2章
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レギュラスが示した“答え”は、アランの想像をはるかに越えていた。
――メイラを、自分付きの侍女としてブラック家に置く。
そんなことが本当に可能なのか、アランには理解が追いつかなかった。
純血至上のこの屋敷で、マグルを受け入れるなど、本来であれば決してありえない。
その事実を、アランは誰よりも知っていた。
だからこそ、胸の奥が震えるほどの驚きと、深い安堵と、そして言いようのない戸惑いがないまぜになった。
――どうしてこの人は、ここまで自分の願いを汲み取ろうとするのだろう。
寝具の軋む音と共に、背後からレギュラスの腕がアランの身体をそっと包む。
その動作はひどく丁寧で、痛む体を気遣うように、まるで壊れ物に触れるかのようだった。
「アラン……早く回復してくださいね」
耳元で低く落ちるその声は、やわらかく、温度があった。
そのあたたかさに触れた瞬間、アランの胸の奥に、またあの“迷い”が静かに芽生える。
――この人の手は、優しいのか。
――それとも、どこまでも残酷な人なのか。
書斎で見た、血の匂いのする書類。
狼人間に捧げられる“犠牲者”の名が淡々と記された帳簿。
その現実を前に、アランの心は音を立てて軋んだ。
同じ手で、昨夜はアランの体を何度も優しく撫でてくれた。
痛みを恐れて何度も問うてくれた。
抱きしめて、愛していると囁いてくれた。
その手が今、また自分の体を包んでいる。
体温が伝わる。呼吸の振動が背中越しに伝わる。
けれど――
その温もりを感じながら、アランは胸の奥に冷たい影を感じていた。
彼は確かに、自分の望みを叶えてくれた。
メイラをこの屋敷に招き入れ、守る“道”を整えてくれた。
でも、それは本当に“慈悲”からなのか。
それとも政治の計算か。
闇の帝王の監視から逃れるための布石なのか。
ブラック家の評判を守るためなのか。
どれが“本当のレギュラス”なのか、分からなかった。
背中に回された腕は優しい。
でもその奥底には、あの日自分をひき裂きそうなほど恐ろしかった“別の顔”が潜んでいる気がしてならない。
アランはそっと目を閉じた。
レギュラスの胸板に背を預けながら、指先がわずかに震える。
信じたい。
それでも、信じることが怖い。
愛されていると分かる。
でも――その愛はどこまで本物なのか。
どこからが闇なのか。
レギュラスの腕の中で、アランは静かに息を吸った。
その香りは確かに安心をくれるのに、その奥にあるなにかが、胸をひどく締めつけた。
優しさと残酷さを持つこの男を、どう信じればいいのか。
その答えは、まだどこにもなかった。
案の定、ブラック家が“マグルを受け入れた”という噂は、魔法界中にあっという間に広がっていった。
ブラック家の決断は常に“基準”となる。
古い伝統に忠実であるがゆえに重みを持ち、その一方で変化を見せれば魔法界全体の潮流すら動かしてしまう。
今回もその例に漏れない。
「屋敷しもべ妖精より見た目が良い」
「妖精を買うより、マグルを雇ったほうがはるかに安い」
「ブラック家が採用するなら、うちも検討すべきだ」
そういった貴族たちの声が、耳障りなほどよく聞こえた。
レギュラスは新聞の紙面に載る“マグル受け入れブーム”の記事を見て、無表情の奥で深いため息をつく。
――まったく、望んで引き起こしたわけではないのに。
そんな折、執務室の扉がノックもそこそこに開いた。
「君、ほんとにレギュラス・ブラックなのかい?」
飄々とした声とともに入ってきたのは、バーテミウス・クラウチだった。
レギュラスは書類から顔を上げ、呆れを隠さず目を細めた。
「……あなたって本当に、いい性格をしてますよ」
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
バーテミウスはにこりと笑い、まるで今回の一連の騒動の発端が自分であるということをまったく気にしていないようだった。
――そもそも、メイラを連れてきてアランに接触させたのはあなたでしょう、と言いたかったが、レギュラスは飲み込む。
軽率でありながら、どこか読みの鋭いこの男の前で余計な情報を漏らしたくなかった。
「で、これから先…… アラン・ブラックの世話係は、あのマグルがやるわけですか?」
バーテミウスの瞳は興味と好奇心に満ちていた。
レギュラスは椅子に深く背を預け、静かに答える。
「ええ。そうしてもらいます」
窓から差し込む淡い光が、レギュラスの灰銀の瞳を冷たく照らした。
その声音には、決意とも諦観ともつかない響きがあった。
アランを守るためには、他に方法がなかった。
彼女の希望を叶えるためには、メイラを屋敷に置かなければならなかった。
「なるほど……魔力を持たないからこそ、安心できる。そういうわけですね」
バーテミウスは面白そうに笑う。
「ええ。彼女は魔法の暴発や衝動的な魔力行使といった“魔法使い特有の危険”を一切持たない。アランの近くに置いても害はありません」
レギュラスは淡々と言ったが、その胸の奥には別の重みが沈んでいた。
―― アランが、あの少女を必要としている。
――ならば、どんな手段を使っても居場所を整えなければならない。
それがたとえ、ブラック家の伝統を揺るがす行為だとしても。
バーテミウスは腕を組み、楽しげに肩をすくめた。
「しかしまあ……あのレギュラス・ブラックがマグルを屋敷に置くなんてね。魔法界の歴史が一つ動いた気がしますね」
「大げさですよ」
レギュラスは面倒くさそうに言い捨てたが、その瞳の奥には静かな光が宿っていた。
アランのためでなければ、こんなことは決してしなかった。
自分にだけ向けてくれる彼女の熱と愛おしさ。
そのすべてが、この決断を後押しした。
バーテミウスの飄々とした笑い声が少し遠くなる。
レギュラスは静かに書類へと視線を戻した。
―― アランのそばに置くためなら、世界がどう騒ごうと関係ない。
その冷静さの奥に潜む熱を、レギュラス自身が最もよく理解していた。
屋敷へ戻り、長い廊下を歩いて寝室へ向かう。
扉を開けた瞬間、レギュラスはふと足を止めた。
そこに広がっていた光景は、胸の奥をざわつかせるにはあまりにも十分だった。
アランが寝台の上でステラを抱いている。
そのすぐ隣――レギュラスがいつも眠るはずの場所に、メイラが小さく膝を抱えて座っていた。
少女がこちらに気づき、ぱっと笑顔を向けてくる。
「おかえりなさいませ、レギュラスさん」
アランはステラをそっとメイラへ渡す。
メイラは丁寧に赤子を抱き、深く頭を下げると部屋を静かに出て行った。
扉が閉まった瞬間、胸の奥がひりついた。
――言いようのない嫌悪感だった。
自分の寝台に、マグルの少女が腰掛けていたという事実。
そして、それをアランが拒まず、むしろ慈しむような眼差しで受け入れていたこと。
それが、これまで自分が築いてきた“純血の常識”を、容赦なく塗り替えてしまっているように思えた。
理解はしている。
アランはメイラを心から大切に思っている。
彼女がステラを抱き、母のように髪を撫でてやる姿を見て、自分もそれを否定することはできない。
だが――
自分の寝台は、ここだけは譲れない。
そこは夫婦の領域であり、アランと何度も愛を確かめ合った、唯一侵されることが許されない場所だった。
レギュラスはゆっくりとアランのもとへ歩み寄り、寝台の端に腰を下ろす。
アランが杖を振る。
優しい文字が空中に浮かび上がる。
『おかえりなさい、レギュラス』
その言葉の温かさに少し息が和らぐが、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
レギュラスはアランの手をそっと包み、落ち着いた声で言う。
「……ここは、僕とあなたの部屋です」
アランの翡翠の瞳が、静かに揺れる。
どう伝えるべきか、どう言葉に乗せれば傷つけずに済むのか。
レギュラス自身にも答えはなかった。
娘であるステラが寝室で眠っていることさえ、本来の自分なら違和感がある。
なにせ、ここは夫婦の寝室であり、ふたりだけの聖域なのだから。
そんな場所に、自分たち以外の者が横になる――
それだけで、胸の奥がざわつく。
「このベッドに……僕とあなた以外の者が横になるのは、ちょっと、受け入れがたいんです」
アランはわずかに眉を寄せ、そっと杖を振った。
『ごめんなさい。無神経でした』
その文字を見た瞬間、レギュラスは胸の緊張がふわりとほどけるのを感じた。
伝わった――。
拒絶ではなく、ただ自分の気持ちを分かってほしかっただけなのだ。
アランの手の温もりを握り直しながら、レギュラスは静かに息をついた。
どうにか守りたいと思いながら、どうにも壊れてしまいそうな繊細な均衡の上に、自分たちの生活が成り立っていることを痛感しながら。
メイラ・ウォルブリッジは、驚くほどよく働いた。
いや、“働いた”というより―― アランのことを一瞬も忘れないように、常に意識のすべてを向けていた。
屋敷しもべ妖精たちよりもずっと細やかで、ずっと丁寧で、ずっと温かかった。
アランの手が届かないものに気づき、アランの痛みを察し、アランが言葉を失った部分を補おうと、まるで自分の役目だと信じて疑わないように献身した。
そのおかげで――
アランの回復は、想像を超える速度で進んでいった。
まだ歩けば痛みが走るだろうし、体の奥に残る違和感は容易く消えないはずなのに。
数日前まで椅子に座るのさえ苦しげだったアランが、今はきちんと食事をとり、短い距離なら歩けるようになっていた。
その事実に、レギュラスは胸の奥が温かくなるのを止められなかった。
