2章
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アランは眠ったまま、微かに手を握り返した。
その小さな反応に救われ、
同時に胸が裂けるほどの罪悪感に飲み込まれながら、
レギュラスは眠る妻の傍らにそっと腰を下ろした。
セラの声はもう耳に残っていなかった。
残っているのはアランの静かな温もりだけ。
それが苦しくて、愛しくて、
どうしようもなく、切なかった。
翌朝、薄い光がカーテンの隙間から差し込むころ、
アランはゆっくりとまぶたを開いた。
寝台の隣には、いつもの温もりがなかった。
振り向くと、ソファの上にレギュラスが倒れこむように眠っていた。
昨日は遅く帰ってきて、気配だけを感じた。
けれど――
近づいた瞬間、胸がひどく締め付けられた。
酒の匂い。
タバコの匂い。
そして、女ものの香水が混ざり合った匂いが、
レギュラスの身体からまだ濃く漂っていた。
いつものただの酔い帰りではない。
そんなものでは誤魔化せないほどに、
その匂いははっきりとアランの鼻を刺した。
すとん、と心の奥に何かが落ちた。
ああ、昨夜、どこかで誰かと――
そういう時間を過ごしていたのだということを、
匂いだけで理解してしまった。
ステラは胸の上ですやすや寝息を立てている。
その小さな鼓動を感じながら、アランの心は静かに震えた。
どうして、こんなにも痛むのだろう。
自分は、レギュラスにとって完璧な妻ではない。
声を持たず、身体はまだ完全には回復していない。
夫婦としての時間をもてる状態でもなかった。
それでも――
女の香水の残り香という形で裏切りの一部を浴びせられるのは、
思ったよりもずっと苦しかった。
アランはそっとソファに近寄り、
レギュラスの寝顔を見下ろした。
眠っている彼は、昨夜の罪などどこにもないように穏やかで、
その平和さが胸を刺した。
触れて起こそうと、手を伸ばかけて――
しかし、アランの指は空中で震えて止まった。
触れられなかった。
触れれば何かが壊れる気がした。
触れた瞬間、昨夜の匂いがもっと鮮明に、自分を刺す気がした。
だから、そっと手を引っ込める。
そのとき――寝室の扉がノックされた。
コン、コン。
アランは胸が跳ね、急いでステラを抱きかかえた。
扉の向こうから、メイラの声が聞こえてきた。
「アランさん、お体はどうですか?」
あの純粋な声に、レギュラスのこの姿を見せられるわけがなかった。
酒と女の香りをまとった姿を。
アランは振り返り、ソファのレギュラスを最後に一瞥した。
胸がまたきゅっと痛む。
けれど表情を整え、
ステラを抱いてそっと扉の方へ歩いた。
メイラはアランの顔を見て、安心したように微笑んだ。
「よかった…今日もお手伝いさせてください」
アランは杖で控えめに文字を描いた。
「ありがとう、メイラ。助かるわ」
背後で、レギュラスは酒の匂いをまとったまま、
静かに眠り続けていた。
アランは扉を閉めると、
ステラの小さな肩をそっと抱き寄せた。
胸の痛みは消えなかった。
けれど、それを誰にも見せたくなかった。
メイラは、まだ慣れない屋敷の廊下でそっと姿勢を正していた。
アランが食卓で朝食をとる間、使用人の身である自分は決してその部屋に入らないように――そう教えられていたからだ。
廊下には静かな朝の光が差し込み、冷えた空気の中に魔法灯のわずかな温もりが混じっている。
その中で、メイラは両手を重ねてただ待っていた。
そこへ、重い足音が近づいてくる。
レギュラス・ブラックだった。
メイラはぱっと顔を上げた。
「おはようございます、レギュラスさん」
いつもなら、朝から完璧に整えられたスーツ姿で現れるはずの男。
髪の一房たりとも乱れているところを見たことがなかった。
姿勢も、表情も、声さえも毎朝きっちり整っている――
そんな、規律そのもののような人だった。
なのに。
今日のレギュラスは、どこかが違った。
髪はわずかに乱れ、シャツの第一ボタンが留められていない。
普段なら絶対に見落とさないはずの皺が、襟元に残ったままだ。
目元には、ほんの少しだけ疲れの影がある。
けれどメイラが何より違和感を抱いたのは――
香りだった。
いつも微かに香るのは、魔法薬の清涼な匂いか、上質な香木の匂い。
だが今日はまったく違った。
タバコの煙の名残。
それに混じる、女性ものの強い香水の匂い。
アランが纏う柔らかい花の香りとは、まるで別世界のように違った匂い。
胸の奥がざわりとし、メイラは一瞬息を飲む。
あのアランが決してまとわない匂い。
この屋敷では感じたことのない種類の匂い。
自分が感じている違和感の理由を、深く考えることは許されていない。
けれど――どうしても、何かがおかしいと心が囁いた。
「ええ……」
レギュラスは短く答えたが、その声もどことなく掠れていた。
彼はメイラに目を向けると、ほんの一瞬、視線が揺れた。
後悔にも似た影が、その瞳の底に淡く沈んだ。
メイラは胸がきゅっと痛んだ。
理由はわからない。
ただ、自分の知っている“強く冷たく完璧なレギュラス”ではない男がそこに立っていた。
アランの食卓から、小さくスプーンの音が聞こえてくる。
メイラは思わずその音の方向に目を向け――
そして、レギュラスの周囲に漂う異質な香りに、また胸がざわついた。
この匂いを、アランはすでに感じてしまっているのだろうか。
もしそうなら、きっと胸を痛めたに違いない。
そんな想像が、理由もなく切なく心に刺さった。
「…… アランさんのお食事が終わるまで、こちらで待っています」
メイラはそう静かに告げた。
レギュラスはわずかに眉を動かし、
「……そうですか」
と短く返した。
しかしその背中は、どこか重く、沈んで見えた。
廊下に残る香りだけが、メイラの胸奥に複雑な影を落としたまま――
レギュラスは静かにその場を去っていった。
食卓から静かに戻ってきた寝室は、しんと冷えた空気に満ちていた。
レギュラスの気配はどこにもなく、広い部屋の中には、彼がそこにいた痕跡だけが散らばっている。
ソファには、無造作に投げ捨てられたジャケット。
テーブルには外されたカフスが無言で光を落としている。
アランはそっと杖を振り、ジャケットを持ち上げた。
床に触れないよう、丁寧にハンガーに掛けてやろうとした――
その瞬間、ポケットの内側から一枚の紙片がひらりと落ちた。
名刺。
白いカードに整った文字で刻まれていた。
“セラ・レヴィントン”
その名を目にした途端、胸の奥が鋭く疼いた。
呼吸を忘れ、ただ指先だけが小さく震える。
――昨夜の女。
そう思うのに、根拠は何もいらなかった。
タバコと香水の匂いに濡れた男の姿を今朝、すでに見てしまっている。
アランが決して纏わない匂い。
屋敷にも馴染まない匂い。
理解してしまうには十分だった。
胸がかすかに裂けるように痛んだ。
だけど、その痛みにすら自分で戸惑う。
――彼は、残酷な人間。
アランはそれを、もういくつも知ってしまっていた。
闇の帝王の命に従い、孤児院の子供たちの血を差し出してきたこと。
罪なきマグルをアズカバンへ送り、その娘を狼人間の餌にしようとした非情な判断。
何度も、自分の中の“正しさ”を深くえぐってきた冷酷さ。
拒絶してしまいたいほどの恐怖。
信じてはいけないのではと迷わせる暗い影。
けれど――それでも、完全には拒めなかった。
レギュラスは、自分を救い上げてくれた人だった。
何年ものあいだ、地下の闇で世界を失いかけたアランに、
光をくれたのは彼だった。
世界を教えてくれたのも、
愛というものを与えてくれたのも、
抱きしめられる温かさを知ったのも――
すべて彼だった。
だから、どれほど残酷な一面を知ってしまっても、
この胸に宿る愛情は消えてくれなかった。
その事実こそが、いま最も痛かった。
――彼が、自分以外の女を抱いたかもしれない。
それだけで、体の芯が崩れ落ちてしまいそうになる。
メイラを巡って彼を責めてしまった。
あのとき、彼の手を振り払ってしまった。
無理な姿くらましのせいで、宿った命も流れてしまった。
彼を苦しめたのは自分かもしれない。
そう思えば思うほど、
「他の女に行かないでほしい」という願いを抱くことさえ、
傲慢で身勝手なことのように思えてくる。
けれど――苦しい。
たまらなく、苦しい。
名刺を拾いあげると、アランはそっとそれをポケットに戻した。
見なかったことにするように。
でも、もう名前は忘れられなかった。
セラ・レヴィントン。
静かな寝室の中、その名前だけが心の奥で重く沈み、
涙の代わりに深い沈黙が、アランを包み込んだ。
シャワーの熱が頭から肩へ、肩から胸へと流れ落ちるたび、昨夜のすべてが少しずつ溶けていくようだった。
肌に残っていた他人の体温も、煙草の匂いも、深いところに沈んでいた罪悪感も――
熱い雫がひとつずつ削ぎ落としてくれる。
水を止め、髪を拭き、鏡に視線を向ける。
そこには、昨夜の濁った影を押し隠し、どこか静かな表情をしたレギュラスが立っていた。
切り替えるしかない。
“今”を生きるしかないのだと、自分に言い聞かせるようだった。
寝室に戻る途中、乳母に抱かれたステラが見えた。
レギュラスが名を呼ぶと、小さな娘は弾むように腕を伸ばしてくる。
抱き上げた瞬間、胸の奥に温かい光が差した。
アランと同じ、澄んだ翡翠の瞳。
笑うたび、鈴のように高い声でキャッキャと笑い、こちらの心をあっという間に晴らしてしまう。
「今日も可愛いですね、ステラ」
言いながら頬を寄せると、ステラは口をぱくぱくと開閉させて笑った。
意味などわからないだろうのに、その笑顔は確かに父の言葉を歓迎しているようだった。
寝室の扉を開けると、アランがこちらへ真っ直ぐに駆け寄ってきた。
小走りで近づき、勢いのまま胸に抱きついてくる。
その仕草は、まるで幼い子供がようやく親と再会できたと安心するようで、胸の奥がぎゅっと温かく締めつけられた。
レギュラスは反射的に片腕をアランの背に回し、もう片方の手でそっと背中をぽんぽんと叩く。
「どうしました? アラン」
問いかける声は、自分でも驚くほど柔らかかった。
アランは杖を振り、空中に淡い光の文字がゆっくり浮かぶ。
『昨夜は遅かったようなので、心配しました』
胸がじんわり熱くなる。
罪悪感も、あの女の香水の痕跡も、胸の隅に押し込められていく。
それよりも―― アランが自分の帰りを案じてくれた、その事実の方が遥かに強かった。
「すみません。少し酒を飲もうと誘われてしまって」
正直にそう伝えると、アランの瞳がわずかに揺れた。
それでもすぐに表情を整え、杖を動かして言葉を紡ぐ。
『私もあなたと一緒にお酒を飲みたいです』
不意を突かれたようだった。
アランが酒を求めたことなど今まで一度もない。
夜食のときはいつも紅茶か水。ワインを飲む自分を静かに見つめるだけだった。
「あなたの体には、まだやめておきましょう」
穏やかに諭すように言うと、アランはすぐに首を振り、杖を動かす。
『子供扱いしていますか?』
「違いますよ」
彼の指先をそっと取り、親指でなだめるように撫でながら言った。
「あなたは立派に大人です」
その言葉に込めた意味を、アランはゆっくり瞬きをして受け止めた。
レギュラスはそのまま、アランの頬に手を添え、迷いのない動作で唇を重ねた。
