1章
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執務室の扉がノックもなく開いた。
磨き抜かれた黒檀の杖を片手に、ルシウス・マルフォイが滑り込むように入ってくる。
光沢のあるブロンドの髪が燭台の火を弾き、その姿は相変わらず貴族そのものだった。
その瞬間、アランの身体がびくりと跳ねた。
まるで見えない鎖を思い出したかのように、肩が縮こまり、膝の上で組んだ指先が固く強張る。
胎児を守るように無意識に腹を抱える仕草——
地下牢にいた頃、ルシウスの靴音を聞くだけで震え上がっていた、あの反射が戻ってきていた。
レギュラスは目を細める。
ルシウスはそんなアランの怯えを見ても、眉一つ動かさなかった。
「狼人間のための食殺許可法は、問題なく可決されそうか?」
整った声で、何の感情もなく言う。
「ええ。可決票は過半数以上は確定しております。」
レギュラスは冷静だったが、その裏に硬い鋼のような自信が滲んでいた。
ルシウスは薄く笑う。
「さすがだ。…騎士団側も“正義”とやらの旗を振り回して必死に票を集めているらしいがな。」
「無駄でしょうね。」
レギュラスは小さく息を吐くように続けた。
「この法案に至っては我々の方が圧倒的に有利です。」
狼人間の抑制は“理想”ではどうにもできない。
騎士団は口先ばかりの綺麗事で票を集めようとしているが、
魔法族の多くはその裏に潜む危険を知っていた。
レギュラスは淡々と続ける。
「ドラゴン保護委員会、魔法生物管理課、純血保護協議会……
この三つの団体を中心に多数派工作を済ませています。
反対票に回る予定だった穏健派にも、“狼人間の反乱”という現実的な危機を提示しました。
結果、可決側に票を移す者が続々と出ています。」
ルシウスは満足げに頷いた。
「素晴らしい采配だ。…君のような青年がもっと早く省に入っていれば、苦労は少なかったものを。」
その言葉に、レギュラスは微かに笑ったが、
その笑みの奥では、ソファの端で縮こまるアランを気にしていた。
ルシウスの視線がゆっくりとアランへ向く。
その目は、地下牢にいた少女を“物”として見ていた頃のまま。
変わらない冷たい蔑視。
彼女を価値で測るような、あの時と同じ目。
レギュラスの胸の奥が、ずきりと裂けた。
——何も変わっていないと言われているようだ。
自分は必死に救い出した。
光の中に連れ出し、名も尊厳も、家族も与えた。
大切にし、ひとつひとつ奪われたものを取り戻そうとしている。
けれどルシウスの目には、
まだ“地下牢に転がる封印の道具”としてしか映っていない。
その事実が、耐え難いほど胸を抉った。
「随分と腹が出てきたな。」
ルシウスの言葉は、無神経なほど平然としていた。
「ええ。順調です。」
レギュラスは即座に返す。
声色は穏やかだが、どこか張り詰めたものがあった。
「闇の帝王もさぞお喜びになるだろう。」
ヴォルデモートの名が発せられた瞬間、
アランはぎゅっと肩をすくめ、
身体を小さく丸めた。
小動物が捕食者の影を感じた時のような、
本能的な恐怖の表れ。
レギュラスの胸に、たまらない痛みが走る。
だが、声には出さない。
出せば、さらに執拗に踏み込まれる。
代わりに、そっとアランの手に自分の手を重ねた。
強く握らず、逃げ道を塞がぬように。
ただ彼女が、ここに自分がいると感じられるだけの温度で。
その一瞬、アランの体の強張りがわずかにほどけた。
レギュラスは静かに、まっすぐルシウスを見返す。
「——彼女は、今ではブラック家の正妻です。
どうか、お手柔らかにお願いします。」
言葉は柔らかいのに、刃のような冷えを帯びていた。
ルシウスは眉を上げ、面白そうに微笑んだ。
「もちろんだとも、レギュラス。」
だがその笑みの奥には、
“忘れるわけがないさ——セシール家の封印の女だろう?”と書かれているのが透けて見えた。
レギュラスは小さく息を吸い、アランの肩を軽く抱いた。
その仕草だけが、
この部屋でただひとつ、確かな温度を帯びていた。
部屋に流れ込む魔法灯の淡い光の中で、
ルシウス・マルフォイはゆっくりとアランを見やった。
その視線は、氷よりも冷たく、刃よりも鋭かった。
アランブラック——
かつてのアラン・セシール。
どれほど上等なローブを纏おうと、どれほど髪を丁寧に梳かれようと、
どれほど控えめで上品な化粧を施されようと。
ルシウスの目には、
あの地下牢で薄汚れた布切れを身体に巻きつけ、
埃と血の匂いの中で転がっていた“ごみ”のような少女の姿が、
いつまでも重なり続けた。
——あれが女だと?