同時に――皮肉にも思えた。
マグルである少女が、ブラック家の屋敷で、純血の妻の心と体を支え、回復へと導いている。
誇り高き純血主義の屋敷で、魔力を持たぬ少女の存在が、妻の“よりどころ”になっている。
――まるで悪い冗談のようだった。
夕暮れ、レギュラスが寝室に戻ると、アランが柔らかな表情で杖を動かした。
『今日はメイラに手を引いてもらい、庭を散歩しました』
淡く空中に浮かぶ文字。
その筆致には、ほんのひとつまみの誇らしさと、外の空気に触れた日の喜びが滲んでいる。
「そうですか。……あまり無茶をしないでくださいね」
レギュラスは、アランの腰のあたりにそっと手を添えた。
アランが微かに揺れてしまわないよう、反射的に支えてしまうほど慎重に。
ほんの数日前、数歩歩いただけで息を呑むほど痛みに震えていた姿と比べれば、今の彼女は奇跡のように見えた。
レギュラスは、自然と胸の奥が熱くなる。
――このまま順調に回復していけば、
夫婦として、また触れ合える日が来るのだろうか。
アランの体を気遣いながら求め合う時間。
互いの温もりを確かめて、ようやく心が静かに満たされる夜。
その願いは、ずっと自分の中で消えずに残っている。
だが、それを叶えるためのきっかけを作っているのが、
あのマグルの少女――メイラだという事実は、どこまでも皮肉だった。
夫婦の営みへ戻る道を、純血ではない少女が整えてくれているという現実。
レギュラスは思わず、目を伏せた。
この屋敷にとっても、自分にとっても、どれほど異質で、どれほど常軌を逸しているか。
分かりすぎるほど分かっているのに。
それでも――
アランの傍らで、静かに微笑むメイラの姿を見るたび、
あの少女は、確かにアランの支えになっている。
そしてアランの回復が早いほど、レギュラスの心もまた、救われていくのだった。
騎士団本部では、連日ざわつきが止まらなかった。
純血主義の名門貴族たちの間で、突如として「マグルを屋敷の使用人として買い漁る」という奇妙な流行が巻き起こっている――その発端が、よりにもよってブラック家だったからだ。
「レギュラス・ブラックが、マグルの少女を引き取ったらしい」
「嘘だろう? あのブラック家の“弟”が?」
「どういう風の吹き回しだ?」
そんな噂が廊下の端から端まで駆け巡り、騎士団員たちは半ば呆れ、半ば不穏な気配を感じていた。
シリウスは、その話を聞いた瞬間、胸を掴まれたような息苦しさに襲われた。
――あのレギュラスが?
――弟が、マグルの少女を?
弟であるレギュラスの性格を、誰よりも間近で見て育った。
冷静で、理性的で、そして血筋や政治の論理を何より重視する。
そのレギュラスがマグルに慈悲をかけるなど、到底ありえない。
何か別の意図があるに決まっている――そう思うのに。
それでも、アランを守るためだけだったのなら。
彼女が望んだのなら。
レギュラスはどんな手段でも整えるかもしれない――そうとも思えてしまう自分がいた。
そして、胸を締めつけたのは――廊下の片隅でひそひそと囁かれていた別の噂だった。
「アラン・ブラックは……流産したらしい」
その言葉を耳にした瞬間、シリウスの心臓は叩きつけられるように痛んだ。
息が止まるかと思った。
――嘘だ。
嘘であってくれ。
ステラが生まれて、まだどれほども経っていない。
そもそも、二人目を身ごもったという事実自体があまりに早すぎる。体が回復しきっているとは到底思えなかった。
――弟の屋敷で、アランはどれほどの生活を強いられている?
冷ややかな空気が常に漂うブラック家。
オリオンとヴァルブルガの、“期待に沿わぬものには価値がない”という無言の圧。
その中心にレギュラスがいて、アランは息を詰めるように暮らしているのではないか。
男児を産む義務。
純血の後継者を望む家の執拗な願い。
レギュラスとの性生活も、もしかしたら義務として強いられていたのではないか。
そんな想像がシリウスの頭を容赦なくえぐった。
胸に広がるのは怒りとも悲しみとも言えない、どうしようもない焦燥だった。
――会いに行きたい。
アランの顔を見て、無事だと言ってほしい。
抱きしめて、「よく頑張った」と伝えたい。
だが護衛任務の合間に耳にするのは、弟の屋敷の重い扉がいかに閉ざされ、外からの視線を拒むかという現実ばかりだった。
ステラの誕生を喜んでいた彼女が、
次の子を望まれていた彼女が、
“流産した”という噂だけを残して沈黙している。
その沈黙が、何より怖かった。
シリウスは拳を握りしめた。指先が白くなるほど強く。
心はただひとつの想いでいっぱいだった。
――どうか、アラン。
どうか、生きていてくれ。
そしてどうか……苦しまないでいてくれ。
騎士団の喧騒のなかで、シリウスの胸を満たしていたのは、ただそれだけだった。
執務室に積み上げられた書類の山は、ただでさえ重い一日の終わりを、さらに陰鬱に染め上げていた。
レギュラスは羽ペンを握る手に力を込め、次々と“調査不要”の署名を走らせていく。
苛立ちが胸を焦がし、笑いにもならぬ嘲りが喉の奥で渦を巻いていた。
――騎士団側からの問題視。
――親マグル派の魔法使いたちが上げる抗議。
――「マグルの人権を損なう動きが純血社会で流行している」などという報告。
うるさい、とレギュラスは心の中で舌打ちした。
何がマグルの人権だ。
何が対等の権利だ。
ここは魔法界――魔力ある者が築き上げてきた世界。
その中で、魔力を持たぬ者が“当たり前のように生きていること”こそが本来道理に反している。
嫌ならばマグル界に戻ればいい。
戻らずこちらの世界に留まるのは、彼ら自身の選択でしかない。
――いつからこの世界はマグル中心に回っていかねばならなくなった?
考えるべきは純血魔法使いの未来。
守るべきは血統であり、この世界そのものだ。
マグルなど、議論に挙げる価値すらない。
レギュラスは溜め息を押し殺し、次の書類へとペン先を滑らせた。
窓の外はすでに漆黒、夜の帳が塔の上に深く落ちている。
――こんな下らない問題のために、夜が更けていく。
苛立ちが積み重なり、胸の奥に澱のように沈殿していく。
そんな時だった。
「久しぶりに、この時間までいるとは思いませんでしたよ」
軽い声が執務室の扉から響く。
バーテミウスだった。姿を見せただけで、彼の目的は容易に察せられる。
――また、酒でもひっかけに行こうというのだ。
レギュラスは羽ペンを置き、目頭を押さえたあと、深く息を吐いた。
そして、聞かれる前に答えを示した。
「ええ、いいですよ」
返事は驚くほど素直に出た。
アランはそろそろ寝ている頃だろう。
ステラも乳母とともに眠りについただろう。
今夜は、急いで帰らねばならない理由がどこにもなかった。
むしろ――
一晩だけでも、あの息苦しい屋敷を離れたかった。
母の視線も、父の冷静な圧も、アランの沈黙の不安も。
何ひとつ背負わずにすむ場所が、今は欲しかった。
バーテミウスが軽やかに笑う。
「では、久々に発散といきましょうか」
肩を竦めて立ち上がるレギュラス。
闇の帝王の命令にも、ブラック家の期待にも縛られない、ただの若き貴族としての自分――
そんな姿に戻れるのは、この男といる時くらいだ。
夜風が塔の外でざわつき、魔法灯の光が執務室の床を揺らした。
レギュラスはバーテミウスと並んで廊下へ出る。
胸の内を占めていた苛立ちも嘲笑も、まだ完全には消えない。
それでも、不思議と歩く足は軽かった。
――今夜くらいは、忘れてやる。
政治も、マグルも、家の呪縛も。
そして、自分自身の影のような冷酷さも。
レギュラスは目を閉じ、灯りの下で静かに息を吐いた。
そして、夜の外気へと踏み出した。
バーテミウスは、誘いの言葉を口にする前から確信していた。
――レギュラスは来る、と。
アランブラックが流産して間もない時期であることを考えれば、この夫婦の寝台に再び温もりが戻るのは、まだ先のことだろう。
そうなれば、あの男が夜の時間を埋める術はひとつしかない。
だからこそ、声をかければ必ず乗ってくる――と、バーテミウスは微塵も疑わなかった。
久しぶりに酒屋街へ足を踏み入れる。
石畳には夜の湿り気が溜まり、ランタンの光は金色に滲み、妖しい魅力を帯びていた。
バーテミウス自身、それなりに見栄えがする方だという自負はある。
だが――。
レギュラス・ブラックが隣を歩くと、その自負は滑稽なほど脆く崩れる。
客引きの女たちは、彼を見るなり一瞬で表情を変えた。
媚びるような笑み、舐めるような視線。
より美しい女を選び、隣に侍らせたい――そんな競争心が、彼女らの目に露骨に宿っていく。
バーテミウスは横目に見ながら、苦笑をこぼした。
まったく、相変わらずだな
レギュラスブラックという男は、何もしなくても女を惹きつける。
立っているだけで絵になるし、黙っていても周囲を支配してしまう。
今夜もレギュラスはよく飲んだ。
学生時代から変わらない、あれほど飲んでも崩れない姿勢。
杯をいくら重ねても、品が削れない。
横に座る女たちへの気遣いも忘れない。
ワインを注ぎ足す手つきも、話を聞くときのわずかな頷きも、まるで訓練された貴族の舞のような滑らかさだった。
――本当に、魔性の男だ。
バーテミウスは内心で舌を巻いた。
「君はやっぱり、女を虜にする才能があるみたいですね」
軽口のように言うと、レギュラスは薄く笑ったが、否定はしなかった。
この男は若くして結婚した。
しかも、相手は―― アラン・ブラック。
目の前の女たちが霞むような、美貌を持った娘だ。
だがバーテミウスにとって理解不能なのは、そこから先だった。
なぜ、あの女を“妻”にした?
