1章
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夜はすでに深く、外の風が窓をわずかに揺らしていた。
ランプの光が室内に柔らかく灯り、淡い金色の明滅が二人の影を壁に映し出す。
その静寂の中で、レギュラスはただアランの肩を抱き寄せていた。
彼女の体が小さく震えている。
その震えが、手のひらから胸の奥まで伝わってくる。
確実に――彼女の心は、もう自分に寄り添ってはいない。
そう悟った瞬間、息をするのも苦しくなるほどの痛みが胸を走った。
抱きしめた腕の中のアランは、まるで壊れそうな硝子細工のようだった。
拒絶しているわけではない。
けれど、何かを恐れている。
心が自分の方へ向いていないのだと、確信してしまうほどに。
このまま行為を続けることは、彼女をさらに追い詰めてしまう気がした。
それは愛ではなく、鎖になる。
レギュラスはゆっくりと動きを止め、額を彼女の肩に押し当てた。
あの地下牢の冷たさが脳裏をよぎる。
彼女をそこから解き放つこと――それだけが自分の“救い”だった。
だが今、思い知らされる。
この屋敷もまた、別の形の牢獄なのだ。
世間の注目、母の声、そして自分という存在さえも。
アランを束縛する鎖になっているのだと。
「……すみません、アラン。」
小さく呟いたその言葉は、夜気に溶けて消えた。
彼女が発した声にならない“ごめんなさい”が、胸の奥に届いた気がした。
その瞬間、喉の奥が締めつけられた。
――謝るのは、自分の方だ。
彼女を救いたかった。
幸せにしたいと、心から思っていた。
あの闇の底から引き上げたとき、その願いに一点の偽りもなかった。
だが、気づけばその手がまた、彼女を縛っていたのかもしれない。
愛している――その言葉がどこまで真実として響くのか。
どこまでが彼女に届くのか。
それが分からなくなっていた。
だから、言わなかった。
今その言葉を口にすれば、あまりにも脆く崩れてしまいそうで。
言葉が、彼女を救うどころか傷つけてしまいそうで。
代わりに、レギュラスはただアランの髪を撫でた。
その漆黒の髪に指を滑らせると、微かに震えが伝わってくる。
抱き寄せたまま、彼は小さく息を吐いた。
「怖くないですよ。もう、どこにも鎖なんてありません。」
自分自身に言い聞かせるように囁く。
けれどその声は、わずかに震えていた。
アランの瞳には、月明かりが反射していた。
涙ではなく、静かな光。
それでも、彼女の心までは掴めない。
指の間からすり抜けるように、遠くへ行ってしまいそうだった。
この愛が、もしも彼女を自由にするものではなく、
また新しい枷となるのなら――
自分の手で、それを断ち切る覚悟を持たねばならないのだろう。
レギュラスはそっとアランの額に唇を落とした。
何も言わず、ただその温もりを確かめるように。
その沈黙の中で、彼の心だけが深く、静かに崩れていった。
シリウス・ブラックは、暖炉の前の肘掛け椅子に身を沈め、静かに新聞を広げていた。
紙面の中央を飾る見出しには、煌びやかな金文字が踊っている。
「ブラック家の跡取り、レギュラス・ブラック、セシール家の末裔と婚姻」
写真の中で、アラン・セシールは薄いヴェールを纏い、遠くを見つめていた。
彼女の瞳は翡翠のように澄んでいて、どこか儚い。
だが、その微笑の裏にあるものを思うと、胸の奥がざわついた。
――彼女は、今、どんな思いでいるのだろう。
血筋だの誇りだのと騒ぎ立てる世間の声が、
あの少女をどれほど傷つけているかを思うと、たまらなくなった。
好奇の視線に晒され、貴族社会の見せ物にされて、
あの優しい心がどれほどの孤独に耐えているのか。
あの人は、花に魔法をかける人だった。
ただ美しく残ってほしいと願う、そんな魔法。
力を誇示するためでも、誰かを従えるためでもない。
たった一輪の花を枯れさせないための、静かな優しさ。
――そんな魔法を使う彼女が、
今、笑えているのだろうか。
その瞳がまだ、光を失っていないだろうか。
気づけば、新聞は手の中でくしゃりと音を立てていた。
シリウスは立ち上がり、黒いコートを羽織る。
行くべき場所は、もう決まっていた。
魔法省の廊下を歩く音が、静寂を切り裂いていく。
深い石造りの壁が冷たく反響する中、
シリウスの胸の内では、不安と焦燥が入り混じっていた。
レギュラスは今、魔法法務大臣との会談中――
つまり、執務室にはアラン一人しかいない。
その短い時間が、唯一の機会だった。
扉の前に立つ。
深呼吸を一度だけして、そっとノックする。
返事がない。
代わりに、静寂だけが応える。
ゆっくりと扉を押し開けると、
差し込む光の中にアランがいた。
机の上には書類の山。
窓際の光が、彼女の漆黒の髪に柔らかく反射している。
顔を上げた彼女が、驚いたように瞬きをした。
「……久しぶりだな。元気にしてるか?」
声をかけると、杖の先が宙をなぞる。
淡い光の文字が空中に浮かんだ。
「こんにちは、シリウス。」
その文字を見ただけで、胸の奥が熱くなった。
新聞の写真の中の彼女よりも、
今ここで微笑む彼女の方が、ずっと自然で、ずっと“生きている”気がした。
「無理してないか?」
言葉が少し掠れた。
アランは、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
そして、ゆっくりと文字を書く。
「わからない。」
胸の奥で何かが軋んだ。
彼女のその一言に、どれだけの迷いと苦しみが詰まっているか。
「……レギュラスに、何か命令されてるのか?」
アランは首を横に振った。
「じゃあ……あの屋敷で冷たくされてるのか?」
再び、静かに首を振る。
そして、杖の先が震えるように宙をなぞった。
「レギュラスはとても優しい。でも、その優しさに返せるものが私にはない。」
その文字が消えるまでの間、
シリウスはただ黙って見つめていた。
胸が締めつけられる。
「返さなくていいんだよ。」
思わず口をついて出た。
「人が受け取る愛情ってのは、等価交換じゃない。
見返りなんて、最初から求めちゃいねぇ。
……お前が笑ってるだけで、それでいいんだ。」
アランはその言葉に、ゆっくりとまばたきをした。
翡翠の瞳に一瞬、光が宿る。
でも、それはすぐに消えた。
ただ静かに、微笑んで頷く。
その微笑が、痛いほどに優しかった。
まるで――ありがとう、と言っているようだった。
シリウスはもう一度、彼女の手元に視線を落とす。
細くて白い指先が杖を握りしめている。
かすかに震えていた。
言葉が出なかった。
何かを守りたいと思っているのに、
自分がどんな存在としてこの部屋に立っているのか――
それさえ、わからなかった。
窓の外では、風が吹き、花壇の花びらが舞っていた。
アランが一度だけそれを見つめ、杖を軽く振る。
散った花びらが、ふわりと宙で止まり、光に包まれて封印された。
――枯れない花。
あの日見た、あの優しい魔法。
シリウスは息を飲んだ。
その美しさに、そしてその哀しさに。
彼女の瞳が、光を失わずにいてくれますように――
そう願いながら、シリウスはゆっくりと目を閉じた。
魔法省の廊下は、昼の喧騒を少し過ぎた静けさに包まれていた。
高い天井に響く靴音だけが、規律の取れたこの建物の空気を支配している。
白い石壁の隙間から差し込む光が、淡く金色の筋を床に描いていた。
その廊下の角を曲がったとき、シリウス・ブラックは足を止めた。
遠くから歩いてくる姿――見間違えようもない。
整った黒髪に、漆黒のローブ。背筋はまっすぐで、歩みは寸分の乱れもない。
レギュラス・ブラック。
弟だった。
一瞬、二人の視線が交差した。
空気が張り詰める。
けれど、レギュラスは何事もなかったかのように、そのまま通り過ぎようとした。
その冷たい横顔に、シリウスの胸の奥で何かが弾けた。
「てめえのやり方が、どれほどあの女を縛ってるか考えろよ。」
通り過ぎざまに吐き出した声は、廊下の静寂を鋭く切り裂いた。
レギュラスの足が一瞬止まる。
背筋がわずかに硬直した。
振り返るその動作さえ、完璧に整っている。
冷たい灰色の瞳がシリウスを射抜く。
それは血の繋がった弟であることを感じさせないほど、遠く冷たい眼差しだった。
「あなたには関係のない話です。」
ピシャリと切り捨てるような声音。
その言葉の冷たさは、冬の魔法嵐のように鋭かった。
シリウスは思わず歯を食いしばる。
確かに、関係はない。
自分はもうブラック家の名を捨てた人間だ。
誇りも、家の恩恵も、何もかもを捨てた。
それでも――。
「……それでも、あの屋敷で、あの女が苦しんでるのを黙って見てられるほど俺は冷たくねぇ。」
声が震えていた。怒りか、焦りか、分からない。
だが胸の中に渦巻く熱は確かだった。
レギュラスは無言のまま立ち止まり、振り向かずに背を向けたまま答えた。
「詮索は不快です。」
それだけを残して歩き出す。
長いローブの裾が、床を払う音が廊下に響いた。
その一歩一歩が、まるでシリウスとの距離を永久に断ち切るように冷たかった。
「お前はあの女の血をブラック家に取り込むために利用してるんだろ。」
抑えきれない怒りが再び声になった。
「どこまでも下衆なお前がやりそうなことだ。」
レギュラスの足がわずかに止まり、ほんの一瞬、肩が揺れる。
だが振り返らない。
「余計な詮索は――本当に不快です。」
その言葉だけが、静かに空気を切り裂いた。
低く、よく通る声。
怒りでも憎しみでもない。
ただ、冷たい拒絶の響きだった。
シリウスは無意識に拳を握り締めた。
爪が手のひらに食い込み、じわりと血が滲む。
それでも、何も言い返せなかった。
弟の背中は、遠ざかっていく。
その姿が廊下の奥に消えていくのを、ただ黙って見送るしかなかった。
――灰色の瞳の奥に、あれほどの冷たさを宿すようになったのは、いつからだろう。
かつて同じ屋敷で笑い合っていたはずなのに。
今では、互いに立つ場所がまるで違う。
シリウスは深く息を吐き、壁に背を預けた。
どこかで、冷たい風が吹き抜ける。
それは、あの屋敷の息苦しさを思い出させる風だった。
――アラン。
お前の笑顔を奪っているのが、あいつでないことを祈る。
小さく呟いて、シリウスはその場を離れた。
廊下に残るのは、兄弟の残り香だけ。
冷たい光が差し込む中、二人の影が、二度と交わることのない線を描いていた。
魔法省の廊下を歩くレギュラスの足音が、冷たい石畳に乾いた音を落としていく。
その音に、わずかな苛立ちが混じっていた。
無意識のうちに指先でローブの袖を整える仕草にも、静かな怒りの熱が潜んでいる。
――シリウス。
あの男が廊下にいたということは、ほぼ確実に自分の執務室に入ったのだ。
そして、あの中にいるアランに接触した。
