1章
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冷たい風が、ホグワーツの塔の尖端を吹き抜けていった。
騎士団の集会室には緊張が張りつめ、炎が揺らめく暖炉の光だけが壁を淡く照らしていた。
外の世界はまだ静かだ。
だが――その静寂こそが、不気味だった。
シリウスは机に両手をつき、短く息を吐いた。
「……レギュラスたちが、動いている。
ニワトコの杖を探してる。おそらく、ヴォルデモートの命令だ。」
部屋の空気が一変する。
ウィザードたちの視線が一斉にシリウスへと向いた。
ダンブルドアの青い瞳が、眼鏡の奥で静かに光る。
「……レギュラスが、か。」
呟くように言ったその声には、失望でも怒りでもなく、
まるで長い冬を見つめる老人の静けさがあった。
「はい。闇の帝王が探している“伝説の杖”は、本当に存在する。
あいつら、グリンデルバルトの遺跡まで探ってる。」
シリウスは拳を握りしめた。
兄の名を口にするたびに、胸の奥で何かが焼けるように痛んだ。
「……ならば、備えねばなりませんね。」とマクゴナガルが言う。
ダンブルドアはゆっくりと頷いた。
「ヴォルデモートが動く前に、我々が先に動こう。」
その夜、ダンブルドアは杖の忠誠を偽装するための策を練った。
表向きの“決闘”――それも、形式上のもの。
騎士団の前でダンブルドアがジェームズ・ポッターに敗北したように見せ、
杖の忠誠を一時的に“移す”ことで、闇の手から逃がそうとしたのだ。
決闘は短く終わった。
閃光と魔力の風が吹き荒れ、形式上の勝敗がついた瞬間、
ニワトコの杖はジェームズの手へと渡された。
……はずだった。
その夜、ホグワーツの一室。
ジェームズは杖を手に、試すように振ってみた。
しかし――杖は沈黙していた。
「……おかしい。」
ジェームズが眉を寄せる。
「なにがだ?」とシリウスが聞く。
「杖が……僕の魔力に反応しないんだ。
まるで……黙り込んでるみたいだ。」
もう一度、力を込めて杖を振る。
だが、光は生まれない。
魔力の流れは確かにあるのに、杖がそれを拒むようだった。
空気がぴたりと止まる。
「……どういうことだ、ジェームズ。」
シリウスの声は低く、緊張を孕んでいた。
ジェームズは苦々しい顔で首を振る。
「杖が……僕を“選んでない”。
まるで、僕じゃない誰かを主と認めてるような……そんな感じなんだ。」
部屋の奥から、杖を見つめていたダンブルドアが静かに歩み寄る。
青い瞳に、深い憂いが宿っていた。
「……偽装されたのじゃろうな。」
その言葉が落ちると同時に、部屋の空気がざわめいた。
「偽装? 杖の忠誠を……?」とリーマス。
ダンブルドアは頷いた。
「古(いにしえ)の禁術じゃ。
血の儀式によって、杖の忠誠を強制的に欺くことができる。
しかし、それには――多くの“犠牲”が必要となる。
杖が主を偽ってでも従うほどの血の代償が。」
その言葉の“血”という一語が、
部屋中をひやりとした沈黙で満たした。
「そんな……じゃあ、奴らは……」
リーマスの言葉が途切れる。
想像しただけで、背筋が冷たくなった。
シリウスがゆっくりと立ち上がる。
「……あいつら、本当にやったのか。」
声が震えていた。
兄が――あのレギュラスが――
そんな儀式に手を染めるはずがない。
そう信じたかった。
だが、その顔が脳裏に浮かんだ瞬間、
否定の言葉は喉の奥で溶けて消えた。
ダンブルドアは重く息を吐いた。
「もし、それが真であるならば……
ヴォルデモートは、すでに“杖の主”となっておる。」
その場にいた全員が、言葉を失った。
騎士団の中に、絶望が広がっていく。
明かりを落とした部屋の中、炎のはぜる音だけが聞こえた。
ジェームズは黙って、手の中の杖を見つめていた。
その杖は、何も語らなかった。
まるで、遠く離れた主の手の中で微笑んでいるかのように――
ひっそりと、冷たく沈黙を保っていた。
床に伏せた瞬間、世界が遠のいた。
硬い石畳の冷たさが背を伝い、膨らんだ腹の奥から鋭い痛みがせり上がる。
キリキリと、糸をねじ切るような痛み。
息を吸うたびに、体の奥が軋んだ。
レギュラス……
名を呼ぼうとしても声にならない。
喉が詰まり、空気だけが漏れていく。
彼の背中がまだ目の奥に焼きついていた。
焦りを滲ませた表情。
今まで一度も見せたことのない顔。
あんな顔を、させたいわけじゃなかったのに。
ただ、知りたかっただけだった。
彼の焦りの理由を。
けれど結果的に、彼をさらに追い詰めてしまった。
……ああ、自分は、なんて愚かなんだろう。
言葉にならない思考が、胸の中で何度も繰り返される。
地下の鎖から救い出してくれたあの日から、
自分はただ守られてばかりだ。
愛されて、支えられて、それに甘えて。
その恩に報いるどころか、彼の心を乱すことしかできない。
自分が、許せない……
指先が震えた。
腹を抱えながら、なんとか体を起こそうとするが、
視界がぐらぐらと揺れて、世界が歪む。
ちょうどその時、廊下を通りかかった使用人が悲鳴を上げた。
「奥様! 奥様、どうなさいましたか!」
アランは何も答えられなかった。
唇を開いても、息しか出ない。
苦しげに胸を押さえる彼女の顔を見て、使用人はすぐに駆け寄る。
「しっかりなさってください! 今すぐ医務魔女を呼びます!」
温かい手が肩を支えてくれる。
けれど、その手の優しさの中で、アランは痛感していた。
――自分は何も伝えられない。
レギュラスなら、目を合わせるだけで分かってくれた。
声がなくても、表情が乏しくても、
彼だけは、わずかな仕草から心を読み取ってくれた。
でも、彼以外の誰も、自分の中を覗くことはできない。
彼がいなければ、生きていけない……
胸の奥でその言葉が響いた瞬間、涙がこぼれた。
間もなく医務魔女が駆けつける。
静かな呪文の音が部屋に満ち、
魔力の光が腹の上を淡く照らす。
「胎児の魔力が少し不安定です。すぐに安静を。」
医務魔女の低い声が、使用人たちの間を伝わっていく。
そしてしばらくして、ヴァルブルガが勢いよく扉を開けた。
黒いドレスの裾が床を払うように揺れる。
「何事ですの? 腹の子に何かあったらどうするつもりです?」
その声は、鋭く、冷たい刃のようだった。
アランは布団の中で小さく体を縮めた。
ヴァルブルガの声が、寝室の壁に反響する。
叱責の一言一言が、胸の奥に突き刺さっていく。
(ごめんなさい……)
言葉にならない謝罪が、喉の奥で震える。
それでも声にできない。
だからただ、両手で腹を抱きしめ、
そこに宿る命を守るように、静かに息をした。
その小さな呼吸の音だけが、
この部屋の中で唯一、まだ生きている証のようだった。
夜の明けぬうちから、アランは気づいていた。
隣で眠るはずのレギュラスの呼吸が、どこか不規則だった。
寝返りを打つたびに、押し殺したような唸りが漏れる。
シーツを掴む指先が強張っている。
額には冷や汗が滲み、まぶたの下で瞳が激しく揺れていた。
夢を見ている。
いい夢ではない――それはすぐにわかった。
アランは寝台の上に身を起こし、そっと杖を手に取った。
魔法の光をともす代わりに、空中に文字を描く。
『レギュラス、どうしました?』
揺らめく光の言葉が、淡い月明かりの中に浮かんだ。
彼はゆっくりと目を開ける。
視線がアランを捉えたとき、その灰銀の瞳に一瞬だけ影が走った。
