1章
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アラン・セシール。
冷たい石壁と鉄格子に囲まれた場所で、彼女は以前と変わらず静かに座っていた。
けれどその沈黙はもう、あの日の“虚無”とは違っていた。
確かに、そこに“人”がいた。
息をし、微笑み、そして――彼の言葉を聞いている。
最初はほんの気まぐれのようなものだった。
沈黙が続くこの空間で、何か音が欲しかったのかもしれない。
だから、レギュラスは話し始めた。
「今日は外の天気がよかったですよ。
雲ひとつない空で、太陽の光が痛いくらいで。」
「外の花壇にスノードロップが咲いていました。
冬の終わりを告げる花なんです。……見たことありますか?」
「本部の奴らは、いつも無駄話が多くて困る。
昨日なんて、デスイーター同士の噂話を延々と……本当に、くだらない。」
返事は、ない。
相槌も、頷きも、声も。
それでもレギュラスは話し続けた。
気づけば、意味のないことまで口にしている。
天気のこと。食堂の味の悪い紅茶のこと。
上官の気に障る口調のこと。
何でもない話ばかりを、静かに吐き出すように語った。
アランは、ただ聞いていた。
まるで、彼の声だけがこの世界の音だと言わんばかりに、じっと。
ある日、レギュラスがいつものようにくだらない話をしていると、
アランの唇がわずかに動いた。
――微笑んでいた。
ほんの少し、口角が上がる。
それだけの仕草なのに、
世界が一瞬、静止したように感じた。
彼女の笑みは、音もなく、光のように淡かった。
それでも、その笑みは確かに“生”だった。
レギュラスの胸に、ぎゅっと掴まれるような衝撃が走る。
鼓動が早くなる。
冷静でいようとする理性が、一瞬で揺らぐ。
アランはただ、静かに微笑んでいた。
その翡翠の瞳が、まっすぐに彼を見つめている。
――やめてくれ。
そう言いたくなるほど、まっすぐに。
美しい。
その言葉が、喉の奥で形を作っては、飲み込まれる。
あまりにも無防備で、あまりにも優しい光。
直視するのが怖いほどだった。
レギュラスは言葉を探した。
けれど、何を話そうとしていたのか思い出せない。
彼女に見つめられると、思考が溶けていく。
ただ、その瞳に映る自分の姿だけが残る。
一体、どうして。
思わず、口をついて出た。
「……どうして、ずっと見るんです?」
声は、いつもより低く、柔らかかった。
責めるでも、問い詰めるでもない。
むしろ、どこか甘く、掠れるような音。
アランは答えなかった。
それでも、彼女の視線は逸れなかった。
その瞳は、翡翠の湖のように静かで、深く、
まるで彼の心の底を覗いているようだった。
その光が、彼を壊していく。
溶かしていく。
彼の中の“監視者”としての理性を、ひとつずつ崩していった。
長い沈黙が降りる。
レギュラスは視線を落とした。
なのに、翡翠の色はまだ、瞼の裏に焼き付いて離れない。
彼女の前に座っていると、
言葉を失う瞬間が増えた。
だが、不思議と――嫌ではなかった。
言葉が消えるとき、
代わりに心が動いているのを感じる。
その“動き”が、温かくて、苦しくて、
どうしようもなく、生々しい。
この牢の中で、
生きているのは、アランだけではない。
レギュラス自身もまた、
彼女に触れた瞬間から、少しずつ“生き返って”いた。
夜は深く、闇の帳が降りていた。
満月も雲に隠れ、屋敷の周囲を覆う森には、風ひとつ通らない。
不気味な静寂を裂くように、黒い煙の群れが次々と空から降り立つ。
デスイーターたちが集まる夜の儀。
闇の帝王の声が響く夜だった。
広間の中央には、ヴォルデモートがいた。
黒曜石のような椅子に腰を下ろし、
その指先で杖を軽く回している。
その一挙一動が、部屋全体の空気を支配していた。
「……さて。」
低く、鋭い声が広間を満たす。
「この数日の働き、殊に顕著だった者がいる。」
名を呼ばれたのは、デスイーターのひとり――アレクサンダー・ロウ。
若くして闇の帝王の配下に加わり、
最近では反抗的な純血派の一族をまるごと葬り去ったと報告されていた。
「見事だった。」
ヴォルデモートの唇が、わずかに歪む。
「裏切り者を一夜で沈黙させた。老いも女も子どもも……誰ひとり逃さなかったとか。」
その言葉に、ざわりと笑い声が広がる。
称賛ではなく、恐怖を隠すための笑い。
だが、ヴォルデモートの前で感情を隠すことは、最も安全な防御でもあった。
ロウは震える手で跪き、深く頭を垂れる。
「我が君のご命令のままに――」
「褒美を与えよう。」
その声に、空気が変わった。
一斉に息を飲む音が聞こえる。
「何が欲しい。申してみよ。」
沈黙。
広間の全員が、息を潜めた。
誰ひとりとして、そんな問いに答えられる者などいない。
欲を口にすることは、同時に死を招くことと同義だ。
「どうした?」
ヴォルデモートはわざと愉しげに問いかける。
「何がいい。正直に申せ。……金がいいか? 女がいいか?」
その瞬間、場の空気がわずかに揺れた。
控えていた者たちの口元から、緊張を誤魔化すような乾いた笑いが漏れる。
彼らの誰もが理解していた――
それは冗談ではない。
本当に、帝王の気まぐれひとつで何もかもが変わる。
ヴォルデモートは薄く笑いながら続けた。
「金ならば、我の金庫の一角をお前にくれてやろう。
女なら……」
そこで一瞬、沈黙が落ちた。
彼の赤い瞳がゆっくりと動く。
蛇のように、冷たく、鋭く。
「――そうだな。」
低く、長く、愉しむように声が響いた。
「レギュラス。お前が持っている地下牢の鍵を渡せ。」
時間が止まったようだった。
レギュラスの喉がわずかに鳴る。
その意味を理解するのに、数秒を要した。
だが、次の瞬間、胸の奥を冷たい刃で貫かれたような痛みが走る。
鍵を渡せ――
それはつまり、褒美の“女”とはアラン・セシールその人を指している。
彼女を、またも“物”として扱うというのか。
この地のどんな獣よりも尊厳を踏みにじられてきた彼女を、
さらに――。
広間の中で、レギュラスだけがわずかに息を飲んだ。
それすらも悟られぬよう、表情を殺す。
けれど、心臓の音だけはどうにも抑えられなかった。
胸が抉られる。
耳の奥で血がうねる。
それでも、彼は静かに顔を上げ、低い声で言った。
「我が君、彼女は封印を守る者と聞き及んでおります。
魔力が揺らぐような行為は、封印そのものに影響を及ぼす恐れがございます。
そのような危険を冒すのは――賢明ではありません。」
必死に考え出した言い訳。
それしか、彼女を守る術はなかった。
だがヴォルデモートは、目を細め、ゆっくりと笑った。
「構わん。」
その一言に、全てが打ち砕かれる。
「息絶えなければ封印は続く。
壊れても、生きていればよい。
なかなかの褒美になるだろう――違うか?」
笑い声が広間を満たした。
ひとりが笑い、次にまたひとり、
やがてそれは波紋のように広がっていく。
誰もが恐怖の中で、笑うしかなかった。
レギュラスは俯いたまま、拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、血の匂いが立ち上る。
遠くでヴォルデモートの声が響く。
それはもう、音ではなく、ただの残響のように聞こえていた。
――あの女が、また辱められる。
また“誰かの褒美”として扱われる。
その想像だけで、胸の奥が軋んだ。
怒りも悲しみも飲み込んで、
ただ静かに頭を垂れる。
「……御意。」
声が震えぬように。
命を守るために。
彼女を守るために。
だが、その瞬間――
レギュラスの心の中では、
何かが静かに、確かに“壊れた”。