想像するだけで、胸の奥がじくりと灼けるようだった。
扉を開ける。
整然と並んだ書類の山、香の残り香、整いすぎた空気。
面白いほどに、シリウスの魔力の痕跡がない。
完璧な後消し。
魔力の波長ひとつ、残っていない。
……彼女の杖で施されたのか、それともシリウス自身が残さぬよう細工したのか。
どちらにせよ、その事実が腹立たしかった。
レギュラスは一歩、室内に足を踏み入れる。
「戻りました。」
声が落ち着いているのが、かえって不気味だった。
アランは机の前に立ち、振り返って微笑んだ。
その笑顔が、いつも通りすぎて――あまりに何も変わらない表情で、
その白々しさが逆に胸を突いた。
まるで何事もなかったかのように微笑む彼女。
その微笑の裏に隠れているものを知りたくて、
喉の奥まで「シリウスが来たのですね」と言葉がこみ上げたが、
レギュラスはそれを飲み込んだ。
――昨夜、アランが流した涙を見たばかりだ。
あの震える肩を抱きしめながら、自分がどんな顔をしていたのかも思い出した。
怒りをぶつけたところで、何を壊してしまうかわからない。
だからこそ、堪えた。
堪えたが――このまま黙っていることもできなかった。
彼女がまた同じ過ちを繰り返すのではないかという恐怖。
シリウスという名が、自分の知らぬ場所でまた彼女を呼び寄せるのではないかという焦燥。
それら全てを抑え込みながら、レギュラスは丁寧な声色を選んだ。
「アラン、僕は……あなたに、可能な限りの自由を持ってほしいと思っています。」
静かな声が、部屋の空気に染みていく。
アランは姿勢を正し、真剣に耳を傾けている。
その黒髪が、微かに肩で揺れた。
「でも、自由には責任も伴うものです。」
レギュラスは、彼女の瞳を見つめた。
「その責を負える範囲というものを、どうか見極めてください。」
言葉は穏やかに整えられていた。
けれど、声の奥に潜む緊張は隠せなかった。
「あなたの判断で、誰と会うか、何を選ぶか――
その一つひとつが、あなた自身だけでなく、僕たちの未来をも形づくるのです。」
ああは小さく頷いた。
その動きがあまりにも静かで、息をするのもためらうほどだった。
本当は「シリウスとはもう会わないでください」と言いたかった。
だが、それを口にした瞬間、
彼女が怯えたように目を伏せる姿が脳裏を過った。
言葉の端々に警告をにじませながらも、
直接的な名は出さなかった。
――言えなかったのだ。
愛している人を疑うという、あまりに惨めな行為を自分がしてしまうことに耐えられなかった。
その沈黙の中で、アランは静かに立ち上がり、
小さく一礼して微笑んだ。
その微笑みが、どこまでも柔らかく――けれど、どこか遠かった。
レギュラスはその姿を見つめながら、
胸の奥に沈殿していく苦い感情を飲み下した。
彼女の自由を望むことと、
彼女を失うことは、いつも紙一重だ。
そして、その狭間で自分は少しずつ壊れていくのだと、
彼は気づいていた。
夜の帳が降りる頃、レギュラス・ブラックはひとり屋敷を出た。
月は雲の合間に滲み、冷たい光を街路に落としている。
アランの寝室の灯りはもう落ちていた。
扉の向こうで眠る彼女の静かな寝息を想像しながら、レギュラスは一瞬だけ足を止めた。
だが、ためらいはすぐに理性で切り捨てる。
――今夜も、探しに行かねばならない。
ヴォルデモートがいまだ手に入れられずにいる「ニワトコの杖」。
死を制すと言われるその杖を、誰よりも早く見つけ出さねばならない。
それが、彼に課せられたもう一つの任務だった。
杖を手にして姿をくらますと、空気が一瞬にして歪んだ。
現れた先は、古びた山脈の奥、アルプスの麓にひっそりと佇む古代魔法史料庫跡。
かつて杖職人たちが死の秘宝について研究を重ねたとされる場所だ。
洞窟のように入り組んだ石壁には、封印の痕跡がまだ微かに残っている。
レギュラスは杖を掲げ、低く呪文を唱えた。
「Revelio Arcana.」
淡い青光が壁の線をなぞり、古い文字を浮かび上がらせる。
“最後の継承者は北の森に眠る”
その一文に指先が止まった。
北の森――スウェーデンとノルウェーの国境近くに位置する黒の森(シュヴァルツヴァルト)。
かつて、グリンデンバルトの同志が潜伏していたとされる場所。
レギュラスはすぐに座標を思い浮かべ、姿を消す。
吹雪が舞う中、森は静まり返っていた。
枝の一つひとつが氷の刃のように輝き、踏みしめる雪は鈍く軋む。
息を吐くたび、白い霧が立ち上った。
その奥、古びた祠のような建物があった。
かつて魔法史家が「杖職人グレゴロヴィッチが一時的に拠点とした」と記していた遺構だ。
重く閉ざされた扉に杖を向ける。
「Alohomora Maxima.」
鈍い音を立てて、錆びついた扉がゆっくりと開いた。
内部には、砕け散った杖の欠片がいくつも転がっていた。
一つひとつ拾い上げ、魔力を流して確かめる。
どれも、ただの模造。
本物の“死の杖”ではない。
だが、その模造品たちが示すものがあった。
――誰かが確かに、この地で「杖の再現」を試みていた。
ヴォルデモートの狙う“原初の杖”は、この連鎖の先にまだ存在している。
レギュラスは静かに息を吐いた。
氷の空気が喉を刺す。
「……無駄足ですか。」
呟く声が白く煙る。
けれど、止めることはできなかった。
一歩でも近づけば、闇の帝王の信頼を得られる。
その信頼の盾こそが、アランを守る唯一の術なのだから。
屋敷に戻る頃には、夜が明け始めていた。
冷え切ったローブの裾が重く、指先は感覚を失っている。
玄関の扉を静かに開けると、廊下にはまだ薄暗い光が漂っていた。
寝室の扉をそっと開ける。
ベッドの上で眠るアランの髪が、月の名残りを受けて淡く光っている。
胸が痛むほどに愛おしかった。
だが、彼女の傍に長く留まることができなかった。
その姿を見れば見るほど、心が揺らいでしまう。
自分が守るべきものを、曖昧にしてしまいそうだった。
距離を置くこと――それが、唯一の理性の証だった。
少しの間でも離れていれば、
嫉妬で狂いそうになる自分を落ち着かせられる。
あの男――シリウスの影に苛まれずに済む。
彼女の前では穏やかでありたい。
導く者でありたい。
そのためには、心を鎮める時間が必要だった。
レギュラスは静かに寝室を後にした。
扉を閉めたその瞬間、背中に温かな気配がまだ残っていた。
それが、心を締めつけた。
彼は空を見上げた。
夜明けの光が東の空を淡く染め始めている。
――この空の下のどこかで、あの杖がまだ眠っている。
そして、彼女を守る術もまた。
ローブの裾を翻し、レギュラスは再び歩き出した。
その足音だけが、静かな屋敷の廊下に響いていた。
アラン・セシールの懐妊の知らせは、まるで風が走るように一瞬で魔法界中へと広がった。
それは祝福というよりも、噂という名の炎だった。
――「待望の男児なるか」
――「封印の血を受け継ぐブラック家の新時代」
――「セシールの娘が、今度は母となる」
新聞の見出しが、屋敷の外壁のように次々と積み重なっていく。
魔法新聞《デイリー・プロフェット》も、雑誌《ウィッチ・ウィークリー》も、この話題で持ちきりだった。
筆を持つ者たちはこぞって「時代の変革」だと騒ぎ立てた。
まるでこの世紀の婚姻が、魔法界に新たな血統の象徴をもたらすかのように。
だが――その渦の中心にいるアラン自身は、何も知らないふりをして静かに息をしていた。
屋敷の中は、朝からざわめいていた。
執事や家令、医務魔女までもが廊下を忙しなく行き交い、
ヴァルブルガは上階の客間で、早くも「男児であれ」と祝宴の手配を始めている。
アランの名が、誰の口にも出る。
それなのに、肝心の彼女だけが――その中心でぽつりと取り残されていた。
「おめでとうございます」と告げた医務魔女の声が、今も耳の奥で反響している。
けれど、心のどこにも現実として落ちていかない。
胸の奥が震えた。
暖かいはずの言葉なのに、なぜだろう――恐怖に似たものが身体の奥を這い上がってくる。
指先が冷たくなり、思わず腹に手を当てた。
まだ何の鼓動も感じない。
けれど、確かにそこに何かが宿っていると知ってしまった。
レギュラスには、まだ伝えられていない。
彼は数日間、魔法法務部の任務と「ニワトコの杖」の捜索で屋敷に戻れていない。
報せを伝えるべき人がいない。
言葉を持たぬ自分では、手紙一つ書くにも時間がかかる。
けれど、いざ筆を取ってみても――何を書けばいいのかがわからなかった。
“あなたの子を授かりました”
そのたった一文が、あまりに遠い。
部屋の窓の外では、魔法界の報道フクロウがひっきりなしに飛び交っている。
封印の血を継ぐ子、未来の当主、希望の象徴――。
アランの知らぬところで、世界は勝手に歓喜していた。
この屋敷でさえも、彼女の不安など存在しないかのように華やいでいた。
それが苦しかった。
誰も、アランの心を見ようとはしなかった。
誰も、彼女の震える手を取ろうとはしなかった。
心の置き場所がない。
レギュラスの温もりに触れたい。
ただ、それだけでいいのに。
だが彼は遠い。
どこか冷たい世界の中で、責務と理想の狭間を生きている。
彼にとってこの命が、どんな意味を持つのだろう。
――この子は、自分の救いになるのか。
それとも、また別の鎖になるのか。
思考の奥で、静かに声がこぼれる。
「怖い……」
唇が震える。
声を出せない代わりに、胸の内で言葉が響く。
この腹に宿った命が、
自分を地下の闇から救い出してくれた彼への恩返しになるのだろうか。
この屋敷にとっての“貢献”になるのだろうか。
恩返しと貢献――そのどちらの言葉にも、愛という響きはなかった。
レギュラスの優しい手が恋しかった。
彼の低く穏やかな声で、「大丈夫です」と囁いてほしかった。
ただ、それだけで心は救われたのに。
窓の外では報道フクロウたちが羽音を立て、紙片を散らして飛び去っていく。
夜が深まるにつれて、屋敷の灯は次第に落ちていった。
だがアランは眠れなかった。
胸に手を当て、静かに囁く。
――お願い。
どうか、この子だけは幸せでありますように。
涙が頬を伝って、枕の上に落ちた。
その夜、屋敷の中でただひとり、
母になるという現実の前で震えていたのは、誰でもない、アラン・セシールただひとりだった。
屋敷の門をくぐった瞬間、冷えた夜気の中に微かに香る香水の匂いがした。
母――ヴァルブルガのものだった。
彼女は、いつものように整えすぎた黒のローブを纏い、玄関の階段の上で待っていた。
「おかえりなさい、レギュラス」
その声には、わずかに興奮の色が混じっている。
「……何かありましたか?」
息を整えながら問いかけると、彼女は満足げに微笑んだ。
「アランが……懐妊したのよ。」
言葉が胸の奥に沈み込む。
一瞬、世界が止まったようだった。