——品位も血筋も教育もない獣のような存在だったではないか。
彼は喉の奥で小さく鼻を鳴らす。
うろ覚えだが、何度か“世話”をしに地下階に降りたことがある。
といっても、飯を床に置いてやる程度のことだ。
反応がなかったから蹴り上げたこともあった気がする。
あの時、足首を弱々しく掴まれた瞬間の、
ぞっとするような嫌悪感を忘れられなかった。
必死に助けを求めるように伸ばされた手が不快で、不潔で、
思わずその細い手を靴底で踏み潰した——
そんな記憶が朧げによみがえる。
自分は“手こそ出さなかった”。
だが地下での噂は嫌でも耳に届いていた。
闇の陣営の男たちの中には、
あの少女を欲の発散に使った者もいたらしい。
その汚れた体を思うと、
同じ空間に存在することすら胃が反転しそうになるのだ。
便器——
それがあの女に抱く正確な印象だった。
レギュラスブラックには悪いが、とても妻という器ではない。
純血貴族の家系図のどこにも記されるべきでない、
惨めな存在だ。
もちろん、美しさ“だけ”で見れば、
確かにアランは目を引く。
翡翠色の瞳は宝石のようで、
漆黒の髪は光を反射して艶やかだ。
だが——
美しいだけの女など、
腐るほどいる。
「シンデレラのように美しい」と囁く者もいるだろうが、
所詮は童話だ。
本物の世界では、
美しい女でも地位も名誉も金もなければ、
ゴミのように踏みつけられる。
それが現実だ。
だからあの女は地下で踏みにじられていたのだ。
——ではなぜレギュラスは、
——よりにもよってその“踏まれる側”の女を妻にしたのか。
ルシウスは理解できなかった。
彼は冷静で、聡明で、誇り高く、
ブラック家の中でも稀有なほどの実力と才覚を持つ男だ。
純血主義の価値を誰よりも深く理解し、
魔法界を動かす力を確実に手中に収めつつある若者。
そんな男が——
よりにもよって、
あんな「知性も品性も乏しく、地下で育てられた女」を隣に置くなど——
馬鹿げている。
「便器同然の女を妻にするとは……
レギュラスブラックが何を考えているのか、理解に苦しむ。」
心の中で吐き捨てる。
レギュラスがアランに冷たく接していたのなら、まだ理解できる。
しかし、彼はまるで宝物でも扱うように彼女を抱いている。
その姿を見るたびに、
ルシウスの胸に鈍い苛立ちと不快感が渦巻いた。
地下で膝を抱えていた薄汚れた少女が、
気品あるブラック家のローブに包まれ、
上等な家具の並ぶ執務室のソファに座っている。
それだけで、世界の秩序が狂っていくような気がしてならなかった。
レギュラスは狂ってしまったのか——
それとも、自分には見えない何かに囚われているのか。
いずれにせよ、
アランブラックという“最も低い場所の女”が、
今やブラック家の中心にいるという現実だけが、
ルシウスの心に長い影を落としていた。
騎士団の作戦室には、焦燥と怒気と緊迫が入り混じった重い空気が満ちていた。
ごく僅かな紙のめくれる音さえ、刃のように張り詰めた静寂を裂く。
ジェームズがテーブルの上に新しい証拠を広げる。
黒々としたインクで記された報告書。
そして——
煤が焦げついたように黒く縁取られた、細長い紙片。
「見ろ……これだ。」
シリウスが顔を寄せると、深く刻まれた呪文跡が目に飛び込んできた。
途端に、唇がきつく結ばれる。
「……“カルシェ・ラセラ”だ。」
切り裂き呪文の中でも特に凶悪な、
対象を内部から引き裂く古い呪術。
通常の切り裂き呪文と違い、
闇の魔法使いでも扱える者は限られている。
その痕跡が——
孤児院の床、壁、そして遺体の衣服の断片から複数検出されたのだ。
そして、決定的なものがもうひとつ。
「この呪文の軌跡……」
リーマスが青ざめた声で呟く。
「ベラトリックス・レストレンジの“癖”と一致している。」
魔法の痕跡は、魔力の流れ方や呪力の歪み方に術者の特性が必ず刻まれる。
これは、熟練の研究家にとって指紋のようなものだ。
ベラトリックスほどの闇の魔女になれば——
その魔力のゆらぎは、他の誰とも間違えようがない。
「ベラ……か。」
シリウスは低く唸り、拳を固く握った。
「救いようのねぇ狂犬だと思ってたが……まさか子供相手に。」
ジェームズは書類をまとめ、重々しく立ち上がる。
「これでようやく、“闇の陣営の関与なし”というレギュラスの虚偽報告を崩せる。」
表情は険しい。
怒りと、焦りと、そしてどこかに苦さが残っていた。
レギュラスブラック——
あの冷静沈着な男が、どこまで今回の件に関わっているのか。
兄弟であるシリウスでさえ読み切れない。
だが、ベラトリックスが動いたということは——
その背後にいるのは間違いなく、
彼女と最も行動を共にしている男。
シリウスは唇を噛む。
「……レギュラスは何をしているんだ。」
リーマスは俯きながら、そっと目を閉じた。
かつて監督生として共に学生生活を送った少年の影と、
今や闇の魔法使いの中心にいる青年が重ならない。
ジェームズは鋭い声で言い放つ。
「法務部に提出する。
“孤児院惨殺事件に闇の陣営の関与あり”——
レギュラスブラックの職務にも重大な疑惑があること。
ベラトリックスによる呪文痕跡の確証付きだ。」
その場にいた全員が息を呑んだ。
これを突きつけられれば、
レギュラスは答えなければならない。
法務部の人間として、
魔法界の秩序を守る者として、
そしてブラック家の後継として。
逃げ道は、限りなく細くなる。
シリウスは拳を震わせながら呟いた。
「……レギュラス。
これをどう言い逃れするつもりなんだ。」
ジェームズは書類を抱え、法務部へ向かう扉を勢いよく開いた。
軋む音が、決戦の始まりを告げるようだった。
騎士団はついに、
闇の陣営の中心に手を伸ばし始めたのだ。
その最初の刃は——
レギュラスブラックの喉元に向けて突きつけられようとしていた。
執務室に静かに広げられた一枚の書類。
その白い紙の上に、騎士団の烙印が深々と押されているのを見た瞬間、
レギュラスの呼吸は凍りついた。
——孤児院惨殺事件、捜査再開の申請。
あり得ない。
あの事件はすでに“マグル側の管轄に移された”として魔法省内部では完全に終結扱いにしたはずだった。
魔法界は手を引き、マグルの世界が処理する……
その筋書きは完璧なはずだった。
なのに。
レギュラスは紙を掴む手をわずかに震わせながら、
記された文字を一行一行読み下ろしていく。
——現場より検出した魔力痕跡、ベラトリックス・レストレンジと一致。
——事件処理における魔法省法務部の重大な見落としの可能性。
——担当官レギュラス・ブラックの職務怠慢の疑い。
こめかみの血管が、鼓動と同じ速さで脈打ち始める。
「……ふざ、ける……な……」
呟きは低すぎて空気に溶けた。
だが胸の奥で渦巻く怒りは、燃え上がった炎のように執務室全体を満たした。
なぜだ。
なぜまだ掘り返す。
あの事件は、もう“魔法界では”終わったはずだ。
にもかかわらず、騎士団は魔法省の裏をかき回し、
泥の中から無理矢理にでも証拠を引き上げてきた。
よりにもよって、
——ベラトリックスの魔力痕跡。
あの女の魔法痕跡は確かに残りやすい。
殺しに快楽を覚えるその癖が、魔力に無駄な歪みを生み出すからだ。
それゆえ、レギュラスはあの夜、あれほどの念入りに“後消し”をした。