闇の帝王に幽閉されていた“道具”のような女を、なぜわざわざ救い出し、屋敷に迎え、妻として扱う必要があったのか。
趣味で可愛がるなら分かる。
地下に置き、気が向いたときに愛でればそれで十分だったはずだ。
レギュラス・ブラックほどの男なら、それが自然だとすら思えた。
「あなたは、そろそろ腰を落ち着かせた方がいいですよ」
グラスを傾けながらバーテミウスは言った。
自分自身はまだ気楽だ。
そのうち派閥が適当な純血女性を決めてくれるだろうし、それまでは好きなだけ遊べばいい。
自由で気ままな生活こそ、自分には似合っている。
だがレギュラスは――違う。
彼は、愛に縛られ、責務に縛られ、名家の重圧に縛られている。
そして何より……
アランという呪いのような存在に縛られている。
そのことを思うと、バーテミウスの胸に、わずかな薄寒さがよぎった。
天賦の美貌、魔力、気品。
どれだけの女が望んでも手の届かない男であるレギュラス・ブラックが、
最も“手を離せない女”を抱え込んでしまった。
――その事実こそが、何より厄介なのだ。
バーテミウスはグラスの底に残った赤を飲み干し、静かに息をついた。
今夜くらいは、せいぜい羽を伸ばすといいですよ――レギュラス
酒屋街の喧騒が、ふたりの影を長く引き伸ばしていた。
モーテルの薄暗い廊下は、夜の湿気と古い香水の匂いが混ざり合っていた。
酔いが深く沈み込んで、世界の輪郭が緩んでいく。
レギュラスは隣を歩く女の腰に手を添えながら、どこか現実と乖離したような心地のまま部屋へ入った。
扉が閉まる音が響いた瞬間、女がまっすぐ胸元に手を置いてくる。
欲望がむき出しで、気遣いなど一切ない。
ただ触れたい、抱かれたいという衝動だけが漂っていた。
その瞳を見た。
――濁った茶色。
翡翠ではない。
胸の奥で、深く沈んでいた緊張がかすかにほどけた。
あの色ではない。
アランの、宝石のような光を宿す翡翠の瞳でもない。
そしてあの夜――マグルの孤児院で、封印の儀式に捧げたあの少女の瞳の色でもなかった。
その現実に、レギュラスはぞっとするほどの安堵を覚えた。
あの瞳は、どんな光も真っ直ぐに映してくる。
愛も、欲も、弱さも、そして――罪も。
アランを見るたび、自分の奥底に沈めてきた残酷さの全てを見透かされる気がしていた。
赦されたいと願う自分と、赦されるはずがないと知っている自分。
その矛盾をいつも静かに揺らされてしまう。
だから今、目の前の女が“翡翠の瞳ではない”というだけで、救われた気がした。
――だが同時に、ひどくみっともなく思えた。
女が服を脱ぎながら唇を寄せてくる。
その声は高く、甲高く、部屋に響く。
「久しぶり……なの?」
挑発するような目つきで女が問いかける。
レギュラスは、みっともないほど素直に吐き出していた。
「……妻は、声を持たないので。
声を出す人とするのが……久しぶりで」
自分の言葉がどれほど愚かで、どれほど浅ましいのかはわかっている。
アランの沈黙は彼女自身が望んで得たものでも、気まぐれに失ったものでもない。
地下で何年も、声を奪うような非道の呪文と拷問に晒され続けた結果だ。
彼女の沈黙は、痛みの記憶そのものだ。
「黙っていたほうがいい?」と女は艶めかしく笑う。
「……いや。別に。そのままで構いません」
期待するように、せがむように。
女はもっと強い声を欲しがる。
女の鳴く声が響くたび、レギュラスの思考は白く灼けていった。
昂ぶりは確かに身体を突き動かすのに――
胸の奥底では、別の痛みが鈍く疼いていた。
アランの呼吸。
吐息のかすかな震え。
声にならない「声」。
――あれだけで満ち足りたはずなのに。
今、目の前の女が発する淫らな声に、どうしようもなく乱されている己がいる。
……最低だ
胸が軋んだ。
たまらなく、自己嫌悪が押し寄せた。
アランの沈黙を愛し、彼女の小さな吐息だけを、どれほど尊く感じていたか。
そのたびに、いつか――ほんの一言でも、彼女の声を聞ける日が来るのなら、と夢にしていたのに。
今はこの安いモーテルのベッドで、
別の女の嬌声に溺れている。
女が爪を立て、首筋を甘噛みする。
快楽は確かに身体を支配する。
だが心は、真逆の方向から引き裂かれていた。
アランの声が欲しい。
けれどその声は、二度と戻らないかもしれない。
孤児院で血を奪ったあの少女の瞳と、アランの翡翠の瞳が重なり合い、
胸の中でずっと消えない罪が黒く渦巻いた。
女の声が高く跳ね上がる。
レギュラスはその声に身を沈めながら、同時に強く願っていた。
どうか、アランの瞳を思い出させないでくれ。
あの瞳は何も言わずに、いつも真実だけを映してしまうから。
女との行為は、驚くほど楽だった。
肩に力を入れる必要も、相手の痛みを恐れる必要もない。
微妙な表情の変化を読み取ろうと神経を張り巡らせる必要も、
沈黙の奥に秘められた何かを探ろうとする必要もなかった。
ただ、欲望がぶつかり合い、
互いの熱が一致するだけ――
それ以上でも以下でもない軽さが、妙に心地よかった。
アランとの行為では、常に緊張が張り付いていた。
あの細い体が震えていないか。
痛みに耐えていないか。
心のどこかで無理に応えてはいないか。
一つの仕草、一つの呼吸。
そして何より――声を持たない彼女の、翡翠の瞳。
その瞳に浮かぶ感情を、
レギュラスは必死に読み取ろうとしてしまう。
彼女が痛みを伝える術は限られているからこそ、
レギュラスはひたすら慎重な男になっていった。
ステラを産んだあと、
アランの体はより繊細になった。
数ヶ月経っても、レギュラスの心はあの出産の光景の記憶に縛られていた。
――彼女は壊れてしまうのではないか。
そう思うたびに、
触れる指先が震え、
愛しながらも恐れがつきまとう。
だが、目の前の女にはそんなものは何一つ必要なかった。
声があるというだけで、
こんなにも世界は単純で、
容易く快楽に沈んでくれるのか――
と、レギュラスは素直に驚いた。
痛みに配慮する必要もない。
中断して様子を伺う必要もない。
ただ本能に任せて抱けば、それで良かった。
女は行為のあと、
汗の残る肌に冷たい空気を感じながらタバコを吸っていた。
紫煙が天井に向かって揺れ、
ぼんやりとした空気が漂っている。
「あなた、ブラック家の坊やなんでしょ?」
女がサイドテーブルに無造作に置かれた杖を顎で指す。
「ええ。あなたは?」
名前に興味があったわけではない。
礼儀として問うたにすぎない。
「セラよ。」
短く、美しくも乱暴に名乗った。
闇色の睫毛が煙の向こうで瞬く。
「どうせ覚えないんでしょうけど」と女は笑う。
「どうでしょうね」
レギュラスも曖昧に笑って返した。
薄い会話。
中身などない。
互いの心を探るような柔らかい視線もない。
期待も執着も存在しない。
なのに、なぜだか嫌ではなかった。
こういう距離感は、
アランとは決して持ち得ないものだった。
煙がゆっくりと空に昇る。
視界の向こうで、女の指が灰皿の縁を叩く。
レギュラスはシーツの皺を見つめながら、
ふと考えてしまった。
――いつか、アランとこんなふうに、
たわいのない他愛話を交わせる未来は来るのだろうか。