アランが――。
すでに新聞で見出しを見た。
“ブラック家に新たな命”
“封印の血、再び動く”
新聞記者たちは勝手な理屈と憶測で記事を飾り立てたが、
それでも、たったひとつの事実――アランの中に命が宿った――それだけで、
レギュラスの胸の奥は震えた。
自分がその知らせを、妻の唇からではなく紙面で知ることになるとは思いもしなかった。
それが少しだけ、痛かった。
「この家の未来を灯す光だわ」と、ヴァルブルガは言った。
その灰色の瞳には、まるで遠い栄光を映すような輝きがあった。
レギュラスは、わずかに微笑んで応じる。
「ええ……本当に、そうですね。」
言葉とは裏腹に、胸の奥では小さなため息が膨らんでいた。
母の喜びは理解できた。
“男児であること”を切に願っているのも分かる。
それはこの家の宿命だ。
血の純潔を守り、家の名を未来へ繋げるための――呪いのような願い。
「シャーマンを呼んでいるわ」
「……シャーマン、ですか?」
「ええ。産まれてくる子が、この屋敷の当主として導かれるように。
祝福の儀を行うのです。準備はもう進めてあります。」
レギュラスは短く頷いた。
そうか――母はすでに、全てを決めているのだ。
アランがまだ医務魔女の診断を受けたばかりだというのに。
心のどこかで、冷たい風が吹き抜けた。
けれどその風の向こうに、微かに光が見える。
アランが、この屋敷のどこかで静かに微笑んでいる姿が目に浮かぶ。
彼女を抱きしめてやりたい。
どんな言葉よりも先に、温もりで伝えたい。
“ありがとう。よく頑張りましたね”
その一言を、胸に込めて伝えたい。
だが、その部屋の扉を開ける前に、レギュラスは息を吐いた。
母の視線がまだ背中に残っている。
この家では、愛よりも先に格式が語られる。
祝福よりも前に、血の意味が問われる。
それでも――彼にとってアランは、
血でも、義務でもない。
彼女がこの屋敷に命を宿したというだけで、
闇の底にいた自分の心までもが、ようやく光を宿した気がした。
レギュラスは母に一礼し、静かに踵を返した。
階段を上るたびに、鼓動が速くなる。
寝室の扉の向こうにいる彼女を、
ただ、抱きしめるために。
けれど――扉の前で一瞬立ち止まり、
胸の奥で、誰にも聞こえぬように呟いた。
「どうか、母の望みではなく、僕の願いとして……
この子が、無事に生まれてきますように。」
静かな祈りが、屋敷の厚い壁の中に吸い込まれていった。
ブラック家の屋敷が、まるで儀式の館のように変わり果てているという噂は、すぐに騎士団の耳にも届いた。
連日、名のあるシャーマンや霊媒師たちが門をくぐり、夜になると屋敷の窓からは奇妙な光が漏れ出している――そんな報告が上がってくるたびに、シリウス・ブラックの胸は吐き気がするほどの嫌悪で満たされた。
「シャーマンだと? 反吐が出そうだな。」
そう吐き捨てながら、シリウスは机の上に投げ出された新聞をくしゃりと握り潰す。
黒いインクで印刷された見出し――
“ブラック家、次代当主誕生への祈り”
“古代の儀式により封印の血を清める”
愚かな文字列が、どれも彼には呪詛のようにしか見えなかった。
「純血の誇りを謳ってるくせに、そんなまじないに縋るなんざ、哀れとしか言えねぇ。」
声が少し震えていた。
怒りというよりも、虚しさだった。
かつて自分がいた家。
その家に生まれた血が、いまや迷信にすがるほど落ちぶれている。
それでも彼は知っていた。
母ヴァルブルガがどれほど“血”という言葉に取り憑かれた女であるかを。
その女が“男児”を求めて必死になっている姿を想像するだけで、背筋が冷えた。
あの屋敷に棲む亡霊のような信仰心――それがいま、アランの肩に重くのしかかっている。
「アランは、どんな気持ちでいるんだろうな……」
低く呟いた声が、部屋の静寂に落ちていく。
思わず拳を握る。
彼女の繊細な心が、この騒ぎの渦の中で壊れてしまわないか――それが怖かった。
あの優しい笑顔が、あの翡翠の瞳が、恐怖や孤独で曇っていないか。
その想像だけで胸が締めつけられる。
ジェームズが資料をめくりながら顔を上げる。
「アラン・ブラックの懐妊の話かい?」
その名前を聞いた瞬間、シリウスの眉が僅かに動いた。
“アラン・ブラック”――。
間違いではない。
正式にブラック家に迎えられた妻として、その名が新聞に刻まれるのは当然のこと。
けれど、どこか納得がいかない。
あの名を、あの優しい女の名を、あの冷たい家の姓で縛りつけられるのが耐えられなかった。
彼女は“セシール”であってほしかった。
清らかで、自由で、闇とは無縁の――あの家に穢されないままで。
「馬鹿馬鹿しいぜ。シャーマンだとよ。」
新聞を投げ捨てながら、シリウスは皮肉気に笑う。
「血統に誇りがあるってんなら、自分たちの運命くらい自分の手で掴めばいいのに。
金で霊媒師呼び寄せて、呪文唱えさせて、男児を授かれますように、だとよ。滑稽すぎる。」
ジェームズが椅子を傾け、深く溜息をつく。
「ここまでしておいて、もし女児だったらどうする気だろうね、そのシャーマンたち。」
「消されるんじゃねぇか?」とシリウスは吐き捨てるように言った。
その声には怒りと悲しみが混じっていた。
金と権威と純血への執着。
その三つが絡まり合ってできた屋敷の中で、
あの優しいアランがいま、どんな表情でいるのか――想像したくなかった。
おそらく、ヴァルブルガは夜な夜な祝福の儀式を開かせ、
シャーマンたちは“当主となる星の加護”だの、“胎児の魔力の安定”だのと偽りの呪文を唱えている。
そのたびにアランは静かに頷き、何も言えぬまま胸の奥で震えているのだろう。
「……あの子は、きっと今も空を見てる。」
シリウスの声は低く、遠い。
「どんな空を見ているんだろうな。
あの屋敷の重い壁の中で、
あの子の翡翠の瞳は、まだ光を映していられるだろうか。」
沈黙が訪れた。
窓の外には灰色の雲が広がり、風が冷たく吹き抜けていく。
シリウスは煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。
煙が渦を巻き、静かに天井へと昇っていく。
「……シャーマンでも奇跡でもねぇ。
あの子を救えるのは、あいつでもヴァルブルガでもなく、
ただ“自由”だけなんだよ。」
吐き出された煙の匂いが、少しだけ苦かった。
その苦味の中で、
彼の心の奥底では――まだ誰にも届かぬ、ひとりの女への祈りが静かに燃えていた。
レギュラスの指が、静かにアランの頬へと伸びた。
その手つきはあまりにも穏やかで、まるで壊れやすいガラス細工を扱うかのようだった。
久しぶりに見る彼の瞳――深い灰銀の奥には、怒りも焦燥もなく、ただひとつの安堵と優しさだけが宿っていた。
「ありがとう、アラン。」
その声は、包み込むように柔らかく、胸の奥の張り詰めた糸をひとつひとつ解いていくようだった。
アランは思わず息を詰め、微かに震えた。
この数日、誰にも言えない不安や恐れを、たったその一言がすべて溶かしていく。
冷たく固まっていた心が、春の光に触れたようにじんわりと温まっていく。
礼を言うのはむしろ自分のほうだ――そう思った。
彼がいたから、この世界に立っていられる。
彼がいたから、あの闇の牢獄から抜け出して、生きていられる。
レギュラスの存在が、自分の呼吸であり、心臓の鼓動そのもののようだった。
アランは杖を取り、震える手で空に文字を描いた。
淡い銀色の光が、空気に優しく滲んでいく。
『男の子であることを、私も祈っています』
その文字はすぐに消え、静かに宙に溶けた。
けれど、レギュラスはわずかに眉をひそめて、静かに首を振った。
「いいんです、アラン。そんなことは気にしないでください。」
彼の声は、驚くほど穏やかで、少し掠れていた。
長い夜を越えてきた人の声だった。
その灰色の瞳が、やわらかく光を宿す。
「まずは……無事に産んであげてください。それが一番なんですから。」
その言葉に、アランの喉の奥がきゅうと締めつけられる。
張りつめていた緊張が、そこでぷつりと切れた。
胸の奥から、こみ上げる涙をどうしても止められなかった。
――きっとその言葉が、一番欲しかった。
男児であることを望む声ばかりが響くこの屋敷の中で、
“どちらでもいい”と、
“あなたが生きていればそれでいい”と、
そう言ってくれる人がひとりでもいることが、どれほどの救いになるだろう。
涙が頬を伝い、ローブの襟を濡らす。
アランは慌てて袖で拭おうとしたが、その前にレギュラスの指が優しく触れた。
「泣かないでください。」
その囁きは、子守唄のようだった。
彼は母ヴァルブルガのように、狂信的な“血の執着”を見せない。
闇の帝王のように、力や血統にすべてを捧げようともしない。
ただ一人の人間として、アランと腹の中の命を見つめてくれている。
そのことが、どれほど心を救うか。
アランは静かに笑った。
涙で濡れた睫毛が、月明かりを反射してきらめく。
――この人の隣にいられるなら、それだけでいい。
この命がどんな運命をたどるとしても、
今この瞬間、心から安心できる居場所がここにある。
レギュラスは、そんな彼女の頬にもう一度口づけた。
ほんの一瞬の触れ合い。
それでも、アランにはそれが永遠のように感じられた。
外では冷たい風が吹き抜け、屋敷の窓を揺らしていた。
けれど、この部屋の中だけは、静かに、穏やかに、春が訪れていた。
ヴァルブルガ・ブラックは、食卓にずらりと並べられた皿を誇らしげに見渡していた。
銀の皿の上には、どれも聞いたことのない名前の珍味ばかり。
魔法界の南端から取り寄せたという竜の肝、百年熟成された毒草の根を干して調理したもの、胎児に魔力の流れを整えるという金箔入りの薬膳粥――どれも“効能”ばかりが取り柄のような食べ物だった。
「あなたの腹にいる子は、このブラック家の宝なのです。わかっていますね?」
ヴァルブルガの声は、柔らかい微笑の形をしていながら、まるで冷たい刃のようだった。
アランはその言葉にただ小さく頷き、黙ってスプーンを手に取った。
見た目からして明らかに食欲をそそるものではない。
どろりとした粘りを帯びた薬膳の匂いが立ち上り、香辛料の強い刺激が鼻をついた。
けれど、彼女は何も言わずに口に運ぶ。
“ブラック家の宝”――
その言葉が、胸の奥に鈍く響く。
愛しいはずの命に、“家の宝”という名がつけられることに、どこか違和感があった。
この屋敷では、すべてが“血”に還元されていく。
命も、愛も、未来さえも。
レギュラスは、向かいの席からその様子を見ていた。
アランの喉が小さく震えるのを見て、見ていられなくなった。
彼女の唇がかすかに歪み、飲み込むたびに目を閉じる。
母の前で顔に出すことはできないが、明らかに苦しげだった。