ふれた瞬間、アランの体から緊張がほどけていくのが、腕越しに伝わる。
深く、甘く、長く――
“あなたを大人として求めている”という確かな意志を、唇で伝えるように。
離れたとき、アランは息を整えながら、恥ずかしそうに視線を伏せていた。
その姿があまりにも愛しくて、レギュラスは思わずもう一度抱きしめた。
ステラが小さく声を上げて笑う。
その笑い声さえも、二人を祝福しているように聞こえた。
昨夜の罪も、心の奥の痛みも――
いまアランの温もりを抱きしめていると、すべてが遠く霞んでいくようだった。
メイラにとってレギュラス・ブラックという魔法使いは、最初ただの“雲の上の人”だった。
病を治し、施設に衣食住を与えてくれた恩人であり、魔法界で最も高貴な家系の後継者であり、触れるどころか目を合わせることさえ恐れ多い存在。
けれど屋敷に来て間もなく、その認識は少しずつ形を変えていった。
アランのそばにいるレギュラス・ブラックは――
まるで別人のようだった。
冷徹な表情ばかりが噂される純血貴族の黒い瞳が、アランの前では驚くほど柔らかくほどける。
声は低いのに、不思議と優しく響く。
ステラを抱き上げる腕は、鋭さを削いだように温かく、アランの肩に触れる指先さえ、壊れ物に触れるように丁寧だった。
“この人は、アランさんのことが本当に好きなんだ。”
そう実感したとき、胸がきゅっと震えた。
レギュラスの表情は、アランとステラに向けるものと、他の世界に向けるものとで明確に違う。
他者に向ける冷たい刃のような視線も、アランの前では音もなく溶けていく。
アランが笑えばレギュラスも柔らかく微笑み、アランが少しでも痛みに顔を歪めれば真っ先に気づき、椅子から立ち上がる。
――完璧な、夫婦。
そう思わずにはいられなかった。
ステラを抱くアランは、光そのもののように美しくて。
レギュラスがその光を包み込む闇のようで、闇なのに温かくて。
二人が並ぶ姿は、どこか神話の一場面のようにも思えた。
メイラはその光景を遠巻きに見つめながら、胸にわだかまる感情をうまく言葉にできなかった。
ステラを見ると、心の奥がじくりと熱くなる。
翡翠のように美しい瞳。アランそっくりの顔立ち。
この家に生まれたというだけで、すべてを手にしている。
――いいな。
心の中で呟き、急いで首を振る。
そんなことを思う自分が嫌で、恥ずかしくて、怖かった。
けれど、抑えようとしても湧き上がる感情は形を持ち始めてしまう。
もし、自分が……この家の本当の子どもだったら?
ほんの一瞬、そんな夢を見てしまった。
アランが自分の髪を撫でてくれるときの母のような手つき。
レギュラスが名前を呼んでくれるときの重く優しい響き。
ステラが無邪気に笑って伸ばす小さな手。
その全部が、胸の奥の柔らかい部分を刺激する。
“欲しい”
そんな言葉は使いたくなかった。
けれど、それ以外に近い表現が見つからなかった。
届かないものだと知りながら、手を伸ばしてしまいたくなる。
そんな自分が怖かった。
それでも――
アランとレギュラス、そしてステラ。
その三人が一緒にいる姿を見れば見るほど、胸が温かくなり、苦しくなり、切なくなる。
初めて知った感情。
名前のない、淡くて、けれど痛い感情。
メイラは胸にそっと手を当て、静かに息を吸った。
――私は、この家が好き。
――この人たちが、好き。
たとえ手に入らなくても。
たとえ、ただの侍女でしかなくても。
この光の中に立ち会えるなら、それだけで十分だと。
そう思おうとしても、胸の奥の空白は、日ごとに少しずつ大きくなっていくのだった。
夜の森は、まるで世界そのものが息を潜めているかのように静まり返っていた。
しかしその静寂の奥で――
ひとつの戦場が、ひっそりと終わりを迎えようとしていた。
倒れ伏したマグルたちの手には、銃や剣がまだ握られたまま残っている。
彼らは最後まで抗ったのだろう。
魔法に対して、剣で、銃で、必死に。
愚かしくも勇敢な、そんな戦い方。
その中心にベラトリックスが立っていた。
狂気めいた笑みを浮かべたまま、杖を軽く払う。
髪が風に煽られ、その黒い尾が生き物のように揺れる。
「抜かりなくやるんだよ、レギュラス。」
血に濡れたその声は、どこまでも楽しげで、どこまでも残酷だった。
「ええ、もちろん。」
レギュラスは静かに答える。
淡々とした声の奥に、わずかな苛立ちと重苦しい諦念が沈んでいた。
ベラトリックスが破壊した痕跡を――
彼はひたすら“消していく”。
後消し呪文で、魔力の残滓をひとつ残らず拭い去る。
闇の陣営がこの討伐に関わった証拠など、跡形もなく。
そして――
森の奥に、鋭い牙が銀に光る影が数頭。
レギュラスが放った狼人間の群れだった。
魔力で辿れる痕跡をわざと彼らに擦り付け、死体に噛み跡を刻ませる。
それだけで“真実”は簡単に書き換わる。
この虐殺は、魔法使いではなく、狼人間が行ったのだ――と。
合理的で、冷徹で、誰にも咎められない偽装工作。
レギュラスが最も得意とするもの。
しかし今夜、いつもより指先が冷たかった。
ベラトリックスが地に伏したマグルの胸に杖を向け、愉悦に震える声で呪文を囁くたび――
レギュラスの脳裏に、ある少女の姿が呼び起こされる。
翡翠の瞳を持つあのマグルの少女。
息絶えたその姿が、白い手が、冷たくなった頬が。
――どうしてだ。
何度胸の奥から押し出そうとしても、あの光景は消えてくれなかった。
純血主義の論理でいえば、あれは“仕方のない犠牲”に分類される。
闇の帝王に命じられた任務の一環であり、マグルなど数に入れるべき存在ではない。
そう、理屈では完全に理解できる。
だが――
肉体の温度が消えていくあの瞬間、彼女の翡翠の瞳から光が奪われていく音を聞いた気がした時。
その瞬間だけは、どんな理屈も意味をなさなかった。
ベラトリックスがくつくつと嗤う。
「マグルは最高の玩具だよ。悲鳴を聞くたび快感で震える……あなたもそうでしょう?」
レギュラスは淡く微笑んで見せた。
“そう見えるように”完璧に顔を作った。
「ええ、あなたほどではありませんが。」
心の奥で、何かが軋む音がした。
闇の帝王のもとで積み上げてきた功績。
誰より忠実で、誰より冷酷な黒い貴公子。
けれど本当は――自分でも気づかぬほど深く、あの翡翠の瞳に囚われていた。
そして―― アラン。
翡翠の色は、彼にとって罪の色になっていた。
ベラトリックスが最後の死体を蹴り転がす。
犬のような笑い声が響く。
「帰るよ、レギュラス。闇の帝王がお待ちだ。」
「……ええ。」
返事をしながら、死体の傍らに散った血の雫を見つめた。
その赤は、誰のために流されたのか。
何の意味があったのか。
少女の瞳が、森の暗闇の中でふっと浮かぶ。
―― アランは、知ったらどう思うだろう。
胸の奥が鋭く痛んだ。
背を向けたレギュラスの足取りは冷静そのものだったが、
その内側では、言葉にならぬ感情が静かに渦を巻いていた。
誰よりも冷徹であれと求められる世界で、
唯一、翡翠の色だけが彼を脆くする。
そのことに、彼自身がいちばん気づきたくなかった。
夜明け前の灰色の空が、戦場跡をぼんやりと照らしていた。
倒れたマグルたちの身体が、雨に濡れて冷たく光っている。
銃や刃物が落ちたまま、手はなお死に際の形を保って固まっていた。
――まるで、最後まで抗った意志だけが地に焼き付いているように。
シリウスとジェームズは駆けつけた瞬間、その惨状に息を呑んだ。
呼吸がひどく苦しかった。胸の奥で何かがぎゅっと掴まれる。
「……最悪だな、これは。」
ジェームズが低く吐き捨てるように言う。
「誰がやった……魔法族の仕業か?」
シリウスの声は怒りで震えていた。
その視線の先に――
魔法省法務部の制服を纏ったレギュラス・ブラックがいた。
その隣には、闇の陣営に属すると噂されるバーテミウス・クラウチJr.。
ふたりはこの惨状を前にしても、ひどく落ち着いた顔をしていた。
「魔法族の関与……ではありませんね。」
バーテミウスは死体のひとつを足先で転がし、愉快そうに笑う。
「狼人間の仕業と言えるでしょう。痕跡が実に分かりやすい。」
そして肩越しにレギュラスへ書類を投げる。
レギュラスはそれに視線を通し――ためらいもなくサインした。
「ちょっと待ちやがれ!」
シリウスが声を荒げる。
地面に響くその声には、怒りと焦りと、どうしようもない絶望が入り混じっていた。
「いつから魔法省は、こんなずさんな片付けをするようになったんだよ!」
バーテミウスは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「これはこれは、シリウス・ブラック殿。感傷的な反応ですこと。」
「……行きましょう。」
レギュラスは彼を軽く制し、踵を返した。
この地獄のような光景を一瞥すらせず。
――その無関心さが、シリウスをさらに追い詰めた。
「完璧に証拠は消してしまっている……って顔だな。本当に兄弟かよ、お前は……」
シリウスは吐き捨てるように呟いた。
その隣でジェームズも、怒りを堪えるように唇を噛む。
「レギュラス・ブラック。君の抜かりのなさは、さすがと言うべきか……
だが――いつか必ず明るみになる。
こんなこと、永遠に隠せると思うなよ。」
言葉は静かだが、刃のように鋭かった。
レギュラスは一度歩みを止める。
背中越しの沈黙が、まるで空気を凍らせたかのように冷たい。
そしてゆっくり振り返り、ジェームズの瞳を真っ直ぐ射抜く。
「……なんのことでしょう、ポッターさん。」
その微笑みは残酷なほどに整っている。
冷たく、揺らぎなく、まるで人形のようだ。
「さぁ、行きましょう。
我々にはまだ仕事が山ほどあります。」
レギュラスのマントが翻り、バーテミウスが楽しげについていく。
ふたりはこの惨劇を“日常の仕事”のように軽々と背に置いて、霧の向こうへ消えていった。
ただの帰路に――ただの用事の続きに――
人の命など、どこにも刻まれていないかのように。
残されたシリウスは、拳を握りしめたまま動けなかった。
あんな冷酷で、あんな無慈悲で、
血の温度がひとつも感じられない男のもとに――
アランがいる。
それがどうしようもなく胸を締めつけた。
「……シリウス。」
ジェームズが隣で低く呟く。
「わかってる……でも、あいつの近くにアランが……そんなの、耐えられるわけねぇだろ……」
吐息のような叫びが、夜明け前の空に溶けていった。
レギュラスの足音が遠ざかっていくほどに、
シリウスの胸にはどんどん黒い恐怖と怒りが募っていく。
―― アランを、あんな男の手から守れなかった。
その事実がいちばんシリウスを苦しめていた。
ジェームズは、レギュラス・ブラックの無慈悲な振る舞いに対して強い嫌悪を抱いていた。
しかしその嫌悪すら、胸の奥をかき乱す“ある感情”の前では霞んでしまう。
――シリウスのことだ。
近頃、耳に入ってくる噂があった。
アラン・ブラックが流産したらしいという、確証のない囁き。
魔法預言者新聞のような正式な媒体で取り上げられているわけではない。
あくまで大衆のうわさ話にすぎないはずなのに、こんなにもシリウスは心を痛めていた。
それがジェームズには、何より辛かった。
ステラの誕生が祝われてからまだ日も浅い。
それなのにもう次の子の話だと?