「……なんでもありませんよ。」
掠れるような声。
唇の端に微かな笑みを作って、
いつものように整った顔に無理やり平静を貼りつける。
「このところ、少し疲れていただけです。」
そう言って彼は首を振った。
いつもの柔らかさを保とうとしているのが痛いほどにわかる。
けれど、その微笑みの奥には、消せない痛みの色が宿っていた。
まるで、言葉にできない何かを喉の奥に押し込めているように。
アランの胸が締めつけられた。
彼が何かに苦しんでいる。
そのことだけは、はっきりと伝わってくる。
理由は教えてもらえない。
けれど、心が感じ取っていた。
レギュラスの身に、何か恐ろしいものが降りかかっている――そう確信できた。
自分の軽率な行動。
市場での出来事。
あの日の香り、シリウスの顔、そして杖という言葉。
それがすべて、彼の肩に重くのしかかっているのだ。
彼はその代償を、一人で背負っている。
アランの指が震えた。
言葉が出せない。
何をしても届かない気がして、ただ、唇を噛みしめるしかなかった。
どうしたら救えるのか。
どうしたら、この人の心の闇を少しでも軽くできるのか。
答えはどこにも見つからない。
それでも――
アランは手を伸ばした。
そっと、彼の頬に触れる。
指先が冷たい汗に濡れた。
その温度に、彼がどれほどの悪夢を見ていたかを思い知らされる。
何も言わず、ただ腕を回した。
彼の胸に額を寄せ、抱きしめる。
その瞬間、レギュラスの体がわずかに震えた。
彼もゆっくりと腕を回し返してくる。
まるで、壊れ物を扱うように、慎重に、優しく。
「……大丈夫です。」
その声は、どこか遠くから響くように弱々しかった。
「心配しないでください。あなたには、そんな顔をしていてほしくない。」
アランは首を振った。
心配せずにはいられない。
あなたが、私のすべてだから――。
けれど、口にはできなかった。
ただ、胸の奥で何度もその言葉を繰り返す。
この人の中で何が起きているのか、
どれほど深い闇に沈んでいるのか。
それを知る術はない。
それでも、せめてこの腕の中にいる間だけは、
ほんの少しでも、その痛みをやわらげられたらと思った。
アランは彼を強く抱きしめた。
どんな呪文よりも、どんな祈りよりも、
その抱擁が届くことを信じて。
騎士団本部の空気は、沈黙という名の霧に包まれていた。
誰もが今回の事件の重大さを理解している。
けれど、その核心に辿り着くための糸口は、あまりに脆く、細い。
マグル孤児院で起きた惨劇――
あれほどの数の命が、一晩にして奪われた。
それでも、信じがたいほどに「証拠」というものが存在しない。
焼け焦げた床、崩れ落ちた壁、散乱する血痕。
そこに魔力の残滓はほとんど残っていなかった。
あまりにも、完璧に消されている。
「……まるで、最初から“魔法族の犯行”だと悟られないように仕組まれていたようだな。」
リーマスが低く呟いた。
テーブルに広げられたのは、現場から回収されたわずかな資料と写真。
ジェームズがその中の一枚を手に取る。
そこには、床板を斜めにえぐるような裂傷跡が映っていた。
「血の犠牲を要する禁術であれば……刃物を使うのも筋は通る。」
そう言いながら、ジェームズは写真の一点を指先で叩く。
「だが、これは違う。――見ろ、この切れ口。魔力の痕が薄く残ってる。」
リーマスが顔をしかめた。
「“切り裂き呪文”か……?」
ジェームズは無言で頷く。
マグルの武器では到底つけられない、均一で深い傷口。
しかも、内部の損傷が表面より広範囲に及んでいる。
――魔法による切断でなければ起こり得ない現象だった。
「つまり、デスイーターの関与が濃厚ってことだな。」
シリウスの声が、怒りを押し殺した低音で響く。
「けど、どうしても決定的な証拠が出ねぇ。まるで……」
「まるで“誰か”がそれを意図的に消しているように、だろう?」とジェームズ。
二人の間に、重たい沈黙が落ちる。
レギュラス・ブラック。
その名が頭に浮かんだ瞬間、誰もが思った。
――あの男なら、やりかねない。
「どうにかして、レギュラスに調査をぶつけたいもんだね。」
ジェームズがため息混じりに言う。
「だが、あのやろう、のらりくらりと逃げやがる。」
シリウスが苛立たしげに拳を握った。
彼の弟。
かつては誰よりも真っすぐで、理知的で、
どこか少年らしい正義を信じていたはずの男。
その面影は、もうどこにもなかった。
レギュラスの徹底ぶりは異常だった。
現場に残る魔力の痕跡を“中和魔法”で消し、
さらに後消しの呪文を二重三重に重ねて痕跡そのものを改ざんする。
魔法省に提出される報告書は、
どの筆跡も公式文書に酷似しており、
魔法による照合でも“偽物”と断定できないほどの精度だった。
メディアへの操作も抜かりがない。
デイリー・プロフェット紙の編集長を個人的な“寄付”で囲い込み、
掲載される記事の見出しから文体のトーンまで監修していた。
さらに、情報提供者の証言をすべて「幻惑の呪文」で偽記憶にすり替える。
記憶を奪うのではない――“書き換える”のだ。
それにより、証人は何も疑わず、
“自分の目で見た出来事”として虚構を語ることになる。
その完璧さに、恐怖すら覚えるほどだった。
レギュラス・ブラック。
もはや彼は個人ではなく、“情報と沈黙を支配する魔法使い”だった。
「……唯一、残ったのはこれだけか。」
ジェームズが呟き、テーブルの中央に一枚の羊皮紙を置く。
そこには、“切り裂き呪文”の残滓を記録した魔力の波形が描かれている。
淡く赤く揺れるその光は、確かに“魔法使い”の痕跡を示していた。
「この証拠だけは、奪われるわけにはいかねぇ。」
シリウスの声は鋭く震えた。
「たとえ、レギュラスがどんな手を使ってもだ。」
騎士団は、この小さな証拠片を最重要機密として保護することを決めた。
保管庫の中、幾重もの結界と守護呪文に包まれたその断片だけが――
魔法界とマグル界の境界を揺るがす“真実”へと続く唯一の糸となっていた。
炎のように揺れるランプの光の下、
シリウスは静かに拳を握りしめる。
「……兄弟でも、もう容赦しねぇ。」
その言葉は低く、冷たく、
けれどどこか、痛みを含んで響いた。
ほとんどの証拠は、完全に消したはずだった。
魔力の残滓も、呪文の軌跡も、記録も、そして記憶すらも。
自分の手で、何層もの“隠匿の術式”を重ね、過去を上書きした。
だからこそ、安心していた。
あの夜の惨劇は、永遠に闇に沈む――そう信じていた。
だが今、机の上に並ぶ報告書の束が、それを否定していた。
「騎士団、切り裂き呪文の痕跡を保護」
その一文が、視界の端で赤く滲んだように見えた。
インクの匂いがやけに鼻につく。
手にしていたペンの先が、書類の上で小さく震えた。
深く息を吐く。
――まさか、この自分が。
あの夜のことを思い出す。
血の海。泣き声。
幼い手が自分のローブを掴み、離さなかった。
切り裂きの呪文が空気を裂くたびに、胸の奥で何かが軋んだ。
心臓を針で刺されるような感覚。
「吐き気」という言葉では到底足りない。
だからだ。
あの夜、ほんの一瞬、集中を乱した。
その一瞬が、こうして自分の喉元に刃を突き立てている。
レギュラスは目を閉じた。
瞼の裏には、翡翠の瞳を持つ少女が浮かぶ。
彼女の亡骸が、何度も何度も夢の中で問いかけてくる。
――“あなたは、本当に正しかったの?”