皿が新しく差し替えられた時、レギュラスは椅子をわずかに引き寄せ、
アランの耳元に顔を寄せた。
「……食べたふりをして、床に落とすといいですよ。やしきしもべが掃除しますから。」
囁く声は、息にかすかに笑みを含んでいた。
その小さな冗談のような優しさが、アランの心をほんの少しだけ軽くした。
彼のこういう瞬間が、好きだった。
権力も、血も、冷たく支配するこの屋敷の中で、彼だけはいつも人らしい温度を持っている。
ヴァルブルガは、二人の小声など気にも留めない。
「今夜は特別に、“未来の当主”のための祝いの献立ですのよ。」
その言葉に、アランは静かに微笑んで見せた。
けれど、その笑みはどこか張りつめていて、目元だけが少し悲しかった。
その翌朝、レギュラスはいつものように黒いローブを羽織り、魔法省へと向かった。
屋敷を出るとき、アランは玄関の陰に立って見送っていた。
出勤前の短い時間、彼は彼女の額に軽く口づける。
ほんの数秒のぬくもり。
それだけが、今の二人の繋がりだった。
アランを執務室に連れて行かなくなって、もうしばらく経つ。
最初は、彼女の身体を気遣ってのことだった。
だが、離れている時間があまりに長くなりすぎて、いつの間にか胸の奥に小さな空洞ができていた。
その空洞は、夜になるたびに大きくなっていく。
ベッドの隣には、眠るアランの静かな呼吸がある。
けれど、その距離はあまりにも遠かった。
医務魔女からは「安定期に入るまでは夫婦の営みを控えてください」と言われ、
母ヴァルブルガからはさらに強い口調で釘を刺された。
「未来の血を担う子に、万が一のことがあればどうするのです」
――その言葉が、レギュラスの頭から離れなかった。
母の忠告というよりは、呪いのように感じられる。
まるで、愛することさえ罪のように封じられていく気がした。
夜、灯りを落とした寝室で、アランの背中越しにその温もりを感じながら、
そっと指先で彼女の髪を撫でる。
黒曜石のような漆黒の髪が、月光を受けて淡く光った。
指先に触れるその感触が、たまらなく愛おしい。
けれど、それ以上は何もできない。
――満たされない。
その言葉が胸の奥で静かに鳴った。
求めているのは肉体ではない。
この腕で確かめたいのは、彼女の“心”だ。
触れられない夜が続くたびに、距離が広がっていくようで怖かった。
どれだけ愛していても、どれだけ近くにいても、
すべての行為が“血”のために制御されていくこの屋敷では、
二人の心が自由になる場所など、どこにもない。
アランの寝息の向こうで、窓の外に夜風が流れる。
月が静かに、二人の間に淡い光を落とした。
その光だけが、互いをつなぐ最後の温度のように感じられた。
シリウス・ブラックは、夜気を裂くように箒を駆った。
月明かりの下にそびえ立つブラック家の屋敷――かつては自分の家でもあったその建物は、いまや遠い異国の砦のように見えた。
尖塔の先端までを覆う暗灰色の雲が、重くのしかかるように夜空を曇らせている。
屋敷の正門は相変わらず重厚な結界に覆われ、出戻りの息子にそれを越える資格などない。
シリウスは音もなく上空を旋回し、月光に照らされる窓のひとつひとつを見下ろしていった。
あの中のどこかに、アランがいる。
レギュラスの執務室に同行していない日が続いている――つまり、いま彼女はこの屋敷のどこかで安静にしているはずだった。
箒の先をわずかに傾け、視線を研ぎ澄ませる。
空気に漂う微かな魔力の波を感じとる。
馴染みのある、けれどどこか懐かしい優しい気配。
――ああ、間違いない。アランだ。
窓の外に降り立ち、指先で軽くガラスを叩く。
一度、二度、三度。
返事はない。
しばらくして、カーテンの影が揺れた。
そして、窓がほんの少し開く。
中に現れたのは、薄い寝間着に包まれたアランだった。
漆黒の髪が肩に流れ、驚きに見開かれた翡翠の瞳が月光を反射する。
その姿に息を呑んだ。
彼女は以前より少しやつれて見えたが、それでも変わらず美しかった。
シリウスはにっこりと笑って、口を動かす――「開けてくれ」。
アランは戸惑いながらも、杖をひと振りして窓の鍵を外した。
屋敷の静けさを壊さぬように中へと入ると、足元の絨毯が沈み込む。
厚いカーテンが外の月光を遮り、部屋は淡い魔灯の光に包まれていた。
部屋の中心には広々とした寝台。
枕がふたつ――その事実に胸がざらりと痛む。
あの弟と彼女が、ここで夜を共にしているのか。
想像したくもないのに、頭の中で映像が浮かぶ。
箒を壁際に立てかけながら、シリウスはぎこちなく口を開いた。
「まずは……その、なんだ……おめでとう、だよな。」
自分でも間抜けな言葉だと思った。
けれど、アランはいつものように静かに微笑み、杖を取って空に小さく文字を描く。
『こんにちは、シリウス。』
その光が消える瞬間、彼女の笑みが柔らかくほどけた。
「レギュラスは、喜んでるのか?」
問いかけてから、シリウスは内心で苦く笑った。
なぜそんなことを聞くのか、自分でもわからない。
だがアランは、杖を握ったまま何度も何度も頷いた。
その頷きが、心の奥から溢れた本心のようで、シリウスの胸を締めつけた。
「そうか……」
喉の奥から出たその声は、少し掠れていた。
彼女の周囲には柔らかな光が漂っていた。
暖炉の炎が反射して、アランの頬を淡く照らす。
腹の中の命を慈しむように、彼女は両手をその上に添えていた。
――幸福の形とは、こういうものなのだろう。
静かで、温かく、手の届かないところにある。
なのに、胸の奥では何かがざわついていた。
アランが笑うたび、息を吸うたび、
“それを守っているのが弟なのだ”という現実が、心の奥に重く沈む。
「……元気そうで、よかった。」
そう言ってみせたが、声はどこか遠く、
言葉の奥に押し殺した感情が渦を巻いていた。
目の前の光景は、たしかに幸福の一場面だった。
けれど、その幸福に触れるという行為が、どうしようもなく息苦しかった。
彼女の笑顔が、幸福の象徴であるはずなのに――
それを見ていると、なぜか痛みのような感情が胸を満たしていく。
アランの視線が、静かにシリウスを見つめ返す。
その瞳には、何かを察したような、切なげな光が宿っていた。
言葉は交わせない。
けれど、心のどこかで互いの感情がすれ違う音がした。
シリウスは少しだけ視線を逸らし、
窓の外の月を見上げる。
「……あんまり無理すんなよ。お前は、あんまり我慢が過ぎる。」
アランは小さく微笑み、頷いた。
その笑みの奥に、ほんの一瞬、儚い影が差したのを、シリウスは見逃さなかった。
屋敷の外では夜風が吹き抜け、
古びた石壁に絡む蔦がざわめいた。
彼は黙ってその音を聞きながら、胸の奥でつぶやいた――
「……俺は、たぶん、もうお前の幸せを祈ることしかできねぇんだな。」
アランは何も言わなかった。
ただ、月光の中で、ゆっくりと瞬きをした。
それが涙なのか光の反射なのか、シリウスにはもう分からなかった。
シリウスが来てくれた――そのことだけで、閉ざされた屋敷の一室がふっと明るくなる気がした。
まるで、窓から差し込む陽の光がひとすじ射したように。
彼はそういう人だった。どんな場所にも風を通し、空気を変えてしまう。
闇の中にあっても、彼の存在は不思議と温かい灯りのように感じられた。
アランは窓辺の椅子に腰を下ろし、彼が部屋の隅に箒を立てかけるのを見つめていた。
屋敷の空気はいつも冷たい。石造りの壁に魔力が染みついて、どこか呼吸のしづらい閉塞感がある。
けれど、シリウスが笑うたび、その冷たさがやわらかく溶かされていく。
――レギュラス以外で、自分の体を案じてくれる人など、もういないと思っていた。
両親も兄もいない。
声を奪われ、居場所を持たず、それでも“ブラック家の妻”として立っている自分を無償で気にかけてくれる人など。
けれど、シリウスは違った。
彼のまなざしには打算も憐れみもなく、ただまっすぐな温度だけがあった。
「ここんとこ、ずっと屋敷にこもってんのか?」
シリウスが何気ない調子で問いかける。
アランは頷きながら、杖を手に取り、宙に文字を描いた。
淡く光る文字が空中に浮かぶ。
『外には出られません。魔法省にも行っていません。』
「だろうな。あの母上のことだ、何から何まで締めつけてんだろ。」
シリウスは苦々しく笑って、部屋の中をぐるりと見回した。
「しかし、こりゃまた……相変わらず趣味の悪い部屋だな。壁紙も床も、全部灰色か黒。気が滅入るぜ。」
アランは口を手で押さえて笑う。声は出ないが、肩の震えで笑っているのが分かる。
その小さな仕草が、シリウスにはどうしようもなく愛おしく見えた。
「で、お前は? こんなところで、何して過ごしてるんだ?」
アランは少し考えたあと、杖を振り、慎ましく文字を浮かべた。
『ヴァルブルガ様が、世界中の珍味を取り寄せて食べさせてくれるのです。でも……とっても変な味がします。』
シリウスは眉をひそめて笑う。
「だろうな。あのババア、昔っからそういう迷信じみたもんに取り憑かれてるんだ。
“純血の子孫は、竜の心臓を喰って強くなる”だの、“悪魔の涙で目を洗え”だの……まるで呪いみたいなことばっか言ってた。」
アランは肩を震わせながら、さらに続けて文字を書く。
『私……龍の糞を食べました。滋養強壮にいいそうです。』
次の瞬間、シリウスは吹き出した。
「……は? おま、何て? 龍の……うんこ?」
我慢できずに大声を出し、腹を抱えて笑い出す。
「ちょ、ちょっと待て。あのヴァルブルガが“龍の糞は神聖な薬膳です”とか言ったのか? あー、くそ、腹いてぇ……!」
アランも、声にならない笑いを漏らした。
肩を震わせながら、涙が滲むほど笑ったのはいつぶりだろう。
杖を持つ手も震えて、うまく文字が書けない。
『本当に、すごくまずかったです。』
「そりゃそうだろ! うんこだぞ!」
またシリウスが笑い、アランも両手で顔を覆って笑い崩れる。
窓の外の風がそっと吹き込み、二人の笑い声の代わりにカーテンを揺らした。
なんてことのない時間――ただそれだけのことなのに、こんなにも心が温かい。
重く沈んだ屋敷の空気が、彼の笑い声で少しずつ明るくなっていく。
アランの頬には光が差し、心の奥の凍りついた部分が解けていくのを感じた。
シリウスは笑いながら、ふと真顔になり、窓の外の夜空を見上げた。
「……笑ってくれてよかった。お前が、こんなふうに笑える顔、まだ持ってたんだな。」
アランはゆっくりと頷いた。
彼の言葉が、胸の奥に優しく沈んでいく。
――この人は、本当に太陽のような人だ。
触れたら焼けてしまうほど熱くて、けれど離れていると寂しくてたまらない。
今この瞬間、屋敷の暗闇の中で、二人だけの時間が静かに輝いていた。
それはほんの一瞬の灯火のように儚いものかもしれない。
けれどアランは知っていた――
