1章
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執務室の時計の針が、深夜をまわろうとしていた。
書類の束はまだ机の上に山のように積まれ、ランプの灯りが紙の端を金色に照らしている。
魔法法務部の一室に漂うのは、冷えたインクの匂いと、疲労の混じった静寂。
レギュラス・ブラックは羽ペンを置き、指先で眉間を押さえた。
そのとき、扉を軽く叩く音が響いた。
「どうぞ」
低く抑えた声で応じると、扉の向こうから一人の男が入ってきた。
バーテミウス・クラウチ――長年の同僚であり、時に腹を割って話せる数少ない相手だった。
「久しぶりですね。」
レギュラスは小さく笑みを浮かべる。
「最近はすっかり顔を見ませんね。」
「こっちも毎日、ニワトコの杖探しで手一杯ですよ。もっとも、それは君も同じでしょうけど。」
バーテミウスは肩をすくめ、部屋の隅に立つソファに腰を下ろした。
背もたれに両手を広げて凭れかかりながら、余裕の笑みを浮かべる。
「で、何の用です?」
レギュラスは書類を束ねながら、視線だけを向ける。
「いや、君がまだ帰宅していないようだったから、少し寄ってみただけですよ。」
「ふふ、まるで妻を心配する旦那のような言い方ですね。」
「いやいや、ブラック卿。そんな義理はご免です。」
軽口を交わしながらも、二人の会話には独特の緊張感が漂っていた。
ニワトコの杖――その所在を追う任務は、いま魔法省全体を覆う最大の焦燥の源だった。
「しかし、粘りますね。あの騎士団。」
バーテミウスが足を組み替えながら呟く。
レギュラスは机の端に腰をかけ、指でペンを弄びながら答えた。
「いまだにグリンデルバルトの遺体の火葬処理が認可されませんからね。完全なる自然死として報告を上げたというのに。」
「彼らはまだ“痕跡”を探しているのですか?」
「ええ。何度検死を繰り返しても、術の痕など残っているはずがないのに。」
室内に一瞬、沈黙が落ちた。
バーテミウスはその静寂を破るように、にやりと笑った。
「……ところで、この後どうです?」
その問いの意図は明白だった。
“どうです”――つまり、夜更けの酒と、男たちの気晴らし。
レギュラスは目を細め、わずかに息を吐いた。
「ええ、まあ……たまにはいいでしょう。」
「君が乗り気とは珍しい。」
バーテミウスが意外そうに眉を上げた。
「場所は“ノクターナル・レーン”の裏手にある《カーミラの窓辺》で」
バーテミウスの口から出たその名に、レギュラスの記憶がかすかに疼く。
学生時代――まだホグワーツを出て間もない頃、
仲間たちと無軌道に夜を過ごした、あの裏町。
香の煙と笑い声、指先に絡む女の髪の匂い。
若気の衝動と虚しさが入り混じる、魔法界の夜の底。
「懐かしいですね。」
「だろう? あの頃はよく行ったじゃないですか。君も今くらい、肩の力を抜いた方がいいですよ。」
バーテミウスの軽口を聞きながらも、レギュラスの頭の片隅には、どうしてもアランの顔が浮かんだ。
――屋敷で、自分の帰りを待っているだろう彼女。
それを思うと、胸の奥に鈍い痛みが広がった。
だが同時に、理屈では言い訳がついてしまう。
最近、アランとはほとんど顔を合わせていない。
彼女の身体を気遣い、屋敷で安静にさせている時間が増えた。
夜の温もりも、会話も、限られたものになった。
気づけば、心の隙間に焦燥が積もっていく。
――これは、仕方のないことだ。
息苦しい日常の中で、ほんの一夜の逃避くらい許される。
そんな理屈を胸の奥で反芻しながら、レギュラスは笑った。
「分かりました。少しだけ付き合いましょう。
どうせこのまま帰っても、眠れそうにありませんから。」
バーテミウスは満足げに立ち上がる。
「いい判断ですよ。じゃあ、あの店で待ってます」
彼が去ったあと、執務室には再び静けさが戻った。
レギュラスは机の上のペンを見つめ、しばらく動かなかった。
指先に残るインクの匂いが、ふいに胸を刺す。
――アラン。
彼女の柔らかな微笑みと、夜ごとに小さく頷く姿が浮かぶ。
けれど、もう一人の自分が囁く。
「これは現実逃避じゃない。ただの発散だ。」
ローブの襟を正し、ランプの灯を消す。
闇に沈む執務室の中で、
レギュラスはわずかに自嘲を浮かべながら扉を開けた。
ノクターナル・レーンの夜は、まだ長い。
グラスの底に残った酒が、薄暗いランプの光を受けて鈍く揺れていた。
かつての学生の頃のように、浴びるように飲むことはもうできない。
けれど――今夜は珍しく、理性の箍が少しだけ外れているのを自覚していた。
空のグラスが並び、頬を撫でる酒気が心の奥まで沁みていく。
店の名は〈カーミラの窓辺〉。
ノクターナル・レーンの裏路地、石畳の影に沈む古びた酒場だ。
細長い階段を降りた先には、赤いベルベットのカーテン、甘い香と湿った木の匂い。
闇と欲の熱気が混ざり合って、息をするだけで酔いが増していくようだった。
レギュラスは深く椅子に腰を沈め、傍らのグラスを指先で転がした。
両隣には、見た目だけ華やかな女たちが二人。
金糸のような髪を揺らしながら笑い声を上げるが、その笑みの裏にあるものは軽く、どこか空虚だった。
知性も品性もない――だが今夜ばかりは、その軽薄さがむしろ都合が良かった。
酔って、騒いで、全てを曖昧にしていくには、こういう女たちがちょうどいい。
「君は何も変わらないな。」
バーテミウスがグラスを掲げて笑う。
深紅のワインが、光に透けて血のように見えた。
「あなたに言われたくはないですね。」
レギュラスも口角だけで笑い返す。
それだけでまた女たちは黄色い声を上げた。
「いやいや、僕は結婚してない分、まだ自由だ。
君の方が縛られてる分、罪深いですよ。」
レギュラスはグラスを傾け、苦笑した。
「……まさか、あなたに説教される日が来るとは。」
「説教じゃない、忠告ですよ。
君はあまりにも“立派すぎる”んです。そういう人間ほど、時々壊れたくなる。」
その言葉に、一瞬だけ胸の奥がざらつく。
アランの顔が、瞼の裏に浮かんだ。
けれどすぐに、酒で流し込むようにグラスを空ける。
「さすがですね。飲み歩いているだけあります。」
「そりゃあ、これが唯一の娯楽ですからね。」
バーテミウスは豪快に笑い、すぐに次のグラスを注文した。
彼の飲む速度は、学生の頃と何も変わらない。
あの頃は互いに競い合うようにグラスを空け、夜明けの鐘を聞きながら肩を組んで歩いた。
若さと無謀と自尊心だけを燃料にして。
だが、もうあの頃のようにはいかない。
酔いが早く回る。
胸の奥が鈍く痛む。
飲み干したあとに残るのは、高揚ではなく、微かな虚しさだ。
「昔ほどは飲めなくなりましたね。」
レギュラスが呟くと、バーテミウスはからりと笑った。
「保守に走ったからですよ、君は。
名誉も地位も、失いたくないものが増えると、人は慎重になる。
――僕らも、老けたもんですよ。」
「そうですね。」
レギュラスは静かに答え、再びグラスを傾けた。
舌に触れた酒は、どこか苦かった。
店内の明かりがゆらめく。
女たちの笑い声が遠のき、周囲のざわめきがぼやけていく。
酔いの中で、心の奥に沈んでいる何かが膨らんでいった。
――アラン。
屋敷の寝室で、静かに目を閉じているであろう彼女の姿が浮かぶ。
自分がいない夜、彼女はどんな夢を見るのだろう。
不安だろうか、寂しいだろうか。
それとももう、自分の帰りなど待たなくなっているのだろうか。
酒のせいか、胸の奥が熱い。
それが罪悪感なのか、空虚さなのか、自分でも分からない。
「次は強めのやついきます?」
バーテミウスの声が、現実に引き戻す。
「ええ、今夜はまだ終わらせたくありませんから。」
レギュラスは笑って答えた。
その笑みは、どこまでも静かで、どこまでも哀しかった。
グラスが触れ合う澄んだ音が、夜の底に沈んでいく。
揺らぐ灯りの中で、彼の瞳は少しだけ遠くを見つめていた。
それは、決して帰れない場所――
あの静かな屋敷の寝室で、自分を待っている誰かの元だった。
寝室の扉が、ゆっくりと軋む音を立てて開いた。
夜更けの静寂を破るその音に、アランはすぐに目を覚ました。
部屋の灯りは落とされたまま。窓の外から差し込む月明かりが、薄いレースのカーテン越しに白く床を照らしている。
ジャケットがソファに無造作に投げ捨てられる音がした。
その布の落ちる鈍い音に、アランの胸が小さく締めつけられる。
レギュラスが戻ってきた――その事実だけで、胸の奥に安堵が広がった。
けれど、次の瞬間には、その安堵が痛みに変わる。
ベッドの縁に手をつき、アランは静かに上体を起こした。
部屋の入り口には、黒いローブの裾を引きずるように歩くレギュラスの姿。
少しふらついた足取り。
深く息を吐いた拍子に、鼻先をかすめたのはタバコとアルコール、そして知らない香水の混じった匂い。
それは、まるで歓楽街そのものの空気を彼が纏って帰ってきたかのようだった。
彼はアランの方を一瞥することもなく、靴を脱ぐのも忘れたままベッドに倒れ込む。
重い身体がマットレスに沈み、すぐに静かな寝息が聞こえはじめた。
