1章
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アランブラックが姿を見せなくなって、どれほどの月日が経ったのだろう。
マグル保護施設の薄明るい廊下で、メイラはいつもと同じ時間に扉の前へ立ち、そっと耳を澄ませる癖がついていた。
けれど――足音は聞こえない。
軽いノックの音も、花の香りをまとったドレスの揺れる気配も、もうしばらく訪れていなかった。
メイラは寂しさに胸を締めつけられながらも、理由は理解していた。
アランのお腹はあの日、驚くほど大きく膨らんでいた。
きっと今ごろは、お産に入っているのだろうと。
どんな子が生まれるのだろうか。
メイラの胸には、温かい期待が静かに膨らんだ。
レギュラスブラック――あの圧倒的で近づきがたいほどの美貌を湛えた魔法使い。
アランブラック――翡翠色の瞳を優しく揺らし、触れるだけで胸の奥を温かくしてくれた魔法使い。
その二人の子ならきっと、誰もが息を呑むほど美しい魔法使いが生まれる。
魔力の光を纏って生まれてくるような、そんな子かもしれない。
――見てみたい。
メイラは思った。
見られるはずもないのに、願いのように胸の中で灯ってしまう。
けれど、胸の奥にはもうひとつの感情が生まれていた。
黒く、小さく、見たくないのに勝手に膨らむ影のようなもの。
―― アランさん、もう来てくれないのかな。
子どもが生まれれば、アランは忙しくなる。
抱きしめる腕も、微笑んでくれる瞳も、すべてその子に向けられるようになるだろう。
そんなの当たり前だ。
アランは自分の母になるのだから。
それでも――
自分が忘れられてしまう未来を想像すると、胸の奥が痛くなる。
張り裂けるような苦しさが込み上げてくる。
自分はマグルで、魔力など一つも持たない。
ここにいる子どもたちの中でさえ、とるに足らない存在だ。
アランブラックやレギュラスブラックと並べることなど、許されるはずがなかった。
比べるなんて――
本当はしてはいけない。
恐れ多い。
そんなこと、分かっているはずなのに。
きれいなものを好きになってしまうと、人は弱くなる。
アランの微笑みに触れたときの温かさを、一度でも知ってしまったからこそ。
自分の中に芽生えた小さな黒い影が、こんなにも恐ろしく思える。
こんな感情を持つ自分が醜い気がして、涙がこぼれそうになる。
――忘れないでほしい。
そんなこと、言えるはずもないのに。
メイラは胸の奥でそっと呟き、膝を抱えた。
薄暗い窓の外では、魔法界の夜空が静かに瞬いている。
その光を見上げながら、彼女はただ、アランの無事と――
いつかまた会える未来を、ひたすらに願った。
屋敷の広間に差し込む午前の光は柔らかく、静けさは絹のように張りつめていた。
アランは、膨らんだ腹をそっと抱えるようにしながら、テーブルの上に広げられた魔法新聞へ視線を落とした。
――騎士団、狼人間の襲撃からマグルの子供たちを救出。
大きな見出しの下に、シリウス・ブラックとジェームズ・ポッターの映像写真が並んでいた。
二人とも堂々とした姿勢で立ち、迷いのない瞳でその使命を語っている。
正義という言葉が、真正面からその瞳の奥に宿っているようだった。
アランは指先でシリウスの顔に触れるようになぞった。
あの夜、窓辺に現れた彼の姿が胸の奥深くに蘇る。
“すまねぇ、もう行くよ。”
そう言って背を向けた青年の面影が、新聞の中の凛々しい男となって刻まれていた。
レギュラスに知られてはならない。
あの隔たりの深さは、触れれば切れる刃のようで、軽々しく踏み越えてはならないものだ。
だからアランは、震える杖で「来ないで」と告げた。
それがどれほど彼を傷つけても、これ以上二人を追い詰めることはできなかった。
思い返す。
あの日の湖の光景を。
シリウスが自分を箒に乗せて空へ連れ出してくれたのは、太陽が高く登っていた昼のことだった。
陽光はやわらかく湖面に散り、きらきらと反射していて、あたりは光の粒が揺れるような美しさだった。
眩しさよりも温かさの勝る風が頬を撫で、広がる青空は果てしなくて、胸の奥がほどけていくようだった。
昼の空は、恐ろしい世界しか知らないアランにとって“初めて見る自由の色”だった。
世界がこんなにも広く明るいということを、その時初めて知った。
自由とは、こんなにも優しく、こんなにも胸を震わせるものなのだ。
今、新聞に映るシリウスの腕の中には、怯えるマグルの子どもがいる。
その子に、彼はどんな景色を見せてやるのだろう。
どんな“空”を、どんな“未来”を、その子に教えるのだろう。
シリウスは光だ。
迷い子を導き、閉ざされた世界の扉を、ひらりと開けてしまう人だ。
アラン自身もかつて、その光に触れ、息を呑むほど救われた。
だからこそ――胸が痛む。
自分はもう、その光の傍にはいけない。
シリウスが振り返る先に、自分の姿はなくてもいい。
