1章
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産後の身体はまだ、軋むように痛んでいた。
骨の継ぎ目ひとつひとつがぎしりと軋むたび、寝台に身を横たえたままでいた方が良いのだと頭ではわかっている。
けれど――胸の奥に巣くった不安と恋しさが、アランを屋敷に留めてはくれなかった。
マグル保護委員会の施設にいるメイラ。
細い体で、自分を見上げながら「また来てくれますか」と囁いた少女。
ステラが産まれて以来一度も訪れられなかったあの子が、どれほど寂しがっているだろうかと思うと、じっとしていられなかった。
姿くらましなど、とてもできる身体ではない。
魔力を使えば体が崩れ落ちる。
だからアランは、ゆっくりと馬車に揺られ、遠回りの道を少しずつ進んだ。
痛む腰を押さえながら歩く速度は極端に遅く、施設に辿り着くまでの道はいつにも増して果てしなく長く感じられた。
応接室の扉が開くと、暖かな光の中にメイラの姿があった。
少女はアランの姿を見るなり、椅子を蹴り出す勢いでこちらへと駆けてくる。
「アランさん!! 会いたかった!!」
飛びつかれた瞬間、痛みが走る。
産んだばかりの身体には少々厳しい抱擁の力だった。
けれど、その痛みさえ――どこまでも嬉しかった。
胸の奥で凍りついていたものが、砂糖を溶かすようにすうっと溶けていく。
アランはメイラの背へ両腕を回し、そっと抱きしめ返した。
――メイラ、来れなくてごめんなさいね。
杖で綴るアランの言葉に、メイラは勢いよく首を振った。
「違うよ! 赤ちゃん産まれたんだよね? ……お腹、小さくなってる」
黒い瞳が純粋な驚きと喜びで輝いていた。
アランは微笑んで頷く。その表情には、疲労と痛みの奥に確かな幸福が灯っていた。
本当ならステラを連れてきたかった。
生まれたばかりの彼女をメイラに見せてやりたかった。
けれど、いまの体力では赤子を抱えてこの距離を移動するのは不可能に近い。
それを思うと胸がきゅっと疼いた。
「ねぇ聞いて、アランさん!」
「このあいだね、本を読んでたらね、知らない国のことがいっぱい書いてあって……!」
メイラが語る声は、小鳥の囀りのように絶え間なく続いた。
施設での出来事、新しくできた友達、おいしかった食事、読んだ本の話――
どれも子供らしい無邪気な喜びに満ち、アランの胸を柔らかく満たしていく。
まるで、自分の心に久しく届かなかった温度が、じんわりと戻ってくるようだった。
あの冷たい屋敷の中で、見えない責めや期待に押し潰されそうになっていた心が、いま目の前の少女の声だけで蘇っていく。
アランはそっと手を伸ばし、メイラの髪を撫でた。
細く柔らかい黒髪に触れると、少女は嬉しそうに目を細める。
その表情は、まるで陽だまりの中ではしゃぐ小さな花のようで――
胸の奥が、どうしようもなく温まった。
痛む身体を抱えて訪れたことなど、もうどうでもいい。
メイラがこうして笑ってくれるなら。
自分の名前を呼んでくれるなら。
どれほどでも、ここに足を運べると思った。
アランはメイラの手を包み込み、
その小さな温もりに、深く、静かに救われていくのだった。
夕暮れの光が寝室の床を長く染めていた。
胸の奥に小さな針のように刺さっていた違和感は、昼間よりもはっきりと形を持ち始めている。
痛い――そう認めれば、きっと誰かが止めに入る。
だからアランは唇を結んだまま、胃の奥に沈んでいく重い痛みをただ受け止めていた。
今日、メイラのところへ行ったことは誰にも言えない。
本当は歩くだけで足が震え、帰り着いてからも腰に熱を持ったような痛みが抜けなかった。
けれど、ステラを産んで間もない身で「昼間に外へ出ていた」と知られれば、外出はすぐさま取り上げられる。
その先に、メイラに二度と会えなくなる未来があるのだとしたら――
この痛みなど、どうとでも隠せると思った。
食卓に並ぶ料理は、香りこそ豊かなのに、アランの喉をすべり落ちようとしなかった。
小さなスプーンを運んでも、飲み込む瞬間に腹の奥がじくりと痛む。
――レギュラスがいれば。
ナイフで切り分けてくれた肉を「食べられそうなものだけでいいですよ」と皿に寄せてくれた。
けれど今日の席に彼はいない。
ゆえに、自分の意思で手を伸ばせる分だけしか口に運べず、結果的にほとんど何も食べずに終わってしまった。
食後、椅子から立ち上がろうとする瞬間、腹の奥で鋭い痛みが走る。
一瞬、息が止まりかけた。
だが、顔には出さない。
ステラを抱く乳母の視線さえ気にしてしまうほど、アランは痛みを隠すことに必死だった。
「奥様、優れませんか?」
医務魔法使いが心配そうに覗き込む。
アランは一瞬、杖を握る手に力が入った。
本当は「優れません」と言ってしまいたかった。
けれど、昼間の行動を悟られたら終わりだ。
アランは優しく微笑み、杖を振った。
――少し疲れました。早めに休みます。
魔法文字が空中にふわりとほどける。
医務魔法使いは納得したように頷いたが、その瞳の奥には明らかな疑念が滲んでいた。
「わかりました。無理はされませんように。奥へお戻りください」
その言葉を聞きながら、アランは胸の奥に冷たい痛みを抱えたまま、静かに寝室へ向かう。
廊下を歩くたびに、腹へ響く疼痛が強くなる。
足のつけ根までしみ込むような痛みに、呼吸の仕方さえわからなくなる。
よろめきそうになるたび壁に手をつくが、決して誰かの助けを呼ぼうとはしない。
声が出ないことを、こんなにも都合よく使ってしまう自分が、どこか情けなかった。
寝室に入り扉を閉めた瞬間、アランはベッドの端にそっと腰を下ろした。
痛みは波のように押し寄せ、耐えようと背筋を伸ばしても膝が震えた。
けれど――泣くことはできなかった。
泣けば、誰かが駆けつけてしまう。
そして問われてしまう。
どこへ行ったのか。
なぜ無理をしたのか。
メイラに会いに行ったのか――と。
アランは両手で腹を抱きしめるようにして、そっと目を閉じた。
メイラの笑顔を思い出す。
あの小さな腕で抱きついてくれた温もりを思い出す。
――それだけで、どれほど心が救われたことか。
その温もりを守るためなら、この痛みくらいどうにでも耐えられる。
しかし、その強さと引き換えに、産後の身体は確かに軋み続けていた。
静かな部屋で、アランは小さく息を吐く。
痛みをごまかしながら、ひとりで眠りに落ちていく――
その姿は、誰よりも強く、そして誰よりも脆かった。
アランはステラを胸に抱いたまま、深い呼吸を繰り返していた。
椅子の背もたれに身体を預け、まぶたを閉じると、不思議と痛みが引いていく。
ベッドに横たわるとどうしても腹部の傷がうずくのに、こうして椅子で抱いていると、ステラの小さな体温がじんわりと胸の奥を温め、眠気が静かに訪れるのだった。
ステラの小さな指がアランの衣服をぎゅっと握りしめている。
柔らかい髪が頬に触れるたび、あまりの愛おしさに涙がにじみそうになる。
その温もりは、痛みを忘れさせる魔法そのものだった。
意識がふわりと沈む――
その刹那。
「アラン、体を壊します」
