1章
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寂れた街外れの、そのまた外れ。
舗装が剥がれ、雨で抉られた地面は泥と砂利が混ざり合い、歩くたびにざらりとした音を立てた。
バーテミウスはほとんど音のしない足取りで、みすぼらしい民家へと近づいていく。
薄暗い昼の光が、曇り硝子の窓にぼんやりと貼り付き、
扉には古びた木材が歪んだ釘で無理やり留められていた。
貧困と老朽と疲弊が、この家全体に染み込んでいる。
バーテミウスは戸を軽くノックした。
ぎい……と軋むような音が返事の代わりのように響く。
しばらくして、小柄な老婦人が顔を出した。
警戒と疲れを隠そうともしない濁った瞳――これが、この家の長年の苦労を語っていた。
「……どちらさんだい?」
「訪問の者です。」
バーテミウスはにこりともせず、しかし丁寧で柔らかい声で応える。
「あなた方のご家族に、お会いしたい。」
老婦人は一瞬だけ迷うように視線を泳がせ、やがて、
「……入りなさい」と低く呟き、道を空けた。
家の中は外見以上に荒んでいた。
壁紙ははがれ、床は沈み、かすかな湿った匂いが漂う。
部屋の片隅、薄い毛布に包まれた小さな身体がうずくまっていた。
少女だ。
十歳に満たない、小さく痩せ細った体。
寒さのせいか、体を丸め、咳き込んで肩を震わせている。
「誰……?」
少女が顔を上げた。
大きな瞳は病の熱で潤んでいたが、その奥には確かな光が残っている。
人の助けを求める光――しかし、長くその光に応えられなかった世界を恨むような、そんな痛みも滲んでいた。
バーテミウスは一歩近づき、少女と同じ高さにしゃがんだ。
無造作に、しかし丁寧に。
「君を……治したいと願っている魔法使いがいる。」
「まほ……う?」
少女は意味がわからず、ふるふると首を傾げた。
「そう。君の病は、マグルの医療では治せない。
でも魔法なら――治せるんだ。」
少女の目が見開かれた。
その変化の速さがあまりにも純真で、バーテミウスはわずかに眉を揺らした。
こんな光を持つ子供たちを、レギュラスは手にかけたのだ。
しかも、その最後の一人は――。
翡翠の瞳。
アランブラックと同じ、宝石のような色だった。
あの男の心が揺れた理由は明白だ。
あれほど強固な精神を持つレギュラスブラックでさえ、あの瞳に刺し貫かれた。
罪が、その瞳に反射してしまったのだ。
そして――いま目の前にいるこの少女は、幼さゆえにその影をまだ知らない。
だからこそ、救われるべき命だと、理解していないままに願ってしまう。
「つ、連れていかれるの……?」
怯えにも似た声を漏らす少女に、バーテミウスは手を差し出した。
「怖がらなくていい。君には――生きる価値がある。」
少女は戸惑いながらも、その手に小さく自分の手を重ねた。
薄く、冷たく、頼りない。
バーテミウスの胸に奇妙な感覚が広がった。
レギュラスブラックはこの手を取れない。
罪悪感が、彼を縛りつけている。
自分の手で奪った命の重さが、いまも彼の背を押し潰している。
――だが、自分にはその痛みはない。
少女の手は軽い。
罪の色を映さない小さな掌だった。
そんな手を引きながら、バーテミウスは皮肉を込めた薄笑いを浮かべる。
「さて、行こうか。君を救いたがっている、妙に律儀な魔法使いのところへ。」
少女は不安げに眉を寄せたが、バーテミウスの手にしがみついた。
その強さは、まるで「生きたい」と声なき声で訴えているようだった。
老夫婦が、二人を見送る。
沈んだ目に、わずかな希望が差すように揺れていた。
少女の手を握る感触が、どこか可笑しくもあった。
レギュラスブラックという男は、あれほど冷徹でありながら、
――こんな小さな命に、罪を重ねたことをいまも背負っている。
その重さがどれほど彼を蝕んでいるのか、考えるだけで胸がざわつく。
「さあ、魔法界へ。
君の物語はまだ終わらない。」
バーテミウスは少女の手を強く引き、
マグル界の冷たい空気を裂いて歩き出した。
その顔には静かな笑み――この世界で生き抜く者の、したたかな笑みが浮かんでいた。
灰色の雲が垂れ込めるマグルの町を離れ、バーテミウスは少女の細い手を引いて歩いた。
少女は黒髪を風に揺らしながら、体の半分ほどある薄手のコートをきゅっと握りしめ、必死に歩幅を合わせてくる。
病で痩せた頬が冷気に赤く染まっていたが、その瞳だけは――驚くほど生き生きとしていた。
魔法界へと移動する瞬間。
バーテミウスが手を動かすと、空気が水面のように揺らぎ、少女の足元がふわりと浮いた。
「わぁっ……!」
少女の黒い瞳がぱぁっと開かれる。
光を吸い込んだように輝き、喜びがそのまま形になったような、透き通るような表情をする。
「お兄さん……魔法使いなの?」
「ええ、魔法使いですよ。」
「いい魔法使いなの?」
幼い子特有のまっすぐな質問だった。
自分の心の濁りなど知らない小さな瞳が、何も疑わずに答えを待っている。
バーテミウスは思わず吹き出しそうになった。
「いい魔法使い」か――そんなもの、自分で断言できたことは人生で一度もない。
いや、少なくとも自分は、どちらでもない。
善ではなく、悪でもなく。ただ状況に応じて動き、利益に従って笑うだけの薄情な魔法使いだ。
「……どうでしょうね。君が決めればいい。」
とだけ答えると、少女は満足げに「ふうん」と頷いた。
彼女は、魔法界に向かう道すべてを宝石のように見つめていた。
草木の色、光の揺らぎ、移動の音――その一つ一つに反応し、感嘆の息を漏らす。
重い病を抱えながらも、世界をこんなふうに見られるのかと、バーテミウスはほんの少しだけ胸を掠めるものを感じた。
だが同時に、別の感情が静かに沸き上がる。
――この少女の存在が、レギュラスブラックをどう狂わせていくのか。
それを間近で見る。しかし決して手出しはせず、ただ観劇の座席から愉しむ。
手を差し伸べているようでいて、実際はただ舞台の幕が上がる瞬間を心待ちにしているだけの観客。
そんな自分の立ち位置が、滑稽で心地よかった。
やがてブラック家の巨大な鉄門が見えてきた。
磨き抜かれた黒曜石のように冷たい外壁、魔法の文様が淡く光る扉、広大な庭――
少女の世界とは正反対の、贅沢と権威の象徴。
少女は息を飲んだ。
「……お城みたい……」
「ええ。ここはこの国で一番高貴な魔法使いの家ですよ。」
「特別な魔法使いの家です。」
バーテミウスは微笑んだが、その裏には皮肉が滲んでいた。
高貴だの、特別だの――
この屋敷がマグルの足を跨がせる日が来るとは、誰が想像しただろう。
地下牢の少女を妻に迎え、
今度はマグルの子供を家に入れる。
誇り高きブラック家は、どこまで堕ちていくのか。
その滑落を見届けるのは、確かに滑稽で……美しい悲劇の序章でもあった。
案内された部屋に少女を入れると、少女はゆっくりと中を見渡した。
暖炉の火が柔らかく揺れ、絨毯は雪のように柔らかく、家具も窓も壁紙も、これまで見たこともないほど華やかだった。
少女はうっとりしながら呟く。
「本当に……お城みたい……」
「君は今日から、魔法の世界で治療を受ける。
安心していい。ここには君を助けたい魔法使いがいる。」
少女は嬉しそうに頷いた。
まだ知らない。
この屋敷に住む魔法使い――レギュラスブラックが、どんな罪を背負い、どんな絶望を抱え、どんな翳りを瞳に宿しているのか。
ただ無邪気に、純粋に光だけを見つめている。
だからこそ――美しい。
そして、だからこそ――残酷だ。
バーテミウスはドアの前で振り返り、少女の輝く瞳をもう一度眺めた。
この少女が、レギュラスの心に何をもたらすのか。
崩壊か、浄化か、それとも――さらなる罪か。
そのすべてが、バーテミウスにとっては甘美な娯楽でしかなかった。
「ゆっくり休みなさい。
君の物語は、まだ始まったばかりだ。」
そう告げてバーテミウスは、静かに扉を閉めた。
扉の向こうで、かすかな足音がした。
厚い絨毯を踏みしめる、小さく軽い音――レギュラスの靴音ではない。
バーテミウスは眉を寄せ、小さく首を傾げた。
ブラック家の医務魔法使いかと思い、そっと扉を開く。
しかし、そこに立っていたのは――
アラン・ブラックだった。
ふわりと揺れた黒髪。
濁りを知らぬ翡翠の瞳。
白磁のように透き通る肌。
そして、柔らかな光を受けてきらめく深紅のドレス。
地下の寒い石牢に閉じ込められ、