あり得ないほど慎重に、痕跡をひとつ残らず消したはずだった。
なのに。
「……見逃した……だと?」
レギュラスは書類を握り潰しかける。
革椅子にもたれ、深く息を吸おうとするが、肺がうまく動かない。
圧迫されるような怒りが、胸の内を締めつけてやまない。
自分の職務に過失があった、と騎士団は言いたいのか。
自分が怠慢で、ベラトリックスの関与に気づけなかったというのか。
——この自分に。
この自分が、見落とすはずがない。
あれほど綿密に、あれほど細心に、
“あの日”の痕跡をすべて殺しきったというのに。
「騎士団……」
怒りというより、ほとんど殺意にも似た熱がレギュラスの瞳に灯る。
彼らは愚かにも、自分たちの正義だけを信じ、
その正義がどれほど世界を乱し、どれほど多くの血を要求するものかを理解しようとしない。
あの事件を掘り返せばどうなるか。
魔法界とマグル界の間に新たな溝が生まれる。
闇の陣営は更に苛烈な攻撃に転じるだろう。
そしてその矛先に立たされるのは——
アランだ。
あの日、彼女が怯えきった瞳で自分を見上げた光景が胸の奥で疼く。
闇の帝王の命のために。
自分の立場を守るために。
そしてアランを自由にするために。
あれほどの罪を背負った。
なのに、騎士団はそれをぶち壊そうとしている。
正義の名の下に。
レギュラスは深く息を吸い込み、
ゆっくりと吐き出すと、瞳に氷のような冷徹さを宿した。
「……いいでしょう。
あなた方がそこまでやるというのなら——
こちらも相応の“処置”を取らねばなりませんね。」
書類を机に叩きつけるように置く。
怒りは静かに、しかし確実に燃え広がっていった。
騎士団がベラトリックスの痕跡を手にしたというなら、
次に追い詰めようとするのはレギュラス自身だ。
そしてその先にいるのは—— アラン。
それだけは、絶対にさせない。
魔法省の白い壁に映る彼の影は、
怒りに揺れながらも、凛とした威厳を保っていた。
静かに燃え上がったレギュラスの怒りは、
次の一手を確実に切り出す準備を始めていた。
執務室の薄いカーテン越しに射し込む午後の光が、
レギュラスの机上の書類を淡く照らしていた。
その光景は、静けさの中に微かなざわめきを孕んでいるようで、
彼の胸の内に渦巻く焦燥と怒気を映し出すかのようだった。
レギュラスは、深く深く息を吸い込む。
そして吐き出すたびに、心の中で膨れ上がる怒りを冷たい理性へと練り上げていく。
怒りで物事を動かすわけにはいかない。
感情で動く者ほど、容易く破滅へ向かうと知っているからだ。
——騎士団はベラトリックスの痕跡を掴んだ。
ならば、そこに“筋の通った物語”を与えてやればいい。
レギュラスは静かに椅子から身を乗り出す。
美しく整えられた指先が、紙の上を滑り、
魔法省の封蝋印を軽く叩くように触れた。
「……マグルと純血の魔女。
この二つが交わるはずがないという前提を覆せばいい。」
その呟きはほとんど無音に近かったが、
その分、恐ろしいほどの冷静さと精密さが滲んでいた。
彼の頭にあるシナリオが、鮮やかに浮かび上がる。
——ベラトリックスの妖美な容姿。
その狂気じみた美は、魔法族だけでなく、
無知なマグルの男にとっても
抗うことのできない“毒”となる。
魔法族の魔力に触れれば、マグルの精神は簡単に歪む。
飲み込まれるように魅了され、
理性を壊され、
欲望と狂気だけが残る。
孤児院を襲ったのは——
ベラトリックスの“魔力に当てられた”愚かなマグルの男。
彼は彼女に自分が相応しいと錯覚し、
その憧れと狂気が錯乱に変わり、
孤児院へ刃を向けたのだ。
邪悪な魔法の痕跡が弱く残った理由も説明がつく。
——ベラトリックスが彼を突き放した、その瞬間の魔力だ。
身分の違いも弁えず、
マグルのくせに純血の魔女に惹かれた愚か者に向けて放たれた、
威嚇にも等しい魔力の一閃。
その一瞬が、孤児院の惨劇へと繋がった。
この筋書きなら、
ベラトリックス本人が直接手を下したという証明を覆せる。
騎士団が握る“魔力痕跡”という唯一のカードでさえ、
ただの副産物へと矮小化される。
そして——
魔法界の根源に息づく“純血主義”という偏見を逆手に取れば、
この物語は驚くほど自然に成立する。
「愚かなマグルが、魔力に酔って暴走しただけ。」
「純血の魔女に近づくなど身の程知らず。」
「ベラトリックスは被害者だ。」
魔法省の多くは、
この理屈にいとも容易く転ぶだろう。
同じ純血主義の思想を胸に持つ者ばかりなのだ。
レギュラスはゆっくりと椅子に背を預け、
指先で机を軽く叩く。
このシナリオは、誰も傷つけない。
……いや、一人を除いて。
“マグルの男”という架空の加害者がすべてを背負い、
魔法界はその背後に隠れる。
孤児院の悲劇は、理由づけられ、
闇の陣営も、ベラトリックスも、レギュラス自身も守られる。
アランも——。
彼女の翡翠の瞳に再び恐怖を宿らせずに済む。
あの瞳から怯えや悲嘆を見たくない。
レギュラスは軽く目を閉じた。
闇の帝王の命令に従う日々。
ベラトリックスの狂気を抑え込む重圧。
そして孤児院のあの光景——
血に濡れた小さな亡骸たちが脳裏に蘇る。
その最奥で、
アランの声なき叫びが、
自分を縛りつける。
「…… アラン。」
呟いた名は、ひどく脆くひどく愛おしい響きを帯びた。
彼女を守るためなら、
世界のどれほどを欺こうと構わない。
この罪深い道の果てに何が待っていようと。
レギュラスは静かに目を開く。
その瞳には、
冷徹な魔法省役人としての光と、
一人の男としての愛が交錯していた。
「——これで、十分だ。」
ペンを取ると、
彼は用意していた“シナリオ”を淡々と書き上げていく。
完璧で、合理的で、
誰も反論の余地を持てない物語。
その白い紙の上に紡がれる文字は、
まるで魔法陣のように緻密で美しかった。
そして何より恐ろしく、
誰もが信じてしまうほどに——
真実らしかった。
闇の帝王の下に集められた会議室は、
いつも以上に濃密な魔力と狂気が満ちていた。
黒いローブの擦れる音すら、
生ぬるい湿気を孕んだ空気の中で鈍く沈んでいく。
中央では、ベラトリックスが甲高い笑い声を立ち上らせていた。
その声は、どこか金属が軋むような――
聞くだけで神経を逆撫でする音だった。
「あたしに夢中になったマグルの男ですって?」
唇を紅く歪め、腹を抱えて笑いながら、
ベラトリックスは足元の男をつま先で突く。
そこに跪いているのは、
みすぼらしい格好をしたマグルの男だった。
恐怖と混乱が入り混じった目。
乾いた唇。
体を支えるだけで精一杯の震える腕。
彼は、自分がどこに連れてこられたのかも理解できていないようだった。
「あなたの家族に、一生分の金を用意してあげましょう。」
レギュラスが静かに口を開く。
その声は冷たく、
しかし同時に、不気味なほど整った優しさを帯びていた。
「その代わり……
あなたは罪人として死ぬ覚悟がありますか?」
レギュラスは、男の目の高さに合わせるようにゆっくりとしゃがみ込む。
闇の魔法使いたちに囲まれた中で、
唯一、人に話すような穏やかな声音を保っていた。
男は震える手でレギュラスの靴を掴んだ。
泣き声すらかすれている。
「お、お願いします……!