低く押さえた声が、優しくも鋭くアランの眠りを引き戻した。
はっとして目を開けると、レギュラスが目の前に立っている。
いつ帰ってきたのだろう。
気づかなかったほど、眠気に落ちかけていたらしい。
レギュラスは無言のままアランの腕からステラを抱き上げる。
その動作があまりにも自然で、優しくて、アランの体温の名残りさえ壊さぬように抱き寄せる。
ステラは小さく息をつき、眠ったまま肩に預けた。
「乳母に渡してきます」
短い言葉とともにレギュラスはステラを乳母へと託し、すぐに戻ってくる。
アランはその間、ぼんやりとした頭で姿勢を正そうとしたが、身体が重く言うことを聞かなかった。
やがて足音が近づき、レギュラスはアランの前に跪く。
「戻りました」
その穏やかな声に、アランはかすかに頷いた。
次の瞬間――身体がふわりと浮いた。
レギュラスが迷いなくアランの腰を支え、その腕の中に抱き上げたのだ。
息が止まるほど近い。
抱き上げられるたびに胸が痛くなる。
愛されていると思う瞬間ほど、心は脆くなるものだ。
「椅子で眠るなんて……あなたは本当に無茶をする」
叱るような声なのに、触れ方はどこまでも慎重だった。
寝台にそっと降ろされると、柔らかいシーツが背中を包み込む。
その瞬間、腰の奥からじんわりと解放されるような痛みが広がり、アランは「ああ、無理な姿勢だったのだ」とようやく理解した。
レギュラスはすぐには床に座らず、寝台の傍らでアランを見つめる。
その瞳には、安堵と怒りと、どうしようもない焦燥が入り混じっていた。
アランが自分に無理を隠してしまうことが、彼をどれほど追い詰めるか――きっと本人は気づいていない。
背後では、カフスボタンが外される小さな金属音、ジャケットが椅子に掛けられる布の音が静かに響く。
その一つひとつが、レギュラスが確かに「帰ってきた」という証のようで、アランは胸が熱くなった。
枕元に影が落ち、レギュラスがゆっくりと近づく。
アランは思わず、彼の手を探すように指を伸ばした。
一刻も早く、この胸に寄り添ってほしかった。
柔らかなシーツよりも、彼の体温のほうが、ずっと深く安心できるのだから。
レギュラスはその指先をそっと包み込む。
「すぐに行きます。離れません」
低く囁かれたその約束は、アランの胸の奥に静かに灯りをともした。
シリウスは、あの日腕に抱いた小さな生命の重さを、いまだに手のひらに感じていた。
ステラ・ブラック—— アランが命を削るようにして生んだ娘。
その翡翠の瞳は、まるでアランの魂の欠片をそのまま宿しているかのようで、一度見た瞬間から離れなくなった。
ステラはまだほんの小さな赤子なのに、既に形の整った睫毛や、透き通るような柔らかい頬が、将来の美を雄弁に語っていた。
「きっと、大変な美人になるな……」
抱きながら何度もそう呟いた。
将来は魔法界の名を揺らすほどの魅力を持つ魔女になるだろう。レギュラスの父母がなんと言おうと、あの子は間違いなく“希望”のように美しく育つ。
父親でもないくせに。
自分でも呆れるほど、ステラの将来を案じた。
そして——胸の奥でしか許されない夢が膨らんでしまう。
アランと共に、この子を育てる未来。
ステラの笑う顔を三人で囲む食卓。
箒の後ろにステラを乗せ、昼の澄んだ風を浴びながら空の広さを教える日々。
弟や妹が生まれて、アランが幸せそうにその子らを抱く姿。
ステラが少し大きくなったら、彼女が羨ましがらないように、同じ高さの空を見せてやるのだと思っていた。
——そのすべてが、叶わぬ幻想だと分かっているのに。
胸が痛くなる理由は、他でもない。
アランがステラを産んだばかりのいま、レギュラスの腕の中で休んでいること。
そして間もなく、彼らはまた「次」を望まれる現実があることだ。
ブラック家にとっては男児こそ至高。
女児であるステラを生んだと知った瞬間、オリオンやヴァルブルガがどれほど落胆したか、ニュース越しでも伝わってきた。
だからこそ、レギュラスとアランは——きっとすぐに、次の子をつくるために動くだろう。
回復を待ち、またあの寝室で、二人の時間を重ねる。
それを想像した瞬間、シリウスの胸はぎゅっと締め付けられる。
アランが痛みに耐え、眠れぬ夜を過ごしながら産んだステラ。
彼女が授乳で疲れ果て、眠りも途切れがちな日々を送っている最中でも、ブラック家は「次」を求める。
レギュラスもまた、それを拒むことはできない。
その未来に、自分はひと欠片も入り込めない。
アランのそばにも、ステラのそばにも、居続けることは許されない。
それでも——
あの小さな翡翠の瞳に映る未来を、ずっと見守っていたいと思ってしまう。
愛おしいと思う気持ちを止められなかった。
アランが抱いて微笑んだあの小さな命が、自分にも微笑み返してくれた瞬間。
その温度が、胸から離れない。
ステラの未来を願えば願うほど、アランの幸福を願えば願うほど――
叶わぬ想いが胸を焼いた。
ステラ・ブラック——
レギュラスとアランの間に生まれた、小さな星の名を持つ姫君。
その誕生は、ブラック家にとって複雑な意味を孕んでいた。
後継にはなれない女児。しかしセシール家の血を継いだという一点は、魔法界全体にとって計り知れない重みがあった。
封印の力を受け継ぎ得る唯一の存在。
世継ぎとしての役割は担えなくとも、魔法界の均衡を左右し得る血筋——ステラは、確かに「価値」を持つ娘だった。
それがジェームズの胸に影となって残る。
だが、それ以上に気がかりなのは——
シリウスが、わざわざブラック家の屋敷を訪ねて、ステラを抱いたという事実だった。
話を聞いた瞬間、ジェームズは本気で椅子を蹴り倒したくなった。
——何をしてるんだあいつは。
アランがどういう女か。
そして、いまどんな境遇にあるか。
シリウスがどんな想いを抱き続けているのか。
全部知っているからこそ、ため息では済まない苛立ちと心配が膨れ上がる。
「美しい瞳の子だったんだよ」と、
「アランと同じ翡翠の色でさ」と、
「将来はきっととんでもなく綺麗な魔女になるぞ」と、
嬉しそうに語る親友。
その顔を見ていると、ジェームズは言葉を失う。
——虚しいにもほどがあるだろう。
アランはもう母親になった。
レギュラスと家庭を築き、子を成した。
その現実を前にしてなお、彼女の娘に会いに行くシリウスの行動が、どうしても理解の範囲を超えていた。
アランへの想いを断ち切れないのは、まだわかる。
愛していた女を忘れられない気持ちは、ジェームズにも想像はつく。
だが——その「娘」にまで心を動かされ、未来を語り、まるで父のように目を細める姿を見ると、胸が締めつけられるほどの虚しさが押し寄せてくる。
シリウスは悪びれる様子もなく、まるで宝物を自慢するかのようにステラの話をする。
アランの名を出すときと同じ柔らかな声で。
それが、たまらなく危うかった。
アランの笑顔に救われ、アランの手に触れて世界の広さを知ったあの頃から、シリウスはずっと彼女を光の象徴のように見ていた。
だが今、その光は娘にまで伸びている。
無邪気な赤子に、シリウスの胸の弱い部分が惹かれ、揺らされている。
この先どうなる?
