1章
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その夜、屋敷の外は深い霧に包まれ、星明りさえ霞むほどの静寂が降りていた。
真夜中の寝室。
レギュラスはいつも通り、アランの呼吸を確かめながら眠りについていた――そのはずだった。
ふと、腕に絡む微かな震えを感じた。
何かが違う、と本能が告げる。
隣に目を向けると、アランが身を屈め、枕元で小刻みに震えていた。声を出せない彼女は、苦しみを訴える術を持たない。ただ震える身体だけが、痛みの深さを必死に訴えていた。
「アラン……?」
その瞬間、彼女の眉間に寄った深い苦悶、汗ばむ額、白いシーツを握り締める指先。
すべてが――陣痛の始まりを知らせていた。
レギュラスは一瞬で眠気を吹き飛ばし、ベッドから飛び起きた。
助産魔女と医務魔女を呼びつけると、屋敷の寝室は一瞬で神聖な“お産の場”に変貌した。
魔法灯は柔らかく明るさを増し、空気を浄化する香草が焚かれ、助産魔女たちの手には既に何本もの魔法薬が準備されている。
アランは、シーツの上で必死に痛みに耐えながら、レギュラスの手を掴んだ。
細く震える指。
けれど握る力は強く、彼女の心そのものが必死に縋ってきているようだった。
しかし――
この場所は、男は立ち入れない領域。
いよいよ本格的にお産が始まると、助産魔女が静かに告げる。
「……ここから先は、外でお待ちください」
アランが、痛みの中で必死にレギュラスを見上げた。
――行かないで。
声にはならない。けれど、その翡翠の瞳がそう訴えていた。
胸が張り裂けそうだった。
「…… アラン、出ないといけません。扉の向こうで待っていますから」
それしか言えなかった。
指をほどく瞬間、まるで幼子から手を離すような名残惜しさがこみ上げた。
こんなにも彼女を一人にしたくないと思ったことは、生涯に一度もなかった。
扉が閉じられる。
その音は、レギュラスの胸に重く沈んだ。
寝室に残されたアランの気配は、皮膚のすぐ裏側に触れてくるほど近いのに――
手も届かず、声も届かない。
彼女は声を持たない。
だから悲鳴も上げられない。
痛みを吐き出すこともできない。
ただ沈黙だけが、分娩の苦痛を呑み込み、透明な苦悶を部屋いっぱいに満たしていく。
レギュラスの心はその静寂に、底知れぬ恐怖を覚えた。
声が聞こえないということは、彼女が耐えきれず気を失っても、誰にもわからないということだ。
痛みに呑まれたとしても、助けを求められないということだ。
扉にもたれ、額を押しつける。
冷たい木の表面が、火照った額を受け止める。
アラン……どうか……どうか、無事で……
自分が彼女を地下牢から救い出したあの日でさえ、こんな恐怖を覚えたことはなかった。
世界が敵に回った時よりも、闇の帝王と対峙した時よりも――よほど、怖い。
扉の向こうには沈黙。
しかしその沈黙は、彼女の痛みをすべて内に抱え込んだまま、崩れ落ちそうに震えている。
レギュラスの心臓は、不規則な速さで脈打った。
アランの命、そして腹の中の小さな命。
どちらも失うわけにはいかない。
失ってしまえば、自分のすべてが崩れ落ちる。
扉に触れた指が、小さく震えていた。
―― アラン。
どうか、どうか無事で。
沈黙の底から、ぎゅっと握りしめていた彼女の手の感触だけが、胸の奥で脈打っていた。
ヴァルブルガは、寝室前の広間を歩き回りながら、次々と魔法祈祷師たちを呼び寄せていた。
祈祷師たちは七つの香草を焚き、魔力の流れを整える古い呪文を唱えている。
「ブラック家に男児を」「血統に祝福を」「未来の当主に力を」
その声は、まるで呪文というより“願望の念”そのものだった。
それらはすべて―― アランの苦しみの最中に浴びせられている。
レギュラスは祈祷師の声のひとつひとつに苛立った。
その祈りが、アランではなく、子の性別ばかりを焦点に置いていることが、胸の内をじりじりと焼く。
寝室の扉は固く閉ざされ、そこからは相変わらず音ひとつ聞こえない。
沈黙が深すぎて、時が止まってしまったようだ。
レギュラスは扉の前に立ち尽くし、拳を握りしめる。
――声が聞こえない。
アランには声がない。
だから苦しんでいても、悲鳴も、呻きも、助けを求める叫びも届かない。
彼女が今、
踏ん張っているのか、
痛みに飲まれ気を失っているのか、
それすらわからない。
それが、こんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。
時おり、助産魔女や医務魔女が扉の隙間から出てくる。
レギュラスはすぐさま詰め寄った。
「どうですか、アランは……?」
魔女は短く頭を下げるだけだ。
「まだ時間がかかります。ご心配なく、最善を尽くしています」
その言葉が、何度も何度も繰り返される。
最善を尽くしている――そう言われれば言われるほど、不安は膨れ上がる。
アランは杖を振れる。
だから、痛みの合間に魔女たちへ意思を伝えているのだろう。
けれど――
自分には届かない。
扉が閉じれば、アランの存在は闇に溶けてしまう。
彼女の苦しみに触れられない。
声も息遣いも聞こえない。
扉を挟んだわずか数十センチの距離なのに、
彼女がどんな表情で、どれほどの痛みに飲み込まれているのか、
想像するしかない。
それが何よりも残酷だった。
ふいに、扉の向こうから空気が震えるような気配がした。
ほんのわずかな変化――それだけで、レギュラスの心臓が跳ねる。
アラン……?
返事はない。
沈黙だけが、重く、冷たく、胸の奥に沈む。
扉に手を置くと、木の冷たさが掌に吸い込まれていく。
その冷たさは、彼女に触れられない現実を突きつけてくるようだった。
あの扉の内側で、彼女はひとり、痛みに向き合っている。
自分がその手を握ってやることもできないまま。
喉の奥がひどく渇き、息がうまく入ってこない。
アラン……どうか、どうか無事で……
祈りは、誰に向けられたものでもない。
ただ、愛しいひとつの命に向かって、必死にしがみつくように零れ落ちた。
祈祷師たちの声がこだまする。
――男児を。
――血統を。
レギュラスはゆっくりと目を閉じた。
彼らの祈りが邪魔だった。
今、自分が欲しい祈りはただ一つ。
アランが生きていること。それだけだった。
やがて――
長い沈黙を切り裂くように、鋭く透き通った産声が、寝室の奥から響き渡った。
その瞬間、広間の空気はひとつ震えた。
ヴァルブルガとオリオンは、まるで何かに呼ばれるように早足で廊下を進んでくる。
ヴァルブルガのローブの裾が床を裂くように揺れ、オリオンの足音は怒りにも似た固さを帯びていた。
寝室の扉が開き、助産魔女がそっと赤子を抱えて姿を現した。
血色は薄いが、小さく握った拳は確かに生命の力を帯びている。
そして、魔女は落ちるように短く告げた。
「……女児でございます」
時間が止まったような静寂が、屋敷の内部を満たした。
次の瞬間、重たい空気がその場に落ちた。
ヴァルブルガの顔が蒼白になり、指先が震える。
オリオンは長いため息をひとつ、静かに吐き出した。
レギュラスは息を呑む。
胸の奥で何か小さく砕けた音がした。
助産魔女は視線を下げ、赤子の顔に布をかけるようにして庇い立てた。
「なんてことなの……」
ヴァルブルガの指が顔を覆い、声は怒りと嘆きの混ざった甲高さで震えていた。
オリオンは言葉を一切残さぬまま、踵を返す。
その背中は静かに、しかしあまりにも冷酷だった。
「なんてことなの……この役立たずの女め」
その言葉は刃だった。
寝室の扉一枚を隔てた奥には――
まだ血の気の引かぬ体で息を整えようとするアランがいる。
「やめてください、母さん」
レギュラスの声は低く震えた。
「たった今お産を終えたばかりです」
ヴァルブルガは怒りに濁った瞳で息子を睨む。
「女児では意味がないのよ。なんという裏切り……!」
裏切り――その言葉が、レギュラスの胸に刺さる。
アランは裏切ったわけではない。
命を振り絞って、ひとりの子をこの世に送り出したのだ。
言わずとも、レギュラスの胸の内には複雑な痛みがあった。