彼が誰かを救い続けるのなら、自分は遠くからただ祈るだけでいい。
震える指先で、新聞のシリウスの瞳をそっとなぞる。
“どうか……どうか、あなたの光が、小さな子供たちを未来へ導き続けていますように。”
アランはそう願い、新聞を静かに胸に抱きしめた
レギュラスは、屋敷のダイニングテーブルに無造作に広げられていた魔法新聞を手に取った瞬間、その胸の奥で何かがざらりと逆立つのを感じた。
一面を飾っているのは――騎士団の華々しい活躍。
狼人間の襲撃からマグルの子供たちを救い出し、“英雄”として写るシリウス・ブラックとジェームズ・ポッターの姿だった。
静かに息を吸う。
そして、何も言わず掌を新聞にかざす。
呪文を唱える必要すらない。レギュラスの魔力は思考に呼応し、新聞はふっと赤い光を帯び、音もなく黒い灰へと変わっていった。
本来であれば、こんな高度な無詠唱魔法は職務上の戦略のために鍛えた力だ。
しかし今は、ただ嫉妬にも似た苛立ちの発火装置としてしか働いていない自分が、情けなくもあった。
屋敷の者が置いたのだから、おそらくアランも同じ記事を目にしているはずだ。
あの優しい翡翠の瞳は、シリウスの輝く写真を見てどんな色を宿したのだろう。
――あの男をまだ、あの頃のように見つめているのか。
アランはいつものように静かに、控えめに、何も知らないふりをしていた。
それが白々しいと感じてしまうほどには、自分の心がざわついていた。
怒りではない。
嫉妬でもない。
もっと厄介で、もっと弱くて、もっと惨めな種類の揺らぎだった。
アランにぶつけるわけにはいかない。
彼女は今、腹を抱えて必死に耐えている。
地下の闇から救い出したあの夜のように、苦しみから守ってやらなければならない存在なのだ。
自分の小ささを――彼女にだけは見せたくなかった。
レギュラスは深く呼吸し、感情を押し沈めた。
「アラン、今日はどうでした?」
努めて穏やかな声で問いかける。
アランはふわりと微笑み、杖を握る指先を少し震わせながら空中に文字を描いた。
――よく蹴りました。
「そうですか……」
レギュラスの胸に温かさが満ちる。
「どんな元気な子なんでしょうね。楽しみです。」
そう言ってアランの腹にそっと手を置くと、すぐに応えるように赤子が踏み返してきた。
柔らかい布越しに伝わるその一撃は驚くほど力強く、生きる意志が宿っていると実感させられる。
――これは、希望だ。
――これは、生き延びた意味だ。
男児だろうか。
当てにならぬ迷信だとわかっている。
それでも、願わずにはいられない。
腹の中の命が、未来のすべてを切り拓く鍵であるのだから。
アランはそんなレギュラスの想いを知らないまま、ただ穏やかに、愛おしげに自分の腹を撫でていた。
翡翠色の瞳は、静かに未来を信じている。
その横顔が――自分をどれほど救っているか、アランは知らない。
燃やした新聞の灰がまだ暖かい。
レギュラスはアランの手にそっと触れ、ようやく呼吸を整えた。
彼女が傍にいる限り、どんな苛立ちも、どれほどの闇も、飲み込める気がした。
魔法省議事堂の中心に置かれた巨大な円卓――そこに刻まれる古い紋章は、数百年もの間、魔法界の理と権威を象徴し続けてきた。
その上で、今日またひとつ、重い法が制定された。
狼人間への“食殺許可法”。
長い協議の末、レギュラスが囲い込んだ可決票が過半数をはるかに超え、議場は静寂のまま可決成立を迎えた。
沈黙。
その静けさを切り裂くように、魔法省高官たちの間で小さく息を呑む音が響く。
一方でレギュラスは、その中心でただ冷ややかな表情を保っていた。
政治とは、理想論で動くものではない。
魔法族と魔力を持たぬマグルが永遠に対等であるなど――幻想に過ぎない。
新法が掲げる「狼人間の食殺対象をマグルに限る」という条項は、残酷であることは承知の上だった。
だが同時に、その“残酷さ”こそ現実を支える仕組みなのだ。
マグル界に提供される補償金――そして、その裏で動く莫大なマグル側の利権者たち。
犠牲となったマグルの数に比例してまとまった金が渡される以上、マグル側の政治家たちも黙ってはいない。
反対どころか、むしろ“承認”という形でこの法案を後押ししてきた。
誰もが利益のために人間を“数”として見ている。
その皮肉が、魔法界の表と裏を滑らかに結びつける。
レギュラスは――この世界の構造そのものを、誰よりもよく理解していた。
可決の瞬間、議場の端で沈んだ表情を見せていたのは騎士団の若い魔法使いたちだった。
一面を飾ったばかりの“英雄”――シリウス・ブラック、ジェームズ・ポッター。
狼人間からマグルの子供たちを救ったあの功績は輝かしいものだった。
だが、現実は違う。
彼らが救い出した数名のマグルの子供たちの背後には、これから“差し出される”数十、数百のマグルが存在している。
彼らには、その未来が見えていないだけだ。
――あの子たちを救うことで、何が変わると?
――魔法族と狼人間の暴走を止められるとでも?
