1章
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アラン・セシールの体は、もう風に触れただけでも折れてしまいそうだった。
骨ばった肩。力の抜けた指。
彼女の肌は、もはや生気の色を失い、
どんな光をも拒むように冷たく沈んでいた。
レギュラス・ブラックは、その姿を前に、
胸の奥に走る焦燥をどうすることもできなかった。
もう“食事”などというものではなかった。
生きるための最低限の栄養を、ただ体に流し込む。
それだけを目的に、彼は新たな手段を取った。
魔法薬――栄養価に特化した液体。
かつてホグワーツの医務室で、
瀕死の老人や重傷者に与えられていたものと同じ類。
味は最悪だ。
匂いも、色も、見るだけで吐き気を催すほどに不快。
だが、それでも、これしかなかった。
「……アラン、少しだけ。これを飲みましょう。」
彼は静かにそう言いながら、
震える手にコップを持たせた。
だが、指先はすぐに滑り、器は傾きそうになる。
慌ててその手を包み込み、支える。
「大丈夫。僕が、持っています。」
声は穏やかで、優しくて――それでいて、必死だった。
彼女が口を閉ざしたままでも、
レギュラスは根気よく、その唇に薬を近づけた。
液体の表面から漂う匂いは、まるで腐った草と鉄を混ぜたような悪臭だった。
彼自身、嗅ぐだけで胃がねじれるほどの嫌悪感を覚えた。
だが、ためらってはいけない。
生き延びてもらうために、これが必要なのだ。
「あと少しで、全部です……アラン。」
優しく囁きながら、コップを傾ける。
アランの唇がわずかに開く。
喉が細く動き、ほんの少しずつ、液体が体内へと流れていく。
彼女の喉が通るたび、レギュラスは自分の心臓が跳ねるのを感じた。
そのひと飲みごとに、“生”が戻ってくるような気がして。
その度に、自分が息をするのを忘れるほど、
彼は彼女の動きを見つめ続けた。
ほんの少し残った液体を、ゆっくりと最後まで飲ませ終える。
彼女の唇の端にこぼれた雫を、
レギュラスはそっと指で拭った。
「……そう、よく頑張りました。」
安堵が全身を包んだ。
胸の奥で、張り詰めていた糸が静かに切れる音がした。
長く、深く息を吐く。
そのまま、彼はアランの体を抱き寄せた。
それは恋情とは違う。
もっと根源的で、もっと痛みに近い抱擁だった。
親が病に伏せた子の命を、この腕で繋ぎ止めようとするように。
彼の手は、彼女の背をそっと撫でた。
冷たい。
だが、その冷たさの奥に、かすかに体温が残っている。
その微かな温もりが、何よりの希望だった。
「……大丈夫。ここにいます。」
その言葉は、祈りのように落ちた。
誰に届くでもない。
ただ、彼女の心の奥に小さく灯る炎を絶やさないために。
アランの頭が、レギュラスの胸に預けられる。
髪から漂う微かな匂い――血と薬草と、そして彼女自身の匂い。
それが、彼にとってなぜか“生の匂い”に思えた。
彼はそのまま、長い間動かなかった。
彼女の呼吸のたびに、自分の心臓が同じリズムで打つのを感じながら、
その鼓動を重ね合わせるように、静かに目を閉じた。
闇の中で、
たったひとつの命が確かに脈打っている。
それを感じることが、今の彼にとって唯一の救いだった。
その夜、レギュラス・ブラックは初めて祈った。
この腕の中の小さな命が、
明日も息をしていられますように――と。
魔法薬による食事は、しばらく続いた。
彼女が再び普通の食事を口にできるほどの体力を取り戻すまでは――
それが唯一の“命を繋ぐ手段”だった。
薬と名がつくだけあり、その吸収力は驚異的だった。
数日も経たぬうちに、骨の浮き上がっていた腕にわずかな肉が戻り、
頬にほんのりと血色が宿り始める。
まだ儚く、今にも消えてしまいそうな生命の灯だが、
それでも確かに、光は戻りつつあった。
「頑張っている効果が出ているようですね。」
そう言いながら、レギュラスは微笑んだ。
器を持ち、アランの口元へとゆっくりと傾ける。
彼女がわずかに唇を開けるのを待って、
慎重に一口、もう一口と流し込む。
「えらいです、アラン。」
その言葉に、アランの睫毛がわずかに震えた。
表情はほとんど変わらない。
けれど、その瞳の奥に、ごく微かな光が宿っている気がした。
それだけで十分だった。
飲み干すまでの時間が、日に日に短くなっていく。
最初は一口で途切れていた呼吸も、
今では途切れずに、半分ほどを一気に飲み込めるようになった。
それは、彼女が生きようとしている証だった。
レギュラスはその度に胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼女がわずかにでも前に進むだけで、
自分の世界が少し明るくなる。
その夜も、
灯りの下で二人だけの静かな時間が流れていた。
匙の先からこぼれる液体の色は、濁った緑。
匂いは、鉄と苦草を混ぜたような強烈なもの。
嗅いだだけで喉が詰まるほどの不快さだった。
「……あと少しです。がんばりましょう。」
アランの唇に触れるたび、
彼女の吐息がかすかに揺れる。
その儚い温もりに、レギュラスは目を伏せた。
最後の一口を飲ませ終えたとき、
安堵が静かに胸を満たした。
「……よく、頑張りました。」
その瞬間だった。
衝動だった。
理性よりも早く、
自然と身体が動いた。
レギュラスは彼女の頬を両手で包み、
吸い寄せられるようにして――唇を重ねた。
それは短い口づけだった。
優しく、触れるだけの。
けれど、その一瞬に、彼の中のすべてが詰まっていた。
守りたいという願いも、償いたいという後悔も、
すべて、ひとつの感情に溶けて。
だが次の瞬間、
唇に走った衝撃に、思わず彼は顔を引いた。
「……っ、すみません……なんか、この味……」
言葉を途中で飲み込む。
“生理的に無理で”と続けそうになって、必死に止めた。
喉の奥に残る苦味と鉄の味が、
まるで罰のように舌に広がる。
これを、彼女は毎日飲み続けているのだ。
吐き気を堪えながら、
自分のために、無理矢理流し込まされて。
申し訳なさがこみ上げ、胸が締めつけられた。
それでも――
唇に残った熱は、確かに甘かった。
あの一瞬、
彼女の命の鼓動が、自分の体に流れ込んでくるようだった。
レギュラスは震える手でアランの頬に触れた。
彼女はまだ、目を閉じたまま。
けれど、その睫毛がかすかに揺れた。
それが偶然でも、夢でもいい。
彼女の中に“生”がまだ宿っている。
それだけで、十分だった。
レギュラスは小さく息を吐き、
苦笑した。
「……これほど味気ないキスは、初めてです。」
その声に、
ほんの一瞬、アランの口元が揺れたように見えた。
微笑んだのか、
ただ呼吸を整えただけなのか――わからない。
けれどそのわずかな動きが、
この暗い世界の中で、何よりも確かな希望に見えた。
そして彼は、
もう一度、彼女の頭を胸に抱き寄せた。
あの苦い味が残る唇の奥に、
温かい鼓動が静かに響いていた。
闇の帝王への報告は、常に冷たい緊張と吐き気を伴う儀式のようなものだった。
黒い外套の集団が整列し、
その中心に立つヴォルデモート卿が、
蛇のように細い指で椅子の肘掛けを撫でながら、
一人ひとりの報告を聞き流していく。
レギュラス・ブラックは、その日も静かに一歩進み出た。
姿勢を崩さず、余計な言葉を添えず。
報告の内容は、いつも決まっている。
「アラン・セシール、生存を確認。体調は安定しています。」
声は機械的だった。
感情の色を一切混ぜてはいけない。
少しでも心の揺らぎを見せれば、
それは即座に弱さとみなされる。
「そうか……まあ、死んでなければそれでいい。」
ヴォルデモートの返答は、
毎度同じ言葉であった。
そしてそのたびに、
レギュラスの胸は締めつけられる。
“それでいい”。
その言葉の冷たさが、心臓の奥に突き刺さる。
あの女を何だと思っている――。
その疑問を飲み込みながら、
唇を噛む。
怒りが喉元まで込み上げてくる。
だが、顔には一切出さない。
この場での感情は、死に直結する。
彼は自らの理性を鉄鎖のように締めつけ、
その怒りを飲み下した。
「……次だ。」
闇の帝王の赤い瞳が、
部屋の隅に立つ一人の男に向けられる。
以前、アランを“褒美の女”として与えられたデスイーター――。
その男は、
にやりと唇を吊り上げて頭を下げた。
「どうだった? アラン・セシールは。」
その声は、氷のように冷たいのに、
底にねっとりとした嘲りを含んでいる。
男は、言葉を選ぶようにして、
しかし満足げな表情を隠そうともせず、
「……申し分のない褒美でございました」と低く答えた。