それは忠誠でも、理性でもない。
もっと深く、もっと人間的な何か――
“自分が人として残していた最後の均衡”が、
音もなく、砕け落ちた夜だった。
レギュラス・ブラック――
その名を、最初に耳にしたとき。
アラン・セシールは、それが誰の名であれ、どうでもよかった。
誰がこの牢を見張るのか、誰が自分に命令するのか。
そんなことは、もはやどうでもよかったのだ。
だが、彼は違っていた。
他の誰とも、まるで違っていた。
初めて見たとき、
彼の纏う空気が、この暗闇の中で異質だった。
静かで、冷ややかで――それでいて、どこか優しかった。
銀灰色の瞳。
まるで夜の底のような色をしているのに、その奥に光があった。
闇を映してなお、光る目。
それはこの場所では決して見られぬもの。
だからこそ、怖くて、美しかった。
彼の声は静かだった。
命令ではなく、語りかけるような声。
彼が発するたった一言で、
この閉ざされた世界の空気が少しだけ変わる気がした。
――彼は優しい人だ。
そう思えるようになるまでに、どれほどの時間がかかったのか。
この牢に連れてこられてから、
何日、何週間、何年が過ぎたのか、
アランにはもうわからなかった。
地上の光はとっくに記憶の彼方。
窓も、太陽も、風もない。
永遠に夜が続く世界で、
“生きる”ことの意味すら、もう見失っていた。
ただ、息をする。
それだけが罰のように続く。
息絶えることも許されない。
それが、この地獄だった。
かつて、アランには夢があった。
恋をし、家族を持ち、穏やかな生活を送ること。
そんな小さな願いだった。
けれど、あの夜――すべては壊された。
初めて“男”というものを知ったのも、この地下でだった。
愛ではなく、暴力として。
名前も知らない男たち。
自分の体の何倍もあるような獣じみた男たちが、
入れ替わり立ち替わり、この牢へやってきた。
叫んでも無駄だった。
喉が裂けるまで叫んでも、
返ってくるのは怒号と、痛みの呪文だけ。
声はやがて、出なくなった。
言葉を忘れた。
感情も、涙も、忘れた。
食事は牢の入り口に投げ込まれた。
冷えた皿が石にぶつかる音だけが響く。
あの頃、母が作ってくれた温かなスープの味が、
夢のように遠くなった。
いつからだっただろう。
その皿のもとへ這って行くことすら、できなくなったのは。
鎖が重くて、
体が動かなくて、
生きることさえ億劫になっていた。
――その日までは。
レギュラス・ブラックが現れた日までは。
彼は、初めて食器を“手渡し”してくれた。
ただそれだけのことが、奇跡のように思えた。
人の手のぬくもりを、どれほどぶりに感じただろう。
指先が触れた瞬間、
それだけで涙が出そうだった。
それから、彼は少しずつこの場所を変えていった。
ぼろ布のような服を新しい衣に替え、
乱れた髪を整え、
この空間から“汚れた人間”たちを遠ざけた。
その変化は、静かで、穏やかで、確かなものだった。
彼の声がするたび、
閉ざされていた世界が少しずつ広がっていく。
「外では、もう春が来ています。」
「湖のほとりでスイセンが咲き始めたそうですよ。」
そんな話を聞かされると、
心の中に小さな色が差す。
見たこともない景色なのに、
まるで瞼の裏で見えるようだった。
彼の声が、光だった。
彼の存在が、希望だった。
絶望の底に沈んでいた自分に、
生きていい理由を教えてくれたのは、彼だった。
だから、彼の足音が近づくたびに、
胸の奥がふっと温かくなった。
その気配を感じるだけで、自然と微笑むようになった。
笑うという行為を、
この牢の中で、彼に教えてもらったのだ。
――けれど、その日。
石の床を叩く足音がした。
いつものように、胸が弾む。
ああ、彼が来た――
そう思った瞬間、顔を上げた。
だが、そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。
黒い外套。
粗野な笑み。
その眼に、レギュラスのような光はなかった。
鎖が震えた。
体が無意識に強張る。
手足の奥に刻まれた“恐怖の記憶”が、
瞬く間に蘇ってくる。
あの時と同じ匂い。
同じ気配。
胸の奥で、何かが軋んだ。
――また、闇が来る。
もう一度、地獄が始まるのだと悟った瞬間、
アランの中で、
微かな光が音もなく揺らめいた。
レギュラス・ブラックという名の光が、
遠く、遠くに霞んでいくようだった。
その男は、入り口に立ったまましばらくアランを眺めていた。
蝋燭の灯りが鉄格子の隙間を縫って、彼の頬を照らす。
笑っているのか、嘲っているのか、判別のつかない顔。
その笑みの形を見ただけで、アランの心臓はぎゅっと縮こまった。
何も言わず、彼はゆっくりと足を踏み入れる。
硬い靴底が石を打つ音が、冷たい牢の空気を乱した。
鎖がわずかに揺れる。
そのたびに、アランの体が無意識に震える。
――違う。
この足音は、あの人のものではない。
レギュラスの足音は、いつも静かだった。
慎重で、音を殺すように歩く。
近づいても、息遣いすら柔らかい。
けれど今の男の歩き方は乱暴で、床を踏みつけるたびに、
まるでこの場所にいる誰かを“侵す”ような響きを持っていた。
アランの喉がひくりと鳴る。
何も言えない。
言葉の出し方を忘れてしまった自分に、今ほど絶望を覚えたことはなかった。
男は牢の前に立ち、鍵を取り出した。
その音を聞いた瞬間、胸の奥が凍りつく。
鉄の擦れる音が、刃物のように鼓膜を裂いた。
扉が軋む音が、ゆっくりと静寂を壊していく。
「……あんたが、アラン・セシールか。」
低く、濁った声。
名を呼ばれるのが、これほどまでに恐ろしいと思ったのは初めてだった。
声を上げようとしたが、喉が固まって動かない。
男はにやりと笑った。
「見た通りだな。確かに噂通り、綺麗な女だ。」
冷たい笑み。
その目にあるのは好奇心でも同情でもない。
ただの“欲”だ。
アランの指先が震える。
体の奥から冷たさが込み上げる。
逃げることはできない。
鎖が足首に絡みつき、彼女の自由を奪っている。
男が一歩、近づいた。
その瞬間、かすかに空気の匂いが変わった。
汗と皮革と血の混じった、重たい匂い。
鼻の奥が痛くなるほど、懐かしく、そして恐ろしい臭いだった。
――いやだ。
心の中で叫んだ。
けれど声は出ない。
喉の奥が焼けつくように熱いのに、音は何ひとつ漏れない。
何度も、何度も、こうして叫ぼうとして、
そのたびに魔法で打たれ、言葉を奪われてきたのだ。
足音がすぐ目の前に迫る。
男の影が、蝋燭の灯に伸びて、アランの顔を覆った。
その瞬間、
――彼の名が頭の中を閃いた。
レギュラス。
彼の声が、記憶の中で優しく響く。
「外では、湖に白い鳥が舞っています。」
「あなたは、きっと空が似合う人だ。」
その声が、かすかな幻のように胸に届いた。
助けを求めるように心の中で名を呼ぶ。
けれど返ってくるのは、鎖の金属音だけ。
男の手が伸びる。
乱暴に顎を掴まれた。
顔を上げさせられる。
その手の感触に、思わず全身が震えた。
目の前の男の瞳は暗く濁っていて、
レギュラスのような光は一滴もなかった。
「大人しくしてりゃ、痛い目は見ないで済む。」
その言葉に、アランの中の何かが静かに崩れた。
心の奥で必死に押さえ込んでいた記憶が溢れ出す。
あの夜。
あの痛み。
あの絶望。
もう、誰も来ないと思っていた。
もう、あの地獄には戻らないと思っていた。
でも――現実は容赦なく彼女を引きずり戻す。
涙は出なかった。
泣くという行為すら、どこかに置き去りにしてきたから。
ただ、胸の奥で何かが音を立てて砕けた。
自分の心が崩れる音がした。