ぼろ切れを纏い、
声を奪われ、
名すら奪われたあの少女。
その面影は、もうどこにもなかった。
目の前に立つアランは――
まるで最初から純血貴族の令嬢であったかのように、気品そのものの佇まいでそこにいた。
バーテミウスは自然と口元に笑みを浮かべ、
誇張でも皮肉でもなく深く礼を取った。
「これはこれは――失礼をしました、ミセス・ブラック。」
その声には敬意があった。
いや、敬意というよりも、
“レギュラスが作り上げた美しい傑作”を前にした、感嘆に近いものだった。
アランはすぐにバーテミウスの背後――部屋の奥を見つめた。
そこにいる少女。
小柄で痩せた体。
黒い瞳が怯えと好奇心を混ぜた光を宿している。
アランは杖を持ち上げ、空中に静かに文字を描いた。
淡い光を帯びた文字が、ゆっくりと揺れる。
「魔力を感じません……マグルの子どもですか?」
その字はどこか震えていた。
驚きか、悲しみか、恐れか――読み取れないほど静かで儚い揺れ方だった。
バーテミウスは微笑を深め、
アランの耳元にわずかに顔を寄せた。
「ええ。レギュラス・ブラックが罪を着せたマグルの男の娘ですよ。」
囁き声は軽く、愉悦を含んでいた。
アランは小さく息を呑んだ。
胸元がわずかに震え、瞳が翳る。
その反応は――あまりにも純粋で、あまりにも痛々しかった。
“この人は知らないほうがいいのだろう”
と、一瞬思うほどに。
だが、同時にバーテミウスは心の中でくつくつと笑っていた。
――やはり、この女はレギュラスの弱点だ。
たった一言で、こんなにも揺れる。
沈黙の後、バーテミウスは胸に手を当て、丁寧に名乗った。
「失礼。名乗っておりませんでしたね。
バーテミウス・クラウチ・ジュニアと申します。」
アランの瞳が微かに揺れる。
覚えていない――いや、たぶん知らない。
地下の暗闇の中、彼女は名を呼ばれることすらなかったのだから。
だが、バーテミウスは覚えていた。
あの冷たい石牢。
あの惨めな少女。
レギュラスが珍しく“頼み事”をしてきた日のことを。
「……食事を、彼女の手に渡してやってくれ。」
扉の前に置くだけでよかったはずの施しを、
レギュラスは頑なに拒否した。
“手に渡せ。
手で受け取らせてやってほしい。”
あの時のレギュラスの声音。
冷たさの中に仕込まれた、異様な執着。
バーテミウスはその意味を理解できずにいたが――
今、こうして目の前に立つアランを見て思う。
――ああ、レギュラスは本気だったのだ、と。
地下の頃、バーテミウスは彼女に名を明かしたこともない。
名乗る価値がないと思っていた。
だが今、アランはブラック家の正妻。
魔法界の頂点に立つ血族の象徴。
レギュラスが命を懸けて守る光。
ゆえに、バーテミウスは丁重に名乗る。
その皮肉すら、誰にも悟られないほど丁寧に。
アランは小さく会釈した。
その仕草は頼りなげで、それでいて儚いほど美しく――
あの地下牢で震えていた少女が、
いまや“ブラック家の奥方”として目の前にいるという事実が、
バーテミウスにはたまらなく面白かった。
レギュラスが彼女にどれほど執着し、
どれほど彼女を光に引き上げ、
どれほどの罪を抱えているのか。
その全てが、アランの翡翠の瞳の揺れに映っていた。
そしてその瞳は――
“彼の罪の影”から逃れようともしない。
その忠誠と愛が、滑稽で、脆くて、目が離せなかった。
バーテミウスは微笑んだまま、少女とアランを順に 見た。
無垢な子供と、罪を抱えた妻と、狂った夫。
――美しい三角形だ。
これから崩れていくその過程を、誰よりも近くで見られるのだから。
静かに扉が閉じられ、魔法の火がゆらりと揺れた。
少女の前に立った瞬間から、
胸の奥が細く締めつけられていた。
――レギュラスが罪を着せた男の娘。
バーテミウスが淡々と囁いたあの言葉が、
まるで呪文のようにアランの耳から離れなかった。
部屋の片隅、柔らかい光の差す窓辺に、
少女はぽつんと座っていた。
薄い膝を抱え込むようにして、
黒い瞳だけが大きくこちらを見ている。
痩せ細った肩。
足首まで隠れる古びたワンピース。
その小さな体は、頼りなく折れてしまいそうだった。
少女の瞳がこちらをまっすぐに射抜く。
「……あなたは、だれ?」
つぶやくような声だった。
驚くほど澄んだ、壊れ物のような声。
アランは胸の奥がぎゅっと痛んだ。
少女を見下ろしていてはいけない――そう思った瞬間、
自然と膝が床についた。
ゆっくりとしゃがみ込み、少女と同じ高さになる。
目線が合った瞬間、小さな肩がさらに小さく揺れた。
アランはそっと杖を持ち上げ、
空中に薄い光の文字を描く。
アラン・ブラック
文字のひとつひとつが静かに揺れ、
少女は口を開けて見つめた。
「すごい……杖で文章が出てる……」
目の奥に浮かんだ、純粋な驚き。
その輝きが痛いほどまぶしかった。
少女は胸元に手を置いて名乗る。
「わたし……メイラ。
メイラ・ウォルブリッジ。」
その名前は、この広い屋敷の中でひどく小さく、
けれど確かに響いた。
アランは微笑んだ。
その微笑みは自分でもわかるほど震えていた。
メイラは首を傾げる。
「お姉さんも、魔法使いなの?」
アランはそっと頷く。
メイラは嬉しそうに目を細めた。
無垢。
ただ無垢でしかない少女。
その無垢の前で、アランの胸が焼けるように痛む。
レギュラスと共に背負おうと思っていた罪は、
こんなにも重く、鋭く、刺すようなものだったのか。
この子は何も悪くない。
親を失った。
生きる道もわからない。
それでも希望の欠片を探すみたいに、
小さな瞳で未来をのぞいている。
「……私を治してくれる優しい魔法使いがいるって聞いたわ。」
メイラが無邪気に笑って言った。
その笑顔はあまりにもまっすぐで、
アランの心の奥に冷たい刃のように届いた。
バーテミウスがどんな説明をして
この少女をここまで連れてきたのか――
理解した瞬間、喉の奥がひりついた。
優しさの皮を被った、残酷な嘘。
救いを与えるふりをした、取引。
この子はその嘘を信じている。
無菌のように純粋な心で信じてしまっている。
視界がかすんだ。
涙が滲んで止められない。
メイラが不思議そうに覗き込む。
「お姉さん……泣いてるの?」
アランは唇を噛む。
言葉を持たないゆえに、
この想いを伝える手段がなかった。
ただ、胸に手を当て、
ゆっくりと首を振った。
メイラの手が、小さくアランの指先を触る。
冷たくて細い手だった。
「大丈夫。
だって……魔法使いさんは、優しいんでしょう?」
あまりにも、残酷だった。
あまりにも痛かった。
それでもアランは微笑んだ。
涙で滲んだ視界の向こうで、メイラの黒い瞳だけが揺れていた。
――共に背負いたいと願った罪は、
こんなにも重く、
こんなにも苦しい。
それでも、背負うしかない。
レギュラスのために。
そして、あの日失われた子供たちのために。
アランは震える指でひとつだけ言葉を描いた。
あなたは、救われるべき子です。
光が揺れ、滲み、消えた。
メイラは、その人影を見た瞬間、
胸の奥がひゅ、と細く震えた。
扉の向こうに立っていた女性――
アラン・ブラック。
柔らかな光に照らされたその姿は、
まるで絵本から抜け出した姫のようで、
ゆるやかに揺れた漆黒の髪が光を吸い込みながら、
宝石めいた翡翠の瞳を際立たせていた。
こんなに綺麗な人間がいるなんて。
魔法使いって……こんなにも、美しい。
息を呑んだのは、それを見た瞬間だった。
胸に初めて芽生えた感情は、憧れに近かった。
――私も、魔法使いになりたい。
魔法が使えないから。
魔法の血を持っていないから。
この人のようにはなれないと分かっている。
それでもメイラは、生まれて初めて
「もし魔法使いになれたなら」という夢を抱いた。
アランはそっと微笑み、
杖を動かして空に文字を描いた。
淡く光る言葉。
線が揺れ、空気中でふわりと漂い、
しずかに形を作る。
声の代わりに紡がれた、
静かで、それでも強い意思のこもった言葉。
その様子は、魔法よりもずっと魔法のようだった。
アランの頬を、涙がひと筋流れ落ちる。
泣く仕草さえ――息をのむほど綺麗だった。
メイラは喉がきゅっと締まるような、
胸を刺すような感覚に包まれた。
目の前のこの人を、
どう表現すればいいのかわからない。
言葉が自然と零れた。
「……どうして、声が出なくなっちゃったの?」
自分でも聞くべきじゃないと思った。
