1章
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バーテミウス・クラウチJr.は、法務部の長い廊下を足音軽く歩きながら、隣を進むレギュラスの横顔をちらりと盗み見た。
意図せず漏れそうになる笑いを喉の奥で押し殺す。だがその口元には、どうしても消しきれない愉悦の弧が残っていた。
「聞きましたよ。先日の——あのマグルの少女を、マグル保護委員会に託したんですって?」
その声音には敬意を装いながらも、明らかなからかいが滲む。
レギュラスは深く息を吐いた。
「……まったく。あなたがアランと少女を鉢合わせさせたせいで、僕はとんでもない目に遭いましたよ」
その声音は冷静を保っていたが、眉間の皺がいつもより深かった。
バーテミウスは肩を震わせるほど愉快だった。想像は容易かったのだ。あの純白のように無垢なアランブラックと、孤独で傷だらけのマグルの少女が出会ったとき、何が起きるのかを。
アランは、幼い頃から闇の帝王の地下牢に閉じ込められ、世界の理を知らないまま成長した。
だからこそ、苦しむ者を見捨てるという選択肢が、彼女の辞書のどこにも存在しない。
彼女は“救う”以外の道を選べない。
一方のレギュラスは違う。
生まれながら純血の頂点――ブラック家に属し、名誉を背骨に育て上げられた男だ。
情よりも名、理想よりも体制を選ぶよう教育された男。
そんな二人が交わしたであろう会話が、容易に脳裏に浮かぶ。
アランがあの少女を救いたいと懇願し、
レギュラスが魔法界の秩序を守るために必死に拒み、
それでもアランの涙に揺さぶられていく――。
その光景を想像するだけで、バーテミウスは腹を抱えて笑いたくなった。
「いやはや、驚きましたよ」
バーテミウスは軽快に続けた。
「純血の象徴とも言えるブラック家のご当主が、マグル保護委員会なんて……っ」
言葉の続きを笑い声に呑まれないよう、わざと咳払いを挟む。
レギュラスは冷ややかな目を向けた。
「あなたのせいで、あれが最も現実的な選択になったのです。ほかに道はなかった」
その言葉の裏には、どれほどの譲歩が詰まっているのか。
純血主義の中心に立つ家の跡取りが、非魔法族の少女を“保護委員会”に送り込むなど、本来あるまじき決断だった。
だがバーテミウスにとっては、それがたまらなく愉快だった。
「いや、それにしても……」
彼は喉を鳴らすように笑い、
「ブラック家の時期当主が、マグル保護委員会の門を叩くなんて。ああ……なんと素晴らしい喜劇でしょうね」
法務部の光の差さない廊下に、バーテミウスが押し殺した笑い声が静かに、しかし鮮烈に響いた。
レギュラスは前だけを見据えたまま歩く。
その横顔は、バーテミウスを諫めもせず、怒りも見せず――
ただただ、静かに疲弊していた。
バーテミウスはそれを見逃さなかった。
そして、さらに口元を綻ばせた。
――レギュラスブラック。
あなたほど高潔に見せかけて、誰よりも矛盾に塗れていく男はいない。
その矛盾こそが、バーテミウスにとって何よりの娯楽だった。
メイラが新しい部屋へと案内されたのは、曇り空の昼下がりだった。
マグル保護委員会が運営する“保護育成施設”――名は立派だが、そこは魔法界の理に沿って非魔法族の子どもたちを管理し、教育し、魔法族に「役立つ人材」として育て上げる場だった。
だが、それを知らないメイラにとって、ここはただ「魔法使いに選ばれた子どもたちの場所」だった。
彼女の胸には、未だあの屋敷の空気が残っている。
――レギュラス・ブラック。
自分を救い、ここへ送り出してくれたという“魔法使い”。
医務魔法使いが彼の名を告げたとき、メイラは思わず息を呑んだ。
魔法界でも指折りの名家・ブラック家。その当主となる人物が、自分のような名もなきマグルの娘を救ってくれたというのだ。
信じられない。
けれど――確かに、あの目で見たのだ。
屋敷で言いつけを破って廊下に出たあの日。
薄暗い石造りの廊下を歩いていた彼女は、ふと息を止めた。
そこに“いた”のだ。
まるで彫像がそのまま歩き出したような、端正な顔立ち。
青でも灰でも銀でもない、不思議な色を湛えた瞳が静かにゆらめき、灯りを反射して冷たい光を宿していた。
真っ直ぐに伸びた背は、騎士のように揺るがず、細身でありながらも、纏う気配は圧倒的に強かった。
歩くたび衣の裾が静かに揺れ、空気までもが彼の軌跡をもたらすように整う――。
“魔法使い”とは、こういう人を言うのだと、心がひれ伏した。
「部屋に戻りなさい。屋敷には危険がたくさんあります」
その声は驚くほど静かで、冷たいほどに美しかった。
「あなたが……私を助けてくれた魔法使いさんなの?」
思わず聞いた言葉に、彼は答えなかった。
だが、答える必要などなかった。
メイラは理解してしまったのだ。
“この人しかいない”と。
その圧倒的な存在感こそが、メイラの命を救った魔法使いそのものだった。
「アランさんは……? 会いたいわ」
あの、優しくて、美しくて、泣きながら笑ってくれる魔法使いの女性。
「彼女は部屋で休んでいます。さあ、あなたも戻りなさい」
柔らかな拒絶――それでもメイラは嬉しかった。
アラン・ブラック――
翡翠の瞳で優しく寄り添ってくれたあの女性。
声を持たないはずなのに、彼女の紡ぐ杖の文字は、誰よりもまっすぐ心に響いた。
レギュラス・ブラックとアラン・ブラック。
二人とも、この世の人とは思えないほど美しくて……まるで童話から抜け出してきた魔法使い夫婦だった。
いつかまた会いたい――
そう願いながら、メイラは新しい施設へと送られた。
マグル保護委員会の施設は広かった。
大きな窓、陽当たりの良い中庭、簡素だけれど清潔な部屋。
同じようにマグルの世界から連れてこられた子どもたちがたくさんいて、年齢も境遇もバラバラだった。
マグル界での暮らしよりずっと豊かで、衣食住も整っている。
大人たちは優しかったし、魔法界のこともたくさん教えてくれた。
けれど――胸の奥には穴が空いたままだった。
レギュラス・ブラックの凛とした横顔。
アラン・ブラックの透き通るような微笑み。
あの屋敷の一瞬の時間が、どうしようもなく恋しかった。
魔法使いがあんなに美しくて優しいのなら……
自分もいつか、あの人たちの近くで生きていけたなら――。
そんな叶わない夢を胸に抱きながら、メイラは新しい部屋で静かに目を閉じた。
アランはレギュラスの選択を聞いたとき、胸がふわりと緩むような安堵を覚えた。
――メイラは守られた。
そう信じて疑わなかった。
レギュラスが折れてくれた。
あれほど頑なだった彼が、自分の願いを叶えてくれた。
マグル保護委員会――魔法界の組織が、メイラに“居場所”を与えてくれるのだ。
アランは深く、深く息を吐く。
胸の奥の重石がひとつ外れたようだった。
もうあの子は飢えない。
寒さに震える夜もない。
薬ももらえず病気を放置されることもない。
それだけで十分すぎるほど救いだった。
レギュラスの側に立つ自分には、大きな世界を動かす力などない。
けれど、あの小さな少女の未来が、ほんの少しでも明るくなるのなら。
アランはそっと、腹の子に触れながら微笑んだ。
――ありがとう、レギュラス。
あなたの選択に、こんなにも優しさが宿っているなんて。
そう、心の底から思っていた。
しかし、アランは知らない。
マグル保護委員会が“保護”とは名ばかりの場所であることを。
そこは、魔法界が表向きだけ繕った慈善の顔だった。
本当の目的は――
魔法族のために“使える”マグルを従順に育て、必要とあらば“犠牲”として扱うための施設。
教育という名の刷り込み。
奉仕という名の隷属。
保護という名の隔離。
未来を与えるという名の――収奪。
最悪の場合、臓器の提供。
魔法実験の材料。
狼人間たちが暴走しないための“捧げ物”。
すべて“秩序”と“理”の名のもとに隠されている。
