1章
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石造りの廊下に満ちる冷えた空気の中、
ジェームズ・ポッターは、こめかみの奥で脈打つ苛立ちを抑えられずにいた。
魔法省監査部の観察室——
そこからは、取調室の内部が半透明の魔法越しに見える。
リーマスが穏やかな声で問い、
アランブラックが震える手で羽ペンを走らせる。
――彼はあまり話しません。
――わかりません。
――聞いていません。
守るためだけの言葉。
核心から逃げるための言葉。
ジェームズには“嘘”にしか見えなかった。
なぜ彼女はここまで盲目的にレギュラスを庇えるのか。
なぜ、どれほど罪が積み上がっても、彼の側から離れようとしないのか。
理解できない。
理解したくもない。
さらに胸を刺したのは、
アランが震える文字で記した最後の一言だった。
――シリウスを傷つけてしまいました。
――彼に……謝りたくて。
その瞬間、ジェームズの中で何かがぷつりと切れた。
どの口で……言うんだ……
親友を惑わせ、
親友の心を揺らし、
それでもまだ“謝りたい”と言うのか。
シリウスはどんな顔でこの女の話を聞いた?
どんな声で彼女を慰めた?
どれほど本気で彼女を案じた?
その全部を思うと胸が焼けるように熱くなった。
リーマスが優しく微笑み、
「大丈夫。シリウスは強いよ」
と返す。
その優しさが、ジェームズには甘さにしか見えなかった。
違う……それじゃ駄目だ。
誰かが“現実”を突きつけなきゃいけないんだ
ジェームズは迷いなく扉の取っ手を掴んだ。
音もなく開いた取調室の扉。
中の空気が、緊張にぴんと張り詰める。
アランはびくりと肩を跳ねさせ、
リーマスも目を大きくして振り返る。
だがジェームズは止まらない。
黒髪の少女をまっすぐに射抜くように見据え、
吐き出すように言った。
「アランブラック。
レギュラスを庇うことしかできない君が……
シリウスの名を軽々しく出さないでほしい」
アランの翡翠の瞳が大きく揺れる。
喉に押し込めた呼吸が震え、胸が上下する。
「ジェームズ、やめろ。君は担当じゃない」とリーマスが遮ろうとする。
だがジェームズは一歩前へ進む。
「君が謝るべきは、
シリウスでもない。
レギュラスでもない」
床にこぼれ落ちそうなほど、アランの瞳が揺れた。
「――レギュラスブラックら闇の陣営が殺した
“子供たち”そのものだ。彼らの命だ」
アランの手が震え、羽ペンが落ちそうになる。
「彼らを庇うなら、君も同罪だ」
その言葉は刃だった。
アランの胸の真ん中を、深々と貫いた。
「ジェームズ、外へ!」
リーマスが腕を掴み、必死に押し返す。
だがジェームズは振りほどき、
尚もアランへ言葉を叩きつける。
「怯えていたのは君じゃない。あの日殺された子供たちだ!
君がヴォルデモートの監視下で味わった恐怖と同じものを——幼い彼らが味わったんだ!」
アランの身体が小刻みに震え出す。
肩を抱くように両腕が胸の前で交差し、
まるで自分を守ろうとするかのように縮こまった。
涙がにじむ。
声は出せない。
ただ、呼吸だけが引き裂かれたように荒い。
リーマスはとうとうジェームズを引きずるようにして扉の外へ押し出す。
「もう十分だ、ジェームズ!
このやり方は間違ってる!」
廊下に押し出された瞬間、
ジェームズは冷たい石壁に拳を叩きつけた。
だがその怒りはアランに対してだけではなかった。
……シリウス。どうして彼女を選んだ
その嫉妬と焦燥の混じった激情は、
彼自身も扱いきれないほど鋭く尖っていた。
部屋の中では、アランが震える指で羽ペンを拾い上げようとしていた。
だが落とし、また拾い上げようとして——
また落とした。
リーマスがそっと近づく。
「大丈夫だ、アラン……大丈夫。
さっきのは……彼が悪いんじゃない。
いろんなものが絡み過ぎているだけなんだ」
アランは涙で濡れた瞳で、
ただ、静かに首を横に振った。
責められた痛みよりも、
シリウスの名を出した自分が
彼を再び傷つけてしまったのではないかという痛みの方が深かった。
取調室の中には、
彼女のかすかな震えと、
リーマスのため息だけが残った。
石畳に長い影を落とすように、
レギュラスの靴音が魔法省の廊下を一直線に貫いていく。
背筋はこれまでと同じようにまっすぐだったが、
その歩みの奥底には、炎のように揺れる焦燥が隠しきれなかった。
―― アランの魔力が、マグルの孤児院近辺で確認された。
そんな報告が監査部から上がった瞬間、
レギュラスは喉の奥に鉄の味が広がるほどの怒りを覚えた。
実際、アランがそんな場所に行けるはずがない。
声を奪われ、外出の自由すらほとんど無く、
魔法省の記録にも——どこにも——その痕跡はない。
模倣だ……誰かがアランの魔力を模したのだ。
可能性は一つしかなかった。
あの日アランの部屋に侵入したあの男——
シリウスが“何か”を持ち帰ったのだろう。
アランの魔力が付着した物品。
それをジェームズが利用したのだ。
稚拙でありながら、目的は残酷なほど透けて見える。
そして——
よりによってアランを取調室に呼び出した。
その事実が、レギュラスの胸を焼く。
アランが“囲まれる”ことを、
どれほど恐れるかを知っているのに。
暗い地下牢で、
何度も男たちに囲まれ、脅され、
踏みつけられたあの記憶が、
呼び起こされていないわけがない。
どうして……あれほど愚かな真似ができる
怒り、焦り、苛立ち、
すべてが混ざり合ったまま、
監査部に到着したレギュラスの前に、
タイミング悪くジェームズ・ポッターが現れた。
黒髪の青年は、
まるで勝ち誇った顔をしてレギュラスを見据えた。
「君の悪事は必ず暴かれるよ、レギュラスブラック。
そして—— アランブラックも道連れで落としてやるつもりだから、覚えておいてくれ」
その言葉は剣より鋭く胸を刺す。
だが、レギュラスは微塵も揺れなかった。
むしろ、柔らかい微笑みを返した。
「……何のことでしょう?
随分と荒い捏造証拠で、笑ってしまいそうでしたが」
「捏造は君の得意分野だろう?」
ジェームズの唇が釣り上がる。
「そして……見破るのもお手のものらしい」
二人の間の空気は火花を散らすように張り詰めた。
だが、レギュラスはジェームズに背を向け、
ためらいもなく取調室の扉へと向かった。
扉が開く。
冷たい室内。
高い天井。
灰色の石壁。
そして、その中心で——
アランが、
小さく、
縮こまっていた。
椅子に座っているはずなのに、
身体はその影に吸い込まれるように丸まり、
首は深く項垂れ、
肩は細かく震えている。
両手は胸元に寄せられ、
羽ペンは何度も落としたのだろう、
インクが指に薄く染みていた。
…… アラン……
レギュラスの胸が音を立てて痛んだ。
取調室の魔法灯が、
彼女の頬に残る涙の跡を白々と照らし出している。
その涙が、
彼自身のせいではないと理解していても、
胸が締め付けられた。
ゆっくりと近づき、
柔らかい声で呼ぶ。
「…… アラン。
遅くなりました。……帰りましょう」
顔を上げたアランの瞳は、
濡れた翡翠色だった。
彼を見た瞬間、
痛みに耐えていた膝が緩んだのか、
か細い身体が傾ぐ。
レギュラスはすぐにその体を支えた。
腕の中に収まったアランの体温は、
ひどく冷たかった。
「大丈夫です……僕がいます」
小さく震える肩を抱き寄せると、
アランは胸元に顔を押し当て、
吸い寄せられるように身を寄せてきた。
声を出せない彼女の震えが、
すべてを物語っていた。
こんな思いを……させたのか
怒りは、もはやジェームズへ向けるものではなく、
アランをここへ連れてきた全ての連鎖そのものに対して燃え上がった。
レギュラスはアランの肩を抱き、
監査部の者に一瞥をくれて静かに告げる。
「取調べは……もう結構です。
妻をこれ以上、このような場に立たせることは許しません」
その声は静かで、
しかし冬の刃より冷たかった。
アランを守る腕の中には、
ひとひらの震える命。
その命を守るためなら——
彼はどれほどの闇にも手を染めるだろうと、
ジェームズでさえ気づいたかもしれない。
レギュラスはアランを抱き寄せたまま、
扉の向こうの明るい廊下へと歩み出た。
どこまでも丁寧に、
どこまでも優しく。
まるで壊れ物を抱くように。
そうして二人は、
取調室を後にした。
石造りの取調室の扉が閉まった瞬間、
アランの身体にまとわりついていた冷気が、
ふっとほどけていくように離れた。
代わりに肩へ落ちてきたのは、
あの日——
地下牢から連れ出されたあの瞬間と同じ、
温かな掌だった。
「アラン……すみません。怖い思いをさせましたね」
優しく低い声。
耳の奥に静かに染み入っていく。
レギュラスの手が肩を包むと、
張りつめていた筋肉が緩み、
アランは思わずかぶりを振った。
——怖いのは、自分ではない。
本当に恐ろしいのは彼だ。
恐ろしくなるほど、彼は常に
憎悪と謀略と責務の中心で戦っている。
闇の帝王の傍で、誰よりも前線に立ち、
誰よりも重い役割を背負い、
誰よりも深い闇に触れている。
そんな彼の前で、
自分だけが「怖い」と泣き崩れるわけにはいかない。
返された杖を握る手が震えていた。
けれど、アランは深く息を吸い、
胸の奥から言葉を引き出すようにして杖を振った。
浮かび上がった文字は、
彼に触れるたび心の奥底から湧き上がってしまう想い——
『レギュラス、わたしはあなたを信じます』
レギュラスはその文字を見ると、
ほんの一瞬だけ、胸の奥底まで揺れるような表情をした。
けれどすぐに、
穏やかで包み込むような微笑みへと戻す。
「ええ……知っていますよ」
柔らかな声だった。
まるで、彼自身がその言葉に救われていくような声音。
アランの心臓が静かに震えた。
——信じる、ということは。
レギュラスの罪をなかったことにするわけではない。
シリウスが告げた言葉は、
刃物のように鋭く胸に刺さっている。
彼がマグルの孤児院で何をしたのか、
どれほどの血があの白い手に付いたのか、
答えは——否定できない。
彼は語らない。
語らないというその沈黙の中に、
あまりにも重い真実があるのだと
アランには痛いほどわかっていた。
けれど——
それでも。わたしは……あなたを見捨てない
レギュラスの手が闇に触れたのなら、
その闇ごと抱き締めたい。
彼が地獄に足を取られるのなら、
その足を掴んで共に沈んでも構わない。
彼が罪に苛まれるのなら、
その痛みを半分奪ってやりたい。
彼が報いを受けるのなら、
隣で膝をついて一緒に罰を受けたい。
——それが、アランが彼に差し出せる唯一の、
深く、揺るぎない愛だった。
レギュラスはそんなアランの想いに気づいていたのか、
気づいていないのか。
ただ、彼はそっとアランの頬に触れ、
ひどく優しい声で囁いた。
「さあ、帰りましょう。
もう二度と……こんな場所に、あなたを置いたりしません」
アランは涙をこぼしながら頷いた。
冷たい部屋は遠ざかっていく。
彼の腕の中で。
彼の温度の中で。
あの日と同じように——
レギュラスが救ってくれる場所へと
アランは連れ戻されていった。
屋敷に戻った瞬間、
玄関ホールの空気がぴりついた。
それは、レギュラスもアランも覚悟していたはずのものだったが、
実際に浴びせられると、思った以上に刺さる。
ヴァルブルガの甲高い声が屋敷中に響き渡った。
「ブラック家の者が!
