1章
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夜の帳がゆっくりと明けていく。
鳥のさえずりが、まだ薄暗い庭の奥からかすかに届いていた。
カーテンの隙間から射し込む朝の光が、シーツの上に淡く広がる。
レギュラスは目を覚ました。
――久しぶりに、静かな朝だった。
頭の奥に張りついていた重苦しい感覚もない。
あの翡翠の瞳を持つ少女の叫び声も、血の匂いも、
今夜だけは夢に現れなかった。
ただ、隣には穏やかな寝息を立てるアランがいた。
彼女の黒髪が胸の上にかかっていて、
指先がそれに触れるたび、現実に引き戻されるような安堵が胸を満たした。
まるで、赦されたかのようだった。
罪も苦しみも、ひとときだけ薄れていく。
この穏やかさに永遠があるなら、どれほど救われるだろう。
朝の食卓には、珍しく柔らかな空気が流れていた。
窓の外では、春を告げるように金色の陽光が差し込んでいる。
純白のクロスの上に並べられた銀食器が、淡く光を反射していた。
湯気を立てる紅茶の香りが心地よく漂い、
久しぶりに、家という場所に温かみが戻ったような気がした。
「今日は顔色がいいのね。」
母ヴァルブルガの声が、食卓の向こうから響いた。
いつものように高圧的でも、冷ややかでもない。
ほんの少し、柔らかく感じられたのは、
レギュラス自身が心に余裕を取り戻していたからかもしれない。
「ええ、しっかり睡眠が取れましたから。」
穏やかに微笑みながら答える自分がいた。
この屋敷で朝から母と言葉を交わすことほど、
神経をすり減らすこともない。
どこに地雷が潜んでいるか分からない会話。
ひとつ言葉を誤れば、冷たい刃のような叱責が飛んでくる。
それでも今日は、妙に軽やかだった。
息が詰まるような朝も、今日は違う。
久しぶりに感じる心の余白があった。
ふと隣を見やると、アランが静かにナプキンを膝に広げていた。
黒曜石のような髪が肩に流れ、頬には柔らかな血色が差している。
その姿に、胸の奥が温かくなる。
彼女がいてくれるだけで、この屋敷の空気が少しやわらぐ気がした。
ナイフで肉を切り分け、
自分の皿の分を少し取り分けて、アランの皿にそっと置く。
「アラン、あなたは僕より食べるべきですよ。」
アランは驚いたように目を瞬かせたあと、
ふわりと微笑んだ。
言葉はなくても、その笑みだけで十分に伝わる。
“ありがとう”も、“嬉しい”も、その中に全部あった。
その笑みを見て、胸が温かく満たされていく。
ただそれだけでいい。
このひとときがある限り、
夜に沈んだ心が少しずつ浄化されていくような気がした。
彼女の横顔を見つめながら、
レギュラスはふと、思う。
――この光景を、いつまで守れるだろう。
闇の帝王の命令も、騎士団の影も、
いずれこの穏やかな朝を壊してしまうのだろう。
けれど今だけは。
彼女の笑顔がある。
自分の罪も、流した血の匂いも、
ほんの少しの間、遠く霞んでいく。
温かい紅茶を一口飲み、
レギュラスは穏やかな声で言った。
「今日はいい日になりそうですね。」
アランは、静かに頷いた。
窓の外では、春風がやわらかくカーテンを揺らしていた。
魔法省法務部の朝は、いつもどこか重く湿っている。
薄暗い天井に浮かぶ魔法灯が、鈍い金色の光を落とし、
厚い書類の束が机の上に幾重にも積み上がっている。
羽根ペンが擦れる音と、時折鳴る時計の音だけがこの部屋の律動だった。
机上に次々と届けられる報告書。
孤児院襲撃事件――騎士団が全力で追っている件だ。
朝一番の魔法封筒が光を放ちながら机に落ち、
「法務部宛・極秘報告」と赤い蝋印が押されている。
封を切ると、整然と書かれた報告書の行間に、
焦りと執念がにじんでいた。
“現場の床下から、血痕反応の一部を採取”
“遺留品の中に黒焦げの布片。呪文の焼跡らしき痕あり”
“魔力反応微弱ながら検知。性質は闇の領域と推測”
――笑わせる。
レギュラスは思わず口元にかすかな笑みを浮かべた。
どれも、核心には触れない枝葉ばかりだ。
彼らはあの夜の闇の深さを知らない。
表面に残った灰を掬って、そこに“真実”を見出したつもりでいる。
滑稽だった。
たかだか一つの切り裂き呪文の痕跡に縋り、
それを証拠だと信じて日々報告書を積み上げてくる。
呪文の軌跡をたどる術も持たぬくせに。
放たれた杖が誰の手にあったのかさえもわからない。
ただ一つの呪文に、世界の秩序を託そうとしている。
――好きにすればいい。
羽根ペンを指に取り、書類の端にサインを記す。
黒いインクが滑らかに紙を走るたび、
どこか遠い場所で血の匂いが蘇る気がした。
“R.A.Black”
書き終えた直後、ふと視界の端で揺らめいたものがあった。
紙の上に、淡い緑の光が一瞬だけ浮かぶ。
目を凝らすと、それはただの錯覚に過ぎなかった。
――だが、胸の奥がひやりとした。
翡翠の瞳の少女。
あの夜、最期に見た彼女の目の色。
まるで自分を責めるように、
血に濡れたその視線が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
耳の奥では、あの子供たちの叫びがまだ続いている気がした。
“痛いよ”“助けて”“やめて”
空気がふっと重くなる。
ペンを持つ指が震えた。
インクが一滴、報告書の端に落ちて黒い染みを作る。
――馬鹿馬鹿しい。
心の中で呟いて、強く息を吐いた。
こんな感傷に呑まれるのは弱者のすることだ。
自分は違う。
自分は魔法使いだ。
血の格も、魔力の深さも、
凡庸な騎士団員などとは比べものにならない。
“報い”だの“呪い”だの、
そんな不確かなものに怯えるほど愚かではない。
罪の意識などという幻想に価値はない。
魔法の世界は、強き者の理によって支配される。
だからこそ、自分はその頂に立つべき存在なのだ。
――そうだ、これは正義ではない。必然だ。
己に言い聞かせるように、レギュラスはサインを続けた。
ペン先の動きはもう震えていない。
しかし、胸の奥ではまだ何かがうごめいている。
冷たく、重く、形を持たない何かが、静かに。
外の窓から、白々とした朝の光が差し込む。
机の上の報告書を照らし、
その一番上の紙が風にめくられた。
――報告書第278号:切り裂き呪文の軌跡分析、継続中。
レギュラスは無表情のまま、それを閉じた。
「……勝手に踊っていればいい。」