その瞬間、
レギュラスの血が逆流する音がした。
その言葉の一つ一つが、
胸の奥を焼き切るように痛い。
彼の視線の先には、
笑みを浮かべるヴォルデモート。
「そうか。レギュラスが、よく世話をしたらしいな。」
皮肉を含んだその言葉に、
周囲から笑いが沸き起こる。
低く、ねっとりとした笑い。
それはまるで、この空間の空気そのものが腐っていくようだった。
「ブラック家の御曹司が目をかけた女を抱けるとは……
身に余る幸福にございます。」
そう言って笑うデスイーターの顔を、
レギュラスは無言で見つめた。
何かを返せば、命が終わる。
何も言わなければ、魂が崩れる。
その狭間で、彼はただ、
微動だにせずに立ち尽くした。
脳裏に浮かぶのは、
あの地下牢の薄暗い光の中、
翡翠の瞳を宿した女の姿。
怯えながらも、
それでも息をしていた彼女。
――この男が、あの瞳を見たのか。
怒りが込み上げる。
血管の一本一本が、破裂しそうに膨らんだ。
杖に手を伸ばしたくなる衝動を、
指先が白くなるほど堪える。
殺したい。
今すぐにでも、この場で息の根を止めたい。
だが――ヴォルデモートの目の前でそれをすれば、
自分も、アランも、即座に消される。
耐えろ。
この男の言葉に反応するな。
自分に言い聞かせながら、
ただ唇を引き結んだ。
「……何か言いたげだな、レギュラス?」
ヴォルデモートの低い声が、
皮肉を込めて彼を射抜く。
「いえ、我が君。
ただ、封印の守り手として生かすべき者を、
無闇に扱うことは……
封印自体の不安定を招く恐れがあると、
申し上げたいだけです。」
静かに、慎重に言葉を並べる。
怒りを悟らせないように。
だが、ヴォルデモートの口元には薄い笑みが浮かんだ。
「構わん。
息絶えなければ、封印は続く。
それに、多少の苦痛は……
より強固な魔法を生むこともある。」
その冷酷な声が部屋に響く。
周囲の笑いが再び広がり、
薄暗い空間に重く沈殿する。
レギュラスの指先が震えた。
拳を強く握りしめすぎて、
皮膚が軋む音がした。
――この男たちは、地獄の底でも笑うのだろう。
怒りの熱が、胸の奥に静かに溜まっていく。
その熱を外に出せば死ぬ。
ならば、この身が燃え尽きるまで、
内側で燃やし続けてやる。
それが、レギュラス・ブラックという男の唯一の抵抗だった。
レギュラス・ブラックは、古びた魔法書を閉じると静かに息を吐いた。
埃の匂いが鼻を掠める。
普段なら決して手を伸ばすことのない類の書だった――娯楽の魔法、感情を癒やすための魔法、誰の役にも立たない、戦いにも使えない小さな奇跡の記録。
けれど、今の彼には必要だった。
あの地下の闇の中で、アラン・セシールに“美しいもの”を見せたかった。
彼女がいなければ、こんな魔法を学ぼうなどと考えもしなかっただろう。
闇の帝王のもとで生きる彼にとって、「美しさ」などというものは、最も遠い概念だった。
だが――彼女のためなら、星空でも海でも作ってやりたいと、自然と思えた。
その夜、彼は静かに地下牢の扉を開けた。
灯りを落としたその場所は、いつも通りの静寂に包まれている。
石壁には湿気が滲み、鎖の金属音がかすかに響くだけ。
だが、今日だけはこの場所を“空”にするつもりだった。
「アラン、今日はきっと喜んでくれるものがありますよ。」
レギュラスの声に、アランはわずかに首を傾げた。
その仕草があまりにも小さく、脆くて、彼は息を呑んだ。
いつものように彼女の隣に腰を下ろす。
彼女の視線が、わずかに自分へと動く。
杖をひと振り。
すると、闇の天井に無数の光が走った。
黒い石の天井が、瞬く間に夜空へと変わる。
星々が瞬き、淡い銀河が流れ、かつてホグワーツの湖のほとりで見上げた夜空がそこに広がった。
続けて、床にももうひとつの呪文を放つ。
光が柔らかく波打ち、石畳が透き通るような水面に変わっていく。
牢の中に、静かな星の海が生まれた。
アランはしばらく何も言わなかった。
ただ、口をわずかに開けて天井を見上げていた。
その翡翠の瞳が、星々の光を映し込む。
レギュラスは、その瞬間、息をすることさえ忘れた。
星のきらめきが、彼女の頬を淡く照らす。
まるで生まれて初めて“空”というものを見た子どものような、
純粋な驚きと静かな歓喜が、彼女の顔に宿っていた。
涙が、一筋。
頬を伝って、ゆっくりと零れ落ちた。
その透明な雫が水面に落ちると、小さな波紋を描いた。
彼女の涙が、水に星を落としたようだった。
レギュラスはそっとその頬に手を伸ばした。
涙を拭うというより、
その温度を確かめるように、指先で触れる。
細く震えるその肌が、彼の指に触れてようやく“生”を実感させた。
「……綺麗でしょう?」
彼の声はかすれていた。
アランは小さく頷いた。
その仕草が愛おしすぎて、胸が痛む。
ずっと天井を見上げていたアランの顔を、
どうしてもこちらに向けたくて、
レギュラスは彼女の腕をそっと引いた。
じゃらり――鎖の音が鳴る。
その音が、ふたりを現実へと引き戻す。
それでも、彼女は抵抗せず、ゆっくりとレギュラスの方へ顔を向けた。
翡翠の瞳が、星の光を映して輝いている。
その中に、今度は彼自身が映り込んだ。
――こんなにも美しい人間が、この世に存在するのか。
胸の奥が震えた。
この一瞬のために、すべてを賭けてもいいと思った。
静かに、彼は顔を近づけた。
躊躇はなかった。
彼女の息が頬をかすめ、
互いの距離が、星ひとつぶんの隙間まで縮まる。
そっと、唇が触れた。
それは、炎ではなく、雪のような口づけだった。
音もなく、ただ静かに溶けていく。
星々が降る牢の中で、
ふたりだけが、息をしていた。
その瞬間、レギュラスの世界に“夜”が生まれた。
ただ暗いだけの闇ではない。
確かに光を宿す夜。
アランの存在そのものが、彼にとっての星空だった。
多分――大抵の男なら、この空気に呑まれる。
灯りを落とした静かな牢に、魔法で生まれた星の光。
囚われの女と男、そして唇の余韻。
それだけで、理性など容易く溶けていく。
これほどの雰囲気を作り上げ、
その中で口づけまで交わしたのなら、
普通の男ならきっと、次の行為を期待する。
欲望というものは、理屈よりも先に体を支配するからだ。
――かつての自分なら、そうだっただろう。
ホグワーツを出て間もない頃、
貴族の令嬢たちと舞踏会で踊り、
酒に酔い、口づけの後に“流れ”でそういう関係を結ぶことを、
何の罪悪感もなく「礼儀の延長」だと信じていた。
女を褒め、手を取って導き、そこで決めなければ、
むしろ無礼だとさえ思っていた。
けれど、今、目の前にいるこの女に対して――
そんな“普通”を通せるわけがなかった。
アラン・セシール。
彼女の名を心の中で呼ぶたびに、胸の奥が痛んだ。
この女の体に刻まれてきた過去を、
この手がもう一度呼び覚ましてしまうのではないか。
そう思うだけで、全身が硬直した。
星の光が、彼女の肌に降り注いでいる。
それがあまりに神聖で、触れることが罪のように思えた。
彼女の唇に、再びそっと触れる。
それだけで、呼吸が乱れた。
柔らかく、淡く、慎重に――
まるで壊れやすい硝子細工を扱うように。
唇と唇が触れるたび、
彼の中の何かが震え、熱を持つ。
けれど、欲ではなかった。
もっと深く、もっと切実な――“救い”のような感情だった。
今この瞬間、彼女に与えたいのは快楽ではない。
穢れを忘れさせるような、優しさの記憶だ。
誰かに乱暴に踏みにじられた記憶を、
少しでも塗り替えられるようにと願いながら。
だから、せめて。
このキスだけは、どんな男よりも、長く――。
彼は角度を変え、何度も何度も唇を重ねた。
触れては離れ、また重ねる。
境界が溶けていく。
どこまでが自分で、どこからが彼女なのか、もう分からない。
星の光が二人の影をひとつに溶かす。
アランの睫毛が震える。
その小さな動きひとつに、彼の胸が痺れた。
唇が離れるたび、彼女の吐息が頬を撫でた。
それは熱く、震えていて――
まるで「生きている」という証のようだった。
闇の底で、ようやく触れられた“人の温度”。
それがどれほど尊く、どれほど危ういものかを、
レギュラスは身をもって知っていた。
彼女を乱暴に扱った数々の男たちを思い出す。
そのたびに、吐き気がこみ上げる。
あの下卑た手と、自分の手を同じにされたくなかった。
彼女にとって、自分だけは違う存在でいたかった。
だから、触れたいのに、触れられなかった。
抱きしめたいのに、腕を広げることすら躊躇った。
その代わりに、唇を重ねる時間だけが、
二人の距離を繋ぐ唯一の術だった。
いつしか、星の光が消えかけている。