彼女の中にあった“光”――
レギュラス・ブラックという名の微かな灯火。
それが風に吹かれたろうそくのように、
今にも消えそうに揺らいでいた。
「……レギュラス。」
声にならない声が、唇から漏れた。
それは風のようにかすかで、誰にも届かない。
ただ石壁に吸い込まれ、
ひとつの祈りのように消えていった。
そして――
牢の中に、また夜が戻ってきた。
沈黙だけが、彼女を包んでいた。
その沈黙は、もう優しくなかった。
まるで生きたまま葬る棺のように、
冷たく、深く、重く、彼女を覆い尽くしていった。
なぜ、殺してくれないのだろう。
その問いは、何度も、何度も頭の中を巡った。
夜と朝の区別がつかないこの牢で、何百回も、何千回も。
――なぜ、生かされているのか。
自分の力が何を守るために使われているのか、もうわからない。
封印の術を強要されたあの日から、記憶は痛みとともに途切れ途切れだ。
誰かが叫んでいた。誰かが泣いていた。
けれど、その声が自分のものだったのか、もう確信が持てない。
ただ、あの冷たい声だけは覚えている。
「セシール家の血が絶えぬ限り、この封印は永遠に保たれる。」
それが、生かされている理由。
この血を絶やさぬため。
それだけのために、息をし続けなければならない。
“生きる”という言葉が、どれほど残酷で滑稽なものか。
ここでは、誰よりもよく知っている。
もうレギュラスを心の中で呼ぶこともやめた。
あの名を思い出すたびに、胸の奥がひりつく。
彼の声を思い出すだけで、涙が出そうになる。
――もう来ないで。
心のどこかで、そう祈るようになった。
この醜く汚れた自分を、もう彼に見せたくなかった。
女としての尊厳など、とっくに失っていた。
けれど、彼の前では――せめて、“あの日の自分”のままでいたかった。
それだけが、最後の誇りだった。
だが、そんな想いも、現実の前では無力だった。
重たい体が、のしかかっていた。
息が詰まる。
胸の奥まで押しつぶされていく。
皮膚がきしむ音が耳の奥で響く。
何度目なのかも、もうわからない。
――苦しい。
――息ができない。
それでも、死ぬことはできない。
意識が遠のく瞬間にさえ、
この体は必ず、無理やり呼吸を始める。
まるで、誰かが背中から糸を引いているように。
この世界では、死ぬことさえ許されない。
それが、最も残酷な罰だった。
男の体は、自分の体の倍以上あった。
押し潰されるような重さに、骨が軋む。
冷たい汗の匂いが鼻を刺す。
目の前は闇に滲み、世界の輪郭が崩れていく。
――いっそ、殺してほしい。
その願いすら、声にならない。
唇を噛みしめた。
痛みがないと、現実の感覚が消えてしまいそうだった。
血の味が舌に広がる。
ぱき、と小さな音がした。
ひび割れた唇が裂け、滲む血が顎を伝う。
痛い。
けれど、それすらもう、どうでもよかった。
痛みは、生きている証。
でも、その“生”が呪いでしかないのなら、
そんな証はいらない。
天井の闇が、ゆっくりと波打って見えた。
耳鳴りがする。
心臓の鼓動が、自分の意思とは関係なく続いている。
なぜ止まらないのか。
なぜ終わらないのか。
“死ねない”ということが、これほどまでに苦しいものだとは、知らなかった。
息をするたびに、痛みが広がる。
それでも呼吸はやめられない。
体が、勝手に空気を求める。
生かされることを拒めない。
――地獄。
この言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
声に出せない分、心の中で叫び続ける。
目を閉じても、思い浮かぶのはただ一人。
銀灰色の瞳。
静かな声。
あの柔らかな手。
けれどもう、その姿を思うことすら許されない。
彼は光だ。
自分は闇だ。
闇に沈んだ者が、光を呼ぶことはできない。
それを望むのは、罪だ。
だから――もう呼ばない。
もう祈らない。
ただ、息をする。
それが、今の彼女に与えられた唯一の“使命”だった。
そうしてまた、
何もない闇の中に、
小さな呼吸の音だけが、静かに響き続けていた。
レギュラスが牢へ駆けつけた時、
そこにあったのは、言葉にできぬほどの惨状だった。
息が止まるような瞬間――
視界のすべてが、冷たく、鈍く、痛みに満ちていた。
アラン・セシールは、石床の上に横たわっていた。
長い髪は泥と血で絡まり、淡い衣は破れ、
その布の切れ端がまるで彼女の尊厳の名残を嘲るように散らばっている。
胸元からは細い鎖が滑り落ち、
その金属が触れるたびに、鈍い音が闇に響いた。
――人は、ここまで酷い姿になり得るのか。
そう思った瞬間、胸の奥が抉られるように痛んだ。
見てはいけないものを見た気がした。
だが、視線を逸らすことなどできなかった。
心が叫んでいた。
喉の奥から熱がこみ上げる。
冷静さを保とうとする理性が、今にも崩れ落ちそうだった。
アラン。
その名を呼ぼうとして、声が出なかった。
彼女の唇は蒼白で、まるで血の気が失せた人形のようだった。
小さく上下する胸元だけが、かろうじて“生”を示している。
それでも、レギュラスの中では別の記憶が鮮明に浮かんでいた。
――あの日。
彼女に新しい服を持ってきた日のこと。
髪を整え、埃を払わせたあの日。
「似合いますよ」と口にしたとき、
わずかに頬を染めた彼女の顔が脳裏を過った。
その服が、今は無惨に引き裂かれていた。
繊細な布地は床に散り、
それを見た瞬間、胸の奥で何かが音を立てて砕けた。
この女は、光を知るべき人間だった。
優雅に、穏やかに、生きるはずの人間だった。
それがなぜ、こんな場所で――。
手が震えていた。
抑えようとしても止まらない。
唇を噛んで、どうにか呼吸を整える。
「……医務魔女を呼んでください」
低く、絞り出すような声だった。
命令というより、祈りに近かった。
数分もしないうちに、魔女が駆けつけた。
レギュラスは彼女に短く告げる。
「入浴を。……着替えも頼みます。」
医務魔女が頷くのを確認してから、彼は牢を離れた。
立っているのがやっとだった。
足元の石が遠くに感じる。
ただ、無意識のうちに壁に手をついて立っていた。
――どうして、守れなかった。
自分を責める思考が波のように押し寄せてくる。
彼女を遠ざけるはずだった鍵。
信じたはずの秩序。
それが、彼女を再び地獄に落とした。
どれほど時間が経ったのかわからない。
医務魔女が戻ってきて「目を覚ましそうです」と告げたとき、
レギュラスの心は大きく揺れた。
待っていた瞬間のはずなのに、
胸の奥に広がるのは恐怖だった。
目覚めて欲しい。
けれど、目覚めた時――
彼女の瞳に何が宿っているのかを見るのが、
たまらなく怖かった。
いつものように他愛ない話をすればいいのか。
「今日は雪が降っていましたよ」とか、
「外の庭に鳥が来ていました」とか。
そんな他愛ない話で、
もう一度あの微笑みを取り戻せるのだろうか。
それとも、彼女の心はもう、
どんな言葉も届かない場所へ行ってしまったのだろうか。
扉の向こうで、水の音が静かに響いている。
彼女の肌から汚れが落ちていく音。
それを聞くたびに、レギュラスは胸の奥が締め付けられた。
何を話せばいい。
どんな顔をすればいい。
声をかければ、彼女はまた、自分を“光”だと錯覚してしまうのだろうか。
違う――自分は闇の側の人間だ。
彼女を守るどころか、
この牢を維持する鎖の一部に過ぎない。
それでも。
今この瞬間、
扉の向こうで彼女が息をしているというだけで、
その事実だけで、
レギュラスはどうしようもなく泣きたくなった。
もう、二度と彼女を傷つけさせない。
そう誓っても、