愚かだ、とレギュラスは思う。
理想だけでは、この世界は回らない。
議席の反対側で、シリウスが机を叩きつける低い音が響く。
ジェームズも激昂を隠さず、議員たちを睨みつけている。
狼人間“抑制”という彼らの理念は、議決によって完全に否定された。
――抑制で世界を守れると思うなら、夢の中でなさい。
レギュラスは喉の奥で笑いを噛み殺した。
もしここで嘲るように笑ってしまえば、アランがどれほど悲しむだろう。
だからこそ、その愉悦は胸の内だけに留めた。
狼人間を“抑える”のではなく、
狼人間に“差し出してよい命”を用意する。
その結果生まれる安定と均衡。
その構造にマグル界・魔法界双方が利益を見出している現実。
――これこそ共存だ。
レギュラスは静かに目を伏せた。
光と闇、魔力のある者とない者――
優位と劣位の境界ははっきりと線引きされるべきなのだ。
血と理は、決して混ざらない。
だからこそ世界はうまく回る。
この世界の“正しさ”を決めるのは、
騎士団の理想でも、シリウスの義憤でもない。
――レギュラス・ブラックの理なのだ。
その確信を胸に、レギュラスは議場をあとにした。
灰銀の瞳には冷徹な光だけが宿り――
その背中は、揺らぎなく、静かに勝者の歩みを進めていた。
狼人間への食殺許可法――
その可決は、まるで炎のように魔法界を駆け巡った。
翌朝には新聞の一面を飾り、街角の談話室でも、大通りの魔法喫茶でも、その名が囁かれぬ場所はなかった。
“ついに法律として認められた”という文言が、醜悪なほど大きな見出しで踊っている。
アランは震える指先で新聞を折りたたいた。
紙面に触れる手は冷えていたが、胸の奥は熱を帯び、息がしづらくなるほどの恐怖で満ちていた。
――狼人間。
その二文字だけで、胸の内に深い影が落ちていく。
かつて、ヴォルデモートの監視下に置かれていた頃。
あの地下牢に、グレイバックという狼男が姿を見せたことがある。
獣が人の皮を被ったような男だった。
肩幅は扉の枠に触れるほど逞しく、皮膚の下で脈打つ筋肉の動きまでもが恐ろしく、近づくだけで息が詰まりそうだった。
あのとき、アランは本気で“食われる”と思った。
だが、グレイバックが牙を立てたのは、アランの肉そのものではなかった。
そのかわりに奪われたのは、もっと深く、もっと取り返しのつかないものだった。
あの乱暴な手つき。
自分の体ではなく、尊厳が裂かれていく感覚。
気を失いかけながら、アランは何度も思った。
――いっそこのまま、噛み殺してくれたほうがマシだと。
その記憶が、新聞の見出しとともに蘇る。
胸の奥が押しつぶされたように痛む。
そんな獣に――マグルを食わせるための法律だという。
それを“共存”の名で正当化しようとしている。
人としての倫理を、どこに置いてきてしまったのだろう。
力のある者が、力のない者を狩ることを正しいとする世界。
アランの知る“外の世界”はそんなものではなかった。
地下に閉じ込められ、暴力にさらされたあの日々のほうが、まだ“理不尽”として理解しやすかった。
だが――これはどう言い訳をしても、ただの“合法化された殺害”だ。
それも無力な存在に対して。
メイラの顔が浮かぶ。
あの小さな体を抱きしめた時の温かさを、今も腕が覚えている。
細い腕。
軽い体。
黒く輝く瞳の奥に宿る、未来への希望。
そのすべてがあまりにも脆く、守りたくなるほど小さかった。
――もし、あの子が狼人間の餌食になったとしたら?
アランの視界が揺れた。
床に落ちる涙が、小さく音を立てる。
耐えられるはずがない。
世界で一番守りたいと思った存在を、あんな獣に食われる未来など。
考えただけで息ができなくなるほど苦しい。
アランは腹を抱えながら、必死に呼吸を整えた。
胸の奥で赤子が反応するように動く。
自分の苦しみを感じ取っているのかもしれないと思うと、さらに胸が詰まった。
世界は変わってしまった。
レギュラスの信じる理も、騎士団の求める理想も、アランには遠くの世界の言葉のように見えた。
ただひとつ確かなことがある。
――あの少女を、絶対に犠牲にさせてはいけない。
アランはそっと手を胸に当てた。
声を失った喉は何も発せないけれど。
その祈りだけは、強く、確かに胸の底に灯り続けていた。
リーマスは、握りしめた拳の中に爪が食い込むほど強く力を入れていた。
つい先日、シリウスとジェームズが命を懸けて救い出したばかりのマグルの子供たち――あの震えた肩、怯えた瞳、必死に助けを求めるか細い声。
その一つひとつを思い出すだけで、胸が痛む。
その子供たちが未来に歩き出そうとしていた矢先に、突きつけられたのがこれだ。
“狼人間への食殺許可法”の可決。
紙面に刻まれた文字を読むたび、胃の底が重く沈むようだった。
――まさか、本当に成立してしまうなんて。
吐き出した息は震えていた。
こんなものを許してはならない。
それは魔法倫理の崩壊であり、文明の否定であり、人間としての線を越えた暴挙だ。
だが現実は、あまりに残酷だった。
可決に票を投じたのは魔法界の保守派だけではない。
マグル界の政治家までもが、魔法界からの資金供与に目が眩み、この悪法に賛成したという。
騎士団を支持し、ともに未来を築こうとするマグルもいる。
ただ、金によって動き、弱き者を数として換算する者もいる。
闇は深い。
境界線は、もはやどちらの世界にも存在していない。
リーマスは目を伏せた。
――噛まれたあの日。
あれを境に、自分の人生は一変した。
満月の夜、記憶のないまま目覚めるたび、血の匂いに怯えた。
傷ついて泣き叫ぶ誰かが、自分の牙によって傷ついたのではないか、と。
自分が知らぬ間に誰かの大切な人を奪ってしまったのではないか、と。
あの恐怖は、今も骨の髄に染みついている。
だからこそ――狼人間を“ただの獣”として扱う発想が、あまりにも恐ろしかった。
完全に狼と化した者たちの心には、本当に一片の倫理も残っていないのか。
それとも、彼らの中にも叫びたいほどの葛藤があるのか。
生きていく選択肢が奪われた結果、凶暴性だけが表面に残ったのか。
答えはない。
ただ一つわかるのは、この法律が“誰かの命を数字として扱う世界”を肯定したのだということだけだった。
そして――議会の中央に立つその男を見た瞬間、リーマスの背筋は凍りついた。
レギュラス・ブラック。
可決の報告を受けた議場の中央で、冷たく、満足げに微笑むその顔。
整った容貌は彫刻のように美しく、灰銀の瞳は一切揺らがない。
そこには迷いも、怒りも、憐れみもなかった。
ただ淡々と“正しい結論が導かれた”という冷徹な確信だけが宿っていた。
リーマスは喉の奥がカラカラになるのを感じた。
――この男は、本当に父親になるのか?
