2章
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闇に沈む石造りの広間は、冷たい湿気をまといながら怪しく蠢く魔力で満たされていた。
中心には巨大な魔法陣が淡く脈動し、その光が頭上の闇を照らし上げるたび、集まった闇の魔法使いたちの影が壁に長く伸びて揺れた。
レギュラス・ブラックは、その最前列に静かに立っていた。
肩に落ちるローブの影が頬を撫でる。
その表情は冷やされて固まった彫像のように微動だにしないが、その奥底では激しい嫌悪が煮え立つように渦巻いていた。
——マグルが剣を取り、我々に立ち向かった、だと?
「おそれを知らないマグルが、我々に立ち向かおうと剣を取ったそうだ」
闇の帝王の高く響く声が、広間の空気を震わせる。
瞬間、デスイーターたちの列から嘲りの笑い声が一斉に上がり、その響きが天井の闇にまで跳ね返っていく。
「愚かしいことこの上ない」
ヴォルデモートの冷たい嗤いが広間を支配すると、レギュラスはただ静かに瞳を細める。
痛々しいほどの無力さでありながら、なぜマグルはこうも傲慢になれるのか。
剣で人を刺せば血が流れる。
銃で撃てば一瞬で息絶える。
——それが魔法使いにも通用するはずだと信じているのか。
どこまでも浅はかで、どこまでも愚かだった。
マグルの集団が武器を手にする動きは昔からあった。
しかし狼人間食殺許可法が制定されて以降、その動きは勢いを増し、火に油を注ぐかのように反魔法族の思想が急激に膨れ上がっている。
彼らなりの“正義”があるのだろう。
魔法を使う者が恐ろしい生き物であるというのならば、勇敢な行動とでも思っているのだろう。
——だが、その正義こそが愚かだ。
魔法使いの血の尊さも知らず、歴史も知らず、世界の形を理解しようともしない。
ただ己の狭い倫理観と恐怖だけで動き、神聖なる魔法使いへ刃を向ける。
レギュラスは、そういうマグルが——心底、死ぬほど嫌いだった。
魔法を持たぬ弱者が、魔法族に牙を剥く。
その構図が、彼にはどうしようもなく耐え難かった。
「お前たちよ、穢れた血の集団を一人残らず討て」
ヴォルデモートの声が雷鳴のように落ちる。
広間にいる全員が恭しく頭を垂れる。
レギュラスもまた杖を持つ指先を静かに曲げ、忠誠の意を形作った。
恐れも迷いもなく、むしろ整然とした確信をもって思う。
——魔法使いに刃向かう者は、魔法界の外側に存在してはならない。
神聖なる血に向けられた敵意と暴力は許されるものではない。
たとえその敵が、人間であれ、子供であれ、無力な者であれ。
レギュラスにとっては、“魔法使いの命”の重さの前には、あまりにも軽い。
彼の瞳には、これから血に染まる未来へのためらいは欠片もなかった。
むしろその冷たさは、ヴォルデモートの影よりも深く、静かに満ちた暗闇のようだった。
アランはステラをそっと胸に抱きながら、マグル保護施設の白い石畳をゆっくりと歩いていた。
出産からしばらく経ち、まだ万全とは言えない体ではあるものの、ようやくこうしてステラを連れて外に出られるくらいには回復した。
冷たい風が頬を撫でるたび、抱いた赤子の体温が逆に心を温める。娘の柔らかな息遣いは、まるで疲労を溶かしていく魔法のようだった。
メイラと会うのは久しぶりだった。
その分成長がよくわかる。姿も顔つきも、語る言葉の深みも。
この施設に収容されている間、どれほど知識を吸い込み、どれほど努力し、成長を遂げているのか。アランは会うたびに驚かされていた。
扉を開けた瞬間、メイラは弾かれたように立ち上がった。
「アランさん!」
声に弾むような喜びがあった。
それはアランの心に真っ直ぐ届く、透明な光のようだった。
彼女が飛びついて抱きしめてくる勢いに、産後の傷が少し痛んだ。
けれどその痛みすら、愛しさに変わった。
「アランさんに似て、とても美人さんですね」
メイラがステラを覗き込み、目を大きく輝かせた。
アランは穏やかに微笑み、杖を振って答える。
『メイラの妹ですよ』
「……妹……!」
メイラの瞳は黒曜石のように澄み切り、輝きが溢れ出した。
その表情を見た瞬間、アランの胸に熱いものが流れ込んでくる。
初めてあの屋敷でメイラを見た時のことを思い出す。
病で衰弱し、孤独に震え、それでも必死に生きようとしていた幼い少女。
彼女の父が無実を訴えながらアズカバンに送られたこと。
その娘をレギュラスが連れてきたという事実を聞いた時、胸が張り裂けそうだった。
——守りたい。
——導きたい。
——この子を、もう二度と孤独にしないであげたい。
あの瞬間、アランの中に初めて“母”としての感情が明確に芽生えた。
自分にとって“最初の娘”は、間違いなくこの少女だった。
血の繋がりではない。けれど心は確かに結びついていた。
「私、成績がすごくいいんですって!」
「先生がね、私の将来はすごく楽しみだって言ってくれるの!」
メイラは誇らし気に話す。
未来への希望がいっぱいに詰まった声だった。
「私、どんな職業につくんでしょう……ね?」
期待と不安が混ざった問い。
けれどその言葉の奥には、明るく温かな夢がはっきりと見えていた。
アランはその小さな手を優しく握りしめた。
ステラを抱いた腕に力を込めながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
——メイラは正しい道を進んでいる。
——未来へ向かう光の中に立っている。
それを感じられるだけで、アランの心は救われた。
あの日、無謀とも言える願いをレギュラスにぶつけた。
マグルの少女を助けてほしい、救ってほしいと——。
レギュラスはそれを真剣に受け止め、自分なりの最大限の“譲歩”で叶えてくれた。
アランの綺麗事を、彼は深い愛情で拾い上げてくれた。
その優しさが胸いっぱいに溢れて、息が詰まりそうになる。
メイラはステラの頬にそっと触れ、くすぐったそうに笑った。
——この子たちの未来が、どうか明るくありますように。
アランは二人の少女を見つめながら、心からそう祈った。
帰り際、アランはステラを抱き直しながら、施設の事務室へと歩みを進めた。
木目の古びた扉の前で一度深呼吸をし、杖で軽くノックする。中から職員が顔を上げ、アランを見るなり慌てて立ち上がった。純白のドレスの裾が揺れるたび、アランの足元には静かに品格の影が落ちた。
「失礼いたします。メイラを……どうか、よく気にかけてやってください」
アランは杖をそっと振り、空中に言葉を描く。翡翠色の瞳がまっすぐに職員を見つめていた。
職員は目を大きくし、次の瞬間すぐに深々と頭を下げる。
「もちろんでございます。ブラック家の奥様がわざわざ……。それに、いつも多額の寄付をいただいておりますので、本当に助かっております」
アランはその言葉に胸を撫で下ろした。
レギュラスがこの施設に寄付をしてくれているということ——それは確かに、彼なりの慈悲であり、メイラを思っての行動なのだろう。
レギュラスが表では語らない優しさに触れた気がして、胸の奥が温かくなった。
だが、その温かさは、次の瞬間にふっと冷たいものに触れた。
職員の部屋の壁際に無造作に積まれた箱。
そこに貼られた札に、アランの視線は吸い寄せられた。
「被収容者移送記録」
それだけならまだ良かった。
けれど、アランは見てしまったのだ。
札の端に走るもうひとつの小さな刻印。
「W対象」
そして、その横に書かれていた数字は、前回来た時より確実に減っていた。
W——狼人間の頭文字。
対象——捧げられる者。
意味を知らないアランはただ眉をひそめただけだったが、胸の内に確かな違和感が芽生えた。
職員たちの張り付いた笑顔、どこか視線を逸らすような態度、そしてこの札。
何かがおかしい。
なのに、アランにはその“違和感”が何を示しているのか、まだわからなかった。
抱き上げたステラの体温が、急に頼りなく感じられた。
メイラの未来を託すはずのこの場所に、触れてはいけない何かが潜んでいる気がしてならなかった。
施設を出て馬車へ向かう道すがら、アランは何度も振り返るように胸の奥に残った違和感をたぐり寄せていた。
陽が傾き、淡い金色が街並みに降り注ぐ。屋敷の方角に向かう石畳を歩みながら、アランの視線は無意識に足元へ落ちる。
——あの札は、どういう意味なのだろう。
“W対象”
響きはどこか、官僚的で冷たくて、命の匂いがまったくしない。
どんな分類で、どんな用途なのか。
医療用か、保護用か、それとも——。
けれど、アランにはその意味を掴む糸がどこにも見当たらなかった。
そしてその疑問は、静かに、しかし確実に胸の内を圧迫していく。
レギュラスに聞けば、きっと答えてくれるだろう。
彼は隠し事の多い男ではあるけれど、アランの質問には誠実に返してくれる。
けれど——。
アランは馬車のステップに足をかけながら、小さく目を伏せた。
ここに通っていることを知られたら、彼はどんな顔をするのだろう。
「体に障る」と心配するだろうか、それとも「行くべきではない」と静かに叱るだろうか。
どちらにしても、アランの望む反応ではないのだと、直感でわかってしまった。
馬車がゆっくりと揺れ始める。
アランはステラを抱き直した。胸に寄り添う小さな体温が、ひどく愛おしい。
ステラがみじろぎして、薄い睫毛をぴくりと震わせる。
アランはそっとその額に口付けを落とした。
メイラが何度も「可愛い、可愛い」と言ってくれた。
あの少女の手が優しくステラの頬を触れた瞬間が脳裏に蘇る。
その柔らかい笑顔は、この世界の厳しさを知らないままの、純粋で曇りない光だった。