吐き捨てるように呟き、
また次の報告書に手を伸ばす。
ペンの先から流れるインクの音だけが、
やけに静かな執務室に響き続けていた。
騎士団の執務室には、重い沈黙が満ちていた。
昼をとうに過ぎているというのに、窓の外の光は鈍く濁って見えた。
壁際には書類の山が積まれ、机の上では羽根ペンの動きが止まっている。
誰もが言葉を失い、深く息を吐くだけだった。
孤児院襲撃の調査は続いている――
だが、成果と呼べるものは何一つなかった。
報告書に並ぶのは、虚無に近い文ばかりだ。
「残留魔力反応、極めて微弱」「闇の気配は確認できず」「証拠能力、低し」。
ページをめくるたび、敗北をなぞるような記録ばかりが並んでいる。
シリウスは、苛立ちを隠しもせず拳を机に叩きつけた。
乾いた音が響く。
「くそう……! アイツを野放しにはしておけねぇ!」
声が部屋の空気を裂くようだった。
それでも誰も反論しない。
皆、同じ思いを抱えているからだ。
「それは同感だ。」
ジェームズが静かに応じる。
手にした書類を閉じ、深く椅子に背を預けた。
額にかかる髪を払いながら、灰色の瞳に冷たい光を宿す。
――レギュラス・ブラック。
彼を追い込むには、あまりにも材料が足りなかった。
現場に残された切り裂き呪文の痕跡、それが唯一の手がかり。
だが、それが誰の杖から放たれたものなのか、
辿る術など最初から存在しない。
闇の陣営に属する魔法使いたちは、
魔法省に登録されていない“影の杖”を使っている。
本来、杖には所有者の魔力の軌跡が刻まれる。
だが登録外の杖は、魔法省の追跡呪文の網をすり抜ける。
レギュラス・ブラックほどの男であれば、その抜け道を知らぬはずがない。
表向きの杖を提出しながら、裏で別の杖を操っているに違いなかった。
それ以外の痕跡――
焦げ跡の破片、微細な魔力反応、血痕に混じる呪文の残滓。
どれも闇の魔法使いたちを断定するには弱すぎた。
報告書に並ぶそれらは、ただ無力さを象徴しているようだった。
沈黙の中で、シリウスが再び声を発した。
「俺の弟は、いつだって綺麗に逃げやがる。証拠も、痕跡も、全部消してな。」
その声には怒りだけでなく、どこか寂しさのような響きがあった。
血の繋がりがあるゆえにこそ、憎悪はより深く、苦しみはより鋭い。
ジェームズは彼の横顔を見つめ、静かに目を細めた。
「……それでも、放ってはおけない。」
シリウスは頷く。
「当然だ。」
けれど、ジェームズの胸の内にはもう一つの影があった。
レギュラスだけではない。
―― アラン・ブラック。
あの女の存在が、事態をいっそう複雑にしている。
かつて封印の魔を司り、ヴォルデモートの核に触れた女。
今はレギュラスの妻として、彼の隣にいる。
愛という名の鎖に縛られ、闇と光の狭間で揺れている。
彼女がこのまま生きている限り、
封印は決して解けない。
闇の王を討つ道も閉ざされたままだ。
騎士団にとって、彼女の存在は“希望”であると同時に、
“最大の障壁”でもあった。
ジェームズは無言のまま、机の上の書類を一枚めくる。
墨の香りがかすかに立ちのぼる。
そこに記された「切り裂き呪文」という文字が、
まるで呪いのように目に焼きついた。
彼は低く呟いた。
「……摘み取らなければならない芽が、もうひとつある。」
誰もその意味を問わなかった。
シリウスだけが眉をひそめ、
何かを言いかけて、唇を噛みしめた。
重い沈黙が、再び部屋を満たす。
外では雨が降り出していた。
濡れた窓ガラスを叩く音が、
騎士団の無力を嘲笑うかのように響いていた。
魔法省の地下にある分析室――そこはいつも冷たい静寂に包まれていた。
ジェームズ・ポッターは、長机の上に置かれたガラス瓶を見つめていた。
瓶の中には、淡く光を放つ花びらが浮かんでいる。
それはシリウスが屋敷から持ち帰ったもの―― アラン・ブラックが「封印の魔法」で作った、枯れない花束の一部だった。
花束の魔力反応を解析する夜
「……これが、彼女の魔力か。」
ジェームズは低く呟いた。
淡い翠の光が、瓶の内側でゆらゆらと揺れている。
優しく、どこか哀しい光。
それは生の象徴のようでもあり、同時に呪いのような持続を孕んでいた。
魔力感応石を手に取ると、ジェームズは瓶の口にかざす。
石が淡く脈動し、魔力の波長が浮かび上がった。
――緑、そして金。
特徴的な魔力の層。間違いない、アラン・セシール=ブラック本人のものだった。
彼女が施した封印魔法は「永続型」。
生み出した者の命が続く限り、魔法もまた呼吸を続ける。
つまりこの光が輝きを保つ限り、アランが生きていることの証でもある。
ジェームズは舌の裏で呟いた。
「……なら、逆にこの光を利用できる。」
ジェームズが構築しようとしているのは、かつて戦時中に封印された禁術だった。
“幻影魔力模倣(ミメティック・アウラ)”
特定の魔力波を解析し、それを他の魔力体に重ねて“幻の存在”を作り出す術。
本来は追跡や防御のために使われていたが、
その応用次第で――“罪”を偽装することもできた。
アランの魔力を写し取った魔晶を、
無人の人形の核に埋め込み、
彼女の波長を宿らせる。
「君の優しさを、武器にするなんて皮肉なものだな。」
ジェームズの声は低く、どこか掠れていた。
彼もまた、迷っていた。
だが、これしかなかった。
闇の陣営を崩すには、アランを神聖視しているレギュラスの心を砕くこと。
そのために、彼女を“利用する”しかなかった。
魔力模倣体は数日後、騎士団の魔法室で起動された。
アランの魔力を模した幻影が、まるで彼女本人のように温かな気配を放っている。
その反応をあえて魔法省外の結界外に漏らした。
微弱な信号――それをレギュラスが感じ取らぬはずがない。
「魔力感知範囲に入れば、あの男は動く。」
ジェームズはそう呟き、瞳に冷たい光を宿す。
アランの魔力が現れたと知れば、
レギュラスは必ず“何者かが彼女を狙っている”と勘づき、動くだろう。
その時こそ、彼の動きを監視し、
確実な証拠を掴むことができる。
だが、この作戦の本質はそれだけではなかった。
ジェームズはもうひとつの目的を秘めていた。
―― アラン・ブラックを孤立させること。
魔法省の記録上、彼女の魔力が“事件現場付近で検出された”と報告されれば、
誰がどう見ても容疑者は彼女になる。
闇の封印を守るための存在として、
彼女自身を“危険人物”として追い詰めることができる。