まるで長い夜の疲労をすべて投げ出すように。
アランはただ、そこに座っていた。
おかえりなさい――と視線で伝える。
けれど、その想いは届かない。
返事も、微笑みも、ない。
枕元にかかった月明かりが、レギュラスの横顔を照らしている。
いつもより少し険しく、眉間の皺が深く刻まれていた。
その表情のまま眠る彼が、どこか遠い世界の人に見えた。
――彼はタバコを吸うのだろうか。
これまで見たことはない。
食事の席で、ワインをわずかに嗜む程度の彼しか知らない。
けれど今夜は、アルコールの香りが強く、指先にまで冷たい夜の匂いが染みついている。
彼がどんな顔で酒を飲み、誰とその時間を過ごしたのか。
アランには何一つ分からない。
“妻”という名で呼ばれる立場にあるはずなのに、
彼の生活の一部にもなれず、心の中にも触れられない。
触れたくても、言葉がない。
胸の中に渦巻く感情を形にする術を持たない。
――遠い。
その距離が、あまりにも遠かった。
手を伸ばせば届くはずの距離なのに、
彼の心までは何百里も離れているように感じられる。
「おかえりなさい」と、言いたかった。
けれど声は出ない。
喉の奥に詰まる言葉が、行き場を失って消えていく。
ただ、両手を胸の前で重ねて、静かに息を吐いた。
ベッドの片側には、彼のぬくもりが広がっている。
けれどそこに横たわることはできなかった。
背中を向けるようにして、アランは窓の方を向く。
外には冷たい月が浮かんでいた。
まるでその光だけが、自分の孤独を知っているかのように。
――“帰ってきてほしかった”
たったそれだけの想いさえ、言葉にできない。
そのことが何よりも切なく、痛かった。
夜が静かに更けていく。
レギュラスの寝息と、外の風の音だけが、
広すぎる寝室の中に響いていた。、
朝の光が、まだ重たいカーテンの隙間から細く差し込んでいた。
それは、鈍く疼く頭の奥を刺すように照らし、レギュラスは眉をひそめながら、ゆっくりと枕から頭を離した。
――痛い。
頭蓋の内側で鼓動が打ち鳴らされているような痛み。
ああ、この痛みは久しぶりだ。
若い頃、寮の仲間たちと夜通し飲み明かした翌朝――よく知った、懐かしい痛みだった。
ホグワーツの学生だった頃は、この程度の頭痛なら“朝の授業を一つ休めば済む話”であった。
「必殺の一限サボり」と仲間たちが名付けたその逃げ道は、まだ許される若さの特権だった。
すべての教科で満点を取る自分を、教授たちは咎めなかった。
多少の欠席など、優等生の余白として見逃されていた。
――だが今は違う。
魔法法務部の机の上には、昨日処理しきれなかった書類が積み上がっている。
逃げ場のない現実が、鈍い頭痛より重くのしかかる。
ぼんやりとした視界の中で、食卓の向こうから母の甲高い声が響いた。
「なんです、そのだらしなさは! どこの歓楽街で飲み歩いてきたのかは知りませんが、
ブラック家の人間がみっともなく見苦しい姿を世間に晒すなど、あってはなりません!」
その声の刺々しさに、ガラスが割れたのかと錯覚するほどだった。
頭痛の芯を突かれるような鋭さ。
思わずこめかみを押さえ、吐息まじりに言葉を返す。
「母さん……今は声を落としてくれませんか。頭痛には、あまりにも響きます。」
ヴァルブルガの声は、即座に更なる苛立ちを帯びる。
「何ですって? 自業自得でしょう! ああ、ブラック家の名が地に落ちるわ!」
やれやれ――とレギュラスは内心で息を吐く。
その横で、アランが心配そうに覗き込んできた。
長い黒髪が頬をかすめ、翡翠色の瞳がやわらかく揺れている。
「少し飲み過ぎましたが、大丈夫です。昼には良くなります。」
アランの視線に応え、微笑みを作る。
彼女は小さく頷き、そっと手を伸ばして、テーブルの皿を遠くへ押しやった。
ヴァルブルガがアランに与えた“胎児に良い”とされる珍味の皿だ。
独特な香辛料と薬草、海獣の乾燥粉末が混ざり合ったその匂いは、今朝ばかりはやけに強烈に感じられた。
胃の底からこみ上げるような吐き気が、酒の残り香と混ざり合う。
「……すみません、匂いが少し。」
眉を寄せながら呟くと、アランは小さく眉尻を下げ、申し訳なさそうに微笑んだ。
その仕草だけで、どこか救われる。
だが、その優しい空気はすぐにかき消される。
「何を仰っているの、あなた!」
ヴァルブルガが、椅子を鳴らして身を乗り出した。
「これはどこの国から仕入れたか、分かっていて言っているの?
この薬膳の効能を何度説明したかしら――胎児の安定、母体の強化、魔力の循環促進……」
甲高い声が、部屋の隅々まで響く。
延々と続く効能の羅列に、レギュラスは再び頭を押さえた。
まるで呪文のように続く母の声は、彼にとって雑音以外の何ものでもなかった。
「……わかりました、母さん。」
そう言いながらも、完全には聞き流せない。
母が放つひとつひとつの言葉の中に、この屋敷を支配する“血の思想”が滲んでいる。
アランにとって、それがどれほど息苦しいことかを思うと、胸の奥に鈍い痛みが広がった。
ヴァルブルガが語る「血の尊厳」も、「母としての責務」も、
もはやこの屋敷の中で呪いに近い。
だが母にそれを言ったところで理解はされないだろう。
アランが静かに立ち上がり、皿の隣に置かれていたティーカップを手に取る。
小さな手のひらでカップを持ち上げ、そっとレギュラスの前に差し出す。
湯気の立つミントティーの香りが、わずかに空気を変えた。
「ありがとう、アラン。」
その一言をようやく絞り出す。
彼女は優しく頷き、母の視線の届かぬところで、ほんの少し唇を綻ばせた。
ヴァルブルガの怒声が再び上がる中、
レギュラスはゆっくりとティーカップを傾けた。
冷えた胃の底に、温かい香草の苦味が染み渡っていく。
――この屋敷は、今日も変わらない。
母の支配と、アランの沈黙の間で、
レギュラスはひとり、静かに頭痛を抱え込んでいた。
朝食が終わり、まだ紅茶の香りがわずかに残る部屋の中。
レギュラスは立ち上がり、カーテンの隙間から射し込む柔らかな朝の光を背にして、ゆっくりと上着のボタンを外した。
白いシャツの袖口を整えるその手元に、アランがそっと寄ってくる。
黒髪が肩先で揺れ、彼女の細い指がためらいがちにジャケットを手に取った。
「ありがとう、アラン。」
レギュラスの声はかすかに掠れていた。
昨夜の酒のせいか、あるいは母の小言に耐えた朝の疲れがまだ抜けきらないのか――。
アランは無言のまま、彼の襟を直してやる。
その仕草があまりにも優しく、触れる指先の温もりが胸の奥に沁みた。
少し身を屈め、彼女の手を包むようにして抱き寄せる。
「昨日は……少し飲み過ぎたみたいです。」
息を吐くように、言葉が零れた。
アランは驚いたように見上げ、その翡翠の瞳を細めた。
静かな部屋の中で、彼女の視線だけがまっすぐにレギュラスを貫く。
――その目が痛いほどに優しい。
叱るでもなく、責めるでもなく、ただ案じている。
彼女の沈黙の中には、いつも言葉以上のものがある。
アランは杖を手に取り、空中に細い文字を描いた。
『飲み過ぎないでくださいね』
淡い光を帯びたその文字がゆらめき、消えていく。
それを見つめながら、レギュラスは小さく笑った。
苦笑とも、自嘲ともつかない、かすかな笑み。
「ええ、そうします。もう若くはないみたいですから。」
冗談めかして言ったつもりだったが、声に疲れが滲んでいた。
アランは小さく首を振り、そのまま彼の胸に額を寄せた。
その仕草が、まるで“あなたは充分強い人です”と伝えてくれているようで。
レギュラスは思わず腕に力を込めた。
髪から漂う微かな香り――甘く、懐かしい匂い。
この屋敷の重たい空気の中で、唯一心を柔らかくする香りだった。
「すみません、アラン。」
「……」
声を出せない彼女は、ただ静かに首を振る。
何も言葉にしなくても伝わる。
その瞳には、確かな安堵と、わずかな寂しさが同居していた。
窓の外では、霧が少しずつ晴れていく。
新しい朝が始まっている。
それでも――この穏やかな一瞬が、二人の時間のすべてのように思えた。
レギュラスは彼女の頬をそっと撫で、額に口づける。
「今夜は……もう少し早く帰ります。」
アランは微笑み、ほんの少し頷いた。
言葉のない朝。
それでも心の奥では、確かに会話があった。
沈黙の中に、互いの想いが静かに満ちていた。
屋敷の午前は、いつもより少し静かだった。
淡く曇った陽光が、分厚いカーテンの隙間から滲み込み、アランの頬に柔らかく触れる。
その指先には、杖が握られていた。文字を描くたび、空中に淡い光の線が浮かんでは消える。
シリウスは椅子の背にもたれ、窓の外に流れる薄い雲を眺めながら、ふとため息をついた。
昨日に続いて二日連続でこの屋敷に足を運ぶことになるとは思ってもいなかった。
だが、どうしても気になってしまったのだ――あの繊細な瞳の奥に宿っていた、不安の影が。
「……レギュラスはお酒を飲みますか?」
杖の先が空を撫でるようにして淡く光り、その文字が浮かび上がる。
“レギュラスはお酒を飲みますか?”