アランだけでなく、アランの産んだステラまでもが、シリウスの心を惑わせる存在になるのか。
母子ふたりで、彼を引き戻し、縛りつけ、どこか遠い未来まで心を奪い続けるのか。
ジェームズは深く息を吐く。
本当に、頭を抱えたくなる話だった。
親友が、決して手に入らない家庭に焦がれ、
決して自分の子にはなり得ない娘を抱きしめて未来を語るなんて——
こんな哀しい滑稽さはない。
窓の外で鳴くカラスの声すら、胸に刺さる。
ジェームズは拳を握った。
シリウスの背中を支えるべきか、殴ってでも止めるべきか、判断もつかない。
ただひとつ確かなのは——
ステラ・ブラックという小さな存在が、これから先、シリウスの心にとって新たな「重荷」となるのは間違いないということだった。
狼人間に対する“マグル食殺許可法”が可決されて以来、魔法界とマグル界の境界線は、静かに、しかし確実に血の色へと傾き始めていた。
報告書の束には、マグル界で増加する失踪事件の詳細が記されている。
子どもの誘拐、人身売買、行方不明者の急増。
どの文言も、乾いた紙の上で淡々と並んでいるはずなのに、読めば読むほど胸が軋んだ。
——すべて、新法の成立後に起きている。
魔法界へ“差し出される”マグルの数が増えるほど、マグル側は巨額の金を手にする。
腐敗した役人たちはその金で政治を回し、また新たに差し出す者を探し始める。
法務部は「共存」だと言い張るが、それは寄生と搾取の別名でしかない。
こんな残酷な未来が来るから、あの法律には反対したのだ。
リーマスは頭を抱えたくなる衝動を抑えながら思った。
そこへ、別の噂が届く。
——ブラック家に、美しい姫君が誕生したらしい。
その言葉を聞いた瞬間、リーマスの脳裏には、あの日の魔法省の廊下が蘇った。
レギュラス・ブラック。
漆黒の外套の裾を揺らし、静かな光の中に立っていた男。
彼に向けた「新法を制定したその手で、これから生まれる子を抱くのか」という問い。
返ってきたのは、感情を欠いたような冷たい笑みだった。
氷の層の奥底で、何も揺れていない瞳。
怒りも、罪悪感も、迷いも。
どんな感情も丁寧に削ぎ落とし、ただ合理と血統だけを信じて歩むような男だった。
あんな人間が父親になるなんて……。
美しい赤子だと聞いている。
アランに似た翡翠の瞳——その噂さえ耳に届いている。
だからこそ、胸の奥がひどく痛んだ。
どうか、とリーマスは願う。
この小さな姫が、父の冷徹な論理ではなく、
母の持つ慈悲と優しさを受け継ぎますように、と。
世の中の残酷さに染まらず、
犠牲を当然としない心を持ち、
誰かを救いたいと思える魔女に育ちますように、と。
——願わずにはいられなかった。
今もまた報告書が机に積み重ねられていく。
犠牲となるマグルの数。新たな失踪者。闇の裏取引。
冷酷な法を作り笑っていた男の娘が、
この世界の光となれますように——と願うことだけが、
せめてもの祈りだった。
レギュラス・ブラックは、執務机の上に積み上げられた分厚い報告書の束を静かに引き寄せた。
蝋燭の炎が揺れ、その光がページの上を淡く照らす。夜の深い静けさが、法務部執務室の空気に静脈のように流れていた。
——騎士団による現地報告。
——マグル界の治安悪化。
——失踪者数の増加。
——人身売買の噂。
ページを繰る指先は静かだったが、その瞳には一切の動揺が浮かばない。
ため息すら出さず、淡々と“予測済み”の文字をなぞっていく。
まあ、そうなるだろう。
彼は心の中で冷ややかに呟いた。
マグル側の混乱など、本来なら魔法界が肩代わりしてやる筋合いはどこにもない。
政治腐敗、治安維持、国の運営。
いずれもマグル自身が処理すべき問題だ。
魔法界が“食殺許可法”を制定したからといって、彼らの世界すべてに責任を負う必要など、毛ほども感じていなかった。
報告書を一枚めくるたび、淡々とサインを書き加えていく。
黒いインクが紙に吸い込まれていく様は、美しいほどに無機質だった。
狼人間たちがマグルを食殺する権利。
それを得るためには、莫大な金を支払わなければならない。
その金にかかる税はさらに高額で、魔法省にとっては新たな巨大収入源となる。
——高額納税者。
狼人間ですら、その枠組みに組み込まれる。
そしてマグル側にも多額の金が流れていく。
国を潤す“闇の金”が政治家たちの懐を温め、彼らは表情ひとつ変えずに賛同票を投じた。
利害は一致している。
犠牲になるのは、いつだって声を持たぬ弱者だ。
レギュラスはページを閉じ、深く椅子にもたれた。
黒い瞳は静謐そのもので、何も映していないように見える。
マグル界が荒れる?
それは彼らの問題だ。
魔法界は譲歩しない。
譲歩する必要もない。
混乱が起こるというのなら、それを収める努力はマグル側で行うべきだ。
魔法使いがマグルの感情や倫理観に足並みをそろえる義務など存在しない。
それがレギュラス・ブラックという男の揺るぎない価値観であり、
闇の世界で生き抜いてきた彼が培ってきた、冷徹な現実認識だった。
そして彼は次の報告書に手を伸ばす。
淡々とした指先は、一切の迷いも震えもなく新たな紙束を開いた。
——まるでこの世界の痛みを、すべて他者のものと切り離しているかのように。
メイラは、広い施設の中庭に立っていた。
夕日が煉瓦造りの壁を朱色に染め、影が長く伸びる。
小さな体でその影を踏みながら、彼女は静かに数を数える。
——一人
——二人
——三人……
数日前まで、一緒に遊んでいた子供たちの姿が、急に数人分消えていた。
喧嘩っ早い男の子も、泣き虫でよくメイラの服を掴んで離れなかった小さな女の子も。
気づけば、誰にも告げずにいなくなっていた。
魔法使いの大人たちは言う。
「別のところに移っただけだよ」
「いい場所だ、心配いらないからね」
その「いい場所」がどんなところなのか、
メイラには想像がつかなかったけれど——
きっと誰かに選ばれて、別の場所で生きていくことになったのだ。
魔法使いの庇護に預かれるのなら、それは幸運なことなのだと信じていた。
風が揺れた拍子に、髪が頬をかすめた。
メイラは空を見上げる。
思い浮かぶのは、アランの笑顔だった。
あの日、胸にぎゅっと抱きしめてもらった時のあたたかさ。
震える指先を包んでくれた優しい手。
自分を「大切にされている」と実感できた、あのひとときの幸福。
——また、会えるだろうか。
アランは赤ちゃんを産んだのだと聞いた。
遠くからでも、お腹の大きくなっていた様子を見ていたメイラは、
「ああ、本当に産まれたんだ」と胸をときめかせた。
きっとステラと名付けられたその子も、アランのように優しい瞳をしているに違いない。
柱の陰でひとり、メイラは胸にそっと手を当てた。
——自分が、どこかの家に仕えることができるとしたら。
——誰にでもいいわけじゃない。
まだ幼い心が、ひとつの場所を強く思い描く。
レギュラス・ブラック。
自分を見つけてくれた魔法使い。
冷たさと優しさの境目にいるような、不思議な男。
恐ろしくもあったが、同時に命を救ってくれた恩人でもあった。
そしてアラン。
手を握るだけで涙が出るほど、心を温めてくれた女性。
優しい魔法のような人。
——あの人たちのそばに、いつか自分も行けるだろうか。
それがどれほど無茶な願いか、幼いメイラにはまだわからない。
貴族の屋敷で働くということがどれほどの階層の違いかも、
ブラック家がどれほど遠い家なのかも、
まだ理解しきれていない。
ただ、胸が自然とその方向へ引かれるだけだった。
施設の奥で扉が開き、魔法使いの足音が響く。
メイラははっとして顔を上げた。
アランではないとわかると、それでも少し落胆してしまう。
——次はいつ来てくれるだろう。
——一週間後? 一ヶ月後?
——それとももっと先?
子供には時間の感覚が曖昧だ。
だからこそ、待つ時間は限りなく長く感じられた。
けれど、ただひとつ確かなのは——
アランが来てくれる日は、この世界のどんな光より嬉しい、メイラにとっての“特別な日”だということ。
胸の奥がきゅうっと締めつけられるような期待と恋しさを抱えながら、
メイラは夕空の下、小さく呟いた。
「アランさん……また、来てくれますように」