「お前を守りたい」と言ったシリウスの願いとは真逆に、
ジェームズは冷たく計算していた。
レギュラスを倒すには、アランを――その心臓を――撃ち抜くしかないのだ。
夜、魔力模倣体が発する微弱な光が森の中で揺れた。
その波長は、アラン・セシール=ブラックのものと完全に一致している。
それを感じ取ったレギュラスは、すぐに動いた。
闇の中を駆け抜けながら、彼の中にあるのはただ一つ――
「アランが危険に晒されている」という確信。
それこそがジェームズの狙いだった。
騎士団が張り巡らせた追跡呪文が、レギュラスの動きを正確に捉えていく。
魔法の残滓が空に散るたび、ジェームズは胸の奥で小さく呟いた。
「赦してくれ。……でもこれで、君たちの終わりだ。
朝霧の中、模倣体は静かに崩れ落ち、
アランの魔力を模した光が消えていく。
その光は、まるで本物の彼女が泣いているように淡く滲んでいた。
ジェームズは立ち尽くしたまま、拳を握りしめる。
「君の花が、彼を堕とす。」
そう呟いた声は、まるで呪文のように震えていた。
取調室に通される瞬間――
アランの背筋を、ひやりとした感覚が這い上がった。
ドアがゆっくりと閉じる音が、まるで地下牢の鉄扉が閉ざされる音のように聞こえた。
そこは魔法省の中でも特に冷えた空気の漂う部屋だった。
灰色の壁。
魔力を吸収する黒い石床。
四方を囲むように立つ数名の魔法省役人。
光は天井からわずかに降り注ぐだけで、そのせいか影はひどく濃く落ちていた。
アランの喉がひくりと鳴る。
声を出せない自分は、ただ深く息を吸い、震えを押し殺すしかなかった。
魔力抑制のために置かれた金属台の冷たさが、指先から骨の奥へ染みていく。
囲まれる形で椅子に座らされたその状況は、
かつて闇の帝王の地下牢で経験したあの“囲まれる恐怖”を思い出させた。
封印の術を強制された日々。
理不尽な暴力。
吐息のような脅し。
腕を掴まれた痛み。
血の匂い。
どす黒い声で名前を呼ばれるたび、心が削れ、砕かれていったあの時間。
そのすべてが、
この狭い取調室の空気と重なってしまう。
冷や汗が背中をつたう。
――怖い。
――また踏みにじられる。
――また囲まれて、奪われる。
体が小さく震えた、その時。
「緊張しないでほしいんだ」
柔らかく、光を孕んだ声が落ちてきた。
「僕はリーマス・ルーピン。今日は僕が対応させてもらうよ」
アランが顔を上げると、灰茶の髪をした青年が静かに微笑んでいた。
他の誰とも違う、刺々しさの一欠片も持たない、穏やかな光のような目。
彼は周囲の役人に軽く手を挙げてから、
まるで“敵じゃないよ”と示すように、ゆっくりと歩いてきた。
一切、急な動きをしない。
彼女が怯えないよう、過去を刺激しないように配慮された歩みだった。
アランの前に立つと、リーマスはそっと片手を差し出してきた。
指先まで力を入れず、ただ“触れても大丈夫だよ”と言うような優しい形。
「大丈夫。君を傷つけるために来たわけじゃないからね」
その声は、
闇の底に落ち続ける心に差し込む光だった。
それでも恐怖は消えなかった。
手を伸ばせば、また誰かに捕まれるかもしれない。
また、無理に引きずられて、閉ざされたどこかへ連れて行かれるかもしれない。
躊躇で指先が震える。
それでも。
彼の眼差しに、どこか“安全”の温度があった。
恐る恐る伸ばした手を、リーマスの掌が包む。
ひどく、静かだった。
優しく、柔らかかった。
握られているのに、決して強くない。
逃がそうと思えばいつでも逃がしてくれる手だとわかった。
アランの呼吸がわずかに整っていく。
「少しずつでいい。ゆっくりでいい。
僕は君と敵ではないし、君に怒っているわけでもない。
ただ、話を聞きに来ただけなんだ」
言葉が届くごとに、胸の奥の凍りついた部分が少しずつ融けていく。
リーマスは彼女の手を離すタイミングすら慎重に見計らっていた。
アランは小さく頷いた。
言葉はなくても、その頷きははっきりと“信頼の入り口”だった。
リーマスは椅子を彼女の正面ではなく、
あえて“斜め”に置いた。
真正面から向き合えば追い詰めてしまうと理解していたからだろう。
「ここでは安全だよ。
君が話せることだけを、教えてほしい」
アランは胸を押しつぶしそうな鼓動に耐えながら、
震える指で杖を握りしめた。
リーマスの微笑みは、静かに彼女の恐怖をほどいていく。
まるで、
長い闇の中で初めて灯った、小さな灯火のように。
灰色の壁に囲まれた取調室で、
リーマス・ルーピンは深く静かに息を吐いた。
――これは、やはり無茶だ。
ジェームズの強引すぎる捏造、そしてブラック家への強制的な捜査協力要請。
それ自体は“レギュラス・ブラックを炙り出す”ための策として理解はできる。
だが、結果として拘束されたのはアラン・ブラックだった。
あの女を、ここへ連れてくる必要が本当にあったのか。
暴かれるべきはレギュラスの罪であり、
彼女ではないはずなのに。
リーマスはアランを見つめる。
部屋の空気全体が、彼女の怯えに呼応して揺れているようだった。
彼女は椅子の端で細く息をしていた。
魔力を吸収する石の板に置かれた両手は、小さく、震えている。
それでも逃げようとはせず、ただ恐怖に耐えている。
――ヴォルデモートの監視下で生きてきたんだ。
――地下牢で、何度も脅され、踏みつけられてきたんだ。
ジェームズはそう語っていた。
そして今、その“過去”が彼女の内側で暴れ出しているのが、表情から痛いほど伝わる。
リーマスは胸の奥がじくりと痛んだ。
彼女と目が合う。
その瞬間、息を呑んだ。
翡翠の瞳――
まるで研磨し尽くされた宝石のように澄んでいるのに、どこか影を宿している。
伝承に語られる“封印の魔法”を受け継ぐセシール家の血。
永劫を閉ざす術の根源。
どこか神秘めいた美しさが、確かに彼女にはあった。
ジェームズが危惧していた理由が、
シリウスが私情を挟むほどに惹かれた理由が、
よくわかった。
アランは静かに、ただ怯えた小さな生き物のように座っている。
けれど、その瞳には底無しの深さと繊細な光が宿っていた。
「……緊張させてしまってごめんね」
リーマスはできるだけ柔らかい声で言い、
敵意がないと伝えるために表情を和らげる。
アランは小さく頷く。
その頷きさえ、怯えを振り払うための勇気の塊のようだった。
「子供は……今、何ヶ月くらいなんだろう?