よりにもよって“監査部”などという卑しい連中から調査を受けるなど……
恥よ! 家名に泥を塗る行為よ!
すべて、あの女が屋敷に来てから……!」
まるで鋭い鞭を振り回すような声だった。
怒りと侮蔑と苛立ちが混ざり合い、
空気が震えている。
アランは、まるで小さく呼吸すらできないように立ち尽くした。
その一言一言が、過去の地下牢の記憶を呼び起こし、
喉の奥に冷たい指を差し込まれたように苦しくなる。
レギュラスは静かに母を向いた。
「母さん。
あまりストレスを与えると……腹の子に障ります」
たった一言。
だが、それは最も効果的で、
唯一ヴァルブルガを黙らせることのできる言葉だった。
ヴァルブルガは眉を吊り上げたまま固まり、
少しの沈黙ののち、
何か呟きながら去っていった。
その背中が遠ざかると同時に、
レギュラスはふっと小さく息を吐いた。
「アラン……心配しなくて構いません。
少し経てば、あの人は忘れますから」
優しく微笑んでみせる。
けれど、その笑みの奥には確かな疲労があった。
アランの方がよっぽど疲れているはずなのに。
「さあ……座りましょう」
レギュラスはそっとアランの肩に手を添え、
寝室へ連れていく。
扉が閉まると、外の喧騒は急に遠くなる。
まるで別世界へ引き込まれたかのような静けさ。
アランをベッドに腰かけさせ、
レギュラスはその前に立った。
その目が、静かにアランの顔の輪郭をなぞるように見つめる。
「……疲れたでしょう」
声も、表情も、触れ方も、まるで罪悪感を抱きしめるようだった。
あの取調室で震えていた姿が、
まだ鮮やかに彼の胸に焼き付いている。
レギュラスの指がアランの頬に触れる。
そっと、跡を辿るように。
まるで、痛みを取り除く儀式のように。
そのまま、ゆっくりと顔を寄せた。
キスは、甘さよりも先に
深い詫びの気配を帯びていた。
——守れなくて、すみません。
——あなたを怯えさせて、すみません。
——それでも手を離さないでくれて、ありがとう。
そんな想いがすべて触れ合う唇に滲み込むようだった。
アランのまぶたが震え、
レギュラスの胸に触れた指が、そっと布を掴んだ。
彼の体温はあたたかかった。
その温度は、何度も彼女を救ってきたもの。
レギュラスは唇を離すと、
額をアランの額にそっと寄せた。
「……もう大丈夫です。
ここは、あなたの居場所です」
その囁きは、
荒れた心を静かに覆う、
深い深い安らぎの布のようだった。
レギュラスは、
闇の帝王に呼びつけられたとき特有の、
あの薄く湿った冷気を肌の奥で感じながら、
禍々しい謁見室へと歩み入った。
部屋の中央には、
喜悦すら浮かべたヴォルデモートが立っていた。
細く長い指に握られたのは——
血と呪いで忠誠を捻じ曲げられた、
あのニワトコの杖。
その杖は闇の帝王の指先のわずかな動きに応じ、
空気を震わせる。
炎も氷も闇も、まるで娯楽のように生み出されては消え、
杖は嬉々として主に従っているように見えた。
「お前は実によく働いてくれる」
低く、満足げな声が響く。
「勿体無いお言葉です」
レギュラスは深く頭を下げた。
その姿勢を保ったまま、
次に告げられるであろう命令を予測し、
静かに呼吸を整える。
「この杖の忠誠が……二度と揺らいでは困る」
少しの間。
部屋の闇が、その言葉を嚙み砕くように沈黙した。
レギュラスの胸に、
冷たい水滴が落ちるような感覚が走る。
心は少しも揺らさない。
顔色は変えない。
ただ、次の言葉を待つ。
「——あの女を呼べ。
そして、二度と揺らがぬように封印を施させろ」
やはり。
レギュラスは瞼を伏せた。
予想はしていた。
杖の忠誠を完全なる絶対へと変えるため、
永劫の封印を持つセシール家の血を求めるであろうことは——
想定していた。
だが。
“覚悟”していたことと、
“現実として告げられる”ことは違う。
脳裏に浮かぶのは、
あのとき取調室から救い出したときの、
怯えきったアランの姿。
翡翠の瞳が震えていた。
声を奪われた少女が、かすかに震える指で「信じます」と綴った、
あの痛いほどの純粋さ。
彼女を、この男の前に立たせる。
闇の帝王の赤い瞳と、あの冷たい吐息の前に。
地下牢で刻みつけられた恐怖の記憶が、
どれだけアランの心を裂くだろう。
それを想像するだけで、
胸の奥がひどく締めつけられた。
だが、表には出せない。
一片たりとも。
「……かしこまりました」
レギュラスは頭を深く垂れたまま答える。
声は揺れない。
完璧な忠誠の返事だ。
ヴォルデモートも満足げに目を細める。
けれどその裏で、
レギュラスの胸の内では別のものが蠢いていた。
アランの瞳。
あの、不安げに揺れて涙を含んだ翡翠の光が、
どうしても離れてくれない。
——どうする。
——どう守る。
——どうすれば、二度と彼女を傷つけずに済む。
答えはまだ出ない。
それでも、アランを闇に呑ませたくないという想いだけは、
痛みとして胸に刻みつけられていた。
闇の帝王の声が響く。
「遅らせるなよ、レギュラス。
杖は気まぐれだ。今のうちに“永遠”を縛っておかねばならん」
レギュラスは、静かに頷いた。
可憐な翡翠の瞳が、
再びあの冷たい闇に触れたとき——
どんな感情を宿すのか。
想像したくなかった。
それでも。
歩み出す他なかった。
アランの名のすべてを胸の奥で抱きながら。
彼は、
闇の帝王の前を静かに去っていった。
その夜、レギュラスは静かに寝室の扉を閉めた。
燭台に灯された柔らかな炎が、ゆらりと揺れる度に、二人の影も壁の奥で寄り添い、離れ、また重なった。
アランはすでにベッドの縁に腰掛けており、彼が近づくと、ほの白い喉元へ視線を落とすように目を伏せた。翡翠の瞳は薄闇にとろりと滲み、深い湖の底に灯りが落ちたような静けさを湛えている。
医務魔女から「安定期です」と説明を受けたはずなのに、レギュラスの指先はどうしても震えを止められなかった。
触れれば壊れてしまいそうだ。
息を吸うたび胸が軋むように痛み、その痛みは罪悪感から生まれるものだと理解していた。
――自分は彼女を苦しめることばかり増やしている。
その事実は、夜毎に胸に沈殿していく。
不安を与え、恐怖を植えつけ、守るつもりでいながら、結果として縛りつけているのではないか――そんな思いが、レギュラスの背を冷たく撫でた。
アランは声を持たない。
言葉で拒絶することも、助けを求めることもできない。
だからこそ彼女は、ほんの僅かな仕草と呼吸、そして翡翠の瞳ひとつで、心のすべてを伝えてしまう。
その瞳は、いつも雄弁すぎた。
かつて自分が奪ってしまった少女の想い――その影までも宿しているようで、レギュラスはしばしば直視できなくなった。
だが今は違った。
震える指でアランの頬に触れ、そっと肩へ添え、彼女が自分へ身を預けてくるその瞬間――翡翠の瞳に淡い愉悦が浮かんだのを見たとき、レギュラスは胸の奥で何かがきしむのを感じた。
まるで赦されているような錯覚だった。
ほんのひとときでも、この瞳が自分を責めも咎めもしないのなら、今だけは逃げ込んでしまってもいいと思えた。
指先と指先が絡まり合う。
触れた部分だけがふわりと熱を帯びていき、その熱が胸へ、腹へ、心の奥へと静かに染み渡っていく。
レギュラスはその小さな接点に、許しと愛情と懺悔のすべてを込めて伝えたいと思った。
――どうか、少しでも伝わってくれ。
声を持たぬアランが漏らす、かすかな吐息。
それは言葉以上に深くレギュラスを揺さぶり、同時に胸の痛みを和らげてもくれた。
赦しを乞うように抱きしめ、赦されているかのように感じてしまう自分自身が、どうしようもなく情けなくて、愛しくて、苦しかった。
やがて二人の身体は静かな波のように寄り添い、融け合っていく。
快楽という名の熱い海ではない。
もっと柔らかく、深く、抗いがたい“幸福の渦”に沈められていくような感覚だった。
アランはただ彼を受け入れ、彼は壊さぬように必死で優しさを保ちながら、
その夜、二人の世界はひっそりと閉じていた。
しかしレギュラスの胸には、やはりひとつの痛みが残った。
彼女に触れた温もりの裏側で、罪の棘が消えることはなかった。
むしろ、その幸福の瞬間が深まるほど、自分が彼女に背負わせたものの大きさを思い知らされる。
それでも彼は願う。
いつの日か、この翡翠の瞳に――
恐れでも、過去の影でもなく、純粋な安らぎだけが映される日が来ることを。
その希望は、彼の胸の奥で静かに灯り続けていた。
ニワトコの杖へ封印を施せと命じられた瞬間、
アランの指先は細かく震えた。
暗い広間に立つ闇の帝王の、蛇のような真紅の瞳。
