2章
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アランのいない朝食の席は、驚くほど静かだった。
たったひとり欠けただけなのに、食卓全体の空気はどこか歪んだように感じられた。
メイラがアランの食事を寝室へ運び、介助しながらそこで食べさせている――その事実が、妙な空席感として場に広がっていた。
レギュラスは、空いた席を見つめる。
あの席には、消え入りそうに静かな気配があった。
控えめで、それでいてその場の光をそっと柔らかくするような存在感。
その不在は、思っていた以上に胸に痛んだ。
「――あの女は、いつから産めるのです?」
ヴァルブルガの鋭い声が、銀の食器の触れ合う音すらかき消した。
レギュラスは息を止めた。
言葉の刃は、まるでアランのすぐそばへ突き刺さるかのようだった。
当のアランがいない場で、冷酷な問いが放たれる。
「まだ……もう少しかかるでしょうね」
抑えた声で答える。
それしかなかった。
本当は「無謀だ」と叫びたかった。
だが、この家ではそんな言葉は許されない。
「何の利益ももたらさない女なら、この屋敷には不要よ」
ヴァルブルガの冷たい声。
レギュラスの胸がひどく痛んだ。
アランはそんな言葉を直接耳にすることはない。
けれど、この無言のプレッシャーは確かに存在している。
それがずっと、アランの心を追い詰め続けている。
昨夜、あの細い手が自分の背に縋りつくように伸びた理由――
その一端をようやく理解した気がして、心臓が疼いた。
「必要であれば、他の女を用意しよう、レギュラス」
低く響いたオリオンの声は、父としてではなく“ブラック家の当主”としてのものだった。
レギュラスの全身が強張った。
父が“選ぶ”女など、アランを死より深い闇に突き落とすのと同じだ。
「少し……時間をください、父上」
できる限り落ち着いた声で言う。
「どれくらい待たせるつもりでいる?」
重たく、逃げ道のない問い。
答えられるわけがない。
だが、無知や不安を認める回答で満足されることも決してない。
レギュラスは唇を噛み、最も現実的で、最も希望のある数字を絞り出す。
「三年ほど……時間をください。
アランの身体の回復も考え、最も現実的だと判断しました」
ヴァルブルガが匙を置き、かすかに鼻で笑った。
オリオンが眉をひそめる。
「長い。三年も屋敷の後継がいない状態で過ごすつもりか」
レギュラスは言葉を失う。
けれど引き下がるわけにはいかなかった。
アランの体は、無理をすれば本当に壊れてしまう。
医務魔法使いの警告が頭に響く。
「では……」
抗うように声を出すが――
「一年だ」
オリオンが強く遮った。
レギュラスは目を見開いた。
「一年は待とう。
それ以降、あの女を屋敷から追い出せ」
「――待ってください、父上!」
声が震える。
今のアランに一年後などない。
あの身体のまま子を宿せと言うのか。
それは、死ねと言うのと同義だ。
しかし、オリオンは振り向きもしない。
椅子を押し、重々しく立ち上がる。
「決定だ」
それだけ言い残し、静かに食堂を出ていった。
レギュラスは即座に立ち上がり、その背中を追う。
だが歩幅の大きい父は、そのまま振り返ることなく廊下へ出て行き――
執務室へ入り、扉を閉めた。
重い音が響いた瞬間、レギュラスはそこで初めて立ち止まる。
扉の前で拳を握りしめ、微かに震える呼吸を整えようとした。
――一年。
あまりに短い。
あまりに残酷。
あまりに、アランを追い詰める期限。
扉の向こうにいる父は、もうその考えを変える気など一切ないだろう。
どんな言葉を尽くしたところで、アランの体と心よりも、家の後継が優先なのだ。
食卓の残り香と、空席の痛みが胸の奥で膨れ上がる。
セラのカフェは、昼の光に照らされいつもより柔らかく見えた。
レギュラスは癖になったように「いつものセット」を頼む。
「浮かない顔ね」
セラがカウンター越しに覗き込む。
その声音は軽いのに、不思議なほど心を軽くする隙をつく。
「ええ……妻が階段から落ちまして」
「まあ。無事なの?」
「命に関わるものではありません。ただ……こんな状況でも世継ぎの話ばかりで、参ってますよ」
吐き出した瞬間、自分がどれほど追い詰められていたのか思い知った。
家族にも同僚にも言えなかった弱音が、この女には自然と出てしまう。
「大変なのね、純血のお坊ちゃんは」
揶揄うような、でもどこか優しい響き。
“お坊ちゃん”と呼ばれて内心むっとするかと思ったが、むしろ胸の力が抜けていく。
「じゃあ……そんな中、誘っちゃ悪いわね」
「何に、です?」
自分でも呆れるほど間の抜けた返しだった。
セラは肩を震わせて笑う。
「何にって……そういうことよ」
その一言でようやく意味を理解し、レギュラスもつられて笑ってしまった。
「いいですよ。少し早めに上がります」
「あら、あなたって本当に……いい人なのか悪い人なのかわからないわね」
セラの言葉はあまりにも軽やかで。
けれど、その軽やかさに救われている自分がいる。
――義務でアランに触れたくない。
―― アランを“世継ぎの器”のように扱うくらいなら、自分が壊れる方がいい。
そんな矛盾に押しつぶされそうな日々。
セラの前では、それらがほんの少しだけ解けていった。
発散でもある。
逃げでもある。
そして――確かに、罪でもある。
だが今のレギュラスは、そのすべてから一晩だけでも逃れたかった。
心が疲れ果て、
愛している人を愛しているからこそ抱けないという苦しみに縛られ、
誰にも言えない焦りと恐怖に呼吸を奪われていた。
セラレヴィントンの世界観は、そんな自分をほんのひととき、許すような錯覚を与えてくれた。
レギュラスは目を閉じ、静かに息を吐いた。
――今夜だけ、忘れたい。
心の奥底でそう願ってしまう自分が、ひどく哀しかった。
夜の街は潮が引くように静まり返り、灯火のにじむ薄闇のなかで風だけが流れていた。
先に歩くセラのヒールの音が規則的に石畳を叩く。その背中は振り返らずとも、連れて行く先がどこかを示しているようだった。
「こっちよ、ミスター・ブラック」
くぐもった声色が夜気に溶ける。
レギュラスは応えるようにわずかに頷き、その後をついていった。
街外れの古いモーテル。
看板の魔法灯は点滅し、壁のひびすら隠そうともしない。
だが、その粗雑さが今夜だけはむしろ救いだった。
――ここは光の届かない場所だ。
――誰も自分を“ブラック家の後継”として見ない。
その事実だけで、胸の奥の重石がすっとほどけていくようだった。
狭い部屋の扉が閉まると、世界の境界が切り替わるように静寂が満ちた。
セラはレギュラスのローブを指先でなぞり、その動きを止めることなく口元を緩めた。
「今夜は……考えたくないことが多いんでしょう?」
その問いは、まるで見透かしたように真っ直ぐだった。
レギュラスは否定する気力もなく、ただ呼吸を吐き出す。
手が触れた瞬間、心が軋んだ。
アランの柔らかで静かな温度とはあまりにも違う。
セラの体温は、熱を帯びていて、現実から離れた異国のぬくもりのようだった。
「ほら……こっちを見て」
顎を指先で軽く持ち上げられ、薄明かりのなかでセラの瞳が揺れた。
その瞳には翡翠の色はない。
アランとも、あのマグルの少女とも決して重ならない色。
それだけで、胸を締めつけていた罪悪感が薄まっていく。
――この瞳には、自分の罪が映らない。
―― アランの痛みも、恐怖も、泣き声も映らない。
それが、ひどく安堵を呼んだ。
触れ合った瞬間、胸の奥で何かが破れた。
快楽の奔流が押し寄せるというより――
逃避そのものが甘く体を包んだ。
セラはよく響く声で笑い、喘ぎ、求めてくる。
その声はレギュラスの頭を麻痺させ、理性を薄膜のように剥いでいった。
アランには決して向けられないような衝動が、
まるで押し寄せる波のように体の内側から噴き出す。
彼女の腰を引き寄せ、抱き寄せる。
熱の匂い、香水の残り香、タバコの刺激。
どれも自分の日常には存在しないものたちだった。
ここでは夫でも父でも後継でもない。
ただの男でいられる。
その錯覚が甘い毒のように喉を温めた。
セラが爪を立てながら囁く。
「ねえ……あなた、思ったよりずっと優しいのね」
レギュラスは一瞬だけ目を伏せた。
――優しい?