あまりにも恐ろしい。
自分ではない、どこか別の次元の存在のようで。
理性も倫理も、美徳も信念も、すべてが美しく整えられていながら、肝心な部分が完全に凍りついている。
人の痛みに手を伸ばす前に、その痛みを“必要な犠牲”として片付けることができる男。
誰かの涙を、“合理的な計算”の一部として扱える男。
レギュラス・ブラック。
その名を思い出すだけで、リーマスの喉は強ばり、呼吸が浅くなる。
生理的に――心の底から恐ろしい。
その男が、新たな命の父となるのだと思うと、
寒気にも似た震えが背骨を這い上がってきた。
魔法省の廊下は、冬の始まりを思わせるように澄んだ冷気が漂っていた。石造りの床に響く革靴の音は、理性の硬質さをそのまま形にしたようで、レギュラスは今日も寸分の狂いなく執務へ向かっていた。
そのときだった。
控えめではあるが、確かな声がその歩みを止めた。
「Mr.ブラック……すまない、少し話を」
振り向くと、そこに立っていたのはリーマス・ルーピンだった。
穏やかな表情、少し翳りを帯びた琥珀色の瞳。
かつてホグワーツで数度顔を合わせたきりだったが、監督生同士の集まりで見た柔らかな物腰と静かな気配は、そのままだった。
シリウスやジェームズが纏う、真っ直ぐすぎて鬱陶しい光ではなく、彼には理性的な冷静さがある。
レギュラスは歩みを止め、余計な感情を挟まずに問うた。
「……なんでしょう」
「君と話すのは久しぶりだ。ホグワーツ以来なんじゃないかな」
「用件を」
切り込むような冷たさだった。無駄な会話は必要ない。
リーマスは一瞬だけ言葉を選ぶように目を伏せ、それでも真っ直ぐに見据えてきた。
「新法は撤回すべきだ。我々騎士団は、新法廃止のために動かせてもらう」
――まさかそれを言うために自分を呼び止めたのか。
レギュラスは心底呆れ、しかしその感情すら表情に出さず、持っていたコーヒーのグラスを音もなくテーブルに置いた。
「可決したのは僕ではありませんよ。撤廃運動はお好きにどうぞ、Mr.ルーピン」
「だが、可決票を集めたのは君だろう。……マグルの役人まで巻き込んでいたとは、さすがだ」
皮肉の響きを孕んだ声。
レギュラスはうっすらと口角を上げた。笑みと言うより、ただの嘲り。
「綺麗事だけで生きていける世界ではないでしょう。僕ら法務部の使命は、互いの譲歩のうえに成り立つ“現実的な世界”の構築です」
声は氷のように静かで、揺るぎの一つもなかった。
レギュラスは身を翻し、礼だけを残して立ち去ろうとした。
だが、その背に追い縋るような声が響く。
「君は――あんな恐ろしい法律の可決にサインした手で、これから生まれてくる子を抱くのかい?」
レギュラスの足が止まる。
「君の子が、いつか何かの犠牲になるかもしれない……そんな未来を想像して、苦しくはないのか?」
リーマスの声は震えていた。
怒りでも憎しみでもない。
ただ深い悲しみのような、胸を掴まれるほどの痛切な感情がそこにあった。
レギュラスは静かに振り返る。
その瞳には哀れみも揺らぎもない。ただ、薄く笑った。
「ご心配なく」
一語一語、刃物のように研ぎ澄まされていた。
「ブラック家の血を継ぐ我が子は、誇りを最も重要視するように育てます。父が何を思い、何を選択したのか――理解できるだけの教育を施すつもりです」
リーマスの表情が固まった。
その目に浮かんだのは絶望にも似た沈黙。
レギュラスは深く礼をし、今度こそ背を向けた。
「失礼」
それだけを残して去る。
背中には何もまとわりつかない。後悔も、動揺も、迷いもなかった。
歩きながら、レギュラスは静かに思う。
……そんなことを心配されるとは。自分も落ちぶれたものだな
だが、答えは簡単だ。
ブラック家の子が、狼人間の食殺許可法を反対するような魔法使いになるはずがない。
血統を誇り、魔法界を導く未来を生きる。
それは決意ではなく、確定された運命だ。
そして――
自分の子供が犠牲になる未来を恐れる弱さなど、あの夜の闇でとうに捨ててきたのだ。
マグル保護施設の薄明るい廊下で、メイラはいつもと同じ時間に扉の前へ立ち、そっと耳を澄ませる癖がついていた。
けれど――足音は聞こえない。
軽いノックの音も、花の香りをまとったドレスの揺れる気配も、もうしばらく訪れていなかった。
メイラは寂しさに胸を締めつけられながらも、理由は理解していた。
アランのお腹はあの日、驚くほど大きく膨らんでいた。
きっと今ごろは、お産に入っているのだろうと。
どんな子が生まれるのだろうか。
メイラの胸には、温かい期待が静かに膨らんだ。