その視線が、まるで肉を締め上げる鎖のように、
ひたひたと肌の下を這ってくる。
呼吸が浅くなる。
背筋に冷水を垂らされたような感覚が走る。
レギュラスが——
この杖のために、どれほどの血を背負ったのか。
どれほどの悪夢に沈んだのか。
どれほどの罪を、両手いっぱいに抱えたのか。
こんなもののために。
胸の奥で、声にならない叫びが渦巻く。
だが、その叫びを押し殺し、アランは両手を杖へと伸ばした。
「しっかりやりな、小娘。」
真横から、ベラトリックスの冷え切った声。
次いで、杖の先がアランの背へねじ込まれるように押し当てられた。
痛みが骨に響く。
体が前に傾きそうになりながらも、アランは一歩も退かない。
この女は——
人を痛めつける事に愉悦を覚える悪魔そのものだ。
地下牢に囚われていた頃、何度も何度も彼女は降りてきた。
飢えた狼のような目でアランを見下ろし、
暴力と恥辱を落としていき、
皿に盛られた冷たい残飯を指で混ぜ返しては笑っていた。
初めてベラトリックスを見たあの瞬間、
“助けに来た人かもしれない”
なんて浅ましい幻を抱いてしまった自分を、
今この場で殺してしまいたいほどだった。
アランは震える指先を組み、
封印の術式を紡ぎ出す。
セシール家に連なる血だけが扱える、
深く古い魔の術式。
魔力は静かに、しかし重く流れ出していく。
胎内の子を抱える身体には負荷が重すぎる。
視界がちらつき、吐き気がこみあげる。
それでも、止める選択肢はなかった。
光が、杖の木目の奥へ浸透していく。
ひび割れた魂の奥に封じ込めるように、
魔力が深く沈んでゆく。
やがて、ニワトコの杖は
眩い光の筋をひとつきらめかせ、
静かに収まった。
封印完了の証。
手を下ろした瞬間だった。
「どきな、小娘。」
背に鋭く蹴りが飛んだ。
床へ投げ出されるように倒れ込む。
肋骨に衝撃が走り、息が詰まる。
腹を庇うように丸くなりながら、
アランは声にならぬ声で吐息を漏らした。
ベラトリックスはアランを蹴散らしたまま、
ようやく光を落ち着かせた杖を抱え、
恍惚とした笑みで闇の帝王へと差し出した。
「さすがはセシール家の封印の力だ。」
ヴォルデモートは満足げに言い、
細い指で杖を撫でる。
アランはその瞬間でさえ、
目を上げることができなかった。
あの忌まわしい真紅の瞳を見れば、
また地下の闇が自分を飲み込むと知っていたから。
ただ、倒れたまま肩を震わせ、
息を整えながら、
必死に胸の奥で祈った。
——どうかレギュラスが、
これ以上この杖に縛られませんように。
だがその願いさえ、
闇の主の前では虚しく散っていくようだった。
霧の降りた森は、朝とも夜ともつかぬ灰色の気配をまとっていた。
冷たい湿気が肌に張りつく。
その中に、獣の吐息のような重い息遣いが交じる。
空気そのものが、これから起こる惨劇を知っているかのようだった。
「構えろ——来るぞ!」
シリウスが叫んだ瞬間、
森の奥から駆ける影が鋭い音となって飛び出す。
それはただの獣ではなかった。
人間の面影をわずかに残しながら、爪が伸び、牙が光る狼人間たち。
凶暴化した魔力が皮膚を裂き、瞳には理性の欠片すらない。
「くそっ、何匹いるんだ……!」
騎士団の一員が吠える。
返答する暇はない。
次の瞬間、
狼人間のひとりが跳躍し、
前衛の団員をひき倒した。
皮膚が裂ける音が、森の中にくっきりと響く。
押し倒された魔法使いが悲鳴を上げるより早く、
その獣は喉元に噛みついた。
――食っている。
シリウスの心臓が、凍りついたように固まる。
狼人間による“食殺”。
魔法界ではもっとも重い禁忌のひとつ。
絶対に犯してはならない罪。
「やめろッ!!」
シリウスが杖を向けるが、
飛び込んできた別の狼人間が彼の体当たりをくらわせた。
鋭い爪が頬をかすめ、血が皮膚を伝う。
「シリウス、下がれ!」
ジェームズの叫びが飛ぶ。
ジェームズが素早く呪文を放ち、
狼人間の体を弾き飛ばす。
しかし、それでも倒れた団員を食らう獣の殺戮は止まらない。
骨の砕ける音。
肉を断ち切る湿った音。
血の匂いが、霧の中に鉄のような重さを帯びて広がる。
「まるで……地獄だな。」
リーマスの声は、震えていた。
彼は狼人間という存在を誰よりも理解している。
だからこそ、この光景は魂を抉る。
「デスイーターが……奴らを扇動している。」
ジェームズが呟く。
呪文の火花が霧を裂き、
遠くに黒いローブが揺れる。
そのシルエットは、騎士団の動きを観察するようにゆっくりと後退していく。
「最低な奴らだ……ッ!」
シリウスが歯を食いしばる。
仲間の死体を無造作に食い荒らす獣を前にして、
正義も理性も軋むような痛みで揺らぐ。
狼人間は、食べる。
飢えと、呪われた欲求のままに。
――その背後で、誰かが動かしている。
それを思うだけで、怒りが喉を焼いた。
「援護する、シリウス! 右側!」
「わかった!」
ジェームズの呪文が狼一体を吹き飛ばし、
シリウスの呪文がもう一体の足を縫い止める。
リーマスは後衛に残り、
倒れた団員を引きずり、結界の中に運び込む。
しかし、それでも——
獣の数は減らない。
デスイーターの影が、
まるで“おもちゃ”を壊して楽しむかのような余裕をもって
森の奥で佇んでいる。
シリウスは、迫り来る狼人間の群れを前にしながら、
心の底にひとつの確信を持つ。
——これは、ただの戦闘ではない。
——これは、闇の勢力の新たな序章だ。
そして、
自分たちは恐ろしく遅れているのかもしれない。
そんな予感が、喉の奥を凍りつかせた。
「ジェームズ……
このままじゃ——」
「わかってる。
だけど退けない。
ここで下がったら……次はマグルの街だ。」
騎士団の誰もが知っている。
狼人間が飢えて街に流れれば、
守れない命が何百と生まれる。
だからこそ、逃げられない。
血の匂いが濃厚に満ち、
霧が赤く染まり続ける戦場の中で、
騎士団は必死につぎの呪文を放つ。
光と闇が、
牙と爪が、
信念と狂気が、
森の中でぶつかり合い、
破滅の前触れのような音が木々を震わせた。
そしてシリウスは思った。
——レギュラスは、この戦場の向こう側にいる。
——あいつが選んだ陣営は、今、これを世界に放とうとしている。
胸の奥が焦げるように痛んだ。
兄として。
騎士団として。
魔法使いとして。
そして—— アランを想う一人の男として。
この戦いは、もう引き返せないところに来てしまったのだと、
霧の中の血の海が物語っていた。
月の光が薄くにじむ魔法省の廊下。
静寂が重く積もるように漂い、
レギュラスはゆっくりと歩を進めていく。
ローブの裾は音を立てずに床を滑り、
彼の歩みを妨げるものは何もない。
まるで闇の流れそのものが、
彼を目的の場所へと導いているようだった。
狼人間——
それは、理性と獣性の狭間で揺れながら生きる者たち。
彼らを“完全に制御する”など、誰も思っていない。
できるはずもない。
ただ飢えを与えれば、
彼らは牙を向く。
その対象を、どこに向けるか。
それを定めることこそが、
闇の陣営が求める“支配”だった。
そして——
その犠牲に値するものが何か。
ヴォルデモートは迷わなかった。
「マグルを食わせればいい。」
尊い魔法族の血を一滴たりとも損なわず、
狼人間に飢えを抱かせず、
闇の軍勢として利用し続けるための、
最も合理的で、
最も残酷で、
最も効率的な答え。
レギュラスはその判断を、
冷ややかに受け止めていた。
——仕方のない犠牲だ。
闇の帝王の軍勢が強固になるために。
魔法界の清い血を守るために。
そして自分が背負ってしまった罪が無駄にならないように。
綺麗事だけを並べる騎士団には、
到底理解できないだろう。
彼らはいつだって、
理想の中で生きている。
「マグルを犠牲にするな」
——と、言葉にするのは簡単だ。
けれどそれを徹底するということは、
狼人間の飢えを否定し、
彼らの存在そのものを否定することに他ならない。
狼人間たちが反旗を翻せば、
魔法族同士の戦争が起こる。
不要なはずの血がまた流れる。
騎士団の理想主義は、
現実を知らない子供の戯言のようにしか思えなかった。
必要なのは、
“魔法界の存続のための選択”であり、
それは時に、汚れた選択だった。
だからこそ、レギュラスはもう動いている。
魔法省の奥深く——
闇の陣営に同調する議員たちの間を抜けながら、
彼は淡々と、
しかし着実に票を積み上げていた。
現在の「食殺禁止法」を廃止し、
代わりに「狼人間管理法」として再定義する。
内容は簡潔で扇動的だった。
・狼人間は、魔法界における戦力として利用可能とする