——いつか、二人が大きくなったら。
互いに秘密を話し合えるほどの親友になってほしい。
お互いの涙も笑顔も分けあえるような、姉妹のような間柄になってほしい。
アランはその未来を想像し、震えるほど胸が満たされた。
自身が幼い頃、誰とも分かち合えなかった寂しさや孤独が、今になってようやく埋まっていくようだった。
馬車の窓の外で、街並みが静かに過ぎ去っていく。
アランの抱える疑問はまだ解けないまま、胸の奥で静かに脈打っていた。
だが、その隣で眠るステラのぬくもりは、確かに未来へ繋がる希望を与えてくれていた。
レギュラスが屋敷の扉を押し開けた瞬間、冷えた大理石の床に足音が落ちた。その直後、医務魔法使いが慌ただしく近寄り、深く礼をする。
胸騒ぎに似た直感が走ったが、それが何を知らせるものなのかまでは掴めなかった。
「旦那様……奥様が、再びご懐妊されました。」
時間が止まったようだった。
耳に入ったはずの言葉が、頭で意味を結ぶまでに数拍もの空白が生まれる。
ステラを授かってから、まだほんの僅かな時間しか経っていない。
まさか——。
「……も、もうです?」
声が震えた。驚きが隠せなかった。
「おめでとうございます、旦那様。」
医務魔法使いは柔らかく微笑んだが、レギュラスは礼を返すことも忘れていた。
胸の奥がざわめく。
ステラのときよりもあまりに早く、あまりに唐突だ。
嬉しさと戸惑いが同時に押し寄せ、心が追いつかない。
廊下の奥では、すでにヴァルブルガの声が弾むように響いていた。
「次こそは男児を! ブラック家を継ぐ後継ぎを産んでもらわねば!」
嬉しさよりも苛立ちが込み上げる。
母はこの話題になると、いつもそうだ。
アランの体や気持ちを気遣う言葉はひとつもない。
ただ家の名と血筋ばかりを口にする。
その声音に、レギュラスは思わず奥歯を噛みしめた。
寝室の扉を開けた瞬間、空気が柔らかく変わった。
薄いカーテン越しに差し込む夕陽がアランを照らし、彼女はステラを抱きながらゆっくりと顔を上げた。
「…… アラン」
呼ぶだけで胸が締めつけられる。
レギュラスが歩み寄ると、アランは少し驚いたように瞬きをし、すぐにいつもの控えめな笑顔を浮かべた。
彼女は杖を取ると、震える指先で言葉を紡ぐ。
『レギュラス……次は、頑張ります。』
——頑張る。
その言葉が、鋭く胸に刺さった。
性別は努力で決められるものではない。
アランが頑張る必要など、本来どこにもない。
それなのに、最初に口にするのが「頑張る」だという事実が、どれほど重く彼女の心と体に圧し掛かっているのか。
どれだけ追い詰められているのか——ようやく痛いほど理解した。
レギュラスはステラを乳母に預けると、アランのそばに膝をつき、そっと抱き寄せた。
腕の中の彼女は細くて、驚くほど熱かった。
「アラン……おめでとうございます。」
声が掠れてしまう。
「まだ……完全に回復もしていないでしょうに……」
アランは小さく首を振った。
“そんなことはありません”
“心配しないで”
——そう伝えようとする仕草だった。
だが、レギュラスにはすぐにそれが嘘だとわかった。
彼女の肩はかすかに震えている。
体は回復したと言いながら、眠りの浅さや痛みに耐えているのを、毎晩隣で感じていた。
「……無理を、しないでください。」
レギュラスはアランの背に手を添え、小さく撫でる。
触れるたび、守りたいという思いが強くなる。
彼女の体温は確かにそこにあるのに、壊れてしまいそうで恐ろしかった。
アランはレギュラスの胸元に額を預け、ゆっくりと息を吐いた。
声はない。
けれど、その沈黙が、どんな言葉より雄弁に訴えてくる——
「怖くないと言えば嘘になる」
「それでもあなたの子を産みたい」
「必要とされたい」
そんな複雑な想いが、抱きしめる腕の中から流れ込んでくるようだった。
レギュラスはその全てを受け止めるかのように、彼女を強くは抱かず、ただそっと包んだ。
アランの髪が肩に触れ、静かな息が胸に温かく伝わってくる。
——どうかこの先、痛むことが増えませんように。
——どうか、神が彼女からこれ以上何も奪いませんように。
そんな祈りにも似た想いが、レギュラスの胸を深く満たしていた。
まさか、こんなにも早く——。
医務魔法使いの言葉を聞いた瞬間、アランの胸に広がったのは驚きよりも、あたたかく澄んだ歓喜だった。
ほんの数ヶ月前、ステラを腕に抱いたばかりだというのに、再び母になれる。
その事実だけで、世界が一気に光に満ちるように思えた。
ステラを抱きながら部屋の真ん中に立つと、ちいさな娘は母の胸の高鳴りを感じたのか、きゃっきゃと声にならない笑いを立てて手を伸ばす。
柔らかい頬がほころび、翡翠の瞳が光って揺れた。
その仕草さえ、祝福のようだった。
ヴァルブルガが歩み寄り、滅多に見せることのない晴れやかな微笑みを浮かべた。
「良い知らせだわ、アラン。」
その言葉に、胸がふわりと浮くような心地がした。
義母に褒められることなど、これまでほとんどなかった。
美しく飾られた唇の端がわずかに綻び、優雅な仕草でアランの腕の中のステラをのぞき込む。
その穏やかな表情が、アランの胸の奥深くに幸福を染み込ませた。
——次こそは。
自然と、その思いが強くなる。
この家を喜ばせたい。
レギュラスに誇りを与えたい。
ブラック家の名に恥じぬ後継ぎを——。
そんな願いが静かに、しかし確実にアランの心を締めつけ始めていた。
けれど本人はまだ、その重さに気づいていなかった。
ただ希望と幸福に胸を満たし、まるで天へ昇るような浮遊感の中にいた。
ふと、扉の向こうにレギュラスが立っているのが見えた。
仕事帰りなのだろう、黒いローブの裾には冷たい外気がまだわずかに残っている。
それでも、彼がアランを見る目だけは優しく温かい。
アランはステラを抱いたまま微笑みかけた。
その瞬間、レギュラスの顔に影が差した。
心配と喜びが入り混じった複雑な色だった。
「…… アラン、大丈夫ですか?」
深く息をしてから、彼はゆっくり近づいてくる。
その声音、その目。その手の伸ばし方。
どれもが、アランの胸を満たしていく。
——こんなにも偉大な魔法使いに、愛されている。
その実感だけで、涙が溢れそうになった。
レギュラスはそっとステラの頭を撫で、次にアランの頬へ触れた。
ひどく大切なものに触れるような、慎重で、優しい仕草だった。
「無理はしないでくださいね。」
その言葉は、アランにとって甘い雨のようだった。
彼の心配が、こんなにも胸を温かくするとは思わなかった。
ステラが小さな手で母の胸を叩き、アランの視線がその澄んだ瞳に吸い寄せられる。
この子にも、次に生まれてくる子にも、幸せな未来を与えたい。
そのために自分は強くあらねばならない。
この家の望むものを、叶えられるように——。
アランは静かに息を吸い、レギュラスに向かって柔らかく微笑んだ。
胸の奥でまだ幼い希望が花開く音がした。
今のアランには、ただひとつの真実だけが輝いていた。
——レギュラスが自分を心から愛している。その愛を、もっともっと返したい。
アランは、あの日マグル保護施設で聞いたただ一つの違和感が、どうしても胸から離れなかった。
――「W許可施設」。
職員が言いかけて、慌てて口を閉ざしたあの言葉。
レギュラスが寄付しているという帳簿の隅にあった「W」の印。
あの場の空気は、どうにもただの「寄付の話」ではなかった。
施設の子どもたちの数が、以前より少なくなっているのも気にかかった。
メイラが「最近いなくなった子がいる」と不思議そうに話したとき、胸の奥がひどくざわついた。
けれど職員は「移動した」「里親が決まった」などと曖昧に笑っただけだった。
アランは悟っていた。
――あれは、嘘の笑顔だ。
メイラに何の被害もなければよいが、もしあの“W”が、昨今話題の狼人間・マグル食殺許可に関係しているのだとしたら。
その「犠牲」の中に、メイラも含まれ得るのではないか。
その想像が浮かぶたび、心臓が痛みで強く握りつぶされるようだった。
その不安を抱えたままではいられなかった。
レギュラスに直接尋ねることもできたが——
彼の目の前で施設の名を出せば、あそこに通っていることが露見してしまう。
行動を制限されてしまうかもしれない。
それだけは避けたかった。
だからアランは、一人で確かめることにした。
その日の午後、レギュラスが魔法省へ向かった後。
アランはステラを乳母に預け、静かに書斎の前に立った。
重厚な黒檀の扉は、レギュラスの魔力が染み込んだように威厳を放ち、開けるのをためらわせる。
けれど今は、その奥にあるかもしれない「手がかり」が必要だった。
そっと扉を押す。
軋む音すらしないほど、静かな動きだった。
レギュラスの書斎には、濃いインクと古い革装丁の匂いが満ちている。
壁一面の書架には、政務に関する書物、法案の草稿、魔法省の報告書が整然と並んでいた。
机には分厚い書類束がいくつも積まれ、羽根ペンが静かに乾いたインクを湛えている。
アランは胸に手を当て、痛むほどに高鳴る心臓をなだめた。
……メイラを守らなければ
それだけを胸に、机に並んだ書類に目を落とす。
政務文書が重ねられた束を慎重にめくる。
狼人間関連の法案、徴税の記録、魔法省とマグル側との協定書。
文字は整然としているが、内容は冷徹で、読み進めるたびに胸が冷える。
そして——
ひときわ小さな封筒が、別の書類に紛れているのを見つけた。
封をしていない。中には便箋一枚。
震える指で取り出すと、そこには簡潔な指示が記されていた。
《W区分 供給人数調整 承認待ち》
供給——?