心臓が脈打つたび、鼓動が痛みに変わる。
罪悪感という毒が血に混じっているようだった。
しかし、表情には出せない。
デスイーターとして、闇の帝王に仕える身として、
感情を見せることは敗北と同義だった。
ペン先が書類をなぞる。
“調査許可”――可決。
震える指で署名を記す。
サインの一文字一文字が、まるで血で書かれているように感じた。
机の上の蝋燭が、わずかに揺らめく。
その光が、彼の横顔を照らした。
表情はいつもの静けさを保っていたが、
瞳の奥では、氷のような怒りがゆらめいていた。
――苛立ち。
それは騎士団に対してではない。
彼らがこの証拠に縋るのは当然だ。
自分だって、逆の立場なら同じことをする。
問題は、自分自身だ。
完璧であるはずの自分が、
取りこぼしをした。
揺らいだ。
“人間”としての感情に。
あの日、ほんのわずかでも情けをかけた。
その一瞬の揺らぎが、今こうして刃となって返ってきている。
胸の奥で渦を巻く焦燥と自己嫌悪。
それらを押し殺すように、レギュラスはペンを置いた。
そして深く背凭れに身を沈める。
「……仕方のないことだ。」
かすかに呟いた声が、部屋の静寂に吸い込まれた。
その声音はあまりに冷たく、
まるで自分自身を断罪する呪文のように響いた。
窓の外では、夜がまだ明けていない。
その闇の向こうで、騎士団が動き出していることを思う。
切り裂き呪文――
自分が最も誇り、そして最も憎む呪文。
それが、皮肉にも“真実”を語る唯一の証拠になっていた。
レギュラスは静かに指先を組み、
額を押さえた。
頭の奥に、鈍く痛む後悔と焦燥の波が押し寄せてくる。
――この証拠を、消さなければならない。
どんな手を使ってでも。
それが、自分に課せられた罰のように思えた。
夜の闇は、吐息ひとつすら吸い込むように静かだった。
屋敷の外には霧が立ち込め、月明かりさえ鈍く曇っている。
アランは寝室の窓辺に立っていた。冷たいガラス越しに夜風が指先を撫でていく。
その時だった――遠くの闇を裂いて、ほの白い影が近づいてくる。
箒にまたがるシリウスの姿。
あまりにも突然のことで、息が詰まった。
彼はゆっくりと窓の前に降り立ち、冷気とともに笑みを浮かべる。
けれど、その笑みの奥には焦りと、切迫した何かが滲んでいた。
「アラン。お前に話があるんだ。」
声が、ガラスを隔てて低く響く。
アランは、迷いながらも杖を取った。
――来てはいけない。
それが真っ先に浮かんだ。
『シリウス、ここに来てはダメです。』
空中に綴られた光の文字が、月光に揺れる。
アランは窓に手をかけ、閉めようとした。
だが、シリウスの手がその隙間に滑り込み、強く押し戻された。
「聞いてくれ、アラン。レギュラスは危険だ。」
その声は焦りに濡れていた。
アランの胸がきゅっと締めつけられる。
シリウスは、彼女の力ではどうすることもできないほど強引だった。
窓を押し開け、冷たい夜風とともに部屋に足を踏み入れる。
アランの心臓が早鐘を打つ。
――見つかったら、終わりだ。
レギュラスに知られたら、また彼を傷つけてしまう。
そんなこと、もう二度としたくなかった。
『シリウス、帰って。お願い。』
必死の思いで杖を振る。
だが、シリウスは動かない。
「アラン、聞くんだ。これは大事なことなんだ。」
彼の声が震える。
次の瞬間、彼はアランの肩を掴んでいた。
その手は、熱く、そして痛いほど真剣だった。
「……あいつは、マグルの子供たちを大勢殺した。ニワトコの杖を奪うためだけにだ。あいつは無慈悲な人殺しなんだ。」
――息が止まった。
言葉の意味が頭に入ってこなかった。
耳鳴りがして、世界が遠のいていく。
何を言っているのか、理解できない。
レギュラスが、子供を――?
そんなこと、あるはずがない。
アランの唇が震える。
笑みとも嗚咽ともつかぬ息が漏れる。
『そんなこと、あるわけない。』
彼は自分を救ってくれた。
あの地下の絶望から、光の中へと引き上げてくれた。
誰よりも自分を大切にしてくれた人。
これから生まれてくる子を、優しく撫でながら未来を語ってくれた人。
――その人が、人を殺す? ましてや子供を?
「アラン、信じたくないのはわかる。」
シリウスは苦しげに息を吐く。
「だが、俺がお前から“杖”の話を聞いた、その夜だ。マグルの孤児院が襲われた。……全員、死んだんだ。」
アランは、頭を振る。
違う。そんなはずない。
どうしてそんな恐ろしい話をするの。
何をこじつけてまで、彼を悪者にしようとするの。
けれど、シリウスの声は止まらない。
「ニワトコの杖を知ってるか? この魔法界で最強の杖だ。手にした者は、死をも凌駕するって言われてる。
ヴォルデモートは、その杖を探してた。……だからレギュラスも必死だったんだ。」
アランは耳を塞ぎたくなった。
その言葉を聞けば、もう戻れない気がした。
『やめて、シリウス。聞きたくない。』
必死に杖を振るい、後ずさる。
床にローブの裾が触れて、音が鳴った。
「アラン――」
シリウスの声が強くなる。
「杖の忠誠を偽装する禁術があるんだ。その術には、血が必要なんだ。……マグルの血が。」
その瞬間、アランの頭の中で何かが弾けた。
彼の疲れ切った顔、震える手、夜中に何度も悪夢にうなされる姿。
思い出のひとつひとつが、別の意味を帯びて胸を刺す。
“あの夜、彼は――”
その先を思うだけで、涙が溢れた。
喉が焼けるように痛くて、声が出せない。
震える指でただ杖を握りしめる。
『嘘……そんなはずない……』
シリウスは近づこうとするが、アランは後ろへ下がる。
涙に濡れた頬を隠すように顔を背けた。
部屋の静けさを破るのは、二人の荒い呼吸だけ。
「アラン……」
シリウスの声は、哀しみを帯びていた。
「俺はお前を守りたいんだ。真実から目を背けたままじゃ、あいつに飲み込まれる。」
だが、アランにはもうその言葉を受け止める余力はなかった。
心が裂ける音がした。
彼のことを信じたい気持ちと、
信じれば壊れてしまう現実の狭間で、息ができなくなっていく。
アランは小さく首を振った。
――これ以上、聞きたくない。
涙が頬を伝い、静かに床へと落ちた。
その雫のひとつひとつが、彼女の中の信仰と愛情を、
少しずつ溶かしていった。
シリウスは、自分の言葉が放った痛みの大きさに、
立っていられなくなりそうだった。
目の前のアランは、静かに涙を流していた。
その涙は音もなく頬をつたうのに、胸の奥では、滝のような音を立てて崩れ落ちていた。
何も言わない。ただ、杖を握りしめたまま、唇を震わせている。
その震えひとつひとつが、彼の心を突き刺した。
――何をしているんだ、俺は。
どうしてこんなことを言ったのか。
この事実を突きつけたところで、何を得たかったのか。
彼女の目を覚まさせたかった?