か細く揺れる筆致に、彼女の心の迷いが透けて見えるようだった。
「……あいつか?」
シリウスは短く笑って首を傾げた。
「一緒に飲むようなこともねぇからな。わかんねぇよ。」
その言葉を聞いたアランは、ほんの一瞬、笑みを作った。
けれど、その笑みは儚く、影のように消えていった。
静かな寂しさが、瞳の奥でわずかに光る。
沈黙が落ちる。
風が窓を撫で、薄いカーテンが小さく揺れた。
アランは再び杖を動かす。今度はゆっくりと。
“じゃあ、タバコは吸いますか?”
「タバコ?」
シリウスは片眉を上げて笑った。
「見たことねぇな。……どうした? なんかあったのか?」
問いかける声に、アランは迷うように視線を伏せた。
その長いまつげの影が頬に落ち、彼女の沈黙が痛々しいほどに美しかった。
やがて、彼女の杖の先が再び光を描く。
“昨日は帰りがとても遅かったです。お酒とタバコの匂いがすごくて……”
淡く光る文字が空中に漂い、やがて霧のように溶けていく。
シリウスは何も言えなかった。
胸の奥に、重たいため息が込み上げてくる。
――あいつめ。
口には出さなかったが、心の中で吐き捨てた。
自分もかつては夜を明かして飲むこともあった。
酔いに任せて愚かに笑った夜もあった。
けれど――妻を迎えながら、彼女を置いて好きに夜を過ごすような真似はしない。
「……そうか、心細かったんだな。」
ようやく出た言葉は、やけに優しかった。
アランはその声に、驚いたように顔を上げる。
そして、ゆっくりと、ほんの少し頷いた。
彼女の瞳が、光を受けて揺れる。
まるで涙を閉じ込めたガラス玉のようだった。
シリウスは胸の奥が締めつけられるのを感じた。
彼女のその静けさ――泣きもせず、訴えもせず、ただ寂しさを抱きしめるような姿が、
どうしようもなく胸に迫ってきた。
言葉を失い、ただ見つめるしかない。
白い手の甲、細い肩、柔らかく波打つ黒髪。
そのどれもが儚く、今にも消えてしまいそうだった。
レギュラスの帰りが遅くて、心細かった――。
そのたった一行の想いが、どれほど彼女の心を覆っているのか。
シリウスには痛いほどわかってしまう。
外では風が枝葉を揺らしていた。
鳥の鳴き声が遠くで響く。
そんな穏やかな朝の景色の中で、アランの寂しげな笑みだけが、
異様に美しく、そして悲しかった。
昼下がりの光が、屋敷の高い窓からやわらかく差し込んでいた。
カーテン越しの陽が、淡く漂う埃の粒を照らし出し、静かな部屋を金色に染めている。
アランは窓際の長椅子に腰かけ、毛布を膝に掛けていた。
シリウスはその斜め向かい、古い肘掛け椅子に深く腰を下ろし、足を組んでいる。
「……でさ、あいつ、マクゴナガル先生の前で“完璧な変身術”とか言って、
自分の鼻を豚に変えたまま戻せなくなったんだよ。丸二日だぞ、二日!」
笑いを堪えながら肩を震わせるシリウス。
アランはその話を聞きながら、口を押さえて俯いた。
次の瞬間、声にならない笑いが零れた。
唇が開いて、喉が小さく震える。
けれど、音にはならない。
それでも、その笑いが部屋の空気を明るくしていく。
「信じられるか? 本人は“あれも研究の一環だ”とか言ってんだぞ。
豚鼻で研究もクソもねぇってのに!」
シリウスは手振りを交え、わざと大げさに鼻を摘まんでみせた。
アランは声を出さずに笑い続けていた。
肩を震わせ、目尻を下げ、涙が出るほどに――。
その笑いは、柔らかく、儚く、それでいて心の底から嬉しそうだった。
「あとさ、この前の話な。あれ、ほんとにやっちまったんだ。」
「?」というようにアランが首を傾げる。
「夜の巡回中にさ、うっかり魔法省の廊下で転んでな。
書類が散らばってんのに、よりによって大臣が通りかかったんだよ。
しかも“ブラックくん、床掃除も仕事に加わったのかね?”だとさ!」
アランの瞳がきらりと光る。
杖を手に取り、淡い文字が空に浮かぶ。
“それは……恥ずかしいですね”
「だろ? 頼むからその時だけは笑わないでくれって言いたかったけど、
周り全員笑ってやがってな。まあ俺も笑ったけど。」
軽口を叩きながらも、シリウスの声にはどこか優しさが滲んでいた。
彼は、ただこの部屋の静けさを破りたかった。
沈黙の中に閉じこもる彼女を、少しでも外の光の中に連れ出したかった。
アランはそんな彼の気持ちを感じ取っていたのだろう。
喉の奥から小さく息を漏らすように笑い、唇で“ふふ”と形を作った。
その表情は、まるで春の陽だまりのように柔らかかった。
「アラン。」
シリウスは少し真面目な顔になる。
「お前は――笑ってる方が、かわいい。」
その言葉は、何の下心もなく、ただ真っ直ぐだった。
アランは少し驚いたように目を見開き、それから杖をゆっくりと動かした。
“あなたも、笑ってる顔は悪い少年みたいです”
その文字が空に浮かび上がり、やがて淡く光りながら消える。
シリウスは、思わず苦笑した。
「悪い少年、ね。……まあ、褒め言葉として受け取っとくか。」
アランの頬がほんのりと紅く染まっていた。
唇の端が柔らかく上がり、目元に小さな皺が寄る。
笑っている――確かに笑っている。
その姿は、昨日よりもずっと穏やかで、どこか救われたように見えた。
窓の外では午後の光が少し傾き、庭の花々を金色に染めている。
シリウスはその光を背に、腕を組みながら微笑んだ。
――ああ、やっと、笑ってくれた。
そんな小さな達成感と、言葉にならない温もりが胸の奥に灯った。
外の世界はどれだけ冷たくても、この瞬間だけは穏やかだった。
夜の静寂が屋敷を包み込んでいた。
カーテンの隙間から、月の光が細く差し込み、寝室の白いシーツの上に淡い影を落としている。
レギュラスはベッドの片側に腰を下ろし、上着を脱いでカフスを外していた。
その隣でアランは、静かに膝を抱えるようにして座っていた。
どこか夢見心地な表情で、ふわりと笑みを浮かべている。
――気づけば、昼間の光景が頭の中を巡っていた。
シリウスの話す声、軽やかに笑う仕草、空気を変えるような明るさ。
声が出せない自分の代わりに、まるで心まで代弁してくれるようなあの人の話し方。
それを思い出すだけで、胸の奥がくすぐったくて、自然と頬が緩んでしまう。
「……どうしました?」
不意に、柔らかな声が降ってきた。
レギュラスが書類をテーブルに置き、静かにこちらを振り返っていた。
灰銀色の瞳が、月の光を映してやさしく揺れている。
アランはハッとして、慌てて首を振る。
けれど、顔の熱は引かない。
「笑ってたでしょう?」
少し困ったように微笑みながら、レギュラスは問いかける。
心臓がどくんと跳ねた。
――見られていた。
その声には責める色はなく、ただ純粋な疑問がにじんでいた。
だからこそ余計に、罪悪感が胸を刺す。
「何か楽しいことでも思い出しました?」
レギュラスはゆっくりと隣に腰を下ろし、アランの頬に手を伸ばした。
白く整った指が、彼女の頬を撫でる。
その手は冷たくもなく、ただ温かくて、優しさそのものだった。
――優しい人だ。
この人はいつだって、自分を見守ってくれる。
疑いもせず、責めもせず、ただ寄り添ってくれる。
その穏やかな眼差しに、胸がきゅっと締め付けられる。
でも――今、胸の奥に浮かぶのは別の人の笑顔。
自由で、無鉄砲で、風のように明るいあの人の声。
レギュラスの静けさとはまるで対照的な、太陽みたいな人。
自分の心が少しずつ揺れていることを、痛いほどに自覚していた。
それなのに、どうしても隠さずにはいられない。
シリウスの話を、レギュラスにはできない。
たとえ何のやましさがなかったとしても――彼が聞けば、確実に傷つけてしまう。
アランは曖昧に笑って、言葉を濁すように首をかしげた。
そして、レギュラスの手にそっと自分の手を重ねる。
「……?」
訝しげに眉を動かした彼に、アランは小さく微笑んだ。
“ただ、少し幸せなことを思い出していました”――そう伝えるように。
その笑顔に、レギュラスもようやく安心したように目を細めた。
彼の指が、再びアランの頬を優しくなぞる。
「なら、よかった。」
月明かりが二人を淡く照らしていた。
けれど、アランの胸の奥では、静かな罪悪感と温かな幸福が同居していた。
