2章
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メイラはアランの隣に座り、少し緊張した面持ちで医務魔法使いの言葉に耳を澄ませていた。
寝室を改装した診察室には、薬草の香りがほのかに漂っている。窓から差し込む光がアランの白い頬に触れ、まだ完全には戻りきらない体力を静かに照らしていた。
医務魔法使いは分厚い診察書を開きながら、いつもの落ち着いた声で話し始めた。
「痛み止めの使用量はだいぶ減りましたね。けれど骨盤の内側にまだ微細な損傷が残っています。無理な姿くらましの影響が大きかったようです。
歩行はゆっくりであれば問題ありませんが、階段は誰かの支えが必要です。内臓もまだ負担をかけないようにしてください。」
アランは静かにうなずき、淡々と説明を受け止めているように見えた。
だがメイラの目には、医務魔法使いのひとつひとつの言葉がナイフのようにアランの胸に刺さっているように映った。
そしてアランは杖を取り、ためらいもせず問いを綴る。
――妊娠は、もう可能ですか?
メイラははっと顔を上げた。
胸がきゅっと縮む。
自分には詳しい事情はわからない。
けれど、さすがに今は早すぎる。子どもでもそう思った。
つい最近までアランは歩くことすら辛そうで、夜中に痛みに震える背をメイラは何度もさすった。
ようやく痛み止めの量が減って、ようやく階段を半分ほど上がれるようになったばかりなのだ。
医務魔法使いは眉をひそめ、深いため息を落とす。
「……今は、時期尚早です。まだ体が持ちません。」
アランの瞳がはらりと陰った。
その影が、メイラの胸を痛めた。
自分の力では、アランの悲しみを拭い取ってあげられない。その事実が、悔しくてたまらなかった。
医務魔法使いは静かに続ける。
「今は、必ず避妊をなさってください。魔力的にも肉体的にも、回復の途中なのです。」
アランはすぐに杖を振った。
――しなかった場合は、どうなりますか?
医務魔法使いは言葉を選ぶ時間さえ惜しむように、真っ直ぐな目で告げた。
「……万が一ご懐妊された場合、今回は奥様の体が耐えられません。」
メイラの胃がぎゅっと縮まった。
耳の奥が熱くなり、視界が少し揺らぐ。
アランが死ぬかもしれない――
そういう意味なのだと、子どもの自分でも理解できるほどに、医務魔法使いの声は深刻だった。
避妊。懐妊。
今のメイラにはよくわからない言葉が飛び交う。
けれどその中でひとつだけ、はっきりと胸に突き刺さった言葉があった。
――体が持ち堪えられない。
アランを失うなんて嫌だった。
この屋敷で、自分が生きていくための光そのものがアランだった。
父も家も失った自分に、この世界で唯一手を伸ばしてくれた人だ。
そのアランがもし――また命の危険に晒されるようなことがあれば。
メイラは、恐怖で膝が震えそうだった。
アランは小さくうつむき、ゆっくりと杖で言葉を綴った。
――わかりました。気をつけます。
それは従順な返事ではあっても、納得の返事ではなかった。
胸の奥の深い場所に、どうにも消えない焦りと悲しみが潜んでいるのを、メイラは確かに感じ取った。
その哀しげな横顔を見て、メイラはそっとアランの手に触れた。
温かいその手が、どうかこの先もずっと自分のそばにありますように――
そう願わずにはいられなかった。
レギュラスは昼間の食事を調達するためという名目で、足繁く同じ店へ通うようになっていた。
手軽に食べられるサンドイッチがあるから、というのは表向きの理由だ。
だが本当は、セラ・レヴィントンが「いつでも来て」と軽やかに笑ってくれた、その一言に背中を押されていた。
その日も、店に入るとすぐに彼女の声が届く。
「はい、どうぞ。いつものね」
明るい昼の光の中、白い指先が紙袋を差し出す。
レギュラスが受け取ろうとすると、セラはふわりとスカートを揺らしてレギュラスの向かいの席に腰を下ろした。
「いいんです? 仕事中でしょう」
「私にも休み時間くらいあるわよ」
軽やかに笑う彼女の声は、昼の空気とよく馴染んでいた。
セラと話す時間は、不思議なほど心が楽だった。
飾らず、気を張らず、ただ言葉を交わせばいいだけの相手。
こんなにも自然体でいられるのは、アラン以外では初めてだった。
「昼も夜も働いてるんです?」とレギュラスが尋ねる。
「ええ。昼はここ。夜はあなたたちが”たらふく飲んでた”酒屋で週3働いてるの」
“たらふく飲んでた”。
その言い方にレギュラスは思わず噴き出し、セラもつられるように笑う。
「あなたたち、相当飲んだわよね」
「ええ。学生の頃からああでしたからね」
「それで領収書切ってくんだもの。どんな接待費なのよって思ったわ」
「……痛いところを突きますね」
またふたりして笑う。
昼食をとるための短い時間。
けれどレギュラスは、ここまで心から笑った昼など記憶にないことに気づいた。
「子どもがいるのよ、私。男の子」
紙コップの珈琲を指先で転がしながら、セラはさらりと言った。
「1人で育ててるから、働かないとね」
「男の子……ですか」
レギュラスの胸に、わずかに複雑な感情が走る。
男児。
その言葉の響き一つで、羨望と焦りと複雑な影が胸をかすめた。
「あなたのところは姫君でしょ?」
「よく知ってますね」
「あなた、有名人だもの」
また自然と笑いがこぼれる。
レギュラスはサンドイッチを手にしながら、ふと本音がもれる。
「……何としても男児が必要でしてね。でも、妻を焦らせるのは嫌なんです」
普段は誰にも見せない弱さ。
誰にも漏らしたことのない胸の内だった。
それを聞いたセラは、驚くほど静かに、そして優しいまなざしで言う。
「それはあなたひとりの問題じゃないもの。無理させちゃだめよ」
ただそれだけの言葉が、妙に胸に深く染みた。
この女の前では、どういうわけか張り詰めたものが緩む。
踏み込みすぎず、離れすぎず、絶妙な距離で寄り添うように言葉を返してくる。
気楽だった。
危険なほどに。
昼の光に照らされたテーブル。
手の中の紙袋の温度。
からかうように笑うセラの目。
すべてが、日常のわずかな揺らぎを与えてくる。
その揺らぎを自覚しながらも、レギュラスは目をそらせなかった。
その夜、シリウスは決意を固めてブラック家の屋敷へ向かった。
一度はジェームズに引き止められ、無理矢理腕を掴まれてまで止められた日があった。しかし今日は、その手は伸びてこなかった。
親友は、もう止めても無駄だと悟ったのだろうし――何より、シリウスの中の痛みが限界であることを理解したのかもしれない。
屋敷の影に身を潜め、いつもと同じように寝室の窓を軽く叩く。
カラン、と鈴のような音がしてカーテンが揺れた。
そして――
顔を出したのは、シリウスが全く知らない少女だった。
大きな黒い瞳。
まだあどけなさの残る、十二、三歳ほどのマグルの少女。
驚きがそのまま形になったようにシリウスを見つめていた。
「……誰だ?」
思わず低く問いかける。
少女もまた怯えたように口を開いた――かと思えば、後ろから柔らかい気配が近づいてきた。
アランだった。
腕にはステラを抱いている。
夜灯の薄明かりに照らされるアランの横顔は、以前よりも少し痩せて見えたが、それでも静かな美しさと強さを宿していた。
アランは杖を振り、言葉を紡ぐ。
「シリウス、こんにちは」
その一言に、シリウスの胸の奥の痛みが少しだけ和らぐ。
アランの合図を受け、マグルの少女が小さく頭を下げた。
アランは杖でそっと説明を書く。
「メイラ・ウォルブリッジよ。私の世話をしてくれているマグルの少女なの」
その名を聞いた瞬間、シリウスの眉が跳ね上がる。
「お前が……最近噂になってる“ブラック家のマグル使用人”ってわけか」
少女はきちんと背筋を伸ばし、深々と礼をした。
「よろしくお願いします」
「ガキはそんなことしなくていいんだよ、走り回って遊んでろ」
少し照れくさいように笑いながら、シリウスは少女の頭を軽くくしゃりと撫でた。
少女は驚いたように瞬きをして、しかしすぐに柔らかく笑った。