けれど、聞かずにはいられなかった。
だって、こんなに綺麗な人の声は
きっと天使みたいなんだろうと想像したから。
アランはほんの少し考え、
また杖を持ち上げて空に綺麗な文字を描く。
大きな声を出しすぎました。
光る文字は静かに揺れた。
メイラは眉を下げる。
「魔法で……治せないの?」
いつか父に向けて泣き叫んだ時のように、
幼い願いが、素直にこぼれた。
アランは優しく首を振り、
再び杖で文字を紡ぐ。
治せるものと治せないものがあります。
私の声は魔法では直せません。
メイラは唇をきゅっと噛んだ。
こんなにも綺麗な人が、
こんなにも優しい人が、
こんなにも温かいのに。
もし声があったなら――
どんな声で自分の名前を呼んでくれたんだろう。
その想像だけで胸が熱くなる。
泣きたくなるほど美しい。
胸に焼きつくほど柔らかい眼差し。
自分の前に膝をついて向き合ってくれる、その姿。
魔法使いになりたいなんて思った理由は、
魔法が使えるからじゃない。
――この人のようになれるなら。
こんなふうに誰かを照らせるなら。
魔法がない自分でも、
なれたらいいのに。
メイラはそっとアランの指先に触れる。
その温度は、自分が知らない世界の温度だった。
「……お姉さんの声、
きけたらよかったな。」
小さく吐き出した言葉は、
アランの胸の奥に静かに落ちていった。
アランはその小さな手を包み込み、
涙をこらえるように微笑んだ。
その笑顔は、誰よりも魔法のようだった。
医務魔法使いが静かに扉を叩き、部屋へと入ってきた。
黒いローブの裾が床を擦るたび、淡い光が揺れ、
その気配にメイラはびくりと肩を跳ねさせた。
「こんにちは。少し触りますよ」
柔らかな声に、メイラは怯えた子鹿のように小さく頷く。
医務魔法使いの指先が少女の額に触れ、
紫がかった診断魔法の光が淡く灯る。
その光に照らされたメイラの頬は薄くこけており、
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
魔法使いは魔法薬を手早く調合し、
小瓶に詰めて少女の枕元へと置いた。
「数日、これを服用すれば回復するでしょう。
安心していいですよ」
その言葉は静かに部屋に落ち、
メイラはほっと息をこぼした。
アランは深く頭を下げ、
そのまま少女のそばに膝を折る。
医務魔法使いが退室すると、
部屋には二人分の呼吸音だけが残った。
アランは杖を取る。
空気の上に柔らかく光る文字を描いた。
もう大丈夫。
腕のいい魔法使いが、あなたの病気を治してくれます。
メイラはその光の文字を目で追いながら、
安心したように胸に手を当てた。
アランの瞳はわずかに揺れていた。
――レギュラスが、医務魔法使いを。
彼はあの日以来、何ひとつ語ろうとしない。
あの孤児院の闇を、
どれほどの深さで抱え込んでいるのか。
どれほどの夜、悪夢に沈んだのか。
その答えはいつも沈黙の奥に隠されていた。
けれどこの少女を救おうとした意思だけは、
確かにここに残っている。
誰にも見せない痛みの輪郭に、
アランはそっと触れたような気がした。
「アランさん……赤ちゃんがいるの?」
メイラが大きな瞳を丸くして覗き込む。
アランは微笑み、静かに頷いた。
少女の小さな手が恐る恐る伸びてきて、
アランの膨らみ始めた腹へそっと触れる。
「赤ちゃんも……すごい魔法使いなのかな?」
その問いは無垢で、
あまりにもまっすぐで、
胸の奥の柔らかい場所を優しく揺らす。
アランは杖を握り、光の文字で答えた。
きっと、とても優しい子になります。
メイラはぱぁっと顔を明るくして笑った。
その笑顔が嬉しくて、
アランは自分の胸が温かく満ちていくのを感じた。
罪の片側にある小さな命。
償いの片側にある小さな希望。
少女の無垢な手の温度は、
そのどちらにも触れているように思えた。
屋敷へ戻った瞬間、
胸を貫くような冷たい衝撃がレギュラスを襲った。
――誤算だ。
とんでもない誤算だ。
用意された静謐な廊下。
封じられたはずの扉。
誰も近づかないよう細心の注意を払って選んだはずの部屋。
そのすべてが無意味だった。
バーテミウスに、アランへは一切話していないと釘を刺すべきだった。
アランが少女と対面する可能性など、
徹底的に排除しておくべきだった。
胃の奥がきりきりと痛み、
レギュラスは歩きながらこめかみを押さえる。
「薬を持たせて、マグル界に戻しましょう」
低い声で言い切った瞬間、
袖口をつかむ細い指があった。
アランだった。
必死だった。
翡翠の瞳が揺れている。
今にも涙がこぼれそうで、
けれどしがみつくようにレギュラスを見上げている。
アランは杖を振る。
淡い光が空気を切り裂くように文字を描く。
ここで育てるべきです。
その筆跡は震えており、
少女の存在が彼女の胸にどれほど重くのしかかっているかが
一瞬でわかった。
レギュラスは息を呑む。
そして次の瞬間、
焼け付くような苛立ちが喉元までこみ上げた。
「…… アラン、何を馬鹿なことを言っているんですか」
低く、いつになく厳しい声音。
アランの肩がびくりと震える。
「マグルを、この屋敷で?」
抑えきれぬ怒りと困惑が滲む。
「そんな禁忌が許されるはずがない」
アランは唇を噛む。
声は出せなくても、言いたいことは痛いほど伝わってきた。
少女を見捨てることはできないということも。
父を奪われ、病を抱え、
行き場を失った小さな命だということも。
けれど。
「アラン、これは情では判断できません」
レギュラスは彼女の両肩に手を置いた。
静かに、しかし逃がさぬように。
「マグルと魔法族では、住む世界が違う」
翡翠の瞳が揺れる。
その揺れのひとつひとつが胸を刺す。
「ブラック家が名もなきマグルの少女を匿うなどという噂が広まれば……」
レギュラスは息をひとつのみ込む。
「魔法界は、一瞬で揺らぐ」
貴族階級、純血思想、
闇の陣営、魔法省の中枢――
どれもが敵に回る。
ただ少女ひとりを庇っただけで、
ブラック家の名は崩れ、
アランの身にも危険が迫る。
「それに……」
レギュラスはそっと、アランの手元へ視線を落とした。
彼女の腹。その中で確かに育っている小さな命。
「この屋敷は、魔力のない存在を永く受け入れられる場所ではありません」
言葉は冷静であろうとするのに、
胸が締め付けられて苦しい。
アランの杖が震え、淡い光で文字を描こうとする。
けれど言葉が見つからないのか、
数度揺れただけで文字は結ばれなかった。
沈黙が落ちる。
レギュラスは深く息を吸った。
そしてアランの手を包むように握る。
拒絶ではなく、諭すために。
「…… アラン。あなたの優しさは美しい。
けれど、世界はそれを赦しません」
そう呟いた瞬間、
アランの瞳が大きく揺れた。
少女を守りたい想いと、
レギュラスの言葉の重みに引き裂かれるように。
その瞳の中で、
レギュラスは初めて知る。
―― アランは、少女を通して彼の罪の影まで抱きしめようとしている。
そしてその優しさこそが、
何よりも危険で、
何よりも愛おしく、
何よりも彼を苦しめていくのだった。
アランは、食い下がってきた。
――従順だった彼女が。
――いつもなら、静かに頷き、彼の判断に寄り添ってくれていた彼女が。
初めて、明確な“意志”を持って立ちはだかってきた。
レギュラスは信じられず、そして恐ろしくなった。
その意志が、美しく、まっすぐで、
まるで彼の心の最も柔らかな場所に刃を当てるようだったからだ。
「アラン、いい加減にしてください」
声は冷たく響いた。
冷たくなければ、揺れてしまいそうだったから。
アランはレギュラスの手を振り解き、
少女の部屋へ向かおうとする。
その小さな背中が、迷いなく前へ進もうとする。
「どこへ行く気です?」
レギュラスは慌てて腕を掴み、引き留めた。
その指に、焦りと恐れと苛立ちが混じる。
アランは静かに杖を振る。
淡い光が空気に溶けて、文字が浮かぶ。
ひとりぼっちの少女が震えています。
私の手は、彼女を抱きしめることができます。
その一文は、
刃のようにやわらかく、
刃のように深く、
レギュラスの胸を刺し貫いた。
あまりにも美しい。
あまりにも正しい。
そして――あまりにも残酷だった。
返す言葉が、一瞬消えた。
喉に重い石を押し込まれたような沈黙が落ちる。
レギュラスは、搾り出すように言った。
「…… アラン、お願いです。