彼の優しさが痛いほど愛おしくて、
それなのに、昼間の記憶がどうしても消えてくれなかった。
――シリウスの声が、まだ耳の奥で笑っている。
アランはその声を追い払うように、そっと目を閉じた。
そして、レギュラスの肩に額を預ける。
彼の鼓動が穏やかに響いて、やっと心が静まっていく。
けれどその夜、眠りにつくまでの間、胸の中では二つの温もりがせめぎ合っていた。
闇の帝王の屋敷――その名を口にするだけで、空気が冷たくなるような場所だった。
月光すら近づくのを拒むように、暗い森の奥に沈むその館は、夜の静寂と腐敗した威圧をまとっている。
石造りの長い廊下は湿気を帯び、天井から垂れる燭台の炎が揺らめいては、壁に刻まれた古い呪文の文字を照らしていた。
レギュラス・ブラックは無言でその廊下を歩く。
靴音が反響し、まるで闇が返事をしてくるようだった。
両手を背に組み、彼は一歩一歩を正確に刻む。
どんなに慣れた道でも、この場所では決して心を緩めることは許されない。
広間に入ると、そこにはヴォルデモートがいた。
冷たい瞳が、蛇のような細い光を放っている。
その口元がゆっくりと弧を描いた。
「――あの女の血が、無事に繋いでいけるようだな。」
その声は、低く、静かに響いた。
祝辞というにはあまりにも冷酷で、まるで成功を当然とする者の声音だった。
「よくやった、レギュラス。」
レギュラスは片膝をつき、深く頭を下げる。
胸の奥で脈打つ鼓動が、自分でも驚くほど穏やかだった。
この瞬間のために、どれほどの夜を耐えてきただろう。
「これで俺様の力の永遠は保たれる。」
ヴォルデモートの指先が宙を撫で、燭台の炎が一斉に高く揺らめく。
その光の中で、レギュラスの影が長く伸びた。
安堵が胸を満たす。
――これで、アランを地下牢に戻されることはない。
闇の帝王との取引、それがどれほど危険であろうとも、この結果だけは得なければならなかった。
彼女の命も、心も、この一言で守られたのだ。
しかし、その束の間の安堵を断ち切るように、ヴォルデモートはゆっくりと視線を鋭くした。
「だが……」
その一言が、空気を一瞬で凍りつかせた。
炎が小さく唸りを上げ、蝋が滴り落ちる音がやけに大きく響く。
「――まだ“ニワトコの杖”が見つからぬようだな。」
レギュラスは息を飲む。
背筋が自然と伸びた。
その名を出されるだけで、背中に冷たい汗が伝う。
「はい。総動力で探しています。
騎士団が嗅ぎつけるより先に、必ず見つけてみせます。」
彼の声は凛としていた。
決して恐怖を悟らせてはならない。
この男の前で、弱さを見せることは死を意味する。
ヴォルデモートは細い唇を歪め、愉悦にも似た笑みを浮かべた。
「お前には――期待しているぞ、レギュラス。」
低く響くその言葉は、称賛のようでいて、呪いのようでもあった。
部屋の温度がさらに下がる。
背後に立つ死喰い人たちの影が、わずかに動いた。
「……恐れ入ります。」
再び深く頭を下げた。
一つ肩の荷が下りたと思えば、また一つ新たな鎖がのしかかる。
それでも、レギュラスの瞳には静かな決意が宿っていた。
彼の脳裏には、アランの笑顔が浮かんでいた。
柔らかく微笑み、声のない唇で何かを伝えようとしていたあの姿。
彼女を、もう二度と牢の闇に戻すわけにはいかない。
そのためなら、この命の全てを賭けてもいい。
「……アラン。」
心の奥で、彼女の名を小さく呼ぶ。
ヴォルデモートの冷笑が背中に突き刺さる中で、
レギュラスは静かに瞳を閉じた。
――この身が闇の鎖に縛られようとも、
せめて彼女の光だけは、自由であってほしい。
そう願いながら、彼は再び頭を垂れた。
レギュラスの部屋には、長い夜が続いていた。
書き散らされた古文書と、世界各地の地図が床いっぱいに広げられ、ロウソクの光がその上を揺れている。
ニワトコの杖――死の秘宝のひとつ。
ヴォルデモートがそれを求めている限り、見つけ出すまでは決して休息は許されなかった。
しかし、どこを探しても、何を調べても、手がかりすら掴めない。
数百年にわたる血の伝承、魔法史に残る名だたる決闘記録、その全てを読み解いてもなお、
その杖はまるで霧の中の幻のように姿を見せなかった。
もはや――伝説でしかないのではないか。
そんな思いが、何度も心をかすめる。
屋敷に戻れぬ夜が続いた。
アランの顔を見ることさえできない日々が、いつの間にか指折り数えられなくなっていた。
帰れない間に、彼女のお腹は少しずつ膨らみ、
確実に新たな命を宿していることを屋敷の報告で知るたびに、胸の奥に重い罪悪感がのしかかってくる。
――自分は、何をしているのだろう。
彼女を守るために始めたはずの戦いが、
いつしか自分の手で、彼女を孤独にしている。
屋敷に帰った夜、レギュラスは寝室の扉を静かに開けた。
アランは窓辺の椅子に座り、淡い光を浴びていた。
月の光が黒髪に降り注ぎ、漆黒の絹糸のように艶やかに輝く。
その姿を見ただけで、胸が締め付けられた。
「……アラン。」
声をかけると、アランはゆっくりと顔を上げる。
微笑もうとするが、わずかに震えた。
彼女は杖を手に取り、“おかえりなさい”という文字を宙に描く。
レギュラスは小さく息を吐き、彼女の傍に膝をついた。
その手首をそっと取り、自分の胸に引き寄せる。
「寂しい想いを、させていますよね……。」
その声は、懺悔にも似ていた。
アランは首を横に振る。
けれど、その仕草の奥に、ほんのわずかな寂しさが滲む。
抱き寄せた腕の中、アランの身体は驚くほど軽かった。
けれどその腹には、確かに命が息づいている。
彼女の小さな体の中に、二つの鼓動が宿っているのだと思うと、
不思議なほど現実が遠く、夢のように感じられた。
少女のような柔らかさを纏いながらも、
母としての静かな強さが、アランの中には芽生えている。
その二つが混ざり合い、まだ形を定められずに揺らめいている。
まるで、冬の朝に差す淡い光のようだった。
「……あなたは、強いですね。」
レギュラスはそう言いながら、アランの髪を撫でた。
黒髪が指の間を滑り、微かな香が胸を満たす。
アランは静かに微笑み、彼の胸に額を預けた。
――この人がいる。
それだけで、まだ生きていける。
そんな想いが互いの沈黙の中で交わされた。
遠くで時計が時を告げる。
屋敷の外では夜の風が木々を揺らしていた。
ニワトコの杖はまだ見つからない。
世界のどこに眠っているのかも分からない。
けれどこの瞬間だけは、
レギュラスはようやく戦いの重さから解放された気がした。
アランを抱きしめたまま、彼はただ願う。
どうか――この腕の中の命だけは、闇に染まらぬように。
書類の束はまだ机の上に山のように積まれ、ランプの灯りが紙の端を金色に照らしている。
魔法法務部の一室に漂うのは、冷えたインクの匂いと、疲労の混じった静寂。
レギュラス・ブラックは羽ペンを置き、指先で眉間を押さえた。
そのとき、扉を軽く叩く音が響いた。
「どうぞ」
低く抑えた声で応じると、扉の向こうから一人の男が入ってきた。
バーテミウス・クラウチ――長年の同僚であり、時に腹を割って話せる数少ない相手だった。
「久しぶりですね。」
レギュラスは小さく笑みを浮かべる。
「最近はすっかり顔を見ませんね。」
「こっちも毎日、ニワトコの杖探しで手一杯ですよ。もっとも、それは君も同じでしょうけど。」
バーテミウスは肩をすくめ、部屋の隅に立つソファに腰を下ろした。
背もたれに両手を広げて凭れかかりながら、余裕の笑みを浮かべる。
「で、何の用です?」
レギュラスは書類を束ねながら、視線だけを向ける。
「いや、君がまだ帰宅していないようだったから、少し寄ってみただけですよ。」
「ふふ、まるで妻を心配する旦那のような言い方ですね。」
「いやいや、ブラック卿。そんな義理はご免です。」
軽口を交わしながらも、二人の会話には独特の緊張感が漂っていた。
ニワトコの杖――その所在を追う任務は、いま魔法省全体を覆う最大の焦燥の源だった。
「しかし、粘りますね。あの騎士団。」
バーテミウスが足を組み替えながら呟く。
レギュラスは机の端に腰をかけ、指でペンを弄びながら答えた。