今は声を持たない彼女が、
いつか「おはよう」と言い、
小さな笑みをこぼして、
冗談を言いあえる日が――本当に来るのだろうか。
そんなはずがないと、
心のどこかで理解している。
それでも、
願ってしまった。
女の声がまだ耳に残っているのに、
胸の奥に居座るのはアランの沈黙だった。
沈黙なのに、
彼女のほうがずっとうるさい。
その事実だけが、ひどく切なかった。
肌に残る熱がまだ呼吸のたびに胸の奥でゆっくりと波打っていた。
レギュラスは窓辺に腰を下ろし、わずかに開いた窓から入り込む夜風に火照った身体を冷まそうとした。
遠くの街灯が夜霧の向こうで滲み、酒屋街のざわめきが微かに届く。
ふと視線を転じると、セラが薄いシーツを巻いただけの姿でタバコを吸い終え、煙を最後のひと筋だけ吐き出したところだった。
「はい、これ。」
セラは手早く指先で摘んだ一枚の名刺をレギュラスに差し出した。
夜のざらつく気配とは対照的に、その仕草は妙に洗練されていた。
「あなた、意外だったわ。」
セラは唇の端だけで笑いながら言う。
「それだけ若いなら、もっと激しく押してくるかと思ったのに。」
「物足りませんでした?」
レギュラスは首を傾け、わざと丁寧な声で返す。
「違うわよ。」
セラは軽く眉を上げる。
「すごく優しく抱くから――勘違いする女が出てくるわよって忠告。遊び慣れてないのね、あなた。」
レギュラスはそこでふっと小さく笑った。
苦笑にも似ているその表情は、己の内側を静かに見つめているようだった。
――遊び慣れていないか。
学生時代、好きな時に好きな相手を選び、
その気まぐれで世界が回っていたような時期もあった。
だがアランを妻として迎えてからは、
よそに視線を向ける余裕すら持たなかったのが事実だった。
あの声を持たない少女を抱くたび、
彼女の痛みに怯え、彼女の沈黙に耳を澄ませ、
そして翡翠の瞳に映る感情を必死に拾おうとしていた。
普通の、何も背負わない肉体のぶつかり合いなど、
いつからか遠い世界のものになっていた。
「忠告、感謝しますね。」
レギュラスは名刺を指で摘み上げた。
紙質の滑らかさと、印字の凹凸を確かめるように親指で撫でる。
名刺にはこう刻まれていた。
Céra Levington(セラ・レヴィントン)
「ごめんなさいね。」
セラがくすりと笑い、腰に手を当てる。
「私、あなたが嫌いな“混血”の魔女よ?」
「こういう瞬間に、純血も混血も関係ないでしょう。」
レギュラスも肩をすくめて返す。
その一言に、セラは声を立てて笑った。
夜の空気に、軽やかな笑い声が溶けていった。
誰にも縛られず、誰にも遠慮せず、
ただ“いまここ”だけを楽しむ笑い声だった。
モーテルを出る時でさえ、セラはあっさりしていた。
別れの余韻や名残など、この女は求めない。
「では、ミスターブラック。」
セラは軽く指を振りながら言う。
「またお誘いいただけたら嬉しいわ。」
その言葉も、湿り気がない。
ただ、気楽で、自由で、心地よい。
レギュラスは薄く微笑み返した。
その微笑の奥に、罪悪感の影がまだ微かに揺れていたが――
心が、少しだけ軽くなっていた。
胸に絡んでいた何かが、少しだけほどけていくような感覚。
だが同時に、その軽さがどこかで
アランから目を逸らすための言い訳のようにも思えた。
それでも、歩き出す足取りだけは、
久しく感じていなかったほど自由だった。
酒屋街から屋敷へ戻る道は、いつもよりずっと静かに感じられた。
夜風が頬を撫でていくたび、どこかに置き忘れてきた熱だけが肌の内側でゆっくり燻っている。
セラの残した煙草の香りと、笑うときに喉の奥で転がった声の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。
その全てが、レギュラスの胸の奥に“違和感”として残っていた。
――あれほど楽だったのに。
――どうして心まで軽くならない?
モーテルで交わした会話は驚くほど簡潔で、
行為は互いの欲望だけが支配していた。
複雑な感情の影も、痛みを気遣う必要も、沈黙の意味を探る必要もなかった。
ただ触れたいから触れ、
求められるから応え、
終わったあとも互いの胸に足跡を残さない。
それがこんなにも“楽”で、
こんなにも“自由”で、
こんなにも“息がしやすい”なんて――
忘れていた。
レギュラス・ブラックという名の重さも、
純血の家に生まれた宿命も、
家庭の期待も、政治のしがらみも関係ない世界。
ただ、一人の男として存在できる空間。
セラはその扉を一晩だけ開いて見せたのだ。
だが、その自由がレギュラスの胸に残したものは“解放”ではなかった。
―― アランの沈黙が、重く感じる。
声を持たないアラン。
愛を伝えるために何度も杖を振り、
小さな表情の揺れで必死に思いを示すアラン。
セラの奔放な声が頭に残っているせいで、
アランの沈黙がこれまで以上に胸を締め付けてくる。
優しく抱かれた一夜だった――
そう言ったセラ。
では、アランは?
あの沈黙の中で、
どんな気持ちで自分を受け入れていたのだろう。
愛か。
義務か。
あるいは痛みに耐えるための無言か。
それを確かめる術は、どこにもない。
――声を持たない彼女の沈黙を、
自分はどれほど都合よく理解したつもりでいたのだろう。
屋敷の門が迫る頃、胸の内側が針で刺すように痛んだ。
セラが残したのは“解放”ではなく――
アランという存在の重さを、より鮮明に突きつける影だった。
モーテルでの軽い会話が恋しく思えるほどに、
屋敷へ戻る足取りは重かった。
レギュラスは思わず歩みを緩める。
――帰りたくない、のか?
そんな感情、かつて一度でも抱いたことがあっただろうか。
アランの眠る寝室までの道が、
初めてこんなにも遠く感じられた。
寝室の扉を静かに押し開けた瞬間、
レギュラスは胸の奥をつかまれたように呼吸を止めた。
薄い月明かりがカーテンの隙間から差し込み、
アランの寝台を柔らかく照らしていた。
アランは穏やかな寝息ひとつ立てず、
ステラの小さな手を握ったまま眠っていた。
その横顔は、痛みと疲労をようやく手放した幼子のように静かで――
あまりに脆くて、あまりに美しくて、
レギュラスはその光景だけで胸が痛んだ。
…あの夜のセラの笑顔よりも、
どれほどこの姿を愛しているか。
それなのに――
足がすくむように動けなくなった。
アランの元へ戻ることが、
初めて“怖い”と思った。
あの女の声がまだ耳に残っている。
対してこの寝室には声がない。
アランは、沈黙でしか何も伝えられない。
触れれば、すぐ分かる。
アランの沈黙だけが、自分を裁ける。
彼女は何も言わないのに、何も知らないのに――
どうしてここまで罪悪感が膨れ上がる?
レギュラスはゆっくり寝台に歩み寄る。
アランの手を取りたかった。
触れて、安心させて、愛していると言いたかった。
それはいつも自然にできたことだ。
しかし――
指先があと数センチで届く、その瞬間。
レギュラスの手は震え、空中で止まった。
ためらい。
躊躇。
恐怖。
そんな感情がレギュラスを縛りつけ、
指先はアランの白い手に触れられず宙をさまよった。
触れる資格があるのか?
