2章
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アランは黙っていた。
いつも沈黙であることに変わりはないはずなのに、
今日の沈黙は……質が違った。
寄り添ってくるでもなく、
距離を取るでもなく、
ただ静かに、淡く、
レギュラスの手の中からすり抜けていくような空気を纏っていた。
それが怖かった。
アランが先に馬車に乗り込む姿を見つめながら、
レギュラスは喉が妙に乾いているのに気づいた。
――おかしい。
アランはいつも自分の腕に寄り添ってくる。
何かを伝えたいときは杖を握る手がわずかに震える。
だが今日は、
何も伝えようとしなかった。
自分の手を取ることもしない。
ただ、礼儀正しい距離感で乗り込んでいく。
その距離が、
レギュラスにとっては
“ありえないほど遠かった”。
馬車が動き出し、
アランは窓の外を眺めていた。
レギュラスが隣に座っても、
視線を向けることはなかった。
――いつもなら、
すぐにこちらを見るはずなのに。
手を握ろうとしても、
アランはそっと袖を下ろして、
気づかれないように拒む。
その仕草は本当にかすかなものだった。
けれどレギュラスだけには、
それが“拒絶”だと、はっきりわかった。
「…… アラン?」
呼びかけても、
アランはわずかに頷くだけだった。
それがまた、胸を刺す。
――何があった?
ステラのことか?
体調が悪いのか?
それとも……
セラの前に現れたことで、何かを思ったのか?
思い当たる理由を並べれば並べるほど、
胸の奥が冷たくなっていく。
嫌な予感が、
じわじわと形になり始める。
アランの手元を見る。
杖を握る指が、少しきつく力を入れていた。
怯えている。
傷ついている。
それとも――怒っている?
どれだとしても、
レギュラスに向けられるのは珍しい。
だからこそ、
恐ろしくなった。
屋敷に戻り、寝室に入ると
アランはステラをベットに寝かせ、
自分はその隣の椅子に座った。
ベットに来ない。
いつもなら寄り添ってくるのに。
「…… アラン、どうしました?」
静寂。
アランは杖をゆっくり握り直すと、
ほんの一言だけ書いた。
――平気です。
その文字の、余白が怖かった。
普段のアランなら、
“心配しないで”“ありがとう”
そんな温度のある言葉を添える。
なのに今日は、
冷えた一語だけ。
レギュラスの心臓が、
初めて「恐い」という形を持った。
――彼女は、自分から遠ざかろうとしているのか?
その疑問が胸に浮かんだ瞬間、
レギュラスは何とも言えない焦燥に襲われた。
「アラン……何か、気に触るようなことをしましたか?」
アランは答えない。
ただ、
顔を伏せてステラの髪を撫でるだけだった。
胸がざわついて止まらない。
このままでは、
本当にアランの心の奥から自分が滑り落ちていく――
そんな恐怖が、
体の芯を軋ませていく。
レギュラスは近づいて、
アランの頬に触れようとした。
けれどその手が触れるよりわずか手前で、
アランは――ほんの気づかれないほどのわずかな動きで、
身体をそらした。
その瞬間、
胸の奥がひどく軋んだ。
「…… アラン」
かつてない焦りが声に滲む。
だがアランは、
静かに頷き、
ただステラを抱きしめた。
レギュラスの手だけが宙に残った。
その手は、
震えていた。
議会が終わったあと、
レギュラスは久しぶりに胸の奥の重さに耐えきれず、
市場の道を一人で歩いていた。
アランの冷たさ。
抱きしめ返してくれなかった腕。
視線を合わせようとしなかった翡翠の瞳。
どれも些細なのに――
ひどく胸を抉る。
自分のせいだと分かっている。
言わなくても、何度でも思い知らされている。
“セラの名前を呼んだ瞬間、アランの世界は静かに崩れたのだ”
その事実が、レギュラスの胸に突き刺さっていた。
昼を過ぎた頃、カフェの入り口が視界に入る。
ここ数日通っていた場所。
軽く息をつく。
本当は行きたくなかった。
だがここで断りを入れなければ、
まるで逃げているようで余計に拗れる気がした。
……いや、もう十分に拗れている。
レギュラスはゆっくり扉を押した。
「来たのね、レギュラス」
カウンターにいたセラは、
まるで待っていたかのように微笑んだ。
その笑み一つで、
まるで自分が見透かされている気がして胸がざわつく。
「……少し、話があります」
「改まってどうしたの?」
セラはカップを拭きながら首を傾げる。
その余裕のある所作が、
“逃がさないわよ”とでも言っているみたいだった。
「僕は……あなたとの関係を、続けられません」
思い切って言った。
言葉を吐き出した瞬間、
セラは目を見開き――
次の瞬間にはくっくっと喉を鳴らして笑った。
「やだ、ほんとに言う人がいるのね、そういう台詞」
小さく肩を震わせ、
からかうような、でもどこか温度のある笑い方だった。
レギュラスは言葉を詰まらせる。
「理由を聞いてもいい?」
「……妻に、疑われました。あなたの名を口にしてしまって」
「ああ、昨日の奥様ね」
セラの目が細く、観察する猫のような光を宿す。
「綺麗な人だったわ。“声のない奥様”。
あなたが大切にしてるってすぐ分かった」
「そういうことでは……」
「いいのよ。責めてるわけじゃないから」
セラはレギュラスの前に身を寄せ、
少し低い声で囁いた。
「でもね、レギュラス。
世の中はね、“奥様を大切にしてるかどうか”で
不倫がやめられるほど単純じゃないのよ?」
レギュラスは息を呑む。
「あなたにとって私は逃げ場だった。
あなたがそれを否定したら……
あなた自身の弱さを一番否定することになるわ」
図星だった。
セラの指が、レギュラスの手の甲をそっとなぞる。
その軽い触れ方が、逆に胸を掴む。
「あなたね、“逃がし方”が下手なのよ。
逃げたいなら、もっと嘘くらいつけば?」
その挑発的な、成熟した余裕の笑み。
まるで、大人の世界の重力に
足首を掴まれたようだった。
レギュラスは目を伏せる。
「……僕は、本当に終わらせたいんです」
セラは一瞬だけ表情を止め、
次にふっと微笑んだ。
「じゃあ、一つだけ教えて。
――昨日の奥様、あなたに冷たかったでしょう?」
レギュラスは息が止まる。
セラは全部分かっていた。
まるでその場にいたかのように。
「“冷たくされたから戻りたい”って思ってる時点で、
あなたはもう私のところへ戻ってくるわ」
「……そんなつもりは」
「つもりじゃないのよ、レギュラス。
行き場のない男って、結局一番居心地の良いところに落ちるの」
それは、責める言葉ではなく、
哀れみでも同情でもない。
ただの――事実。
「今日は帰りなさい。奥様のところへ。
でないと、ほんとに戻れなくなるわよ」
セラは優しく笑った。
それが逆に、背筋を冷たく撫でていく。
「お坊ちゃん。
あなた、自分で思ってるよりずっと脆いんだから」
レギュラスは返す言葉を失った。
セラがゆっくり距離を取る。
微笑みは変わらない。
「関係をやめるのはいいわ。
でも、覚悟だけはしておきなさい」
――覚悟?
