声。
氷の刃で背筋をなぞられたような感覚。
レギュラスは慌てず、深く一礼した。
「かしこまりました。すぐに移動いたします」
その返事は完璧に整った声色だった。
だが内心は、打って変わって嵐のようだった。
──やめてくれ。
──今、開けるな。
──その引き出しの中を見るな。
──頼むから、あいつらが触った場所だけは……!
頭の中で叫んでいる自分がいた。
監査官たちが部屋の中に散っていく。
魔法の光が棚や引き出しに淡く触れ、書類の周囲を一斉に照らし出す。
すべてが露わにされる。
もはや隠す術はない。
レギュラスは胸の奥でどくどくと高鳴る鼓動を感じた。
声にならないほどの恐怖が、腹の底からせり上がってくる。
──なにが出てくる?
彼の掌は知らず汗ばんでいた。
ローブの内側で指先が微かに震える。
さきほどまで確認した“騎士団側に有利な可決”の数々。
それだけでも問題は大きい。
だがそれ以上に恐ろしいのは、
書庫・廃棄室・保管庫──あの馬鹿どもが触った場所すべてに“致命的な穴”がある可能性。
魔法省では、些細な記録漏れが国家反逆罪級の扱いになることさえある。
レギュラスは喉の奥で乾いた息を吸い込む。
ぶっつけ本番の監査など、いつ以来だろうか。
記憶を辿れば、かつて学生上がりで法務部に配属されたばかりの頃──
まだ何の信用もなく、すべての判断に疑いを向けられ続けていたあの時期以来だ。
その頃の胸苦しさが甦る。
吐き気に似た焦燥感が足元から這い上がってくる。
監査官の声が響いた。
「では、施錠いたします。
開始しますので、ご退出を」
「承知しました」
レギュラスは振り返りもせず、扉へ向かった。
──心臓がうるさい。
──こんなにも……嫌な予感しかしない。
扉が背後で重く閉まる。
まるで処刑台の音のようだった。
臨時監査によって執務室を追い出されたレギュラスは、重い扉が閉じる音を背に受けながら、ゆっくりと廊下に歩み出た。
冷たい石畳の床が、妙に心臓の鼓動を反響させる。
胸の奥では不安の芯がゆっくり膨れ上がり、脈と同じ速さで疼き続けていた。
廊下にはほとんど人の気配がなかった。
監査官たちが入室した瞬間、このフロア全体が一時的に封鎖され、人払いされているのだろう。
広い空間は静まり返り、魔法省だとは思えないほど張りつめた空気が漂っていた。
「……随分とやられましたね、これは」
声がして振り返ると、壁にもたれかかったバーテミウス・クラウチJr.がいた。
腕を組み、珍しく真面目な顔をしている。
軽口を叩いて場を崩すような余裕は、さすがの彼にもなかったのだろう。
「来ていたんですか、バーテミウス」
「ええ。あなたが“やばい顔”をして戻ってくるのが目に見えましたので」
いつもの茶化しが、今日は乾いた冗談のように響く。
レギュラスは目を細め、わずかに首を横に振った。
「やばい顔ではなく、普通に恐れているだけです」
「それを“やばい”と言うんですよ」
バーテミウスは肩をすくめる。
しかしその眼差しの奥には、僅かながら本気の心配が宿っていた。
「あなたがいない数日で、可決されたものを確認しました?」
「……見ましたよ。胃に穴が開くかと思うほどに」
「でしょうね。僕もひっくり返りそうでしたよ。
反マグル拘束の減罰関連、孤児院襲撃の再調査申請、狼人間食殺許可法の撤廃……
よくもまあ、これだけ一気に通しましたよね」
レギュラスは額に手を当てた。
廊下の冷気では抑えきれないほど、頭の中が熱を帯びていた。
「監査が入ったら、間違いなく“この可決一覧”に監査官の目が行きます。