レギュラスブラック――あの圧倒的で近づきがたいほどの美貌を湛えた魔法使い。
アランブラック――翡翠色の瞳を優しく揺らし、触れるだけで胸の奥を温かくしてくれた魔法使い。
その二人の子ならきっと、誰もが息を呑むほど美しい魔法使いが生まれる。
魔力の光を纏って生まれてくるような、そんな子かもしれない。
――見てみたい。
メイラは思った。
見られるはずもないのに、願いのように胸の中で灯ってしまう。
けれど、胸の奥にはもうひとつの感情が生まれていた。
黒く、小さく、見たくないのに勝手に膨らむ影のようなもの。
―― アランさん、もう来てくれないのかな。
子どもが生まれれば、アランは忙しくなる。
抱きしめる腕も、微笑んでくれる瞳も、すべてその子に向けられるようになるだろう。
そんなの当たり前だ。
アランは自分の母になるのだから。
それでも――
自分が忘れられてしまう未来を想像すると、胸の奥が痛くなる。
張り裂けるような苦しさが込み上げてくる。
自分はマグルで、魔力など一つも持たない。
ここにいる子どもたちの中でさえ、とるに足らない存在だ。
アランブラックやレギュラスブラックと並べることなど、許されるはずがなかった。
比べるなんて――
本当はしてはいけない。
恐れ多い。
そんなこと、分かっているはずなのに。
きれいなものを好きになってしまうと、人は弱くなる。
アランの微笑みに触れたときの温かさを、一度でも知ってしまったからこそ。
自分の中に芽生えた小さな黒い影が、こんなにも恐ろしく思える。
こんな感情を持つ自分が醜い気がして、涙がこぼれそうになる。
――忘れないでほしい。
そんなこと、言えるはずもないのに。
メイラは胸の奥でそっと呟き、膝を抱えた。
薄暗い窓の外では、魔法界の夜空が静かに瞬いている。
その光を見上げながら、彼女はただ、アランの無事と――
いつかまた会える未来を、ひたすらに願った。
屋敷の広間に差し込む午前の光は柔らかく、静けさは絹のように張りつめていた。
アランは、膨らんだ腹をそっと抱えるようにしながら、テーブルの上に広げられた魔法新聞へ視線を落とした。
――騎士団、狼人間の襲撃からマグルの子供たちを救出。
大きな見出しの下に、シリウス・ブラックとジェームズ・ポッターの映像写真が並んでいた。
二人とも堂々とした姿勢で立ち、迷いのない瞳でその使命を語っている。
正義という言葉が、真正面からその瞳の奥に宿っているようだった。
アランは指先でシリウスの顔に触れるようになぞった。
あの夜、窓辺に現れた彼の姿が胸の奥深くに蘇る。
“すまねぇ、もう行くよ。”
そう言って背を向けた青年の面影が、新聞の中の凛々しい男となって刻まれていた。
レギュラスに知られてはならない。
あの隔たりの深さは、触れれば切れる刃のようで、軽々しく踏み越えてはならないものだ。
だからアランは、震える杖で「来ないで」と告げた。
それがどれほど彼を傷つけても、これ以上二人を追い詰めることはできなかった。
思い返す。
あの日の湖の光景を。
シリウスが自分を箒に乗せて空へ連れ出してくれたのは、太陽が高く登っていた昼のことだった。
陽光はやわらかく湖面に散り、きらきらと反射していて、あたりは光の粒が揺れるような美しさだった。
眩しさよりも温かさの勝る風が頬を撫で、広がる青空は果てしなくて、胸の奥がほどけていくようだった。
昼の空は、恐ろしい世界しか知らないアランにとって“初めて見る自由の色”だった。
世界がこんなにも広く明るいということを、その時初めて知った。
自由とは、こんなにも優しく、こんなにも胸を震わせるものなのだ。
今、新聞に映るシリウスの腕の中には、怯えるマグルの子どもがいる。
その子に、彼はどんな景色を見せてやるのだろう。
どんな“空”を、どんな“未来”を、その子に教えるのだろう。
シリウスは光だ。
迷い子を導き、閉ざされた世界の扉を、ひらりと開けてしまう人だ。
アラン自身もかつて、その光に触れ、息を呑むほど救われた。
だからこそ――胸が痛む。
自分はもう、その光の傍にはいけない。
シリウスが振り返る先に、自分の姿はなくてもいい。
彼が誰かを救い続けるのなら、自分は遠くからただ祈るだけでいい。
震える指先で、新聞のシリウスの瞳をそっとなぞる。
“どうか……どうか、あなたの光が、小さな子供たちを未来へ導き続けていますように。”
アランはそう願い、新聞を静かに胸に抱きしめた
レギュラスは、屋敷のダイニングテーブルに無造作に広げられていた魔法新聞を手に取った瞬間、その胸の奥で何かがざらりと逆立つのを感じた。
