2章
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メイラはアランに手を引かれながらも、足を止めてしまった。
薄暗い廊下の明かりが、彼女の黒い瞳に揺れて映る。
「アランさん……私、遠くには行っちゃいけないの。
施設の人にも言われてるの」
迷子の子どものように、困った顔で。
それでも言いつけを守ろうとする、まっすぐな気持ちを隠さずに。
アランは足を止めた。
胸の奥で何かがきゅっと縮まる。
どう説明すればいい?
どうすれば、純粋なメイラに真実を伝えられる?
——ここは安全なんかじゃない。
——あなたの優しさを奪うための場所なんかじゃない。
——あなたを、生き餌として差し出すための“牧場”なんだ、と。
そんな残酷な言葉を、この小さな少女に告げることなんて、できるはずがなかった。
アランは震える手で杖を持ち上げた。
空気を切る音さえ心細い。
『メイラ……ごめんね。本当に……ごめんなさい』
文字が光となって浮かび上がる。
その一文字一文字が、アランの痛む心臓を貫くようだった。
メイラが驚いたように瞬きをする。
「どうして…… アランさんが謝るの?」
その声は、あまりにもまっすぐで。
まるで闇夜を照らす灯りのように清らかで。
アランの胸に突き刺さった。
——ごめんなさい。
——私はあなたを、あんなところに置いてしまった。
——あなたが“食われる”可能性のある場所に、何も知らずに送り出してしまった。
——あなたを守れると思い込んでいた自分の愚かさにも。
——優しさを信じてくれたあなたの思いを裏切ってしまった自分にも。
でも、その全部を言葉になんてできない。
伝えた瞬間、この子の世界は一瞬で崩れてしまうから。
アランはそっとメイラの頬に触れた。
細い指先が、震えていた。
メイラは不思議そうにアランを見つめる。
黒い瞳の奥に、疑いも恐れもない。ただ、信頼だけがあった。
「アランさん、泣いてるの……?」
メイラがそっとアランの手を握った。
小さくて温かい、その掌。
アランは胸が裂けそうだった。
——どうしてこんなにも純粋なの。
——どうしてまだ、私を信じてくれるの。
——どうしてあなたの未来が、こんなにも残酷な仕組みに囲まれてしまっているの。
杖を握る手が震え、涙が頬を伝う。
『あなたを……守りたかったの』
必死に紡いだ言葉は、光の文字となって空間にふわりと漂った。
メイラはそれを読み、ほんの一瞬、胸に手を当てた。
「……うん。アランさん。
私、アランさんの言うことなら……信じる。どこに行くのも怖くないよ」
その言葉に、アランは息を呑んだ。
少女はまだ何も知らない。
奪われた父の真実も。
背後に渦巻く政治も。
世界の残酷さも。
それでも—— アランの言葉だけは疑わず、全てを預けてくれる。
その純真さが痛くて、愛しくて、そして何より……恐かった。
アランはメイラの手をしっかり握り直し、自分の体の痛みごと抱きしめて、再び歩き出した。
——絶対に守る。
——この子だけは、もう二度と、犠牲になんてさせない。
その思いだけを胸に、アランは少女を連れ、闇の中へと消えていった。
夜風は冷たく、肌の奥まで刺すようだった。
アランはメイラの小さな手を強く握ったまま、舗道をただ彷徨った。
どこへ向かえばいいのか、まるで見当がつかない。
少女の歩幅に合わせて進むたび、腹部に鈍い痛みが走る。
それでも立ち止まるわけにはいかなかった。
足を止めれば、恐怖が追いついてきてしまう気がした。
「アランさん……帰らなくて平気なの?」
メイラの声は、不安よりも心配が勝っていた。
まるで自分がアランを気遣う大人になったかのように。
アランは一瞬、足を止めた。
“帰る場所”という言葉が胸の奥で痛く響く。
——帰る場所?
どこに?
ブラック家の豪奢な屋敷に?
ステラが眠るあの優しい部屋に?
だがその屋敷の主は、
あの地下で己の魂を削り取りながら抱きしめてくれた男は、
罪もない少女の命を“仕方のない犠牲”として扱う世界の象徴でもあった。
どこに戻るというのか。
あんな残酷さと優しさを同時に孕む男の腕に。
今さらどうやって?
アランは答えられず、杖を振ることもできなかった。
言葉を作るだけの心の余裕がなかった。
メイラはそんなアランの沈黙に気づき、そっと腕を引いた。
「…… アランさん」
細い声。
その声には、責めも不安もなく、ただ純粋な温度だけがあった。
アランは胸が詰まりそうになった。
守りたくて、愛しくて、痛いほどにいとしくて。
だけど——どこへ行けばいい?
魔法界にもマグル界にも、身を寄せられる安全な場所などない。
レギュラスの城のような屋敷にも、
騎士団にも、
どこにも。
ただ歩けば歩くほど、足元の闇は深まっていくばかりだった。
メイラの手はあまりに小さく、頼りなくて。
しかし同時に、アランの唯一の温もりだった。
アランは少女の顔を覗き込もうとしたが、涙で視界が滲んだ。
——私は、何ひとつ守れない。
——あなたを救いたいと願ったくせに、逃げた先の未来すら描けない。
——私はなんて無力なの。
胸の奥から嗚咽が込み上げてきそうになり、アランは唇を噛みしめた。
どこか遠くで鐘の音が響く。
夜を知らせる鐘は残酷に静かで、
この世界が誰の悲しみも気にかけてはくれないことを思い知らせる。
「アラン さん……手、あったかいね」
メイラがぽつりと言った。
アランは涙が零れ落ちそうになった。
どれほど怖くても、どれほど痛くても、
この少女にだけは不安を見せたくなかった。
だからアランは、震える指先でそっとメイラの頬に触れた。
それが、今の自分にできる唯一の“答え”だった。
行く当てもなく、未来の影しかない夜道。
アランは、少女の温もりだけを頼りに、また歩き出した。
——守る。
——どんなに無力でも。
——あなたを、絶対に。
その祈りだけを胸に。
レギュラスの胸の奥で、凶暴な焦燥が暴れまわっていた。
アランが姿くらましを使ったという報せを聞いた瞬間、
思考が一度真っ白になった。
妊娠初期の身体で——
あの繊細な、折れそうな身体で、姿くらましを。
常人でさえ臓器を痛め、魔力の乱れで倒れる者も出るほどの負担だ。
アランのように出産の傷もまだ完全には癒えていない身体には、
命取りにすらなり得る。
それを、あの子は。
あの優しい妻は。
恐怖に追い立てられた結果として選んだのだ。
自分から逃げるために。
レギュラスは廊下を早足で歩きながら、胸を締めつけられる感覚に息が乱れそうになっていた。
屋敷の空気が重く冷たい。
夜の帳が落ちた館の中は静まり返り、ただ自分の靴音だけがやけに響く。
——あの時、アランは。
書斎で書類が乱れ落ちた中。
アランは蒼白な指で杖を握りしめ、震える腕で問いかけてきた。
“メイラを狼人間に食べさせるつもりですか?”
心臓を刺されたようだった。
雷鳴にも似た衝撃が胸の奥で弾けた。
否定の言葉は……すぐには出てこなかった。
政治の現実と、アランの理想。
その両方を抱えた結果、喉が詰まって言葉が遅れた。
その沈黙が、たしかにアランを絶望させた。
——あんな顔。
——あんな怯え。
——あんな拒絶を、どうして自分が向けられねばならない。
レギュラスは自分の胸に指を押し当てた。
息が苦しい。
心が焼けつくように痛い。
彼女は、あの夜、自分の腕の中で震えていた。
優しく触れれば触れるほど、アランの身体は安心して寄り添ってくれた。
愛を分かち合い、互いを求め合い、
その温もりは確かなものだった。
なのに。
書斎でアランはまるで、自分を知らない人間を見るような目をした。
あれほど甘えて身を預けてくれた身体が、
まるで毒を見るように自分の手を払いのけた。
——自分はそんな男か?