男児を望む自分の気持ちも確かに存在する。
その本音を否定はできない。
しかしその感情と、アランへの敬意と、ただ生まれてきたこの小さな命への愛おしさが入り混じり、形を成さない苦しさが込み上げる。
「……次は、男児を産んでくれるはずです」
その言葉を口にした途端、胸が締め付けられた。
たった今生まれたばかりの娘の前で、
もう“次”の話をしなければならない現実。
それはあまりにも残酷だった。
自分の声は抑えていたが――
この声も、アランに聞こえてしまっているのだろうか。
扉の向こうで、震える体を抱えながら、
アランはこの言葉をどう受け止めているのだろうか。
助産魔女は赤子の布を少し強く握り、顔を伏せたままだった。
彼女でさえ、いまこの場の空気がどれほど痛ましいかを理解している。
小さな娘は、布に包まれたまま微かに指を動かしていた。
泣き疲れて眠りに落ちようとしている。
ただそこに生きているだけで、
その命は尊いはずなのに――
生まれた瞬間から背負わされる“期待”と“落胆”の重さが、
赤子の小さな胸の上に影となって落ちていく。
その影が、レギュラスの心にも深く落ちていた。
産声が響いた瞬間――
胸の奥があたたかい光で満たされ、視界がぼやけた。
気づけば頬を伝っていた涙は、止めようとしても止まらなかった。
母になれたのだ。
幼い頃に家族を奪われ、誰の腕にも抱かれず、生の温もりから遠ざけられ続けた自分が。
ようやく、命を抱く側になれたのだ。
もし母が生きていたなら——
どれほど優しい笑顔で迎えてくれただろう。
もし父が生きていたなら——
どれほど誇らしげに、この子を腕に包んでくれただろう。
想像しただけで、胸の奥が震えた。
自分の中で途切れてしまった家族という温もりの輪が、
今、赤子を迎えたことで確かに繋ぎ直された気がした。
なのに。
赤子の顔を見るより先に、助産魔女は布に包んだ小さな身体を抱えて寝室を後にした。
待って、行かないで。せめて一度だけ、顔を……
声にならない声が喉元で渇いた。
手を伸ばしたはずなのに、誰にも届かなかった。
扉が閉ざされ、静寂が落ちた。
けれどすぐに、その静寂は張り詰めた空気に掻き消される。
ヴァルブルガの鋭い怒号が、壁越しに鋭く響いた。
その瞬間――
自分の産んだ子が女児であったのだと理解した。
身体の隅々まで、氷のような感覚が広がっていく。
血の気が引く、という言葉はこういうものなのだろう。
たった今生まれたばかりの娘が、
祝福されることもなく、
冷たい声と落胆の雨の中に置き去りにされている。
胸が締め付けられた。
申し訳ない。
ごめんなさい。
生まれてきてくれたのに。
どうか、あの子の心が傷つきませんように。
レギュラスにも申し訳なかった。
母となったばかりなのに、幸福はほんの一瞬で砕け散った。
つい先ほどまで喜びで溢れていた涙が、
今は絶望で熱を帯びて頬を濡らしていた。
扉の向こうから聞こえた声。
「次は男児を産んでくれるはずです」
その言葉は刃だった。
胸を、心を、深いところまで切り裂いた。
レギュラスさえも——
生まれてきた娘を望んではいなかったのだと。
この子の存在そのものが“失望”なのだと。
そう告げられた気がした。
涙が頬を伝うたびに、身体の熱が奪われていく。
心も、もうどこを探しても温かい場所を見つけられなかった。
産声の余韻だけがまだ胸に残っている。
あのか細い、けれど確かに生を告げた声。
その声を守りたいと思った瞬間の輝きは、
今は闇の中で震えている。
――愛している。
――ごめんなさい。
――あなたは、何も悪くないのに。
胸の内で何度叫んでも、声にはならなかった。
母になった直後の心は、祝福ではなく悲しみに沈んでいく。
その冷たい波が、アランの小さな体を容赦なく包み込んでいた。
助産魔女の腕に抱かれた、生まれたばかりの赤子がふわりと揺れた。
血の温かさを帯びたまだ湿った肌は、まるで光を宿した真珠のように白く、アランの面影をそのまま映し出している。
瞼が――ふっと持ち上がった。
その瞬間、レギュラスの呼吸は凍りついた。
胸が締め付けられ、肺が空気の吸い方を忘れたようだった。
翡翠。
アランと同じ。
柔らかく、澄んでいて、宝石のように光る翡翠の色。
赤子はまっすぐに彼を見た。
まだ何も知らないはずなのに、ただ生きるための本能だけで世界を見ているはずなのに――
その瞳は、過去と現在と未来のすべてを貫くように、まるでレギュラスという存在そのものを射抜いてきた。
あの日。
マグルの孤児院に漂っていた血の匂いが、鼻腔の奥で再び立ち上がる。
闇の帝王の杖――ニワトコの杖に忠誠心を移すために、無垢な子どもたちが犠牲になったあの日。
最後に自分の手で絶った少女。
薄く乾いた唇、震える肩、引きつった指先。
そして、死を理解できぬまま恐怖の中でカッと見開かれた翡翠の瞳。
赤子の瞳と、重なった。
——息ができない。
まるで、その少女が今ここに生まれ変わって立っているかのようだった。
責められているのか。
許さないと告げられているのか。
それとも、生まれた命をどう扱うのかと問いただされているのか。
――罪は消えない。
赤子のまなざしは、まだ言葉も知らぬはずなのに、そう告げているようだった。
「旦那様……?」
助産魔女が不安そうに声を掛けた。
レギュラスは赤子へ手を伸ばすことができなかった。
腕が動かない。
胸の奥から這い上がる恐怖が身体を縫い止める。
この小さな存在を抱くことが、
許されないような気がした。
自分の手は、まだ血のぬくもりを覚えているのではないかと。
触れれば、また奪ってしまうのではないかと。
「……すみません。失礼……」
かろうじて声だけが漏れた。
助産魔女の戸惑う視線を背に、レギュラスはその場を離れた。
書斎の扉を閉めた瞬間、膝が折れそうになる。
壁に手をつくが、指先が震えて力が入らない。
胸は波打ち、息は熱をもって喉を暴れていた。
汗が額を滑り落ち、襟元に染みる。
吐き気さえこみあげる。
アランが命懸けで産んだ娘を、自分は抱けなかった。
申し訳なさが心臓を抉る。
と同時に――
あの日奪った命が巡ってきたのだ
という錯覚が、レギュラスの全身を締め付けた。
彼は書斎の中央に立ち尽くし、震える手で胸を押さえる。
罪悪と恐怖と深い愛情と、どうしようもない後悔の渦が、
容赦なく胸の奥でぶつかり合う。
新しい命の誕生は幸福のはずだった。
それなのに、胸に広がっていくのは、冷たい苦悩と張り裂けそうな切なさだけだった。
あの翡翠の瞳が、まだ網膜に焼きついて離れなかった。
重い扉が押し開けられた。
書斎の空気がぴんと張り詰める。
入ってきたのはオリオン・ブラック。
レギュラスの父であり、ブラック家の冷厳そのものの象徴のような男だった。
レギュラスは、さきほどまで胸を掻きむしるほど襲っていた動揺を瞬時に押し隠し、背筋を伸ばして立ち上がる。
机の横で静かに手を組む姿は、どこからどう見ても冷静そのもの。
けれどその手はまだわずかに震えていた。
「セシール家の封印の血筋は守られた」
オリオンの声は氷のように冷たく、容赦がなかった。
「次は――我々ブラック家の世継ぎを考えねばならん」
レギュラスの瞼がかすかに揺れる。
「……はい。わかっております、父上」
短く、完璧に整えられた返事。
けれど胸の奥では深い絶望が波を立てていた。
女児では意味がない。
それがブラック家の現実。
その現実がアランをどれほど追い詰め、どれほど怯えさせてきたかを知っているからこそ、レギュラスの心は抉られる。
父の言葉が正しいことくらい、分かっている。
純血の名家として、継承のための男児は絶対条件だ。
女児は封印の継承を可能にするが、ブラック家の“当主”にはなれない。
それが掟であり、伝統であり、呪いのように縛る血の条理だ。
だが――
アラン以外を妻に迎えるなど、あり得ない。
闇の帝王に頭を垂れ、命を賭けて取引を申し出てまで救い出した少女。
閉ざされた地下牢で、瓦礫のように壊れていた細い命を、必死に抱き寄せて守り抜いた少女。
そのアランを手放す?
別の純血の娘を迎える?