まとめて通した理由、担当者、経緯の説明……全て詰まれるでしょう」
「……でしょうね」
「あなた、今から返答全て整えられます?」
「無理でしょうね」
自嘲気味に言うレギュラスに、バーテミウスはふっと笑った。
「ほう、珍しい。
あのレギュラス・ブラックが“無理”と言いました」
「これを無理と言わない人間がいたら、正気を疑いたくなりますよ」
レギュラスは背中の壁に軽くもたれ、深く息を吐いた。
胸がざわめく。
微かな吐き気さえ混ざっていた。
「…… アランはどうです?」と、バーテミウスは不意に話題を変えた。
鋭い眼がレギュラスの横顔を観察している。
「体は……万全ではない。
懐妊も、医務魔法使いは『見送るべき』と言ったほどで」
「……あなたの顔を見ればわかりますよ。
心配なんでしょうね」
レギュラスは目を閉じた。
アランの冷えた瞳。
距離を置くようになった微かな仕草。
声のない彼女の中で何が起きているのか、もう読み取れなくなりつつある。
──失いたくない。
──あれ以上離れられたら、自分は壊れる。
その恐怖が、今の仕事の焦りと絡まり、胸の奥でひどく軋み続けていた。
「……今、非常に悪い流れが続いています」
「ですね。家庭と職場、両方地獄」
「地獄なんて軽い言葉で済ませたくない心地ですよ」
「ならば地獄以上ですかね。まあ……」
バーテミウスは壁から身体を離し、軽く肩を叩いた。
「戻ってくるまで、僕が監査官に少しぐらい牽制をかけておきますよ。
あなたのいない数日がどれほど混乱だったのか、上手く伝えておきます」
「……助かります」
「ただし」
バーテミウスは笑う。
だがその目は冗談の色がない。
「本気で立て直さないと、今回は本当に首が飛びますよ、レギュラス。
あなた自身の首だけじゃない。
“守りたい者”ごと、全部巻き込まれかねません」
レギュラスの胸が、重く沈んだ。
その言葉は脅しではない。
事実だ。
「……わかっています」
「ならいい。
さ、覚悟して待ちましょう。
監査は“戻れない真実”をほじくり返すのが大好きですから」
バーテミウスの声が、廊下の冷えた空気にひどく響いた。
レギュラスは、強く拳を握った。
──どうか。
──これ以上、何も壊れないでほしい。
廊下には、監査室の奥から淡い魔力が波のように漏れ続けていた。
扉の向こうで、何かが暴かれようとしている音がした。
「監査終了です。長官、こちらへ」
呼ばれた瞬間、胸がひとつ大きく跳ねた。
レギュラスはゆっくりと執務室へ戻る。
扉を開けると、複数の監査官が淡々とした顔で列を作り、机には厚い書類束が積まれていた。
「ブラック長官。まず、書類の保管期限について」
一番端の監査官が低い声で告げる。
レギュラスは無言で頷くしかなかった。
「この数日間、期限切れ書類が未破棄のまま残っています。
本来であれば、破棄魔法処理室へ送られているはずの書類です。
……あなたがいない間に放置された、とみられます」
心臓に冷たい指が触れたような感覚がした。
いつもなら誰より真っ先に処理し、瑕疵のないよう整えてきた場所だ。
その秩序が、たった数日で崩れた。
「次に──ここ数日で異様な可決ラッシュが起きています」
別の監査官が、可決一覧を魔法で宙に広げる。
銀色のリストがパラパラと宙をめくり、数十の項目が光る。
「今まで長く否決し続けてきた案件が、あなたのいない短期間に一挙に可決されている。
この変化は不可解です。
今まで否決していた理由は何です? 法的な理由? 倫理的理由?