アランに向き直ると、シリウスはそっとその肩に手を置いた。
「アラン……体は平気なのか?」
アランはステラを抱きしめながら杖を振る。
「だいぶ回復して、出来ることが増えてきました」
「そうか……本当によかった……」
気づけば、シリウスは衝動のままアランを抱きしめていた。
胸の奥に長く積もり続けていた不安が、涙にもならずに噴き出したようだった。
隣で見ていたメイラが、驚いたように息を呑む。
「……悪い。つい……」
思わず謝ると、アランはふわりと微笑む。
声を失ってもなお、あの柔らかな微笑みだけで万の言葉を超えてくる。
抱きしめられていたステラが、小さな足をバタつかせてシリウスを見た。
その瞳はアランと同じ翡翠色に輝いている。
「もう歩けるのか?」
シリウスが驚くと、メイラが嬉しそうに答えた。
「はい。たくさんお話もしてくれますよ」
「お前も……世話してやってんのか?」
「はい。アランさんのことはもちろん、ステラ様も時々。とても可愛い子です」
メイラは誇らしげに胸を張りながら言った。
その言葉にシリウスはゆっくりとうなずき、少女の頭をまた優しく撫でた。
「そうか……。アランの優しさと、お前の優しさが……ステラを優しい子に導いてくれるんだろうな」
その声には、どこか祈るような響きがあった。
――ブラック家がマグルを使用人として囲っている。
そう聞いたとき、シリウスは激しい嫌悪と怒りしかなかった。
純血主義の象徴のような家が、マグルを“使う”ということの残酷さを思って。
けれど今、目の前には――
優しさに満ちたアラン。
そのアランに慈しまれているメイラ。
その中心で笑うステラ。
思い描いていた冷酷な光景とはまるで違う。
シリウスの胸に温かいものが灯った。
アランは、ちゃんとこの家で愛されている。
この少女も、搾取されているわけではない。
ここには、小さなながらも確かな“家族の形”があった。
シリウスはそっと目を閉じ、微笑んだ。
「……よかった。本当に……よかったよ、アラン」
声は震えていた。
胸の奥で長いこと固まっていた痛みが溶けていくようだった。
初めて――シリウス・ブラックという男を見た。
名を聞いた瞬間、胸の奥が微かにざわめいた。
あのレギュラス・ブラックの兄だという。それなら、どこか似通った雰囲気があると感じた自分の直感は間違っていなかったのだと分かった。
けれど、似ているのは容姿の輪郭や瞳の色だけではなかった。
アランを見つめる眼差しに宿る温度――それが、何よりも印象に焼きついた。
彼は一目で分かるほど、アランをとても大切にしていた。
あたたかく、まっすぐで、少し切なげで。
レギュラスがアランを見る時の深い愛情とはまた違う、もっと人間らしい、包み込むような優しさだった。
そして自分に向けてくれた言葉。
「優しい子だな」
その一言に、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
認められたいだとか、褒めてほしいだとか、そんな欲は持っていなかったが――
自分がアランのために日々してきた小さな行いが、確かに“誰かの目に映っていた”のだと思えると、不思議と誇らしく胸を張れる気がした。
けれど、その直後見た光景に、思わず目を見開いてしまった。
アランを抱きしめるシリウス。
その抱擁は、家族や友人同士のものとはどこか違っていて――
男女の奥深い感情を含んだような、ひどく寂しさと想いが混ざり合った抱きしめ方だった。
普段屋敷の中でレギュラスがアランを抱き寄せる光景とは、まるで別の“色”を帯びていた。
理解できないけれど、気づかずにはいられない違和感と熱がそこにはあった。
そして何より衝撃だったのは――
アランが、こんなにも嬉しそうに、こんなにも饒舌に杖を構える姿を初めて見たことだ。
普段、アランは必要以上に多く語らない。
食事の時も、散歩の時も、ステラをあやす時も。
静かで、慎ましく、話すべきことだけを杖に託すような人だった。
だがシリウスを前にしたアランは違った。
ステラのことを、最近の出来事を、体調のことを、メイラのことを――
止められないほどに、次々と杖を振り続けた。
その表情はまるで、言葉を持たない代わりに心の全部を差し出すような、嬉しさと懐かしさに満ちていて。
レギュラスと向かい合っている時の静かで慎ましいアランとはまるで別人のように、生き生きとしていた。
―― アランの中には、レギュラスとは違う“光”が、確かにシリウスに向けられている。
そう理解した瞬間、胸に苦いような切なさが走った。
シリウスはふいにこちらを振り返り、子ども扱いするでもなく、対等に、まっすぐに頭をくしゃりと撫でてくれた。
その掌から伝わるぬくもりは、レギュラスのそれとはまったく違っていて――
眩しい光のように強く、一度会っただけなのに心を惹きつけて離さなかった。
強い光を持つ人。
ただそこに立つだけで周囲の空気を変えてしまうほどの圧倒的な存在感を持つ男。
レギュラスとは違う。
アランとも違う。
誰とも違う、強烈な光。
その光に、抗えないほど惹かれてしまった自分に気づいて――
胸の鼓動が静かに早まっていくのを感じていた。
久しぶりにシリウスに会うと、胸の奥に張りついていた重い膜がふっと剥がれ落ちていくようだった。
息がしやすくなる――そんな感覚が久しぶりにアランを包んだ。
どうしてなのだろう。
この人と会うと、いつも世界が広くなる。
冷たい風に閉ざされていた心が、春の陽だまりにほぐされていくように解けていく。
ステラのことを自分の子のように喜んでくれる人間なんて、他にいない。
アランの体を気遣ってくれる言葉の一つひとつが、胸にしみるほど優しかった。
レギュラスに向けられたものとは違う温度。
夫としての責務ではなく、兄のように寄り添おうとする無償の優しさ。
――兄。
シリウスが微笑むたび、亡き兄の面影がよぎった。
心配性で、何度もアランの後ろ襟をつかんでは「危ないから」と道を変えさせた。
あの兄が生きていたら、きっとシリウスみたいに、アランの体を気遣い、ステラを抱きながら笑ってくれたに違いない。
そんな懐かしさが胸を締め付けた。
メイラには、シリウスの来訪を決して人には言わないよう頼んだ。
賢い子だ。
たぶん、自分とシリウスの間に流れる何か――言葉にならない温度、安らぎ、そして名付けようのない強い絆を感じ取ったのだろう。
けれど、その気配は絶対にレギュラスに知られたくなかった。
争いを生むから。
失いたくないものが増えれば増えるほど、恐怖は濃くなる。
夜、レギュラスが屋敷に戻ってきた。
寝室の空気が一変する。
アランは隣にいたステラをそっと乳母に渡し、不自然にならないよう穏やかな顔を作った。
――窓は閉めたはずだった。
シリウスを帰したあと、確かに閉め、鍵には触れなかった。
普段レギュラスは窓に近づくことなどない。
なのに、その日だけは足が向かった。
まるで何かの気配を感じ取るかのように。
手が震えた。
胸がどくん、と内側から跳ねた。
逃げ場のない恐怖が喉までせり上がってくる。
レギュラスの手が窓枠をなぞり、そっと鍵に触れた。
「窓を開けたんです?」
レギュラスの声は穏やかだった。
疑っている気配も探っている気配もない、いつもの調子だった。
アランはゆっくり杖を振る。
「ええ、少し外の風を入れたくて」
レギュラスは微笑んだ。
「そうですか。あんまり風に当たりすぎないでくださいね」
その柔らかい声が、逆に怖かった。
何一つ察された気配はないのに――
まるで、すべてを見透かされている気がした。
彼の瞳の奥を探ろうとした瞬間、心臓が悲鳴のように震えた。
もし、ほんの少しでも怪しまれれば、何が起こるかわからなかった。
あの優しい手が、どこまで冷酷になれるのかを知ってしまった今のアランには、疑念を向けられることそのものが恐怖だった。
ただの風の話。
ただの窓の話。
なのに――胸は石のように重く、呼吸は細くなる。
アランは微笑みながら頷き、レギュラスの胸に身を寄せた。