そんな未来は――死よりも残酷な地獄だった。
もし男児が生まれなかったことで次を迫られ、アランを“不要”と扱われる未来が来たなら、
ブラック家の誇りも、魔法省の地位も、闇の陣営の信頼も、すべて捨てても構わない――
レギュラスはそれほどの覚悟を静かに胸に秘めていた。
オリオンの鋭い瞳が、レギュラスを見据える。
「感傷で家は守れんぞ。次は必ず男児だ。わかっているな?」
「……もちろんです」
その返事の裏で、胸の奥に稲妻のような苦悩が刺さる。
アランの震える肩。
出産の直前に不安で曇った翡翠の瞳。
それでも命を賭して娘を産み落としてくれた、小さな、儚い、あの姿。
彼女を再び苦しめるなど――
レギュラスの誇りが、魔法使いとしての倫理が、そして何より心が許さなかった。
オリオンが去ると、書斎は再び静寂の支配下に戻った。
レギュラスは深く息を吸った。胸がまだ重く痛む。
アランを失うわけにはいかない。
その思いだけが、どんな血の掟よりも重かった。
彼はゆっくりと目を閉じ、震える手を胸に当てる。
幼い娘の翡翠の瞳が脳裏にちらつき、あの日の罪がまた胸をえぐった。
だが――
アランと娘だけは絶対に守る。
血の掟が何を求めようと。
ブラック家の誇りが何を強制しようと。
レギュラスの心は、静かに、しかし烈火のように燃え上がっていた。
ゆっくりと瞼が上がる。
寝室の白い天蓋がぼんやりと視界に揺れ、微かな薬草の香りが胸の奥まで沁みていく。
アランは、胸の上にのせられた温もりに気づいた。助産魔女の腕からそっと抱き取られ、自分の腕の中へと渡された小さな命――娘だった。
その顔を覗き込んだ瞬間、息が止まる。
翡翠。
自分と同じ、あの透明な色が、まっすぐにアランを見返していた。
涙で滲んだ視界の中でも、その瞳は揺るぎなく美しかった。
胸がいっぱいになった。
この小さな命を抱きしめていた時、母はどんな気持ちだったのだろう。
自分も、こんなふうに愛されたのだろうか。
奪われた過去を思うと同時に、初めて得た未来の形が、深い愛しさとなって込み上げてきた。
しかし――
すぐに胸を締め付ける別の不安がせり上がる。
レギュラスは、この子を抱いてくれただろうか。
愛しいと思ってくれただろうか。
もし、女児であったことを理由に、この子を抱けなかったのだとしたら。
もし失望していたのなら。
その想像だけで、呼吸が詰まりそうだった。
扉が静かに開く音がした。
アランの心臓が跳ねる。
レギュラスが寝室へと入ってきた。
整えられた黒髪、疲労を帯びながらも凛とした気品。
彼の姿を見ただけで胸が強く震えた。
「アラン……お疲れさまでした」
息を呑むほどの、優しい声音だった。
アランは、彼の顔を見るのが怖かった。
落胆が滲んでいたら――耐えられない。
だが、レギュラスの表情は。
心底ほっとしたような、柔らかな、優しい微笑みだった。
その瞬間、アランの目から涙が溢れた。
安堵で震え、涙が頬を伝う。
「…… アラン」
レギュラスは近づき、指先でその涙をひとつひとつ拭ってくれた。
その仕草があまりにも温かくて、アランは声の出ない喉から苦しいほどの息を漏らした。
震える手で杖を取り、空気に文字を描く。
ごめんなさい、レギュラス
何が、とは書けなかった。
きっと女児であったことを、彼は残念に思ったのだろう。
自分のせいで、彼の期待を裏切ってしまったのだろう。
その罪悪感が胸を押し潰す。
しかし、レギュラスは首を振った。
「いいんです、アラン……」
「あなたが無事にお産を終えてくれた。それだけで……十分なんです」
その言葉は、心の奥の奥にまで染み込んでいった。
地下で傷だらけになり、声さえ奪われ、闇に沈んでいた少女を、最初に救ってくれたのはレギュラスだった。
あのときも今と同じように、優しく抱きしめてくれた。
傷ついた心を癒してくれるのは、いつだって――レギュラスだった。
アランは娘を抱きしめたまま、静かに頷いた。
震える指が、レギュラスの手を探し、そっと絡める。
小さな寝室には、赤子のかすかな吐息と、二人がようやく迎えた穏やかな光だけが満ちていた。
柔らかい陽の光が寝室のレース越しに差し込み、生まれたばかりの赤子の肌を淡く照らしていた。
アランの腕に抱かれた小さな娘は、すやすやと静かな寝息を立てている。
生まれて間もないとは思えないほど穏やかで、どこか神聖な存在感すらあった。
レギュラスは娘の顔を見つめ、静かに唇を開いた。
「……ステラ。
彼女の名は、ステラ・ブラックと名付けました。星の輝きを意味します」
星。
闇に沈んだ世界を照らす一瞬の光。
アランの胸がふるりと震え、杖を取る。
ステラ……とても、素敵な名前です
空中に浮かび上がる文字を見て、レギュラスは微笑んだ。
決して声を荒げず、穏やかに柔らかく。
だが、その奥には静かな決意が見えた。
「ええ。ブラック家の伝統にちなんで……星の名をとりました」
その言葉には、アランに余計な心配をさせまいとする優しさがあった。
だがアランは、その名前の裏に潜む小さな痛みに気づいていた。
――オリオンが名を与えなかった。
ブラック家において、子に名を与えることは血統の承認と同義であり、誇りであり、責務である。
シリウスの名も、レギュラスの名も、オリオンが誇らしげにつけたと聞いていた。
けれど。
ステラには、一瞥すらなく。
名付けようとする素振りも見せず、背を向けた。
それはまるで、
アランの産んだ娘は「ブラック家としての価値」を認められていない
――そう告げられているようだった。
胸がひやりと冷える。
アランは娘の小さな背中にそっと手を添え、抱く腕に力を込めた。
レギュラスはその冷たさに気づいたのか、そっとアランの肩に触れた。
「…… アラン、心配しないでください。
この子は、僕が名をつけた以上、正真正銘ブラック家の娘です。
誰が何と言おうと、僕が認めます」
その声は静かだったが、揺るぎない芯の強さを帯びていた。
アランはその言葉に喉の奥が詰まり、涙が滲む。
――レギュラスが、ステラを守ってくれる。
その事実だけが、胸の痛みをそっと和らげた。
ステラは、まるで二人の気配を感じ取ったかのように小さく指を動かした。
その仕草すら愛おしく、アランは微笑みを落とす。
「星はね、アラン……闇の中でこそ輝くんです」
レギュラスがぽつりと呟く。
「だからこの子は、あなたに似て……きっと強く生きていける」
彼の声に滲んだ優しさに、アランは胸の奥がほどけていくのを感じた。
たとえ、オリオンやヴァルブルガが認めなくとも。
たとえ、世界がどう扱おうとも。
――自分たちが、この子の光になる。
その静かな誓いが、確かに寝室の空気の中に生まれていた。
長い食卓の中央で、銀の燭台が静かに揺れ、灯火の影が壁に薄く揺らいでいた。
夕餉の席には、重い沈黙が深く張りつめている。
乳母に抱かれたステラは小さく息を眠りの中で上下させ、真綿の毛布に包まれていた。
その柔らかい寝息だけが、この場の緊張をほんの少し和らげているように思えた。
アランはまだ顔色が優れなかった。
悪露は続き、身体は万全とは程遠い。
椅子に座るだけでも負担のようで、背筋を張る姿がどこか痛々しく映った。
「アラン、しっかり食べて回復してくださいね」
レギュラスが静かに声をかけ、アランの皿の料理を丁寧に切り分けていく。
その手の動きは、過剰なほど優しくて、彼がどれほどアランを気遣っているかが痛いほど伝わってくる。
アランは力なく微笑んだ。
ありがとうと告げたいのに、声を持たぬ彼女はただ小さく頷くしかできない。
その時だった。
「アラン、次は男児の後継を産んでほしい。
この家の名を継げる、確かな子をだ」
オリオンの低い声が、冷えた刃のように食卓を切り裂いた。
空気が、一瞬で凍りつく。
アランの瞳が大きく揺れ、すぐに深々と頭を下げた。
その姿は、謝罪ではなく――服従そのもののように見えた。
レギュラスの胸が強く痛んだ。
こんな顔を、アランにさせたかったわけではない。
こんなふうに、彼女を怯えさせたかったわけでもない。
父の言葉はいつも直線で、避ける隙がない。
それが正義であり誇りであると信じて生きてきた男の、容赦のない言葉。
だが今は――あまりに重く、あまりに残酷だった。
アランの指先がわずかに震えるのが見えた。
そしてその震えに気づいたのは、おそらくレギュラスだけだった。
なんとか空気を変えたくて、レギュラスは努めて明るい声を絞り出す。
「……たくさん食べて、たくさん寝て、しっかり回復したら……少し出かけましょう。
ステラを連れて、三人で」
明るく、優しく、未来を語る声。
けれどアランの瞳には、それが届かなかった。
彼女はただ、俯いたまま皿の上を見つめて動かなかった。
レギュラスの胸の奥に、静かに苦いものが沈んでいく。
――どうして、こんなにも遠いのだろう。
目の前にいるのに。
手を伸ばせば触れられるのに。
彼女の心は、まるで深い影の中に沈んでしまったようだった。
乳母の腕の中で眠るステラだけが、
何も知らぬ無垢な呼吸を穏やかに続けていた。
医務魔法使いからの報告は、いつも淡々としているはずなのに――
今日だけは、その一言一句が針のように胸へ刺さった。
「奥様は……次の妊娠が可能になる時期を気にされているようですが。
まだ悪露も治っていません。まずは回復を、とお伝えしています」