「いまだにグリンデルバルトの遺体の火葬処理が認可されませんからね。完全なる自然死として報告を上げたというのに。」
「彼らはまだ“痕跡”を探しているのですか?」
「ええ。何度検死を繰り返しても、術の痕など残っているはずがないのに。」
室内に一瞬、沈黙が落ちた。
バーテミウスはその静寂を破るように、にやりと笑った。
「……ところで、この後どうです?」
その問いの意図は明白だった。
“どうです”――つまり、夜更けの酒と、男たちの気晴らし。
レギュラスは目を細め、わずかに息を吐いた。
「ええ、まあ……たまにはいいでしょう。」
「君が乗り気とは珍しい。」
バーテミウスが意外そうに眉を上げた。
「場所は“ノクターナル・レーン”の裏手にある《カーミラの窓辺》で」
バーテミウスの口から出たその名に、レギュラスの記憶がかすかに疼く。
学生時代――まだホグワーツを出て間もない頃、
仲間たちと無軌道に夜を過ごした、あの裏町。
香の煙と笑い声、指先に絡む女の髪の匂い。
若気の衝動と虚しさが入り混じる、魔法界の夜の底。
「懐かしいですね。」
「だろう? あの頃はよく行ったじゃないですか。君も今くらい、肩の力を抜いた方がいいですよ。」
バーテミウスの軽口を聞きながらも、レギュラスの頭の片隅には、どうしてもアランの顔が浮かんだ。
――屋敷で、自分の帰りを待っているだろう彼女。
それを思うと、胸の奥に鈍い痛みが広がった。
だが同時に、理屈では言い訳がついてしまう。
最近、アランとはほとんど顔を合わせていない。
彼女の身体を気遣い、屋敷で安静にさせている時間が増えた。
夜の温もりも、会話も、限られたものになった。
気づけば、心の隙間に焦燥が積もっていく。
――これは、仕方のないことだ。
息苦しい日常の中で、ほんの一夜の逃避くらい許される。
そんな理屈を胸の奥で反芻しながら、レギュラスは笑った。
「分かりました。少しだけ付き合いましょう。
どうせこのまま帰っても、眠れそうにありませんから。」
バーテミウスは満足げに立ち上がる。
「いい判断ですよ。じゃあ、あの店で待ってます」
彼が去ったあと、執務室には再び静けさが戻った。
レギュラスは机の上のペンを見つめ、しばらく動かなかった。
指先に残るインクの匂いが、ふいに胸を刺す。
――アラン。
彼女の柔らかな微笑みと、夜ごとに小さく頷く姿が浮かぶ。
けれど、もう一人の自分が囁く。
「これは現実逃避じゃない。ただの発散だ。」
ローブの襟を正し、ランプの灯を消す。
闇に沈む執務室の中で、
レギュラスはわずかに自嘲を浮かべながら扉を開けた。
ノクターナル・レーンの夜は、まだ長い。
グラスの底に残った酒が、薄暗いランプの光を受けて鈍く揺れていた。
かつての学生の頃のように、浴びるように飲むことはもうできない。
けれど――今夜は珍しく、理性の箍が少しだけ外れているのを自覚していた。
空のグラスが並び、頬を撫でる酒気が心の奥まで沁みていく。
店の名は〈カーミラの窓辺〉。
ノクターナル・レーンの裏路地、石畳の影に沈む古びた酒場だ。
細長い階段を降りた先には、赤いベルベットのカーテン、甘い香と湿った木の匂い。
闇と欲の熱気が混ざり合って、息をするだけで酔いが増していくようだった。
レギュラスは深く椅子に腰を沈め、傍らのグラスを指先で転がした。
両隣には、見た目だけ華やかな女たちが二人。
金糸のような髪を揺らしながら笑い声を上げるが、その笑みの裏にあるものは軽く、どこか空虚だった。
知性も品性もない――だが今夜ばかりは、その軽薄さがむしろ都合が良かった。
酔って、騒いで、全てを曖昧にしていくには、こういう女たちがちょうどいい。
「君は何も変わらないな。」
バーテミウスがグラスを掲げて笑う。
深紅のワインが、光に透けて血のように見えた。
「あなたに言われたくはないですね。」
レギュラスも口角だけで笑い返す。
それだけでまた女たちは黄色い声を上げた。
「いやいや、僕は結婚してない分、まだ自由だ。
君の方が縛られてる分、罪深いですよ。」
レギュラスはグラスを傾け、苦笑した。
「……まさか、あなたに説教される日が来るとは。」
「説教じゃない、忠告ですよ。
君はあまりにも“立派すぎる”んです。そういう人間ほど、時々壊れたくなる。」
その言葉に、一瞬だけ胸の奥がざらつく。
アランの顔が、瞼の裏に浮かんだ。
けれどすぐに、酒で流し込むようにグラスを空ける。
「さすがですね。飲み歩いているだけあります。」
「そりゃあ、これが唯一の娯楽ですからね。」
バーテミウスは豪快に笑い、すぐに次のグラスを注文した。
彼の飲む速度は、学生の頃と何も変わらない。
あの頃は互いに競い合うようにグラスを空け、夜明けの鐘を聞きながら肩を組んで歩いた。
若さと無謀と自尊心だけを燃料にして。
だが、もうあの頃のようにはいかない。
酔いが早く回る。
胸の奥が鈍く痛む。
飲み干したあとに残るのは、高揚ではなく、微かな虚しさだ。
「昔ほどは飲めなくなりましたね。」
レギュラスが呟くと、バーテミウスはからりと笑った。
「保守に走ったからですよ、君は。
名誉も地位も、失いたくないものが増えると、人は慎重になる。
――僕らも、老けたもんですよ。」
「そうですね。」
レギュラスは静かに答え、再びグラスを傾けた。
舌に触れた酒は、どこか苦かった。
店内の明かりがゆらめく。
女たちの笑い声が遠のき、周囲のざわめきがぼやけていく。
酔いの中で、心の奥に沈んでいる何かが膨らんでいった。
――アラン。
屋敷の寝室で、静かに目を閉じているであろう彼女の姿が浮かぶ。
自分がいない夜、彼女はどんな夢を見るのだろう。
不安だろうか、寂しいだろうか。
それとももう、自分の帰りなど待たなくなっているのだろうか。
酒のせいか、胸の奥が熱い。
それが罪悪感なのか、空虚さなのか、自分でも分からない。
「次は強めのやついきます?」
バーテミウスの声が、現実に引き戻す。
「ええ、今夜はまだ終わらせたくありませんから。」
レギュラスは笑って答えた。
その笑みは、どこまでも静かで、どこまでも哀しかった。
グラスが触れ合う澄んだ音が、夜の底に沈んでいく。
揺らぐ灯りの中で、彼の瞳は少しだけ遠くを見つめていた。
それは、決して帰れない場所――
あの静かな屋敷の寝室で、自分を待っている誰かの元だった。
寝室の扉が、ゆっくりと軋む音を立てて開いた。
夜更けの静寂を破るその音に、アランはすぐに目を覚ました。
部屋の灯りは落とされたまま。窓の外から差し込む月明かりが、薄いレースのカーテン越しに白く床を照らしている。
ジャケットがソファに無造作に投げ捨てられる音がした。
その布の落ちる鈍い音に、アランの胸が小さく締めつけられる。
レギュラスが戻ってきた――その事実だけで、胸の奥に安堵が広がった。
けれど、次の瞬間には、その安堵が痛みに変わる。
ベッドの縁に手をつき、アランは静かに上体を起こした。
部屋の入り口には、黒いローブの裾を引きずるように歩くレギュラスの姿。
少しふらついた足取り。
深く息を吐いた拍子に、鼻先をかすめたのはタバコとアルコール、そして知らない香水の混じった匂い。
それは、まるで歓楽街そのものの空気を彼が纏って帰ってきたかのようだった。
彼はアランの方を一瞥することもなく、靴を脱ぐのも忘れたままベッドに倒れ込む。
重い身体がマットレスに沈み、すぐに静かな寝息が聞こえはじめた。
まるで長い夜の疲労をすべて投げ出すように。
アランはただ、そこに座っていた。
おかえりなさい――と視線で伝える。
けれど、その想いは届かない。
返事も、微笑みも、ない。
枕元にかかった月明かりが、レギュラスの横顔を照らしている。
いつもより少し険しく、眉間の皺が深く刻まれていた。
その表情のまま眠る彼が、どこか遠い世界の人に見えた。
――彼はタバコを吸うのだろうか。
これまで見たことはない。
食事の席で、ワインをわずかに嗜む程度の彼しか知らない。
けれど今夜は、アルコールの香りが強く、指先にまで冷たい夜の匂いが染みついている。
彼がどんな顔で酒を飲み、誰とその時間を過ごしたのか。
アランには何一つ分からない。
“妻”という名で呼ばれる立場にあるはずなのに、
彼の生活の一部にもなれず、心の中にも触れられない。