その誓いを果たせる場所は、ここにはない。
光のない世界で、
彼はただ、沈黙の中に立ち尽くしていた。
アランが意識を取り戻したのは、夜明け前の静かな時間だった。
灯りの落とされた部屋の中で、蝋燭の光だけがゆらゆらと揺れている。
長い沈黙の果てに、ゆっくりと開かれた瞼の下から、
あの翡翠の瞳がわずかに覗いた。
レギュラスは息を呑んだ。
生きている。
その事実に、胸の奥が熱く締めつけられる。
「……アラン。」
名前を呼ぶと、彼女は微かに眉を寄せ、
ぼんやりとした視線を彼に向けた。
焦点が合わない。
けれど確かに、そこに“意識”が戻ってきていた。
何を言えばいいのか、わからなかった。
言葉が見つからない。
頭の中で何度も組み立てた台詞は、どれも意味を持たなかった。
気づけば、彼は動いていた。
本能的に、自然と。
アランの肩を抱き寄せていた。
あまりにも静かに、
それでいて、決して壊れぬように――
触れた腕の中で、彼女の体はあまりにも軽く、
骨のように脆かった。
冷たい体温が、少しずつ自分の胸に染みてくる。
その冷たさが、まるで痛みのように伝わった。
守れなかった。
そう思うたび、喉が詰まる。
この腕は、何のためにあるのだろう。
戦うために鍛えられたのではなく、
本当はこうして、誰かを守るためにあったのではないか。
「……アラン。」
彼女は答えない。
けれど、肩の力が少しだけ抜けた。
ほんのわずか、彼に体を預ける。
それだけで、レギュラスの胸の奥に溢れるものがあった。
言葉にならないものが、喉の奥を焦がしていく。
どれほどの想いを、どうやって伝えればいいのだろう。
赦しの言葉を求めることすら、おこがましい。
けれど、それでも――言いたかった。
「アラン……好きです。」
口に出した瞬間、空気が凍ったように感じた。
まるで自分の声ではないようだった。
あまりに唐突で、
場違いで、
愚かで。
けれど、それがすべてだった。
押し殺してきた感情が、
この静寂の中で、堰を切ったように溢れ出た。
理性も立場も、忠誠も、何もかもがどうでもよくなった。
彼女に初めて触れた日のことを思い出す。
地下牢の冷たい石の上、鎖に繋がれたまま、
それでも光を宿したあの瞳を。
あの瞬間から、彼の世界は変わったのだ。
ホグワーツの頃、
純血の令嬢たちと過ごした日々が確かにあった。
優雅な舞踏会の夜。
気取った会話、飾り立てられた笑顔。
家柄、立場、血統――
どれもが、彼の人生を形作る当然の要素だった。
だが、アランは違った。
彼女にはそんな装飾はなかった。
ただ、存在そのものが光だった。
翡翠の瞳の奥に、誰よりも強く、美しい“生”があった。
惹かれるという言葉では足りなかった。
一目惚れ――そんな軽い言葉で語るには、
あまりにも深く、あまりにも痛かった。
彼女はこの世界の中で唯一、
彼に“人間らしさ”を取り戻させた存在だった。
だからこそ、その手が今、自分の腕の中にあることが、
奇跡のように思えた。
アランは、何も言わなかった。
だが、わずかに彼の胸元を掴んだ。
細い指が震えながら、
確かにそこに縋るように触れていた。
その一瞬、レギュラスの胸が熱くなる。
彼女の沈黙の中に――“生きたい”という微かな意思が宿っている気がした。
彼はその手を包み込み、
もう一度、静かに呟いた。
「……大丈夫です。もう、誰にも触れさせません。」
それは誓いだった。
この闇に飲まれそうな世界で、
たったひとつ、彼が自分に課した約束。
彼女を守る。
たとえこの命を代償にしてでも。
蝋燭の火が小さく揺れ、
アランの睫毛が微かに震える。
その微細な動きに、
レギュラスはまたひとつ、
“希望”という名の光を見た気がした。
好きだと口にしたあの日から、
胸の奥に押し込めていた感情は、堰を切ったように溢れ出していた。
まるで、それまで封じ込めていた“生”そのものが、今になって一気に流れ出したかのように。
レギュラス・ブラックは、もう自分を律することができなかった。
彼女に触れるたび、呼吸が浅くなった。
声を聞きたい。
言葉を交わしたい。
ただそれだけの願いが、今の彼には世界のすべてだった。
だが、現実は残酷なほど静かだった。
アランは再び、食を取らなくなっていた。
あれほど少しずつ回復していたのに、
また、心の奥の何かが閉ざされてしまったのだ。
「アラン……」
呼びかけても、反応はない。
枯れ木のように細い肩が、わずかに震えるだけ。
彼女の頬は以前にも増してこけ、
瞼の下には青い影が落ちていた。
レギュラスは器を手に取り、
匙でゆっくりとスープをすくう。
温かな湯気が、彼の指先を撫でる。
彼女の手に持たせるのではなく、
今は自分の手で口元まで運ぶ。
彼女がもう、力を入れられないことを知っているから。
「もう少しだけ……食べましょう、アラン。」
声は柔らかく、それでいてどこか必死だった。
スープを口元に近づける。
けれど、アランは動かない。
視線を落としたまま、口を開けようとしない。
痩せた指が、レギュラスの手を制した。
その動きは弱々しいのに、
そこに確かな“拒絶”の意思が宿っていた。
匙の上のスープが、少しこぼれた。
石の床に落ち、静かに音を立てる。
「……何なら、食べられます?」
レギュラスの声が、かすかに掠れる。
「何でも持ってきますよ。甘いものでも、柔らかいパンでも……」
アランはゆっくりと首を振った。
その仕草が痛いほど静かだった。
まるで“生きること”そのものを、
もう拒んでいるようだった。
彼女の体に掛けていた服は、
新しく仕立てさせたものだった。
最も小さいサイズを選んだつもりだったが、
布地の隙間から覗く骨ばった腕が、
あまりにも痛々しかった。
服が合わないのではない。
彼女が、あまりにも痩せてしまったのだ。
袖の中で細い手首が揺れる。
指先が布を握りしめるたび、
その震えがレギュラスの胸に突き刺さる。
「アラン……お願いです。少しでいい。」
彼女は瞼を伏せたまま、かすかに唇を動かした。
けれど、声は出なかった。
ただ、わずかに首を振る。
――もう、いらない。
彼女の沈黙が語っていたのは、それだけだった。
レギュラスはその場で固まった。
胸の奥で何かが音を立てて崩れていく。
ようやく取り戻せたはずの“意思の疎通”が、
また彼を苦しめる形で戻ってきていた。
あの翡翠の瞳。
今は、そこに確かに感情がある。
だが、それは希望ではなく、諦めの色だった。
彼女は、生きることを拒んでいる。
けれど死ぬことも許されない。
その狭間で、静かに朽ちていこうとしている。
――これが、生かすということなのか。
彼は震える指で彼女の頬に触れた。
皮膚の下には、もう肉の温もりがほとんど残っていなかった。
それでも、レギュラスの指先を拒むような仕草はしなかった。
その小さな温度に、彼は救われたような、突き落とされたような気持ちになった。
「あなたは……生きていてほしい。」
そう言いながら、声が掠れた。
それが彼自身の願いなのか、
それとも赦しを乞う言葉なのか、もう分からなかった。
アランは何も答えない。
けれど、彼の声にわずかに睫毛が震えた。
その微細な反応に、レギュラスは息を呑む。
ほんの一瞬、
その沈黙が、まるで“ありがとう”と聞こえた気がした。
それでも彼女の瞳は閉じたまま、
その胸の上下はますます浅くなっていく。
レギュラスは、もう匙を持つことをやめた。
代わりに、彼女の手を包み込む。
細くて冷たいその手を、温めるように握る。
満たされない心のまま、彼はただ祈った。
どうか、もう少しだけ。
この人に、生の光を取り戻させてほしい――と。