天井の幻がゆっくりと薄れていく。
それでも、アランの瞳の奥にはまだ星が残っていた。
彼女の中で、光がほんの少しでも生まれたのなら――
それでいい。
レギュラスは額を彼女の額に寄せ、
震える声で囁いた。
「……あなたに、触れるたびに、
この世界が、少しだけ綺麗になる気がします。」
それは彼の本心だった。
どんな魔法よりも美しい、
ひとつの真実。
世界そのものを――美しいと思えたのは、生まれて初めてだった。
石と鉄に閉ざされたこの地下で、空を見上げるという行為を、もう二度とすることはないと思っていた。
星空の見上げ方さえ忘れていた。
それほど長く、闇しか知らずに生きてきた。
けれど、今。
その闇の中に、光があった。
天井一面に広がる無数の星々。
杖の一振りで、レギュラスが描き出した夜の奇跡。
宝石のような輝きがいくつも瞬き、
ひとつひとつが呼吸をしているように見えた。
まるで空気までもが光を孕んで震えている。
冷たい石の床は、彼の魔法によって穏やかな水面へと変わり、
その水面に星たちが映り込む。
揺れる光が、牢の壁を淡く照らし、
まるで星そのものが地下へと降り注いでいるかのようだった。
どれほど美しいものを見ても涙を流すことなどなかったのに――
今、頬を伝う雫は止めどなく溢れていた。
胸の奥が熱くなり、何かがほどけていく。
こんなに美しい夜を知らなかった。
こんなにも、この世界が優しい瞬間を知らなかった。
そのとき、隣にいたレギュラスが静かに言った。
「……綺麗でしょう?」
その声に顔を向けた瞬間、視線が絡んだ。
銀灰の瞳が星の光を宿し、
どこまでも深く、穏やかで、
息をするたびに心がかき乱される。
何かを言おうとしても、言葉が出てこない。
喉の奥で声が震えただけで、
その代わりに、彼の指先が頬をなぞった。
温かかった。
頬に残る涙を拭うようにして、指が触れる。
そのわずかな接触だけで、全身が熱に包まれる。
痛いほどの鼓動が胸の奥を打った。
そして、次の瞬間――唇が重なった。
長く、蕩けるような口づけだった。
柔らかく、けれど確かに熱を持っていて、
息をするのも忘れるほどの時間が流れた。
初めて知る“熱”だった。
頬を掴まれるような乱暴さも、
力ずくで押し倒されるような恐怖も、そこにはなかった。
彼の動きは、あまりにも穏やかで、
それでいて全てを絡め取るような、緩やかな激しさがあった。
唇が触れるたびに、心が震える。
何かが流れ込んできて、
それがあまりに優しくて、涙がまた溢れた。
頭がくらくらとし、現実の輪郭がぼやけていく。
彼の手がそっと髪を撫で、
肩に触れ、抱き寄せる。
その動作ひとつひとつが、
かつて知っていた“男の手”とは全く違っていた。
奪うためではなく、守るための手。
触れるだけで、安らぎが宿るような手。
唇が離れても、まだ世界が揺れていた。
星の光が二人の影を包み、
その中でレギュラスの息がかすかに触れる。
呼吸の音だけが、牢の中でやさしく響いていた。
暗く、冷たく、長すぎる時間を過ごしたこの地下で――
今、初めて“光”を知った。
レギュラスが見せてくれる世界だけが、
確かに生きていることを実感させてくれた。
この人が映す世界だけが、
自分にとっての夜空であり、
希望そのものだった。
星が揺れ、水がきらめく。
世界がこんなにも美しいと思えたのは、
たぶん――彼が隣にいたからだ。
それからというもの、夜空の魔法は彼の日課となった。
レギュラスは、毎夜のように杖をひと振りし、
あの地下牢の天井に無数の星を浮かべた。
静寂の石壁が淡く光を受けて、
まるで地上から切り離された別の世界にいるかのようだった。
だが、その光景に見惚れることは、もうほとんどなくなっていた。
理由はひとつ――
星よりも美しいものが、今、自分の腕の中にあるからだった。
アランは彼の胸にもたれかかり、
その背中をレギュラスが包み込むようにして座っていた。
広げた脚の間に、彼女の小さな体がすっぽりと収まる。
互いの呼吸が、衣擦れとともに重なり合う。
まるで心臓の鼓動までもが、同じ拍で打っているかのようだった。
天井に星が瞬くたび、
光がアランの頬を照らし、影が首筋を滑っていく。
その光の移ろいを、レギュラスは飽くことなく見つめ続けた。
「……そろそろ飽きませんか?」
彼が囁くと、
アランは小さく首を振った。
柔らかい髪が彼の顎先をくすぐる。
その動作ひとつひとつが、たまらなく愛おしかった。
星空なんて、もうどうでもいい。
この腕の中に、確かな温もりがある――
その事実の方が、どんな奇跡よりも尊かった。
彼女の細い腕を、ゆっくりとなぞる。
肌はまだ少し冷たいけれど、その下に確かに血が通っている。
手首から指先へ、肩から鎖骨へ。
触れられる場所のすべてで、彼女の存在を確かめた。
アランは抵抗しない。
ただ静かに身を委ねている。
彼の胸の中で、ゆっくりと息をしている。
その呼吸の一つひとつが、レギュラスの生の証のように感じられた。
まるで自分の存在理由が、今やこの人の鼓動とともにあるような錯覚さえ覚えた。
彼女の髪に顔を寄せ、
鼻先で淡い香りを確かめる。
それは薬草と埃の混ざった匂いで、決して心地よいものではない。
けれど、レギュラスにとってはこの上なく安心する匂いだった。
「……あなたがここにいるだけで、充分です。」
思わず、心の声が漏れた。
アランは何も言わない。
けれど、その手がわずかに彼の腕を握り返した。
言葉にしない答えが、確かにそこにあった。
毎晩交わす口づけが、もう自然な習慣になっていた。
最初の頃のようなためらいも、緊張もない。
ただ静かに唇を重ね、
互いの呼吸をひとつに溶かす。
それ以上のことは、決してしなかった。
触れることも、求めることも、そこでは意味をなさなかった。
唇を重ねるだけで、心の奥が満たされていく。
昔の自分なら信じられなかっただろう。
社交界で見栄えのいい令嬢たちと踊り、
香水の香りを漂わせた唇に触れることが“快楽”だと信じていたあの頃の自分には。
それがどれほど空虚で浅いものだったかを、
今ようやく知った。
本当の深さとは、
言葉を交わさずとも伝わる温度に宿るのだと。
ただ抱きしめ、ただ息を重ねる――
その行為の中に、
人が人を想うという最も静かな真実があった。
アランの髪越しに、
天井の星が滲んで見えた。
それは彼女の涙なのか、自分のものなのか分からなかった。
レギュラスは、彼女の肩に唇を寄せ、
小さく、囁くように言った。
「……この星空は、あなたのためにある。」
その言葉に、アランの体がわずかに震えた。
そして静かに、彼の腕の中で目を閉じる。
星の光が二人を包み、
世界のすべてが穏やかな呼吸の音に変わっていく。
この瞬間が永遠でなくてもいい。
それでも、今だけは――
彼女の存在が、自分にとってのすべての光だった。
任務から戻ったレギュラスを迎えたのは、
あの静寂ではなく、重く乱れた呼吸の音だった。
「……アラン?」
声をかけながら地下牢の扉を開ける。
鉄の軋む音が響き、湿った空気が肌にまとわりつく。
薄暗い灯りの下、彼女は冷たい床の上に横たわっていた。
その体が微かに痙攣しているのが見えた瞬間、
心臓が掴まれるような感覚に襲われた。
「アラン、どうしました?……どうあるんです?」
駆け寄り、膝をつく。
返事はない。
彼女の瞼は閉じたまま、唇から荒い息が漏れている。
頬に手を当てた瞬間、異常な熱が伝わった。
――熱い。
反射的にレギュラスは立ち上がり、
廊下に出て医務魔女を呼びつけた。
扉の向こうで声を張り上げるのは、
デスイーターとなって以来、初めてのことだった。
医務魔女が駆けつける。
アランの体を診る間、
レギュラスは一歩も離れなかった。
本来なら――
女の体に医療の手が触れるとき、
男は視線を逸らすのが当然の配慮だ。
だが、その理性さえ飛んでいた。
心配と焦りで、目を離すことができなかった。
医務魔女が額に手を当て、喉元を軽く押す。
「喉の炎症です。酷く腫れています。
声を出しすぎたか、あるいは無理な呼吸を繰り返したか……。」
「声を出さない彼女が、喉を……?」
レギュラスの問いに、医務魔女は曖昧に首を振る。
「分かりません。
けれど、かなりの高熱です。
このまま放っておけば、命を落としたかもしれません。」
命を落とした――その言葉が、胸の奥で鈍く響いた。
レギュラスはしばらくその場に立ち尽くしていた。
医務魔女が去ったあと、
冷たい床に膝をつき、アランの髪を撫でる。
額から首筋へ、掌を滑らせる。
細い体は小刻みに震えていて、
まるでこの世にすがりつくように息をしていた。