さすが純血の名家、ブラック家らしいと言えばそれまでだが――考えるだけで胸が冷たくなった。
親友が、そんな不確かな噂にまで揺れるとは思わなかった。
あの日、シリウスがアランに会いに行こうとしたのをジェームズは引き止めた。
理性で止めた。怒鳴って止めた。
行けば揺さぶられるのは目に見えているし、アランの夫であるレギュラスとの間に余計な火種を生むだけだとわかっていたから。
だが――
彼が自分の目の届かないところで行動すれば、止める手だてなどない。
そしてシリウスは必ず行ってしまうだろう。
あの闇の男の隣で、息をするように震えているであろうアランを思って。
彼女が、どんなにレギュラスの手の中で傷つけられているか想像して。
あの男のそばにいる女
――それが、ジェームズの胸を痛ませた。
レギュラス・ブラックがどれほど罪に染まり、どれほど冷酷な男であろうと、
アランは必ず彼を庇う。
彼が見せる断片的な優しさだけを信じ、どれほど闇を抱えようと、彼の側で生きていこうとする。
そんな愚直なまでの盲信が、ジェームズには理解できなかった。
だがそれ以上に――
その女のためにシリウスが揺れる
それが、胸の奥の柔らかいところを鋭く刺した。
レギュラスの妻である以上、どれほど美しかろうと、どれほど儚かろうと、
彼女は“シリウスの世界”の住人ではない。
なのにシリウスは、彼女に会いたいと願い、
彼女の苦しみを想像して胸を痛め、
彼女の子の噂にまで心をかき乱されている。
ジェームズは思う。
――どうしてお前は、そんなに自分を痛めつけるような人に心を向けるんだ。
ため息を吐くと、石畳の上を冷たい風が走り抜けた。
シリウスの背中は強いはずなのに、
アランの話題が出るたびに、
ほんの少し――折れそうなほど細くなる。
その姿を見ることが、ジェームズにとっていちばんの苦痛だった。
「……頼むから、あんな場所に行くなよ。
あいつのことなんかで、お前がまた傷つくのは見たくない。」
声には出さない。
ただ、心の奥底でそう呟いた。
だがジェームズは知っていた。
どれほど止めようと、シリウスの心はもう、あの屋敷へ繋がってしまっているのだと。
レギュラスの態度は、あの夜を境に何ひとつ変わらなかった。
いや――むしろ以前よりも、アランに向けられる細やかな気遣いは増しているようにすら思えた。
ステラを抱き上げるときの柔らかい笑み。
アランの体調に合わせて歩幅を自然と合わせてくれる優しさ。
「寒くありませんか」と、そっと肩にローブをかけてくれるし、
食事の時間にはアランが取りやすいよう皿を近くに寄せ、
椅子に座るときには腰を支える手を当たり前のように添えてくれる。
夜、寝台に入るときもそうだった。
深く抱きしめるのではなく、そっと指先で髪を撫でるだけ。
“無理に触れようとはしない”というその控えめな仕草が、逆にどこまでも誠実でいてくれるように感じられた。
――これほどまでに、自分を大切にしてくれる人はいない。
そう思うたびに、胸の奥がぬくもりで満たされていくのだ。
……それでも。
拭いきれない寂しさだけが、小さな影のように心の底に留まり続けていた。
セラ・レヴィントン。
あの日、ジャケットから落ちた名刺に記されていた名。
どんな女だったのだろう。
若いのだろうか。
魔法使いか、混血か、マグルか。
レギュラスに触れられて、どんな声を上げただろう。
どんな瞳で、どんな肌で、どんな香りがしたのだろう。
知りようのない想像ばかりが、勝手に形を持って頭を占めていく。
もし本当にレギュラスが自分を手放し、その女との未来を選ぶ日が来るのだとしたら――?
そんな恐ろしい想像に、アランの胸はひどく痛んだ。
息をするたびに胸の内側からきゅっと締め付けられるような苦しさが上がってくる。
そのとき、背後から声がした。
「アランさん……平気ですか?」
メイラだった。
不安そうな瞳に気づき、アランは慌てて首を横に振って微笑む。
大丈夫――そう伝えたくて。
メイラは心配そうだったが、それ以上は何も言わず静かに見守るように寄り添ってくれた。
アランは胸の奥でそっと思う。
レギュラスがメイラを屋敷に置いてくれたこと。
それは確かに大きな奇跡だった。
純血主義の名家ブラック家で、マグルの少女を侍女として置くなど、前代未聞だ。
あの家の思想を思えば、本来あり得ない判断だ。
――けれど、レギュラスは自分のためにそれをした。
自分が望むから。
自分がメイラを大切に思うから。
その気持ちを汲み取り、すべての反発と批判を押しのけてまで、メイラを守る場所を整えてくれた。
アランの胸の奥に、じんわりと暖かさが広がる。
その判断はきっと、彼の愛の証明なのだ。
どんな恐ろしい夜があったとしても、
どれだけ心に影を落とす女の名前があったとしても、
メイラがここにいるという事実だけは――揺るぎなく自分を救ってくれた。
レギュラスの手は残酷さも優しさも抱えている。
それでも、自分を選んでくれたという一点だけは、どうしようもなく胸に沁みた。
アランはステラを胸元に抱き寄せ、そっと目を閉じた。
温かな小さな体が息づくのを感じながら、心の奥でひとつだけ願う。
――どうか、あの影が戻ってきませんように。
昼下がりの魔法省近辺は、いつものようにざわめきの熱を帯びていた。
露店の香辛料の匂いが風に乗って広がり、魔法薬店の瓶が陽光を受けてきらりと光る。
レギュラスはバーテミウスと並んで歩いていた。昼食を求めて、わずかな休憩の時間を切り取るために。
「何にします?」
バーテミウスは軽い調子で聞く。
「片手で食べられるものがいいですね。書類を片付けながらつまめる程度のもので。」
レギュラスは涼やかに返す。
「じゃあ、あそこのカフェはどうです?サンドイッチが評判みたいですよ。」
指差す先、小さなテラス席のあるカフェにはすでに数人の魔法使いが腰掛けていた。
レギュラスは頷き、2人で店内へ。
黒板に書かれたメニューから適当に選ぶ。
「ローストチキンとアップルのサンドを。それとアイスティー。」
「僕はハムとモッツァレラですね。あとスープ。」
淡々と注文を終える。
すると――
「お久しぶりね、レギュラス・ブラック。」
涼やかな声。
聞き覚えのある響きだった。
瞬間、全身が固まった。
カウンターの奥から歩いてくる女。
明るい昼の光の下で見るその姿は、夜とは違う魅力をまとっている。
セラ・レヴィントン。
先日、モーテルの薄暗がりで抱いた女。
「やだ、あなた。固まらないでよ。」
セラは苦笑しながら軽やかに髪を払った。
「あ……いや……。なぜここに?」
レギュラスの声は僅かに乱れた。
会計の金額も、何を注文したかさえ記憶が飛んでいた。
「お知り合いです?」とバーテミウス。
セラは目尻を下げて笑った。
「お兄さん、あなたも一緒だったわよ。」
その瞬間、バーテミウスの表情に「あぁ、そういうことか」という理解が走った。
「なるほど。先日の美女か。昼の光の中で見るとまた違う美しさがあって、気づきませんでしたよ。失礼を。」
軽口を叩くと、セラは小さく肩を揺らして笑う。
「昼間はこちらで?」とレギュラス。
「ええ。あなたがた魔法省組は忙しいから、お昼はこちらを選んでくれると助かるわ。」
堂々とした笑み。商売人としての顔。
「商売上手ですね。」とバーテミウス。
注文品の入った紙袋を受け取る。
その瞬間、セラはふっと声を軽くする。
「あなたたちこそ、昼間の姿は見違えるわね。
市民のため、正義のために頑張りなさい。」
昨夜の温度とまるで違う、爽やかな昼の声。
濃密で湿った夜の記憶に触れぬまま、
あっさりと線を引いたようなそのやり取りが――
なぜだかとても心地よかった。
レギュラスは紙袋を手に、ほんの少し笑みを浮かべた。
アランの知らない場所で、こんなふうに軽く流れる一幕が存在していることが、
奇妙な安堵にも似たものを胸に作り出した。
昼下がりの魔法省。
書類の束を片腕に抱え、レギュラスは執務室に戻る途中でバーテミウスと並んで歩いていた。
買ってきたばかりのサンドイッチの香りが、わずかに空腹を刺激する。
廊下に差し込む柔らかな光の中で、バーテミウスはさっそく包装紙を破り、遠慮なく頬張った。
「どうでした? あの美女は。」
パンを噛みながら、軽い調子で言う。
レギュラスは一拍置き、目だけを細めた。
「……何がです。」
するとバーテミウスは吹き出した。
「何が、って。君がそれを言うのがもう面白い。」
確かに自分でも、わざとらしい返しをしたと思う。
あの日の酒。
散々飲み散らかし、気がつけば横に座っていた女をそれぞれが連れていった。
バーテミウスがどんな女を抱いたのか、レギュラスはもう覚えていない。
おそらく向こうも同じだろう。
ただ、互いに求める理由など要らなかった。
あの夜は本能だけで動いた。
それ以上でも、それ以下でもない。
「この歳になってする話ですか?」
レギュラスは溜息混じりに返す。
「君があそこまで動揺していたら気になるでしょう? 真っ青な顔して固まってましたよ。可笑しくて仕方なかった。」
バーテミウスは笑いながら肩を揺らした。
ただ昼飯を買いに来ただけだった。
そこで、数日前抱いた女・セラと再会した。
驚くなという方が無理だ。
酔った夜の影と、昼の陽光を浴びた現実が、突然交差したのだ。
「それにしても、あの女……なかなかさっぱりしてるし、後腐れもなさそうだし。ちょうど良いんじゃないですか?」
バーテミウスは淡々と言う。
「……何の話をしているんです、あなたは。」
レギュラスは眉を寄せた。
だが、わかってしまう。
“ちょうどいい”とは、互いの利害だけを優先し、割り切った関係を続けるには最適だ、という意味だ。
アランを思えば――
彼女の体を痛めつけるような欲のぶつけ方など、決してしたくない。
静かで壊れ物のような彼女の身体も心も、これ以上傷つけたくない。
ならば、別の場所で欲を処理できる相手がいるというのは…
悪くない、と考える自分がいた。