……それとも、あなた個人の判断基準ですか?」
喉が痩せて、声が出なかった。
「いずれにせよ、これは後日の“長官判断の是非調査”が必須となります。
レギュラス・ブラックという個人の偏りが、法務部の判断に影響していなかったか──
それを調べさせていただきます」
──最悪の言葉が、静かに胸に突き刺さる。
次の監査官が、鍵を指先で弄びながら言う。
「本来施錠されていなければならない棚が、複数開いた状態で放置されていました。
管理台帳にも施錠記録がありません」
ぱちん、と鍵が軽く鳴った。
その小さな音がやけに大きく耳に響いた。
「持ち出された資料がある可能性があります。
その点も後日、徹底的に調査させていただきます」
レギュラスの背筋がぞくりと冷えた。
だが──
その次に読み上げられた項目が、すべての不安を凌駕した。
「そして……狼人間の“マグル食殺許可リスト”について」
空気が、ぴしりと裂けたように感じた。
「対象外のマグルが──意図的に紛れ込まされている痕跡があります」
レギュラスは息を呑んだ。
世界が急速に狭まっていくような圧迫感が走る。
「この数日間に追加された記録ですが……
“書き換え”ではなく“混入”の痕跡がある。
意図的である可能性が高い。
法務部長官の承認印まで仮押しされています」
「……仮押し?」レギュラスの声がかすれた。
「ええ。あなたが不在の間に、長官印を扱った者がいる可能性があるということです」
胸に氷柱が刺さったようだった。
吐き気と怒りと恐怖が混ざり合い、視界が一瞬だけ白く霞む。
──法務部長官の印章を使って、
──“リストに存在しないマグル”を狼の餌にしようとした者がいる。
もしこれが明るみに出れば、
己だけではなく、ブラック家が、アランが、ステラが──
すべて巻き込まれる。
監査官は淡々と言い放つ。
「これは“最優先調査項目”です。
重大な不正、もしくは犯罪に当たる可能性がありますので」
部屋の空気が、今までに感じたことのないほど凍りついた。
「また、他にも──」
監査項目は続いた。
大小の不始末が次々に読み上げられ、辺りに渦を巻くように重なっていった。
レギュラスは静かに目を閉じた。
──たった数日で、ここまで崩れるのか。
手放した瞬間、
築き上げた秩序が砂の城のように崩壊していく。
恐ろしいほどに、あっけなく。
監査官の声が遠くなる。
「ブラック長官。
後日、あなた個人への事情聴取を行います。
ご覚悟ください」
覚悟。
その単語に、心臓がどくんと強く脈打った。
──覚悟など、とっくの昔にしている。
崩れていく世界の中で、自分が守りたいものはひとつしかない。
アラン。
ステラ。
そして……ブラック家という名の盾。
監査官たちが部屋を出ていく音が響く。
扉が閉まり、静寂が戻る。
レギュラスは机に手をつき、深く息を吐いた。
指先がかすかに震えていた。
魔法省の廊下に、緊張とざわめきが満ちていた。
監査が終わったばかりの法務部から、まるで悪臭のように“不穏”が漏れ出している。
書類の混入、施錠不備、可決の乱発──
そして、狼人間の食殺リストへの“意図的なマグルの紛れ込み”。
そのすべてが、ひとつの名前へと集約されていく。
──レギュラス・ブラック。
「……来たね、ついに」
ジェームズは薄闇の中で息を吐いた。
その目には、冷たい光が宿っている。
隣にはリーマス。
さらにその後ろには、魔法省の調査部門の若い魔法使いたちが数名控えていた。
彼らは皆、騎士団側に近しく、中立を装った改革派だ。
ジェームズは全員に視線を配り、低く告げた。
「今日を逃せば、二度とチャンスは来ない。
レギュラス・ブラックは普段、法務部の全てを掌握している。
だが──今日だけは違う。
奴は“不在の数日間の責任”として、徹底的に調査される側に回った」
「今、いちばん弱っている、と?」と若い魔法使いが問う。
「そうだ。
いつもの鉄壁のブラックじゃない。
……今が“叩けば壊れる”唯一の瞬間だ」
ジェームズの声は静かだが、熱があった。
怒りと正義と復讐と──そしてシリウスへの憐れみが混ざり合っている。
リーマスがファイルを開く。
「再調査希望の案件、それぞれの書類をまとめてきたよ。
孤児院襲撃事件、狼人間の食殺許可法……
それと、前々からジェームズが疑っていた“罪のすり替え”の記録も」
「あのマグルの男の件だ」とジェームズが眉を寄せる。
「あれは、明らかにレギュラスが“誰かの罪を肩代わりさせた”。
公にできなかったが……今日なら切り込める」
若い魔法使いのひとりが緊張した声で問う。
「でも……ブラック家ですよ?