触れたくても、言葉がない。
胸の中に渦巻く感情を形にする術を持たない。
――遠い。
その距離が、あまりにも遠かった。
手を伸ばせば届くはずの距離なのに、
彼の心までは何百里も離れているように感じられる。
「おかえりなさい」と、言いたかった。
けれど声は出ない。
喉の奥に詰まる言葉が、行き場を失って消えていく。
ただ、両手を胸の前で重ねて、静かに息を吐いた。
ベッドの片側には、彼のぬくもりが広がっている。
けれどそこに横たわることはできなかった。
背中を向けるようにして、アランは窓の方を向く。
外には冷たい月が浮かんでいた。
まるでその光だけが、自分の孤独を知っているかのように。
――“帰ってきてほしかった”
たったそれだけの想いさえ、言葉にできない。
そのことが何よりも切なく、痛かった。
夜が静かに更けていく。
レギュラスの寝息と、外の風の音だけが、
広すぎる寝室の中に響いていた。、
朝の光が、まだ重たいカーテンの隙間から細く差し込んでいた。
それは、鈍く疼く頭の奥を刺すように照らし、レギュラスは眉をひそめながら、ゆっくりと枕から頭を離した。
――痛い。
頭蓋の内側で鼓動が打ち鳴らされているような痛み。
ああ、この痛みは久しぶりだ。
若い頃、寮の仲間たちと夜通し飲み明かした翌朝――よく知った、懐かしい痛みだった。
ホグワーツの学生だった頃は、この程度の頭痛なら“朝の授業を一つ休めば済む話”であった。
「必殺の一限サボり」と仲間たちが名付けたその逃げ道は、まだ許される若さの特権だった。
すべての教科で満点を取る自分を、教授たちは咎めなかった。
多少の欠席など、優等生の余白として見逃されていた。
――だが今は違う。
魔法法務部の机の上には、昨日処理しきれなかった書類が積み上がっている。
逃げ場のない現実が、鈍い頭痛より重くのしかかる。
ぼんやりとした視界の中で、食卓の向こうから母の甲高い声が響いた。
「なんです、そのだらしなさは! どこの歓楽街で飲み歩いてきたのかは知りませんが、
ブラック家の人間がみっともなく見苦しい姿を世間に晒すなど、あってはなりません!」
その声の刺々しさに、ガラスが割れたのかと錯覚するほどだった。
頭痛の芯を突かれるような鋭さ。
思わずこめかみを押さえ、吐息まじりに言葉を返す。
「母さん……今は声を落としてくれませんか。頭痛には、あまりにも響きます。」
ヴァルブルガの声は、即座に更なる苛立ちを帯びる。
「何ですって? 自業自得でしょう! ああ、ブラック家の名が地に落ちるわ!」
やれやれ――とレギュラスは内心で息を吐く。
その横で、アランが心配そうに覗き込んできた。
長い黒髪が頬をかすめ、翡翠色の瞳がやわらかく揺れている。
「少し飲み過ぎましたが、大丈夫です。昼には良くなります。」
アランの視線に応え、微笑みを作る。
彼女は小さく頷き、そっと手を伸ばして、テーブルの皿を遠くへ押しやった。
ヴァルブルガがアランに与えた“胎児に良い”とされる珍味の皿だ。
独特な香辛料と薬草、海獣の乾燥粉末が混ざり合ったその匂いは、今朝ばかりはやけに強烈に感じられた。
胃の底からこみ上げるような吐き気が、酒の残り香と混ざり合う。
「……すみません、匂いが少し。」
眉を寄せながら呟くと、アランは小さく眉尻を下げ、申し訳なさそうに微笑んだ。
その仕草だけで、どこか救われる。
だが、その優しい空気はすぐにかき消される。
「何を仰っているの、あなた!」
ヴァルブルガが、椅子を鳴らして身を乗り出した。
「これはどこの国から仕入れたか、分かっていて言っているの?
この薬膳の効能を何度説明したかしら――胎児の安定、母体の強化、魔力の循環促進……」
甲高い声が、部屋の隅々まで響く。
延々と続く効能の羅列に、レギュラスは再び頭を押さえた。
まるで呪文のように続く母の声は、彼にとって雑音以外の何ものでもなかった。
「……わかりました、母さん。」
そう言いながらも、完全には聞き流せない。
母が放つひとつひとつの言葉の中に、この屋敷を支配する“血の思想”が滲んでいる。
アランにとって、それがどれほど息苦しいことかを思うと、胸の奥に鈍い痛みが広がった。
ヴァルブルガが語る「血の尊厳」も、「母としての責務」も、
もはやこの屋敷の中で呪いに近い。
だが母にそれを言ったところで理解はされないだろう。
アランが静かに立ち上がり、皿の隣に置かれていたティーカップを手に取る。
小さな手のひらでカップを持ち上げ、そっとレギュラスの前に差し出す。
湯気の立つミントティーの香りが、わずかに空気を変えた。
「ありがとう、アラン。」
その一言をようやく絞り出す。
彼女は優しく頷き、母の視線の届かぬところで、ほんの少し唇を綻ばせた。
ヴァルブルガの怒声が再び上がる中、
レギュラスはゆっくりとティーカップを傾けた。
冷えた胃の底に、温かい香草の苦味が染み渡っていく。
――この屋敷は、今日も変わらない。
母の支配と、アランの沈黙の間で、
レギュラスはひとり、静かに頭痛を抱え込んでいた。
朝食が終わり、まだ紅茶の香りがわずかに残る部屋の中。
レギュラスは立ち上がり、カーテンの隙間から射し込む柔らかな朝の光を背にして、ゆっくりと上着のボタンを外した。
白いシャツの袖口を整えるその手元に、アランがそっと寄ってくる。
黒髪が肩先で揺れ、彼女の細い指がためらいがちにジャケットを手に取った。
「ありがとう、アラン。」
レギュラスの声はかすかに掠れていた。
昨夜の酒のせいか、あるいは母の小言に耐えた朝の疲れがまだ抜けきらないのか――。
アランは無言のまま、彼の襟を直してやる。
その仕草があまりにも優しく、触れる指先の温もりが胸の奥に沁みた。
少し身を屈め、彼女の手を包むようにして抱き寄せる。
「昨日は……少し飲み過ぎたみたいです。」
息を吐くように、言葉が零れた。
アランは驚いたように見上げ、その翡翠の瞳を細めた。
静かな部屋の中で、彼女の視線だけがまっすぐにレギュラスを貫く。
――その目が痛いほどに優しい。
叱るでもなく、責めるでもなく、ただ案じている。
彼女の沈黙の中には、いつも言葉以上のものがある。
アランは杖を手に取り、空中に細い文字を描いた。
『飲み過ぎないでくださいね』
淡い光を帯びたその文字がゆらめき、消えていく。
それを見つめながら、レギュラスは小さく笑った。
苦笑とも、自嘲ともつかない、かすかな笑み。
「ええ、そうします。もう若くはないみたいですから。」
冗談めかして言ったつもりだったが、声に疲れが滲んでいた。
アランは小さく首を振り、そのまま彼の胸に額を寄せた。
その仕草が、まるで“あなたは充分強い人です”と伝えてくれているようで。
レギュラスは思わず腕に力を込めた。
髪から漂う微かな香り――甘く、懐かしい匂い。
この屋敷の重たい空気の中で、唯一心を柔らかくする香りだった。
「すみません、アラン。」
「……」
声を出せない彼女は、ただ静かに首を振る。
何も言葉にしなくても伝わる。
その瞳には、確かな安堵と、わずかな寂しさが同居していた。
窓の外では、霧が少しずつ晴れていく。
新しい朝が始まっている。
それでも――この穏やかな一瞬が、二人の時間のすべてのように思えた。
レギュラスは彼女の頬をそっと撫で、額に口づける。
「今夜は……もう少し早く帰ります。」
アランは微笑み、ほんの少し頷いた。
言葉のない朝。
それでも心の奥では、確かに会話があった。
沈黙の中に、互いの想いが静かに満ちていた。
屋敷の午前は、いつもより少し静かだった。
淡く曇った陽光が、分厚いカーテンの隙間から滲み込み、アランの頬に柔らかく触れる。
その指先には、杖が握られていた。文字を描くたび、空中に淡い光の線が浮かんでは消える。
シリウスは椅子の背にもたれ、窓の外に流れる薄い雲を眺めながら、ふとため息をついた。
昨日に続いて二日連続でこの屋敷に足を運ぶことになるとは思ってもいなかった。
だが、どうしても気になってしまったのだ――あの繊細な瞳の奥に宿っていた、不安の影が。
「……レギュラスはお酒を飲みますか?」
杖の先が空を撫でるようにして淡く光り、その文字が浮かび上がる。
“レギュラスはお酒を飲みますか?”