—— アランを怯えさせるほど、残酷な“何か”をしてしまったのか?
彼は足を止め、壁に手をつき深く息を吸った。
喉が痛むほどの息苦しさ。
胸の奥で、後悔と焦りと恐怖が渦巻いていた。
「…… アラン……どこです」
声は震え、掠れた。
アランが恐怖のあまり自分から逃げたという現実が、
レギュラスの心を鋭く斬りつけた。
——地下の暗闇から救い出した手と、
——マグルを切り捨てる政策に署名する手が、
同じ手だと気づかれた。
あの怯えは、まるで
「あなたが誰なのかわからない」と訴えているようだった。
両手が震える。
アランに払われた腕の感触が、何度も何度も蘇ってくる。
あの時のアランの瞳。
涙を含んだ翡翠色。
信頼と愛を寄せてくれていたはずの瞳が、
恐怖に揺れて、自分から遠ざかった。
「…… アラン、お願いです……どこにも行かないで」
彼は闇に呟いた。
アランとステラ。
その二人がいなければ、世界は意味を喪う。
——早く見つけなければ。
——彼女の身体が壊れてしまう前に。
——心が二度と戻らなくなる前に。
レギュラスは姿くらましの準備をしながら震える手を押さえつけた。
愛する妻が、自分から逃げている。
その現実に胸を裂かれながら。
マグル保護施設からの報告は、夜気の中で鋭い刃のようにレギュラスの胸を貫いた。
──メイラ・ウォルブリッジ脱走。
つまりそれは、アランが彼女を連れ出したということだ。
そしてアラン自身も姿くらましを使用している。
だが、
あの弱っている身体で、二度も姿くらましを行えるはずがない。
したがって、アランはまだ施設のごく近くにいる──レギュラスはそう確信した。
寝室へ戻ると、ステラは乳母の腕の中で静かに眠っていた。
闇の中でも、彼女の睫毛はアランそっくりに長く美しい。
レギュラスは小さく息を吐き、ステラの小さな手をそっと取った。
「……ごめん、少しだけ我慢してください。」
杖先で肌に触れ、魔力が傷を追う前にほんの細い切り傷を描く。
血は、一粒落ちるだけで淡く輝く宝石のようだった。
それを銀の皿へ受けると、レギュラスは静かに魔法陣を組む。
幼子の血は、母親の魔力の欠片を必ず宿す。
そこからアランの魔力の波長を追跡することは可能だった。
円を描く線が淡く光り始める。
血が吸い込まれるように魔法陣の中心へ浮き上がり、
細い糸のような光がひとつの方向へ伸びた──。
「……見つけた。」
レギュラスは躊躇なく姿くらましを行う。
光の飛沫が散り、空気が裂ける音とともに彼の姿は闇に消えた。
次の瞬間、彼は冷たい夜風の吹く、寂れたマグル界の小道に立っていた。
街灯の届かない闇。
湿った土の匂い。
どこか遠くで犬の吠える声。
その闇の中で、アランはしゃがみ込んでいた。
真っ白な指で腹を抱え、肩が震えている。
痛みか、恐怖か、疲労か──すべてだった。
隣にはメイラ・ウォルブリッジ。
痩せた腕で必死にアランの背をさすっていた。
その小さな手は、何も知らない者の精いっぱいの優しさを宿していた。
レギュラスは思わず駆け寄る。
「アラン……! 戻りますよ。」
声が自分でも驚くほど震えていた。
アランは力なく顔を上げた。
その翡翠の瞳は、痛みに濁っているのに、それでもまっすぐ自分を見た。
メイラもレギュラスのほうへ顔を向けた。
「……レギュラス・ブラック……?」
怯えるかと思った。
憎しみが宿っていてもおかしくないと思った。
だが少女の黒い瞳には、恐れも怒りもなかった。
ただ、病を治してくれた“魔法使い”としての、幼い信頼だけがあった。
胸がひどく痛んだ。
アランは──
自分の罪を、一言も少女に伝えていない。
だからこそ、この無垢な眼差しなのだ。
夜の冷気が二人の身体から熱を奪っていく。
アランの唇は青く、指先は凍えるほど冷たい。
姿くらましの負荷と、妊娠の身体では、これ以上の負担に耐えられるはずがない。
だが、メイラをどうすればいい。
連れて屋敷に戻る──それは父と母が決して許さない。
アランはその瞬間に壊れるだろう。
しかし置き去りにするなど。
施設に戻せば、いずれ……。
答えがどこにもなかった。
メイラはアランの腕を握りしめたまま、小さくささやいた。
「アランさん、苦しいの……? どうしよう……」
この子はまだ知らないのだ。
闇がどれほど濃く、どれほど残酷に彼女を呑み込もうとしていたのか。
レギュラスは唇を噛む。
アランの震える肩。
少女の小さな手。
夜風にさらされた冷たい大地。
どんな決断をすべきなのか。
今この瞬間、誰よりもレギュラス自身が迷っていた。
アランを抱えて歩くうち、レギュラスはふと腕にずしりとした重みを感じた。
何かがローブに染みたような、冷えた湿り気。
風に晒された布が張りつくように重たくなっていく。
……雨か?
そう思い、そっと指先でローブの裾に触れた。
しかし、触れた指先にまとわりついたのは──
水ではなかった。
「…………血……?」
指先に広がった暗赤色のぬめり。
すぐに胸が凍りつくような悪寒が走った。
振り返れば、地面にぽたり、ぽたりと落ちていく濃い赤の滴が
まっすぐ自分たちの歩いた道を辿っていた。
それはレギュラス自身のものではない。
アランを抱く腕の中で、彼女の小さな身体が震えていた。
「アラン……!」
声が震えている。
抱き直すと、アランのドレスは腰から太ももにかけてすでに濡れ、
生暖かい血が滲み出していた。
これでは歩いて帰るなど不可能だ──。
姿くらましは妊娠初期の身体に酷い負担を与える。
本来なら絶対に使わせたくなかった。
だが、今は──躊躇する理由が一つもなかった。
「メイラ、手を──。」
レギュラスが差し出した手を、少女は戸惑いながらも握った。
本当ならば。
本当なら、この少女を連れ帰るべきではない。
この選択がどれだけの混乱を呼ぶかもわかっていた。
しかし。
この場に置き去りにした瞬間、アランは二度と自分を信じない。
その未来が、冷酷な戦場で死ぬことよりも怖かった。
レギュラスは決断した。
「行きます。」
アランをしっかり抱きしめ、メイラの手を握り、
三人を包むように黒い外套を翻すと──
空気が砕けるような音とともに、姿が霧散した。
次の瞬間、ブラック家の寝室へ着地した衝撃が足元に走る。
アランの身体ががくりと沈む。
レギュラスはすぐに寝台に横たえ、声を張り上げた。
「医務魔法使いを! 今すぐにです!」
メイラは呆然とドアの前に立ちすくみ、
レギュラスはアランの冷たい手を握りしめた。
意識が朧げになるアランは、呼吸が浅い。
血の匂いが部屋に満ちていく。
床にも、シーツにも、濃い紅がゆっくり広がっていく。
数分後、駆け込んできた医務魔法使いが素早く診察を始める。
出血の量、痛みの場所、直前の行動──
レギュラスは全身が震えているのに、それでも淡々と答えた。
声を乱せば、アランがさらに怯えてしまうと思った。