人数調整——?
まるで冷水を浴びたように体が硬直した。
同じ行に、マグル保護施設の名称を表す符号が記載されている。
アランの指先が強張った。
口がきけない自分では、声に出して悲鳴をあげることもできない。
ただ、胸の内ひとつで叫びが弾けた。
まさか……そんな……
書斎の静寂が耳鳴りのように痛かった。
ステラの寝息、メイラの笑顔、子どもたちの無垢な声が脳裏で交錯した。
もしも、もしもあの“W”が、あの子たちを——
メイラを——
狼人間への“供給”という意味なのだとすれば。
息ができなくなるほどの恐怖が胸を締めつけた。
レギュラス……どうか……
どうかメイラだけでも…
アランは書類を両手で握りしめた。
守ってほしい。
頼りたい。
でも、真実を知らないままでは動けない。
この小さな書斎で、自分一人が震えている――
その事実が、あまりにも心細く、あまりにも痛かった。
けれど、それでも。
アランは立ち止まらなかった。
メイラを……守らなければ
心の奥底に灯る決意だけが、彼女の震える体を支えていた。
アランは、胸の奥で沸き上がった不穏な予感をどうにも押し込められなかった。
手にした書類の一文——《W区分 供給人数調整》
その文字が、脳の内側を締め上げるように響き続けていた。
視界がぐらつく。
つわりなのか、恐怖なのか、その境界さえ曖昧だった。
喉の奥に押し寄せてくる吐き気はどこにも逃げ場を与えてくれない。
アランは机に手を伸ばそうとしたが、支えを掴むより早く足元がふらつき、重力に逆らえずそのまま床へと崩れ落ちた。
木の床に片膝をついた瞬間、視界に黒い斑点が弾ける。
胸に手を当てても、乱れた鼓動は収まらない。
違う……こんなの……違ってほしい……
けれど、願いは震える心臓の内側で空しく砕けた。
——もしもあの「W」が、
魔法界がマグル界に求めている“供給”を意味するのだとしたら。
レギュラスがあの施設に寄付していた理由。
メイラを預けた背景。
職員たちの曖昧な笑顔。
すべてが別の輪郭を帯びて迫ってくる。
信じてきた優しさが、もし“罪の言い訳”だったのだとしたら?
自分が守られてきたのは、誰かの犠牲の上に成り立つ慈悲だったのだとしたら?
レギュラス……あなたは……いったい……
胸がひりつくほど痛んだ。
彼を疑いたくない。
彼は自分を闇から救い出してくれた。
傷ついた心を包み、娘を抱き、ミルクを温め、毎夜そっと手を握ってくれた。
あの優しさが幻だったとは、どうしても思えない。
思いたくなかった。
——でも。
書類に記された文字は、残酷なほどに現実で。
何度見返しても、そこにあるのは希望ではなく“数字”と“手配”の言葉ばかりだった。
アランは震えながら片手で書類を押し戻そうとした。
しかし、その指が微かに触れただけで、束ねられた紙の山はぱらぱらと滑り落ちるように崩れた。
白い紙が宙へ舞い、散った羽根のように床へと降り積もっていく。
魔法省の印が押された紙片、供給リスト、管理番号。
“W”の文字が散乱した紙のあちこちに刻まれていた。
その光景はひどく無機質で冷たく、息ができなくなるほど恐ろしく見えた。
ああ……どうしよう……
手の震えが止まらない。
床に座り込んだまま、意識が沈んでいく感覚がする。
自分が見ているものすべてがぐにゃりと歪んで、胸の奥から悲鳴がこみ上げるのに——
声は出ない。
出そうとしても喉は塞がり、ただ息だけが喉を擦って掠れた。
こんなにも近くにいたのに。
レギュラスの心の中の、一番奥の奥にある“暗さ”を、自分は何ひとつ知らなかった。
信じることが怖い。
でも、疑うこともまた、同じだけ怖かった。
ステラが笑ったときに見せるレギュラスの柔らかな目元。
寒い夜、震えるアランの肩を抱いてくれたぬくもり。
そのすべてが、頭の中で重なっては離れ、彼を責めることも否定することもできないまま、心はひどく揺らぎ続けた。
……メイラ……どうか、無事でいて
床に散らばった書類の上で、アランは震えながら膝を抱え込むしかなかった。
書斎の静寂が、まるで彼女の不安を閉じ込める檻のように重く、冷たくのしかかった。
書斎の扉が静かに軋みながら開いた。
昼の光はとっくに沈み、部屋は蝋燭の灯が揺らめくばかり。
散らばった書類の白さが、その薄明かりのなかでひどく冷たく浮かび上がっていた。
「アラン、どうしたんです——」
言い終えるより早く、レギュラスは駆け寄っていた。
床に崩れ落ち、震えるアランの姿が胸に突き刺さる。
その怯えた呼吸、か細い肩の震えが、まるで痛みとなって自分に跳ね返ってくる。
彼の視線が床一面に散った紙束をとらえる。
狼人間のマグル食殺許可法に関わる「承認待ち」の書類。
マグルの供給調整。番号。
生死をただの数字に置き換えた冷たい文面。
——息が止まりそうになった。
アランが、それを見た。
その事実が胸に重く沈む。
アランは震える手で杖を握っていた。
翡翠の瞳には、いつも自分に向けられていた柔らかな光などなく、凍りついた怒りと恐怖が宿り、まっすぐにレギュラスを射抜いていた。
「……メイラを、狼人間に食べさせるつもり、ですか?」
杖が震えている。
声は出ないはずの彼女が、必死に訴えようとするその仕草が、何よりも胸に刺さった。
レギュラスは言葉を飲んだ。
答えたい言葉は無数にあったのに、どれ一つとして正しくはなかった。
説明すべき論理はいくらでもある。
政治的合理性。家の利益。
寄付という「恩情」によって、メイラの環境を改善したという事実。
病を癒し、衣食住を保障し、教育を与えたということ。
しかし——
それは「守った」と呼べるのか?