これが僕としてもできる精一杯のことなんです」
声はかすかに震えていた。
「彼女のために――この家を、魔法界を、
そしてあなたを危険に晒すことはできません」
掴んでいた腕をそっと緩める。
その代わりに、彼女の手を握った。
離さぬように。
しかし、縛りつけないように。
それはレギュラスなりの“譲歩”だった。
苦渋の中で、かろうじて残した正義だった。
――これ以上は踏み越えてはいけない。
それなのに、
アランの瞳はなおも炎を宿している。
少女が震える部屋を思っている。
彼女の腕に抱かれようとしている小さな命を思っている。
レギュラスは痛いほどわかってしまう。
だが、それでも。
「アラン……これは、越えてはいけない一線なんです」
魔法族とマグル。
混じり合うことを許されない世界。
「本来であれば、交わることさえなかった運命です。
魔法医術の施しが終われば……彼女とは二度と会うことはありません。それでいいのです」
言いながら、胸が締め付けられる。
アランの瞳が揺れ、
悲しみがにじみ、
それでもなお誰かを救おうとしている。
美しくて、愚かで、
そして、彼には痛かった。
――あの日、自分があのマグルの男に手を差し伸べた。
――その娘を治そうなどと、あの時なぜ思ってしまったのか。
罪滅ぼしのつもりだった。
逃げだった。
軽さだった。
だが今、それがアランをこんな苦しみに追い込んでいる。
レギュラスはこの瞬間、
自分の甘さを心から後悔した。
少女を救ったことではない。
少女を屋敷に入れたことではない。
アランの心が、
少女に向かってしまったことを。
そして――
アランが少女を思うその優しさが、
レギュラス自身の罪を抉り、
揺さぶり続けていることを。
握ったアランの手はあたたかいのに、
胸の奥は、どうしようもなく寒かった。
わかっていた。
この家がマグルを受け入れるなど不可能だと――最初から、痛いほど。
それでも、願い出てしまった。
振りほどかれても、拒まれても、
あの小さな少女に寄り添いたいと思ってしまった。
彼女が震えていたあの一瞬が、どうしようもなく胸を掴んで離さなかった。
レギュラスの手は温かく、力強かった。
その手を取れば、大人しく従うことができたはずだった。
けれどアランは、そっとその手を振りほどいた。
まるで、自分の中のどこかが訴えているようだった。
――あの子をひとりにはできない。
少女の部屋の扉を開くと、
ベットの隅で横になっていたメイラがぱっと顔を上げた。
「アランさん!」
目が輝いている。
まるで心の中に灯りがともったように。
「私に治療を受けさせてくれた優しい魔法使いさんは、まだ帰ってこないの?」
その純粋さが、胸を刺した。
何も知らず、罪もなく、ただ治ることを願うだけの少女。
アランは杖をゆっくり振って言葉を紡ぐ。
『そのうち会いに来てくれますよ』
本当は何も分からない。
レギュラスがこの子を二度と家に置くつもりはないことも。
彼の優しさは長く伸びる枝ではなく、一瞬触れて弾ける泡のようなものだと知っている。
それでも――嘘をつくしかなかった。
メイラはその言葉に安心したように息をつき、
弱った身体をぎこちなく起こして、アランの方へにじり寄ろうとする。
「アランさん、こっちに座って? 一緒に話したいの」
アランは腹の重さを忘れて床に膝をつき、
メイラのベットのすぐそばに座り込んだ。
冷たい石床がじんと脚を冷やす。
それでも、目の前の少女との距離が近くなるだけで、
胸の奥がふっと温かく満たされた。
「ねぇ、アランさん。魔法ってね、私ね……」
メイラは嬉しそうに、両手を広げて話し始める。
「空も飛べるの? 絵本で見たの。魔法使いさんたちは空の上を走るって。
それ、本当?」
アランは笑った。
杖を振り、空中に絵を描くようにして見せる。
『飛べますよ。こんなふうに』
魔力の光がひらひらと舞い、
メイラの目が一層輝きを増す。
「わぁ……! すごい……!
アランさんは空、たくさん飛んだことある?」
『私は…少しだけ。でもね、とても綺麗ですよ』
メイラは目を細める。
自分が飛んでいるかのように、胸の前で手を広げたり閉じたりする。
「アランさんの赤ちゃんはね、きっとすっごい魔法使いだよ」
「だって、こんなに優しいんだもん。アランさんも、赤ちゃんも」
アランは胸がぎゅっと痛んだ。
そして涙が一粒こぼれ落ちた。
メイラは気づかず、嬉しそうに言葉をつなぐ。
「ねぇ、アランさん。
私は、ここにいてもいいの?
治ったら……帰らないといけないの?」
その小さな問いかけは刃になって、
胸の奥深くに静かに沈んでいく。
アランは震える手で杖を動かす。
『……大丈夫。今は、ここにいていいんですよ』
メイラはほっとしてアランの腕に寄り添うように寄る。
アランは少女の髪を撫でた。
冷たい床が足元を冷やす。
石の冷たさが、痛みのようにふくらはぎを刺す。
――それでも。
少女の小さなぬくもり。
細い指先がそっと自分の手を握る温度。
その全てが、胸の奥に静かな火を灯す。
この温かさだけが、
今のアランを支えてくれているようだった。
彼女は知っている。
きっと明日になれば引き離されるかもしれない。
この時間は、永遠には続かないだろう。
それでも――今だけは。
この小さな手を離したくなかった。
アランは少女の頭を胸元に引き寄せ、
声の代わりに、そっと抱きしめた。
手を伸ばしても――届かなかった。
アランはそっと、自分の手を退けた。
ふるりと小さく揺れる動きが、拒絶というより、痛みにあまりにも似ていた。
話は噛み合わず、互いに歩み寄れないまま終わってしまった。
けれど、折れることはできなかった。
ほんの少しの情けのつもりだった。
罪悪感の渦に飲まれないように、わずかな善を掴みたかっただけだった。
それが――こんな争いになるとは思わなかった。
孤児院で最後に命を奪われた翡翠の瞳の少女。
あの瞳が脳裏に蘇る。
今の自分をどんな顔で見下ろすのだろう。
――当然の報いだ。
そう言って笑うかもしれない。
胸がざわつき、冷たいものが背を撫でる。
レギュラスは少女の部屋へ向かった。
アランがそこにいると分かっているからだ。
廊下の空気は沈黙で満ち、足音がひどく重たかった。
ドアノブに触れた瞬間、手が震えた。
この扉の向こうにいる少女が、どんな目で自分を見るのか。
どんな顔を向けてくるのか。
それを考えただけで、胸の奥が押しつぶされそうになった。
罪を重ねれば重ねるほど、強くあろうとする気力が削られていく。
しがみついていた正義は、もうどこにもない。
ただ、積み上がる代償だけが重くのしかかる。
静かに扉を開けた。
薄暗い部屋。
窓からの月光に照らされて、二人の姿が柔らかく浮かび上がっていた。
部屋の隅のベット。
その横で、アランは少女に手を伸ばした姿勢のまま――床に座り込み、眠っていた。
冷たい石床に、薄い布一枚の妊婦が体を預けている。
その細い肩がわずかに震えているのが見えて、レギュラスの眉が深く寄った。
「…… アラン」
呼びかける声は無意識に低く、どこか痛々しい響きを帯びていた。
視線を横に移せば、少女が静かに眠っている。
痩せ細った腕を胸元に抱え、安堵の表情さえ浮かべて。
父親がどうして戻らないのか――
その真実を知らぬまま、ただここに身を寄せている。
レギュラスは感情を押し殺し、ゆっくり息を吐いた。
詫びるべきだと、どこかの声が囁いた。
――あの少女に。
――あの父親に。
――あの日の犠牲になったすべての子供に。
けれど、レギュラスは目を閉じてその声を封じた。
詫びることなど、できはしない。
純血魔法使いとして、
ブラック家の跡取りとして、
そんな弱さは許されない。
あれは“必要な犠牲”だった。
そう言い聞かせなければ、自分が崩れてしまう。
少女をじっと見下ろす。
無垢な寝顔が胸を締めつけた。
罪は増え続ける。
弱さも増え続ける。
それでも、アランの肩が冷たく震えているのを見ると――
レギュラスはその場に膝をついた。
彼女の冷えた手に、自分の手をそっと重ねる。
少女の眠りを妨げぬよう静かに。
胸を焦がす痛みだけが、ひどく鮮明だった。
アランの願いと、自分の正しさ。
大切なものが、それぞれ違う方向へ伸びていく。
けれど――
この部屋に満ちる静かなぬくもりだけは、確かだった。
レギュラスは小さく息を吸った。
「…… アラン。もう冷たい床で眠らないでください」