魔法使いさん……娘が……娘が重い病なんです……
治療を……マグルではもうどうにも……」
次の瞬間。
ゴッ。
男の横腹に鋭い蹴りが叩き込まれた。
ベラトリックスだ。
「誰に向かって口を開いてんだい?
卑しいマグルが、純血の魔女に話しかけるなんて生意気だよ。」
男は苦鳴を上げ、
床に転がりながら咳き込む。
喘ぎ、涙と鼻水で顔が滲んでいく。
レギュラスは眉ひとつ動かさず、
淡々と声だけでベラトリックスを制した。
「ベラ、まだ話が途中です。
……お手柔らかにお願いします。」
ベラトリックスは髪をかき上げながら、
舌打ちをして椅子に腰をかける。
「さすがお坊ちゃん、優しいことだねぇ。」
皮肉混じりの声が会議室に響く。
デスイーターたちは面白そうにニヤついて眺めている。
男は再びレギュラスの足元に滲り寄り、
深く額を床につけた。
「娘を……助けてください……
どうか……どうか……!」
その姿は哀れで、
まるで人ではなく、
ただの“犠牲としての素材”に見えた。
レギュラスは金色に光る瞳を細めると、
男に告げた。
「……いいでしょう。」
その瞬間、男は息を呑む。
「ただし、あなたの罪は――
孤児院の襲撃と、子供たちの殺害です。
代わりに、娘は確実に救います。
あなたにはその“記憶”を植え付けます。」
男は意味を理解していない。
いや、理解する能力を失うほど追い詰められている。
ただ娘を救いたい。
願いはそれだけだ。
「娘が……助かるなら……
なんでも……なんでもします……」
レギュラスは頷く。
そして、淡々と杖を持ち上げた。
男の頭に触れた瞬間、
魔力が螺旋を描くように周囲の空気を揺らす。
レギュラスの呪文が響く。
低く、静かで、異常なほどに正確な声。
男の瞳が濁り、
そこへ新たな“記憶”が注ぎ込まれていく。
狂気。
妄信。
ベラトリックスへの欲望。
孤児院へ向かう動機。
刃を握る自分。
血の飛沫。
悲鳴。
全てを自分がやったと信じ込む記憶。
すべてが、完璧に。
やがて男は膝をついたまま、
ぽつりと呟いた。
「……俺が……やった……
俺が……全部……」
会議室に静寂が落ちる。
ベラトリックスは口角を上げ、
楽しげに呟く。
「よくできた子犬だねぇ。
ほら、行っておいで。
死ぬまで“あたし”に忠誠を見せておいで。」
レギュラスは立ち上がる。
その横顔には喜怒哀楽の欠片もない。
ただ冷ややかに、
誇り高い純血の顔をしていた。
「これで孤児院事件は終わりです。
騎士団がどれほど捜査を続けようと、
彼以外に辿り着く者はいない。」
闇の陣営の空気が、
深い満足と嘲笑で満たされる。
レギュラスは誰にも悟られぬほどわずかに目を伏せた。
——これでいい。
これで、全ては守られる。
完璧な捏造。
完璧な生贄。
完璧な物語。
誰にも覆せない、
“事実より強い虚構”の完成だった。
魔法省の会議室には重い沈黙が満ちていた。
書類の山、魔力測定器の光、そして机の上で震えるペン先――すべてが、失望と徒労の色に染まっている。
リーマスは、供述調書を手にしたまま、深々と溜息を吐いた。
「……矛盾が、一つもない。」
自分の声が乾いているのが分かった。
紙の上には、マグルの男が口にした“真実”が整然と並んでいる。
襲撃の動機。
犯行の流れ。
恐怖と快楽の混じった心理描写。
ベラトリックスとの“接触”。
すべてが異常なほど一貫していた。
まるで、長い時間をかけて本人が積み上げてきた記憶のように。
違和感すら覚えるほど完璧だった。
だが、完璧すぎるからこそ――
それが“作られた”ものだということが痛いほど分かる。
リーマスは苦々しさを噛み締めた。
「……闇の陣営が用意した男だ。」
誰かが呪文を書き込むように息を呑む。
当たり前だ。
ここまで正確に“辻褄を合わせられた供述”など、自然に生まれるものではない。
対価が何だったのかは分からない。
金か。
家族か。
命か。
希望か、絶望か。
だが、男本人が自供している以上、捜査は終わる。
結末は強制的に閉じられる。
事件は片付いた。
すべてが“収束した”のだ。
……公式の上では。
リーマスの横に立ったジェームズが、疲れたように額を押さえた。
「よく……考えつくもんだよな。」
皮肉でも称賛でもない。
その両方だった。
震えるような憎悪と、吐き気を催すほどの尊敬が混ざり合った声。
レギュラス・ブラック。
あの男の思考は、恐ろしく滑らかで冷酷で緻密。
そして、何より“先を読んでいる”。
こちらがカードを切る前に、
彼はすでに二手先、三手先の結末を整えてしまう。
今回もそうだった。
新証拠として突きつけたベラトリックスの魔力痕。
騎士団が掴んだ唯一にして最大の成果だった。
だが――
その痕跡に対して、レギュラスは鮮やかすぎる説明を用意した。
ベラトリックスに惚れ込んだ愚かなマグルの男が、
狂気に当てられて孤児院を襲撃した。
その際ベラトリックスの魔力痕が残って当然だ、と。
完璧な言い訳だった。
それ以上でも以下でもない、
冷たく、突き放すように整えられた“物語”。
ジェームズは拳を握りしめる。
「どこまでも……あの男らしいよ。」
