1章
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机の上にの上は、もはや紙とインクと塵に埋もれていた。
ランプの明かりが微かに揺れるたび、積み上げられた羊皮紙の山が影を作り、
それがまるで、古の魔法がまだ息をしているかのように思わせた。
レギュラス・ブラックは、半ば意地のように古文書をめくり続けていた。
目の下には深い隈が刻まれ、髪も乱れたままだ。
それでも彼は筆を止めない。
ページをめくる音と、ペン先が紙を擦る音だけが、
夜の静寂を切り裂いていた。
探しているのはただ一つ――“ニワトコの杖”。
闇の帝王が渇望する永遠の力の象徴。
それを手にする者こそが、死そのものをも従えると伝えられる杖。
レギュラスは幾百年も前の戦記を紐解き、
血統書を洗い、魔法省の禁書庫にも足を踏み入れた。
そこには死の秘宝に関する断片的な記録がいくつも残されていたが、
どれも曖昧で、実体を掴めぬままだった。
――だが、ある一文が目に留まった。
《グリンデルバルトを倒したのは、ホグワーツ校長アルバス・ダンブルドアである。
彼は“圧倒的な力”によって、世界の均衡を取り戻した。》
その“圧倒的な力”という表現。
ほとんどの歴史家がそれを単なる比喩と片づけていたが、
レギュラスの中で、何かが閃いた。
「……まさか。」
古い戦闘記録を引き寄せ、当時の魔法戦に関する報告を読み返す。
グリンデルバルトが最後に使っていた杖は、黒檀ではなく――白木。
しかも、杖芯に“セストラルの尾の毛”が使われていたという記述がある。
セストラル――死を見た者しかその姿を見られぬ、死の象徴。
そして、伝承にある“死の杖”もまた、その素材を持つと言われていた。
グリンデルバルトが持っていた杖が“死の杖”そのものであったなら、
それを打ち破ったダンブルドアが、そのまま所有権を継いだという理屈は、
整然と、冷たく合致していく。
“所有権は、力で勝った者に移る”――
古代魔法の継承の法則が、静かに脳裏に蘇る。
ダンブルドアの若き日の決闘の記録、
その後の杖職人オリバンダーの証言、
そして魔法省に封印されていた〈杖の軌跡記録〉。
全てを照らし合わせた。
一致してしまった。
あまりにも、完璧に。
白木の杖――ダンブルドアが現在も手にしているあの杖こそが、
“ニワトコの杖”に他ならなかった。
レギュラスは、椅子に深く背を預け、
長く息を吐いた。
「……やはり、あの人しかいないのか。」
安堵にも、絶望にも似た吐息。
闇の帝王の望む杖は、
いま、光の象徴たるダンブルドアの手にあった。
皮肉だと思った。
この世界は常に、光と闇が交わるところでしか動かない。
そして自分は――その境界に立たされ続ける運命なのだ。
彼はペンを取り、報告書の冒頭に一文を記した。
《所有者、アルバス・ダンブルドア。》
インクが滲み、文字がかすかに揺れる。
その黒が、まるで彼自身の良心を飲み込んでいくように見えた。
これをヴォルデモートに差し出せば、
彼の望む“永遠”が完成する。
だが同時に、世界の均衡は崩れるだろう。
レギュラスは震える手で報告書を閉じた。
蝋燭の火が小さく弾ける音がした。
――アランの穏やかな瞳が、ふと脳裏に浮かぶ。
彼女の中に宿る命の鼓動と、
自分がこれから報告しようとしている“死”の象徴。
その対比に、息が詰まった。
どちらを選ぶべきか――
彼はまだ、答えを出せずにいた。
レギュラスの胸の奥では、夜ごとに思考が渦巻いていた。
ニワトコの杖――その所有者がダンブルドアであると判明してからというもの、
一刻として心が休まることはなかった。
闇の帝王にこの情報を渡す。それは任務であり、当然の報告だ。
だが同時に、それが何を意味するかも分かっている。
ヴォルデモートとダンブルドア。
二つの巨大な力が正面からぶつかり合えば、それはもはや個人の戦いではない。
世界の均衡が、魔法界そのものが震撼する。
無数の命が失われ、どちらかの終焉で終わるはずの戦が、
どちらの勝利であれ、闇に塗り潰されるのだ。
――だからこそ、報告の時期を誤ってはならない。
それを誰に相談できるわけでもなく、
レギュラスはただひとりでその天秤を見つめ続けていた。
己の判断一つで、光と闇の均衡が傾く。
そんな責務を背負うには、まだ若すぎるとすら思った。
それでも、日々は過ぎていく。
屋敷では季節の光が少しずつ柔らかくなっていた。
大理石の床に差し込む午前の陽が、
食卓を包み、銀食器の縁をかすかに輝かせている。
アランは、いつもよりよく笑うようになっていた。
微笑が増え、表情が柔らかくなり、
時折、窓の外の風景を見つめては頬を緩ませる。
その穏やかさは、見ているこちらの心まで和らげるものだった。
だが――どこか違和感があった。
笑顔の奥に、かすかな陰が見える。
それが何なのか、言葉では言い表せない。
まるで、別の誰かの存在を胸の奥に隠しているような。
食事を終える頃、レギュラスは穏やかな声で問いかけた。
「何か……楽しいことでも、ありましたか?」
アランはハッとしたようにスプーンを止め、
小さく首を振る。
その仕草が、あまりにも慌ただしかった。
「そうですか。」
レギュラスは微笑んだ。
声の調子も柔らかく、疑念の影すら見せないように努める。
だがその瞳の奥では、
小さな棘のような違和感が静かに沈んでいた。
数日、同じようなやり取りが続いた。
食卓でも、廊下でも、寝室の灯りの下でも。
彼女は何かを隠している。
けれど、それが罪ではないことも分かっていた。
罪悪感からではなく、言葉を持たない彼女なりの“守り方”であることも。
ただ、レギュラスは知りたかった。
この何も起こらないはずの屋敷の中で、
彼女が何に心を寄せ、どんな想いを抱いているのか。
――誰かと交わした会話の余韻なのか。
――あるいは、彼女の中で新たに芽生えた小さな希望なのか。
真実を暴くためではない。
ただ、“彼女の世界”を理解したかった。
けれど、その思いがいつしか探るような癖へと変わっていく。
アランの視線が窓の外に向くたびに、
レギュラスも同じ方向を見た。
そこに何があるのか確かめたくて、
彼女の頬の動きや、まばたきの間隔にすら意味を探してしまう。
――疑いたくないのに、疑ってしまう。
愛しているからこそ、知りたくなる。
そして知るほどに、壊れるのが怖くなる。
そんな自己嫌悪が胸の奥を静かに蝕んでいった。
夜、寝台で隣に並んでいても、
アランが何を思って微笑むのかが分からない。
それが少しずつ、恐ろしくなっていく。
闇の帝王へ報告を送るべきか、
あるいはまだ時を待つべきか。
その迷いと、アランへのささやかな不安が、
レギュラスの胸の中で絡まり合ってほどけなかった。
彼は静かに目を閉じた。
眠りにつけぬまま、
アランの寝息と月光の中で、
己の選択が世界の形を変えてしまうことを――
痛いほどに、悟っていた。
石畳の通りを抜けた先に、広場いっぱいの市場が広がっていた。
陽光が赤や金に反射して眩しい。通りには屋台がぎっしり並び、香辛料の匂いが空気を熱くしている。
果実屋の棚には、濃い赤のザクロや黄緑のメロンが山のように積まれ、
切られた断面からは甘い香りが漂ってくる。
別の店では、蒸気をあげるシチュー鍋の横で、焼きたてのパンが香ばしく並び、
蜜を垂らしたドーナツがまるで宝石のように光っていた。
スパイス商の前を通ると、瓶に詰められた金粉やサフラン、
見たことのない色の胡椒が整然と並んでいて、
風が吹くたびに混ざり合った香りが鼻をくすぐる。
宝石商の軒先では、魔力を帯びたルビーや翡翠が光を放ち、
その隣では、魔法道具を扱う店主が浮遊するランプの仕組みを誇らしげに見せていた。
すべてが――新鮮だった。
幼い頃、両親に手を引かれて来た記憶は朧げで、
あのとき見た色や音の鮮やかさは遠い霞のようにしか覚えていなかった。
けれど今は、すべてが生きている。
果物の香りも、呼び込みの声も、風に揺れる旗の音も。
声が出せたなら、きっと感嘆の声を何度も漏らしていたに違いない。
シリウスは楽しそうに屋台のあいだを歩きながら、
時おり立ち止まっては面白いものを手に取ってアランに見せてくる。
「ほら、これ見てみろ。仕掛けがあるんだ」
手にしたのは、古びた木の箱。
蓋を開けると、中からふわりと光が舞い上がり、蝶の形をして宙を漂った。
アランは目を見開く。
胸の奥が跳ねた。
その光の蝶が指先に止まると、くすぐったい温かさが伝わってくる。
「こっちは、こうやって使うんだ」
シリウスは次に、奇妙な形の砂時計を逆さにした。
中の砂が上へと昇っていく。
アランの目がさらに輝く。
言葉がなくても、彼には伝わっている気がした。
胸の高鳴りも、嬉しさも、驚きも――すべて。
やがて、二人は市場の端にある小さなカフェに入った。
アンティーク調の木の椅子と、花の模様が刻まれたティーカップ。
カウンターの奥では、焙煎した豆の香りが立ちこめている。
アランは杖を取り、テーブルの上に小さく文字を浮かべる。
「こういうところ、久しぶりです。」
「レギュラスとか?」とシリウス。
彼女は頷いた。
あの日――魔法省の一階にある重厚なカフェで、
レギュラスに連れられてお茶をした。
そのときの優しい時間を思い出す。
けれど最近は、彼の帰りが遅い。
何かを探しているようだった。必死に。
「まーた飲んで帰ってきてねぇだろうな、あいつ」
シリウスの声は軽く笑っていたが、
アランは静かに首を振る。
確かに一度だけ、酒と煙草の匂いを纏って帰ってきた夜はあった。
けれど、あれは一度きりだ。
彼は忙しい。
いつも何かを追っている。
アランは杖を握り直し、空中に文字を描く。
「レギュラスは何かを探してるわ……杖って言っていたような。」
シリウスの表情が強張った。
さっきまで穏やかに笑っていた目が、一瞬で鋭く変わる。
「杖……? それって……“ニワトコの杖”か?」
アランは首を傾げる。
知らない。
杖という言葉だけを覚えている。
その杖がどれほどの力を持ち、
どんな意味を持つのか――彼女には分からなかった。
けれど、確かに胸の奥にあった。
レギュラスが追っているものを知らないということが、
こんなにも無力で、切ないことなのだと。
彼女はカップの中の紅茶を見つめた。
琥珀色の液面に、窓の外の光と、シリウスの横顔が揺れて映っていた。
彼の眼差しの奥に、何かが沈んでいる。
アランは静かに微笑み、文字を描いた。
「レギュラスが、無事でありますように。」
シリウスは何も言わずに、その言葉を見つめた。
外では風が鳴り、市場の喧騒が遠く霞んでいった。
胸の中に広がったのは、温かさとも、痛みともつかない静かな感情だった。
シリウスは執務室の灯りを落とし、窓際に立って夜の街を見下ろしていた。