――そんなわけがない。
アズカバンに送った少女の父。
孤児院で息絶えた翡翠色の瞳。
そして、家の命令でアランの体を追いつめようとしている自分。
優しさなどあるはずがない。
だからこそ、女の軽い言葉が胸に刺さる。
逃避の中で、レギュラスはただひたすらセラに溺れた。
自分を形作る重責も罪も、アランを案じる想いすらも、
この一夜だけは眠らせてしまいたかった。
行為の余韻がやわらかく揺れる。
セラはシーツを胸まで引き上げ、肩で笑った。
「ほら……やっぱり優しいじゃない。そんな抱き方」
「……そうですかね」
本当は違う。
これは優しさではなく、ただの逃げだ。
アランを求める心をごまかすための、薄い膜のような快楽。
それでも、セラは微笑んだまま言う。
「いいのよ。理由なんてどうだって。
逃げたい夜は、誰にだってあるわ」
レギュラスは目を閉じた。
逃げたい夜。
まさに今がそうだった。
アランを愛しているからこそ、抱けない。
愛しているのに、義務のために触れなければならない。
その矛盾が喉を締めつけるほど苦しかった。
セラとの行為は“欲”ではなく“逃避”。
だが、それが今夜だけは許されてもいいような気がした。
愛しているアランに触れられない苦しさを、
一晩だけ忘れるために。
その夜、レギュラスが眠ったあと。
セラはひとり暗い天井を見つめていた。
彼の腕はゆるく自分の腰にまわされているだけで、
大切に抱き寄せるわけでもなく、
かといって突き放す気配もない。
まるで、そこに「誰か」がいれば十分だと言わんばかりの重さだった。
――この男、本当に危ないわ。
セラは薄く笑った。
ぞくりとするほどに美しい顔。
触れられれば溶けてしまいそうなほど優しい手つき。
そして、どこか満たされずに彷徨っているような孤独。
普通の男なら、抱いたあとには必ず見せる甘えや独占欲を覗かせるはずなのに。
レギュラスはほんの一瞬、瞳に激しい熱を宿したと思えば、
次の瞬間には驚くほど冷静に戻ってしまう。
まるで、心の奥に鍵をかけているようだった。
ひどく整っていて、きれいで、優しくて。
――なのに、とても壊れやすい。
セラは横目で、眠るレギュラスの横顔を盗み見る。
あれほどの男が、今はただ静かに呼吸をしているだけだ。
まるで何かから逃げ込むために、ここに来たと言っているような寝顔。
「……奥さんのこと、よね」
誰に聞かせるわけでもなく呟く。
さっき彼の瞳に浮かんだ、説明しようのない罪悪感と哀しみ。
あれは、ただの夫婦関係じゃ出てこない目だった。
――愛している。けれど、逃げている。
そんな矛盾が、レギュラスの体のどこにも流れていた。
セラはベッドの上でゆっくりと起き上がり、
シーツを胸元まで引き寄せた。
レギュラスの髪を指先で軽く整えながら、
まるで禁忌に触れるような甘いため息をつく。
「ねぇ……どんな女なの?」
心の奥底で芽生えた好奇心が、形を持ちはじめていた。
レギュラスは妻を“守るもの”のように扱っている。
“壊れるもの”として触れている。
それでいて、あそこまで愛を滲ませる男の顔を見せるなんて。
普通じゃない。
そこに必ず、深く、重い事情がある。
――それを知りたくなるのは、女の習性みたいなもの。
セラは自分の頬に微笑みを浮かべたまま、
視線をレギュラスの胸の鼓動に落とす。
「あんなふうに抱く奥さん……どれほど綺麗なんだろう。
どれほど、無垢で……どれほど、あなたを縛っているのかしら」
嫉妬ではない。
興味。
もっといえば、“理解したい”という欲。
この男の危うさの源泉を覗き込んでみたい――
それは、女としての本能に近い衝動だった。
レギュラスがうなじに触れればとろけるほど優しいのに、
心の奥には刃物のような鋭さと、消しきれない影がある。
その影の正体が、妻だとしたら。
――その女を、一度見てみたい。
セラの胸の奥で、小さな光が灯る。
興味であり、好奇であり、
ある種の危険な誘引。
あの“純血の妻”さえ見られれば、
この男の壊れやすい輪郭がもっとよく分かる気がした。
セラはゆっくりと横になり、眠りに落ちていくレギュラスの背に腕を回した。
まるで、秘密に触れたくて仕方がない子どものように。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む金色の光が、薄く揺れる埃の粒子を照らし、
昨夜の熱の名残りだけが静かにモーテルの空気を温めていた。
レギュラスが薄く目を開けると、セラが枕にもたれながら煙草を指先で弄んでいた。
火をつける素振りさえなく、ただ唇に触れさせたり離したりしているだけの
“からかうような仕草”が、妙に艶やかだった。
「おはよう、ブラック家のお坊ちゃん」
セラは微笑みながら、揺れる煙草を指先で軽く振った。
その視線が、ただの相手を見る目ではないことにレギュラスは気づく。
昨夜よりも深く、観察するようで――どこか“探り”がある。
「……おはようございます」
自分でも驚くほど声が低く、掠れていた。
セラが片肘をついて身体を傾ける。
白いシーツから覗く肩のラインが、あまりにも自然で、
“慣れている女の動き”だった。
「ねぇ……あなたって、魔法省の顔では妙に固いくせに」
細い指でレギュラスの胸のボタンを軽く押しながら、
セラはくすっと笑う。
「こっちでは、そんな顔するのね」
“そんな顔”。
それがどんな顔なのか、レギュラスは訊ねることもできなかった。
昨夜、セラの体に身を預けた瞬間、溢れ出た弱さ。
逃げ込むように抱き寄せた腕。
必死に求めながら、心だけはここにいなかった自分――
全部見透かされている気がした。
その“見透かすような視線”に、
レギュラスは気づいているのに、
不思議と嫌悪よりもむしろ甘い眩暈を覚えてしまう。
――大人の女ってこういうものなのか。
深く踏み込まれれば本来なら身を強張らせるべきなのに、
セラの好奇はどこか心地よく、
現実から目を逸らすために差し伸べられた“柔らかな毒”のようだった。
「そんなに見てどうしました?」
とレギュラスが言うと、セラは笑い、
煙草をテーブルに置いた。
「あなたって……すごく“綺麗に壊れそう”なのよね」
その言葉に、胸の奥がわずかに震える。
アランを見るときとは違う、
もっと冷たくて甘い種類の震えだった。
セラの指先が頬をなぞる。
その触れ方が、アランの透明な手つきではなく、
“女としての経験”を含んだ確かな温度を持っていた。
「逃げたい時は、また来なさいよ。
あなた、逃げてる時の顔の方がずっと色っぽいんだから」
揶揄う声は軽やかで、
それなのに心の奥の薄い傷の部分をふっと撫でるようで、
レギュラスは返す言葉がなかった。
彼女の視線が鋭いことも、
この女が自分の心の“奥の奥”に興味を持ち始めていることも気づいている。
気づきながら、止めようとしない。
――気づけばまた、逃げ道を求めてしまいそうだ。
そう自覚しながら、
セラの指先が自分の胸元に触れるたび、
レギュラスはわずかに息を吸って目を閉じた。
現実から目を逸らすように。
アランへの罪悪感を、ひととき忘れてしまうために。
マグルの武装集団と魔法族との衝突事件。
その報せは、冬の冷たい雨のように魔法省中に落ち、瞬く間に議会を凍りつかせた。
犠牲者の名が次々と読み上げられたとき、
議場に満ちる空気は恐怖や悲嘆ではなく――怒りだった。
もっとも、それは一枚岩ではない。
怒りの矛先が、派閥ごとに真逆を向いている。
「マグルを保護しないからだ!我々が歩み寄れば、対話の道は必ず――」
騎士団側の代表がそう叫んだ瞬間、魔法省側の重鎮が机を叩いた。
「対話? 銃で我々を撃ち抜いた相手と?
彼らは“魔法使いだから”という理由だけで攻撃したのだぞ。
いったい何を守ろうと言うのだ!」
「魔法族が強大な力を持つから、マグルが恐れたのだ!