一面を飾っているのは――騎士団の華々しい活躍。
狼人間の襲撃からマグルの子供たちを救い出し、“英雄”として写るシリウス・ブラックとジェームズ・ポッターの姿だった。
静かに息を吸う。
そして、何も言わず掌を新聞にかざす。
呪文を唱える必要すらない。レギュラスの魔力は思考に呼応し、新聞はふっと赤い光を帯び、音もなく黒い灰へと変わっていった。
本来であれば、こんな高度な無詠唱魔法は職務上の戦略のために鍛えた力だ。
しかし今は、ただ嫉妬にも似た苛立ちの発火装置としてしか働いていない自分が、情けなくもあった。
屋敷の者が置いたのだから、おそらくアランも同じ記事を目にしているはずだ。
あの優しい翡翠の瞳は、シリウスの輝く写真を見てどんな色を宿したのだろう。
――あの男をまだ、あの頃のように見つめているのか。
アランはいつものように静かに、控えめに、何も知らないふりをしていた。
それが白々しいと感じてしまうほどには、自分の心がざわついていた。
怒りではない。
嫉妬でもない。
もっと厄介で、もっと弱くて、もっと惨めな種類の揺らぎだった。
アランにぶつけるわけにはいかない。
彼女は今、腹を抱えて必死に耐えている。
地下の闇から救い出したあの夜のように、苦しみから守ってやらなければならない存在なのだ。
自分の小ささを――彼女にだけは見せたくなかった。
レギュラスは深く呼吸し、感情を押し沈めた。
「アラン、今日はどうでした?」
努めて穏やかな声で問いかける。
アランはふわりと微笑み、杖を握る指先を少し震わせながら空中に文字を描いた。
――よく蹴りました。
「そうですか……」
レギュラスの胸に温かさが満ちる。
「どんな元気な子なんでしょうね。楽しみです。」
そう言ってアランの腹にそっと手を置くと、すぐに応えるように赤子が踏み返してきた。
柔らかい布越しに伝わるその一撃は驚くほど力強く、生きる意志が宿っていると実感させられる。
――これは、希望だ。
――これは、生き延びた意味だ。
男児だろうか。
当てにならぬ迷信だとわかっている。
それでも、願わずにはいられない。
腹の中の命が、未来のすべてを切り拓く鍵であるのだから。
アランはそんなレギュラスの想いを知らないまま、ただ穏やかに、愛おしげに自分の腹を撫でていた。
翡翠色の瞳は、静かに未来を信じている。
その横顔が――自分をどれほど救っているか、アランは知らない。
燃やした新聞の灰がまだ暖かい。
レギュラスはアランの手にそっと触れ、ようやく呼吸を整えた。
彼女が傍にいる限り、どんな苛立ちも、どれほどの闇も、飲み込める気がした。
魔法省議事堂の中心に置かれた巨大な円卓――そこに刻まれる古い紋章は、数百年もの間、魔法界の理と権威を象徴し続けてきた。
その上で、今日またひとつ、重い法が制定された。
狼人間への“食殺許可法”。
長い協議の末、レギュラスが囲い込んだ可決票が過半数をはるかに超え、議場は静寂のまま可決成立を迎えた。
沈黙。
その静けさを切り裂くように、魔法省高官たちの間で小さく息を呑む音が響く。
一方でレギュラスは、その中心でただ冷ややかな表情を保っていた。
政治とは、理想論で動くものではない。
魔法族と魔力を持たぬマグルが永遠に対等であるなど――幻想に過ぎない。
新法が掲げる「狼人間の食殺対象をマグルに限る」という条項は、残酷であることは承知の上だった。
だが同時に、その“残酷さ”こそ現実を支える仕組みなのだ。
マグル界に提供される補償金――そして、その裏で動く莫大なマグル側の利権者たち。
犠牲となったマグルの数に比例してまとまった金が渡される以上、マグル側の政治家たちも黙ってはいない。
反対どころか、むしろ“承認”という形でこの法案を後押ししてきた。
誰もが利益のために人間を“数”として見ている。
その皮肉が、魔法界の表と裏を滑らかに結びつける。
レギュラスは――この世界の構造そのものを、誰よりもよく理解していた。
可決の瞬間、議場の端で沈んだ表情を見せていたのは騎士団の若い魔法使いたちだった。
一面を飾ったばかりの“英雄”――シリウス・ブラック、ジェームズ・ポッター。
狼人間からマグルの子供たちを救ったあの功績は輝かしいものだった。
だが、現実は違う。
彼らが救い出した数名のマグルの子供たちの背後には、これから“差し出される”数十、数百のマグルが存在している。
彼らには、その未来が見えていないだけだ。
――あの子たちを救うことで、何が変わると?
――魔法族と狼人間の暴走を止められるとでも?