あまり目立たないみたいだね」
リーマスはあえて明るく、軽い口調で話す。
彼女を傷つけないために、ひどい話題は避ける。
この部屋では魔力が制限されているため、
アランは杖を振ることができない。
そのため簡素な羽ペンと紙を使って、震える手で文字を書く。
――五ヶ月です。
筆跡が揺れている。
緊張のせいか、心の動揺か。
読めるけれど、そのひと文字ひと文字が痛々しく感じられた。
リーマスはゆっくり微笑む。
「五ヶ月か……おめでとう。
……大事な時期だよね。ここまで来るの、大変だったでしょ?」
アランは小さく首を振ったあと、
迷ったように紙にまたペン先を落とす。
そして、そっと書く。
――レギュラスが、支えてくれています。
その文字を見た瞬間、
リーマスは少し驚いた。
レギュラス・ブラック。
ホグワーツ時代、彼と監督生の仕事をしたことがある。
冷たく、完璧で、何もかもを一歩引いた場所から見ているような少年だった。
人を寄せつけず、淡々と職務をこなすタイプ。
「僕には……彼が、そんなふうに“誰かを支える”姿が想像できないな。
クールで冷たい男ってイメージが強くてね」
冗談めかして笑いながら言う。
少しでも空気を柔らかくしようとして。
アランはほんの少しだけ、表情を緩ませた。
筆先を紙に滑らせる。
――彼は、とても優しいです。
震えながらも、
その文字はどこか誇らしげに見えた。
リーマスの胸の奥が、静かに動いた。
――ああ、この子は。
――本当に彼を愛しているんだ。
そして、恐怖に震えていても、
彼を庇おうとする意思がある。
それが、どれほどの強さか。
どれほどの重さか。
リーマスには、わかってしまった。
だからこそ……
ジェームズのやり方はあまりに乱暴だと、あらためて思う。
「ありがとう、教えてくれて」
リーマスはそっと彼女の言葉を受け取るように言った。
冷たい取調室の空気の中、
アランの書いた“優しい”という文字だけが、
温かい光のように感じられた。
薄い石壁に囲まれ、魔力を抑える呪文が静かに空気を締めつけている。
その冷えた取調室の空気を、リーマス・ルーピンはできるかぎり和らげようと、ゆっくりと穏やかな声を出した。
「……さて。少しだけ、聞いてほしい話があるんだ。
もちろん、怖がらなくていい。君を責めたいわけじゃないからね」
アランは姿勢を正すでもなく、かといって身を縮めるでもなく、
ただ静かにリーマスを見ていた。
頷いたのは、ほんの小さな動きだった。
けれどその小ささの奥に、深い緊張と、覚悟のようなものが見えた。
リーマスは柔らかく微笑むと、
机の上の羽ペンの位置を整えるふりをして、
わざと動作に“余裕”と“日常感”を混ぜた。
――これ以上、追い詰めたくない。
それが本心だった。
「そういえばさ。
妊娠中って、食べられるものが変わったりするらしいね。
何か最近よく食べるものとか、ある?」
突然の話題転換にアランは瞬きを数度繰り返し、
ようやく――少し困ったように微笑んだ。
羽ペンが紙の上を震えるように滑る。
――最近は、果物が食べやすいです。
「果物か。いいね。ヴィタミンは赤ちゃんにもいいから」
小さく頷くアラン。
その頷きの柔らかさを見ると、
この子は“日常”の話題で少しだけ呼吸が深くなるのだ、とリーマスは理解した。
ゆっくりと、本題に近づいていく。
「……ところでね、アラン」
やわらかい声のまま、
けれど瞳は少しだけ真剣さを帯びる。
「彼が――ここ最近、マグル界に行ったことを、君に話したりはしたのかな?」
その瞬間、アランの肩がわずかに震えた。
瞳が揺れる。
リーマスは急がない。
追い詰めない。
焦らせない。
“今の反応”それ自体が重要なのだ。
アランはしばらく迷ったあと、
羽ペンを取る。
――彼はあまり話さないです。
文字が細く、頼りなく震えている。
リーマスは深く頷いた。
「……そうだよね。
やっぱり、そんな気はしていたんだ」
そして、ほんの少しだけ懐かしそうに笑う。
「監督生だった頃もね、彼は任務を私生活に持ち込まないタイプだった。
冷静で、誇り高くて……
誰よりも“自分の領域”を守る男だったよ」
アランは手を止め、
静かにリーマスを見つめた。
その瞳――翡翠の色が、
彼女がいまどれほど“揺れている”のかを物語っていた。
リーマスは続ける。
「君が悪いわけじゃない。
彼が、何を話すか、どこまで話すかは……ずっと彼自身の問題だ。
君に隠そうとしているんじゃない。
彼の性格なんだよ」
アランの瞳が、ほのかに潤む。
紙の上に、静かにペンが落ちる。
――わたしは、知りたいです。
――彼が、何に苦しんでいるのか。
震える文字だった。
リーマスの胸の奥に痛みが走る。
彼女は追及したいのではない。
責めたいのでもない。
ただ、愛する人の背負うものを共にしたいだけだ。
それなのに、彼女は閉ざされた扉の外に置かれたままだ。
リーマスはゆっくり息を吸った。
「アラン……君は、強いね」
アランは首を横に振る。
強くなんてないと訴えるように。
だが、リーマスにはわかっていた。
この小さな身体のどこに、こんなにも深い愛の力があるのか――と。
そして彼は、静かに机の上の書類に目を落とす。
“聞かなければならない質問”は、この後に待っていた。
だが、目の前の少女の揺れる瞳を見ると、
どうしても急いでその扉を開ける気にはなれなかった。
「大丈夫。ゆっくりでいいから」
ただそれだけを、
アランに向けてそっと告げるのが精いっぱいだった。
石壁に魔力抑制の符が淡く光る静かな取調室。
リーマスは——彼自身が望まぬ形で——ゆっくりと核心へと歩を進めるしかなかった。
ジェームズから求められた“質問項目”が頭の隅に刺さり続けている。
けれど、アランの怯えた瞳を見るたびに、胸の奥が痛んだ。
……どうか、この子を壊さずに辿りつけますように
そんな祈りに似た願いを抱えながら、彼は穏やかな声で問いを投げた。
「アラン……ひとつだけ、確認させてほしいんだ」
アランの手が膝の上でぎゅっと握られる。
呼吸が浅くなるのが、遠目にもわかった。
「最近……彼は夜、家を空けることが増えたんじゃないかな?」
アランは揺れた。
明らかに、心が音を立てた。
だがすぐに、彼女は羽ペンを持ち直し、必死に“平静”を装った筆致で書く。
――はい。でも、魔法省のお仕事です。
リーマスはゆっくり頷く。
「そうか……確かに、彼は仕事熱心だ」
その言い方はやさしいが、瞳だけはアランを見つめていた。
真実を探る者の、静かな眼差し。
「……じゃあ、もうひとつ。
マグル界で……“何か”を探しているような素振りを見せたことは?」
空気が凍った。
アランの肩が震える。
瞳に迷いが浮かび、喉元が上下する。
言いたくない、でも嘘をつくのも苦しい——そんな葛藤が一瞬で読み取れた。
やがて、アランは羽ペンをゆっくり紙に運ぶ。
――いえ。何も……聞いていません。
その“聞いていない”という文字は、