「……僕が来なければ、誰も気づかなかったんですね。」
自嘲にも似た言葉が漏れる。
誰も彼女を看る者はいない。
訴える声もない。
痛みを知らせる手段すら奪われた彼女が、
ただひとり、この暗闇の底で苦しんでいたのだ。
それが――あまりに悲しかった。
レギュラスは床に腰を下ろし、
アランの体の傍らに寄り添った。
彼女の手を握り、そのまま目を閉じる。
気づけば、意識が途切れていた。
どれくらい眠ったのか分からない。
ふと目を覚ましたとき、
天井の灯りはすでに消えており、
石の壁は濃い闇に沈んでいた。
朝なのか夜なのかも分からない。
この地下には“時間”という概念が存在しない。
光の移ろいも、鳥の声も、風の音もない。
ただ息と鼓動だけが、時間の証明だった。
「……こんな世界で、彼女は生き続けてきたのか。」
その事実に、深い恐怖が込み上げた。
人間は、夜があるから朝を信じ、
朝があるから希望を保てる。
だが、この場所には“夜明け”がない。
永遠の闇に閉じ込められた彼女が、
どうしてまだ心を保てているのか――理解できなかった。
レギュラスは手を伸ばし、アランの額の汗を拭う。
その指先に触れた熱が、
まるで自分の罪を突きつけているように感じた。
「……無謀だ。」
そう呟いた。
だが、その言葉を押し消すように、胸の中で別の声が響く。
――それでも、出したい。
この牢の外へ。
光のある場所へ。
彼女が星空を見上げて微笑んだ夜を、
あの瞬間を、永遠に閉じ込めたくはなかった。
闇の帝王の命に逆らうことは死を意味する。
そんなことは分かっている。
それでも、もう一度だけ、
彼女に“朝”を見せたいと、心の奥底から思った。
レギュラスは静かにアランの手を握った。
細い指が、かすかに動く。
そのわずかな反応が、
胸の奥に確かな光をともした。
彼はその光を、決して手放すまいと誓った。
たとえ、この身を滅ぼすことになっても。
扉が静かに閉まる音がした。
その音を背に、レギュラス・ブラックの黒いマントが廊下の奥へと消えていく。
バーテミウス・クラウチ・ジュニアはしばらくその背中を見つめたまま、
やがて口の端をゆっくりと吊り上げた。
「……はは、まさかね。」
思わず笑みがこぼれた。
あの冷静で、理性的で、闇の帝王に忠実な男――
一分の隙も見せない鋼のようなレギュラス・ブラックが、
“たかが女”一人のために大それたことを企てようとしているなんて。
馬鹿げている。
だが、それ以上に――面白い。
バーテミウスは椅子の背にもたれ、指先で顎を撫でた。
薄暗い部屋の中に、蝋燭の炎がゆらゆらと揺れ、
その光が彼の瞳に妖しく反射する。
「アラン・セシール、ね。」
初めて彼女を見た日のことを思い出す。
あの地下牢で――血と鉄の匂いに満ちた場所で、
想像していた囚人とはまるで違う女がそこにいた。
痩せ細り、青ざめてはいたが、
それでも顔立ちは美しく、何よりも“気品”が残っていた。
けれど、そんな女など貴族の世界にはいくらでもいる。
少し舞踏会に顔を出せば、
同じような顔立ちの令嬢が山ほどいるではないか。
髪の色が違おうと、瞳の色が異なろうと、
結局、飾り立てた美しさなど似たり寄ったりだ。
――それなのに、だ。
あのレギュラスが、そんな女に心を奪われる?
笑わずにはいられなかった。
「美しい女なんて、いくらでも抱いてきたでしょうに。」
口の中でそう呟く。
レギュラス・ブラック――
女の方から寄ってくる男だった。
血筋も、家柄も、顔も、全てが完璧に揃っている。
舞踏会では常に注目の的で、
口を開けば貴族の娘たちは頬を染め、
軽く微笑むだけで、彼女らはこぞって近づいてきた。
選び放題の中で、彼はいつも理性的に距離を取っていた。
感情で動くような男ではない。
――だったはずだ。
「そんな君が、あの女に?」
小さく笑いながらバーテミウスは指先で机を叩く。
こつ、こつ、と硬質な音が部屋に響く。
そのリズムに合わせるように、思考の歯車が回っていく。
何年も地下に幽閉され、
人としての尊厳すら奪われた女に、
あの完璧主義者が心を奪われるなんて。
哀れでもあり、滑稽でもあり――だが、
妙に惹かれるものがあった。
「……本気で出そうとしているんですね。」
声に出してみると、ぞくりとした。
それはただの興味ではなく、
“何かが始まりそうな”予感のようなものだった。
レギュラスは、闇の帝王の寵愛を受けるほどの忠誠者だ。
冷酷な判断を下す頭脳もあり、感情を抑える術も心得ている。
そんな男が、今、理性を捨てようとしている。
――あの女のために。
滑稽だ。
だが、その滑稽さが、バーテミウスにはたまらなく愉快だった。
「さあ、どこまでやれるです、レギュラス・ブラック。」
椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。
蝋燭の炎が、彼の歩みに合わせて揺らめく。
笑みを浮かべたまま、バーテミウスは天井を仰いだ。
「たかが女一人のために、君はどこまで堕ちるつまりなんです?」
その声は、闇の中で静かに響いた。
まるで愉快な劇の幕が上がるのを待ち望む観客のように。
彼の瞳には、
レギュラスの決意も、苦悩も、すべて“見世物”のように映っていた。
――だが同時に、ほんの僅かに。
ほんの、ほんの僅かに。
その中に芽生えた“好奇心”は、
後に彼自身の運命をも揺るがす種になることを、
この時のバーテミウスはまだ知らなかった。
地下牢の空気は、いつになく穏やかだった。
いつもなら湿気を帯びた冷気が肌を刺すようにまとわりつくのに、
この日はなぜか少しだけ柔らかく感じられた。
レギュラスはゆっくりと扉を開け、
その先に見えた光景に、思わず胸の奥が熱くなった。
アランが――上体を起こしていた。
その事実だけで、世界が少しだけ光を取り戻したような気がした。
痩せた体がわずかに震えながらも背を支えて座っている。
あの無表情で、どこか魂の抜けた人形のようだった彼女に、
“生きている”という輪郭が戻りつつある。
「……アラン。」
名前を呼ぶと、彼女の瞼がゆっくりと持ち上がった。
翡翠のような瞳が、ぼんやりとこちらを見つめる。
その小さな動作にすら、
どれほどの努力が費やされているのかを思うと、胸が締めつけられる。
レギュラスは傍らに膝をつき、
穏やかに微笑んだ。
「心配しました……本当に。」
言葉が、静かに零れた。
思っていたよりも、ずっと掠れた声だった。
自分でも驚くほど、そこには安堵と優しさが滲んでいた。
そっとアランの前に器を差し出す。
中には、彼女がゆっくりと飲み干した魔法薬の残りがある。
そして皿には、ほんの少しの食事。
――けれど、その“少し”が、どれほど大きな意味を持つことか。
彼女が自ら手を伸ばし、
口に運ぶ姿を見られる日がまた来るなんて、
ほんの一週間前には想像もできなかった。
「……えらいですね。」
その言葉は、まるで子どもを褒めるような優しさで零れた。
けれどそれ以上の意味があった。
自分でも気づかないうちに、
その一言に全ての祈りを込めていた。
アランは、わずかに目を伏せ、
静かに息を吐いた。
頬の色が、ほんの少しだけ戻っている。
細い首筋にかかる髪が、光を帯びて揺れた。
レギュラスはその姿に、胸がいっぱいになるのを感じた。
安堵と共に、込み上げる感情が喉を締めつける。
どうしてこんなにも、彼女一人の呼吸の音に心が動かされるのか。
彼はそっと手を伸ばした。
骨ばった肩を、抱き寄せる。
アランの体はあまりにも軽く、
壊れ物のようで――抱いた瞬間、胸の奥が痛んだ。
「もう大丈夫です。」
そう囁くように言いながら、
彼女の背を撫でる。
温もりが掌を通じて伝わってくる。
そのぬくもりが、生の証だと思えた。
けれど。
――じゃらり、と。
鎖の音が響いた。
その冷たく無機質な響きが、
この温もりのすぐ隣にある現実を突きつけてくる。
まるで「希望など持つな」と嘲るように。
レギュラスは目を閉じ、
腕の中の彼女を抱きしめたまま、微かに息を吐いた。
ああ、どうしてこんなにも悲しい音なのだろう。
たった一つ、彼女を繋ぎ止めているはずの鎖が――
今や、彼女を“この世”と“自分”から遠ざける枷にしか見えない。
彼はゆっくりと囁いた。
「アラン……あなたがこうして生きていること、それだけで十分です。」
アランは何も言わない。
けれど、わずかに瞼が揺れた。
それだけで、また胸が熱くなった。
この狭く暗い地下牢の中で、
光などどこにもないはずなのに。
彼女が息をしているだけで、世界が静かに灯っていく。
――じゃら、じゃら、と。
鎖がまた鳴った。