アランの問いはひとつ。
〝メイラは最後にどうなるのか?〟
その一点だけだった。
「アラン……今すぐに、ということでは……ありませんが……」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
アランはすぐに首を振り、杖を動かす。
震えながら、それでもぶれのない手つきで。
「今じゃなくても——これから先、あるということなのですね?」
その言葉が書斎に重く落ちた。
沈黙が、二人を隔てる深い溝となる。
光が消え入りそうな蝋燭の炎のように、レギュラスの返答も揺らぐ。
嘘はつけない。
つけば、もっと深く傷つけてしまう。
レギュラスは、ゆっくりと、しかし確かに——頷いた。
アランの表情が、ゆっくりと崩れていく。
怒りか、絶望か、悲痛か。
そのどれでもなく、三つ全部を抱え込み、胸の奥で割れるような眼差しだった。
唇を噛み、涙をこらえるように瞼が強く閉じられる。
その姿は、かつて地下で震えていた少女と重なり、レギュラスは息を呑んだ。
酷い、と言いたいのだろう。
倫理も道徳も欠けていると。
いや——そんなもの、この世界でどれほどの価値があるのか。
理想だけでは何も救えない。
犠牲なくして成り立つ世界などどこにもない。
そう自身に言い聞かせてきた。
だが、目の前で壊れそうに震える妻を前にしたとき——
その合理性は、なんて薄く、なんて脆く見えるのだろう。
「アラン……」
名前を呼んでも、アランは顔を上げようとしなかった。
床に散らばった白い書類の上で、彼女の涙がひとしずく落ち、にじむように紙を濡らす。
レギュラスの胸の奥で、何かが軋むようにゆがんだ。
それでも——
彼は何ひとつ否定できなかった。
世界は、綺麗事では動かない。
だが、それを理解できないほどアランは愚かではない。
だからこそ——彼女の痛みは深い。
この書斎に漂う、言葉にできない裂け目のような沈黙。
それが、二人の間に初めて生まれた深い亀裂のように感じられた。
崩れ落ちていた膝に、ゆっくりと力が戻る。
アランはよろめくように立ち上がった。
レギュラスが差し出した手には触れず、その手のひらにかすかに触れた指先さえも、そっと払い落とす。
「アラン、どこに行く気です」
レギュラスの声は静かだったが、焦燥が滲んでいた。
だがアランはもう杖を動かさない。言葉を伝えようという意思そのものが消えてしまったように、沈黙のまま俯いていた。
——話しても、何も変わらない。
胸の奥で、そう呟く別の自分がいた。
レギュラスがどれほどの大義を掲げようと、
どれほど政治的な説明をしたとしても、
どれほど必要な犠牲だと語ったとしても——
虐げられる未来が確定した場所へ、あの幼い少女を送り届けたという一点だけが、アランの胸を焼いていた。
ステラが安心して暮らしている……と喜んでいた自分が、なんて愚かだったのだろう。
レギュラスの慈悲を、
レギュラスの厚意を、
レギュラスの優しさを——
本気で信じていた自分が滑稽で胸が裂けそうだった。
自分は、どうしてこんなにも物事の本質を見抜けないのか。
どうしてあのとき、気づけなかったのか。
気づきたくなかっただけなのかもしれない。
アランは扉のほうへと歩き出した。
視界が揺れるほどの吐き気と眩暈が襲うが、それでも進もうとする。
メイラを迎えに行かねばならない。
いつ、彼女が選ばれ、番号を振られ、あの冷たい「W」の部屋へ連れていかれるか——
その瞬間が、今この時かもしれないのだ。
これ以上、あの場所に置いておくわけにはいかない。
レギュラスの手が背後からアランの腕を掴んだ。
「 アラン、もう夜です。危険ですから——」
アランは振り返らなかった。
掴まれた腕を、静かに、しかし確固たる意思で振りほどく。
温かさの残ったレギュラスの指先が、するりとアランの肌から滑り離れていく。
その手に触れたくなかった。
——どうして同じ手なのだろう。
地下牢で、
暗闇の底で、
震える自分の手を初めて取ってくれた男の手。
優しくて、丁寧で、壊れ物を扱うように抱いてくれた手。
自分の身体を何度も撫で、「痛くないか」と何度も確認してくれた手。
そのすべてが嘘のように感じられた。
マグルの男を罪に落とし、アズカバンに向かわせ、
その娘の病を癒してやったと思わせておいて——
最終的には狼人間に捧げる道筋に乗せようとしたその手。
どうして、この二つが同じ手なのか。
頭では理解できない。
心ではもっと理解できない。
足が震えた。
呼吸が途切れそうだった。
レギュラスがゆっくりと声を上げる。
「アラン……戻ってきてください」
その声音は、いつかの夜に自分を呼んだときと同じだった。
けれどアランには、その響きが遠く、ひどく空虚なものに聞こえた。
自分が愛したレギュラスは——
どこにいるのだろう?
背後でレギュラスの靴の音が一歩近づく。
それだけで、アランは身を固くした。
触れられたら、泣き崩れてしまいそうだった。
——どれが本当のレギュラスなのか。
わからない。
わからないまま、今はただ前へ進むしかなかった。
メイラを救うために。
自分の信じた愛を裏切らないために。
アランはただ、暗い廊下へ歩き出した。
夜の冷気を切り裂くように、アランは姿くらましの呪文を放った。
二度目の懐妊を知ったばかりの身体に、こんな無茶をしてはならないことは分かっている。
けれど、胸の奥で膨れ上がる恐怖と焦りが、そんな理性を容赦なく塗り潰した。
メイラを、今すぐ救い出さなければ。
魔力がねじれるような不快な音とともに、空間がひしゃげる。
着地と同時に内臓がかき回されるような痛みが腹を突き上げた。
「……っ」
声の出ない喉を押さえ、壁に手をついた。
視界が揺れる。
それでも立ち止まるわけにはいかなかった。
施設の灯りはまばらで、夜の静けさが異常に感じられるほどだった。
いつもの受付にも人はいない。
子供たちの寝息も聞こえない。
まるで空気そのものが何かを隠しているかのように、ひどく静まり返っていた。
メイラ……どこ……?
声として届かない問いを、アランは胸の奥で必死に繰り返した。
杖で名前を書いても、それを遠くへ飛ばすことなどできない。
ただ歩いて探すしかなかった。
足を引きずりながら廊下を進む。
腹の奥が鈍く痛む。
時折、痛みが鋭く胸の下を走り、そのたびに壁に手をついて体を支えた。
お願い……無事でいて……
もしも、もしも——
すでに選ばれて、あの「W」の部屋へ連れていかれたのだとしたら。
もしも、もう二度と会えない場所へ連れ去られてしまったのだとしたら。
「……っ」
涙とも吐き気ともつかない震えが喉を突き上げる。
肩が震え、息が乱れ、嗚咽が漏れた。
声にならない苦しみは、胸の奥で爆ぜるように痛かった。
そのときだった。
「……お姉さん、だれ……?」
小さな声。
振り向くと、メイラより幼い少年が、暗い廊下の先に立っていた。
心細げな目でアランを見つめている。
アランは少年に縋るように近づき、震える手で杖を走らせた。
『メイラ・ウォルブリッジはどこ?
アラン・ブラックが来たと伝えてほしいの』
少年はその文字をじっと見つめ、目を瞬かせた。
「メイラ……? メイラなら……」
少年の小さな唇が次の言葉を形作ろうとした瞬間、
アランの心臓はぎゅっと握り潰されるように跳ね上がった。
どうか——
どうか、その言葉の先にある未来が、絶望ではありませんように。
アランは祈るように、少年を見つめた。
少年がぱたぱたと駆け戻ってきた。
薄暗い廊下の向こうから、息を切らしながら連れてきた小さな影——メイラが現れた。
「アランさん……?」
メイラは眠りを妨げられたのか、ぼんやりした顔で、だがアランの姿を見つけた瞬間に目を大きくした。
アランはもう堪えきれず、ステラを抱く時と同じように、その小さな身体を強く、強く抱きしめた。
腕の中でメイラが驚いたように固まる。
「アランさん、こんな夜に……どうしたの?」
かすれるほどの不安が、メイラの声に宿っていた。
アランは震える手で杖を持ち上げ、ゆっくりと空中に言葉を描いた。
『メイラ、もうここにはいられないわ。私と一緒に来て』
その文字を読んだ瞬間、メイラは目を見開いた。
驚き、戸惑い、そしてわずかな恐れが混ざり合った瞳で、アランを見つめ返す。
「どうして……?」
その問いには、あまりにも純粋な幼さがあった。
アランは唇を噛み、今にも崩れ落ちそうな心を必死に支えながら、さらに杖を走らせた。
『どうしてもなの。お願い、早く行きましょう』
その文字が消えるより先に、アランはメイラの手を掴んだ。
震える指先で、逃げるように、その手を引っ張る。
——その時。
「メイラ……もう帰ってこないの?」
弱々しい声が背中を打った。
先ほどの少年だった。
眠そうにこすった目で、二人の背中を不安そうに見つめている。
メイラは立ち止まる。
振り返り、小さく微笑んだ。
「ううん、すぐ戻るよ。部屋でいい子にしてて」
優しい、嘘。
幼い少年には、その嘘すら理解できず、ただ安心したように頷いた。
その光景がアランの胸を鋭く抉った。
戻らない。戻らせない。
この子を、この少女だけは、救わなければならない。
もう二度と、誰かの“捧げ物”にされてしまう未来を迎えさせないために。
けれど——
あの少年。
あの小さな声でメイラの名を呼んだ、怯えた瞳の少年。
彼は、きっと救われない。
この世界の仕組みの中で、近いうちに“選ばれる”可能性がある。
誰にも気づかれず、誰にも守られず、誰にも知られないまま。
アランは足を止めそうになった。
胸が張り裂けそうに痛んだ。
私は……今……救う命と……切り捨てる命を選んだの……?
喉が焼けるほど痛かった。
泣こうにも、声を持たない自分は嗚咽すら漏らせない。
後ろから少年の小さな足音が聞こえたが、アランは振り返れなかった。
振り返れば、きっと崩れ落ちてしまう。
動けなくなる。
選んだ責任に押し潰されてしまう。
だからただ、メイラの手を握りしめたまま、逃げるように歩き続けた。
震える脚で。
痛む腹を押さえながら。
胸の中で渦巻く罪を抱えたまま。
——少女の命を選ぶために。
——明日失われるかもしれない命を、見捨てる罪を背負いながら。
アランは走った。
走りながら、静かに涙を零した。
中心には巨大な魔法陣が淡く脈動し、その光が頭上の闇を照らし上げるたび、集まった闇の魔法使いたちの影が壁に長く伸びて揺れた。
レギュラス・ブラックは、その最前列に静かに立っていた。
肩に落ちるローブの影が頬を撫でる。
その表情は冷やされて固まった彫像のように微動だにしないが、その奥底では激しい嫌悪が煮え立つように渦巻いていた。
——マグルが剣を取り、我々に立ち向かった、だと?