怒りと諦めが滲む声音だった。
結果は残酷なほど明白だった。
レギュラス・ブラックは無傷。
法務部での地位も保たれた。
ベラトリックスの魔力痕は“偶然”として処理された。
容疑者は自供済み。
事件は終わった、と公式に記録された。
リーマスは書類を閉じ、静かに言った。
「……我々が突きつけた“真実”は、
あの男の“脚本”に全て塗り潰されたんだ。」
それが、苦い現実だった。
レギュラス・ブラックという男は、
正義がどれほど足を伸ばしても届かない場所に立っている。
そして――
その隣に立つ少女、アラン。
彼女もまた、レギュラスが描いた劇の中から抜け出せる日は来るのだろうか。
磨き抜かれた黒檀の杖を片手に、ルシウス・マルフォイが滑り込むように入ってくる。
光沢のあるブロンドの髪が燭台の火を弾き、その姿は相変わらず貴族そのものだった。
その瞬間、アランの身体がびくりと跳ねた。
まるで見えない鎖を思い出したかのように、肩が縮こまり、膝の上で組んだ指先が固く強張る。
胎児を守るように無意識に腹を抱える仕草——
地下牢にいた頃、ルシウスの靴音を聞くだけで震え上がっていた、あの反射が戻ってきていた。
レギュラスは目を細める。
ルシウスはそんなアランの怯えを見ても、眉一つ動かさなかった。
「狼人間のための食殺許可法は、問題なく可決されそうか?」
整った声で、何の感情もなく言う。
「ええ。可決票は過半数以上は確定しております。」
レギュラスは冷静だったが、その裏に硬い鋼のような自信が滲んでいた。
ルシウスは薄く笑う。
「さすがだ。…騎士団側も“正義”とやらの旗を振り回して必死に票を集めているらしいがな。」
「無駄でしょうね。」
レギュラスは小さく息を吐くように続けた。
「この法案に至っては我々の方が圧倒的に有利です。」
狼人間の抑制は“理想”ではどうにもできない。
騎士団は口先ばかりの綺麗事で票を集めようとしているが、
魔法族の多くはその裏に潜む危険を知っていた。
レギュラスは淡々と続ける。
「ドラゴン保護委員会、魔法生物管理課、純血保護協議会……
この三つの団体を中心に多数派工作を済ませています。
反対票に回る予定だった穏健派にも、“狼人間の反乱”という現実的な危機を提示しました。
結果、可決側に票を移す者が続々と出ています。」
ルシウスは満足げに頷いた。
「素晴らしい采配だ。…君のような青年がもっと早く省に入っていれば、苦労は少なかったものを。」
その言葉に、レギュラスは微かに笑ったが、
その笑みの奥では、ソファの端で縮こまるアランを気にしていた。
ルシウスの視線がゆっくりとアランへ向く。
その目は、地下牢にいた少女を“物”として見ていた頃のまま。
変わらない冷たい蔑視。
彼女を価値で測るような、あの時と同じ目。
レギュラスの胸の奥が、ずきりと裂けた。
——何も変わっていないと言われているようだ。
自分は必死に救い出した。
光の中に連れ出し、名も尊厳も、家族も与えた。
大切にし、ひとつひとつ奪われたものを取り戻そうとしている。
けれどルシウスの目には、
まだ“地下牢に転がる封印の道具”としてしか映っていない。
その事実が、耐え難いほど胸を抉った。
「随分と腹が出てきたな。」
ルシウスの言葉は、無神経なほど平然としていた。
「ええ。順調です。」
レギュラスは即座に返す。
声色は穏やかだが、どこか張り詰めたものがあった。
「闇の帝王もさぞお喜びになるだろう。」
ヴォルデモートの名が発せられた瞬間、
アランはぎゅっと肩をすくめ、
身体を小さく丸めた。
小動物が捕食者の影を感じた時のような、
本能的な恐怖の表れ。
レギュラスの胸に、たまらない痛みが走る。
だが、声には出さない。
出せば、さらに執拗に踏み込まれる。
代わりに、そっとアランの手に自分の手を重ねた。
強く握らず、逃げ道を塞がぬように。
ただ彼女が、ここに自分がいると感じられるだけの温度で。
その一瞬、アランの体の強張りがわずかにほどけた。
レギュラスは静かに、まっすぐルシウスを見返す。
「——彼女は、今ではブラック家の正妻です。
どうか、お手柔らかにお願いします。」
言葉は柔らかいのに、刃のような冷えを帯びていた。
ルシウスは眉を上げ、面白そうに微笑んだ。
「もちろんだとも、レギュラス。」
だがその笑みの奥には、
“忘れるわけがないさ——セシール家の封印の女だろう?”と書かれているのが透けて見えた。
レギュラスは小さく息を吸い、アランの肩を軽く抱いた。
その仕草だけが、
この部屋でただひとつ、確かな温度を帯びていた。
部屋に流れ込む魔法灯の淡い光の中で、
ルシウス・マルフォイはゆっくりとアランを見やった。
その視線は、氷よりも冷たく、刃よりも鋭かった。
アランブラック——
かつてのアラン・セシール。
どれほど上等なローブを纏おうと、どれほど髪を丁寧に梳かれようと、
どれほど控えめで上品な化粧を施されようと。
ルシウスの目には、
あの地下牢で薄汚れた布切れを身体に巻きつけ、
埃と血の匂いの中で転がっていた“ごみ”のような少女の姿が、
いつまでも重なり続けた。
——あれが女だと?