濃紺の夜空に、魔法省の塔の尖端が銀色に光っている。
その光を見つめながら、彼の思考はただ一つの名に縛られていた――ニワトコの杖。
レギュラスが追っているのがそれであるなら、すべての辻褄が合う。
ヴォルデモートがグリンデルバルトを殺したのも、そのためだ。
グリンデルバルトが“死の杖”を持つと信じていたからこそ、やつはあの老人を殺した。
だが杖は手に入らなかった――なぜなら、すでに所有者は別にいたのだ。
「……ダンブルドア。」
低く名前を呟く。
グリンデルバルトを倒した唯一の魔法使い。
その勝利によって杖の所有権は彼へと移った。
このことは歴史の表には出ていないが、断片的な記録を照らし合わせれば、
容易に導ける結論だった。
そして、レギュラスブラックほどの知略を持つ男なら、
いずれこの真実にたどり着く。
その瞬間、闇の帝王が動く。
ダンブルドアとヴォルデモート――二つの極が正面衝突すれば、
それはもはや個人の戦いではなく、魔法戦争に発展するだろう。
シリウスは拳を握り締めた。
「そんなこと、絶対にさせられねぇ……」
けれど、どう阻止すればいいのか。
その答えを見つけられないまま、彼はただ苦い吐息をこぼした。
レギュラスはアランにこの真実を話すことはない。
彼女にはいつだって“安全な範囲の言葉”しか与えない。
それが彼の優しさであり、同時に支配でもあった。
騎士団としての任務――“ アラン・セシールを通じてレギュラス・ブラックの動向を探る”。
表向きには、シリウスはその任務のために彼女と会っていることになっている。
だが、アランが聞かされるレギュラスの話はいつも表面的なもので、
核心には一度も触れられていなかった。
当初、上層部はこの任務の打ち切りを決めかけていた。
「収穫なし」として。
けれど、シリウスは強く進言した――期間延長を。
その延長によって、ついに掴んだのだ。
レギュラス・ブラックが追っているのは“ニワトコの杖”。
それが判明しただけでも、任務は大成功といえる。
だが、胸の奥が晴れなかった。
窓に映る自分の影を見つめながら、シリウスは息を吐く。
この報告を上げることは、レギュラスをさらに追い詰めることになる。
ヴォルデモートとダンブルドアの衝突を防ぎたい――
それが建前のように思えてしまうほど、
今の彼の心は、別の感情でいっぱいだった。
アラン。
彼女を笑わせたいと思った。
あの静かな微笑みが、もう少し長く続いてほしいと思った。
外の世界をもっと見せてやりたい。
狭い屋敷の中で息を詰めて生きてきた彼女に、
市場の喧騒も、湖面の光も、春風の匂いも教えてやりたい。
――レギュラスだけが世界じゃない。
そう伝えたかった。
けれど、皮肉なことに、アランが笑顔で語った「彼の無事を祈る」という言葉が、
シリウスの胸を鋭く刺した。
彼女が守ろうとしているその男を、
自分は今まさに、崩していく材料を手にしている。
報告書をまとめる指が、ふと止まる。
インクの黒が、静かに滲んで広がった。
――この少女は、もし真実を知ったら、
自分をどう見るだろう。
優しい瞳が、軽蔑に変わる姿を想像して、胸が痛んだ。
それでも、止めることはできない。
もう誰も引き返せない場所まで、世界は動き出している。
彼は椅子の背に体を預け、
閉じた瞼の奥にアランの笑顔を思い浮かべた。
あの笑顔を守りたい――それがどんな矛盾を孕んでいようとも。
外では夜風が塔の尖端を揺らし、
遠くで雷が小さく鳴った。
戦の気配は、もう静かに始まっていた。
レギュラスが屋敷に戻ったのは、夜の帳がすっかり落ちたころだった。
玄関を開けた瞬間、いつもなら落ち着くはずの空気に、微かに違和感を覚える。
――香りだ。
鼻をかすめたその匂いに、足が止まった。
どこか異国めいた、刺激のあるスパイスの香り。
この屋敷には決して存在しない匂いだ。
古びた魔法書の紙の匂い、蝋燭の煙、母ヴァルブルガが好む香水。
それらとはまるで異なる、陽の当たる市場の風の匂い。
寝室の扉を開けると、アランが窓辺にいた。
レギュラスのローブを丁寧に畳んでいる。
その仕草の穏やかさに、一瞬、違和感を疑った自分を恥じそうになったが――
鼻を抜けるスパイスの香りが、やはり確信を連れてくる。
「……市場か、どこかに出ました?」
問いかける声は静かだった。
けれどアランは、まるで“なぜそんなことを聞くのですか”とでも言いたげに
わずかに首を傾げる。
その仕草が、いっそうレギュラスの胸をざわつかせた。
彼女の魔力からは、他人の痕跡が一切感じられない。
――後消し呪文。
誰かが、あるいはアラン自身が施したのだろう。
見事なほどに他者の魔力は消されている。
だが、香りまでは消せなかった。
スパイス。
胡椒とクローブ、シナモン、それにほんの少しサフランの甘い香気。
南の市場にしか漂わない独特の混じり合い。
盲点だったのだろう。
そこまで念入りに魔力を消しておきながら、
この香りだけを残してしまうあたり、爪の甘さが露呈していた。
市場に行った――ほぼ間違いない。
問題は“誰と”だ。
アランが一人で屋敷を出ることはできない。
ならば、誰かが彼女を連れ出したのだ。
その“誰か”が、頭の中でひとりの名を浮かび上がらせた瞬間、
胸の奥に熱が走る。
「アラン」
レギュラスは静かにその手を取る。
柔らかい指先が、怯えるようにわずかに震えた。
そのまま彼女をベッドへと導き、
腰を下ろさせる。
レギュラスは目の前に立ったまま、
彼女を見下ろした。
銀灰の瞳が、彼女の翡翠の瞳をまっすぐに射抜く。
沈黙が、重たく降りる。
「誰と行きました?」
低く、けれどはっきりとした声だった。
言葉は冷たく、
問いではなく、真実を告げるための命令のように響いた。
アランは小さく息を呑み、唇を動かした。
言葉にはならない。
いつもそうだ――彼女は声を持たない。
けれど、杖を動かせば伝えられるはずだった。
レギュラスは静かに自分の杖を抜くと、
その細い手にそっと握らせる。
「どうぞ」
短い一言に、無数の意味が込められていた。
“嘘をつくな”“隠すな”“すべてを話せ”。
アランはその杖を見つめ、わずかに手を震わせた。
まるで、杖の重さが恐ろしいものに変わってしまったかのように。
彼女の瞳がゆっくりとレギュラスを見上げる。
翡翠の奥が揺れていた。
恐れでも、後悔でも、あるいは愛の残滓でも――
それはもう、言葉では形にできない感情だった。
部屋には風の音ひとつもなく、
蝋燭の炎がわずかに揺れただけだった。
その小さな揺らめきが、二人の沈黙を照らすように、
どこか痛々しく、儚く光っていた。
アランの体は、まるで時が止まったように動かなかった。
レギュラスの指が彼女の手に握らせた杖の上に触れても、その細い指先は震えるだけで、一向に動く気配を見せない。
静寂の中で、蝋燭の炎がわずかに揺れ、影だけが二人の間で息をしていた。
レギュラスは深く息を吐くと、片膝をベッドの上に乗せ、ゆっくりと彼女の顔の高さに目線を合わせた。
「後消しの呪文はあなたが? よく出来ています。……ただ、南の市場にしかないスパイスの香りがわずかに漂っていましたよ。」
声は静かだった。怒号でも非難でもない。
けれど、その穏やかさこそが、アランの胸を締めつけた。
レギュラスの冷たい灰色の瞳が、まるで心の奥を覗き込むように深く光っている。
見つめ返すことができなかった。
彼の前では、どんな小さな嘘も、すぐに暴かれてしまう。
蛇に睨まれた蛙――その言葉が、まさしく自分の姿を言い当てていた。
「杖の振り方、忘れました?」
その声は冷ややかに響いた。
アランは恐る恐る杖を動かす。
魔力の光が空中に浮かび、ゆっくりと文字を描く。
――ごめんなさい。
それだけ。
それ以上の言葉は出てこなかった。
レギュラスの眉がわずかに動く。
アランは立ち上がり、すぐに一歩下がって床に膝をついた。
細い肩が小刻みに震えている。
ベッドの上には、力なく横たわった杖。
レギュラスはそれを拾い上げ、指先で軽く回すと、無言で魔法を放った。
アランの体がふわりと浮き上がり、背後の枕に押し戻されるようにして上体が起こされた。
「アラン。」
レギュラスの声は低く響いた。
視線を逸らすことを許さぬように、彼女の顎を指で持ち上げる。
翡翠の瞳が、怯えにも似た光で揺れている。
そこには“隠したい”という意志が、痛いほどに透けて見えた。
「自由には責任が伴うと、お話ししましたね。その責任を果たしましょう?」
静かに告げるその言葉の裏に、冷たい刃があった。
アランは息を詰める。
彼女の唇がかすかに震え、声にならない音が喉の奥で途切れた。
レギュラスはしばし彼女を見つめ、それからわずかに目を伏せた。
――話さないだろう。
ここまでしてもなお、沈黙を選ぶのなら。
彼は胸の奥に冷たい確信を得る。
相手はシリウス・ブラック。
その名が脳裏に浮かんだ瞬間、怒りというよりも、
何か鋭い棘が心臓を刺すような感情が走った。
嫉妬、憤り、苛立ち――それらがないわけではない。
だが今、もっとも重くのしかかっていたのは、
“何を話したのか”という一点だった。
「……まあ、いいでしょう。」
レギュラスは静かに杖を下ろす。
「問題はどう処理していくかですから。あの男と――何を話しました?」
アランが目を見開く。
恐怖と戸惑いが入り混じった瞳。
けれど、レギュラスはその答えを待たなかった。
「どんな話をしたのです。屋敷のことか。闇の帝王のことか。……それとも、僕のことですか?」
冷たく抑えた声が、部屋の空気を凍らせる。
アランは首を振る。必死に、何度も。
その動きが痛々しくて、レギュラスの胸の奥で何かが軋んだ。
「これが、今あなたの果たすべき責任です。」
彼の声は静かだが、確固たる威圧を帯びていた。
「あなたがあの男に何を告げたのか――それを、僕に話してください。」
レギュラスは知っている。
アランに話していることなど、ほんの表層にすぎない。
それでも、何気ない会話の中に潜む“断片”が、
外部に渡るだけで大きな危険を孕む。
彼女の視線、反応の間、笑みの意味――。
些細な所作の一つひとつに、情報が埋め込まれているかもしれない。
感情の嵐が心を掻き乱していた。
怒りも、悲しみも、愛しささえも、
すべてが“理性”という檻に押し込められていく。
彼は、冷たくも完璧な微笑を浮かべた。
「アラン、僕はあなたを信じたいのです。」
その言葉の奥に、誰よりも深い痛みが潜んでいることを、
アランだけは感じ取っていた。
彼女の瞳が潤み、指が震える。
けれどその涙もまた、レギュラスの鉄の意志の前では、
あまりにも無力に落ちるしかなかった。
レギュラスは部屋を静かに見回した。
重い空気の中で、アランはまだベッドの端に座ったまま、肩を震わせている。
その様子を背後に感じながら、彼はふと視線を床へ落とした。