彼の腕が静かに背を包む。
その優しさが、また痛かった。
ベッドに横になると、アランはためらいのない動きでレギュラスの胸に手を置き、そのまま彼の身体にゆっくりと重心を預けてきた。
淡い微笑みが、暗がりの中で溶けるように咲く。
レギュラスはその背に自然と腕を回し、抱き寄せた。優しく、しかし強く。触れた瞬間、胸の奥が疼くほど愛おしかった。
アランの指先が、レギュラスのシャツのボタンにそっと触れる。
その仕草は静かで、ゆっくりで、けれどあまりにも誘惑的だった。
夜気を震わせるほど妖しく、狂気じみたほど美しい。
――駄目だ。
心の奥で警鐘が鳴る。
本当は、このまま全てを委ねてしまいたかった。
アランに触れられること、それ自体が甘い呪いだった。
けれどレギュラスは、震える指先をアランの手からそっとほどき、止めさせた。
「アラン……回復していないでしょう」
低く、掠れた声だった。
諭すというより、懇願に近かった。
アランは首を横に振る。
そんなことはないと言うように。
歩ける距離も増え、階段も一人で上り下りができるようになった。
ステラを抱いていられる時間も多くなった。
確かに、それは回復の証だった。
だが――医務魔法使いははっきり告げた。
「まだ避妊は必須です。奥様の体は、妊娠に耐えられません」
危険なのだ。まだ早い。
アランの身体は、完全には戻っていない。
だから止めなければならない。
愛しているからこそ。
守らなければならないからこそ。
「アラン……もう少しだけ、我慢しましょう」
しかし、アランは止まらなかった。
薄いナイトドレスの背のファスナーに手を滑らせ、器用に、静かにそれを下ろしていく。
布が肌から離れるたび、白い肌が月明かりに照らされ、薄い光を纏う。
その光景にレギュラスの理性は軋み、胸の奥で何かがひび割れる音がした。
やめなければ。
守らなければ。
わかっているのに、アランの指先ひとつで全てが揺らぐ。
アランの肩に触れた布がふわりとはらりと落ちる。
目を焼くほど白く、儚く、よく知っているのに毎回新しい絶景のようで――
レギュラスの呼吸が、ひとつ深く、熱く揺れた。
躊躇は、もう保てなかった。
ぷつり、と心のどこかで何かが切れたように、レギュラスはアランを抱き寄せ、深くキスをした。
温度を確かめるように。
痛みがないか必死に探るように。
それでももう抗えないほど激しく、熱く。
唇が離れた瞬間、アランの翡翠色の瞳がとろりと揺れていた。
光と影が溶け合い、濡れたようにきらめくその瞳。
薄く開かれた唇の奥、柔らかな舌が小さく覗き、まるで挑発するように震える。
――駄目なのに。
こんな顔をするから、止められなくなる。
守りたい。
でも求めたい。
その相反する願いが胸の奥で激しく衝突し、レギュラスは苦しむように目を閉じた。
アランが身を預けてくる全てが、彼を引きずり込む。
愛するほどに、恐ろしくなる。
守れなかった過去が、傷のように疼く。
この身体に触れたい。
しかし、この身体を壊したくない。
欲と恐怖が、ひどく痛いほど絡み合っていく。
セラとの行為とは、まるで違った。
あの夜のセラは、ただ欲と欲がぶつかり合うだけの、軽やかで、何の責任も痛みも伴わない関係だった。
痛むかどうかを気にする必要もなく、ただ身体の衝動に従えば良かった。
声ひとつで感情が伝わり、こちらが何かを考える必要などどこにもなかった。
だが――今、腕の中にいるアランとの交わりは、根底から全てが異なっていた。
触れるたびに心が震えた。
欲よりも先に、労わりと恐れと慈しみが胸を満たす。
この身体を壊してしまわないか。
痛みが生まれていないか。
苦しくなってはいないか。
このまま続けても大丈夫なのか。
レギュラスは、まるで祈るように、何度も何度もアランを確かめた。
翡翠の瞳を覗き込み、そこに影が浮かばないかを探し続けた。
アランの唇が触れれば、ふわりと熱を含んだ吐息がこぼれる。
その温度がレギュラスの理性をひどく揺らした。
胸の鼓動はアランのものか自分のものか分からないほどに重なり、
肌と肌が触れ合うたび、しっとりと汗ばむ感触が混ざり合い、
アランの呼吸は次第に早くなり、
背に回された腕はしがみつくように強くなる。
――自分だけを求めてくれている。
その確かな実感が、身体よりも先に胸の奥を満たしていく。
肉体としての満足は、セラと比べれば物足りなさがあるのかもしれない。
激しさを追い求めるものではなく、慎重と気遣いに満ちた交わりだ。
だが心の奥が満たされていくのは、比べるまでもなくアランとの方が圧倒的だった。
セラとの行為には、何ひとつ“心を差し出す”必要がなかった。
ただ快楽を交換し、互いが気楽で、何も背負わずに済む夜だった。
けれど―― アランは違う。
彼女を抱くという行為には、最初からすべての感情が伴う。
愛しさ、恐れ、責任、守りたいという祈りにも似た願い。
そして、自分が彼女を満たしているという圧倒的な歓喜。
アランの世界が、自分で満ちていく。
その幸福感は、他の誰でも得ることはできなかった。
医務魔法使いの忠告など、今この瞬間にはもう跡形もない。
頭の片隅にあった理性や恐れは、アランの吐息一つで溶けてしまった。
理屈よりも、怖れよりも、アランへの愛が先に燃え上がる。
ただ、愛する人の最奥へと、心ごと触れたい。
その一心で、レギュラスは深く深く求めていく。
この身体が自分を受け入れてくれる奇跡に震えながら。
自分の名を呼ぶ声を持たない彼女が、全身で自分を求めてくれる幸福に満たされながら。
アランの瞳の奥に、自分だけが映っている。
その事実こそが、セラとの夜とは比べものにならないほどの歓喜だった。
――心が、満たされていく。
レギュラスは、自分がいかにこの人を愛しているか、
そのすべてを噛みしめるように、優しく、深く、アランを抱きしめた。
鈍い痛みが、じわりと内臓全体に広がった。
動かれるたび、身体の奥がひきつる。軋む。きしむ。
もし声を持っていたなら、きっと耐えきれず呻き声を洩らしてしまっていただろう。
それほどに、身体は「やめて」と叫んでいた。
けれど―― アランはその警告を、ただ無視した。
いや、無視するしかなかった。
痛みよりも、苦しさよりも、
胸の中で暴れ続けている“恐れ”のほうがずっと鋭く、深く、彼女を追い詰めていたからだ。
捨てないでほしい。
他の女を見ないでほしい。
自分から目を逸らさないでほしい。
レギュラスの影が揺らいでしまう恐怖は、
身体の痛みに比べれば、比べ物にならないほど残酷だった。
彼の隣を失ってしまったら――
自分はどう生きればいいのだろう。
生きる術も、光の射す方向も、人の優しさも。
この世界で何をどう掴んでいけばいいのかすら、
アランはレギュラスに教わったのだ。
自分の「世界」は、レギュラスによって一から築かれた。
だからこそ、壊すのならば――彼の手で壊してほしい。
他の誰かではなく。彼でなければ意味がない。
伝えようのない願いを抱えたまま、必死にしがみついた。
声が出ないことが、この時ばかりは“救い”だった。
少しでも痛みを声にしてしまえば、レギュラスはきっと気づいてしまう。
そして、きっと行為を中断してしまう。
それだけは嫌だった。
もしここで中断されてしまったら――
彼は満たされない渇きを、あの女のもとで埋めようとするかもしれない。
セラ・レヴィントン。
笑って、軽やかに触れて、欲のままにレギュラスを受け入れた女。
その未来を想像するだけで、
胸の内側が凍りつき、呼吸が乱れそうになった。
ならば痛みなど、大したことではない。
苦しみも、悲鳴も、我慢できる。
レギュラスの腕の中にいられるのなら、それでいい。
この人の視界に確かに自分が映っているという現実さえあれば、
他のすべてはどうとでも耐えられる。
泣きそうだった。
幸福と切なさが同じ場所で混ざり合って、胸の奥で渦を巻いていた。
――セラにも、こんなふうに触れたのだろうか。
優しく、深く、熱い口づけを何度も繰り返したのだろうか。