魔法族側にとっては必ずしも悪ではない。
必要な犠牲として、長く黙認され続けてきた。
資金源は、純血名家――ブラック家を含む多くの名家が出資している。
マグル界もその裏側の利益で結ばれていた。
貧困地域の孤児を差し出し、その見返りに莫大な資金援助を受け取る。
それが政治のために使われる。
世界は静かに回り続ける。
犠牲の上に。
アランはそんな冷たい仕組みなど知らず、ただ美しい希望だけを胸に抱いていた。
メイラは守られた。
未来を与えられた。
あの小さな黒い瞳が、恐怖ではなく光を見る未来がきっと来る。
その純粋で痛いほど真っ直ぐな願いが――
あまりにも残酷な現実を知らぬまま輝いている。
いつかメイラが“何か”の犠牲として選ばれる日が来るかもしれない。
その運命が、静かに決まり始めているとも知らず。
アランはただ――
レギュラスに寄り添い、感謝し、信じていた。
その無垢で美しい想いが胸を締めつけるほど痛い。
魔法省が建てたマグル保護施設――石造りの外壁はどこか荘厳で、けれどアランには冷たい牢屋の影をわずかに思い起こさせた。
しかし、その胸のざわめきを押し隠し、彼女は重くなった腹を両腕でそっと支えながら、静かに施設の中へ足を踏み入れた。
今日ここへ来たのは、ひとつでも多くの未来をメイラに手渡したかったからだ。
本は、世界そのものだった。
地下に閉ざされた自分にとって外の光の代わりであり、知識のすべてであり、魔法そのものと出会う扉だった。
だからメイラにも渡したかった。
選ぶ力を。
迷える場所を。
逃げ込める別の世界を。
職員に案内され、アランは応接室と書かれた明るい部屋へ通された。
白い壁に薄い桃色の布がかけられ、雪が舞うような淡い光が魔法灯からふわりと降りている。
この部屋で子供たちは面会を許されるという。
扉が開き、小さな足音が駆け込んでくる。
黒い瞳がぱっと大きく見開かれた。
「アランさん!」
メイラが腕を広げ、一直線に抱きついてきた。
その勢いにアランは少しよろめきながらも、しっかりと少女の体を抱きしめる。
細い肩が震えているのがわかるほど、強く、真っ直ぐな“会いたかった”だった。
アランは胸が詰まりそうだった。
こんなにも小さな少女が、自分へ恋しさを募らせるなど――
どれほどの孤独と不安と戦ってきたのだろう。
杖を振る。
文字が白い光となって空中にほどける。
〈生活には慣れましたか?〉
メイラはぱっと顔を上げ、嬉しそうに頷いた。
「すっごく楽しいの! ご飯もたくさん食べられるし、お友達もできたよ!」
その声は弾むように明るく、まるで長い冬を抜けて春を迎えた子鳥のようだった。
アランはメイラの手を包み込むように握り、ひとつひとつ少女の語る生活を聞く。
洗濯の魔法の話。
食堂の大きな鍋。
夜になると遠くで聞こえる魔法の鐘の音。
どれも新鮮で、生き生きとしていて――その輝きがどれほど尊いかをアランは知っていた。
やがて、アランはそっと持参した包みを開く。
革の匂いが微かにする、装丁の美しい本が数冊。
杖が静かに宙を走り、白い文字が紡がれる。
〈本が好きだったでしょう? これは私も好きでした〉
メイラの黒い瞳が、大きく輝いた。
宝石を初めて見た子供のような、純粋な光。
「……ありがとう、アランさん!」
胸に抱きしめるように本を抱え、メイラは嬉しさを隠しきれずに笑った。
その笑顔は、新しい知識と未来に向かう扉を前にした者の希望そのものだった。
アランはその光景に胸が熱くなる。
こんなにも未来を欲している。
こんなにも世界を学びたいと願っている。
どんな世界にも縛られず、誰の言葉にも閉じ込められない、自分の未来を選ぼうとする瞳――
まるで、かつての自分の翡翠の瞳が、今ここに受け継がれたようだった。
その輝きが痛いほど眩しくて、アランはそっとメイラの髪を撫でた。
どうか、この光が曇る日が来ませんように。
どうか、この小さな手が自由に未来を選べますように――
祈りにも似た想いが、胸の奥に静かに沈んでいった。
書類の山が積まれた執務机の上で、羽根ペンの先がわずかに震えた。
レギュラスは深く息を吸い、指先に力を込めて震えを抑える。
視線の先には、引き出しの中に整然としまわれた数通の小さな便箋――メイラ・ウォルブリッジがアランに宛てて書いた手紙だった。
どれも幼い丸い文字で綴られていた。
――「アランさん、また会いたいです」
――「アランさんの赤ちゃんは元気ですか?」
――「本をありがとう。わたし、もっと勉強して魔法のこと知りたい」
素直すぎる言葉。
慕う気持ちがそのまま染み込んだような手紙の数々。
ページをめくるたび、胸の奥がじわりと重く沈んでいく。
アランが――自分の妻が、定期的に施設を訪れていることは知っていた。
レギュラスの目を盗んで、重い腹を抱えながらも本を抱えて出向いていくその姿を、止めることが何度もあった。
だがアランはそれを超えてゆく。
“会いたい”という少女の寂しさに応えたいという一念で。
想定外だった。
まさかここまで深く関わろうとするとは。
まるで自分の手で運命を抱き寄せようとするかのように――。
レギュラスは手紙を丁寧に閉じ、引き出しを静かに押し戻した。
深々とため息が漏れる。
アランが優しいことは知っていた。
しかし――優しさは最も残酷にもなり得る。
そしてその優しさが、今はただ恐ろしくて仕方なかった。
メイラが真実を知ったらどうなる。
少女の純真な黒い瞳が、自分とアランをどんな色で見つめるようになるのか。
考えれば考えるほど、胸がざわつき、吐き気すら覚えた。
――いつか必ず知る日が来る。
父親がどんな罪を着せられ、どんな扱いを受け、どこへ送られたのか。
あの事件の裏側で、どんな取引があったのか。
そしてその男の娘が助かったのは、誰のためで、何のためだったのか。
「……その時、彼女は何を選ぶ?」
呟きはほとんど息にしかならなかった。
メイラは今はただの少女だ。
ただ、本を喜び、アランを慕い、未来に憧れる子供だ。
だが知識を得た時、力を得た時……復讐の矛先を理解するだけの頭と心を持つ大人になった時――
レギュラス・ブラックに牙を向ける可能性は十分すぎるほどある。
取るに足らないマグル。
虫けらのように扱うべき存在であるはずの少女が――
いつか、脅威になるかもしれない。
アランはそれを知らずに、笑う。
少女の手を取り、未来を照らそうとする。
その優しさは眩しくて、羨ましくて、そして痛かった。
机に肘をつき、額を指で押さえた。
背筋を冷たい汗が伝う。
―― アランが傷つく未来を、絶対に見たくない。
その一心で、少女との距離を引きはがそうとしているのに。
アランは知らず知らずのうちに、レギュラスの恐怖を掘り起こし、深めていく。
守りたいものが増えるほど、脅威も増える。
愛すれば愛するほど、世界が牙を剥いてくる。
レギュラスの胸の奥で、静かな焦りが燃え続けていた。
アランの優しさも、少女の純粋な想いも、すべてが脆く壊れやすい硝子細工のようで――
いつか手の中で砕け散ってしまうのではないかという恐怖が、夜のように黒く広がっていくのだった。
季節がゆっくりと巡るあいだに、アランの腹は日ごとに丸みを増し、ついには自分の足元さえ見えにくくなるほど大きく膨らんでいた。
階段を降りるのにも息が上がり、長く歩けば脇腹が締め付けられる。
それでも、メイラの待つ施設へ通おうとしていたが――やがて身体がそれを許さなくなった。
見送るように、施設へ向かう馬車は遠ざかり、アランは屋敷の中で息を整える日々が続いた。
お産は、もう間近。
魔力の強い血を継ぐ子であるがゆえに、腹の内側からの動きは力強く、時折思わず息を呑むほどの蹴りが走った。
その間にも、ヴァルブルガは狂気じみた熱心さで祈祷師たちを呼び寄せていた。
ブラック家が代々信じてきた古い魔法の儀式を執り行うために、全国からシャーマンや呪術師、古代魔法の司祭たちが呼び集められる。