「あなたが私を選ばなくてもね、
“奥様があなたを選び続ける”保証はどこにもないわ」
その一言で、
レギュラスの心臓はひどく強く脈打った。
アランの肩に触れた瞬間、
何かがすっと抜け落ちるような冷たさが指先に宿った。
距離を取られたわけではない。
拒絶されたわけでもない。
ただ、アランの纏う空気が――
ほんのわずか、以前より遠い。
その“わずか”が、レギュラスには恐怖だった。
セラの言葉が頭の奥で重く響いている。
「奥様があなたを選び続ける保証はどこにもないわ」
ただの言葉のはずなのに、
アランの静かな瞳の奥にその影が潜むように見える。
夜、寝室の灯りが落とされると、
レギュラスはアランの体に触れる指が震えた。
普段なら、傷が癒えていないアランに
「大丈夫か」「今日は控えましょう」と
言う側だったはずだ。
なのに今は、
その理性が恐怖に飲み込まれていく。
アランとの間に生まれた隙間を埋められるものが、
この行為以外に思いつかなかった。
肉体ではない。
欲ではない。
これは――縋りつくための行為だ。
「アラン……痛かったら教えてください。
すぐに、やめますから」
自分で言いながら、声が不安に揺れた。
アランは声を持たない。
痛みも、拒絶も、怒りも、悲しみも――
言葉にして返してもらえることがない。
読み取るしかない。
けれど今、読み取れない。
アランの心が遠い場所にあるようで、
その沈黙が何より恐ろしかった。
レギュラスは抱き寄せ、
口付けひとつにも時間をかけた。
額に、頬に、首筋に。
ゆっくり、慎重に。
アランを壊さぬように何度も吸い寄せる。
少しでも心に触れられれば――
そんな願いを込めて。
だがアランの反応は小さかった。
腕はレギュラスの背に回されているのに、
どこか熱が薄い。
いつものようにしっかり抱き返してはくれない。
それが、レギュラスには体を刺すほどつらかった。
結びつけば、
奥に触れれば、
あの翡翠の瞳がまた自分だけを映してくれるのではないか。
そう思って深く求めても、
アランの呼吸は整っていて、
声こそ出ないが、
どこか“静かすぎた”。
一方的に満たそうとしているだけだった。
一方的に埋めようとしているだけだった。
苦しいほどわかっていた。
だがやめられなかった。
やめた瞬間、アランの世界から
自分がするりと滑り落ちてしまいそうで。
「…… アラン。
愛しています。
本当に……誰より、何より、あなたを」
抱きしめる腕をきつくする。
自分の鼓動がアランの胸に響くほどに。
どれだけ重ねても、
どれだけ囁いても、
どれだけ深く抱き寄せても――
アランは静かで、
その静けさが
恐怖そのもの
だった。
声がないから、
アランの本音がどこにも落ちてこない。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
失望しているのか。
遠ざかっているのか。
それとも――
もう、手遅れなのか。
レギュラスには分からない。
分からないままアランを抱いているという事実が、
罪悪と恐怖と渇望の塊のように胸を圧迫した。
「アラン……」
呼びかけても、
アランはただ静かに、
痛みを隠すように目を閉じていた。
その沈黙の中で、
レギュラスの焦りはますます濃く、
暗い底へ落ちていった。
翌朝、アランは瞼を上げようとした瞬間、
胸から腹にかけて鈍い痛みが波となって押し寄せ、
呼吸が浅く乱された。
起き上がろうとして、
全身がぎしりと悲鳴をあげる。
――動けない。
昨夜、レギュラスに抱かれた時間の余韻は、
甘くも優しくもなく、ただ身体の深部に沈殿していた。
魔法省までの距離、
その後に歩いた石畳の道のり、
足元の凹凸が響くように響いてきた疲れ。
そして、
彼が恐れるように触れてくるたびに
自分が拒んではいないと伝えたくて、
痛むのを無理に押し殺した夜。
その全てが朝になって一気に報復してきたようだった。
寝室の外からレギュラスの声がした。
「医務魔法使いを呼びました。すぐに来ますから」
焦りが滲む声。
責められているようでもあり、
同時に縋られているようでもあった。
アランは胸の奥で小さく息を呑んだ。
――この必死さは、何を恐れているのだろう。
昨日、彼が見せた焦燥。
取り繕うように優しくする仕草。
溺れる人が手を伸ばすような口付け。
その全てが、
「何かから目を逸らしたい人間の仕草」
のように見えた。
彼がかつて犯した罪――
マグル孤児院の惨殺、
無実の男への罪の捏造、
そして、メイラを狼人間の餌にしようとした冷血な計画。
その残酷さに以前触れた時、
アランの心には氷のような絶望が流れ込んだ。
一度壊れた心は元には戻らない。
だから今、
ほんの少し距離を置こうとする自分を責めることはできなかった。
壊れないために必要な“境界線”だった。
医務魔法使いが入ってきて診察を始めると、
室内の空気はひどく静かになった。
杖の先が淡く光り、
アランの腹部をなぞる。
浮かび上がった魔力の光が収束した瞬間――
医務魔法使いは眉をひそめた。
「……奥様」
レギュラスがアランの手を強く握る。
医務魔法使いは深く息を吸い、
慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「ご懐妊されています」
メイラが小さく息を呑む音がした。
レギュラスは言葉を失い、ただアランを見つめた。
アランの胸に広がったのは、
喜びではなかった。
ため息が出そうなほどの絶望だった。
なぜ、今なのだろう。
なぜ、こんな時に。
痛みに沈む体。
不安に満ちた心。
レギュラスが何かを隠しているような恐ろしい気配。
そして、父オリオンが望む“男児”。
この身は、耐えられるだろうか。
耐えられなくても、いいのではないか。
そんな思いが胸の底に沈殿していく。
医務魔法使いは続けた。
「今の奥様の状態では……妊娠の継続はきわめて危険です。
体が耐えられない可能性があります」
レギュラスが青ざめ、
メイラは手を口に当てて震えていた。
アランは、ただ静かに瞳を伏せた。
――死んでしまうかもしれない、ということだ。
だが、恐怖は湧いてこなかった。
むしろ、
レギュラスの望む跡取りだけを産み落とし、
役目を終えて消えていく方が
彼にとって都合がいいのではないかと
そんな残酷な考えが頭をよぎった。
自分ではなく、
セラのような強い女が隣に立つ未来の方が
彼は楽なのかもしれない、と。
胸を刺す痛みが、生きている心地を奪っていく。
もし、子をまたの機会に――
と判断されるならば。
アランは静かに思った。
そのときまでの猶予期間は、
ステラとメイラと穏やかに過ごしたい。
もう誰にも壊されたくない。
誰にも踏み込まれたくない。
ただ、
自分を愛してくれる小さな娘の声と、
自分を支えてくれるメイラの温度だけを側に置きたい。
レギュラスが握る手は暖かかったが、
その暖かさすら
どこか遠くに感じられた。
医務魔法使いがアランの懐妊を告げてから、
それほど時間が経っていなかったのに、
屋敷はすぐにざわめいた。
広い廊下の奥から、
硬く響くヒールの音が近づいてくる。
オリオン・ブラック。ヴァルブルガ・ブラック。
冷たい石壁にその名が重力のようにのしかかる。
寝室の扉が開いた瞬間、
その空気はさらに重く濁った。
アランは枕にもたれ、
蒼白な顔でゆっくりと上体を起こした。
レギュラスは傍らで彼女の背を支える。
医務魔法使いは緊張で喉を鳴らし、
それでも簡潔に告げた。
「奥様のお身体の状態を鑑みて……
今回は、懐妊を見送るべきです。
持続は危険が大きすぎます」
寝室の空気が静かに凍った。
ヴァルブルガは瞼一つ動かさず、
まるで予想していたかのような冷静さで息を吸う。
オリオンは眉間に皺も寄せず、
ただ無表情のまま医務魔法使いを見下ろしている。
誰も何も言わない。
重い沈黙がアランの胸にのしかかる。
呼吸のたびに肋が痛むようだった。
そんな中、レギュラスが静かに口を開く。
「アラン、あなたは……どうしたいです?」
声は震えていた。
問いそのものが、祈りに近かった。
アランの意思を知りたい。
その意思を、何より優先したい。
彼女が産みたいと言うなら全力で守る。
諦めたいと言うのなら、腕の中で泣かせたい。
レギュラスはただ、
アランの心だけを指針にしようとしていた。
しかし――
アランは杖を手に取り、
白いシーツの上に静かに文字を描く。
「オリオン様、ヴァルブルガ様のご判断にお任せします」
その字は、震えも揺らぎもなかった。
あまりにも淡々としていて、
体温を感じさせる気配が一つもなかった。
レギュラスの胸に、
小さな火が落ちていくような痛みが走る。
アランの意思はそこになく、
ただ「ブラック家の正妻」としての答えがあった。
彼女は自分を守るために、
あの境界線の向こうに行ってしまった。
沈黙を破ったのはヴァルブルガだった。
「――産みなさい、アラン。
必要ならば選りすぐりの医務魔法使いを集めます」
その声は母親のものではなかった。
刺すように冷たく、
命の重さを微塵も含まない。
アランの命よりも、
生まれてくるかもしれない「ブラック家の後継」
その一点だけを見据えた鋭利な声。
オリオンは目を伏せることもなく、
ただ片息を吐くと踵を返す。
「――では、頼んだ」
背中を向けると、
何の迷いもなく書斎へと歩いていった。
ヴァルブルガも続く。
そのローブの裾が寝室の床をすべり、
まるで誰かの運命を断ち切る音のように聞こえた。
扉が閉まると、
寝室は深い空洞になった。
レギュラスはアランを見つめた。
手を伸ばしたいのに、触れられない。
「…… アラン」
呼んだ声は、掠れていた。
彼女は、
ゆっくりと視線を落とすだけ。
叫びたいほどの沈黙。
正妻としての義務だけが告げられ、
夫としての愛は何一つ届いていなかった。
レギュラスの胸の奥で、
どうしようもない恐怖と焦燥が渦を巻く。
アランが自分の元から消えてしまうかもしれない
その予感が、
ナイフのように鋭く心臓に突き刺さっていた。
懐妊の知らせが寝室に落とされてから、
レギュラスは魔法省の業務を大胆に削り始めた。
休みを取る──
ただアランのそばにいたいという理由だけで。
仕事の山は確実に積み上がっていく。
議会は荒れに荒れ、法務部は混乱を極めている。
それでもレギュラスは構わなかった。
アランの心が自分から離れていく恐怖のほうが、
どんな政治的混乱よりも、はるかに致命的だったからだ。
休みを増やしたことで、
アランの態度が目に見えて変わったのかと言えば──
その答えはあいまいだった。
完全に元どおりではない。
かと言って、拒絶されてもいない。
距離は確かに縮まった気もする。
けれど、それはただ、
アランがその距離に“慣れた”だけではないか?