あの女はどんな声でレギュラスを求め、どんな瞳で受け入れたのだろう。
知る由もない。
知るべきでもない。
けれど、想像してしまう。
想像すればするほど、胸の奥に濃い影が落ちていく。
視界が熱で滲んでいく。
涙が頬に伝った瞬間、自分の感情がもう限界なのだと悟った。
その涙は、痛みのせいではなかった。
悲しみでも、絶望でも、嫉妬でもない。
そのすべてが絡まりすぎて、もはや区別がつかない。
ただ――
ただ、愛していた。
それがこの混乱の中で唯一はっきりしている真実だった。
痛みよりも、嫉妬よりも、恐れよりも、
その一言のほうがずっと重く、深く、熱かった。
だからアランは、震える指でレギュラスの背を抱き寄せる。
逃がさない、離れない。
この腕の中にいてほしいという願いを、声の代わりに全身で必死に伝える。
彼女の世界はレギュラスでできている。
その中心が揺らぐのが、何より怖かった。
レギュラスは、よりわずかに早く目を覚ました。
薄い朝の光がカーテン越しに差し込み、寝室を淡く青く照らしている。
その静けさの中で、昨夜ふたりの間に生まれた余韻はまだベッドに残っていた。
けれど、すぐにメイラが来る。
あのマグルの少女にこの生々しい名残を見せることは、どうしても耐えがたい。
だからこそ、無意識のうちに目を開けていたのだ。
まず自分が身支度を整える。
脱ぎ捨てていたシャツを羽織り、乱れたローブをきちんと肩に通す。
それから、のドレスを取り上げる。
昨夜、自分の手で外したファスナーを、今度は丁寧に閉めていく。
薄い布越しに触れる背中があまりにも細く、あたたかく、
たまらないほど愛おしい。
その手つきに気配を感じたのか、が瞬きをして目を覚ました。
寝起きの翡翠の瞳はとろりとしていて、
昨夜の余韻と幸福がまだそのまま瞳に宿っていた。
「どうです? 体は」
レギュラスは声を抑えて問う。
アランは少し眠たげに目を細め、ゆっくりと首を振った。
その仕草ひとつが、胸に刺さるほど愛しかった。
――こんなにも、自分を必要としてくれるのだ。
その実感が溢れ、抱きしめたい衝動に手が震えそうになる。
「朝食に行きましょうか」
アランは静かに頷く。
レギュラスはアランの手を握り、寝室を出る。
階段へ向かおうとしたそのとき、アランがふと手を離した。
杖を忘れた、と合図で示して寝室へ戻っていく。
レギュラスはそのまま先に食卓へ向かい、席に着いた。
メイラがいつものようにアランを連れてくるだろう――
そう思い、ほんの数秒だけ目を閉じた。
その直後だった。
――ドンッ。
鈍い音が屋敷の静寂を切り裂く。
階段の方角。
それに重なるように、少女の悲鳴が響いた。
「アランさん!!」
瞬間、レギュラスの心臓は大きく跳ねた。
椅子が倒れるほどの勢いで立ち上がり、そのまま駆けだす。
階段の下で、アランが倒れていた。
どこから落ちたのか分からない。
ただ、身体ごと折れるようにして、動かず横たわっている。
血の気が一気に引いた。
世界の色が音もなく消えていく。
メイラが震えた声で泣きながら駆け寄ってくる。
「ご、ごめんなさい……支えきれなくて……! アランさんが……! 私……!」
「医務魔法使いを寝室に呼んできなさい」
低く、しかし震えが滲む声。
メイラは泣きながら駆けていった。
レギュラスはアランの体をそっと抱き起こす。
触れた指先が驚くほど冷たい。
アランの唇に、小さな裂け目が。
白い頬にも細い傷がつき、鼻筋も赤く腫れていた。
――あんなにも美しい顔に。
胸の奥で何かが砕ける音がした。
昨夜あれほど大切に、愛おしく触れたその顔が、今は無惨な傷に覆われている。
自分が求めたから、抱いたから。
その余韻のままに無理をさせてしまったのかもしれない。
心から満たされた翌朝に、この転落。
これは自分の罪だ――
誰のせいでもない。
レギュラスはそう悟った。
腕の中でアランの顔がゆっくりと揺れる。
その軽さがまた胸を締め付けた。
守るべきものを、守れなかった。
「…… アラン」
震える声が喉の奥で潰れる。
彼女の頬についた小さな傷は、
どれも、レギュラスの心に深く食い込むようだった。
アランは、意識が水面に浮かぶようにして目を覚ました。
視界がゆっくりと焦点を結び、天蓋の向こうにレギュラスの顔があった。
驚くほど近く、驚くほど蒼白で、驚くほど必死だった。
「アラン……心配しました」
彼の声は掠れていて、胸の奥の震えを隠していなかった。
アランはゆっくりと腕を動かし、枕元に置かれていた杖を探る。
震える指先で文字を書く。
ごめんなさい。足を踏み外してしまいました。
レギュラスの眉が痛むように寄った。
「あなたのせいではありません。踏み外すほど無理をさせたのは、僕の方です」
その言葉に胸がつまった。
違う、そうじゃない――
本当は昨夜、レギュラスが自分を抱いたことと、この朝の転落には何の因果もないはずだ。
だが、その責任を引き受けようとする彼の声音は、どれも優しすぎて、胸がちくりと痛む。
そしてアランは思い至る。
――今日、レギュラスは魔法省に行かない。
その事実が、ひどく安堵を呼んだ。
指先がじんわりと温かくなるほどの、落ち着きようのない安堵だった。
彼が外に出なければ、帰らないということがない。
夜になっても戻ってこないのではないかと怯える必要がない。
誰とどこにいるのか、胸を締めつけられるほど疑う必要もない。
――彼を心配させてしまうのは、本当は良くないはずなのに。
でも……側に置いておけるのなら、それを少しだけ利用してしまいたい。
そんな黒い思いが胸の奥に沈んだ。
小さく、弱く、けれど確かな重さを持って。
アランの体は、ところどころ火照るように痛んでいた。
起き上がると、肋骨あたりに鈍い痛みが走り、思わず眉を寄せる。
レギュラスがすぐに支えた。
「痛むところは? 言ってください」
アランは杖を握り、そっと書く。
平気。少し打っただけ。
けれど本当は――
唇は、呼吸をするたびにピリリと染みる。
鼻筋にも細い裂傷があり、頬には青い影が浮かんでいた。
鏡を見れば、その傷はどれも醜く見えた。
昨夜レギュラスの視線を独占した肌が、今は痛々しい痕で満たされてしまっている。
その変化がひどく悲しくて、自分の不器用さを責めたくなる。
それでも、レギュラスはアランの傷を見ても表情を崩さなかった。
ただ静かに、その頬に指を伸ばし――触れる寸前で手を止めた。
「……痛むでしょう。触れません」
その優しさに胸が震えた。
同時に、言いようのない不安と罪悪感が込み上げる。
この人を失いたくない。
どんな一面を見ても、どんな残酷さを知っても、
それでもレギュラスの隣にいたい――
それだけで世界が成り立ってしまっている。
だから、今日一日、彼が外に出ないとわかった瞬間の安堵が、
甘すぎて、苦しすぎて、胸の奥がざわざわと波立った。
アランはそっとレギュラスの袖をつまんだ。
声を持たない代わりの、精いっぱいの「側にいて」の合図。
レギュラスは深く息をつき、アランの手を包み込んだ。
「今日はずっと一緒にいます。あなたを離しません」
その言葉に、アランの胸は静かに満たされていった。
痛みよりも、恐怖よりも、何よりも強く。
寝室を改装した診察室には、薬草の香りがほのかに漂っている。窓から差し込む光がアランの白い頬に触れ、まだ完全には戻りきらない体力を静かに照らしていた。
医務魔法使いは分厚い診察書を開きながら、いつもの落ち着いた声で話し始めた。
「痛み止めの使用量はだいぶ減りましたね。けれど骨盤の内側にまだ微細な損傷が残っています。無理な姿くらましの影響が大きかったようです。
歩行はゆっくりであれば問題ありませんが、階段は誰かの支えが必要です。内臓もまだ負担をかけないようにしてください。」
アランは静かにうなずき、淡々と説明を受け止めているように見えた。
だがメイラの目には、医務魔法使いのひとつひとつの言葉がナイフのようにアランの胸に刺さっているように映った。
そしてアランは杖を取り、ためらいもせず問いを綴る。
――妊娠は、もう可能ですか?