——品位も血筋も教育もない獣のような存在だったではないか。
彼は喉の奥で小さく鼻を鳴らす。
うろ覚えだが、何度か“世話”をしに地下階に降りたことがある。
といっても、飯を床に置いてやる程度のことだ。
反応がなかったから蹴り上げたこともあった気がする。
あの時、足首を弱々しく掴まれた瞬間の、
ぞっとするような嫌悪感を忘れられなかった。
必死に助けを求めるように伸ばされた手が不快で、不潔で、
思わずその細い手を靴底で踏み潰した——
そんな記憶が朧げによみがえる。
自分は“手こそ出さなかった”。
だが地下での噂は嫌でも耳に届いていた。
闇の陣営の男たちの中には、
あの少女を欲の発散に使った者もいたらしい。
その汚れた体を思うと、
同じ空間に存在することすら胃が反転しそうになるのだ。
便器——
それがあの女に抱く正確な印象だった。
レギュラスブラックには悪いが、とても妻という器ではない。
純血貴族の家系図のどこにも記されるべきでない、
惨めな存在だ。
もちろん、美しさ“だけ”で見れば、
確かにアランは目を引く。
翡翠色の瞳は宝石のようで、
漆黒の髪は光を反射して艶やかだ。
だが——
美しいだけの女など、
腐るほどいる。
「シンデレラのように美しい」と囁く者もいるだろうが、
所詮は童話だ。
本物の世界では、
美しい女でも地位も名誉も金もなければ、
ゴミのように踏みつけられる。
それが現実だ。
だからあの女は地下で踏みにじられていたのだ。
——ではなぜレギュラスは、
——よりにもよってその“踏まれる側”の女を妻にしたのか。
ルシウスは理解できなかった。
彼は冷静で、聡明で、誇り高く、
ブラック家の中でも稀有なほどの実力と才覚を持つ男だ。
純血主義の価値を誰よりも深く理解し、
魔法界を動かす力を確実に手中に収めつつある若者。
そんな男が——
よりにもよって、
あんな「知性も品性も乏しく、地下で育てられた女」を隣に置くなど——
馬鹿げている。
「便器同然の女を妻にするとは……
レギュラスブラックが何を考えているのか、理解に苦しむ。」
心の中で吐き捨てる。
レギュラスがアランに冷たく接していたのなら、まだ理解できる。
しかし、彼はまるで宝物でも扱うように彼女を抱いている。
その姿を見るたびに、
ルシウスの胸に鈍い苛立ちと不快感が渦巻いた。
地下で膝を抱えていた薄汚れた少女が、
気品あるブラック家のローブに包まれ、
上等な家具の並ぶ執務室のソファに座っている。
それだけで、世界の秩序が狂っていくような気がしてならなかった。
レギュラスは狂ってしまったのか——
それとも、自分には見えない何かに囚われているのか。
いずれにせよ、
アランブラックという“最も低い場所の女”が、
今やブラック家の中心にいるという現実だけが、
ルシウスの心に長い影を落としていた。
騎士団の作戦室には、焦燥と怒気と緊迫が入り混じった重い空気が満ちていた。
ごく僅かな紙のめくれる音さえ、刃のように張り詰めた静寂を裂く。
ジェームズがテーブルの上に新しい証拠を広げる。
黒々としたインクで記された報告書。
そして——
煤が焦げついたように黒く縁取られた、細長い紙片。
「見ろ……これだ。」
シリウスが顔を寄せると、深く刻まれた呪文跡が目に飛び込んできた。
途端に、唇がきつく結ばれる。
「……“カルシェ・ラセラ”だ。」
切り裂き呪文の中でも特に凶悪な、
対象を内部から引き裂く古い呪術。
通常の切り裂き呪文と違い、
闇の魔法使いでも扱える者は限られている。
その痕跡が——
孤児院の床、壁、そして遺体の衣服の断片から複数検出されたのだ。
そして、決定的なものがもうひとつ。
「この呪文の軌跡……」
リーマスが青ざめた声で呟く。
「ベラトリックス・レストレンジの“癖”と一致している。」
魔法の痕跡は、魔力の流れ方や呪力の歪み方に術者の特性が必ず刻まれる。
これは、熟練の研究家にとって指紋のようなものだ。
ベラトリックスほどの闇の魔女になれば——
その魔力のゆらぎは、他の誰とも間違えようがない。
「ベラ……か。」
シリウスは低く唸り、拳を固く握った。
「救いようのねぇ狂犬だと思ってたが……まさか子供相手に。」
ジェームズは書類をまとめ、重々しく立ち上がる。
「これでようやく、“闇の陣営の関与なし”というレギュラスの虚偽報告を崩せる。」
表情は険しい。
怒りと、焦りと、そしてどこかに苦さが残っていた。
レギュラスブラック——
あの冷静沈着な男が、どこまで今回の件に関わっているのか。
兄弟であるシリウスでさえ読み切れない。
だが、ベラトリックスが動いたということは——
その背後にいるのは間違いなく、
彼女と最も行動を共にしている男。
シリウスは唇を噛む。
「……レギュラスは何をしているんだ。」
リーマスは俯きながら、そっと目を閉じた。
かつて監督生として共に学生生活を送った少年の影と、
今や闇の魔法使いの中心にいる青年が重ならない。
ジェームズは鋭い声で言い放つ。
「法務部に提出する。
“孤児院惨殺事件に闇の陣営の関与あり”——
レギュラスブラックの職務にも重大な疑惑があること。
ベラトリックスによる呪文痕跡の確証付きだ。」
その場にいた全員が息を呑んだ。
これを突きつけられれば、
レギュラスは答えなければならない。
法務部の人間として、
魔法界の秩序を守る者として、
そしてブラック家の後継として。
逃げ道は、限りなく細くなる。
シリウスは拳を震わせながら呟いた。
「……レギュラス。
これをどう言い逃れするつもりなんだ。」
ジェームズは書類を抱え、法務部へ向かう扉を勢いよく開いた。
軋む音が、決戦の始まりを告げるようだった。
騎士団はついに、
闇の陣営の中心に手を伸ばし始めたのだ。
その最初の刃は——
レギュラスブラックの喉元に向けて突きつけられようとしていた。
執務室に静かに広げられた一枚の書類。
その白い紙の上に、騎士団の烙印が深々と押されているのを見た瞬間、
レギュラスの呼吸は凍りついた。
——孤児院惨殺事件、捜査再開の申請。
あり得ない。
あの事件はすでに“マグル側の管轄に移された”として魔法省内部では完全に終結扱いにしたはずだった。
魔法界は手を引き、マグルの世界が処理する……
その筋書きは完璧なはずだった。
なのに。
レギュラスは紙を掴む手をわずかに震わせながら、
記された文字を一行一行読み下ろしていく。
——現場より検出した魔力痕跡、ベラトリックス・レストレンジと一致。
——事件処理における魔法省法務部の重大な見落としの可能性。
——担当官レギュラス・ブラックの職務怠慢の疑い。
こめかみの血管が、鼓動と同じ速さで脈打ち始める。
「……ふざ、ける……な……」
呟きは低すぎて空気に溶けた。
だが胸の奥で渦巻く怒りは、燃え上がった炎のように執務室全体を満たした。
なぜだ。
なぜまだ掘り返す。
あの事件は、もう“魔法界では”終わったはずだ。
にもかかわらず、騎士団は魔法省の裏をかき回し、
泥の中から無理矢理にでも証拠を引き上げてきた。
よりにもよって、
——ベラトリックスの魔力痕跡。
あの女の魔法痕跡は確かに残りやすい。
殺しに快楽を覚えるその癖が、魔力に無駄な歪みを生み出すからだ。
それゆえ、レギュラスはあの夜、あれほどの念入りに“後消し”をした。