その祈りにも似た願いは、赤く染まった空へ静かに溶けていった。
寝室の灯火は深い琥珀色に沈み、静寂は張りつめた弦のように繊細に揺れていた。
レギュラスはゆっくりと寝台に腰掛け、アランの細い肩へと指先を伸ばす。その手が、わずかに震えていた。
久しぶりに、彼女を抱こうとしている。
——本当にこれでいいのだろうか。
胸の奥で渦巻く不安が、喉元にまでせり上がってくる。
ヴァルブルガとオリオンからの静かな圧力は、あまりに重かった。
「次こそは男児を」という無言の期待。
その期待が、アランの小さな身体に、どれほどの負荷を与えているのか。
それを考えるだけで胸が痛む。
アランは、杖を振って「大丈夫」と静かに示した。
医務魔法使いも「問題はありません」と告げた。
けれど、レギュラスが聞きたかったのは“問題の有無”ではない。
——痛まないだろうか。
——怖くないだろうか。
——あの小さな体が、あれほど苛酷な出産をしたというのに。
思い出すだけで胸が軋む。
沈黙の中で苦しむしかなかった陣痛の夜。
扉の向こう側で、その苦しみの気配だけを頼りにし、何度も心が折れそうになった。
いま、手を触れれば再びその痛みを重ねてしまうのではないかという恐れが、指先を震わせていた。
「…… アラン、何かあれば、すぐに伝えてくださいね」
できるだけ穏やかに言おうとしたが、声にはどうしようもない緊張が滲んでしまう。
アランは小さく、けれどはっきりと数回頷いた。
その健気さに胸が締め付けられる。
触れようとする手が震えたままなのを誤魔化すように、レギュラスはアランの唇にそっと口付けた。
アランは驚いたように目を瞬かせ、次の瞬間、ゆっくりとレギュラスの首へ腕を回した。
その腕は、弱々しくて、けれど確かに“求めよう”としていた。
重荷や義務としてではなく、レギュラスその人に寄り添おうとする、静かな意志だった。
細い指先が背中に触れた瞬間、胸の奥で張り詰めていたものがほどける。
縋りつくような仕草が、あまりにも愛しくて、
レギュラスはただ抱き寄せることしかできなかった。
アランの体温が胸元に触れる。
小さく震える呼吸が、肌に伝わってくる。
その温度が、自分を許してくれているようで、同時に、守らなければならないものの重さを再認識させた。
——この人を傷つけてはいけない。
——二度と、地下でのあの痛みを思い出させるような苦しみを与えてはならない。
レギュラスはそっと額をアランの額に寄せる。
囁くように名前を呼ぶ。
その呼び声に、アランは目を閉じて、すこしだけ身体を預けてきた。
触れ合う肌から伝わる繊細な震え。
互いの呼吸が静かに溶け合っていく。
慎重で、恐ろしくて、けれど深い愛情だけが部屋を満たしていく。
レギュラスの胸に、ひとつの願いが生まれた。
——どうか、今日だけは。
——義務でも血筋でもなく。
——ただ、愛する人として抱かせてほしい。
そう強く祈りながら、彼は静かにアランを抱き寄せた。
レギュラスの胸元に縋りつくアランは、まるで溺れる寸前の人間が唯一の浮き輪を掴んだかのようだった。
細い腕が震えながら背中に回り、その指先がぎゅっと布を掴む。その小さな力が、レギュラスにはあまりにも愛おしく、そして残酷なほど切なかった。
声を持たないアランは、愛していると言葉にすることはできない。
けれど、その沈黙は決して空虚ではなかった。
押し殺した吐息ひとつひとつが、
震え込む体温の熱が、
しがみついてくる指先の力が、
はっきりと彼に伝えてくる。
——私はあなたを求めている。
——あなたを愛している。
その想いが、声よりも雄弁に彼へ流れ込んでくる。
レギュラスは、抱きすくめたアランの頬へ、額へ、瞼の縁へとそっと口付けを落とした。
何度も、何度も。
彼女の沈黙の奥に隠された言葉を拾い上げるように。
触れ合うたびに、胸の奥が熱で痺れるほどに満たされていく。
アランの呼吸は徐々に速くなり、
肩が上下し、細い喉元が苦しげに揺れる。
痛みのせいではないか、無理をしていないか——その不安がレギュラスの胸を何度も締めつける。
「…… アラン、苦しくは……?」
囁くと、アランは小さく首を振った。
蝋燭の炎が揺れるたび、彼女の黒髪がほのかな光を吸ってゆれる。
翡翠の瞳だけは、炎に照らされて濃い熱を帯びていた。
その色は、彼を惑わせる。
引き寄せられてしまう。
胸の奥を燃やされるように、感情が高ぶっていく。
翡翠の宝石が溶けるように潤み、
まっすぐに自分を映し返してくる。
——どうしてこんなに美しいのだろう。
——どうしてこんなにも、心を奪われてしまうのだろう。
レギュラスはアランの頬に指を添えた。
その指先が触れた瞬間、アランが身を寄せてくる。
小さく震える息が首筋に触れ、それだけで胸が焼けるように熱くなる。
アランがふっと顔を寄せた。
レギュラスの肩に額を預け、呼吸を乱しながら、必死にしがみついてくる。
蝋燭の炎は静かに揺れ、
二人の影を壁に長く引き伸ばしていた。
夜の静寂の中で、微かな吐息だけが鼓動に溶け合って響く。
痛みがないかと何度も確かめたい。
抱きしめすぎてしまわないよう、恐る恐る触れたい。
それでも、彼女が求めてくれるその体温に、レギュラスは抗えなかった。
アランが声を持たないという事実が、
いまほど残酷で、いまほど美しく思えた瞬間はない。
——言葉ではなく、すべてを体温で伝えてくるのだから。
翡翠の瞳が蝋燭の光を吸ってきらめく。
そのまっすぐな熱に、レギュラスは完全に胸を捉えられていた。
アランは、震えていた。
それは欲情の震えでも、期待の震えでもない。
——恐怖だった。
寝台の柔らかなシーツが、冷たく肌に触れるたびに、あの地下の冷たい石畳の感触がよみがえる。
闇の帝王の監視下で、あの巨躯の狼人間に押し伏せられた記憶が、皮膚の内側から蘇ってくる。
息が止まり、心臓が逃げ出したいほど暴れた、あの瞬間。
出産で裂けた傷が再び開いてしまうのではないか。
鈍く鋭い痛みが襲いかかり、身を裂かれるのではないか。
恐怖が喉元までせり上がり、体を強張らせる。
けれど、それでも——
レギュラスを受け入れたい気持ちの方が強かった。
言葉を持たない自分には、
“愛している”と返す声がない。
レギュラスが欲しがる愛を、同じ形で返すことができない。
だから、自分にできる唯一の愛の示し方は、
——彼を受け入れることだった。
全てを受け入れ、彼の望むものを与えたい。
怖くても、痛みを想像して震えても、
彼の愛情に応えられる自分でいたい。
その矛盾が胸を締めつけ、涙が滲んだ。
レギュラスがそっと頬に触れる。
その指先は驚くほど優しく、どこまでも慎重で、
まるで壊れものに触れるかのようだった。
「アラン……本当に、大丈夫ですか」
何度も、何度も、
痛みはないか、苦しくないか、無理をしていないか——
彼は確認する。
その度にアランはかすかに頷いた。
怖さを隠したかったのではない。
——彼のために、頷きたかったのだ。
その優しさが胸に沁みて、泣きそうになる。
怖いのに、逃げたいのに、
それでもこんなにも自分を大切に扱おうとしてくれる男がいる。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
顔を上げると、蝋燭の光がレギュラスの横顔を照らしている。
その影を見た瞬間、不思議と恐怖が少し和らいだ。
地下で自分を拾い上げ、光へ連れ出してくれた時と同じ、
強くて、優しい影だったから。
レギュラスが口付けを与える。
アランは震える指先で彼の頬に触れ、
唇が離れようとした瞬間、
——自ら舌を絡めた。
声を持たない自分の、最大限の愛の表現だった。
レギュラスが驚くように息を吸い、
次の瞬間には、溶け落ちそうなほど甘い口付けで応えてくる。
境界線が曖昧になっていく。
どちらが息をしているのかもわからないほど近い。
蝋燭の炎が揺れるたび、
二人の影がひとつに重なり、また揺れた。
今だけは——
このひとときだけは、
レギュラスの中にあるものが、
怒りでも義務でも落胆でもなく、
“純粋な愛”だけであればいい。
アランはそう願いながら、
震える胸の奥で、静かに涙をこぼした。
ステラ・ブラックは、毎日こぼれ落ちそうなほどの笑みを浮かべて成長していた。