震えていたのは、アランではなく――
レギュラス自身の声だった。
舗装が剥がれ、雨で抉られた地面は泥と砂利が混ざり合い、歩くたびにざらりとした音を立てた。
バーテミウスはほとんど音のしない足取りで、みすぼらしい民家へと近づいていく。
薄暗い昼の光が、曇り硝子の窓にぼんやりと貼り付き、
扉には古びた木材が歪んだ釘で無理やり留められていた。
貧困と老朽と疲弊が、この家全体に染み込んでいる。
バーテミウスは戸を軽くノックした。
ぎい……と軋むような音が返事の代わりのように響く。
しばらくして、小柄な老婦人が顔を出した。
警戒と疲れを隠そうともしない濁った瞳――これが、この家の長年の苦労を語っていた。
「……どちらさんだい?」
「訪問の者です。」
バーテミウスはにこりともせず、しかし丁寧で柔らかい声で応える。
「あなた方のご家族に、お会いしたい。」
老婦人は一瞬だけ迷うように視線を泳がせ、やがて、
「……入りなさい」と低く呟き、道を空けた。
家の中は外見以上に荒んでいた。
壁紙ははがれ、床は沈み、かすかな湿った匂いが漂う。
部屋の片隅、薄い毛布に包まれた小さな身体がうずくまっていた。
少女だ。
十歳に満たない、小さく痩せ細った体。
寒さのせいか、体を丸め、咳き込んで肩を震わせている。
「誰……?」
少女が顔を上げた。
大きな瞳は病の熱で潤んでいたが、その奥には確かな光が残っている。
人の助けを求める光――しかし、長くその光に応えられなかった世界を恨むような、そんな痛みも滲んでいた。
バーテミウスは一歩近づき、少女と同じ高さにしゃがんだ。
無造作に、しかし丁寧に。
「君を……治したいと願っている魔法使いがいる。」
「まほ……う?」
少女は意味がわからず、ふるふると首を傾げた。
「そう。君の病は、マグルの医療では治せない。
でも魔法なら――治せるんだ。」
少女の目が見開かれた。
その変化の速さがあまりにも純真で、バーテミウスはわずかに眉を揺らした。
こんな光を持つ子供たちを、レギュラスは手にかけたのだ。
しかも、その最後の一人は――。
翡翠の瞳。
アランブラックと同じ、宝石のような色だった。
あの男の心が揺れた理由は明白だ。
あれほど強固な精神を持つレギュラスブラックでさえ、あの瞳に刺し貫かれた。
罪が、その瞳に反射してしまったのだ。
そして――いま目の前にいるこの少女は、幼さゆえにその影をまだ知らない。
だからこそ、救われるべき命だと、理解していないままに願ってしまう。
「つ、連れていかれるの……?」
怯えにも似た声を漏らす少女に、バーテミウスは手を差し出した。
「怖がらなくていい。君には――生きる価値がある。」
少女は戸惑いながらも、その手に小さく自分の手を重ねた。
薄く、冷たく、頼りない。
バーテミウスの胸に奇妙な感覚が広がった。
レギュラスブラックはこの手を取れない。
罪悪感が、彼を縛りつけている。
自分の手で奪った命の重さが、いまも彼の背を押し潰している。
――だが、自分にはその痛みはない。
少女の手は軽い。
罪の色を映さない小さな掌だった。
そんな手を引きながら、バーテミウスは皮肉を込めた薄笑いを浮かべる。
「さて、行こうか。君を救いたがっている、妙に律儀な魔法使いのところへ。」
少女は不安げに眉を寄せたが、バーテミウスの手にしがみついた。
その強さは、まるで「生きたい」と声なき声で訴えているようだった。
老夫婦が、二人を見送る。
沈んだ目に、わずかな希望が差すように揺れていた。
少女の手を握る感触が、どこか可笑しくもあった。
レギュラスブラックという男は、あれほど冷徹でありながら、
――こんな小さな命に、罪を重ねたことをいまも背負っている。
その重さがどれほど彼を蝕んでいるのか、考えるだけで胸がざわつく。
「さあ、魔法界へ。
君の物語はまだ終わらない。」
バーテミウスは少女の手を強く引き、
マグル界の冷たい空気を裂いて歩き出した。
その顔には静かな笑み――この世界で生き抜く者の、したたかな笑みが浮かんでいた。
灰色の雲が垂れ込めるマグルの町を離れ、バーテミウスは少女の細い手を引いて歩いた。
少女は黒髪を風に揺らしながら、体の半分ほどある薄手のコートをきゅっと握りしめ、必死に歩幅を合わせてくる。
病で痩せた頬が冷気に赤く染まっていたが、その瞳だけは――驚くほど生き生きとしていた。
魔法界へと移動する瞬間。
バーテミウスが手を動かすと、空気が水面のように揺らぎ、少女の足元がふわりと浮いた。
「わぁっ……!」
少女の黒い瞳がぱぁっと開かれる。
光を吸い込んだように輝き、喜びがそのまま形になったような、透き通るような表情をする。
「お兄さん……魔法使いなの?」
「ええ、魔法使いですよ。」
「いい魔法使いなの?」
幼い子特有のまっすぐな質問だった。
自分の心の濁りなど知らない小さな瞳が、何も疑わずに答えを待っている。
バーテミウスは思わず吹き出しそうになった。
「いい魔法使い」か――そんなもの、自分で断言できたことは人生で一度もない。
いや、少なくとも自分は、どちらでもない。
善ではなく、悪でもなく。ただ状況に応じて動き、利益に従って笑うだけの薄情な魔法使いだ。
「……どうでしょうね。君が決めればいい。」
とだけ答えると、少女は満足げに「ふうん」と頷いた。
彼女は、魔法界に向かう道すべてを宝石のように見つめていた。
草木の色、光の揺らぎ、移動の音――その一つ一つに反応し、感嘆の息を漏らす。
重い病を抱えながらも、世界をこんなふうに見られるのかと、バーテミウスはほんの少しだけ胸を掠めるものを感じた。
だが同時に、別の感情が静かに沸き上がる。
――この少女の存在が、レギュラスブラックをどう狂わせていくのか。
それを間近で見る。しかし決して手出しはせず、ただ観劇の座席から愉しむ。
手を差し伸べているようでいて、実際はただ舞台の幕が上がる瞬間を心待ちにしているだけの観客。
そんな自分の立ち位置が、滑稽で心地よかった。
やがてブラック家の巨大な鉄門が見えてきた。
磨き抜かれた黒曜石のように冷たい外壁、魔法の文様が淡く光る扉、広大な庭――
少女の世界とは正反対の、贅沢と権威の象徴。
少女は息を飲んだ。
「……お城みたい……」
「ええ。ここはこの国で一番高貴な魔法使いの家ですよ。」
「特別な魔法使いの家です。」
バーテミウスは微笑んだが、その裏には皮肉が滲んでいた。
高貴だの、特別だの――
この屋敷がマグルの足を跨がせる日が来るとは、誰が想像しただろう。
地下牢の少女を妻に迎え、
今度はマグルの子供を家に入れる。
誇り高きブラック家は、どこまで堕ちていくのか。
その滑落を見届けるのは、確かに滑稽で……美しい悲劇の序章でもあった。
案内された部屋に少女を入れると、少女はゆっくりと中を見渡した。
暖炉の火が柔らかく揺れ、絨毯は雪のように柔らかく、家具も窓も壁紙も、これまで見たこともないほど華やかだった。
少女はうっとりしながら呟く。
「本当に……お城みたい……」
「君は今日から、魔法の世界で治療を受ける。
安心していい。ここには君を助けたい魔法使いがいる。」
少女は嬉しそうに頷いた。
まだ知らない。
この屋敷に住む魔法使い――レギュラスブラックが、どんな罪を背負い、どんな絶望を抱え、どんな翳りを瞳に宿しているのか。
ただ無邪気に、純粋に光だけを見つめている。
だからこそ――美しい。
そして、だからこそ――残酷だ。
バーテミウスはドアの前で振り返り、少女の輝く瞳をもう一度眺めた。
この少女が、レギュラスの心に何をもたらすのか。
崩壊か、浄化か、それとも――さらなる罪か。
そのすべてが、バーテミウスにとっては甘美な娯楽でしかなかった。
「ゆっくり休みなさい。
君の物語は、まだ始まったばかりだ。」
そう告げてバーテミウスは、静かに扉を閉めた。
扉の向こうで、かすかな足音がした。
厚い絨毯を踏みしめる、小さく軽い音――レギュラスの靴音ではない。
バーテミウスは眉を寄せ、小さく首を傾げた。
ブラック家の医務魔法使いかと思い、そっと扉を開く。
しかし、そこに立っていたのは――
アラン・ブラックだった。
ふわりと揺れた黒髪。
濁りを知らぬ翡翠の瞳。
白磁のように透き通る肌。
そして、柔らかな光を受けてきらめく深紅のドレス。
地下の寒い石牢に閉じ込められ、
ぼろ切れを纏い、
声を奪われ、
名すら奪われたあの少女。