「純血の永遠を――」
「ブラック家の未来を――」
「偉大なる男児の誕生を――」
低く湿った呪文のような祈りが、屋敷中を満たした。
アランはそのたび胸が苦しくなり、腹にそっと手を添える。
赤子は小さく反応して動いた。
その動きだけが、唯一の安心材料でもあり、不安の象徴でもあった。
アランの手元に運ばれる食事は、以前とは比べものにならないほど豪勢になった。
金の皿には、魔力植物の果実や滋養の高い特別な肉、時にドラゴンの卵の煮込み、フェニックスの羽根から抽出した滋養薬を混ぜたスープ。
古代から妊婦に力を与えると言われる海の深層で採れる光る貝の煮付け。
大地の魔力を宿すとされる樹齢千年の木の実を練り込んだパン。
世界中の珍味が「未来の後継者」を育てるために毎食並ぶ。
アランは胸の前で杖をひと振りし、文字を浮かべた。
――ヴァルブルガ様、感謝いたします。
ヴァルブルガは冷ややかに睨み返す。
「勘違いなさらないで。この家の未来のためです。あなた個人のためではありません。」
その言葉は冬の刃のように突き刺さった。
礼を言うアランに向けられたのは、優しさではなく、ただ未来の当主を“確実に産め”という圧。
アランの胸に渦巻く不安は日に日に膨れ上がる。
――男児でなければ。
――もし女児だったら。
――もし弱かったら。
もし自分がブラック家の期待に応えられなければ、ヴァルブルガに追い出されるだろうか。
レギュラスに、失望されるだろうか。
彼の隣にいる資格は――なくなるのだろうか。
その恐れを胸に抱くたび、腹の奥で赤子が足を蹴り返してくる。
まるで「ここにいるよ」と訴えるかのように、強く、強く。
アランは震える手で腹を撫でた。
不安も、期待も、愛しさも、全部混ざり合って涙になりそうで。
声を持たない喉がきゅうと締め付けられるように痛む。
――大丈夫。
あなたがどんな子でも、私は愛するわ。
そう心で何度も何度も呟きながら、アランはゆっくりと瞳を閉じた。
屋敷の外では祈祷師たちの呪文が響き続け、ブラック家の重圧が息をするように彼女を包み込んでいた。
レギュラスにとって、日が進むほどに胸の奥の緊張が増していった。
アランの身体はすでに自由に動ける状態ではなく、ひとつ段差を降りるだけで息を詰めるほどだ。
その姿を見るたび、胸の奥で何かが軋む。
もし彼女に何かあったら。
もし――男児でなかったなら。
もし、子が無事に生まれなかったなら。
ヴァルブルガの怒り。
ブラック家の失望。
魔法界中の噂と嘲笑。
レギュラス自身も、落胆せずにはいられないだろう。
しかしそれ以上に――闇の帝王との取引がある。
セシール家の血を後世に残すこと。
封印の魔法を継ぐ者を生み出すこと。
それが、アランを地下から連れ出すために差し出した、自分の決して退けぬ約束なのだ。
ゆえに、この出産は――魔法界のどの戦いにもまして重い意味を持っていた。
寝台に横たわるアランの姿を見ると、レギュラスはどうしても思い出してしまう。
あの地下で、初めて彼女に出会った日のことを。
闇の帝王の命で「死なぬように世話をしろ」と言われた時、
まさか地下牢に、美しい少女が閉じ込められているなど想像もしなかった。
しかし扉を開けた瞬間、冷たい石畳の上に横たわり、
息をしているのか分からないほど動かない少女――
ボロ布のような衣を纏い、光の届かぬ闇の中に置き去りにされた生き物。
食も取らず、誰が触れても反応しない。
死体のように沈黙し、ただそこに転がっていた。
生きているのか――確かめるために腕を取って体を起こした瞬間、
その瞳が開いた。
翡翠色の、奇跡のように澄んだ光。
泥のなかから掘り出された宝石のように美しいその瞳が、
怯えと痛みと、消えかけの命の色で震えていた。
胸を掴まれたのは、その時だ。
自分はあの日から彼女に囚われたのだと、レギュラスは今なら分かる。
そして今。
彼女が動けない理由は、あの頃と違う。
暴力や辱めに心身を壊されたのではない。
魔法の闇に縛られているのでもない。
自分と築いた愛の証が、彼女の内に宿っているからだ。
自分の愛が、命となって彼女を満たしている。
理解しているはずなのに――怖かった。
寝台に横たわる彼女を見るたび、あの頃の影が胸に迫る。
「…… アラン、苦しそうですね。」
そっとかけた声に、アランは息を整えながら眉を寄せ、
それでも微笑もうとする。
言葉はない。
けれど、その小さな頷きがどれほどの痛みを抱えているのかを語っていた。
レギュラスは彼女の手を握る。
もともと小さく華奢だった指先は、今は少し浮腫みがあり、
力を入れれば壊れてしまいそうに温かく、柔らかい。
その手を包み込みながら、もう片方の手でそっと腹を撫でる。
胎内の子が動くたび、アランの呼吸がぴくりと震えた。
「大丈夫です……必ず無事に、僕たちの子を迎えましょう。」
言葉にした瞬間、胸の奥が軋んだ。
それは祈りであり、誓いであり、恐れでもあった。
アランはまるで、そんな彼の心を慰めるかのように、
指先できゅ、とレギュラスの手を握り返した。
その翡翠の瞳がゆっくりと開かれ、
短い息の中で微笑む。
――あなたがいてくれるなら、きっと大丈夫。
声はないのに、はっきりとそう響いた気がした。
レギュラスは彼女の額にそっと口づける。
かつて闇の底で失われかけた命が、
今、こうして愛を宿し、未来を抱えている。
その奇跡がどうか無事であるようにと、
彼は胸の奥で強く、強く願った。
マグル孤児院惨殺事件――
騎士団の中では、いまだその「真犯人」を追う動きが静かに、しかし確実に強まっていた。
容疑者として処理されたマグルの男には、確かな冤罪の匂いがある。
独房で錯乱したように自白した内容には不自然な点が多く、事件現場に残された魔力痕も、ベラトリックスのものとほぼ一致していた。
その矛盾をどうにか突き崩したい――
その思いが、騎士団の中で火種のように燻っていた。
「……娘がいたはずだろ。」
沈黙を破ったのはシリウスだった。
拳を握りしめ、怒りと焦燥を押し殺した声で続ける。
「父親がアズカバン送りだってのに、娘が消えるなんておかしい……どこに行ったんだ、どこに。」
その声音に、室内の空気が重く沈む。
ジェームズが腕を組みながら眉を寄せる。
「老夫婦の証言だと……ある日、少女は家を出て戻らなかったそうだ。
巻き込まれた可能性は、確かに高い。」
「巻き込まれた」で済む話ではないことは、全員が理解していた。
少女の命は、事件の核心に触れる鍵である可能性すらある。
「……もう一つ、気になる話がある。」
リーマスの静かな声に、皆が視線を向ける。
彼は手元の資料を指で叩き、慎重に言葉を紡いだ。
「少女を育てていた老夫婦の家に、“魔法使い”と名乗る若い男が訪ねてきたそうだ。
長身で、整った顔立ち……というのが特徴だと。」
空気が凍りついた。
沈黙ののち、シリウスが呆然とした声で絞り出す。
「……何だって?」
ジェームズも表情を曇らせる。
全員が同じ人物の姿を思い浮かべていた。
長身。灰銀の瞳。整った顔立ち。
そして、誰もが一目で“魔法使い”と理解する圧倒的な気配を持つ男――
レギュラス・ブラック。
「まさか……あいつが、娘に接触したっていうのか……?」
シリウスの声は震えていた。
リーマスは目を伏せ、静かに頷く。
「老夫婦の証言は曖昧だ。しかし、“魔法使いの若い男”が少女を連れ出した可能性は……否定できない。」
「レギュラスが……?」
ジェームズが低く呟く。
「もしそうだとすれば……あのマグルの男との間で“取引”が行われた線が一気に濃厚になる。」
部屋の空気はどこまでも重く沈降していく。
真実へ近づいたような気配と同時に、底知れない嫌悪と不信が渦巻いた。
シリウスだけは、ただ一点を見つめていた。
目の奥がぎり、と強く揺れる。
――レギュラス。
お前は……何をしている?