そう考え始めると、胸がひどく軋んだ。
彼女は微笑む。
頷いてくれる。
ステラを介すと、以前のように笑顔を見せる。
だが、
心の奥に触れようとすると、
薄い膜のようなものに阻まれる。
その膜はとても柔らかく、
しかし容易には破れない何かだった。
その日もレギュラスは、
庭に置かれた白いベンチにアランを座らせ、
ステラが遊ぶ姿を並んで見守っていた。
秋の風は少し冷たかったが、
日差しは柔らかく降りてくる。
庭一面に伸びる影が、長く揺れていた。
「アラン、寒くないです?」
レギュラスはそっと肩に手を置いた。
アランは首を横に振り、
ありがとうと言うように
長く、静かに瞬きをする。
その仕草がレギュラスの胸を温めた。
――愛している。
――どうか、まだここにいてほしい。
喉の奥まで込み上げる想いを必死で飲み込む。
ステラは一段と成長していた。
歩く速度も速くなり、
発語も増えてきている。
特に最近覚えた言葉を気に入っているようで、
庭の芝生をぴょんぴょんと跳ねながら叫んだ。
「まま! ままーー!」
その声がまっすぐにアランに向かって飛んでいく。
アランは両腕を伸ばし、
嬉しそうに微笑む。
けれど、
ステラがその勢いで抱きつけば
アランの体には負担が大きい。
レギュラスは本能のような速さで立ち上がり、
ステラの前に入り込んだ。
「ステラ、こっちですよ」
ふわりとステラを抱き上げると、
娘は驚いたように目を丸くした。
突然高くなる視界に、キャッと歓声をあげる。
「きゃああ!」
その声に呼応するように、
レギュラスはさらに腕を伸ばし、
ステラを天高く掲げた。
夕陽を浴びてきらきらと輝く漆黒の髪が揺れ、
ステラはもう一度笑う。
アランも、その光景を見ながら
そっと口元を緩めた。
その笑顔は柔らかく、
どこか遠く、そしてどこか近い。
その距離はまだ完全には埋まっていない。
けれど、それでもレギュラスは救われた。
抱き上げたステラを胸に寄せながら、
レギュラスはアランを見た。
彼女は微笑んでいた。
その微笑みは、
レギュラスの必死の努力が
ほんの少しだけ届いているのかもしれないと思わせた。
「…… アラン」
名を呼ぶと、アランは静かに目を合わせる。
その瞳は深く美しい翡翠色。
しかし、まだどこか冷たい底を揺らしていた。
それでもレギュラスは思った。
この距離が戻るのなら、
どれだけ時間がかかってもいい。
アランとステラが笑ってくれれば、
それだけで救われる。
メイラは気づいていた。
アランとレギュラスのあいだには、
ほんの紙一枚のような、
けれど確実に存在する“溝”があった。
昔は違った。
笑い合う声がもっと軽やかだった。
ふたりの視線が触れ合うたびに、
小さな灯がぽっと灯るような優しい空気が流れていた。
けれど、あのカフェで──
セラ・レヴィントンという女に出会ってしまってから。
何かが変わった。
メイラはまだ幼い。
男女の関係なんて、まともに理解していない。
けれど、それでも。
レギュラスとセラの間に流れていた
“なにか”──
それは、子どもである自分にさえ理解できてしまうほど、
濃くて、熱くて、大人の色をしていた。
セラはレギュラスに向けて、
よく知っている者の目を向けていた。
そしてレギュラスも、
セラに向ける視線が、
アランに向けるものとは違っていた。
メイラには、それが怖かった。
アランがかわいそうで仕方なかった。
声を持たない美しい魔法使いの妻は、
あの日、ほんの一瞬だけ、
影が落ちたように見えた。
その影は深く、
痛々しいほどに繊細だった。
それからレギュラスは変わった。
いや、正確には──
わかりやすすぎるほど変わった。
毎日のように屋敷にいる。
アランのための休みを増やし、
ステラと遊び、
アランの隣に座る時間を必死に作る。
まるで、
逃げる鳥の片翼を必死で掴み返すように。
その必死さは、痛いほど伝わってきた。
でも。
必死であればあるほど、逆効果にも見えた。
焦りが透けて見えるようで、
その焦りがアランをさらに遠いところへ追いやってしまいそうで。
メイラは胸がぎゅっと縮まった。
けれど。
ふたり目の懐妊が告げられて数日──
アランとレギュラスの間に、
また少しだけ、あたたかい温度が戻ってきた。
ベンチで肩を寄せ合う姿。
庭で笑い合いながらステラを見る姿。
アランがまるで昔のように、
静かに微笑む瞬間が増えてきた。
まだ完全に戻ったわけじゃない。
その笑顔はどこか薄く、
硬く、
すぐに消えてしまいそうな儚さを帯びている。
けれど、それでも。
メイラは心の底から願った。
どうか、
いつも自分を抱きしめてくれる
優しいアランが──
これ以上、
何かに奪われませんように。
何かに傷つけられませんように。
あの美しい瞳に、
もうこれ以上、影が落ちませんように。
ただただ、それだけを祈った。
その日、店の窓際から外をぼんやり眺めていると、
道路の向こう側を、ゆっくりと歩く三つの影が見えた。
メイラ──あの幼いマグルの少女。
その隣に声を持たない美しい女。
そして、小さく揺れながら歩く赤子。
アラン・ブラック。
ブラック家の「奥方」。
セラは、足を止めた。
……ああ、あの女か。
数日前に、レギュラスが取り乱したような顔で駆け寄っていた女。
杖で文字を書く姿が今でも目に焼きついている。
アランは、静かだった。
その静けさが、異様なほどの気品と痛々しさを同時に纏っていた。
その隣で、レギュラスはまるで壊れものを扱うように
アランの手や肩を包み込んでいた。
──分かりやすい男ね。
セラは、窓越しに小さく笑う。
あの夫婦を見た瞬間、胸の奥に
氷でも落とされたような冷たいざわつきが走った。
嫉妬じゃない。
女同士の張り合いでもない。
ただ──
「あの男が、こんな顔もするのか」
そんな興味が、ふっと芽を出した。
初めてレギュラス・ブラックと夜を共にしたとき、
セラは確信した。
あの男は危うい。
優しい顔の奥で、何かを抱えすぎていて、
それを抱えきれずに他人の腕に逃げ込んでくる。
女として、そういう男は扱いやすいし、面白い。
けれど……。
アランを見て、セラは直感した。
この夫婦の関係は、あまりにも異質だ、と。
アランはあれほどか弱く見えるのに、
夫を支配しているのはむしろアランの方だ。
声が出ないのに。
意志を語れないはずなのに。
レギュラスはあの女の一挙一動に怯え、
すがりつくように寄り添っている。
セラはゆっくりと腕を組んだ。
「……これは、ただの夫婦関係じゃないわね」
知りたい。
知れば知るほど危険だとわかっていても、
飲み込まれるような興味が胸に渦を巻く。
レギュラスがアランの肩にそっと手を添え、
アランがその手を受け入れる瞬間。
セラは、思わず息を止めた。
優しいふりをしている男の腕の震えまで、
遠くからでも分かる気がした。
罪悪感か、焦りか、愛か、執着か──
どれなのか判別できないほど混ざり合っていた。
アランもまた、
微笑んでいるのにどこか遠い。
その距離感がたまらなかった。
壊れそうなものに手を伸ばしたくなる、
そんな大人の悪い性が刺激される。
セラは薄い唇をふっと歪めた。
「ねえ、ミスター・ブラック……
あなた、どんな気持ちであの女に触れているの?」
まるで挑発するように、
セラは遠くから夫婦の背中を見つめ続けた。
あの男が、どれほどの“重さ”を抱えているのか。
どれほどの“嘘”を隠しているのか。
それを暴いてしまいたい衝動が、
静かに、静かに膨らんでいく。
──レギュラス・ブラック。
あなたはまだ気づいていないでしょう?