医務魔法使いは術式の光をアランの下腹部に走らせ、
照明の下で険しい顔つきになった。
そして静かに、冷酷な事実を告げた。
「……流産です。」
時間が止まった。
レギュラスは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
耳鳴りがして、手の感覚が消えた。
アランの細い指が自分の手に触れている感覚すら、遠のいていく。
──流れた血は、生まれようとしていた命だった。
まだ名前もない、小さな未来。
アランが「がんばります」と震えながら言った、
あの純粋な願いの結晶。
守るべきものだった。
それを、奪ってしまったのは他ならぬ自分だ。
レギュラスは椅子に崩れ込むように座り、
両手で頭を抱えた。
胸の奥で何かが砕ける音がした。
苦悶とも後悔ともつかない低い呼吸が漏れる。
目を閉じると、アランが必死に耐えていたあの苦痛の顔だけが浮かぶ。
「…… アラン……」
呼びかける声は、かすれていた。
愛している女の、第二の命を守れなかった罪が、
胸の内側から彼を焼き尽くすようだった。
アランの血で重たくなったローブが肩に残る。
その重みが、
自分の選択が一つの命を奪ったという事実を
否応なしに突きつけてくる。
レギュラスは顔を覆った手の隙間から、
こぼれ落ちそうになる涙を必死に堪えた。
まぶたを開けた瞬間、薄く差し込む朝の光がぼやけて見えた。
胸の奥が鈍く痛む。だが、体の痛みより先に、医務魔法使いの静かな言葉が耳に残っていることに気づいた。
──流れた、と。
子を宿したと聞かされたのはつい昨日のことだった気がする。
次こそは男児を、と屋敷中がどこか期待に満ち、アラン自身もそうあるべきなのだと、知らぬうちに自分を追い込んでいた。
だが。
失ったと知った今、胸に湧き上がったのは、悲しみでも虚無でもなく──安堵だった。
これ以上、罪悪感を背負う子を増やさずに済む。
自分の手で、また何かを産むことで誰かの犠牲の上に立つ未来を、回避できたのだと。
そんなふうに思ってしまう自分を、責める気持ちすら起きなかった。
寝返りを打つのも辛い体をなんとか動かし、横を向く。
そこに──小さな影が見えた。
メイラがいた。
膝を抱え、椅子の上でうつむき加減にアランを心配そうに見守っていた。
その姿を目にした瞬間、心の奥に冷えて固まっていたものが、ふわりと溶けた。
レギュラスがメイラも連れて帰ってくれたのだ、とわかった。
目を覚ますのを待っていてくれたのだろう。
小さな少女の瞳には、アランを案じる光だけが宿っている。
「アランさん……赤ちゃんが……」
メイラは絞り出すような声で言った。
顔が悲しみで歪み、その目が潤んでいる。
アランはゆっくり手を伸ばし、震える手で杖を握って文字を描く。
大丈夫。私は平気よ。
強がりではなかった。
いまは本当にそう思えていた。
この屋敷でまたひとつ、生まれ落ちたばかりの命が重荷になるより。
この世界で、苦しむことが分かりきっている子を増やすより。
むしろ、これでよかったのだと。
メイラが泣くような顔で首を横に振る。
その小さな表情の揺らぎが痛かった。
どうして自分が謝るのか、と不思議そうにしていたメイラ。
純粋で、まっすぐで、自分を救われたと信じ続けてくれる子。
アランはそっと手を伸ばし、メイラの手を握った。
まだ幼い、頼りない手。
それでも、その掌には驚くほどの温かさが宿っていた。
アランはその温もりを確かめるように、ぎゅっと握る。
この子に、冷えた世界の残酷さを背負わせたくない。
この手の温かさが失われない未来であってほしい。
メイラがそばにいてくれたことが、アランにとって唯一の救いだった。
静かな部屋に、二人の温度だけが優しく満ちていく。
失われた命への痛みよりも、
今生きている温かな手のほうが──ずっと重く、ずっと大切だった。
朝食の席には、銀食器が触れ合う心地よい音と、温かな紅茶の香りが満ちていた──はずだった。
レギュラスが報告の言葉を告げた瞬間、その空気は一変した。
「……子が、流れました」
短い沈黙。
続いて、匙を皿に落とす乾いた音が広間に鋭く響いた。
「なんですって……?」
ヴァルブルガの声音は、怒りとも失望ともつかない鋭さに満ちていた。
想像していた反応だった。
だが、胸に突き刺さる痛みは予想をはるかに上回った。
「どうしてそんなことに? あれほど早く男児を望んでいたというのに……」
「ステラの次こそは、と言っていたでしょう。何故守れなかったのかしら」
責め立てる言葉が次々に降り注ぐ。
ヴァルブルガの冷たい怒りは、朝食の温度を一瞬で奪い去った。
オリオンは表情を動かさず、ただ短くため息をつく。
無言であることが、かえって重かった。
レギュラスは、静かに座っていた。
母の言葉を、遮ることなく受け止めている。
声を荒げても意味がないことを知っているから。
そして何より──妻を守るために、今ここで無駄な反論をするわけにはいかない。
だが、胸の奥は焼けるように痛んだ。
アランは今、寝室で深い眠りについている。
姿くらましの無理がたたって、体の損傷は大きい。医務魔法使いの言葉を借りれば──「次の妊娠までには、かなりの期間が必要でしょう」と。
つまり。
次の後継を望む催促が長く、重く、アランにのしかかる未来は避けられない。
ステラを産んだ後にすぐ授かったことで、今回の催促期間は短く済んだ。
だが、もう同じ奇跡は望めない。
ヴァルブルガやオリオンの圧力に、アランがどれほど耐えられるのか──想像するだけで胸が凍りつく。
そして、もうひとつの問題があった。
メイラ・ウォルブリッジ。
アランのために連れて帰らざるを得なかった少女。
レギュラスが決断しなければならない。
屋敷に置くのか。
外へ逃がすのか。
それとも──施設へ戻すのか。
どれを選んでも、大きな代償を伴う。
少女はマグルだ。
ブラック家という一族は、マグルを受け入れるほど柔軟でも寛容でもない。
代々、誇り高い純血の血を守ってきた家。
その家にマグルの少女を住まわせるということが、どれほどの不興を買うかなど火を見るより明らかだった。
しかし──
アランは間違いなく、少女を守る道を望んでいる。
あの時、倒れそうなほどの体でメイラの手を握っていたアランの姿が、レギュラスの胸から離れなかった。
泣きながら、それでも必死に守ろうとした姿。
その小さな決意が、レギュラスを縛り付ける。
食卓ではまだ、ヴァルブルガの冷たい声が響いている。
オリオンの沈黙が、空気をさらに重くする。
レギュラスは静かに目を伏せた。
ここには祝福も慰めもない。
あるのは、未来をどう選ぶかという残酷な問いだけだ。
アランの傷ついた心と体を守りたい。
だが、純血の家の掟は無慈悲に迫ってくる。
レギュラスは、冷め切った紅茶の表面を見つめながら思う。
──どうすればいい?
何を選べば、一番多くを守れる?