その自覚に、胸の奥が冷たくなる。
アランを愛しているという確信と、
アラン以外を抱けてしまったという事実。
その矛盾が身体の内側でねじれ、ひどく醜い。
窓から差す光が、紙袋の影を長く伸ばしていく。
レギュラスは黙って歩きながら、自分の歩幅がほんの僅か乱れていることに気づいた。
―― アランを守りたい。
―― アランを抱きしめたい。
――けれど、アランを苦しめる痛みは与えたくない。
そのすべてが真実なのに、
セラを思い返す自分もまた、紛れもない真実なのだ。
レギュラスは喉の奥でわずかに笑った。
苦味とも諦めともつかないその笑みは、
自分自身への軽蔑に近い。
「……僕はそんなに浅ましい男でしたかね。」
誰にも聞こえないほどの声で、ぽつりと零した。
バーテミウスには聞こえていなかった。
彼はただ、サンドイッチを片手に、気楽な歩調で前へ進むだけだった。
レギュラスは、胸の奥底がひどく重く沈むのを感じながら、
その背中を静かに追っていった。
寝室の扉をそっと開けた瞬間、レギュラスは息を呑んだ。
いつもなら深い眠りに落ちているはずのアランが、ベッドの中央で背筋を正し、夜の闇に溶け込むように静かに座っていたのだ。
灯りに照らされた翡翠の瞳が、まっすぐに彼を迎え入れる。
「どうしたんです、アラン。寝れませんか?」
思わず声が優しくほどける。
アランは小さく首を振り、枕元の杖を手に取る。
細い指先が震えるほど静かな動作で、文字が空中に浮かび上がった。
――おかえりなさい、レギュラス。
そのひとことが、胸の奥の疲れを溶かした。
ローブを脱ぐよりも早く、レギュラスはベッドへ上がり、アランの華奢な身体を抱き寄せる。
柔らかな香りと細い肩の温もりが腕の内に収まり、安堵が深く沁みていった。
夜が遅ければ、寝顔に迎えられることのほうが多い。
けれど、こうして待っていてくれる夜は――心の底から嬉しい。
アランはレギュラスのネクタイに指を触れ、そっと外していく。
カフスも丁寧に外していく指が、微かに震えていた。
「……すみません。」
レギュラスが呟くと、アランは首を振る。
言葉を持たぬその仕草が、誰より雄弁だった。
「何かあったんですか?」
レギュラスはアランを後ろから抱き締め、肩に唇を寄せながら問いかける。
アランはゆっくり杖を振る。現れた文字は短く、けれど胸に痛いほど刺さった。
――いいえ、なにも。ただ、できる限りあなたの帰りを待っていたくて。
胸が締めつけられた。
アランの望みを、こんなにも慎ましく、こんなにも深く受け止めきれずにいた自分を思い知らされる。
「嬉しいですよ。でも……」
レギュラスはアランの腕を包み込みながら囁いた。
「無理をされて体を壊される方が、僕には辛いんです。」
アランはすぐに杖を振る。
――だって、あなたと過ごせる時間が少ないですから。
その瞬間、レギュラスの呼吸が詰まった。
言われてみれば、今の生活はあまりにもすれ違いが多い。
かつては魔法省の執務室に連れていき、側で書類整理を手伝わせたり、本を読ませたりしていた。
ステラが生まれた今、それはほとんどできていない。
朝のほんの短い時間。
夜の、こうして戻ってくるまでのわずかな時間。
遅い帰宅の日は、一度も目を合わせぬまま終わることも増えていた。
「……休みを取るようにします。」
レギュラスはそっとアランの頬に手を添える。
「少しでもあなたと過ごせるように。」
その言葉に、アランはくるりと身体を回し、レギュラスの首筋へ顔を埋めた。
細い指が彼のシャツを掴み、震えながらしがみついてくる。
声を持たない代わりに、その抱きしめ方には、すべての想いが宿っていた。
レギュラスはアランの背を優しく撫でた。
まるで宝石を扱うように、壊れものを抱くように。
アランの温もりが胸に溶けていくほどに、
昨夜の罪悪感も、昼間の迷いも、
どれほど深くアランに縛られているのかを思い知らされた。
「…… アラン。」
名を呼ぶ声が滲む。
「あなたが待っていてくれるなら、僕はどこにでも戻ってきます。」
アランは顔を上げて、その翡翠の瞳でじっと見つめた。
光を宿すその瞳に、どんな問いも責めもなく、ただ純粋な愛があった。
その小さな愛に触れた瞬間、胸の奥がひどく痛む。
アランの全てを守りたいと願いながら、
その裏で自分がどれほど矛盾と欲を抱えているか……
痛いほど理解しているのに。
それでも――
アランは、その腕の中で安堵したように身を委ねてきた。
レギュラスはそっと抱き締めた。
今はただ、この温もりだけを守りたいと願いながら。
ステラは日ごとに小さな進歩を見せていった。
まだ言葉の意味を深く理解しているわけではない。けれど、喉の奥から生まれたままの音を、まるで宝石をばら撒くように次々と零していく。
嬉しいときは高く、眠たいときはとろんと甘く、構ってほしいときは小鳥のように鳴く。
それは――声を失ったアランが持てなかった「音」をすべて拾い集めて母の代わりに響かせているかのようで。
レギュラスはその度、胸の奥がひどく温かくなった。
「アラン、ステラがたくさん話してくれますね。」
そう言うと、アランは微笑んでうなずく。
ひどく穏やかで、柔らかく、彼が何より好きな表情だった。
休みを取ろう――できる限り。
そう決めた瞬間から、レギュラスは驚くほど早く行動していた。
執務の予定を詰め込み、部下に仕事を割り振り、余計な会議を削り、無駄な書類は片っ端から切り捨てた。
そして週に一度、二度と、必ずアランとステラの時間をつくった。
昼間のアランを、レギュラスはほとんど知らなかった。
朝の短い挨拶と、夜の深い抱擁しか見てこなかった自分が、初めて知る世界があった。
ステラを抱き上げるアランは、驚くほど表情豊かだった。
庭の芝生に座り込み、ステラの丸い手を包んで花びらを触らせてやる。
ステラが笑うと、アランの唇が小さくほころび、頬がふわりとゆるむ。
寝ぐずりするステラの背を優しく撫で、胸元に抱き寄せ、揺りかごのようにゆっくり揺れながら、静かに眠りへ導いていく。
そのたびメイラがそっと毛布をかけ、アランの肩に膝掛けを掛けていった。
メイラの存在はアランを支え、その手があるからこそアランは思う存分ステラと向き合えていた。
陽光の下で笑うアランの顔――
それは夜の光だけでは見えなかった、清らかで無垢な表情だった。
レギュラスはそれを離れた場所から見つめながら、胸の奥が満たされていくのを感じた。
あの地下で、鎖に縛られ、声を奪われ、尊厳をすべて踏みにじられていた少女。
闇の帝王の手に囚われ、自分の名を呼ぶことすら許されなかった哀れな娘は――
今、太陽の下で微笑んでいた。
ステラと花を触りながら笑う声なき唇。
メイラの冗談に肩を揺らす穏やかな仕草。
ステラの頬をそっと撫でながらうつむく優しい瞳。
そのすべてが、レギュラスには奇跡のようだった。
アランを助けたのは正しい選択だったのだと、胸を張って誇れる。
彼女を闇から救い出し、妻として迎え、母として生きられる未来を渡した――
その事実が、彼の中の最も誇れる「光」だった。
アランが穏やかに笑い、ステラがその胸で眠り、メイラが微笑む。
そんな平和な光景の中心に立つアランは、
レギュラスの手で救われ、レギュラスの手で守られた――
その証そのものだった。
そしてレギュラスは静かに思った。
――この光景のためなら、どれほど闇に沈もうとも構わない。
アランの幸福のためなら、自分は何でもできる。
そう胸の奥でひっそりと誓いながら、
昼間の光の下にいる妻と娘を、優しい目で見つめ続けた。
その小さな反応に救われ、
同時に胸が裂けるほどの罪悪感に飲み込まれながら、
レギュラスは眠る妻の傍らにそっと腰を下ろした。
セラの声はもう耳に残っていなかった。
残っているのはアランの静かな温もりだけ。
それが苦しくて、愛しくて、
どうしようもなく、切なかった。
翌朝、薄い光がカーテンの隙間から差し込むころ、
アランはゆっくりとまぶたを開いた。
寝台の隣には、いつもの温もりがなかった。
振り向くと、ソファの上にレギュラスが倒れこむように眠っていた。
昨日は遅く帰ってきて、気配だけを感じた。
けれど――
近づいた瞬間、胸がひどく締め付けられた。
酒の匂い。
タバコの匂い。
そして、女ものの香水が混ざり合った匂いが、
レギュラスの身体からまだ濃く漂っていた。
いつものただの酔い帰りではない。
そんなものでは誤魔化せないほどに、
その匂いははっきりとアランの鼻を刺した。
すとん、と心の奥に何かが落ちた。
ああ、昨夜、どこかで誰かと――
そういう時間を過ごしていたのだということを、
匂いだけで理解してしまった。
ステラは胸の上ですやすや寝息を立てている。
その小さな鼓動を感じながら、アランの心は静かに震えた。
どうして、こんなにも痛むのだろう。
自分は、レギュラスにとって完璧な妻ではない。
声を持たず、身体はまだ完全には回復していない。
夫婦としての時間をもてる状態でもなかった。
それでも――
女の香水の残り香という形で裏切りの一部を浴びせられるのは、
思ったよりもずっと苦しかった。
アランはそっとソファに近寄り、
レギュラスの寝顔を見下ろした。
眠っている彼は、昨夜の罪などどこにもないように穏やかで、
その平和さが胸を刺した。
触れて起こそうと、手を伸ばかけて――
しかし、アランの指は空中で震えて止まった。
触れられなかった。
触れれば何かが壊れる気がした。
触れた瞬間、昨夜の匂いがもっと鮮明に、自分を刺す気がした。
だから、そっと手を引っ込める。
そのとき――寝室の扉がノックされた。
コン、コン。
アランは胸が跳ね、急いでステラを抱きかかえた。
扉の向こうから、メイラの声が聞こえてきた。
「アランさん、お体はどうですか?」
あの純粋な声に、レギュラスのこの姿を見せられるわけがなかった。
酒と女の香りをまとった姿を。
アランは振り返り、ソファのレギュラスを最後に一瞥した。
胸がまたきゅっと痛む。
けれど表情を整え、