名門中の名門。魔法界の象徴のような一族に、そんな追及を仕掛けたら──」
「相手が誰であろうと関係ない」
ジェームズの声が鋭く降りた。
「俺たちは法に従う。
奴が犯した罪があるなら、全て暴くべきだ。
……たとえ、あの女が泣くことになっても」
その言葉に、リーマスが少しだけ顔を曇らせた。
「ジェームズ、アランのことは──」
「彼女は関係ない。
だが……邪魔になるなら、切り捨てるしかない」
ジェームズはその言葉を飲み込むように低く呟いた。
レギュラスを倒すためなら、
あの沈黙の美しい妻が“盾”になり得ることも、理解していた。
そこへひとりの魔法使いが駆け寄る。
「ポッターさん! 監査の結果、正式に“レギュラスブラックの聴取”が決まりました。
今日、または明日中にも行われる予定です!」
ジェームズは満足げに笑った。
「いいね。……ようやくだ。
奴の作り上げた鉄壁の王国に、ヒビを入れられる」
そして、静かに続ける。
「俺たちは、“聴取の前段階”として──
調査の必要がある案件を“一斉に提出”する。
根拠は全部ある。
奴が何もできない、このタイミングで全て叩きつける」
リーマスが冷静に確認する。
「つまり……
レギュラスが自らの火消しのために走り回っている間に、さらに大きな火をつける、ということだね」
「その通り」
ジェームズは小さく頷く。
「奴が家に籠りがちなのも好都合だ。
ブラック家の名を守りたいなら……ここで騒ぎを起こされるのが一番痛い。
レギュラスは“妻と子のために沈黙する”だろう」
リーマスは内心でアランの顔を思い浮かべる。
あの優しい瞳。
声を失った少女。
その“優しさ”ごと、レギュラスに利用されるのか……
胸の奥が少し痛んだ。
だが、ジェームズは迷わない。
「やるよ。
魔法界の秩序のために──
そして、シリウスのためにも」
ジェームズは書類束を片手に持つ。
その瞳は凍てつくように鋭かった。
「──レギュラス・ブラックを、引きずり下ろす」
その宣言に、周囲の魔法使いたちは息を呑んだ。
歴史が、確かに動き始めた瞬間だった。
監査員たちが去った瞬間、執務室は静けさよりも“荒れ果てた廃墟の空気”のほうが近かった。
机の上、足元、棚の中──
どこを見ても乱雑に引きずり出された書類の束が山脈のように積み上がり、紙の繊維が空気中に漂っている。
レギュラスとバーテミウスは、その惨状の真ん中に立ち尽くしていた。
言葉が、出ない。
監査員が読み上げた“瑕疵”の数々は、もはや単発の失態ではない。
すでに“法務部長官レギュラス・ブラック”の権威そのものを揺るがす破壊力を孕んでいた。
保管期限切れの書類。
施錠されていない棚。
未破棄の内部資料。
そして──狼人間食殺リストへの、意図的なマグルの追加。
あの瞬間、レギュラスの体内で何かが破裂した。
だが、今は怒りも恐怖も、全てが麻痺していた。
「……さて、」とバーテミウスがかすれた声で言った。
その声が、この重苦しすぎる空気に唯一の“動き”を与えた。
「ここから、どう巻き返していきます?