その面影は、もうどこにもなかった。
目の前に立つアランは――
まるで最初から純血貴族の令嬢であったかのように、気品そのものの佇まいでそこにいた。
バーテミウスは自然と口元に笑みを浮かべ、
誇張でも皮肉でもなく深く礼を取った。
「これはこれは――失礼をしました、ミセス・ブラック。」
その声には敬意があった。
いや、敬意というよりも、
“レギュラスが作り上げた美しい傑作”を前にした、感嘆に近いものだった。
アランはすぐにバーテミウスの背後――部屋の奥を見つめた。
そこにいる少女。
小柄で痩せた体。
黒い瞳が怯えと好奇心を混ぜた光を宿している。
アランは杖を持ち上げ、空中に静かに文字を描いた。
淡い光を帯びた文字が、ゆっくりと揺れる。
「魔力を感じません……マグルの子どもですか?」
その字はどこか震えていた。
驚きか、悲しみか、恐れか――読み取れないほど静かで儚い揺れ方だった。
バーテミウスは微笑を深め、
アランの耳元にわずかに顔を寄せた。
「ええ。レギュラス・ブラックが罪を着せたマグルの男の娘ですよ。」
囁き声は軽く、愉悦を含んでいた。
アランは小さく息を呑んだ。
胸元がわずかに震え、瞳が翳る。
その反応は――あまりにも純粋で、あまりにも痛々しかった。
“この人は知らないほうがいいのだろう”
と、一瞬思うほどに。
だが、同時にバーテミウスは心の中でくつくつと笑っていた。
――やはり、この女はレギュラスの弱点だ。
たった一言で、こんなにも揺れる。
沈黙の後、バーテミウスは胸に手を当て、丁寧に名乗った。
「失礼。名乗っておりませんでしたね。
バーテミウス・クラウチ・ジュニアと申します。」
アランの瞳が微かに揺れる。
覚えていない――いや、たぶん知らない。
地下の暗闇の中、彼女は名を呼ばれることすらなかったのだから。
だが、バーテミウスは覚えていた。
あの冷たい石牢。
あの惨めな少女。
レギュラスが珍しく“頼み事”をしてきた日のことを。
「……食事を、彼女の手に渡してやってくれ。」
扉の前に置くだけでよかったはずの施しを、
レギュラスは頑なに拒否した。
“手に渡せ。
手で受け取らせてやってほしい。”
あの時のレギュラスの声音。
冷たさの中に仕込まれた、異様な執着。
バーテミウスはその意味を理解できずにいたが――
今、こうして目の前に立つアランを見て思う。
――ああ、レギュラスは本気だったのだ、と。
地下の頃、バーテミウスは彼女に名を明かしたこともない。
名乗る価値がないと思っていた。
だが今、アランはブラック家の正妻。
魔法界の頂点に立つ血族の象徴。
レギュラスが命を懸けて守る光。
ゆえに、バーテミウスは丁重に名乗る。
その皮肉すら、誰にも悟られないほど丁寧に。
アランは小さく会釈した。
その仕草は頼りなげで、それでいて儚いほど美しく――
あの地下牢で震えていた少女が、
いまや“ブラック家の奥方”として目の前にいるという事実が、
バーテミウスにはたまらなく面白かった。
レギュラスが彼女にどれほど執着し、
どれほど彼女を光に引き上げ、
どれほどの罪を抱えているのか。
その全てが、アランの翡翠の瞳の揺れに映っていた。
そしてその瞳は――
“彼の罪の影”から逃れようともしない。
その忠誠と愛が、滑稽で、脆くて、目が離せなかった。
バーテミウスは微笑んだまま、少女とアランを順に 見た。
無垢な子供と、罪を抱えた妻と、狂った夫。
――美しい三角形だ。
これから崩れていくその過程を、誰よりも近くで見られるのだから。
静かに扉が閉じられ、魔法の火がゆらりと揺れた。
少女の前に立った瞬間から、
胸の奥が細く締めつけられていた。
――レギュラスが罪を着せた男の娘。
バーテミウスが淡々と囁いたあの言葉が、
まるで呪文のようにアランの耳から離れなかった。
部屋の片隅、柔らかい光の差す窓辺に、
少女はぽつんと座っていた。
薄い膝を抱え込むようにして、
黒い瞳だけが大きくこちらを見ている。
痩せ細った肩。
足首まで隠れる古びたワンピース。
その小さな体は、頼りなく折れてしまいそうだった。
少女の瞳がこちらをまっすぐに射抜く。
「……あなたは、だれ?」
つぶやくような声だった。
驚くほど澄んだ、壊れ物のような声。
アランは胸の奥がぎゅっと痛んだ。
少女を見下ろしていてはいけない――そう思った瞬間、
自然と膝が床についた。
ゆっくりとしゃがみ込み、少女と同じ高さになる。
目線が合った瞬間、小さな肩がさらに小さく揺れた。
アランはそっと杖を持ち上げ、
空中に薄い光の文字を描く。
アラン・ブラック
文字のひとつひとつが静かに揺れ、
少女は口を開けて見つめた。
「すごい……杖で文章が出てる……」
目の奥に浮かんだ、純粋な驚き。
その輝きが痛いほどまぶしかった。
少女は胸元に手を置いて名乗る。
「わたし……メイラ。
メイラ・ウォルブリッジ。」
その名前は、この広い屋敷の中でひどく小さく、
けれど確かに響いた。
アランは微笑んだ。
その微笑みは自分でもわかるほど震えていた。
メイラは首を傾げる。
「お姉さんも、魔法使いなの?」
アランはそっと頷く。
メイラは嬉しそうに目を細めた。
無垢。
ただ無垢でしかない少女。
その無垢の前で、アランの胸が焼けるように痛む。
レギュラスと共に背負おうと思っていた罪は、
こんなにも重く、鋭く、刺すようなものだったのか。
この子は何も悪くない。
親を失った。
生きる道もわからない。
それでも希望の欠片を探すみたいに、
小さな瞳で未来をのぞいている。
「……私を治してくれる優しい魔法使いがいるって聞いたわ。」
メイラが無邪気に笑って言った。
その笑顔はあまりにもまっすぐで、
アランの心の奥に冷たい刃のように届いた。
バーテミウスがどんな説明をして
この少女をここまで連れてきたのか――
理解した瞬間、喉の奥がひりついた。
優しさの皮を被った、残酷な嘘。
救いを与えるふりをした、取引。
この子はその嘘を信じている。
無菌のように純粋な心で信じてしまっている。
視界がかすんだ。
涙が滲んで止められない。
メイラが不思議そうに覗き込む。
「お姉さん……泣いてるの?」
アランは唇を噛む。
言葉を持たないゆえに、
この想いを伝える手段がなかった。
ただ、胸に手を当て、
ゆっくりと首を振った。
メイラの手が、小さくアランの指先を触る。
冷たくて細い手だった。
「大丈夫。
だって……魔法使いさんは、優しいんでしょう?」
あまりにも、残酷だった。
あまりにも痛かった。
それでもアランは微笑んだ。
涙で滲んだ視界の向こうで、メイラの黒い瞳だけが揺れていた。
――共に背負いたいと願った罪は、
こんなにも重く、
こんなにも苦しい。
それでも、背負うしかない。
レギュラスのために。
そして、あの日失われた子供たちのために。
アランは震える指でひとつだけ言葉を描いた。
あなたは、救われるべき子です。
光が揺れ、滲み、消えた。
メイラは、その人影を見た瞬間、
胸の奥がひゅ、と細く震えた。
扉の向こうに立っていた女性――
アラン・ブラック。
柔らかな光に照らされたその姿は、
まるで絵本から抜け出した姫のようで、
ゆるやかに揺れた漆黒の髪が光を吸い込みながら、
宝石めいた翡翠の瞳を際立たせていた。
こんなに綺麗な人間がいるなんて。
魔法使いって……こんなにも、美しい。
息を呑んだのは、それを見た瞬間だった。
胸に初めて芽生えた感情は、憧れに近かった。
――私も、魔法使いになりたい。
魔法が使えないから。
魔法の血を持っていないから。
この人のようにはなれないと分かっている。
それでもメイラは、生まれて初めて
「もし魔法使いになれたなら」という夢を抱いた。
アランはそっと微笑み、
杖を動かして空に文字を描いた。
淡く光る言葉。
線が揺れ、空気中でふわりと漂い、
しずかに形を作る。
声の代わりに紡がれた、
静かで、それでも強い意思のこもった言葉。
その様子は、魔法よりもずっと魔法のようだった。
アランの頬を、涙がひと筋流れ落ちる。
泣く仕草さえ――息をのむほど綺麗だった。
メイラは喉がきゅっと締まるような、
胸を刺すような感覚に包まれた。
目の前のこの人を、
どう表現すればいいのかわからない。
言葉が自然と零れた。
「……どうして、声が出なくなっちゃったの?」
自分でも聞くべきじゃないと思った。
けれど、聞かずにはいられなかった。
だって、こんなに綺麗な人の声は