書いている途中で線が震え、
“守ろうとする意志”と“怖れ”が滲み出ていた。
完全に——レギュラスを庇っている。
リーマスは嘘だと気づいた。
プロではなくとも分かる。
アランは嘘をつくのが致命的に下手だった。
しかし。
……守るために嘘をついている
それが痛いほど分かった。
リーマスはひとつ息を吸い込み、声を柔らかくする。
「アラン、ありがとう。
答えてくれて……本当に、ありがとう」
アランは驚いたように顔を上げた。
叱責も追及も予想していたのだろう。
けれど返ってきたのは、まるで慈しむような声音。
リーマスはゆっくり続ける。
「君は……彼を信じてるんだね。
どんな時でも。
彼が何を背負っていても、何を隠していても……ただ信じてる」
アランの瞳が揺れ、深く頷く。
涙が溢れそうなほど。
その姿があまりにも純粋で、
リーマスは胸が締め付けられる。
どうして……こんな子を、利用しようとするんだ、ジェームズ
心の奥で静かに怒りが燃えた。
だが口にするのは、優しい言葉だった。
「……大丈夫。
君が言いたくないことは、言わなくていい。
ここにいるあいだ、君を傷つけるつもりはないよ」
アランは小さく目を見開き、
まるで“救われた”ように微笑んだ。
――彼を守るために嘘をついた少女。
その嘘を、リーマスは追及しない。
追及したくなかった。
アランは、静かに震えながら羽ペンを再び握る。
――彼を……信じています。
筆跡は弱々しいのに、
その言葉は、どんな魔法よりも強かった。
リーマスはその文字を見つめ、
胸の奥でただひとつの思いを抱いた。
……君みたいな子を巻き込むなんて、誰が正義だと言えるんだ
取調室の空気は静かだった。
けれど、その静けさの中で
“少女が愛する男のために嘘をついた”という事実だけが、
深く、深く、響き続けていた。
鳥のさえずりが、まだ薄暗い庭の奥からかすかに届いていた。
カーテンの隙間から射し込む朝の光が、シーツの上に淡く広がる。
レギュラスは目を覚ました。
――久しぶりに、静かな朝だった。
頭の奥に張りついていた重苦しい感覚もない。
あの翡翠の瞳を持つ少女の叫び声も、血の匂いも、
今夜だけは夢に現れなかった。
ただ、隣には穏やかな寝息を立てるアランがいた。
彼女の黒髪が胸の上にかかっていて、
指先がそれに触れるたび、現実に引き戻されるような安堵が胸を満たした。
まるで、赦されたかのようだった。
罪も苦しみも、ひとときだけ薄れていく。
この穏やかさに永遠があるなら、どれほど救われるだろう。
朝の食卓には、珍しく柔らかな空気が流れていた。
窓の外では、春を告げるように金色の陽光が差し込んでいる。
純白のクロスの上に並べられた銀食器が、淡く光を反射していた。
湯気を立てる紅茶の香りが心地よく漂い、
久しぶりに、家という場所に温かみが戻ったような気がした。
「今日は顔色がいいのね。」
母ヴァルブルガの声が、食卓の向こうから響いた。
いつものように高圧的でも、冷ややかでもない。
ほんの少し、柔らかく感じられたのは、
レギュラス自身が心に余裕を取り戻していたからかもしれない。
「ええ、しっかり睡眠が取れましたから。」
穏やかに微笑みながら答える自分がいた。
この屋敷で朝から母と言葉を交わすことほど、
神経をすり減らすこともない。
どこに地雷が潜んでいるか分からない会話。
ひとつ言葉を誤れば、冷たい刃のような叱責が飛んでくる。
それでも今日は、妙に軽やかだった。
息が詰まるような朝も、今日は違う。
久しぶりに感じる心の余白があった。
ふと隣を見やると、アランが静かにナプキンを膝に広げていた。
黒曜石のような髪が肩に流れ、頬には柔らかな血色が差している。
その姿に、胸の奥が温かくなる。
彼女がいてくれるだけで、この屋敷の空気が少しやわらぐ気がした。
ナイフで肉を切り分け、
自分の皿の分を少し取り分けて、アランの皿にそっと置く。
「アラン、あなたは僕より食べるべきですよ。」
アランは驚いたように目を瞬かせたあと、
ふわりと微笑んだ。
言葉はなくても、その笑みだけで十分に伝わる。
“ありがとう”も、“嬉しい”も、その中に全部あった。
その笑みを見て、胸が温かく満たされていく。
ただそれだけでいい。
このひとときがある限り、
夜に沈んだ心が少しずつ浄化されていくような気がした。
彼女の横顔を見つめながら、
レギュラスはふと、思う。
――この光景を、いつまで守れるだろう。
闇の帝王の命令も、騎士団の影も、
いずれこの穏やかな朝を壊してしまうのだろう。
けれど今だけは。
彼女の笑顔がある。
自分の罪も、流した血の匂いも、
ほんの少しの間、遠く霞んでいく。
温かい紅茶を一口飲み、
レギュラスは穏やかな声で言った。
「今日はいい日になりそうですね。」
アランは、静かに頷いた。
窓の外では、春風がやわらかくカーテンを揺らしていた。
魔法省法務部の朝は、いつもどこか重く湿っている。
薄暗い天井に浮かぶ魔法灯が、鈍い金色の光を落とし、
厚い書類の束が机の上に幾重にも積み上がっている。
羽根ペンが擦れる音と、時折鳴る時計の音だけがこの部屋の律動だった。
机上に次々と届けられる報告書。
孤児院襲撃事件――騎士団が全力で追っている件だ。
朝一番の魔法封筒が光を放ちながら机に落ち、
「法務部宛・極秘報告」と赤い蝋印が押されている。
封を切ると、整然と書かれた報告書の行間に、
焦りと執念がにじんでいた。
“現場の床下から、血痕反応の一部を採取”
“遺留品の中に黒焦げの布片。呪文の焼跡らしき痕あり”
“魔力反応微弱ながら検知。性質は闇の領域と推測”
――笑わせる。
レギュラスは思わず口元にかすかな笑みを浮かべた。
どれも、核心には触れない枝葉ばかりだ。
彼らはあの夜の闇の深さを知らない。
表面に残った灰を掬って、そこに“真実”を見出したつもりでいる。
滑稽だった。
たかだか一つの切り裂き呪文の痕跡に縋り、
それを証拠だと信じて日々報告書を積み上げてくる。
呪文の軌跡をたどる術も持たぬくせに。
放たれた杖が誰の手にあったのかさえもわからない。
ただ一つの呪文に、世界の秩序を託そうとしている。
――好きにすればいい。
羽根ペンを指に取り、書類の端にサインを記す。
黒いインクが滑らかに紙を走るたび、
どこか遠い場所で血の匂いが蘇る気がした。
“R.A.Black”
書き終えた直後、ふと視界の端で揺らめいたものがあった。
紙の上に、淡い緑の光が一瞬だけ浮かぶ。
目を凝らすと、それはただの錯覚に過ぎなかった。
――だが、胸の奥がひやりとした。
翡翠の瞳の少女。
あの夜、最期に見た彼女の目の色。
まるで自分を責めるように、
血に濡れたその視線が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
耳の奥では、あの子供たちの叫びがまだ続いている気がした。
“痛いよ”“助けて”“やめて”
空気がふっと重くなる。
ペンを持つ指が震えた。