たとえ明日また孤独な夜が来たとしても、この夜の笑い声がきっと心の中で灯り続けるのだと
ランプの光が室内に柔らかく灯り、淡い金色の明滅が二人の影を壁に映し出す。
その静寂の中で、レギュラスはただアランの肩を抱き寄せていた。
彼女の体が小さく震えている。
その震えが、手のひらから胸の奥まで伝わってくる。
確実に――彼女の心は、もう自分に寄り添ってはいない。
そう悟った瞬間、息をするのも苦しくなるほどの痛みが胸を走った。
抱きしめた腕の中のアランは、まるで壊れそうな硝子細工のようだった。
拒絶しているわけではない。
けれど、何かを恐れている。
心が自分の方へ向いていないのだと、確信してしまうほどに。
このまま行為を続けることは、彼女をさらに追い詰めてしまう気がした。
それは愛ではなく、鎖になる。
レギュラスはゆっくりと動きを止め、額を彼女の肩に押し当てた。
あの地下牢の冷たさが脳裏をよぎる。
彼女をそこから解き放つこと――それだけが自分の“救い”だった。
だが今、思い知らされる。
この屋敷もまた、別の形の牢獄なのだ。
世間の注目、母の声、そして自分という存在さえも。
アランを束縛する鎖になっているのだと。
「……すみません、アラン。」
小さく呟いたその言葉は、夜気に溶けて消えた。
彼女が発した声にならない“ごめんなさい”が、胸の奥に届いた気がした。
その瞬間、喉の奥が締めつけられた。
――謝るのは、自分の方だ。
彼女を救いたかった。
幸せにしたいと、心から思っていた。
あの闇の底から引き上げたとき、その願いに一点の偽りもなかった。
だが、気づけばその手がまた、彼女を縛っていたのかもしれない。
愛している――その言葉がどこまで真実として響くのか。
どこまでが彼女に届くのか。
それが分からなくなっていた。
だから、言わなかった。
今その言葉を口にすれば、あまりにも脆く崩れてしまいそうで。
言葉が、彼女を救うどころか傷つけてしまいそうで。
代わりに、レギュラスはただアランの髪を撫でた。
その漆黒の髪に指を滑らせると、微かに震えが伝わってくる。
抱き寄せたまま、彼は小さく息を吐いた。
「怖くないですよ。もう、どこにも鎖なんてありません。」
自分自身に言い聞かせるように囁く。
けれどその声は、わずかに震えていた。
アランの瞳には、月明かりが反射していた。
涙ではなく、静かな光。
それでも、彼女の心までは掴めない。
指の間からすり抜けるように、遠くへ行ってしまいそうだった。
この愛が、もしも彼女を自由にするものではなく、
また新しい枷となるのなら――
自分の手で、それを断ち切る覚悟を持たねばならないのだろう。
レギュラスはそっとアランの額に唇を落とした。
何も言わず、ただその温もりを確かめるように。
その沈黙の中で、彼の心だけが深く、静かに崩れていった。
シリウス・ブラックは、暖炉の前の肘掛け椅子に身を沈め、静かに新聞を広げていた。
紙面の中央を飾る見出しには、煌びやかな金文字が踊っている。
「ブラック家の跡取り、レギュラス・ブラック、セシール家の末裔と婚姻」
写真の中で、アラン・セシールは薄いヴェールを纏い、遠くを見つめていた。
彼女の瞳は翡翠のように澄んでいて、どこか儚い。
だが、その微笑の裏にあるものを思うと、胸の奥がざわついた。
――彼女は、今、どんな思いでいるのだろう。
血筋だの誇りだのと騒ぎ立てる世間の声が、
あの少女をどれほど傷つけているかを思うと、たまらなくなった。
好奇の視線に晒され、貴族社会の見せ物にされて、
あの優しい心がどれほどの孤独に耐えているのか。
あの人は、花に魔法をかける人だった。
ただ美しく残ってほしいと願う、そんな魔法。
力を誇示するためでも、誰かを従えるためでもない。
たった一輪の花を枯れさせないための、静かな優しさ。
――そんな魔法を使う彼女が、
今、笑えているのだろうか。
その瞳がまだ、光を失っていないだろうか。
気づけば、新聞は手の中でくしゃりと音を立てていた。
シリウスは立ち上がり、黒いコートを羽織る。
行くべき場所は、もう決まっていた。
魔法省の廊下を歩く音が、静寂を切り裂いていく。
深い石造りの壁が冷たく反響する中、
シリウスの胸の内では、不安と焦燥が入り混じっていた。
レギュラスは今、魔法法務大臣との会談中――
つまり、執務室にはアラン一人しかいない。
その短い時間が、唯一の機会だった。
扉の前に立つ。
深呼吸を一度だけして、そっとノックする。
返事がない。
代わりに、静寂だけが応える。
ゆっくりと扉を押し開けると、
差し込む光の中にアランがいた。
机の上には書類の山。
窓際の光が、彼女の漆黒の髪に柔らかく反射している。
顔を上げた彼女が、驚いたように瞬きをした。
「……久しぶりだな。元気にしてるか?」
声をかけると、杖の先が宙をなぞる。
淡い光の文字が空中に浮かんだ。
「こんにちは、シリウス。」
その文字を見ただけで、胸の奥が熱くなった。
新聞の写真の中の彼女よりも、
今ここで微笑む彼女の方が、ずっと自然で、ずっと“生きている”気がした。
「無理してないか?」
言葉が少し掠れた。
アランは、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
そして、ゆっくりと文字を書く。
「わからない。」
胸の奥で何かが軋んだ。
彼女のその一言に、どれだけの迷いと苦しみが詰まっているか。
「……レギュラスに、何か命令されてるのか?」
アランは首を横に振った。
「じゃあ……あの屋敷で冷たくされてるのか?」
再び、静かに首を振る。
そして、杖の先が震えるように宙をなぞった。
「レギュラスはとても優しい。でも、その優しさに返せるものが私にはない。」
その文字が消えるまでの間、
シリウスはただ黙って見つめていた。
胸が締めつけられる。
「返さなくていいんだよ。」
思わず口をついて出た。
「人が受け取る愛情ってのは、等価交換じゃない。
見返りなんて、最初から求めちゃいねぇ。
……お前が笑ってるだけで、それでいいんだ。」
アランはその言葉に、ゆっくりとまばたきをした。
翡翠の瞳に一瞬、光が宿る。
でも、それはすぐに消えた。
ただ静かに、微笑んで頷く。
その微笑が、痛いほどに優しかった。
まるで――ありがとう、と言っているようだった。
シリウスはもう一度、彼女の手元に視線を落とす。
細くて白い指先が杖を握りしめている。
かすかに震えていた。
言葉が出なかった。
何かを守りたいと思っているのに、
自分がどんな存在としてこの部屋に立っているのか――
それさえ、わからなかった。
窓の外では、風が吹き、花壇の花びらが舞っていた。
アランが一度だけそれを見つめ、杖を軽く振る。
散った花びらが、ふわりと宙で止まり、光に包まれて封印された。
――枯れない花。
あの日見た、あの優しい魔法。
シリウスは息を飲んだ。
その美しさに、そしてその哀しさに。
彼女の瞳が、光を失わずにいてくれますように――
そう願いながら、シリウスはゆっくりと目を閉じた。
魔法省の廊下は、昼の喧騒を少し過ぎた静けさに包まれていた。
高い天井に響く靴音だけが、規律の取れたこの建物の空気を支配している。
白い石壁の隙間から差し込む光が、淡く金色の筋を床に描いていた。
その廊下の角を曲がったとき、シリウス・ブラックは足を止めた。
遠くから歩いてくる姿――見間違えようもない。
整った黒髪に、漆黒のローブ。背筋はまっすぐで、歩みは寸分の乱れもない。
レギュラス・ブラック。
弟だった。
一瞬、二人の視線が交差した。
空気が張り詰める。
けれど、レギュラスは何事もなかったかのように、そのまま通り過ぎようとした。
その冷たい横顔に、シリウスの胸の奥で何かが弾けた。
「てめえのやり方が、どれほどあの女を縛ってるか考えろよ。」
通り過ぎざまに吐き出した声は、廊下の静寂を鋭く切り裂いた。
レギュラスの足が一瞬止まる。
背筋がわずかに硬直した。
振り返るその動作さえ、完璧に整っている。
冷たい灰色の瞳がシリウスを射抜く。
それは血の繋がった弟であることを感じさせないほど、遠く冷たい眼差しだった。
「あなたには関係のない話です。」
ピシャリと切り捨てるような声音。
その言葉の冷たさは、冬の魔法嵐のように鋭かった。
シリウスは思わず歯を食いしばる。
確かに、関係はない。
自分はもうブラック家の名を捨てた人間だ。
誇りも、家の恩恵も、何もかもを捨てた。
それでも――。
「……それでも、あの屋敷で、あの女が苦しんでるのを黙って見てられるほど俺は冷たくねぇ。」
声が震えていた。怒りか、焦りか、分からない。
だが胸の中に渦巻く熱は確かだった。
レギュラスは無言のまま立ち止まり、振り向かずに背を向けたまま答えた。
「詮索は不快です。」
それだけを残して歩き出す。
長いローブの裾が、床を払う音が廊下に響いた。
その一歩一歩が、まるでシリウスとの距離を永久に断ち切るように冷たかった。
「お前はあの女の血をブラック家に取り込むために利用してるんだろ。」
抑えきれない怒りが再び声になった。
「どこまでも下衆なお前がやりそうなことだ。」
レギュラスの足がわずかに止まり、ほんの一瞬、肩が揺れる。
だが振り返らない。
「余計な詮索は――本当に不快です。」
その言葉だけが、静かに空気を切り裂いた。
低く、よく通る声。
怒りでも憎しみでもない。
ただ、冷たい拒絶の響きだった。
シリウスは無意識に拳を握り締めた。
爪が手のひらに食い込み、じわりと血が滲む。
それでも、何も言い返せなかった。
弟の背中は、遠ざかっていく。
その姿が廊下の奥に消えていくのを、ただ黙って見送るしかなかった。
――灰色の瞳の奥に、あれほどの冷たさを宿すようになったのは、いつからだろう。
かつて同じ屋敷で笑い合っていたはずなのに。
今では、互いに立つ場所がまるで違う。
シリウスは深く息を吐き、壁に背を預けた。
どこかで、冷たい風が吹き抜ける。
それは、あの屋敷の息苦しさを思い出させる風だった。
――アラン。
お前の笑顔を奪っているのが、あいつでないことを祈る。
小さく呟いて、シリウスはその場を離れた。
廊下に残るのは、兄弟の残り香だけ。
冷たい光が差し込む中、二人の影が、二度と交わることのない線を描いていた。
魔法省の廊下を歩くレギュラスの足音が、冷たい石畳に乾いた音を落としていく。
その音に、わずかな苛立ちが混じっていた。
無意識のうちに指先でローブの袖を整える仕草にも、静かな怒りの熱が潜んでいる。
――シリウス。
あの男が廊下にいたということは、ほぼ確実に自分の執務室に入ったのだ。
そして、あの中にいるアランに接触した。
想像するだけで、胸の奥がじくりと灼けるようだった。
扉を開ける。
整然と並んだ書類の山、香の残り香、整いすぎた空気。