ステラを抱いてそっと扉の方へ歩いた。
メイラはアランの顔を見て、安心したように微笑んだ。
「よかった…今日もお手伝いさせてください」
アランは杖で控えめに文字を描いた。
「ありがとう、メイラ。助かるわ」
背後で、レギュラスは酒の匂いをまとったまま、
静かに眠り続けていた。
アランは扉を閉めると、
ステラの小さな肩をそっと抱き寄せた。
胸の痛みは消えなかった。
けれど、それを誰にも見せたくなかった。
メイラは、まだ慣れない屋敷の廊下でそっと姿勢を正していた。
アランが食卓で朝食をとる間、使用人の身である自分は決してその部屋に入らないように――そう教えられていたからだ。
廊下には静かな朝の光が差し込み、冷えた空気の中に魔法灯のわずかな温もりが混じっている。
その中で、メイラは両手を重ねてただ待っていた。
そこへ、重い足音が近づいてくる。
レギュラス・ブラックだった。
メイラはぱっと顔を上げた。
「おはようございます、レギュラスさん」
いつもなら、朝から完璧に整えられたスーツ姿で現れるはずの男。
髪の一房たりとも乱れているところを見たことがなかった。
姿勢も、表情も、声さえも毎朝きっちり整っている――
そんな、規律そのもののような人だった。
なのに。
今日のレギュラスは、どこかが違った。
髪はわずかに乱れ、シャツの第一ボタンが留められていない。
普段なら絶対に見落とさないはずの皺が、襟元に残ったままだ。
目元には、ほんの少しだけ疲れの影がある。
けれどメイラが何より違和感を抱いたのは――
香りだった。
いつも微かに香るのは、魔法薬の清涼な匂いか、上質な香木の匂い。
だが今日はまったく違った。
タバコの煙の名残。
それに混じる、女性ものの強い香水の匂い。
アランが纏う柔らかい花の香りとは、まるで別世界のように違った匂い。
胸の奥がざわりとし、メイラは一瞬息を飲む。
あのアランが決してまとわない匂い。
この屋敷では感じたことのない種類の匂い。
自分が感じている違和感の理由を、深く考えることは許されていない。
けれど――どうしても、何かがおかしいと心が囁いた。
「ええ……」
レギュラスは短く答えたが、その声もどことなく掠れていた。
彼はメイラに目を向けると、ほんの一瞬、視線が揺れた。
後悔にも似た影が、その瞳の底に淡く沈んだ。
メイラは胸がきゅっと痛んだ。
理由はわからない。
ただ、自分の知っている“強く冷たく完璧なレギュラス”ではない男がそこに立っていた。
アランの食卓から、小さくスプーンの音が聞こえてくる。
メイラは思わずその音の方向に目を向け――
そして、レギュラスの周囲に漂う異質な香りに、また胸がざわついた。
この匂いを、アランはすでに感じてしまっているのだろうか。
もしそうなら、きっと胸を痛めたに違いない。
そんな想像が、理由もなく切なく心に刺さった。
「…… アランさんのお食事が終わるまで、こちらで待っています」
メイラはそう静かに告げた。
レギュラスはわずかに眉を動かし、
「……そうですか」
と短く返した。
しかしその背中は、どこか重く、沈んで見えた。
廊下に残る香りだけが、メイラの胸奥に複雑な影を落としたまま――
レギュラスは静かにその場を去っていった。
食卓から静かに戻ってきた寝室は、しんと冷えた空気に満ちていた。
レギュラスの気配はどこにもなく、広い部屋の中には、彼がそこにいた痕跡だけが散らばっている。
ソファには、無造作に投げ捨てられたジャケット。
テーブルには外されたカフスが無言で光を落としている。
アランはそっと杖を振り、ジャケットを持ち上げた。
床に触れないよう、丁寧にハンガーに掛けてやろうとした――
その瞬間、ポケットの内側から一枚の紙片がひらりと落ちた。
名刺。
白いカードに整った文字で刻まれていた。
“セラ・レヴィントン”
その名を目にした途端、胸の奥が鋭く疼いた。
呼吸を忘れ、ただ指先だけが小さく震える。
――昨夜の女。
そう思うのに、根拠は何もいらなかった。
タバコと香水の匂いに濡れた男の姿を今朝、すでに見てしまっている。
アランが決して纏わない匂い。
屋敷にも馴染まない匂い。
理解してしまうには十分だった。
胸がかすかに裂けるように痛んだ。
だけど、その痛みにすら自分で戸惑う。
――彼は、残酷な人間。
アランはそれを、もういくつも知ってしまっていた。
闇の帝王の命に従い、孤児院の子供たちの血を差し出してきたこと。
罪なきマグルをアズカバンへ送り、その娘を狼人間の餌にしようとした非情な判断。
何度も、自分の中の“正しさ”を深くえぐってきた冷酷さ。
拒絶してしまいたいほどの恐怖。
信じてはいけないのではと迷わせる暗い影。
けれど――それでも、完全には拒めなかった。
レギュラスは、自分を救い上げてくれた人だった。
何年ものあいだ、地下の闇で世界を失いかけたアランに、
光をくれたのは彼だった。
世界を教えてくれたのも、
愛というものを与えてくれたのも、
抱きしめられる温かさを知ったのも――
すべて彼だった。
だから、どれほど残酷な一面を知ってしまっても、
この胸に宿る愛情は消えてくれなかった。
その事実こそが、いま最も痛かった。
――彼が、自分以外の女を抱いたかもしれない。
それだけで、体の芯が崩れ落ちてしまいそうになる。
メイラを巡って彼を責めてしまった。
あのとき、彼の手を振り払ってしまった。
無理な姿くらましのせいで、宿った命も流れてしまった。
彼を苦しめたのは自分かもしれない。
そう思えば思うほど、
「他の女に行かないでほしい」という願いを抱くことさえ、
傲慢で身勝手なことのように思えてくる。
けれど――苦しい。
たまらなく、苦しい。
名刺を拾いあげると、アランはそっとそれをポケットに戻した。
見なかったことにするように。
でも、もう名前は忘れられなかった。
セラ・レヴィントン。
静かな寝室の中、その名前だけが心の奥で重く沈み、
涙の代わりに深い沈黙が、アランを包み込んだ。
シャワーの熱が頭から肩へ、肩から胸へと流れ落ちるたび、昨夜のすべてが少しずつ溶けていくようだった。
肌に残っていた他人の体温も、煙草の匂いも、深いところに沈んでいた罪悪感も――
熱い雫がひとつずつ削ぎ落としてくれる。
水を止め、髪を拭き、鏡に視線を向ける。
そこには、昨夜の濁った影を押し隠し、どこか静かな表情をしたレギュラスが立っていた。
切り替えるしかない。
“今”を生きるしかないのだと、自分に言い聞かせるようだった。
寝室に戻る途中、乳母に抱かれたステラが見えた。
レギュラスが名を呼ぶと、小さな娘は弾むように腕を伸ばしてくる。
抱き上げた瞬間、胸の奥に温かい光が差した。
アランと同じ、澄んだ翡翠の瞳。
笑うたび、鈴のように高い声でキャッキャと笑い、こちらの心をあっという間に晴らしてしまう。
「今日も可愛いですね、ステラ」
言いながら頬を寄せると、ステラは口をぱくぱくと開閉させて笑った。
意味などわからないだろうのに、その笑顔は確かに父の言葉を歓迎しているようだった。
寝室の扉を開けると、アランがこちらへ真っ直ぐに駆け寄ってきた。
小走りで近づき、勢いのまま胸に抱きついてくる。
その仕草は、まるで幼い子供がようやく親と再会できたと安心するようで、胸の奥がぎゅっと温かく締めつけられた。
レギュラスは反射的に片腕をアランの背に回し、もう片方の手でそっと背中をぽんぽんと叩く。
「どうしました? アラン」
問いかける声は、自分でも驚くほど柔らかかった。
アランは杖を振り、空中に淡い光の文字がゆっくり浮かぶ。
『昨夜は遅かったようなので、心配しました』
胸がじんわり熱くなる。
罪悪感も、あの女の香水の痕跡も、胸の隅に押し込められていく。
それよりも―― アランが自分の帰りを案じてくれた、その事実の方が遥かに強かった。
「すみません。少し酒を飲もうと誘われてしまって」
正直にそう伝えると、アランの瞳がわずかに揺れた。
それでもすぐに表情を整え、杖を動かして言葉を紡ぐ。
『私もあなたと一緒にお酒を飲みたいです』
不意を突かれたようだった。
アランが酒を求めたことなど今まで一度もない。
夜食のときはいつも紅茶か水。ワインを飲む自分を静かに見つめるだけだった。
「あなたの体には、まだやめておきましょう」
穏やかに諭すように言うと、アランはすぐに首を振り、杖を動かす。
『子供扱いしていますか?』
「違いますよ」
彼の指先をそっと取り、親指でなだめるように撫でながら言った。
「あなたは立派に大人です」
その言葉に込めた意味を、アランはゆっくり瞬きをして受け止めた。
レギュラスはそのまま、アランの頬に手を添え、迷いのない動作で唇を重ねた。
ふれた瞬間、アランの体から緊張がほどけていくのが、腕越しに伝わる。
深く、甘く、長く――
“あなたを大人として求めている”という確かな意志を、唇で伝えるように。
離れたとき、アランは息を整えながら、恥ずかしそうに視線を伏せていた。
その姿があまりにも愛しくて、レギュラスは思わずもう一度抱きしめた。
ステラが小さく声を上げて笑う。
その笑い声さえも、二人を祝福しているように聞こえた。
昨夜の罪も、心の奥の痛みも――
いまアランの温もりを抱きしめていると、すべてが遠く霞んでいくようだった。
メイラにとってレギュラス・ブラックという魔法使いは、最初ただの“雲の上の人”だった。
病を治し、施設に衣食住を与えてくれた恩人であり、魔法界で最も高貴な家系の後継者であり、触れるどころか目を合わせることさえ恐れ多い存在。
けれど屋敷に来て間もなく、その認識は少しずつ形を変えていった。
アランのそばにいるレギュラス・ブラックは――
まるで別人のようだった。
冷徹な表情ばかりが噂される純血貴族の黒い瞳が、アランの前では驚くほど柔らかくほどける。
声は低いのに、不思議と優しく響く。
ステラを抱き上げる腕は、鋭さを削いだように温かく、アランの肩に触れる指先さえ、壊れ物に触れるように丁寧だった。