・マグルを対象とした捕食行動を、特定条件下で許可する
・魔法族への危険を避けるための“管理”を、闇の統制側に委任する
“管理”。
“許可”。
それらの言葉は、
罪を覆い隠すための美しい外殻にすぎない。
その裏側にあるのは、
ただひとつ——
レギュラスは、
議会の机に法案の写しを置きながら、
表情ひとつ変えなかった。
自分を責める声は、
もう何も言わない。
罪悪感で震える夜はあった。
翡翠の瞳の少女に責められ、
押し潰されそうになる夜もあった。
だが今は——
その痛みを抱えたまま歩くしかない。
アランを守り、
子を守り、
闇の帝王の信頼を維持し、
魔法界を崩さないために。
そのために必要とされるものが“血”であるのなら、
その血がどこに流れようと——
レギュラスは歩みを止めるわけにはいかなかった。
議会の扉が閉まる。
低いざわめきが、闇に沈む宝石のように広がっていく。
今日、魔法界の未来がまたひとつ、
静かに、しかし確実に
闇へと傾いたのだった。
月を隠す雲は重く、
魔法省の灰色の石壁にはいつも以上に陰りが落ちていた。
議会棟の奥では、狼人間の“食殺合法化法案”が、
静かに、しかし確実に可決へと進みつつある。
マグルに限り、捕食行動を容認する——
その一文が、魔法界の未来を大きく歪ませる。
リーマス・ルーピンは、その内容を読んだ瞬間、
胃が裏返るような吐き気を覚えた。
本能だから仕方がない?
制御できないから許可する?
そんなはずがない。
食肉衝動を抑えるポーションがある。
月を乗り越えるための術式も、薬草学も、研究もある。
——努力すれば、狼人間は“怪物”として扱われずに済む。
その道は確かにある。
にもかかわらず。
レギュラス・ブラックら純血主義の役人たちは、
“簡単な方”へ世界を傾けた。
狼人間の本能を肯定し、
その犠牲はマグルでよいと割り切る思想。
「許されない……」
リーマスは、白い指先を震わせながら法案を握り締めた。
自分と同じ“狼”を内に抱える者として、
こんな決議を許すわけにはいかなかった。
思考は自然と、
あの取調室で出会った少女のような女へと向かう。
アラン・ブラック。
神秘的という言葉すら追いつかないほど、
静かで、儚くて、
翡翠色の瞳が宝石のように光る女性だった。
彼女は言葉を持たない。
だが、沈黙の奥にある感情の密度は、
言葉を持つ誰よりも濃く、鮮烈だった。
あの場に似つかわしくないほど純粋で、傷つきやすい気配。
なのに——彼女は、切実な想いを抱きしめるように筆談した。
「レギュラスは優しい」
あの男が?
血と闇にまみれた純血主義の中心人物が?
マグルの孤児を数十人殺した疑いが濃厚な男が?
信じられない。
だが、アランの瞳は嘘をついていなかった。
彼女にとってレギュラスは、
初めて自分を救い上げた“光”なのだろう。
地下で声を奪われ、心を壊されかけた少女が——
最初に見た手、最初に触れた温もり。
それがレギュラスであったのなら……
どれほどの罪を犯していようと、
彼女は決してその手を手放せない。
雛鳥が最初に見た影を親と思うように。
アランの世界は、レギュラス一人に向けて閉じている。
だからこそ。
彼女はあの男の罪をも愛の中に抱き込んでしまう。
そのたびに、リーマスの胸の奥では
どうしようもない痛みがじわりと広がった。
——もし、彼女の横にいたのがシリウスだったなら。
リーマスは思わず目を伏せる。
明るく、奔放で、
人を笑わせる天性の光を持つシリウスの隣ならば、
アランはもっと自由に、
もっと伸び伸びと世界を歩けたはずなのに。
だが彼女の瞳は、
レギュラスだけを映し続けている。
その盲信は美しく、そして痛ましい。
そして——議会の採決の刻が迫る。
リーマスは票を“反対”に置くつもりだった。
それは、レギュラス・ブラックと
真正面から対峙するということ。
純血主義の大本営に杖を向ける。
闇陣営の中心へ逆らう。
その杖の先が、アランにまで届かないでほしい。
リーマスは祈るように目を閉じた。
レギュラスを撃てば、
必ずアランの心まで傷つける。
それは分かっている。
彼女は盲目のようにレギュラスだけを愛している。
だが——
闇へ傾く世界を止められる者は、
もうほとんど残っていない。
月のない夜、
議会の扉が低く軋む音が響く。
リーマスは立ち上がり、
静かに杖を胸に当てて目を開いた。
世界が闇へと呑まれようとするその時、
せめてアランだけは、その闇に沈みませんように。
それでも、レギュラスに屈しませんように。
彼女の脆く、美しい翼が——
折れませんように。
夜気はぬるく、ランプの光だけが静かな寝室を淡く揺らしていた。
レギュラスの肩越しに落ちる影が、どこか遠く感じられる。
背中に寄り添っているはずなのに、彼の体温は、
ほんの少しだけ——指先が届かないほど遠かった。
どれほどぶりなのか、もう数えることを諦めた。
お互いに顔を寄せて眠る夜はあった。
指先を絡めることも、額にやわらかな口づけを落としてくれることも。
それで十分だ、と自分に言い聞かせていたはずなのに。
——本当はずっと、あの温度を待っていた。
言葉を持たない自分にとって、
“受け入れる”という行為そのものが、
最大限に伝えられる愛の形だった。
声で「愛している」と告げられない代わりに、
彼の求めに応じ、彼を受け入れることで、
この胸の奥の熱を伝えられるような気がしていた。
けれど。
そのすべてを封じられてしまった夜が長く続けば続くほど、
自分の存在意義がひとつひとつ削がれていくような気がしていた。
——もう、求められていないのだろうか。
そう思うたびに、心のどこかが締めつけられた。
臆病な自分の喉元に、冷たい指先がそっと触れてくるような感覚。
声を出せない自分は、そこから逃げ場もなかった。
だから。
久しぶりに触れ合ったあの夜の記憶は、
胸の奥に焼きついたまま消えてくれない。
レギュラスの手が腰に回るたび、
そっと押し殺した声が喉の奥で震えた感覚も。
その腕に抱かれた時、
ほんの一瞬だけ「必要とされている」と確信できたあの幸福も。
触れられるたびに心が満たされ、
触れてこない夜には同じだけの不安が積もる。
どれほどはしたなく思われようとも、
あの温度を求めてしまう理由は——
ただひとつ。
愛しているからだ。
その想いを、どうしても伝えたかった。
そっと、レギュラスの胸に体を寄せる。
小さな子供が甘えるように、
けれど心の奥では必死に訴えていた。
“あなたが欲しい”
“あなたに触れてほしい”
“あなたに愛されていると感じたい”
けれど声がないから、
その全てをこの仕草に込めるしかない。
レギュラスが気づいたようにわずかに肩を震わせ、
顔をこちらへ向けた。
「アラン、寒いです?」
優しい声。
長い指がそっとシーツを持ち上げ、
自分の肩までかけてくれようとする。
その気遣いが嬉しくて切ない。
欲しているものは温もりではなく、
その奥にある“確かさ”なのに。
胸の奥から、何かが叫ぼうとした。
——ちがう。
——そうじゃない。
——もっとあなたが欲しい。
けれど声にならない。
ただ、震える指先でレギュラスの手首に触れる。
その一瞬にすべてを込める。
求めていることを言葉にできない苦しさと、
伝えたい愛があふれて止まらない切なさが、
胸の内で渦を巻いていた。
レギュラスが、
ほんの一拍だけ息を止めた気配がした。
その沈黙こそが、
アランの訴えを最も正確に受け止めた証のようで、
胸が痛むほど満たされていくのを感じていた——。
ジェームズ・ポッターは、こめかみの奥で脈打つ苛立ちを抑えられずにいた。
魔法省監査部の観察室——
そこからは、取調室の内部が半透明の魔法越しに見える。
リーマスが穏やかな声で問い、
アランブラックが震える手で羽ペンを走らせる。
――彼はあまり話しません。
――わかりません。
――聞いていません。
守るためだけの言葉。
核心から逃げるための言葉。
ジェームズには“嘘”にしか見えなかった。
なぜ彼女はここまで盲目的にレギュラスを庇えるのか。
なぜ、どれほど罪が積み上がっても、彼の側から離れようとしないのか。
理解できない。
理解したくもない。
さらに胸を刺したのは、
アランが震える文字で記した最後の一言だった。
――シリウスを傷つけてしまいました。
――彼に……謝りたくて。
その瞬間、ジェームズの中で何かがぷつりと切れた。
どの口で……言うんだ……
親友を惑わせ、
親友の心を揺らし、
それでもまだ“謝りたい”と言うのか。
シリウスはどんな顔でこの女の話を聞いた?