面白いほどに、シリウスの魔力の痕跡がない。
完璧な後消し。
魔力の波長ひとつ、残っていない。
……彼女の杖で施されたのか、それともシリウス自身が残さぬよう細工したのか。
どちらにせよ、その事実が腹立たしかった。
レギュラスは一歩、室内に足を踏み入れる。
「戻りました。」
声が落ち着いているのが、かえって不気味だった。
アランは机の前に立ち、振り返って微笑んだ。
その笑顔が、いつも通りすぎて――あまりに何も変わらない表情で、
その白々しさが逆に胸を突いた。
まるで何事もなかったかのように微笑む彼女。
その微笑の裏に隠れているものを知りたくて、
喉の奥まで「シリウスが来たのですね」と言葉がこみ上げたが、
レギュラスはそれを飲み込んだ。
――昨夜、アランが流した涙を見たばかりだ。
あの震える肩を抱きしめながら、自分がどんな顔をしていたのかも思い出した。
怒りをぶつけたところで、何を壊してしまうかわからない。
だからこそ、堪えた。
堪えたが――このまま黙っていることもできなかった。
彼女がまた同じ過ちを繰り返すのではないかという恐怖。
シリウスという名が、自分の知らぬ場所でまた彼女を呼び寄せるのではないかという焦燥。
それら全てを抑え込みながら、レギュラスは丁寧な声色を選んだ。
「アラン、僕は……あなたに、可能な限りの自由を持ってほしいと思っています。」
静かな声が、部屋の空気に染みていく。
アランは姿勢を正し、真剣に耳を傾けている。
その黒髪が、微かに肩で揺れた。
「でも、自由には責任も伴うものです。」
レギュラスは、彼女の瞳を見つめた。
「その責を負える範囲というものを、どうか見極めてください。」
言葉は穏やかに整えられていた。
けれど、声の奥に潜む緊張は隠せなかった。
「あなたの判断で、誰と会うか、何を選ぶか――
その一つひとつが、あなた自身だけでなく、僕たちの未来をも形づくるのです。」
ああは小さく頷いた。
その動きがあまりにも静かで、息をするのもためらうほどだった。
本当は「シリウスとはもう会わないでください」と言いたかった。
だが、それを口にした瞬間、
彼女が怯えたように目を伏せる姿が脳裏を過った。
言葉の端々に警告をにじませながらも、
直接的な名は出さなかった。
――言えなかったのだ。
愛している人を疑うという、あまりに惨めな行為を自分がしてしまうことに耐えられなかった。
その沈黙の中で、アランは静かに立ち上がり、
小さく一礼して微笑んだ。
その微笑みが、どこまでも柔らかく――けれど、どこか遠かった。
レギュラスはその姿を見つめながら、
胸の奥に沈殿していく苦い感情を飲み下した。
彼女の自由を望むことと、
彼女を失うことは、いつも紙一重だ。
そして、その狭間で自分は少しずつ壊れていくのだと、
彼は気づいていた。
夜の帳が降りる頃、レギュラス・ブラックはひとり屋敷を出た。
月は雲の合間に滲み、冷たい光を街路に落としている。
アランの寝室の灯りはもう落ちていた。
扉の向こうで眠る彼女の静かな寝息を想像しながら、レギュラスは一瞬だけ足を止めた。
だが、ためらいはすぐに理性で切り捨てる。
――今夜も、探しに行かねばならない。
ヴォルデモートがいまだ手に入れられずにいる「ニワトコの杖」。
死を制すと言われるその杖を、誰よりも早く見つけ出さねばならない。
それが、彼に課せられたもう一つの任務だった。
杖を手にして姿をくらますと、空気が一瞬にして歪んだ。
現れた先は、古びた山脈の奥、アルプスの麓にひっそりと佇む古代魔法史料庫跡。
かつて杖職人たちが死の秘宝について研究を重ねたとされる場所だ。
洞窟のように入り組んだ石壁には、封印の痕跡がまだ微かに残っている。
レギュラスは杖を掲げ、低く呪文を唱えた。
「Revelio Arcana.」
淡い青光が壁の線をなぞり、古い文字を浮かび上がらせる。
“最後の継承者は北の森に眠る”
その一文に指先が止まった。
北の森――スウェーデンとノルウェーの国境近くに位置する黒の森(シュヴァルツヴァルト)。
かつて、グリンデンバルトの同志が潜伏していたとされる場所。
レギュラスはすぐに座標を思い浮かべ、姿を消す。
吹雪が舞う中、森は静まり返っていた。
枝の一つひとつが氷の刃のように輝き、踏みしめる雪は鈍く軋む。
息を吐くたび、白い霧が立ち上った。
その奥、古びた祠のような建物があった。
かつて魔法史家が「杖職人グレゴロヴィッチが一時的に拠点とした」と記していた遺構だ。
重く閉ざされた扉に杖を向ける。
「Alohomora Maxima.」
鈍い音を立てて、錆びついた扉がゆっくりと開いた。
内部には、砕け散った杖の欠片がいくつも転がっていた。
一つひとつ拾い上げ、魔力を流して確かめる。
どれも、ただの模造。
本物の“死の杖”ではない。
だが、その模造品たちが示すものがあった。
――誰かが確かに、この地で「杖の再現」を試みていた。
ヴォルデモートの狙う“原初の杖”は、この連鎖の先にまだ存在している。
レギュラスは静かに息を吐いた。
氷の空気が喉を刺す。
「……無駄足ですか。」
呟く声が白く煙る。
けれど、止めることはできなかった。
一歩でも近づけば、闇の帝王の信頼を得られる。
その信頼の盾こそが、アランを守る唯一の術なのだから。
屋敷に戻る頃には、夜が明け始めていた。
冷え切ったローブの裾が重く、指先は感覚を失っている。
玄関の扉を静かに開けると、廊下にはまだ薄暗い光が漂っていた。
寝室の扉をそっと開ける。
ベッドの上で眠るアランの髪が、月の名残りを受けて淡く光っている。
胸が痛むほどに愛おしかった。
だが、彼女の傍に長く留まることができなかった。
その姿を見れば見るほど、心が揺らいでしまう。
自分が守るべきものを、曖昧にしてしまいそうだった。
距離を置くこと――それが、唯一の理性の証だった。
少しの間でも離れていれば、
嫉妬で狂いそうになる自分を落ち着かせられる。
あの男――シリウスの影に苛まれずに済む。
彼女の前では穏やかでありたい。
導く者でありたい。
そのためには、心を鎮める時間が必要だった。
レギュラスは静かに寝室を後にした。
扉を閉めたその瞬間、背中に温かな気配がまだ残っていた。
それが、心を締めつけた。
彼は空を見上げた。
夜明けの光が東の空を淡く染め始めている。
――この空の下のどこかで、あの杖がまだ眠っている。
そして、彼女を守る術もまた。
ローブの裾を翻し、レギュラスは再び歩き出した。
その足音だけが、静かな屋敷の廊下に響いていた。
アラン・セシールの懐妊の知らせは、まるで風が走るように一瞬で魔法界中へと広がった。
それは祝福というよりも、噂という名の炎だった。
――「待望の男児なるか」
――「封印の血を受け継ぐブラック家の新時代」
――「セシールの娘が、今度は母となる」
新聞の見出しが、屋敷の外壁のように次々と積み重なっていく。
魔法新聞《デイリー・プロフェット》も、雑誌《ウィッチ・ウィークリー》も、この話題で持ちきりだった。
筆を持つ者たちはこぞって「時代の変革」だと騒ぎ立てた。
まるでこの世紀の婚姻が、魔法界に新たな血統の象徴をもたらすかのように。
だが――その渦の中心にいるアラン自身は、何も知らないふりをして静かに息をしていた。
屋敷の中は、朝からざわめいていた。
執事や家令、医務魔女までもが廊下を忙しなく行き交い、
ヴァルブルガは上階の客間で、早くも「男児であれ」と祝宴の手配を始めている。
アランの名が、誰の口にも出る。
それなのに、肝心の彼女だけが――その中心でぽつりと取り残されていた。
「おめでとうございます」と告げた医務魔女の声が、今も耳の奥で反響している。
けれど、心のどこにも現実として落ちていかない。
胸の奥が震えた。
暖かいはずの言葉なのに、なぜだろう――恐怖に似たものが身体の奥を這い上がってくる。
指先が冷たくなり、思わず腹に手を当てた。
まだ何の鼓動も感じない。
けれど、確かにそこに何かが宿っていると知ってしまった。
レギュラスには、まだ伝えられていない。
彼は数日間、魔法法務部の任務と「ニワトコの杖」の捜索で屋敷に戻れていない。
報せを伝えるべき人がいない。
言葉を持たぬ自分では、手紙一つ書くにも時間がかかる。
けれど、いざ筆を取ってみても――何を書けばいいのかがわからなかった。
“あなたの子を授かりました”
そのたった一文が、あまりに遠い。
部屋の窓の外では、魔法界の報道フクロウがひっきりなしに飛び交っている。
封印の血を継ぐ子、未来の当主、希望の象徴――。
アランの知らぬところで、世界は勝手に歓喜していた。
この屋敷でさえも、彼女の不安など存在しないかのように華やいでいた。
それが苦しかった。
誰も、アランの心を見ようとはしなかった。
誰も、彼女の震える手を取ろうとはしなかった。
心の置き場所がない。
レギュラスの温もりに触れたい。
ただ、それだけでいいのに。
だが彼は遠い。
どこか冷たい世界の中で、責務と理想の狭間を生きている。
彼にとってこの命が、どんな意味を持つのだろう。
――この子は、自分の救いになるのか。
それとも、また別の鎖になるのか。
思考の奥で、静かに声がこぼれる。
「怖い……」
唇が震える。
声を出せない代わりに、胸の内で言葉が響く。
この腹に宿った命が、
自分を地下の闇から救い出してくれた彼への恩返しになるのだろうか。
この屋敷にとっての“貢献”になるのだろうか。
恩返しと貢献――そのどちらの言葉にも、愛という響きはなかった。
レギュラスの優しい手が恋しかった。
彼の低く穏やかな声で、「大丈夫です」と囁いてほしかった。
ただ、それだけで心は救われたのに。
窓の外では報道フクロウたちが羽音を立て、紙片を散らして飛び去っていく。
夜が深まるにつれて、屋敷の灯は次第に落ちていった。
だがアランは眠れなかった。
胸に手を当て、静かに囁く。
――お願い。
どうか、この子だけは幸せでありますように。
涙が頬を伝って、枕の上に落ちた。
その夜、屋敷の中でただひとり、
母になるという現実の前で震えていたのは、誰でもない、アラン・セシールただひとりだった。
屋敷の門をくぐった瞬間、冷えた夜気の中に微かに香る香水の匂いがした。
母――ヴァルブルガのものだった。
彼女は、いつものように整えすぎた黒のローブを纏い、玄関の階段の上で待っていた。
「おかえりなさい、レギュラス」
その声には、わずかに興奮の色が混じっている。
「……何かありましたか?」
息を整えながら問いかけると、彼女は満足げに微笑んだ。
「アランが……懐妊したのよ。」
言葉が胸の奥に沈み込む。
一瞬、世界が止まったようだった。
アランが――。
すでに新聞で見出しを見た。
“ブラック家に新たな命”