いや、違う。
そんな大義名分は後付けにすぎない。
本当は、自分を見てほしかったのだ。
あの男ではなく、自分を。
アランの世界を覆う“レギュラスブラックという太陽”を壊せば、
彼女の瞳に自分が映るのではないかと――
そんな幼稚で、救いようのない希望が心のどこかにあった。
「アラン……俺は……」
喉が詰まる。言葉が出ない。
何を言っても、どんな言葉を重ねても、彼女の流す涙の重みには敵わない。
「俺は、お前を守りたいんだ。」
ようやく絞り出したその言葉は、
酷く小さく、震えていた。
それでも、それだけは嘘ではなかった。
心の底からの、本心だった。
彼女の肩を掴む手に力が入る。
このまま抱き寄せてしまいたかった。
けれど、その手が触れた瞬間、アランの杖がゆっくりと動いた。
『守らなくていい。』
浮かび上がった光の文字が、震えながら消えていく。
『私を守ろうとしなくていいから、レギュラスを追い詰めないで。』
その言葉に、息が止まった。
アランの瞳が、涙で濡れたままシリウスを見ている。
悲しみも、恐れも、そして確かな意思も、そこには宿っていた。
彼女は何も知らなかったわけではない。
レギュラスが何かを背負い、罪を抱え、闇に飲み込まれていくことを、
きっと心のどこかで感じ取っていた。
それでも――
彼女はその闇ごと、彼を信じていた。
その姿が、愚かしいほどに美しかった。
壊れそうなほど脆いのに、誰よりも強かった。
「…… アラン。」
シリウスの声はかすれた。
手を伸ばしても、その距離は永遠に縮まらない気がした。
騎士団の一員として、
マグルとの平和的共存を掲げる魔法使いとして、
闇の勢力に屈しない誓いを立てた人間として――
レギュラス・ブラックの罪を見逃すわけにはいかない。
彼は子どもたちを殺した。
禁術を用いて、世界を血に染めた。
それは赦されてはならない。
けれど。
目の前で、涙を流しながら懸命に彼を庇うこの少女を見ていると、
すべての理屈が崩れ落ちていく。
世界の秩序よりも、正義よりも、
ただこの人の泣き顔を消したいと思ってしまう。
「アラン……」
声をかけようとしたが、彼女はそっと顔を伏せた。
細い肩が震えている。
その震えが、レギュラスの名を呼んでいるように思えた。
――この人は、どこまでもあの男を信じるんだな。
悔しさと、羨望と、哀しさが胸の中で絡み合う。
こんなにも彼女を想っているのに、
彼女の世界の中心に自分は存在しない。
その残酷さが、痛かった。
シリウスはゆっくりと後ずさる。
月光の中、アランの涙が宝石のように光っていた。
彼女の姿は、純粋で、儚く、そして――
どうしようもなく、美しかった。
「……わかった。もう言わない。」
その声は夜風に溶けて消える。
窓の外へと身を翻す瞬間、
シリウスはもう一度だけ彼女を見た。
その瞳には、自分では届かない光が宿っている。
愛してはいけない人を、愛している。
その現実だけが、
胸の奥に深く、鋭く刺さって抜けなかった。
騎士団の記録簿は、きっちりと整然と並んでいた。
外出許可、目的、帰還予定時刻――どれも規律正しく記され、整えられている。
だが、その中にぽっかりと空白がひとつあった。
“シリウス・ブラック”。
彼の名の記された欄には、何も書かれていない。
日付だけが、淡々と時を刻んでいる。
ジェームズ・ポッターは静かに記録簿を閉じ、息を吐いた。
ため息というよりは、諦めにも似た深い吐息だった。
「……またか。」
この男のことは、もう何年も見てきた。
子供の頃から、どこか衝動的で、感情で突っ走る癖があった。
頭は良いのに、心が先に動いてしまう。
それがシリウス・ブラックという男だった。
記録も残さず出て行った先など、考えるまでもない。
――ブラック家の屋敷。
アラン・ブラックに会いに行ったのだ。
窓の外では、薄曇りの空が灰色の光を投げている。
朝霧がまだ消え残り、ロンドンの街はぼんやりと沈黙に包まれていた。
ジェームズは椅子の背に体を預け、机に指を軽く打ちつける。
「ほんとに……どうしようもない奴だ。」
呟きは誰に向けたわけでもなかった。
だが、そこには怒りよりも哀しみに近い響きがあった。
学生時代から、彼ら兄弟はいつも周囲の視線を集めていた。
美貌と才知。どこにいても絵になる存在。
ホグワーツの廊下を歩けば、少女たちが息を呑み、
男子たちは羨望を込めて舌を巻いた。
女たちは皆、彼ら兄弟の虜になった。
そして二人もまた、その愛を軽やかに受け取り、時に弄んだ。
無邪気な笑みの裏にある傲慢さ。
若さと特権を知っている者だけが持つ危うい輝き。
あの頃、彼らはどこまでも自由で、どこまでも危険だった。
――だが今、その兄弟が、同じひとりの女に囚われている。
ジェームズは唇を歪めた。
「よりにもよって……ヴォルデモートの“封印”の核か。」
その名を呟くだけで、胸の奥がざらつく。
セシール家。
古くから禁術の“封印”を担ってきた血筋。
その力が、闇の帝王の魂の一部を封じていると知られたのは、
ほんの数年前のことだった。
彼女―― アラン ・セシール。
今は“ アラン・ブラック”。
あの少女の存在が、ヴォルデモートの不死を支える“錨”だ。
その血が絶えれば、闇の帝王の封印は解かれ、追い詰めることができる。
魔法界のため、平和のため。
犠牲として彼女を差し出すことは、論理的には正しい。
――だが。
レギュラス・ブラックがそれを許すはずがない。
そして、シリウス・ブラックも。
ジェームズは頭を押さえた。
「兄弟揃って……どうかしてる。」
アランという名を聞くたびに、二人の目が変わる。
まるで、同じ魂を見ているように。
レギュラスのあの冷たい灰色の瞳が、一瞬だけ熱を宿すのだ。
そしてシリウスは、彼女の前では少年のような柔らかさを見せる。
彼らの中で、アランはただの“女”ではない。
それが、問題を何倍にも厄介にしている。
正義よりも愛を選び、理よりも情に動かされる。
――そんな甘さが、この世界を何度も狂わせてきた。
ジェームズは机に肘をつき、指先でこめかみを押さえた。
セシール家の血を絶やせば、闇の時代は終わる。
けれど、その血を守る者たちは皆、愛という名の幻に縋っている。
そして今、
その“幻”の中心にいる女は、泣きながらも男たちを引き寄せて離さない。
彼女が悪意を持っているわけではない。
それがまた、いっそう皮肉だった。
「……全ての元凶は、あの女か。」
ジェームズはぽつりと呟いた。
そう思わずにはいられなかった。
窓の外を見やる。
空の向こうに、箒で飛ぶ黒い影がかすかに見えた気がした。
やはり、シリウスは屋敷に向かっている。
彼は止められない。止まれない。
自分の信じた女と、血で繋がった弟――
その二つの間で、彼はきっと壊れていく。
ジェームズは小さく首を振り、ため息を漏らした。
「……俺が止めなきゃ、誰が止める。」
だがその声は、誰にも届かない。
空はまだ重く曇り、
遠くで雷の気配が鳴り始めていた。
まるで、これから訪れる嵐を
静かに告げているかのようだった。
夜は深く、屋敷の灯はほとんど落とされていた。
静まり返った廊下を、かすかな足音がひとつだけ渡ってくる。
その主を、アランはすぐに感じ取った。
扉の向こうから漂う、懐かしい魔力の気配。
それを察した瞬間、彼女の胸はきゅっと締めつけられた。
長い夜だった。
待つ時間の間、何度も窓を見つめ、何度も呼吸を整えた。
シリウスの言葉が、心の奥で痛み続けている。
だが、信じたい。
――この人だけは、何があっても。
扉が開く。
灯の届かぬ暗がりの中、レギュラスが現れた。
外の冷気を纏いながらも、その灰色の瞳は柔らかく、
いつものように静謐で、優しかった。
「アラン。横になっていていいんですよ。」
穏やかな声。
その一言で、堰が切れたように涙が込み上げてくる。
何も言葉にならなかった。
おかえりなさい、と伝えるより先に、アランは立ち上がり、
レギュラスの胸へと飛び込んだ。
冷えたローブの感触。
その下から伝わる確かな鼓動。
ずっと、これを待っていた。
彼の腕がゆっくりと背中に回される。