か細く揺れる筆致に、彼女の心の迷いが透けて見えるようだった。
「……あいつか?」
シリウスは短く笑って首を傾げた。
「一緒に飲むようなこともねぇからな。わかんねぇよ。」
その言葉を聞いたアランは、ほんの一瞬、笑みを作った。
けれど、その笑みは儚く、影のように消えていった。
静かな寂しさが、瞳の奥でわずかに光る。
沈黙が落ちる。
風が窓を撫で、薄いカーテンが小さく揺れた。
アランは再び杖を動かす。今度はゆっくりと。
“じゃあ、タバコは吸いますか?”
「タバコ?」
シリウスは片眉を上げて笑った。
「見たことねぇな。……どうした? なんかあったのか?」
問いかける声に、アランは迷うように視線を伏せた。
その長いまつげの影が頬に落ち、彼女の沈黙が痛々しいほどに美しかった。
やがて、彼女の杖の先が再び光を描く。
“昨日は帰りがとても遅かったです。お酒とタバコの匂いがすごくて……”
淡く光る文字が空中に漂い、やがて霧のように溶けていく。
シリウスは何も言えなかった。
胸の奥に、重たいため息が込み上げてくる。
――あいつめ。
口には出さなかったが、心の中で吐き捨てた。
自分もかつては夜を明かして飲むこともあった。
酔いに任せて愚かに笑った夜もあった。
けれど――妻を迎えながら、彼女を置いて好きに夜を過ごすような真似はしない。
「……そうか、心細かったんだな。」
ようやく出た言葉は、やけに優しかった。
アランはその声に、驚いたように顔を上げる。
そして、ゆっくりと、ほんの少し頷いた。
彼女の瞳が、光を受けて揺れる。
まるで涙を閉じ込めたガラス玉のようだった。
シリウスは胸の奥が締めつけられるのを感じた。
彼女のその静けさ――泣きもせず、訴えもせず、ただ寂しさを抱きしめるような姿が、
どうしようもなく胸に迫ってきた。
言葉を失い、ただ見つめるしかない。
白い手の甲、細い肩、柔らかく波打つ黒髪。
そのどれもが儚く、今にも消えてしまいそうだった。
レギュラスの帰りが遅くて、心細かった――。
そのたった一行の想いが、どれほど彼女の心を覆っているのか。
シリウスには痛いほどわかってしまう。
外では風が枝葉を揺らしていた。
鳥の鳴き声が遠くで響く。
そんな穏やかな朝の景色の中で、アランの寂しげな笑みだけが、
異様に美しく、そして悲しかった。
昼下がりの光が、屋敷の高い窓からやわらかく差し込んでいた。
カーテン越しの陽が、淡く漂う埃の粒を照らし出し、静かな部屋を金色に染めている。
アランは窓際の長椅子に腰かけ、毛布を膝に掛けていた。
シリウスはその斜め向かい、古い肘掛け椅子に深く腰を下ろし、足を組んでいる。
「……でさ、あいつ、マクゴナガル先生の前で“完璧な変身術”とか言って、
自分の鼻を豚に変えたまま戻せなくなったんだよ。丸二日だぞ、二日!」
笑いを堪えながら肩を震わせるシリウス。
アランはその話を聞きながら、口を押さえて俯いた。
次の瞬間、声にならない笑いが零れた。
唇が開いて、喉が小さく震える。
けれど、音にはならない。
それでも、その笑いが部屋の空気を明るくしていく。
「信じられるか? 本人は“あれも研究の一環だ”とか言ってんだぞ。
豚鼻で研究もクソもねぇってのに!」
シリウスは手振りを交え、わざと大げさに鼻を摘まんでみせた。
アランは声を出さずに笑い続けていた。
肩を震わせ、目尻を下げ、涙が出るほどに――。
その笑いは、柔らかく、儚く、それでいて心の底から嬉しそうだった。
「あとさ、この前の話な。あれ、ほんとにやっちまったんだ。」
「?」というようにアランが首を傾げる。
「夜の巡回中にさ、うっかり魔法省の廊下で転んでな。
書類が散らばってんのに、よりによって大臣が通りかかったんだよ。
しかも“ブラックくん、床掃除も仕事に加わったのかね?”だとさ!」
アランの瞳がきらりと光る。
杖を手に取り、淡い文字が空に浮かぶ。
“それは……恥ずかしいですね”
「だろ? 頼むからその時だけは笑わないでくれって言いたかったけど、
周り全員笑ってやがってな。まあ俺も笑ったけど。」
軽口を叩きながらも、シリウスの声にはどこか優しさが滲んでいた。
彼は、ただこの部屋の静けさを破りたかった。
沈黙の中に閉じこもる彼女を、少しでも外の光の中に連れ出したかった。
アランはそんな彼の気持ちを感じ取っていたのだろう。
喉の奥から小さく息を漏らすように笑い、唇で“ふふ”と形を作った。
その表情は、まるで春の陽だまりのように柔らかかった。
「アラン。」
シリウスは少し真面目な顔になる。
「お前は――笑ってる方が、かわいい。」
その言葉は、何の下心もなく、ただ真っ直ぐだった。
アランは少し驚いたように目を見開き、それから杖をゆっくりと動かした。
“あなたも、笑ってる顔は悪い少年みたいです”
その文字が空に浮かび上がり、やがて淡く光りながら消える。
シリウスは、思わず苦笑した。
「悪い少年、ね。……まあ、褒め言葉として受け取っとくか。」
アランの頬がほんのりと紅く染まっていた。
唇の端が柔らかく上がり、目元に小さな皺が寄る。
笑っている――確かに笑っている。
その姿は、昨日よりもずっと穏やかで、どこか救われたように見えた。
窓の外では午後の光が少し傾き、庭の花々を金色に染めている。
シリウスはその光を背に、腕を組みながら微笑んだ。
――ああ、やっと、笑ってくれた。
そんな小さな達成感と、言葉にならない温もりが胸の奥に灯った。
外の世界はどれだけ冷たくても、この瞬間だけは穏やかだった。
夜の静寂が屋敷を包み込んでいた。
カーテンの隙間から、月の光が細く差し込み、寝室の白いシーツの上に淡い影を落としている。
レギュラスはベッドの片側に腰を下ろし、上着を脱いでカフスを外していた。
その隣でアランは、静かに膝を抱えるようにして座っていた。
どこか夢見心地な表情で、ふわりと笑みを浮かべている。
――気づけば、昼間の光景が頭の中を巡っていた。
シリウスの話す声、軽やかに笑う仕草、空気を変えるような明るさ。
声が出せない自分の代わりに、まるで心まで代弁してくれるようなあの人の話し方。
それを思い出すだけで、胸の奥がくすぐったくて、自然と頬が緩んでしまう。
「……どうしました?」
不意に、柔らかな声が降ってきた。
レギュラスが書類をテーブルに置き、静かにこちらを振り返っていた。
灰銀色の瞳が、月の光を映してやさしく揺れている。
アランはハッとして、慌てて首を振る。
けれど、顔の熱は引かない。
「笑ってたでしょう?」
少し困ったように微笑みながら、レギュラスは問いかける。
心臓がどくんと跳ねた。
――見られていた。
その声には責める色はなく、ただ純粋な疑問がにじんでいた。
だからこそ余計に、罪悪感が胸を刺す。
「何か楽しいことでも思い出しました?」
レギュラスはゆっくりと隣に腰を下ろし、アランの頬に手を伸ばした。
白く整った指が、彼女の頬を撫でる。
その手は冷たくもなく、ただ温かくて、優しさそのものだった。
――優しい人だ。
この人はいつだって、自分を見守ってくれる。
疑いもせず、責めもせず、ただ寄り添ってくれる。
その穏やかな眼差しに、胸がきゅっと締め付けられる。
でも――今、胸の奥に浮かぶのは別の人の笑顔。
自由で、無鉄砲で、風のように明るいあの人の声。
レギュラスの静けさとはまるで対照的な、太陽みたいな人。
自分の心が少しずつ揺れていることを、痛いほどに自覚していた。