あり得ないほど慎重に、痕跡をひとつ残らず消したはずだった。
なのに。
「……見逃した……だと?」
レギュラスは書類を握り潰しかける。
革椅子にもたれ、深く息を吸おうとするが、肺がうまく動かない。
圧迫されるような怒りが、胸の内を締めつけてやまない。
自分の職務に過失があった、と騎士団は言いたいのか。
自分が怠慢で、ベラトリックスの関与に気づけなかったというのか。
——この自分に。
この自分が、見落とすはずがない。
あれほど綿密に、あれほど細心に、
“あの日”の痕跡をすべて殺しきったというのに。
「騎士団……」
怒りというより、ほとんど殺意にも似た熱がレギュラスの瞳に灯る。
彼らは愚かにも、自分たちの正義だけを信じ、
その正義がどれほど世界を乱し、どれほど多くの血を要求するものかを理解しようとしない。
あの事件を掘り返せばどうなるか。
魔法界とマグル界の間に新たな溝が生まれる。
闇の陣営は更に苛烈な攻撃に転じるだろう。
そしてその矛先に立たされるのは——
アランだ。
あの日、彼女が怯えきった瞳で自分を見上げた光景が胸の奥で疼く。
闇の帝王の命のために。
自分の立場を守るために。
そしてアランを自由にするために。
あれほどの罪を背負った。
なのに、騎士団はそれをぶち壊そうとしている。
正義の名の下に。
レギュラスは深く息を吸い込み、
ゆっくりと吐き出すと、瞳に氷のような冷徹さを宿した。
「……いいでしょう。
あなた方がそこまでやるというのなら——
こちらも相応の“処置”を取らねばなりませんね。」
書類を机に叩きつけるように置く。
怒りは静かに、しかし確実に燃え広がっていった。
騎士団がベラトリックスの痕跡を手にしたというなら、
次に追い詰めようとするのはレギュラス自身だ。
そしてその先にいるのは—— アラン。
それだけは、絶対にさせない。
魔法省の白い壁に映る彼の影は、
怒りに揺れながらも、凛とした威厳を保っていた。
静かに燃え上がったレギュラスの怒りは、
次の一手を確実に切り出す準備を始めていた。
執務室の薄いカーテン越しに射し込む午後の光が、
レギュラスの机上の書類を淡く照らしていた。
その光景は、静けさの中に微かなざわめきを孕んでいるようで、
彼の胸の内に渦巻く焦燥と怒気を映し出すかのようだった。
レギュラスは、深く深く息を吸い込む。
そして吐き出すたびに、心の中で膨れ上がる怒りを冷たい理性へと練り上げていく。
怒りで物事を動かすわけにはいかない。
感情で動く者ほど、容易く破滅へ向かうと知っているからだ。
——騎士団はベラトリックスの痕跡を掴んだ。
ならば、そこに“筋の通った物語”を与えてやればいい。
レギュラスは静かに椅子から身を乗り出す。
美しく整えられた指先が、紙の上を滑り、
魔法省の封蝋印を軽く叩くように触れた。
「……マグルと純血の魔女。
この二つが交わるはずがないという前提を覆せばいい。」
その呟きはほとんど無音に近かったが、
その分、恐ろしいほどの冷静さと精密さが滲んでいた。
彼の頭にあるシナリオが、鮮やかに浮かび上がる。
——ベラトリックスの妖美な容姿。
その狂気じみた美は、魔法族だけでなく、
無知なマグルの男にとっても
抗うことのできない“毒”となる。
魔法族の魔力に触れれば、マグルの精神は簡単に歪む。
飲み込まれるように魅了され、
理性を壊され、
欲望と狂気だけが残る。
孤児院を襲ったのは——
ベラトリックスの“魔力に当てられた”愚かなマグルの男。
彼は彼女に自分が相応しいと錯覚し、
その憧れと狂気が錯乱に変わり、
孤児院へ刃を向けたのだ。
邪悪な魔法の痕跡が弱く残った理由も説明がつく。
——ベラトリックスが彼を突き放した、その瞬間の魔力だ。
身分の違いも弁えず、
マグルのくせに純血の魔女に惹かれた愚か者に向けて放たれた、
威嚇にも等しい魔力の一閃。
その一瞬が、孤児院の惨劇へと繋がった。
この筋書きなら、
ベラトリックス本人が直接手を下したという証明を覆せる。
騎士団が握る“魔力痕跡”という唯一のカードでさえ、
ただの副産物へと矮小化される。
そして——
魔法界の根源に息づく“純血主義”という偏見を逆手に取れば、
この物語は驚くほど自然に成立する。
「愚かなマグルが、魔力に酔って暴走しただけ。」
「純血の魔女に近づくなど身の程知らず。」
「ベラトリックスは被害者だ。」
魔法省の多くは、
この理屈にいとも容易く転ぶだろう。
同じ純血主義の思想を胸に持つ者ばかりなのだ。
レギュラスはゆっくりと椅子に背を預け、
指先で机を軽く叩く。
このシナリオは、誰も傷つけない。
……いや、一人を除いて。
“マグルの男”という架空の加害者がすべてを背負い、
魔法界はその背後に隠れる。
孤児院の悲劇は、理由づけられ、
闇の陣営も、ベラトリックスも、レギュラス自身も守られる。
アランも——。
彼女の翡翠の瞳に再び恐怖を宿らせずに済む。
あの瞳から怯えや悲嘆を見たくない。
レギュラスは軽く目を閉じた。
闇の帝王の命令に従う日々。
ベラトリックスの狂気を抑え込む重圧。
そして孤児院のあの光景——
血に濡れた小さな亡骸たちが脳裏に蘇る。
その最奥で、
アランの声なき叫びが、
自分を縛りつける。
「…… アラン。」
呟いた名は、ひどく脆くひどく愛おしい響きを帯びた。
彼女を守るためなら、
世界のどれほどを欺こうと構わない。
この罪深い道の果てに何が待っていようと。
レギュラスは静かに目を開く。
その瞳には、
冷徹な魔法省役人としての光と、
一人の男としての愛が交錯していた。
「——これで、十分だ。」
ペンを取ると、
彼は用意していた“シナリオ”を淡々と書き上げていく。
完璧で、合理的で、
誰も反論の余地を持てない物語。
その白い紙の上に紡がれる文字は、
まるで魔法陣のように緻密で美しかった。
そして何より恐ろしく、
誰もが信じてしまうほどに——
真実らしかった。
闇の帝王の下に集められた会議室は、
いつも以上に濃密な魔力と狂気が満ちていた。
黒いローブの擦れる音すら、
生ぬるい湿気を孕んだ空気の中で鈍く沈んでいく。
中央では、ベラトリックスが甲高い笑い声を立ち上らせていた。
その声は、どこか金属が軋むような――
聞くだけで神経を逆撫でする音だった。
「あたしに夢中になったマグルの男ですって?」
唇を紅く歪め、腹を抱えて笑いながら、
ベラトリックスは足元の男をつま先で突く。
そこに跪いているのは、
みすぼらしい格好をしたマグルの男だった。
恐怖と混乱が入り混じった目。
乾いた唇。
体を支えるだけで精一杯の震える腕。
彼は、自分がどこに連れてこられたのかも理解できていないようだった。
「あなたの家族に、一生分の金を用意してあげましょう。」
レギュラスが静かに口を開く。
その声は冷たく、
しかし同時に、不気味なほど整った優しさを帯びていた。
「その代わり……
あなたは罪人として死ぬ覚悟がありますか?」
レギュラスは、男の目の高さに合わせるようにゆっくりとしゃがみ込む。
闇の魔法使いたちに囲まれた中で、
唯一、人に話すような穏やかな声音を保っていた。
男は震える手でレギュラスの靴を掴んだ。
泣き声すらかすれている。
「お、お願いします……!