「おそれを知らないマグルが、我々に立ち向かおうと剣を取ったそうだ」
闇の帝王の高く響く声が、広間の空気を震わせる。
瞬間、デスイーターたちの列から嘲りの笑い声が一斉に上がり、その響きが天井の闇にまで跳ね返っていく。
「愚かしいことこの上ない」
ヴォルデモートの冷たい嗤いが広間を支配すると、レギュラスはただ静かに瞳を細める。
痛々しいほどの無力さでありながら、なぜマグルはこうも傲慢になれるのか。
剣で人を刺せば血が流れる。
銃で撃てば一瞬で息絶える。
——それが魔法使いにも通用するはずだと信じているのか。
どこまでも浅はかで、どこまでも愚かだった。
マグルの集団が武器を手にする動きは昔からあった。
しかし狼人間食殺許可法が制定されて以降、その動きは勢いを増し、火に油を注ぐかのように反魔法族の思想が急激に膨れ上がっている。
彼らなりの“正義”があるのだろう。
魔法を使う者が恐ろしい生き物であるというのならば、勇敢な行動とでも思っているのだろう。
——だが、その正義こそが愚かだ。
魔法使いの血の尊さも知らず、歴史も知らず、世界の形を理解しようともしない。
ただ己の狭い倫理観と恐怖だけで動き、神聖なる魔法使いへ刃を向ける。
レギュラスは、そういうマグルが——心底、死ぬほど嫌いだった。
魔法を持たぬ弱者が、魔法族に牙を剥く。
その構図が、彼にはどうしようもなく耐え難かった。
「お前たちよ、穢れた血の集団を一人残らず討て」
ヴォルデモートの声が雷鳴のように落ちる。
広間にいる全員が恭しく頭を垂れる。
レギュラスもまた杖を持つ指先を静かに曲げ、忠誠の意を形作った。
恐れも迷いもなく、むしろ整然とした確信をもって思う。
——魔法使いに刃向かう者は、魔法界の外側に存在してはならない。
神聖なる血に向けられた敵意と暴力は許されるものではない。
たとえその敵が、人間であれ、子供であれ、無力な者であれ。
レギュラスにとっては、“魔法使いの命”の重さの前には、あまりにも軽い。
彼の瞳には、これから血に染まる未来へのためらいは欠片もなかった。
むしろその冷たさは、ヴォルデモートの影よりも深く、静かに満ちた暗闇のようだった。
アランはステラをそっと胸に抱きながら、マグル保護施設の白い石畳をゆっくりと歩いていた。
出産からしばらく経ち、まだ万全とは言えない体ではあるものの、ようやくこうしてステラを連れて外に出られるくらいには回復した。
冷たい風が頬を撫でるたび、抱いた赤子の体温が逆に心を温める。娘の柔らかな息遣いは、まるで疲労を溶かしていく魔法のようだった。
メイラと会うのは久しぶりだった。
その分成長がよくわかる。姿も顔つきも、語る言葉の深みも。
この施設に収容されている間、どれほど知識を吸い込み、どれほど努力し、成長を遂げているのか。アランは会うたびに驚かされていた。
扉を開けた瞬間、メイラは弾かれたように立ち上がった。
「アランさん!」
声に弾むような喜びがあった。
それはアランの心に真っ直ぐ届く、透明な光のようだった。
彼女が飛びついて抱きしめてくる勢いに、産後の傷が少し痛んだ。
けれどその痛みすら、愛しさに変わった。
「アランさんに似て、とても美人さんですね」
メイラがステラを覗き込み、目を大きく輝かせた。
アランは穏やかに微笑み、杖を振って答える。
『メイラの妹ですよ』
「……妹……!」
メイラの瞳は黒曜石のように澄み切り、輝きが溢れ出した。
その表情を見た瞬間、アランの胸に熱いものが流れ込んでくる。
初めてあの屋敷でメイラを見た時のことを思い出す。
病で衰弱し、孤独に震え、それでも必死に生きようとしていた幼い少女。
彼女の父が無実を訴えながらアズカバンに送られたこと。
その娘をレギュラスが連れてきたという事実を聞いた時、胸が張り裂けそうだった。
——守りたい。
——導きたい。
——この子を、もう二度と孤独にしないであげたい。
あの瞬間、アランの中に初めて“母”としての感情が明確に芽生えた。
自分にとって“最初の娘”は、間違いなくこの少女だった。
血の繋がりではない。けれど心は確かに結びついていた。
「私、成績がすごくいいんですって!」
「先生がね、私の将来はすごく楽しみだって言ってくれるの!」
メイラは誇らし気に話す。
未来への希望がいっぱいに詰まった声だった。
「私、どんな職業につくんでしょう……ね?」
期待と不安が混ざった問い。
けれどその言葉の奥には、明るく温かな夢がはっきりと見えていた。
アランはその小さな手を優しく握りしめた。
ステラを抱いた腕に力を込めながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
——メイラは正しい道を進んでいる。
——未来へ向かう光の中に立っている。
それを感じられるだけで、アランの心は救われた。
あの日、無謀とも言える願いをレギュラスにぶつけた。
マグルの少女を助けてほしい、救ってほしいと——。
レギュラスはそれを真剣に受け止め、自分なりの最大限の“譲歩”で叶えてくれた。
アランの綺麗事を、彼は深い愛情で拾い上げてくれた。
その優しさが胸いっぱいに溢れて、息が詰まりそうになる。
メイラはステラの頬にそっと触れ、くすぐったそうに笑った。
——この子たちの未来が、どうか明るくありますように。
アランは二人の少女を見つめながら、心からそう祈った。
帰り際、アランはステラを抱き直しながら、施設の事務室へと歩みを進めた。
木目の古びた扉の前で一度深呼吸をし、杖で軽くノックする。中から職員が顔を上げ、アランを見るなり慌てて立ち上がった。純白のドレスの裾が揺れるたび、アランの足元には静かに品格の影が落ちた。
「失礼いたします。メイラを……どうか、よく気にかけてやってください」
アランは杖をそっと振り、空中に言葉を描く。翡翠色の瞳がまっすぐに職員を見つめていた。
職員は目を大きくし、次の瞬間すぐに深々と頭を下げる。
「もちろんでございます。ブラック家の奥様がわざわざ……。それに、いつも多額の寄付をいただいておりますので、本当に助かっております」
アランはその言葉に胸を撫で下ろした。
レギュラスがこの施設に寄付をしてくれているということ——それは確かに、彼なりの慈悲であり、メイラを思っての行動なのだろう。
レギュラスが表では語らない優しさに触れた気がして、胸の奥が温かくなった。
だが、その温かさは、次の瞬間にふっと冷たいものに触れた。
職員の部屋の壁際に無造作に積まれた箱。
そこに貼られた札に、アランの視線は吸い寄せられた。
「被収容者移送記録」
それだけならまだ良かった。
けれど、アランは見てしまったのだ。
札の端に走るもうひとつの小さな刻印。
「W対象」
そして、その横に書かれていた数字は、前回来た時より確実に減っていた。
W——狼人間の頭文字。
対象——捧げられる者。
意味を知らないアランはただ眉をひそめただけだったが、胸の内に確かな違和感が芽生えた。
職員たちの張り付いた笑顔、どこか視線を逸らすような態度、そしてこの札。
何かがおかしい。
なのに、アランにはその“違和感”が何を示しているのか、まだわからなかった。
抱き上げたステラの体温が、急に頼りなく感じられた。
メイラの未来を託すはずのこの場所に、触れてはいけない何かが潜んでいる気がしてならなかった。
施設を出て馬車へ向かう道すがら、アランは何度も振り返るように胸の奥に残った違和感をたぐり寄せていた。
陽が傾き、淡い金色が街並みに降り注ぐ。屋敷の方角に向かう石畳を歩みながら、アランの視線は無意識に足元へ落ちる。
——あの札は、どういう意味なのだろう。
“W対象”
響きはどこか、官僚的で冷たくて、命の匂いがまったくしない。
どんな分類で、どんな用途なのか。
医療用か、保護用か、それとも——。
けれど、アランにはその意味を掴む糸がどこにも見当たらなかった。
そしてその疑問は、静かに、しかし確実に胸の内を圧迫していく。
レギュラスに聞けば、きっと答えてくれるだろう。
彼は隠し事の多い男ではあるけれど、アランの質問には誠実に返してくれる。
けれど——。
アランは馬車のステップに足をかけながら、小さく目を伏せた。
ここに通っていることを知られたら、彼はどんな顔をするのだろう。
「体に障る」と心配するだろうか、それとも「行くべきではない」と静かに叱るだろうか。
どちらにしても、アランの望む反応ではないのだと、直感でわかってしまった。
馬車がゆっくりと揺れ始める。
アランはステラを抱き直した。胸に寄り添う小さな体温が、ひどく愛おしい。
ステラがみじろぎして、薄い睫毛をぴくりと震わせる。
アランはそっとその額に口付けを落とした。
メイラが何度も「可愛い、可愛い」と言ってくれた。
あの少女の手が優しくステラの頬を触れた瞬間が脳裏に蘇る。
その柔らかい笑顔は、この世界の厳しさを知らないままの、純粋で曇りない光だった。
——いつか、二人が大きくなったら。
互いに秘密を話し合えるほどの親友になってほしい。
お互いの涙も笑顔も分けあえるような、姉妹のような間柄になってほしい。
アランはその未来を想像し、震えるほど胸が満たされた。
自身が幼い頃、誰とも分かち合えなかった寂しさや孤独が、今になってようやく埋まっていくようだった。