その音が、祈りのようにも、涙のようにも聞こえた。
レギュラスはただ黙って、
その音の中で彼女を抱きしめ続けた。
骨ばった肩。力の抜けた指。
彼女の肌は、もはや生気の色を失い、
どんな光をも拒むように冷たく沈んでいた。
レギュラス・ブラックは、その姿を前に、
胸の奥に走る焦燥をどうすることもできなかった。
もう“食事”などというものではなかった。
生きるための最低限の栄養を、ただ体に流し込む。
それだけを目的に、彼は新たな手段を取った。
魔法薬――栄養価に特化した液体。
かつてホグワーツの医務室で、
瀕死の老人や重傷者に与えられていたものと同じ類。
味は最悪だ。
匂いも、色も、見るだけで吐き気を催すほどに不快。
だが、それでも、これしかなかった。
「……アラン、少しだけ。これを飲みましょう。」
彼は静かにそう言いながら、
震える手にコップを持たせた。
だが、指先はすぐに滑り、器は傾きそうになる。
慌ててその手を包み込み、支える。
「大丈夫。僕が、持っています。」
声は穏やかで、優しくて――それでいて、必死だった。
彼女が口を閉ざしたままでも、
レギュラスは根気よく、その唇に薬を近づけた。
液体の表面から漂う匂いは、まるで腐った草と鉄を混ぜたような悪臭だった。
彼自身、嗅ぐだけで胃がねじれるほどの嫌悪感を覚えた。
だが、ためらってはいけない。
生き延びてもらうために、これが必要なのだ。
「あと少しで、全部です……アラン。」
優しく囁きながら、コップを傾ける。
アランの唇がわずかに開く。
喉が細く動き、ほんの少しずつ、液体が体内へと流れていく。
彼女の喉が通るたび、レギュラスは自分の心臓が跳ねるのを感じた。
そのひと飲みごとに、“生”が戻ってくるような気がして。
その度に、自分が息をするのを忘れるほど、
彼は彼女の動きを見つめ続けた。
ほんの少し残った液体を、ゆっくりと最後まで飲ませ終える。
彼女の唇の端にこぼれた雫を、
レギュラスはそっと指で拭った。
「……そう、よく頑張りました。」
安堵が全身を包んだ。
胸の奥で、張り詰めていた糸が静かに切れる音がした。
長く、深く息を吐く。
そのまま、彼はアランの体を抱き寄せた。
それは恋情とは違う。
もっと根源的で、もっと痛みに近い抱擁だった。
親が病に伏せた子の命を、この腕で繋ぎ止めようとするように。
彼の手は、彼女の背をそっと撫でた。
冷たい。
だが、その冷たさの奥に、かすかに体温が残っている。
その微かな温もりが、何よりの希望だった。
「……大丈夫。ここにいます。」
その言葉は、祈りのように落ちた。
誰に届くでもない。
ただ、彼女の心の奥に小さく灯る炎を絶やさないために。
アランの頭が、レギュラスの胸に預けられる。
髪から漂う微かな匂い――血と薬草と、そして彼女自身の匂い。
それが、彼にとってなぜか“生の匂い”に思えた。
彼はそのまま、長い間動かなかった。
彼女の呼吸のたびに、自分の心臓が同じリズムで打つのを感じながら、
その鼓動を重ね合わせるように、静かに目を閉じた。
闇の中で、
たったひとつの命が確かに脈打っている。
それを感じることが、今の彼にとって唯一の救いだった。
その夜、レギュラス・ブラックは初めて祈った。
この腕の中の小さな命が、
明日も息をしていられますように――と。
魔法薬による食事は、しばらく続いた。
彼女が再び普通の食事を口にできるほどの体力を取り戻すまでは――
それが唯一の“命を繋ぐ手段”だった。
薬と名がつくだけあり、その吸収力は驚異的だった。
数日も経たぬうちに、骨の浮き上がっていた腕にわずかな肉が戻り、
頬にほんのりと血色が宿り始める。
まだ儚く、今にも消えてしまいそうな生命の灯だが、
それでも確かに、光は戻りつつあった。
「頑張っている効果が出ているようですね。」
そう言いながら、レギュラスは微笑んだ。
器を持ち、アランの口元へとゆっくりと傾ける。
彼女がわずかに唇を開けるのを待って、
慎重に一口、もう一口と流し込む。
「えらいです、アラン。」
その言葉に、アランの睫毛がわずかに震えた。
表情はほとんど変わらない。
けれど、その瞳の奥に、ごく微かな光が宿っている気がした。
それだけで十分だった。
飲み干すまでの時間が、日に日に短くなっていく。
最初は一口で途切れていた呼吸も、
今では途切れずに、半分ほどを一気に飲み込めるようになった。
それは、彼女が生きようとしている証だった。
レギュラスはその度に胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼女がわずかにでも前に進むだけで、
自分の世界が少し明るくなる。
その夜も、
灯りの下で二人だけの静かな時間が流れていた。
匙の先からこぼれる液体の色は、濁った緑。
匂いは、鉄と苦草を混ぜたような強烈なもの。
嗅いだだけで喉が詰まるほどの不快さだった。
「……あと少しです。がんばりましょう。」
アランの唇に触れるたび、
彼女の吐息がかすかに揺れる。
その儚い温もりに、レギュラスは目を伏せた。
最後の一口を飲ませ終えたとき、
安堵が静かに胸を満たした。
「……よく、頑張りました。」
その瞬間だった。
衝動だった。
理性よりも早く、
自然と身体が動いた。
レギュラスは彼女の頬を両手で包み、
吸い寄せられるようにして――唇を重ねた。
それは短い口づけだった。
優しく、触れるだけの。
けれど、その一瞬に、彼の中のすべてが詰まっていた。
守りたいという願いも、償いたいという後悔も、
すべて、ひとつの感情に溶けて。
だが次の瞬間、
唇に走った衝撃に、思わず彼は顔を引いた。
「……っ、すみません……なんか、この味……」
言葉を途中で飲み込む。
“生理的に無理で”と続けそうになって、必死に止めた。
喉の奥に残る苦味と鉄の味が、
まるで罰のように舌に広がる。
これを、彼女は毎日飲み続けているのだ。
吐き気を堪えながら、
自分のために、無理矢理流し込まされて。
申し訳なさがこみ上げ、胸が締めつけられた。
それでも――
唇に残った熱は、確かに甘かった。
あの一瞬、
彼女の命の鼓動が、自分の体に流れ込んでくるようだった。
レギュラスは震える手でアランの頬に触れた。
彼女はまだ、目を閉じたまま。
けれど、その睫毛がかすかに揺れた。
それが偶然でも、夢でもいい。
彼女の中に“生”がまだ宿っている。
それだけで、十分だった。
レギュラスは小さく息を吐き、
苦笑した。
「……これほど味気ないキスは、初めてです。」
その声に、
ほんの一瞬、アランの口元が揺れたように見えた。
微笑んだのか、
ただ呼吸を整えただけなのか――わからない。
けれどそのわずかな動きが、
この暗い世界の中で、何よりも確かな希望に見えた。
そして彼は、
もう一度、彼女の頭を胸に抱き寄せた。
あの苦い味が残る唇の奥に、
温かい鼓動が静かに響いていた。
闇の帝王への報告は、常に冷たい緊張と吐き気を伴う儀式のようなものだった。
黒い外套の集団が整列し、
その中心に立つヴォルデモート卿が、
蛇のように細い指で椅子の肘掛けを撫でながら、
一人ひとりの報告を聞き流していく。
レギュラス・ブラックは、その日も静かに一歩進み出た。
姿勢を崩さず、余計な言葉を添えず。
報告の内容は、いつも決まっている。
「アラン・セシール、生存を確認。体調は安定しています。」
声は機械的だった。
感情の色を一切混ぜてはいけない。
少しでも心の揺らぎを見せれば、
それは即座に弱さとみなされる。
「そうか……まあ、死んでなければそれでいい。」
ヴォルデモートの返答は、
毎度同じ言葉であった。
そしてそのたびに、
レギュラスの胸は締めつけられる。
“それでいい”。
その言葉の冷たさが、心臓の奥に突き刺さる。
あの女を何だと思っている――。
その疑問を飲み込みながら、
唇を噛む。
怒りが喉元まで込み上げてくる。
だが、顔には一切出さない。
この場での感情は、死に直結する。
彼は自らの理性を鉄鎖のように締めつけ、
その怒りを飲み下した。
「……次だ。」
闇の帝王の赤い瞳が、
部屋の隅に立つ一人の男に向けられる。
以前、アランを“褒美の女”として与えられたデスイーター――。
その男は、
にやりと唇を吊り上げて頭を下げた。
「どうだった? アラン・セシールは。」
その声は、氷のように冷たいのに、
底にねっとりとした嘲りを含んでいる。
男は、言葉を選ぶようにして、
しかし満足げな表情を隠そうともせず、
「……申し分のない褒美でございました」と低く答えた。
その瞬間、
レギュラスの血が逆流する音がした。
その言葉の一つ一つが、
胸の奥を焼き切るように痛い。