レギュラスは返事をするより先に、胸の奥がきゅうっと縮まっていくのを感じた。
―― アランが、そんなことを。
寝室の扉越しに見たアランのやつれた横顔が、ふっと脳裏をよぎる。
まだ痛む身体を抱え、疲れ切った目をしながら、必死に笑おうとする姿。
その彼女が、すでに次の妊娠のことを医務魔法使いに尋ねていたというのか。
まるで、自分が彼女を「産ませるための器」にしているようではないか。
レギュラスは喉の奥が詰まりそうになり、苦しさを紛らわすように胸元へ手を当てた。
――そんなつもりじゃない。
そんなふうに思わせたくなかった。
彼は、ただ彼女を救いたくて……誰よりも守りたくて……
闇の帝王に命を投げうつ覚悟で取引までして、やっとの思いで地下から連れ出した。
アランを抱いた時の細い肩の震え、闇の中で光を知らなかった少女が、初めて光を浴びながら見せた小さな笑顔。
あの瞬間が、今も胸のどこかに熱を宿している。
なのに――自分の愛は、彼女を追い詰める形に変わってしまったのだろうか。
医務魔法使いが静かに続ける。
「奥様は……かなり不安を抱えておられるようです。“次こそは”と、ご自身を責めている様子も見られました」
その言葉は、刃だった。
レギュラスは顔を伏せ、深く息を吐く。
胸の内に渦巻くのは、焦り、後悔、そして言葉にできない痛み。
――どうしてこんなにも彼女を追い詰めてしまったのだろう。
地下から救った時も、アランは怯えた瞳でこちらを見上げていた。
その時、誓ったはずだった。
この人にはもう二度と、恐れや苦しみを背負わせないと。
なのに今、彼女が誰よりも恐れているのは――
他ならぬ、自分の家族の期待であり、そして自分が放った何気ない一言なのかもしれない。
レギュラスは医務魔法使いが去った後、誰もいなくなった廊下で壁に手をついた。
自分自身の影が、床に長く落ちて揺れている。
愛しているのに。
想っているのに。
守りたいのに。
そのすべてが、アランを苦しめる鎖になってしまうのではないか――
そんな恐怖が、じわじわと胸を締め上げていく。
彼はそっと目を閉じた。
アランの翡翠の瞳が、いつか恐れではなく、安心で満たされる日が来るのだろうか。
その未来を願えば願うほど、胸の奥の痛みは深く沈んだままだった。
ブラック家に姫君が誕生した――
その知らせは瞬く間に魔法界の隅々まで広がり、新聞も談話室も酒場も、どこもかしこもその話題で溢れた。
「きっと美しい娘だろう」「男児ではなかったのか、残念だ」
そんな声が交錯し、貴族の中には早々に縁談の打診を準備し始める家すらあった。
ジェームズは新聞を放り投げて、心底愉快だとばかりに言った。
「ざまあ見ろだね。女だったって話は最高だよ」
あの完璧主義のブラック家が、男児でなく女児を授かった――
それは、純血主義に凝り固まった連中への皮肉のようでもあった。
けれど、シリウスは笑えなかった。
むしろ胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。
―― アランに似た、美しい娘なんだろうな。
そう思うと、胸の奥に柔らかな痛みが走った。
アランが浮かべたであろう微笑みを想像すると、どうしてか目を伏せたくなった。
そして同時に、恐れが押し寄せる。
オリオンとヴァルブルガ――
自分がよく知っているあの冷酷で歪んだ価値観。
期待を裏切った者に向ける、あの沈黙の圧力。
その無言の冷たさが、人の心をどれほど容易く砕け散らせるか。
アランがその矢面に立たされていないだろうか。
責められ、冷たい目を向けられ、胸をすくませていないだろうか。
思い出す。
あの日、自分に「もう来ないで」と告げるように杖を振った彼女の姿。
あれは、会いたくないという意味じゃなかった。
レギュラスに知られてはならないから。
彼女が苦しむから。
あの悲しげな瞳を、今でも忘れられない。
シリウスは無意識に拳を握っていた。
白くなるほど強く。
レギュラスは――
あの男は、本当に彼女を労わってやっているのか。
あの残忍な手で、彼女を抱きしめるような優しさを見せているのか。
それとも、純血の家の冷たい論理に飲まれ、また彼女を追い詰めてはいないのか。
考えるだけで胸が焼けるようだった。
新聞の片隅には「姫君誕生」と誇らしげな見出しが踊る。
けれど、シリウスの目にはその文字が少し滲んだ。
―― アランは無事だろうか。
ちゃんと、誰かに優しくされているだろうか。
彼女が抱いているであろう、生まれたばかりの赤子。
アランの腕の中で眠るその小さな命に、彼女がどれほどの愛を注いでいるか。
それを思うと、胸が締めつけられるほど愛おしく感じた。
会いたい。
無事を確かめたい。
よく頑張った、と抱きしめてやりたい。
心の奥から突き上げるその願いを、押し殺す術はなかった。
シリウスは静かに立ち上がる。
目的地はひとつだけ。
―― アランに会いに行く。
例え、どんな結末が待っていようとも。
夜気が深く沈み、ブラック家の庭に薄い靄が漂っていた。
その静寂を破るように、アランの寝室の窓を――コン、コン――と指が叩いた。
アランはステラを腕に抱えたまま振り返る。
その瞳が驚きに大きく開かれ、次の瞬間には小走りで窓辺へと向かった。
窓の向こう、闇の中に立っていたのは――シリウスだった。
来ないで、と言ったはずなのに。
けれど、アランは迷いなく窓を開け放つ。
氷のように冷たい夜風が二人の間をすり抜ける。
「……おめでとうって言いに来たんだ」
声は少し掠れていた。
胸に押し込んでいた感情が、窓を叩く音とともにあふれ出してしまったかのようだった。
アランは微笑む。
柔らかく、安堵のにじんだ笑顔だった。
杖を振って、静かに挨拶を打ち込む――
『こんにちは、シリウス』
「ああ……母子ともに、健康か?」
問いかける声には、安堵が滲んでいるのに、その裏にはどうしようもない緊張が潜んでいた。
アランは腕の中の赤子をそっと持ち上げる。
――差し出す。
小さな、小さな命を。
シリウスは息を呑んだ。
腕を伸ばして受け取ったその瞬間、小さな重みが胸の奥まで染み込んでくる。
アランの色――
翡翠の宝石をそのまま閉じ込めたような瞳。
ゆっくりと開いて彼を見上げてくる。
「……美しいな。お前の色と同じだ」
まるで呟きのような声だった。
喉の奥が熱くなる。
赤子を抱いてこんな気持ちになったのは、生まれてはじめてだった。
『ステラと言います。ステラ・ブラック』
「ステラ……か。いい名前だ」
彼の腕の中でステラは小さく息を吐き、小さな指がふにゃりと動いた。
その仕草があまりにも尊く、胸が張り裂けそうだった。
シリウスは微笑む。
どこまでも優しく、どこまでも切なく。
「……美人になるぞ、ステラは」
たしかな未来を確信するように、そっと言葉を置いた。
アランに似て、きっと強く、美しく育つのだろう。
窓辺の淡い月明かりが、三人の影を重ねて揺らしていた。
その静かな光景の中で、シリウスはステラを抱いたまま、二度と忘れられないほどの温もりを感じていた。
シリウスがステラを抱く腕は、驚くほど優しかった。
力強い肩と大きな手のはずなのに、そこに宿った温度は羽根のように柔らかく、温かく、触れるものすべてを守ろうとする本能に満ちていた。
アランはその光景を、息をするのも忘れるほど静かに見つめていた。
シリウスが――ステラを、愛おしそうに抱きしめてくれている。
その事実が胸を焼くほど嬉しくて、目の奥がじんと熱くなった。
この屋敷で、誰よりも純粋に、条件も血の誇りも何もひとつとして求めずに、ただ“ステラ”という一人の命を愛してくれる人は、きっと彼だけだ。
「なんでも買ってやるからな」
ステラの頬に指先で触れながら、シリウスが笑う。
その声音はまるで父親のようで、アランの胸の奥がじくりと甘く疼いた。
――ああ、この人なら。
ステラがもう少し大きくなったら、かつて自分を箒の後ろへ乗せてくれたように、空の広さを教えてくれるだろう。
湖面を照らす光や、青空を裂いていく風の匂いも。
自分がシリウスに救われたあの時間を、ステラにも与えてくれる気がした。
アランは自然と微笑んだ。
胸の奥で静かに揺らめいた希望が、言葉にしないままシリウスに伝わってしまうような気がした。
オリオンやヴァルブルガのように冷たくもない。
レギュラスの、どこか落胆を滲ませた優しさとも違う。
シリウスの腕に抱かれているステラは、祝福されている。
ただ、生まれてきたという理由だけで、無条件に愛されている。
その姿があまりにも眩しくて――
アランは胸の奥でふと確信した。
自分がかつてシリウスの光に惹かれたように、
ステラもまた、この人の光に導かれていくのだろう、と。
部屋中に夜明け前の静けさが満ちていた。
その静けさの中、シリウスが抱くステラは小さな寝息を立て、彼に寄り添っていた。
まるで、そこが自分の居場所だと知っているかのように。
アランはそっと手を胸にあてた。
痛いほど嬉しくて、切ないほど幸せで――
言葉では到底救いきれないほどの思いが、彼女の中でひっそりと波紋を描いていた。
寝室には、明かりを落としたランプの黄金色の光が、淡い揺らぎとなって広がっていた。
レギュラスは横たわりながら、腕の中のアランをそっと抱き寄せていた。
産後の弱った身体を守るように、胸元へと包み込むその腕は、どこまでも慎重で優しかった。