きっと天使みたいなんだろうと想像したから。
アランはほんの少し考え、
また杖を持ち上げて空に綺麗な文字を描く。
大きな声を出しすぎました。
光る文字は静かに揺れた。
メイラは眉を下げる。
「魔法で……治せないの?」
いつか父に向けて泣き叫んだ時のように、
幼い願いが、素直にこぼれた。
アランは優しく首を振り、
再び杖で文字を紡ぐ。
治せるものと治せないものがあります。
私の声は魔法では直せません。
メイラは唇をきゅっと噛んだ。
こんなにも綺麗な人が、
こんなにも優しい人が、
こんなにも温かいのに。
もし声があったなら――
どんな声で自分の名前を呼んでくれたんだろう。
その想像だけで胸が熱くなる。
泣きたくなるほど美しい。
胸に焼きつくほど柔らかい眼差し。
自分の前に膝をついて向き合ってくれる、その姿。
魔法使いになりたいなんて思った理由は、
魔法が使えるからじゃない。
――この人のようになれるなら。
こんなふうに誰かを照らせるなら。
魔法がない自分でも、
なれたらいいのに。
メイラはそっとアランの指先に触れる。
その温度は、自分が知らない世界の温度だった。
「……お姉さんの声、
きけたらよかったな。」
小さく吐き出した言葉は、
アランの胸の奥に静かに落ちていった。
アランはその小さな手を包み込み、
涙をこらえるように微笑んだ。
その笑顔は、誰よりも魔法のようだった。
医務魔法使いが静かに扉を叩き、部屋へと入ってきた。
黒いローブの裾が床を擦るたび、淡い光が揺れ、
その気配にメイラはびくりと肩を跳ねさせた。
「こんにちは。少し触りますよ」
柔らかな声に、メイラは怯えた子鹿のように小さく頷く。
医務魔法使いの指先が少女の額に触れ、
紫がかった診断魔法の光が淡く灯る。
その光に照らされたメイラの頬は薄くこけており、
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
魔法使いは魔法薬を手早く調合し、
小瓶に詰めて少女の枕元へと置いた。
「数日、これを服用すれば回復するでしょう。
安心していいですよ」
その言葉は静かに部屋に落ち、
メイラはほっと息をこぼした。
アランは深く頭を下げ、
そのまま少女のそばに膝を折る。
医務魔法使いが退室すると、
部屋には二人分の呼吸音だけが残った。
アランは杖を取る。
空気の上に柔らかく光る文字を描いた。
もう大丈夫。
腕のいい魔法使いが、あなたの病気を治してくれます。
メイラはその光の文字を目で追いながら、
安心したように胸に手を当てた。
アランの瞳はわずかに揺れていた。
――レギュラスが、医務魔法使いを。
彼はあの日以来、何ひとつ語ろうとしない。
あの孤児院の闇を、
どれほどの深さで抱え込んでいるのか。
どれほどの夜、悪夢に沈んだのか。
その答えはいつも沈黙の奥に隠されていた。
けれどこの少女を救おうとした意思だけは、
確かにここに残っている。
誰にも見せない痛みの輪郭に、
アランはそっと触れたような気がした。
「アランさん……赤ちゃんがいるの?」
メイラが大きな瞳を丸くして覗き込む。
アランは微笑み、静かに頷いた。
少女の小さな手が恐る恐る伸びてきて、
アランの膨らみ始めた腹へそっと触れる。
「赤ちゃんも……すごい魔法使いなのかな?」
その問いは無垢で、
あまりにもまっすぐで、
胸の奥の柔らかい場所を優しく揺らす。
アランは杖を握り、光の文字で答えた。
きっと、とても優しい子になります。
メイラはぱぁっと顔を明るくして笑った。
その笑顔が嬉しくて、
アランは自分の胸が温かく満ちていくのを感じた。
罪の片側にある小さな命。
償いの片側にある小さな希望。
少女の無垢な手の温度は、
そのどちらにも触れているように思えた。
屋敷へ戻った瞬間、
胸を貫くような冷たい衝撃がレギュラスを襲った。
――誤算だ。
とんでもない誤算だ。
用意された静謐な廊下。
封じられたはずの扉。
誰も近づかないよう細心の注意を払って選んだはずの部屋。
そのすべてが無意味だった。
バーテミウスに、アランへは一切話していないと釘を刺すべきだった。
アランが少女と対面する可能性など、
徹底的に排除しておくべきだった。
胃の奥がきりきりと痛み、
レギュラスは歩きながらこめかみを押さえる。
「薬を持たせて、マグル界に戻しましょう」
低い声で言い切った瞬間、
袖口をつかむ細い指があった。
アランだった。
必死だった。
翡翠の瞳が揺れている。
今にも涙がこぼれそうで、
けれどしがみつくようにレギュラスを見上げている。
アランは杖を振る。
淡い光が空気を切り裂くように文字を描く。
ここで育てるべきです。
その筆跡は震えており、
少女の存在が彼女の胸にどれほど重くのしかかっているかが
一瞬でわかった。
レギュラスは息を呑む。
そして次の瞬間、
焼け付くような苛立ちが喉元までこみ上げた。
「…… アラン、何を馬鹿なことを言っているんですか」
低く、いつになく厳しい声音。
アランの肩がびくりと震える。
「マグルを、この屋敷で?」
抑えきれぬ怒りと困惑が滲む。
「そんな禁忌が許されるはずがない」
アランは唇を噛む。
声は出せなくても、言いたいことは痛いほど伝わってきた。
少女を見捨てることはできないということも。
父を奪われ、病を抱え、
行き場を失った小さな命だということも。
けれど。
「アラン、これは情では判断できません」
レギュラスは彼女の両肩に手を置いた。
静かに、しかし逃がさぬように。
「マグルと魔法族では、住む世界が違う」
翡翠の瞳が揺れる。
その揺れのひとつひとつが胸を刺す。
「ブラック家が名もなきマグルの少女を匿うなどという噂が広まれば……」
レギュラスは息をひとつのみ込む。
「魔法界は、一瞬で揺らぐ」
貴族階級、純血思想、
闇の陣営、魔法省の中枢――
どれもが敵に回る。
ただ少女ひとりを庇っただけで、
ブラック家の名は崩れ、
アランの身にも危険が迫る。
「それに……」
レギュラスはそっと、アランの手元へ視線を落とした。
彼女の腹。その中で確かに育っている小さな命。
「この屋敷は、魔力のない存在を永く受け入れられる場所ではありません」
言葉は冷静であろうとするのに、
胸が締め付けられて苦しい。
アランの杖が震え、淡い光で文字を描こうとする。
けれど言葉が見つからないのか、
数度揺れただけで文字は結ばれなかった。
沈黙が落ちる。
レギュラスは深く息を吸った。
そしてアランの手を包むように握る。
拒絶ではなく、諭すために。
「…… アラン。あなたの優しさは美しい。
けれど、世界はそれを赦しません」
そう呟いた瞬間、
アランの瞳が大きく揺れた。
少女を守りたい想いと、
レギュラスの言葉の重みに引き裂かれるように。
その瞳の中で、
レギュラスは初めて知る。
―― アランは、少女を通して彼の罪の影まで抱きしめようとしている。
そしてその優しさこそが、
何よりも危険で、
何よりも愛おしく、
何よりも彼を苦しめていくのだった。
アランは、食い下がってきた。
――従順だった彼女が。
――いつもなら、静かに頷き、彼の判断に寄り添ってくれていた彼女が。
初めて、明確な“意志”を持って立ちはだかってきた。
レギュラスは信じられず、そして恐ろしくなった。
その意志が、美しく、まっすぐで、
まるで彼の心の最も柔らかな場所に刃を当てるようだったからだ。
「アラン、いい加減にしてください」
声は冷たく響いた。
冷たくなければ、揺れてしまいそうだったから。
アランはレギュラスの手を振り解き、
少女の部屋へ向かおうとする。
その小さな背中が、迷いなく前へ進もうとする。
「どこへ行く気です?」
レギュラスは慌てて腕を掴み、引き留めた。
その指に、焦りと恐れと苛立ちが混じる。
アランは静かに杖を振る。
淡い光が空気に溶けて、文字が浮かぶ。
ひとりぼっちの少女が震えています。
私の手は、彼女を抱きしめることができます。
その一文は、
刃のようにやわらかく、
刃のように深く、
レギュラスの胸を刺し貫いた。
あまりにも美しい。
あまりにも正しい。
そして――あまりにも残酷だった。
返す言葉が、一瞬消えた。
喉に重い石を押し込まれたような沈黙が落ちる。
レギュラスは、搾り出すように言った。
「…… アラン、お願いです。
これが僕としてもできる精一杯のことなんです」
声はかすかに震えていた。