馬車の窓の外で、街並みが静かに過ぎ去っていく。
アランの抱える疑問はまだ解けないまま、胸の奥で静かに脈打っていた。
だが、その隣で眠るステラのぬくもりは、確かに未来へ繋がる希望を与えてくれていた。
レギュラスが屋敷の扉を押し開けた瞬間、冷えた大理石の床に足音が落ちた。その直後、医務魔法使いが慌ただしく近寄り、深く礼をする。
胸騒ぎに似た直感が走ったが、それが何を知らせるものなのかまでは掴めなかった。
「旦那様……奥様が、再びご懐妊されました。」
時間が止まったようだった。
耳に入ったはずの言葉が、頭で意味を結ぶまでに数拍もの空白が生まれる。
ステラを授かってから、まだほんの僅かな時間しか経っていない。
まさか——。
「……も、もうです?」
声が震えた。驚きが隠せなかった。
「おめでとうございます、旦那様。」
医務魔法使いは柔らかく微笑んだが、レギュラスは礼を返すことも忘れていた。
胸の奥がざわめく。
ステラのときよりもあまりに早く、あまりに唐突だ。
嬉しさと戸惑いが同時に押し寄せ、心が追いつかない。
廊下の奥では、すでにヴァルブルガの声が弾むように響いていた。
「次こそは男児を! ブラック家を継ぐ後継ぎを産んでもらわねば!」
嬉しさよりも苛立ちが込み上げる。
母はこの話題になると、いつもそうだ。
アランの体や気持ちを気遣う言葉はひとつもない。
ただ家の名と血筋ばかりを口にする。
その声音に、レギュラスは思わず奥歯を噛みしめた。
寝室の扉を開けた瞬間、空気が柔らかく変わった。
薄いカーテン越しに差し込む夕陽がアランを照らし、彼女はステラを抱きながらゆっくりと顔を上げた。
「…… アラン」
呼ぶだけで胸が締めつけられる。
レギュラスが歩み寄ると、アランは少し驚いたように瞬きをし、すぐにいつもの控えめな笑顔を浮かべた。
彼女は杖を取ると、震える指先で言葉を紡ぐ。
『レギュラス……次は、頑張ります。』
——頑張る。
その言葉が、鋭く胸に刺さった。
性別は努力で決められるものではない。
アランが頑張る必要など、本来どこにもない。
それなのに、最初に口にするのが「頑張る」だという事実が、どれほど重く彼女の心と体に圧し掛かっているのか。
どれだけ追い詰められているのか——ようやく痛いほど理解した。
レギュラスはステラを乳母に預けると、アランのそばに膝をつき、そっと抱き寄せた。
腕の中の彼女は細くて、驚くほど熱かった。
「アラン……おめでとうございます。」
声が掠れてしまう。
「まだ……完全に回復もしていないでしょうに……」
アランは小さく首を振った。
“そんなことはありません”
“心配しないで”
——そう伝えようとする仕草だった。
だが、レギュラスにはすぐにそれが嘘だとわかった。
彼女の肩はかすかに震えている。
体は回復したと言いながら、眠りの浅さや痛みに耐えているのを、毎晩隣で感じていた。
「……無理を、しないでください。」
レギュラスはアランの背に手を添え、小さく撫でる。
触れるたび、守りたいという思いが強くなる。
彼女の体温は確かにそこにあるのに、壊れてしまいそうで恐ろしかった。
アランはレギュラスの胸元に額を預け、ゆっくりと息を吐いた。
声はない。
けれど、その沈黙が、どんな言葉より雄弁に訴えてくる——
「怖くないと言えば嘘になる」
「それでもあなたの子を産みたい」
「必要とされたい」
そんな複雑な想いが、抱きしめる腕の中から流れ込んでくるようだった。
レギュラスはその全てを受け止めるかのように、彼女を強くは抱かず、ただそっと包んだ。
アランの髪が肩に触れ、静かな息が胸に温かく伝わってくる。
——どうかこの先、痛むことが増えませんように。
——どうか、神が彼女からこれ以上何も奪いませんように。
そんな祈りにも似た想いが、レギュラスの胸を深く満たしていた。
まさか、こんなにも早く——。
医務魔法使いの言葉を聞いた瞬間、アランの胸に広がったのは驚きよりも、あたたかく澄んだ歓喜だった。
ほんの数ヶ月前、ステラを腕に抱いたばかりだというのに、再び母になれる。
その事実だけで、世界が一気に光に満ちるように思えた。
ステラを抱きながら部屋の真ん中に立つと、ちいさな娘は母の胸の高鳴りを感じたのか、きゃっきゃと声にならない笑いを立てて手を伸ばす。
柔らかい頬がほころび、翡翠の瞳が光って揺れた。
その仕草さえ、祝福のようだった。
ヴァルブルガが歩み寄り、滅多に見せることのない晴れやかな微笑みを浮かべた。
「良い知らせだわ、アラン。」
その言葉に、胸がふわりと浮くような心地がした。
義母に褒められることなど、これまでほとんどなかった。
美しく飾られた唇の端がわずかに綻び、優雅な仕草でアランの腕の中のステラをのぞき込む。
その穏やかな表情が、アランの胸の奥深くに幸福を染み込ませた。
——次こそは。
自然と、その思いが強くなる。
この家を喜ばせたい。
レギュラスに誇りを与えたい。
ブラック家の名に恥じぬ後継ぎを——。
そんな願いが静かに、しかし確実にアランの心を締めつけ始めていた。
けれど本人はまだ、その重さに気づいていなかった。
ただ希望と幸福に胸を満たし、まるで天へ昇るような浮遊感の中にいた。
ふと、扉の向こうにレギュラスが立っているのが見えた。
仕事帰りなのだろう、黒いローブの裾には冷たい外気がまだわずかに残っている。
それでも、彼がアランを見る目だけは優しく温かい。
アランはステラを抱いたまま微笑みかけた。
その瞬間、レギュラスの顔に影が差した。
心配と喜びが入り混じった複雑な色だった。
「…… アラン、大丈夫ですか?」
深く息をしてから、彼はゆっくり近づいてくる。
その声音、その目。その手の伸ばし方。
どれもが、アランの胸を満たしていく。
——こんなにも偉大な魔法使いに、愛されている。
その実感だけで、涙が溢れそうになった。
レギュラスはそっとステラの頭を撫で、次にアランの頬へ触れた。
ひどく大切なものに触れるような、慎重で、優しい仕草だった。
「無理はしないでくださいね。」
その言葉は、アランにとって甘い雨のようだった。
彼の心配が、こんなにも胸を温かくするとは思わなかった。
ステラが小さな手で母の胸を叩き、アランの視線がその澄んだ瞳に吸い寄せられる。
この子にも、次に生まれてくる子にも、幸せな未来を与えたい。
そのために自分は強くあらねばならない。
この家の望むものを、叶えられるように——。
アランは静かに息を吸い、レギュラスに向かって柔らかく微笑んだ。
胸の奥でまだ幼い希望が花開く音がした。
今のアランには、ただひとつの真実だけが輝いていた。
——レギュラスが自分を心から愛している。その愛を、もっともっと返したい。
アランは、あの日マグル保護施設で聞いたただ一つの違和感が、どうしても胸から離れなかった。
――「W許可施設」。
職員が言いかけて、慌てて口を閉ざしたあの言葉。
レギュラスが寄付しているという帳簿の隅にあった「W」の印。
あの場の空気は、どうにもただの「寄付の話」ではなかった。
施設の子どもたちの数が、以前より少なくなっているのも気にかかった。
メイラが「最近いなくなった子がいる」と不思議そうに話したとき、胸の奥がひどくざわついた。
けれど職員は「移動した」「里親が決まった」などと曖昧に笑っただけだった。
アランは悟っていた。
――あれは、嘘の笑顔だ。
メイラに何の被害もなければよいが、もしあの“W”が、昨今話題の狼人間・マグル食殺許可に関係しているのだとしたら。
その「犠牲」の中に、メイラも含まれ得るのではないか。
その想像が浮かぶたび、心臓が痛みで強く握りつぶされるようだった。
その不安を抱えたままではいられなかった。
レギュラスに直接尋ねることもできたが——
彼の目の前で施設の名を出せば、あそこに通っていることが露見してしまう。
行動を制限されてしまうかもしれない。
それだけは避けたかった。
だからアランは、一人で確かめることにした。
その日の午後、レギュラスが魔法省へ向かった後。
アランはステラを乳母に預け、静かに書斎の前に立った。
重厚な黒檀の扉は、レギュラスの魔力が染み込んだように威厳を放ち、開けるのをためらわせる。
けれど今は、その奥にあるかもしれない「手がかり」が必要だった。
そっと扉を押す。
軋む音すらしないほど、静かな動きだった。
レギュラスの書斎には、濃いインクと古い革装丁の匂いが満ちている。
壁一面の書架には、政務に関する書物、法案の草稿、魔法省の報告書が整然と並んでいた。
机には分厚い書類束がいくつも積まれ、羽根ペンが静かに乾いたインクを湛えている。
アランは胸に手を当て、痛むほどに高鳴る心臓をなだめた。
……メイラを守らなければ
それだけを胸に、机に並んだ書類に目を落とす。
政務文書が重ねられた束を慎重にめくる。
狼人間関連の法案、徴税の記録、魔法省とマグル側との協定書。
文字は整然としているが、内容は冷徹で、読み進めるたびに胸が冷える。
そして——
ひときわ小さな封筒が、別の書類に紛れているのを見つけた。
封をしていない。中には便箋一枚。
震える指で取り出すと、そこには簡潔な指示が記されていた。
《W区分 供給人数調整 承認待ち》
供給——?