“この人は、アランさんのことが本当に好きなんだ。”
そう実感したとき、胸がきゅっと震えた。
レギュラスの表情は、アランとステラに向けるものと、他の世界に向けるものとで明確に違う。
他者に向ける冷たい刃のような視線も、アランの前では音もなく溶けていく。
アランが笑えばレギュラスも柔らかく微笑み、アランが少しでも痛みに顔を歪めれば真っ先に気づき、椅子から立ち上がる。
――完璧な、夫婦。
そう思わずにはいられなかった。
ステラを抱くアランは、光そのもののように美しくて。
レギュラスがその光を包み込む闇のようで、闇なのに温かくて。
二人が並ぶ姿は、どこか神話の一場面のようにも思えた。
メイラはその光景を遠巻きに見つめながら、胸にわだかまる感情をうまく言葉にできなかった。
ステラを見ると、心の奥がじくりと熱くなる。
翡翠のように美しい瞳。アランそっくりの顔立ち。
この家に生まれたというだけで、すべてを手にしている。
――いいな。
心の中で呟き、急いで首を振る。
そんなことを思う自分が嫌で、恥ずかしくて、怖かった。
けれど、抑えようとしても湧き上がる感情は形を持ち始めてしまう。
もし、自分が……この家の本当の子どもだったら?
ほんの一瞬、そんな夢を見てしまった。
アランが自分の髪を撫でてくれるときの母のような手つき。
レギュラスが名前を呼んでくれるときの重く優しい響き。
ステラが無邪気に笑って伸ばす小さな手。
その全部が、胸の奥の柔らかい部分を刺激する。
“欲しい”
そんな言葉は使いたくなかった。
けれど、それ以外に近い表現が見つからなかった。
届かないものだと知りながら、手を伸ばしてしまいたくなる。
そんな自分が怖かった。
それでも――
アランとレギュラス、そしてステラ。
その三人が一緒にいる姿を見れば見るほど、胸が温かくなり、苦しくなり、切なくなる。
初めて知った感情。
名前のない、淡くて、けれど痛い感情。
メイラは胸にそっと手を当て、静かに息を吸った。
――私は、この家が好き。
――この人たちが、好き。
たとえ手に入らなくても。
たとえ、ただの侍女でしかなくても。
この光の中に立ち会えるなら、それだけで十分だと。
そう思おうとしても、胸の奥の空白は、日ごとに少しずつ大きくなっていくのだった。
夜の森は、まるで世界そのものが息を潜めているかのように静まり返っていた。
しかしその静寂の奥で――
ひとつの戦場が、ひっそりと終わりを迎えようとしていた。
倒れ伏したマグルたちの手には、銃や剣がまだ握られたまま残っている。
彼らは最後まで抗ったのだろう。
魔法に対して、剣で、銃で、必死に。
愚かしくも勇敢な、そんな戦い方。
その中心にベラトリックスが立っていた。
狂気めいた笑みを浮かべたまま、杖を軽く払う。
髪が風に煽られ、その黒い尾が生き物のように揺れる。
「抜かりなくやるんだよ、レギュラス。」
血に濡れたその声は、どこまでも楽しげで、どこまでも残酷だった。
「ええ、もちろん。」
レギュラスは静かに答える。
淡々とした声の奥に、わずかな苛立ちと重苦しい諦念が沈んでいた。
ベラトリックスが破壊した痕跡を――
彼はひたすら“消していく”。
後消し呪文で、魔力の残滓をひとつ残らず拭い去る。
闇の陣営がこの討伐に関わった証拠など、跡形もなく。
そして――
森の奥に、鋭い牙が銀に光る影が数頭。
レギュラスが放った狼人間の群れだった。
魔力で辿れる痕跡をわざと彼らに擦り付け、死体に噛み跡を刻ませる。
それだけで“真実”は簡単に書き換わる。
この虐殺は、魔法使いではなく、狼人間が行ったのだ――と。
合理的で、冷徹で、誰にも咎められない偽装工作。
レギュラスが最も得意とするもの。
しかし今夜、いつもより指先が冷たかった。
ベラトリックスが地に伏したマグルの胸に杖を向け、愉悦に震える声で呪文を囁くたび――
レギュラスの脳裏に、ある少女の姿が呼び起こされる。
翡翠の瞳を持つあのマグルの少女。
息絶えたその姿が、白い手が、冷たくなった頬が。
――どうしてだ。
何度胸の奥から押し出そうとしても、あの光景は消えてくれなかった。
純血主義の論理でいえば、あれは“仕方のない犠牲”に分類される。
闇の帝王に命じられた任務の一環であり、マグルなど数に入れるべき存在ではない。
そう、理屈では完全に理解できる。
だが――
肉体の温度が消えていくあの瞬間、彼女の翡翠の瞳から光が奪われていく音を聞いた気がした時。
その瞬間だけは、どんな理屈も意味をなさなかった。
ベラトリックスがくつくつと嗤う。
「マグルは最高の玩具だよ。悲鳴を聞くたび快感で震える……あなたもそうでしょう?」
レギュラスは淡く微笑んで見せた。
“そう見えるように”完璧に顔を作った。
「ええ、あなたほどではありませんが。」
心の奥で、何かが軋む音がした。
闇の帝王のもとで積み上げてきた功績。
誰より忠実で、誰より冷酷な黒い貴公子。
けれど本当は――自分でも気づかぬほど深く、あの翡翠の瞳に囚われていた。
そして―― アラン。
翡翠の色は、彼にとって罪の色になっていた。
ベラトリックスが最後の死体を蹴り転がす。
犬のような笑い声が響く。
「帰るよ、レギュラス。闇の帝王がお待ちだ。」
「……ええ。」
返事をしながら、死体の傍らに散った血の雫を見つめた。
その赤は、誰のために流されたのか。
何の意味があったのか。
少女の瞳が、森の暗闇の中でふっと浮かぶ。
―― アランは、知ったらどう思うだろう。
胸の奥が鋭く痛んだ。
背を向けたレギュラスの足取りは冷静そのものだったが、
その内側では、言葉にならぬ感情が静かに渦を巻いていた。
誰よりも冷徹であれと求められる世界で、
唯一、翡翠の色だけが彼を脆くする。
そのことに、彼自身がいちばん気づきたくなかった。
夜明け前の灰色の空が、戦場跡をぼんやりと照らしていた。
倒れたマグルたちの身体が、雨に濡れて冷たく光っている。
銃や刃物が落ちたまま、手はなお死に際の形を保って固まっていた。
――まるで、最後まで抗った意志だけが地に焼き付いているように。
シリウスとジェームズは駆けつけた瞬間、その惨状に息を呑んだ。
呼吸がひどく苦しかった。胸の奥で何かがぎゅっと掴まれる。
「……最悪だな、これは。」
ジェームズが低く吐き捨てるように言う。
「誰がやった……魔法族の仕業か?」
シリウスの声は怒りで震えていた。
その視線の先に――
魔法省法務部の制服を纏ったレギュラス・ブラックがいた。
その隣には、闇の陣営に属すると噂されるバーテミウス・クラウチJr.。
ふたりはこの惨状を前にしても、ひどく落ち着いた顔をしていた。
「魔法族の関与……ではありませんね。」
バーテミウスは死体のひとつを足先で転がし、愉快そうに笑う。
「狼人間の仕業と言えるでしょう。痕跡が実に分かりやすい。」
そして肩越しにレギュラスへ書類を投げる。
レギュラスはそれに視線を通し――ためらいもなくサインした。
「ちょっと待ちやがれ!」
シリウスが声を荒げる。
地面に響くその声には、怒りと焦りと、どうしようもない絶望が入り混じっていた。
「いつから魔法省は、こんなずさんな片付けをするようになったんだよ!」
バーテミウスは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「これはこれは、シリウス・ブラック殿。感傷的な反応ですこと。」
「……行きましょう。」
レギュラスは彼を軽く制し、踵を返した。
この地獄のような光景を一瞥すらせず。
――その無関心さが、シリウスをさらに追い詰めた。
「完璧に証拠は消してしまっている……って顔だな。本当に兄弟かよ、お前は……」
シリウスは吐き捨てるように呟いた。
その隣でジェームズも、怒りを堪えるように唇を噛む。
「レギュラス・ブラック。君の抜かりのなさは、さすがと言うべきか……
だが――いつか必ず明るみになる。
こんなこと、永遠に隠せると思うなよ。」
言葉は静かだが、刃のように鋭かった。
レギュラスは一度歩みを止める。
背中越しの沈黙が、まるで空気を凍らせたかのように冷たい。
そしてゆっくり振り返り、ジェームズの瞳を真っ直ぐ射抜く。
「……なんのことでしょう、ポッターさん。」
その微笑みは残酷なほどに整っている。
冷たく、揺らぎなく、まるで人形のようだ。
「さぁ、行きましょう。
我々にはまだ仕事が山ほどあります。」
レギュラスのマントが翻り、バーテミウスが楽しげについていく。
ふたりはこの惨劇を“日常の仕事”のように軽々と背に置いて、霧の向こうへ消えていった。
ただの帰路に――ただの用事の続きに――
人の命など、どこにも刻まれていないかのように。
残されたシリウスは、拳を握りしめたまま動けなかった。
あんな冷酷で、あんな無慈悲で、
血の温度がひとつも感じられない男のもとに――
アランがいる。
それがどうしようもなく胸を締めつけた。
「……シリウス。」
ジェームズが隣で低く呟く。
「わかってる……でも、あいつの近くにアランが……そんなの、耐えられるわけねぇだろ……」
吐息のような叫びが、夜明け前の空に溶けていった。
レギュラスの足音が遠ざかっていくほどに、
シリウスの胸にはどんどん黒い恐怖と怒りが募っていく。
―― アランを、あんな男の手から守れなかった。
その事実がいちばんシリウスを苦しめていた。
ジェームズは、レギュラス・ブラックの無慈悲な振る舞いに対して強い嫌悪を抱いていた。
しかしその嫌悪すら、胸の奥をかき乱す“ある感情”の前では霞んでしまう。
――シリウスのことだ。
近頃、耳に入ってくる噂があった。
アラン・ブラックが流産したらしいという、確証のない囁き。
魔法預言者新聞のような正式な媒体で取り上げられているわけではない。
あくまで大衆のうわさ話にすぎないはずなのに、こんなにもシリウスは心を痛めていた。
それがジェームズには、何より辛かった。
ステラの誕生が祝われてからまだ日も浅い。
それなのにもう次の子の話だと?