答えはまだ、出ないままだった。
レギュラスが寝室の扉を静かに閉めた瞬間、部屋の空気がわずかに揺れた。
アランは視線を落としたまま、胸の奥の重苦しい痛みを抱え込んでいた。
本来なら、あの子を失ったことを深く詫びるべきなのだろう。
「義務を果たせなかった」と頭を垂れるのが、この家で生きる妻としての務めなのかもしれない。
だが──どうしてもその言葉が喉にのぼってこなかった。
心が、頑なに拒んでいた。
歩み寄ってきたレギュラスの影が、寝具の上でやわらかく揺れる。
アランはそれを見ないように、睫毛を伏せた。
「アラン……」
ベッドの傍らにしゃがんだレギュラスの手が、そっとアランの指先に触れた。
その動きは驚くほど慎重で、壊れそうなものを扱うように震えている。
「すみません……。アラン、本当に……申し訳ありません」
その声はかすれていて、闇の帝王のもとから救ってくれた男と同じ人物とは思えないほど弱かった。
その姿が、かえってアランの心を締め付ける。
──どうしてこんなふうに、優しさと残酷さを両方抱えてしまえるのだろう。
マグルを“差し出される命”と断じる冷たさ。
罪のない父親をアズカバンに送った判断。
メイラさえも、いずれ必要とあらば狼の餌として計上される可能性を含ませていた、その冷酷な論理。
でも。
でも──
そんな男が、今ここにいる。
アランの失った命に、本気で胸を痛めて膝を折る男が。
そして何より。
あの夜、レギュラスはメイラを連れてきてくれた。
少女を置き去りにする選択肢も、施設へ戻す選択肢もあったはずなのに。
アランが望むと思って──彼はその手を離さなかった。
その事実が、アランの胸を深く揺さぶる。
「…… アラン、僕を見てください」
レギュラスの声はひどく静かで、泣きそうなほど弱かった。
アランはゆっくりと顔を上げる。
視線がかち合うと、レギュラスは痛みを隠せない目でアランを見つめた。
その瞳には確かに、自分への愛が宿っている。
しかし同時に、その奥底には凍りついた闇の血潮が流れている。
そのふたつが同じ器に同時に存在していることが、アランには理解できなかった。
優しさだけを信じるには残酷すぎて。
残酷さだけを憎むには、愛しすぎた。
「……あなたは、いったいどちらなの……?」
言葉にできない問いが、アランの胸の中で震えている。
正義はどこにあるのか。
何が正しいのか。
レギュラスの前では、どれも見えない。
アランはただ、静かにレギュラスの手を握り返した。
確かめるように、迷うように──その温度だけを頼りに。
その手の温かさは、愛のものなのか。
それとも、冷酷な理と暴力の上に成り立つ血の温度なのか。
アランには、まだわからなかった。
レギュラスは、まるで黒檀の迷宮を素手で切り開くような気持ちで、ひとつひとつの手続きを踏んでいった。
純血の象徴であるブラック家の屋敷に、マグルの少女を置く——そんな話、通常であれば議論の余地すらなく却下される。反逆的ですらある。
だが、それでもやり遂げねばならなかった。
アランのために。
あの夜、震えるアランを抱き上げたとき、レギュラスはすべてを覚悟していた。
屋敷の古い図面を広げ、彼女の移動可能区域を制限するための仕切り魔術を設置し、必要な家事を担える最低限の通路だけに通行許可を与える魔法陣を描いた。
魔力を持たない者だからこそ可能な配置。
魔力攻撃の危険がないという一点を武器に、なんとか“侍女”としての存在意義を捻り出したのだった。
アランは声をもたず、地下に幽閉された日々の果てに喉を潰されて以来、言葉を紡げない。
ステラを産んだあとも流産で弱った身体を抱え、なお家事や身の回りの世話は自分でやろうとする。
その姿を見て、レギュラスは何度も胸が張り裂けそうになった。
——彼女には支えが必要だ。
——彼女に寄り添える者が。
そのための侍女。
そのためのメイラだった。
だが、屋敷の者にとっては別の話だ。
ヴァルブルガは初めから怒りを隠さなかった。
「この由緒正しきブラック家に……穢れたマグルを置くなんて、正気の沙汰ではありませんわ」
高く鋭い声がダイニングを貫く。
レギュラスは表情ひとつ変えず、静かに両手を組んだ。
「ご安心ください、母さん。彼女の移動可能エリアは制限してあります。あなたがたの目に触れることはほぼありません」
乾いた沈黙が落ちる。
それでもヴァルブルガは鼻で嘲るだけで、それ以上反論しなかった。
合理性を突きつけられた以上、感情論で押し通すほど彼女は愚かではない。
次にオリオンが低く問うた。
「……闇の帝王には、どう説明するつもりだ」
レギュラスは一瞬だけ瞳を伏せ、それから淡々と、しかし一切の揺らぎなく答えた。
「我々ブラック家は、マグルとの対立を望んでいないという姿勢を示すだけです。
表向き、我が家が過激思想とは別に立っていることの証明にもなります」
オリオンが何か言いかけ、しかし口を閉ざした。
鋭い視線を投げたまま、言葉を飲み込んだのだ。
レギュラスは続けた。
「狼人間への食殺許可法が制定されて以来、マグル界は混乱し、魔法使いへ向けた武装集団が増えつつあります。
闇の陣営は確実に討伐に動くでしょう。
その時、ブラック家が“制御不能な過激派”ではないという証明が必要なのです。
マグルを保護しているという表向きの事実は、騎士団からの糾弾を回避する盾にもなる」
屋敷の空気が張り詰める。
ヴァルブルガもオリオンも険しい顔をしていたが、完璧に整えられた理屈の前では反論できない。
政治・家名・体裁——すべてに整合性が取れている。
もっとも、レギュラスにとってこれらは“副産物”にすぎない。
メイラを屋敷に置く理由はただひとつ。
アランが、その少女を愛しているから。
アランの中で、人を慈しむ心を守りたい。
あの翡翠の瞳に宿る、壊れかけた光をこれ以上失わせたくない。
その一心で、レギュラスは血筋の論理をねじ曲げ、政治的な言い訳を積み上げ、この屋敷の歴史そのものを捻じ伏せたのだ。
その努力をアランが知ることはない。
レギュラスも語らない。
ただ静かに整え、ただ静かに受け入れさせる。
しかしレギュラスの胸の奥には、ひとつだけ揺るぎなく残った想いがあった。
——どれほど残酷な判断を下すとしても。
アランが望むことだけは、全て叶えたい。
ブラック家の歴史がどうであれ。
闇の帝王がどう判断しようと。
レギュラスの選択はただひとつだった。
アランを守ること。
それが、彼が唯一誇れる“正しさ”だった。
メイラは、まだ幼い胸の奥に生まれてしまった信じがたい言葉を、何度も反芻していた。
――自分が、アランの侍女として、このブラック家に住む?
そんなことが、あり得るのだろうか。
夢物語か、あるいは自分の聞き間違いではないかと思うほどだった。
病に倒れ、父が捕らえられ、ひとり残されたあの日。
行き場を失った自分に手を差し伸べてくれたのは、レギュラスブラックだった。
その後のことも忘れがたい。
高位の医務魔法使いを呼び寄せて治療を施してくれ、施設では温かい食事と清潔な寝具、そして勉強をする環境までも整えてくれた。
メイラは施設で与えられた教科書を通して、魔法界の歴史を知った。
魔女狩り、火炙り、迫害。
それに対する魔法族の報復がいかに苛烈で、長い年月をかけて対立が続いてきたのかも。
そのなかで——純血の名家、ブラック家がどれほどの“格”をもつかということも、骨身に染みるほど学んだ。
恐ろしいほどの魔力、輝かしい血統、魔法界の歴史そのものに名前を刻む一族。
そんな家の後継者が、自分のようなマグルを——
屋敷に置くために“理由”を作り、道を開いてくれた。
理解を越えた現実に、胸が震えた。
レギュラスブラックは冷徹な男なのだろうと、噂では聞いていた。
しかしメイラにとっては違った。
彼は、自分の世界に光を差し込んでくれた唯一の魔法使いだった。
そしてその光は、さらに広がっていく。
アランブラック——
彼女は、メイラの人生の中で初めて“家族のように温かい存在”だった。
誰より柔らかく、優しく、抱きしめてくれた。
会いに来るたびに髪を撫でて、紙と杖で言葉を綴ってくれた。
メイラはアランを愛していた。
母でも姉でもない、もっと特別な、胸の奥があたたかくなる存在だった。
そのアランのそばに仕えることができる——
毎日会えて、手伝えて、守れる。
そんな未来を想像するだけで胸が熱くなった。
メイラは駆け寄り、深く礼をした。
「レギュラスさん……! 私、がんばります。なんでもします!」
震えるほどの決意が、幼い声ににじんだ。
アランのそばにいるためなら、どんな仕事でもしたい。
魔力がなくても、屋敷の誰よりも勤勉でいる。
だって、この屋敷にいられることは“魔法使いの物語の中で生きる”ようなものなのだから。
レギュラスはしばらくの間、メイラの真っすぐな黒い瞳を見つめていた。
その視線は深く、測り知れず、温度を感じさせなかったが——
彼がその場で何も否定しなかった、それだけで十分だった。
レギュラスはただ静かに頷くと、
金糸の刺繍を施されたローブの裾を翻し、音もなく背を向けた。
その背中を見送りながら、メイラは胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
——ここでなら、アランさんの役に立てる。
ここでなら、私は必要とされる。
幼い心に芽生えたその確信は、涙が出そうなほど温かかった。
薄暗い廊下の明かりが、彼女の黒い瞳に揺れて映る。
「アランさん……私、遠くには行っちゃいけないの。
施設の人にも言われてるの」
迷子の子どものように、困った顔で。
それでも言いつけを守ろうとする、まっすぐな気持ちを隠さずに。
アランは足を止めた。
胸の奥で何かがきゅっと縮まる。
どう説明すればいい?