メイラははっと顔を上げた。
胸がきゅっと縮む。
自分には詳しい事情はわからない。
けれど、さすがに今は早すぎる。子どもでもそう思った。
つい最近までアランは歩くことすら辛そうで、夜中に痛みに震える背をメイラは何度もさすった。
ようやく痛み止めの量が減って、ようやく階段を半分ほど上がれるようになったばかりなのだ。
医務魔法使いは眉をひそめ、深いため息を落とす。
「……今は、時期尚早です。まだ体が持ちません。」
アランの瞳がはらりと陰った。
その影が、メイラの胸を痛めた。
自分の力では、アランの悲しみを拭い取ってあげられない。その事実が、悔しくてたまらなかった。
医務魔法使いは静かに続ける。
「今は、必ず避妊をなさってください。魔力的にも肉体的にも、回復の途中なのです。」
アランはすぐに杖を振った。
――しなかった場合は、どうなりますか?
医務魔法使いは言葉を選ぶ時間さえ惜しむように、真っ直ぐな目で告げた。
「……万が一ご懐妊された場合、今回は奥様の体が耐えられません。」
メイラの胃がぎゅっと縮まった。
耳の奥が熱くなり、視界が少し揺らぐ。
アランが死ぬかもしれない――
そういう意味なのだと、子どもの自分でも理解できるほどに、医務魔法使いの声は深刻だった。
避妊。懐妊。
今のメイラにはよくわからない言葉が飛び交う。
けれどその中でひとつだけ、はっきりと胸に突き刺さった言葉があった。
――体が持ち堪えられない。
アランを失うなんて嫌だった。
この屋敷で、自分が生きていくための光そのものがアランだった。
父も家も失った自分に、この世界で唯一手を伸ばしてくれた人だ。
そのアランがもし――また命の危険に晒されるようなことがあれば。
メイラは、恐怖で膝が震えそうだった。
アランは小さくうつむき、ゆっくりと杖で言葉を綴った。
――わかりました。気をつけます。
それは従順な返事ではあっても、納得の返事ではなかった。
胸の奥の深い場所に、どうにも消えない焦りと悲しみが潜んでいるのを、メイラは確かに感じ取った。
その哀しげな横顔を見て、メイラはそっとアランの手に触れた。
温かいその手が、どうかこの先もずっと自分のそばにありますように――
そう願わずにはいられなかった。
レギュラスは昼間の食事を調達するためという名目で、足繁く同じ店へ通うようになっていた。
手軽に食べられるサンドイッチがあるから、というのは表向きの理由だ。
だが本当は、セラ・レヴィントンが「いつでも来て」と軽やかに笑ってくれた、その一言に背中を押されていた。
その日も、店に入るとすぐに彼女の声が届く。
「はい、どうぞ。いつものね」
明るい昼の光の中、白い指先が紙袋を差し出す。
レギュラスが受け取ろうとすると、セラはふわりとスカートを揺らしてレギュラスの向かいの席に腰を下ろした。
「いいんです? 仕事中でしょう」
「私にも休み時間くらいあるわよ」
軽やかに笑う彼女の声は、昼の空気とよく馴染んでいた。
セラと話す時間は、不思議なほど心が楽だった。
飾らず、気を張らず、ただ言葉を交わせばいいだけの相手。
こんなにも自然体でいられるのは、アラン以外では初めてだった。
「昼も夜も働いてるんです?」とレギュラスが尋ねる。
「ええ。昼はここ。夜はあなたたちが”たらふく飲んでた”酒屋で週3働いてるの」
“たらふく飲んでた”。
その言い方にレギュラスは思わず噴き出し、セラもつられるように笑う。
「あなたたち、相当飲んだわよね」
「ええ。学生の頃からああでしたからね」
「それで領収書切ってくんだもの。どんな接待費なのよって思ったわ」
「……痛いところを突きますね」
またふたりして笑う。
昼食をとるための短い時間。
けれどレギュラスは、ここまで心から笑った昼など記憶にないことに気づいた。
「子どもがいるのよ、私。男の子」
紙コップの珈琲を指先で転がしながら、セラはさらりと言った。
「1人で育ててるから、働かないとね」
「男の子……ですか」
レギュラスの胸に、わずかに複雑な感情が走る。
男児。
その言葉の響き一つで、羨望と焦りと複雑な影が胸をかすめた。
「あなたのところは姫君でしょ?」
「よく知ってますね」
「あなた、有名人だもの」
また自然と笑いがこぼれる。
レギュラスはサンドイッチを手にしながら、ふと本音がもれる。
「……何としても男児が必要でしてね。でも、妻を焦らせるのは嫌なんです」
普段は誰にも見せない弱さ。
誰にも漏らしたことのない胸の内だった。
それを聞いたセラは、驚くほど静かに、そして優しいまなざしで言う。
「それはあなたひとりの問題じゃないもの。無理させちゃだめよ」
ただそれだけの言葉が、妙に胸に深く染みた。
この女の前では、どういうわけか張り詰めたものが緩む。
踏み込みすぎず、離れすぎず、絶妙な距離で寄り添うように言葉を返してくる。
気楽だった。
危険なほどに。
昼の光に照らされたテーブル。
手の中の紙袋の温度。
からかうように笑うセラの目。
すべてが、日常のわずかな揺らぎを与えてくる。
その揺らぎを自覚しながらも、レギュラスは目をそらせなかった。
その夜、シリウスは決意を固めてブラック家の屋敷へ向かった。
一度はジェームズに引き止められ、無理矢理腕を掴まれてまで止められた日があった。しかし今日は、その手は伸びてこなかった。
親友は、もう止めても無駄だと悟ったのだろうし――何より、シリウスの中の痛みが限界であることを理解したのかもしれない。
屋敷の影に身を潜め、いつもと同じように寝室の窓を軽く叩く。
カラン、と鈴のような音がしてカーテンが揺れた。
そして――
顔を出したのは、シリウスが全く知らない少女だった。
大きな黒い瞳。
まだあどけなさの残る、十二、三歳ほどのマグルの少女。
驚きがそのまま形になったようにシリウスを見つめていた。
「……誰だ?」
思わず低く問いかける。
少女もまた怯えたように口を開いた――かと思えば、後ろから柔らかい気配が近づいてきた。
アランだった。
腕にはステラを抱いている。
夜灯の薄明かりに照らされるアランの横顔は、以前よりも少し痩せて見えたが、それでも静かな美しさと強さを宿していた。
アランは杖を振り、言葉を紡ぐ。
「シリウス、こんにちは」
その一言に、シリウスの胸の奥の痛みが少しだけ和らぐ。
アランの合図を受け、マグルの少女が小さく頭を下げた。
アランは杖でそっと説明を書く。
「メイラ・ウォルブリッジよ。私の世話をしてくれているマグルの少女なの」
その名を聞いた瞬間、シリウスの眉が跳ね上がる。
「お前が……最近噂になってる“ブラック家のマグル使用人”ってわけか」
少女はきちんと背筋を伸ばし、深々と礼をした。
「よろしくお願いします」
「ガキはそんなことしなくていいんだよ、走り回って遊んでろ」
少し照れくさいように笑いながら、シリウスは少女の頭を軽くくしゃりと撫でた。
少女は驚いたように瞬きをして、しかしすぐに柔らかく笑った。
アランに向き直ると、シリウスはそっとその肩に手を置いた。
「アラン……体は平気なのか?」
アランはステラを抱きしめながら杖を振る。
「だいぶ回復して、出来ることが増えてきました」
「そうか……本当によかった……」
気づけば、シリウスは衝動のままアランを抱きしめていた。
胸の奥に長く積もり続けていた不安が、涙にもならずに噴き出したようだった。
隣で見ていたメイラが、驚いたように息を呑む。
「……悪い。つい……」
思わず謝ると、アランはふわりと微笑む。
声を失ってもなお、あの柔らかな微笑みだけで万の言葉を超えてくる。