――ローブ。
アランが今朝まで羽織っていた黒のローブの裾が、椅子の上に無造作に置かれていた。
ほんの一瞬、嫌な予感が胸をかすめる。
彼はローブを手に取り、その内側を探る。
そこには、細い杖が静かに眠っていた。
彼女に与えたもの――言葉を紡ぐための唯一の杖。
レギュラスはその杖を取り出し、指先でそっと撫でる。
魔力の残滓が淡く脈打つ。
杖は、持ち主が描いた文字を記録している。
表向きには一時的な魔力の痕跡だが、解呪すれば――刻まれた想いは読み取れる。
レギュラスは小さく呪文を唱えた。
杖の先から、薄く銀色の光が漏れる。
やがて、その光が言葉となって空中に浮かび上がった。
レギュラスは何かを探しているわ。杖って言ってたような。
その瞬間、彼の背筋に冷たいものが走った。
喉の奥で息が詰まり、視界が滲む。
それはほんの何気ない一文だった。
アランにとっては、ただの会話の一部――悪意のない素直な言葉。
だが、それをシリウス・ブラックが読んでいたとしたら。
彼はその言葉からすべてを推測できるだろう。
“杖”という単語、それだけで充分だった。
兄の聡さを、レギュラスは誰よりも知っている。
すぐに察するはずだ――ニワトコの杖のことを。
そして、その杖がダンブルドアの手にあることも。
「……まずい……」
声にならない声が喉から漏れる。
額に手を当てる。
頭を抱えたいほどの焦燥が、体の芯から滲み出してくる。
闇の帝王が求めていた“永遠の力”が、
敵の手にあると知れ渡ればどうなるか。
シリウスがそれを“守ろう”とするのか、“隠そう”とするのか。
どちらにせよ、杖の所在が移されれば――
これまで積み上げてきたすべてが水泡に帰す。
せっかく掴みかけたものを、こんなにも脆い形で失うのか。
それを思うと、胸の奥に焼けるような痛みが広がった。
杖を見つめる。
そこに浮かぶアランの筆跡は、やわらかく、どこか幼い。
無垢そのものの文字だった。
彼女には悪意など一片もない。
けれど――その無垢さこそが、今この瞬間、
最も危うい刃となって自分の立場を切り裂こうとしている。
彼はアランの方を見た。
まだ彼女は俯いたまま、動かない。
長い黒髪が肩を覆い、翡翠の瞳を隠していた。
あの瞳を、今は見たくなかった。
「…… アラン……」
呼びかけても、声は震えただけで言葉にならなかった。
本当は、聞きたいことが山ほどあった。
どうして屋敷を出たのか。
どうしてシリウスを信じたのか。
何を求めて彼のもとへ行ったのか。
けれど、そんなことを問う時間すらもう残されていない。
一刻も早く、闇の帝王に報告し、
杖の在処を変えられる前に打つ手を講じなければならない。
レギュラスは決意を固めるように息を吸い、
杖をローブの内ポケットに滑り込ませた。
そして、乱れることのない足取りで扉へ向かう。
振り返りはしなかった。
背後でアランの視線が追っているのを感じた。
だが、その翡翠の光を見る勇気は、
今の彼にはもうなかった。
重い扉が開き、音もなく閉じる。
その瞬間、部屋にはレギュラスの残り香だけが、
微かに漂っていた。
レギュラスが部屋を出ていく音がした。
扉が閉じる低い響きが、まるで世界の終わりを告げる鐘のように重く胸に落ちた。
アランは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
何が起こったのか、理解が追いつかない。
それでも、行かなくては――。
そう思った瞬間、身体が自然に動いた。
ベッドの縁に手をかけ、よろめきながら立ち上がる。
しかし一歩を踏み出した途端、
腹の奥がきゅうっと締めつけられるように痛んだ。
「……っ」
声にならない呻きが喉に引っかかる。
手が震える。
痛みは針で刺すような細い痛みから、
波のように広がって、腰のあたりまで鈍く響いた。
アランはたまらずその場にしゃがみ込んだ。
息が浅くなる。
胸の鼓動が早くなり、
心臓の音が耳の奥でがんがんと響いた。
――行かなきゃ。
このままじゃ、彼は……。
レギュラスの名前を心の中で呼んでも、
返る声はない。
扉の向こうには、もう彼の姿はなかった。
廊下に響く足音すら残っていない。
焦燥が、喉を焼くようだった。
自分が何を言った?
あのとき、シリウスに――。
市場で、カフェで。
彼は楽しそうに笑ってくれて、
アランもそれに応えたくて、
ただ思い出話のように話しただけだった。
“レギュラスは何かを探しているの。杖って言ってたような――”
それだけ。
ほんの一言。
何気ない会話の一片。
でも、その一言が彼をあんなにも焦らせるものだったというの?
わからなかった。
けれど――わからないことが、恐ろしかった。
胸の中で、冷たい恐怖が音を立てて広がっていく。
レギュラスはいつだって冷静だった。
誰よりも聡明で、どんな状況でも感情を乱すことはなかった。
どんな難題の前でも、静かに見つめ、正確に判断する。
彼の目に宿るのは常に理性で、焦りとは無縁のものだと思っていた。
なのに、さっきの彼の顔には――
確かに、焦りの色があった。
それも、ただの苛立ちではなく、
何かを恐れているような、切羽詰まった影が見えた。
そんな彼を、これまで見たことがなかった。
圧倒的に強くて、誰よりも遠く、
背中だけを追ってきた人。
どれほどの困難にも屈しない、揺るぎない存在だった。
その彼が、自分の言葉で乱れた。
――私が、壊したの?
思考が胸を締めつける。
痛みと不安が混ざり合い、
腹の奥で命の鼓動が脈打つ。
守りたいと思っていた。
彼の安寧を、彼の未来を。
それなのに――。
床に手をついたまま、アランは震える肩を押さえた。
冷たい汗がこめかみを伝い、髪の先から滴る。
呼吸を整えようとしても、
何度吸っても、空気が肺に届かない。
――怖い。
胸の奥から、呟きのような思いが零れる。
彼の焦りの意味が分からない。
自分のしたことがどれほどの波を立てたのかも、わからない。
ただひとつ分かるのは、
あの背中が今、自分の手の届かない場所へ行こうとしているということ。
窓の外では夜が深まり、
遠くで雷鳴が低く響いた。
重く垂れこめた雲の下、
屋敷の影が闇に沈んでいく。
アランは膝を抱え、
そっと腹を撫でながら、消えた扉を見つめていた。
翡翠の瞳が、微かに光を宿す。
その光は涙のせいか、それともまだ消えぬ祈りのせいか――
誰にも、わからなかった。
闇の帝王の館は、夜の闇に溶け込むように静まり返っていた。
蝋燭の火が、まるで呼吸をするように揺らめき、長い影が壁に這う。
重く閉ざされた空気の中、レギュラスは黒いローブの裾を整え、静かに跪いた。
「……杖は、ダンブルドアの手の中にあります。」
その報告に、部屋の温度が一瞬で変わった。
ヴォルデモートの紅い瞳がぎらりと光を帯びる。
彼の手に握られた蛇の杖が、低く唸りを上げたように見えた。
「……ダンブルドア、だと?」
その声は、氷のように冷たく、同時に燃え上がるような怒気を孕んでいた。
ヴォルデモートの顔がわずかに歪む。
彼のプライドをもっとも深く抉る名前――その名を聞くだけで、血が煮えたぎるのだ。
「我が杖の力を――あの老人が握っていると?」
「確証があります。」とレギュラス。
彼の声はあくまで静かで、揺るぎがなかった。
「ただし、急がねばなりません。騎士団が形式的な決闘を行い、ダンブルドアが敗れたという“形”を作り、
杖の所有者を別の者に移す恐れがあります。そうなれば、杖の忠誠は別の者へと流れ――再び行方を失うでしょう。」
ヴォルデモートはゆっくりと立ち上がり、長い指で顎を撫でた。
「……つまり、杖の心を偽装する、ということか?」
レギュラスは一歩、頭を垂れたまま前へ進む。
「はい。所有の偽装です。杖は必ずしも“死”によって主を変えるわけではありません。
しかし、儀式によって“所有の移行”を錯覚させることは可能です。
ただし、それは禁術の領域です。膨大な魔力と――血の犠牲を要します。」
「血、だと?」
「はい。杖が“真の主”と認めるに足るだけの血の量を。」
その言葉を口にした瞬間、部屋の空気がぴしりと張り詰めた。
ベラトリックスの唇が吊り上がり、狂気じみた笑みが浮かぶ。
「多くの血が必要? ならばすぐにでも集めればいいわ!」
高く甲高い声が、空間を裂く。
「それにしても――なぜもっと早く言わなかったの、レギュラス?」
彼女の瞳には、狂信にも似た忠誠が宿っていた。
レギュラスは表情を変えず、静かに答える。
「確証を得るまでに時間を要しました。
儀式の詳細は、古代の文献から断片的にしか得られなかったのです。
ですが、今ならば――成功の可能性があります。」
「禁術……」とヴォルデモートが呟いた。
その声は低く、まるで何かを味わうようだった。
「いい響きだ。」
彼はゆっくりとレギュラスの方へ歩み寄る。
黒いローブの裾が、床を滑るように動くたび、蛇のような冷気が広がる。
レギュラスは頭を下げたまま、その足音を聞いていた。
「お前は、いつも私の願いをよく理解する。……そして、よく応える。」
ヴォルデモートの声が耳元に落ちる。
「この“禁術”を試せ。血ならば惜しまぬ。どれほどの犠牲でも構わん。」
「はい……」
「ダンブルドアの手から、我が杖を奪うのだ。
杖の忠誠を、偽りでもよい――私のもとへ引き寄せよ。」
紅い瞳が、燃えるような光を宿した。
それは狂気と野望の光――そして、圧倒的な支配の色。
レギュラスは静かに頭を垂れる。
胸の内には、言葉にならない重さがあった。
血の儀式――その“血”が誰のものになるのか、もうわかっていた。
それでも背を向けることはできない。
ヴォルデモートが手を振る。
闇の中で、冷たい金属音が響いた。
「お前に任せる、レギュラス・ブラック。
お前が失敗すれば、闇の秩序もまた崩れるだろう。」
レギュラスはゆっくりと立ち上がった。
胸の奥で、心臓の鼓動が重く鳴る。
この瞬間から、すべてが引き返せなくなる――それを理解していた。
だが、アランの笑顔が、ふと脳裏をかすめた。
彼女の中にある命を、
この手で守れる未来がまだ残されていると信じたかった。
闇の館を出ると、夜気がひどく冷たかった。
遠くの空に、月が沈みかけている。
まるで世界が、静かに終わりを迎える前のように、
一切の音を潜めていた。
レギュラスはローブの襟を正し、
呟くように自分に言い聞かせる。
――終わらせるために。
この狂気の連鎖を、必ず終わらせるために。
夜は、まるで世界が息を潜めたかのように静まり返っていた。
満月を隠した薄雲の向こうで、鈍く白い光がちらつく。
冷たい風が石造りの孤児院の壁を撫で、壊れかけた窓枠を鳴らした。
その孤児院――マグルの子どもたちが暮らす場所――の地下に、黒いローブの集団が静かに集まっていた。
足元には、かつて子どもたちが遊んだであろうおもちゃの残骸が散らばり、