愚かだ、とレギュラスは思う。
理想だけでは、この世界は回らない。
議席の反対側で、シリウスが机を叩きつける低い音が響く。
ジェームズも激昂を隠さず、議員たちを睨みつけている。
狼人間“抑制”という彼らの理念は、議決によって完全に否定された。
――抑制で世界を守れると思うなら、夢の中でなさい。
レギュラスは喉の奥で笑いを噛み殺した。
もしここで嘲るように笑ってしまえば、アランがどれほど悲しむだろう。
だからこそ、その愉悦は胸の内だけに留めた。
狼人間を“抑える”のではなく、
狼人間に“差し出してよい命”を用意する。
その結果生まれる安定と均衡。
その構造にマグル界・魔法界双方が利益を見出している現実。
――これこそ共存だ。
レギュラスは静かに目を伏せた。
光と闇、魔力のある者とない者――
優位と劣位の境界ははっきりと線引きされるべきなのだ。
血と理は、決して混ざらない。
だからこそ世界はうまく回る。
この世界の“正しさ”を決めるのは、
騎士団の理想でも、シリウスの義憤でもない。
――レギュラス・ブラックの理なのだ。
その確信を胸に、レギュラスは議場をあとにした。
灰銀の瞳には冷徹な光だけが宿り――
その背中は、揺らぎなく、静かに勝者の歩みを進めていた。
狼人間への食殺許可法――
その可決は、まるで炎のように魔法界を駆け巡った。
翌朝には新聞の一面を飾り、街角の談話室でも、大通りの魔法喫茶でも、その名が囁かれぬ場所はなかった。
“ついに法律として認められた”という文言が、醜悪なほど大きな見出しで踊っている。
アランは震える指先で新聞を折りたたいた。
紙面に触れる手は冷えていたが、胸の奥は熱を帯び、息がしづらくなるほどの恐怖で満ちていた。
――狼人間。
その二文字だけで、胸の内に深い影が落ちていく。
かつて、ヴォルデモートの監視下に置かれていた頃。
あの地下牢に、グレイバックという狼男が姿を見せたことがある。
獣が人の皮を被ったような男だった。
肩幅は扉の枠に触れるほど逞しく、皮膚の下で脈打つ筋肉の動きまでもが恐ろしく、近づくだけで息が詰まりそうだった。
あのとき、アランは本気で“食われる”と思った。
だが、グレイバックが牙を立てたのは、アランの肉そのものではなかった。
そのかわりに奪われたのは、もっと深く、もっと取り返しのつかないものだった。
あの乱暴な手つき。
自分の体ではなく、尊厳が裂かれていく感覚。
気を失いかけながら、アランは何度も思った。
――いっそこのまま、噛み殺してくれたほうがマシだと。
その記憶が、新聞の見出しとともに蘇る。
胸の奥が押しつぶされたように痛む。
そんな獣に――マグルを食わせるための法律だという。
それを“共存”の名で正当化しようとしている。
人としての倫理を、どこに置いてきてしまったのだろう。
力のある者が、力のない者を狩ることを正しいとする世界。
アランの知る“外の世界”はそんなものではなかった。
地下に閉じ込められ、暴力にさらされたあの日々のほうが、まだ“理不尽”として理解しやすかった。
だが――これはどう言い訳をしても、ただの“合法化された殺害”だ。
それも無力な存在に対して。
メイラの顔が浮かぶ。
あの小さな体を抱きしめた時の温かさを、今も腕が覚えている。
細い腕。
軽い体。
黒く輝く瞳の奥に宿る、未来への希望。
そのすべてがあまりにも脆く、守りたくなるほど小さかった。
――もし、あの子が狼人間の餌食になったとしたら?
アランの視界が揺れた。
床に落ちる涙が、小さく音を立てる。
耐えられるはずがない。
世界で一番守りたいと思った存在を、あんな獣に食われる未来など。
考えただけで息ができなくなるほど苦しい。
アランは腹を抱えながら、必死に呼吸を整えた。
胸の奥で赤子が反応するように動く。
自分の苦しみを感じ取っているのかもしれないと思うと、さらに胸が詰まった。
世界は変わってしまった。
レギュラスの信じる理も、騎士団の求める理想も、アランには遠くの世界の言葉のように見えた。
ただひとつ確かなことがある。
――あの少女を、絶対に犠牲にさせてはいけない。
アランはそっと手を胸に当てた。
声を失った喉は何も発せないけれど。
その祈りだけは、強く、確かに胸の底に灯り続けていた。
リーマスは、握りしめた拳の中に爪が食い込むほど強く力を入れていた。
つい先日、シリウスとジェームズが命を懸けて救い出したばかりのマグルの子供たち――あの震えた肩、怯えた瞳、必死に助けを求めるか細い声。
その一つひとつを思い出すだけで、胸が痛む。
その子供たちが未来に歩き出そうとしていた矢先に、突きつけられたのがこれだ。
“狼人間への食殺許可法”の可決。
紙面に刻まれた文字を読むたび、胃の底が重く沈むようだった。
――まさか、本当に成立してしまうなんて。
吐き出した息は震えていた。
こんなものを許してはならない。
それは魔法倫理の崩壊であり、文明の否定であり、人間としての線を越えた暴挙だ。
だが現実は、あまりに残酷だった。
可決に票を投じたのは魔法界の保守派だけではない。
マグル界の政治家までもが、魔法界からの資金供与に目が眩み、この悪法に賛成したという。
騎士団を支持し、ともに未来を築こうとするマグルもいる。
ただ、金によって動き、弱き者を数として換算する者もいる。
闇は深い。
境界線は、もはやどちらの世界にも存在していない。
リーマスは目を伏せた。
――噛まれたあの日。
あれを境に、自分の人生は一変した。
満月の夜、記憶のないまま目覚めるたび、血の匂いに怯えた。
傷ついて泣き叫ぶ誰かが、自分の牙によって傷ついたのではないか、と。
自分が知らぬ間に誰かの大切な人を奪ってしまったのではないか、と。
あの恐怖は、今も骨の髄に染みついている。
だからこそ――狼人間を“ただの獣”として扱う発想が、あまりにも恐ろしかった。
完全に狼と化した者たちの心には、本当に一片の倫理も残っていないのか。
それとも、彼らの中にも叫びたいほどの葛藤があるのか。
生きていく選択肢が奪われた結果、凶暴性だけが表面に残ったのか。
答えはない。
ただ一つわかるのは、この法律が“誰かの命を数字として扱う世界”を肯定したのだということだけだった。
そして――議会の中央に立つその男を見た瞬間、リーマスの背筋は凍りついた。
レギュラス・ブラック。
可決の報告を受けた議場の中央で、冷たく、満足げに微笑むその顔。
整った容貌は彫刻のように美しく、灰銀の瞳は一切揺らがない。
そこには迷いも、怒りも、憐れみもなかった。
ただ淡々と“正しい結論が導かれた”という冷徹な確信だけが宿っていた。
リーマスは喉の奥がカラカラになるのを感じた。
――この男は、本当に父親になるのか?