その恐怖を取り除く努力こそ、我らの責務だ!」
「責務? 責務は魔法族を守ることだ!!」
怒声が議場の天井にぶつかり、灰色の壁を震わせた。
レギュラスは、議席の背凭れに指を軽く当てながら、
その不毛な応酬を冷めた瞳で眺めていた。
――笑わせる。
騎士団側が掲げる理想論は、
彼に言わせれば“綺麗事という名の盲目”だ。
銃弾が魔法族の血肉を裂き、
癒しの術も間に合わず倒れていった姿が脳裏に蘇る。
あの無残な死が、なお“歩み寄り”の言葉に包まれるなど――
正気とは思えなかった。
数時間に及ぶ討議の末、
議題は事件の首謀者であるマグルの身柄を魔法界に引き渡すかどうかに焦点が移る。
魔法省法務部は“全員の引き渡し”を要求している。
捕らえたマグルをアズカバンへ。
あの冷え切った監獄で、恐怖に震えながら死ぬまで後悔させればいい――
それが法務部の総意であった。
しかし騎士団側は真っ向から反対した。
「彼らは恐怖に抗っただけです!
話せばわかる、誤解は解けるはずです!」
「では貴殿の息子が撃ち抜かれて死んでいたら……
同じ台詞を吐けたましたか?」
一瞬で議場が静まり返る。
息を呑む音があちこちから聞こえた。
レギュラスは腕を組んだまま、
ゆっくりと視線を落とした。
議場の喧騒も、怒り狂う声も、涙も、
すべてが遠くの雑音のように感じられた。
昨夜のセラの指先。
そのやわらかな嘲り。
アランの体温。
階段の上から落ちてくる時の鈍い音。
メイラの泣きそうな声。
全てが頭の奥でずっと渦巻いており、
今日の議会は昨日以上に耐えがたかった。
その疲労が、ひどい苛立ちを呼び起こす。
「……まったく、どこまで馬鹿なんですかね」
思わず零れた言葉は、
隣の席のバーテミウスだけに聞こえるほどの小声だった。
バーテミウスはくすりと笑う。
「でしょう? 僕は最初から言ってるでしょう。
騎士団なんて綺麗事ばかりで役に立たないって」
レギュラスは目を閉じ、深く息を吐いた。
――境界線が必要だ。
これは優しさの問題ではない。
生き残るための線引きだ。
議場の中央ではまだ叫び声が続いている。
「我ら魔法族こそ良識を示さねばならんのだ!
マグルへの理解なしに共存はない!」
「共存? 共存ってのは同じ高さで交わることだろう?
奴らは我々を“怪物”と呼びながら銃を向けてきたんだぞ!」
「魔法族としての威厳を示せ!」
「威厳より慈悲を――!」
どちらが正しいという問題ではない。
だが、彼らは致命的に分かっていない。
――“命の線引き”は、
善意や理想で決まるものではない。
レギュラスは静かに目を開け、
議会の混乱を真っ直ぐ見据えた。
魔法界とマグル界。
その間に横たわる深い溝を、
埋めるのか、断絶させるのか。
今日の議会は、その未来の方向を確かに揺らし始めている。
だが少なくとも――
レギュラス自身の答えは、もう揺らぐことはなかった。
ステラは、最近覚えたての言葉を嬉しそうに繰り返していた。
「ぱぱ」「ぱぱ」
意味こそまだ曖昧でも、その呼びかけだけは確かに父を求める音になっていた。
しかし今日に限って、ステラは朝から泣き止まない。
乳母が抱いて揺すっても、メイラがあやしても、
何ひとつ響いていかないようだった。
――きっと、レギュラスが恋しいのだ。
アランには、直感で分かった。
ステラは父の名を覚えたことで、
その不在をこれまでより鋭く感じ取れるようになったのだろう。
だが、レギュラスはここ数日、
魔法省で続く“マグルと魔法族の衝突事件”の対応に追われていた。
予言者新聞も、ウィッチ・デイリーも、
朝から晩までその話題で埋め尽くされている。
――考えないようにしなければ。
アランは無意識にそう思った。
この事件を深く追ってしまえば、
かつてレギュラスが
マグルの孤児たちを大量虐殺し
その罪を無実の男に着せてアズカバンへ送った
“あの事実”に、また心が引き戻されてしまう。
ステラの泣き声が、胸をかき乱す。
レギュラスを呼ぶため、
アランはステラを抱いて外套を羽織った。
メイラが慌てて駆け寄り、その肩を支える。
「アランさん、大丈夫ですか……? 本当に歩けますか?」
アランは小さく首を振る。
――行くしかない。
その意思を伝えるように。
魔法省にたどり着く頃には、
アランの呼吸はほんのりと乱れていた。
屋敷の庭を散歩するのとは違う。
石畳は粗く、足元は不安定で、
骨盤の奥にまだ残る痛みがじわりと主張してくる。
そんな時、バーテミウスが現れた。
薄く笑い、まるで舞台に立つように優雅に一礼した。
「これはこれは……お美しいブラック家の奥方ではありませんか」
アランは軽く礼で返す。
左右には、アランの裾を引くようにメイラ、
腕に抱かれながら泣き顔をくしゃくしゃにしたステラ。
「レギュラスなら今ここにはいませんよ。
おそらく……いつものカフェで昼食中でしょうね?」
アランは杖を振って伝えた。
――案内していただけますか?
「もちろん。喜んで」
バーテミウスの言う“いつものカフェ”までの道のりは、
思いのほか遠かった。
アランは普段より早く足に疲労を覚える。
「アランさん……本当に無理をしていませんか?
少し休みましょうか」
メイラの言葉に、アランはまた首を振った。
――大丈夫。もうすぐだから。
カフェの前に着くと、
メイラはステラの耳元で優しく囁く。
「もうすぐですよ、ステラ様。ほら、パパに会えます」
ステラはぐずりながらも、その声に反応し、
アランの胸の中で身をもぞもぞと動かした。
扉を開けた瞬間、
ほんのり漂う焙煎豆の香りと微かな甘い香水が鼻を刺した。
レギュラスは、カウンター席にいた。
窓から流れ込む午下がりの光を受け、
漆黒の髪がやわらかく光を返している。
その正面には――
アランより年上に見える、妖艶な雰囲気を纏った女が微笑んでいた。
その距離、その空気。
アランの胸は、ひどく冷えた。
レギュラスがこちらに気付いた瞬間、
まるで呪縛が解けたように立ち上がり、
急いで駆け寄ってきた。
「アラン……どうしたんです?」
ステラは父の姿を見るや否や、
ぱっと顔を明るくし、
小さな体で全力でレギュラスに抱きついた。
「ぱぱ! ぱぱ!」
その声に、カフェの中の視線が一瞬集まる。
「朝から……ステラ様はお父様に会いたいと泣いておられました」とメイラ
アランは杖を振った。
――忙しいところにごめんなさい……助けてほしくて。
レギュラスの表情が、
一瞬で“夫”の顔へと変わった。
「歩いたでしょう……座ってください。
こんなに顔色が悪い」
その声音には心底からの心配が滲み、
アランの胸の奥に、申し訳なさがひどく疼いた。
――ごめんなさい。
少しでも、あなたに会いたかっただけなのに。
心はそう叫んでいた。
バーテミウスは、カフェの扉を肩で押さえたまま動かなかった。
まるでこの場に吹き込む外気よりも、
室内で渦巻く緊張に興味を持っているかのようだ。
「では僕はこれで」
軽い声音とは裏腹に、どこか楽しげな色さえ含んでいる。
レギュラスは、ほんの一瞬だけその横顔を鋭く睨んだ。
だがすぐに、胸の奥の空洞を塞ぐように、
アランへと視線を戻した。
アランは、杖を握りしめたままわずかに息を乱している。
ステラは父にしがみついたまま、泣き腫らした目をこすっていた。
「温かいものを頼みましょう」
レギュラスは振り返って声をかける。
「セラ、アールグレイをお願いします」
口にした瞬間、
レギュラスの心臓が一拍だけ痛むように脈打った。
――まずい。
“セラ”と、名を呼んでしまった。
普段の客であれば「店員」か「彼女」で済んだはず。
それなのに、あまりに自然に名前が零れ出た。
アランの前で。
アランは気づいた様子を見せない。
ただ杖を持ち替え、静かに文字を描く。
――ごめんなさい。お昼の時間の邪魔をしましたね。
「いいえ」
レギュラスの声はすぐに返った。
早口になる。
何かを――上書きしようとするかのように。
「手を焼いたんでしょう。
ステラの顔を見れば分かります。
朝から大変だったんでしょうね」
言葉を尽くすのは、誤魔化しのためか。
それとも、ただアランに安堵してほしいからか。
自分でもわからないほど、胸の奥がざわついていた。
「お待たせしました、奥様。どうぞ」
静かな声と共に、セラがティーカップをアランの前へ置いた。