まだ歩幅の小さな足でよちよちと部屋の端から端へと冒険し、気に入った布切れや羽根飾りを見つければ嬉しそうに抱きしめる。
小さな指先は世界を掴むように伸び、無垢な瞳はいつも未来の光に向かっていた。
アランはその姿を見つめるたび、胸の奥が温かくなるのを感じた。
——どうか、この子には苦痛も、孤独も、闇の記憶も影さえ落としませんように。
自分が味わったような凍てつく絶望を、この柔らかな頬に触れさせてはならない。
この子は、世界のどんな美しい光も自由に選び、掴んでいける未来を歩んでほしい。
そして、アランの心をさらに安堵させる光景があった。
「ステラ、今日もたくさん遊びましたか」
柔らかく低いレギュラスの声。
いつの間にか背後に立っていた彼が、ステラを抱き上げている。
腕に収まった小さな娘は、父の胸を叩くようにして笑い、細い指でレギュラスの襟元を掴んだ。
レギュラスの表情は穏やかだ。
かつて議会で氷のような眼差しを向けていた男とは思えないほど、
この瞬間だけは、ただひとりの父親になっていた。
彼はステラの頬に唇を寄せ、
慎重に、けれど嬉しさを隠しきれないような手つきで髪を撫でる。
「……いっぱい笑っていますね。いい子だ」
ステラは何か返すように声にならない声をあげ、
そのたびにレギュラスは目を細める。
アランは少し離れた場所からその光景を見つめ、
胸の奥がゆっくりとほぐれていくのを感じていた。
生まれたとき、レギュラスの心がどこか疼いたことを知っている。
女児であることに対する落胆も、
彼の中に一瞬浮かんだ影も、アランは察していた。
けれど今——
ステラを抱く腕の中に、あの影はもうない。
そこにあるのは、確かに「父の愛」だった。
アランの瞳が思わず潤む。
自分が愛した男が、娘をこうして優しく抱きしめている。
それがこんなにも胸を締めつけ、救われることだとは思わなかった。
やがてレギュラスがアランの方を向き、
ステラを抱いたまま微笑む。
「アラン、あなたのおかげでしょう。
この子は……本当に、健やかに育っています」
その言葉は、アランの心の奥に静かに沁み込んでいく。
ステラの笑い声が部屋を満たす。
ほんの少しの幸福が、ゆっくり、確かに満ちていくようだった。
アランはそっと胸に手を当て、
——この時間が、どうか続きますように。
と祈るように目を閉じた。
骨の継ぎ目ひとつひとつがぎしりと軋むたび、寝台に身を横たえたままでいた方が良いのだと頭ではわかっている。
けれど――胸の奥に巣くった不安と恋しさが、アランを屋敷に留めてはくれなかった。
マグル保護委員会の施設にいるメイラ。
細い体で、自分を見上げながら「また来てくれますか」と囁いた少女。
ステラが産まれて以来一度も訪れられなかったあの子が、どれほど寂しがっているだろうかと思うと、じっとしていられなかった。
姿くらましなど、とてもできる身体ではない。
魔力を使えば体が崩れ落ちる。
だからアランは、ゆっくりと馬車に揺られ、遠回りの道を少しずつ進んだ。
痛む腰を押さえながら歩く速度は極端に遅く、施設に辿り着くまでの道はいつにも増して果てしなく長く感じられた。
応接室の扉が開くと、暖かな光の中にメイラの姿があった。
少女はアランの姿を見るなり、椅子を蹴り出す勢いでこちらへと駆けてくる。
「アランさん!! 会いたかった!!」
飛びつかれた瞬間、痛みが走る。
産んだばかりの身体には少々厳しい抱擁の力だった。
けれど、その痛みさえ――どこまでも嬉しかった。
胸の奥で凍りついていたものが、砂糖を溶かすようにすうっと溶けていく。
アランはメイラの背へ両腕を回し、そっと抱きしめ返した。
――メイラ、来れなくてごめんなさいね。
杖で綴るアランの言葉に、メイラは勢いよく首を振った。
「違うよ! 赤ちゃん産まれたんだよね? ……お腹、小さくなってる」
黒い瞳が純粋な驚きと喜びで輝いていた。
アランは微笑んで頷く。その表情には、疲労と痛みの奥に確かな幸福が灯っていた。
本当ならステラを連れてきたかった。
生まれたばかりの彼女をメイラに見せてやりたかった。
けれど、いまの体力では赤子を抱えてこの距離を移動するのは不可能に近い。
それを思うと胸がきゅっと疼いた。
「ねぇ聞いて、アランさん!」
「このあいだね、本を読んでたらね、知らない国のことがいっぱい書いてあって……!」
メイラが語る声は、小鳥の囀りのように絶え間なく続いた。
施設での出来事、新しくできた友達、おいしかった食事、読んだ本の話――
どれも子供らしい無邪気な喜びに満ち、アランの胸を柔らかく満たしていく。
まるで、自分の心に久しく届かなかった温度が、じんわりと戻ってくるようだった。
あの冷たい屋敷の中で、見えない責めや期待に押し潰されそうになっていた心が、いま目の前の少女の声だけで蘇っていく。
アランはそっと手を伸ばし、メイラの髪を撫でた。
細く柔らかい黒髪に触れると、少女は嬉しそうに目を細める。
その表情は、まるで陽だまりの中ではしゃぐ小さな花のようで――
胸の奥が、どうしようもなく温まった。
痛む身体を抱えて訪れたことなど、もうどうでもいい。
メイラがこうして笑ってくれるなら。
自分の名前を呼んでくれるなら。
どれほどでも、ここに足を運べると思った。
アランはメイラの手を包み込み、
その小さな温もりに、深く、静かに救われていくのだった。
夕暮れの光が寝室の床を長く染めていた。
胸の奥に小さな針のように刺さっていた違和感は、昼間よりもはっきりと形を持ち始めている。
痛い――そう認めれば、きっと誰かが止めに入る。
だからアランは唇を結んだまま、胃の奥に沈んでいく重い痛みをただ受け止めていた。
今日、メイラのところへ行ったことは誰にも言えない。
本当は歩くだけで足が震え、帰り着いてからも腰に熱を持ったような痛みが抜けなかった。
けれど、ステラを産んで間もない身で「昼間に外へ出ていた」と知られれば、外出はすぐさま取り上げられる。
その先に、メイラに二度と会えなくなる未来があるのだとしたら――
この痛みなど、どうとでも隠せると思った。
食卓に並ぶ料理は、香りこそ豊かなのに、アランの喉をすべり落ちようとしなかった。
小さなスプーンを運んでも、飲み込む瞬間に腹の奥がじくりと痛む。
――レギュラスがいれば。
ナイフで切り分けてくれた肉を「食べられそうなものだけでいいですよ」と皿に寄せてくれた。
けれど今日の席に彼はいない。
ゆえに、自分の意思で手を伸ばせる分だけしか口に運べず、結果的にほとんど何も食べずに終わってしまった。
食後、椅子から立ち上がろうとする瞬間、腹の奥で鋭い痛みが走る。
一瞬、息が止まりかけた。
だが、顔には出さない。
ステラを抱く乳母の視線さえ気にしてしまうほど、アランは痛みを隠すことに必死だった。
「奥様、優れませんか?」
医務魔法使いが心配そうに覗き込む。
アランは一瞬、杖を握る手に力が入った。
本当は「優れません」と言ってしまいたかった。
けれど、昼間の行動を悟られたら終わりだ。
アランは優しく微笑み、杖を振った。
――少し疲れました。早めに休みます。
魔法文字が空中にふわりとほどける。
医務魔法使いは納得したように頷いたが、その瞳の奥には明らかな疑念が滲んでいた。
「わかりました。無理はされませんように。奥へお戻りください」
その言葉を聞きながら、アランは胸の奥に冷たい痛みを抱えたまま、静かに寝室へ向かう。
廊下を歩くたびに、腹へ響く疼痛が強くなる。
足のつけ根までしみ込むような痛みに、呼吸の仕方さえわからなくなる。
よろめきそうになるたび壁に手をつくが、決して誰かの助けを呼ぼうとはしない。
声が出ないことを、こんなにも都合よく使ってしまう自分が、どこか情けなかった。
寝室に入り扉を閉めた瞬間、アランはベッドの端にそっと腰を下ろした。
痛みは波のように押し寄せ、耐えようと背筋を伸ばしても膝が震えた。
けれど――泣くことはできなかった。
泣けば、誰かが駆けつけてしまう。
そして問われてしまう。
どこへ行ったのか。
なぜ無理をしたのか。
メイラに会いに行ったのか――と。
アランは両手で腹を抱きしめるようにして、そっと目を閉じた。
メイラの笑顔を思い出す。