それが蝋燭の炎に照らされ、異様な影を壁に落としている。
レギュラスはその中心に立っていた。
足元の石畳には、血のように濃い紅で描かれた巨大な紋章――“血の契紋”が刻まれている。
幾何学的なその模様は、古代の封印文字と血脈を繋ぐ線によって構成され、
中央には一本の杖が据えられていた。
それはダンブルドアの手にある“ニワトコの杖”の写し――
血の儀式によって忠誠の糸をたぐり寄せるための、いわば 偽杖(にせつえ)
魔法的に同調したこの杖が、真の杖の意思を奪う橋渡しとなる。
ヴォルデモートはその紋章の外に立ち、
薄く笑みを浮かべながら低く呪文を唱えた。
周囲のデスイーターたちも、一斉に詠唱を重ねる。
重なり合う声が響き合い、空気が震えた。
まるで地下の石壁そのものが呻き出したかのようだった。
「血をもって、忠誠を欺け。
主の名を偽り、新たな主の名を刻め。」
レギュラスは胸の奥で鼓動が早まるのを感じた。
この術がどれほどの代償を求めるか――誰よりもよく知っていた。
杖の忠誠を奪うには、命を繋ぐ“血”の供物が要る。
しかも、純血では足りない。
魔力を持たぬ“異なる種の血”でなければ、杖は欺けない。
だから選ばれたのだ。
ここに暮らす、罪なきマグルの子どもたちが。
鉄の扉の向こうでは、怯えた泣き声が響いていた。
それを聞かぬふりをしようとした。
聞けば、心が折れる。
(……仕方がない。)
レギュラスは唇を噛んだ。
声を出せば揺らいでしまう。
目の前でデスイーターのひとりが扉を開け、
細い手を引きずるようにして小さな影を紋章の上に立たせた。
赤い光の中心、杖の前に。
子ども――十にも満たない少年だった。
金髪が汚れ、頬に涙の跡が筋を作っていた。
その無垢な瞳が、まっすぐレギュラスを見た。
「……痛いことするの?」
一瞬、呼吸が止まった。
その問いに答えられず、ただ杖を握る手に力を込めた。
罪悪感が喉を焼くように込み上げる。
だが同時に、別の声が頭の奥で囁く。
――これは報いだ。
マグルは、古代から魔法族を恐れ、迫害してきた。
彼らの血は、いつも魔法の火を消そうとしてきた。
ならば今、その血が魔法を支える供物となるのは、
“均衡”ではないか。
自分にそう言い聞かせた。
そうしなければ、立っていられなかった。
ヴォルデモートが手を上げる。
「始めよ。」
レギュラスは震える手で杖を掲げた。
杖先が淡く光を放ち、空気がねじれる。
紋章の線が血のように脈打ち始める。
「――In fide fallacia sanguinis――
(血の偽信において、忠誠を欺け)」
唱えた瞬間、紋章の中心から光が爆ぜた。
少年の身体が宙に浮き、紅の霧が弾けるように舞う。
血が紋章の線を辿り、ゆっくりと杖の方へと流れていく。
その血はただの赤ではなかった。
光と影を併せ持つように、黒紫の輝きを放ちながら杖に吸い込まれていった。
レギュラスは目を閉じた。
耳を塞いでも、鼓膜の奥に悲鳴が焼きついた。
声を殺し、表情を固め、ただ呪文の続きに集中する。
心の奥底に罪悪感が波のように押し寄せ、何度も足をすくおうとした。
違う……これは贖いだ。
この血が流れることで、アランも、腹の子も、守られる。
己に言い訳を刻むように、心の中で何度も唱えた。
それでも胸の奥は冷たく重い。
杖が光を放ち、地下室が真昼のように明るくなった。
血の儀式が終わる頃、
少年の小さな体は静かに崩れ落ち、
杖の中から、低い震える音が響いた。
それはまるで、苦しみに似た嗚咽のようでもあり、
新たな忠誠の誓いのようでもあった。
ヴォルデモートの瞳が満足げに細められる。
「……見ろ、レギュラス。
杖が応えている。」
レギュラスは静かに頷いた。
震える指先を背中で隠す。
もう、何も言葉にできなかった。
血の匂いが立ち込める地下室の中で、
彼はただひとり、深く息を吸い込んだ。
そして、自分の胸の奥で響く声を必死に押し殺した。
――赦されることは、ない。
だが、終わらせるために。
闇の中で、その決意だけが、
微かな光となって彼の心を支えていた。
蝋燭の炎がひとつ、またひとつと燃え落ちていく。
血の儀式は続いていた。
赤い紋章が地下室の床いっぱいに広がり、
幾重にも重なる呪文の詠唱が空気を震わせる。
その震動のたびに、壁に描かれた古代文字が青白く光を帯び、
生き物のように蠢いていた。
子供たちは、順番に連れ出されていった。
ひとり、またひとり。
痩せた腕を掴まれ、床に押しつけられ、
その度に小さな悲鳴が上がる。
「やだ……やだよ……お母さん、助けて……」
「帰りたい……おうち、帰る……」
耳に刺さるようなその声を、レギュラスは必死に心の奥へ押し込めた。
聞いてはならない。
その声を“言葉”として認識した瞬間、杖を握る手が止まってしまう。
だから聞かない。
聞かなければ、これはただの“儀式”でしかない。
今は……今だけは、感情を持つな。
これは必要なことだ。そうでなければ、全てが無駄になる。
そう言い聞かせながらも、手は震えていた。
杖を握る指先が、がくがくと小刻みに揺れる。
膝の奥が抜け落ちそうで、それでも立ち続ける。
吐き気にも似た罪悪感が、喉の奥に張りついて離れなかった。
ベラトリックスの笑い声が響く。
高く、甲高く、狂気そのものだった。
「ほら見て、レギュラス。
この子の血は、まるで宝石みたいに綺麗よ!」
彼女はためらいもなく子供の胸に刃を滑らせる。
ため息のような悲鳴が上がり、血がほとばしる。
その血を受け取る魔法陣の紋が再び輝きを強めた。
レギュラスは、その様を見られなかった。
視線を落とし、ただ儀式の呪文を口にし続ける。
声を出さなければ、意識が崩れてしまいそうだった。
「In fide fallacia sanguinis――
(血の偽信において、忠誠を欺け)」
ベラトリックスの動きは、まるで舞踏のように滑らかで、
その残酷さに一片の迷いもなかった。
血が流れるたびに、杖は強く脈打ち、
まるで飢えた生き物が歓喜に震えるように光を放った。
レギュラスは、呪文を唱えながら考えないようにしていた。
考えれば壊れる。
この血は、マグルのもの。
かつて魔法族を蔑み、焼き払ってきた者たちの血。
これは報いだ――そう思わなければ、自分を保てなかった。
この血が、アランを守る。この血が、子を守る。
そうだ、これは罰ではない。贖いだ。赦しだ。
だが、耳の奥に、子供たちの泣き声が焼きついて離れない。
「お父さん……」「痛いのやだ……」「なんで……?」
言葉が一つひとつ、心を削る。
理性が軋み、感情が滲み出す。
魔法陣の光が強くなるほどに、罪悪感もまた濃くなっていった。
血が石畳を染め、赤い河が流れた。
その中で杖が息をしている。
生きているように、震え、呻き、
新たな主の呼び声に応えるように黒い光を帯び始めていた。
「……見ろ、レギュラス。」
ヴォルデモートの声が響く。
「杖が従っている。お前の魔術は完璧だ。」
完璧。
その言葉ほど、胸に重く響くものはなかった。
完璧であればあるほど、この罪は鮮明になる。
それでもレギュラスは、わずかに微笑んで頭を下げた。
「光栄です、我が主。」
唇が動くたび、鉄の味がした。
噛み締めた唇の内側から、血が滲んでいた。
光が静まり、儀式が終わる頃――
地下室にはもう声はなかった。
ただ杖だけが、黒い光を脈打ちながら、
ゆっくりとその忠誠を新たな主へと移していた。
レギュラスは、静かに目を閉じた。
頬に落ちたひと雫の涙を、誰にも気づかれぬよう拭い取った。
――これは正義だ。そう信じろ。
そうでなければ、自分はもう人間でいられない。
蝋燭の火が一本、風もないのにふっと揺れた。
その瞬間、レギュラスの心臓も一緒に震えた。
血の匂いに染まりきった地下室の中、
次の供物として、ひとりの少女が連れ出されてくる。
小さな足音が石畳を叩き、鎖のように響いた。
黒髪だった。
そして――その瞳。
光を受けて翠にきらめくその双眸を見た瞬間、
レギュラスの呼吸が止まった。
翡翠の瞳。
アランと同じ色をしていた。
胸の奥がぎゅう、と掴まれたように痛い。
心臓が、まるで自分の意志を失ったかのように跳ね上がる。
「やめて……いや……こわい……!」
少女は泣き叫び、鎖を引きちぎろうともがいた。
その声が、アランの声に重なって聞こえた。
――助けて。
――やめて。
幻聴のように脳内に響く。
手の中の杖が、ずるりと滑り落ちそうになる。
違う。これはアランじゃない。アランじゃない。
必死に言い聞かせる。
そうでなければ、呪文が紡げない。
心が壊れる。
「レギュラス、手を動かしな!」
ベラトリックスの甲高い声が飛ぶ。
その言葉に、身体が条件反射のように震えた。
緩みかけた手に、再び力を込める。
杖の冷たさが、皮膚の奥にまで食い込んでいく。
ベラトリックスは楽しそうに笑っていた。
その笑みは、芸術家が自らの作品を仕上げるときのように悦に満ちている。
ゆっくりと腕を上げ、唇が軽やかに呪文を紡ぐ。
「Sectumsempra」
赤い光が少女の胸を貫いた。
空気が切り裂かれる音と共に、鮮やかな血が弧を描く。
壁に、床に、ベラトリックスの頬に。
そして、レギュラスの頬にも――。
少女は声にならない息を漏らし、崩れ落ちた。
その身体から溢れ出る血が、魔法陣の線を満たしていく。
杖が反応した。
光が弾け、ヴォルデモートの杖の先に黒い稲妻のような光が走る。
まるで、歓喜しているようだった。
――ついに、忠誠が移った。
ダンブルドアから、闇の帝王へ。
儀式は成功したのだ。
ヴォルデモートの目が細まり、唇に笑みが浮かぶ。
ベラトリックスが恍惚とした声で叫んだ。
「ご覧なさい! 杖が、主を選びましたわ!」
レギュラスの喉が焼けるように熱かった。
唇の裏を噛みしめても、震えが止まらない。
安堵と、吐き気のような自己嫌悪が胸の中でぐちゃぐちゃに絡まる。
成功した――間に合った。
騎士団より先に、我々が手を打てた。
それがどれほどの意味を持つか、わかっている。
だが、どうしても目を逸らせなかった。
倒れたまま動かない少女の身体。
血の中で、開かれたままの瞳。
翡翠のような光を失ってなお、美しい。
あの色が、アランの瞳と重なった。
息が詰まった。
喉が焼けるように痛い。
違う…… アランじゃない……
そう唱えるたびに、胸の奥が裂けていく。
杖が、まだ光を放っている。
まるで新しい主への忠誠を誇示するように、
喜びの声を上げるように。
それを見つめながら、レギュラスはそっと視線を伏せた。
吐き出した息が白く揺れる。
焼けるような鉄の匂いが鼻を刺す。
胸の奥に、どうしようもない言葉が浮かんだ。
―― アラン。君が見たら、僕を軽蔑するだろう。
そのままレギュラスは、静かに杖を握りしめた。
指の間から血が滲む。