あまりにも量が多い……どれから手をつけるべきか……正直僕には見えませんね」
レギュラスはゆっくりと額を押さえ、深い呼吸を繰り返す。
怒鳴り散らすような気持ちがなかったわけではない。
だが今の彼に残っているのは、ただ途方に暮れた男の静かな息だけだった。
「……明日中には再監査の通知が来るでしょう」
かすかに震える声だった。
「その前に、少なくとも“意図的な工作”を疑われる部分を洗い出さないと……話にならない」
バーテミウスは頷いた。
「手伝いましょう、レギュラス。
僕も巻き込まれているんですから、責任はありますしね」
「……ええ」
その返事は力がなかった。
だが、確かに同意の響きを持っていた。
レギュラスはゆっくり執務机に歩み寄り、散乱した書類をひと束手に取る。
完全に無秩序で、どれが本来どこにあったのかさえ再現が難しい。
この執務室に、今のままこもって再構築をはかる──
それはあまりにも危険だった。
壁一面の棚。
床に散らばった封筒。
圧縮呪文を解かれたままの大量の箱。
監査員が二度来れば、また好き放題かき回される。
「……ここでやるのは、無理ですね」レギュラスが呟く。
「ええ。
いかにも“逃げ道を探してます”と言っているような状態ですし」
バーテミウスも肩を竦めて言う。
「完全にこの場を離れたほうがいい」
レギュラスは奥歯を噛みしめる。
逃げの色を見せるのは屈辱だ。
だが、それ以上に──“この部屋にいて追い詰められる未来”のほうが恐ろしかった。
「……持ち出しましょう。
必要な書類すべて。
屋敷で照合するほうが安全です」
「屋敷、ですか」
「ええ。
外の目が届かないところで整合性を作り直すしかない」
それはレギュラスにとって“最後の砦”を使うという意味だった。
ブラック家の屋敷内なら、監査員たちも容易に踏み込めない。
純血の家の結界の前では、魔法省の権力すら剥がれ落ちる。
ただし──
に、こんな重荷を見せるのは……
内心に重い影が落ちた。
は今、懐妊したばかりで不安定だ。
夫婦の溝も、完全に埋まったわけではない。
ステラもメイラも屋敷にいる。
──そんな場所に、この地獄の書類を持ち込む。
それだけで、胸が軋むほどの罪悪感があった。
だが、それでも。
「……行きましょう、バーテミウス」
「はい」
ふたりは杖を振る。
山のような書類が次々に圧縮され、手のひらに収まるほどの小さな巻物となっていく。
本来なら許可なしに持ち出してはならない資料だが──
今はそんな規則を言っている余裕はなかった。
圧縮を終えた書類を黒いローブの内ポケットに押し込みながら、レギュラスは僅かに震える手を握りしめた。
「……僕が失敗したんじゃない。
だが、僕が責任を取るしかない」
その呟きは、バーテミウスだけに聞こえていた。
「レギュラス、
あなたは誰よりも完璧に職務を遂行してきた。
今回は……周りが愚かすぎただけですよ」
「そうだとしても──
長官は、結果で裁かれる」
レギュラスは乾いた笑みを浮かべた。
まるで刃のような疲労がその声に滲んでいた。
そして──
「行きましょう。
“逃げる”前に、“生き残る算段”を立てないと」
執務室の扉が軋む音を立てて閉じられた。
彼らの影が廊下に伸びる。
それは、これから巻き起こる“嵐”の前触れのようだった。
屋敷に戻ると、レギュラスはまず書斎へ向かおうとした。
しかし足が途中で止まる。
書斎は屋敷の奥、アランから最も離れた位置にある。
そこで長時間こもれば、彼女はきっと不安に沈む。
彼女自身の体も、妊娠の初期で不安定だ。
階段から落ち、まだ痛みも完全には癒えていない。
──離れられない。
こんな時こそ、いちばん近くにいたかった。
「レギュラス? 書斎に向かわないんですか?」
後ろからついてきたバーテミウスが問う。
「……寝室にします」
「は?」
呆れたような声が落ちる。
「書斎は遠すぎる。
アランの様子が心配で……数時間離れるわけにはいきません」
「なるほど」