優しく、あやすように撫でてくる。
その仕草ひとつで、どんな不安もほどけてしまいそうだった。
「どうしたんです? 不安にさせてしまいましたか?」
耳元で囁かれる声は、まるで羽音のように静かだった。
アランは小さく首を振る。
違う。そうじゃない。
不安なんて、そんな生易しいものではない。
心の奥で渦を巻いているのは――
愛であり、祈りであり、そして呪いだった。
彼が何をしたのか、もう分かってしまっている。
夜中に見た怯えた顔、
息を荒げて夢から目覚めた彼の震える背中。
そのすべてが、何かを背負った証だった。
彼の手がどれほどの血を見てきたのか、
その罪の重さを、きっと自分より彼自身が一番知っている。
それでも。
アランはその背に腕を回し、顔を埋めた。
あの地下で、絶望しかなかった世界で、
彼は光を見せてくれた。
どれほど醜い現実でも、
彼の差し出した手だけは、美しかった。
その手が、自分を引き上げてくれた。
闇の底から、痛みの淵から、
この胸の奥に“生きていい”という温もりを灯してくれた。
――忘れられるはずがない。
レギュラスの指が、彼女の髪をそっと梳く。
「泣いてますか……?」
その声が、優しく震える。
アランは答えられなかった。
ただ、彼の胸元を掴む手に力がこもる。
言葉では伝えられない。
けれど、抱きしめることでなら伝えられる気がした。
あなたを愛しています。
あなたがどんな罪に手を染めたとしても。
どんな闇を背負っていても。
たとえこの世界が、あなたを罰するとしても。
私だけは、あなたの光でありたい。
その想いが、祈りと呪いのあわいで
静かに溶けていく夜だった。
騎士団の集会室には緊張が張りつめ、炎が揺らめく暖炉の光だけが壁を淡く照らしていた。
外の世界はまだ静かだ。
だが――その静寂こそが、不気味だった。
シリウスは机に両手をつき、短く息を吐いた。
「……レギュラスたちが、動いている。
ニワトコの杖を探してる。おそらく、ヴォルデモートの命令だ。」
部屋の空気が一変する。
ウィザードたちの視線が一斉にシリウスへと向いた。
ダンブルドアの青い瞳が、眼鏡の奥で静かに光る。
「……レギュラスが、か。」
呟くように言ったその声には、失望でも怒りでもなく、
まるで長い冬を見つめる老人の静けさがあった。
「はい。闇の帝王が探している“伝説の杖”は、本当に存在する。
あいつら、グリンデルバルトの遺跡まで探ってる。」
シリウスは拳を握りしめた。
兄の名を口にするたびに、胸の奥で何かが焼けるように痛んだ。
「……ならば、備えねばなりませんね。」とマクゴナガルが言う。
ダンブルドアはゆっくりと頷いた。
「ヴォルデモートが動く前に、我々が先に動こう。」
その夜、ダンブルドアは杖の忠誠を偽装するための策を練った。
表向きの“決闘”――それも、形式上のもの。
騎士団の前でダンブルドアがジェームズ・ポッターに敗北したように見せ、
杖の忠誠を一時的に“移す”ことで、闇の手から逃がそうとしたのだ。
決闘は短く終わった。
閃光と魔力の風が吹き荒れ、形式上の勝敗がついた瞬間、
ニワトコの杖はジェームズの手へと渡された。
……はずだった。
その夜、ホグワーツの一室。
ジェームズは杖を手に、試すように振ってみた。
しかし――杖は沈黙していた。
「……おかしい。」
ジェームズが眉を寄せる。
「なにがだ?」とシリウスが聞く。
「杖が……僕の魔力に反応しないんだ。
まるで……黙り込んでるみたいだ。」
もう一度、力を込めて杖を振る。
だが、光は生まれない。
魔力の流れは確かにあるのに、杖がそれを拒むようだった。
空気がぴたりと止まる。
「……どういうことだ、ジェームズ。」
シリウスの声は低く、緊張を孕んでいた。
ジェームズは苦々しい顔で首を振る。
「杖が……僕を“選んでない”。
まるで、僕じゃない誰かを主と認めてるような……そんな感じなんだ。」
部屋の奥から、杖を見つめていたダンブルドアが静かに歩み寄る。
青い瞳に、深い憂いが宿っていた。
「……偽装されたのじゃろうな。」
その言葉が落ちると同時に、部屋の空気がざわめいた。
「偽装? 杖の忠誠を……?」とリーマス。
ダンブルドアは頷いた。
「古(いにしえ)の禁術じゃ。
血の儀式によって、杖の忠誠を強制的に欺くことができる。
しかし、それには――多くの“犠牲”が必要となる。
杖が主を偽ってでも従うほどの血の代償が。」
その言葉の“血”という一語が、
部屋中をひやりとした沈黙で満たした。
「そんな……じゃあ、奴らは……」
リーマスの言葉が途切れる。
想像しただけで、背筋が冷たくなった。
シリウスがゆっくりと立ち上がる。
「……あいつら、本当にやったのか。」
声が震えていた。
兄が――あのレギュラスが――
そんな儀式に手を染めるはずがない。
そう信じたかった。
だが、その顔が脳裏に浮かんだ瞬間、
否定の言葉は喉の奥で溶けて消えた。
ダンブルドアは重く息を吐いた。
「もし、それが真であるならば……
ヴォルデモートは、すでに“杖の主”となっておる。」
その場にいた全員が、言葉を失った。
騎士団の中に、絶望が広がっていく。
明かりを落とした部屋の中、炎のはぜる音だけが聞こえた。
ジェームズは黙って、手の中の杖を見つめていた。
その杖は、何も語らなかった。
まるで、遠く離れた主の手の中で微笑んでいるかのように――
ひっそりと、冷たく沈黙を保っていた。
床に伏せた瞬間、世界が遠のいた。
硬い石畳の冷たさが背を伝い、膨らんだ腹の奥から鋭い痛みがせり上がる。
キリキリと、糸をねじ切るような痛み。
息を吸うたびに、体の奥が軋んだ。
レギュラス……
名を呼ぼうとしても声にならない。
喉が詰まり、空気だけが漏れていく。
彼の背中がまだ目の奥に焼きついていた。
焦りを滲ませた表情。
今まで一度も見せたことのない顔。
あんな顔を、させたいわけじゃなかったのに。
ただ、知りたかっただけだった。
彼の焦りの理由を。
けれど結果的に、彼をさらに追い詰めてしまった。
……ああ、自分は、なんて愚かなんだろう。
言葉にならない思考が、胸の中で何度も繰り返される。
地下の鎖から救い出してくれたあの日から、
自分はただ守られてばかりだ。
愛されて、支えられて、それに甘えて。
その恩に報いるどころか、彼の心を乱すことしかできない。
自分が、許せない……
指先が震えた。
腹を抱えながら、なんとか体を起こそうとするが、
視界がぐらぐらと揺れて、世界が歪む。
ちょうどその時、廊下を通りかかった使用人が悲鳴を上げた。
「奥様! 奥様、どうなさいましたか!」
アランは何も答えられなかった。
唇を開いても、息しか出ない。
苦しげに胸を押さえる彼女の顔を見て、使用人はすぐに駆け寄る。
「しっかりなさってください! 今すぐ医務魔女を呼びます!」
温かい手が肩を支えてくれる。
けれど、その手の優しさの中で、アランは痛感していた。
――自分は何も伝えられない。
レギュラスなら、目を合わせるだけで分かってくれた。
声がなくても、表情が乏しくても、
彼だけは、わずかな仕草から心を読み取ってくれた。
でも、彼以外の誰も、自分の中を覗くことはできない。
彼がいなければ、生きていけない……
胸の奥でその言葉が響いた瞬間、涙がこぼれた。
間もなく医務魔女が駆けつける。
静かな呪文の音が部屋に満ち、
魔力の光が腹の上を淡く照らす。
「胎児の魔力が少し不安定です。すぐに安静を。」
医務魔女の低い声が、使用人たちの間を伝わっていく。
そしてしばらくして、ヴァルブルガが勢いよく扉を開けた。
黒いドレスの裾が床を払うように揺れる。
「何事ですの? 腹の子に何かあったらどうするつもりです?」
その声は、鋭く、冷たい刃のようだった。
アランは布団の中で小さく体を縮めた。
ヴァルブルガの声が、寝室の壁に反響する。
叱責の一言一言が、胸の奥に突き刺さっていく。
(ごめんなさい……)
言葉にならない謝罪が、喉の奥で震える。
それでも声にできない。
だからただ、両手で腹を抱きしめ、
そこに宿る命を守るように、静かに息をした。
その小さな呼吸の音だけが、