それでも手を離せなかった。
儀式は成功した。
だが、心はもう――取り返しがつかなかった。
ランプの明かりが微かに揺れるたび、積み上げられた羊皮紙の山が影を作り、
それがまるで、古の魔法がまだ息をしているかのように思わせた。
レギュラス・ブラックは、半ば意地のように古文書をめくり続けていた。
目の下には深い隈が刻まれ、髪も乱れたままだ。
それでも彼は筆を止めない。
ページをめくる音と、ペン先が紙を擦る音だけが、
夜の静寂を切り裂いていた。
探しているのはただ一つ――“ニワトコの杖”。
闇の帝王が渇望する永遠の力の象徴。
それを手にする者こそが、死そのものをも従えると伝えられる杖。
レギュラスは幾百年も前の戦記を紐解き、
血統書を洗い、魔法省の禁書庫にも足を踏み入れた。
そこには死の秘宝に関する断片的な記録がいくつも残されていたが、
どれも曖昧で、実体を掴めぬままだった。
――だが、ある一文が目に留まった。
《グリンデルバルトを倒したのは、ホグワーツ校長アルバス・ダンブルドアである。
彼は“圧倒的な力”によって、世界の均衡を取り戻した。》
その“圧倒的な力”という表現。
ほとんどの歴史家がそれを単なる比喩と片づけていたが、
レギュラスの中で、何かが閃いた。
「……まさか。」
古い戦闘記録を引き寄せ、当時の魔法戦に関する報告を読み返す。
グリンデルバルトが最後に使っていた杖は、黒檀ではなく――白木。
しかも、杖芯に“セストラルの尾の毛”が使われていたという記述がある。
セストラル――死を見た者しかその姿を見られぬ、死の象徴。
そして、伝承にある“死の杖”もまた、その素材を持つと言われていた。
グリンデルバルトが持っていた杖が“死の杖”そのものであったなら、
それを打ち破ったダンブルドアが、そのまま所有権を継いだという理屈は、
整然と、冷たく合致していく。
“所有権は、力で勝った者に移る”――
古代魔法の継承の法則が、静かに脳裏に蘇る。
ダンブルドアの若き日の決闘の記録、
その後の杖職人オリバンダーの証言、
そして魔法省に封印されていた〈杖の軌跡記録〉。
全てを照らし合わせた。
一致してしまった。
あまりにも、完璧に。
白木の杖――ダンブルドアが現在も手にしているあの杖こそが、
“ニワトコの杖”に他ならなかった。
レギュラスは、椅子に深く背を預け、
長く息を吐いた。
「……やはり、あの人しかいないのか。」
安堵にも、絶望にも似た吐息。
闇の帝王の望む杖は、
いま、光の象徴たるダンブルドアの手にあった。
皮肉だと思った。
この世界は常に、光と闇が交わるところでしか動かない。
そして自分は――その境界に立たされ続ける運命なのだ。
彼はペンを取り、報告書の冒頭に一文を記した。
《所有者、アルバス・ダンブルドア。》
インクが滲み、文字がかすかに揺れる。
その黒が、まるで彼自身の良心を飲み込んでいくように見えた。
これをヴォルデモートに差し出せば、
彼の望む“永遠”が完成する。
だが同時に、世界の均衡は崩れるだろう。
レギュラスは震える手で報告書を閉じた。
蝋燭の火が小さく弾ける音がした。
――アランの穏やかな瞳が、ふと脳裏に浮かぶ。
彼女の中に宿る命の鼓動と、
自分がこれから報告しようとしている“死”の象徴。
その対比に、息が詰まった。
どちらを選ぶべきか――
彼はまだ、答えを出せずにいた。
レギュラスの胸の奥では、夜ごとに思考が渦巻いていた。
ニワトコの杖――その所有者がダンブルドアであると判明してからというもの、
一刻として心が休まることはなかった。
闇の帝王にこの情報を渡す。それは任務であり、当然の報告だ。
だが同時に、それが何を意味するかも分かっている。
ヴォルデモートとダンブルドア。
二つの巨大な力が正面からぶつかり合えば、それはもはや個人の戦いではない。
世界の均衡が、魔法界そのものが震撼する。
無数の命が失われ、どちらかの終焉で終わるはずの戦が、
どちらの勝利であれ、闇に塗り潰されるのだ。
――だからこそ、報告の時期を誤ってはならない。
それを誰に相談できるわけでもなく、
レギュラスはただひとりでその天秤を見つめ続けていた。
己の判断一つで、光と闇の均衡が傾く。
そんな責務を背負うには、まだ若すぎるとすら思った。
それでも、日々は過ぎていく。
屋敷では季節の光が少しずつ柔らかくなっていた。
大理石の床に差し込む午前の陽が、
食卓を包み、銀食器の縁をかすかに輝かせている。
アランは、いつもよりよく笑うようになっていた。
微笑が増え、表情が柔らかくなり、
時折、窓の外の風景を見つめては頬を緩ませる。
その穏やかさは、見ているこちらの心まで和らげるものだった。
だが――どこか違和感があった。
笑顔の奥に、かすかな陰が見える。
それが何なのか、言葉では言い表せない。
まるで、別の誰かの存在を胸の奥に隠しているような。
食事を終える頃、レギュラスは穏やかな声で問いかけた。
「何か……楽しいことでも、ありましたか?」
アランはハッとしたようにスプーンを止め、
小さく首を振る。
その仕草が、あまりにも慌ただしかった。
「そうですか。」
レギュラスは微笑んだ。
声の調子も柔らかく、疑念の影すら見せないように努める。
だがその瞳の奥では、
小さな棘のような違和感が静かに沈んでいた。
数日、同じようなやり取りが続いた。
食卓でも、廊下でも、寝室の灯りの下でも。
彼女は何かを隠している。
けれど、それが罪ではないことも分かっていた。
罪悪感からではなく、言葉を持たない彼女なりの“守り方”であることも。
ただ、レギュラスは知りたかった。
この何も起こらないはずの屋敷の中で、
彼女が何に心を寄せ、どんな想いを抱いているのか。
――誰かと交わした会話の余韻なのか。
――あるいは、彼女の中で新たに芽生えた小さな希望なのか。
真実を暴くためではない。
ただ、“彼女の世界”を理解したかった。
けれど、その思いがいつしか探るような癖へと変わっていく。
アランの視線が窓の外に向くたびに、
レギュラスも同じ方向を見た。
そこに何があるのか確かめたくて、
彼女の頬の動きや、まばたきの間隔にすら意味を探してしまう。
――疑いたくないのに、疑ってしまう。
愛しているからこそ、知りたくなる。
そして知るほどに、壊れるのが怖くなる。
そんな自己嫌悪が胸の奥を静かに蝕んでいった。
夜、寝台で隣に並んでいても、
アランが何を思って微笑むのかが分からない。
それが少しずつ、恐ろしくなっていく。
闇の帝王へ報告を送るべきか、
あるいはまだ時を待つべきか。
その迷いと、アランへのささやかな不安が、
レギュラスの胸の中で絡まり合ってほどけなかった。
彼は静かに目を閉じた。
眠りにつけぬまま、
アランの寝息と月光の中で、
己の選択が世界の形を変えてしまうことを――
痛いほどに、悟っていた。
石畳の通りを抜けた先に、広場いっぱいの市場が広がっていた。
陽光が赤や金に反射して眩しい。通りには屋台がぎっしり並び、香辛料の匂いが空気を熱くしている。
果実屋の棚には、濃い赤のザクロや黄緑のメロンが山のように積まれ、
切られた断面からは甘い香りが漂ってくる。
別の店では、蒸気をあげるシチュー鍋の横で、焼きたてのパンが香ばしく並び、
蜜を垂らしたドーナツがまるで宝石のように光っていた。
スパイス商の前を通ると、瓶に詰められた金粉やサフラン、
見たことのない色の胡椒が整然と並んでいて、
風が吹くたびに混ざり合った香りが鼻をくすぐる。
宝石商の軒先では、魔力を帯びたルビーや翡翠が光を放ち、
その隣では、魔法道具を扱う店主が浮遊するランプの仕組みを誇らしげに見せていた。
すべてが――新鮮だった。
幼い頃、両親に手を引かれて来た記憶は朧げで、
あのとき見た色や音の鮮やかさは遠い霞のようにしか覚えていなかった。
けれど今は、すべてが生きている。
果物の香りも、呼び込みの声も、風に揺れる旗の音も。
声が出せたなら、きっと感嘆の声を何度も漏らしていたに違いない。
シリウスは楽しそうに屋台のあいだを歩きながら、
時おり立ち止まっては面白いものを手に取ってアランに見せてくる。
「ほら、これ見てみろ。仕掛けがあるんだ」
手にしたのは、古びた木の箱。
蓋を開けると、中からふわりと光が舞い上がり、蝶の形をして宙を漂った。
アランは目を見開く。
胸の奥が跳ねた。
その光の蝶が指先に止まると、くすぐったい温かさが伝わってくる。
「こっちは、こうやって使うんだ」
シリウスは次に、奇妙な形の砂時計を逆さにした。
中の砂が上へと昇っていく。
アランの目がさらに輝く。
言葉がなくても、彼には伝わっている気がした。
胸の高鳴りも、嬉しさも、驚きも――すべて。
やがて、二人は市場の端にある小さなカフェに入った。
アンティーク調の木の椅子と、花の模様が刻まれたティーカップ。
カウンターの奥では、焙煎した豆の香りが立ちこめている。
アランは杖を取り、テーブルの上に小さく文字を浮かべる。
「こういうところ、久しぶりです。」
「レギュラスとか?」とシリウス。
彼女は頷いた。
あの日――魔法省の一階にある重厚なカフェで、
レギュラスに連れられてお茶をした。
そのときの優しい時間を思い出す。
けれど最近は、彼の帰りが遅い。
何かを探しているようだった。必死に。
「まーた飲んで帰ってきてねぇだろうな、あいつ」
シリウスの声は軽く笑っていたが、
アランは静かに首を振る。
確かに一度だけ、酒と煙草の匂いを纏って帰ってきた夜はあった。
けれど、あれは一度きりだ。
彼は忙しい。
いつも何かを追っている。
アランは杖を握り直し、空中に文字を描く。
「レギュラスは何かを探してるわ……杖って言っていたような。」
シリウスの表情が強張った。
さっきまで穏やかに笑っていた目が、一瞬で鋭く変わる。
「杖……? それって……“ニワトコの杖”か?」
アランは首を傾げる。
知らない。
杖という言葉だけを覚えている。
その杖がどれほどの力を持ち、
どんな意味を持つのか――彼女には分からなかった。
けれど、確かに胸の奥にあった。
レギュラスが追っているものを知らないということが、
こんなにも無力で、切ないことなのだと。
彼女はカップの中の紅茶を見つめた。
琥珀色の液面に、窓の外の光と、シリウスの横顔が揺れて映っていた。
彼の眼差しの奥に、何かが沈んでいる。
アランは静かに微笑み、文字を描いた。
「レギュラスが、無事でありますように。」
シリウスは何も言わずに、その言葉を見つめた。
外では風が鳴り、市場の喧騒が遠く霞んでいった。
胸の中に広がったのは、温かさとも、痛みともつかない静かな感情だった。
シリウスは執務室の灯りを落とし、窓際に立って夜の街を見下ろしていた。
濃紺の夜空に、魔法省の塔の尖端が銀色に光っている。
その光を見つめながら、彼の思考はただ一つの名に縛られていた――ニワトコの杖。