その仕草は決して荒くない。
むしろ繊細で、プロフェッショナルな優雅さすら伴う。
しかし、その瞳だけが違った。
アランを――見ている。
観察するように。
レギュラスの表情を、照合するように。
レギュラスの背中に、ひやりとした汗が滲んだ。
セラがアランを見るたび、
昨夜の記憶が不意に引き摺り出される。
髪を指に絡めて笑った濃密な夜の温度が、
昼の光の下で薄皮となって剥がれ落ちそうになる。
――痕跡など、残していないはずなのに。
そう思えば思うほど不安が加速した。
「ありがとう、レギュラス」
ティーカップを持ち上げながらアランは杖を振る。
「これを飲んだら……ステラを連れて帰りますね」
杖の振り方はいつも通り静かで優しい。
心配をかけたくないという思いが、
言葉の裏にそっと潜んでいた。
しかしレギュラスは首を振る。
「今日はもう……一緒に帰りますよ」
ひどく真剣な声だった。
朝から泣き腫らしたステラを預けたまま仕事に戻るなど、
父としてできるはずもなかった。
それ以上に――
ここまで歩いてきたアランの体が心配で仕方なかった。
石畳の上を歩いた時の微かな足取りの乱れ。
抱いていたステラの重みで肩が揺れていたこと。
額に滲んだ薄い汗。
すべてが、アランの無理を語っていた。
「せっかく来てくれたんです。
帰りは僕が連れていきます」
その言葉にアランの睫毛が震え、
ほんのわずかに伏せられた。
安堵と、喜びと、
言葉にできない痛み――
すべてが透明な色で胸に広がっていく。
ティーカップから立ち上るアールグレイの蒸気は、
アランの頬を撫で、
淡く紅潮した肌の上で消えていった。
セラの視線はなおもアランを追っていたが、
アランは気づいていない。
ただレギュラスの肩にそっと寄り添い、
ステラを見守っていた。
その光景が、
レギュラスの胸を締めつけるように痛めつけた。
――守らなければ。
今だけは、何よりも。
アールグレイのカップを置いたとき、
セラは初めて――“妻”と呼ばれるその女性の瞳を真正面から見つめた。
翡翠色。
宝石よりも、ずっと静かで、よく響く目。
声を持たないのだと、
杖で文字を書くその所作を見て理解した。
なんて、繊細な――。
セラは、レギュラスの隣に立つその女を、
ひたすら“観察するように”眺めていた。
嫉妬はない。
対抗心も、所有欲も、過剰な敵意もない。
ただ――惹かれた。
興味として。
美しい現象を見るような、純粋な好奇として。
アランは、杖を握った手を少し震わせながら
静かに空中へ文字を描く。
《ごめんなさい。お昼の時間のじゃまをしてしまいましたね》
どれほど整った文字を描くのだろうとセラは思う。
ペン先よりも細い線が、ふわりと宙でほどけるように現れる。
――声を持たない女。
なのに、言葉がこんなに柔らかい。
セラは、胸の奥で小さく息を呑んでいた。
この女は、きっと幾重にも壊されてきたのだろう。
それでも、こんなふうに他人を思いやる目をしている。
レギュラスの“あの夜の表情”を思い出す。
満たされながら、どこか怯えるように目を伏せ、
ふいに遠くを見る癖。
――ああ、あれは。
この女に触れる男の目だったのだと。
今なら分かる。
「歩いたでしょう? 座ってください」
レギュラスがアランの肩に触れた瞬間、
セラはその“指先の温度”に気づいた。
夜の彼とはまるで違う。
女を抱き寄せるときの手つきでもない。
本能だけで求められる甘い触れ方でもない。
もっと静かで、深くて、
守るためだけに伸ばされる手だった。
――ほう。
セラの瞳に、興味の色が濃く滲んだ。
男が“本当に大切にしている女”に触れる指先。
それは、セラが何度も見てきた種類の愛とは違った。
もっと深いところ――
まるで鎖のように彼を縛るもの。
それを目の前で見せられると、
女としての嫉妬というよりも、
人としての好奇心が鋭く疼く。
この関係は――美しい。
そして、危うい。
アランはティーカップを両手で持ち、
少しぎこちない角度で唇を寄せた。
「ありがとう、レギュラス。
これを飲んだらステラを連れて帰りますね」
杖を振る音が、小さく乾いた。
セラには、その音でさえ愛しく響いているように見えた。
そしてレギュラスの返答は、
完全に“夫”の声だった。
「今日はもう……一緒に帰りますよ」
アランの肩がすこし落ち、安堵の色に染まる。
ステラがその小さな手で父のローブを握る。
ほう……と、セラは胸の内でまた呟いた。
――こんなにも、守る顔をするのだ、この男は。
自分が夜に見たレギュラスは、
もっと荒々しく、もっと迷い、
もっと逃げるように快楽を求めていたのに。
昼間のこの男は、別人のようだった。
そのギャップさえもセラには面白くて仕方ない。
セラは、まるで舞台の観客のように、
ゆっくりとレギュラスの横顔へ目を移した。
――“レギュラス・ブラック”。
なるほど、やっぱりあなたは面白い男。
そしてその隣にいる“声のない妻”。
壊れた声帯の代わりに、
澄んだ瞳がすべてを語るその女。
この夫婦は、ただ愛し合っているだけじゃない。
もっと深い、
もっと危うい、
もっと隙間のない結びつきがある。
それに、自分はほんの少し触れただけ。
――少しだけ、覗いてみたい。
女としての嫉妬ではない。
ただ、大人としての興味だった。
この“美しい夫婦の綻び”が、
どんな形で揺れるのか――
それを知りたいだけ。
セラは、自分の胸に芽生えたその感情を
静かに楽しんでいた。
――セラ。
レギュラスがその名を呼んだ瞬間、
アランの胸のどこかで、
長く固まっていた氷がひび割れるような音がした。
名刺に刻まれていた名前。
何度も胸の奥で反芻してしまった文字。
セラ・レヴィントン。
その響きと、目の前の女の成熟した気配が
静かに一本の線で結ばれた。
ああ――わかった。
何もかも。
すとん、と心の奥に理解が落ちてきたのだ。
痛みは鋭くない。
むしろ驚くほど滑らかだった。
彼はこの女を抱いた。
導き出される答えはあまりにも自然で、
反論の余地がないほど完璧に腑に落ちた。
セラが紅茶を置いたときの視線。
あれは、アラン自身を“値踏みする”目だった。
好奇と優越と、
そしてどこか――
「この女がレギュラスブラックの妻?」と、
静かに笑うような気配。
アランは、そのすべてを
痛いほど正確に受け取ってしまった。
セシール家の末裔。
闇の帝王に地下へ幽閉され、
声帯を壊され、
学ぶ機会も奪われ、
ただ閉じられた小さな世界で生きてきた女。
――誰が、この自分に品格を見出すだろう。
純血の、希望ある未来を背負うブラック家の正妻として、
ふさわしいはずがない。
セラの大人びた色香も、
豊かな表情も、
自由に言葉を操る滑らかな口元も――
アランには持たないものばかりだった。
いや、持てなかった。
奪われてしまったものばかりだ。
レギュラスは、まるで何もないように
穏やかに立ち振る舞っている。
その自然さが、
かえってアランの胸を鋭く刺した。
――どうしてそんな顔ができるの。
声があれば、きっとそう問いたかった。
けれど何も言えない。
彼の本心を確かめる術も、
自分の感情をぶつける術も持たない。
だから、ただ黙って、
心の奥が冷えていくのを感じるしかなかった。
「今日はもう……一緒に帰りますよ」
レギュラスがそう言ったとき、
その声音に温度は確かにあった。
けれどアランには、
どういう“感情”で発せられた言葉なのか
どうしても読み取れなかった。
罪悪感かもしれない。
責任かもしれない。
優しさかもしれない。
もしかしたら――
ただの義務かもしれない。
読めない。
わからない。
その“わからなさ”が、
いちばん怖かった。
心の奥で、静かに冷えた何かが
ゆっくりと広がっていく。
――ああ、捨てられるのなら。
仕方ないのかもしれない。
愛してほしい、
そばにいてほしい、
離れていかないでほしい。
そんな願いを抱くこと自体が、
自分にはふさわしくないと悟った。
アランは微笑んだ。
その翡翠の瞳の奥では、
静かな諦めが雪のように積もり始めていた。
屋敷に帰り着いた頃には、
ステラは父の腕の中で安心したように眠っていた。
問題は―― アランだった。
カフェでセラの前に現れたときから、
レギュラスの胸はわずかにざわついていた。