どんな声で彼女を慰めた?
どれほど本気で彼女を案じた?
その全部を思うと胸が焼けるように熱くなった。
リーマスが優しく微笑み、
「大丈夫。シリウスは強いよ」
と返す。
その優しさが、ジェームズには甘さにしか見えなかった。
違う……それじゃ駄目だ。
誰かが“現実”を突きつけなきゃいけないんだ
ジェームズは迷いなく扉の取っ手を掴んだ。
音もなく開いた取調室の扉。
中の空気が、緊張にぴんと張り詰める。
アランはびくりと肩を跳ねさせ、
リーマスも目を大きくして振り返る。
だがジェームズは止まらない。
黒髪の少女をまっすぐに射抜くように見据え、
吐き出すように言った。
「アランブラック。
レギュラスを庇うことしかできない君が……
シリウスの名を軽々しく出さないでほしい」
アランの翡翠の瞳が大きく揺れる。
喉に押し込めた呼吸が震え、胸が上下する。
「ジェームズ、やめろ。君は担当じゃない」とリーマスが遮ろうとする。
だがジェームズは一歩前へ進む。
「君が謝るべきは、
シリウスでもない。
レギュラスでもない」
床にこぼれ落ちそうなほど、アランの瞳が揺れた。
「――レギュラスブラックら闇の陣営が殺した
“子供たち”そのものだ。彼らの命だ」
アランの手が震え、羽ペンが落ちそうになる。
「彼らを庇うなら、君も同罪だ」
その言葉は刃だった。
アランの胸の真ん中を、深々と貫いた。
「ジェームズ、外へ!」
リーマスが腕を掴み、必死に押し返す。
だがジェームズは振りほどき、
尚もアランへ言葉を叩きつける。
「怯えていたのは君じゃない。あの日殺された子供たちだ!
君がヴォルデモートの監視下で味わった恐怖と同じものを——幼い彼らが味わったんだ!」
アランの身体が小刻みに震え出す。
肩を抱くように両腕が胸の前で交差し、
まるで自分を守ろうとするかのように縮こまった。
涙がにじむ。
声は出せない。
ただ、呼吸だけが引き裂かれたように荒い。
リーマスはとうとうジェームズを引きずるようにして扉の外へ押し出す。
「もう十分だ、ジェームズ!
このやり方は間違ってる!」
廊下に押し出された瞬間、
ジェームズは冷たい石壁に拳を叩きつけた。
だがその怒りはアランに対してだけではなかった。
……シリウス。どうして彼女を選んだ
その嫉妬と焦燥の混じった激情は、
彼自身も扱いきれないほど鋭く尖っていた。
部屋の中では、アランが震える指で羽ペンを拾い上げようとしていた。
だが落とし、また拾い上げようとして——
また落とした。
リーマスがそっと近づく。
「大丈夫だ、アラン……大丈夫。
さっきのは……彼が悪いんじゃない。
いろんなものが絡み過ぎているだけなんだ」
アランは涙で濡れた瞳で、
ただ、静かに首を横に振った。
責められた痛みよりも、
シリウスの名を出した自分が
彼を再び傷つけてしまったのではないかという痛みの方が深かった。
取調室の中には、
彼女のかすかな震えと、
リーマスのため息だけが残った。
石畳に長い影を落とすように、
レギュラスの靴音が魔法省の廊下を一直線に貫いていく。
背筋はこれまでと同じようにまっすぐだったが、
その歩みの奥底には、炎のように揺れる焦燥が隠しきれなかった。
―― アランの魔力が、マグルの孤児院近辺で確認された。
そんな報告が監査部から上がった瞬間、
レギュラスは喉の奥に鉄の味が広がるほどの怒りを覚えた。
実際、アランがそんな場所に行けるはずがない。
声を奪われ、外出の自由すらほとんど無く、
魔法省の記録にも——どこにも——その痕跡はない。
模倣だ……誰かがアランの魔力を模したのだ。
可能性は一つしかなかった。
あの日アランの部屋に侵入したあの男——
シリウスが“何か”を持ち帰ったのだろう。
アランの魔力が付着した物品。
それをジェームズが利用したのだ。
稚拙でありながら、目的は残酷なほど透けて見える。
そして——
よりによってアランを取調室に呼び出した。
その事実が、レギュラスの胸を焼く。
アランが“囲まれる”ことを、
どれほど恐れるかを知っているのに。
暗い地下牢で、
何度も男たちに囲まれ、脅され、
踏みつけられたあの記憶が、
呼び起こされていないわけがない。
どうして……あれほど愚かな真似ができる
怒り、焦り、苛立ち、
すべてが混ざり合ったまま、
監査部に到着したレギュラスの前に、
タイミング悪くジェームズ・ポッターが現れた。
黒髪の青年は、
まるで勝ち誇った顔をしてレギュラスを見据えた。
「君の悪事は必ず暴かれるよ、レギュラスブラック。
そして—— アランブラックも道連れで落としてやるつもりだから、覚えておいてくれ」
その言葉は剣より鋭く胸を刺す。
だが、レギュラスは微塵も揺れなかった。
むしろ、柔らかい微笑みを返した。
「……何のことでしょう?
随分と荒い捏造証拠で、笑ってしまいそうでしたが」
「捏造は君の得意分野だろう?」
ジェームズの唇が釣り上がる。
「そして……見破るのもお手のものらしい」
二人の間の空気は火花を散らすように張り詰めた。
だが、レギュラスはジェームズに背を向け、
ためらいもなく取調室の扉へと向かった。
扉が開く。
冷たい室内。
高い天井。
灰色の石壁。
そして、その中心で——
アランが、
小さく、
縮こまっていた。
椅子に座っているはずなのに、
身体はその影に吸い込まれるように丸まり、
首は深く項垂れ、
肩は細かく震えている。
両手は胸元に寄せられ、
羽ペンは何度も落としたのだろう、
インクが指に薄く染みていた。
…… アラン……
レギュラスの胸が音を立てて痛んだ。
取調室の魔法灯が、
彼女の頬に残る涙の跡を白々と照らし出している。
その涙が、
彼自身のせいではないと理解していても、
胸が締め付けられた。
ゆっくりと近づき、
柔らかい声で呼ぶ。
「…… アラン。
遅くなりました。……帰りましょう」
顔を上げたアランの瞳は、
濡れた翡翠色だった。
彼を見た瞬間、
痛みに耐えていた膝が緩んだのか、
か細い身体が傾ぐ。
レギュラスはすぐにその体を支えた。
腕の中に収まったアランの体温は、
ひどく冷たかった。
「大丈夫です……僕がいます」
小さく震える肩を抱き寄せると、
アランは胸元に顔を押し当て、
吸い寄せられるように身を寄せてきた。
声を出せない彼女の震えが、
すべてを物語っていた。
こんな思いを……させたのか
怒りは、もはやジェームズへ向けるものではなく、
アランをここへ連れてきた全ての連鎖そのものに対して燃え上がった。
レギュラスはアランの肩を抱き、
監査部の者に一瞥をくれて静かに告げる。
「取調べは……もう結構です。
妻をこれ以上、このような場に立たせることは許しません」
その声は静かで、
しかし冬の刃より冷たかった。
アランを守る腕の中には、
ひとひらの震える命。
その命を守るためなら——
彼はどれほどの闇にも手を染めるだろうと、
ジェームズでさえ気づいたかもしれない。
レギュラスはアランを抱き寄せたまま、
扉の向こうの明るい廊下へと歩み出た。
どこまでも丁寧に、
どこまでも優しく。
まるで壊れ物を抱くように。
そうして二人は、
取調室を後にした。
石造りの取調室の扉が閉まった瞬間、
アランの身体にまとわりついていた冷気が、
ふっとほどけていくように離れた。
代わりに肩へ落ちてきたのは、
あの日——
地下牢から連れ出されたあの瞬間と同じ、
温かな掌だった。
「アラン……すみません。怖い思いをさせましたね」
優しく低い声。
耳の奥に静かに染み入っていく。
レギュラスの手が肩を包むと、
張りつめていた筋肉が緩み、
アランは思わずかぶりを振った。
——怖いのは、自分ではない。
本当に恐ろしいのは彼だ。
恐ろしくなるほど、彼は常に
憎悪と謀略と責務の中心で戦っている。
闇の帝王の傍で、誰よりも前線に立ち、
誰よりも重い役割を背負い、
誰よりも深い闇に触れている。
そんな彼の前で、
自分だけが「怖い」と泣き崩れるわけにはいかない。
返された杖を握る手が震えていた。
けれど、アランは深く息を吸い、
胸の奥から言葉を引き出すようにして杖を振った。
浮かび上がった文字は、
彼に触れるたび心の奥底から湧き上がってしまう想い——
『レギュラス、わたしはあなたを信じます』
レギュラスはその文字を見ると、
ほんの一瞬だけ、胸の奥底まで揺れるような表情をした。
けれどすぐに、
穏やかで包み込むような微笑みへと戻す。
「ええ……知っていますよ」
柔らかな声だった。
まるで、彼自身がその言葉に救われていくような声音。
アランの心臓が静かに震えた。
——信じる、ということは。
レギュラスの罪をなかったことにするわけではない。
シリウスが告げた言葉は、
刃物のように鋭く胸に刺さっている。
彼がマグルの孤児院で何をしたのか、
どれほどの血があの白い手に付いたのか、
答えは——否定できない。
彼は語らない。
語らないというその沈黙の中に、
あまりにも重い真実があるのだと
アランには痛いほどわかっていた。
けれど——
それでも。わたしは……あなたを見捨てない
レギュラスの手が闇に触れたのなら、
その闇ごと抱き締めたい。
彼が地獄に足を取られるのなら、
その足を掴んで共に沈んでも構わない。
彼が罪に苛まれるのなら、
その痛みを半分奪ってやりたい。
彼が報いを受けるのなら、
隣で膝をついて一緒に罰を受けたい。
——それが、アランが彼に差し出せる唯一の、
深く、揺るぎない愛だった。
レギュラスはそんなアランの想いに気づいていたのか、
気づいていないのか。
ただ、彼はそっとアランの頬に触れ、
ひどく優しい声で囁いた。
「さあ、帰りましょう。
もう二度と……こんな場所に、あなたを置いたりしません」
アランは涙をこぼしながら頷いた。
冷たい部屋は遠ざかっていく。
彼の腕の中で。
彼の温度の中で。
あの日と同じように——
レギュラスが救ってくれる場所へと
アランは連れ戻されていった。
屋敷に戻った瞬間、
玄関ホールの空気がぴりついた。
それは、レギュラスもアランも覚悟していたはずのものだったが、
実際に浴びせられると、思った以上に刺さる。
ヴァルブルガの甲高い声が屋敷中に響き渡った。
「ブラック家の者が!