どうすれば、純粋なメイラに真実を伝えられる?
——ここは安全なんかじゃない。
——あなたの優しさを奪うための場所なんかじゃない。
——あなたを、生き餌として差し出すための“牧場”なんだ、と。
そんな残酷な言葉を、この小さな少女に告げることなんて、できるはずがなかった。
アランは震える手で杖を持ち上げた。
空気を切る音さえ心細い。
『メイラ……ごめんね。本当に……ごめんなさい』
文字が光となって浮かび上がる。
その一文字一文字が、アランの痛む心臓を貫くようだった。
メイラが驚いたように瞬きをする。
「どうして…… アランさんが謝るの?」
その声は、あまりにもまっすぐで。
まるで闇夜を照らす灯りのように清らかで。
アランの胸に突き刺さった。
——ごめんなさい。
——私はあなたを、あんなところに置いてしまった。
——あなたが“食われる”可能性のある場所に、何も知らずに送り出してしまった。
——あなたを守れると思い込んでいた自分の愚かさにも。
——優しさを信じてくれたあなたの思いを裏切ってしまった自分にも。
でも、その全部を言葉になんてできない。
伝えた瞬間、この子の世界は一瞬で崩れてしまうから。
アランはそっとメイラの頬に触れた。
細い指先が、震えていた。
メイラは不思議そうにアランを見つめる。
黒い瞳の奥に、疑いも恐れもない。ただ、信頼だけがあった。
「アランさん、泣いてるの……?」
メイラがそっとアランの手を握った。
小さくて温かい、その掌。
アランは胸が裂けそうだった。
——どうしてこんなにも純粋なの。
——どうしてまだ、私を信じてくれるの。
——どうしてあなたの未来が、こんなにも残酷な仕組みに囲まれてしまっているの。
杖を握る手が震え、涙が頬を伝う。
『あなたを……守りたかったの』
必死に紡いだ言葉は、光の文字となって空間にふわりと漂った。
メイラはそれを読み、ほんの一瞬、胸に手を当てた。
「……うん。アランさん。
私、アランさんの言うことなら……信じる。どこに行くのも怖くないよ」
その言葉に、アランは息を呑んだ。
少女はまだ何も知らない。
奪われた父の真実も。
背後に渦巻く政治も。
世界の残酷さも。
それでも—— アランの言葉だけは疑わず、全てを預けてくれる。
その純真さが痛くて、愛しくて、そして何より……恐かった。
アランはメイラの手をしっかり握り直し、自分の体の痛みごと抱きしめて、再び歩き出した。
——絶対に守る。
——この子だけは、もう二度と、犠牲になんてさせない。
その思いだけを胸に、アランは少女を連れ、闇の中へと消えていった。
夜風は冷たく、肌の奥まで刺すようだった。
アランはメイラの小さな手を強く握ったまま、舗道をただ彷徨った。
どこへ向かえばいいのか、まるで見当がつかない。
少女の歩幅に合わせて進むたび、腹部に鈍い痛みが走る。
それでも立ち止まるわけにはいかなかった。
足を止めれば、恐怖が追いついてきてしまう気がした。
「アランさん……帰らなくて平気なの?」
メイラの声は、不安よりも心配が勝っていた。
まるで自分がアランを気遣う大人になったかのように。
アランは一瞬、足を止めた。
“帰る場所”という言葉が胸の奥で痛く響く。
——帰る場所?
どこに?
ブラック家の豪奢な屋敷に?
ステラが眠るあの優しい部屋に?
だがその屋敷の主は、
あの地下で己の魂を削り取りながら抱きしめてくれた男は、
罪もない少女の命を“仕方のない犠牲”として扱う世界の象徴でもあった。
どこに戻るというのか。
あんな残酷さと優しさを同時に孕む男の腕に。
今さらどうやって?
アランは答えられず、杖を振ることもできなかった。
言葉を作るだけの心の余裕がなかった。
メイラはそんなアランの沈黙に気づき、そっと腕を引いた。
「…… アランさん」
細い声。
その声には、責めも不安もなく、ただ純粋な温度だけがあった。
アランは胸が詰まりそうになった。
守りたくて、愛しくて、痛いほどにいとしくて。
だけど——どこへ行けばいい?
魔法界にもマグル界にも、身を寄せられる安全な場所などない。
レギュラスの城のような屋敷にも、
騎士団にも、
どこにも。
ただ歩けば歩くほど、足元の闇は深まっていくばかりだった。
メイラの手はあまりに小さく、頼りなくて。
しかし同時に、アランの唯一の温もりだった。
アランは少女の顔を覗き込もうとしたが、涙で視界が滲んだ。
——私は、何ひとつ守れない。
——あなたを救いたいと願ったくせに、逃げた先の未来すら描けない。
——私はなんて無力なの。
胸の奥から嗚咽が込み上げてきそうになり、アランは唇を噛みしめた。
どこか遠くで鐘の音が響く。
夜を知らせる鐘は残酷に静かで、
この世界が誰の悲しみも気にかけてはくれないことを思い知らせる。
「アラン さん……手、あったかいね」
メイラがぽつりと言った。
アランは涙が零れ落ちそうになった。
どれほど怖くても、どれほど痛くても、
この少女にだけは不安を見せたくなかった。
だからアランは、震える指先でそっとメイラの頬に触れた。
それが、今の自分にできる唯一の“答え”だった。
行く当てもなく、未来の影しかない夜道。
アランは、少女の温もりだけを頼りに、また歩き出した。
——守る。
——どんなに無力でも。
——あなたを、絶対に。
その祈りだけを胸に。
レギュラスの胸の奥で、凶暴な焦燥が暴れまわっていた。
アランが姿くらましを使ったという報せを聞いた瞬間、
思考が一度真っ白になった。
妊娠初期の身体で——
あの繊細な、折れそうな身体で、姿くらましを。
常人でさえ臓器を痛め、魔力の乱れで倒れる者も出るほどの負担だ。
アランのように出産の傷もまだ完全には癒えていない身体には、
命取りにすらなり得る。
それを、あの子は。
あの優しい妻は。
恐怖に追い立てられた結果として選んだのだ。
自分から逃げるために。
レギュラスは廊下を早足で歩きながら、胸を締めつけられる感覚に息が乱れそうになっていた。
屋敷の空気が重く冷たい。
夜の帳が落ちた館の中は静まり返り、ただ自分の靴音だけがやけに響く。
——あの時、アランは。
書斎で書類が乱れ落ちた中。
アランは蒼白な指で杖を握りしめ、震える腕で問いかけてきた。
“メイラを狼人間に食べさせるつもりですか?”
心臓を刺されたようだった。
雷鳴にも似た衝撃が胸の奥で弾けた。
否定の言葉は……すぐには出てこなかった。
政治の現実と、アランの理想。
その両方を抱えた結果、喉が詰まって言葉が遅れた。
その沈黙が、たしかにアランを絶望させた。
——あんな顔。
——あんな怯え。
——あんな拒絶を、どうして自分が向けられねばならない。
レギュラスは自分の胸に指を押し当てた。
息が苦しい。
心が焼けつくように痛い。
彼女は、あの夜、自分の腕の中で震えていた。
優しく触れれば触れるほど、アランの身体は安心して寄り添ってくれた。
愛を分かち合い、互いを求め合い、
その温もりは確かなものだった。
なのに。
書斎でアランはまるで、自分を知らない人間を見るような目をした。
あれほど甘えて身を預けてくれた身体が、
まるで毒を見るように自分の手を払いのけた。
——自分はそんな男か?
—— アランを怯えさせるほど、残酷な“何か”をしてしまったのか?