だが、それが何に対してのものなのか
はっきりとはわからなかった。
その違和感が、
帰り道、さらに濃くなっていった。
たったひとり欠けただけなのに、食卓全体の空気はどこか歪んだように感じられた。
メイラがアランの食事を寝室へ運び、介助しながらそこで食べさせている――その事実が、妙な空席感として場に広がっていた。
レギュラスは、空いた席を見つめる。
あの席には、消え入りそうに静かな気配があった。
控えめで、それでいてその場の光をそっと柔らかくするような存在感。
その不在は、思っていた以上に胸に痛んだ。
「――あの女は、いつから産めるのです?」
ヴァルブルガの鋭い声が、銀の食器の触れ合う音すらかき消した。
レギュラスは息を止めた。
言葉の刃は、まるでアランのすぐそばへ突き刺さるかのようだった。
当のアランがいない場で、冷酷な問いが放たれる。
「まだ……もう少しかかるでしょうね」
抑えた声で答える。
それしかなかった。
本当は「無謀だ」と叫びたかった。
だが、この家ではそんな言葉は許されない。
「何の利益ももたらさない女なら、この屋敷には不要よ」
ヴァルブルガの冷たい声。
レギュラスの胸がひどく痛んだ。
アランはそんな言葉を直接耳にすることはない。
けれど、この無言のプレッシャーは確かに存在している。
それがずっと、アランの心を追い詰め続けている。
昨夜、あの細い手が自分の背に縋りつくように伸びた理由――
その一端をようやく理解した気がして、心臓が疼いた。
「必要であれば、他の女を用意しよう、レギュラス」
低く響いたオリオンの声は、父としてではなく“ブラック家の当主”としてのものだった。
レギュラスの全身が強張った。
父が“選ぶ”女など、アランを死より深い闇に突き落とすのと同じだ。
「少し……時間をください、父上」
できる限り落ち着いた声で言う。
「どれくらい待たせるつもりでいる?」
重たく、逃げ道のない問い。
答えられるわけがない。
だが、無知や不安を認める回答で満足されることも決してない。
レギュラスは唇を噛み、最も現実的で、最も希望のある数字を絞り出す。
「三年ほど……時間をください。
アランの身体の回復も考え、最も現実的だと判断しました」
ヴァルブルガが匙を置き、かすかに鼻で笑った。
オリオンが眉をひそめる。
「長い。三年も屋敷の後継がいない状態で過ごすつもりか」
レギュラスは言葉を失う。
けれど引き下がるわけにはいかなかった。
アランの体は、無理をすれば本当に壊れてしまう。
医務魔法使いの警告が頭に響く。
「では……」
抗うように声を出すが――
「一年だ」
オリオンが強く遮った。
レギュラスは目を見開いた。
「一年は待とう。
それ以降、あの女を屋敷から追い出せ」
「――待ってください、父上!」
声が震える。
今のアランに一年後などない。
あの身体のまま子を宿せと言うのか。
それは、死ねと言うのと同義だ。
しかし、オリオンは振り向きもしない。
椅子を押し、重々しく立ち上がる。
「決定だ」
それだけ言い残し、静かに食堂を出ていった。
レギュラスは即座に立ち上がり、その背中を追う。
だが歩幅の大きい父は、そのまま振り返ることなく廊下へ出て行き――
執務室へ入り、扉を閉めた。
重い音が響いた瞬間、レギュラスはそこで初めて立ち止まる。
扉の前で拳を握りしめ、微かに震える呼吸を整えようとした。
――一年。
あまりに短い。
あまりに残酷。
あまりに、アランを追い詰める期限。
扉の向こうにいる父は、もうその考えを変える気など一切ないだろう。
どんな言葉を尽くしたところで、アランの体と心よりも、家の後継が優先なのだ。
食卓の残り香と、空席の痛みが胸の奥で膨れ上がる。
セラのカフェは、昼の光に照らされいつもより柔らかく見えた。
レギュラスは癖になったように「いつものセット」を頼む。
「浮かない顔ね」
セラがカウンター越しに覗き込む。
その声音は軽いのに、不思議なほど心を軽くする隙をつく。
「ええ……妻が階段から落ちまして」
「まあ。無事なの?」
「命に関わるものではありません。ただ……こんな状況でも世継ぎの話ばかりで、参ってますよ」
吐き出した瞬間、自分がどれほど追い詰められていたのか思い知った。
家族にも同僚にも言えなかった弱音が、この女には自然と出てしまう。
「大変なのね、純血のお坊ちゃんは」
揶揄うような、でもどこか優しい響き。
“お坊ちゃん”と呼ばれて内心むっとするかと思ったが、むしろ胸の力が抜けていく。
「じゃあ……そんな中、誘っちゃ悪いわね」
「何に、です?」
自分でも呆れるほど間の抜けた返しだった。
セラは肩を震わせて笑う。
「何にって……そういうことよ」
その一言でようやく意味を理解し、レギュラスもつられて笑ってしまった。
「いいですよ。少し早めに上がります」
「あら、あなたって本当に……いい人なのか悪い人なのかわからないわね」
セラの言葉はあまりにも軽やかで。
けれど、その軽やかさに救われている自分がいる。
――義務でアランに触れたくない。
―― アランを“世継ぎの器”のように扱うくらいなら、自分が壊れる方がいい。
そんな矛盾に押しつぶされそうな日々。
セラの前では、それらがほんの少しだけ解けていった。
発散でもある。
逃げでもある。
そして――確かに、罪でもある。
だが今のレギュラスは、そのすべてから一晩だけでも逃れたかった。
心が疲れ果て、
愛している人を愛しているからこそ抱けないという苦しみに縛られ、
誰にも言えない焦りと恐怖に呼吸を奪われていた。
セラレヴィントンの世界観は、そんな自分をほんのひととき、許すような錯覚を与えてくれた。
レギュラスは目を閉じ、静かに息を吐いた。
――今夜だけ、忘れたい。
心の奥底でそう願ってしまう自分が、ひどく哀しかった。
夜の街は潮が引くように静まり返り、灯火のにじむ薄闇のなかで風だけが流れていた。
先に歩くセラのヒールの音が規則的に石畳を叩く。その背中は振り返らずとも、連れて行く先がどこかを示しているようだった。
「こっちよ、ミスター・ブラック」
くぐもった声色が夜気に溶ける。
レギュラスは応えるようにわずかに頷き、その後をついていった。
街外れの古いモーテル。
看板の魔法灯は点滅し、壁のひびすら隠そうともしない。
だが、その粗雑さが今夜だけはむしろ救いだった。
――ここは光の届かない場所だ。
――誰も自分を“ブラック家の後継”として見ない。
その事実だけで、胸の奥の重石がすっとほどけていくようだった。
狭い部屋の扉が閉まると、世界の境界が切り替わるように静寂が満ちた。
セラはレギュラスのローブを指先でなぞり、その動きを止めることなく口元を緩めた。
「今夜は……考えたくないことが多いんでしょう?」
その問いは、まるで見透かしたように真っ直ぐだった。
レギュラスは否定する気力もなく、ただ呼吸を吐き出す。
手が触れた瞬間、心が軋んだ。
アランの柔らかで静かな温度とはあまりにも違う。
セラの体温は、熱を帯びていて、現実から離れた異国のぬくもりのようだった。
「ほら……こっちを見て」
顎を指先で軽く持ち上げられ、薄明かりのなかでセラの瞳が揺れた。
その瞳には翡翠の色はない。
アランとも、あのマグルの少女とも決して重ならない色。
それだけで、胸を締めつけていた罪悪感が薄まっていく。
――この瞳には、自分の罪が映らない。
―― アランの痛みも、恐怖も、泣き声も映らない。
それが、ひどく安堵を呼んだ。
触れ合った瞬間、胸の奥で何かが破れた。
快楽の奔流が押し寄せるというより――
逃避そのものが甘く体を包んだ。
セラはよく響く声で笑い、喘ぎ、求めてくる。
その声はレギュラスの頭を麻痺させ、理性を薄膜のように剥いでいった。
アランには決して向けられないような衝動が、
まるで押し寄せる波のように体の内側から噴き出す。
彼女の腰を引き寄せ、抱き寄せる。
熱の匂い、香水の残り香、タバコの刺激。
どれも自分の日常には存在しないものたちだった。
ここでは夫でも父でも後継でもない。
ただの男でいられる。
その錯覚が甘い毒のように喉を温めた。
セラが爪を立てながら囁く。
「ねえ……あなた、思ったよりずっと優しいのね」
レギュラスは一瞬だけ目を伏せた。
――優しい?