あまりにも恐ろしい。
自分ではない、どこか別の次元の存在のようで。
理性も倫理も、美徳も信念も、すべてが美しく整えられていながら、肝心な部分が完全に凍りついている。
人の痛みに手を伸ばす前に、その痛みを“必要な犠牲”として片付けることができる男。
誰かの涙を、“合理的な計算”の一部として扱える男。
レギュラス・ブラック。
その名を思い出すだけで、リーマスの喉は強ばり、呼吸が浅くなる。
生理的に――心の底から恐ろしい。
その男が、新たな命の父となるのだと思うと、
寒気にも似た震えが背骨を這い上がってきた。
魔法省の廊下は、冬の始まりを思わせるように澄んだ冷気が漂っていた。石造りの床に響く革靴の音は、理性の硬質さをそのまま形にしたようで、レギュラスは今日も寸分の狂いなく執務へ向かっていた。
そのときだった。
控えめではあるが、確かな声がその歩みを止めた。
「Mr.ブラック……すまない、少し話を」
振り向くと、そこに立っていたのはリーマス・ルーピンだった。
穏やかな表情、少し翳りを帯びた琥珀色の瞳。
かつてホグワーツで数度顔を合わせたきりだったが、監督生同士の集まりで見た柔らかな物腰と静かな気配は、そのままだった。
シリウスやジェームズが纏う、真っ直ぐすぎて鬱陶しい光ではなく、彼には理性的な冷静さがある。
レギュラスは歩みを止め、余計な感情を挟まずに問うた。
「……なんでしょう」
「君と話すのは久しぶりだ。ホグワーツ以来なんじゃないかな」
「用件を」
切り込むような冷たさだった。無駄な会話は必要ない。
リーマスは一瞬だけ言葉を選ぶように目を伏せ、それでも真っ直ぐに見据えてきた。
「新法は撤回すべきだ。我々騎士団は、新法廃止のために動かせてもらう」
――まさかそれを言うために自分を呼び止めたのか。
レギュラスは心底呆れ、しかしその感情すら表情に出さず、持っていたコーヒーのグラスを音もなくテーブルに置いた。
「可決したのは僕ではありませんよ。撤廃運動はお好きにどうぞ、Mr.ルーピン」
「だが、可決票を集めたのは君だろう。……マグルの役人まで巻き込んでいたとは、さすがだ」
皮肉の響きを孕んだ声。
レギュラスはうっすらと口角を上げた。笑みと言うより、ただの嘲り。
「綺麗事だけで生きていける世界ではないでしょう。僕ら法務部の使命は、互いの譲歩のうえに成り立つ“現実的な世界”の構築です」
声は氷のように静かで、揺るぎの一つもなかった。
レギュラスは身を翻し、礼だけを残して立ち去ろうとした。
だが、その背に追い縋るような声が響く。
「君は――あんな恐ろしい法律の可決にサインした手で、これから生まれてくる子を抱くのかい?」
レギュラスの足が止まる。
「君の子が、いつか何かの犠牲になるかもしれない……そんな未来を想像して、苦しくはないのか?」
リーマスの声は震えていた。
怒りでも憎しみでもない。
ただ深い悲しみのような、胸を掴まれるほどの痛切な感情がそこにあった。
レギュラスは静かに振り返る。
その瞳には哀れみも揺らぎもない。ただ、薄く笑った。
「ご心配なく」
一語一語、刃物のように研ぎ澄まされていた。
「ブラック家の血を継ぐ我が子は、誇りを最も重要視するように育てます。父が何を思い、何を選択したのか――理解できるだけの教育を施すつもりです」
リーマスの表情が固まった。
その目に浮かんだのは絶望にも似た沈黙。
レギュラスは深く礼をし、今度こそ背を向けた。
「失礼」
それだけを残して去る。
背中には何もまとわりつかない。後悔も、動揺も、迷いもなかった。
歩きながら、レギュラスは静かに思う。
……そんなことを心配されるとは。自分も落ちぶれたものだな
だが、答えは簡単だ。
ブラック家の子が、狼人間の食殺許可法を反対するような魔法使いになるはずがない。
血統を誇り、魔法界を導く未来を生きる。
それは決意ではなく、確定された運命だ。
そして――
自分の子供が犠牲になる未来を恐れる弱さなど、あの夜の闇でとうに捨ててきたのだ。