あの小さな腕で抱きついてくれた温もりを思い出す。
――それだけで、どれほど心が救われたことか。
その温もりを守るためなら、この痛みくらいどうにでも耐えられる。
しかし、その強さと引き換えに、産後の身体は確かに軋み続けていた。
静かな部屋で、アランは小さく息を吐く。
痛みをごまかしながら、ひとりで眠りに落ちていく――
その姿は、誰よりも強く、そして誰よりも脆かった。
アランはステラを胸に抱いたまま、深い呼吸を繰り返していた。
椅子の背もたれに身体を預け、まぶたを閉じると、不思議と痛みが引いていく。
ベッドに横たわるとどうしても腹部の傷がうずくのに、こうして椅子で抱いていると、ステラの小さな体温がじんわりと胸の奥を温め、眠気が静かに訪れるのだった。
ステラの小さな指がアランの衣服をぎゅっと握りしめている。
柔らかい髪が頬に触れるたび、あまりの愛おしさに涙がにじみそうになる。
その温もりは、痛みを忘れさせる魔法そのものだった。
意識がふわりと沈む――
その刹那。
「アラン、体を壊します」
低く押さえた声が、優しくも鋭くアランの眠りを引き戻した。
はっとして目を開けると、レギュラスが目の前に立っている。
いつ帰ってきたのだろう。
気づかなかったほど、眠気に落ちかけていたらしい。
レギュラスは無言のままアランの腕からステラを抱き上げる。
その動作があまりにも自然で、優しくて、アランの体温の名残りさえ壊さぬように抱き寄せる。
ステラは小さく息をつき、眠ったまま肩に預けた。
「乳母に渡してきます」
短い言葉とともにレギュラスはステラを乳母へと託し、すぐに戻ってくる。
アランはその間、ぼんやりとした頭で姿勢を正そうとしたが、身体が重く言うことを聞かなかった。
やがて足音が近づき、レギュラスはアランの前に跪く。
「戻りました」
その穏やかな声に、アランはかすかに頷いた。
次の瞬間――身体がふわりと浮いた。
レギュラスが迷いなくアランの腰を支え、その腕の中に抱き上げたのだ。
息が止まるほど近い。
抱き上げられるたびに胸が痛くなる。
愛されていると思う瞬間ほど、心は脆くなるものだ。
「椅子で眠るなんて……あなたは本当に無茶をする」
叱るような声なのに、触れ方はどこまでも慎重だった。
寝台にそっと降ろされると、柔らかいシーツが背中を包み込む。
その瞬間、腰の奥からじんわりと解放されるような痛みが広がり、アランは「ああ、無理な姿勢だったのだ」とようやく理解した。
レギュラスはすぐには床に座らず、寝台の傍らでアランを見つめる。
その瞳には、安堵と怒りと、どうしようもない焦燥が入り混じっていた。
アランが自分に無理を隠してしまうことが、彼をどれほど追い詰めるか――きっと本人は気づいていない。
背後では、カフスボタンが外される小さな金属音、ジャケットが椅子に掛けられる布の音が静かに響く。
その一つひとつが、レギュラスが確かに「帰ってきた」という証のようで、アランは胸が熱くなった。
枕元に影が落ち、レギュラスがゆっくりと近づく。
アランは思わず、彼の手を探すように指を伸ばした。
一刻も早く、この胸に寄り添ってほしかった。
柔らかなシーツよりも、彼の体温のほうが、ずっと深く安心できるのだから。
レギュラスはその指先をそっと包み込む。
「すぐに行きます。離れません」
低く囁かれたその約束は、アランの胸の奥に静かに灯りをともした。
シリウスは、あの日腕に抱いた小さな生命の重さを、いまだに手のひらに感じていた。
ステラ・ブラック—— アランが命を削るようにして生んだ娘。
その翡翠の瞳は、まるでアランの魂の欠片をそのまま宿しているかのようで、一度見た瞬間から離れなくなった。
ステラはまだほんの小さな赤子なのに、既に形の整った睫毛や、透き通るような柔らかい頬が、将来の美を雄弁に語っていた。
「きっと、大変な美人になるな……」
抱きながら何度もそう呟いた。
将来は魔法界の名を揺らすほどの魅力を持つ魔女になるだろう。レギュラスの父母がなんと言おうと、あの子は間違いなく“希望”のように美しく育つ。
父親でもないくせに。
自分でも呆れるほど、ステラの将来を案じた。
そして——胸の奥でしか許されない夢が膨らんでしまう。
アランと共に、この子を育てる未来。
ステラの笑う顔を三人で囲む食卓。
箒の後ろにステラを乗せ、昼の澄んだ風を浴びながら空の広さを教える日々。
弟や妹が生まれて、アランが幸せそうにその子らを抱く姿。
ステラが少し大きくなったら、彼女が羨ましがらないように、同じ高さの空を見せてやるのだと思っていた。
——そのすべてが、叶わぬ幻想だと分かっているのに。
胸が痛くなる理由は、他でもない。
アランがステラを産んだばかりのいま、レギュラスの腕の中で休んでいること。
そして間もなく、彼らはまた「次」を望まれる現実があることだ。
ブラック家にとっては男児こそ至高。
女児であるステラを生んだと知った瞬間、オリオンやヴァルブルガがどれほど落胆したか、ニュース越しでも伝わってきた。
だからこそ、レギュラスとアランは——きっとすぐに、次の子をつくるために動くだろう。
回復を待ち、またあの寝室で、二人の時間を重ねる。
それを想像した瞬間、シリウスの胸はぎゅっと締め付けられる。
アランが痛みに耐え、眠れぬ夜を過ごしながら産んだステラ。
彼女が授乳で疲れ果て、眠りも途切れがちな日々を送っている最中でも、ブラック家は「次」を求める。
レギュラスもまた、それを拒むことはできない。
その未来に、自分はひと欠片も入り込めない。
アランのそばにも、ステラのそばにも、居続けることは許されない。
それでも——
あの小さな翡翠の瞳に映る未来を、ずっと見守っていたいと思ってしまう。
愛おしいと思う気持ちを止められなかった。
アランが抱いて微笑んだあの小さな命が、自分にも微笑み返してくれた瞬間。
その温度が、胸から離れない。
ステラの未来を願えば願うほど、アランの幸福を願えば願うほど――
叶わぬ想いが胸を焼いた。
ステラ・ブラック——
レギュラスとアランの間に生まれた、小さな星の名を持つ姫君。
その誕生は、ブラック家にとって複雑な意味を孕んでいた。
後継にはなれない女児。しかしセシール家の血を継いだという一点は、魔法界全体にとって計り知れない重みがあった。
封印の力を受け継ぎ得る唯一の存在。
世継ぎとしての役割は担えなくとも、魔法界の均衡を左右し得る血筋——ステラは、確かに「価値」を持つ娘だった。
それがジェームズの胸に影となって残る。
だが、それ以上に気がかりなのは——
シリウスが、わざわざブラック家の屋敷を訪ねて、ステラを抱いたという事実だった。
話を聞いた瞬間、ジェームズは本気で椅子を蹴り倒したくなった。
——何をしてるんだあいつは。
アランがどういう女か。
そして、いまどんな境遇にあるか。
シリウスがどんな想いを抱き続けているのか。
全部知っているからこそ、ため息では済まない苛立ちと心配が膨れ上がる。
「美しい瞳の子だったんだよ」と、
「アランと同じ翡翠の色でさ」と、
「将来はきっととんでもなく綺麗な魔女になるぞ」と、
嬉しそうに語る親友。
その顔を見ていると、ジェームズは言葉を失う。
——虚しいにもほどがあるだろう。
アランはもう母親になった。
レギュラスと家庭を築き、子を成した。
その現実を前にしてなお、彼女の娘に会いに行くシリウスの行動が、どうしても理解の範囲を超えていた。
アランへの想いを断ち切れないのは、まだわかる。
愛していた女を忘れられない気持ちは、ジェームズにも想像はつく。
だが——その「娘」にまで心を動かされ、未来を語り、まるで父のように目を細める姿を見ると、胸が締めつけられるほどの虚しさが押し寄せてくる。
シリウスは悪びれる様子もなく、まるで宝物を自慢するかのようにステラの話をする。
アランの名を出すときと同じ柔らかな声で。
それが、たまらなく危うかった。
アランの笑顔に救われ、アランの手に触れて世界の広さを知ったあの頃から、シリウスはずっと彼女を光の象徴のように見ていた。
だが今、その光は娘にまで伸びている。
無邪気な赤子に、シリウスの胸の弱い部分が惹かれ、揺らされている。
この先どうなる?