レギュラスが追っているのがそれであるなら、すべての辻褄が合う。
ヴォルデモートがグリンデルバルトを殺したのも、そのためだ。
グリンデルバルトが“死の杖”を持つと信じていたからこそ、やつはあの老人を殺した。
だが杖は手に入らなかった――なぜなら、すでに所有者は別にいたのだ。
「……ダンブルドア。」
低く名前を呟く。
グリンデルバルトを倒した唯一の魔法使い。
その勝利によって杖の所有権は彼へと移った。
このことは歴史の表には出ていないが、断片的な記録を照らし合わせれば、
容易に導ける結論だった。
そして、レギュラスブラックほどの知略を持つ男なら、
いずれこの真実にたどり着く。
その瞬間、闇の帝王が動く。
ダンブルドアとヴォルデモート――二つの極が正面衝突すれば、
それはもはや個人の戦いではなく、魔法戦争に発展するだろう。
シリウスは拳を握り締めた。
「そんなこと、絶対にさせられねぇ……」
けれど、どう阻止すればいいのか。
その答えを見つけられないまま、彼はただ苦い吐息をこぼした。
レギュラスはアランにこの真実を話すことはない。
彼女にはいつだって“安全な範囲の言葉”しか与えない。
それが彼の優しさであり、同時に支配でもあった。
騎士団としての任務――“ アラン・セシールを通じてレギュラス・ブラックの動向を探る”。
表向きには、シリウスはその任務のために彼女と会っていることになっている。
だが、アランが聞かされるレギュラスの話はいつも表面的なもので、
核心には一度も触れられていなかった。
当初、上層部はこの任務の打ち切りを決めかけていた。
「収穫なし」として。
けれど、シリウスは強く進言した――期間延長を。
その延長によって、ついに掴んだのだ。
レギュラス・ブラックが追っているのは“ニワトコの杖”。
それが判明しただけでも、任務は大成功といえる。
だが、胸の奥が晴れなかった。
窓に映る自分の影を見つめながら、シリウスは息を吐く。
この報告を上げることは、レギュラスをさらに追い詰めることになる。
ヴォルデモートとダンブルドアの衝突を防ぎたい――
それが建前のように思えてしまうほど、
今の彼の心は、別の感情でいっぱいだった。
アラン。
彼女を笑わせたいと思った。
あの静かな微笑みが、もう少し長く続いてほしいと思った。
外の世界をもっと見せてやりたい。
狭い屋敷の中で息を詰めて生きてきた彼女に、
市場の喧騒も、湖面の光も、春風の匂いも教えてやりたい。
――レギュラスだけが世界じゃない。
そう伝えたかった。
けれど、皮肉なことに、アランが笑顔で語った「彼の無事を祈る」という言葉が、
シリウスの胸を鋭く刺した。
彼女が守ろうとしているその男を、
自分は今まさに、崩していく材料を手にしている。
報告書をまとめる指が、ふと止まる。
インクの黒が、静かに滲んで広がった。
――この少女は、もし真実を知ったら、
自分をどう見るだろう。
優しい瞳が、軽蔑に変わる姿を想像して、胸が痛んだ。
それでも、止めることはできない。
もう誰も引き返せない場所まで、世界は動き出している。
彼は椅子の背に体を預け、
閉じた瞼の奥にアランの笑顔を思い浮かべた。
あの笑顔を守りたい――それがどんな矛盾を孕んでいようとも。
外では夜風が塔の尖端を揺らし、
遠くで雷が小さく鳴った。
戦の気配は、もう静かに始まっていた。
レギュラスが屋敷に戻ったのは、夜の帳がすっかり落ちたころだった。
玄関を開けた瞬間、いつもなら落ち着くはずの空気に、微かに違和感を覚える。
――香りだ。
鼻をかすめたその匂いに、足が止まった。
どこか異国めいた、刺激のあるスパイスの香り。
この屋敷には決して存在しない匂いだ。
古びた魔法書の紙の匂い、蝋燭の煙、母ヴァルブルガが好む香水。
それらとはまるで異なる、陽の当たる市場の風の匂い。
寝室の扉を開けると、アランが窓辺にいた。
レギュラスのローブを丁寧に畳んでいる。
その仕草の穏やかさに、一瞬、違和感を疑った自分を恥じそうになったが――
鼻を抜けるスパイスの香りが、やはり確信を連れてくる。
「……市場か、どこかに出ました?」
問いかける声は静かだった。
けれどアランは、まるで“なぜそんなことを聞くのですか”とでも言いたげに
わずかに首を傾げる。
その仕草が、いっそうレギュラスの胸をざわつかせた。
彼女の魔力からは、他人の痕跡が一切感じられない。
――後消し呪文。
誰かが、あるいはアラン自身が施したのだろう。
見事なほどに他者の魔力は消されている。
だが、香りまでは消せなかった。
スパイス。
胡椒とクローブ、シナモン、それにほんの少しサフランの甘い香気。
南の市場にしか漂わない独特の混じり合い。
盲点だったのだろう。
そこまで念入りに魔力を消しておきながら、
この香りだけを残してしまうあたり、爪の甘さが露呈していた。
市場に行った――ほぼ間違いない。
問題は“誰と”だ。
アランが一人で屋敷を出ることはできない。
ならば、誰かが彼女を連れ出したのだ。
その“誰か”が、頭の中でひとりの名を浮かび上がらせた瞬間、
胸の奥に熱が走る。
「アラン」
レギュラスは静かにその手を取る。
柔らかい指先が、怯えるようにわずかに震えた。
そのまま彼女をベッドへと導き、
腰を下ろさせる。
レギュラスは目の前に立ったまま、
彼女を見下ろした。
銀灰の瞳が、彼女の翡翠の瞳をまっすぐに射抜く。
沈黙が、重たく降りる。
「誰と行きました?」
低く、けれどはっきりとした声だった。
言葉は冷たく、
問いではなく、真実を告げるための命令のように響いた。
アランは小さく息を呑み、唇を動かした。
言葉にはならない。
いつもそうだ――彼女は声を持たない。
けれど、杖を動かせば伝えられるはずだった。
レギュラスは静かに自分の杖を抜くと、
その細い手にそっと握らせる。
「どうぞ」
短い一言に、無数の意味が込められていた。
“嘘をつくな”“隠すな”“すべてを話せ”。
アランはその杖を見つめ、わずかに手を震わせた。
まるで、杖の重さが恐ろしいものに変わってしまったかのように。
彼女の瞳がゆっくりとレギュラスを見上げる。
翡翠の奥が揺れていた。
恐れでも、後悔でも、あるいは愛の残滓でも――
それはもう、言葉では形にできない感情だった。
部屋には風の音ひとつもなく、
蝋燭の炎がわずかに揺れただけだった。
その小さな揺らめきが、二人の沈黙を照らすように、
どこか痛々しく、儚く光っていた。
アランの体は、まるで時が止まったように動かなかった。
レギュラスの指が彼女の手に握らせた杖の上に触れても、その細い指先は震えるだけで、一向に動く気配を見せない。
静寂の中で、蝋燭の炎がわずかに揺れ、影だけが二人の間で息をしていた。
レギュラスは深く息を吐くと、片膝をベッドの上に乗せ、ゆっくりと彼女の顔の高さに目線を合わせた。
「後消しの呪文はあなたが? よく出来ています。……ただ、南の市場にしかないスパイスの香りがわずかに漂っていましたよ。」
声は静かだった。怒号でも非難でもない。
けれど、その穏やかさこそが、アランの胸を締めつけた。
レギュラスの冷たい灰色の瞳が、まるで心の奥を覗き込むように深く光っている。
見つめ返すことができなかった。
彼の前では、どんな小さな嘘も、すぐに暴かれてしまう。
蛇に睨まれた蛙――その言葉が、まさしく自分の姿を言い当てていた。
「杖の振り方、忘れました?」
その声は冷ややかに響いた。
アランは恐る恐る杖を動かす。
魔力の光が空中に浮かび、ゆっくりと文字を描く。
――ごめんなさい。
それだけ。
それ以上の言葉は出てこなかった。
レギュラスの眉がわずかに動く。
アランは立ち上がり、すぐに一歩下がって床に膝をついた。
細い肩が小刻みに震えている。
ベッドの上には、力なく横たわった杖。
レギュラスはそれを拾い上げ、指先で軽く回すと、無言で魔法を放った。
アランの体がふわりと浮き上がり、背後の枕に押し戻されるようにして上体が起こされた。
「アラン。」
レギュラスの声は低く響いた。
視線を逸らすことを許さぬように、彼女の顎を指で持ち上げる。
翡翠の瞳が、怯えにも似た光で揺れている。
そこには“隠したい”という意志が、痛いほどに透けて見えた。
「自由には責任が伴うと、お話ししましたね。その責任を果たしましょう?」
静かに告げるその言葉の裏に、冷たい刃があった。
アランは息を詰める。
彼女の唇がかすかに震え、声にならない音が喉の奥で途切れた。
レギュラスはしばし彼女を見つめ、それからわずかに目を伏せた。
――話さないだろう。
ここまでしてもなお、沈黙を選ぶのなら。
彼は胸の奥に冷たい確信を得る。
相手はシリウス・ブラック。
その名が脳裏に浮かんだ瞬間、怒りというよりも、
何か鋭い棘が心臓を刺すような感情が走った。
嫉妬、憤り、苛立ち――それらがないわけではない。
だが今、もっとも重くのしかかっていたのは、
“何を話したのか”という一点だった。
「……まあ、いいでしょう。」
レギュラスは静かに杖を下ろす。
「問題はどう処理していくかですから。あの男と――何を話しました?」
アランが目を見開く。
恐怖と戸惑いが入り混じった瞳。
けれど、レギュラスはその答えを待たなかった。
「どんな話をしたのです。屋敷のことか。闇の帝王のことか。……それとも、僕のことですか?」
冷たく抑えた声が、部屋の空気を凍らせる。
アランは首を振る。必死に、何度も。
その動きが痛々しくて、レギュラスの胸の奥で何かが軋んだ。
「これが、今あなたの果たすべき責任です。」
彼の声は静かだが、確固たる威圧を帯びていた。
「あなたがあの男に何を告げたのか――それを、僕に話してください。」
レギュラスは知っている。
アランに話していることなど、ほんの表層にすぎない。
それでも、何気ない会話の中に潜む“断片”が、
外部に渡るだけで大きな危険を孕む。
彼女の視線、反応の間、笑みの意味――。
些細な所作の一つひとつに、情報が埋め込まれているかもしれない。
感情の嵐が心を掻き乱していた。
怒りも、悲しみも、愛しささえも、
すべてが“理性”という檻に押し込められていく。
彼は、冷たくも完璧な微笑を浮かべた。
「アラン、僕はあなたを信じたいのです。」
その言葉の奥に、誰よりも深い痛みが潜んでいることを、
アランだけは感じ取っていた。
彼女の瞳が潤み、指が震える。
けれどその涙もまた、レギュラスの鉄の意志の前では、
あまりにも無力に落ちるしかなかった。
レギュラスは部屋を静かに見回した。
重い空気の中で、アランはまだベッドの端に座ったまま、肩を震わせている。
その様子を背後に感じながら、彼はふと視線を床へ落とした。
――ローブ。
アランが今朝まで羽織っていた黒のローブの裾が、椅子の上に無造作に置かれていた。