バーテミウスは腕を組み、にやりとした。
「つまり寝室に僕を連れ込むわけですね。
レギュラス、あなた……なんの性癖です?」
「馬鹿言わないでください」
レギュラスは眉を寄せた。
「あなたと二人きりで書斎に閉じこもるよりは、こっちの方がまだ正常です」
「正常の基準が崩壊してますよ」
「黙ってついてきてください」
軽口を叩く余裕があるのはバーテミウスだけだった。
レギュラスは、焦りと恐怖を隠すように早歩きで寝室の扉を押し開けた。
寝室では、アランがベッドの上で読書をしていた。
柔らかな夜灯の光が翡翠の瞳を照らし、ページをめくる指先が静かに動いている。
その光景は一瞬、レギュラスの心をほっと緩ませた。
だが、すぐに現実が追い付く。
後ろから入ってきたバーテミウスを見て、アランは小さく目を見開いた。
彼女が驚くのも当然だ。
寝室はこの家で最も“外”を排除した空間なのだから。
「すみませんね、奥方」
バーテミウスは軽く会釈をする。
「急に現れて。僕らのクビがかかっているわけなんで……ご理解いただけると助かります」
アランは静かに頷いた。
その仕草は、小鳥が羽を震わせるほど控えめで、どこか不安げだった。
レギュラスは胸がきゅっと締め付けられる。
「アラン……非常にまずい事態が起きまして」
膝をつき、アランの前に視線を合わせる。
「しばらくここで、バーテミウスと書類整理をさせてください」
アランは本を閉じ、ゆっくりと頷いた。
拒絶も責める気配もない。
ただ受け入れるだけ。
それが返って胸を刺す。
「ありがとう……」
小さく呟いて、レギュラスは立ち上がり、書類の圧縮巻物を広げ始めた。
ぱん、と柔らかな音がして、無数の書類が空中に展開される。
魔法でホバリングする大量の羊皮紙が、寝室中に淡く光って舞う。
それは、普段なら「美しい」と感じてもいい魔法の光景だった。
だが今は──ただの“罪の証拠の群れ”にしか見えなかった。
寝室に三つの空気が同居していた。
書類が宙に浮かぶ緊迫感。
バーテミウスの冷静さの裏に潜む皮肉な熱。
そして、ベッドに座り読書を続けるアランの静寂。
どれも崩れそうで、どこか歪だった。
レギュラスは、アランに背を向けて作業をしているときでさえ、彼女の気配を絶えず意識していた。
ページをめくる音。
小さく息を吸う気配。
ステラの昼寝のように穏やかな体温。
心配で、誰にも触れさせたくなくて。
それでも今、自分はその背後で“法務部主宰としての犯罪に近い作業”をしている。
矛盾が胸をえぐる。
「レギュラス、この件はまず分類からですね」
バーテミウスが手際よく書類を分類し始める。
「期限切れ、施錠不備、持ち出し疑惑、可決乱発、そして……“例のリスト”。」
“例のリスト”──
狼人間食殺対象に、意図的に混ぜこまれたマグルの名。
レギュラスはその束を見ただけで、喉が焼けるように痛んだ。
「…… アランの前では、あまりその話題を大きくしないように」
声が震え、低くなる。
「頼みます」
「もちろん」
バーテミウスは軽く頷いたが、その目は鋭かった。
レギュラスがこうまで怯える姿には、長い付き合いの彼ですら見覚えがない。
アランは読書に目を落としたまま、決して邪魔をしようとはせず、ただ静かに二人を受け入れていた。
だが時折、彼女の指先がわずかに震える。
本のページをめくる角度がぎこちなくなる。
表情が僅かに曇る。
──不安を隠している。
レギュラスには、その小さな変化が痛いほどわかる。
守らなければ……
これ以上アランを巻き込ませるわけにはいかない
そう思えば思うほど、背中に重みが増していく。
今、彼は“ アランとの寝室”という最も穏やかな場所で──
“闇の仕事の後処理”をしている。
その矛盾はあまりにも皮肉で、あまりにも残酷だった。
レギュラスは震える指を止めないよう、意識的に深く息を吸った。
「……必ず整えてみせます」
小さく呟く。
アランには聞こえたかどうか分からない。