インクが一滴、報告書の端に落ちて黒い染みを作る。
――馬鹿馬鹿しい。
心の中で呟いて、強く息を吐いた。
こんな感傷に呑まれるのは弱者のすることだ。
自分は違う。
自分は魔法使いだ。
血の格も、魔力の深さも、
凡庸な騎士団員などとは比べものにならない。
“報い”だの“呪い”だの、
そんな不確かなものに怯えるほど愚かではない。
罪の意識などという幻想に価値はない。
魔法の世界は、強き者の理によって支配される。
だからこそ、自分はその頂に立つべき存在なのだ。
――そうだ、これは正義ではない。必然だ。
己に言い聞かせるように、レギュラスはサインを続けた。
ペン先の動きはもう震えていない。
しかし、胸の奥ではまだ何かがうごめいている。
冷たく、重く、形を持たない何かが、静かに。
外の窓から、白々とした朝の光が差し込む。
机の上の報告書を照らし、
その一番上の紙が風にめくられた。
――報告書第278号:切り裂き呪文の軌跡分析、継続中。
レギュラスは無表情のまま、それを閉じた。
「……勝手に踊っていればいい。」
吐き捨てるように呟き、
また次の報告書に手を伸ばす。
ペンの先から流れるインクの音だけが、
やけに静かな執務室に響き続けていた。
騎士団の執務室には、重い沈黙が満ちていた。
昼をとうに過ぎているというのに、窓の外の光は鈍く濁って見えた。
壁際には書類の山が積まれ、机の上では羽根ペンの動きが止まっている。
誰もが言葉を失い、深く息を吐くだけだった。
孤児院襲撃の調査は続いている――
だが、成果と呼べるものは何一つなかった。
報告書に並ぶのは、虚無に近い文ばかりだ。
「残留魔力反応、極めて微弱」「闇の気配は確認できず」「証拠能力、低し」。
ページをめくるたび、敗北をなぞるような記録ばかりが並んでいる。
シリウスは、苛立ちを隠しもせず拳を机に叩きつけた。
乾いた音が響く。
「くそう……! アイツを野放しにはしておけねぇ!」
声が部屋の空気を裂くようだった。
それでも誰も反論しない。
皆、同じ思いを抱えているからだ。
「それは同感だ。」
ジェームズが静かに応じる。
手にした書類を閉じ、深く椅子に背を預けた。
額にかかる髪を払いながら、灰色の瞳に冷たい光を宿す。
――レギュラス・ブラック。
彼を追い込むには、あまりにも材料が足りなかった。
現場に残された切り裂き呪文の痕跡、それが唯一の手がかり。
だが、それが誰の杖から放たれたものなのか、
辿る術など最初から存在しない。
闇の陣営に属する魔法使いたちは、
魔法省に登録されていない“影の杖”を使っている。
本来、杖には所有者の魔力の軌跡が刻まれる。
だが登録外の杖は、魔法省の追跡呪文の網をすり抜ける。
レギュラス・ブラックほどの男であれば、その抜け道を知らぬはずがない。
表向きの杖を提出しながら、裏で別の杖を操っているに違いなかった。
それ以外の痕跡――
焦げ跡の破片、微細な魔力反応、血痕に混じる呪文の残滓。
どれも闇の魔法使いたちを断定するには弱すぎた。
報告書に並ぶそれらは、ただ無力さを象徴しているようだった。
沈黙の中で、シリウスが再び声を発した。
「俺の弟は、いつだって綺麗に逃げやがる。証拠も、痕跡も、全部消してな。」
その声には怒りだけでなく、どこか寂しさのような響きがあった。
血の繋がりがあるゆえにこそ、憎悪はより深く、苦しみはより鋭い。
ジェームズは彼の横顔を見つめ、静かに目を細めた。
「……それでも、放ってはおけない。」
シリウスは頷く。
「当然だ。」
けれど、ジェームズの胸の内にはもう一つの影があった。
レギュラスだけではない。
―― アラン・ブラック。
あの女の存在が、事態をいっそう複雑にしている。
かつて封印の魔を司り、ヴォルデモートの核に触れた女。
今はレギュラスの妻として、彼の隣にいる。
愛という名の鎖に縛られ、闇と光の狭間で揺れている。
彼女がこのまま生きている限り、
封印は決して解けない。
闇の王を討つ道も閉ざされたままだ。
騎士団にとって、彼女の存在は“希望”であると同時に、
“最大の障壁”でもあった。
ジェームズは無言のまま、机の上の書類を一枚めくる。
墨の香りがかすかに立ちのぼる。
そこに記された「切り裂き呪文」という文字が、
まるで呪いのように目に焼きついた。
彼は低く呟いた。
「……摘み取らなければならない芽が、もうひとつある。」
誰もその意味を問わなかった。
シリウスだけが眉をひそめ、
何かを言いかけて、唇を噛みしめた。
重い沈黙が、再び部屋を満たす。
外では雨が降り出していた。
濡れた窓ガラスを叩く音が、
騎士団の無力を嘲笑うかのように響いていた。
魔法省の地下にある分析室――そこはいつも冷たい静寂に包まれていた。
ジェームズ・ポッターは、長机の上に置かれたガラス瓶を見つめていた。
瓶の中には、淡く光を放つ花びらが浮かんでいる。
それはシリウスが屋敷から持ち帰ったもの―― アラン・ブラックが「封印の魔法」で作った、枯れない花束の一部だった。
花束の魔力反応を解析する夜
「……これが、彼女の魔力か。」
ジェームズは低く呟いた。
淡い翠の光が、瓶の内側でゆらゆらと揺れている。
優しく、どこか哀しい光。
それは生の象徴のようでもあり、同時に呪いのような持続を孕んでいた。
魔力感応石を手に取ると、ジェームズは瓶の口にかざす。
石が淡く脈動し、魔力の波長が浮かび上がった。
――緑、そして金。
特徴的な魔力の層。間違いない、アラン・セシール=ブラック本人のものだった。
彼女が施した封印魔法は「永続型」。
生み出した者の命が続く限り、魔法もまた呼吸を続ける。
つまりこの光が輝きを保つ限り、アランが生きていることの証でもある。
ジェームズは舌の裏で呟いた。
「……なら、逆にこの光を利用できる。」
ジェームズが構築しようとしているのは、かつて戦時中に封印された禁術だった。
“幻影魔力模倣(ミメティック・アウラ)”
特定の魔力波を解析し、それを他の魔力体に重ねて“幻の存在”を作り出す術。
本来は追跡や防御のために使われていたが、
その応用次第で――“罪”を偽装することもできた。
アランの魔力を写し取った魔晶を、
無人の人形の核に埋め込み、
彼女の波長を宿らせる。
「君の優しさを、武器にするなんて皮肉なものだな。」
ジェームズの声は低く、どこか掠れていた。
彼もまた、迷っていた。
だが、これしかなかった。
闇の陣営を崩すには、アランを神聖視しているレギュラスの心を砕くこと。
そのために、彼女を“利用する”しかなかった。
魔力模倣体は数日後、騎士団の魔法室で起動された。
アランの魔力を模した幻影が、まるで彼女本人のように温かな気配を放っている。
その反応をあえて魔法省外の結界外に漏らした。
微弱な信号――それをレギュラスが感じ取らぬはずがない。
「魔力感知範囲に入れば、あの男は動く。」
ジェームズはそう呟き、瞳に冷たい光を宿す。
アランの魔力が現れたと知れば、