弟の名を呼ぶ声は、怒りと悲しみの境界線の上で震えていた。
少女メイラ・ウォルブリッジは、父を失い、老夫婦を離れ、行方を絶った。
そしてそこにレギュラスの影が差しているという事実。
その意味するところは――ひとつではない。
だがいずれにせよ、
闇の魔法使いとマグルの男の間で何かしらの取引が行われた可能性は、
もはや否定しようのない現実へと近づいていた。
法務部の静寂は、唐突な衝撃音で破られた。
――ガンッ。
重厚な扉が勢いよく開き、取っ手が壁を打つ鈍い音が執務室全体に響き渡る。
書類の山に囲まれたレギュラスは、わずかに眉をひそめただけで視線も向けない。
「……ノックくらいしてはいかがです? 相変わらず品のない。」
低く抑えられた声。
冷たく、揺らぎひとつない声音はいつもと同じだった。
しかし、入ってきたシリウスは――怒りの色を隠しもしない。
机に両手を叩きつけ、乗り出すようにしてレギュラスを睨み込む。
「てめぇ……メイラ・ウォルブリッジって娘を、どこへやった。」
散らばった書類が床へと滑り落ちる。
レギュラスは淡々と魔法で拾い上げ、整える。
その優雅な仕草が、火に油を注ぐようにシリウスの怒りを煽った。
「……なんの話です?」
冷たい灰銀の瞳が、わざとらしく瞬く。
「白々しいにも程があるだろうが!」
シリウスは吠えるように言った。
「お前らが犯人に仕立て上げたマグルの男の娘だ! 分かってんだろ!」
レギュラスは微動だにせず、むしろ困ったような薄い笑みを浮かべた。
「さあ……何のことでしょう。」
「とぼけんじゃねぇ!! “魔法使いの若い男”が来たって証言が出てんだよ!」
シリウスの怒気が部屋を揺らす。
だがレギュラスは、机上の羽根ペンを指先で軽く弄びながら、静かに返した。
「そうですか。では、その“魔法使い”が訪れたのはいつです?
僕の行動記録を確認なさったらいかがでしょう。」
氷のように澄んだ声。
挑発ですらなく、本気で余裕を見せつける態度だった。
シリウスは一瞬、言葉を詰まらせた。
――なぜ、こんなに堂々としていられる?
それは当然だった。
実際にメイラを迎えに行ったのは、レギュラスではない。
バーテミウス・クラウチJr.だ。
その日のレギュラスの行動記録には、
マグル界への移動は一切記されていない。
監視魔法も、軌跡も残されていない。
完璧なアリバイ。
さらに――
メイラをマグル保護委員会の施設へ送ったのも、
レギュラスは第三者に任せている。
レギュラス・ブラック本人は、少女の移動の一切に“関与していない”形に整えられていた。
そしてもう一つ。
騎士団がどう足掻こうと“証言”そのものが出てこないように、
すでに策が施されていた。
メイラがブラック家に滞在していたあの夜――
レギュラスは眠る少女の額に指先を触れ、静かに魔法を流し込んだ。
それは“封じる魔法”。
ブラック家の名を。
レギュラスの名を。
アランの存在を。
そして屋敷で過ごした数日を。
――口にしようとすれば、声が詰まり出せなくなる。
魔法族の言葉で言えば、《緘黙の呪縛》。
本人は魔法がかかっていることなど気づきもしない。
そのため、どれほど騎士団が少女に接触し、
「レギュラス・ブラックに会ったか」と尋ねても――
メイラは、決してその名を言葉にできない。
だからこそ、レギュラスは胸を張って言えるのだ。
「――僕は、その少女とは会っていません。」
書類を整え終えたレギュラスは立ち上がり、
軽く杖を振って散らばった紙片を綺麗に閉じた鞄へと収めた。
「兄さん、あなたが何を疑おうとも構いませんが……事実は変わりません。」
「……クソッ……!」
シリウスは悔しさに息を呑む。
どう追及しても、どこにも綻びが見つからない。
レギュラスはほんの少しだけ目を伏せ、淡い微笑をつくった。
「僕は仕事がありますので。
――帰ってください、兄さん。」
“兄さん”と呼ぶ声音は穏やかでさえあった。
その余裕が、シリウスの胸を抉った。
怒りと悔しさの行き場を失ったまま、
シリウスは拳を震わせ、ドアを強く閉ざして出ていった。
静寂が戻る。
レギュラスは目を閉じ、深く息を吐いた。
逃げ切れたなどとは思っていない。
ただ、その時を先送りにしただけだ。
――それでも。
守るべきもののためなら、いくらでも嘘を重ねよう。
机上の羽根ペンをそっと置きながら、
レギュラス・ブラックはただ静かに目を伏せた。
シリウスは法務部の階段を降りながら、胸の内に渦巻く黒い靄を押し込めようとしていた。
――今日は、いるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いてレギュラスの執務室へ向かったのだ。
アランはよく彼の傍にいた。
だから、今日もひょっとすれば、と。
しかし、扉を開けた先にあったのは、静まり返った部屋と、冷えきった書類の匂いだけだった。
アランの姿はどこにもなかった。
その瞬間、期待はぽつりと落ちるように胸の奥で崩れた。
アランは――今、どんな顔で笑っているのだろう。
いや、笑えているのだろうか。
腹はもう相当大きいはずだ。
歩くことさえ苦しくなっているかもしれない。
夜、横になるだけで息が詰まるような瞬間もあるだろう。
――ちゃんと、眠れてるのか。
――ちゃんと、食べられてるのか。
考えてもどうしようもないことばかりが、胸の奥で重く沈んでいく。
レギュラスの屋敷では、誰がアランの身体を気遣ってくれるのだろう。
あの冷たい家で、彼女はひとり苦しさを抱えているのではないか。
不安が喉を詰まらせる。
胸が痛い。
押さえれば押さえるほど、その痛みは強くなる。
――もう来ないでほしい。
あの時、アランは迷いながらも、確かにそう伝えた。
その瞳は怯えていた。
自分に向けた拒絶ではなく、レギュラスに知られる恐怖だった。
あれ以上、彼女を追い詰めたくなかった。
だからシリウスはもう、あの屋敷に足を向けることができない。
行けばきっと、また彼女を困らせてしまう。
追い詰めてしまう。
そしてアランは、何も言えないまま怯えてしまう。
そんな未来は、絶対に見たくなかった。
けれど――
会いたい。
どうしても、会いたい。
あの翡翠の瞳は今、どんな光を宿しているのだろうか。
自分に向けられることのない微笑みでもいい。
彼女が無事でいるのか、その一瞬だけでも確かめたい。
それなのに、足は屋敷へ向かわない。
向かえない。
自分が行けば彼女は迷惑する。
苦しむ。
怯える。
分かっているのに、それでも胸の奥で何かが叫ぶ。
――見たい。
――確かめたい。
――触れられなくてもいいから、せめて無事でいてほしい。
執務室のドアを閉めたあと、廊下に立ち尽くす。
魔法省の冷えた空気が、皮膚の表面を刺すように通り抜けていった。
レギュラスの影ばかりが大きくのしかかる。
自分の想いなど、あの男の前では無力だ。
そして―― アランが選んだ未来なのだ。
それでも。
胸の奥の痛みは、少しも消えなかった。
喉の奥につかえたままの苦しさは、誰にも吐き出せなかった。
シリウスは静かに拳を握りしめた。
――どうか、無事でいてくれ。
それだけが、彼の願いだった。
意図せず漏れそうになる笑いを喉の奥で押し殺す。だがその口元には、どうしても消しきれない愉悦の弧が残っていた。
「聞きましたよ。先日の——あのマグルの少女を、マグル保護委員会に託したんですって?」
その声音には敬意を装いながらも、明らかなからかいが滲む。
レギュラスは深く息を吐いた。
「……まったく。あなたがアランと少女を鉢合わせさせたせいで、僕はとんでもない目に遭いましたよ」