「毎日ステラの世話に疲れるでしょう?」
低く落ち着いた声が、静かな寝室に溶けていく。
アランは小さく首を振った。
その仕草には淑やかな強さが宿り、レギュラスの胸の中で軽く動き、彼の胸へ手を添えてから、そっと上体を起こす。
翡翠の瞳がまっすぐにレギュラスを見た。
杖を握る細い指先が宙に軌跡を描く――
――レギュラス、もう体はほとんど回復できました。
そう伝えるアランの文字は、まるで覚悟の匂いすら帯びていた。
“次の子を身籠る準備ができている”――その奥に隠された意図をレギュラスが読み取らぬはずがない。
胸が、ひどく締めつけられた。
喜びからではない。
呆れからでもない。
ただ――ここまで追い詰めてしまっている、自分の不甲斐なさに。
医務魔法使いは確かに、“悪露は止まり始めている”と言っていた。
けれど次の月経も迎えていない身体が、妊娠に耐えられるはずもない。
レギュラスは目を伏せ、深い息を吐き出しそうになるのを堪えた。
「アラン……あなたを焦らせてしまっているみたいですね。すみません」
そっと腕を伸ばし、アランの肩に触れ、起き上がった身体を胸元へ引き寄せ直す。
まるで逃がしてはならないものを抱えるように、慎重に。
アランはレギュラスに身を預けながら、上目遣いに見つめてくる。
唇は声を持たぬままでも、その瞳だけがはっきりと語っていた。
――あなたのためになら、もういつでも。
その“捧げようとする意思”が痛いほど伝わってくる。
レギュラスの胸の奥で、細い針が静かに刺さるような痛みが走った。
だからこそ――抱きしめる腕に、そっと力を込める。
「アラン、そういうのは……せめて、もう少し経ってからにしましょう。
しっかりあなたの身体が回復してからでいいんです」
穏やかな声で言っても、その裏に潜む切実さは消せなかった。
アランの身体はまだ弱い。産み落としたという事実だけで、どれほど血を流し、どれほど命を削ったか――レギュラスは身を持って知っている。
アランは何も答えなかった。
沈黙の中で、ほんのわずかに体温が離れていくような気がした。
それが落胆なのか、遠慮なのか、諦めなのか――レギュラスには読み取れない。
ただ一つだけ、胸の中で強烈な確信が生まれていた。
義務から差し出される身体ではなく――
求め合って触れ合う夜を、アランに与えたい。
彼女が“後継を産むための器”としてではなく、
愛しい妻として、
自分を迎え入れてくれる未来を。
レギュラスはアランの髪にそっと唇を寄せ、胸の深いところに渦巻く感情を抑えながら、ただひたすらに抱きしめた。
愛を確かめ合う行為が、義務ではなく歓びとして満ちていくように――
その日が来るまで、彼は決して急がせまいと誓った。
真夜中の寝室。
レギュラスはいつも通り、アランの呼吸を確かめながら眠りについていた――そのはずだった。
ふと、腕に絡む微かな震えを感じた。
何かが違う、と本能が告げる。
隣に目を向けると、アランが身を屈め、枕元で小刻みに震えていた。声を出せない彼女は、苦しみを訴える術を持たない。ただ震える身体だけが、痛みの深さを必死に訴えていた。
「アラン……?」
その瞬間、彼女の眉間に寄った深い苦悶、汗ばむ額、白いシーツを握り締める指先。
すべてが――陣痛の始まりを知らせていた。
レギュラスは一瞬で眠気を吹き飛ばし、ベッドから飛び起きた。
助産魔女と医務魔女を呼びつけると、屋敷の寝室は一瞬で神聖な“お産の場”に変貌した。
魔法灯は柔らかく明るさを増し、空気を浄化する香草が焚かれ、助産魔女たちの手には既に何本もの魔法薬が準備されている。
アランは、シーツの上で必死に痛みに耐えながら、レギュラスの手を掴んだ。
細く震える指。
けれど握る力は強く、彼女の心そのものが必死に縋ってきているようだった。
しかし――
この場所は、男は立ち入れない領域。
いよいよ本格的にお産が始まると、助産魔女が静かに告げる。
「……ここから先は、外でお待ちください」
アランが、痛みの中で必死にレギュラスを見上げた。
――行かないで。
声にはならない。けれど、その翡翠の瞳がそう訴えていた。
胸が張り裂けそうだった。
「…… アラン、出ないといけません。扉の向こうで待っていますから」
それしか言えなかった。
指をほどく瞬間、まるで幼子から手を離すような名残惜しさがこみ上げた。
こんなにも彼女を一人にしたくないと思ったことは、生涯に一度もなかった。
扉が閉じられる。
その音は、レギュラスの胸に重く沈んだ。
寝室に残されたアランの気配は、皮膚のすぐ裏側に触れてくるほど近いのに――
手も届かず、声も届かない。
彼女は声を持たない。
だから悲鳴も上げられない。
痛みを吐き出すこともできない。
ただ沈黙だけが、分娩の苦痛を呑み込み、透明な苦悶を部屋いっぱいに満たしていく。
レギュラスの心はその静寂に、底知れぬ恐怖を覚えた。
声が聞こえないということは、彼女が耐えきれず気を失っても、誰にもわからないということだ。
痛みに呑まれたとしても、助けを求められないということだ。
扉にもたれ、額を押しつける。
冷たい木の表面が、火照った額を受け止める。
アラン……どうか……どうか、無事で……
自分が彼女を地下牢から救い出したあの日でさえ、こんな恐怖を覚えたことはなかった。
世界が敵に回った時よりも、闇の帝王と対峙した時よりも――よほど、怖い。
扉の向こうには沈黙。
しかしその沈黙は、彼女の痛みをすべて内に抱え込んだまま、崩れ落ちそうに震えている。
レギュラスの心臓は、不規則な速さで脈打った。
アランの命、そして腹の中の小さな命。
どちらも失うわけにはいかない。
失ってしまえば、自分のすべてが崩れ落ちる。
扉に触れた指が、小さく震えていた。
―― アラン。
どうか、どうか無事で。
沈黙の底から、ぎゅっと握りしめていた彼女の手の感触だけが、胸の奥で脈打っていた。
ヴァルブルガは、寝室前の広間を歩き回りながら、次々と魔法祈祷師たちを呼び寄せていた。
祈祷師たちは七つの香草を焚き、魔力の流れを整える古い呪文を唱えている。
「ブラック家に男児を」「血統に祝福を」「未来の当主に力を」
その声は、まるで呪文というより“願望の念”そのものだった。
それらはすべて―― アランの苦しみの最中に浴びせられている。
レギュラスは祈祷師の声のひとつひとつに苛立った。
その祈りが、アランではなく、子の性別ばかりを焦点に置いていることが、胸の内をじりじりと焼く。
寝室の扉は固く閉ざされ、そこからは相変わらず音ひとつ聞こえない。
沈黙が深すぎて、時が止まってしまったようだ。
レギュラスは扉の前に立ち尽くし、拳を握りしめる。
――声が聞こえない。
アランには声がない。
だから苦しんでいても、悲鳴も、呻きも、助けを求める叫びも届かない。
彼女が今、
踏ん張っているのか、
痛みに飲まれ気を失っているのか、
それすらわからない。
それが、こんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。
時おり、助産魔女や医務魔女が扉の隙間から出てくる。
レギュラスはすぐさま詰め寄った。
「どうですか、アランは……?」
魔女は短く頭を下げるだけだ。
「まだ時間がかかります。ご心配なく、最善を尽くしています」
その言葉が、何度も何度も繰り返される。
最善を尽くしている――そう言われれば言われるほど、不安は膨れ上がる。
アランは杖を振れる。
だから、痛みの合間に魔女たちへ意思を伝えているのだろう。
けれど――
自分には届かない。
扉が閉じれば、アランの存在は闇に溶けてしまう。
彼女の苦しみに触れられない。
声も息遣いも聞こえない。
扉を挟んだわずか数十センチの距離なのに、
彼女がどんな表情で、どれほどの痛みに飲み込まれているのか、
想像するしかない。
それが何よりも残酷だった。
ふいに、扉の向こうから空気が震えるような気配がした。
ほんのわずかな変化――それだけで、レギュラスの心臓が跳ねる。
アラン……?
返事はない。
沈黙だけが、重く、冷たく、胸の奥に沈む。
扉に手を置くと、木の冷たさが掌に吸い込まれていく。
その冷たさは、彼女に触れられない現実を突きつけてくるようだった。
あの扉の内側で、彼女はひとり、痛みに向き合っている。
自分がその手を握ってやることもできないまま。
喉の奥がひどく渇き、息がうまく入ってこない。
アラン……どうか、どうか無事で……
祈りは、誰に向けられたものでもない。
ただ、愛しいひとつの命に向かって、必死にしがみつくように零れ落ちた。
祈祷師たちの声がこだまする。
――男児を。
――血統を。
レギュラスはゆっくりと目を閉じた。
彼らの祈りが邪魔だった。
今、自分が欲しい祈りはただ一つ。
アランが生きていること。それだけだった。
やがて――
長い沈黙を切り裂くように、鋭く透き通った産声が、寝室の奥から響き渡った。
その瞬間、広間の空気はひとつ震えた。
ヴァルブルガとオリオンは、まるで何かに呼ばれるように早足で廊下を進んでくる。
ヴァルブルガのローブの裾が床を裂くように揺れ、オリオンの足音は怒りにも似た固さを帯びていた。
寝室の扉が開き、助産魔女がそっと赤子を抱えて姿を現した。
血色は薄いが、小さく握った拳は確かに生命の力を帯びている。
そして、魔女は落ちるように短く告げた。
「……女児でございます」