レギュラスは必ず“何者かが彼女を狙っている”と勘づき、動くだろう。
その時こそ、彼の動きを監視し、
確実な証拠を掴むことができる。
だが、この作戦の本質はそれだけではなかった。
ジェームズはもうひとつの目的を秘めていた。
―― アラン・ブラックを孤立させること。
魔法省の記録上、彼女の魔力が“事件現場付近で検出された”と報告されれば、
誰がどう見ても容疑者は彼女になる。
闇の封印を守るための存在として、
彼女自身を“危険人物”として追い詰めることができる。
「お前を守りたい」と言ったシリウスの願いとは真逆に、
ジェームズは冷たく計算していた。
レギュラスを倒すには、アランを――その心臓を――撃ち抜くしかないのだ。
夜、魔力模倣体が発する微弱な光が森の中で揺れた。
その波長は、アラン・セシール=ブラックのものと完全に一致している。
それを感じ取ったレギュラスは、すぐに動いた。
闇の中を駆け抜けながら、彼の中にあるのはただ一つ――
「アランが危険に晒されている」という確信。
それこそがジェームズの狙いだった。
騎士団が張り巡らせた追跡呪文が、レギュラスの動きを正確に捉えていく。
魔法の残滓が空に散るたび、ジェームズは胸の奥で小さく呟いた。
「赦してくれ。……でもこれで、君たちの終わりだ。
朝霧の中、模倣体は静かに崩れ落ち、
アランの魔力を模した光が消えていく。
その光は、まるで本物の彼女が泣いているように淡く滲んでいた。
ジェームズは立ち尽くしたまま、拳を握りしめる。
「君の花が、彼を堕とす。」
そう呟いた声は、まるで呪文のように震えていた。
取調室に通される瞬間――
アランの背筋を、ひやりとした感覚が這い上がった。
ドアがゆっくりと閉じる音が、まるで地下牢の鉄扉が閉ざされる音のように聞こえた。
そこは魔法省の中でも特に冷えた空気の漂う部屋だった。
灰色の壁。
魔力を吸収する黒い石床。
四方を囲むように立つ数名の魔法省役人。
光は天井からわずかに降り注ぐだけで、そのせいか影はひどく濃く落ちていた。
アランの喉がひくりと鳴る。
声を出せない自分は、ただ深く息を吸い、震えを押し殺すしかなかった。
魔力抑制のために置かれた金属台の冷たさが、指先から骨の奥へ染みていく。
囲まれる形で椅子に座らされたその状況は、
かつて闇の帝王の地下牢で経験したあの“囲まれる恐怖”を思い出させた。
封印の術を強制された日々。
理不尽な暴力。
吐息のような脅し。
腕を掴まれた痛み。
血の匂い。
どす黒い声で名前を呼ばれるたび、心が削れ、砕かれていったあの時間。
そのすべてが、
この狭い取調室の空気と重なってしまう。
冷や汗が背中をつたう。
――怖い。
――また踏みにじられる。
――また囲まれて、奪われる。
体が小さく震えた、その時。
「緊張しないでほしいんだ」
柔らかく、光を孕んだ声が落ちてきた。
「僕はリーマス・ルーピン。今日は僕が対応させてもらうよ」
アランが顔を上げると、灰茶の髪をした青年が静かに微笑んでいた。
他の誰とも違う、刺々しさの一欠片も持たない、穏やかな光のような目。
彼は周囲の役人に軽く手を挙げてから、
まるで“敵じゃないよ”と示すように、ゆっくりと歩いてきた。
一切、急な動きをしない。
彼女が怯えないよう、過去を刺激しないように配慮された歩みだった。
アランの前に立つと、リーマスはそっと片手を差し出してきた。
指先まで力を入れず、ただ“触れても大丈夫だよ”と言うような優しい形。
「大丈夫。君を傷つけるために来たわけじゃないからね」
その声は、
闇の底に落ち続ける心に差し込む光だった。
それでも恐怖は消えなかった。
手を伸ばせば、また誰かに捕まれるかもしれない。
また、無理に引きずられて、閉ざされたどこかへ連れて行かれるかもしれない。
躊躇で指先が震える。
それでも。
彼の眼差しに、どこか“安全”の温度があった。
恐る恐る伸ばした手を、リーマスの掌が包む。
ひどく、静かだった。
優しく、柔らかかった。
握られているのに、決して強くない。
逃がそうと思えばいつでも逃がしてくれる手だとわかった。
アランの呼吸がわずかに整っていく。
「少しずつでいい。ゆっくりでいい。
僕は君と敵ではないし、君に怒っているわけでもない。
ただ、話を聞きに来ただけなんだ」
言葉が届くごとに、胸の奥の凍りついた部分が少しずつ融けていく。
リーマスは彼女の手を離すタイミングすら慎重に見計らっていた。
アランは小さく頷いた。
言葉はなくても、その頷きははっきりと“信頼の入り口”だった。
リーマスは椅子を彼女の正面ではなく、
あえて“斜め”に置いた。
真正面から向き合えば追い詰めてしまうと理解していたからだろう。
「ここでは安全だよ。
君が話せることだけを、教えてほしい」
アランは胸を押しつぶしそうな鼓動に耐えながら、
震える指で杖を握りしめた。
リーマスの微笑みは、静かに彼女の恐怖をほどいていく。
まるで、
長い闇の中で初めて灯った、小さな灯火のように。
灰色の壁に囲まれた取調室で、
リーマス・ルーピンは深く静かに息を吐いた。
――これは、やはり無茶だ。
ジェームズの強引すぎる捏造、そしてブラック家への強制的な捜査協力要請。
それ自体は“レギュラス・ブラックを炙り出す”ための策として理解はできる。
だが、結果として拘束されたのはアラン・ブラックだった。
あの女を、ここへ連れてくる必要が本当にあったのか。
暴かれるべきはレギュラスの罪であり、
彼女ではないはずなのに。
リーマスはアランを見つめる。
部屋の空気全体が、彼女の怯えに呼応して揺れているようだった。
彼女は椅子の端で細く息をしていた。
魔力を吸収する石の板に置かれた両手は、小さく、震えている。
それでも逃げようとはせず、ただ恐怖に耐えている。
――ヴォルデモートの監視下で生きてきたんだ。
――地下牢で、何度も脅され、踏みつけられてきたんだ。
ジェームズはそう語っていた。
そして今、その“過去”が彼女の内側で暴れ出しているのが、表情から痛いほど伝わる。
リーマスは胸の奥がじくりと痛んだ。
彼女と目が合う。
その瞬間、息を呑んだ。
翡翠の瞳――
まるで研磨し尽くされた宝石のように澄んでいるのに、どこか影を宿している。
伝承に語られる“封印の魔法”を受け継ぐセシール家の血。
永劫を閉ざす術の根源。
どこか神秘めいた美しさが、確かに彼女にはあった。
ジェームズが危惧していた理由が、
シリウスが私情を挟むほどに惹かれた理由が、
よくわかった。
アランは静かに、ただ怯えた小さな生き物のように座っている。
けれど、その瞳には底無しの深さと繊細な光が宿っていた。
「……緊張させてしまってごめんね」
リーマスはできるだけ柔らかい声で言い、
敵意がないと伝えるために表情を和らげる。
アランは小さく頷く。
その頷きさえ、怯えを振り払うための勇気の塊のようだった。
「子供は……今、何ヶ月くらいなんだろう?