人数調整——?
まるで冷水を浴びたように体が硬直した。
同じ行に、マグル保護施設の名称を表す符号が記載されている。
アランの指先が強張った。
口がきけない自分では、声に出して悲鳴をあげることもできない。
ただ、胸の内ひとつで叫びが弾けた。
まさか……そんな……
書斎の静寂が耳鳴りのように痛かった。
ステラの寝息、メイラの笑顔、子どもたちの無垢な声が脳裏で交錯した。
もしも、もしもあの“W”が、あの子たちを——
メイラを——
狼人間への“供給”という意味なのだとすれば。
息ができなくなるほどの恐怖が胸を締めつけた。
レギュラス……どうか……
どうかメイラだけでも…
アランは書類を両手で握りしめた。
守ってほしい。
頼りたい。
でも、真実を知らないままでは動けない。
この小さな書斎で、自分一人が震えている――
その事実が、あまりにも心細く、あまりにも痛かった。
けれど、それでも。
アランは立ち止まらなかった。
メイラを……守らなければ
心の奥底に灯る決意だけが、彼女の震える体を支えていた。
アランは、胸の奥で沸き上がった不穏な予感をどうにも押し込められなかった。
手にした書類の一文——《W区分 供給人数調整》
その文字が、脳の内側を締め上げるように響き続けていた。
視界がぐらつく。
つわりなのか、恐怖なのか、その境界さえ曖昧だった。
喉の奥に押し寄せてくる吐き気はどこにも逃げ場を与えてくれない。
アランは机に手を伸ばそうとしたが、支えを掴むより早く足元がふらつき、重力に逆らえずそのまま床へと崩れ落ちた。
木の床に片膝をついた瞬間、視界に黒い斑点が弾ける。
胸に手を当てても、乱れた鼓動は収まらない。
違う……こんなの……違ってほしい……
けれど、願いは震える心臓の内側で空しく砕けた。
——もしもあの「W」が、
魔法界がマグル界に求めている“供給”を意味するのだとしたら。
レギュラスがあの施設に寄付していた理由。
メイラを預けた背景。
職員たちの曖昧な笑顔。
すべてが別の輪郭を帯びて迫ってくる。
信じてきた優しさが、もし“罪の言い訳”だったのだとしたら?
自分が守られてきたのは、誰かの犠牲の上に成り立つ慈悲だったのだとしたら?
レギュラス……あなたは……いったい……
胸がひりつくほど痛んだ。
彼を疑いたくない。
彼は自分を闇から救い出してくれた。
傷ついた心を包み、娘を抱き、ミルクを温め、毎夜そっと手を握ってくれた。
あの優しさが幻だったとは、どうしても思えない。
思いたくなかった。
——でも。
書類に記された文字は、残酷なほどに現実で。
何度見返しても、そこにあるのは希望ではなく“数字”と“手配”の言葉ばかりだった。
アランは震えながら片手で書類を押し戻そうとした。
しかし、その指が微かに触れただけで、束ねられた紙の山はぱらぱらと滑り落ちるように崩れた。
白い紙が宙へ舞い、散った羽根のように床へと降り積もっていく。
魔法省の印が押された紙片、供給リスト、管理番号。
“W”の文字が散乱した紙のあちこちに刻まれていた。
その光景はひどく無機質で冷たく、息ができなくなるほど恐ろしく見えた。
ああ……どうしよう……
手の震えが止まらない。
床に座り込んだまま、意識が沈んでいく感覚がする。
自分が見ているものすべてがぐにゃりと歪んで、胸の奥から悲鳴がこみ上げるのに——
声は出ない。
出そうとしても喉は塞がり、ただ息だけが喉を擦って掠れた。
こんなにも近くにいたのに。
レギュラスの心の中の、一番奥の奥にある“暗さ”を、自分は何ひとつ知らなかった。
信じることが怖い。
でも、疑うこともまた、同じだけ怖かった。
ステラが笑ったときに見せるレギュラスの柔らかな目元。
寒い夜、震えるアランの肩を抱いてくれたぬくもり。
そのすべてが、頭の中で重なっては離れ、彼を責めることも否定することもできないまま、心はひどく揺らぎ続けた。
……メイラ……どうか、無事でいて
床に散らばった書類の上で、アランは震えながら膝を抱え込むしかなかった。
書斎の静寂が、まるで彼女の不安を閉じ込める檻のように重く、冷たくのしかかった。
書斎の扉が静かに軋みながら開いた。
昼の光はとっくに沈み、部屋は蝋燭の灯が揺らめくばかり。
散らばった書類の白さが、その薄明かりのなかでひどく冷たく浮かび上がっていた。
「アラン、どうしたんです——」
言い終えるより早く、レギュラスは駆け寄っていた。
床に崩れ落ち、震えるアランの姿が胸に突き刺さる。
その怯えた呼吸、か細い肩の震えが、まるで痛みとなって自分に跳ね返ってくる。
彼の視線が床一面に散った紙束をとらえる。
狼人間のマグル食殺許可法に関わる「承認待ち」の書類。
マグルの供給調整。番号。
生死をただの数字に置き換えた冷たい文面。
——息が止まりそうになった。
アランが、それを見た。
その事実が胸に重く沈む。
アランは震える手で杖を握っていた。
翡翠の瞳には、いつも自分に向けられていた柔らかな光などなく、凍りついた怒りと恐怖が宿り、まっすぐにレギュラスを射抜いていた。
「……メイラを、狼人間に食べさせるつもり、ですか?」
杖が震えている。
声は出ないはずの彼女が、必死に訴えようとするその仕草が、何よりも胸に刺さった。
レギュラスは言葉を飲んだ。
答えたい言葉は無数にあったのに、どれ一つとして正しくはなかった。
説明すべき論理はいくらでもある。
政治的合理性。家の利益。
寄付という「恩情」によって、メイラの環境を改善したという事実。
病を癒し、衣食住を保障し、教育を与えたということ。
しかし——
それは「守った」と呼べるのか?