さすが純血の名家、ブラック家らしいと言えばそれまでだが――考えるだけで胸が冷たくなった。
親友が、そんな不確かな噂にまで揺れるとは思わなかった。
あの日、シリウスがアランに会いに行こうとしたのをジェームズは引き止めた。
理性で止めた。怒鳴って止めた。
行けば揺さぶられるのは目に見えているし、アランの夫であるレギュラスとの間に余計な火種を生むだけだとわかっていたから。
だが――
彼が自分の目の届かないところで行動すれば、止める手だてなどない。
そしてシリウスは必ず行ってしまうだろう。
あの闇の男の隣で、息をするように震えているであろうアランを思って。
彼女が、どんなにレギュラスの手の中で傷つけられているか想像して。
あの男のそばにいる女
――それが、ジェームズの胸を痛ませた。
レギュラス・ブラックがどれほど罪に染まり、どれほど冷酷な男であろうと、
アランは必ず彼を庇う。
彼が見せる断片的な優しさだけを信じ、どれほど闇を抱えようと、彼の側で生きていこうとする。
そんな愚直なまでの盲信が、ジェームズには理解できなかった。
だがそれ以上に――
その女のためにシリウスが揺れる
それが、胸の奥の柔らかいところを鋭く刺した。
レギュラスの妻である以上、どれほど美しかろうと、どれほど儚かろうと、
彼女は“シリウスの世界”の住人ではない。
なのにシリウスは、彼女に会いたいと願い、
彼女の苦しみを想像して胸を痛め、
彼女の子の噂にまで心をかき乱されている。
ジェームズは思う。
――どうしてお前は、そんなに自分を痛めつけるような人に心を向けるんだ。
ため息を吐くと、石畳の上を冷たい風が走り抜けた。
シリウスの背中は強いはずなのに、
アランの話題が出るたびに、
ほんの少し――折れそうなほど細くなる。
その姿を見ることが、ジェームズにとっていちばんの苦痛だった。
「……頼むから、あんな場所に行くなよ。
あいつのことなんかで、お前がまた傷つくのは見たくない。」
声には出さない。
ただ、心の奥底でそう呟いた。
だがジェームズは知っていた。
どれほど止めようと、シリウスの心はもう、あの屋敷へ繋がってしまっているのだと。
レギュラスの態度は、あの夜を境に何ひとつ変わらなかった。
いや――むしろ以前よりも、アランに向けられる細やかな気遣いは増しているようにすら思えた。
ステラを抱き上げるときの柔らかい笑み。
アランの体調に合わせて歩幅を自然と合わせてくれる優しさ。
「寒くありませんか」と、そっと肩にローブをかけてくれるし、
食事の時間にはアランが取りやすいよう皿を近くに寄せ、
椅子に座るときには腰を支える手を当たり前のように添えてくれる。
夜、寝台に入るときもそうだった。
深く抱きしめるのではなく、そっと指先で髪を撫でるだけ。
“無理に触れようとはしない”というその控えめな仕草が、逆にどこまでも誠実でいてくれるように感じられた。
――これほどまでに、自分を大切にしてくれる人はいない。
そう思うたびに、胸の奥がぬくもりで満たされていくのだ。
……それでも。
拭いきれない寂しさだけが、小さな影のように心の底に留まり続けていた。
セラ・レヴィントン。
あの日、ジャケットから落ちた名刺に記されていた名。
どんな女だったのだろう。
若いのだろうか。
魔法使いか、混血か、マグルか。
レギュラスに触れられて、どんな声を上げただろう。
どんな瞳で、どんな肌で、どんな香りがしたのだろう。
知りようのない想像ばかりが、勝手に形を持って頭を占めていく。
もし本当にレギュラスが自分を手放し、その女との未来を選ぶ日が来るのだとしたら――?
そんな恐ろしい想像に、アランの胸はひどく痛んだ。
息をするたびに胸の内側からきゅっと締め付けられるような苦しさが上がってくる。
そのとき、背後から声がした。
「アランさん……平気ですか?」
メイラだった。
不安そうな瞳に気づき、アランは慌てて首を横に振って微笑む。
大丈夫――そう伝えたくて。
メイラは心配そうだったが、それ以上は何も言わず静かに見守るように寄り添ってくれた。
アランは胸の奥でそっと思う。
レギュラスがメイラを屋敷に置いてくれたこと。
それは確かに大きな奇跡だった。
純血主義の名家ブラック家で、マグルの少女を侍女として置くなど、前代未聞だ。
あの家の思想を思えば、本来あり得ない判断だ。
――けれど、レギュラスは自分のためにそれをした。
自分が望むから。
自分がメイラを大切に思うから。
その気持ちを汲み取り、すべての反発と批判を押しのけてまで、メイラを守る場所を整えてくれた。
アランの胸の奥に、じんわりと暖かさが広がる。
その判断はきっと、彼の愛の証明なのだ。
どんな恐ろしい夜があったとしても、
どれだけ心に影を落とす女の名前があったとしても、
メイラがここにいるという事実だけは――揺るぎなく自分を救ってくれた。
レギュラスの手は残酷さも優しさも抱えている。
それでも、自分を選んでくれたという一点だけは、どうしようもなく胸に沁みた。
アランはステラを胸元に抱き寄せ、そっと目を閉じた。
温かな小さな体が息づくのを感じながら、心の奥でひとつだけ願う。
――どうか、あの影が戻ってきませんように。
昼下がりの魔法省近辺は、いつものようにざわめきの熱を帯びていた。
露店の香辛料の匂いが風に乗って広がり、魔法薬店の瓶が陽光を受けてきらりと光る。
レギュラスはバーテミウスと並んで歩いていた。昼食を求めて、わずかな休憩の時間を切り取るために。
「何にします?」
バーテミウスは軽い調子で聞く。
「片手で食べられるものがいいですね。書類を片付けながらつまめる程度のもので。」
レギュラスは涼やかに返す。
「じゃあ、あそこのカフェはどうです?サンドイッチが評判みたいですよ。」
指差す先、小さなテラス席のあるカフェにはすでに数人の魔法使いが腰掛けていた。
レギュラスは頷き、2人で店内へ。
黒板に書かれたメニューから適当に選ぶ。
「ローストチキンとアップルのサンドを。それとアイスティー。」
「僕はハムとモッツァレラですね。あとスープ。」
淡々と注文を終える。
すると――
「お久しぶりね、レギュラス・ブラック。」
涼やかな声。
聞き覚えのある響きだった。
瞬間、全身が固まった。
カウンターの奥から歩いてくる女。
明るい昼の光の下で見るその姿は、夜とは違う魅力をまとっている。
セラ・レヴィントン。
先日、モーテルの薄暗がりで抱いた女。
「やだ、あなた。固まらないでよ。」
セラは苦笑しながら軽やかに髪を払った。
「あ……いや……。なぜここに?」
レギュラスの声は僅かに乱れた。
会計の金額も、何を注文したかさえ記憶が飛んでいた。
「お知り合いです?」とバーテミウス。
セラは目尻を下げて笑った。
「お兄さん、あなたも一緒だったわよ。」
その瞬間、バーテミウスの表情に「あぁ、そういうことか」という理解が走った。
「なるほど。先日の美女か。昼の光の中で見るとまた違う美しさがあって、気づきませんでしたよ。失礼を。」
軽口を叩くと、セラは小さく肩を揺らして笑う。
「昼間はこちらで?」とレギュラス。
「ええ。あなたがた魔法省組は忙しいから、お昼はこちらを選んでくれると助かるわ。」
堂々とした笑み。商売人としての顔。
「商売上手ですね。」とバーテミウス。
注文品の入った紙袋を受け取る。
その瞬間、セラはふっと声を軽くする。
「あなたたちこそ、昼間の姿は見違えるわね。
市民のため、正義のために頑張りなさい。」
昨夜の温度とまるで違う、爽やかな昼の声。
濃密で湿った夜の記憶に触れぬまま、
あっさりと線を引いたようなそのやり取りが――
なぜだかとても心地よかった。
レギュラスは紙袋を手に、ほんの少し笑みを浮かべた。
アランの知らない場所で、こんなふうに軽く流れる一幕が存在していることが、
奇妙な安堵にも似たものを胸に作り出した。
昼下がりの魔法省。
書類の束を片腕に抱え、レギュラスは執務室に戻る途中でバーテミウスと並んで歩いていた。
買ってきたばかりのサンドイッチの香りが、わずかに空腹を刺激する。
廊下に差し込む柔らかな光の中で、バーテミウスはさっそく包装紙を破り、遠慮なく頬張った。
「どうでした? あの美女は。」
パンを噛みながら、軽い調子で言う。
レギュラスは一拍置き、目だけを細めた。
「……何がです。」
するとバーテミウスは吹き出した。
「何が、って。君がそれを言うのがもう面白い。」
確かに自分でも、わざとらしい返しをしたと思う。
あの日の酒。
散々飲み散らかし、気がつけば横に座っていた女をそれぞれが連れていった。
バーテミウスがどんな女を抱いたのか、レギュラスはもう覚えていない。
おそらく向こうも同じだろう。
ただ、互いに求める理由など要らなかった。