ほんの一瞬、嫌な予感が胸をかすめる。
彼はローブを手に取り、その内側を探る。
そこには、細い杖が静かに眠っていた。
彼女に与えたもの――言葉を紡ぐための唯一の杖。
レギュラスはその杖を取り出し、指先でそっと撫でる。
魔力の残滓が淡く脈打つ。
杖は、持ち主が描いた文字を記録している。
表向きには一時的な魔力の痕跡だが、解呪すれば――刻まれた想いは読み取れる。
レギュラスは小さく呪文を唱えた。
杖の先から、薄く銀色の光が漏れる。
やがて、その光が言葉となって空中に浮かび上がった。
レギュラスは何かを探しているわ。杖って言ってたような。
その瞬間、彼の背筋に冷たいものが走った。
喉の奥で息が詰まり、視界が滲む。
それはほんの何気ない一文だった。
アランにとっては、ただの会話の一部――悪意のない素直な言葉。
だが、それをシリウス・ブラックが読んでいたとしたら。
彼はその言葉からすべてを推測できるだろう。
“杖”という単語、それだけで充分だった。
兄の聡さを、レギュラスは誰よりも知っている。
すぐに察するはずだ――ニワトコの杖のことを。
そして、その杖がダンブルドアの手にあることも。
「……まずい……」
声にならない声が喉から漏れる。
額に手を当てる。
頭を抱えたいほどの焦燥が、体の芯から滲み出してくる。
闇の帝王が求めていた“永遠の力”が、
敵の手にあると知れ渡ればどうなるか。
シリウスがそれを“守ろう”とするのか、“隠そう”とするのか。
どちらにせよ、杖の所在が移されれば――
これまで積み上げてきたすべてが水泡に帰す。
せっかく掴みかけたものを、こんなにも脆い形で失うのか。
それを思うと、胸の奥に焼けるような痛みが広がった。
杖を見つめる。
そこに浮かぶアランの筆跡は、やわらかく、どこか幼い。
無垢そのものの文字だった。
彼女には悪意など一片もない。
けれど――その無垢さこそが、今この瞬間、
最も危うい刃となって自分の立場を切り裂こうとしている。
彼はアランの方を見た。
まだ彼女は俯いたまま、動かない。
長い黒髪が肩を覆い、翡翠の瞳を隠していた。
あの瞳を、今は見たくなかった。
「…… アラン……」
呼びかけても、声は震えただけで言葉にならなかった。
本当は、聞きたいことが山ほどあった。
どうして屋敷を出たのか。
どうしてシリウスを信じたのか。
何を求めて彼のもとへ行ったのか。
けれど、そんなことを問う時間すらもう残されていない。
一刻も早く、闇の帝王に報告し、
杖の在処を変えられる前に打つ手を講じなければならない。
レギュラスは決意を固めるように息を吸い、
杖をローブの内ポケットに滑り込ませた。
そして、乱れることのない足取りで扉へ向かう。
振り返りはしなかった。
背後でアランの視線が追っているのを感じた。
だが、その翡翠の光を見る勇気は、
今の彼にはもうなかった。
重い扉が開き、音もなく閉じる。
その瞬間、部屋にはレギュラスの残り香だけが、
微かに漂っていた。
レギュラスが部屋を出ていく音がした。
扉が閉じる低い響きが、まるで世界の終わりを告げる鐘のように重く胸に落ちた。
アランは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
何が起こったのか、理解が追いつかない。
それでも、行かなくては――。
そう思った瞬間、身体が自然に動いた。
ベッドの縁に手をかけ、よろめきながら立ち上がる。
しかし一歩を踏み出した途端、
腹の奥がきゅうっと締めつけられるように痛んだ。
「……っ」
声にならない呻きが喉に引っかかる。
手が震える。
痛みは針で刺すような細い痛みから、
波のように広がって、腰のあたりまで鈍く響いた。
アランはたまらずその場にしゃがみ込んだ。
息が浅くなる。
胸の鼓動が早くなり、
心臓の音が耳の奥でがんがんと響いた。
――行かなきゃ。
このままじゃ、彼は……。
レギュラスの名前を心の中で呼んでも、
返る声はない。
扉の向こうには、もう彼の姿はなかった。
廊下に響く足音すら残っていない。
焦燥が、喉を焼くようだった。
自分が何を言った?
あのとき、シリウスに――。
市場で、カフェで。
彼は楽しそうに笑ってくれて、
アランもそれに応えたくて、
ただ思い出話のように話しただけだった。
“レギュラスは何かを探しているの。杖って言ってたような――”
それだけ。
ほんの一言。
何気ない会話の一片。
でも、その一言が彼をあんなにも焦らせるものだったというの?
わからなかった。
けれど――わからないことが、恐ろしかった。
胸の中で、冷たい恐怖が音を立てて広がっていく。
レギュラスはいつだって冷静だった。
誰よりも聡明で、どんな状況でも感情を乱すことはなかった。
どんな難題の前でも、静かに見つめ、正確に判断する。
彼の目に宿るのは常に理性で、焦りとは無縁のものだと思っていた。
なのに、さっきの彼の顔には――
確かに、焦りの色があった。
それも、ただの苛立ちではなく、
何かを恐れているような、切羽詰まった影が見えた。
そんな彼を、これまで見たことがなかった。
圧倒的に強くて、誰よりも遠く、
背中だけを追ってきた人。
どれほどの困難にも屈しない、揺るぎない存在だった。
その彼が、自分の言葉で乱れた。
――私が、壊したの?
思考が胸を締めつける。
痛みと不安が混ざり合い、
腹の奥で命の鼓動が脈打つ。
守りたいと思っていた。
彼の安寧を、彼の未来を。
それなのに――。
床に手をついたまま、アランは震える肩を押さえた。
冷たい汗がこめかみを伝い、髪の先から滴る。
呼吸を整えようとしても、
何度吸っても、空気が肺に届かない。
――怖い。
胸の奥から、呟きのような思いが零れる。
彼の焦りの意味が分からない。
自分のしたことがどれほどの波を立てたのかも、わからない。
ただひとつ分かるのは、
あの背中が今、自分の手の届かない場所へ行こうとしているということ。
窓の外では夜が深まり、
遠くで雷鳴が低く響いた。
重く垂れこめた雲の下、
屋敷の影が闇に沈んでいく。
アランは膝を抱え、
そっと腹を撫でながら、消えた扉を見つめていた。
翡翠の瞳が、微かに光を宿す。
その光は涙のせいか、それともまだ消えぬ祈りのせいか――
誰にも、わからなかった。
闇の帝王の館は、夜の闇に溶け込むように静まり返っていた。
蝋燭の火が、まるで呼吸をするように揺らめき、長い影が壁に這う。
重く閉ざされた空気の中、レギュラスは黒いローブの裾を整え、静かに跪いた。
「……杖は、ダンブルドアの手の中にあります。」
その報告に、部屋の温度が一瞬で変わった。
ヴォルデモートの紅い瞳がぎらりと光を帯びる。
彼の手に握られた蛇の杖が、低く唸りを上げたように見えた。
「……ダンブルドア、だと?」
その声は、氷のように冷たく、同時に燃え上がるような怒気を孕んでいた。
ヴォルデモートの顔がわずかに歪む。
彼のプライドをもっとも深く抉る名前――その名を聞くだけで、血が煮えたぎるのだ。
「我が杖の力を――あの老人が握っていると?」
「確証があります。」とレギュラス。
彼の声はあくまで静かで、揺るぎがなかった。
「ただし、急がねばなりません。騎士団が形式的な決闘を行い、ダンブルドアが敗れたという“形”を作り、
杖の所有者を別の者に移す恐れがあります。そうなれば、杖の忠誠は別の者へと流れ――再び行方を失うでしょう。」
ヴォルデモートはゆっくりと立ち上がり、長い指で顎を撫でた。
「……つまり、杖の心を偽装する、ということか?」
レギュラスは一歩、頭を垂れたまま前へ進む。
「はい。所有の偽装です。杖は必ずしも“死”によって主を変えるわけではありません。
しかし、儀式によって“所有の移行”を錯覚させることは可能です。
ただし、それは禁術の領域です。膨大な魔力と――血の犠牲を要します。」
「血、だと?」
「はい。杖が“真の主”と認めるに足るだけの血の量を。」
その言葉を口にした瞬間、部屋の空気がぴしりと張り詰めた。
ベラトリックスの唇が吊り上がり、狂気じみた笑みが浮かぶ。
「多くの血が必要? ならばすぐにでも集めればいいわ!」
高く甲高い声が、空間を裂く。
「それにしても――なぜもっと早く言わなかったの、レギュラス?」
彼女の瞳には、狂信にも似た忠誠が宿っていた。
レギュラスは表情を変えず、静かに答える。
「確証を得るまでに時間を要しました。
儀式の詳細は、古代の文献から断片的にしか得られなかったのです。
ですが、今ならば――成功の可能性があります。」
「禁術……」とヴォルデモートが呟いた。
その声は低く、まるで何かを味わうようだった。
「いい響きだ。」
彼はゆっくりとレギュラスの方へ歩み寄る。
黒いローブの裾が、床を滑るように動くたび、蛇のような冷気が広がる。
レギュラスは頭を下げたまま、その足音を聞いていた。
「お前は、いつも私の願いをよく理解する。……そして、よく応える。」
ヴォルデモートの声が耳元に落ちる。
「この“禁術”を試せ。血ならば惜しまぬ。どれほどの犠牲でも構わん。」
「はい……」
「ダンブルドアの手から、我が杖を奪うのだ。
杖の忠誠を、偽りでもよい――私のもとへ引き寄せよ。」
紅い瞳が、燃えるような光を宿した。
それは狂気と野望の光――そして、圧倒的な支配の色。
レギュラスは静かに頭を垂れる。
胸の内には、言葉にならない重さがあった。
血の儀式――その“血”が誰のものになるのか、もうわかっていた。
それでも背を向けることはできない。
ヴォルデモートが手を振る。
闇の中で、冷たい金属音が響いた。
「お前に任せる、レギュラス・ブラック。
お前が失敗すれば、闇の秩序もまた崩れるだろう。」
レギュラスはゆっくりと立ち上がった。
胸の奥で、心臓の鼓動が重く鳴る。
この瞬間から、すべてが引き返せなくなる――それを理解していた。
だが、アランの笑顔が、ふと脳裏をかすめた。
彼女の中にある命を、
この手で守れる未来がまだ残されていると信じたかった。
闇の館を出ると、夜気がひどく冷たかった。
遠くの空に、月が沈みかけている。
まるで世界が、静かに終わりを迎える前のように、
一切の音を潜めていた。
レギュラスはローブの襟を正し、
呟くように自分に言い聞かせる。
――終わらせるために。
この狂気の連鎖を、必ず終わらせるために。
夜は、まるで世界が息を潜めたかのように静まり返っていた。
満月を隠した薄雲の向こうで、鈍く白い光がちらつく。
冷たい風が石造りの孤児院の壁を撫で、壊れかけた窓枠を鳴らした。
その孤児院――マグルの子どもたちが暮らす場所――の地下に、黒いローブの集団が静かに集まっていた。
足元には、かつて子どもたちが遊んだであろうおもちゃの残骸が散らばり、
それが蝋燭の炎に照らされ、異様な影を壁に落としている。