この部屋の中で唯一、まだ生きている証のようだった。
夜の明けぬうちから、アランは気づいていた。
隣で眠るはずのレギュラスの呼吸が、どこか不規則だった。
寝返りを打つたびに、押し殺したような唸りが漏れる。
シーツを掴む指先が強張っている。
額には冷や汗が滲み、まぶたの下で瞳が激しく揺れていた。
夢を見ている。
いい夢ではない――それはすぐにわかった。
アランは寝台の上に身を起こし、そっと杖を手に取った。
魔法の光をともす代わりに、空中に文字を描く。
『レギュラス、どうしました?』
揺らめく光の言葉が、淡い月明かりの中に浮かんだ。
彼はゆっくりと目を開ける。
視線がアランを捉えたとき、その灰銀の瞳に一瞬だけ影が走った。
「……なんでもありませんよ。」
掠れるような声。
唇の端に微かな笑みを作って、
いつものように整った顔に無理やり平静を貼りつける。
「このところ、少し疲れていただけです。」
そう言って彼は首を振った。
いつもの柔らかさを保とうとしているのが痛いほどにわかる。
けれど、その微笑みの奥には、消せない痛みの色が宿っていた。
まるで、言葉にできない何かを喉の奥に押し込めているように。
アランの胸が締めつけられた。
彼が何かに苦しんでいる。
そのことだけは、はっきりと伝わってくる。
理由は教えてもらえない。
けれど、心が感じ取っていた。
レギュラスの身に、何か恐ろしいものが降りかかっている――そう確信できた。
自分の軽率な行動。
市場での出来事。
あの日の香り、シリウスの顔、そして杖という言葉。
それがすべて、彼の肩に重くのしかかっているのだ。
彼はその代償を、一人で背負っている。
アランの指が震えた。
言葉が出せない。
何をしても届かない気がして、ただ、唇を噛みしめるしかなかった。
どうしたら救えるのか。
どうしたら、この人の心の闇を少しでも軽くできるのか。
答えはどこにも見つからない。
それでも――
アランは手を伸ばした。
そっと、彼の頬に触れる。
指先が冷たい汗に濡れた。
その温度に、彼がどれほどの悪夢を見ていたかを思い知らされる。
何も言わず、ただ腕を回した。
彼の胸に額を寄せ、抱きしめる。
その瞬間、レギュラスの体がわずかに震えた。
彼もゆっくりと腕を回し返してくる。
まるで、壊れ物を扱うように、慎重に、優しく。
「……大丈夫です。」
その声は、どこか遠くから響くように弱々しかった。
「心配しないでください。あなたには、そんな顔をしていてほしくない。」
アランは首を振った。
心配せずにはいられない。
あなたが、私のすべてだから――。
けれど、口にはできなかった。
ただ、胸の奥で何度もその言葉を繰り返す。
この人の中で何が起きているのか、
どれほど深い闇に沈んでいるのか。
それを知る術はない。
それでも、せめてこの腕の中にいる間だけは、
ほんの少しでも、その痛みをやわらげられたらと思った。
アランは彼を強く抱きしめた。
どんな呪文よりも、どんな祈りよりも、
その抱擁が届くことを信じて。
騎士団本部の空気は、沈黙という名の霧に包まれていた。
誰もが今回の事件の重大さを理解している。
けれど、その核心に辿り着くための糸口は、あまりに脆く、細い。
マグル孤児院で起きた惨劇――
あれほどの数の命が、一晩にして奪われた。
それでも、信じがたいほどに「証拠」というものが存在しない。
焼け焦げた床、崩れ落ちた壁、散乱する血痕。
そこに魔力の残滓はほとんど残っていなかった。
あまりにも、完璧に消されている。
「……まるで、最初から“魔法族の犯行”だと悟られないように仕組まれていたようだな。」
リーマスが低く呟いた。
テーブルに広げられたのは、現場から回収されたわずかな資料と写真。
ジェームズがその中の一枚を手に取る。
そこには、床板を斜めにえぐるような裂傷跡が映っていた。
「血の犠牲を要する禁術であれば……刃物を使うのも筋は通る。」
そう言いながら、ジェームズは写真の一点を指先で叩く。
「だが、これは違う。――見ろ、この切れ口。魔力の痕が薄く残ってる。」
リーマスが顔をしかめた。
「“切り裂き呪文”か……?」
ジェームズは無言で頷く。
マグルの武器では到底つけられない、均一で深い傷口。
しかも、内部の損傷が表面より広範囲に及んでいる。
――魔法による切断でなければ起こり得ない現象だった。
「つまり、デスイーターの関与が濃厚ってことだな。」
シリウスの声が、怒りを押し殺した低音で響く。
「けど、どうしても決定的な証拠が出ねぇ。まるで……」
「まるで“誰か”がそれを意図的に消しているように、だろう?」とジェームズ。
二人の間に、重たい沈黙が落ちる。
レギュラス・ブラック。
その名が頭に浮かんだ瞬間、誰もが思った。
――あの男なら、やりかねない。
「どうにかして、レギュラスに調査をぶつけたいもんだね。」
ジェームズがため息混じりに言う。
「だが、あのやろう、のらりくらりと逃げやがる。」
シリウスが苛立たしげに拳を握った。
彼の弟。
かつては誰よりも真っすぐで、理知的で、
どこか少年らしい正義を信じていたはずの男。
その面影は、もうどこにもなかった。
レギュラスの徹底ぶりは異常だった。
現場に残る魔力の痕跡を“中和魔法”で消し、
さらに後消しの呪文を二重三重に重ねて痕跡そのものを改ざんする。
魔法省に提出される報告書は、
どの筆跡も公式文書に酷似しており、
魔法による照合でも“偽物”と断定できないほどの精度だった。
メディアへの操作も抜かりがない。
デイリー・プロフェット紙の編集長を個人的な“寄付”で囲い込み、
掲載される記事の見出しから文体のトーンまで監修していた。
さらに、情報提供者の証言をすべて「幻惑の呪文」で偽記憶にすり替える。
記憶を奪うのではない――“書き換える”のだ。
それにより、証人は何も疑わず、
“自分の目で見た出来事”として虚構を語ることになる。
その完璧さに、恐怖すら覚えるほどだった。
レギュラス・ブラック。
もはや彼は個人ではなく、“情報と沈黙を支配する魔法使い”だった。
「……唯一、残ったのはこれだけか。」
ジェームズが呟き、テーブルの中央に一枚の羊皮紙を置く。
そこには、“切り裂き呪文”の残滓を記録した魔力の波形が描かれている。
淡く赤く揺れるその光は、確かに“魔法使い”の痕跡を示していた。
「この証拠だけは、奪われるわけにはいかねぇ。」
シリウスの声は鋭く震えた。
「たとえ、レギュラスがどんな手を使ってもだ。」
騎士団は、この小さな証拠片を最重要機密として保護することを決めた。
保管庫の中、幾重もの結界と守護呪文に包まれたその断片だけが――
魔法界とマグル界の境界を揺るがす“真実”へと続く唯一の糸となっていた。
炎のように揺れるランプの光の下、
シリウスは静かに拳を握りしめる。
「……兄弟でも、もう容赦しねぇ。」
その言葉は低く、冷たく、
けれどどこか、痛みを含んで響いた。
ほとんどの証拠は、完全に消したはずだった。
魔力の残滓も、呪文の軌跡も、記録も、そして記憶すらも。
自分の手で、何層もの“隠匿の術式”を重ね、過去を上書きした。
だからこそ、安心していた。
あの夜の惨劇は、永遠に闇に沈む――そう信じていた。
だが今、机の上に並ぶ報告書の束が、それを否定していた。
「騎士団、切り裂き呪文の痕跡を保護」
その一文が、視界の端で赤く滲んだように見えた。
インクの匂いがやけに鼻につく。
手にしていたペンの先が、書類の上で小さく震えた。
深く息を吐く。
――まさか、この自分が。
あの夜のことを思い出す。
血の海。泣き声。
幼い手が自分のローブを掴み、離さなかった。
切り裂きの呪文が空気を裂くたびに、胸の奥で何かが軋んだ。
心臓を針で刺されるような感覚。
「吐き気」という言葉では到底足りない。
だからだ。
あの夜、ほんの一瞬、集中を乱した。
その一瞬が、こうして自分の喉元に刃を突き立てている。
レギュラスは目を閉じた。
瞼の裏には、翡翠の瞳を持つ少女が浮かぶ。
彼女の亡骸が、何度も何度も夢の中で問いかけてくる。
――“あなたは、本当に正しかったの?”