だが、レギュラスはその言葉を“誓い”のように胸の奥深くへ落とし込んだ。
愛する人を守るために。
自分だけがこの泥を被ればいい。
寝室に並ぶ書類の光が、彼の決意を照らしていた。
レギュラスとバーテミウスは、寝室の中央に広げられた無数の羊皮紙の渦の中で、ほとんど呼吸も忘れたように作業を続けていた。
空中にふわりと並ぶ書類群。
その一枚一枚に魔法省の紋章が刻まれ、どれもが――
たった数日で崩壊し始めた“法務部の信用そのもの”だった。
部屋の奥ではアランがベッドに腰掛けて読む本を静かに伏せる。
その柔らかな気配が、ぎりぎりの綱渡りをしているレギュラスの背中に刺さるようだった。
「さて……」
バーテミウスは書類を数枚宙に引き寄せる。
「この数日の可決ラッシュ……どう誤魔化します?」
言いながらも、彼の目は冗談の色をひとかけらも帯びていない。
むしろ“ここを間違えれば死ぬ”と悟っている冷静さだった。
レギュラスは手を止めず、声だけで返す。
「誤魔化すんじゃない。
なんとか整合性をつけるんです」
その声音は低く乾いていた。
法務部長官としての責務と、すぐそばで本を読むアランへの気遣いと、崖っぷちに追い詰められている焦燥が複雑に混ざった声。
「整合性ねぇ……」
バーテミウスは肩をすくめる。
「このスピードで通った可決に、整合性なんて存在すると思います?」
「思いませんね」
レギュラスは淡々と答える。
「だから“後付け”で作るんです。死に物狂いで」
「あなたらしい」
ふっと皮肉な笑みを浮かべて、バーテミウスは次の束へ手を伸ばした。
「まず、施錠し忘れの件ですが」
バーテミウスが苦々しげに言う。
レギュラスは即答した。
「どう考えても職務怠慢だ」
「ですよねぇ」
バーテミウスはため息をつく。
「どうします? 何か理由を……“不可抗力の呪力干渉”とか?」
「いいえ、そんな言い訳は逆に疑われます」
レギュラスは顔を上げずに続ける。
「この数日間を任せた馬鹿どもを、全員地方に島流ししてやります」
「……豪快ですね」
バーテミウスの口調が少しだけ愉快そうになる。
「処罰としては妥当ですが、まさか本当に“島流し”とは」
「やりますよ。
あれは単なる施錠忘れではなく、重大な信用失墜です」
レギュラスの指先は震えている。
だが書類をめくるスピードは落ちない。
背後のベッドでアランがページを静かにめくる音が、小さく響いた。
耳の奥に沁みる。
その静かな音が、レギュラスの焦る胸をさらに締めつける。
守りたい。
何があっても守らなければ。
アランとステラ――この寝室にある小さな世界を。
だからこそ、今この瞬間も、彼は自分の手を汚している。
「では、保管書類の期限切れは?」
バーテミウスが次の束を掲げる。
レギュラスは即座に答えた。
「これも島流しでいいですね」
「ええ。施錠忘れとセットで処理しましょう」
「そうしましょう」
息を合わせるように、二人は書類を分類していく。
寝室の空気はしんと静まり返って、
遠くで灯るランプの光が羊皮紙を淡く照らす。
その中で、彼らはまるで外科手術を行う医師のように慎重に、
ひとつひとつの証拠を“安全な場所”へと押し込んでいく。
「……ふぅ」
レギュラスが一枚の羊皮紙を手に、静かに息を吐いた。
焦燥、緊張、恐怖。
それらが重なり、まるで肺に重石が乗っているようだ。
「少し、水飲みます?」とバーテミウス。
「いえ……大丈夫です」
レギュラスは背後に視線だけ向けた。
アランはまだ読書をしている。
けれどその瞳の奥に、どこか不安の影が見えた。
ほんの小さな影。
それを見落とすことができるほど、彼は鈍くない。
レギュラスは再び書類へ目を落とし、指を動かし始めた。
逃げ道を作るための作業は、まだ始まったばかりだった。
バーテミウスはようやく椅子から背を離し、ぎし、と背伸びをした。
何時間、ぶっ通しでこの寝室に籠もっているのだろう。
ランプの光は弱まり、ゆらゆらと寝室の壁を揺らしている。
その揺らぎの中、アランはベッドの端で本を閉じ、静かに目を閉じていた。