その声音は冷静を保っていたが、眉間の皺がいつもより深かった。
バーテミウスは肩を震わせるほど愉快だった。想像は容易かったのだ。あの純白のように無垢なアランブラックと、孤独で傷だらけのマグルの少女が出会ったとき、何が起きるのかを。
アランは、幼い頃から闇の帝王の地下牢に閉じ込められ、世界の理を知らないまま成長した。
だからこそ、苦しむ者を見捨てるという選択肢が、彼女の辞書のどこにも存在しない。
彼女は“救う”以外の道を選べない。
一方のレギュラスは違う。
生まれながら純血の頂点――ブラック家に属し、名誉を背骨に育て上げられた男だ。
情よりも名、理想よりも体制を選ぶよう教育された男。
そんな二人が交わしたであろう会話が、容易に脳裏に浮かぶ。
アランがあの少女を救いたいと懇願し、
レギュラスが魔法界の秩序を守るために必死に拒み、
それでもアランの涙に揺さぶられていく――。
その光景を想像するだけで、バーテミウスは腹を抱えて笑いたくなった。
「いやはや、驚きましたよ」
バーテミウスは軽快に続けた。
「純血の象徴とも言えるブラック家のご当主が、マグル保護委員会なんて……っ」
言葉の続きを笑い声に呑まれないよう、わざと咳払いを挟む。
レギュラスは冷ややかな目を向けた。
「あなたのせいで、あれが最も現実的な選択になったのです。ほかに道はなかった」
その言葉の裏には、どれほどの譲歩が詰まっているのか。
純血主義の中心に立つ家の跡取りが、非魔法族の少女を“保護委員会”に送り込むなど、本来あるまじき決断だった。
だがバーテミウスにとっては、それがたまらなく愉快だった。
「いや、それにしても……」
彼は喉を鳴らすように笑い、
「ブラック家の時期当主が、マグル保護委員会の門を叩くなんて。ああ……なんと素晴らしい喜劇でしょうね」
法務部の光の差さない廊下に、バーテミウスが押し殺した笑い声が静かに、しかし鮮烈に響いた。
レギュラスは前だけを見据えたまま歩く。
その横顔は、バーテミウスを諫めもせず、怒りも見せず――
ただただ、静かに疲弊していた。
バーテミウスはそれを見逃さなかった。
そして、さらに口元を綻ばせた。
――レギュラスブラック。
あなたほど高潔に見せかけて、誰よりも矛盾に塗れていく男はいない。
その矛盾こそが、バーテミウスにとって何よりの娯楽だった。
メイラが新しい部屋へと案内されたのは、曇り空の昼下がりだった。
マグル保護委員会が運営する“保護育成施設”――名は立派だが、そこは魔法界の理に沿って非魔法族の子どもたちを管理し、教育し、魔法族に「役立つ人材」として育て上げる場だった。
だが、それを知らないメイラにとって、ここはただ「魔法使いに選ばれた子どもたちの場所」だった。
彼女の胸には、未だあの屋敷の空気が残っている。
――レギュラス・ブラック。
自分を救い、ここへ送り出してくれたという“魔法使い”。
医務魔法使いが彼の名を告げたとき、メイラは思わず息を呑んだ。
魔法界でも指折りの名家・ブラック家。その当主となる人物が、自分のような名もなきマグルの娘を救ってくれたというのだ。
信じられない。
けれど――確かに、あの目で見たのだ。
屋敷で言いつけを破って廊下に出たあの日。
薄暗い石造りの廊下を歩いていた彼女は、ふと息を止めた。
そこに“いた”のだ。
まるで彫像がそのまま歩き出したような、端正な顔立ち。
青でも灰でも銀でもない、不思議な色を湛えた瞳が静かにゆらめき、灯りを反射して冷たい光を宿していた。
真っ直ぐに伸びた背は、騎士のように揺るがず、細身でありながらも、纏う気配は圧倒的に強かった。
歩くたび衣の裾が静かに揺れ、空気までもが彼の軌跡をもたらすように整う――。
“魔法使い”とは、こういう人を言うのだと、心がひれ伏した。
「部屋に戻りなさい。屋敷には危険がたくさんあります」
その声は驚くほど静かで、冷たいほどに美しかった。
「あなたが……私を助けてくれた魔法使いさんなの?」
思わず聞いた言葉に、彼は答えなかった。
だが、答える必要などなかった。
メイラは理解してしまったのだ。
“この人しかいない”と。
その圧倒的な存在感こそが、メイラの命を救った魔法使いそのものだった。
「アランさんは……? 会いたいわ」
あの、優しくて、美しくて、泣きながら笑ってくれる魔法使いの女性。
「彼女は部屋で休んでいます。さあ、あなたも戻りなさい」
柔らかな拒絶――それでもメイラは嬉しかった。
アラン・ブラック――
翡翠の瞳で優しく寄り添ってくれたあの女性。
声を持たないはずなのに、彼女の紡ぐ杖の文字は、誰よりもまっすぐ心に響いた。
レギュラス・ブラックとアラン・ブラック。
二人とも、この世の人とは思えないほど美しくて……まるで童話から抜け出してきた魔法使い夫婦だった。
いつかまた会いたい――
そう願いながら、メイラは新しい施設へと送られた。
マグル保護委員会の施設は広かった。
大きな窓、陽当たりの良い中庭、簡素だけれど清潔な部屋。
同じようにマグルの世界から連れてこられた子どもたちがたくさんいて、年齢も境遇もバラバラだった。
マグル界での暮らしよりずっと豊かで、衣食住も整っている。
大人たちは優しかったし、魔法界のこともたくさん教えてくれた。
けれど――胸の奥には穴が空いたままだった。
レギュラス・ブラックの凛とした横顔。
アラン・ブラックの透き通るような微笑み。
あの屋敷の一瞬の時間が、どうしようもなく恋しかった。
魔法使いがあんなに美しくて優しいのなら……
自分もいつか、あの人たちの近くで生きていけたなら――。
そんな叶わない夢を胸に抱きながら、メイラは新しい部屋で静かに目を閉じた。
アランはレギュラスの選択を聞いたとき、胸がふわりと緩むような安堵を覚えた。
――メイラは守られた。
そう信じて疑わなかった。
レギュラスが折れてくれた。
あれほど頑なだった彼が、自分の願いを叶えてくれた。
マグル保護委員会――魔法界の組織が、メイラに“居場所”を与えてくれるのだ。
アランは深く、深く息を吐く。
胸の奥の重石がひとつ外れたようだった。
もうあの子は飢えない。
寒さに震える夜もない。
薬ももらえず病気を放置されることもない。
それだけで十分すぎるほど救いだった。
レギュラスの側に立つ自分には、大きな世界を動かす力などない。
けれど、あの小さな少女の未来が、ほんの少しでも明るくなるのなら。
アランはそっと、腹の子に触れながら微笑んだ。
――ありがとう、レギュラス。
あなたの選択に、こんなにも優しさが宿っているなんて。
そう、心の底から思っていた。
しかし、アランは知らない。
マグル保護委員会が“保護”とは名ばかりの場所であることを。
そこは、魔法界が表向きだけ繕った慈善の顔だった。
本当の目的は――
魔法族のために“使える”マグルを従順に育て、必要とあらば“犠牲”として扱うための施設。
教育という名の刷り込み。
奉仕という名の隷属。
保護という名の隔離。
未来を与えるという名の――収奪。
最悪の場合、臓器の提供。
魔法実験の材料。
狼人間たちが暴走しないための“捧げ物”。
すべて“秩序”と“理”の名のもとに隠されている。
魔法族側にとっては必ずしも悪ではない。
必要な犠牲として、長く黙認され続けてきた。
資金源は、純血名家――ブラック家を含む多くの名家が出資している。
マグル界もその裏側の利益で結ばれていた。
貧困地域の孤児を差し出し、その見返りに莫大な資金援助を受け取る。
それが政治のために使われる。
世界は静かに回り続ける。
犠牲の上に。
アランはそんな冷たい仕組みなど知らず、ただ美しい希望だけを胸に抱いていた。
メイラは守られた。