あまり目立たないみたいだね」
リーマスはあえて明るく、軽い口調で話す。
彼女を傷つけないために、ひどい話題は避ける。
この部屋では魔力が制限されているため、
アランは杖を振ることができない。
そのため簡素な羽ペンと紙を使って、震える手で文字を書く。
――五ヶ月です。
筆跡が揺れている。
緊張のせいか、心の動揺か。
読めるけれど、そのひと文字ひと文字が痛々しく感じられた。
リーマスはゆっくり微笑む。
「五ヶ月か……おめでとう。
……大事な時期だよね。ここまで来るの、大変だったでしょ?」
アランは小さく首を振ったあと、
迷ったように紙にまたペン先を落とす。
そして、そっと書く。
――レギュラスが、支えてくれています。
その文字を見た瞬間、
リーマスは少し驚いた。
レギュラス・ブラック。
ホグワーツ時代、彼と監督生の仕事をしたことがある。
冷たく、完璧で、何もかもを一歩引いた場所から見ているような少年だった。
人を寄せつけず、淡々と職務をこなすタイプ。
「僕には……彼が、そんなふうに“誰かを支える”姿が想像できないな。
クールで冷たい男ってイメージが強くてね」
冗談めかして笑いながら言う。
少しでも空気を柔らかくしようとして。
アランはほんの少しだけ、表情を緩ませた。
筆先を紙に滑らせる。
――彼は、とても優しいです。
震えながらも、
その文字はどこか誇らしげに見えた。
リーマスの胸の奥が、静かに動いた。
――ああ、この子は。
――本当に彼を愛しているんだ。
そして、恐怖に震えていても、
彼を庇おうとする意思がある。
それが、どれほどの強さか。
どれほどの重さか。
リーマスには、わかってしまった。
だからこそ……
ジェームズのやり方はあまりに乱暴だと、あらためて思う。
「ありがとう、教えてくれて」
リーマスはそっと彼女の言葉を受け取るように言った。
冷たい取調室の空気の中、
アランの書いた“優しい”という文字だけが、
温かい光のように感じられた。
薄い石壁に囲まれ、魔力を抑える呪文が静かに空気を締めつけている。
その冷えた取調室の空気を、リーマス・ルーピンはできるかぎり和らげようと、ゆっくりと穏やかな声を出した。
「……さて。少しだけ、聞いてほしい話があるんだ。
もちろん、怖がらなくていい。君を責めたいわけじゃないからね」
アランは姿勢を正すでもなく、かといって身を縮めるでもなく、
ただ静かにリーマスを見ていた。
頷いたのは、ほんの小さな動きだった。
けれどその小ささの奥に、深い緊張と、覚悟のようなものが見えた。
リーマスは柔らかく微笑むと、
机の上の羽ペンの位置を整えるふりをして、
わざと動作に“余裕”と“日常感”を混ぜた。
――これ以上、追い詰めたくない。
それが本心だった。
「そういえばさ。
妊娠中って、食べられるものが変わったりするらしいね。
何か最近よく食べるものとか、ある?」
突然の話題転換にアランは瞬きを数度繰り返し、
ようやく――少し困ったように微笑んだ。
羽ペンが紙の上を震えるように滑る。
――最近は、果物が食べやすいです。
「果物か。いいね。ヴィタミンは赤ちゃんにもいいから」
小さく頷くアラン。
その頷きの柔らかさを見ると、
この子は“日常”の話題で少しだけ呼吸が深くなるのだ、とリーマスは理解した。
ゆっくりと、本題に近づいていく。
「……ところでね、アラン」
やわらかい声のまま、
けれど瞳は少しだけ真剣さを帯びる。
「彼が――ここ最近、マグル界に行ったことを、君に話したりはしたのかな?」
その瞬間、アランの肩がわずかに震えた。
瞳が揺れる。
リーマスは急がない。
追い詰めない。
焦らせない。
“今の反応”それ自体が重要なのだ。
アランはしばらく迷ったあと、
羽ペンを取る。
――彼はあまり話さないです。
文字が細く、頼りなく震えている。
リーマスは深く頷いた。
「……そうだよね。
やっぱり、そんな気はしていたんだ」
そして、ほんの少しだけ懐かしそうに笑う。
「監督生だった頃もね、彼は任務を私生活に持ち込まないタイプだった。
冷静で、誇り高くて……
誰よりも“自分の領域”を守る男だったよ」
アランは手を止め、
静かにリーマスを見つめた。
その瞳――翡翠の色が、
彼女がいまどれほど“揺れている”のかを物語っていた。
リーマスは続ける。
「君が悪いわけじゃない。
彼が、何を話すか、どこまで話すかは……ずっと彼自身の問題だ。
君に隠そうとしているんじゃない。
彼の性格なんだよ」
アランの瞳が、ほのかに潤む。
紙の上に、静かにペンが落ちる。
――わたしは、知りたいです。
――彼が、何に苦しんでいるのか。
震える文字だった。
リーマスの胸の奥に痛みが走る。
彼女は追及したいのではない。
責めたいのでもない。
ただ、愛する人の背負うものを共にしたいだけだ。
それなのに、彼女は閉ざされた扉の外に置かれたままだ。
リーマスはゆっくり息を吸った。
「アラン……君は、強いね」
アランは首を横に振る。
強くなんてないと訴えるように。
だが、リーマスにはわかっていた。
この小さな身体のどこに、こんなにも深い愛の力があるのか――と。
そして彼は、静かに机の上の書類に目を落とす。
“聞かなければならない質問”は、この後に待っていた。
だが、目の前の少女の揺れる瞳を見ると、
どうしても急いでその扉を開ける気にはなれなかった。
「大丈夫。ゆっくりでいいから」
ただそれだけを、
アランに向けてそっと告げるのが精いっぱいだった。
石壁に魔力抑制の符が淡く光る静かな取調室。
リーマスは——彼自身が望まぬ形で——ゆっくりと核心へと歩を進めるしかなかった。
ジェームズから求められた“質問項目”が頭の隅に刺さり続けている。
けれど、アランの怯えた瞳を見るたびに、胸の奥が痛んだ。
……どうか、この子を壊さずに辿りつけますように
そんな祈りに似た願いを抱えながら、彼は穏やかな声で問いを投げた。
「アラン……ひとつだけ、確認させてほしいんだ」
アランの手が膝の上でぎゅっと握られる。
呼吸が浅くなるのが、遠目にもわかった。
「最近……彼は夜、家を空けることが増えたんじゃないかな?」
アランは揺れた。
明らかに、心が音を立てた。
だがすぐに、彼女は羽ペンを持ち直し、必死に“平静”を装った筆致で書く。
――はい。でも、魔法省のお仕事です。
リーマスはゆっくり頷く。
「そうか……確かに、彼は仕事熱心だ」
その言い方はやさしいが、瞳だけはアランを見つめていた。
真実を探る者の、静かな眼差し。
「……じゃあ、もうひとつ。
マグル界で……“何か”を探しているような素振りを見せたことは?」
空気が凍った。
アランの肩が震える。
瞳に迷いが浮かび、喉元が上下する。
言いたくない、でも嘘をつくのも苦しい——そんな葛藤が一瞬で読み取れた。
やがて、アランは羽ペンをゆっくり紙に運ぶ。
――いえ。何も……聞いていません。
その“聞いていない”という文字は、
書いている途中で線が震え、
“守ろうとする意志”と“怖れ”が滲み出ていた。
完全に——レギュラスを庇っている。
リーマスは嘘だと気づいた。
プロではなくとも分かる。
アランは嘘をつくのが致命的に下手だった。
しかし。
……守るために嘘をついている
それが痛いほど分かった。
リーマスはひとつ息を吸い込み、声を柔らかくする。
「アラン、ありがとう。
答えてくれて……本当に、ありがとう」
アランは驚いたように顔を上げた。
叱責も追及も予想していたのだろう。
けれど返ってきたのは、まるで慈しむような声音。
リーマスはゆっくり続ける。
「君は……彼を信じてるんだね。
どんな時でも。
彼が何を背負っていても、何を隠していても……ただ信じてる」
アランの瞳が揺れ、深く頷く。
涙が溢れそうなほど。
その姿があまりにも純粋で、
リーマスは胸が締め付けられる。
どうして……こんな子を、利用しようとするんだ、ジェームズ
心の奥で静かに怒りが燃えた。
だが口にするのは、優しい言葉だった。
「……大丈夫。
君が言いたくないことは、言わなくていい。
ここにいるあいだ、君を傷つけるつもりはないよ」
アランは小さく目を見開き、
まるで“救われた”ように微笑んだ。
――彼を守るために嘘をついた少女。
その嘘を、リーマスは追及しない。
追及したくなかった。
アランは、静かに震えながら羽ペンを再び握る。
――彼を……信じています。
筆跡は弱々しいのに、
その言葉は、どんな魔法よりも強かった。
リーマスはその文字を見つめ、
胸の奥でただひとつの思いを抱いた。
……君みたいな子を巻き込むなんて、誰が正義だと言えるんだ
取調室の空気は静かだった。
けれど、その静けさの中で
“少女が愛する男のために嘘をついた”という事実だけが、
深く、深く、響き続けていた。