“関わらない方がいい女”は、
ときに一番厄介だということを。
アラン・ブラック懐妊──。
朝の魔法界を駆け巡ったのは、この一文だった。
新聞の見出しには、黒々とした大きな字体で
“ブラック家、第二子を授かる”
と祝福めいた文言が踊っている。
つい先日、流産の噂が流れたばかりだというのに。
その影が晴れぬうちに、また懐妊だ。
ジェームズ・ポッターは、新聞を折りながら、
そのごく短い周期に妙な不快感を覚えていた。
──動物の繁殖じゃないんだぞ。
純血の名門がどういう価値観で子を求めるか、知らないわけではない。
分家の人間さえ産む事を義務として育てられる家もある。
それでも、だ。
ブラック家はその最たるものだと知っていたが、
こうも露骨であからさまな「世継ぎの圧」を感じさせる一族だとは。
ジェームズは舌打ちしそうになるのを飲み込んだ。
「体は……平気なのかな。アランさん」
隣で新聞を覗き込んでいたリーマスが、静かに言った。
アラン・ブラック。
憐れなほどの過去を背負わされ、
声も奪われ、
あの家の“器”として扱われていると噂されている女。
リーマスの声音には、優しさと心配が滲んでいた。
だがジェームズは、ひどく冷めた瞳で新聞を閉じた。
「さあな。
けど、僕らが気にする筋合いのものじゃない」
冷たく言い放つと、リーマスが少し驚いたように眉を上げた。
ジェームズは椅子の背にもたれ、吐き捨てるように続ける。
「情けをかけたところで、あの女は最後は“闇”に肩入れする。
レギュラスをかばい、その罪まで覆い隠す側に立つだろう。
僕らが追っている真実にとって、一番厄介な障害だよ」
リーマスは目を伏せた。
優しい男だ。
アランの過去を知れば知るほど、気の毒に思ってしまうのもわかる。
だがジェームズには同情よりも、
“闇への片棒を担ぐ者”としての危険性のほうが強く見えていた。
「しかし……早いものだね」
リーマスは苦笑まじりに新聞を摘む。
「純血の家って、みんなこんな感じなのかい?
立て続けに懐妊だなんて……」
「まさか」
ジェームズは鼻で笑った。
「ポッター家をそんな野蛮な伝統と一緒にしないでくれ」
言葉の端々に、誇りが滲んでいた。
「僕の両親は言ってたよ。
“子は天からの贈り物。授かるべき時に、授かる形で訪れるものだ”って。
決して、産めと強要するようなものじゃない」
ジェームズは紅茶を口に運ぶ。
湯気がゆっくりと立ちのぼる。
ブラック家の、あの“世継ぎの機械”のような扱い。
それを当然とする空気。
そして、騒ぎ立てる魔法界の浅ましさ。
すべてが嫌悪感を引き起こした。
「……下品だよ」
ジェームズは小さく呟いた。
「なにが?」とリーマス。
「懐妊そのものじゃない。
“産まねばならない”という、あの空気だ。
あれは人の家庭じゃない。
純血という冠に命を縛りつける牢獄だよ」
彼の内側で、小さな怒りが沸き立つ。
アランの体がどうなのか、正直どうでもいい。
だが、あの家の異様さは見過ごせない。
ブラック家はいつも──
人の人生を“血で測る”。
「……シリウスがあんな家を捨てたのも、当然だよな」
ジェームズの呟きに、リーマスも静かに頷いた。
新聞の“おめでたい報せ”は、
ジェームズ・ポッターの心には
一片の祝福すら残さなかった。
そこに見えたのは、
支配と圧力によって形作られた、
冷たい闇だけだった。
アランが──また懐妊した。
その知らせは、耳に届いた瞬間、
シリウス・ブラックの胸を深く刺し貫いた。
息が詰まるとは、このことだろう。
驚きで声が出なかった。
いや、声を出す前に、言葉そのものがどこかへ消えてしまった。
まだ前の傷だって癒えていないのに。
つい最近、彼女が階段から落ちたという知らせがあった。
それ以前には、流産の噂さえ流れていた。
肉体も、心も、確実に削られているはずだ。
それなのに──。
まるで「産ませるための器」のように扱われているとしか思えなかった。
アランという女は、そんな雑な扱いをしていいほど
粗野でも鈍感でもない。
繊細で、優しくて、傷つきやすくて、
他人の痛みを自分のもののように抱きしめてしまう女だ。
そんな彼女を、あの屋敷は間違いなく壊す。
胸の奥が熱くなり、怒りが喉を押し上げた。
だが言葉にする前に、隣で新聞を畳んだジェームズが低く言った。
「シリウス、余計な詮索はやめよう。無意味なんだ」
冷静な声だった。
温度は低いのに、妙に柔らかい。
その分、胸に刺さる。
「わかってるよ」
シリウスは吐き捨てるように言った。
「別にどうこうしようなんて思ってない」
「嘘つけ」
ジェームズは、すべて見抜いた眼でこちらを見る。
「お前、次に何をするつもりなのか、顔に書いてある」
「……」
何度も思う。
ジェームズは本当に鬱陶しいほど“読める”男だ。
胸の奥を見透かされている気がして、
苛立ちと情けなさが混ざる。
本当は、アランのそばへ行きたい。
ただ、彼女の顔を見たい。
生きているか、笑っているか、泣いていないか……
確かめたい。
だがおそらく、それだけでは済まない。
レギュラスと、あの家と、
次に何があってもおかしくない関係に、
自分が踏み込みたくなってしまうから。
「それよりシリウス、聞けよ」
ジェームズは手元の書類を指で叩いた。
「レギュラスブラックの出入りが、今、極端に減ってる。
ここのところ、法務部をほとんど使っていない」
「……あいつが?」
「ああ。
可決権は別の委員に完全に移ってる。
“今こそ”チャンスなんだよ」
平然とした声だったが、ジェームズの瞳は鋭い。
確かに──これは滅多にない機会だ。
レギュラスという鉄仮面が議会にいないだけで、
可決の壁はかなり薄くなる。
「やりたい事が山ほどあるんだ」
ジェームズは続けた。
「マグル孤児院の襲撃事件の再調査許可。
狼人間にマグル食殺の“免罪符”を出してる狂った法律の撤廃。
最近のマグル武装集団との衝突で、
魔法族側が無茶な身柄要求をしてる件の減罰を求める裁判申請も」
ひとつひとつが、
シリウスの胸にも深く刺さるものばかりだった。
あれもこれも、
レギュラスが議会に張り付いている時は
決して通らなかった議題だ。
今なら、通せるかもしれない。
その“今”を逃すのは愚かだ。
その理屈は、シリウスにもよく分かっていた。
分かっているのに。
胸の奥では、別の声がうるさく囁いてくる。
── アランが心配だ。
──あの家で今、どんなふうに扱われてる?
脳裏に浮かぶのは、杖で会話しながら微笑んだあの日の姿。
ステラを抱いていた、弱くて強い姿。
痛みに歯を食いしばっても声を出せない、あの女の姿。
また傷ついていないだろうか。
また、泣いていないだろうか。
「……どうした?」とジェームズ。
「……何でもない」
本当は何でもあった。
今すぐ走って確認しに行きたいくらいだ。
だがそれは、愚かな衝動だと自分でも分かっていた。
会ったところで、何ができる?
何をしてやれる?