――そんなわけがない。
アズカバンに送った少女の父。
孤児院で息絶えた翡翠色の瞳。
そして、家の命令でアランの体を追いつめようとしている自分。
優しさなどあるはずがない。
だからこそ、女の軽い言葉が胸に刺さる。
逃避の中で、レギュラスはただひたすらセラに溺れた。
自分を形作る重責も罪も、アランを案じる想いすらも、
この一夜だけは眠らせてしまいたかった。
行為の余韻がやわらかく揺れる。
セラはシーツを胸まで引き上げ、肩で笑った。
「ほら……やっぱり優しいじゃない。そんな抱き方」
「……そうですかね」
本当は違う。
これは優しさではなく、ただの逃げだ。
アランを求める心をごまかすための、薄い膜のような快楽。
それでも、セラは微笑んだまま言う。
「いいのよ。理由なんてどうだって。
逃げたい夜は、誰にだってあるわ」
レギュラスは目を閉じた。
逃げたい夜。
まさに今がそうだった。
アランを愛しているからこそ、抱けない。
愛しているのに、義務のために触れなければならない。
その矛盾が喉を締めつけるほど苦しかった。
セラとの行為は“欲”ではなく“逃避”。
だが、それが今夜だけは許されてもいいような気がした。
愛しているアランに触れられない苦しさを、
一晩だけ忘れるために。
その夜、レギュラスが眠ったあと。
セラはひとり暗い天井を見つめていた。
彼の腕はゆるく自分の腰にまわされているだけで、
大切に抱き寄せるわけでもなく、
かといって突き放す気配もない。
まるで、そこに「誰か」がいれば十分だと言わんばかりの重さだった。
――この男、本当に危ないわ。
セラは薄く笑った。
ぞくりとするほどに美しい顔。
触れられれば溶けてしまいそうなほど優しい手つき。
そして、どこか満たされずに彷徨っているような孤独。
普通の男なら、抱いたあとには必ず見せる甘えや独占欲を覗かせるはずなのに。
レギュラスはほんの一瞬、瞳に激しい熱を宿したと思えば、
次の瞬間には驚くほど冷静に戻ってしまう。
まるで、心の奥に鍵をかけているようだった。
ひどく整っていて、きれいで、優しくて。
――なのに、とても壊れやすい。
セラは横目で、眠るレギュラスの横顔を盗み見る。
あれほどの男が、今はただ静かに呼吸をしているだけだ。
まるで何かから逃げ込むために、ここに来たと言っているような寝顔。
「……奥さんのこと、よね」
誰に聞かせるわけでもなく呟く。
さっき彼の瞳に浮かんだ、説明しようのない罪悪感と哀しみ。
あれは、ただの夫婦関係じゃ出てこない目だった。
――愛している。けれど、逃げている。
そんな矛盾が、レギュラスの体のどこにも流れていた。
セラはベッドの上でゆっくりと起き上がり、
シーツを胸元まで引き寄せた。
レギュラスの髪を指先で軽く整えながら、
まるで禁忌に触れるような甘いため息をつく。
「ねぇ……どんな女なの?」
心の奥底で芽生えた好奇心が、形を持ちはじめていた。
レギュラスは妻を“守るもの”のように扱っている。
“壊れるもの”として触れている。
それでいて、あそこまで愛を滲ませる男の顔を見せるなんて。
普通じゃない。
そこに必ず、深く、重い事情がある。
――それを知りたくなるのは、女の習性みたいなもの。
セラは自分の頬に微笑みを浮かべたまま、
視線をレギュラスの胸の鼓動に落とす。
「あんなふうに抱く奥さん……どれほど綺麗なんだろう。
どれほど、無垢で……どれほど、あなたを縛っているのかしら」
嫉妬ではない。
興味。
もっといえば、“理解したい”という欲。
この男の危うさの源泉を覗き込んでみたい――
それは、女としての本能に近い衝動だった。
レギュラスがうなじに触れればとろけるほど優しいのに、
心の奥には刃物のような鋭さと、消しきれない影がある。
その影の正体が、妻だとしたら。
――その女を、一度見てみたい。
セラの胸の奥で、小さな光が灯る。
興味であり、好奇であり、
ある種の危険な誘引。
あの“純血の妻”さえ見られれば、
この男の壊れやすい輪郭がもっとよく分かる気がした。
セラはゆっくりと横になり、眠りに落ちていくレギュラスの背に腕を回した。
まるで、秘密に触れたくて仕方がない子どものように。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む金色の光が、薄く揺れる埃の粒子を照らし、
昨夜の熱の名残りだけが静かにモーテルの空気を温めていた。
レギュラスが薄く目を開けると、セラが枕にもたれながら煙草を指先で弄んでいた。
火をつける素振りさえなく、ただ唇に触れさせたり離したりしているだけの
“からかうような仕草”が、妙に艶やかだった。
「おはよう、ブラック家のお坊ちゃん」
セラは微笑みながら、揺れる煙草を指先で軽く振った。
その視線が、ただの相手を見る目ではないことにレギュラスは気づく。
昨夜よりも深く、観察するようで――どこか“探り”がある。
「……おはようございます」
自分でも驚くほど声が低く、掠れていた。
セラが片肘をついて身体を傾ける。
白いシーツから覗く肩のラインが、あまりにも自然で、
“慣れている女の動き”だった。
「ねぇ……あなたって、魔法省の顔では妙に固いくせに」
細い指でレギュラスの胸のボタンを軽く押しながら、
セラはくすっと笑う。
「こっちでは、そんな顔するのね」
“そんな顔”。
それがどんな顔なのか、レギュラスは訊ねることもできなかった。
昨夜、セラの体に身を預けた瞬間、溢れ出た弱さ。
逃げ込むように抱き寄せた腕。
必死に求めながら、心だけはここにいなかった自分――
全部見透かされている気がした。
その“見透かすような視線”に、
レギュラスは気づいているのに、
不思議と嫌悪よりもむしろ甘い眩暈を覚えてしまう。
――大人の女ってこういうものなのか。
深く踏み込まれれば本来なら身を強張らせるべきなのに、
セラの好奇はどこか心地よく、
現実から目を逸らすために差し伸べられた“柔らかな毒”のようだった。
「そんなに見てどうしました?」
とレギュラスが言うと、セラは笑い、
煙草をテーブルに置いた。
「あなたって……すごく“綺麗に壊れそう”なのよね」
その言葉に、胸の奥がわずかに震える。
アランを見るときとは違う、
もっと冷たくて甘い種類の震えだった。
セラの指先が頬をなぞる。
その触れ方が、アランの透明な手つきではなく、
“女としての経験”を含んだ確かな温度を持っていた。
「逃げたい時は、また来なさいよ。
あなた、逃げてる時の顔の方がずっと色っぽいんだから」
揶揄う声は軽やかで、
それなのに心の奥の薄い傷の部分をふっと撫でるようで、
レギュラスは返す言葉がなかった。
彼女の視線が鋭いことも、
この女が自分の心の“奥の奥”に興味を持ち始めていることも気づいている。
気づきながら、止めようとしない。
――気づけばまた、逃げ道を求めてしまいそうだ。
そう自覚しながら、
セラの指先が自分の胸元に触れるたび、
レギュラスはわずかに息を吸って目を閉じた。
現実から目を逸らすように。
アランへの罪悪感を、ひととき忘れてしまうために。
マグルの武装集団と魔法族との衝突事件。
その報せは、冬の冷たい雨のように魔法省中に落ち、瞬く間に議会を凍りつかせた。
犠牲者の名が次々と読み上げられたとき、
議場に満ちる空気は恐怖や悲嘆ではなく――怒りだった。
もっとも、それは一枚岩ではない。
怒りの矛先が、派閥ごとに真逆を向いている。
「マグルを保護しないからだ!我々が歩み寄れば、対話の道は必ず――」
騎士団側の代表がそう叫んだ瞬間、魔法省側の重鎮が机を叩いた。
「対話? 銃で我々を撃ち抜いた相手と?
彼らは“魔法使いだから”という理由だけで攻撃したのだぞ。
いったい何を守ろうと言うのだ!」
「魔法族が強大な力を持つから、マグルが恐れたのだ!