抱きしめられていたステラが、小さな足をバタつかせてシリウスを見た。
その瞳はアランと同じ翡翠色に輝いている。
「もう歩けるのか?」
シリウスが驚くと、メイラが嬉しそうに答えた。
「はい。たくさんお話もしてくれますよ」
「お前も……世話してやってんのか?」
「はい。アランさんのことはもちろん、ステラ様も時々。とても可愛い子です」
メイラは誇らしげに胸を張りながら言った。
その言葉にシリウスはゆっくりとうなずき、少女の頭をまた優しく撫でた。
「そうか……。アランの優しさと、お前の優しさが……ステラを優しい子に導いてくれるんだろうな」
その声には、どこか祈るような響きがあった。
――ブラック家がマグルを使用人として囲っている。
そう聞いたとき、シリウスは激しい嫌悪と怒りしかなかった。
純血主義の象徴のような家が、マグルを“使う”ということの残酷さを思って。
けれど今、目の前には――
優しさに満ちたアラン。
そのアランに慈しまれているメイラ。
その中心で笑うステラ。
思い描いていた冷酷な光景とはまるで違う。
シリウスの胸に温かいものが灯った。
アランは、ちゃんとこの家で愛されている。
この少女も、搾取されているわけではない。
ここには、小さなながらも確かな“家族の形”があった。
シリウスはそっと目を閉じ、微笑んだ。
「……よかった。本当に……よかったよ、アラン」
声は震えていた。
胸の奥で長いこと固まっていた痛みが溶けていくようだった。
初めて――シリウス・ブラックという男を見た。
名を聞いた瞬間、胸の奥が微かにざわめいた。
あのレギュラス・ブラックの兄だという。それなら、どこか似通った雰囲気があると感じた自分の直感は間違っていなかったのだと分かった。
けれど、似ているのは容姿の輪郭や瞳の色だけではなかった。
アランを見つめる眼差しに宿る温度――それが、何よりも印象に焼きついた。
彼は一目で分かるほど、アランをとても大切にしていた。
あたたかく、まっすぐで、少し切なげで。
レギュラスがアランを見る時の深い愛情とはまた違う、もっと人間らしい、包み込むような優しさだった。
そして自分に向けてくれた言葉。
「優しい子だな」
その一言に、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
認められたいだとか、褒めてほしいだとか、そんな欲は持っていなかったが――
自分がアランのために日々してきた小さな行いが、確かに“誰かの目に映っていた”のだと思えると、不思議と誇らしく胸を張れる気がした。
けれど、その直後見た光景に、思わず目を見開いてしまった。
アランを抱きしめるシリウス。
その抱擁は、家族や友人同士のものとはどこか違っていて――
男女の奥深い感情を含んだような、ひどく寂しさと想いが混ざり合った抱きしめ方だった。
普段屋敷の中でレギュラスがアランを抱き寄せる光景とは、まるで別の“色”を帯びていた。
理解できないけれど、気づかずにはいられない違和感と熱がそこにはあった。
そして何より衝撃だったのは――
アランが、こんなにも嬉しそうに、こんなにも饒舌に杖を構える姿を初めて見たことだ。
普段、アランは必要以上に多く語らない。
食事の時も、散歩の時も、ステラをあやす時も。
静かで、慎ましく、話すべきことだけを杖に託すような人だった。
だがシリウスを前にしたアランは違った。
ステラのことを、最近の出来事を、体調のことを、メイラのことを――
止められないほどに、次々と杖を振り続けた。
その表情はまるで、言葉を持たない代わりに心の全部を差し出すような、嬉しさと懐かしさに満ちていて。
レギュラスと向かい合っている時の静かで慎ましいアランとはまるで別人のように、生き生きとしていた。
―― アランの中には、レギュラスとは違う“光”が、確かにシリウスに向けられている。
そう理解した瞬間、胸に苦いような切なさが走った。
シリウスはふいにこちらを振り返り、子ども扱いするでもなく、対等に、まっすぐに頭をくしゃりと撫でてくれた。
その掌から伝わるぬくもりは、レギュラスのそれとはまったく違っていて――
眩しい光のように強く、一度会っただけなのに心を惹きつけて離さなかった。
強い光を持つ人。
ただそこに立つだけで周囲の空気を変えてしまうほどの圧倒的な存在感を持つ男。
レギュラスとは違う。
アランとも違う。
誰とも違う、強烈な光。
その光に、抗えないほど惹かれてしまった自分に気づいて――
胸の鼓動が静かに早まっていくのを感じていた。
久しぶりにシリウスに会うと、胸の奥に張りついていた重い膜がふっと剥がれ落ちていくようだった。
息がしやすくなる――そんな感覚が久しぶりにアランを包んだ。
どうしてなのだろう。
この人と会うと、いつも世界が広くなる。
冷たい風に閉ざされていた心が、春の陽だまりにほぐされていくように解けていく。
ステラのことを自分の子のように喜んでくれる人間なんて、他にいない。
アランの体を気遣ってくれる言葉の一つひとつが、胸にしみるほど優しかった。
レギュラスに向けられたものとは違う温度。
夫としての責務ではなく、兄のように寄り添おうとする無償の優しさ。
――兄。
シリウスが微笑むたび、亡き兄の面影がよぎった。
心配性で、何度もアランの後ろ襟をつかんでは「危ないから」と道を変えさせた。
あの兄が生きていたら、きっとシリウスみたいに、アランの体を気遣い、ステラを抱きながら笑ってくれたに違いない。
そんな懐かしさが胸を締め付けた。
メイラには、シリウスの来訪を決して人には言わないよう頼んだ。
賢い子だ。
たぶん、自分とシリウスの間に流れる何か――言葉にならない温度、安らぎ、そして名付けようのない強い絆を感じ取ったのだろう。
けれど、その気配は絶対にレギュラスに知られたくなかった。
争いを生むから。
失いたくないものが増えれば増えるほど、恐怖は濃くなる。
夜、レギュラスが屋敷に戻ってきた。
寝室の空気が一変する。
アランは隣にいたステラをそっと乳母に渡し、不自然にならないよう穏やかな顔を作った。
――窓は閉めたはずだった。
シリウスを帰したあと、確かに閉め、鍵には触れなかった。
普段レギュラスは窓に近づくことなどない。
なのに、その日だけは足が向かった。
まるで何かの気配を感じ取るかのように。
手が震えた。
胸がどくん、と内側から跳ねた。
逃げ場のない恐怖が喉までせり上がってくる。
レギュラスの手が窓枠をなぞり、そっと鍵に触れた。
「窓を開けたんです?」
レギュラスの声は穏やかだった。
疑っている気配も探っている気配もない、いつもの調子だった。
アランはゆっくり杖を振る。
「ええ、少し外の風を入れたくて」
レギュラスは微笑んだ。
「そうですか。あんまり風に当たりすぎないでくださいね」
その柔らかい声が、逆に怖かった。
何一つ察された気配はないのに――
まるで、すべてを見透かされている気がした。
彼の瞳の奥を探ろうとした瞬間、心臓が悲鳴のように震えた。
もし、ほんの少しでも怪しまれれば、何が起こるかわからなかった。
あの優しい手が、どこまで冷酷になれるのかを知ってしまった今のアランには、疑念を向けられることそのものが恐怖だった。
ただの風の話。
ただの窓の話。
なのに――胸は石のように重く、呼吸は細くなる。
アランは微笑みながら頷き、レギュラスの胸に身を寄せた。
彼の腕が静かに背を包む。
その優しさが、また痛かった。
ベッドに横になると、アランはためらいのない動きでレギュラスの胸に手を置き、そのまま彼の身体にゆっくりと重心を預けてきた。