彼の視線の先には、
笑みを浮かべるヴォルデモート。
「そうか。レギュラスが、よく世話をしたらしいな。」
皮肉を含んだその言葉に、
周囲から笑いが沸き起こる。
低く、ねっとりとした笑い。
それはまるで、この空間の空気そのものが腐っていくようだった。
「ブラック家の御曹司が目をかけた女を抱けるとは……
身に余る幸福にございます。」
そう言って笑うデスイーターの顔を、
レギュラスは無言で見つめた。
何かを返せば、命が終わる。
何も言わなければ、魂が崩れる。
その狭間で、彼はただ、
微動だにせずに立ち尽くした。
脳裏に浮かぶのは、
あの地下牢の薄暗い光の中、
翡翠の瞳を宿した女の姿。
怯えながらも、
それでも息をしていた彼女。
――この男が、あの瞳を見たのか。
怒りが込み上げる。
血管の一本一本が、破裂しそうに膨らんだ。
杖に手を伸ばしたくなる衝動を、
指先が白くなるほど堪える。
殺したい。
今すぐにでも、この場で息の根を止めたい。
だが――ヴォルデモートの目の前でそれをすれば、
自分も、アランも、即座に消される。
耐えろ。
この男の言葉に反応するな。
自分に言い聞かせながら、
ただ唇を引き結んだ。
「……何か言いたげだな、レギュラス?」
ヴォルデモートの低い声が、
皮肉を込めて彼を射抜く。
「いえ、我が君。
ただ、封印の守り手として生かすべき者を、
無闇に扱うことは……
封印自体の不安定を招く恐れがあると、
申し上げたいだけです。」
静かに、慎重に言葉を並べる。
怒りを悟らせないように。
だが、ヴォルデモートの口元には薄い笑みが浮かんだ。
「構わん。
息絶えなければ、封印は続く。
それに、多少の苦痛は……
より強固な魔法を生むこともある。」
その冷酷な声が部屋に響く。
周囲の笑いが再び広がり、
薄暗い空間に重く沈殿する。
レギュラスの指先が震えた。
拳を強く握りしめすぎて、
皮膚が軋む音がした。
――この男たちは、地獄の底でも笑うのだろう。
怒りの熱が、胸の奥に静かに溜まっていく。
その熱を外に出せば死ぬ。
ならば、この身が燃え尽きるまで、
内側で燃やし続けてやる。
それが、レギュラス・ブラックという男の唯一の抵抗だった。
レギュラス・ブラックは、古びた魔法書を閉じると静かに息を吐いた。
埃の匂いが鼻を掠める。
普段なら決して手を伸ばすことのない類の書だった――娯楽の魔法、感情を癒やすための魔法、誰の役にも立たない、戦いにも使えない小さな奇跡の記録。
けれど、今の彼には必要だった。
あの地下の闇の中で、アラン・セシールに“美しいもの”を見せたかった。
彼女がいなければ、こんな魔法を学ぼうなどと考えもしなかっただろう。
闇の帝王のもとで生きる彼にとって、「美しさ」などというものは、最も遠い概念だった。
だが――彼女のためなら、星空でも海でも作ってやりたいと、自然と思えた。
その夜、彼は静かに地下牢の扉を開けた。
灯りを落としたその場所は、いつも通りの静寂に包まれている。
石壁には湿気が滲み、鎖の金属音がかすかに響くだけ。
だが、今日だけはこの場所を“空”にするつもりだった。
「アラン、今日はきっと喜んでくれるものがありますよ。」
レギュラスの声に、アランはわずかに首を傾げた。
その仕草があまりにも小さく、脆くて、彼は息を呑んだ。
いつものように彼女の隣に腰を下ろす。
彼女の視線が、わずかに自分へと動く。
杖をひと振り。
すると、闇の天井に無数の光が走った。
黒い石の天井が、瞬く間に夜空へと変わる。
星々が瞬き、淡い銀河が流れ、かつてホグワーツの湖のほとりで見上げた夜空がそこに広がった。
続けて、床にももうひとつの呪文を放つ。
光が柔らかく波打ち、石畳が透き通るような水面に変わっていく。
牢の中に、静かな星の海が生まれた。
アランはしばらく何も言わなかった。
ただ、口をわずかに開けて天井を見上げていた。
その翡翠の瞳が、星々の光を映し込む。
レギュラスは、その瞬間、息をすることさえ忘れた。
星のきらめきが、彼女の頬を淡く照らす。
まるで生まれて初めて“空”というものを見た子どものような、
純粋な驚きと静かな歓喜が、彼女の顔に宿っていた。
涙が、一筋。
頬を伝って、ゆっくりと零れ落ちた。
その透明な雫が水面に落ちると、小さな波紋を描いた。
彼女の涙が、水に星を落としたようだった。
レギュラスはそっとその頬に手を伸ばした。
涙を拭うというより、
その温度を確かめるように、指先で触れる。
細く震えるその肌が、彼の指に触れてようやく“生”を実感させた。
「……綺麗でしょう?」
彼の声はかすれていた。
アランは小さく頷いた。
その仕草が愛おしすぎて、胸が痛む。
ずっと天井を見上げていたアランの顔を、
どうしてもこちらに向けたくて、
レギュラスは彼女の腕をそっと引いた。
じゃらり――鎖の音が鳴る。
その音が、ふたりを現実へと引き戻す。
それでも、彼女は抵抗せず、ゆっくりとレギュラスの方へ顔を向けた。
翡翠の瞳が、星の光を映して輝いている。
その中に、今度は彼自身が映り込んだ。
――こんなにも美しい人間が、この世に存在するのか。
胸の奥が震えた。
この一瞬のために、すべてを賭けてもいいと思った。
静かに、彼は顔を近づけた。
躊躇はなかった。
彼女の息が頬をかすめ、
互いの距離が、星ひとつぶんの隙間まで縮まる。
そっと、唇が触れた。
それは、炎ではなく、雪のような口づけだった。
音もなく、ただ静かに溶けていく。
星々が降る牢の中で、
ふたりだけが、息をしていた。
その瞬間、レギュラスの世界に“夜”が生まれた。
ただ暗いだけの闇ではない。
確かに光を宿す夜。
アランの存在そのものが、彼にとっての星空だった。
多分――大抵の男なら、この空気に呑まれる。
灯りを落とした静かな牢に、魔法で生まれた星の光。
囚われの女と男、そして唇の余韻。
それだけで、理性など容易く溶けていく。
これほどの雰囲気を作り上げ、
その中で口づけまで交わしたのなら、
普通の男ならきっと、次の行為を期待する。
欲望というものは、理屈よりも先に体を支配するからだ。
――かつての自分なら、そうだっただろう。
ホグワーツを出て間もない頃、
貴族の令嬢たちと舞踏会で踊り、
酒に酔い、口づけの後に“流れ”でそういう関係を結ぶことを、
何の罪悪感もなく「礼儀の延長」だと信じていた。
女を褒め、手を取って導き、そこで決めなければ、
むしろ無礼だとさえ思っていた。
けれど、今、目の前にいるこの女に対して――
そんな“普通”を通せるわけがなかった。
アラン・セシール。
彼女の名を心の中で呼ぶたびに、胸の奥が痛んだ。
この女の体に刻まれてきた過去を、
この手がもう一度呼び覚ましてしまうのではないか。
そう思うだけで、全身が硬直した。
星の光が、彼女の肌に降り注いでいる。
それがあまりに神聖で、触れることが罪のように思えた。
彼女の唇に、再びそっと触れる。
それだけで、呼吸が乱れた。
柔らかく、淡く、慎重に――
まるで壊れやすい硝子細工を扱うように。
唇と唇が触れるたび、
彼の中の何かが震え、熱を持つ。
けれど、欲ではなかった。
もっと深く、もっと切実な――“救い”のような感情だった。
今この瞬間、彼女に与えたいのは快楽ではない。
穢れを忘れさせるような、優しさの記憶だ。
誰かに乱暴に踏みにじられた記憶を、
少しでも塗り替えられるようにと願いながら。
だから、せめて。
このキスだけは、どんな男よりも、長く――。
彼は角度を変え、何度も何度も唇を重ねた。
触れては離れ、また重ねる。
境界が溶けていく。
どこまでが自分で、どこからが彼女なのか、もう分からない。
星の光が二人の影をひとつに溶かす。
アランの睫毛が震える。
その小さな動きひとつに、彼の胸が痺れた。
唇が離れるたび、彼女の吐息が頬を撫でた。
それは熱く、震えていて――
まるで「生きている」という証のようだった。
闇の底で、ようやく触れられた“人の温度”。
それがどれほど尊く、どれほど危ういものかを、
レギュラスは身をもって知っていた。
彼女を乱暴に扱った数々の男たちを思い出す。
そのたびに、吐き気がこみ上げる。
あの下卑た手と、自分の手を同じにされたくなかった。
彼女にとって、自分だけは違う存在でいたかった。
だから、触れたいのに、触れられなかった。
抱きしめたいのに、腕を広げることすら躊躇った。
その代わりに、唇を重ねる時間だけが、
二人の距離を繋ぐ唯一の術だった。
いつしか、星の光が消えかけている。
天井の幻がゆっくりと薄れていく。
それでも、アランの瞳の奥にはまだ星が残っていた。