アランが夜通し耐えてきた痛みも、
静かに生きようとしている境遇も、
声すら持たないその生活も。
自分は――
そのすべてを裏切った。
アランの眉が少しだけ動いた。
眠りの中で何かを感じ取ったのかもしれない。
レギュラスは息を呑む。
宙で固まっていた手を引っ込めようとした。
――触れられない。
その一瞬の躊躇に、自分自身が驚いた。
けれど、アランの小さな手がふいにステラの手を離れ、
布の上からレギュラスの方へすっと滑るように伸びてきた。
眠っていながらも、
レギュラスのいる方へ触れようとするように。
その無意識の仕草が、胸を突き刺す。
レギュラスは堪えられず、そっとアランの手を握った。
震えていたのは、自分の方だった。
アランは何も知らない。
それでも、こんなにも自分を求めてくれる。
こんなにも信じてくれる。
その事実こそが一番残酷で、
一番愛おしかった。
レギュラスはアランの手を額に押し当て、
小さく、声にならない吐息を落とす。
――メイラを、自分付きの侍女としてブラック家に置く。
そんなことが本当に可能なのか、アランには理解が追いつかなかった。
純血至上のこの屋敷で、マグルを受け入れるなど、本来であれば決してありえない。
その事実を、アランは誰よりも知っていた。
だからこそ、胸の奥が震えるほどの驚きと、深い安堵と、そして言いようのない戸惑いがないまぜになった。
――どうしてこの人は、ここまで自分の願いを汲み取ろうとするのだろう。
寝具の軋む音と共に、背後からレギュラスの腕がアランの身体をそっと包む。
その動作はひどく丁寧で、痛む体を気遣うように、まるで壊れ物に触れるかのようだった。
「アラン……早く回復してくださいね」
耳元で低く落ちるその声は、やわらかく、温度があった。
そのあたたかさに触れた瞬間、アランの胸の奥に、またあの“迷い”が静かに芽生える。
――この人の手は、優しいのか。
――それとも、どこまでも残酷な人なのか。
書斎で見た、血の匂いのする書類。
狼人間に捧げられる“犠牲者”の名が淡々と記された帳簿。
その現実を前に、アランの心は音を立てて軋んだ。
同じ手で、昨夜はアランの体を何度も優しく撫でてくれた。
痛みを恐れて何度も問うてくれた。
抱きしめて、愛していると囁いてくれた。
その手が今、また自分の体を包んでいる。
体温が伝わる。呼吸の振動が背中越しに伝わる。
けれど――
その温もりを感じながら、アランは胸の奥に冷たい影を感じていた。
彼は確かに、自分の望みを叶えてくれた。
メイラをこの屋敷に招き入れ、守る“道”を整えてくれた。
でも、それは本当に“慈悲”からなのか。
それとも政治の計算か。
闇の帝王の監視から逃れるための布石なのか。
ブラック家の評判を守るためなのか。
どれが“本当のレギュラス”なのか、分からなかった。
背中に回された腕は優しい。
でもその奥底には、あの日自分をひき裂きそうなほど恐ろしかった“別の顔”が潜んでいる気がしてならない。
アランはそっと目を閉じた。
レギュラスの胸板に背を預けながら、指先がわずかに震える。
信じたい。
それでも、信じることが怖い。
愛されていると分かる。
でも――その愛はどこまで本物なのか。
どこからが闇なのか。
レギュラスの腕の中で、アランは静かに息を吸った。
その香りは確かに安心をくれるのに、その奥にあるなにかが、胸をひどく締めつけた。
優しさと残酷さを持つこの男を、どう信じればいいのか。
その答えは、まだどこにもなかった。
案の定、ブラック家が“マグルを受け入れた”という噂は、魔法界中にあっという間に広がっていった。
ブラック家の決断は常に“基準”となる。
古い伝統に忠実であるがゆえに重みを持ち、その一方で変化を見せれば魔法界全体の潮流すら動かしてしまう。
今回もその例に漏れない。
「屋敷しもべ妖精より見た目が良い」
「妖精を買うより、マグルを雇ったほうがはるかに安い」
「ブラック家が採用するなら、うちも検討すべきだ」
そういった貴族たちの声が、耳障りなほどよく聞こえた。
レギュラスは新聞の紙面に載る“マグル受け入れブーム”の記事を見て、無表情の奥で深いため息をつく。
――まったく、望んで引き起こしたわけではないのに。
そんな折、執務室の扉がノックもそこそこに開いた。
「君、ほんとにレギュラス・ブラックなのかい?」
飄々とした声とともに入ってきたのは、バーテミウス・クラウチだった。
レギュラスは書類から顔を上げ、呆れを隠さず目を細めた。
「……あなたって本当に、いい性格をしてますよ」
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
バーテミウスはにこりと笑い、まるで今回の一連の騒動の発端が自分であるということをまったく気にしていないようだった。
――そもそも、メイラを連れてきてアランに接触させたのはあなたでしょう、と言いたかったが、レギュラスは飲み込む。
軽率でありながら、どこか読みの鋭いこの男の前で余計な情報を漏らしたくなかった。
「で、これから先…… アラン・ブラックの世話係は、あのマグルがやるわけですか?」
バーテミウスの瞳は興味と好奇心に満ちていた。
レギュラスは椅子に深く背を預け、静かに答える。
「ええ。そうしてもらいます」
窓から差し込む淡い光が、レギュラスの灰銀の瞳を冷たく照らした。
その声音には、決意とも諦観ともつかない響きがあった。
アランを守るためには、他に方法がなかった。
彼女の希望を叶えるためには、メイラを屋敷に置かなければならなかった。
「なるほど……魔力を持たないからこそ、安心できる。そういうわけですね」
バーテミウスは面白そうに笑う。
「ええ。彼女は魔法の暴発や衝動的な魔力行使といった“魔法使い特有の危険”を一切持たない。アランの近くに置いても害はありません」
レギュラスは淡々と言ったが、その胸の奥には別の重みが沈んでいた。
―― アランが、あの少女を必要としている。
――ならば、どんな手段を使っても居場所を整えなければならない。
それがたとえ、ブラック家の伝統を揺るがす行為だとしても。
バーテミウスは腕を組み、楽しげに肩をすくめた。
「しかしまあ……あのレギュラス・ブラックがマグルを屋敷に置くなんてね。魔法界の歴史が一つ動いた気がしますね」
「大げさですよ」
レギュラスは面倒くさそうに言い捨てたが、その瞳の奥には静かな光が宿っていた。
アランのためでなければ、こんなことは決してしなかった。
自分にだけ向けてくれる彼女の熱と愛おしさ。
そのすべてが、この決断を後押しした。
バーテミウスの飄々とした笑い声が少し遠くなる。
レギュラスは静かに書類へと視線を戻した。
―― アランのそばに置くためなら、世界がどう騒ごうと関係ない。
その冷静さの奥に潜む熱を、レギュラス自身が最もよく理解していた。
屋敷へ戻り、長い廊下を歩いて寝室へ向かう。
扉を開けた瞬間、レギュラスはふと足を止めた。
そこに広がっていた光景は、胸の奥をざわつかせるにはあまりにも十分だった。
アランが寝台の上でステラを抱いている。
そのすぐ隣――レギュラスがいつも眠るはずの場所に、メイラが小さく膝を抱えて座っていた。
少女がこちらに気づき、ぱっと笑顔を向けてくる。
「おかえりなさいませ、レギュラスさん」
アランはステラをそっとメイラへ渡す。
メイラは丁寧に赤子を抱き、深く頭を下げると部屋を静かに出て行った。
扉が閉まった瞬間、胸の奥がひりついた。
――言いようのない嫌悪感だった。
自分の寝台に、マグルの少女が腰掛けていたという事実。
そして、それをアランが拒まず、むしろ慈しむような眼差しで受け入れていたこと。
それが、これまで自分が築いてきた“純血の常識”を、容赦なく塗り替えてしまっているように思えた。
理解はしている。
アランはメイラを心から大切に思っている。
彼女がステラを抱き、母のように髪を撫でてやる姿を見て、自分もそれを否定することはできない。
だが――
自分の寝台は、ここだけは譲れない。
そこは夫婦の領域であり、アランと何度も愛を確かめ合った、唯一侵されることが許されない場所だった。
レギュラスはゆっくりとアランのもとへ歩み寄り、寝台の端に腰を下ろす。
アランが杖を振る。
優しい文字が空中に浮かび上がる。
『おかえりなさい、レギュラス』
その言葉の温かさに少し息が和らぐが、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
レギュラスはアランの手をそっと包み、落ち着いた声で言う。
「……ここは、僕とあなたの部屋です」
アランの翡翠の瞳が、静かに揺れる。
どう伝えるべきか、どう言葉に乗せれば傷つけずに済むのか。
レギュラス自身にも答えはなかった。
娘であるステラが寝室で眠っていることさえ、本来の自分なら違和感がある。
なにせ、ここは夫婦の寝室であり、ふたりだけの聖域なのだから。
そんな場所に、自分たち以外の者が横になる――
それだけで、胸の奥がざわつく。
「このベッドに……僕とあなた以外の者が横になるのは、ちょっと、受け入れがたいんです」
アランはわずかに眉を寄せ、そっと杖を振った。
『ごめんなさい。無神経でした』
その文字を見た瞬間、レギュラスは胸の緊張がふわりとほどけるのを感じた。
伝わった――。
拒絶ではなく、ただ自分の気持ちを分かってほしかっただけなのだ。
アランの手の温もりを握り直しながら、レギュラスは静かに息をついた。
どうにか守りたいと思いながら、どうにも壊れてしまいそうな繊細な均衡の上に、自分たちの生活が成り立っていることを痛感しながら。
メイラ・ウォルブリッジは、驚くほどよく働いた。
いや、“働いた”というより―― アランのことを一瞬も忘れないように、常に意識のすべてを向けていた。
屋敷しもべ妖精たちよりもずっと細やかで、ずっと丁寧で、ずっと温かかった。
アランの手が届かないものに気づき、アランの痛みを察し、アランが言葉を失った部分を補おうと、まるで自分の役目だと信じて疑わないように献身した。