“封印の血、再び動く”
新聞記者たちは勝手な理屈と憶測で記事を飾り立てたが、
それでも、たったひとつの事実――アランの中に命が宿った――それだけで、
レギュラスの胸の奥は震えた。
自分がその知らせを、妻の唇からではなく紙面で知ることになるとは思いもしなかった。
それが少しだけ、痛かった。
「この家の未来を灯す光だわ」と、ヴァルブルガは言った。
その灰色の瞳には、まるで遠い栄光を映すような輝きがあった。
レギュラスは、わずかに微笑んで応じる。
「ええ……本当に、そうですね。」
言葉とは裏腹に、胸の奥では小さなため息が膨らんでいた。
母の喜びは理解できた。
“男児であること”を切に願っているのも分かる。
それはこの家の宿命だ。
血の純潔を守り、家の名を未来へ繋げるための――呪いのような願い。
「シャーマンを呼んでいるわ」
「……シャーマン、ですか?」
「ええ。産まれてくる子が、この屋敷の当主として導かれるように。
祝福の儀を行うのです。準備はもう進めてあります。」
レギュラスは短く頷いた。
そうか――母はすでに、全てを決めているのだ。
アランがまだ医務魔女の診断を受けたばかりだというのに。
心のどこかで、冷たい風が吹き抜けた。
けれどその風の向こうに、微かに光が見える。
アランが、この屋敷のどこかで静かに微笑んでいる姿が目に浮かぶ。
彼女を抱きしめてやりたい。
どんな言葉よりも先に、温もりで伝えたい。
“ありがとう。よく頑張りましたね”
その一言を、胸に込めて伝えたい。
だが、その部屋の扉を開ける前に、レギュラスは息を吐いた。
母の視線がまだ背中に残っている。
この家では、愛よりも先に格式が語られる。
祝福よりも前に、血の意味が問われる。
それでも――彼にとってアランは、
血でも、義務でもない。
彼女がこの屋敷に命を宿したというだけで、
闇の底にいた自分の心までもが、ようやく光を宿した気がした。
レギュラスは母に一礼し、静かに踵を返した。
階段を上るたびに、鼓動が速くなる。
寝室の扉の向こうにいる彼女を、
ただ、抱きしめるために。
けれど――扉の前で一瞬立ち止まり、
胸の奥で、誰にも聞こえぬように呟いた。
「どうか、母の望みではなく、僕の願いとして……
この子が、無事に生まれてきますように。」
静かな祈りが、屋敷の厚い壁の中に吸い込まれていった。
ブラック家の屋敷が、まるで儀式の館のように変わり果てているという噂は、すぐに騎士団の耳にも届いた。
連日、名のあるシャーマンや霊媒師たちが門をくぐり、夜になると屋敷の窓からは奇妙な光が漏れ出している――そんな報告が上がってくるたびに、シリウス・ブラックの胸は吐き気がするほどの嫌悪で満たされた。
「シャーマンだと? 反吐が出そうだな。」
そう吐き捨てながら、シリウスは机の上に投げ出された新聞をくしゃりと握り潰す。
黒いインクで印刷された見出し――
“ブラック家、次代当主誕生への祈り”
“古代の儀式により封印の血を清める”
愚かな文字列が、どれも彼には呪詛のようにしか見えなかった。
「純血の誇りを謳ってるくせに、そんなまじないに縋るなんざ、哀れとしか言えねぇ。」
声が少し震えていた。
怒りというよりも、虚しさだった。
かつて自分がいた家。
その家に生まれた血が、いまや迷信にすがるほど落ちぶれている。
それでも彼は知っていた。
母ヴァルブルガがどれほど“血”という言葉に取り憑かれた女であるかを。
その女が“男児”を求めて必死になっている姿を想像するだけで、背筋が冷えた。
あの屋敷に棲む亡霊のような信仰心――それがいま、アランの肩に重くのしかかっている。
「アランは、どんな気持ちでいるんだろうな……」
低く呟いた声が、部屋の静寂に落ちていく。
思わず拳を握る。
彼女の繊細な心が、この騒ぎの渦の中で壊れてしまわないか――それが怖かった。
あの優しい笑顔が、あの翡翠の瞳が、恐怖や孤独で曇っていないか。
その想像だけで胸が締めつけられる。
ジェームズが資料をめくりながら顔を上げる。
「アラン・ブラックの懐妊の話かい?」
その名前を聞いた瞬間、シリウスの眉が僅かに動いた。
“アラン・ブラック”――。
間違いではない。
正式にブラック家に迎えられた妻として、その名が新聞に刻まれるのは当然のこと。
けれど、どこか納得がいかない。
あの名を、あの優しい女の名を、あの冷たい家の姓で縛りつけられるのが耐えられなかった。
彼女は“セシール”であってほしかった。
清らかで、自由で、闇とは無縁の――あの家に穢されないままで。
「馬鹿馬鹿しいぜ。シャーマンだとよ。」
新聞を投げ捨てながら、シリウスは皮肉気に笑う。
「血統に誇りがあるってんなら、自分たちの運命くらい自分の手で掴めばいいのに。
金で霊媒師呼び寄せて、呪文唱えさせて、男児を授かれますように、だとよ。滑稽すぎる。」
ジェームズが椅子を傾け、深く溜息をつく。
「ここまでしておいて、もし女児だったらどうする気だろうね、そのシャーマンたち。」
「消されるんじゃねぇか?」とシリウスは吐き捨てるように言った。
その声には怒りと悲しみが混じっていた。
金と権威と純血への執着。
その三つが絡まり合ってできた屋敷の中で、
あの優しいアランがいま、どんな表情でいるのか――想像したくなかった。
おそらく、ヴァルブルガは夜な夜な祝福の儀式を開かせ、
シャーマンたちは“当主となる星の加護”だの、“胎児の魔力の安定”だのと偽りの呪文を唱えている。
そのたびにアランは静かに頷き、何も言えぬまま胸の奥で震えているのだろう。
「……あの子は、きっと今も空を見てる。」
シリウスの声は低く、遠い。
「どんな空を見ているんだろうな。
あの屋敷の重い壁の中で、
あの子の翡翠の瞳は、まだ光を映していられるだろうか。」
沈黙が訪れた。
窓の外には灰色の雲が広がり、風が冷たく吹き抜けていく。
シリウスは煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。
煙が渦を巻き、静かに天井へと昇っていく。
「……シャーマンでも奇跡でもねぇ。
あの子を救えるのは、あいつでもヴァルブルガでもなく、
ただ“自由”だけなんだよ。」
吐き出された煙の匂いが、少しだけ苦かった。
その苦味の中で、
彼の心の奥底では――まだ誰にも届かぬ、ひとりの女への祈りが静かに燃えていた。
レギュラスの指が、静かにアランの頬へと伸びた。
その手つきはあまりにも穏やかで、まるで壊れやすいガラス細工を扱うかのようだった。
久しぶりに見る彼の瞳――深い灰銀の奥には、怒りも焦燥もなく、ただひとつの安堵と優しさだけが宿っていた。
「ありがとう、アラン。」
その声は、包み込むように柔らかく、胸の奥の張り詰めた糸をひとつひとつ解いていくようだった。
アランは思わず息を詰め、微かに震えた。
この数日、誰にも言えない不安や恐れを、たったその一言がすべて溶かしていく。
冷たく固まっていた心が、春の光に触れたようにじんわりと温まっていく。
礼を言うのはむしろ自分のほうだ――そう思った。
彼がいたから、この世界に立っていられる。
彼がいたから、あの闇の牢獄から抜け出して、生きていられる。
レギュラスの存在が、自分の呼吸であり、心臓の鼓動そのもののようだった。
アランは杖を取り、震える手で空に文字を描いた。
淡い銀色の光が、空気に優しく滲んでいく。
『男の子であることを、私も祈っています』
その文字はすぐに消え、静かに宙に溶けた。
けれど、レギュラスはわずかに眉をひそめて、静かに首を振った。
「いいんです、アラン。そんなことは気にしないでください。」
彼の声は、驚くほど穏やかで、少し掠れていた。
長い夜を越えてきた人の声だった。
その灰色の瞳が、やわらかく光を宿す。
「まずは……無事に産んであげてください。それが一番なんですから。」
その言葉に、アランの喉の奥がきゅうと締めつけられる。
張りつめていた緊張が、そこでぷつりと切れた。
胸の奥から、こみ上げる涙をどうしても止められなかった。
――きっとその言葉が、一番欲しかった。
男児であることを望む声ばかりが響くこの屋敷の中で、
“どちらでもいい”と、
“あなたが生きていればそれでいい”と、
そう言ってくれる人がひとりでもいることが、どれほどの救いになるだろう。
涙が頬を伝い、ローブの襟を濡らす。
アランは慌てて袖で拭おうとしたが、その前にレギュラスの指が優しく触れた。
「泣かないでください。」
その囁きは、子守唄のようだった。
彼は母ヴァルブルガのように、狂信的な“血の執着”を見せない。
闇の帝王のように、力や血統にすべてを捧げようともしない。
ただ一人の人間として、アランと腹の中の命を見つめてくれている。
そのことが、どれほど心を救うか。
アランは静かに笑った。
涙で濡れた睫毛が、月明かりを反射してきらめく。
――この人の隣にいられるなら、それだけでいい。
この命がどんな運命をたどるとしても、
今この瞬間、心から安心できる居場所がここにある。
レギュラスは、そんな彼女の頬にもう一度口づけた。
ほんの一瞬の触れ合い。
それでも、アランにはそれが永遠のように感じられた。
外では冷たい風が吹き抜け、屋敷の窓を揺らしていた。
けれど、この部屋の中だけは、静かに、穏やかに、春が訪れていた。
ヴァルブルガ・ブラックは、食卓にずらりと並べられた皿を誇らしげに見渡していた。
銀の皿の上には、どれも聞いたことのない名前の珍味ばかり。
魔法界の南端から取り寄せたという竜の肝、百年熟成された毒草の根を干して調理したもの、胎児に魔力の流れを整えるという金箔入りの薬膳粥――どれも“効能”ばかりが取り柄のような食べ物だった。
「あなたの腹にいる子は、このブラック家の宝なのです。わかっていますね?」
ヴァルブルガの声は、柔らかい微笑の形をしていながら、まるで冷たい刃のようだった。
アランはその言葉にただ小さく頷き、黙ってスプーンを手に取った。
見た目からして明らかに食欲をそそるものではない。
どろりとした粘りを帯びた薬膳の匂いが立ち上り、香辛料の強い刺激が鼻をついた。
けれど、彼女は何も言わずに口に運ぶ。
“ブラック家の宝”――
その言葉が、胸の奥に鈍く響く。
愛しいはずの命に、“家の宝”という名がつけられることに、どこか違和感があった。
この屋敷では、すべてが“血”に還元されていく。
命も、愛も、未来さえも。
レギュラスは、向かいの席からその様子を見ていた。
アランの喉が小さく震えるのを見て、見ていられなくなった。
彼女の唇がかすかに歪み、飲み込むたびに目を閉じる。
母の前で顔に出すことはできないが、明らかに苦しげだった。
皿が新しく差し替えられた時、レギュラスは椅子をわずかに引き寄せ、
アランの耳元に顔を寄せた。