けれど、返ってくるのは沈黙だけ。
その沈黙こそが、今の彼にとって一番の罰だった。
冷たい石壁と鉄格子に囲まれた場所で、彼女は以前と変わらず静かに座っていた。
けれどその沈黙はもう、あの日の“虚無”とは違っていた。
確かに、そこに“人”がいた。
息をし、微笑み、そして――彼の言葉を聞いている。
最初はほんの気まぐれのようなものだった。
沈黙が続くこの空間で、何か音が欲しかったのかもしれない。
だから、レギュラスは話し始めた。
「今日は外の天気がよかったですよ。
雲ひとつない空で、太陽の光が痛いくらいで。」
「外の花壇にスノードロップが咲いていました。
冬の終わりを告げる花なんです。……見たことありますか?」
「本部の奴らは、いつも無駄話が多くて困る。
昨日なんて、デスイーター同士の噂話を延々と……本当に、くだらない。」
返事は、ない。
相槌も、頷きも、声も。
それでもレギュラスは話し続けた。
気づけば、意味のないことまで口にしている。
天気のこと。食堂の味の悪い紅茶のこと。
上官の気に障る口調のこと。
何でもない話ばかりを、静かに吐き出すように語った。
アランは、ただ聞いていた。
まるで、彼の声だけがこの世界の音だと言わんばかりに、じっと。
ある日、レギュラスがいつものようにくだらない話をしていると、
アランの唇がわずかに動いた。
――微笑んでいた。
ほんの少し、口角が上がる。
それだけの仕草なのに、
世界が一瞬、静止したように感じた。
彼女の笑みは、音もなく、光のように淡かった。
それでも、その笑みは確かに“生”だった。
レギュラスの胸に、ぎゅっと掴まれるような衝撃が走る。
鼓動が早くなる。
冷静でいようとする理性が、一瞬で揺らぐ。
アランはただ、静かに微笑んでいた。
その翡翠の瞳が、まっすぐに彼を見つめている。
――やめてくれ。
そう言いたくなるほど、まっすぐに。
美しい。
その言葉が、喉の奥で形を作っては、飲み込まれる。
あまりにも無防備で、あまりにも優しい光。
直視するのが怖いほどだった。
レギュラスは言葉を探した。
けれど、何を話そうとしていたのか思い出せない。
彼女に見つめられると、思考が溶けていく。
ただ、その瞳に映る自分の姿だけが残る。
一体、どうして。
思わず、口をついて出た。
「……どうして、ずっと見るんです?」
声は、いつもより低く、柔らかかった。
責めるでも、問い詰めるでもない。
むしろ、どこか甘く、掠れるような音。
アランは答えなかった。
それでも、彼女の視線は逸れなかった。
その瞳は、翡翠の湖のように静かで、深く、
まるで彼の心の底を覗いているようだった。
その光が、彼を壊していく。
溶かしていく。
彼の中の“監視者”としての理性を、ひとつずつ崩していった。
長い沈黙が降りる。
レギュラスは視線を落とした。
なのに、翡翠の色はまだ、瞼の裏に焼き付いて離れない。
彼女の前に座っていると、
言葉を失う瞬間が増えた。
だが、不思議と――嫌ではなかった。
言葉が消えるとき、
代わりに心が動いているのを感じる。
その“動き”が、温かくて、苦しくて、
どうしようもなく、生々しい。
この牢の中で、
生きているのは、アランだけではない。
レギュラス自身もまた、
彼女に触れた瞬間から、少しずつ“生き返って”いた。
夜は深く、闇の帳が降りていた。
満月も雲に隠れ、屋敷の周囲を覆う森には、風ひとつ通らない。
不気味な静寂を裂くように、黒い煙の群れが次々と空から降り立つ。
デスイーターたちが集まる夜の儀。
闇の帝王の声が響く夜だった。
広間の中央には、ヴォルデモートがいた。
黒曜石のような椅子に腰を下ろし、
その指先で杖を軽く回している。
その一挙一動が、部屋全体の空気を支配していた。
「……さて。」
低く、鋭い声が広間を満たす。
「この数日の働き、殊に顕著だった者がいる。」
名を呼ばれたのは、デスイーターのひとり――アレクサンダー・ロウ。
若くして闇の帝王の配下に加わり、
最近では反抗的な純血派の一族をまるごと葬り去ったと報告されていた。
「見事だった。」
ヴォルデモートの唇が、わずかに歪む。
「裏切り者を一夜で沈黙させた。老いも女も子どもも……誰ひとり逃さなかったとか。」
その言葉に、ざわりと笑い声が広がる。
称賛ではなく、恐怖を隠すための笑い。
だが、ヴォルデモートの前で感情を隠すことは、最も安全な防御でもあった。
ロウは震える手で跪き、深く頭を垂れる。
「我が君のご命令のままに――」
「褒美を与えよう。」
その声に、空気が変わった。
一斉に息を飲む音が聞こえる。
「何が欲しい。申してみよ。」
沈黙。
広間の全員が、息を潜めた。
誰ひとりとして、そんな問いに答えられる者などいない。
欲を口にすることは、同時に死を招くことと同義だ。
「どうした?」
ヴォルデモートはわざと愉しげに問いかける。
「何がいい。正直に申せ。……金がいいか? 女がいいか?」
その瞬間、場の空気がわずかに揺れた。
控えていた者たちの口元から、緊張を誤魔化すような乾いた笑いが漏れる。
彼らの誰もが理解していた――
それは冗談ではない。
本当に、帝王の気まぐれひとつで何もかもが変わる。
ヴォルデモートは薄く笑いながら続けた。
「金ならば、我の金庫の一角をお前にくれてやろう。
女なら……」
そこで一瞬、沈黙が落ちた。
彼の赤い瞳がゆっくりと動く。
蛇のように、冷たく、鋭く。
「――そうだな。」
低く、長く、愉しむように声が響いた。
「レギュラス。お前が持っている地下牢の鍵を渡せ。」
時間が止まったようだった。
レギュラスの喉がわずかに鳴る。
その意味を理解するのに、数秒を要した。
だが、次の瞬間、胸の奥を冷たい刃で貫かれたような痛みが走る。
鍵を渡せ――
それはつまり、褒美の“女”とはアラン・セシールその人を指している。
彼女を、またも“物”として扱うというのか。
この地のどんな獣よりも尊厳を踏みにじられてきた彼女を、
さらに――。
広間の中で、レギュラスだけがわずかに息を飲んだ。
それすらも悟られぬよう、表情を殺す。
けれど、心臓の音だけはどうにも抑えられなかった。
胸が抉られる。
耳の奥で血がうねる。
それでも、彼は静かに顔を上げ、低い声で言った。
「我が君、彼女は封印を守る者と聞き及んでおります。
魔力が揺らぐような行為は、封印そのものに影響を及ぼす恐れがございます。
そのような危険を冒すのは――賢明ではありません。」
必死に考え出した言い訳。
それしか、彼女を守る術はなかった。
だがヴォルデモートは、目を細め、ゆっくりと笑った。
「構わん。」
その一言に、全てが打ち砕かれる。
「息絶えなければ封印は続く。
壊れても、生きていればよい。
なかなかの褒美になるだろう――違うか?」
笑い声が広間を満たした。
ひとりが笑い、次にまたひとり、
やがてそれは波紋のように広がっていく。
誰もが恐怖の中で、笑うしかなかった。
レギュラスは俯いたまま、拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、血の匂いが立ち上る。
遠くでヴォルデモートの声が響く。
それはもう、音ではなく、ただの残響のように聞こえていた。
――あの女が、また辱められる。
また“誰かの褒美”として扱われる。
その想像だけで、胸の奥が軋んだ。
怒りも悲しみも飲み込んで、
ただ静かに頭を垂れる。
「……御意。」
声が震えぬように。
命を守るために。
彼女を守るために。
だが、その瞬間――
レギュラスの心の中では、
何かが静かに、確かに“壊れた”。
それは忠誠でも、理性でもない。
もっと深く、もっと人間的な何か――