彼は足を止め、壁に手をつき深く息を吸った。
喉が痛むほどの息苦しさ。
胸の奥で、後悔と焦りと恐怖が渦巻いていた。
「…… アラン……どこです」
声は震え、掠れた。
アランが恐怖のあまり自分から逃げたという現実が、
レギュラスの心を鋭く斬りつけた。
——地下の暗闇から救い出した手と、
——マグルを切り捨てる政策に署名する手が、
同じ手だと気づかれた。
あの怯えは、まるで
「あなたが誰なのかわからない」と訴えているようだった。
両手が震える。
アランに払われた腕の感触が、何度も何度も蘇ってくる。
あの時のアランの瞳。
涙を含んだ翡翠色。
信頼と愛を寄せてくれていたはずの瞳が、
恐怖に揺れて、自分から遠ざかった。
「…… アラン、お願いです……どこにも行かないで」
彼は闇に呟いた。
アランとステラ。
その二人がいなければ、世界は意味を喪う。
——早く見つけなければ。
——彼女の身体が壊れてしまう前に。
——心が二度と戻らなくなる前に。
レギュラスは姿くらましの準備をしながら震える手を押さえつけた。
愛する妻が、自分から逃げている。
その現実に胸を裂かれながら。
マグル保護施設からの報告は、夜気の中で鋭い刃のようにレギュラスの胸を貫いた。
──メイラ・ウォルブリッジ脱走。
つまりそれは、アランが彼女を連れ出したということだ。
そしてアラン自身も姿くらましを使用している。
だが、
あの弱っている身体で、二度も姿くらましを行えるはずがない。
したがって、アランはまだ施設のごく近くにいる──レギュラスはそう確信した。
寝室へ戻ると、ステラは乳母の腕の中で静かに眠っていた。
闇の中でも、彼女の睫毛はアランそっくりに長く美しい。
レギュラスは小さく息を吐き、ステラの小さな手をそっと取った。
「……ごめん、少しだけ我慢してください。」
杖先で肌に触れ、魔力が傷を追う前にほんの細い切り傷を描く。
血は、一粒落ちるだけで淡く輝く宝石のようだった。
それを銀の皿へ受けると、レギュラスは静かに魔法陣を組む。
幼子の血は、母親の魔力の欠片を必ず宿す。
そこからアランの魔力の波長を追跡することは可能だった。
円を描く線が淡く光り始める。
血が吸い込まれるように魔法陣の中心へ浮き上がり、
細い糸のような光がひとつの方向へ伸びた──。
「……見つけた。」
レギュラスは躊躇なく姿くらましを行う。
光の飛沫が散り、空気が裂ける音とともに彼の姿は闇に消えた。
次の瞬間、彼は冷たい夜風の吹く、寂れたマグル界の小道に立っていた。
街灯の届かない闇。
湿った土の匂い。
どこか遠くで犬の吠える声。
その闇の中で、アランはしゃがみ込んでいた。
真っ白な指で腹を抱え、肩が震えている。
痛みか、恐怖か、疲労か──すべてだった。
隣にはメイラ・ウォルブリッジ。
痩せた腕で必死にアランの背をさすっていた。
その小さな手は、何も知らない者の精いっぱいの優しさを宿していた。
レギュラスは思わず駆け寄る。
「アラン……! 戻りますよ。」
声が自分でも驚くほど震えていた。
アランは力なく顔を上げた。
その翡翠の瞳は、痛みに濁っているのに、それでもまっすぐ自分を見た。
メイラもレギュラスのほうへ顔を向けた。
「……レギュラス・ブラック……?」
怯えるかと思った。
憎しみが宿っていてもおかしくないと思った。
だが少女の黒い瞳には、恐れも怒りもなかった。
ただ、病を治してくれた“魔法使い”としての、幼い信頼だけがあった。
胸がひどく痛んだ。
アランは──
自分の罪を、一言も少女に伝えていない。
だからこそ、この無垢な眼差しなのだ。
夜の冷気が二人の身体から熱を奪っていく。
アランの唇は青く、指先は凍えるほど冷たい。
姿くらましの負荷と、妊娠の身体では、これ以上の負担に耐えられるはずがない。
だが、メイラをどうすればいい。
連れて屋敷に戻る──それは父と母が決して許さない。
アランはその瞬間に壊れるだろう。
しかし置き去りにするなど。
施設に戻せば、いずれ……。
答えがどこにもなかった。
メイラはアランの腕を握りしめたまま、小さくささやいた。
「アランさん、苦しいの……? どうしよう……」
この子はまだ知らないのだ。
闇がどれほど濃く、どれほど残酷に彼女を呑み込もうとしていたのか。
レギュラスは唇を噛む。
アランの震える肩。
少女の小さな手。
夜風にさらされた冷たい大地。
どんな決断をすべきなのか。
今この瞬間、誰よりもレギュラス自身が迷っていた。
アランを抱えて歩くうち、レギュラスはふと腕にずしりとした重みを感じた。
何かがローブに染みたような、冷えた湿り気。
風に晒された布が張りつくように重たくなっていく。
……雨か?
そう思い、そっと指先でローブの裾に触れた。
しかし、触れた指先にまとわりついたのは──
水ではなかった。
「…………血……?」
指先に広がった暗赤色のぬめり。
すぐに胸が凍りつくような悪寒が走った。
振り返れば、地面にぽたり、ぽたりと落ちていく濃い赤の滴が
まっすぐ自分たちの歩いた道を辿っていた。
それはレギュラス自身のものではない。
アランを抱く腕の中で、彼女の小さな身体が震えていた。
「アラン……!」
声が震えている。
抱き直すと、アランのドレスは腰から太ももにかけてすでに濡れ、
生暖かい血が滲み出していた。
これでは歩いて帰るなど不可能だ──。
姿くらましは妊娠初期の身体に酷い負担を与える。
本来なら絶対に使わせたくなかった。
だが、今は──躊躇する理由が一つもなかった。
「メイラ、手を──。」
レギュラスが差し出した手を、少女は戸惑いながらも握った。
本当ならば。
本当なら、この少女を連れ帰るべきではない。
この選択がどれだけの混乱を呼ぶかもわかっていた。
しかし。
この場に置き去りにした瞬間、アランは二度と自分を信じない。
その未来が、冷酷な戦場で死ぬことよりも怖かった。
レギュラスは決断した。
「行きます。」
アランをしっかり抱きしめ、メイラの手を握り、
三人を包むように黒い外套を翻すと──
空気が砕けるような音とともに、姿が霧散した。
次の瞬間、ブラック家の寝室へ着地した衝撃が足元に走る。
アランの身体ががくりと沈む。
レギュラスはすぐに寝台に横たえ、声を張り上げた。
「医務魔法使いを! 今すぐにです!」
メイラは呆然とドアの前に立ちすくみ、
レギュラスはアランの冷たい手を握りしめた。
意識が朧げになるアランは、呼吸が浅い。
血の匂いが部屋に満ちていく。
床にも、シーツにも、濃い紅がゆっくり広がっていく。
数分後、駆け込んできた医務魔法使いが素早く診察を始める。
出血の量、痛みの場所、直前の行動──
レギュラスは全身が震えているのに、それでも淡々と答えた。
声を乱せば、アランがさらに怯えてしまうと思った。
医務魔法使いは術式の光をアランの下腹部に走らせ、