「……食べたふりをして、床に落とすといいですよ。やしきしもべが掃除しますから。」
囁く声は、息にかすかに笑みを含んでいた。
その小さな冗談のような優しさが、アランの心をほんの少しだけ軽くした。
彼のこういう瞬間が、好きだった。
権力も、血も、冷たく支配するこの屋敷の中で、彼だけはいつも人らしい温度を持っている。
ヴァルブルガは、二人の小声など気にも留めない。
「今夜は特別に、“未来の当主”のための祝いの献立ですのよ。」
その言葉に、アランは静かに微笑んで見せた。
けれど、その笑みはどこか張りつめていて、目元だけが少し悲しかった。
その翌朝、レギュラスはいつものように黒いローブを羽織り、魔法省へと向かった。
屋敷を出るとき、アランは玄関の陰に立って見送っていた。
出勤前の短い時間、彼は彼女の額に軽く口づける。
ほんの数秒のぬくもり。
それだけが、今の二人の繋がりだった。
アランを執務室に連れて行かなくなって、もうしばらく経つ。
最初は、彼女の身体を気遣ってのことだった。
だが、離れている時間があまりに長くなりすぎて、いつの間にか胸の奥に小さな空洞ができていた。
その空洞は、夜になるたびに大きくなっていく。
ベッドの隣には、眠るアランの静かな呼吸がある。
けれど、その距離はあまりにも遠かった。
医務魔女からは「安定期に入るまでは夫婦の営みを控えてください」と言われ、
母ヴァルブルガからはさらに強い口調で釘を刺された。
「未来の血を担う子に、万が一のことがあればどうするのです」
――その言葉が、レギュラスの頭から離れなかった。
母の忠告というよりは、呪いのように感じられる。
まるで、愛することさえ罪のように封じられていく気がした。
夜、灯りを落とした寝室で、アランの背中越しにその温もりを感じながら、
そっと指先で彼女の髪を撫でる。
黒曜石のような漆黒の髪が、月光を受けて淡く光った。
指先に触れるその感触が、たまらなく愛おしい。
けれど、それ以上は何もできない。
――満たされない。
その言葉が胸の奥で静かに鳴った。
求めているのは肉体ではない。
この腕で確かめたいのは、彼女の“心”だ。
触れられない夜が続くたびに、距離が広がっていくようで怖かった。
どれだけ愛していても、どれだけ近くにいても、
すべての行為が“血”のために制御されていくこの屋敷では、
二人の心が自由になる場所など、どこにもない。
アランの寝息の向こうで、窓の外に夜風が流れる。
月が静かに、二人の間に淡い光を落とした。
その光だけが、互いをつなぐ最後の温度のように感じられた。
シリウス・ブラックは、夜気を裂くように箒を駆った。
月明かりの下にそびえ立つブラック家の屋敷――かつては自分の家でもあったその建物は、いまや遠い異国の砦のように見えた。
尖塔の先端までを覆う暗灰色の雲が、重くのしかかるように夜空を曇らせている。
屋敷の正門は相変わらず重厚な結界に覆われ、出戻りの息子にそれを越える資格などない。
シリウスは音もなく上空を旋回し、月光に照らされる窓のひとつひとつを見下ろしていった。
あの中のどこかに、アランがいる。
レギュラスの執務室に同行していない日が続いている――つまり、いま彼女はこの屋敷のどこかで安静にしているはずだった。
箒の先をわずかに傾け、視線を研ぎ澄ませる。
空気に漂う微かな魔力の波を感じとる。
馴染みのある、けれどどこか懐かしい優しい気配。
――ああ、間違いない。アランだ。
窓の外に降り立ち、指先で軽くガラスを叩く。
一度、二度、三度。
返事はない。
しばらくして、カーテンの影が揺れた。
そして、窓がほんの少し開く。
中に現れたのは、薄い寝間着に包まれたアランだった。
漆黒の髪が肩に流れ、驚きに見開かれた翡翠の瞳が月光を反射する。
その姿に息を呑んだ。
彼女は以前より少しやつれて見えたが、それでも変わらず美しかった。
シリウスはにっこりと笑って、口を動かす――「開けてくれ」。
アランは戸惑いながらも、杖をひと振りして窓の鍵を外した。
屋敷の静けさを壊さぬように中へと入ると、足元の絨毯が沈み込む。
厚いカーテンが外の月光を遮り、部屋は淡い魔灯の光に包まれていた。
部屋の中心には広々とした寝台。
枕がふたつ――その事実に胸がざらりと痛む。
あの弟と彼女が、ここで夜を共にしているのか。
想像したくもないのに、頭の中で映像が浮かぶ。
箒を壁際に立てかけながら、シリウスはぎこちなく口を開いた。
「まずは……その、なんだ……おめでとう、だよな。」
自分でも間抜けな言葉だと思った。
けれど、アランはいつものように静かに微笑み、杖を取って空に小さく文字を描く。
『こんにちは、シリウス。』
その光が消える瞬間、彼女の笑みが柔らかくほどけた。
「レギュラスは、喜んでるのか?」
問いかけてから、シリウスは内心で苦く笑った。
なぜそんなことを聞くのか、自分でもわからない。
だがアランは、杖を握ったまま何度も何度も頷いた。
その頷きが、心の奥から溢れた本心のようで、シリウスの胸を締めつけた。
「そうか……」
喉の奥から出たその声は、少し掠れていた。
彼女の周囲には柔らかな光が漂っていた。
暖炉の炎が反射して、アランの頬を淡く照らす。
腹の中の命を慈しむように、彼女は両手をその上に添えていた。
――幸福の形とは、こういうものなのだろう。
静かで、温かく、手の届かないところにある。
なのに、胸の奥では何かがざわついていた。
アランが笑うたび、息を吸うたび、
“それを守っているのが弟なのだ”という現実が、心の奥に重く沈む。
「……元気そうで、よかった。」
そう言ってみせたが、声はどこか遠く、
言葉の奥に押し殺した感情が渦を巻いていた。
目の前の光景は、たしかに幸福の一場面だった。
けれど、その幸福に触れるという行為が、どうしようもなく息苦しかった。
彼女の笑顔が、幸福の象徴であるはずなのに――
それを見ていると、なぜか痛みのような感情が胸を満たしていく。
アランの視線が、静かにシリウスを見つめ返す。
その瞳には、何かを察したような、切なげな光が宿っていた。
言葉は交わせない。
けれど、心のどこかで互いの感情がすれ違う音がした。
シリウスは少しだけ視線を逸らし、
窓の外の月を見上げる。
「……あんまり無理すんなよ。お前は、あんまり我慢が過ぎる。」
アランは小さく微笑み、頷いた。
その笑みの奥に、ほんの一瞬、儚い影が差したのを、シリウスは見逃さなかった。
屋敷の外では夜風が吹き抜け、
古びた石壁に絡む蔦がざわめいた。
彼は黙ってその音を聞きながら、胸の奥でつぶやいた――
「……俺は、たぶん、もうお前の幸せを祈ることしかできねぇんだな。」
アランは何も言わなかった。
ただ、月光の中で、ゆっくりと瞬きをした。
それが涙なのか光の反射なのか、シリウスにはもう分からなかった。
シリウスが来てくれた――そのことだけで、閉ざされた屋敷の一室がふっと明るくなる気がした。
まるで、窓から差し込む陽の光がひとすじ射したように。
彼はそういう人だった。どんな場所にも風を通し、空気を変えてしまう。
闇の中にあっても、彼の存在は不思議と温かい灯りのように感じられた。
アランは窓辺の椅子に腰を下ろし、彼が部屋の隅に箒を立てかけるのを見つめていた。
屋敷の空気はいつも冷たい。石造りの壁に魔力が染みついて、どこか呼吸のしづらい閉塞感がある。
けれど、シリウスが笑うたび、その冷たさがやわらかく溶かされていく。
――レギュラス以外で、自分の体を案じてくれる人など、もういないと思っていた。
両親も兄もいない。
声を奪われ、居場所を持たず、それでも“ブラック家の妻”として立っている自分を無償で気にかけてくれる人など。
けれど、シリウスは違った。
彼のまなざしには打算も憐れみもなく、ただまっすぐな温度だけがあった。
「ここんとこ、ずっと屋敷にこもってんのか?」
シリウスが何気ない調子で問いかける。
アランは頷きながら、杖を手に取り、宙に文字を描いた。
淡く光る文字が空中に浮かぶ。
『外には出られません。魔法省にも行っていません。』
「だろうな。あの母上のことだ、何から何まで締めつけてんだろ。」
シリウスは苦々しく笑って、部屋の中をぐるりと見回した。
「しかし、こりゃまた……相変わらず趣味の悪い部屋だな。壁紙も床も、全部灰色か黒。気が滅入るぜ。」
アランは口を手で押さえて笑う。声は出ないが、肩の震えで笑っているのが分かる。
その小さな仕草が、シリウスにはどうしようもなく愛おしく見えた。
「で、お前は? こんなところで、何して過ごしてるんだ?」
アランは少し考えたあと、杖を振り、慎ましく文字を浮かべた。
『ヴァルブルガ様が、世界中の珍味を取り寄せて食べさせてくれるのです。でも……とっても変な味がします。』
シリウスは眉をひそめて笑う。
「だろうな。あのババア、昔っからそういう迷信じみたもんに取り憑かれてるんだ。
“純血の子孫は、竜の心臓を喰って強くなる”だの、“悪魔の涙で目を洗え”だの……まるで呪いみたいなことばっか言ってた。」
アランは肩を震わせながら、さらに続けて文字を書く。
『私……龍の糞を食べました。滋養強壮にいいそうです。』
次の瞬間、シリウスは吹き出した。
「……は? おま、何て? 龍の……うんこ?」
我慢できずに大声を出し、腹を抱えて笑い出す。
「ちょ、ちょっと待て。あのヴァルブルガが“龍の糞は神聖な薬膳です”とか言ったのか? あー、くそ、腹いてぇ……!」
アランも、声にならない笑いを漏らした。
肩を震わせながら、涙が滲むほど笑ったのはいつぶりだろう。
杖を持つ手も震えて、うまく文字が書けない。
『本当に、すごくまずかったです。』
「そりゃそうだろ! うんこだぞ!」
またシリウスが笑い、アランも両手で顔を覆って笑い崩れる。
窓の外の風がそっと吹き込み、二人の笑い声の代わりにカーテンを揺らした。
なんてことのない時間――ただそれだけのことなのに、こんなにも心が温かい。
重く沈んだ屋敷の空気が、彼の笑い声で少しずつ明るくなっていく。
アランの頬には光が差し、心の奥の凍りついた部分が解けていくのを感じた。
シリウスは笑いながら、ふと真顔になり、窓の外の夜空を見上げた。
「……笑ってくれてよかった。お前が、こんなふうに笑える顔、まだ持ってたんだな。」
アランはゆっくりと頷いた。
彼の言葉が、胸の奥に優しく沈んでいく。
――この人は、本当に太陽のような人だ。
触れたら焼けてしまうほど熱くて、けれど離れていると寂しくてたまらない。
今この瞬間、屋敷の暗闇の中で、二人だけの時間が静かに輝いていた。
それはほんの一瞬の灯火のように儚いものかもしれない。
けれどアランは知っていた――
たとえ明日また孤独な夜が来たとしても、この夜の笑い声がきっと心の中で灯り続けるのだと