アランだけでなく、アランの産んだステラまでもが、シリウスの心を惑わせる存在になるのか。
母子ふたりで、彼を引き戻し、縛りつけ、どこか遠い未来まで心を奪い続けるのか。
ジェームズは深く息を吐く。
本当に、頭を抱えたくなる話だった。
親友が、決して手に入らない家庭に焦がれ、
決して自分の子にはなり得ない娘を抱きしめて未来を語るなんて——
こんな哀しい滑稽さはない。
窓の外で鳴くカラスの声すら、胸に刺さる。
ジェームズは拳を握った。
シリウスの背中を支えるべきか、殴ってでも止めるべきか、判断もつかない。
ただひとつ確かなのは——
ステラ・ブラックという小さな存在が、これから先、シリウスの心にとって新たな「重荷」となるのは間違いないということだった。
狼人間に対する“マグル食殺許可法”が可決されて以来、魔法界とマグル界の境界線は、静かに、しかし確実に血の色へと傾き始めていた。
報告書の束には、マグル界で増加する失踪事件の詳細が記されている。
子どもの誘拐、人身売買、行方不明者の急増。
どの文言も、乾いた紙の上で淡々と並んでいるはずなのに、読めば読むほど胸が軋んだ。
——すべて、新法の成立後に起きている。
魔法界へ“差し出される”マグルの数が増えるほど、マグル側は巨額の金を手にする。
腐敗した役人たちはその金で政治を回し、また新たに差し出す者を探し始める。
法務部は「共存」だと言い張るが、それは寄生と搾取の別名でしかない。
こんな残酷な未来が来るから、あの法律には反対したのだ。
リーマスは頭を抱えたくなる衝動を抑えながら思った。
そこへ、別の噂が届く。
——ブラック家に、美しい姫君が誕生したらしい。
その言葉を聞いた瞬間、リーマスの脳裏には、あの日の魔法省の廊下が蘇った。
レギュラス・ブラック。
漆黒の外套の裾を揺らし、静かな光の中に立っていた男。
彼に向けた「新法を制定したその手で、これから生まれる子を抱くのか」という問い。
返ってきたのは、感情を欠いたような冷たい笑みだった。
氷の層の奥底で、何も揺れていない瞳。
怒りも、罪悪感も、迷いも。
どんな感情も丁寧に削ぎ落とし、ただ合理と血統だけを信じて歩むような男だった。
あんな人間が父親になるなんて……。
美しい赤子だと聞いている。
アランに似た翡翠の瞳——その噂さえ耳に届いている。
だからこそ、胸の奥がひどく痛んだ。
どうか、とリーマスは願う。
この小さな姫が、父の冷徹な論理ではなく、
母の持つ慈悲と優しさを受け継ぎますように、と。
世の中の残酷さに染まらず、
犠牲を当然としない心を持ち、
誰かを救いたいと思える魔女に育ちますように、と。
——願わずにはいられなかった。
今もまた報告書が机に積み重ねられていく。
犠牲となるマグルの数。新たな失踪者。闇の裏取引。
冷酷な法を作り笑っていた男の娘が、
この世界の光となれますように——と願うことだけが、
せめてもの祈りだった。
レギュラス・ブラックは、執務机の上に積み上げられた分厚い報告書の束を静かに引き寄せた。
蝋燭の炎が揺れ、その光がページの上を淡く照らす。夜の深い静けさが、法務部執務室の空気に静脈のように流れていた。
——騎士団による現地報告。
——マグル界の治安悪化。
——失踪者数の増加。
——人身売買の噂。
ページを繰る指先は静かだったが、その瞳には一切の動揺が浮かばない。
ため息すら出さず、淡々と“予測済み”の文字をなぞっていく。
まあ、そうなるだろう。
彼は心の中で冷ややかに呟いた。
マグル側の混乱など、本来なら魔法界が肩代わりしてやる筋合いはどこにもない。
政治腐敗、治安維持、国の運営。
いずれもマグル自身が処理すべき問題だ。
魔法界が“食殺許可法”を制定したからといって、彼らの世界すべてに責任を負う必要など、毛ほども感じていなかった。
報告書を一枚めくるたび、淡々とサインを書き加えていく。
黒いインクが紙に吸い込まれていく様は、美しいほどに無機質だった。
狼人間たちがマグルを食殺する権利。
それを得るためには、莫大な金を支払わなければならない。
その金にかかる税はさらに高額で、魔法省にとっては新たな巨大収入源となる。
——高額納税者。
狼人間ですら、その枠組みに組み込まれる。
そしてマグル側にも多額の金が流れていく。
国を潤す“闇の金”が政治家たちの懐を温め、彼らは表情ひとつ変えずに賛同票を投じた。
利害は一致している。
犠牲になるのは、いつだって声を持たぬ弱者だ。
レギュラスはページを閉じ、深く椅子にもたれた。
黒い瞳は静謐そのもので、何も映していないように見える。
マグル界が荒れる?
それは彼らの問題だ。
魔法界は譲歩しない。
譲歩する必要もない。
混乱が起こるというのなら、それを収める努力はマグル側で行うべきだ。
魔法使いがマグルの感情や倫理観に足並みをそろえる義務など存在しない。
それがレギュラス・ブラックという男の揺るぎない価値観であり、
闇の世界で生き抜いてきた彼が培ってきた、冷徹な現実認識だった。
そして彼は次の報告書に手を伸ばす。
淡々とした指先は、一切の迷いも震えもなく新たな紙束を開いた。
——まるでこの世界の痛みを、すべて他者のものと切り離しているかのように。
メイラは、広い施設の中庭に立っていた。
夕日が煉瓦造りの壁を朱色に染め、影が長く伸びる。
小さな体でその影を踏みながら、彼女は静かに数を数える。
——一人
——二人
——三人……
数日前まで、一緒に遊んでいた子供たちの姿が、急に数人分消えていた。
喧嘩っ早い男の子も、泣き虫でよくメイラの服を掴んで離れなかった小さな女の子も。
気づけば、誰にも告げずにいなくなっていた。
魔法使いの大人たちは言う。
「別のところに移っただけだよ」
「いい場所だ、心配いらないからね」
その「いい場所」がどんなところなのか、
メイラには想像がつかなかったけれど——
きっと誰かに選ばれて、別の場所で生きていくことになったのだ。
魔法使いの庇護に預かれるのなら、それは幸運なことなのだと信じていた。
風が揺れた拍子に、髪が頬をかすめた。
メイラは空を見上げる。
思い浮かぶのは、アランの笑顔だった。
あの日、胸にぎゅっと抱きしめてもらった時のあたたかさ。
震える指先を包んでくれた優しい手。
自分を「大切にされている」と実感できた、あのひとときの幸福。
——また、会えるだろうか。
アランは赤ちゃんを産んだのだと聞いた。
遠くからでも、お腹の大きくなっていた様子を見ていたメイラは、
「ああ、本当に産まれたんだ」と胸をときめかせた。
きっとステラと名付けられたその子も、アランのように優しい瞳をしているに違いない。
柱の陰でひとり、メイラは胸にそっと手を当てた。
——自分が、どこかの家に仕えることができるとしたら。
——誰にでもいいわけじゃない。
まだ幼い心が、ひとつの場所を強く思い描く。
レギュラス・ブラック。
自分を見つけてくれた魔法使い。
冷たさと優しさの境目にいるような、不思議な男。
恐ろしくもあったが、同時に命を救ってくれた恩人でもあった。
そしてアラン。
手を握るだけで涙が出るほど、心を温めてくれた女性。
優しい魔法のような人。
——あの人たちのそばに、いつか自分も行けるだろうか。
それがどれほど無茶な願いか、幼いメイラにはまだわからない。
貴族の屋敷で働くということがどれほどの階層の違いかも、
ブラック家がどれほど遠い家なのかも、
まだ理解しきれていない。
ただ、胸が自然とその方向へ引かれるだけだった。
施設の奥で扉が開き、魔法使いの足音が響く。
メイラははっとして顔を上げた。
アランではないとわかると、それでも少し落胆してしまう。
——次はいつ来てくれるだろう。
——一週間後? 一ヶ月後?
——それとももっと先?
子供には時間の感覚が曖昧だ。
だからこそ、待つ時間は限りなく長く感じられた。
けれど、ただひとつ確かなのは——
アランが来てくれる日は、この世界のどんな光より嬉しい、メイラにとっての“特別な日”だということ。
胸の奥がきゅうっと締めつけられるような期待と恋しさを抱えながら、
メイラは夕空の下、小さく呟いた。
「アランさん……また、来てくれますように」
その祈りにも似た願いは、赤く染まった空へ静かに溶けていった。
寝室の灯火は深い琥珀色に沈み、静寂は張りつめた弦のように繊細に揺れていた。
レギュラスはゆっくりと寝台に腰掛け、アランの細い肩へと指先を伸ばす。その手が、わずかに震えていた。
久しぶりに、彼女を抱こうとしている。
——本当にこれでいいのだろうか。
胸の奥で渦巻く不安が、喉元にまでせり上がってくる。
ヴァルブルガとオリオンからの静かな圧力は、あまりに重かった。
「次こそは男児を」という無言の期待。
その期待が、アランの小さな身体に、どれほどの負荷を与えているのか。
それを考えるだけで胸が痛む。
アランは、杖を振って「大丈夫」と静かに示した。
医務魔法使いも「問題はありません」と告げた。
けれど、レギュラスが聞きたかったのは“問題の有無”ではない。
——痛まないだろうか。
——怖くないだろうか。
——あの小さな体が、あれほど苛酷な出産をしたというのに。
思い出すだけで胸が軋む。
沈黙の中で苦しむしかなかった陣痛の夜。
扉の向こう側で、その苦しみの気配だけを頼りにし、何度も心が折れそうになった。
いま、手を触れれば再びその痛みを重ねてしまうのではないかという恐れが、指先を震わせていた。