それなのに、どうしても隠さずにはいられない。
シリウスの話を、レギュラスにはできない。
たとえ何のやましさがなかったとしても――彼が聞けば、確実に傷つけてしまう。
アランは曖昧に笑って、言葉を濁すように首をかしげた。
そして、レギュラスの手にそっと自分の手を重ねる。
「……?」
訝しげに眉を動かした彼に、アランは小さく微笑んだ。
“ただ、少し幸せなことを思い出していました”――そう伝えるように。
その笑顔に、レギュラスもようやく安心したように目を細めた。
彼の指が、再びアランの頬を優しくなぞる。
「なら、よかった。」
月明かりが二人を淡く照らしていた。
けれど、アランの胸の奥では、静かな罪悪感と温かな幸福が同居していた。
彼の優しさが痛いほど愛おしくて、
それなのに、昼間の記憶がどうしても消えてくれなかった。
――シリウスの声が、まだ耳の奥で笑っている。
アランはその声を追い払うように、そっと目を閉じた。
そして、レギュラスの肩に額を預ける。
彼の鼓動が穏やかに響いて、やっと心が静まっていく。
けれどその夜、眠りにつくまでの間、胸の中では二つの温もりがせめぎ合っていた。
闇の帝王の屋敷――その名を口にするだけで、空気が冷たくなるような場所だった。
月光すら近づくのを拒むように、暗い森の奥に沈むその館は、夜の静寂と腐敗した威圧をまとっている。
石造りの長い廊下は湿気を帯び、天井から垂れる燭台の炎が揺らめいては、壁に刻まれた古い呪文の文字を照らしていた。
レギュラス・ブラックは無言でその廊下を歩く。
靴音が反響し、まるで闇が返事をしてくるようだった。
両手を背に組み、彼は一歩一歩を正確に刻む。
どんなに慣れた道でも、この場所では決して心を緩めることは許されない。
広間に入ると、そこにはヴォルデモートがいた。
冷たい瞳が、蛇のような細い光を放っている。
その口元がゆっくりと弧を描いた。
「――あの女の血が、無事に繋いでいけるようだな。」
その声は、低く、静かに響いた。
祝辞というにはあまりにも冷酷で、まるで成功を当然とする者の声音だった。
「よくやった、レギュラス。」
レギュラスは片膝をつき、深く頭を下げる。
胸の奥で脈打つ鼓動が、自分でも驚くほど穏やかだった。
この瞬間のために、どれほどの夜を耐えてきただろう。
「これで俺様の力の永遠は保たれる。」
ヴォルデモートの指先が宙を撫で、燭台の炎が一斉に高く揺らめく。
その光の中で、レギュラスの影が長く伸びた。
安堵が胸を満たす。
――これで、アランを地下牢に戻されることはない。
闇の帝王との取引、それがどれほど危険であろうとも、この結果だけは得なければならなかった。
彼女の命も、心も、この一言で守られたのだ。
しかし、その束の間の安堵を断ち切るように、ヴォルデモートはゆっくりと視線を鋭くした。
「だが……」
その一言が、空気を一瞬で凍りつかせた。
炎が小さく唸りを上げ、蝋が滴り落ちる音がやけに大きく響く。
「――まだ“ニワトコの杖”が見つからぬようだな。」
レギュラスは息を飲む。
背筋が自然と伸びた。
その名を出されるだけで、背中に冷たい汗が伝う。
「はい。総動力で探しています。
騎士団が嗅ぎつけるより先に、必ず見つけてみせます。」
彼の声は凛としていた。
決して恐怖を悟らせてはならない。
この男の前で、弱さを見せることは死を意味する。
ヴォルデモートは細い唇を歪め、愉悦にも似た笑みを浮かべた。
「お前には――期待しているぞ、レギュラス。」
低く響くその言葉は、称賛のようでいて、呪いのようでもあった。
部屋の温度がさらに下がる。
背後に立つ死喰い人たちの影が、わずかに動いた。
「……恐れ入ります。」
再び深く頭を下げた。
一つ肩の荷が下りたと思えば、また一つ新たな鎖がのしかかる。
それでも、レギュラスの瞳には静かな決意が宿っていた。
彼の脳裏には、アランの笑顔が浮かんでいた。
柔らかく微笑み、声のない唇で何かを伝えようとしていたあの姿。
彼女を、もう二度と牢の闇に戻すわけにはいかない。
そのためなら、この命の全てを賭けてもいい。
「……アラン。」
心の奥で、彼女の名を小さく呼ぶ。
ヴォルデモートの冷笑が背中に突き刺さる中で、
レギュラスは静かに瞳を閉じた。
――この身が闇の鎖に縛られようとも、
せめて彼女の光だけは、自由であってほしい。
そう願いながら、彼は再び頭を垂れた。
レギュラスの部屋には、長い夜が続いていた。
書き散らされた古文書と、世界各地の地図が床いっぱいに広げられ、ロウソクの光がその上を揺れている。
ニワトコの杖――死の秘宝のひとつ。
ヴォルデモートがそれを求めている限り、見つけ出すまでは決して休息は許されなかった。
しかし、どこを探しても、何を調べても、手がかりすら掴めない。
数百年にわたる血の伝承、魔法史に残る名だたる決闘記録、その全てを読み解いてもなお、
その杖はまるで霧の中の幻のように姿を見せなかった。
もはや――伝説でしかないのではないか。
そんな思いが、何度も心をかすめる。
屋敷に戻れぬ夜が続いた。
アランの顔を見ることさえできない日々が、いつの間にか指折り数えられなくなっていた。
帰れない間に、彼女のお腹は少しずつ膨らみ、
確実に新たな命を宿していることを屋敷の報告で知るたびに、胸の奥に重い罪悪感がのしかかってくる。
――自分は、何をしているのだろう。
彼女を守るために始めたはずの戦いが、
いつしか自分の手で、彼女を孤独にしている。
屋敷に帰った夜、レギュラスは寝室の扉を静かに開けた。
アランは窓辺の椅子に座り、淡い光を浴びていた。
月の光が黒髪に降り注ぎ、漆黒の絹糸のように艶やかに輝く。
その姿を見ただけで、胸が締め付けられた。
「……アラン。」
声をかけると、アランはゆっくりと顔を上げる。
微笑もうとするが、わずかに震えた。
彼女は杖を手に取り、“おかえりなさい”という文字を宙に描く。
レギュラスは小さく息を吐き、彼女の傍に膝をついた。
その手首をそっと取り、自分の胸に引き寄せる。
「寂しい想いを、させていますよね……。」
その声は、懺悔にも似ていた。
アランは首を横に振る。
けれど、その仕草の奥に、ほんのわずかな寂しさが滲む。
抱き寄せた腕の中、アランの身体は驚くほど軽かった。
けれどその腹には、確かに命が息づいている。
彼女の小さな体の中に、二つの鼓動が宿っているのだと思うと、
不思議なほど現実が遠く、夢のように感じられた。
少女のような柔らかさを纏いながらも、
母としての静かな強さが、アランの中には芽生えている。
その二つが混ざり合い、まだ形を定められずに揺らめいている。
まるで、冬の朝に差す淡い光のようだった。
「……あなたは、強いですね。」
レギュラスはそう言いながら、アランの髪を撫でた。
黒髪が指の間を滑り、微かな香が胸を満たす。
アランは静かに微笑み、彼の胸に額を預けた。
――この人がいる。
それだけで、まだ生きていける。
そんな想いが互いの沈黙の中で交わされた。
遠くで時計が時を告げる。
屋敷の外では夜の風が木々を揺らしていた。
ニワトコの杖はまだ見つからない。
世界のどこに眠っているのかも分からない。
けれどこの瞬間だけは、
レギュラスはようやく戦いの重さから解放された気がした。
アランを抱きしめたまま、彼はただ願う。
どうか――この腕の中の命だけは、闇に染まらぬように。