時間が止まったような静寂が、屋敷の内部を満たした。
次の瞬間、重たい空気がその場に落ちた。
ヴァルブルガの顔が蒼白になり、指先が震える。
オリオンは長いため息をひとつ、静かに吐き出した。
レギュラスは息を呑む。
胸の奥で何か小さく砕けた音がした。
助産魔女は視線を下げ、赤子の顔に布をかけるようにして庇い立てた。
「なんてことなの……」
ヴァルブルガの指が顔を覆い、声は怒りと嘆きの混ざった甲高さで震えていた。
オリオンは言葉を一切残さぬまま、踵を返す。
その背中は静かに、しかしあまりにも冷酷だった。
「なんてことなの……この役立たずの女め」
その言葉は刃だった。
寝室の扉一枚を隔てた奥には――
まだ血の気の引かぬ体で息を整えようとするアランがいる。
「やめてください、母さん」
レギュラスの声は低く震えた。
「たった今お産を終えたばかりです」
ヴァルブルガは怒りに濁った瞳で息子を睨む。
「女児では意味がないのよ。なんという裏切り……!」
裏切り――その言葉が、レギュラスの胸に刺さる。
アランは裏切ったわけではない。
命を振り絞って、ひとりの子をこの世に送り出したのだ。
言わずとも、レギュラスの胸の内には複雑な痛みがあった。
男児を望む自分の気持ちも確かに存在する。
その本音を否定はできない。
しかしその感情と、アランへの敬意と、ただ生まれてきたこの小さな命への愛おしさが入り混じり、形を成さない苦しさが込み上げる。
「……次は、男児を産んでくれるはずです」
その言葉を口にした途端、胸が締め付けられた。
たった今生まれたばかりの娘の前で、
もう“次”の話をしなければならない現実。
それはあまりにも残酷だった。
自分の声は抑えていたが――
この声も、アランに聞こえてしまっているのだろうか。
扉の向こうで、震える体を抱えながら、
アランはこの言葉をどう受け止めているのだろうか。
助産魔女は赤子の布を少し強く握り、顔を伏せたままだった。
彼女でさえ、いまこの場の空気がどれほど痛ましいかを理解している。
小さな娘は、布に包まれたまま微かに指を動かしていた。
泣き疲れて眠りに落ちようとしている。
ただそこに生きているだけで、
その命は尊いはずなのに――
生まれた瞬間から背負わされる“期待”と“落胆”の重さが、
赤子の小さな胸の上に影となって落ちていく。
その影が、レギュラスの心にも深く落ちていた。
産声が響いた瞬間――
胸の奥があたたかい光で満たされ、視界がぼやけた。
気づけば頬を伝っていた涙は、止めようとしても止まらなかった。
母になれたのだ。
幼い頃に家族を奪われ、誰の腕にも抱かれず、生の温もりから遠ざけられ続けた自分が。
ようやく、命を抱く側になれたのだ。
もし母が生きていたなら——
どれほど優しい笑顔で迎えてくれただろう。
もし父が生きていたなら——
どれほど誇らしげに、この子を腕に包んでくれただろう。
想像しただけで、胸の奥が震えた。
自分の中で途切れてしまった家族という温もりの輪が、
今、赤子を迎えたことで確かに繋ぎ直された気がした。
なのに。
赤子の顔を見るより先に、助産魔女は布に包んだ小さな身体を抱えて寝室を後にした。
待って、行かないで。せめて一度だけ、顔を……
声にならない声が喉元で渇いた。
手を伸ばしたはずなのに、誰にも届かなかった。
扉が閉ざされ、静寂が落ちた。
けれどすぐに、その静寂は張り詰めた空気に掻き消される。
ヴァルブルガの鋭い怒号が、壁越しに鋭く響いた。
その瞬間――
自分の産んだ子が女児であったのだと理解した。
身体の隅々まで、氷のような感覚が広がっていく。
血の気が引く、という言葉はこういうものなのだろう。
たった今生まれたばかりの娘が、
祝福されることもなく、
冷たい声と落胆の雨の中に置き去りにされている。
胸が締め付けられた。
申し訳ない。
ごめんなさい。
生まれてきてくれたのに。
どうか、あの子の心が傷つきませんように。
レギュラスにも申し訳なかった。
母となったばかりなのに、幸福はほんの一瞬で砕け散った。
つい先ほどまで喜びで溢れていた涙が、
今は絶望で熱を帯びて頬を濡らしていた。
扉の向こうから聞こえた声。
「次は男児を産んでくれるはずです」
その言葉は刃だった。
胸を、心を、深いところまで切り裂いた。
レギュラスさえも——
生まれてきた娘を望んではいなかったのだと。
この子の存在そのものが“失望”なのだと。
そう告げられた気がした。
涙が頬を伝うたびに、身体の熱が奪われていく。
心も、もうどこを探しても温かい場所を見つけられなかった。
産声の余韻だけがまだ胸に残っている。
あのか細い、けれど確かに生を告げた声。
その声を守りたいと思った瞬間の輝きは、
今は闇の中で震えている。
――愛している。
――ごめんなさい。
――あなたは、何も悪くないのに。
胸の内で何度叫んでも、声にはならなかった。
母になった直後の心は、祝福ではなく悲しみに沈んでいく。
その冷たい波が、アランの小さな体を容赦なく包み込んでいた。
助産魔女の腕に抱かれた、生まれたばかりの赤子がふわりと揺れた。
血の温かさを帯びたまだ湿った肌は、まるで光を宿した真珠のように白く、アランの面影をそのまま映し出している。
瞼が――ふっと持ち上がった。
その瞬間、レギュラスの呼吸は凍りついた。
胸が締め付けられ、肺が空気の吸い方を忘れたようだった。
翡翠。
アランと同じ。
柔らかく、澄んでいて、宝石のように光る翡翠の色。
赤子はまっすぐに彼を見た。
まだ何も知らないはずなのに、ただ生きるための本能だけで世界を見ているはずなのに――
その瞳は、過去と現在と未来のすべてを貫くように、まるでレギュラスという存在そのものを射抜いてきた。
あの日。
マグルの孤児院に漂っていた血の匂いが、鼻腔の奥で再び立ち上がる。
闇の帝王の杖――ニワトコの杖に忠誠心を移すために、無垢な子どもたちが犠牲になったあの日。
最後に自分の手で絶った少女。
薄く乾いた唇、震える肩、引きつった指先。
そして、死を理解できぬまま恐怖の中でカッと見開かれた翡翠の瞳。
赤子の瞳と、重なった。
——息ができない。
まるで、その少女が今ここに生まれ変わって立っているかのようだった。
責められているのか。
許さないと告げられているのか。
それとも、生まれた命をどう扱うのかと問いただされているのか。
――罪は消えない。
赤子のまなざしは、まだ言葉も知らぬはずなのに、そう告げているようだった。
「旦那様……?」
助産魔女が不安そうに声を掛けた。
レギュラスは赤子へ手を伸ばすことができなかった。
腕が動かない。
胸の奥から這い上がる恐怖が身体を縫い止める。
この小さな存在を抱くことが、
許されないような気がした。
自分の手は、まだ血のぬくもりを覚えているのではないかと。
触れれば、また奪ってしまうのではないかと。
「……すみません。失礼……」
かろうじて声だけが漏れた。
助産魔女の戸惑う視線を背に、レギュラスはその場を離れた。
書斎の扉を閉めた瞬間、膝が折れそうになる。
壁に手をつくが、指先が震えて力が入らない。
胸は波打ち、息は熱をもって喉を暴れていた。
汗が額を滑り落ち、襟元に染みる。
吐き気さえこみあげる。
アランが命懸けで産んだ娘を、自分は抱けなかった。
申し訳なさが心臓を抉る。
と同時に――
あの日奪った命が巡ってきたのだ
という錯覚が、レギュラスの全身を締め付けた。
彼は書斎の中央に立ち尽くし、震える手で胸を押さえる。
罪悪と恐怖と深い愛情と、どうしようもない後悔の渦が、
容赦なく胸の奥でぶつかり合う。
新しい命の誕生は幸福のはずだった。
それなのに、胸に広がっていくのは、冷たい苦悩と張り裂けそうな切なさだけだった。
あの翡翠の瞳が、まだ網膜に焼きついて離れなかった。
重い扉が押し開けられた。
書斎の空気がぴんと張り詰める。
入ってきたのはオリオン・ブラック。
レギュラスの父であり、ブラック家の冷厳そのものの象徴のような男だった。
レギュラスは、さきほどまで胸を掻きむしるほど襲っていた動揺を瞬時に押し隠し、背筋を伸ばして立ち上がる。
机の横で静かに手を組む姿は、どこからどう見ても冷静そのもの。
けれどその手はまだわずかに震えていた。
「セシール家の封印の血筋は守られた」
オリオンの声は氷のように冷たく、容赦がなかった。
「次は――我々ブラック家の世継ぎを考えねばならん」
レギュラスの瞼がかすかに揺れる。
「……はい。わかっております、父上」
短く、完璧に整えられた返事。
けれど胸の奥では深い絶望が波を立てていた。
女児では意味がない。
それがブラック家の現実。
その現実がアランをどれほど追い詰め、どれほど怯えさせてきたかを知っているからこそ、レギュラスの心は抉られる。
父の言葉が正しいことくらい、分かっている。
純血の名家として、継承のための男児は絶対条件だ。
女児は封印の継承を可能にするが、ブラック家の“当主”にはなれない。
それが掟であり、伝統であり、呪いのように縛る血の条理だ。
だが――
アラン以外を妻に迎えるなど、あり得ない。
闇の帝王に頭を垂れ、命を賭けて取引を申し出てまで救い出した少女。
閉ざされた地下牢で、瓦礫のように壊れていた細い命を、必死に抱き寄せて守り抜いた少女。
そのアランを手放す?
別の純血の娘を迎える?