あの夜は本能だけで動いた。
それ以上でも、それ以下でもない。
「この歳になってする話ですか?」
レギュラスは溜息混じりに返す。
「君があそこまで動揺していたら気になるでしょう? 真っ青な顔して固まってましたよ。可笑しくて仕方なかった。」
バーテミウスは笑いながら肩を揺らした。
ただ昼飯を買いに来ただけだった。
そこで、数日前抱いた女・セラと再会した。
驚くなという方が無理だ。
酔った夜の影と、昼の陽光を浴びた現実が、突然交差したのだ。
「それにしても、あの女……なかなかさっぱりしてるし、後腐れもなさそうだし。ちょうど良いんじゃないですか?」
バーテミウスは淡々と言う。
「……何の話をしているんです、あなたは。」
レギュラスは眉を寄せた。
だが、わかってしまう。
“ちょうどいい”とは、互いの利害だけを優先し、割り切った関係を続けるには最適だ、という意味だ。
アランを思えば――
彼女の体を痛めつけるような欲のぶつけ方など、決してしたくない。
静かで壊れ物のような彼女の身体も心も、これ以上傷つけたくない。
ならば、別の場所で欲を処理できる相手がいるというのは…
悪くない、と考える自分がいた。
その自覚に、胸の奥が冷たくなる。
アランを愛しているという確信と、
アラン以外を抱けてしまったという事実。
その矛盾が身体の内側でねじれ、ひどく醜い。
窓から差す光が、紙袋の影を長く伸ばしていく。
レギュラスは黙って歩きながら、自分の歩幅がほんの僅か乱れていることに気づいた。
―― アランを守りたい。
―― アランを抱きしめたい。
――けれど、アランを苦しめる痛みは与えたくない。
そのすべてが真実なのに、
セラを思い返す自分もまた、紛れもない真実なのだ。
レギュラスは喉の奥でわずかに笑った。
苦味とも諦めともつかないその笑みは、
自分自身への軽蔑に近い。
「……僕はそんなに浅ましい男でしたかね。」
誰にも聞こえないほどの声で、ぽつりと零した。
バーテミウスには聞こえていなかった。
彼はただ、サンドイッチを片手に、気楽な歩調で前へ進むだけだった。
レギュラスは、胸の奥底がひどく重く沈むのを感じながら、
その背中を静かに追っていった。
寝室の扉をそっと開けた瞬間、レギュラスは息を呑んだ。
いつもなら深い眠りに落ちているはずのアランが、ベッドの中央で背筋を正し、夜の闇に溶け込むように静かに座っていたのだ。
灯りに照らされた翡翠の瞳が、まっすぐに彼を迎え入れる。
「どうしたんです、アラン。寝れませんか?」
思わず声が優しくほどける。
アランは小さく首を振り、枕元の杖を手に取る。
細い指先が震えるほど静かな動作で、文字が空中に浮かび上がった。
――おかえりなさい、レギュラス。
そのひとことが、胸の奥の疲れを溶かした。
ローブを脱ぐよりも早く、レギュラスはベッドへ上がり、アランの華奢な身体を抱き寄せる。
柔らかな香りと細い肩の温もりが腕の内に収まり、安堵が深く沁みていった。
夜が遅ければ、寝顔に迎えられることのほうが多い。
けれど、こうして待っていてくれる夜は――心の底から嬉しい。
アランはレギュラスのネクタイに指を触れ、そっと外していく。
カフスも丁寧に外していく指が、微かに震えていた。
「……すみません。」
レギュラスが呟くと、アランは首を振る。
言葉を持たぬその仕草が、誰より雄弁だった。
「何かあったんですか?」
レギュラスはアランを後ろから抱き締め、肩に唇を寄せながら問いかける。
アランはゆっくり杖を振る。現れた文字は短く、けれど胸に痛いほど刺さった。
――いいえ、なにも。ただ、できる限りあなたの帰りを待っていたくて。
胸が締めつけられた。
アランの望みを、こんなにも慎ましく、こんなにも深く受け止めきれずにいた自分を思い知らされる。
「嬉しいですよ。でも……」
レギュラスはアランの腕を包み込みながら囁いた。
「無理をされて体を壊される方が、僕には辛いんです。」
アランはすぐに杖を振る。
――だって、あなたと過ごせる時間が少ないですから。
その瞬間、レギュラスの呼吸が詰まった。
言われてみれば、今の生活はあまりにもすれ違いが多い。
かつては魔法省の執務室に連れていき、側で書類整理を手伝わせたり、本を読ませたりしていた。
ステラが生まれた今、それはほとんどできていない。
朝のほんの短い時間。
夜の、こうして戻ってくるまでのわずかな時間。
遅い帰宅の日は、一度も目を合わせぬまま終わることも増えていた。
「……休みを取るようにします。」
レギュラスはそっとアランの頬に手を添える。
「少しでもあなたと過ごせるように。」
その言葉に、アランはくるりと身体を回し、レギュラスの首筋へ顔を埋めた。
細い指が彼のシャツを掴み、震えながらしがみついてくる。
声を持たない代わりに、その抱きしめ方には、すべての想いが宿っていた。
レギュラスはアランの背を優しく撫でた。
まるで宝石を扱うように、壊れものを抱くように。
アランの温もりが胸に溶けていくほどに、
昨夜の罪悪感も、昼間の迷いも、
どれほど深くアランに縛られているのかを思い知らされた。
「…… アラン。」
名を呼ぶ声が滲む。
「あなたが待っていてくれるなら、僕はどこにでも戻ってきます。」
アランは顔を上げて、その翡翠の瞳でじっと見つめた。
光を宿すその瞳に、どんな問いも責めもなく、ただ純粋な愛があった。
その小さな愛に触れた瞬間、胸の奥がひどく痛む。
アランの全てを守りたいと願いながら、
その裏で自分がどれほど矛盾と欲を抱えているか……
痛いほど理解しているのに。
それでも――
アランは、その腕の中で安堵したように身を委ねてきた。
レギュラスはそっと抱き締めた。
今はただ、この温もりだけを守りたいと願いながら。
ステラは日ごとに小さな進歩を見せていった。
まだ言葉の意味を深く理解しているわけではない。けれど、喉の奥から生まれたままの音を、まるで宝石をばら撒くように次々と零していく。
嬉しいときは高く、眠たいときはとろんと甘く、構ってほしいときは小鳥のように鳴く。
それは――声を失ったアランが持てなかった「音」をすべて拾い集めて母の代わりに響かせているかのようで。
レギュラスはその度、胸の奥がひどく温かくなった。
「アラン、ステラがたくさん話してくれますね。」
そう言うと、アランは微笑んでうなずく。
ひどく穏やかで、柔らかく、彼が何より好きな表情だった。
休みを取ろう――できる限り。
そう決めた瞬間から、レギュラスは驚くほど早く行動していた。
執務の予定を詰め込み、部下に仕事を割り振り、余計な会議を削り、無駄な書類は片っ端から切り捨てた。
そして週に一度、二度と、必ずアランとステラの時間をつくった。
昼間のアランを、レギュラスはほとんど知らなかった。
朝の短い挨拶と、夜の深い抱擁しか見てこなかった自分が、初めて知る世界があった。
ステラを抱き上げるアランは、驚くほど表情豊かだった。
庭の芝生に座り込み、ステラの丸い手を包んで花びらを触らせてやる。
ステラが笑うと、アランの唇が小さくほころび、頬がふわりとゆるむ。
寝ぐずりするステラの背を優しく撫で、胸元に抱き寄せ、揺りかごのようにゆっくり揺れながら、静かに眠りへ導いていく。
そのたびメイラがそっと毛布をかけ、アランの肩に膝掛けを掛けていった。
メイラの存在はアランを支え、その手があるからこそアランは思う存分ステラと向き合えていた。
陽光の下で笑うアランの顔――
それは夜の光だけでは見えなかった、清らかで無垢な表情だった。
レギュラスはそれを離れた場所から見つめながら、胸の奥が満たされていくのを感じた。
あの地下で、鎖に縛られ、声を奪われ、尊厳をすべて踏みにじられていた少女。
闇の帝王の手に囚われ、自分の名を呼ぶことすら許されなかった哀れな娘は――
今、太陽の下で微笑んでいた。
ステラと花を触りながら笑う声なき唇。
メイラの冗談に肩を揺らす穏やかな仕草。
ステラの頬をそっと撫でながらうつむく優しい瞳。
そのすべてが、レギュラスには奇跡のようだった。
アランを助けたのは正しい選択だったのだと、胸を張って誇れる。
彼女を闇から救い出し、妻として迎え、母として生きられる未来を渡した――
その事実が、彼の中の最も誇れる「光」だった。
アランが穏やかに笑い、ステラがその胸で眠り、メイラが微笑む。
そんな平和な光景の中心に立つアランは、
レギュラスの手で救われ、レギュラスの手で守られた――
その証そのものだった。
そしてレギュラスは静かに思った。
――この光景のためなら、どれほど闇に沈もうとも構わない。
アランの幸福のためなら、自分は何でもできる。
そう胸の奥でひっそりと誓いながら、
昼間の光の下にいる妻と娘を、優しい目で見つめ続けた。