“自分が人として残していた最後の均衡”が、
音もなく、砕け落ちた夜だった。
レギュラス・ブラック――
その名を、最初に耳にしたとき。
アラン・セシールは、それが誰の名であれ、どうでもよかった。
誰がこの牢を見張るのか、誰が自分に命令するのか。
そんなことは、もはやどうでもよかったのだ。
だが、彼は違っていた。
他の誰とも、まるで違っていた。
初めて見たとき、
彼の纏う空気が、この暗闇の中で異質だった。
静かで、冷ややかで――それでいて、どこか優しかった。
銀灰色の瞳。
まるで夜の底のような色をしているのに、その奥に光があった。
闇を映してなお、光る目。
それはこの場所では決して見られぬもの。
だからこそ、怖くて、美しかった。
彼の声は静かだった。
命令ではなく、語りかけるような声。
彼が発するたった一言で、
この閉ざされた世界の空気が少しだけ変わる気がした。
――彼は優しい人だ。
そう思えるようになるまでに、どれほどの時間がかかったのか。
この牢に連れてこられてから、
何日、何週間、何年が過ぎたのか、
アランにはもうわからなかった。
地上の光はとっくに記憶の彼方。
窓も、太陽も、風もない。
永遠に夜が続く世界で、
“生きる”ことの意味すら、もう見失っていた。
ただ、息をする。
それだけが罰のように続く。
息絶えることも許されない。
それが、この地獄だった。
かつて、アランには夢があった。
恋をし、家族を持ち、穏やかな生活を送ること。
そんな小さな願いだった。
けれど、あの夜――すべては壊された。
初めて“男”というものを知ったのも、この地下でだった。
愛ではなく、暴力として。
名前も知らない男たち。
自分の体の何倍もあるような獣じみた男たちが、
入れ替わり立ち替わり、この牢へやってきた。
叫んでも無駄だった。
喉が裂けるまで叫んでも、
返ってくるのは怒号と、痛みの呪文だけ。
声はやがて、出なくなった。
言葉を忘れた。
感情も、涙も、忘れた。
食事は牢の入り口に投げ込まれた。
冷えた皿が石にぶつかる音だけが響く。
あの頃、母が作ってくれた温かなスープの味が、
夢のように遠くなった。
いつからだっただろう。
その皿のもとへ這って行くことすら、できなくなったのは。
鎖が重くて、
体が動かなくて、
生きることさえ億劫になっていた。
――その日までは。
レギュラス・ブラックが現れた日までは。
彼は、初めて食器を“手渡し”してくれた。
ただそれだけのことが、奇跡のように思えた。
人の手のぬくもりを、どれほどぶりに感じただろう。
指先が触れた瞬間、
それだけで涙が出そうだった。
それから、彼は少しずつこの場所を変えていった。
ぼろ布のような服を新しい衣に替え、
乱れた髪を整え、
この空間から“汚れた人間”たちを遠ざけた。
その変化は、静かで、穏やかで、確かなものだった。
彼の声がするたび、
閉ざされていた世界が少しずつ広がっていく。
「外では、もう春が来ています。」
「湖のほとりでスイセンが咲き始めたそうですよ。」
そんな話を聞かされると、
心の中に小さな色が差す。
見たこともない景色なのに、
まるで瞼の裏で見えるようだった。
彼の声が、光だった。
彼の存在が、希望だった。
絶望の底に沈んでいた自分に、
生きていい理由を教えてくれたのは、彼だった。
だから、彼の足音が近づくたびに、
胸の奥がふっと温かくなった。
その気配を感じるだけで、自然と微笑むようになった。
笑うという行為を、
この牢の中で、彼に教えてもらったのだ。
――けれど、その日。
石の床を叩く足音がした。
いつものように、胸が弾む。
ああ、彼が来た――
そう思った瞬間、顔を上げた。
だが、そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。
黒い外套。
粗野な笑み。
その眼に、レギュラスのような光はなかった。
鎖が震えた。
体が無意識に強張る。
手足の奥に刻まれた“恐怖の記憶”が、
瞬く間に蘇ってくる。
あの時と同じ匂い。
同じ気配。
胸の奥で、何かが軋んだ。
――また、闇が来る。
もう一度、地獄が始まるのだと悟った瞬間、
アランの中で、
微かな光が音もなく揺らめいた。
レギュラス・ブラックという名の光が、
遠く、遠くに霞んでいくようだった。
その男は、入り口に立ったまましばらくアランを眺めていた。
蝋燭の灯りが鉄格子の隙間を縫って、彼の頬を照らす。
笑っているのか、嘲っているのか、判別のつかない顔。
その笑みの形を見ただけで、アランの心臓はぎゅっと縮こまった。
何も言わず、彼はゆっくりと足を踏み入れる。
硬い靴底が石を打つ音が、冷たい牢の空気を乱した。
鎖がわずかに揺れる。
そのたびに、アランの体が無意識に震える。
――違う。
この足音は、あの人のものではない。
レギュラスの足音は、いつも静かだった。
慎重で、音を殺すように歩く。
近づいても、息遣いすら柔らかい。
けれど今の男の歩き方は乱暴で、床を踏みつけるたびに、
まるでこの場所にいる誰かを“侵す”ような響きを持っていた。
アランの喉がひくりと鳴る。
何も言えない。
言葉の出し方を忘れてしまった自分に、今ほど絶望を覚えたことはなかった。
男は牢の前に立ち、鍵を取り出した。
その音を聞いた瞬間、胸の奥が凍りつく。
鉄の擦れる音が、刃物のように鼓膜を裂いた。
扉が軋む音が、ゆっくりと静寂を壊していく。
「……あんたが、アラン・セシールか。」
低く、濁った声。
名を呼ばれるのが、これほどまでに恐ろしいと思ったのは初めてだった。
声を上げようとしたが、喉が固まって動かない。
男はにやりと笑った。
「見た通りだな。確かに噂通り、綺麗な女だ。」
冷たい笑み。
その目にあるのは好奇心でも同情でもない。
ただの“欲”だ。
アランの指先が震える。
体の奥から冷たさが込み上げる。
逃げることはできない。
鎖が足首に絡みつき、彼女の自由を奪っている。
男が一歩、近づいた。
その瞬間、かすかに空気の匂いが変わった。
汗と皮革と血の混じった、重たい匂い。
鼻の奥が痛くなるほど、懐かしく、そして恐ろしい臭いだった。
――いやだ。
心の中で叫んだ。
けれど声は出ない。
喉の奥が焼けつくように熱いのに、音は何ひとつ漏れない。
何度も、何度も、こうして叫ぼうとして、
そのたびに魔法で打たれ、言葉を奪われてきたのだ。
足音がすぐ目の前に迫る。
男の影が、蝋燭の灯に伸びて、アランの顔を覆った。
その瞬間、
――彼の名が頭の中を閃いた。
レギュラス。
彼の声が、記憶の中で優しく響く。
「外では、湖に白い鳥が舞っています。」
「あなたは、きっと空が似合う人だ。」
その声が、かすかな幻のように胸に届いた。
助けを求めるように心の中で名を呼ぶ。
けれど返ってくるのは、鎖の金属音だけ。
男の手が伸びる。
乱暴に顎を掴まれた。
顔を上げさせられる。
その手の感触に、思わず全身が震えた。
目の前の男の瞳は暗く濁っていて、
レギュラスのような光は一滴もなかった。
「大人しくしてりゃ、痛い目は見ないで済む。」
その言葉に、アランの中の何かが静かに崩れた。
心の奥で必死に押さえ込んでいた記憶が溢れ出す。
あの夜。
あの痛み。
あの絶望。
もう、誰も来ないと思っていた。
もう、あの地獄には戻らないと思っていた。
でも――現実は容赦なく彼女を引きずり戻す。
涙は出なかった。
泣くという行為すら、どこかに置き去りにしてきたから。
ただ、胸の奥で何かが音を立てて砕けた。
自分の心が崩れる音がした。
彼女の中にあった“光”――
レギュラス・ブラックという名の微かな灯火。