彼女は、もうブラック家の妻だ。
その役目の中に、ずっと閉じ込められていく。
シリウスは拳を握った。
怒りと無力感と心配が、
胸の奥で絡まり合い、ほどける気配はない。
ジェームズが淡々と言う。
「シリウス、レギュラスがいない間に片づけられる案件は多い。
逃がす手はない。
……わかるだろ?」
「ああ。わかってる」
理性では理解している。
だが心は、アランの名を呼びたがっていた。
守れないなら、せめて壊れていないか確かめたい──。
その感情だけが、いつまでも胸の奥で、苦しく燃え続けていた。
いつも沈黙であることに変わりはないはずなのに、
今日の沈黙は……質が違った。
寄り添ってくるでもなく、
距離を取るでもなく、
ただ静かに、淡く、
レギュラスの手の中からすり抜けていくような空気を纏っていた。
それが怖かった。
アランが先に馬車に乗り込む姿を見つめながら、
レギュラスは喉が妙に乾いているのに気づいた。
――おかしい。
アランはいつも自分の腕に寄り添ってくる。
何かを伝えたいときは杖を握る手がわずかに震える。
だが今日は、
何も伝えようとしなかった。
自分の手を取ることもしない。
ただ、礼儀正しい距離感で乗り込んでいく。
その距離が、
レギュラスにとっては
“ありえないほど遠かった”。
馬車が動き出し、
アランは窓の外を眺めていた。
レギュラスが隣に座っても、
視線を向けることはなかった。
――いつもなら、
すぐにこちらを見るはずなのに。
手を握ろうとしても、
アランはそっと袖を下ろして、
気づかれないように拒む。
その仕草は本当にかすかなものだった。
けれどレギュラスだけには、
それが“拒絶”だと、はっきりわかった。
「…… アラン?」
呼びかけても、
アランはわずかに頷くだけだった。
それがまた、胸を刺す。
――何があった?
ステラのことか?
体調が悪いのか?
それとも……
セラの前に現れたことで、何かを思ったのか?
思い当たる理由を並べれば並べるほど、
胸の奥が冷たくなっていく。
嫌な予感が、
じわじわと形になり始める。
アランの手元を見る。
杖を握る指が、少しきつく力を入れていた。
怯えている。
傷ついている。
それとも――怒っている?
どれだとしても、
レギュラスに向けられるのは珍しい。
だからこそ、
恐ろしくなった。
屋敷に戻り、寝室に入ると
アランはステラをベットに寝かせ、
自分はその隣の椅子に座った。
ベットに来ない。
いつもなら寄り添ってくるのに。
「…… アラン、どうしました?」
静寂。
アランは杖をゆっくり握り直すと、
ほんの一言だけ書いた。
――平気です。
その文字の、余白が怖かった。
普段のアランなら、
“心配しないで”“ありがとう”
そんな温度のある言葉を添える。
なのに今日は、
冷えた一語だけ。
レギュラスの心臓が、
初めて「恐い」という形を持った。
――彼女は、自分から遠ざかろうとしているのか?
その疑問が胸に浮かんだ瞬間、
レギュラスは何とも言えない焦燥に襲われた。
「アラン……何か、気に触るようなことをしましたか?」
アランは答えない。
ただ、
顔を伏せてステラの髪を撫でるだけだった。
胸がざわついて止まらない。
このままでは、
本当にアランの心の奥から自分が滑り落ちていく――
そんな恐怖が、
体の芯を軋ませていく。
レギュラスは近づいて、
アランの頬に触れようとした。
けれどその手が触れるよりわずか手前で、
アランは――ほんの気づかれないほどのわずかな動きで、
身体をそらした。
その瞬間、
胸の奥がひどく軋んだ。
「…… アラン」
かつてない焦りが声に滲む。
だがアランは、
静かに頷き、
ただステラを抱きしめた。
レギュラスの手だけが宙に残った。
その手は、
震えていた。
議会が終わったあと、
レギュラスは久しぶりに胸の奥の重さに耐えきれず、
市場の道を一人で歩いていた。
アランの冷たさ。
抱きしめ返してくれなかった腕。
視線を合わせようとしなかった翡翠の瞳。
どれも些細なのに――
ひどく胸を抉る。
自分のせいだと分かっている。
言わなくても、何度でも思い知らされている。
“セラの名前を呼んだ瞬間、アランの世界は静かに崩れたのだ”
その事実が、レギュラスの胸に突き刺さっていた。
昼を過ぎた頃、カフェの入り口が視界に入る。
ここ数日通っていた場所。
軽く息をつく。
本当は行きたくなかった。
だがここで断りを入れなければ、
まるで逃げているようで余計に拗れる気がした。
……いや、もう十分に拗れている。
レギュラスはゆっくり扉を押した。
「来たのね、レギュラス」
カウンターにいたセラは、
まるで待っていたかのように微笑んだ。
その笑み一つで、
まるで自分が見透かされている気がして胸がざわつく。
「……少し、話があります」
「改まってどうしたの?」
セラはカップを拭きながら首を傾げる。
その余裕のある所作が、
“逃がさないわよ”とでも言っているみたいだった。
「僕は……あなたとの関係を、続けられません」
思い切って言った。
言葉を吐き出した瞬間、
セラは目を見開き――
次の瞬間にはくっくっと喉を鳴らして笑った。
「やだ、ほんとに言う人がいるのね、そういう台詞」
小さく肩を震わせ、
からかうような、でもどこか温度のある笑い方だった。
レギュラスは言葉を詰まらせる。
「理由を聞いてもいい?」
「……妻に、疑われました。あなたの名を口にしてしまって」
「ああ、昨日の奥様ね」
セラの目が細く、観察する猫のような光を宿す。
「綺麗な人だったわ。“声のない奥様”。
あなたが大切にしてるってすぐ分かった」
「そういうことでは……」
「いいのよ。責めてるわけじゃないから」
セラはレギュラスの前に身を寄せ、
少し低い声で囁いた。
「でもね、レギュラス。
世の中はね、“奥様を大切にしてるかどうか”で
不倫がやめられるほど単純じゃないのよ?」
レギュラスは息を呑む。
「あなたにとって私は逃げ場だった。
あなたがそれを否定したら……
あなた自身の弱さを一番否定することになるわ」
図星だった。
セラの指が、レギュラスの手の甲をそっとなぞる。
その軽い触れ方が、逆に胸を掴む。
「あなたね、“逃がし方”が下手なのよ。
逃げたいなら、もっと嘘くらいつけば?」
その挑発的な、成熟した余裕の笑み。
まるで、大人の世界の重力に
足首を掴まれたようだった。
レギュラスは目を伏せる。
「……僕は、本当に終わらせたいんです」
セラは一瞬だけ表情を止め、
次にふっと微笑んだ。
「じゃあ、一つだけ教えて。
――昨日の奥様、あなたに冷たかったでしょう?」
レギュラスは息が止まる。
セラは全部分かっていた。
まるでその場にいたかのように。
「“冷たくされたから戻りたい”って思ってる時点で、
あなたはもう私のところへ戻ってくるわ」
「……そんなつもりは」
「つもりじゃないのよ、レギュラス。
行き場のない男って、結局一番居心地の良いところに落ちるの」
それは、責める言葉ではなく、
哀れみでも同情でもない。
ただの――事実。
「今日は帰りなさい。奥様のところへ。
でないと、ほんとに戻れなくなるわよ」
セラは優しく笑った。
それが逆に、背筋を冷たく撫でていく。
「お坊ちゃん。
あなた、自分で思ってるよりずっと脆いんだから」
レギュラスは返す言葉を失った。
セラがゆっくり距離を取る。
微笑みは変わらない。
「関係をやめるのはいいわ。
でも、覚悟だけはしておきなさい」
――覚悟?