そんな未来は――死よりも残酷な地獄だった。
もし男児が生まれなかったことで次を迫られ、アランを“不要”と扱われる未来が来たなら、
ブラック家の誇りも、魔法省の地位も、闇の陣営の信頼も、すべて捨てても構わない――
レギュラスはそれほどの覚悟を静かに胸に秘めていた。
オリオンの鋭い瞳が、レギュラスを見据える。
「感傷で家は守れんぞ。次は必ず男児だ。わかっているな?」
「……もちろんです」
その返事の裏で、胸の奥に稲妻のような苦悩が刺さる。
アランの震える肩。
出産の直前に不安で曇った翡翠の瞳。
それでも命を賭して娘を産み落としてくれた、小さな、儚い、あの姿。
彼女を再び苦しめるなど――
レギュラスの誇りが、魔法使いとしての倫理が、そして何より心が許さなかった。
オリオンが去ると、書斎は再び静寂の支配下に戻った。
レギュラスは深く息を吸った。胸がまだ重く痛む。
アランを失うわけにはいかない。
その思いだけが、どんな血の掟よりも重かった。
彼はゆっくりと目を閉じ、震える手を胸に当てる。
幼い娘の翡翠の瞳が脳裏にちらつき、あの日の罪がまた胸をえぐった。
だが――
アランと娘だけは絶対に守る。
血の掟が何を求めようと。
ブラック家の誇りが何を強制しようと。
レギュラスの心は、静かに、しかし烈火のように燃え上がっていた。
ゆっくりと瞼が上がる。
寝室の白い天蓋がぼんやりと視界に揺れ、微かな薬草の香りが胸の奥まで沁みていく。
アランは、胸の上にのせられた温もりに気づいた。助産魔女の腕からそっと抱き取られ、自分の腕の中へと渡された小さな命――娘だった。
その顔を覗き込んだ瞬間、息が止まる。
翡翠。
自分と同じ、あの透明な色が、まっすぐにアランを見返していた。
涙で滲んだ視界の中でも、その瞳は揺るぎなく美しかった。
胸がいっぱいになった。
この小さな命を抱きしめていた時、母はどんな気持ちだったのだろう。
自分も、こんなふうに愛されたのだろうか。
奪われた過去を思うと同時に、初めて得た未来の形が、深い愛しさとなって込み上げてきた。
しかし――
すぐに胸を締め付ける別の不安がせり上がる。
レギュラスは、この子を抱いてくれただろうか。
愛しいと思ってくれただろうか。
もし、女児であったことを理由に、この子を抱けなかったのだとしたら。
もし失望していたのなら。
その想像だけで、呼吸が詰まりそうだった。
扉が静かに開く音がした。
アランの心臓が跳ねる。
レギュラスが寝室へと入ってきた。
整えられた黒髪、疲労を帯びながらも凛とした気品。
彼の姿を見ただけで胸が強く震えた。
「アラン……お疲れさまでした」
息を呑むほどの、優しい声音だった。
アランは、彼の顔を見るのが怖かった。
落胆が滲んでいたら――耐えられない。
だが、レギュラスの表情は。
心底ほっとしたような、柔らかな、優しい微笑みだった。
その瞬間、アランの目から涙が溢れた。
安堵で震え、涙が頬を伝う。
「…… アラン」
レギュラスは近づき、指先でその涙をひとつひとつ拭ってくれた。
その仕草があまりにも温かくて、アランは声の出ない喉から苦しいほどの息を漏らした。
震える手で杖を取り、空気に文字を描く。
ごめんなさい、レギュラス
何が、とは書けなかった。
きっと女児であったことを、彼は残念に思ったのだろう。
自分のせいで、彼の期待を裏切ってしまったのだろう。
その罪悪感が胸を押し潰す。
しかし、レギュラスは首を振った。
「いいんです、アラン……」
「あなたが無事にお産を終えてくれた。それだけで……十分なんです」
その言葉は、心の奥の奥にまで染み込んでいった。
地下で傷だらけになり、声さえ奪われ、闇に沈んでいた少女を、最初に救ってくれたのはレギュラスだった。
あのときも今と同じように、優しく抱きしめてくれた。
傷ついた心を癒してくれるのは、いつだって――レギュラスだった。
アランは娘を抱きしめたまま、静かに頷いた。
震える指が、レギュラスの手を探し、そっと絡める。
小さな寝室には、赤子のかすかな吐息と、二人がようやく迎えた穏やかな光だけが満ちていた。
柔らかい陽の光が寝室のレース越しに差し込み、生まれたばかりの赤子の肌を淡く照らしていた。
アランの腕に抱かれた小さな娘は、すやすやと静かな寝息を立てている。
生まれて間もないとは思えないほど穏やかで、どこか神聖な存在感すらあった。
レギュラスは娘の顔を見つめ、静かに唇を開いた。
「……ステラ。
彼女の名は、ステラ・ブラックと名付けました。星の輝きを意味します」
星。
闇に沈んだ世界を照らす一瞬の光。
アランの胸がふるりと震え、杖を取る。
ステラ……とても、素敵な名前です
空中に浮かび上がる文字を見て、レギュラスは微笑んだ。
決して声を荒げず、穏やかに柔らかく。
だが、その奥には静かな決意が見えた。
「ええ。ブラック家の伝統にちなんで……星の名をとりました」
その言葉には、アランに余計な心配をさせまいとする優しさがあった。
だがアランは、その名前の裏に潜む小さな痛みに気づいていた。
――オリオンが名を与えなかった。
ブラック家において、子に名を与えることは血統の承認と同義であり、誇りであり、責務である。
シリウスの名も、レギュラスの名も、オリオンが誇らしげにつけたと聞いていた。
けれど。
ステラには、一瞥すらなく。
名付けようとする素振りも見せず、背を向けた。
それはまるで、
アランの産んだ娘は「ブラック家としての価値」を認められていない
――そう告げられているようだった。
胸がひやりと冷える。
アランは娘の小さな背中にそっと手を添え、抱く腕に力を込めた。
レギュラスはその冷たさに気づいたのか、そっとアランの肩に触れた。
「…… アラン、心配しないでください。
この子は、僕が名をつけた以上、正真正銘ブラック家の娘です。
誰が何と言おうと、僕が認めます」
その声は静かだったが、揺るぎない芯の強さを帯びていた。
アランはその言葉に喉の奥が詰まり、涙が滲む。
――レギュラスが、ステラを守ってくれる。
その事実だけが、胸の痛みをそっと和らげた。
ステラは、まるで二人の気配を感じ取ったかのように小さく指を動かした。
その仕草すら愛おしく、アランは微笑みを落とす。
「星はね、アラン……闇の中でこそ輝くんです」
レギュラスがぽつりと呟く。
「だからこの子は、あなたに似て……きっと強く生きていける」
彼の声に滲んだ優しさに、アランは胸の奥がほどけていくのを感じた。
たとえ、オリオンやヴァルブルガが認めなくとも。
たとえ、世界がどう扱おうとも。
――自分たちが、この子の光になる。
その静かな誓いが、確かに寝室の空気の中に生まれていた。
長い食卓の中央で、銀の燭台が静かに揺れ、灯火の影が壁に薄く揺らいでいた。
夕餉の席には、重い沈黙が深く張りつめている。
乳母に抱かれたステラは小さく息を眠りの中で上下させ、真綿の毛布に包まれていた。
その柔らかい寝息だけが、この場の緊張をほんの少し和らげているように思えた。
アランはまだ顔色が優れなかった。
悪露は続き、身体は万全とは程遠い。
椅子に座るだけでも負担のようで、背筋を張る姿がどこか痛々しく映った。
「アラン、しっかり食べて回復してくださいね」
レギュラスが静かに声をかけ、アランの皿の料理を丁寧に切り分けていく。
その手の動きは、過剰なほど優しくて、彼がどれほどアランを気遣っているかが痛いほど伝わってくる。
アランは力なく微笑んだ。
ありがとうと告げたいのに、声を持たぬ彼女はただ小さく頷くしかできない。
その時だった。
「アラン、次は男児の後継を産んでほしい。
この家の名を継げる、確かな子をだ」
オリオンの低い声が、冷えた刃のように食卓を切り裂いた。
空気が、一瞬で凍りつく。
アランの瞳が大きく揺れ、すぐに深々と頭を下げた。
その姿は、謝罪ではなく――服従そのもののように見えた。
レギュラスの胸が強く痛んだ。
こんな顔を、アランにさせたかったわけではない。
こんなふうに、彼女を怯えさせたかったわけでもない。
父の言葉はいつも直線で、避ける隙がない。
それが正義であり誇りであると信じて生きてきた男の、容赦のない言葉。
だが今は――あまりに重く、あまりに残酷だった。
アランの指先がわずかに震えるのが見えた。
そしてその震えに気づいたのは、おそらくレギュラスだけだった。
なんとか空気を変えたくて、レギュラスは努めて明るい声を絞り出す。
「……たくさん食べて、たくさん寝て、しっかり回復したら……少し出かけましょう。
ステラを連れて、三人で」
明るく、優しく、未来を語る声。
けれどアランの瞳には、それが届かなかった。
彼女はただ、俯いたまま皿の上を見つめて動かなかった。
レギュラスの胸の奥に、静かに苦いものが沈んでいく。
――どうして、こんなにも遠いのだろう。
目の前にいるのに。
手を伸ばせば触れられるのに。
彼女の心は、まるで深い影の中に沈んでしまったようだった。
乳母の腕の中で眠るステラだけが、
何も知らぬ無垢な呼吸を穏やかに続けていた。
医務魔法使いからの報告は、いつも淡々としているはずなのに――
今日だけは、その一言一句が針のように胸へ刺さった。
「奥様は……次の妊娠が可能になる時期を気にされているようですが。
まだ悪露も治っていません。まずは回復を、とお伝えしています」
レギュラスは返事をするより先に、胸の奥がきゅうっと縮まっていくのを感じた。
―― アランが、そんなことを。
寝室の扉越しに見たアランのやつれた横顔が、ふっと脳裏をよぎる。
まだ痛む身体を抱え、疲れ切った目をしながら、必死に笑おうとする姿。
その彼女が、すでに次の妊娠のことを医務魔法使いに尋ねていたというのか。
まるで、自分が彼女を「産ませるための器」にしているようではないか。
レギュラスは喉の奥が詰まりそうになり、苦しさを紛らわすように胸元へ手を当てた。
――そんなつもりじゃない。
そんなふうに思わせたくなかった。
彼は、ただ彼女を救いたくて……誰よりも守りたくて……
闇の帝王に命を投げうつ覚悟で取引までして、やっとの思いで地下から連れ出した。
アランを抱いた時の細い肩の震え、闇の中で光を知らなかった少女が、初めて光を浴びながら見せた小さな笑顔。
あの瞬間が、今も胸のどこかに熱を宿している。
なのに――自分の愛は、彼女を追い詰める形に変わってしまったのだろうか。
医務魔法使いが静かに続ける。
「奥様は……かなり不安を抱えておられるようです。“次こそは”と、ご自身を責めている様子も見られました」
その言葉は、刃だった。
レギュラスは顔を伏せ、深く息を吐く。
胸の内に渦巻くのは、焦り、後悔、そして言葉にできない痛み。