そのおかげで――
アランの回復は、想像を超える速度で進んでいった。
まだ歩けば痛みが走るだろうし、体の奥に残る違和感は容易く消えないはずなのに。
数日前まで椅子に座るのさえ苦しげだったアランが、今はきちんと食事をとり、短い距離なら歩けるようになっていた。
その事実に、レギュラスは胸の奥が温かくなるのを止められなかった。
同時に――皮肉にも思えた。
マグルである少女が、ブラック家の屋敷で、純血の妻の心と体を支え、回復へと導いている。
誇り高き純血主義の屋敷で、魔力を持たぬ少女の存在が、妻の“よりどころ”になっている。
――まるで悪い冗談のようだった。
夕暮れ、レギュラスが寝室に戻ると、アランが柔らかな表情で杖を動かした。
『今日はメイラに手を引いてもらい、庭を散歩しました』
淡く空中に浮かぶ文字。
その筆致には、ほんのひとつまみの誇らしさと、外の空気に触れた日の喜びが滲んでいる。
「そうですか。……あまり無茶をしないでくださいね」
レギュラスは、アランの腰のあたりにそっと手を添えた。
アランが微かに揺れてしまわないよう、反射的に支えてしまうほど慎重に。
ほんの数日前、数歩歩いただけで息を呑むほど痛みに震えていた姿と比べれば、今の彼女は奇跡のように見えた。
レギュラスは、自然と胸の奥が熱くなる。
――このまま順調に回復していけば、
夫婦として、また触れ合える日が来るのだろうか。
アランの体を気遣いながら求め合う時間。
互いの温もりを確かめて、ようやく心が静かに満たされる夜。
その願いは、ずっと自分の中で消えずに残っている。
だが、それを叶えるためのきっかけを作っているのが、
あのマグルの少女――メイラだという事実は、どこまでも皮肉だった。
夫婦の営みへ戻る道を、純血ではない少女が整えてくれているという現実。
レギュラスは思わず、目を伏せた。
この屋敷にとっても、自分にとっても、どれほど異質で、どれほど常軌を逸しているか。
分かりすぎるほど分かっているのに。
それでも――
アランの傍らで、静かに微笑むメイラの姿を見るたび、
あの少女は、確かにアランの支えになっている。
そしてアランの回復が早いほど、レギュラスの心もまた、救われていくのだった。
騎士団本部では、連日ざわつきが止まらなかった。
純血主義の名門貴族たちの間で、突如として「マグルを屋敷の使用人として買い漁る」という奇妙な流行が巻き起こっている――その発端が、よりにもよってブラック家だったからだ。
「レギュラス・ブラックが、マグルの少女を引き取ったらしい」
「嘘だろう? あのブラック家の“弟”が?」
「どういう風の吹き回しだ?」
そんな噂が廊下の端から端まで駆け巡り、騎士団員たちは半ば呆れ、半ば不穏な気配を感じていた。
シリウスは、その話を聞いた瞬間、胸を掴まれたような息苦しさに襲われた。
――あのレギュラスが?
――弟が、マグルの少女を?
弟であるレギュラスの性格を、誰よりも間近で見て育った。
冷静で、理性的で、そして血筋や政治の論理を何より重視する。
そのレギュラスがマグルに慈悲をかけるなど、到底ありえない。
何か別の意図があるに決まっている――そう思うのに。
それでも、アランを守るためだけだったのなら。
彼女が望んだのなら。
レギュラスはどんな手段でも整えるかもしれない――そうとも思えてしまう自分がいた。
そして、胸を締めつけたのは――廊下の片隅でひそひそと囁かれていた別の噂だった。
「アラン・ブラックは……流産したらしい」
その言葉を耳にした瞬間、シリウスの心臓は叩きつけられるように痛んだ。
息が止まるかと思った。
――嘘だ。
嘘であってくれ。
ステラが生まれて、まだどれほども経っていない。
そもそも、二人目を身ごもったという事実自体があまりに早すぎる。体が回復しきっているとは到底思えなかった。
――弟の屋敷で、アランはどれほどの生活を強いられている?
冷ややかな空気が常に漂うブラック家。
オリオンとヴァルブルガの、“期待に沿わぬものには価値がない”という無言の圧。
その中心にレギュラスがいて、アランは息を詰めるように暮らしているのではないか。
男児を産む義務。
純血の後継者を望む家の執拗な願い。
レギュラスとの性生活も、もしかしたら義務として強いられていたのではないか。
そんな想像がシリウスの頭を容赦なくえぐった。
胸に広がるのは怒りとも悲しみとも言えない、どうしようもない焦燥だった。
――会いに行きたい。
アランの顔を見て、無事だと言ってほしい。
抱きしめて、「よく頑張った」と伝えたい。
だが護衛任務の合間に耳にするのは、弟の屋敷の重い扉がいかに閉ざされ、外からの視線を拒むかという現実ばかりだった。
ステラの誕生を喜んでいた彼女が、
次の子を望まれていた彼女が、
“流産した”という噂だけを残して沈黙している。
その沈黙が、何より怖かった。
シリウスは拳を握りしめた。指先が白くなるほど強く。
心はただひとつの想いでいっぱいだった。
――どうか、アラン。
どうか、生きていてくれ。
そしてどうか……苦しまないでいてくれ。
騎士団の喧騒のなかで、シリウスの胸を満たしていたのは、ただそれだけだった。
執務室に積み上げられた書類の山は、ただでさえ重い一日の終わりを、さらに陰鬱に染め上げていた。
レギュラスは羽ペンを握る手に力を込め、次々と“調査不要”の署名を走らせていく。
苛立ちが胸を焦がし、笑いにもならぬ嘲りが喉の奥で渦を巻いていた。
――騎士団側からの問題視。
――親マグル派の魔法使いたちが上げる抗議。
――「マグルの人権を損なう動きが純血社会で流行している」などという報告。
うるさい、とレギュラスは心の中で舌打ちした。
何がマグルの人権だ。
何が対等の権利だ。
ここは魔法界――魔力ある者が築き上げてきた世界。
その中で、魔力を持たぬ者が“当たり前のように生きていること”こそが本来道理に反している。
嫌ならばマグル界に戻ればいい。
戻らずこちらの世界に留まるのは、彼ら自身の選択でしかない。
――いつからこの世界はマグル中心に回っていかねばならなくなった?
考えるべきは純血魔法使いの未来。
守るべきは血統であり、この世界そのものだ。
マグルなど、議論に挙げる価値すらない。
レギュラスは溜め息を押し殺し、次の書類へとペン先を滑らせた。
窓の外はすでに漆黒、夜の帳が塔の上に深く落ちている。
――こんな下らない問題のために、夜が更けていく。
苛立ちが積み重なり、胸の奥に澱のように沈殿していく。
そんな時だった。
「久しぶりに、この時間までいるとは思いませんでしたよ」
軽い声が執務室の扉から響く。
バーテミウスだった。姿を見せただけで、彼の目的は容易に察せられる。
――また、酒でもひっかけに行こうというのだ。
レギュラスは羽ペンを置き、目頭を押さえたあと、深く息を吐いた。
そして、聞かれる前に答えを示した。
「ええ、いいですよ」
返事は驚くほど素直に出た。
アランはそろそろ寝ている頃だろう。
ステラも乳母とともに眠りについただろう。
今夜は、急いで帰らねばならない理由がどこにもなかった。
むしろ――
一晩だけでも、あの息苦しい屋敷を離れたかった。
母の視線も、父の冷静な圧も、アランの沈黙の不安も。
何ひとつ背負わずにすむ場所が、今は欲しかった。
バーテミウスが軽やかに笑う。
「では、久々に発散といきましょうか」
肩を竦めて立ち上がるレギュラス。
闇の帝王の命令にも、ブラック家の期待にも縛られない、ただの若き貴族としての自分――
そんな姿に戻れるのは、この男といる時くらいだ。
夜風が塔の外でざわつき、魔法灯の光が執務室の床を揺らした。
レギュラスはバーテミウスと並んで廊下へ出る。
胸の内を占めていた苛立ちも嘲笑も、まだ完全には消えない。
それでも、不思議と歩く足は軽かった。
――今夜くらいは、忘れてやる。
政治も、マグルも、家の呪縛も。
そして、自分自身の影のような冷酷さも。
レギュラスは目を閉じ、灯りの下で静かに息を吐いた。
そして、夜の外気へと踏み出した。
バーテミウスは、誘いの言葉を口にする前から確信していた。
――レギュラスは来る、と。
アランブラックが流産して間もない時期であることを考えれば、この夫婦の寝台に再び温もりが戻るのは、まだ先のことだろう。
そうなれば、あの男が夜の時間を埋める術はひとつしかない。
だからこそ、声をかければ必ず乗ってくる――と、バーテミウスは微塵も疑わなかった。
久しぶりに酒屋街へ足を踏み入れる。
石畳には夜の湿り気が溜まり、ランタンの光は金色に滲み、妖しい魅力を帯びていた。
バーテミウス自身、それなりに見栄えがする方だという自負はある。
だが――。
レギュラス・ブラックが隣を歩くと、その自負は滑稽なほど脆く崩れる。
客引きの女たちは、彼を見るなり一瞬で表情を変えた。
媚びるような笑み、舐めるような視線。
より美しい女を選び、隣に侍らせたい――そんな競争心が、彼女らの目に露骨に宿っていく。
バーテミウスは横目に見ながら、苦笑をこぼした。
まったく、相変わらずだな
レギュラスブラックという男は、何もしなくても女を惹きつける。
立っているだけで絵になるし、黙っていても周囲を支配してしまう。
今夜もレギュラスはよく飲んだ。
学生時代から変わらない、あれほど飲んでも崩れない姿勢。
杯をいくら重ねても、品が削れない。
横に座る女たちへの気遣いも忘れない。
ワインを注ぎ足す手つきも、話を聞くときのわずかな頷きも、まるで訓練された貴族の舞のような滑らかさだった。
――本当に、魔性の男だ。
バーテミウスは内心で舌を巻いた。
「君はやっぱり、女を虜にする才能があるみたいですね」
軽口のように言うと、レギュラスは薄く笑ったが、否定はしなかった。
この男は若くして結婚した。
しかも、相手は―― アラン・ブラック。
目の前の女たちが霞むような、美貌を持った娘だ。
だがバーテミウスにとって理解不能なのは、そこから先だった。
なぜ、あの女を“妻”にした?