その恐怖を取り除く努力こそ、我らの責務だ!」
「責務? 責務は魔法族を守ることだ!!」
怒声が議場の天井にぶつかり、灰色の壁を震わせた。
レギュラスは、議席の背凭れに指を軽く当てながら、
その不毛な応酬を冷めた瞳で眺めていた。
――笑わせる。
騎士団側が掲げる理想論は、
彼に言わせれば“綺麗事という名の盲目”だ。
銃弾が魔法族の血肉を裂き、
癒しの術も間に合わず倒れていった姿が脳裏に蘇る。
あの無残な死が、なお“歩み寄り”の言葉に包まれるなど――
正気とは思えなかった。
数時間に及ぶ討議の末、
議題は事件の首謀者であるマグルの身柄を魔法界に引き渡すかどうかに焦点が移る。
魔法省法務部は“全員の引き渡し”を要求している。
捕らえたマグルをアズカバンへ。
あの冷え切った監獄で、恐怖に震えながら死ぬまで後悔させればいい――
それが法務部の総意であった。
しかし騎士団側は真っ向から反対した。
「彼らは恐怖に抗っただけです!
話せばわかる、誤解は解けるはずです!」
「では貴殿の息子が撃ち抜かれて死んでいたら……
同じ台詞を吐けたましたか?」
一瞬で議場が静まり返る。
息を呑む音があちこちから聞こえた。
レギュラスは腕を組んだまま、
ゆっくりと視線を落とした。
議場の喧騒も、怒り狂う声も、涙も、
すべてが遠くの雑音のように感じられた。
昨夜のセラの指先。
そのやわらかな嘲り。
アランの体温。
階段の上から落ちてくる時の鈍い音。
メイラの泣きそうな声。
全てが頭の奥でずっと渦巻いており、
今日の議会は昨日以上に耐えがたかった。
その疲労が、ひどい苛立ちを呼び起こす。
「……まったく、どこまで馬鹿なんですかね」
思わず零れた言葉は、
隣の席のバーテミウスだけに聞こえるほどの小声だった。
バーテミウスはくすりと笑う。
「でしょう? 僕は最初から言ってるでしょう。
騎士団なんて綺麗事ばかりで役に立たないって」
レギュラスは目を閉じ、深く息を吐いた。
――境界線が必要だ。
これは優しさの問題ではない。
生き残るための線引きだ。
議場の中央ではまだ叫び声が続いている。
「我ら魔法族こそ良識を示さねばならんのだ!
マグルへの理解なしに共存はない!」
「共存? 共存ってのは同じ高さで交わることだろう?
奴らは我々を“怪物”と呼びながら銃を向けてきたんだぞ!」
「魔法族としての威厳を示せ!」
「威厳より慈悲を――!」
どちらが正しいという問題ではない。
だが、彼らは致命的に分かっていない。
――“命の線引き”は、
善意や理想で決まるものではない。
レギュラスは静かに目を開け、
議会の混乱を真っ直ぐ見据えた。
魔法界とマグル界。
その間に横たわる深い溝を、
埋めるのか、断絶させるのか。
今日の議会は、その未来の方向を確かに揺らし始めている。
だが少なくとも――
レギュラス自身の答えは、もう揺らぐことはなかった。
ステラは、最近覚えたての言葉を嬉しそうに繰り返していた。
「ぱぱ」「ぱぱ」
意味こそまだ曖昧でも、その呼びかけだけは確かに父を求める音になっていた。
しかし今日に限って、ステラは朝から泣き止まない。
乳母が抱いて揺すっても、メイラがあやしても、
何ひとつ響いていかないようだった。
――きっと、レギュラスが恋しいのだ。
アランには、直感で分かった。
ステラは父の名を覚えたことで、
その不在をこれまでより鋭く感じ取れるようになったのだろう。
だが、レギュラスはここ数日、
魔法省で続く“マグルと魔法族の衝突事件”の対応に追われていた。
予言者新聞も、ウィッチ・デイリーも、
朝から晩までその話題で埋め尽くされている。
――考えないようにしなければ。
アランは無意識にそう思った。
この事件を深く追ってしまえば、
かつてレギュラスが
マグルの孤児たちを大量虐殺し
その罪を無実の男に着せてアズカバンへ送った
“あの事実”に、また心が引き戻されてしまう。
ステラの泣き声が、胸をかき乱す。
レギュラスを呼ぶため、
アランはステラを抱いて外套を羽織った。
メイラが慌てて駆け寄り、その肩を支える。
「アランさん、大丈夫ですか……? 本当に歩けますか?」
アランは小さく首を振る。
――行くしかない。
その意思を伝えるように。
魔法省にたどり着く頃には、
アランの呼吸はほんのりと乱れていた。
屋敷の庭を散歩するのとは違う。
石畳は粗く、足元は不安定で、
骨盤の奥にまだ残る痛みがじわりと主張してくる。
そんな時、バーテミウスが現れた。
薄く笑い、まるで舞台に立つように優雅に一礼した。
「これはこれは……お美しいブラック家の奥方ではありませんか」
アランは軽く礼で返す。
左右には、アランの裾を引くようにメイラ、
腕に抱かれながら泣き顔をくしゃくしゃにしたステラ。
「レギュラスなら今ここにはいませんよ。
おそらく……いつものカフェで昼食中でしょうね?」
アランは杖を振って伝えた。
――案内していただけますか?
「もちろん。喜んで」
バーテミウスの言う“いつものカフェ”までの道のりは、
思いのほか遠かった。
アランは普段より早く足に疲労を覚える。
「アランさん……本当に無理をしていませんか?
少し休みましょうか」
メイラの言葉に、アランはまた首を振った。
――大丈夫。もうすぐだから。
カフェの前に着くと、
メイラはステラの耳元で優しく囁く。
「もうすぐですよ、ステラ様。ほら、パパに会えます」
ステラはぐずりながらも、その声に反応し、
アランの胸の中で身をもぞもぞと動かした。
扉を開けた瞬間、
ほんのり漂う焙煎豆の香りと微かな甘い香水が鼻を刺した。
レギュラスは、カウンター席にいた。
窓から流れ込む午下がりの光を受け、
漆黒の髪がやわらかく光を返している。
その正面には――
アランより年上に見える、妖艶な雰囲気を纏った女が微笑んでいた。
その距離、その空気。
アランの胸は、ひどく冷えた。
レギュラスがこちらに気付いた瞬間、
まるで呪縛が解けたように立ち上がり、
急いで駆け寄ってきた。
「アラン……どうしたんです?」
ステラは父の姿を見るや否や、
ぱっと顔を明るくし、
小さな体で全力でレギュラスに抱きついた。
「ぱぱ! ぱぱ!」
その声に、カフェの中の視線が一瞬集まる。
「朝から……ステラ様はお父様に会いたいと泣いておられました」とメイラ
アランは杖を振った。
――忙しいところにごめんなさい……助けてほしくて。
レギュラスの表情が、
一瞬で“夫”の顔へと変わった。
「歩いたでしょう……座ってください。
こんなに顔色が悪い」
その声音には心底からの心配が滲み、
アランの胸の奥に、申し訳なさがひどく疼いた。
――ごめんなさい。
少しでも、あなたに会いたかっただけなのに。
心はそう叫んでいた。
バーテミウスは、カフェの扉を肩で押さえたまま動かなかった。
まるでこの場に吹き込む外気よりも、
室内で渦巻く緊張に興味を持っているかのようだ。
「では僕はこれで」
軽い声音とは裏腹に、どこか楽しげな色さえ含んでいる。
レギュラスは、ほんの一瞬だけその横顔を鋭く睨んだ。
だがすぐに、胸の奥の空洞を塞ぐように、
アランへと視線を戻した。
アランは、杖を握りしめたままわずかに息を乱している。
ステラは父にしがみついたまま、泣き腫らした目をこすっていた。
「温かいものを頼みましょう」
レギュラスは振り返って声をかける。
「セラ、アールグレイをお願いします」
口にした瞬間、
レギュラスの心臓が一拍だけ痛むように脈打った。
――まずい。
“セラ”と、名を呼んでしまった。
普段の客であれば「店員」か「彼女」で済んだはず。
それなのに、あまりに自然に名前が零れ出た。
アランの前で。
アランは気づいた様子を見せない。
ただ杖を持ち替え、静かに文字を描く。
――ごめんなさい。お昼の時間の邪魔をしましたね。
「いいえ」
レギュラスの声はすぐに返った。
早口になる。
何かを――上書きしようとするかのように。
「手を焼いたんでしょう。
ステラの顔を見れば分かります。
朝から大変だったんでしょうね」
言葉を尽くすのは、誤魔化しのためか。
それとも、ただアランに安堵してほしいからか。
自分でもわからないほど、胸の奥がざわついていた。
「お待たせしました、奥様。どうぞ」
静かな声と共に、セラがティーカップをアランの前へ置いた。
その仕草は決して荒くない。