――どうしてこんなにも彼女を追い詰めてしまったのだろう。
地下から救った時も、アランは怯えた瞳でこちらを見上げていた。
その時、誓ったはずだった。
この人にはもう二度と、恐れや苦しみを背負わせないと。
なのに今、彼女が誰よりも恐れているのは――
他ならぬ、自分の家族の期待であり、そして自分が放った何気ない一言なのかもしれない。
レギュラスは医務魔法使いが去った後、誰もいなくなった廊下で壁に手をついた。
自分自身の影が、床に長く落ちて揺れている。
愛しているのに。
想っているのに。
守りたいのに。
そのすべてが、アランを苦しめる鎖になってしまうのではないか――
そんな恐怖が、じわじわと胸を締め上げていく。
彼はそっと目を閉じた。
アランの翡翠の瞳が、いつか恐れではなく、安心で満たされる日が来るのだろうか。
その未来を願えば願うほど、胸の奥の痛みは深く沈んだままだった。
ブラック家に姫君が誕生した――
その知らせは瞬く間に魔法界の隅々まで広がり、新聞も談話室も酒場も、どこもかしこもその話題で溢れた。
「きっと美しい娘だろう」「男児ではなかったのか、残念だ」
そんな声が交錯し、貴族の中には早々に縁談の打診を準備し始める家すらあった。
ジェームズは新聞を放り投げて、心底愉快だとばかりに言った。
「ざまあ見ろだね。女だったって話は最高だよ」
あの完璧主義のブラック家が、男児でなく女児を授かった――
それは、純血主義に凝り固まった連中への皮肉のようでもあった。
けれど、シリウスは笑えなかった。
むしろ胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。
―― アランに似た、美しい娘なんだろうな。
そう思うと、胸の奥に柔らかな痛みが走った。
アランが浮かべたであろう微笑みを想像すると、どうしてか目を伏せたくなった。
そして同時に、恐れが押し寄せる。
オリオンとヴァルブルガ――
自分がよく知っているあの冷酷で歪んだ価値観。
期待を裏切った者に向ける、あの沈黙の圧力。
その無言の冷たさが、人の心をどれほど容易く砕け散らせるか。
アランがその矢面に立たされていないだろうか。
責められ、冷たい目を向けられ、胸をすくませていないだろうか。
思い出す。
あの日、自分に「もう来ないで」と告げるように杖を振った彼女の姿。
あれは、会いたくないという意味じゃなかった。
レギュラスに知られてはならないから。
彼女が苦しむから。
あの悲しげな瞳を、今でも忘れられない。
シリウスは無意識に拳を握っていた。
白くなるほど強く。
レギュラスは――
あの男は、本当に彼女を労わってやっているのか。
あの残忍な手で、彼女を抱きしめるような優しさを見せているのか。
それとも、純血の家の冷たい論理に飲まれ、また彼女を追い詰めてはいないのか。
考えるだけで胸が焼けるようだった。
新聞の片隅には「姫君誕生」と誇らしげな見出しが踊る。
けれど、シリウスの目にはその文字が少し滲んだ。
―― アランは無事だろうか。
ちゃんと、誰かに優しくされているだろうか。
彼女が抱いているであろう、生まれたばかりの赤子。
アランの腕の中で眠るその小さな命に、彼女がどれほどの愛を注いでいるか。
それを思うと、胸が締めつけられるほど愛おしく感じた。
会いたい。
無事を確かめたい。
よく頑張った、と抱きしめてやりたい。
心の奥から突き上げるその願いを、押し殺す術はなかった。
シリウスは静かに立ち上がる。
目的地はひとつだけ。
―― アランに会いに行く。
例え、どんな結末が待っていようとも。
夜気が深く沈み、ブラック家の庭に薄い靄が漂っていた。
その静寂を破るように、アランの寝室の窓を――コン、コン――と指が叩いた。
アランはステラを腕に抱えたまま振り返る。
その瞳が驚きに大きく開かれ、次の瞬間には小走りで窓辺へと向かった。
窓の向こう、闇の中に立っていたのは――シリウスだった。
来ないで、と言ったはずなのに。
けれど、アランは迷いなく窓を開け放つ。
氷のように冷たい夜風が二人の間をすり抜ける。
「……おめでとうって言いに来たんだ」
声は少し掠れていた。
胸に押し込んでいた感情が、窓を叩く音とともにあふれ出してしまったかのようだった。
アランは微笑む。
柔らかく、安堵のにじんだ笑顔だった。
杖を振って、静かに挨拶を打ち込む――
『こんにちは、シリウス』
「ああ……母子ともに、健康か?」
問いかける声には、安堵が滲んでいるのに、その裏にはどうしようもない緊張が潜んでいた。
アランは腕の中の赤子をそっと持ち上げる。
――差し出す。
小さな、小さな命を。
シリウスは息を呑んだ。
腕を伸ばして受け取ったその瞬間、小さな重みが胸の奥まで染み込んでくる。
アランの色――
翡翠の宝石をそのまま閉じ込めたような瞳。
ゆっくりと開いて彼を見上げてくる。
「……美しいな。お前の色と同じだ」
まるで呟きのような声だった。
喉の奥が熱くなる。
赤子を抱いてこんな気持ちになったのは、生まれてはじめてだった。
『ステラと言います。ステラ・ブラック』
「ステラ……か。いい名前だ」
彼の腕の中でステラは小さく息を吐き、小さな指がふにゃりと動いた。
その仕草があまりにも尊く、胸が張り裂けそうだった。
シリウスは微笑む。
どこまでも優しく、どこまでも切なく。
「……美人になるぞ、ステラは」
たしかな未来を確信するように、そっと言葉を置いた。
アランに似て、きっと強く、美しく育つのだろう。
窓辺の淡い月明かりが、三人の影を重ねて揺らしていた。
その静かな光景の中で、シリウスはステラを抱いたまま、二度と忘れられないほどの温もりを感じていた。
シリウスがステラを抱く腕は、驚くほど優しかった。
力強い肩と大きな手のはずなのに、そこに宿った温度は羽根のように柔らかく、温かく、触れるものすべてを守ろうとする本能に満ちていた。
アランはその光景を、息をするのも忘れるほど静かに見つめていた。
シリウスが――ステラを、愛おしそうに抱きしめてくれている。
その事実が胸を焼くほど嬉しくて、目の奥がじんと熱くなった。
この屋敷で、誰よりも純粋に、条件も血の誇りも何もひとつとして求めずに、ただ“ステラ”という一人の命を愛してくれる人は、きっと彼だけだ。
「なんでも買ってやるからな」
ステラの頬に指先で触れながら、シリウスが笑う。
その声音はまるで父親のようで、アランの胸の奥がじくりと甘く疼いた。
――ああ、この人なら。
ステラがもう少し大きくなったら、かつて自分を箒の後ろへ乗せてくれたように、空の広さを教えてくれるだろう。
湖面を照らす光や、青空を裂いていく風の匂いも。
自分がシリウスに救われたあの時間を、ステラにも与えてくれる気がした。
アランは自然と微笑んだ。
胸の奥で静かに揺らめいた希望が、言葉にしないままシリウスに伝わってしまうような気がした。
オリオンやヴァルブルガのように冷たくもない。
レギュラスの、どこか落胆を滲ませた優しさとも違う。
シリウスの腕に抱かれているステラは、祝福されている。
ただ、生まれてきたという理由だけで、無条件に愛されている。
その姿があまりにも眩しくて――
アランは胸の奥でふと確信した。
自分がかつてシリウスの光に惹かれたように、
ステラもまた、この人の光に導かれていくのだろう、と。
部屋中に夜明け前の静けさが満ちていた。
その静けさの中、シリウスが抱くステラは小さな寝息を立て、彼に寄り添っていた。
まるで、そこが自分の居場所だと知っているかのように。
アランはそっと手を胸にあてた。
痛いほど嬉しくて、切ないほど幸せで――
言葉では到底救いきれないほどの思いが、彼女の中でひっそりと波紋を描いていた。
寝室には、明かりを落としたランプの黄金色の光が、淡い揺らぎとなって広がっていた。
レギュラスは横たわりながら、腕の中のアランをそっと抱き寄せていた。
産後の弱った身体を守るように、胸元へと包み込むその腕は、どこまでも慎重で優しかった。
「毎日ステラの世話に疲れるでしょう?」
低く落ち着いた声が、静かな寝室に溶けていく。
アランは小さく首を振った。
その仕草には淑やかな強さが宿り、レギュラスの胸の中で軽く動き、彼の胸へ手を添えてから、そっと上体を起こす。
翡翠の瞳がまっすぐにレギュラスを見た。
杖を握る細い指先が宙に軌跡を描く――
――レギュラス、もう体はほとんど回復できました。
そう伝えるアランの文字は、まるで覚悟の匂いすら帯びていた。
“次の子を身籠る準備ができている”――その奥に隠された意図をレギュラスが読み取らぬはずがない。
胸が、ひどく締めつけられた。
喜びからではない。
呆れからでもない。
ただ――ここまで追い詰めてしまっている、自分の不甲斐なさに。
医務魔法使いは確かに、“悪露は止まり始めている”と言っていた。
けれど次の月経も迎えていない身体が、妊娠に耐えられるはずもない。
レギュラスは目を伏せ、深い息を吐き出しそうになるのを堪えた。
「アラン……あなたを焦らせてしまっているみたいですね。すみません」
そっと腕を伸ばし、アランの肩に触れ、起き上がった身体を胸元へ引き寄せ直す。
まるで逃がしてはならないものを抱えるように、慎重に。
アランはレギュラスに身を預けながら、上目遣いに見つめてくる。
唇は声を持たぬままでも、その瞳だけがはっきりと語っていた。
――あなたのためになら、もういつでも。
その“捧げようとする意思”が痛いほど伝わってくる。
レギュラスの胸の奥で、細い針が静かに刺さるような痛みが走った。
だからこそ――抱きしめる腕に、そっと力を込める。
「アラン、そういうのは……せめて、もう少し経ってからにしましょう。
しっかりあなたの身体が回復してからでいいんです」
穏やかな声で言っても、その裏に潜む切実さは消せなかった。
アランの身体はまだ弱い。産み落としたという事実だけで、どれほど血を流し、どれほど命を削ったか――レギュラスは身を持って知っている。
アランは何も答えなかった。
沈黙の中で、ほんのわずかに体温が離れていくような気がした。
それが落胆なのか、遠慮なのか、諦めなのか――レギュラスには読み取れない。
ただ一つだけ、胸の中で強烈な確信が生まれていた。
義務から差し出される身体ではなく――
求め合って触れ合う夜を、アランに与えたい。
彼女が“後継を産むための器”としてではなく、
愛しい妻として、
自分を迎え入れてくれる未来を。
レギュラスはアランの髪にそっと唇を寄せ、胸の深いところに渦巻く感情を抑えながら、ただひたすらに抱きしめた。
愛を確かめ合う行為が、義務ではなく歓びとして満ちていくように――
その日が来るまで、彼は決して急がせまいと誓った。