「…… アラン、何かあれば、すぐに伝えてくださいね」
できるだけ穏やかに言おうとしたが、声にはどうしようもない緊張が滲んでしまう。
アランは小さく、けれどはっきりと数回頷いた。
その健気さに胸が締め付けられる。
触れようとする手が震えたままなのを誤魔化すように、レギュラスはアランの唇にそっと口付けた。
アランは驚いたように目を瞬かせ、次の瞬間、ゆっくりとレギュラスの首へ腕を回した。
その腕は、弱々しくて、けれど確かに“求めよう”としていた。
重荷や義務としてではなく、レギュラスその人に寄り添おうとする、静かな意志だった。
細い指先が背中に触れた瞬間、胸の奥で張り詰めていたものがほどける。
縋りつくような仕草が、あまりにも愛しくて、
レギュラスはただ抱き寄せることしかできなかった。
アランの体温が胸元に触れる。
小さく震える呼吸が、肌に伝わってくる。
その温度が、自分を許してくれているようで、同時に、守らなければならないものの重さを再認識させた。
——この人を傷つけてはいけない。
——二度と、地下でのあの痛みを思い出させるような苦しみを与えてはならない。
レギュラスはそっと額をアランの額に寄せる。
囁くように名前を呼ぶ。
その呼び声に、アランは目を閉じて、すこしだけ身体を預けてきた。
触れ合う肌から伝わる繊細な震え。
互いの呼吸が静かに溶け合っていく。
慎重で、恐ろしくて、けれど深い愛情だけが部屋を満たしていく。
レギュラスの胸に、ひとつの願いが生まれた。
——どうか、今日だけは。
——義務でも血筋でもなく。
——ただ、愛する人として抱かせてほしい。
そう強く祈りながら、彼は静かにアランを抱き寄せた。
レギュラスの胸元に縋りつくアランは、まるで溺れる寸前の人間が唯一の浮き輪を掴んだかのようだった。
細い腕が震えながら背中に回り、その指先がぎゅっと布を掴む。その小さな力が、レギュラスにはあまりにも愛おしく、そして残酷なほど切なかった。
声を持たないアランは、愛していると言葉にすることはできない。
けれど、その沈黙は決して空虚ではなかった。
押し殺した吐息ひとつひとつが、
震え込む体温の熱が、
しがみついてくる指先の力が、
はっきりと彼に伝えてくる。
——私はあなたを求めている。
——あなたを愛している。
その想いが、声よりも雄弁に彼へ流れ込んでくる。
レギュラスは、抱きすくめたアランの頬へ、額へ、瞼の縁へとそっと口付けを落とした。
何度も、何度も。
彼女の沈黙の奥に隠された言葉を拾い上げるように。
触れ合うたびに、胸の奥が熱で痺れるほどに満たされていく。
アランの呼吸は徐々に速くなり、
肩が上下し、細い喉元が苦しげに揺れる。
痛みのせいではないか、無理をしていないか——その不安がレギュラスの胸を何度も締めつける。
「…… アラン、苦しくは……?」
囁くと、アランは小さく首を振った。
蝋燭の炎が揺れるたび、彼女の黒髪がほのかな光を吸ってゆれる。
翡翠の瞳だけは、炎に照らされて濃い熱を帯びていた。
その色は、彼を惑わせる。
引き寄せられてしまう。
胸の奥を燃やされるように、感情が高ぶっていく。
翡翠の宝石が溶けるように潤み、
まっすぐに自分を映し返してくる。
——どうしてこんなに美しいのだろう。
——どうしてこんなにも、心を奪われてしまうのだろう。
レギュラスはアランの頬に指を添えた。
その指先が触れた瞬間、アランが身を寄せてくる。
小さく震える息が首筋に触れ、それだけで胸が焼けるように熱くなる。
アランがふっと顔を寄せた。
レギュラスの肩に額を預け、呼吸を乱しながら、必死にしがみついてくる。
蝋燭の炎は静かに揺れ、
二人の影を壁に長く引き伸ばしていた。
夜の静寂の中で、微かな吐息だけが鼓動に溶け合って響く。
痛みがないかと何度も確かめたい。
抱きしめすぎてしまわないよう、恐る恐る触れたい。
それでも、彼女が求めてくれるその体温に、レギュラスは抗えなかった。
アランが声を持たないという事実が、
いまほど残酷で、いまほど美しく思えた瞬間はない。
——言葉ではなく、すべてを体温で伝えてくるのだから。
翡翠の瞳が蝋燭の光を吸ってきらめく。
そのまっすぐな熱に、レギュラスは完全に胸を捉えられていた。
アランは、震えていた。
それは欲情の震えでも、期待の震えでもない。
——恐怖だった。
寝台の柔らかなシーツが、冷たく肌に触れるたびに、あの地下の冷たい石畳の感触がよみがえる。
闇の帝王の監視下で、あの巨躯の狼人間に押し伏せられた記憶が、皮膚の内側から蘇ってくる。
息が止まり、心臓が逃げ出したいほど暴れた、あの瞬間。
出産で裂けた傷が再び開いてしまうのではないか。
鈍く鋭い痛みが襲いかかり、身を裂かれるのではないか。
恐怖が喉元までせり上がり、体を強張らせる。
けれど、それでも——
レギュラスを受け入れたい気持ちの方が強かった。
言葉を持たない自分には、
“愛している”と返す声がない。
レギュラスが欲しがる愛を、同じ形で返すことができない。
だから、自分にできる唯一の愛の示し方は、
——彼を受け入れることだった。
全てを受け入れ、彼の望むものを与えたい。
怖くても、痛みを想像して震えても、
彼の愛情に応えられる自分でいたい。
その矛盾が胸を締めつけ、涙が滲んだ。
レギュラスがそっと頬に触れる。
その指先は驚くほど優しく、どこまでも慎重で、
まるで壊れものに触れるかのようだった。
「アラン……本当に、大丈夫ですか」
何度も、何度も、
痛みはないか、苦しくないか、無理をしていないか——
彼は確認する。
その度にアランはかすかに頷いた。
怖さを隠したかったのではない。
——彼のために、頷きたかったのだ。
その優しさが胸に沁みて、泣きそうになる。
怖いのに、逃げたいのに、
それでもこんなにも自分を大切に扱おうとしてくれる男がいる。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
顔を上げると、蝋燭の光がレギュラスの横顔を照らしている。
その影を見た瞬間、不思議と恐怖が少し和らいだ。
地下で自分を拾い上げ、光へ連れ出してくれた時と同じ、
強くて、優しい影だったから。
レギュラスが口付けを与える。
アランは震える指先で彼の頬に触れ、
唇が離れようとした瞬間、
——自ら舌を絡めた。
声を持たない自分の、最大限の愛の表現だった。
レギュラスが驚くように息を吸い、
次の瞬間には、溶け落ちそうなほど甘い口付けで応えてくる。
境界線が曖昧になっていく。
どちらが息をしているのかもわからないほど近い。
蝋燭の炎が揺れるたび、
二人の影がひとつに重なり、また揺れた。
今だけは——
このひとときだけは、
レギュラスの中にあるものが、
怒りでも義務でも落胆でもなく、
“純粋な愛”だけであればいい。
アランはそう願いながら、
震える胸の奥で、静かに涙をこぼした。
ステラ・ブラックは、毎日こぼれ落ちそうなほどの笑みを浮かべて成長していた。
まだ歩幅の小さな足でよちよちと部屋の端から端へと冒険し、気に入った布切れや羽根飾りを見つければ嬉しそうに抱きしめる。
小さな指先は世界を掴むように伸び、無垢な瞳はいつも未来の光に向かっていた。
アランはその姿を見つめるたび、胸の奥が温かくなるのを感じた。
——どうか、この子には苦痛も、孤独も、闇の記憶も影さえ落としませんように。
自分が味わったような凍てつく絶望を、この柔らかな頬に触れさせてはならない。
この子は、世界のどんな美しい光も自由に選び、掴んでいける未来を歩んでほしい。
そして、アランの心をさらに安堵させる光景があった。
「ステラ、今日もたくさん遊びましたか」
柔らかく低いレギュラスの声。
いつの間にか背後に立っていた彼が、ステラを抱き上げている。
腕に収まった小さな娘は、父の胸を叩くようにして笑い、細い指でレギュラスの襟元を掴んだ。
レギュラスの表情は穏やかだ。
かつて議会で氷のような眼差しを向けていた男とは思えないほど、
この瞬間だけは、ただひとりの父親になっていた。
彼はステラの頬に唇を寄せ、
慎重に、けれど嬉しさを隠しきれないような手つきで髪を撫でる。
「……いっぱい笑っていますね。いい子だ」
ステラは何か返すように声にならない声をあげ、
そのたびにレギュラスは目を細める。
アランは少し離れた場所からその光景を見つめ、
胸の奥がゆっくりとほぐれていくのを感じていた。
生まれたとき、レギュラスの心がどこか疼いたことを知っている。
女児であることに対する落胆も、
彼の中に一瞬浮かんだ影も、アランは察していた。
けれど今——
ステラを抱く腕の中に、あの影はもうない。
そこにあるのは、確かに「父の愛」だった。
アランの瞳が思わず潤む。
自分が愛した男が、娘をこうして優しく抱きしめている。
それがこんなにも胸を締めつけ、救われることだとは思わなかった。
やがてレギュラスがアランの方を向き、
ステラを抱いたまま微笑む。
「アラン、あなたのおかげでしょう。
この子は……本当に、健やかに育っています」
その言葉は、アランの心の奥に静かに沁み込んでいく。
ステラの笑い声が部屋を満たす。
ほんの少しの幸福が、ゆっくり、確かに満ちていくようだった。
アランはそっと胸に手を当て、
——この時間が、どうか続きますように。
と祈るように目を閉じた。