未来を与えられた。
あの小さな黒い瞳が、恐怖ではなく光を見る未来がきっと来る。
その純粋で痛いほど真っ直ぐな願いが――
あまりにも残酷な現実を知らぬまま輝いている。
いつかメイラが“何か”の犠牲として選ばれる日が来るかもしれない。
その運命が、静かに決まり始めているとも知らず。
アランはただ――
レギュラスに寄り添い、感謝し、信じていた。
その無垢で美しい想いが胸を締めつけるほど痛い。
魔法省が建てたマグル保護施設――石造りの外壁はどこか荘厳で、けれどアランには冷たい牢屋の影をわずかに思い起こさせた。
しかし、その胸のざわめきを押し隠し、彼女は重くなった腹を両腕でそっと支えながら、静かに施設の中へ足を踏み入れた。
今日ここへ来たのは、ひとつでも多くの未来をメイラに手渡したかったからだ。
本は、世界そのものだった。
地下に閉ざされた自分にとって外の光の代わりであり、知識のすべてであり、魔法そのものと出会う扉だった。
だからメイラにも渡したかった。
選ぶ力を。
迷える場所を。
逃げ込める別の世界を。
職員に案内され、アランは応接室と書かれた明るい部屋へ通された。
白い壁に薄い桃色の布がかけられ、雪が舞うような淡い光が魔法灯からふわりと降りている。
この部屋で子供たちは面会を許されるという。
扉が開き、小さな足音が駆け込んでくる。
黒い瞳がぱっと大きく見開かれた。
「アランさん!」
メイラが腕を広げ、一直線に抱きついてきた。
その勢いにアランは少しよろめきながらも、しっかりと少女の体を抱きしめる。
細い肩が震えているのがわかるほど、強く、真っ直ぐな“会いたかった”だった。
アランは胸が詰まりそうだった。
こんなにも小さな少女が、自分へ恋しさを募らせるなど――
どれほどの孤独と不安と戦ってきたのだろう。
杖を振る。
文字が白い光となって空中にほどける。
〈生活には慣れましたか?〉
メイラはぱっと顔を上げ、嬉しそうに頷いた。
「すっごく楽しいの! ご飯もたくさん食べられるし、お友達もできたよ!」
その声は弾むように明るく、まるで長い冬を抜けて春を迎えた子鳥のようだった。
アランはメイラの手を包み込むように握り、ひとつひとつ少女の語る生活を聞く。
洗濯の魔法の話。
食堂の大きな鍋。
夜になると遠くで聞こえる魔法の鐘の音。
どれも新鮮で、生き生きとしていて――その輝きがどれほど尊いかをアランは知っていた。
やがて、アランはそっと持参した包みを開く。
革の匂いが微かにする、装丁の美しい本が数冊。
杖が静かに宙を走り、白い文字が紡がれる。
〈本が好きだったでしょう? これは私も好きでした〉
メイラの黒い瞳が、大きく輝いた。
宝石を初めて見た子供のような、純粋な光。
「……ありがとう、アランさん!」
胸に抱きしめるように本を抱え、メイラは嬉しさを隠しきれずに笑った。
その笑顔は、新しい知識と未来に向かう扉を前にした者の希望そのものだった。
アランはその光景に胸が熱くなる。
こんなにも未来を欲している。
こんなにも世界を学びたいと願っている。
どんな世界にも縛られず、誰の言葉にも閉じ込められない、自分の未来を選ぼうとする瞳――
まるで、かつての自分の翡翠の瞳が、今ここに受け継がれたようだった。
その輝きが痛いほど眩しくて、アランはそっとメイラの髪を撫でた。
どうか、この光が曇る日が来ませんように。
どうか、この小さな手が自由に未来を選べますように――
祈りにも似た想いが、胸の奥に静かに沈んでいった。
書類の山が積まれた執務机の上で、羽根ペンの先がわずかに震えた。
レギュラスは深く息を吸い、指先に力を込めて震えを抑える。
視線の先には、引き出しの中に整然としまわれた数通の小さな便箋――メイラ・ウォルブリッジがアランに宛てて書いた手紙だった。
どれも幼い丸い文字で綴られていた。
――「アランさん、また会いたいです」
――「アランさんの赤ちゃんは元気ですか?」
――「本をありがとう。わたし、もっと勉強して魔法のこと知りたい」
素直すぎる言葉。
慕う気持ちがそのまま染み込んだような手紙の数々。
ページをめくるたび、胸の奥がじわりと重く沈んでいく。
アランが――自分の妻が、定期的に施設を訪れていることは知っていた。
レギュラスの目を盗んで、重い腹を抱えながらも本を抱えて出向いていくその姿を、止めることが何度もあった。
だがアランはそれを超えてゆく。
“会いたい”という少女の寂しさに応えたいという一念で。
想定外だった。
まさかここまで深く関わろうとするとは。
まるで自分の手で運命を抱き寄せようとするかのように――。
レギュラスは手紙を丁寧に閉じ、引き出しを静かに押し戻した。
深々とため息が漏れる。
アランが優しいことは知っていた。
しかし――優しさは最も残酷にもなり得る。
そしてその優しさが、今はただ恐ろしくて仕方なかった。
メイラが真実を知ったらどうなる。
少女の純真な黒い瞳が、自分とアランをどんな色で見つめるようになるのか。
考えれば考えるほど、胸がざわつき、吐き気すら覚えた。
――いつか必ず知る日が来る。
父親がどんな罪を着せられ、どんな扱いを受け、どこへ送られたのか。
あの事件の裏側で、どんな取引があったのか。
そしてその男の娘が助かったのは、誰のためで、何のためだったのか。
「……その時、彼女は何を選ぶ?」
呟きはほとんど息にしかならなかった。
メイラは今はただの少女だ。
ただ、本を喜び、アランを慕い、未来に憧れる子供だ。
だが知識を得た時、力を得た時……復讐の矛先を理解するだけの頭と心を持つ大人になった時――
レギュラス・ブラックに牙を向ける可能性は十分すぎるほどある。
取るに足らないマグル。
虫けらのように扱うべき存在であるはずの少女が――
いつか、脅威になるかもしれない。
アランはそれを知らずに、笑う。
少女の手を取り、未来を照らそうとする。
その優しさは眩しくて、羨ましくて、そして痛かった。
机に肘をつき、額を指で押さえた。
背筋を冷たい汗が伝う。
―― アランが傷つく未来を、絶対に見たくない。
その一心で、少女との距離を引きはがそうとしているのに。
アランは知らず知らずのうちに、レギュラスの恐怖を掘り起こし、深めていく。
守りたいものが増えるほど、脅威も増える。
愛すれば愛するほど、世界が牙を剥いてくる。
レギュラスの胸の奥で、静かな焦りが燃え続けていた。
アランの優しさも、少女の純粋な想いも、すべてが脆く壊れやすい硝子細工のようで――
いつか手の中で砕け散ってしまうのではないかという恐怖が、夜のように黒く広がっていくのだった。
季節がゆっくりと巡るあいだに、アランの腹は日ごとに丸みを増し、ついには自分の足元さえ見えにくくなるほど大きく膨らんでいた。
階段を降りるのにも息が上がり、長く歩けば脇腹が締め付けられる。
それでも、メイラの待つ施設へ通おうとしていたが――やがて身体がそれを許さなくなった。
見送るように、施設へ向かう馬車は遠ざかり、アランは屋敷の中で息を整える日々が続いた。
お産は、もう間近。
魔力の強い血を継ぐ子であるがゆえに、腹の内側からの動きは力強く、時折思わず息を呑むほどの蹴りが走った。
その間にも、ヴァルブルガは狂気じみた熱心さで祈祷師たちを呼び寄せていた。
ブラック家が代々信じてきた古い魔法の儀式を執り行うために、全国からシャーマンや呪術師、古代魔法の司祭たちが呼び集められる。
「純血の永遠を――」
「ブラック家の未来を――」
「偉大なる男児の誕生を――」
低く湿った呪文のような祈りが、屋敷中を満たした。
アランはそのたび胸が苦しくなり、腹にそっと手を添える。