よりにもよって“監査部”などという卑しい連中から調査を受けるなど……
恥よ! 家名に泥を塗る行為よ!
すべて、あの女が屋敷に来てから……!」
まるで鋭い鞭を振り回すような声だった。
怒りと侮蔑と苛立ちが混ざり合い、
空気が震えている。
アランは、まるで小さく呼吸すらできないように立ち尽くした。
その一言一言が、過去の地下牢の記憶を呼び起こし、
喉の奥に冷たい指を差し込まれたように苦しくなる。
レギュラスは静かに母を向いた。
「母さん。
あまりストレスを与えると……腹の子に障ります」
たった一言。
だが、それは最も効果的で、
唯一ヴァルブルガを黙らせることのできる言葉だった。
ヴァルブルガは眉を吊り上げたまま固まり、
少しの沈黙ののち、
何か呟きながら去っていった。
その背中が遠ざかると同時に、
レギュラスはふっと小さく息を吐いた。
「アラン……心配しなくて構いません。
少し経てば、あの人は忘れますから」
優しく微笑んでみせる。
けれど、その笑みの奥には確かな疲労があった。
アランの方がよっぽど疲れているはずなのに。
「さあ……座りましょう」
レギュラスはそっとアランの肩に手を添え、
寝室へ連れていく。
扉が閉まると、外の喧騒は急に遠くなる。
まるで別世界へ引き込まれたかのような静けさ。
アランをベッドに腰かけさせ、
レギュラスはその前に立った。
その目が、静かにアランの顔の輪郭をなぞるように見つめる。
「……疲れたでしょう」
声も、表情も、触れ方も、まるで罪悪感を抱きしめるようだった。
あの取調室で震えていた姿が、
まだ鮮やかに彼の胸に焼き付いている。
レギュラスの指がアランの頬に触れる。
そっと、跡を辿るように。
まるで、痛みを取り除く儀式のように。
そのまま、ゆっくりと顔を寄せた。
キスは、甘さよりも先に
深い詫びの気配を帯びていた。
——守れなくて、すみません。
——あなたを怯えさせて、すみません。
——それでも手を離さないでくれて、ありがとう。
そんな想いがすべて触れ合う唇に滲み込むようだった。
アランのまぶたが震え、
レギュラスの胸に触れた指が、そっと布を掴んだ。
彼の体温はあたたかかった。
その温度は、何度も彼女を救ってきたもの。
レギュラスは唇を離すと、
額をアランの額にそっと寄せた。
「……もう大丈夫です。
ここは、あなたの居場所です」
その囁きは、
荒れた心を静かに覆う、
深い深い安らぎの布のようだった。
レギュラスは、
闇の帝王に呼びつけられたとき特有の、
あの薄く湿った冷気を肌の奥で感じながら、
禍々しい謁見室へと歩み入った。
部屋の中央には、
喜悦すら浮かべたヴォルデモートが立っていた。
細く長い指に握られたのは——
血と呪いで忠誠を捻じ曲げられた、
あのニワトコの杖。
その杖は闇の帝王の指先のわずかな動きに応じ、
空気を震わせる。
炎も氷も闇も、まるで娯楽のように生み出されては消え、
杖は嬉々として主に従っているように見えた。
「お前は実によく働いてくれる」
低く、満足げな声が響く。
「勿体無いお言葉です」
レギュラスは深く頭を下げた。
その姿勢を保ったまま、
次に告げられるであろう命令を予測し、
静かに呼吸を整える。
「この杖の忠誠が……二度と揺らいでは困る」
少しの間。
部屋の闇が、その言葉を嚙み砕くように沈黙した。
レギュラスの胸に、
冷たい水滴が落ちるような感覚が走る。
心は少しも揺らさない。
顔色は変えない。
ただ、次の言葉を待つ。
「——あの女を呼べ。
そして、二度と揺らがぬように封印を施させろ」
やはり。
レギュラスは瞼を伏せた。
予想はしていた。
杖の忠誠を完全なる絶対へと変えるため、
永劫の封印を持つセシール家の血を求めるであろうことは——
想定していた。
だが。
“覚悟”していたことと、
“現実として告げられる”ことは違う。
脳裏に浮かぶのは、
あのとき取調室から救い出したときの、
怯えきったアランの姿。
翡翠の瞳が震えていた。
声を奪われた少女が、かすかに震える指で「信じます」と綴った、
あの痛いほどの純粋さ。
彼女を、この男の前に立たせる。
闇の帝王の赤い瞳と、あの冷たい吐息の前に。
地下牢で刻みつけられた恐怖の記憶が、
どれだけアランの心を裂くだろう。
それを想像するだけで、
胸の奥がひどく締めつけられた。
だが、表には出せない。
一片たりとも。
「……かしこまりました」
レギュラスは頭を深く垂れたまま答える。
声は揺れない。
完璧な忠誠の返事だ。
ヴォルデモートも満足げに目を細める。
けれどその裏で、
レギュラスの胸の内では別のものが蠢いていた。
アランの瞳。
あの、不安げに揺れて涙を含んだ翡翠の光が、
どうしても離れてくれない。
——どうする。
——どう守る。
——どうすれば、二度と彼女を傷つけずに済む。
答えはまだ出ない。
それでも、アランを闇に呑ませたくないという想いだけは、
痛みとして胸に刻みつけられていた。
闇の帝王の声が響く。
「遅らせるなよ、レギュラス。
杖は気まぐれだ。今のうちに“永遠”を縛っておかねばならん」
レギュラスは、静かに頷いた。
可憐な翡翠の瞳が、
再びあの冷たい闇に触れたとき——
どんな感情を宿すのか。
想像したくなかった。
それでも。
歩み出す他なかった。
アランの名のすべてを胸の奥で抱きながら。
彼は、
闇の帝王の前を静かに去っていった。
その夜、レギュラスは静かに寝室の扉を閉めた。
燭台に灯された柔らかな炎が、ゆらりと揺れる度に、二人の影も壁の奥で寄り添い、離れ、また重なった。
アランはすでにベッドの縁に腰掛けており、彼が近づくと、ほの白い喉元へ視線を落とすように目を伏せた。翡翠の瞳は薄闇にとろりと滲み、深い湖の底に灯りが落ちたような静けさを湛えている。
医務魔女から「安定期です」と説明を受けたはずなのに、レギュラスの指先はどうしても震えを止められなかった。
触れれば壊れてしまいそうだ。
息を吸うたび胸が軋むように痛み、その痛みは罪悪感から生まれるものだと理解していた。
――自分は彼女を苦しめることばかり増やしている。
その事実は、夜毎に胸に沈殿していく。
不安を与え、恐怖を植えつけ、守るつもりでいながら、結果として縛りつけているのではないか――そんな思いが、レギュラスの背を冷たく撫でた。
アランは声を持たない。
言葉で拒絶することも、助けを求めることもできない。
だからこそ彼女は、ほんの僅かな仕草と呼吸、そして翡翠の瞳ひとつで、心のすべてを伝えてしまう。
その瞳は、いつも雄弁すぎた。
かつて自分が奪ってしまった少女の想い――その影までも宿しているようで、レギュラスはしばしば直視できなくなった。
だが今は違った。
震える指でアランの頬に触れ、そっと肩へ添え、彼女が自分へ身を預けてくるその瞬間――翡翠の瞳に淡い愉悦が浮かんだのを見たとき、レギュラスは胸の奥で何かがきしむのを感じた。
まるで赦されているような錯覚だった。
ほんのひとときでも、この瞳が自分を責めも咎めもしないのなら、今だけは逃げ込んでしまってもいいと思えた。
指先と指先が絡まり合う。
触れた部分だけがふわりと熱を帯びていき、その熱が胸へ、腹へ、心の奥へと静かに染み渡っていく。
レギュラスはその小さな接点に、許しと愛情と懺悔のすべてを込めて伝えたいと思った。
――どうか、少しでも伝わってくれ。
声を持たぬアランが漏らす、かすかな吐息。
それは言葉以上に深くレギュラスを揺さぶり、同時に胸の痛みを和らげてもくれた。
赦しを乞うように抱きしめ、赦されているかのように感じてしまう自分自身が、どうしようもなく情けなくて、愛しくて、苦しかった。
やがて二人の身体は静かな波のように寄り添い、融け合っていく。
快楽という名の熱い海ではない。
もっと柔らかく、深く、抗いがたい“幸福の渦”に沈められていくような感覚だった。
アランはただ彼を受け入れ、彼は壊さぬように必死で優しさを保ちながら、
その夜、二人の世界はひっそりと閉じていた。
しかしレギュラスの胸には、やはりひとつの痛みが残った。
彼女に触れた温もりの裏側で、罪の棘が消えることはなかった。
むしろ、その幸福の瞬間が深まるほど、自分が彼女に背負わせたものの大きさを思い知らされる。