心臓が脈打つたび、鼓動が痛みに変わる。
罪悪感という毒が血に混じっているようだった。
しかし、表情には出せない。
デスイーターとして、闇の帝王に仕える身として、
感情を見せることは敗北と同義だった。
ペン先が書類をなぞる。
“調査許可”――可決。
震える指で署名を記す。
サインの一文字一文字が、まるで血で書かれているように感じた。
机の上の蝋燭が、わずかに揺らめく。
その光が、彼の横顔を照らした。
表情はいつもの静けさを保っていたが、
瞳の奥では、氷のような怒りがゆらめいていた。
――苛立ち。
それは騎士団に対してではない。
彼らがこの証拠に縋るのは当然だ。
自分だって、逆の立場なら同じことをする。
問題は、自分自身だ。
完璧であるはずの自分が、
取りこぼしをした。
揺らいだ。
“人間”としての感情に。
あの日、ほんのわずかでも情けをかけた。
その一瞬の揺らぎが、今こうして刃となって返ってきている。
胸の奥で渦を巻く焦燥と自己嫌悪。
それらを押し殺すように、レギュラスはペンを置いた。
そして深く背凭れに身を沈める。
「……仕方のないことだ。」
かすかに呟いた声が、部屋の静寂に吸い込まれた。
その声音はあまりに冷たく、
まるで自分自身を断罪する呪文のように響いた。
窓の外では、夜がまだ明けていない。
その闇の向こうで、騎士団が動き出していることを思う。
切り裂き呪文――
自分が最も誇り、そして最も憎む呪文。
それが、皮肉にも“真実”を語る唯一の証拠になっていた。
レギュラスは静かに指先を組み、
額を押さえた。
頭の奥に、鈍く痛む後悔と焦燥の波が押し寄せてくる。
――この証拠を、消さなければならない。
どんな手を使ってでも。
それが、自分に課せられた罰のように思えた。
夜の闇は、吐息ひとつすら吸い込むように静かだった。
屋敷の外には霧が立ち込め、月明かりさえ鈍く曇っている。
アランは寝室の窓辺に立っていた。冷たいガラス越しに夜風が指先を撫でていく。
その時だった――遠くの闇を裂いて、ほの白い影が近づいてくる。
箒にまたがるシリウスの姿。
あまりにも突然のことで、息が詰まった。
彼はゆっくりと窓の前に降り立ち、冷気とともに笑みを浮かべる。
けれど、その笑みの奥には焦りと、切迫した何かが滲んでいた。
「アラン。お前に話があるんだ。」
声が、ガラスを隔てて低く響く。
アランは、迷いながらも杖を取った。
――来てはいけない。
それが真っ先に浮かんだ。
『シリウス、ここに来てはダメです。』
空中に綴られた光の文字が、月光に揺れる。
アランは窓に手をかけ、閉めようとした。
だが、シリウスの手がその隙間に滑り込み、強く押し戻された。
「聞いてくれ、アラン。レギュラスは危険だ。」
その声は焦りに濡れていた。
アランの胸がきゅっと締めつけられる。
シリウスは、彼女の力ではどうすることもできないほど強引だった。
窓を押し開け、冷たい夜風とともに部屋に足を踏み入れる。
アランの心臓が早鐘を打つ。
――見つかったら、終わりだ。
レギュラスに知られたら、また彼を傷つけてしまう。
そんなこと、もう二度としたくなかった。
『シリウス、帰って。お願い。』
必死の思いで杖を振る。
だが、シリウスは動かない。
「アラン、聞くんだ。これは大事なことなんだ。」
彼の声が震える。
次の瞬間、彼はアランの肩を掴んでいた。
その手は、熱く、そして痛いほど真剣だった。
「……あいつは、マグルの子供たちを大勢殺した。ニワトコの杖を奪うためだけにだ。あいつは無慈悲な人殺しなんだ。」
――息が止まった。
言葉の意味が頭に入ってこなかった。
耳鳴りがして、世界が遠のいていく。
何を言っているのか、理解できない。
レギュラスが、子供を――?
そんなこと、あるはずがない。
アランの唇が震える。
笑みとも嗚咽ともつかぬ息が漏れる。
『そんなこと、あるわけない。』
彼は自分を救ってくれた。
あの地下の絶望から、光の中へと引き上げてくれた。
誰よりも自分を大切にしてくれた人。
これから生まれてくる子を、優しく撫でながら未来を語ってくれた人。
――その人が、人を殺す? ましてや子供を?
「アラン、信じたくないのはわかる。」
シリウスは苦しげに息を吐く。
「だが、俺がお前から“杖”の話を聞いた、その夜だ。マグルの孤児院が襲われた。……全員、死んだんだ。」
アランは、頭を振る。
違う。そんなはずない。
どうしてそんな恐ろしい話をするの。
何をこじつけてまで、彼を悪者にしようとするの。
けれど、シリウスの声は止まらない。
「ニワトコの杖を知ってるか? この魔法界で最強の杖だ。手にした者は、死をも凌駕するって言われてる。
ヴォルデモートは、その杖を探してた。……だからレギュラスも必死だったんだ。」
アランは耳を塞ぎたくなった。
その言葉を聞けば、もう戻れない気がした。
『やめて、シリウス。聞きたくない。』
必死に杖を振るい、後ずさる。
床にローブの裾が触れて、音が鳴った。
「アラン――」
シリウスの声が強くなる。
「杖の忠誠を偽装する禁術があるんだ。その術には、血が必要なんだ。……マグルの血が。」
その瞬間、アランの頭の中で何かが弾けた。
彼の疲れ切った顔、震える手、夜中に何度も悪夢にうなされる姿。
思い出のひとつひとつが、別の意味を帯びて胸を刺す。
“あの夜、彼は――”
その先を思うだけで、涙が溢れた。
喉が焼けるように痛くて、声が出せない。
震える指でただ杖を握りしめる。
『嘘……そんなはずない……』
シリウスは近づこうとするが、アランは後ろへ下がる。
涙に濡れた頬を隠すように顔を背けた。
部屋の静けさを破るのは、二人の荒い呼吸だけ。
「アラン……」
シリウスの声は、哀しみを帯びていた。
「俺はお前を守りたいんだ。真実から目を背けたままじゃ、あいつに飲み込まれる。」
だが、アランにはもうその言葉を受け止める余力はなかった。
心が裂ける音がした。
彼のことを信じたい気持ちと、
信じれば壊れてしまう現実の狭間で、息ができなくなっていく。
アランは小さく首を振った。
――これ以上、聞きたくない。
涙が頬を伝い、静かに床へと落ちた。
その雫のひとつひとつが、彼女の中の信仰と愛情を、
少しずつ溶かしていった。
シリウスは、自分の言葉が放った痛みの大きさに、
立っていられなくなりそうだった。
目の前のアランは、静かに涙を流していた。
その涙は音もなく頬をつたうのに、胸の奥では、滝のような音を立てて崩れ落ちていた。
何も言わない。ただ、杖を握りしめたまま、唇を震わせている。
その震えひとつひとつが、彼の心を突き刺した。
――何をしているんだ、俺は。
どうしてこんなことを言ったのか。
この事実を突きつけたところで、何を得たかったのか。
彼女の目を覚まさせたかった?