彼女の中で、光がほんの少しでも生まれたのなら――
それでいい。
レギュラスは額を彼女の額に寄せ、
震える声で囁いた。
「……あなたに、触れるたびに、
この世界が、少しだけ綺麗になる気がします。」
それは彼の本心だった。
どんな魔法よりも美しい、
ひとつの真実。
世界そのものを――美しいと思えたのは、生まれて初めてだった。
石と鉄に閉ざされたこの地下で、空を見上げるという行為を、もう二度とすることはないと思っていた。
星空の見上げ方さえ忘れていた。
それほど長く、闇しか知らずに生きてきた。
けれど、今。
その闇の中に、光があった。
天井一面に広がる無数の星々。
杖の一振りで、レギュラスが描き出した夜の奇跡。
宝石のような輝きがいくつも瞬き、
ひとつひとつが呼吸をしているように見えた。
まるで空気までもが光を孕んで震えている。
冷たい石の床は、彼の魔法によって穏やかな水面へと変わり、
その水面に星たちが映り込む。
揺れる光が、牢の壁を淡く照らし、
まるで星そのものが地下へと降り注いでいるかのようだった。
どれほど美しいものを見ても涙を流すことなどなかったのに――
今、頬を伝う雫は止めどなく溢れていた。
胸の奥が熱くなり、何かがほどけていく。
こんなに美しい夜を知らなかった。
こんなにも、この世界が優しい瞬間を知らなかった。
そのとき、隣にいたレギュラスが静かに言った。
「……綺麗でしょう?」
その声に顔を向けた瞬間、視線が絡んだ。
銀灰の瞳が星の光を宿し、
どこまでも深く、穏やかで、
息をするたびに心がかき乱される。
何かを言おうとしても、言葉が出てこない。
喉の奥で声が震えただけで、
その代わりに、彼の指先が頬をなぞった。
温かかった。
頬に残る涙を拭うようにして、指が触れる。
そのわずかな接触だけで、全身が熱に包まれる。
痛いほどの鼓動が胸の奥を打った。
そして、次の瞬間――唇が重なった。
長く、蕩けるような口づけだった。
柔らかく、けれど確かに熱を持っていて、
息をするのも忘れるほどの時間が流れた。
初めて知る“熱”だった。
頬を掴まれるような乱暴さも、
力ずくで押し倒されるような恐怖も、そこにはなかった。
彼の動きは、あまりにも穏やかで、
それでいて全てを絡め取るような、緩やかな激しさがあった。
唇が触れるたびに、心が震える。
何かが流れ込んできて、
それがあまりに優しくて、涙がまた溢れた。
頭がくらくらとし、現実の輪郭がぼやけていく。
彼の手がそっと髪を撫で、
肩に触れ、抱き寄せる。
その動作ひとつひとつが、
かつて知っていた“男の手”とは全く違っていた。
奪うためではなく、守るための手。
触れるだけで、安らぎが宿るような手。
唇が離れても、まだ世界が揺れていた。
星の光が二人の影を包み、
その中でレギュラスの息がかすかに触れる。
呼吸の音だけが、牢の中でやさしく響いていた。
暗く、冷たく、長すぎる時間を過ごしたこの地下で――
今、初めて“光”を知った。
レギュラスが見せてくれる世界だけが、
確かに生きていることを実感させてくれた。
この人が映す世界だけが、
自分にとっての夜空であり、
希望そのものだった。
星が揺れ、水がきらめく。
世界がこんなにも美しいと思えたのは、
たぶん――彼が隣にいたからだ。
それからというもの、夜空の魔法は彼の日課となった。
レギュラスは、毎夜のように杖をひと振りし、
あの地下牢の天井に無数の星を浮かべた。
静寂の石壁が淡く光を受けて、
まるで地上から切り離された別の世界にいるかのようだった。
だが、その光景に見惚れることは、もうほとんどなくなっていた。
理由はひとつ――
星よりも美しいものが、今、自分の腕の中にあるからだった。
アランは彼の胸にもたれかかり、
その背中をレギュラスが包み込むようにして座っていた。
広げた脚の間に、彼女の小さな体がすっぽりと収まる。
互いの呼吸が、衣擦れとともに重なり合う。
まるで心臓の鼓動までもが、同じ拍で打っているかのようだった。
天井に星が瞬くたび、
光がアランの頬を照らし、影が首筋を滑っていく。
その光の移ろいを、レギュラスは飽くことなく見つめ続けた。
「……そろそろ飽きませんか?」
彼が囁くと、
アランは小さく首を振った。
柔らかい髪が彼の顎先をくすぐる。
その動作ひとつひとつが、たまらなく愛おしかった。
星空なんて、もうどうでもいい。
この腕の中に、確かな温もりがある――
その事実の方が、どんな奇跡よりも尊かった。
彼女の細い腕を、ゆっくりとなぞる。
肌はまだ少し冷たいけれど、その下に確かに血が通っている。
手首から指先へ、肩から鎖骨へ。
触れられる場所のすべてで、彼女の存在を確かめた。
アランは抵抗しない。
ただ静かに身を委ねている。
彼の胸の中で、ゆっくりと息をしている。
その呼吸の一つひとつが、レギュラスの生の証のように感じられた。
まるで自分の存在理由が、今やこの人の鼓動とともにあるような錯覚さえ覚えた。
彼女の髪に顔を寄せ、
鼻先で淡い香りを確かめる。
それは薬草と埃の混ざった匂いで、決して心地よいものではない。
けれど、レギュラスにとってはこの上なく安心する匂いだった。
「……あなたがここにいるだけで、充分です。」
思わず、心の声が漏れた。
アランは何も言わない。
けれど、その手がわずかに彼の腕を握り返した。
言葉にしない答えが、確かにそこにあった。
毎晩交わす口づけが、もう自然な習慣になっていた。
最初の頃のようなためらいも、緊張もない。
ただ静かに唇を重ね、
互いの呼吸をひとつに溶かす。
それ以上のことは、決してしなかった。
触れることも、求めることも、そこでは意味をなさなかった。
唇を重ねるだけで、心の奥が満たされていく。
昔の自分なら信じられなかっただろう。
社交界で見栄えのいい令嬢たちと踊り、
香水の香りを漂わせた唇に触れることが“快楽”だと信じていたあの頃の自分には。
それがどれほど空虚で浅いものだったかを、
今ようやく知った。
本当の深さとは、
言葉を交わさずとも伝わる温度に宿るのだと。
ただ抱きしめ、ただ息を重ねる――
その行為の中に、
人が人を想うという最も静かな真実があった。
アランの髪越しに、
天井の星が滲んで見えた。
それは彼女の涙なのか、自分のものなのか分からなかった。
レギュラスは、彼女の肩に唇を寄せ、
小さく、囁くように言った。
「……この星空は、あなたのためにある。」
その言葉に、アランの体がわずかに震えた。
そして静かに、彼の腕の中で目を閉じる。
星の光が二人を包み、
世界のすべてが穏やかな呼吸の音に変わっていく。
この瞬間が永遠でなくてもいい。
それでも、今だけは――
彼女の存在が、自分にとってのすべての光だった。
任務から戻ったレギュラスを迎えたのは、
あの静寂ではなく、重く乱れた呼吸の音だった。
「……アラン?」
声をかけながら地下牢の扉を開ける。
鉄の軋む音が響き、湿った空気が肌にまとわりつく。
薄暗い灯りの下、彼女は冷たい床の上に横たわっていた。
その体が微かに痙攣しているのが見えた瞬間、
心臓が掴まれるような感覚に襲われた。
「アラン、どうしました?……どうあるんです?」
駆け寄り、膝をつく。
返事はない。
彼女の瞼は閉じたまま、唇から荒い息が漏れている。
頬に手を当てた瞬間、異常な熱が伝わった。
――熱い。
反射的にレギュラスは立ち上がり、
廊下に出て医務魔女を呼びつけた。
扉の向こうで声を張り上げるのは、
デスイーターとなって以来、初めてのことだった。
医務魔女が駆けつける。
アランの体を診る間、
レギュラスは一歩も離れなかった。
本来なら――
女の体に医療の手が触れるとき、
男は視線を逸らすのが当然の配慮だ。
だが、その理性さえ飛んでいた。
心配と焦りで、目を離すことができなかった。
医務魔女が額に手を当て、喉元を軽く押す。
「喉の炎症です。酷く腫れています。
声を出しすぎたか、あるいは無理な呼吸を繰り返したか……。」
「声を出さない彼女が、喉を……?」
レギュラスの問いに、医務魔女は曖昧に首を振る。
「分かりません。
けれど、かなりの高熱です。
このまま放っておけば、命を落としたかもしれません。」
命を落とした――その言葉が、胸の奥で鈍く響いた。
レギュラスはしばらくその場に立ち尽くしていた。
医務魔女が去ったあと、
冷たい床に膝をつき、アランの髪を撫でる。
額から首筋へ、掌を滑らせる。
細い体は小刻みに震えていて、
まるでこの世にすがりつくように息をしていた。
「……僕が来なければ、誰も気づかなかったんですね。」
自嘲にも似た言葉が漏れる。
誰も彼女を看る者はいない。