闇の帝王に幽閉されていた“道具”のような女を、なぜわざわざ救い出し、屋敷に迎え、妻として扱う必要があったのか。
趣味で可愛がるなら分かる。
地下に置き、気が向いたときに愛でればそれで十分だったはずだ。
レギュラス・ブラックほどの男なら、それが自然だとすら思えた。
「あなたは、そろそろ腰を落ち着かせた方がいいですよ」
グラスを傾けながらバーテミウスは言った。
自分自身はまだ気楽だ。
そのうち派閥が適当な純血女性を決めてくれるだろうし、それまでは好きなだけ遊べばいい。
自由で気ままな生活こそ、自分には似合っている。
だがレギュラスは――違う。
彼は、愛に縛られ、責務に縛られ、名家の重圧に縛られている。
そして何より……
アランという呪いのような存在に縛られている。
そのことを思うと、バーテミウスの胸に、わずかな薄寒さがよぎった。
天賦の美貌、魔力、気品。
どれだけの女が望んでも手の届かない男であるレギュラス・ブラックが、
最も“手を離せない女”を抱え込んでしまった。
――その事実こそが、何より厄介なのだ。
バーテミウスはグラスの底に残った赤を飲み干し、静かに息をついた。
今夜くらいは、せいぜい羽を伸ばすといいですよ――レギュラス
酒屋街の喧騒が、ふたりの影を長く引き伸ばしていた。
モーテルの薄暗い廊下は、夜の湿気と古い香水の匂いが混ざり合っていた。
酔いが深く沈み込んで、世界の輪郭が緩んでいく。
レギュラスは隣を歩く女の腰に手を添えながら、どこか現実と乖離したような心地のまま部屋へ入った。
扉が閉まる音が響いた瞬間、女がまっすぐ胸元に手を置いてくる。
欲望がむき出しで、気遣いなど一切ない。
ただ触れたい、抱かれたいという衝動だけが漂っていた。
その瞳を見た。
――濁った茶色。
翡翠ではない。
胸の奥で、深く沈んでいた緊張がかすかにほどけた。
あの色ではない。
アランの、宝石のような光を宿す翡翠の瞳でもない。
そしてあの夜――マグルの孤児院で、封印の儀式に捧げたあの少女の瞳の色でもなかった。
その現実に、レギュラスはぞっとするほどの安堵を覚えた。
あの瞳は、どんな光も真っ直ぐに映してくる。
愛も、欲も、弱さも、そして――罪も。
アランを見るたび、自分の奥底に沈めてきた残酷さの全てを見透かされる気がしていた。
赦されたいと願う自分と、赦されるはずがないと知っている自分。
その矛盾をいつも静かに揺らされてしまう。
だから今、目の前の女が“翡翠の瞳ではない”というだけで、救われた気がした。
――だが同時に、ひどくみっともなく思えた。
女が服を脱ぎながら唇を寄せてくる。
その声は高く、甲高く、部屋に響く。
「久しぶり……なの?」
挑発するような目つきで女が問いかける。
レギュラスは、みっともないほど素直に吐き出していた。
「……妻は、声を持たないので。
声を出す人とするのが……久しぶりで」
自分の言葉がどれほど愚かで、どれほど浅ましいのかはわかっている。
アランの沈黙は彼女自身が望んで得たものでも、気まぐれに失ったものでもない。
地下で何年も、声を奪うような非道の呪文と拷問に晒され続けた結果だ。
彼女の沈黙は、痛みの記憶そのものだ。
「黙っていたほうがいい?」と女は艶めかしく笑う。
「……いや。別に。そのままで構いません」
期待するように、せがむように。
女はもっと強い声を欲しがる。
女の鳴く声が響くたび、レギュラスの思考は白く灼けていった。
昂ぶりは確かに身体を突き動かすのに――
胸の奥底では、別の痛みが鈍く疼いていた。
アランの呼吸。
吐息のかすかな震え。
声にならない「声」。
――あれだけで満ち足りたはずなのに。
今、目の前の女が発する淫らな声に、どうしようもなく乱されている己がいる。
……最低だ
胸が軋んだ。
たまらなく、自己嫌悪が押し寄せた。
アランの沈黙を愛し、彼女の小さな吐息だけを、どれほど尊く感じていたか。
そのたびに、いつか――ほんの一言でも、彼女の声を聞ける日が来るのなら、と夢にしていたのに。
今はこの安いモーテルのベッドで、
別の女の嬌声に溺れている。
女が爪を立て、首筋を甘噛みする。
快楽は確かに身体を支配する。
だが心は、真逆の方向から引き裂かれていた。
アランの声が欲しい。
けれどその声は、二度と戻らないかもしれない。
孤児院で血を奪ったあの少女の瞳と、アランの翡翠の瞳が重なり合い、
胸の中でずっと消えない罪が黒く渦巻いた。
女の声が高く跳ね上がる。
レギュラスはその声に身を沈めながら、同時に強く願っていた。
どうか、アランの瞳を思い出させないでくれ。
あの瞳は何も言わずに、いつも真実だけを映してしまうから。
女との行為は、驚くほど楽だった。
肩に力を入れる必要も、相手の痛みを恐れる必要もない。
微妙な表情の変化を読み取ろうと神経を張り巡らせる必要も、
沈黙の奥に秘められた何かを探ろうとする必要もなかった。
ただ、欲望がぶつかり合い、
互いの熱が一致するだけ――
それ以上でも以下でもない軽さが、妙に心地よかった。
アランとの行為では、常に緊張が張り付いていた。
あの細い体が震えていないか。
痛みに耐えていないか。
心のどこかで無理に応えてはいないか。
一つの仕草、一つの呼吸。
そして何より――声を持たない彼女の、翡翠の瞳。
その瞳に浮かぶ感情を、
レギュラスは必死に読み取ろうとしてしまう。
彼女が痛みを伝える術は限られているからこそ、
レギュラスはひたすら慎重な男になっていった。
ステラを産んだあと、
アランの体はより繊細になった。
数ヶ月経っても、レギュラスの心はあの出産の光景の記憶に縛られていた。
――彼女は壊れてしまうのではないか。
そう思うたびに、
触れる指先が震え、
愛しながらも恐れがつきまとう。
だが、目の前の女にはそんなものは何一つ必要なかった。
声があるというだけで、
こんなにも世界は単純で、
容易く快楽に沈んでくれるのか――
と、レギュラスは素直に驚いた。
痛みに配慮する必要もない。
中断して様子を伺う必要もない。
ただ本能に任せて抱けば、それで良かった。
女は行為のあと、
汗の残る肌に冷たい空気を感じながらタバコを吸っていた。
紫煙が天井に向かって揺れ、
ぼんやりとした空気が漂っている。
「あなた、ブラック家の坊やなんでしょ?」
女がサイドテーブルに無造作に置かれた杖を顎で指す。
「ええ。あなたは?」
名前に興味があったわけではない。
礼儀として問うたにすぎない。
「セラよ。」
短く、美しくも乱暴に名乗った。
闇色の睫毛が煙の向こうで瞬く。
「どうせ覚えないんでしょうけど」と女は笑う。
「どうでしょうね」
レギュラスも曖昧に笑って返した。
薄い会話。
中身などない。
互いの心を探るような柔らかい視線もない。
期待も執着も存在しない。
なのに、なぜだか嫌ではなかった。
こういう距離感は、
アランとは決して持ち得ないものだった。
煙がゆっくりと空に昇る。
視界の向こうで、女の指が灰皿の縁を叩く。
レギュラスはシーツの皺を見つめながら、
ふと考えてしまった。
――いつか、アランとこんなふうに、
たわいのない他愛話を交わせる未来は来るのだろうか。
今は声を持たない彼女が、
いつか「おはよう」と言い、
小さな笑みをこぼして、
冗談を言いあえる日が――本当に来るのだろうか。
そんなはずがないと、
心のどこかで理解している。
それでも、
願ってしまった。
女の声がまだ耳に残っているのに、
胸の奥に居座るのはアランの沈黙だった。
沈黙なのに、
彼女のほうがずっとうるさい。
その事実だけが、ひどく切なかった。
肌に残る熱がまだ呼吸のたびに胸の奥でゆっくりと波打っていた。