赤子は小さく反応して動いた。
その動きだけが、唯一の安心材料でもあり、不安の象徴でもあった。
アランの手元に運ばれる食事は、以前とは比べものにならないほど豪勢になった。
金の皿には、魔力植物の果実や滋養の高い特別な肉、時にドラゴンの卵の煮込み、フェニックスの羽根から抽出した滋養薬を混ぜたスープ。
古代から妊婦に力を与えると言われる海の深層で採れる光る貝の煮付け。
大地の魔力を宿すとされる樹齢千年の木の実を練り込んだパン。
世界中の珍味が「未来の後継者」を育てるために毎食並ぶ。
アランは胸の前で杖をひと振りし、文字を浮かべた。
――ヴァルブルガ様、感謝いたします。
ヴァルブルガは冷ややかに睨み返す。
「勘違いなさらないで。この家の未来のためです。あなた個人のためではありません。」
その言葉は冬の刃のように突き刺さった。
礼を言うアランに向けられたのは、優しさではなく、ただ未来の当主を“確実に産め”という圧。
アランの胸に渦巻く不安は日に日に膨れ上がる。
――男児でなければ。
――もし女児だったら。
――もし弱かったら。
もし自分がブラック家の期待に応えられなければ、ヴァルブルガに追い出されるだろうか。
レギュラスに、失望されるだろうか。
彼の隣にいる資格は――なくなるのだろうか。
その恐れを胸に抱くたび、腹の奥で赤子が足を蹴り返してくる。
まるで「ここにいるよ」と訴えるかのように、強く、強く。
アランは震える手で腹を撫でた。
不安も、期待も、愛しさも、全部混ざり合って涙になりそうで。
声を持たない喉がきゅうと締め付けられるように痛む。
――大丈夫。
あなたがどんな子でも、私は愛するわ。
そう心で何度も何度も呟きながら、アランはゆっくりと瞳を閉じた。
屋敷の外では祈祷師たちの呪文が響き続け、ブラック家の重圧が息をするように彼女を包み込んでいた。
レギュラスにとって、日が進むほどに胸の奥の緊張が増していった。
アランの身体はすでに自由に動ける状態ではなく、ひとつ段差を降りるだけで息を詰めるほどだ。
その姿を見るたび、胸の奥で何かが軋む。
もし彼女に何かあったら。
もし――男児でなかったなら。
もし、子が無事に生まれなかったなら。
ヴァルブルガの怒り。
ブラック家の失望。
魔法界中の噂と嘲笑。
レギュラス自身も、落胆せずにはいられないだろう。
しかしそれ以上に――闇の帝王との取引がある。
セシール家の血を後世に残すこと。
封印の魔法を継ぐ者を生み出すこと。
それが、アランを地下から連れ出すために差し出した、自分の決して退けぬ約束なのだ。
ゆえに、この出産は――魔法界のどの戦いにもまして重い意味を持っていた。
寝台に横たわるアランの姿を見ると、レギュラスはどうしても思い出してしまう。
あの地下で、初めて彼女に出会った日のことを。
闇の帝王の命で「死なぬように世話をしろ」と言われた時、
まさか地下牢に、美しい少女が閉じ込められているなど想像もしなかった。
しかし扉を開けた瞬間、冷たい石畳の上に横たわり、
息をしているのか分からないほど動かない少女――
ボロ布のような衣を纏い、光の届かぬ闇の中に置き去りにされた生き物。
食も取らず、誰が触れても反応しない。
死体のように沈黙し、ただそこに転がっていた。
生きているのか――確かめるために腕を取って体を起こした瞬間、
その瞳が開いた。
翡翠色の、奇跡のように澄んだ光。
泥のなかから掘り出された宝石のように美しいその瞳が、
怯えと痛みと、消えかけの命の色で震えていた。
胸を掴まれたのは、その時だ。
自分はあの日から彼女に囚われたのだと、レギュラスは今なら分かる。
そして今。
彼女が動けない理由は、あの頃と違う。
暴力や辱めに心身を壊されたのではない。
魔法の闇に縛られているのでもない。
自分と築いた愛の証が、彼女の内に宿っているからだ。
自分の愛が、命となって彼女を満たしている。
理解しているはずなのに――怖かった。
寝台に横たわる彼女を見るたび、あの頃の影が胸に迫る。
「…… アラン、苦しそうですね。」
そっとかけた声に、アランは息を整えながら眉を寄せ、
それでも微笑もうとする。
言葉はない。
けれど、その小さな頷きがどれほどの痛みを抱えているのかを語っていた。
レギュラスは彼女の手を握る。
もともと小さく華奢だった指先は、今は少し浮腫みがあり、
力を入れれば壊れてしまいそうに温かく、柔らかい。
その手を包み込みながら、もう片方の手でそっと腹を撫でる。
胎内の子が動くたび、アランの呼吸がぴくりと震えた。
「大丈夫です……必ず無事に、僕たちの子を迎えましょう。」
言葉にした瞬間、胸の奥が軋んだ。
それは祈りであり、誓いであり、恐れでもあった。
アランはまるで、そんな彼の心を慰めるかのように、
指先できゅ、とレギュラスの手を握り返した。
その翡翠の瞳がゆっくりと開かれ、
短い息の中で微笑む。
――あなたがいてくれるなら、きっと大丈夫。
声はないのに、はっきりとそう響いた気がした。
レギュラスは彼女の額にそっと口づける。
かつて闇の底で失われかけた命が、
今、こうして愛を宿し、未来を抱えている。
その奇跡がどうか無事であるようにと、
彼は胸の奥で強く、強く願った。
マグル孤児院惨殺事件――
騎士団の中では、いまだその「真犯人」を追う動きが静かに、しかし確実に強まっていた。
容疑者として処理されたマグルの男には、確かな冤罪の匂いがある。
独房で錯乱したように自白した内容には不自然な点が多く、事件現場に残された魔力痕も、ベラトリックスのものとほぼ一致していた。
その矛盾をどうにか突き崩したい――
その思いが、騎士団の中で火種のように燻っていた。
「……娘がいたはずだろ。」
沈黙を破ったのはシリウスだった。
拳を握りしめ、怒りと焦燥を押し殺した声で続ける。
「父親がアズカバン送りだってのに、娘が消えるなんておかしい……どこに行ったんだ、どこに。」
その声音に、室内の空気が重く沈む。
ジェームズが腕を組みながら眉を寄せる。
「老夫婦の証言だと……ある日、少女は家を出て戻らなかったそうだ。
巻き込まれた可能性は、確かに高い。」
「巻き込まれた」で済む話ではないことは、全員が理解していた。
少女の命は、事件の核心に触れる鍵である可能性すらある。
「……もう一つ、気になる話がある。」
リーマスの静かな声に、皆が視線を向ける。
彼は手元の資料を指で叩き、慎重に言葉を紡いだ。
「少女を育てていた老夫婦の家に、“魔法使い”と名乗る若い男が訪ねてきたそうだ。
長身で、整った顔立ち……というのが特徴だと。」
空気が凍りついた。
沈黙ののち、シリウスが呆然とした声で絞り出す。
「……何だって?」
ジェームズも表情を曇らせる。
全員が同じ人物の姿を思い浮かべていた。
長身。灰銀の瞳。整った顔立ち。
そして、誰もが一目で“魔法使い”と理解する圧倒的な気配を持つ男――
レギュラス・ブラック。
「まさか……あいつが、娘に接触したっていうのか……?」
シリウスの声は震えていた。
リーマスは目を伏せ、静かに頷く。
「老夫婦の証言は曖昧だ。しかし、“魔法使いの若い男”が少女を連れ出した可能性は……否定できない。」
「レギュラスが……?」
ジェームズが低く呟く。
「もしそうだとすれば……あのマグルの男との間で“取引”が行われた線が一気に濃厚になる。」
部屋の空気はどこまでも重く沈降していく。
真実へ近づいたような気配と同時に、底知れない嫌悪と不信が渦巻いた。
シリウスだけは、ただ一点を見つめていた。
目の奥がぎり、と強く揺れる。
――レギュラス。
お前は……何をしている?