訴える声もない。
痛みを知らせる手段すら奪われた彼女が、
ただひとり、この暗闇の底で苦しんでいたのだ。
それが――あまりに悲しかった。
レギュラスは床に腰を下ろし、
アランの体の傍らに寄り添った。
彼女の手を握り、そのまま目を閉じる。
気づけば、意識が途切れていた。
どれくらい眠ったのか分からない。
ふと目を覚ましたとき、
天井の灯りはすでに消えており、
石の壁は濃い闇に沈んでいた。
朝なのか夜なのかも分からない。
この地下には“時間”という概念が存在しない。
光の移ろいも、鳥の声も、風の音もない。
ただ息と鼓動だけが、時間の証明だった。
「……こんな世界で、彼女は生き続けてきたのか。」
その事実に、深い恐怖が込み上げた。
人間は、夜があるから朝を信じ、
朝があるから希望を保てる。
だが、この場所には“夜明け”がない。
永遠の闇に閉じ込められた彼女が、
どうしてまだ心を保てているのか――理解できなかった。
レギュラスは手を伸ばし、アランの額の汗を拭う。
その指先に触れた熱が、
まるで自分の罪を突きつけているように感じた。
「……無謀だ。」
そう呟いた。
だが、その言葉を押し消すように、胸の中で別の声が響く。
――それでも、出したい。
この牢の外へ。
光のある場所へ。
彼女が星空を見上げて微笑んだ夜を、
あの瞬間を、永遠に閉じ込めたくはなかった。
闇の帝王の命に逆らうことは死を意味する。
そんなことは分かっている。
それでも、もう一度だけ、
彼女に“朝”を見せたいと、心の奥底から思った。
レギュラスは静かにアランの手を握った。
細い指が、かすかに動く。
そのわずかな反応が、
胸の奥に確かな光をともした。
彼はその光を、決して手放すまいと誓った。
たとえ、この身を滅ぼすことになっても。
扉が静かに閉まる音がした。
その音を背に、レギュラス・ブラックの黒いマントが廊下の奥へと消えていく。
バーテミウス・クラウチ・ジュニアはしばらくその背中を見つめたまま、
やがて口の端をゆっくりと吊り上げた。
「……はは、まさかね。」
思わず笑みがこぼれた。
あの冷静で、理性的で、闇の帝王に忠実な男――
一分の隙も見せない鋼のようなレギュラス・ブラックが、
“たかが女”一人のために大それたことを企てようとしているなんて。
馬鹿げている。
だが、それ以上に――面白い。
バーテミウスは椅子の背にもたれ、指先で顎を撫でた。
薄暗い部屋の中に、蝋燭の炎がゆらゆらと揺れ、
その光が彼の瞳に妖しく反射する。
「アラン・セシール、ね。」
初めて彼女を見た日のことを思い出す。
あの地下牢で――血と鉄の匂いに満ちた場所で、
想像していた囚人とはまるで違う女がそこにいた。
痩せ細り、青ざめてはいたが、
それでも顔立ちは美しく、何よりも“気品”が残っていた。
けれど、そんな女など貴族の世界にはいくらでもいる。
少し舞踏会に顔を出せば、
同じような顔立ちの令嬢が山ほどいるではないか。
髪の色が違おうと、瞳の色が異なろうと、
結局、飾り立てた美しさなど似たり寄ったりだ。
――それなのに、だ。
あのレギュラスが、そんな女に心を奪われる?
笑わずにはいられなかった。
「美しい女なんて、いくらでも抱いてきたでしょうに。」
口の中でそう呟く。
レギュラス・ブラック――
女の方から寄ってくる男だった。
血筋も、家柄も、顔も、全てが完璧に揃っている。
舞踏会では常に注目の的で、
口を開けば貴族の娘たちは頬を染め、
軽く微笑むだけで、彼女らはこぞって近づいてきた。
選び放題の中で、彼はいつも理性的に距離を取っていた。
感情で動くような男ではない。
――だったはずだ。
「そんな君が、あの女に?」
小さく笑いながらバーテミウスは指先で机を叩く。
こつ、こつ、と硬質な音が部屋に響く。
そのリズムに合わせるように、思考の歯車が回っていく。
何年も地下に幽閉され、
人としての尊厳すら奪われた女に、
あの完璧主義者が心を奪われるなんて。
哀れでもあり、滑稽でもあり――だが、
妙に惹かれるものがあった。
「……本気で出そうとしているんですね。」
声に出してみると、ぞくりとした。
それはただの興味ではなく、
“何かが始まりそうな”予感のようなものだった。
レギュラスは、闇の帝王の寵愛を受けるほどの忠誠者だ。
冷酷な判断を下す頭脳もあり、感情を抑える術も心得ている。
そんな男が、今、理性を捨てようとしている。
――あの女のために。
滑稽だ。
だが、その滑稽さが、バーテミウスにはたまらなく愉快だった。
「さあ、どこまでやれるです、レギュラス・ブラック。」
椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。
蝋燭の炎が、彼の歩みに合わせて揺らめく。
笑みを浮かべたまま、バーテミウスは天井を仰いだ。
「たかが女一人のために、君はどこまで堕ちるつまりなんです?」
その声は、闇の中で静かに響いた。
まるで愉快な劇の幕が上がるのを待ち望む観客のように。
彼の瞳には、
レギュラスの決意も、苦悩も、すべて“見世物”のように映っていた。
――だが同時に、ほんの僅かに。
ほんの、ほんの僅かに。
その中に芽生えた“好奇心”は、
後に彼自身の運命をも揺るがす種になることを、
この時のバーテミウスはまだ知らなかった。
地下牢の空気は、いつになく穏やかだった。
いつもなら湿気を帯びた冷気が肌を刺すようにまとわりつくのに、
この日はなぜか少しだけ柔らかく感じられた。
レギュラスはゆっくりと扉を開け、
その先に見えた光景に、思わず胸の奥が熱くなった。
アランが――上体を起こしていた。
その事実だけで、世界が少しだけ光を取り戻したような気がした。
痩せた体がわずかに震えながらも背を支えて座っている。
あの無表情で、どこか魂の抜けた人形のようだった彼女に、
“生きている”という輪郭が戻りつつある。
「……アラン。」
名前を呼ぶと、彼女の瞼がゆっくりと持ち上がった。
翡翠のような瞳が、ぼんやりとこちらを見つめる。
その小さな動作にすら、
どれほどの努力が費やされているのかを思うと、胸が締めつけられる。
レギュラスは傍らに膝をつき、
穏やかに微笑んだ。
「心配しました……本当に。」
言葉が、静かに零れた。
思っていたよりも、ずっと掠れた声だった。
自分でも驚くほど、そこには安堵と優しさが滲んでいた。
そっとアランの前に器を差し出す。
中には、彼女がゆっくりと飲み干した魔法薬の残りがある。
そして皿には、ほんの少しの食事。
――けれど、その“少し”が、どれほど大きな意味を持つことか。
彼女が自ら手を伸ばし、
口に運ぶ姿を見られる日がまた来るなんて、
ほんの一週間前には想像もできなかった。
「……えらいですね。」
その言葉は、まるで子どもを褒めるような優しさで零れた。
けれどそれ以上の意味があった。
自分でも気づかないうちに、
その一言に全ての祈りを込めていた。
アランは、わずかに目を伏せ、
静かに息を吐いた。
頬の色が、ほんの少しだけ戻っている。
細い首筋にかかる髪が、光を帯びて揺れた。
レギュラスはその姿に、胸がいっぱいになるのを感じた。
安堵と共に、込み上げる感情が喉を締めつける。
どうしてこんなにも、彼女一人の呼吸の音に心が動かされるのか。
彼はそっと手を伸ばした。
骨ばった肩を、抱き寄せる。
アランの体はあまりにも軽く、
壊れ物のようで――抱いた瞬間、胸の奥が痛んだ。
「もう大丈夫です。」
そう囁くように言いながら、
彼女の背を撫でる。
温もりが掌を通じて伝わってくる。
そのぬくもりが、生の証だと思えた。
けれど。
――じゃらり、と。
鎖の音が響いた。
その冷たく無機質な響きが、
この温もりのすぐ隣にある現実を突きつけてくる。
まるで「希望など持つな」と嘲るように。
レギュラスは目を閉じ、
腕の中の彼女を抱きしめたまま、微かに息を吐いた。
ああ、どうしてこんなにも悲しい音なのだろう。
たった一つ、彼女を繋ぎ止めているはずの鎖が――
今や、彼女を“この世”と“自分”から遠ざける枷にしか見えない。
彼はゆっくりと囁いた。
「アラン……あなたがこうして生きていること、それだけで十分です。」
アランは何も言わない。
けれど、わずかに瞼が揺れた。
それだけで、また胸が熱くなった。
この狭く暗い地下牢の中で、
光などどこにもないはずなのに。
彼女が息をしているだけで、世界が静かに灯っていく。
――じゃら、じゃら、と。
鎖がまた鳴った。
その音が、祈りのようにも、涙のようにも聞こえた。
レギュラスはただ黙って、
その音の中で彼女を抱きしめ続けた。