「あなたが私を選ばなくてもね、
“奥様があなたを選び続ける”保証はどこにもないわ」
その一言で、
レギュラスの心臓はひどく強く脈打った。
アランの肩に触れた瞬間、
何かがすっと抜け落ちるような冷たさが指先に宿った。
距離を取られたわけではない。
拒絶されたわけでもない。
ただ、アランの纏う空気が――
ほんのわずか、以前より遠い。
その“わずか”が、レギュラスには恐怖だった。
セラの言葉が頭の奥で重く響いている。
「奥様があなたを選び続ける保証はどこにもないわ」
ただの言葉のはずなのに、
アランの静かな瞳の奥にその影が潜むように見える。
夜、寝室の灯りが落とされると、
レギュラスはアランの体に触れる指が震えた。
普段なら、傷が癒えていないアランに
「大丈夫か」「今日は控えましょう」と
言う側だったはずだ。
なのに今は、
その理性が恐怖に飲み込まれていく。
アランとの間に生まれた隙間を埋められるものが、
この行為以外に思いつかなかった。
肉体ではない。
欲ではない。
これは――縋りつくための行為だ。
「アラン……痛かったら教えてください。
すぐに、やめますから」
自分で言いながら、声が不安に揺れた。
アランは声を持たない。
痛みも、拒絶も、怒りも、悲しみも――
言葉にして返してもらえることがない。
読み取るしかない。
けれど今、読み取れない。
アランの心が遠い場所にあるようで、
その沈黙が何より恐ろしかった。
レギュラスは抱き寄せ、
口付けひとつにも時間をかけた。
額に、頬に、首筋に。
ゆっくり、慎重に。
アランを壊さぬように何度も吸い寄せる。
少しでも心に触れられれば――
そんな願いを込めて。
だがアランの反応は小さかった。
腕はレギュラスの背に回されているのに、
どこか熱が薄い。
いつものようにしっかり抱き返してはくれない。
それが、レギュラスには体を刺すほどつらかった。
結びつけば、
奥に触れれば、
あの翡翠の瞳がまた自分だけを映してくれるのではないか。
そう思って深く求めても、
アランの呼吸は整っていて、
声こそ出ないが、
どこか“静かすぎた”。
一方的に満たそうとしているだけだった。
一方的に埋めようとしているだけだった。
苦しいほどわかっていた。
だがやめられなかった。
やめた瞬間、アランの世界から
自分がするりと滑り落ちてしまいそうで。
「…… アラン。
愛しています。
本当に……誰より、何より、あなたを」
抱きしめる腕をきつくする。
自分の鼓動がアランの胸に響くほどに。
どれだけ重ねても、
どれだけ囁いても、
どれだけ深く抱き寄せても――
アランは静かで、
その静けさが
恐怖そのもの
だった。
声がないから、
アランの本音がどこにも落ちてこない。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
失望しているのか。
遠ざかっているのか。
それとも――
もう、手遅れなのか。
レギュラスには分からない。
分からないままアランを抱いているという事実が、
罪悪と恐怖と渇望の塊のように胸を圧迫した。
「アラン……」
呼びかけても、
アランはただ静かに、
痛みを隠すように目を閉じていた。
その沈黙の中で、
レギュラスの焦りはますます濃く、
暗い底へ落ちていった。
翌朝、アランは瞼を上げようとした瞬間、
胸から腹にかけて鈍い痛みが波となって押し寄せ、
呼吸が浅く乱された。
起き上がろうとして、
全身がぎしりと悲鳴をあげる。
――動けない。
昨夜、レギュラスに抱かれた時間の余韻は、
甘くも優しくもなく、ただ身体の深部に沈殿していた。
魔法省までの距離、
その後に歩いた石畳の道のり、
足元の凹凸が響くように響いてきた疲れ。
そして、
彼が恐れるように触れてくるたびに
自分が拒んではいないと伝えたくて、
痛むのを無理に押し殺した夜。
その全てが朝になって一気に報復してきたようだった。
寝室の外からレギュラスの声がした。
「医務魔法使いを呼びました。すぐに来ますから」
焦りが滲む声。
責められているようでもあり、
同時に縋られているようでもあった。
アランは胸の奥で小さく息を呑んだ。
――この必死さは、何を恐れているのだろう。
昨日、彼が見せた焦燥。
取り繕うように優しくする仕草。
溺れる人が手を伸ばすような口付け。
その全てが、
「何かから目を逸らしたい人間の仕草」
のように見えた。
彼がかつて犯した罪――
マグル孤児院の惨殺、
無実の男への罪の捏造、
そして、メイラを狼人間の餌にしようとした冷血な計画。
その残酷さに以前触れた時、
アランの心には氷のような絶望が流れ込んだ。
一度壊れた心は元には戻らない。
だから今、
ほんの少し距離を置こうとする自分を責めることはできなかった。
壊れないために必要な“境界線”だった。
医務魔法使いが入ってきて診察を始めると、
室内の空気はひどく静かになった。
杖の先が淡く光り、
アランの腹部をなぞる。
浮かび上がった魔力の光が収束した瞬間――
医務魔法使いは眉をひそめた。
「……奥様」
レギュラスがアランの手を強く握る。
医務魔法使いは深く息を吸い、
慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「ご懐妊されています」
メイラが小さく息を呑む音がした。
レギュラスは言葉を失い、ただアランを見つめた。
アランの胸に広がったのは、
喜びではなかった。
ため息が出そうなほどの絶望だった。
なぜ、今なのだろう。
なぜ、こんな時に。
痛みに沈む体。
不安に満ちた心。
レギュラスが何かを隠しているような恐ろしい気配。
そして、父オリオンが望む“男児”。
この身は、耐えられるだろうか。
耐えられなくても、いいのではないか。
そんな思いが胸の底に沈殿していく。
医務魔法使いは続けた。
「今の奥様の状態では……妊娠の継続はきわめて危険です。
体が耐えられない可能性があります」
レギュラスが青ざめ、
メイラは手を口に当てて震えていた。
アランは、ただ静かに瞳を伏せた。
――死んでしまうかもしれない、ということだ。
だが、恐怖は湧いてこなかった。
むしろ、
レギュラスの望む跡取りだけを産み落とし、
役目を終えて消えていく方が
彼にとって都合がいいのではないかと
そんな残酷な考えが頭をよぎった。
自分ではなく、
セラのような強い女が隣に立つ未来の方が
彼は楽なのかもしれない、と。
胸を刺す痛みが、生きている心地を奪っていく。
もし、子をまたの機会に――
と判断されるならば。
アランは静かに思った。
そのときまでの猶予期間は、
ステラとメイラと穏やかに過ごしたい。
もう誰にも壊されたくない。
誰にも踏み込まれたくない。
ただ、
自分を愛してくれる小さな娘の声と、
自分を支えてくれるメイラの温度だけを側に置きたい。
レギュラスが握る手は暖かかったが、
その暖かさすら
どこか遠くに感じられた。
医務魔法使いがアランの懐妊を告げてから、
それほど時間が経っていなかったのに、
屋敷はすぐにざわめいた。
広い廊下の奥から、
硬く響くヒールの音が近づいてくる。
オリオン・ブラック。ヴァルブルガ・ブラック。
冷たい石壁にその名が重力のようにのしかかる。
寝室の扉が開いた瞬間、
その空気はさらに重く濁った。
アランは枕にもたれ、
蒼白な顔でゆっくりと上体を起こした。
レギュラスは傍らで彼女の背を支える。
医務魔法使いは緊張で喉を鳴らし、
それでも簡潔に告げた。
「奥様のお身体の状態を鑑みて……
今回は、懐妊を見送るべきです。
持続は危険が大きすぎます」
寝室の空気が静かに凍った。
ヴァルブルガは瞼一つ動かさず、
まるで予想していたかのような冷静さで息を吸う。
オリオンは眉間に皺も寄せず、
ただ無表情のまま医務魔法使いを見下ろしている。
誰も何も言わない。
重い沈黙がアランの胸にのしかかる。
呼吸のたびに肋が痛むようだった。
そんな中、レギュラスが静かに口を開く。
「アラン、あなたは……どうしたいです?」
声は震えていた。
問いそのものが、祈りに近かった。
アランの意思を知りたい。
その意思を、何より優先したい。
彼女が産みたいと言うなら全力で守る。
諦めたいと言うのなら、腕の中で泣かせたい。
レギュラスはただ、
アランの心だけを指針にしようとしていた。
しかし――
アランは杖を手に取り、
白いシーツの上に静かに文字を描く。
「オリオン様、ヴァルブルガ様のご判断にお任せします」
その字は、震えも揺らぎもなかった。
あまりにも淡々としていて、
体温を感じさせる気配が一つもなかった。
レギュラスの胸に、
小さな火が落ちていくような痛みが走る。
アランの意思はそこになく、
ただ「ブラック家の正妻」としての答えがあった。
彼女は自分を守るために、
あの境界線の向こうに行ってしまった。
沈黙を破ったのはヴァルブルガだった。
「――産みなさい、アラン。
必要ならば選りすぐりの医務魔法使いを集めます」
その声は母親のものではなかった。
刺すように冷たく、
命の重さを微塵も含まない。
アランの命よりも、
生まれてくるかもしれない「ブラック家の後継」
その一点だけを見据えた鋭利な声。
オリオンは目を伏せることもなく、
ただ片息を吐くと踵を返す。
「――では、頼んだ」
背中を向けると、
何の迷いもなく書斎へと歩いていった。
ヴァルブルガも続く。
そのローブの裾が寝室の床をすべり、
まるで誰かの運命を断ち切る音のように聞こえた。
扉が閉まると、
寝室は深い空洞になった。
レギュラスはアランを見つめた。
手を伸ばしたいのに、触れられない。
「…… アラン」
呼んだ声は、掠れていた。
彼女は、
ゆっくりと視線を落とすだけ。
叫びたいほどの沈黙。
正妻としての義務だけが告げられ、
夫としての愛は何一つ届いていなかった。
レギュラスの胸の奥で、
どうしようもない恐怖と焦燥が渦を巻く。
アランが自分の元から消えてしまうかもしれない
その予感が、
ナイフのように鋭く心臓に突き刺さっていた。
懐妊の知らせが寝室に落とされてから、
レギュラスは魔法省の業務を大胆に削り始めた。
休みを取る──
ただアランのそばにいたいという理由だけで。
仕事の山は確実に積み上がっていく。
議会は荒れに荒れ、法務部は混乱を極めている。
それでもレギュラスは構わなかった。
アランの心が自分から離れていく恐怖のほうが、
どんな政治的混乱よりも、はるかに致命的だったからだ。
休みを増やしたことで、
アランの態度が目に見えて変わったのかと言えば──
その答えはあいまいだった。
完全に元どおりではない。
かと言って、拒絶されてもいない。
距離は確かに縮まった気もする。
けれど、それはただ、
アランがその距離に“慣れた”だけではないか?