魔法使いさん……娘が……娘が重い病なんです……
治療を……マグルではもうどうにも……」
次の瞬間。
ゴッ。
男の横腹に鋭い蹴りが叩き込まれた。
ベラトリックスだ。
「誰に向かって口を開いてんだい?
卑しいマグルが、純血の魔女に話しかけるなんて生意気だよ。」
男は苦鳴を上げ、
床に転がりながら咳き込む。
喘ぎ、涙と鼻水で顔が滲んでいく。
レギュラスは眉ひとつ動かさず、
淡々と声だけでベラトリックスを制した。
「ベラ、まだ話が途中です。
……お手柔らかにお願いします。」
ベラトリックスは髪をかき上げながら、
舌打ちをして椅子に腰をかける。
「さすがお坊ちゃん、優しいことだねぇ。」
皮肉混じりの声が会議室に響く。
デスイーターたちは面白そうにニヤついて眺めている。
男は再びレギュラスの足元に滲り寄り、
深く額を床につけた。
「娘を……助けてください……
どうか……どうか……!」
その姿は哀れで、
まるで人ではなく、
ただの“犠牲としての素材”に見えた。
レギュラスは金色に光る瞳を細めると、
男に告げた。
「……いいでしょう。」
その瞬間、男は息を呑む。
「ただし、あなたの罪は――
孤児院の襲撃と、子供たちの殺害です。
代わりに、娘は確実に救います。
あなたにはその“記憶”を植え付けます。」
男は意味を理解していない。
いや、理解する能力を失うほど追い詰められている。
ただ娘を救いたい。
願いはそれだけだ。
「娘が……助かるなら……
なんでも……なんでもします……」
レギュラスは頷く。
そして、淡々と杖を持ち上げた。
男の頭に触れた瞬間、
魔力が螺旋を描くように周囲の空気を揺らす。
レギュラスの呪文が響く。
低く、静かで、異常なほどに正確な声。
男の瞳が濁り、
そこへ新たな“記憶”が注ぎ込まれていく。
狂気。
妄信。
ベラトリックスへの欲望。
孤児院へ向かう動機。
刃を握る自分。
血の飛沫。
悲鳴。
全てを自分がやったと信じ込む記憶。
すべてが、完璧に。
やがて男は膝をついたまま、
ぽつりと呟いた。
「……俺が……やった……
俺が……全部……」
会議室に静寂が落ちる。
ベラトリックスは口角を上げ、
楽しげに呟く。
「よくできた子犬だねぇ。
ほら、行っておいで。
死ぬまで“あたし”に忠誠を見せておいで。」
レギュラスは立ち上がる。
その横顔には喜怒哀楽の欠片もない。
ただ冷ややかに、
誇り高い純血の顔をしていた。
「これで孤児院事件は終わりです。
騎士団がどれほど捜査を続けようと、
彼以外に辿り着く者はいない。」
闇の陣営の空気が、
深い満足と嘲笑で満たされる。
レギュラスは誰にも悟られぬほどわずかに目を伏せた。
——これでいい。
これで、全ては守られる。
完璧な捏造。
完璧な生贄。
完璧な物語。
誰にも覆せない、
“事実より強い虚構”の完成だった。
魔法省の会議室には重い沈黙が満ちていた。
書類の山、魔力測定器の光、そして机の上で震えるペン先――すべてが、失望と徒労の色に染まっている。
リーマスは、供述調書を手にしたまま、深々と溜息を吐いた。
「……矛盾が、一つもない。」
自分の声が乾いているのが分かった。
紙の上には、マグルの男が口にした“真実”が整然と並んでいる。
襲撃の動機。
犯行の流れ。
恐怖と快楽の混じった心理描写。
ベラトリックスとの“接触”。
すべてが異常なほど一貫していた。
まるで、長い時間をかけて本人が積み上げてきた記憶のように。
違和感すら覚えるほど完璧だった。
だが、完璧すぎるからこそ――
それが“作られた”ものだということが痛いほど分かる。
リーマスは苦々しさを噛み締めた。
「……闇の陣営が用意した男だ。」
誰かが呪文を書き込むように息を呑む。
当たり前だ。
ここまで正確に“辻褄を合わせられた供述”など、自然に生まれるものではない。
対価が何だったのかは分からない。
金か。
家族か。
命か。
希望か、絶望か。
だが、男本人が自供している以上、捜査は終わる。
結末は強制的に閉じられる。
事件は片付いた。
すべてが“収束した”のだ。
……公式の上では。
リーマスの横に立ったジェームズが、疲れたように額を押さえた。
「よく……考えつくもんだよな。」
皮肉でも称賛でもない。
その両方だった。
震えるような憎悪と、吐き気を催すほどの尊敬が混ざり合った声。
レギュラス・ブラック。
あの男の思考は、恐ろしく滑らかで冷酷で緻密。
そして、何より“先を読んでいる”。
こちらがカードを切る前に、
彼はすでに二手先、三手先の結末を整えてしまう。
今回もそうだった。
新証拠として突きつけたベラトリックスの魔力痕。
騎士団が掴んだ唯一にして最大の成果だった。
だが――
その痕跡に対して、レギュラスは鮮やかすぎる説明を用意した。
ベラトリックスに惚れ込んだ愚かなマグルの男が、
狂気に当てられて孤児院を襲撃した。
その際ベラトリックスの魔力痕が残って当然だ、と。
完璧な言い訳だった。
それ以上でも以下でもない、
冷たく、突き放すように整えられた“物語”。
ジェームズは拳を握りしめる。
「どこまでも……あの男らしいよ。」
怒りと諦めが滲む声音だった。
結果は残酷なほど明白だった。
レギュラス・ブラックは無傷。
法務部での地位も保たれた。
ベラトリックスの魔力痕は“偶然”として処理された。
容疑者は自供済み。
事件は終わった、と公式に記録された。
リーマスは書類を閉じ、静かに言った。
「……我々が突きつけた“真実”は、
あの男の“脚本”に全て塗り潰されたんだ。」
それが、苦い現実だった。
レギュラス・ブラックという男は、
正義がどれほど足を伸ばしても届かない場所に立っている。
そして――
その隣に立つ少女、アラン。
彼女もまた、レギュラスが描いた劇の中から抜け出せる日は来るのだろうか。