いや、違う。
そんな大義名分は後付けにすぎない。
本当は、自分を見てほしかったのだ。
あの男ではなく、自分を。
アランの世界を覆う“レギュラスブラックという太陽”を壊せば、
彼女の瞳に自分が映るのではないかと――
そんな幼稚で、救いようのない希望が心のどこかにあった。
「アラン……俺は……」
喉が詰まる。言葉が出ない。
何を言っても、どんな言葉を重ねても、彼女の流す涙の重みには敵わない。
「俺は、お前を守りたいんだ。」
ようやく絞り出したその言葉は、
酷く小さく、震えていた。
それでも、それだけは嘘ではなかった。
心の底からの、本心だった。
彼女の肩を掴む手に力が入る。
このまま抱き寄せてしまいたかった。
けれど、その手が触れた瞬間、アランの杖がゆっくりと動いた。
『守らなくていい。』
浮かび上がった光の文字が、震えながら消えていく。
『私を守ろうとしなくていいから、レギュラスを追い詰めないで。』
その言葉に、息が止まった。
アランの瞳が、涙で濡れたままシリウスを見ている。
悲しみも、恐れも、そして確かな意思も、そこには宿っていた。
彼女は何も知らなかったわけではない。
レギュラスが何かを背負い、罪を抱え、闇に飲み込まれていくことを、
きっと心のどこかで感じ取っていた。
それでも――
彼女はその闇ごと、彼を信じていた。
その姿が、愚かしいほどに美しかった。
壊れそうなほど脆いのに、誰よりも強かった。
「…… アラン。」
シリウスの声はかすれた。
手を伸ばしても、その距離は永遠に縮まらない気がした。
騎士団の一員として、
マグルとの平和的共存を掲げる魔法使いとして、
闇の勢力に屈しない誓いを立てた人間として――
レギュラス・ブラックの罪を見逃すわけにはいかない。
彼は子どもたちを殺した。
禁術を用いて、世界を血に染めた。
それは赦されてはならない。
けれど。
目の前で、涙を流しながら懸命に彼を庇うこの少女を見ていると、
すべての理屈が崩れ落ちていく。
世界の秩序よりも、正義よりも、
ただこの人の泣き顔を消したいと思ってしまう。
「アラン……」
声をかけようとしたが、彼女はそっと顔を伏せた。
細い肩が震えている。
その震えが、レギュラスの名を呼んでいるように思えた。
――この人は、どこまでもあの男を信じるんだな。
悔しさと、羨望と、哀しさが胸の中で絡み合う。
こんなにも彼女を想っているのに、
彼女の世界の中心に自分は存在しない。
その残酷さが、痛かった。
シリウスはゆっくりと後ずさる。
月光の中、アランの涙が宝石のように光っていた。
彼女の姿は、純粋で、儚く、そして――
どうしようもなく、美しかった。
「……わかった。もう言わない。」
その声は夜風に溶けて消える。
窓の外へと身を翻す瞬間、
シリウスはもう一度だけ彼女を見た。
その瞳には、自分では届かない光が宿っている。
愛してはいけない人を、愛している。
その現実だけが、
胸の奥に深く、鋭く刺さって抜けなかった。
騎士団の記録簿は、きっちりと整然と並んでいた。
外出許可、目的、帰還予定時刻――どれも規律正しく記され、整えられている。
だが、その中にぽっかりと空白がひとつあった。
“シリウス・ブラック”。
彼の名の記された欄には、何も書かれていない。
日付だけが、淡々と時を刻んでいる。
ジェームズ・ポッターは静かに記録簿を閉じ、息を吐いた。
ため息というよりは、諦めにも似た深い吐息だった。
「……またか。」
この男のことは、もう何年も見てきた。
子供の頃から、どこか衝動的で、感情で突っ走る癖があった。
頭は良いのに、心が先に動いてしまう。
それがシリウス・ブラックという男だった。
記録も残さず出て行った先など、考えるまでもない。
――ブラック家の屋敷。
アラン・ブラックに会いに行ったのだ。
窓の外では、薄曇りの空が灰色の光を投げている。
朝霧がまだ消え残り、ロンドンの街はぼんやりと沈黙に包まれていた。
ジェームズは椅子の背に体を預け、机に指を軽く打ちつける。
「ほんとに……どうしようもない奴だ。」
呟きは誰に向けたわけでもなかった。
だが、そこには怒りよりも哀しみに近い響きがあった。
学生時代から、彼ら兄弟はいつも周囲の視線を集めていた。
美貌と才知。どこにいても絵になる存在。
ホグワーツの廊下を歩けば、少女たちが息を呑み、
男子たちは羨望を込めて舌を巻いた。
女たちは皆、彼ら兄弟の虜になった。
そして二人もまた、その愛を軽やかに受け取り、時に弄んだ。
無邪気な笑みの裏にある傲慢さ。
若さと特権を知っている者だけが持つ危うい輝き。
あの頃、彼らはどこまでも自由で、どこまでも危険だった。
――だが今、その兄弟が、同じひとりの女に囚われている。
ジェームズは唇を歪めた。
「よりにもよって……ヴォルデモートの“封印”の核か。」
その名を呟くだけで、胸の奥がざらつく。
セシール家。
古くから禁術の“封印”を担ってきた血筋。
その力が、闇の帝王の魂の一部を封じていると知られたのは、
ほんの数年前のことだった。
彼女―― アラン ・セシール。
今は“ アラン・ブラック”。
あの少女の存在が、ヴォルデモートの不死を支える“錨”だ。
その血が絶えれば、闇の帝王の封印は解かれ、追い詰めることができる。
魔法界のため、平和のため。
犠牲として彼女を差し出すことは、論理的には正しい。
――だが。
レギュラス・ブラックがそれを許すはずがない。
そして、シリウス・ブラックも。
ジェームズは頭を押さえた。
「兄弟揃って……どうかしてる。」
アランという名を聞くたびに、二人の目が変わる。
まるで、同じ魂を見ているように。
レギュラスのあの冷たい灰色の瞳が、一瞬だけ熱を宿すのだ。
そしてシリウスは、彼女の前では少年のような柔らかさを見せる。
彼らの中で、アランはただの“女”ではない。
それが、問題を何倍にも厄介にしている。
正義よりも愛を選び、理よりも情に動かされる。
――そんな甘さが、この世界を何度も狂わせてきた。
ジェームズは机に肘をつき、指先でこめかみを押さえた。
セシール家の血を絶やせば、闇の時代は終わる。
けれど、その血を守る者たちは皆、愛という名の幻に縋っている。
そして今、
その“幻”の中心にいる女は、泣きながらも男たちを引き寄せて離さない。
彼女が悪意を持っているわけではない。
それがまた、いっそう皮肉だった。
「……全ての元凶は、あの女か。」
ジェームズはぽつりと呟いた。
そう思わずにはいられなかった。
窓の外を見やる。
空の向こうに、箒で飛ぶ黒い影がかすかに見えた気がした。
やはり、シリウスは屋敷に向かっている。
彼は止められない。止まれない。
自分の信じた女と、血で繋がった弟――
その二つの間で、彼はきっと壊れていく。
ジェームズは小さく首を振り、ため息を漏らした。
「……俺が止めなきゃ、誰が止める。」
だがその声は、誰にも届かない。
空はまだ重く曇り、
遠くで雷の気配が鳴り始めていた。
まるで、これから訪れる嵐を
静かに告げているかのようだった。
夜は深く、屋敷の灯はほとんど落とされていた。
静まり返った廊下を、かすかな足音がひとつだけ渡ってくる。
その主を、アランはすぐに感じ取った。
扉の向こうから漂う、懐かしい魔力の気配。
それを察した瞬間、彼女の胸はきゅっと締めつけられた。
長い夜だった。
待つ時間の間、何度も窓を見つめ、何度も呼吸を整えた。
シリウスの言葉が、心の奥で痛み続けている。
だが、信じたい。
――この人だけは、何があっても。
扉が開く。
灯の届かぬ暗がりの中、レギュラスが現れた。
外の冷気を纏いながらも、その灰色の瞳は柔らかく、
いつものように静謐で、優しかった。
「アラン。横になっていていいんですよ。」
穏やかな声。
その一言で、堰が切れたように涙が込み上げてくる。
何も言葉にならなかった。
おかえりなさい、と伝えるより先に、アランは立ち上がり、
レギュラスの胸へと飛び込んだ。
冷えたローブの感触。
その下から伝わる確かな鼓動。
ずっと、これを待っていた。
彼の腕がゆっくりと背中に回される。
優しく、あやすように撫でてくる。
その仕草ひとつで、どんな不安もほどけてしまいそうだった。
「どうしたんです? 不安にさせてしまいましたか?」
耳元で囁かれる声は、まるで羽音のように静かだった。
アランは小さく首を振る。
違う。そうじゃない。
不安なんて、そんな生易しいものではない。
心の奥で渦を巻いているのは――
愛であり、祈りであり、そして呪いだった。
彼が何をしたのか、もう分かってしまっている。
夜中に見た怯えた顔、
息を荒げて夢から目覚めた彼の震える背中。
そのすべてが、何かを背負った証だった。
彼の手がどれほどの血を見てきたのか、
その罪の重さを、きっと自分より彼自身が一番知っている。
それでも。
アランはその背に腕を回し、顔を埋めた。
あの地下で、絶望しかなかった世界で、
彼は光を見せてくれた。
どれほど醜い現実でも、
彼の差し出した手だけは、美しかった。
その手が、自分を引き上げてくれた。
闇の底から、痛みの淵から、
この胸の奥に“生きていい”という温もりを灯してくれた。
――忘れられるはずがない。
レギュラスの指が、彼女の髪をそっと梳く。
「泣いてますか……?」
その声が、優しく震える。
アランは答えられなかった。
ただ、彼の胸元を掴む手に力がこもる。
言葉では伝えられない。
けれど、抱きしめることでなら伝えられる気がした。
あなたを愛しています。
あなたがどんな罪に手を染めたとしても。
どんな闇を背負っていても。
たとえこの世界が、あなたを罰するとしても。
私だけは、あなたの光でありたい。
その想いが、祈りと呪いのあわいで
静かに溶けていく夜だった。