そう考え始めると、胸がひどく軋んだ。
彼女は微笑む。
頷いてくれる。
ステラを介すと、以前のように笑顔を見せる。
だが、
心の奥に触れようとすると、
薄い膜のようなものに阻まれる。
その膜はとても柔らかく、
しかし容易には破れない何かだった。
その日もレギュラスは、
庭に置かれた白いベンチにアランを座らせ、
ステラが遊ぶ姿を並んで見守っていた。
秋の風は少し冷たかったが、
日差しは柔らかく降りてくる。
庭一面に伸びる影が、長く揺れていた。
「アラン、寒くないです?」
レギュラスはそっと肩に手を置いた。
アランは首を横に振り、
ありがとうと言うように
長く、静かに瞬きをする。
その仕草がレギュラスの胸を温めた。
――愛している。
――どうか、まだここにいてほしい。
喉の奥まで込み上げる想いを必死で飲み込む。
ステラは一段と成長していた。
歩く速度も速くなり、
発語も増えてきている。
特に最近覚えた言葉を気に入っているようで、
庭の芝生をぴょんぴょんと跳ねながら叫んだ。
「まま! ままーー!」
その声がまっすぐにアランに向かって飛んでいく。
アランは両腕を伸ばし、
嬉しそうに微笑む。
けれど、
ステラがその勢いで抱きつけば
アランの体には負担が大きい。
レギュラスは本能のような速さで立ち上がり、
ステラの前に入り込んだ。
「ステラ、こっちですよ」
ふわりとステラを抱き上げると、
娘は驚いたように目を丸くした。
突然高くなる視界に、キャッと歓声をあげる。
「きゃああ!」
その声に呼応するように、
レギュラスはさらに腕を伸ばし、
ステラを天高く掲げた。
夕陽を浴びてきらきらと輝く漆黒の髪が揺れ、
ステラはもう一度笑う。
アランも、その光景を見ながら
そっと口元を緩めた。
その笑顔は柔らかく、
どこか遠く、そしてどこか近い。
その距離はまだ完全には埋まっていない。
けれど、それでもレギュラスは救われた。
抱き上げたステラを胸に寄せながら、
レギュラスはアランを見た。
彼女は微笑んでいた。
その微笑みは、
レギュラスの必死の努力が
ほんの少しだけ届いているのかもしれないと思わせた。
「…… アラン」
名を呼ぶと、アランは静かに目を合わせる。
その瞳は深く美しい翡翠色。
しかし、まだどこか冷たい底を揺らしていた。
それでもレギュラスは思った。
この距離が戻るのなら、
どれだけ時間がかかってもいい。
アランとステラが笑ってくれれば、
それだけで救われる。
メイラは気づいていた。
アランとレギュラスのあいだには、
ほんの紙一枚のような、
けれど確実に存在する“溝”があった。
昔は違った。
笑い合う声がもっと軽やかだった。
ふたりの視線が触れ合うたびに、
小さな灯がぽっと灯るような優しい空気が流れていた。
けれど、あのカフェで──
セラ・レヴィントンという女に出会ってしまってから。
何かが変わった。
メイラはまだ幼い。
男女の関係なんて、まともに理解していない。
けれど、それでも。
レギュラスとセラの間に流れていた
“なにか”──
それは、子どもである自分にさえ理解できてしまうほど、
濃くて、熱くて、大人の色をしていた。
セラはレギュラスに向けて、
よく知っている者の目を向けていた。
そしてレギュラスも、
セラに向ける視線が、
アランに向けるものとは違っていた。
メイラには、それが怖かった。
アランがかわいそうで仕方なかった。
声を持たない美しい魔法使いの妻は、
あの日、ほんの一瞬だけ、
影が落ちたように見えた。
その影は深く、
痛々しいほどに繊細だった。
それからレギュラスは変わった。
いや、正確には──
わかりやすすぎるほど変わった。
毎日のように屋敷にいる。
アランのための休みを増やし、
ステラと遊び、
アランの隣に座る時間を必死に作る。
まるで、
逃げる鳥の片翼を必死で掴み返すように。
その必死さは、痛いほど伝わってきた。
でも。
必死であればあるほど、逆効果にも見えた。
焦りが透けて見えるようで、
その焦りがアランをさらに遠いところへ追いやってしまいそうで。
メイラは胸がぎゅっと縮まった。
けれど。
ふたり目の懐妊が告げられて数日──
アランとレギュラスの間に、
また少しだけ、あたたかい温度が戻ってきた。
ベンチで肩を寄せ合う姿。
庭で笑い合いながらステラを見る姿。
アランがまるで昔のように、
静かに微笑む瞬間が増えてきた。
まだ完全に戻ったわけじゃない。
その笑顔はどこか薄く、
硬く、
すぐに消えてしまいそうな儚さを帯びている。
けれど、それでも。
メイラは心の底から願った。
どうか、
いつも自分を抱きしめてくれる
優しいアランが──
これ以上、
何かに奪われませんように。
何かに傷つけられませんように。
あの美しい瞳に、
もうこれ以上、影が落ちませんように。
ただただ、それだけを祈った。
その日、店の窓際から外をぼんやり眺めていると、
道路の向こう側を、ゆっくりと歩く三つの影が見えた。
メイラ──あの幼いマグルの少女。
その隣に声を持たない美しい女。
そして、小さく揺れながら歩く赤子。
アラン・ブラック。
ブラック家の「奥方」。
セラは、足を止めた。
……ああ、あの女か。
数日前に、レギュラスが取り乱したような顔で駆け寄っていた女。
杖で文字を書く姿が今でも目に焼きついている。
アランは、静かだった。
その静けさが、異様なほどの気品と痛々しさを同時に纏っていた。
その隣で、レギュラスはまるで壊れものを扱うように
アランの手や肩を包み込んでいた。
──分かりやすい男ね。
セラは、窓越しに小さく笑う。
あの夫婦を見た瞬間、胸の奥に
氷でも落とされたような冷たいざわつきが走った。
嫉妬じゃない。
女同士の張り合いでもない。
ただ──
「あの男が、こんな顔もするのか」
そんな興味が、ふっと芽を出した。
初めてレギュラス・ブラックと夜を共にしたとき、
セラは確信した。
あの男は危うい。
優しい顔の奥で、何かを抱えすぎていて、
それを抱えきれずに他人の腕に逃げ込んでくる。
女として、そういう男は扱いやすいし、面白い。
けれど……。
アランを見て、セラは直感した。
この夫婦の関係は、あまりにも異質だ、と。
アランはあれほどか弱く見えるのに、
夫を支配しているのはむしろアランの方だ。
声が出ないのに。
意志を語れないはずなのに。
レギュラスはあの女の一挙一動に怯え、
すがりつくように寄り添っている。
セラはゆっくりと腕を組んだ。
「……これは、ただの夫婦関係じゃないわね」
知りたい。
知れば知るほど危険だとわかっていても、
飲み込まれるような興味が胸に渦を巻く。
レギュラスがアランの肩にそっと手を添え、
アランがその手を受け入れる瞬間。
セラは、思わず息を止めた。
優しいふりをしている男の腕の震えまで、
遠くからでも分かる気がした。
罪悪感か、焦りか、愛か、執着か──
どれなのか判別できないほど混ざり合っていた。
アランもまた、
微笑んでいるのにどこか遠い。
その距離感がたまらなかった。
壊れそうなものに手を伸ばしたくなる、
そんな大人の悪い性が刺激される。
セラは薄い唇をふっと歪めた。
「ねえ、ミスター・ブラック……
あなた、どんな気持ちであの女に触れているの?」
まるで挑発するように、
セラは遠くから夫婦の背中を見つめ続けた。
あの男が、どれほどの“重さ”を抱えているのか。
どれほどの“嘘”を隠しているのか。
それを暴いてしまいたい衝動が、
静かに、静かに膨らんでいく。
──レギュラス・ブラック。
あなたはまだ気づいていないでしょう?