照明の下で険しい顔つきになった。
そして静かに、冷酷な事実を告げた。
「……流産です。」
時間が止まった。
レギュラスは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
耳鳴りがして、手の感覚が消えた。
アランの細い指が自分の手に触れている感覚すら、遠のいていく。
──流れた血は、生まれようとしていた命だった。
まだ名前もない、小さな未来。
アランが「がんばります」と震えながら言った、
あの純粋な願いの結晶。
守るべきものだった。
それを、奪ってしまったのは他ならぬ自分だ。
レギュラスは椅子に崩れ込むように座り、
両手で頭を抱えた。
胸の奥で何かが砕ける音がした。
苦悶とも後悔ともつかない低い呼吸が漏れる。
目を閉じると、アランが必死に耐えていたあの苦痛の顔だけが浮かぶ。
「…… アラン……」
呼びかける声は、かすれていた。
愛している女の、第二の命を守れなかった罪が、
胸の内側から彼を焼き尽くすようだった。
アランの血で重たくなったローブが肩に残る。
その重みが、
自分の選択が一つの命を奪ったという事実を
否応なしに突きつけてくる。
レギュラスは顔を覆った手の隙間から、
こぼれ落ちそうになる涙を必死に堪えた。
まぶたを開けた瞬間、薄く差し込む朝の光がぼやけて見えた。
胸の奥が鈍く痛む。だが、体の痛みより先に、医務魔法使いの静かな言葉が耳に残っていることに気づいた。
──流れた、と。
子を宿したと聞かされたのはつい昨日のことだった気がする。
次こそは男児を、と屋敷中がどこか期待に満ち、アラン自身もそうあるべきなのだと、知らぬうちに自分を追い込んでいた。
だが。
失ったと知った今、胸に湧き上がったのは、悲しみでも虚無でもなく──安堵だった。
これ以上、罪悪感を背負う子を増やさずに済む。
自分の手で、また何かを産むことで誰かの犠牲の上に立つ未来を、回避できたのだと。
そんなふうに思ってしまう自分を、責める気持ちすら起きなかった。
寝返りを打つのも辛い体をなんとか動かし、横を向く。
そこに──小さな影が見えた。
メイラがいた。
膝を抱え、椅子の上でうつむき加減にアランを心配そうに見守っていた。
その姿を目にした瞬間、心の奥に冷えて固まっていたものが、ふわりと溶けた。
レギュラスがメイラも連れて帰ってくれたのだ、とわかった。
目を覚ますのを待っていてくれたのだろう。
小さな少女の瞳には、アランを案じる光だけが宿っている。
「アランさん……赤ちゃんが……」
メイラは絞り出すような声で言った。
顔が悲しみで歪み、その目が潤んでいる。
アランはゆっくり手を伸ばし、震える手で杖を握って文字を描く。
大丈夫。私は平気よ。
強がりではなかった。
いまは本当にそう思えていた。
この屋敷でまたひとつ、生まれ落ちたばかりの命が重荷になるより。
この世界で、苦しむことが分かりきっている子を増やすより。
むしろ、これでよかったのだと。
メイラが泣くような顔で首を横に振る。
その小さな表情の揺らぎが痛かった。
どうして自分が謝るのか、と不思議そうにしていたメイラ。
純粋で、まっすぐで、自分を救われたと信じ続けてくれる子。
アランはそっと手を伸ばし、メイラの手を握った。
まだ幼い、頼りない手。
それでも、その掌には驚くほどの温かさが宿っていた。
アランはその温もりを確かめるように、ぎゅっと握る。
この子に、冷えた世界の残酷さを背負わせたくない。
この手の温かさが失われない未来であってほしい。
メイラがそばにいてくれたことが、アランにとって唯一の救いだった。
静かな部屋に、二人の温度だけが優しく満ちていく。
失われた命への痛みよりも、
今生きている温かな手のほうが──ずっと重く、ずっと大切だった。
朝食の席には、銀食器が触れ合う心地よい音と、温かな紅茶の香りが満ちていた──はずだった。
レギュラスが報告の言葉を告げた瞬間、その空気は一変した。
「……子が、流れました」
短い沈黙。
続いて、匙を皿に落とす乾いた音が広間に鋭く響いた。
「なんですって……?」
ヴァルブルガの声音は、怒りとも失望ともつかない鋭さに満ちていた。
想像していた反応だった。
だが、胸に突き刺さる痛みは予想をはるかに上回った。
「どうしてそんなことに? あれほど早く男児を望んでいたというのに……」
「ステラの次こそは、と言っていたでしょう。何故守れなかったのかしら」
責め立てる言葉が次々に降り注ぐ。
ヴァルブルガの冷たい怒りは、朝食の温度を一瞬で奪い去った。
オリオンは表情を動かさず、ただ短くため息をつく。
無言であることが、かえって重かった。
レギュラスは、静かに座っていた。
母の言葉を、遮ることなく受け止めている。
声を荒げても意味がないことを知っているから。
そして何より──妻を守るために、今ここで無駄な反論をするわけにはいかない。
だが、胸の奥は焼けるように痛んだ。
アランは今、寝室で深い眠りについている。
姿くらましの無理がたたって、体の損傷は大きい。医務魔法使いの言葉を借りれば──「次の妊娠までには、かなりの期間が必要でしょう」と。
つまり。
次の後継を望む催促が長く、重く、アランにのしかかる未来は避けられない。
ステラを産んだ後にすぐ授かったことで、今回の催促期間は短く済んだ。
だが、もう同じ奇跡は望めない。
ヴァルブルガやオリオンの圧力に、アランがどれほど耐えられるのか──想像するだけで胸が凍りつく。
そして、もうひとつの問題があった。
メイラ・ウォルブリッジ。
アランのために連れて帰らざるを得なかった少女。
レギュラスが決断しなければならない。
屋敷に置くのか。
外へ逃がすのか。
それとも──施設へ戻すのか。
どれを選んでも、大きな代償を伴う。
少女はマグルだ。
ブラック家という一族は、マグルを受け入れるほど柔軟でも寛容でもない。
代々、誇り高い純血の血を守ってきた家。
その家にマグルの少女を住まわせるということが、どれほどの不興を買うかなど火を見るより明らかだった。
しかし──
アランは間違いなく、少女を守る道を望んでいる。
あの時、倒れそうなほどの体でメイラの手を握っていたアランの姿が、レギュラスの胸から離れなかった。
泣きながら、それでも必死に守ろうとした姿。
その小さな決意が、レギュラスを縛り付ける。
食卓ではまだ、ヴァルブルガの冷たい声が響いている。
オリオンの沈黙が、空気をさらに重くする。
レギュラスは静かに目を伏せた。
ここには祝福も慰めもない。
あるのは、未来をどう選ぶかという残酷な問いだけだ。
アランの傷ついた心と体を守りたい。
だが、純血の家の掟は無慈悲に迫ってくる。
レギュラスは、冷め切った紅茶の表面を見つめながら思う。
──どうすればいい?
何を選べば、一番多くを守れる?