弟の名を呼ぶ声は、怒りと悲しみの境界線の上で震えていた。
少女メイラ・ウォルブリッジは、父を失い、老夫婦を離れ、行方を絶った。
そしてそこにレギュラスの影が差しているという事実。
その意味するところは――ひとつではない。
だがいずれにせよ、
闇の魔法使いとマグルの男の間で何かしらの取引が行われた可能性は、
もはや否定しようのない現実へと近づいていた。
法務部の静寂は、唐突な衝撃音で破られた。
――ガンッ。
重厚な扉が勢いよく開き、取っ手が壁を打つ鈍い音が執務室全体に響き渡る。
書類の山に囲まれたレギュラスは、わずかに眉をひそめただけで視線も向けない。
「……ノックくらいしてはいかがです? 相変わらず品のない。」
低く抑えられた声。
冷たく、揺らぎひとつない声音はいつもと同じだった。
しかし、入ってきたシリウスは――怒りの色を隠しもしない。
机に両手を叩きつけ、乗り出すようにしてレギュラスを睨み込む。
「てめぇ……メイラ・ウォルブリッジって娘を、どこへやった。」
散らばった書類が床へと滑り落ちる。
レギュラスは淡々と魔法で拾い上げ、整える。
その優雅な仕草が、火に油を注ぐようにシリウスの怒りを煽った。
「……なんの話です?」
冷たい灰銀の瞳が、わざとらしく瞬く。
「白々しいにも程があるだろうが!」
シリウスは吠えるように言った。
「お前らが犯人に仕立て上げたマグルの男の娘だ! 分かってんだろ!」
レギュラスは微動だにせず、むしろ困ったような薄い笑みを浮かべた。
「さあ……何のことでしょう。」
「とぼけんじゃねぇ!! “魔法使いの若い男”が来たって証言が出てんだよ!」
シリウスの怒気が部屋を揺らす。
だがレギュラスは、机上の羽根ペンを指先で軽く弄びながら、静かに返した。
「そうですか。では、その“魔法使い”が訪れたのはいつです?
僕の行動記録を確認なさったらいかがでしょう。」
氷のように澄んだ声。
挑発ですらなく、本気で余裕を見せつける態度だった。
シリウスは一瞬、言葉を詰まらせた。
――なぜ、こんなに堂々としていられる?
それは当然だった。
実際にメイラを迎えに行ったのは、レギュラスではない。
バーテミウス・クラウチJr.だ。
その日のレギュラスの行動記録には、
マグル界への移動は一切記されていない。
監視魔法も、軌跡も残されていない。
完璧なアリバイ。
さらに――
メイラをマグル保護委員会の施設へ送ったのも、
レギュラスは第三者に任せている。
レギュラス・ブラック本人は、少女の移動の一切に“関与していない”形に整えられていた。
そしてもう一つ。
騎士団がどう足掻こうと“証言”そのものが出てこないように、
すでに策が施されていた。
メイラがブラック家に滞在していたあの夜――
レギュラスは眠る少女の額に指先を触れ、静かに魔法を流し込んだ。
それは“封じる魔法”。
ブラック家の名を。
レギュラスの名を。
アランの存在を。
そして屋敷で過ごした数日を。
――口にしようとすれば、声が詰まり出せなくなる。
魔法族の言葉で言えば、《緘黙の呪縛》。
本人は魔法がかかっていることなど気づきもしない。
そのため、どれほど騎士団が少女に接触し、
「レギュラス・ブラックに会ったか」と尋ねても――
メイラは、決してその名を言葉にできない。
だからこそ、レギュラスは胸を張って言えるのだ。
「――僕は、その少女とは会っていません。」
書類を整え終えたレギュラスは立ち上がり、
軽く杖を振って散らばった紙片を綺麗に閉じた鞄へと収めた。
「兄さん、あなたが何を疑おうとも構いませんが……事実は変わりません。」
「……クソッ……!」
シリウスは悔しさに息を呑む。
どう追及しても、どこにも綻びが見つからない。
レギュラスはほんの少しだけ目を伏せ、淡い微笑をつくった。
「僕は仕事がありますので。
――帰ってください、兄さん。」
“兄さん”と呼ぶ声音は穏やかでさえあった。
その余裕が、シリウスの胸を抉った。
怒りと悔しさの行き場を失ったまま、
シリウスは拳を震わせ、ドアを強く閉ざして出ていった。
静寂が戻る。
レギュラスは目を閉じ、深く息を吐いた。
逃げ切れたなどとは思っていない。
ただ、その時を先送りにしただけだ。
――それでも。
守るべきもののためなら、いくらでも嘘を重ねよう。
机上の羽根ペンをそっと置きながら、
レギュラス・ブラックはただ静かに目を伏せた。
シリウスは法務部の階段を降りながら、胸の内に渦巻く黒い靄を押し込めようとしていた。
――今日は、いるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いてレギュラスの執務室へ向かったのだ。
アランはよく彼の傍にいた。
だから、今日もひょっとすれば、と。
しかし、扉を開けた先にあったのは、静まり返った部屋と、冷えきった書類の匂いだけだった。
アランの姿はどこにもなかった。
その瞬間、期待はぽつりと落ちるように胸の奥で崩れた。
アランは――今、どんな顔で笑っているのだろう。
いや、笑えているのだろうか。
腹はもう相当大きいはずだ。
歩くことさえ苦しくなっているかもしれない。
夜、横になるだけで息が詰まるような瞬間もあるだろう。
――ちゃんと、眠れてるのか。
――ちゃんと、食べられてるのか。
考えてもどうしようもないことばかりが、胸の奥で重く沈んでいく。
レギュラスの屋敷では、誰がアランの身体を気遣ってくれるのだろう。
あの冷たい家で、彼女はひとり苦しさを抱えているのではないか。
不安が喉を詰まらせる。
胸が痛い。
押さえれば押さえるほど、その痛みは強くなる。
――もう来ないでほしい。
あの時、アランは迷いながらも、確かにそう伝えた。
その瞳は怯えていた。
自分に向けた拒絶ではなく、レギュラスに知られる恐怖だった。
あれ以上、彼女を追い詰めたくなかった。
だからシリウスはもう、あの屋敷に足を向けることができない。
行けばきっと、また彼女を困らせてしまう。
追い詰めてしまう。
そしてアランは、何も言えないまま怯えてしまう。
そんな未来は、絶対に見たくなかった。
けれど――
会いたい。
どうしても、会いたい。
あの翡翠の瞳は今、どんな光を宿しているのだろうか。
自分に向けられることのない微笑みでもいい。
彼女が無事でいるのか、その一瞬だけでも確かめたい。
それなのに、足は屋敷へ向かわない。
向かえない。
自分が行けば彼女は迷惑する。
苦しむ。
怯える。
分かっているのに、それでも胸の奥で何かが叫ぶ。
――見たい。
――確かめたい。
――触れられなくてもいいから、せめて無事でいてほしい。
執務室のドアを閉めたあと、廊下に立ち尽くす。
魔法省の冷えた空気が、皮膚の表面を刺すように通り抜けていった。
レギュラスの影ばかりが大きくのしかかる。
自分の想いなど、あの男の前では無力だ。
そして―― アランが選んだ未来なのだ。
それでも。
胸の奥の痛みは、少しも消えなかった。
喉の奥につかえたままの苦しさは、誰にも吐き出せなかった。
シリウスは静かに拳を握りしめた。
――どうか、無事でいてくれ。
それだけが、彼の願いだった。