それでも彼は願う。
いつの日か、この翡翠の瞳に――
恐れでも、過去の影でもなく、純粋な安らぎだけが映される日が来ることを。
その希望は、彼の胸の奥で静かに灯り続けていた。
ニワトコの杖へ封印を施せと命じられた瞬間、
アランの指先は細かく震えた。
暗い広間に立つ闇の帝王の、蛇のような真紅の瞳。
その視線が、まるで肉を締め上げる鎖のように、
ひたひたと肌の下を這ってくる。
呼吸が浅くなる。
背筋に冷水を垂らされたような感覚が走る。
レギュラスが——
この杖のために、どれほどの血を背負ったのか。
どれほどの悪夢に沈んだのか。
どれほどの罪を、両手いっぱいに抱えたのか。
こんなもののために。
胸の奥で、声にならない叫びが渦巻く。
だが、その叫びを押し殺し、アランは両手を杖へと伸ばした。
「しっかりやりな、小娘。」
真横から、ベラトリックスの冷え切った声。
次いで、杖の先がアランの背へねじ込まれるように押し当てられた。
痛みが骨に響く。
体が前に傾きそうになりながらも、アランは一歩も退かない。
この女は——
人を痛めつける事に愉悦を覚える悪魔そのものだ。
地下牢に囚われていた頃、何度も何度も彼女は降りてきた。
飢えた狼のような目でアランを見下ろし、
暴力と恥辱を落としていき、
皿に盛られた冷たい残飯を指で混ぜ返しては笑っていた。
初めてベラトリックスを見たあの瞬間、
“助けに来た人かもしれない”
なんて浅ましい幻を抱いてしまった自分を、
今この場で殺してしまいたいほどだった。
アランは震える指先を組み、
封印の術式を紡ぎ出す。
セシール家に連なる血だけが扱える、
深く古い魔の術式。
魔力は静かに、しかし重く流れ出していく。
胎内の子を抱える身体には負荷が重すぎる。
視界がちらつき、吐き気がこみあげる。
それでも、止める選択肢はなかった。
光が、杖の木目の奥へ浸透していく。
ひび割れた魂の奥に封じ込めるように、
魔力が深く沈んでゆく。
やがて、ニワトコの杖は
眩い光の筋をひとつきらめかせ、
静かに収まった。
封印完了の証。
手を下ろした瞬間だった。
「どきな、小娘。」
背に鋭く蹴りが飛んだ。
床へ投げ出されるように倒れ込む。
肋骨に衝撃が走り、息が詰まる。
腹を庇うように丸くなりながら、
アランは声にならぬ声で吐息を漏らした。
ベラトリックスはアランを蹴散らしたまま、
ようやく光を落ち着かせた杖を抱え、
恍惚とした笑みで闇の帝王へと差し出した。
「さすがはセシール家の封印の力だ。」
ヴォルデモートは満足げに言い、
細い指で杖を撫でる。
アランはその瞬間でさえ、
目を上げることができなかった。
あの忌まわしい真紅の瞳を見れば、
また地下の闇が自分を飲み込むと知っていたから。
ただ、倒れたまま肩を震わせ、
息を整えながら、
必死に胸の奥で祈った。
——どうかレギュラスが、
これ以上この杖に縛られませんように。
だがその願いさえ、
闇の主の前では虚しく散っていくようだった。
霧の降りた森は、朝とも夜ともつかぬ灰色の気配をまとっていた。
冷たい湿気が肌に張りつく。
その中に、獣の吐息のような重い息遣いが交じる。
空気そのものが、これから起こる惨劇を知っているかのようだった。
「構えろ——来るぞ!」
シリウスが叫んだ瞬間、
森の奥から駆ける影が鋭い音となって飛び出す。
それはただの獣ではなかった。
人間の面影をわずかに残しながら、爪が伸び、牙が光る狼人間たち。
凶暴化した魔力が皮膚を裂き、瞳には理性の欠片すらない。
「くそっ、何匹いるんだ……!」
騎士団の一員が吠える。
返答する暇はない。
次の瞬間、
狼人間のひとりが跳躍し、
前衛の団員をひき倒した。
皮膚が裂ける音が、森の中にくっきりと響く。
押し倒された魔法使いが悲鳴を上げるより早く、
その獣は喉元に噛みついた。
――食っている。
シリウスの心臓が、凍りついたように固まる。
狼人間による“食殺”。
魔法界ではもっとも重い禁忌のひとつ。
絶対に犯してはならない罪。
「やめろッ!!」
シリウスが杖を向けるが、
飛び込んできた別の狼人間が彼の体当たりをくらわせた。
鋭い爪が頬をかすめ、血が皮膚を伝う。
「シリウス、下がれ!」
ジェームズの叫びが飛ぶ。
ジェームズが素早く呪文を放ち、
狼人間の体を弾き飛ばす。
しかし、それでも倒れた団員を食らう獣の殺戮は止まらない。
骨の砕ける音。
肉を断ち切る湿った音。
血の匂いが、霧の中に鉄のような重さを帯びて広がる。
「まるで……地獄だな。」
リーマスの声は、震えていた。
彼は狼人間という存在を誰よりも理解している。
だからこそ、この光景は魂を抉る。
「デスイーターが……奴らを扇動している。」
ジェームズが呟く。
呪文の火花が霧を裂き、
遠くに黒いローブが揺れる。
そのシルエットは、騎士団の動きを観察するようにゆっくりと後退していく。
「最低な奴らだ……ッ!」
シリウスが歯を食いしばる。
仲間の死体を無造作に食い荒らす獣を前にして、
正義も理性も軋むような痛みで揺らぐ。
狼人間は、食べる。
飢えと、呪われた欲求のままに。
――その背後で、誰かが動かしている。
それを思うだけで、怒りが喉を焼いた。
「援護する、シリウス! 右側!」
「わかった!」
ジェームズの呪文が狼一体を吹き飛ばし、
シリウスの呪文がもう一体の足を縫い止める。
リーマスは後衛に残り、
倒れた団員を引きずり、結界の中に運び込む。
しかし、それでも——
獣の数は減らない。
デスイーターの影が、
まるで“おもちゃ”を壊して楽しむかのような余裕をもって
森の奥で佇んでいる。
シリウスは、迫り来る狼人間の群れを前にしながら、
心の底にひとつの確信を持つ。
——これは、ただの戦闘ではない。
——これは、闇の勢力の新たな序章だ。
そして、
自分たちは恐ろしく遅れているのかもしれない。
そんな予感が、喉の奥を凍りつかせた。
「ジェームズ……
このままじゃ——」
「わかってる。
だけど退けない。
ここで下がったら……次はマグルの街だ。」
騎士団の誰もが知っている。
狼人間が飢えて街に流れれば、
守れない命が何百と生まれる。
だからこそ、逃げられない。
血の匂いが濃厚に満ち、
霧が赤く染まり続ける戦場の中で、
騎士団は必死につぎの呪文を放つ。
光と闇が、
牙と爪が、
信念と狂気が、
森の中でぶつかり合い、
破滅の前触れのような音が木々を震わせた。
そしてシリウスは思った。
——レギュラスは、この戦場の向こう側にいる。
——あいつが選んだ陣営は、今、これを世界に放とうとしている。
胸の奥が焦げるように痛んだ。
兄として。
騎士団として。
魔法使いとして。
そして—— アランを想う一人の男として。
この戦いは、もう引き返せないところに来てしまったのだと、
霧の中の血の海が物語っていた。
月の光が薄くにじむ魔法省の廊下。
静寂が重く積もるように漂い、
レギュラスはゆっくりと歩を進めていく。
ローブの裾は音を立てずに床を滑り、
彼の歩みを妨げるものは何もない。
まるで闇の流れそのものが、
彼を目的の場所へと導いているようだった。
狼人間——
それは、理性と獣性の狭間で揺れながら生きる者たち。
彼らを“完全に制御する”など、誰も思っていない。
できるはずもない。
ただ飢えを与えれば、
彼らは牙を向く。
その対象を、どこに向けるか。
それを定めることこそが、
闇の陣営が求める“支配”だった。
そして——
その犠牲に値するものが何か。
ヴォルデモートは迷わなかった。
「マグルを食わせればいい。」
尊い魔法族の血を一滴たりとも損なわず、
狼人間に飢えを抱かせず、
闇の軍勢として利用し続けるための、
最も合理的で、
最も残酷で、
最も効率的な答え。
レギュラスはその判断を、
冷ややかに受け止めていた。
——仕方のない犠牲だ。
闇の帝王の軍勢が強固になるために。
魔法界の清い血を守るために。
そして自分が背負ってしまった罪が無駄にならないように。
綺麗事だけを並べる騎士団には、
到底理解できないだろう。
彼らはいつだって、
理想の中で生きている。
「マグルを犠牲にするな」
——と、言葉にするのは簡単だ。
けれどそれを徹底するということは、
狼人間の飢えを否定し、