答えはまだ、出ないままだった。
レギュラスが寝室の扉を静かに閉めた瞬間、部屋の空気がわずかに揺れた。
アランは視線を落としたまま、胸の奥の重苦しい痛みを抱え込んでいた。
本来なら、あの子を失ったことを深く詫びるべきなのだろう。
「義務を果たせなかった」と頭を垂れるのが、この家で生きる妻としての務めなのかもしれない。
だが──どうしてもその言葉が喉にのぼってこなかった。
心が、頑なに拒んでいた。
歩み寄ってきたレギュラスの影が、寝具の上でやわらかく揺れる。
アランはそれを見ないように、睫毛を伏せた。
「アラン……」
ベッドの傍らにしゃがんだレギュラスの手が、そっとアランの指先に触れた。
その動きは驚くほど慎重で、壊れそうなものを扱うように震えている。
「すみません……。アラン、本当に……申し訳ありません」
その声はかすれていて、闇の帝王のもとから救ってくれた男と同じ人物とは思えないほど弱かった。
その姿が、かえってアランの心を締め付ける。
──どうしてこんなふうに、優しさと残酷さを両方抱えてしまえるのだろう。
マグルを“差し出される命”と断じる冷たさ。
罪のない父親をアズカバンに送った判断。
メイラさえも、いずれ必要とあらば狼の餌として計上される可能性を含ませていた、その冷酷な論理。
でも。
でも──
そんな男が、今ここにいる。
アランの失った命に、本気で胸を痛めて膝を折る男が。
そして何より。
あの夜、レギュラスはメイラを連れてきてくれた。
少女を置き去りにする選択肢も、施設へ戻す選択肢もあったはずなのに。
アランが望むと思って──彼はその手を離さなかった。
その事実が、アランの胸を深く揺さぶる。
「…… アラン、僕を見てください」
レギュラスの声はひどく静かで、泣きそうなほど弱かった。
アランはゆっくりと顔を上げる。
視線がかち合うと、レギュラスは痛みを隠せない目でアランを見つめた。
その瞳には確かに、自分への愛が宿っている。
しかし同時に、その奥底には凍りついた闇の血潮が流れている。
そのふたつが同じ器に同時に存在していることが、アランには理解できなかった。
優しさだけを信じるには残酷すぎて。
残酷さだけを憎むには、愛しすぎた。
「……あなたは、いったいどちらなの……?」
言葉にできない問いが、アランの胸の中で震えている。
正義はどこにあるのか。
何が正しいのか。
レギュラスの前では、どれも見えない。
アランはただ、静かにレギュラスの手を握り返した。
確かめるように、迷うように──その温度だけを頼りに。
その手の温かさは、愛のものなのか。
それとも、冷酷な理と暴力の上に成り立つ血の温度なのか。
アランには、まだわからなかった。
レギュラスは、まるで黒檀の迷宮を素手で切り開くような気持ちで、ひとつひとつの手続きを踏んでいった。
純血の象徴であるブラック家の屋敷に、マグルの少女を置く——そんな話、通常であれば議論の余地すらなく却下される。反逆的ですらある。
だが、それでもやり遂げねばならなかった。
アランのために。
あの夜、震えるアランを抱き上げたとき、レギュラスはすべてを覚悟していた。
屋敷の古い図面を広げ、彼女の移動可能区域を制限するための仕切り魔術を設置し、必要な家事を担える最低限の通路だけに通行許可を与える魔法陣を描いた。
魔力を持たない者だからこそ可能な配置。
魔力攻撃の危険がないという一点を武器に、なんとか“侍女”としての存在意義を捻り出したのだった。
アランは声をもたず、地下に幽閉された日々の果てに喉を潰されて以来、言葉を紡げない。
ステラを産んだあとも流産で弱った身体を抱え、なお家事や身の回りの世話は自分でやろうとする。
その姿を見て、レギュラスは何度も胸が張り裂けそうになった。
——彼女には支えが必要だ。
——彼女に寄り添える者が。
そのための侍女。
そのためのメイラだった。
だが、屋敷の者にとっては別の話だ。
ヴァルブルガは初めから怒りを隠さなかった。
「この由緒正しきブラック家に……穢れたマグルを置くなんて、正気の沙汰ではありませんわ」
高く鋭い声がダイニングを貫く。
レギュラスは表情ひとつ変えず、静かに両手を組んだ。
「ご安心ください、母さん。彼女の移動可能エリアは制限してあります。あなたがたの目に触れることはほぼありません」
乾いた沈黙が落ちる。
それでもヴァルブルガは鼻で嘲るだけで、それ以上反論しなかった。
合理性を突きつけられた以上、感情論で押し通すほど彼女は愚かではない。
次にオリオンが低く問うた。
「……闇の帝王には、どう説明するつもりだ」
レギュラスは一瞬だけ瞳を伏せ、それから淡々と、しかし一切の揺らぎなく答えた。
「我々ブラック家は、マグルとの対立を望んでいないという姿勢を示すだけです。
表向き、我が家が過激思想とは別に立っていることの証明にもなります」
オリオンが何か言いかけ、しかし口を閉ざした。
鋭い視線を投げたまま、言葉を飲み込んだのだ。
レギュラスは続けた。
「狼人間への食殺許可法が制定されて以来、マグル界は混乱し、魔法使いへ向けた武装集団が増えつつあります。
闇の陣営は確実に討伐に動くでしょう。
その時、ブラック家が“制御不能な過激派”ではないという証明が必要なのです。
マグルを保護しているという表向きの事実は、騎士団からの糾弾を回避する盾にもなる」
屋敷の空気が張り詰める。
ヴァルブルガもオリオンも険しい顔をしていたが、完璧に整えられた理屈の前では反論できない。
政治・家名・体裁——すべてに整合性が取れている。
もっとも、レギュラスにとってこれらは“副産物”にすぎない。
メイラを屋敷に置く理由はただひとつ。
アランが、その少女を愛しているから。
アランの中で、人を慈しむ心を守りたい。
あの翡翠の瞳に宿る、壊れかけた光をこれ以上失わせたくない。
その一心で、レギュラスは血筋の論理をねじ曲げ、政治的な言い訳を積み上げ、この屋敷の歴史そのものを捻じ伏せたのだ。
その努力をアランが知ることはない。
レギュラスも語らない。
ただ静かに整え、ただ静かに受け入れさせる。
しかしレギュラスの胸の奥には、ひとつだけ揺るぎなく残った想いがあった。
——どれほど残酷な判断を下すとしても。
アランが望むことだけは、全て叶えたい。
ブラック家の歴史がどうであれ。
闇の帝王がどう判断しようと。
レギュラスの選択はただひとつだった。
アランを守ること。
それが、彼が唯一誇れる“正しさ”だった。
メイラは、まだ幼い胸の奥に生まれてしまった信じがたい言葉を、何度も反芻していた。
――自分が、アランの侍女として、このブラック家に住む?
そんなことが、あり得るのだろうか。
夢物語か、あるいは自分の聞き間違いではないかと思うほどだった。
病に倒れ、父が捕らえられ、ひとり残されたあの日。
行き場を失った自分に手を差し伸べてくれたのは、レギュラスブラックだった。
その後のことも忘れがたい。
高位の医務魔法使いを呼び寄せて治療を施してくれ、施設では温かい食事と清潔な寝具、そして勉強をする環境までも整えてくれた。
メイラは施設で与えられた教科書を通して、魔法界の歴史を知った。
魔女狩り、火炙り、迫害。
それに対する魔法族の報復がいかに苛烈で、長い年月をかけて対立が続いてきたのかも。
そのなかで——純血の名家、ブラック家がどれほどの“格”をもつかということも、骨身に染みるほど学んだ。
恐ろしいほどの魔力、輝かしい血統、魔法界の歴史そのものに名前を刻む一族。
そんな家の後継者が、自分のようなマグルを——
屋敷に置くために“理由”を作り、道を開いてくれた。
理解を越えた現実に、胸が震えた。
レギュラスブラックは冷徹な男なのだろうと、噂では聞いていた。
しかしメイラにとっては違った。
彼は、自分の世界に光を差し込んでくれた唯一の魔法使いだった。
そしてその光は、さらに広がっていく。
アランブラック——
彼女は、メイラの人生の中で初めて“家族のように温かい存在”だった。
誰より柔らかく、優しく、抱きしめてくれた。
会いに来るたびに髪を撫でて、紙と杖で言葉を綴ってくれた。
メイラはアランを愛していた。
母でも姉でもない、もっと特別な、胸の奥があたたかくなる存在だった。
そのアランのそばに仕えることができる——
毎日会えて、手伝えて、守れる。
そんな未来を想像するだけで胸が熱くなった。
メイラは駆け寄り、深く礼をした。
「レギュラスさん……! 私、がんばります。なんでもします!」
震えるほどの決意が、幼い声ににじんだ。
アランのそばにいるためなら、どんな仕事でもしたい。
魔力がなくても、屋敷の誰よりも勤勉でいる。
だって、この屋敷にいられることは“魔法使いの物語の中で生きる”ようなものなのだから。
レギュラスはしばらくの間、メイラの真っすぐな黒い瞳を見つめていた。
その視線は深く、測り知れず、温度を感じさせなかったが——
彼がその場で何も否定しなかった、それだけで十分だった。
レギュラスはただ静かに頷くと、
金糸の刺繍を施されたローブの裾を翻し、音もなく背を向けた。
その背中を見送りながら、メイラは胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
——ここでなら、アランさんの役に立てる。
ここでなら、私は必要とされる。
幼い心に芽生えたその確信は、涙が出そうなほど温かかった。