アランの問いはひとつ。
〝メイラは最後にどうなるのか?〟
その一点だけだった。
「アラン……今すぐに、ということでは……ありませんが……」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
アランはすぐに首を振り、杖を動かす。
震えながら、それでもぶれのない手つきで。
「今じゃなくても——これから先、あるということなのですね?」
その言葉が書斎に重く落ちた。
沈黙が、二人を隔てる深い溝となる。
光が消え入りそうな蝋燭の炎のように、レギュラスの返答も揺らぐ。
嘘はつけない。
つけば、もっと深く傷つけてしまう。
レギュラスは、ゆっくりと、しかし確かに——頷いた。
アランの表情が、ゆっくりと崩れていく。
怒りか、絶望か、悲痛か。
そのどれでもなく、三つ全部を抱え込み、胸の奥で割れるような眼差しだった。
唇を噛み、涙をこらえるように瞼が強く閉じられる。
その姿は、かつて地下で震えていた少女と重なり、レギュラスは息を呑んだ。
酷い、と言いたいのだろう。
倫理も道徳も欠けていると。
いや——そんなもの、この世界でどれほどの価値があるのか。
理想だけでは何も救えない。
犠牲なくして成り立つ世界などどこにもない。
そう自身に言い聞かせてきた。
だが、目の前で壊れそうに震える妻を前にしたとき——
その合理性は、なんて薄く、なんて脆く見えるのだろう。
「アラン……」
名前を呼んでも、アランは顔を上げようとしなかった。
床に散らばった白い書類の上で、彼女の涙がひとしずく落ち、にじむように紙を濡らす。
レギュラスの胸の奥で、何かが軋むようにゆがんだ。
それでも——
彼は何ひとつ否定できなかった。
世界は、綺麗事では動かない。
だが、それを理解できないほどアランは愚かではない。
だからこそ——彼女の痛みは深い。
この書斎に漂う、言葉にできない裂け目のような沈黙。
それが、二人の間に初めて生まれた深い亀裂のように感じられた。
崩れ落ちていた膝に、ゆっくりと力が戻る。
アランはよろめくように立ち上がった。
レギュラスが差し出した手には触れず、その手のひらにかすかに触れた指先さえも、そっと払い落とす。
「アラン、どこに行く気です」
レギュラスの声は静かだったが、焦燥が滲んでいた。
だがアランはもう杖を動かさない。言葉を伝えようという意思そのものが消えてしまったように、沈黙のまま俯いていた。
——話しても、何も変わらない。
胸の奥で、そう呟く別の自分がいた。
レギュラスがどれほどの大義を掲げようと、
どれほど政治的な説明をしたとしても、
どれほど必要な犠牲だと語ったとしても——
虐げられる未来が確定した場所へ、あの幼い少女を送り届けたという一点だけが、アランの胸を焼いていた。
ステラが安心して暮らしている……と喜んでいた自分が、なんて愚かだったのだろう。
レギュラスの慈悲を、
レギュラスの厚意を、
レギュラスの優しさを——
本気で信じていた自分が滑稽で胸が裂けそうだった。
自分は、どうしてこんなにも物事の本質を見抜けないのか。
どうしてあのとき、気づけなかったのか。
気づきたくなかっただけなのかもしれない。
アランは扉のほうへと歩き出した。
視界が揺れるほどの吐き気と眩暈が襲うが、それでも進もうとする。
メイラを迎えに行かねばならない。
いつ、彼女が選ばれ、番号を振られ、あの冷たい「W」の部屋へ連れていかれるか——
その瞬間が、今この時かもしれないのだ。
これ以上、あの場所に置いておくわけにはいかない。
レギュラスの手が背後からアランの腕を掴んだ。
「 アラン、もう夜です。危険ですから——」
アランは振り返らなかった。
掴まれた腕を、静かに、しかし確固たる意思で振りほどく。
温かさの残ったレギュラスの指先が、するりとアランの肌から滑り離れていく。
その手に触れたくなかった。
——どうして同じ手なのだろう。
地下牢で、
暗闇の底で、
震える自分の手を初めて取ってくれた男の手。
優しくて、丁寧で、壊れ物を扱うように抱いてくれた手。
自分の身体を何度も撫で、「痛くないか」と何度も確認してくれた手。
そのすべてが嘘のように感じられた。
マグルの男を罪に落とし、アズカバンに向かわせ、
その娘の病を癒してやったと思わせておいて——
最終的には狼人間に捧げる道筋に乗せようとしたその手。
どうして、この二つが同じ手なのか。
頭では理解できない。
心ではもっと理解できない。
足が震えた。
呼吸が途切れそうだった。
レギュラスがゆっくりと声を上げる。
「アラン……戻ってきてください」
その声音は、いつかの夜に自分を呼んだときと同じだった。
けれどアランには、その響きが遠く、ひどく空虚なものに聞こえた。
自分が愛したレギュラスは——
どこにいるのだろう?
背後でレギュラスの靴の音が一歩近づく。
それだけで、アランは身を固くした。
触れられたら、泣き崩れてしまいそうだった。
——どれが本当のレギュラスなのか。
わからない。
わからないまま、今はただ前へ進むしかなかった。
メイラを救うために。
自分の信じた愛を裏切らないために。
アランはただ、暗い廊下へ歩き出した。
夜の冷気を切り裂くように、アランは姿くらましの呪文を放った。
二度目の懐妊を知ったばかりの身体に、こんな無茶をしてはならないことは分かっている。
けれど、胸の奥で膨れ上がる恐怖と焦りが、そんな理性を容赦なく塗り潰した。
メイラを、今すぐ救い出さなければ。
魔力がねじれるような不快な音とともに、空間がひしゃげる。
着地と同時に内臓がかき回されるような痛みが腹を突き上げた。
「……っ」
声の出ない喉を押さえ、壁に手をついた。
視界が揺れる。
それでも立ち止まるわけにはいかなかった。
施設の灯りはまばらで、夜の静けさが異常に感じられるほどだった。
いつもの受付にも人はいない。
子供たちの寝息も聞こえない。
まるで空気そのものが何かを隠しているかのように、ひどく静まり返っていた。
メイラ……どこ……?
声として届かない問いを、アランは胸の奥で必死に繰り返した。
杖で名前を書いても、それを遠くへ飛ばすことなどできない。
ただ歩いて探すしかなかった。
足を引きずりながら廊下を進む。
腹の奥が鈍く痛む。
時折、痛みが鋭く胸の下を走り、そのたびに壁に手をついて体を支えた。
お願い……無事でいて……
もしも、もしも——
すでに選ばれて、あの「W」の部屋へ連れていかれたのだとしたら。
もしも、もう二度と会えない場所へ連れ去られてしまったのだとしたら。
「……っ」
涙とも吐き気ともつかない震えが喉を突き上げる。
肩が震え、息が乱れ、嗚咽が漏れた。
声にならない苦しみは、胸の奥で爆ぜるように痛かった。
そのときだった。
「……お姉さん、だれ……?」
小さな声。
振り向くと、メイラより幼い少年が、暗い廊下の先に立っていた。
心細げな目でアランを見つめている。
アランは少年に縋るように近づき、震える手で杖を走らせた。
『メイラ・ウォルブリッジはどこ?
アラン・ブラックが来たと伝えてほしいの』
少年はその文字をじっと見つめ、目を瞬かせた。
「メイラ……? メイラなら……」
少年の小さな唇が次の言葉を形作ろうとした瞬間、
アランの心臓はぎゅっと握り潰されるように跳ね上がった。
どうか——
どうか、その言葉の先にある未来が、絶望ではありませんように。
アランは祈るように、少年を見つめた。
少年がぱたぱたと駆け戻ってきた。
薄暗い廊下の向こうから、息を切らしながら連れてきた小さな影——メイラが現れた。
「アランさん……?」
メイラは眠りを妨げられたのか、ぼんやりした顔で、だがアランの姿を見つけた瞬間に目を大きくした。
アランはもう堪えきれず、ステラを抱く時と同じように、その小さな身体を強く、強く抱きしめた。
腕の中でメイラが驚いたように固まる。
「アランさん、こんな夜に……どうしたの?」
かすれるほどの不安が、メイラの声に宿っていた。
アランは震える手で杖を持ち上げ、ゆっくりと空中に言葉を描いた。
『メイラ、もうここにはいられないわ。私と一緒に来て』
その文字を読んだ瞬間、メイラは目を見開いた。
驚き、戸惑い、そしてわずかな恐れが混ざり合った瞳で、アランを見つめ返す。
「どうして……?」
その問いには、あまりにも純粋な幼さがあった。
アランは唇を噛み、今にも崩れ落ちそうな心を必死に支えながら、さらに杖を走らせた。
『どうしてもなの。お願い、早く行きましょう』
その文字が消えるより先に、アランはメイラの手を掴んだ。
震える指先で、逃げるように、その手を引っ張る。
——その時。
「メイラ……もう帰ってこないの?」
弱々しい声が背中を打った。
先ほどの少年だった。
眠そうにこすった目で、二人の背中を不安そうに見つめている。
メイラは立ち止まる。
振り返り、小さく微笑んだ。
「ううん、すぐ戻るよ。部屋でいい子にしてて」
優しい、嘘。
幼い少年には、その嘘すら理解できず、ただ安心したように頷いた。
その光景がアランの胸を鋭く抉った。
戻らない。戻らせない。
この子を、この少女だけは、救わなければならない。
もう二度と、誰かの“捧げ物”にされてしまう未来を迎えさせないために。
けれど——
あの少年。
あの小さな声でメイラの名を呼んだ、怯えた瞳の少年。
彼は、きっと救われない。
この世界の仕組みの中で、近いうちに“選ばれる”可能性がある。
誰にも気づかれず、誰にも守られず、誰にも知られないまま。
アランは足を止めそうになった。
胸が張り裂けそうに痛んだ。
私は……今……救う命と……切り捨てる命を選んだの……?
喉が焼けるほど痛かった。
泣こうにも、声を持たない自分は嗚咽すら漏らせない。
後ろから少年の小さな足音が聞こえたが、アランは振り返れなかった。
振り返れば、きっと崩れ落ちてしまう。
動けなくなる。
選んだ責任に押し潰されてしまう。
だからただ、メイラの手を握りしめたまま、逃げるように歩き続けた。
震える脚で。
痛む腹を押さえながら。
胸の中で渦巻く罪を抱えたまま。
——少女の命を選ぶために。
——明日失われるかもしれない命を、見捨てる罪を背負いながら。
アランは走った。
走りながら、静かに涙を零した。