彼らの存在そのものを否定することに他ならない。
狼人間たちが反旗を翻せば、
魔法族同士の戦争が起こる。
不要なはずの血がまた流れる。
騎士団の理想主義は、
現実を知らない子供の戯言のようにしか思えなかった。
必要なのは、
“魔法界の存続のための選択”であり、
それは時に、汚れた選択だった。
だからこそ、レギュラスはもう動いている。
魔法省の奥深く——
闇の陣営に同調する議員たちの間を抜けながら、
彼は淡々と、
しかし着実に票を積み上げていた。
現在の「食殺禁止法」を廃止し、
代わりに「狼人間管理法」として再定義する。
内容は簡潔で扇動的だった。
・狼人間は、魔法界における戦力として利用可能とする
・マグルを対象とした捕食行動を、特定条件下で許可する
・魔法族への危険を避けるための“管理”を、闇の統制側に委任する
“管理”。
“許可”。
それらの言葉は、
罪を覆い隠すための美しい外殻にすぎない。
その裏側にあるのは、
ただひとつ——
レギュラスは、
議会の机に法案の写しを置きながら、
表情ひとつ変えなかった。
自分を責める声は、
もう何も言わない。
罪悪感で震える夜はあった。
翡翠の瞳の少女に責められ、
押し潰されそうになる夜もあった。
だが今は——
その痛みを抱えたまま歩くしかない。
アランを守り、
子を守り、
闇の帝王の信頼を維持し、
魔法界を崩さないために。
そのために必要とされるものが“血”であるのなら、
その血がどこに流れようと——
レギュラスは歩みを止めるわけにはいかなかった。
議会の扉が閉まる。
低いざわめきが、闇に沈む宝石のように広がっていく。
今日、魔法界の未来がまたひとつ、
静かに、しかし確実に
闇へと傾いたのだった。
月を隠す雲は重く、
魔法省の灰色の石壁にはいつも以上に陰りが落ちていた。
議会棟の奥では、狼人間の“食殺合法化法案”が、
静かに、しかし確実に可決へと進みつつある。
マグルに限り、捕食行動を容認する——
その一文が、魔法界の未来を大きく歪ませる。
リーマス・ルーピンは、その内容を読んだ瞬間、
胃が裏返るような吐き気を覚えた。
本能だから仕方がない?
制御できないから許可する?
そんなはずがない。
食肉衝動を抑えるポーションがある。
月を乗り越えるための術式も、薬草学も、研究もある。
——努力すれば、狼人間は“怪物”として扱われずに済む。
その道は確かにある。
にもかかわらず。
レギュラス・ブラックら純血主義の役人たちは、
“簡単な方”へ世界を傾けた。
狼人間の本能を肯定し、
その犠牲はマグルでよいと割り切る思想。
「許されない……」
リーマスは、白い指先を震わせながら法案を握り締めた。
自分と同じ“狼”を内に抱える者として、
こんな決議を許すわけにはいかなかった。
思考は自然と、
あの取調室で出会った少女のような女へと向かう。
アラン・ブラック。
神秘的という言葉すら追いつかないほど、
静かで、儚くて、
翡翠色の瞳が宝石のように光る女性だった。
彼女は言葉を持たない。
だが、沈黙の奥にある感情の密度は、
言葉を持つ誰よりも濃く、鮮烈だった。
あの場に似つかわしくないほど純粋で、傷つきやすい気配。
なのに——彼女は、切実な想いを抱きしめるように筆談した。
「レギュラスは優しい」
あの男が?
血と闇にまみれた純血主義の中心人物が?
マグルの孤児を数十人殺した疑いが濃厚な男が?
信じられない。
だが、アランの瞳は嘘をついていなかった。
彼女にとってレギュラスは、
初めて自分を救い上げた“光”なのだろう。
地下で声を奪われ、心を壊されかけた少女が——
最初に見た手、最初に触れた温もり。
それがレギュラスであったのなら……
どれほどの罪を犯していようと、
彼女は決してその手を手放せない。
雛鳥が最初に見た影を親と思うように。
アランの世界は、レギュラス一人に向けて閉じている。
だからこそ。
彼女はあの男の罪をも愛の中に抱き込んでしまう。
そのたびに、リーマスの胸の奥では
どうしようもない痛みがじわりと広がった。
——もし、彼女の横にいたのがシリウスだったなら。
リーマスは思わず目を伏せる。
明るく、奔放で、
人を笑わせる天性の光を持つシリウスの隣ならば、
アランはもっと自由に、
もっと伸び伸びと世界を歩けたはずなのに。
だが彼女の瞳は、
レギュラスだけを映し続けている。
その盲信は美しく、そして痛ましい。
そして——議会の採決の刻が迫る。
リーマスは票を“反対”に置くつもりだった。
それは、レギュラス・ブラックと
真正面から対峙するということ。
純血主義の大本営に杖を向ける。
闇陣営の中心へ逆らう。
その杖の先が、アランにまで届かないでほしい。
リーマスは祈るように目を閉じた。
レギュラスを撃てば、
必ずアランの心まで傷つける。
それは分かっている。
彼女は盲目のようにレギュラスだけを愛している。
だが——
闇へ傾く世界を止められる者は、
もうほとんど残っていない。
月のない夜、
議会の扉が低く軋む音が響く。
リーマスは立ち上がり、
静かに杖を胸に当てて目を開いた。
世界が闇へと呑まれようとするその時、
せめてアランだけは、その闇に沈みませんように。
それでも、レギュラスに屈しませんように。
彼女の脆く、美しい翼が——
折れませんように。
夜気はぬるく、ランプの光だけが静かな寝室を淡く揺らしていた。
レギュラスの肩越しに落ちる影が、どこか遠く感じられる。
背中に寄り添っているはずなのに、彼の体温は、
ほんの少しだけ——指先が届かないほど遠かった。
どれほどぶりなのか、もう数えることを諦めた。
お互いに顔を寄せて眠る夜はあった。
指先を絡めることも、額にやわらかな口づけを落としてくれることも。
それで十分だ、と自分に言い聞かせていたはずなのに。
——本当はずっと、あの温度を待っていた。
言葉を持たない自分にとって、
“受け入れる”という行為そのものが、
最大限に伝えられる愛の形だった。
声で「愛している」と告げられない代わりに、
彼の求めに応じ、彼を受け入れることで、
この胸の奥の熱を伝えられるような気がしていた。
けれど。
そのすべてを封じられてしまった夜が長く続けば続くほど、
自分の存在意義がひとつひとつ削がれていくような気がしていた。
——もう、求められていないのだろうか。
そう思うたびに、心のどこかが締めつけられた。
臆病な自分の喉元に、冷たい指先がそっと触れてくるような感覚。
声を出せない自分は、そこから逃げ場もなかった。
だから。
久しぶりに触れ合ったあの夜の記憶は、
胸の奥に焼きついたまま消えてくれない。
レギュラスの手が腰に回るたび、
そっと押し殺した声が喉の奥で震えた感覚も。
その腕に抱かれた時、
ほんの一瞬だけ「必要とされている」と確信できたあの幸福も。
触れられるたびに心が満たされ、
触れてこない夜には同じだけの不安が積もる。
どれほどはしたなく思われようとも、
あの温度を求めてしまう理由は——
ただひとつ。
愛しているからだ。
その想いを、どうしても伝えたかった。
そっと、レギュラスの胸に体を寄せる。
小さな子供が甘えるように、
けれど心の奥では必死に訴えていた。
“あなたが欲しい”
“あなたに触れてほしい”
“あなたに愛されていると感じたい”
けれど声がないから、
その全てをこの仕草に込めるしかない。
レギュラスが気づいたようにわずかに肩を震わせ、
顔をこちらへ向けた。
「アラン、寒いです?」
優しい声。
長い指がそっとシーツを持ち上げ、
自分の肩までかけてくれようとする。
その気遣いが嬉しくて切ない。
欲しているものは温もりではなく、
その奥にある“確かさ”なのに。
胸の奥から、何かが叫ぼうとした。
——ちがう。
——そうじゃない。
——もっとあなたが欲しい。
けれど声にならない。
ただ、震える指先でレギュラスの手首に触れる。
その一瞬にすべてを込める。
求めていることを言葉にできない苦しさと、
伝えたい愛があふれて止まらない切なさが、
胸の内で渦を巻いていた。
レギュラスが、
ほんの一拍だけ息を止めた気配がした。
その沈黙こそが、
アランの訴えを最も正確に受け止めた証のようで、
胸が痛むほど満たされていくのを感じていた——。