それが風に吹かれたろうそくのように、
今にも消えそうに揺らいでいた。
「……レギュラス。」
声にならない声が、唇から漏れた。
それは風のようにかすかで、誰にも届かない。
ただ石壁に吸い込まれ、
ひとつの祈りのように消えていった。
そして――
牢の中に、また夜が戻ってきた。
沈黙だけが、彼女を包んでいた。
その沈黙は、もう優しくなかった。
まるで生きたまま葬る棺のように、
冷たく、深く、重く、彼女を覆い尽くしていった。
なぜ、殺してくれないのだろう。
その問いは、何度も、何度も頭の中を巡った。
夜と朝の区別がつかないこの牢で、何百回も、何千回も。
――なぜ、生かされているのか。
自分の力が何を守るために使われているのか、もうわからない。
封印の術を強要されたあの日から、記憶は痛みとともに途切れ途切れだ。
誰かが叫んでいた。誰かが泣いていた。
けれど、その声が自分のものだったのか、もう確信が持てない。
ただ、あの冷たい声だけは覚えている。
「セシール家の血が絶えぬ限り、この封印は永遠に保たれる。」
それが、生かされている理由。
この血を絶やさぬため。
それだけのために、息をし続けなければならない。
“生きる”という言葉が、どれほど残酷で滑稽なものか。
ここでは、誰よりもよく知っている。
もうレギュラスを心の中で呼ぶこともやめた。
あの名を思い出すたびに、胸の奥がひりつく。
彼の声を思い出すだけで、涙が出そうになる。
――もう来ないで。
心のどこかで、そう祈るようになった。
この醜く汚れた自分を、もう彼に見せたくなかった。
女としての尊厳など、とっくに失っていた。
けれど、彼の前では――せめて、“あの日の自分”のままでいたかった。
それだけが、最後の誇りだった。
だが、そんな想いも、現実の前では無力だった。
重たい体が、のしかかっていた。
息が詰まる。
胸の奥まで押しつぶされていく。
皮膚がきしむ音が耳の奥で響く。
何度目なのかも、もうわからない。
――苦しい。
――息ができない。
それでも、死ぬことはできない。
意識が遠のく瞬間にさえ、
この体は必ず、無理やり呼吸を始める。
まるで、誰かが背中から糸を引いているように。
この世界では、死ぬことさえ許されない。
それが、最も残酷な罰だった。
男の体は、自分の体の倍以上あった。
押し潰されるような重さに、骨が軋む。
冷たい汗の匂いが鼻を刺す。
目の前は闇に滲み、世界の輪郭が崩れていく。
――いっそ、殺してほしい。
その願いすら、声にならない。
唇を噛みしめた。
痛みがないと、現実の感覚が消えてしまいそうだった。
血の味が舌に広がる。
ぱき、と小さな音がした。
ひび割れた唇が裂け、滲む血が顎を伝う。
痛い。
けれど、それすらもう、どうでもよかった。
痛みは、生きている証。
でも、その“生”が呪いでしかないのなら、
そんな証はいらない。
天井の闇が、ゆっくりと波打って見えた。
耳鳴りがする。
心臓の鼓動が、自分の意思とは関係なく続いている。
なぜ止まらないのか。
なぜ終わらないのか。
“死ねない”ということが、これほどまでに苦しいものだとは、知らなかった。
息をするたびに、痛みが広がる。
それでも呼吸はやめられない。
体が、勝手に空気を求める。
生かされることを拒めない。
――地獄。
この言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
声に出せない分、心の中で叫び続ける。
目を閉じても、思い浮かぶのはただ一人。
銀灰色の瞳。
静かな声。
あの柔らかな手。
けれどもう、その姿を思うことすら許されない。
彼は光だ。
自分は闇だ。
闇に沈んだ者が、光を呼ぶことはできない。
それを望むのは、罪だ。
だから――もう呼ばない。
もう祈らない。
ただ、息をする。
それが、今の彼女に与えられた唯一の“使命”だった。
そうしてまた、
何もない闇の中に、
小さな呼吸の音だけが、静かに響き続けていた。
レギュラスが牢へ駆けつけた時、
そこにあったのは、言葉にできぬほどの惨状だった。
息が止まるような瞬間――
視界のすべてが、冷たく、鈍く、痛みに満ちていた。
アラン・セシールは、石床の上に横たわっていた。
長い髪は泥と血で絡まり、淡い衣は破れ、
その布の切れ端がまるで彼女の尊厳の名残を嘲るように散らばっている。
胸元からは細い鎖が滑り落ち、
その金属が触れるたびに、鈍い音が闇に響いた。
――人は、ここまで酷い姿になり得るのか。
そう思った瞬間、胸の奥が抉られるように痛んだ。
見てはいけないものを見た気がした。
だが、視線を逸らすことなどできなかった。
心が叫んでいた。
喉の奥から熱がこみ上げる。
冷静さを保とうとする理性が、今にも崩れ落ちそうだった。
アラン。
その名を呼ぼうとして、声が出なかった。
彼女の唇は蒼白で、まるで血の気が失せた人形のようだった。
小さく上下する胸元だけが、かろうじて“生”を示している。
それでも、レギュラスの中では別の記憶が鮮明に浮かんでいた。
――あの日。
彼女に新しい服を持ってきた日のこと。
髪を整え、埃を払わせたあの日。
「似合いますよ」と口にしたとき、
わずかに頬を染めた彼女の顔が脳裏を過った。
その服が、今は無惨に引き裂かれていた。
繊細な布地は床に散り、
それを見た瞬間、胸の奥で何かが音を立てて砕けた。
この女は、光を知るべき人間だった。
優雅に、穏やかに、生きるはずの人間だった。
それがなぜ、こんな場所で――。
手が震えていた。
抑えようとしても止まらない。
唇を噛んで、どうにか呼吸を整える。
「……医務魔女を呼んでください」
低く、絞り出すような声だった。
命令というより、祈りに近かった。
数分もしないうちに、魔女が駆けつけた。
レギュラスは彼女に短く告げる。
「入浴を。……着替えも頼みます。」
医務魔女が頷くのを確認してから、彼は牢を離れた。
立っているのがやっとだった。
足元の石が遠くに感じる。
ただ、無意識のうちに壁に手をついて立っていた。
――どうして、守れなかった。
自分を責める思考が波のように押し寄せてくる。
彼女を遠ざけるはずだった鍵。
信じたはずの秩序。
それが、彼女を再び地獄に落とした。
どれほど時間が経ったのかわからない。
医務魔女が戻ってきて「目を覚ましそうです」と告げたとき、
レギュラスの心は大きく揺れた。
待っていた瞬間のはずなのに、
胸の奥に広がるのは恐怖だった。
目覚めて欲しい。
けれど、目覚めた時――
彼女の瞳に何が宿っているのかを見るのが、
たまらなく怖かった。
いつものように他愛ない話をすればいいのか。
「今日は雪が降っていましたよ」とか、
「外の庭に鳥が来ていました」とか。
そんな他愛ない話で、
もう一度あの微笑みを取り戻せるのだろうか。
それとも、彼女の心はもう、
どんな言葉も届かない場所へ行ってしまったのだろうか。
扉の向こうで、水の音が静かに響いている。
彼女の肌から汚れが落ちていく音。
それを聞くたびに、レギュラスは胸の奥が締め付けられた。
何を話せばいい。
どんな顔をすればいい。
声をかければ、彼女はまた、自分を“光”だと錯覚してしまうのだろうか。
違う――自分は闇の側の人間だ。
彼女を守るどころか、
この牢を維持する鎖の一部に過ぎない。
それでも。
今この瞬間、
扉の向こうで彼女が息をしているというだけで、
その事実だけで、
レギュラスはどうしようもなく泣きたくなった。
もう、二度と彼女を傷つけさせない。
そう誓っても、
その誓いを果たせる場所は、ここにはない。
光のない世界で、