淡い微笑みが、暗がりの中で溶けるように咲く。
レギュラスはその背に自然と腕を回し、抱き寄せた。優しく、しかし強く。触れた瞬間、胸の奥が疼くほど愛おしかった。
アランの指先が、レギュラスのシャツのボタンにそっと触れる。
その仕草は静かで、ゆっくりで、けれどあまりにも誘惑的だった。
夜気を震わせるほど妖しく、狂気じみたほど美しい。
――駄目だ。
心の奥で警鐘が鳴る。
本当は、このまま全てを委ねてしまいたかった。
アランに触れられること、それ自体が甘い呪いだった。
けれどレギュラスは、震える指先をアランの手からそっとほどき、止めさせた。
「アラン……回復していないでしょう」
低く、掠れた声だった。
諭すというより、懇願に近かった。
アランは首を横に振る。
そんなことはないと言うように。
歩ける距離も増え、階段も一人で上り下りができるようになった。
ステラを抱いていられる時間も多くなった。
確かに、それは回復の証だった。
だが――医務魔法使いははっきり告げた。
「まだ避妊は必須です。奥様の体は、妊娠に耐えられません」
危険なのだ。まだ早い。
アランの身体は、完全には戻っていない。
だから止めなければならない。
愛しているからこそ。
守らなければならないからこそ。
「アラン……もう少しだけ、我慢しましょう」
しかし、アランは止まらなかった。
薄いナイトドレスの背のファスナーに手を滑らせ、器用に、静かにそれを下ろしていく。
布が肌から離れるたび、白い肌が月明かりに照らされ、薄い光を纏う。
その光景にレギュラスの理性は軋み、胸の奥で何かがひび割れる音がした。
やめなければ。
守らなければ。
わかっているのに、アランの指先ひとつで全てが揺らぐ。
アランの肩に触れた布がふわりとはらりと落ちる。
目を焼くほど白く、儚く、よく知っているのに毎回新しい絶景のようで――
レギュラスの呼吸が、ひとつ深く、熱く揺れた。
躊躇は、もう保てなかった。
ぷつり、と心のどこかで何かが切れたように、レギュラスはアランを抱き寄せ、深くキスをした。
温度を確かめるように。
痛みがないか必死に探るように。
それでももう抗えないほど激しく、熱く。
唇が離れた瞬間、アランの翡翠色の瞳がとろりと揺れていた。
光と影が溶け合い、濡れたようにきらめくその瞳。
薄く開かれた唇の奥、柔らかな舌が小さく覗き、まるで挑発するように震える。
――駄目なのに。
こんな顔をするから、止められなくなる。
守りたい。
でも求めたい。
その相反する願いが胸の奥で激しく衝突し、レギュラスは苦しむように目を閉じた。
アランが身を預けてくる全てが、彼を引きずり込む。
愛するほどに、恐ろしくなる。
守れなかった過去が、傷のように疼く。
この身体に触れたい。
しかし、この身体を壊したくない。
欲と恐怖が、ひどく痛いほど絡み合っていく。
セラとの行為とは、まるで違った。
あの夜のセラは、ただ欲と欲がぶつかり合うだけの、軽やかで、何の責任も痛みも伴わない関係だった。
痛むかどうかを気にする必要もなく、ただ身体の衝動に従えば良かった。
声ひとつで感情が伝わり、こちらが何かを考える必要などどこにもなかった。
だが――今、腕の中にいるアランとの交わりは、根底から全てが異なっていた。
触れるたびに心が震えた。
欲よりも先に、労わりと恐れと慈しみが胸を満たす。
この身体を壊してしまわないか。
痛みが生まれていないか。
苦しくなってはいないか。
このまま続けても大丈夫なのか。
レギュラスは、まるで祈るように、何度も何度もアランを確かめた。
翡翠の瞳を覗き込み、そこに影が浮かばないかを探し続けた。
アランの唇が触れれば、ふわりと熱を含んだ吐息がこぼれる。
その温度がレギュラスの理性をひどく揺らした。
胸の鼓動はアランのものか自分のものか分からないほどに重なり、
肌と肌が触れ合うたび、しっとりと汗ばむ感触が混ざり合い、
アランの呼吸は次第に早くなり、
背に回された腕はしがみつくように強くなる。
――自分だけを求めてくれている。
その確かな実感が、身体よりも先に胸の奥を満たしていく。
肉体としての満足は、セラと比べれば物足りなさがあるのかもしれない。
激しさを追い求めるものではなく、慎重と気遣いに満ちた交わりだ。
だが心の奥が満たされていくのは、比べるまでもなくアランとの方が圧倒的だった。
セラとの行為には、何ひとつ“心を差し出す”必要がなかった。
ただ快楽を交換し、互いが気楽で、何も背負わずに済む夜だった。
けれど―― アランは違う。
彼女を抱くという行為には、最初からすべての感情が伴う。
愛しさ、恐れ、責任、守りたいという祈りにも似た願い。
そして、自分が彼女を満たしているという圧倒的な歓喜。
アランの世界が、自分で満ちていく。
その幸福感は、他の誰でも得ることはできなかった。
医務魔法使いの忠告など、今この瞬間にはもう跡形もない。
頭の片隅にあった理性や恐れは、アランの吐息一つで溶けてしまった。
理屈よりも、怖れよりも、アランへの愛が先に燃え上がる。
ただ、愛する人の最奥へと、心ごと触れたい。
その一心で、レギュラスは深く深く求めていく。
この身体が自分を受け入れてくれる奇跡に震えながら。
自分の名を呼ぶ声を持たない彼女が、全身で自分を求めてくれる幸福に満たされながら。
アランの瞳の奥に、自分だけが映っている。
その事実こそが、セラとの夜とは比べものにならないほどの歓喜だった。
――心が、満たされていく。
レギュラスは、自分がいかにこの人を愛しているか、
そのすべてを噛みしめるように、優しく、深く、アランを抱きしめた。
鈍い痛みが、じわりと内臓全体に広がった。
動かれるたび、身体の奥がひきつる。軋む。きしむ。
もし声を持っていたなら、きっと耐えきれず呻き声を洩らしてしまっていただろう。
それほどに、身体は「やめて」と叫んでいた。
けれど―― アランはその警告を、ただ無視した。
いや、無視するしかなかった。
痛みよりも、苦しさよりも、
胸の中で暴れ続けている“恐れ”のほうがずっと鋭く、深く、彼女を追い詰めていたからだ。
捨てないでほしい。
他の女を見ないでほしい。
自分から目を逸らさないでほしい。
レギュラスの影が揺らいでしまう恐怖は、
身体の痛みに比べれば、比べ物にならないほど残酷だった。
彼の隣を失ってしまったら――
自分はどう生きればいいのだろう。
生きる術も、光の射す方向も、人の優しさも。
この世界で何をどう掴んでいけばいいのかすら、
アランはレギュラスに教わったのだ。
自分の「世界」は、レギュラスによって一から築かれた。
だからこそ、壊すのならば――彼の手で壊してほしい。
他の誰かではなく。彼でなければ意味がない。
伝えようのない願いを抱えたまま、必死にしがみついた。
声が出ないことが、この時ばかりは“救い”だった。
少しでも痛みを声にしてしまえば、レギュラスはきっと気づいてしまう。
そして、きっと行為を中断してしまう。
それだけは嫌だった。
もしここで中断されてしまったら――
彼は満たされない渇きを、あの女のもとで埋めようとするかもしれない。
セラ・レヴィントン。
笑って、軽やかに触れて、欲のままにレギュラスを受け入れた女。
その未来を想像するだけで、
胸の内側が凍りつき、呼吸が乱れそうになった。
ならば痛みなど、大したことではない。
苦しみも、悲鳴も、我慢できる。
レギュラスの腕の中にいられるのなら、それでいい。
この人の視界に確かに自分が映っているという現実さえあれば、