その姿は息を呑むほど静謐で、端正で、儚い。
あたかも“この屋敷の祈りそのもの”のようだった。
それは夜の空気を張り詰めたまま働き続ける男ふたりとは違いすぎて、どこか現実味がなかった。
まるで絵画の中の人物。
そう、美しいという言葉では足りない──神聖ですらあった。
「……はぁ、もう背中が折れそうですね」
バーテミウスはぼそりと呟きながら、縮こまった肩を回した。
レギュラスは無言で書類の山を整理し続けている。
彼自身も限界に近いはずなのに、アランの眠る寝室で声を荒げることもため息を吐くことすら控えている。
その気遣いを見れば、レギュラスという男が何に縋り、何を守ろうとしているのかが痛いほどわかる。
そして――
その優しさこそが、今この状況をさらに追い込んでいることも。
「……だいたい、形はできてきましたね」
バーテミウスは羊皮紙の束に魔法の光を当てながら言った。
「ええ……あとは、最大の問題だ」
二人が同時に視線を向けたのは、ベッドとは反対側の机に置かれた
狼人間によるマグル食殺許可リスト。
そして、その末尾。
不自然に紛れ込んだ“無関係のマグルたち”の名前。
彼らは本来、標的ではない。
なのに数日間レギュラスが不在にしている間に、なぜかリストに入れられ、承認印が押されていた。
それは最悪の汚点だった。
だれかが意図的に仕組んだ。
魔法省内部の人間の悪意か、あるいは陥れるための罠か。
「……この件だけは、本気で死にますね、僕ら」
バーテミウスが冗談めかして言うが、その声には笑いの色はない。
「死にはしませんが……最悪、職務剥奪でしょう」
レギュラスは低く答え、眉間を押さえた。
本当はわかっている。
これは“失職”で済む類の不始末ではない。
政治的に利用され、騎士団に叩き潰され、名誉を剥がされ、家名すら揺らぎかねない。
それほどに深刻だった。
「……で、どうします?」
バーテミウスは机の角を指で叩く。
レギュラスは長く息を吐いた。
そして、決意の色を濃くしながら言った。
「――建て替えます」
「やっぱり、それしかないですよね」
二人の視線が鋭く交錯する。
「把握する時間もない。犯人を特定する時間もない。
となれば……記憶の改竄をして、すべての罪を“ひとり”に負わせる」
「我々の陣営の、お得意の手じゃないですか」
バーテミウスは乾いた笑いを漏らす。
それは最悪にして、最善の方法。
最も汚れているが、最も確実。
魔法界の闇が長い歴史で研ぎ澄ましてきた、犯罪すれすれの政治工作。
「候補は?」とバーテミウス。
「……今日、施錠を放置した人間がいたでしょう。
あの者に被らせます」
「妥当ですね」
バーテミウスは淡々と頷く。
「正直……あのレベルの怠慢、むしろちょうどいい」
「本人にとっては不幸でしょうが」
「ええ。でも……我々が死ぬよりは、ね」
淡々と、とてつもなく残酷な会話を交わす二人。
その背後でアランは静かに目を閉じ、胸を上下させて眠っている。
その姿が、痛かった。
レギュラスにとっては特に。
アランは知らない。
夫がいま何をしているか、どれほど汚れた政治の泥に手を突っ込み、必死に家を守ろうとしているのか。
そして、これこそが彼の“生きてきた世界”であることも。
守るしかない……
この人を、ステラを……
その思いだけがレギュラスの精神を支えていた。
「……さて」
バーテミウスはリストをぱたんと閉じる。
「建て替える候補も決まった。あとは……」
「明朝までに“全ての整合性”を作り上げる」
レギュラスは淡々と告げた。
バーテミウスは小さく口笛を鳴らす。
「鬼ですね、あなた」
「守るべきものがあるので」
その一言は、寝室の空気を震わせるほどの重みを持っていた。
ランプの光が弱まり、夜はさらに深まっていく。
ベッドで眠るアランの、静かな呼吸。
レギュラスの震える指先。
バーテミウスの冷静な計算。
机に積まれた膨大な書類の影。
この寝室は、今だけ“戦場”だった。