レギュラスは窓辺に腰を下ろし、わずかに開いた窓から入り込む夜風に火照った身体を冷まそうとした。
遠くの街灯が夜霧の向こうで滲み、酒屋街のざわめきが微かに届く。
ふと視線を転じると、セラが薄いシーツを巻いただけの姿でタバコを吸い終え、煙を最後のひと筋だけ吐き出したところだった。
「はい、これ。」
セラは手早く指先で摘んだ一枚の名刺をレギュラスに差し出した。
夜のざらつく気配とは対照的に、その仕草は妙に洗練されていた。
「あなた、意外だったわ。」
セラは唇の端だけで笑いながら言う。
「それだけ若いなら、もっと激しく押してくるかと思ったのに。」
「物足りませんでした?」
レギュラスは首を傾け、わざと丁寧な声で返す。
「違うわよ。」
セラは軽く眉を上げる。
「すごく優しく抱くから――勘違いする女が出てくるわよって忠告。遊び慣れてないのね、あなた。」
レギュラスはそこでふっと小さく笑った。
苦笑にも似ているその表情は、己の内側を静かに見つめているようだった。
――遊び慣れていないか。
学生時代、好きな時に好きな相手を選び、
その気まぐれで世界が回っていたような時期もあった。
だがアランを妻として迎えてからは、
よそに視線を向ける余裕すら持たなかったのが事実だった。
あの声を持たない少女を抱くたび、
彼女の痛みに怯え、彼女の沈黙に耳を澄ませ、
そして翡翠の瞳に映る感情を必死に拾おうとしていた。
普通の、何も背負わない肉体のぶつかり合いなど、
いつからか遠い世界のものになっていた。
「忠告、感謝しますね。」
レギュラスは名刺を指で摘み上げた。
紙質の滑らかさと、印字の凹凸を確かめるように親指で撫でる。
名刺にはこう刻まれていた。
Céra Levington(セラ・レヴィントン)
「ごめんなさいね。」
セラがくすりと笑い、腰に手を当てる。
「私、あなたが嫌いな“混血”の魔女よ?」
「こういう瞬間に、純血も混血も関係ないでしょう。」
レギュラスも肩をすくめて返す。
その一言に、セラは声を立てて笑った。
夜の空気に、軽やかな笑い声が溶けていった。
誰にも縛られず、誰にも遠慮せず、
ただ“いまここ”だけを楽しむ笑い声だった。
モーテルを出る時でさえ、セラはあっさりしていた。
別れの余韻や名残など、この女は求めない。
「では、ミスターブラック。」
セラは軽く指を振りながら言う。
「またお誘いいただけたら嬉しいわ。」
その言葉も、湿り気がない。
ただ、気楽で、自由で、心地よい。
レギュラスは薄く微笑み返した。
その微笑の奥に、罪悪感の影がまだ微かに揺れていたが――
心が、少しだけ軽くなっていた。
胸に絡んでいた何かが、少しだけほどけていくような感覚。
だが同時に、その軽さがどこかで
アランから目を逸らすための言い訳のようにも思えた。
それでも、歩き出す足取りだけは、
久しく感じていなかったほど自由だった。
酒屋街から屋敷へ戻る道は、いつもよりずっと静かに感じられた。
夜風が頬を撫でていくたび、どこかに置き忘れてきた熱だけが肌の内側でゆっくり燻っている。
セラの残した煙草の香りと、笑うときに喉の奥で転がった声の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。
その全てが、レギュラスの胸の奥に“違和感”として残っていた。
――あれほど楽だったのに。
――どうして心まで軽くならない?
モーテルで交わした会話は驚くほど簡潔で、
行為は互いの欲望だけが支配していた。
複雑な感情の影も、痛みを気遣う必要も、沈黙の意味を探る必要もなかった。
ただ触れたいから触れ、
求められるから応え、
終わったあとも互いの胸に足跡を残さない。
それがこんなにも“楽”で、
こんなにも“自由”で、
こんなにも“息がしやすい”なんて――
忘れていた。
レギュラス・ブラックという名の重さも、
純血の家に生まれた宿命も、
家庭の期待も、政治のしがらみも関係ない世界。
ただ、一人の男として存在できる空間。
セラはその扉を一晩だけ開いて見せたのだ。
だが、その自由がレギュラスの胸に残したものは“解放”ではなかった。
―― アランの沈黙が、重く感じる。
声を持たないアラン。
愛を伝えるために何度も杖を振り、
小さな表情の揺れで必死に思いを示すアラン。
セラの奔放な声が頭に残っているせいで、
アランの沈黙がこれまで以上に胸を締め付けてくる。
優しく抱かれた一夜だった――
そう言ったセラ。
では、アランは?
あの沈黙の中で、
どんな気持ちで自分を受け入れていたのだろう。
愛か。
義務か。
あるいは痛みに耐えるための無言か。
それを確かめる術は、どこにもない。
――声を持たない彼女の沈黙を、
自分はどれほど都合よく理解したつもりでいたのだろう。
屋敷の門が迫る頃、胸の内側が針で刺すように痛んだ。
セラが残したのは“解放”ではなく――
アランという存在の重さを、より鮮明に突きつける影だった。
モーテルでの軽い会話が恋しく思えるほどに、
屋敷へ戻る足取りは重かった。
レギュラスは思わず歩みを緩める。
――帰りたくない、のか?
そんな感情、かつて一度でも抱いたことがあっただろうか。
アランの眠る寝室までの道が、
初めてこんなにも遠く感じられた。
寝室の扉を静かに押し開けた瞬間、
レギュラスは胸の奥をつかまれたように呼吸を止めた。
薄い月明かりがカーテンの隙間から差し込み、
アランの寝台を柔らかく照らしていた。
アランは穏やかな寝息ひとつ立てず、
ステラの小さな手を握ったまま眠っていた。
その横顔は、痛みと疲労をようやく手放した幼子のように静かで――
あまりに脆くて、あまりに美しくて、
レギュラスはその光景だけで胸が痛んだ。
…あの夜のセラの笑顔よりも、
どれほどこの姿を愛しているか。
それなのに――
足がすくむように動けなくなった。
アランの元へ戻ることが、
初めて“怖い”と思った。
あの女の声がまだ耳に残っている。
対してこの寝室には声がない。
アランは、沈黙でしか何も伝えられない。
触れれば、すぐ分かる。
アランの沈黙だけが、自分を裁ける。
彼女は何も言わないのに、何も知らないのに――
どうしてここまで罪悪感が膨れ上がる?
レギュラスはゆっくり寝台に歩み寄る。
アランの手を取りたかった。
触れて、安心させて、愛していると言いたかった。
それはいつも自然にできたことだ。
しかし――
指先があと数センチで届く、その瞬間。
レギュラスの手は震え、空中で止まった。
ためらい。
躊躇。
恐怖。
そんな感情がレギュラスを縛りつけ、
指先はアランの白い手に触れられず宙をさまよった。
触れる資格があるのか?
アランが夜通し耐えてきた痛みも、
静かに生きようとしている境遇も、
声すら持たないその生活も。
自分は――
そのすべてを裏切った。
アランの眉が少しだけ動いた。
眠りの中で何かを感じ取ったのかもしれない。
レギュラスは息を呑む。
宙で固まっていた手を引っ込めようとした。
――触れられない。
その一瞬の躊躇に、自分自身が驚いた。
けれど、アランの小さな手がふいにステラの手を離れ、
布の上からレギュラスの方へすっと滑るように伸びてきた。
眠っていながらも、
レギュラスのいる方へ触れようとするように。
その無意識の仕草が、胸を突き刺す。
レギュラスは堪えられず、そっとアランの手を握った。
震えていたのは、自分の方だった。
アランは何も知らない。
それでも、こんなにも自分を求めてくれる。
こんなにも信じてくれる。
その事実こそが一番残酷で、
一番愛おしかった。
レギュラスはアランの手を額に押し当て、
小さく、声にならない吐息を落とす。