“関わらない方がいい女”は、
ときに一番厄介だということを。
アラン・ブラック懐妊──。
朝の魔法界を駆け巡ったのは、この一文だった。
新聞の見出しには、黒々とした大きな字体で
“ブラック家、第二子を授かる”
と祝福めいた文言が踊っている。
つい先日、流産の噂が流れたばかりだというのに。
その影が晴れぬうちに、また懐妊だ。
ジェームズ・ポッターは、新聞を折りながら、
そのごく短い周期に妙な不快感を覚えていた。
──動物の繁殖じゃないんだぞ。
純血の名門がどういう価値観で子を求めるか、知らないわけではない。
分家の人間さえ産む事を義務として育てられる家もある。
それでも、だ。
ブラック家はその最たるものだと知っていたが、
こうも露骨であからさまな「世継ぎの圧」を感じさせる一族だとは。
ジェームズは舌打ちしそうになるのを飲み込んだ。
「体は……平気なのかな。アランさん」
隣で新聞を覗き込んでいたリーマスが、静かに言った。
アラン・ブラック。
憐れなほどの過去を背負わされ、
声も奪われ、
あの家の“器”として扱われていると噂されている女。
リーマスの声音には、優しさと心配が滲んでいた。
だがジェームズは、ひどく冷めた瞳で新聞を閉じた。
「さあな。
けど、僕らが気にする筋合いのものじゃない」
冷たく言い放つと、リーマスが少し驚いたように眉を上げた。
ジェームズは椅子の背にもたれ、吐き捨てるように続ける。
「情けをかけたところで、あの女は最後は“闇”に肩入れする。
レギュラスをかばい、その罪まで覆い隠す側に立つだろう。
僕らが追っている真実にとって、一番厄介な障害だよ」
リーマスは目を伏せた。
優しい男だ。
アランの過去を知れば知るほど、気の毒に思ってしまうのもわかる。
だがジェームズには同情よりも、
“闇への片棒を担ぐ者”としての危険性のほうが強く見えていた。
「しかし……早いものだね」
リーマスは苦笑まじりに新聞を摘む。
「純血の家って、みんなこんな感じなのかい?
立て続けに懐妊だなんて……」
「まさか」
ジェームズは鼻で笑った。
「ポッター家をそんな野蛮な伝統と一緒にしないでくれ」
言葉の端々に、誇りが滲んでいた。
「僕の両親は言ってたよ。
“子は天からの贈り物。授かるべき時に、授かる形で訪れるものだ”って。
決して、産めと強要するようなものじゃない」
ジェームズは紅茶を口に運ぶ。
湯気がゆっくりと立ちのぼる。
ブラック家の、あの“世継ぎの機械”のような扱い。
それを当然とする空気。
そして、騒ぎ立てる魔法界の浅ましさ。
すべてが嫌悪感を引き起こした。
「……下品だよ」
ジェームズは小さく呟いた。
「なにが?」とリーマス。
「懐妊そのものじゃない。
“産まねばならない”という、あの空気だ。
あれは人の家庭じゃない。
純血という冠に命を縛りつける牢獄だよ」
彼の内側で、小さな怒りが沸き立つ。
アランの体がどうなのか、正直どうでもいい。
だが、あの家の異様さは見過ごせない。
ブラック家はいつも──
人の人生を“血で測る”。
「……シリウスがあんな家を捨てたのも、当然だよな」
ジェームズの呟きに、リーマスも静かに頷いた。
新聞の“おめでたい報せ”は、
ジェームズ・ポッターの心には
一片の祝福すら残さなかった。
そこに見えたのは、
支配と圧力によって形作られた、
冷たい闇だけだった。
アランが──また懐妊した。
その知らせは、耳に届いた瞬間、
シリウス・ブラックの胸を深く刺し貫いた。
息が詰まるとは、このことだろう。
驚きで声が出なかった。
いや、声を出す前に、言葉そのものがどこかへ消えてしまった。
まだ前の傷だって癒えていないのに。
つい最近、彼女が階段から落ちたという知らせがあった。
それ以前には、流産の噂さえ流れていた。
肉体も、心も、確実に削られているはずだ。
それなのに──。
まるで「産ませるための器」のように扱われているとしか思えなかった。
アランという女は、そんな雑な扱いをしていいほど
粗野でも鈍感でもない。
繊細で、優しくて、傷つきやすくて、
他人の痛みを自分のもののように抱きしめてしまう女だ。
そんな彼女を、あの屋敷は間違いなく壊す。
胸の奥が熱くなり、怒りが喉を押し上げた。
だが言葉にする前に、隣で新聞を畳んだジェームズが低く言った。
「シリウス、余計な詮索はやめよう。無意味なんだ」
冷静な声だった。
温度は低いのに、妙に柔らかい。
その分、胸に刺さる。
「わかってるよ」
シリウスは吐き捨てるように言った。
「別にどうこうしようなんて思ってない」
「嘘つけ」
ジェームズは、すべて見抜いた眼でこちらを見る。
「お前、次に何をするつもりなのか、顔に書いてある」
「……」
何度も思う。
ジェームズは本当に鬱陶しいほど“読める”男だ。
胸の奥を見透かされている気がして、
苛立ちと情けなさが混ざる。
本当は、アランのそばへ行きたい。
ただ、彼女の顔を見たい。
生きているか、笑っているか、泣いていないか……
確かめたい。
だがおそらく、それだけでは済まない。
レギュラスと、あの家と、
次に何があってもおかしくない関係に、
自分が踏み込みたくなってしまうから。
「それよりシリウス、聞けよ」
ジェームズは手元の書類を指で叩いた。
「レギュラスブラックの出入りが、今、極端に減ってる。
ここのところ、法務部をほとんど使っていない」
「……あいつが?」
「ああ。
可決権は別の委員に完全に移ってる。
“今こそ”チャンスなんだよ」
平然とした声だったが、ジェームズの瞳は鋭い。
確かに──これは滅多にない機会だ。
レギュラスという鉄仮面が議会にいないだけで、
可決の壁はかなり薄くなる。
「やりたい事が山ほどあるんだ」
ジェームズは続けた。
「マグル孤児院の襲撃事件の再調査許可。
狼人間にマグル食殺の“免罪符”を出してる狂った法律の撤廃。
最近のマグル武装集団との衝突で、
魔法族側が無茶な身柄要求をしてる件の減罰を求める裁判申請も」
ひとつひとつが、
シリウスの胸にも深く刺さるものばかりだった。
あれもこれも、
レギュラスが議会に張り付いている時は
決して通らなかった議題だ。
今なら、通せるかもしれない。
その“今”を逃すのは愚かだ。
その理屈は、シリウスにもよく分かっていた。
分かっているのに。
胸の奥では、別の声がうるさく囁いてくる。
── アランが心配だ。
──あの家で今、どんなふうに扱われてる?
脳裏に浮かぶのは、杖で会話しながら微笑んだあの日の姿。
ステラを抱いていた、弱くて強い姿。
痛みに歯を食いしばっても声を出せない、あの女の姿。
また傷ついていないだろうか。
また、泣いていないだろうか。
「……どうした?」とジェームズ。
「……何でもない」
本当は何でもあった。
今すぐ走って確認しに行きたいくらいだ。
だがそれは、愚かな衝動だと自分でも分かっていた。
会ったところで、何ができる?
何をしてやれる?
彼女は、もうブラック家の妻だ。
その役目の中に、ずっと閉じ込められていく。
シリウスは拳を握った。
怒りと無力感と心配が、
胸の奥で絡まり合い、ほどける気配はない。
ジェームズが淡々と言う。
「シリウス、レギュラスがいない間に片づけられる案件は多い。
逃がす手はない。
……わかるだろ?」
「ああ。わかってる」
理性では理解している。
だが心は、アランの名を呼びたがっていた。
守れないなら、せめて壊れていないか確かめたい──。
その感情だけが、いつまでも胸の奥で、苦しく燃え続けていた。