他のすべてはどうとでも耐えられる。
泣きそうだった。
幸福と切なさが同じ場所で混ざり合って、胸の奥で渦を巻いていた。
――セラにも、こんなふうに触れたのだろうか。
優しく、深く、熱い口づけを何度も繰り返したのだろうか。
あの女はどんな声でレギュラスを求め、どんな瞳で受け入れたのだろう。
知る由もない。
知るべきでもない。
けれど、想像してしまう。
想像すればするほど、胸の奥に濃い影が落ちていく。
視界が熱で滲んでいく。
涙が頬に伝った瞬間、自分の感情がもう限界なのだと悟った。
その涙は、痛みのせいではなかった。
悲しみでも、絶望でも、嫉妬でもない。
そのすべてが絡まりすぎて、もはや区別がつかない。
ただ――
ただ、愛していた。
それがこの混乱の中で唯一はっきりしている真実だった。
痛みよりも、嫉妬よりも、恐れよりも、
その一言のほうがずっと重く、深く、熱かった。
だからアランは、震える指でレギュラスの背を抱き寄せる。
逃がさない、離れない。
この腕の中にいてほしいという願いを、声の代わりに全身で必死に伝える。
彼女の世界はレギュラスでできている。
その中心が揺らぐのが、何より怖かった。
レギュラスは、よりわずかに早く目を覚ました。
薄い朝の光がカーテン越しに差し込み、寝室を淡く青く照らしている。
その静けさの中で、昨夜ふたりの間に生まれた余韻はまだベッドに残っていた。
けれど、すぐにメイラが来る。
あのマグルの少女にこの生々しい名残を見せることは、どうしても耐えがたい。
だからこそ、無意識のうちに目を開けていたのだ。
まず自分が身支度を整える。
脱ぎ捨てていたシャツを羽織り、乱れたローブをきちんと肩に通す。
それから、のドレスを取り上げる。
昨夜、自分の手で外したファスナーを、今度は丁寧に閉めていく。
薄い布越しに触れる背中があまりにも細く、あたたかく、
たまらないほど愛おしい。
その手つきに気配を感じたのか、が瞬きをして目を覚ました。
寝起きの翡翠の瞳はとろりとしていて、
昨夜の余韻と幸福がまだそのまま瞳に宿っていた。
「どうです? 体は」
レギュラスは声を抑えて問う。
アランは少し眠たげに目を細め、ゆっくりと首を振った。
その仕草ひとつが、胸に刺さるほど愛しかった。
――こんなにも、自分を必要としてくれるのだ。
その実感が溢れ、抱きしめたい衝動に手が震えそうになる。
「朝食に行きましょうか」
アランは静かに頷く。
レギュラスはアランの手を握り、寝室を出る。
階段へ向かおうとしたそのとき、アランがふと手を離した。
杖を忘れた、と合図で示して寝室へ戻っていく。
レギュラスはそのまま先に食卓へ向かい、席に着いた。
メイラがいつものようにアランを連れてくるだろう――
そう思い、ほんの数秒だけ目を閉じた。
その直後だった。
――ドンッ。
鈍い音が屋敷の静寂を切り裂く。
階段の方角。
それに重なるように、少女の悲鳴が響いた。
「アランさん!!」
瞬間、レギュラスの心臓は大きく跳ねた。
椅子が倒れるほどの勢いで立ち上がり、そのまま駆けだす。
階段の下で、アランが倒れていた。
どこから落ちたのか分からない。
ただ、身体ごと折れるようにして、動かず横たわっている。
血の気が一気に引いた。
世界の色が音もなく消えていく。
メイラが震えた声で泣きながら駆け寄ってくる。
「ご、ごめんなさい……支えきれなくて……! アランさんが……! 私……!」
「医務魔法使いを寝室に呼んできなさい」
低く、しかし震えが滲む声。
メイラは泣きながら駆けていった。
レギュラスはアランの体をそっと抱き起こす。
触れた指先が驚くほど冷たい。
アランの唇に、小さな裂け目が。
白い頬にも細い傷がつき、鼻筋も赤く腫れていた。
――あんなにも美しい顔に。
胸の奥で何かが砕ける音がした。
昨夜あれほど大切に、愛おしく触れたその顔が、今は無惨な傷に覆われている。
自分が求めたから、抱いたから。
その余韻のままに無理をさせてしまったのかもしれない。
心から満たされた翌朝に、この転落。
これは自分の罪だ――
誰のせいでもない。
レギュラスはそう悟った。
腕の中でアランの顔がゆっくりと揺れる。
その軽さがまた胸を締め付けた。
守るべきものを、守れなかった。
「…… アラン」
震える声が喉の奥で潰れる。
彼女の頬についた小さな傷は、
どれも、レギュラスの心に深く食い込むようだった。
アランは、意識が水面に浮かぶようにして目を覚ました。
視界がゆっくりと焦点を結び、天蓋の向こうにレギュラスの顔があった。
驚くほど近く、驚くほど蒼白で、驚くほど必死だった。
「アラン……心配しました」
彼の声は掠れていて、胸の奥の震えを隠していなかった。
アランはゆっくりと腕を動かし、枕元に置かれていた杖を探る。
震える指先で文字を書く。
ごめんなさい。足を踏み外してしまいました。
レギュラスの眉が痛むように寄った。
「あなたのせいではありません。踏み外すほど無理をさせたのは、僕の方です」
その言葉に胸がつまった。
違う、そうじゃない――
本当は昨夜、レギュラスが自分を抱いたことと、この朝の転落には何の因果もないはずだ。
だが、その責任を引き受けようとする彼の声音は、どれも優しすぎて、胸がちくりと痛む。
そしてアランは思い至る。
――今日、レギュラスは魔法省に行かない。
その事実が、ひどく安堵を呼んだ。
指先がじんわりと温かくなるほどの、落ち着きようのない安堵だった。
彼が外に出なければ、帰らないということがない。
夜になっても戻ってこないのではないかと怯える必要がない。
誰とどこにいるのか、胸を締めつけられるほど疑う必要もない。
――彼を心配させてしまうのは、本当は良くないはずなのに。
でも……側に置いておけるのなら、それを少しだけ利用してしまいたい。
そんな黒い思いが胸の奥に沈んだ。
小さく、弱く、けれど確かな重さを持って。
アランの体は、ところどころ火照るように痛んでいた。
起き上がると、肋骨あたりに鈍い痛みが走り、思わず眉を寄せる。
レギュラスがすぐに支えた。
「痛むところは? 言ってください」
アランは杖を握り、そっと書く。
平気。少し打っただけ。
けれど本当は――
唇は、呼吸をするたびにピリリと染みる。
鼻筋にも細い裂傷があり、頬には青い影が浮かんでいた。
鏡を見れば、その傷はどれも醜く見えた。
昨夜レギュラスの視線を独占した肌が、今は痛々しい痕で満たされてしまっている。
その変化がひどく悲しくて、自分の不器用さを責めたくなる。
それでも、レギュラスはアランの傷を見ても表情を崩さなかった。
ただ静かに、その頬に指を伸ばし――触れる寸前で手を止めた。
「……痛むでしょう。触れません」
その優しさに胸が震えた。
同時に、言いようのない不安と罪悪感が込み上げる。
この人を失いたくない。
どんな一面を見ても、どんな残酷さを知っても、
それでもレギュラスの隣にいたい――
それだけで世界が成り立ってしまっている。
だから、今日一日、彼が外に出ないとわかった瞬間の安堵が、
甘すぎて、苦しすぎて、胸の奥がざわざわと波立った。
アランはそっとレギュラスの袖をつまんだ。
声を持たない代わりの、精いっぱいの「側にいて」の合図。
レギュラスは深く息をつき、アランの手を包み込んだ。
「今日はずっと一緒にいます。あなたを離しません」
その言葉に、アランの胸は静かに満たされていった。
痛みよりも、恐怖よりも、何よりも強く。
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