レギュラスはその中心に立っていた。
足元の石畳には、血のように濃い紅で描かれた巨大な紋章――“血の契紋”が刻まれている。
幾何学的なその模様は、古代の封印文字と血脈を繋ぐ線によって構成され、
中央には一本の杖が据えられていた。
それはダンブルドアの手にある“ニワトコの杖”の写し――
血の儀式によって忠誠の糸をたぐり寄せるための、いわば 偽杖(にせつえ)
魔法的に同調したこの杖が、真の杖の意思を奪う橋渡しとなる。
ヴォルデモートはその紋章の外に立ち、
薄く笑みを浮かべながら低く呪文を唱えた。
周囲のデスイーターたちも、一斉に詠唱を重ねる。
重なり合う声が響き合い、空気が震えた。
まるで地下の石壁そのものが呻き出したかのようだった。
「血をもって、忠誠を欺け。
主の名を偽り、新たな主の名を刻め。」
レギュラスは胸の奥で鼓動が早まるのを感じた。
この術がどれほどの代償を求めるか――誰よりもよく知っていた。
杖の忠誠を奪うには、命を繋ぐ“血”の供物が要る。
しかも、純血では足りない。
魔力を持たぬ“異なる種の血”でなければ、杖は欺けない。
だから選ばれたのだ。
ここに暮らす、罪なきマグルの子どもたちが。
鉄の扉の向こうでは、怯えた泣き声が響いていた。
それを聞かぬふりをしようとした。
聞けば、心が折れる。
(……仕方がない。)
レギュラスは唇を噛んだ。
声を出せば揺らいでしまう。
目の前でデスイーターのひとりが扉を開け、
細い手を引きずるようにして小さな影を紋章の上に立たせた。
赤い光の中心、杖の前に。
子ども――十にも満たない少年だった。
金髪が汚れ、頬に涙の跡が筋を作っていた。
その無垢な瞳が、まっすぐレギュラスを見た。
「……痛いことするの?」
一瞬、呼吸が止まった。
その問いに答えられず、ただ杖を握る手に力を込めた。
罪悪感が喉を焼くように込み上げる。
だが同時に、別の声が頭の奥で囁く。
――これは報いだ。
マグルは、古代から魔法族を恐れ、迫害してきた。
彼らの血は、いつも魔法の火を消そうとしてきた。
ならば今、その血が魔法を支える供物となるのは、
“均衡”ではないか。
自分にそう言い聞かせた。
そうしなければ、立っていられなかった。
ヴォルデモートが手を上げる。
「始めよ。」
レギュラスは震える手で杖を掲げた。
杖先が淡く光を放ち、空気がねじれる。
紋章の線が血のように脈打ち始める。
「――In fide fallacia sanguinis――
(血の偽信において、忠誠を欺け)」
唱えた瞬間、紋章の中心から光が爆ぜた。
少年の身体が宙に浮き、紅の霧が弾けるように舞う。
血が紋章の線を辿り、ゆっくりと杖の方へと流れていく。
その血はただの赤ではなかった。
光と影を併せ持つように、黒紫の輝きを放ちながら杖に吸い込まれていった。
レギュラスは目を閉じた。
耳を塞いでも、鼓膜の奥に悲鳴が焼きついた。
声を殺し、表情を固め、ただ呪文の続きに集中する。
心の奥底に罪悪感が波のように押し寄せ、何度も足をすくおうとした。
違う……これは贖いだ。
この血が流れることで、アランも、腹の子も、守られる。
己に言い訳を刻むように、心の中で何度も唱えた。
それでも胸の奥は冷たく重い。
杖が光を放ち、地下室が真昼のように明るくなった。
血の儀式が終わる頃、
少年の小さな体は静かに崩れ落ち、
杖の中から、低い震える音が響いた。
それはまるで、苦しみに似た嗚咽のようでもあり、
新たな忠誠の誓いのようでもあった。
ヴォルデモートの瞳が満足げに細められる。
「……見ろ、レギュラス。
杖が応えている。」
レギュラスは静かに頷いた。
震える指先を背中で隠す。
もう、何も言葉にできなかった。
血の匂いが立ち込める地下室の中で、
彼はただひとり、深く息を吸い込んだ。
そして、自分の胸の奥で響く声を必死に押し殺した。
――赦されることは、ない。
だが、終わらせるために。
闇の中で、その決意だけが、
微かな光となって彼の心を支えていた。
蝋燭の炎がひとつ、またひとつと燃え落ちていく。
血の儀式は続いていた。
赤い紋章が地下室の床いっぱいに広がり、
幾重にも重なる呪文の詠唱が空気を震わせる。
その震動のたびに、壁に描かれた古代文字が青白く光を帯び、
生き物のように蠢いていた。
子供たちは、順番に連れ出されていった。
ひとり、またひとり。
痩せた腕を掴まれ、床に押しつけられ、
その度に小さな悲鳴が上がる。
「やだ……やだよ……お母さん、助けて……」
「帰りたい……おうち、帰る……」
耳に刺さるようなその声を、レギュラスは必死に心の奥へ押し込めた。
聞いてはならない。
その声を“言葉”として認識した瞬間、杖を握る手が止まってしまう。
だから聞かない。
聞かなければ、これはただの“儀式”でしかない。
今は……今だけは、感情を持つな。
これは必要なことだ。そうでなければ、全てが無駄になる。
そう言い聞かせながらも、手は震えていた。
杖を握る指先が、がくがくと小刻みに揺れる。
膝の奥が抜け落ちそうで、それでも立ち続ける。
吐き気にも似た罪悪感が、喉の奥に張りついて離れなかった。
ベラトリックスの笑い声が響く。
高く、甲高く、狂気そのものだった。
「ほら見て、レギュラス。
この子の血は、まるで宝石みたいに綺麗よ!」
彼女はためらいもなく子供の胸に刃を滑らせる。
ため息のような悲鳴が上がり、血がほとばしる。
その血を受け取る魔法陣の紋が再び輝きを強めた。
レギュラスは、その様を見られなかった。
視線を落とし、ただ儀式の呪文を口にし続ける。
声を出さなければ、意識が崩れてしまいそうだった。
「In fide fallacia sanguinis――
(血の偽信において、忠誠を欺け)」
ベラトリックスの動きは、まるで舞踏のように滑らかで、
その残酷さに一片の迷いもなかった。
血が流れるたびに、杖は強く脈打ち、
まるで飢えた生き物が歓喜に震えるように光を放った。
レギュラスは、呪文を唱えながら考えないようにしていた。
考えれば壊れる。
この血は、マグルのもの。
かつて魔法族を蔑み、焼き払ってきた者たちの血。
これは報いだ――そう思わなければ、自分を保てなかった。
この血が、アランを守る。この血が、子を守る。
そうだ、これは罰ではない。贖いだ。赦しだ。
だが、耳の奥に、子供たちの泣き声が焼きついて離れない。
「お父さん……」「痛いのやだ……」「なんで……?」
言葉が一つひとつ、心を削る。
理性が軋み、感情が滲み出す。
魔法陣の光が強くなるほどに、罪悪感もまた濃くなっていった。
血が石畳を染め、赤い河が流れた。
その中で杖が息をしている。
生きているように、震え、呻き、
新たな主の呼び声に応えるように黒い光を帯び始めていた。
「……見ろ、レギュラス。」
ヴォルデモートの声が響く。
「杖が従っている。お前の魔術は完璧だ。」
完璧。
その言葉ほど、胸に重く響くものはなかった。
完璧であればあるほど、この罪は鮮明になる。
それでもレギュラスは、わずかに微笑んで頭を下げた。
「光栄です、我が主。」
唇が動くたび、鉄の味がした。
噛み締めた唇の内側から、血が滲んでいた。
光が静まり、儀式が終わる頃――
地下室にはもう声はなかった。
ただ杖だけが、黒い光を脈打ちながら、
ゆっくりとその忠誠を新たな主へと移していた。
レギュラスは、静かに目を閉じた。
頬に落ちたひと雫の涙を、誰にも気づかれぬよう拭い取った。
――これは正義だ。そう信じろ。
そうでなければ、自分はもう人間でいられない。
蝋燭の火が一本、風もないのにふっと揺れた。
その瞬間、レギュラスの心臓も一緒に震えた。
血の匂いに染まりきった地下室の中、
次の供物として、ひとりの少女が連れ出されてくる。
小さな足音が石畳を叩き、鎖のように響いた。
黒髪だった。
そして――その瞳。
光を受けて翠にきらめくその双眸を見た瞬間、
レギュラスの呼吸が止まった。
翡翠の瞳。
アランと同じ色をしていた。
胸の奥がぎゅう、と掴まれたように痛い。
心臓が、まるで自分の意志を失ったかのように跳ね上がる。
「やめて……いや……こわい……!」
少女は泣き叫び、鎖を引きちぎろうともがいた。
その声が、アランの声に重なって聞こえた。
――助けて。
――やめて。
幻聴のように脳内に響く。
手の中の杖が、ずるりと滑り落ちそうになる。
違う。これはアランじゃない。アランじゃない。
必死に言い聞かせる。
そうでなければ、呪文が紡げない。
心が壊れる。
「レギュラス、手を動かしな!」
ベラトリックスの甲高い声が飛ぶ。
その言葉に、身体が条件反射のように震えた。
緩みかけた手に、再び力を込める。
杖の冷たさが、皮膚の奥にまで食い込んでいく。
ベラトリックスは楽しそうに笑っていた。
その笑みは、芸術家が自らの作品を仕上げるときのように悦に満ちている。
ゆっくりと腕を上げ、唇が軽やかに呪文を紡ぐ。
「Sectumsempra」
赤い光が少女の胸を貫いた。
空気が切り裂かれる音と共に、鮮やかな血が弧を描く。
壁に、床に、ベラトリックスの頬に。
そして、レギュラスの頬にも――。
少女は声にならない息を漏らし、崩れ落ちた。
その身体から溢れ出る血が、魔法陣の線を満たしていく。
杖が反応した。
光が弾け、ヴォルデモートの杖の先に黒い稲妻のような光が走る。
まるで、歓喜しているようだった。
――ついに、忠誠が移った。
ダンブルドアから、闇の帝王へ。
儀式は成功したのだ。
ヴォルデモートの目が細まり、唇に笑みが浮かぶ。
ベラトリックスが恍惚とした声で叫んだ。
「ご覧なさい! 杖が、主を選びましたわ!」
レギュラスの喉が焼けるように熱かった。
唇の裏を噛みしめても、震えが止まらない。
安堵と、吐き気のような自己嫌悪が胸の中でぐちゃぐちゃに絡まる。
成功した――間に合った。
騎士団より先に、我々が手を打てた。
それがどれほどの意味を持つか、わかっている。
だが、どうしても目を逸らせなかった。
倒れたまま動かない少女の身体。
血の中で、開かれたままの瞳。
翡翠のような光を失ってなお、美しい。
あの色が、アランの瞳と重なった。
息が詰まった。
喉が焼けるように痛い。
違う…… アランじゃない……
そう唱えるたびに、胸の奥が裂けていく。
杖が、まだ光を放っている。
まるで新しい主への忠誠を誇示するように、
喜びの声を上げるように。
それを見つめながら、レギュラスはそっと視線を伏せた。
吐き出した息が白く揺れる。
焼けるような鉄の匂いが鼻を刺す。
胸の奥に、どうしようもない言葉が浮かんだ。
―― アラン。君が見たら、僕を軽蔑するだろう。
そのままレギュラスは、静かに杖を握りしめた。
指の間から血が滲む。
それでも手を離せなかった。
儀式は成功した。
だが、心はもう――取り返しがつかなかった。