「彼女のために――この家を、魔法界を、
そしてあなたを危険に晒すことはできません」
掴んでいた腕をそっと緩める。
その代わりに、彼女の手を握った。
離さぬように。
しかし、縛りつけないように。
それはレギュラスなりの“譲歩”だった。
苦渋の中で、かろうじて残した正義だった。
――これ以上は踏み越えてはいけない。
それなのに、
アランの瞳はなおも炎を宿している。
少女が震える部屋を思っている。
彼女の腕に抱かれようとしている小さな命を思っている。
レギュラスは痛いほどわかってしまう。
だが、それでも。
「アラン……これは、越えてはいけない一線なんです」
魔法族とマグル。
混じり合うことを許されない世界。
「本来であれば、交わることさえなかった運命です。
魔法医術の施しが終われば……彼女とは二度と会うことはありません。それでいいのです」
言いながら、胸が締め付けられる。
アランの瞳が揺れ、
悲しみがにじみ、
それでもなお誰かを救おうとしている。
美しくて、愚かで、
そして、彼には痛かった。
――あの日、自分があのマグルの男に手を差し伸べた。
――その娘を治そうなどと、あの時なぜ思ってしまったのか。
罪滅ぼしのつもりだった。
逃げだった。
軽さだった。
だが今、それがアランをこんな苦しみに追い込んでいる。
レギュラスはこの瞬間、
自分の甘さを心から後悔した。
少女を救ったことではない。
少女を屋敷に入れたことではない。
アランの心が、
少女に向かってしまったことを。
そして――
アランが少女を思うその優しさが、
レギュラス自身の罪を抉り、
揺さぶり続けていることを。
握ったアランの手はあたたかいのに、
胸の奥は、どうしようもなく寒かった。
わかっていた。
この家がマグルを受け入れるなど不可能だと――最初から、痛いほど。
それでも、願い出てしまった。
振りほどかれても、拒まれても、
あの小さな少女に寄り添いたいと思ってしまった。
彼女が震えていたあの一瞬が、どうしようもなく胸を掴んで離さなかった。
レギュラスの手は温かく、力強かった。
その手を取れば、大人しく従うことができたはずだった。
けれどアランは、そっとその手を振りほどいた。
まるで、自分の中のどこかが訴えているようだった。
――あの子をひとりにはできない。
少女の部屋の扉を開くと、
ベットの隅で横になっていたメイラがぱっと顔を上げた。
「アランさん!」
目が輝いている。
まるで心の中に灯りがともったように。
「私に治療を受けさせてくれた優しい魔法使いさんは、まだ帰ってこないの?」
その純粋さが、胸を刺した。
何も知らず、罪もなく、ただ治ることを願うだけの少女。
アランは杖をゆっくり振って言葉を紡ぐ。
『そのうち会いに来てくれますよ』
本当は何も分からない。
レギュラスがこの子を二度と家に置くつもりはないことも。
彼の優しさは長く伸びる枝ではなく、一瞬触れて弾ける泡のようなものだと知っている。
それでも――嘘をつくしかなかった。
メイラはその言葉に安心したように息をつき、
弱った身体をぎこちなく起こして、アランの方へにじり寄ろうとする。
「アランさん、こっちに座って? 一緒に話したいの」
アランは腹の重さを忘れて床に膝をつき、
メイラのベットのすぐそばに座り込んだ。
冷たい石床がじんと脚を冷やす。
それでも、目の前の少女との距離が近くなるだけで、
胸の奥がふっと温かく満たされた。
「ねぇ、アランさん。魔法ってね、私ね……」
メイラは嬉しそうに、両手を広げて話し始める。
「空も飛べるの? 絵本で見たの。魔法使いさんたちは空の上を走るって。
それ、本当?」
アランは笑った。
杖を振り、空中に絵を描くようにして見せる。
『飛べますよ。こんなふうに』
魔力の光がひらひらと舞い、
メイラの目が一層輝きを増す。
「わぁ……! すごい……!
アランさんは空、たくさん飛んだことある?」
『私は…少しだけ。でもね、とても綺麗ですよ』
メイラは目を細める。
自分が飛んでいるかのように、胸の前で手を広げたり閉じたりする。
「アランさんの赤ちゃんはね、きっとすっごい魔法使いだよ」
「だって、こんなに優しいんだもん。アランさんも、赤ちゃんも」
アランは胸がぎゅっと痛んだ。
そして涙が一粒こぼれ落ちた。
メイラは気づかず、嬉しそうに言葉をつなぐ。
「ねぇ、アランさん。
私は、ここにいてもいいの?
治ったら……帰らないといけないの?」
その小さな問いかけは刃になって、
胸の奥深くに静かに沈んでいく。
アランは震える手で杖を動かす。
『……大丈夫。今は、ここにいていいんですよ』
メイラはほっとしてアランの腕に寄り添うように寄る。
アランは少女の髪を撫でた。
冷たい床が足元を冷やす。
石の冷たさが、痛みのようにふくらはぎを刺す。
――それでも。
少女の小さなぬくもり。
細い指先がそっと自分の手を握る温度。
その全てが、胸の奥に静かな火を灯す。
この温かさだけが、
今のアランを支えてくれているようだった。
彼女は知っている。
きっと明日になれば引き離されるかもしれない。
この時間は、永遠には続かないだろう。
それでも――今だけは。
この小さな手を離したくなかった。
アランは少女の頭を胸元に引き寄せ、
声の代わりに、そっと抱きしめた。
手を伸ばしても――届かなかった。
アランはそっと、自分の手を退けた。
ふるりと小さく揺れる動きが、拒絶というより、痛みにあまりにも似ていた。
話は噛み合わず、互いに歩み寄れないまま終わってしまった。
けれど、折れることはできなかった。
ほんの少しの情けのつもりだった。
罪悪感の渦に飲まれないように、わずかな善を掴みたかっただけだった。
それが――こんな争いになるとは思わなかった。
孤児院で最後に命を奪われた翡翠の瞳の少女。
あの瞳が脳裏に蘇る。
今の自分をどんな顔で見下ろすのだろう。
――当然の報いだ。
そう言って笑うかもしれない。
胸がざわつき、冷たいものが背を撫でる。
レギュラスは少女の部屋へ向かった。
アランがそこにいると分かっているからだ。
廊下の空気は沈黙で満ち、足音がひどく重たかった。
ドアノブに触れた瞬間、手が震えた。
この扉の向こうにいる少女が、どんな目で自分を見るのか。
どんな顔を向けてくるのか。
それを考えただけで、胸の奥が押しつぶされそうになった。
罪を重ねれば重ねるほど、強くあろうとする気力が削られていく。
しがみついていた正義は、もうどこにもない。
ただ、積み上がる代償だけが重くのしかかる。
静かに扉を開けた。
薄暗い部屋。
窓からの月光に照らされて、二人の姿が柔らかく浮かび上がっていた。
部屋の隅のベット。
その横で、アランは少女に手を伸ばした姿勢のまま――床に座り込み、眠っていた。
冷たい石床に、薄い布一枚の妊婦が体を預けている。
その細い肩がわずかに震えているのが見えて、レギュラスの眉が深く寄った。
「…… アラン」
呼びかける声は無意識に低く、どこか痛々しい響きを帯びていた。
視線を横に移せば、少女が静かに眠っている。
痩せ細った腕を胸元に抱え、安堵の表情さえ浮かべて。
父親がどうして戻らないのか――
その真実を知らぬまま、ただここに身を寄せている。
レギュラスは感情を押し殺し、ゆっくり息を吐いた。
詫びるべきだと、どこかの声が囁いた。
――あの少女に。
――あの父親に。
――あの日の犠牲になったすべての子供に。
けれど、レギュラスは目を閉じてその声を封じた。
詫びることなど、できはしない。
純血魔法使いとして、
ブラック家の跡取りとして、
そんな弱さは許されない。
あれは“必要な犠牲”だった。
そう言い聞かせなければ、自分が崩れてしまう。
少女をじっと見下ろす。
無垢な寝顔が胸を締めつけた。
罪は増え続ける。
弱さも増え続ける。
それでも、アランの肩が冷たく震えているのを見ると――
レギュラスはその場に膝をついた。
彼女の冷えた手に、自分の手をそっと重ねる。
少女の眠りを妨げぬよう静かに。
胸を焦がす痛みだけが、ひどく鮮明だった。
アランの願いと、自分の正しさ。
大切なものが、それぞれ違う方向へ伸びていく。
けれど――
この部屋に満ちる静かなぬくもりだけは、確かだった。
レギュラスは小さく息を吸った。
「…… アラン。もう冷たい床で眠らないでください」
震えていたのは、アランではなく――
レギュラス自身の声だった。