彼はただ、沈黙の中に立ち尽くしていた。
アランが意識を取り戻したのは、夜明け前の静かな時間だった。
灯りの落とされた部屋の中で、蝋燭の光だけがゆらゆらと揺れている。
長い沈黙の果てに、ゆっくりと開かれた瞼の下から、
あの翡翠の瞳がわずかに覗いた。
レギュラスは息を呑んだ。
生きている。
その事実に、胸の奥が熱く締めつけられる。
「……アラン。」
名前を呼ぶと、彼女は微かに眉を寄せ、
ぼんやりとした視線を彼に向けた。
焦点が合わない。
けれど確かに、そこに“意識”が戻ってきていた。
何を言えばいいのか、わからなかった。
言葉が見つからない。
頭の中で何度も組み立てた台詞は、どれも意味を持たなかった。
気づけば、彼は動いていた。
本能的に、自然と。
アランの肩を抱き寄せていた。
あまりにも静かに、
それでいて、決して壊れぬように――
触れた腕の中で、彼女の体はあまりにも軽く、
骨のように脆かった。
冷たい体温が、少しずつ自分の胸に染みてくる。
その冷たさが、まるで痛みのように伝わった。
守れなかった。
そう思うたび、喉が詰まる。
この腕は、何のためにあるのだろう。
戦うために鍛えられたのではなく、
本当はこうして、誰かを守るためにあったのではないか。
「……アラン。」
彼女は答えない。
けれど、肩の力が少しだけ抜けた。
ほんのわずか、彼に体を預ける。
それだけで、レギュラスの胸の奥に溢れるものがあった。
言葉にならないものが、喉の奥を焦がしていく。
どれほどの想いを、どうやって伝えればいいのだろう。
赦しの言葉を求めることすら、おこがましい。
けれど、それでも――言いたかった。
「アラン……好きです。」
口に出した瞬間、空気が凍ったように感じた。
まるで自分の声ではないようだった。
あまりに唐突で、
場違いで、
愚かで。
けれど、それがすべてだった。
押し殺してきた感情が、
この静寂の中で、堰を切ったように溢れ出た。
理性も立場も、忠誠も、何もかもがどうでもよくなった。
彼女に初めて触れた日のことを思い出す。
地下牢の冷たい石の上、鎖に繋がれたまま、
それでも光を宿したあの瞳を。
あの瞬間から、彼の世界は変わったのだ。
ホグワーツの頃、
純血の令嬢たちと過ごした日々が確かにあった。
優雅な舞踏会の夜。
気取った会話、飾り立てられた笑顔。
家柄、立場、血統――
どれもが、彼の人生を形作る当然の要素だった。
だが、アランは違った。
彼女にはそんな装飾はなかった。
ただ、存在そのものが光だった。
翡翠の瞳の奥に、誰よりも強く、美しい“生”があった。
惹かれるという言葉では足りなかった。
一目惚れ――そんな軽い言葉で語るには、
あまりにも深く、あまりにも痛かった。
彼女はこの世界の中で唯一、
彼に“人間らしさ”を取り戻させた存在だった。
だからこそ、その手が今、自分の腕の中にあることが、
奇跡のように思えた。
アランは、何も言わなかった。
だが、わずかに彼の胸元を掴んだ。
細い指が震えながら、
確かにそこに縋るように触れていた。
その一瞬、レギュラスの胸が熱くなる。
彼女の沈黙の中に――“生きたい”という微かな意思が宿っている気がした。
彼はその手を包み込み、
もう一度、静かに呟いた。
「……大丈夫です。もう、誰にも触れさせません。」
それは誓いだった。
この闇に飲まれそうな世界で、
たったひとつ、彼が自分に課した約束。
彼女を守る。
たとえこの命を代償にしてでも。
蝋燭の火が小さく揺れ、
アランの睫毛が微かに震える。
その微細な動きに、
レギュラスはまたひとつ、
“希望”という名の光を見た気がした。
好きだと口にしたあの日から、
胸の奥に押し込めていた感情は、堰を切ったように溢れ出していた。
まるで、それまで封じ込めていた“生”そのものが、今になって一気に流れ出したかのように。
レギュラス・ブラックは、もう自分を律することができなかった。
彼女に触れるたび、呼吸が浅くなった。
声を聞きたい。
言葉を交わしたい。
ただそれだけの願いが、今の彼には世界のすべてだった。
だが、現実は残酷なほど静かだった。
アランは再び、食を取らなくなっていた。
あれほど少しずつ回復していたのに、
また、心の奥の何かが閉ざされてしまったのだ。
「アラン……」
呼びかけても、反応はない。
枯れ木のように細い肩が、わずかに震えるだけ。
彼女の頬は以前にも増してこけ、
瞼の下には青い影が落ちていた。
レギュラスは器を手に取り、
匙でゆっくりとスープをすくう。
温かな湯気が、彼の指先を撫でる。
彼女の手に持たせるのではなく、
今は自分の手で口元まで運ぶ。
彼女がもう、力を入れられないことを知っているから。
「もう少しだけ……食べましょう、アラン。」
声は柔らかく、それでいてどこか必死だった。
スープを口元に近づける。
けれど、アランは動かない。
視線を落としたまま、口を開けようとしない。
痩せた指が、レギュラスの手を制した。
その動きは弱々しいのに、
そこに確かな“拒絶”の意思が宿っていた。
匙の上のスープが、少しこぼれた。
石の床に落ち、静かに音を立てる。
「……何なら、食べられます?」
レギュラスの声が、かすかに掠れる。
「何でも持ってきますよ。甘いものでも、柔らかいパンでも……」
アランはゆっくりと首を振った。
その仕草が痛いほど静かだった。
まるで“生きること”そのものを、
もう拒んでいるようだった。
彼女の体に掛けていた服は、
新しく仕立てさせたものだった。
最も小さいサイズを選んだつもりだったが、
布地の隙間から覗く骨ばった腕が、
あまりにも痛々しかった。
服が合わないのではない。
彼女が、あまりにも痩せてしまったのだ。
袖の中で細い手首が揺れる。
指先が布を握りしめるたび、
その震えがレギュラスの胸に突き刺さる。
「アラン……お願いです。少しでいい。」
彼女は瞼を伏せたまま、かすかに唇を動かした。
けれど、声は出なかった。
ただ、わずかに首を振る。
――もう、いらない。
彼女の沈黙が語っていたのは、それだけだった。
レギュラスはその場で固まった。
胸の奥で何かが音を立てて崩れていく。
ようやく取り戻せたはずの“意思の疎通”が、
また彼を苦しめる形で戻ってきていた。
あの翡翠の瞳。
今は、そこに確かに感情がある。
だが、それは希望ではなく、諦めの色だった。
彼女は、生きることを拒んでいる。
けれど死ぬことも許されない。
その狭間で、静かに朽ちていこうとしている。
――これが、生かすということなのか。
彼は震える指で彼女の頬に触れた。
皮膚の下には、もう肉の温もりがほとんど残っていなかった。
それでも、レギュラスの指先を拒むような仕草はしなかった。
その小さな温度に、彼は救われたような、突き落とされたような気持ちになった。
「あなたは……生きていてほしい。」
そう言いながら、声が掠れた。
それが彼自身の願いなのか、
それとも赦しを乞う言葉なのか、もう分からなかった。
アランは何も答えない。
けれど、彼の声にわずかに睫毛が震えた。
その微細な反応に、レギュラスは息を呑む。
ほんの一瞬、
その沈黙が、まるで“ありがとう”と聞こえた気がした。
それでも彼女の瞳は閉じたまま、
その胸の上下はますます浅くなっていく。
レギュラスは、もう匙を持つことをやめた。
代わりに、彼女の手を包み込む。
細くて冷たいその手を、温めるように握る。
満たされない心のまま、彼はただ祈った。
どうか、もう少しだけ。
この人に、生の光を取り戻させてほしい――と。
けれど、返ってくるのは沈黙だけ。
その沈黙こそが、今の彼にとって一番の罰だった。