むしろ繊細で、プロフェッショナルな優雅さすら伴う。
しかし、その瞳だけが違った。
アランを――見ている。
観察するように。
レギュラスの表情を、照合するように。
レギュラスの背中に、ひやりとした汗が滲んだ。
セラがアランを見るたび、
昨夜の記憶が不意に引き摺り出される。
髪を指に絡めて笑った濃密な夜の温度が、
昼の光の下で薄皮となって剥がれ落ちそうになる。
――痕跡など、残していないはずなのに。
そう思えば思うほど不安が加速した。
「ありがとう、レギュラス」
ティーカップを持ち上げながらアランは杖を振る。
「これを飲んだら……ステラを連れて帰りますね」
杖の振り方はいつも通り静かで優しい。
心配をかけたくないという思いが、
言葉の裏にそっと潜んでいた。
しかしレギュラスは首を振る。
「今日はもう……一緒に帰りますよ」
ひどく真剣な声だった。
朝から泣き腫らしたステラを預けたまま仕事に戻るなど、
父としてできるはずもなかった。
それ以上に――
ここまで歩いてきたアランの体が心配で仕方なかった。
石畳の上を歩いた時の微かな足取りの乱れ。
抱いていたステラの重みで肩が揺れていたこと。
額に滲んだ薄い汗。
すべてが、アランの無理を語っていた。
「せっかく来てくれたんです。
帰りは僕が連れていきます」
その言葉にアランの睫毛が震え、
ほんのわずかに伏せられた。
安堵と、喜びと、
言葉にできない痛み――
すべてが透明な色で胸に広がっていく。
ティーカップから立ち上るアールグレイの蒸気は、
アランの頬を撫で、
淡く紅潮した肌の上で消えていった。
セラの視線はなおもアランを追っていたが、
アランは気づいていない。
ただレギュラスの肩にそっと寄り添い、
ステラを見守っていた。
その光景が、
レギュラスの胸を締めつけるように痛めつけた。
――守らなければ。
今だけは、何よりも。
アールグレイのカップを置いたとき、
セラは初めて――“妻”と呼ばれるその女性の瞳を真正面から見つめた。
翡翠色。
宝石よりも、ずっと静かで、よく響く目。
声を持たないのだと、
杖で文字を書くその所作を見て理解した。
なんて、繊細な――。
セラは、レギュラスの隣に立つその女を、
ひたすら“観察するように”眺めていた。
嫉妬はない。
対抗心も、所有欲も、過剰な敵意もない。
ただ――惹かれた。
興味として。
美しい現象を見るような、純粋な好奇として。
アランは、杖を握った手を少し震わせながら
静かに空中へ文字を描く。
《ごめんなさい。お昼の時間のじゃまをしてしまいましたね》
どれほど整った文字を描くのだろうとセラは思う。
ペン先よりも細い線が、ふわりと宙でほどけるように現れる。
――声を持たない女。
なのに、言葉がこんなに柔らかい。
セラは、胸の奥で小さく息を呑んでいた。
この女は、きっと幾重にも壊されてきたのだろう。
それでも、こんなふうに他人を思いやる目をしている。
レギュラスの“あの夜の表情”を思い出す。
満たされながら、どこか怯えるように目を伏せ、
ふいに遠くを見る癖。
――ああ、あれは。
この女に触れる男の目だったのだと。
今なら分かる。
「歩いたでしょう? 座ってください」
レギュラスがアランの肩に触れた瞬間、
セラはその“指先の温度”に気づいた。
夜の彼とはまるで違う。
女を抱き寄せるときの手つきでもない。
本能だけで求められる甘い触れ方でもない。
もっと静かで、深くて、
守るためだけに伸ばされる手だった。
――ほう。
セラの瞳に、興味の色が濃く滲んだ。
男が“本当に大切にしている女”に触れる指先。
それは、セラが何度も見てきた種類の愛とは違った。
もっと深いところ――
まるで鎖のように彼を縛るもの。
それを目の前で見せられると、
女としての嫉妬というよりも、
人としての好奇心が鋭く疼く。
この関係は――美しい。
そして、危うい。
アランはティーカップを両手で持ち、
少しぎこちない角度で唇を寄せた。
「ありがとう、レギュラス。
これを飲んだらステラを連れて帰りますね」
杖を振る音が、小さく乾いた。
セラには、その音でさえ愛しく響いているように見えた。
そしてレギュラスの返答は、
完全に“夫”の声だった。
「今日はもう……一緒に帰りますよ」
アランの肩がすこし落ち、安堵の色に染まる。
ステラがその小さな手で父のローブを握る。
ほう……と、セラは胸の内でまた呟いた。
――こんなにも、守る顔をするのだ、この男は。
自分が夜に見たレギュラスは、
もっと荒々しく、もっと迷い、
もっと逃げるように快楽を求めていたのに。
昼間のこの男は、別人のようだった。
そのギャップさえもセラには面白くて仕方ない。
セラは、まるで舞台の観客のように、
ゆっくりとレギュラスの横顔へ目を移した。
――“レギュラス・ブラック”。
なるほど、やっぱりあなたは面白い男。
そしてその隣にいる“声のない妻”。
壊れた声帯の代わりに、
澄んだ瞳がすべてを語るその女。
この夫婦は、ただ愛し合っているだけじゃない。
もっと深い、
もっと危うい、
もっと隙間のない結びつきがある。
それに、自分はほんの少し触れただけ。
――少しだけ、覗いてみたい。
女としての嫉妬ではない。
ただ、大人としての興味だった。
この“美しい夫婦の綻び”が、
どんな形で揺れるのか――
それを知りたいだけ。
セラは、自分の胸に芽生えたその感情を
静かに楽しんでいた。
――セラ。
レギュラスがその名を呼んだ瞬間、
アランの胸のどこかで、
長く固まっていた氷がひび割れるような音がした。
名刺に刻まれていた名前。
何度も胸の奥で反芻してしまった文字。
セラ・レヴィントン。
その響きと、目の前の女の成熟した気配が
静かに一本の線で結ばれた。
ああ――わかった。
何もかも。
すとん、と心の奥に理解が落ちてきたのだ。
痛みは鋭くない。
むしろ驚くほど滑らかだった。
彼はこの女を抱いた。
導き出される答えはあまりにも自然で、
反論の余地がないほど完璧に腑に落ちた。
セラが紅茶を置いたときの視線。
あれは、アラン自身を“値踏みする”目だった。
好奇と優越と、
そしてどこか――
「この女がレギュラスブラックの妻?」と、
静かに笑うような気配。
アランは、そのすべてを
痛いほど正確に受け取ってしまった。
セシール家の末裔。
闇の帝王に地下へ幽閉され、
声帯を壊され、
学ぶ機会も奪われ、
ただ閉じられた小さな世界で生きてきた女。
――誰が、この自分に品格を見出すだろう。
純血の、希望ある未来を背負うブラック家の正妻として、
ふさわしいはずがない。
セラの大人びた色香も、
豊かな表情も、
自由に言葉を操る滑らかな口元も――
アランには持たないものばかりだった。
いや、持てなかった。
奪われてしまったものばかりだ。
レギュラスは、まるで何もないように
穏やかに立ち振る舞っている。
その自然さが、
かえってアランの胸を鋭く刺した。
――どうしてそんな顔ができるの。
声があれば、きっとそう問いたかった。
けれど何も言えない。
彼の本心を確かめる術も、
自分の感情をぶつける術も持たない。
だから、ただ黙って、
心の奥が冷えていくのを感じるしかなかった。
「今日はもう……一緒に帰りますよ」
レギュラスがそう言ったとき、
その声音に温度は確かにあった。
けれどアランには、
どういう“感情”で発せられた言葉なのか
どうしても読み取れなかった。
罪悪感かもしれない。
責任かもしれない。
優しさかもしれない。
もしかしたら――
ただの義務かもしれない。
読めない。
わからない。
その“わからなさ”が、
いちばん怖かった。
心の奥で、静かに冷えた何かが
ゆっくりと広がっていく。
――ああ、捨てられるのなら。
仕方ないのかもしれない。
愛してほしい、
そばにいてほしい、
離れていかないでほしい。
そんな願いを抱くこと自体が、
自分にはふさわしくないと悟った。
アランは微笑んだ。
その翡翠の瞳の奥では、
静かな諦めが雪のように積もり始めていた。
屋敷に帰り着いた頃には、
ステラは父の腕の中で安心したように眠っていた。
問題は―― アランだった。
カフェでセラの前に現れたときから、
レギュラスの胸はわずかにざわついていた。
だが、それが何に対してのものなのか
はっきりとはわからなかった。
その違和感が、
帰り道、さらに濃くなっていった。
